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10加賀の遺跡探訪 金沢市・白山市・野々市市が隣接する地域には、国の史跡である「新保本町チカモリ遺跡」、「東大寺領横江荘遺跡」、「御経塚遺跡」をはじめ、 地域の歴史にとって重要な遺跡や遺跡に関する施設が数多くあります。 史跡の魅力を更に高めるため、これら3市が連携して、これらの史跡を探訪するマップを作成しました。 史跡や展示施設をウォーキングやサイクリングなどで巡ってみてはいかがでしょうか。 |
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12古代の里探訪マップ
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20入口展示1 井戸枠遺構 西念・南新保遺跡 弥生時代後期 素掘りの井戸底に敷かれた2枚の板の上に、上下を逆さまにして据えられていた井戸枠で、刳物(くりもの)の桶を転用したもの。 元は両脇に把手が付いていたが、転用の際に削られた。底部の方形孔は底板を支える角棒を差し込むためのもの。 外面に生じた亀裂を補修するため、鍵手状の部材を3カ所に埋め込んで材を引き合わせている。 西念・南新保遺跡の井戸枠 弥生時代後期
大友西遺跡の井戸枠 平安時代前期
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30入口展示2 |
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31発掘速報 |
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32当館所有の指定文化財 堅田館遺跡 (堅田B遺跡) 出土遺物一括 本遺跡は、金沢市北部の堅田町にある鎌倉~室町時代の在地有力者の館跡。方形の堀で囲まれた内側に複数の建物跡を検出し、 陶磁器、土師器、木製品、金属製品など、中世の地方支配階級の生活様式を知る上で欠かせない遺物が出土している。
東大寺領横江荘遺跡上荒屋遺跡出土品 本遺跡から出土した墨書土器。蓋は外面に、坏は底部にいずれも「東庄」と墨書する。「東庄」は荘園の東側一帯をさすとみられる。 同遺跡からは「東庄」の墨書土器が500点以上出土している。
東大寺領横江荘遺跡上荒屋遺跡出土品 本遺跡は、金沢市西部にある奈良~平安時代の荘園遺跡。 地方の小規模荘園から東大寺が経営に参加する大規模荘園へと至る経緯を考古学的に確認できることで注目される。 日常生活品のほか、祭祀具、紀年銘木簡を含む文字資料など、学術上貴重な資料が豊富に含まれており、北陸地方における荘園経営の実態を 知ることが出来る。 丸鞆、巡方は古代の役人が公式装束着用の際に締めた革製の帯。(皮帯)の銙具。
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33 獣形勾玉 寺中遺跡 弥生中期 金沢市指定文化財 金沢市北西部の寺中遺跡から出土した勾玉で、その形状から獣形勾玉と呼ばれる。石材は含ヒスイ石英を用いる。 無量寺B遺跡出土 金属製品一括 弥生時代終末期 大友西遺跡出土 銅製品一括 弥生時代後期~終末期 金沢市北西部の無量寺遺跡と大友西遺跡から出土した弥生時代後期から終末期の金属製品。 いずれも当時の金属製品の普及を知る上で貴重な遺物である。 |
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34 の字状石製品 三小牛ハバ遺跡 縄文時代中期
石製装飾品一括 北塚遺跡 縄文中期
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50入口ポスター (取材当時行われていた各地博物館の企画展) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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60金沢縄文ワールド |
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71遺跡って何だろう
縄文時代 定住と土器 約1200年前~ |
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72弥生時代 稲作と金属器 約2300年前~
古墳時代 統一と権力誇示 西暦300年頃~
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73飛鳥・奈良・平安時代 寺院と荘園 西暦592年~ |
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74鎌倉・室町・戦国時代 西暦1185年~
江戸時代 西暦1603年~ |
