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目次
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10外観
13宗像関連地図
20入口展示
21世界遺産ガイダンス(説明)
23中世の宗像大社 繁栄をしのぶ
25宗像地域・歴史ロマンの旅
27宗像地域の古墳群
31世界遺産登録
32神宿る島への信仰
33三女神信仰としての継承
34古代祭祀の記録の宝庫
35宗像大社の三宮
宗像三女神信仰
37新原・奴山古墳群
38遥拝の伝統
50むなかた歴史展示ホール
60宗像大社辺津宮
62三女神信仰の中心地
63中世宗像の繁栄と国際交流
70VTR「世界遺産を生んだ宗像の地」
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 |
100ヒトの来た道
103鐘崎(上八)貝塚
110宗像にヒト現る
111旧石器時代
120縄文時代
120海岸線と鐘崎貝塚
122曽畑式と鐘崎式
123縄文の暮らし
130海を越えた縄文文化
134年表 縄文草創期~晩期
135年表 宗像本土
200稲作文化が渡った道
210弥生時代
211朝町竹重遺跡
田熊石畑遺跡
212稲作伝来
213環濠集落 光岡長尾遺跡
214弥生の暮らし
220稲作集落の生活
223弥生土器
230金属器の伝来と普及
234年表 弥生早期~後期
300古墳時代
310先端技術が渡った道
311桜京古墳
東郷高塚古墳
320古墳時代の生産と生活
323生活土器
324朝鮮系土器
325滑石製製品
340のぼり窯
347年表
弥生後期AD200~古墳中期
360浜宮貝塚
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400半島・大陸との交流の道
401平等寺瀬戸遺跡
410対外交流を伝える古墳
412飾り馬 ・埴輪・鍛冶
420年表 古墳中期~飛鳥時代
421岩陰祭祀 5世紀後半~7世紀
431交易品の副葬
444年表 古代
飛鳥時代~奈良時代
500 拡大する海外交易の道
511武丸大上げ遺跡
岳山城跡
520古代の道
522瓦
523年表
奈良時代~平安時代
530海外交易の広がりと発展
532白磁
535年表
平安時代~安土桃山時代
600街道と海女の道
601赤間宿跡
610唐津街道
630鐘崎海女の出稼ぎ生活
700宗像市の文化財
705宗像大社関連施設
810宗像沖ノ島関連年表
735祭祀史解説 |
800特別展
ムナカタ
-祈り・暮らし・交わり-
820第1章ムナカタ海人のルーツ
830第2章玄界灘の文化交流
840第3章ムナカタ海人集団の出現
850第4章ムナカタ人たちの実像
870第5章ムナカタ海人の繁栄
871尼子娘と大海人皇子
872ムナカタ海人の血脈
900ビデオ「遥拝の伝説」 |
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10外観
「海の道むなかた館」 |
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13宗像関連地図
位置関係を把握していると、以後の記述がわかりやすくなります。。
宗像世界遺産地図 |
本土と大島地域
大島 宗像大社沖津宮遥拝所、宗像大社中津宮
本土 宗像大社辺津宮、神湊、新原・奴山古墳群
織幡神社
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沖ノ島地域
宗像大社沖津宮
宗像大社沖津宮社務所
小屋島・御門柱・天狗岩
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20入口展示 |
21世界遺産ガイダンス(説明)
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23中世の宗像大社 繁栄をしのぶ
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中世の宗像大社は大宮司家による対外交流によって繁栄し、75もの末社がありました。
古代以来の神社(式内社)で、やはり海との関係が強い鐘崎の織幡神社もその一つです。
津屋崎(福津市)の港の近くには、中国商人の居留地(=唐坊)もありました。
そのほか、宗像大社の神宮寺だった鎮国寺や、大宮司が防衛のために築いた数々の山城、戦国時代のお家騒動の悲劇にまつわる山田地蔵尊など、宗像大社の信仰とともに紡がれてきた地域の歴史を物語る文化財が沢山残されています。 |
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25宗像地域・歴史ロマンの旅
宗像地域・歴史ロマンの旅 |
沖ノ島の方向 |
宗像地域 |
津屋崎地域 |
赤間宿 |
山稜地域 |
織幡神社・地島 |
宗像に関する書籍 |
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27古墳時代
宗像地域の古墳群
新原・奴山だけじゃない宗像地域の古墳群
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日本初の「古墳」の世界遺産、新原・奴山古墳群は宗像地域(宗像市・福津市)に約2800基ある古墳の代表です。
福津市の国指定史跡「津屋崎古墳群」をはじめ、宗像の海と陸を支配した宗像氏一族の繁栄と、ヤマト王権との結びつき、そして様々な地域との交流を物語る古墳群は、あなたを古代ロマンに誘います! |
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新原・奴山だけじゃない宗像地域の古墳群 |
日本有数の長さの石室
宮地嶽古墳 |
石棚を持つ特殊な
石室平等寺瀬戸古墳 |
宗像唯一の装飾古墳
桜京古墳
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弥生時代
弥生のムラからクニ、そして古墳時代へ
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宗像では弥生時代から独自の勢力が栄えていたようです。田熊石畑遺跡の首長の墳墓群からは、なんと15本もの武器型青銅器が発見されました。
同遺跡には古墳時代の倉庫群跡もあり、宗像で初めて大型化した前方後円墳、東郷高塚古墳も近くに築かれています。 |
弥生のムラからクニ、
そして古墳時代へ |
いせきんぐ宗像
田熊石畑遺跡歴史公園
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いせきんぐ宗像
(田熊石畑遺跡) とは、宗像市内を流れる釣川の中流域に面する
微高地上(標高12m)に営まれた
弥生時代中期前半(紀元前2世紀)頃を中心とする集落遺跡 |
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31世界遺産登録証
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32神宿る島への信仰
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九州本土から約60km離れた沖ノ島は、古代から現在に至るまで「神宿る島」として崇拝されてきました。
島内には他に例を見ない古代祭祀遺跡が残され、東アジアの諸国間の活発な交流が残され、東アジアの諸国の活発な交流に伴って
4世紀後半から9世紀末まで続いた、航海安全に関わる祭祀のあり方を物語ります。 |
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神宿る島への信仰 |
沖ノ島 |
沖ノ島祭祀に関わる
遺跡群 |
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33三女神信仰としての継承
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沖ノ島で祭祀を行った古代の豪族宗像氏は、沖ノ島に宿る神への信仰から、宗像三女神への信仰を育みました。沖ノ島は、大島及び九州本土でも三女神をまつる宗像大社の一部として、島にまつわる禁忌や遥拝の伝統と共に、今日まで神聖な存在として継承されてきました。 |
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宗像大社から沖津宮を遥拝する |
沖津宮遥拝所から見た沖ノ島 |
禁忌などにより容易に近づけない水平線上の沖ノ島を遥拝するための場が設けられた。 |
みあれ祭
10/1漁民により大島から海上神事が行われ、三女神は本土の辺津宮に集結する |
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34古代祭祀の記録の宝庫
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沖ノ島の中腹にある巨岩群の周辺には、千年以上もほぼ手つかずの状態で守り伝えられてきた古代祭祀遺跡があります。
東アジアに於いて海を越えた活発な対外交流が行われた約五百年もの間、自然崇拝に根ざした信仰に基づいて古代の人々がどのように神に祈りを捧げたのかを物語る、他に例を見ない貴重な遺跡です。 |
海を越えた交流の証
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調査によって発見された約8万点の奉献品は全て国宝に指定されており、朝鮮半島や中国大陸、更にはペルシャ(イラン)に由来する品々を含んでいます。
海を越えた交流が、島国である日本の文化形成に極めて重要な役割を果たしたことを物語っています。 |
海を越えた交流の証 |
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35宗像大社の三宮
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宗像三女神信仰