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100本展 金沢縄文ワールドのご案内 日本初の環状木柱列が発見された、縄文時代の国史跡出土の木柱根 (石川県指定文化財) 及び、 縄文時代の高度な技術を示す中屋サワ遺跡出土品 (国重要文化財) をとおして、金沢の縄文時代の世界を体感して頂くために開設しました。 展示室は、 チカモリ遺跡と中屋サワ遺跡の出土品を中心とする常設展示コーナーと、 金沢市内の遺跡出土品をいくつかのテーマで展示する規格展示で構成されています。 2Fは縄文体験コーナーです。 |
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101入口展示 縄文時代
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1101.巨木の文化
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112巨木の文化(1) チカモリ遺跡の木柱根
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113柱根 (門扉) 1 クリ材をアーチ型に加工し、外側に向かって開口する様に置かれていた木柱。環状木柱列の出入り口に置かれていた。 2の木柱と対をなし、出入り口を示す門のような役割があったとみられる。 |
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116巨木の文化(2) 木柱根の修理が終わるまで 木柱根の保存処理 長い間、土中に埋まっていた木製品は、内部の成分が徐々に溶け出し、代わりに水が溜まって柔らかい状態になっています。 空気に触れて中の水分が蒸発して乾燥が進むと、表面にひびが入り、ひどい場合には割れたり崩れたりします。 ※その前に、極端に縮んで小さくなってしまうことが書かれてていません。 これを防ぐために木製品の保存処理を行います。木製品が出土した時の姿を長く保つためには、薬品を用いて硬い状態に変える必要があります。 そのためには、まず、ポリエチレングリコール(PEG)という薬品を木製品の内部に浸みこませる作業をします。 PEGはロウの一種で、常温で固まるので、水槽に入れて約70℃に熱して液体にし、この中に木製品を入れて浸みこませます。 チカモリ遺跡の柱根の場合、PEGを十分に浸みこませるのに1年かかりました。 近年では木製品の中に残っている水分をさらに取り除くため、真空凍結乾燥処理を行っています。展示室にある柱根はPEG処理を施したものと、 真空凍結乾燥を加えたものがありますので、その違いを観察してみてください。 |
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117柱根 (門扉) 2 1の木柱と対をなし、出入り口を示す門のような役割があったとみられる。
環状木柱列の年代測定※ シンボル展示されている環状木柱列 (A環・SBО1) の柱根は、年輪の間隔から年代を測定する手法 (年輪年代学的分析) により、 紀元前820-800年(820-800B.C.)頃の測定結果が出ている。 また、柱根と同時に出土した長竹式土器に付着していた炭化物の放射性炭素(C14)年代測定の結果、紀元前910-820年前(910-820calB.C.) の結果が出ている。 いずれも土器形式の年代観と一致しており、縄文時代晩期の遺構と遺物であることが、年代測定からも証明された結果となっている。 |
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120巨木の文化(3) 中屋サワ遺跡の出土品 中屋サワ遺跡は平成13-16年にかけて発掘調査された、縄文晩期の遺跡です。 当時のムラ跡は未検出ですが、河川跡から土器や石器、木製品が出土しました。 土器は割れていないものもあり、小さな石器は川岸付近で多く出土しました。 木製品は主に川底から出土しています。 一般に木製品は土中に埋もれていると、細菌やバクテリアの活動により腐食してなくなります。 しかし、この遺跡では川底に沈んだ木製品の上に粘土が堆積し、豊富な地下水によって水漬けされ、真空パックの状態になっていたため、 多数の木製品が腐らずに残っていました。 低湿地の遺跡では、このような条件によって、保存状態の良い木製品が出土することが多くあり、中屋サワ遺跡もその一例です。 |
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123樹皮巻き |
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125巨木の文化(4)種類豊富な木製品 中屋サワ遺跡からは、弓、容器、堀り棒、杵など、様々な木製品が出土しました。 弓は狩りや儀式に使用する道具で、完全な状態で出土したものもあります。食材などを入れるための容器には、完成品のほか製作中の物もありました。 木の瘤を材料としたものや、東南アジアなどから流れ着いたヤシの実を加工したものもあります。 堀り棒は土を掘るための道具で、舟のオールのような形をしています。 杵は食材を潰すのに用いる道具で、先端には磨り減った跡が見られます。 木で作られたもののほか、樹皮や植物繊維を材料としたものも出土しました。 ケヤキの樹皮を加工した大きな曲物や、植物の繊維を細かく棒状にしてザルやゴザの様に編んだものなどがあります。 縄文時代の人々が森の資源を有効に活用していたことがわかります。 |