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➀海上の安全を祈願する宗像三女神の信仰は、広く日本全国に伝わっている。海運の要所だった広島県廿日市市の厳島神社、神奈川県藤沢市の江島神社なども祭神は宗像三女神であり、今もなお自然への畏敬の念とともに海に生きる人々の安寧が祈り続けられている。
②宗像三女神は、国の安寧を守護する海の神として信仰されている。 また、「安芸の宮島」に代表される厳島神社の祭神でもあり、両社を含め全国に6000社を超えて祀られている。 特に市杵島姫は、弁財天と習合し、福徳財宝、音楽や技芸の神としても信仰されている。 |
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36宗像大社の三宮
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宗像大社は約60kmの広がりを持つ範囲に位置する三つの宮、即ち沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、九州本土の辺津宮から構成される神社です。
大島御嶽山山頂や本土の辺津宮境内の丘陵上(下高宮)からは、沖ノ島でも用いられている特徴的な祭祀遺物が発見されています。
このことは、8世紀はじめに完成した日本最古の歴史書である「古事記」や「日本書紀」に、宗像氏が三か所で三女伸をまつっているとあることに符合し、宗像三女伸をまつる宗像大社の三宮の起源を示すものです。
そして、三女神への信仰は、社殿において行われる神事と共に、今日まで守られてきたのです。 |
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37信仰を育んだ人々 新原・奴山古墳群
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新原・奴山古墳群は、沖ノ島祭祀を担い、沖ノ島に宿る神に対する信仰を宗像三女神信仰へと発展させた古代豪族 宗像氏の墳墓群です。
5世紀から6世紀にかけて当時の入海に面した台地上に築かれた、前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基の計41基が現存しています。
台地上からは旧入海の田園とその向こうの玄界灘が見渡せ、海を意識して築造されたと考えられます。 |
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38遥拝の伝統
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沖津宮遥拝所は、沖ノ島から約48km離れた大島の北端に設けられた、沖ノ島を遥か遠くから拝む(遥拝)ための場です。
その社殿は沖ノ島の方角を向き、沖ノ島を御神体とする拝殿の役割を持っています。
空気の澄んだ日にはここからはっきりと沖ノ島の姿が見え、沖ノ島に対する信仰の伝統を象徴します。
江戸時代には通常はここで沖津宮の神事が執り行われました。現在も毎年春秋の沖津宮大祭では、社殿の扉と窓を開いて沖ノ島を遥拝します。 |
遥拝の伝統 |
沖津宮遥拝所 |
※そういえば、子供の頃、まだ行われていた故郷の秋祭りで、神輿を担ぐ人々の掛け声は、
「ヨウハイ! ヨウハイ!」だった。
近頃は、なんでも、意味も分からず、「ワッショイ」というが、あれは朝鮮語の掛け声、「ワッソ」である。
特に関東に行くと大きな神社の神輿で、朝鮮語の掛け声が当たり前になっているそうだ。
これは、関東は渡来系が多く、その子孫に言葉が伝わっていたのか、それとも分けもわからず、そう叫んでいるのか、どっちなんだろう。
長良川では、「そこだい、そこだい」というらしい。これは堤防を踏み固める言葉と聞く。 |
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39様々な遥拝
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江戸時代には、九州本土の江口浜にも沖津宮・中津宮の遥拝所が存在し、福岡藩主が領内を巡見する際に辺津宮を参拝した後、ここから両宮を遥拝したようです。
※人々は何をどんな意味で拝んでいた、orいるのだろうか。
最初は、渡海の安全祈願の場所だった。
いや、その前に、宗像族が(現在も現存する一族です。)半島から渡来して北部九州の各地に定着をはじめ、(やがて瀬戸内海を通って各地に拡大していくが)、、半島と九州を往復する際の中継地として利用され、きっと人も住んで通行料などを取っていただろう。その後、半島との往来が盛んになり、交易・交通に関与する中で、宗像族の信仰の場が、海上交通の安全祈願の場となり、やがて、違う二つのものが結びついて宗像信仰となり、その島に行けないとなると、遠くから眺めることにより、やがて、島を信仰の対象とするようになって、遥拝所が作られた。ということか。
(島を信仰って何?島に神が宿ると考えたのかな。信仰の意味や対象が次第に曖昧になっていった様子がわかる。)
宗像族の漁民にとっては漁業の豊漁・安全祈願であるかもしれないが、他の人々が何を祈るのかは、、はなはだ疑問だ。宗像族の信仰場である。 |
様々な信仰 |
位置関係
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50むなかた歴史展示ホール
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60宗像大社辺津宮
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61宗像社境内絵図
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宗像社境内絵図 |
『宗像記追考』所収
宗像社境内絵図
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神殿
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門前
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62三女神信仰の中心地
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辺津宮は、宗像大社三宮のうち九州本土に所在する宗像三女神信仰の拠点で、市杵島姫神を主神としてまつっています。以下略
※巫女信仰が島信仰と合体した信仰に発展しているようです。 |
三女伸信仰の中心地 |
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辺津宮境内図
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宗像大社辺津宮
本殿・拝殿 |
第二宮・第三宮 |
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63中世宗像の繁栄と国際交流
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中世には古代豪族宗像氏の子孫が宗像大宮司となり、盛んな対外交易を行って宗像大社は栄えました。13世紀の大宮司家は、二代に渡って南宋商人の娘と結婚しています。
宗像大社に伝わる、1195年頃に大宮司の父の供養のために南宋で買い求められた阿弥陀経石(重文)は梅園石という中国寧波で産出する石材で作られています。1201年に辺津宮の第三宮に奉納された宗風獅子(石像狛犬。重文)も、南宋で作られたものです。福津市在自には、「唐坊」と呼ばれた中国人の居住地があり、国際的な港町でした。
14~16世紀には、朝鮮とも交流が頻繁になり、1412年~1504年の92年間に計46回もの貿易船を派遣していたという記録があります。
朝鮮側の史料によれば、大島を本拠とする海賊を掌握しているともされ、宗像市の力は海の向こうまで知られていました。 |
中世宗像の繁栄と国際交流
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中世宗像の繁栄と国際交流
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海東諸国紀 |
1471年に
朝鮮の申叔舟が編集した、日本と琉球の研究書。
上は沖ノ島(小崎於島)や
大島(於島)が載る
最も古い地図。 |
宗風獅子(石造狛犬)
阿弥陀石 |
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64境内の変遷と釣川
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宗像大社辺津宮は、「日本書紀」には「海浜」と記されているように釣川沿いの旧入海に突き出た丘陵とその麓に立地します。
丘陵上の下高宮祭祀遺跡が境内で最も古い祭祀の場であり、その一部は高宮祭場として現在も神事が行われています。
中世の様子を伝える「田島宮社頭古絵図」が最も古い絵図で、境内が釣川に接していること、
三女神をそれぞれまつる第一宮(現:本殿)・第二宮・第三宮をはじめとした社殿群が立ち並んでいたことがわかります。
江戸時代の1675年、福岡藩によって本殿の周りに宗像郡内の末社が建て並べられ、現在のような境内構成になりました。
元々は釣川のある東側から境内に入り、直角に曲がって本殿に向かう参道があったようで、釣川との深い関わりの名残です。 |
境内の変遷と釣川 |
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辺津宮の立地 |
筑前名所絵図1821 |
筑前国続風土記付録
1797 |
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70ビデオ「世界遺産を生んだ宗像の地」 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
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71
世界遺産を生んだ宗像の地 |
16枚菊の紋章と千木 |
高宮祭場(本土) |
新原・奴山古墳群
]宗像族首長一族の墓所 |
前方後円墳 |
前方後円墳 |
22号墳 |
数千年もの昔からマツリが行われてきた沖ノ島の巨石群 |
岩陰祭祀遺跡 |
7号遺跡
(岩陰祭祀遺跡) |
7号遺跡
(岩陰祭祀遺跡) |
金製指輪 |
金製指輪 |
馬具 杏葉
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馬具 雲珠 |
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珠文鏡 |
珠文鏡 |
鉄剣
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挂甲(鎧)・衝角付冑
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岩上祭祀 |
岩上祭祀群 |
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75
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西日本と朝鮮半島 |
岩上祭祀跡 |
岩陰遺跡
5号遺跡
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金銅製龍頭 |
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77
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79新原・奴山古墳群 海を越えた交流に活躍した古代豪族「宗像氏」が眠る
新原・奴山古墳群 |
新原奴山古墳群
築造当時のCG |
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沖ノ島図
17c後半~18世紀前半 |
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玉製品と土器片 |
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100ヒトの来た道 旧石器~縄文
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101
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今から3~4万年前の地球は氷河期の寒冷化によって海水面が低下し、対馬海峡などの浅海は半島や大陸と陸続きか、それに近い状態となりました。私たちの祖先はここを通って大陸から移動してきたのです。 |
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103鐘崎(上八)貝塚
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所在地 |
宗像市上八 |
時 代 |
縄文時代後期(紀元前2000年頃) |
内 容 |
貝塚 |
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貝塚とは、古代の人々が捨てた貝殻などか堆積した遺跡のことです。鐘崎貝塚は、稲作がまだ普及する前、漁撈や食物採集で人々が生活を営んでいた縄文時代後期の遺跡です。厚さ30~90cmの貝層からアサリ、アカガイ、カキ、サザエなどの海生貝類を主として、シジミ、ニナなどの淡水生貝類、猪ゃ鹿、魚、鳥類の骨が出土しています。また、石器類や土器類も出土しており、当時の人々の暮らしの一部を知ることができます。
遺跡の発見
鐘崎貝塚は、1932年(昭和7年)に郷土史家で旧宗像高等女学校に赴任していた田中幸夫が発見しました。4年後の1936年(昭和11年)に学術雑誌上で発表し、九州で初めて出土した磨消縄文土器は考古学会で注目されました。 |
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110宗像にヒト現る
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111旧石器時代
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旧石器時代、人類はシカやナウマンゾウなどの動物を追って各地を移動しながらキャンプ生活を送っていました。
宗像での人類の活動は、後期旧石器時代(約1.9~1.7万年前)までさかのぼります。
池浦トボシ遺跡などではナイフ形石器形出土しており、短期間生活した痕跡を示しています。 |
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宗像にヒト現る |
新人の誕生と拡散 |
五大陸への拡散 |
2万年前の日本列島
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宗像の旧石器遺跡 |
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112
石器材料
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石器の材料は黒曜石やサヌカイト(安山岩)と呼ばれる石なんじゃ。これらの石の産地は限られていて、
佐賀県多久市周辺や大分県姫島などがあるんじゃぞ。 |
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113年表 旧石器時代
宗像本土
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日本では、明確な前期旧石器時代の遺跡は確認されていない。
九州地方の中期石器時代の遺跡は、福井洞穴遺跡(長崎県)、後牟田遺跡(宮崎県)、県内では辻田遺跡(北九州市)などが知られる。
宗像市内の旧石器時代の遺跡は、全て後期旧石器時代に属しており、狩猟に伴う一次的な生活跡と考えられる。 |
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縄文時代
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120縄文時代の海岸線と鐘崎(上八こうじょう)貝塚
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縄文時代には定住化が始まり、人々は狩猟のほか木の実や貝類などを採集していました。
沿岸部にある鐘崎(上八)貝塚は縄文時代後期(約3500年前)の貝塚で、縄文時代後期を代表する鐘崎式土器などが出土しています。
この時代の釣川は、中流域付近まで海が浸入しており、現在とは大きく異なる姿をしていた。 |
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121
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縄文時代の海岸線と鐘崎(上八こうじょう)貝塚
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鐘崎(上八)貝塚 |
さつき松原遺跡 |
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当時の釣川 |
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122曽畑式と鐘崎式
曽畑式土器 大陸系
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時期:縄文時代前期中頃の土器型式
分布:曽畑系土器(縄文土器) 山口市美濃ヶ浜 九州地方を中心に朝鮮半島南海岸~沖縄、西中国にまで分布した。
特徴:熊本県宇土市曽畑貝塚から初めて出土した。 縄文前期(鬼界カルデラ大噴火後)の標式土器であり、九州や沖縄かに分布。 朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けた土器。
※半島南部からの移住者の土器である。その後、沖縄にまで移住していった。 |
鐘崎式土器 縄文系
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時期:縄文後期中葉の土器。
由来:福岡県宗像市玄海の上八の鐘崎貝塚出土の土器形式。土器の他、骨製耳飾りをつけた人骨が出土。
鐘崎系土器 縄文中期末~後期の初め頃(約4000年前)に近畿・瀬戸内地方で発達した磨消縄文系土器の、九州地方への波及を起源とし、
九州独自の系統として発達したものが「鐘崎系」土器です。縄文時代後期の中ごろ(約3,500年前)に相当します。
※元は中国地方・近畿地方の土器だった。 |
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123 縄文遺物
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縄文時代の遺跡は九州本土からおよそ60km離れた沖ノ島でも発見されているんじゃ。当時、丸木舟での航海は、危険と隣り合わせだったんじゃのう。 |
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124縄文の暮らし
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縄文人は狩猟、漁撈、採集を主な生業としました。縄文人が繰り返される様々な自然環境に適応しつつ、四季折々に、自然に働きかける過程をパターン化してわかりやすく図示したものがこの縄文カレンダーです。
縄文人は季節に応じた生態系の変化を熟知し、多彩に行動することで、計画的に季節ごとの作業や行事を定めました。
これに伴い分業をはじめ、祭や呪術(まじない)、通過儀礼などが組織され、縄文社会が組み立てられていったと考えられています。 |
縄文時代の食べ物 |
縄文人の生活カレンダー |
縄文カレンダー
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縄文人の食べ物 |
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130海を越えた縄文文化 |