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126木製品 |
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130シンボル展示 ~チカモリ遺跡の環状木柱列~
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139日本の文化(5) 県内の巨木文化 真脇遺跡 (能登町字真脇) 昭和57~58年に発掘調査され、環状木柱列のほか300体ものイルカの骨や、彫刻のある長さ2.5mの柱などが出土しました。 平成元年に国史跡に指定され、平成3年には出土品219点が国の重要文化財に指定されました。 現在、史跡整備が進められており、史跡公園にはクリ材を用いた環状木柱列が復元展示されています。
米泉遺跡 (金沢市米泉2丁目) 昭和62年に発掘調査が行われ、縄文時代の河川と共に、石囲い炉がある竪穴住居、礫を集めた配石遺構、柱穴に柱根が残っている環状木柱列 などが見つかりました。 河川跡では大量の木の実が出土しています。出土品は土器などのほか、土偶、糸巻きのような形をした有孔球状土製品、 漆塗櫛や漆が付着したアンギンという布の一部などがあります。
御経塚遺跡 (野々市市御経塚1丁目) 昭和30年から発掘調査が行われ、竪穴住居や多数の土器、石器が出土しました。柱根は見つかりませんでしたが、環状に巡る柱穴を確認しています。 昭和52年に国史跡に指定され、史跡公園として整備されています。 石器は土掘り具とみられる打製石斧が多く、御物石器、石棒といった祭祀用品もあります。 平成22年には出土品4,219点が国の重要文化財に指定されました。
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1502.漆と装飾 中屋サワ遺跡からは漆を塗った道具や美しい模様の土器が沢山出土しており、既に高度な技術がありました。 腐りやすい漆製品が出土することは珍しく、弓や櫛、腕輪などと共に当時の生活を知る上で大変貴重な資料です。 このコーナーでは中屋サワ遺跡の漆製品や縄文時代の装飾について紹介します。 |
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151黒と赤の世界 ―中屋サワ遺跡の出土品―
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155漆と装飾(1) 縄文人のデザイン
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161漆と装飾 (2) 縄文ジャパン 欧米では漆器をJapanと呼びます。遺跡からは、漆塗りの土器や木製品が出土することがあります。 北陸地方で漆塗りの最古の例は、福井県鳥浜貝塚から出土した縄文時代早期の櫛です。 漆を塗ることで見た目の優雅さを演出するとともに、劣化や水漏れを防ぐことができる漆の有効性について、当時の人々は既に知っていたようです。 中屋サワ遺跡からは、土器の内側に漆の膜が残っているものがあり、漆の原液を入れていた容器と考えられます。 漆は、原木の表面に傷を付け、しみ出す樹液を集め、これに顔料を混ぜて着色したものを使用します。 この土器の漆膜は、無色なので顔料を混ぜる前と思われます。 中屋サワ遺跡では、櫛や腕輪などの装身具や、木の鉢に漆を塗ったもの、籃胎漆器などの容器類、黒い漆を塗った弓などが出土しています。 土器では、注口土器と呼ばれる現在の急須のような形をした土器に漆を塗ったものが出土しています。 |
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162漆製品 縄文土器 籃胎漆器 「籃」は竹で編んだ籠のことで、籃胎漆器とは籃を素地とした漆器のことを指す。本品は精緻に編んだ竹籠に黒漆と朱漆を重ね塗る。 底部は方形に作り、胴部が立ち上がるに従い角に丸みを持たせている。 全形が判明する縄文時代の籃胎漆器の出土例は全国的にも少なく、本品は重要文化財「中屋サワ遺跡出土品」を代表する逸品である。 同様の技法は現代の竹工芸でも用いられており、その源流を示す遺物としても貴重である。
漆塗注口土器 宝珠型の注口土器で、焼成した土器の外面に下地となる黒漆を塗り、その上に朱塗りを重ね塗る。 胴部に沈線と入組三叉文が廻り頂部は閉じているが蓋状の表現がある。 注口部は1カ所で、反対側に開口部があり、さらにその下に小穿孔がある。本品は底部のみ欠損するものの、全体の形状がほぼ判明する優品である。 中屋サワ遺跡は漆塗木製品に比べ漆塗土器の出土数が少なし、本品以外では破片が数点出土したのみである。
木胎鉢1 木の素地に赤漆をかけた漆器。把手を中心に円弧状の文様を描き出している。漆のかからない部分は風化が進んでいる。 木胎鉢2 木の素地に赤漆をかけた漆器。口径180mm、高さ132cmのコップ形に復元できる。口縁部近くには穿孔がある。