131
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132
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さつき松原遺跡や沖ノ島社務所前遺跡からは縄文時代前期(約7000年前)の曽畑式土器が出土しています。
この土器は朝鮮半島の櫛目文土器の影響を受けて成立した土器で、遠く、海を越え、沖縄や韓国でも出土しています。
また、組み合わせて銛にする鋸歯尖頭器と石鋸、軸と針先を組み合わせた結合式釣針などの漁撈具も、北部九州から朝鮮半島にかけて広く出土しています。
※この説明は真逆です。鬼界カルデラの爆発で無人となった北部九州に、縄文前期に、
朝鮮半島南部の鋸歯尖頭器や結合式釣針、シベリアから東アジアにかけて広く分布する櫛目文土器(曽畑式土器)の文化を持った半島人が、北部九州に渡ってきて、やがて沖縄をはじめとする南島全体に拡散していきました。
高い教育を受けた学芸員ともあろうものが、なぜこんな間違った説明をあえてするのか、不思議です。 |
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櫛目文土器(ソウル特別市江東区出土)
鋸歯尖頭器(天神山貝塚)
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曽畑式土器(曽畑貝塚低湿地遺跡)
結合織釣針(沖ノ原遺跡) |
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133浅鉢
浅鉢
冨地原深田遺跡
縄文晩期 |
土器の形状が少し違うよね。 |
ベーゴマのように、傾き、倒れる。土に埋めて使った土器。盛ったものは泥・ゴミだらけになる。 |
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134年表 縄文草創期~晩期
沖ノ島/宗像大社
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沖ノ島での人類の痕跡は、縄文時代前期(約7000年前)にまで遡る。漁港の上の平坦地にある社務所前遺跡と、島の中腹の沖津宮社殿横にある4号洞穴遺跡から、縄文前期・中期・晩期の遺物が見つかっており、季節に応じた一次的な生活が営まれていたと思われる。
※私は、半島から流入する移住者の通り道や、漁をする者の住まい。などだと思う。 |
BC200頃
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社務所前遺跡では、縄文土器・弥生土器・石器・獣骨・魚骨が出土した。当時は玄界灘~朝鮮半島南部にかけて生息していたニホンアシカの骨も含まれ、重要な食料源であったと考えられる。 |
轟式土器
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分布 朝鮮半島南部から、九州地方から中国地方西部、山陰地方。
時期:縄文前期前半。約6000年前。(※曽畑式は約7000年前)
由来:熊本県宇土市轟貝塚出土。
分類 轟A式・B式(早期末~前期初頭),轟C式・D式(前期後半)の4型式に分類された。地文として貝殻条痕を残すが,
A式は綾杉状に条痕文を施し,
B式は口縁下に粘土帯を数条貼付し,
C式は条痕地に数条の沈線により曲線文を施し,
D式は2本単位施文具の沈線,連続刺突によって横位の弧線を施す。 |
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社務所前遺跡
(包含層) |
轟式土器・曽畑式土器
社務所前遺跡
※半島系土器
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135年表 宗像本土
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さつき松原遺跡は、玄界灘に面した縄文時代前期(約7000年前)の遺跡である。土器は沖ノ島から出土する縄文前期の土器とも類似しており、
海人の動向や古環境を知る手がかりとなる遺跡である。
鐘崎(上八)貝塚は、縄文時代後期中葉(約3500年前)の標識土器「鐘崎式土器」を出土したことで知られる。 |
宗像本土 |
さつき松原遺跡 |
轟式・曽畑式土器
(さつき松原遺跡) |
鐘崎(上八)貝塚 |
鐘崎式土器
(鐘崎上八貝塚)
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200稲作文化が渡った道
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弥生時代は、大陸から稲作と金属器が伝来した時代です。縄文時代から続いた狩猟・採集・漁撈を中心とした生活を終わらせ、新たな社会・文化を形成しました。また、金属器の伝来は、生産効率を高め、人々の生活を大きく変えました。 |
稲作文化が渡った道
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210弥生時代
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211
朝町竹重遺跡
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所在地 |
宗像市朝町(朝野中央公園内) |
時 代 |
弥生中期(約2200~2000年前)
古墳時代中期~後期(約1600~1400年前) |
弥生時代の調査
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朝町竹重遺跡の発掘調査では、丘陵の尾根や斜面に150基以上の土坑墓群が見つかりました。
墓は、弥生時代中期を中心に、弥生時代前期の終わり頃から造られ始め、後期のものまで確認されています。
土壙墓は調査区全体に広がっていますが、密集する所とまばらよなところがあります。密集する所では、以前に造られたものを部分的に壊して、新しく土壙墓を造っていることから、墓地として利用する区画を決めて、そこからはみ出さないようにしていたと考えられます。重なり合って作られた土壙墓の調査では、それぞれに小規模ながら盛り土が存在していたこともわかりました。当時は墓域のあちこちに小山がある風景だったと考えられます。
朝町竹重遺跡調査では色々な構造の土壙墓が見つかりましたが、木棺を組み立てたと明瞭にわかるものもあります。(SK62)この墓は、床面に細長い溝を掘りその溝に板材を立てることで木棺を組み立てていたことがわかりました。
調査では、朝町竹重遺跡以外ではほとんど見つかっていない珍しい構造をした土壙墓が見つかっています。 掘り込みの小口部に地山を削り残して突出部を設け、そこに割竹状の木蓋を載せるようにしたもの(SK52など)や、 2人を一緒に埋葬できるよう安置スペースを2体分確保したもの(SK173など)、また、その2人が親子だったかもしれないもの(SK53)もあります。
また、有力者が葬られたと考えられる土壙墓(SK28)もあり、内部からは完形の銅戈、折れて先端部分だけが残る銅矛と小型の壺が見つかりました。 これらから、この土壙墓は弥生時代中期はじめ頃に造られたと考えられます。同じく有力者の墓と考えられる別の土壙墓(SK185)からは、小さな銅鏡(仿製内行花文鏡) とガラス玉が1366個も見つかりました。この土壙墓は弥生時代後期に造られたと考えられます。 |
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田熊石畑遺跡
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所在地 |
宗像市田熊二丁目9番37外 |
時 代 |
弥生時代~古墳時代(紀元前3世紀から紀元後6世紀頃) |
弥生時代の調査
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田熊石畑遺跡は市の中央西部、市内を流れる釣川中流の標高12m前後の台地上に位置する弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡です。 なかでも弥生時代中期前半の有力者集団の墓域はわが国の弥生文化を考える上で大変重要なものです。遺跡は過去に宗像高等女学校(宗像高校の前身)、
旧中央中学校などの学校用地として利用され、学校移転後ながらく、市街地の中に残された空き地となっていました。 平成20年(2008)になり開発に伴って発掘調査が開始されましたが、弥生時代の墓域の発見により保存されることになりました。
現在は、田熊石畑遺跡歴史公園(愛称:いせきんぐ宗像)として活用され、市民の憩いの場となっています。 |
発見のいきさつ
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遺跡は、昭和8年(1933)に宗像高等女学校に赴任していた田中幸夫によって運動場の拡張工事の際に発見され、学生らの参加によって調査が行われました。これが宗像地域で最初の考古学的な発掘調査です。 |
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212稲作伝来
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北部九州にいち早く伝わった稲作は急速に全国へと広がっていきます。石包丁や片刃石斧などの石器も稲作伝来期に大陸から伝わって来たものの一つです。稲作は多くの米の蓄えを可能にしました。蓄えは冨となり、冨の差はやがて有力者を発生させ、身分の差を生みました。 |
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213環濠集落 光岡長尾遺跡 弥生中期
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光岡長尾遺跡 |
環濠と貯蔵穴 |
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冨地原小嶺遺跡 |
弥生時代の住居跡
(朝鮮半島系) |
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214石包丁
赤米
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半島系石器 |
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石包丁
光岡長尾遺跡ほか
弥生中期 |
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215石斧
柱状片刃石斧
冨地原梅木遺跡ほか
弥生中期 |
扁平片刃石斧
久原遺跡ほか
弥生中期 |
蛤刃石斧
冨地原小嶺遺跡
弥生中期 |
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216
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220稲作集落の生活
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221
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弥生時代は、ときに稲作に適した土地を巡って戦いが起きた時代でもありました。そのため、各地には、内部を外敵から守るため周囲に堀を巡らせた環濠集落が作られました。集落には竪穴住居のほか、米や道具を蓄えるための高床倉庫や貯蔵穴などが作られ、市内の遺跡からも確認されています。 |
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223弥生土器
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230金属器の伝来と普及 |
231
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青銅器や鉄器などの金属器は弥生時代に大陸から伝えられたものです。伝来初期は加工技術を持たず、大陸から直接製品を輸入していました。
その後、自ら加工技術を持つようになってからは、様々な金属器が作られ、次第に全国に普及していきます。 |
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232
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234年表 弥生早期~後期
沖ノ島/宗像大社
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社務所前遺跡は、弥生時代になると、朝鮮半島南部で見つかっている「朝鮮系無文土器」が出土し、すでに朝鮮半島との交流が始まっていたことを裏付ける。また、伝沖ノ島出土銅矛の存在から、この頃を祭祀行為の始まりと見る考えもある。
※おかしな表現ですね。弥生時代には朝鮮半島人が大挙して対馬、壱岐を通って北部九州に渡来しているのに、交流が始まったとかの話ではなく、大挙流入し、ゴミとして無文土器を捨てていったものでしょう。 |
沖ノ島/宗像大社 |
社務所前遺跡
弥生前期 |
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銅矛:伝沖ノ島
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235宗像本土
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弥生時代になると、市内にも拠点となる集落が各地に出現する。特に国史跡田熊石畑遺跡は、武器型青銅器15本が出土するなど、北部九州屈指の有力集団が、すでにこの地に存在したことを物語る。この集団が後の宗像一族に繋がっていくのであろう。
※宗像族は古来も現在も、漁民であり、海上交通にたけた集団であり、それが、列島への流入者の増加と共に漁業以外に運送も請け負い、財力を蓄積し、武力を持ち、権力を高めて、豪族となり、大きな集落を営むようになったのかもしれない。 |
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弥生早期の遺跡
田久松ヶ浦遺跡(墳墓)
東郷登り立遺跡(環濠)
今川遺跡(日本最古の青銅器)
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BC100頃
光岡長尾遺跡(環濠・土笛)
楽浪郡設置BC108
久原遺跡(集落・墳墓)
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久原遺跡の銅矛
弥生前期
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弥生
中期
朝町
竹重
遺跡
墳墓 |
田熊石畑遺跡(集落
・区画墓) 中期
武器形青銅器と装身具
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弥生
後期
倭奴
国王
金印
57
冨地
原川
遺跡
集落 |
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300古墳時代
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310先端技術が渡った道
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古墳時代は、国内の統一が進み各地に古墳が造られた時代です。朝鮮半島や中国からの渡来人達は、多くの新しい文化と共に新しい技術も伝えました。須恵器生産に必要な登り窯(窖窯)や鍛冶技術などの最先端技術は、生活に大きな変化を与えました。 |
先端技術が渡った道 |
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311
桜京古墳
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所在地 |
宗像市牟田尻(字桜京)2019番地 |
時 代 |
古墳時代後期(6世紀後半・約1450年前) |
墳 形 |
前方後円墳 |
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桜京古墳は、市内を流れる釣川河口の左岸丘陵(標高約45m)に位置する古墳で、前方後円墳とよばれる形をしています。 墳丘の全長は39m、後円部には古墳の主が埋葬されるための横穴式石室が築かれ、その玄室には石屋形 (奥壁にはめ込まれた板石を長さ約1.7mの石柱で支えた埋葬施設)がつくりつけられています。 石屋形には彩色と線刻で三角文が描かれ、全国でも約700基しか見つかっていない装飾古墳のひとつです。
発見
昭和46年、考古学好きの高校生たちにより装飾古墳であることが確認されました。
彼らは学園祭で宗像の遺跡について発表するため、遺跡分布調査を行っていました。入口の開いた石室に潜り込み、入口から8m程進んだ所にある石屋形を懐中電灯で照らしてみると、奥壁の一番下にある巨石(鏡石)や石柱の前面、側面に鮮やかな赤・緑・白色で塗分けられた三角文が浮かび上がりました。当時の新聞には「福岡県北端で初めて」などの見出しで大きく報道されました。 |
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東郷高塚古墳
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所在地 |
宗像市日の里3丁目4-17 |
時 代 |
古墳時代前期 |
墳 形 |
前方後円墳 全長64.4m後円直径38.9m後円高7.6m |
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東郷高塚古墳は、市南部の許斐山から北へと延びる標高30mほどの丘陵上に位置する古墳で、宗像市内の古墳では最大のものです。
後円部には、死者を埋葬した割竹形木棺( 大きな丸太をタテ半分に割り、中をくりぬいて棺としたもの)を粘土でくるんだ粘土槨と呼ばれる施設があります。
この古墳には大きな古墳にしか見られない外堤とよばれる半円形の土塁(幅約12m)を後円部の周りに巡らしており、沖ノ島祭祀がはじまるころの有力者の墳墓として注目されます。 |
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桜京古墳
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東郷高塚古墳
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窯跡出土の須恵器
稲元日焼原遺跡 |
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320古墳時代の生産と生活 |
321生活
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神湊の浜宮貝塚やその周辺では、塩作りを示す土器や魚の骨、貝など多くのものが出土し、海辺での生活を知ることができます。
内陸では、須恵器を焼く窯跡群や鉄製品を作る鍛冶工房などが確認されています。
このように、海や山に育まれた宗像では、海辺や里山での生活の跡を見ることができます。 |
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322集落
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久原瀧ヶ下遺跡 |
古墳時代の住居跡 |
野坂一町間遺跡 |
5号住居跡(鍛冶工房) |
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323生活土器
冨地原川原田遺跡 古墳時代中期
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遺跡は釣川上流左岸に所在する古墳時代の集落で、住居跡からは日常的に使われた土器が大量に出土しました。