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163装身具 腕輪、髪留め、竪櫛など、身体を装飾する道具を装身具と呼ぶ。 縄文時代の人々は、漆による黒と赤の華やかな色彩で身体を飾っていたことが、これらの出土品からわかる。
結歯式竪櫛 |
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165漆と装飾(3) 縄文人の祈りと装飾 中屋サワ遺跡 縄文晩期 この時代の道具は、日常で使用するもののほか、祈りやまじないなどに用いたものがあります。 祖先を敬い、子孫繁栄を願い、食料に恵まれることへの祈りは当時の人々にとって重要なことでした。 人や動物の形をした土偶、石棒や石冠などの石器類はそのような環境から生まれたものと考えられます。 身につけるものに対しても、様々な工夫と努力が伺えます。ネックレス等に用いられた丸玉は、新潟県の糸魚川地方を流れる姫川上流で採れる 非常に硬い石「ヒスイ」を材料としています。金属の道具がないので、石の加工には大変な労力をかけていたことが想像できます。 琥珀は大昔の樹木の樹脂が固まって結晶化したもので、柔らかく加工しやすい特徴があり、縄文時代から利用されていました。 中屋サワ遺跡出土の琥珀は加工する前の状態で、岩手県久慈地方で採れたものです。縄文時代の物の流れは、かなり広範囲に及んでいたようです。 |
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166板状土偶 土偶は人間 (特に女性) を模して造られた土製品。本品のような板状の物を板状土偶と呼ぶ。 故意に破壊された状態で出土することが多い。 |
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168石棒 |
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169装身具 |
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2003.縄文の考古楽 金沢の縄文時代を知る、ビデオコーナーです |
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3004.夏休応援企画 |
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301縄文時代 縄文時代は今から約12,000年前から約2,700年前まで、約1万年間続いた、日本の歴史の中で最も長い時代です。 この時代、縄目の模様がついた「縄文土器」が多く作られました。これが「縄文時代」の名前の由来です。 人々は竪穴住居で生活しました。生活のための道具は土や木、石などで作っていました。 縄文時代には文字がまだありませんので、暮らしぶりや考え方が記録として残っているわけではありません。 しかし、遺跡の発掘調査で見つかったものから、当時の生活の様子や人々の考え方を知ることができるのです。 中屋サワ遺跡 金沢市いなほ1丁目にある遺跡です。縄文時代の河跡から出土した大量の遺物が注目されました。 土器はもちろんのこと、様々な石製品や木製品が出土しています。 |
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310弥生時代 弥生時代は日本各地にコメ作りが広まり、前の時代から社会が大きく変化した時代です。 人々の生活の中心がコメ作りに移ったことで生活の場も平野に移り、より大きな集団生活が営まれるようになります。 人々の間には身分の差が表れるようになり、集落と集落の間で争いも起こるようになります。また、大陸から金属が伝わったのもこの頃です。 西念・南新保遺跡 建物跡や井戸跡、方形周溝墓などが見つかり、弥生土器や木器、石器、金属器などが出土しています。 弥生時代には水稲耕作中心の社会が形成され、集落規模も大きくなります。 すると食料や物資を巡る争い※が起きるようになり、集落の周囲に外敵の芯に有を防ぐための大きな堀 (環濠) を巡らせた集落 (環濠集落) が出現します。西念・南新保遺跡からも環濠の一部とみられる堀が見つかっています。 ※ここでは、「食料や物資をめぐる争い」とされている。ものの本によるとそれではなく、「土地と水」の争いだと言われている。 私は、それらに加えて、農奴獲得も加えたい。なにが正しいのか? |
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312西念・南新保遺跡 弥生時代中期 |
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320古墳時代 古墳時代は、古墳という巨大なお墓が出現する時代です。 地域の有力者達は、自分の権力を示す象徴として古墳をつくり、鏡や武器、勾玉などを副葬品として遺体と一緒に埋葬しました。 古墳には様々な形と大きさがありますが、四角と丸を組み合わせた形の前方後円墳がよく知られています。 また、土器もこの頃に大きな変化が見られます。5世紀頃になると朝鮮半島から須恵器を作る技術がもたらされ、日本中に広まります。 須恵器はとても固くて丈夫なため、様々な形の須恵器が作られ、日本全国で使用されました。 神谷内古墳群 金沢市小坂町の丘陵尾根上に作られた古墳群です。 山川環状神谷内インターの建設に伴い前方後円墳や円墳など計8基の発掘調査が行われました。 12号墳は古墳時代前期の前方後円墳で、発掘調査が行われた古墳群のうち最も古いものです。 銅鏡や鉄斧、管玉などが副葬品として出土したほか、周辺から甕や高坏などが出土しています。 17号墳は12号墳の次に古い円墳で、銅鏡や鉄刀、鉄斧、勾玉、ガラス玉などが副葬品として出土しています。 |