これらの中には、朝鮮半島との関連を見ることができる土器があります。 |
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移動式カマド、支脚
長胴甕、甑
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竈、台付鉢、壺 甕、鉢、手づくね土器 |
冨地原川原田遺跡
古墳時代中期 |
甕
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土師器移動式カマド
大島大岸遺跡
古墳後期 |
土師器移動式カマド |
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壺
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鉢、手づくね土器 |
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324朝鮮系土器
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朝鮮系軟質土器 甕 |
半島系の器面調整(タタキ)が施された土器 |
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325滑石製製品
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滑石製有孔円板
冨地原川原田遺跡
弥生中期
滑石製紡錘車
滑石チップ(破片)
冨地原神屋崎遺跡
弥生中期 |
滑石製板状製品
滑石製臼玉未成品
滑石製臼玉
冨地原神屋崎遺跡
古墳中期
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砥石、滑石原石 冨地原神屋崎遺跡
古墳中期
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340のぼり窯
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登り窯(窖窯)は、須恵器や埴輪を焼くために使われました。火を焚く焚口、土器が焼かれる焼成部、煙突である煙り出しから構成されるこの窯は、
千度以上の高温で土器を焼くことができ、より硬い焼き物を作ることができるようになりました。
窯内の温度を上昇させ、焚口と煙出しを塞ぎ、酸素が入らないようにして焼く、還元焼成を行うことで、灰色の硬い須恵器が焼き上がります。 |
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341
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のぼり窯(窖窯) |
三郎丸堂ノ上C遺跡
のぼり窯 |
郎丸堂ノ上C遺跡
3号窯跡 |
3号窯跡未焼成土器 |
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342
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343模型
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宗像市内の陶地区からは、古墳時代の須恵器を焼いた窯が多く発見されている。地区名の由来はそこからきている。 |
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344製品
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須恵器 平瓶
三郎丸堂ノ上C遺跡
古墳後期 |
須恵器 甕
三郎丸堂ノ上C遺跡
古墳後期 |
須恵器 甕
大井三倉遺跡
古墳後期
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347年表 弥生後期AD200~古墳中期
沖ノ島/宗像大社
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岩上祭祀(4世紀後半~5世紀)は、沖ノ島祭祀遺跡の中で最も古い形態で、4世紀後半に始まる。本土では、前方後円墳などの古墳が造られ、古墳の副葬品に見られる鏡や装身具、武具や工具とほぼ同じものが、この岩上祭祀遺跡からも出土している。 |
弥生後期AD200~
古墳中期 |
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21号遺跡 AD350頃 |
内向花文鏡
三角縁神獣鏡
方格規矩鏡
鍛造鉄斧
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348宗像本土 弥生後期AD200~古墳中期
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この頃の本土では(4c後半~5c)。首長墓の墓である前方後円墳が次々と築造され、本格的な古墳の築造が開始される。 |
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360浜宮貝塚
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概 要
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宗像市神湊1260番地周辺を中心に東西約220m、南北約160mの範囲に展開すると推定される古墳時代の貝塚です。
昭和46年、発掘調査が行われ、土器や鉄製ヤスなど漁撈具、貝殻などの出土が知られていましたが、長らく出土物の保管先が不明でした。
平成28年度、市が当時の発掘関係者から出土遺物の寄贈を受けたため、平成29年に再整理を行うことができました。
結果、浜宮貝塚が沖ノ島祭祀(岩陰祭祀・約1400年前)と並行期の海村集落であることが判明し、世界遺産との可関連が想定される重要遺跡です。 |
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須恵器坏蓋 6世紀
浜宮貝塚 |
須恵器 高坏脚部
5世紀後半 浜宮貝塚 |
土師器 高坏
5c前半-6c末頃
浜宮貝塚
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土師器 小型丸底壺
6世紀 浜宮貝塚 |
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400半島・大陸との交流の道
古墳時代
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古墳時代には、ヤマト政権や豪族によって朝鮮半島や中国大陸と盛んに交流が行われるようになります。交流により多くの文化が玄界灘を渡り、互いに取り入れられました。交流を示す資料は、日本や半島の古墳から出土しています。 |
半島・大陸との交流の道 |
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401平等寺瀬戸遺跡
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所在地 |
宗像市平等寺 |
時 代 |
古墳時代 |
内 容 |
古墳 |
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平等寺瀬戸遺跡は宗像市東部、城山の麓に位置し、標高40m前後の丘陵上にある古墳時代(約1400年前)の遺跡です。
この遺跡からは円墳2基、長さ1m 前後の小規模な埋葬部をもつ小型石室墓5基、竪穴を掘って埋葬後に木の蓋をし、その上に石を積み上げた積石土壙墓1基の合計8基の古墳が見つかりました。
付近には平等寺原遺跡や平等寺向原遺跡があり、この一帯には100基を超す古墳が集中しています。 ところが、平等寺瀬戸遺跡は広い墓域をわずか2基の円墳と数基の小墳墓が独占していることから、この円墳には周辺の古墳に葬られた人々を束ねた地域首長が葬られたと考えられます。
豪華な副葬品
2基の円墳のうち、西側の1号墳からは多くの豪華な遺物が出土しました。 出土遺物には武器、馬具、工具、装身具があります。特に馬鈴は高さ12cm、径8cmあり、国内最大級の大きさです。 |
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須恵器 古墳時代
朝町山ノ口遺跡 |
宗像歴史クラブ |
宗像歴史クラブ |
土師器高坏 土師器小型丸底壺
須恵器高坏 須恵器坏身
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410対外交流を伝える古墳 |
411
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412飾り馬
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413埴輪
円筒埴輪
古墳後期 6c後半
久原遺跡Ⅱ区3号墳 |
人物埴輪
古墳後期 6c後半
久原遺跡Ⅱ区3号墳 |
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415鍛冶
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420年表 古墳中期~飛鳥時代 |
421岩陰祭祀 5世紀後半~7世紀
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岩陰祭祀は、岩上祭祀の次の段階に行われた祭祀形態で、5世紀~7世紀にかけて最も盛んに行われた。
奉献品には、金製指輪や金銅製馬具類などの朝鮮半島製のものや、カットグラス碗片のように遥か中東からシルクロードを経て持ち込まれた物もある。 |
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中期6世紀AD500以降
岩陰祭祀、7号遺跡 |
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カットグラス碗片 |
金製指輪 |
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金銅製心葉形杏葉 |
銅製帯金具 |
金銅製刺葉形杏葉 |
金銅製歩揺付雲珠 |
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422宗像本土 古墳中期~飛鳥時代
古墳後期~終末期
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古墳時代後期~終末期にかけては、朝鮮半島製の陶質土器や馬具・刀装具が宗像の古墳に副葬され、朝鮮半島との活発な交流を物語る。
また、石室全長約23mを誇る宮地嶽古墳が造営されるなどヤマト王権との密接なつながりが伺える。 |
稲元日焼原遺跡
(須恵器窯跡)
磐井の乱(527)
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久原Ⅱ区3号墳
(前方後円墳) |
桜京古墳(装飾古墳)
平等寺瀬戸古墳(石棚)
銅製馬鈴
相原古墳(石棚)
新羅印花文土器
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手光波切不動古墳
小野妹子渡隋(607)
宮地嶽古墳
第1回遣唐使(630)
大化の改新(645)
宗像神郡となる649頃
尼子娘、高市皇子出産
壬申の乱(672)
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新羅印花文土器
相原2号墳
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古墳後期~終末期 |
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430対外交流を伝える古墳
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玄界灘をよく知る宗像の人々は、大和政権が行う半島・大陸との交流に携わり、活躍していました。
活躍の様子や対外交流を示すものとして、全国的に出土例の少ない飾履(飾り靴)や蛇行状鉄器(馬の鞍に旗を指すための道具)などが出土しています。
※飾履は飾り靴とあるが、靴の底まで歩揺が付いており、歩くことはできない、死者の履物です。 |
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431
対外交流を伝える古墳
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飾履(武寧王)
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蛇行状鉄器
(玉田M3号墳) |
蛇行状鉄器
(手光古墳群南支群第2号墳)福岡県福津市光陽台4-7-1
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馬形埴輪
(蛇行鉄器付き)
(酒巻14号墳) |
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飾履(藤ノ木古墳)
武寧王と同じものが日本国内で盛行している |
飾履
蛇行状鉄器
鍛冶道具
青銅製品
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432
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耳環 古墳後期6c後半
朝町官作1号墳 |
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管玉、翡翠製勾玉
古墳前期4c後半
東郷高塚古墳 |
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大刀をもつ貴人 |
耳に耳環、胸に勾玉と管玉、腰に銀象嵌三葉環大刀を帯びています。 |
飾履 |
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440古墳 |
441
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日野瀬戸04号墳 |
浦谷古墳群 |
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C-5号墳石室
輪鐙わあぶみ |
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平等寺瀬戸遺跡 |
1号墳 |
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442
船模型 |
西都原469号墳の埴輪がモデル
すでに構造船 |
土師器高坏・鉢
6世紀中葉
名残高田遺跡6号墳
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444年表 飛鳥時代~奈良時代
沖ノ島/宗像大社
半岩陰祭祀・半露天祭祀 7世紀後半~8世紀前半
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半岩陰・半露天祭祀は、次の露天祭祀に移る過渡的な祭祀形態で、7世紀後半~8世紀前半に行われた。
奉献品には、金銅製龍頭や唐三彩など古中国の優品が含まれている。また、金銅製雛形五弦琴や機織具は、伊勢神宮に伝わる神宝と類似しており、神道祭器の始まりを示すものとして重要である。 |
飛鳥~奈良時代 |
岩陰祭祀 |
5号遺跡 |
半岩陰・半露天祭祀 |
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金銅製雛形五弦琴
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唐三彩長頸壷
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金銅製龍頭 |
玄界灘式製塩土器と
器台
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445宗像本土
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火葬墓とは、仏教の影響により、8世紀初頭に始まった葬法で、最初は高僧や皇族・貴族など身分の高い人々に採用された。
宮地嶽神社境内出土例は、天武天皇に嫁いだ宗像君徳善の娘、尼子姫のものと考えられている。 |
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八色の姓制定により、胸方君、朝臣の姓を賜る(684)
宮地嶽神社境内内火葬墓(8c初頭)
骨臓器
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◇平城京遷都(710)
◆沖津宮・中津宮・辺津宮が記紀に記載
◆大井下ノ原遺跡(火葬墓)
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蔵骨器(大井下ノ原) |
◆神湊上方A遺跡
(製塩遺跡)
玄界灘式製塩土器 |
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500 拡大する海外交易の道
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奈良・平安時代には、国家の威信をかけて、遣唐使を通じて対外交渉が行われました。やがて鎌倉時代になると、日宋貿易が始まり、中国の貿易商人との間で私的な交易が行われるようになります。
その後、中国の国号が元に変わっても交易は続けられ、室町時代には、日明貿易が始まり、正式な交易には勘合符を使用しました。 |
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510 |
511
武丸大上げ遺跡
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所在地 |
宗像市武丸 |
時 代 |
奈良時代~平安時代 (8世紀後半~9世紀前半) |
内 容 |
駅家跡 |
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武丸大上げ遺跡は、
この遺跡は、都と大宰府を結ぶ官道「西海道」につくられた駅家の跡と推定されています。 駅家とは、律令国家が制度化した駅伝制によりつくられた施設です。都と地方との迅速な連絡を可能とするため、駅馬と呼ばれる早馬を常備し、
30里(約16km)ごとに建てられました。また、大宰府と都を結ぶ官道沿いの駅家は、外国使節の往来にも利用されるため、瓦葺・白壁のしつらえが定められていました。
大型掘立柱建物の発見
場整備をきっかけとして実施された1983(昭和58)年の発掘調査では、3棟の掘立柱建物が発見されました。そのうち2棟の柱穴は、 隅が丸い方形をしており、一辺の長さが1mを超える大型のものでした。このような柱穴は、古代の役所をはじめとする公的施設跡である官衙遺跡で多く発見されています。
古代瓦の大量出土
武丸大上げ遺跡からは、大量の古代瓦が出土しています。これは、駅家が瓦葺だったという文献記録に合い、 巨大な柱穴が並ぶ遺構とともに、遺跡が駅家跡であると考えることができる証拠の一つです。
また、出土した瓦には、作られた時代に差が見られません。そのため、かつて武丸大上げ遺跡に造られた瓦葺建物は、 造られてから使われなくなるまでの期間が短く、瓦の葺き替えもされなかったことが考えられます。
名称のない駅家
醍蝴天皇が編纂を命じ、法律(律令)の施行細則を示した『延喜式』 (927年)には、山陽道から続く西海道のうち、筑前国に入って大宰府に至るまでの8駅
(獨見駅・夜久駅・嶋門駅・津日駅・席内駅・夷守駅・美野駅・久爾駅)が記されています。そのうち夷守駅は、福岡県粕屋町での発掘調査で発見され、白壁の痕跡も確認されました。