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321神谷内古墳群 古墳時代前期 |
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322古墳前期 神谷内古墳群 17号墳 |
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330古代 |
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331飛鳥・奈良平安 七世紀後半に「律令」という法律が整備され、天皇を中心とした政治が行われるようになります。都では天皇や貴族が政治を行い、地方では都から 派遣された役人が政治を行って庶民から税を取り立て、都へ送っていました。また、奈良時代後半には仏教が地方に広まってきました。 この頃には文字を書いた土器や木簡などが全国各地の遺跡から見つかるようになります。 上荒屋遺跡 金沢市上荒屋7丁目にある縄文時代から中世までの遺跡で、奈良時代から平安時代にかけては荘園であったことが発掘調査からわかりました。 発掘調査では、荘園の管理施設跡や運河跡、船着き場跡などが見つかり、土器に書かれた「綾庄」「東庄」などの文字から、東大寺領横江荘の一部 であることがわかりました。 東大寺領横江荘の一部であることがわかりました。奈良~平安時代にかけての荘園の様子を知ることのできる吉様な遺跡で、 現在は、上荒屋史跡公園として整備されています。 |
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332上荒屋遺跡 平安時代 |
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340中世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
341鎌倉・室町・戦国時代 これまで、天皇と貴族が日本の政治を担っていましたが、次第にその中心に武士が登場するようになります。 平安時代末期に政権を握っていた平氏は源氏によって滅ぼされ、源氏の棟梁である源頼朝が鎌倉に幕府を開きます。 これ以降、明治時代になるまで、日本の政治は武士によって行われる武家政権が続くことになります。 また、この頃新しい仏教が生まれ、武士や農民の間で信仰されるようになります。 北陸では浄土真宗が広まり、信者たちは団結して守護(地方を支配していた武士のこと)を打倒し、加賀国を支配するようになります。 現在でも金沢を含む北陸地方に浄土真宗のお寺が多いのは この頃の影響によるものです。 堅田館跡 金沢市堅田町にある、森下川右岸の丘陵裾に作られた地域有力者の館跡です。発掘調査では、約100m四方の堀に囲まれた敷地内に複数の建物跡 が見つかり、生活用品や武具・馬具、木簡、中国銭など、地域を支配した武士が用いた様々な遺物が出土しています。 中でも、般若心経全文を記した「巻数(勧請)板」と呼ばれる木板は、当時の民俗行事を示す貴重な資料です。 |
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342 巻数板 木製の板の片面に般若心経を書写し、末尾に年月日 (弘長3年1263)と僧侶名を記す。墨は退色しているが、文字の部分が僅かに盛り上がっており、 長期間屋外でさらされていたことがわかる。 越後国国人領主色部氏の記録に、毎年正月8日に邸宅の門に張った縄に般若心経を記した板を吊り下げ、領主が家臣・領民らに酒と食事 を振る舞う行事が行われたとある。また、中世に描かれた絵巻物の中に、館の門柱に文字を記した板を吊るしている図を見ることができる。 更に現在でも、特定の期日に村境に張った大縄に木板を吊るす習俗が残る地区がある。本品もこのような儀式に用いられたと考えられる。 |
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350江戸時代 江戸時代は、徳川家康が開いた江戸幕府が全国の大名を治めていた時代です。 金沢を含む加賀・能登・越中は前田利家を藩祖とする前田家が治めていました。 前田家の居城は金沢城で、その周辺には武士や町人が住む金沢城下町が広がっていました。 広阪遺跡 金沢市街地のほぼ中心にあり、金沢21世紀美術館の建設に伴い発掘調査を行った、金沢の江戸時代を代表する遺跡です。 広坂遺跡は江戸時代には武士が住んでいた武家屋敷地で、道路や土塀、井戸跡、建物跡など、武家屋敷を象徴する遺構が数多く見つかり、 武士が日常的に使用した多種多様な道具類が数多く見つかっています。 |
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