しかし、それより120年前の大同二(807)年官符では、同じ区間に駅家が9駅あったことが記され、この間に1駅が廃止されたことが分かっています。そして、嶋門駅は遠賀町島津に、 津日駅は福津市畦町にあったことが想定されていることから、武丸大上げ遺跡がこのとき廃止された駅家に当たるとの説もあります。 |
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岳山城跡
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所在地 |
宗像市赤間地区 |
時 代 |
中世 |
内 容 |
山城 |
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岳山城とは、
岳山城とは、宗像市赤間地区にある城山の山頂にかつてあった山城です。別名・赤間山城・蔦ヶ岳城・嶽山城とも呼ばれていました。
岳山城は平安時代、宗像大宮司家妙忠の時代に築城されたと伝えられており、その後永禄三年(1560)に最後の大宮司宗像氏貞が入場し、
九州を平定した豊臣秀吉の命令によって城が取り壊されるまで、宗像大宮司家の居城として栄えました。
今でも、山頂や尾根沿いに土塁や堀切が残っており、難攻不落で知られた岳山城の面影を今に伝えています。
現在山頂に立つと、北東には響灘が広がり、三里松原の海岸が美しく弧を描く先には玄海灘、大島、天気の良い日には沖ノ島が見えます。
東には帆柱山も見え、大宮司氏貞が支配した一帯を見渡すことができます。 |
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古代の交通路想定図 |
武丸大上げ遺跡
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岳山城跡 |
輸入陶磁器
鎌倉時代
久原遺跡 |
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520古代の道 |
521
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市北東部、城山の南麓に位置する武丸大上ゲ遺跡では、平安時代の瓦が大量に出土した。当時、瓦葺の建物は公共の施設に多く用いられました。
確認された建物跡の規模や構造から「駅家」跡と推定されています。駅家は、30里(約16km)毎に設置されたもので、遠の朝廷(とおのみかど)大宰府から平安京を結ぶ大動脈が、市内に通っていたことを示すものです。 |
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延喜式(927)による
7道の駅路 |
古代交通路想定
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武丸大上ゲ遺跡想定 |
武丸大上げ遺跡 |
古代の道 |
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522瓦
鬼瓦
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新羅の影響を受けて作成されたと言われ、正式には鬼面文鬼瓦と呼ばれています。鬼の文様は神様を表したもので、屋根の棟の先端に置かれ、魔物や火災から建物を守って欲しいという願いが込められています。 |
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古代ギリシア神話に登場するメドゥーサは、それを直接見たものを石にしてしまう怪物です。
この神話が伝わっている地域では玄関の上や町の入口にメドゥーサのレリーフを飾り、悪いものや禍(わざわい)から守ってもらおうとしました。
その風習がシルクロードを伝わり、中国においては饕餮(とうてつ)とよばれる伝説の怪物の形をした瓦となり、更に日本に伝わり鬼瓦となりました。
※どうやら、朝鮮半島で既に鬼瓦となり、そのまま日本の寺院建築で使われたようです。 |
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鬼瓦
平安時代
武丸大上ゲ遺跡 |
鬼瓦 |
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軒丸瓦
平安時代 9c前葉
武丸大上ゲ遺跡
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軒平瓦
平安時代 9c前葉
武丸大上ゲ遺跡 |
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軒丸瓦の中心の模様は蓮の花を表し、軒平瓦の模様は葉っぱやツタが延びたり絡んだりする様子を表しています。 |
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523年表 奈良時代~平安時代
沖ノ島/宗像大社
奈良時代
半岩陰・半露天祭祀 (7世紀後半~8世紀前半)
露天祭祀 8世紀~9世紀
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露天祭祀は、平地で行う祭祀形態で、8世紀~9世紀末にかけて行われ、おびただしい数の土器や滑石遺品などが出土している。
その中に奈良三彩や富寿神宝(818)など年代を示す資料も含まれ、894年、遣唐使の廃止と同時に沖ノ島の国家的祭祀も終焉を迎えたと推定される。 |
平安時代
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国家的祭祀の終焉が迫る9世紀頃には、宗像神社が藤原良房邸に勧誘されるなど、藤原氏との結びつきを深める。
また、院へ社領を寄進することにより、皇室御料とし、その庇護を受けた。さらに不安定な国際情勢から軍神としての地位も高まった。 |
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1号遺跡遺物出土 |
有孔坩・有孔坏
富寿神宝(初鋳818)
滑石製舟形
滑石製馬形
滑石製人形
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524宗像本土
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奈良時代の終り頃になると、大島最高峰の御嶽山山頂(224m)にある御嶽山祭祀遺跡や宗像大社辺津宮の下高宮祭祀遺跡において、祭祀土器や滑石製雛形品などを用いた沖ノ島露天祭祀と同質の祭祀が行われる。 |
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御嶽山祭祀遺跡
(中津宮)
滑石製品
滑石製品 |
◇藤原広嗣の乱(740)
◆下高宮祭祀遺跡
(辺津宮)
◆三郎丸今井城遺跡
(集落)(皇朝十二銭) |
◇平安遷都(794)
◆この頃神郡解体(9c頃)
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◇藤原良房、自邸に宗像神社を勧請(850)
◆武丸大上ゲ遺跡(駅家跡)
◇遣唐使廃止(894) |
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530海外交易の広がりと発展
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中世の宗像の領主である宗像大宮司家は、海外交易を有利に進めるために宋の商人の娘を妻に迎えるなど、より密接な関係を築きました。
阿弥陀経石や宗風狛犬はその交易の証です。また、中世以降になると、東南アジア諸国などとの交易も行われるようになりました。 |
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531
海外交易の広がりと発展
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東アジアの交易路 |
日本海航路
黄海航路
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南シナ海航路 |
南海航路 |
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532白磁
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胎土は白色陶土(カオリン・SiO2AL2O3)を用い、釉薬は透明な長石釉を掛けて高温の窯で焼成します。また、微量の鉄分を含んだ釉薬を掛けて還元炎焼成を用いて青みを帯びた青白磁もあります。
中国では唐時代には生産され始め、元(ゲン)の時代には白磁にコバルトで文様をつけた青花白磁(染付)が作られるようになります。 |
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青磁はもともと中国の皇帝のために作られた特別なものだったんじゃ。また、青色の釉はヒスイの色を模しているとも言われているんじゃ。 |
青磁
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施釉された器を高温還元焼成を施したもので、釉薬の中にある鉄分が還元により青く発色することから名付けられました。
完成されたのは宋時代以降になります。この青磁の流通範囲は広く、日本を含み、朝鮮半島、東南アジア全域、インド半島、メソポタミア地方、エジプト周辺まで発見されています。 |
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535年表 平安時代~安土桃山時代
沖ノ島/宗像大社
受け継がれる信仰 室町時代
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中世になると、宗像氏をはじめ地域の住人による祭祀は継続され、神事の中心は本土の辺津宮となる。
また、経済・文化・面での対外交流はその後も継続し、宗像三女神と宗像氏は国家内で高い地位を保持し続けた。 |
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◆大宮司職設置979
◆源頼朝書状1185
◆色定法師写経開始
1187
◆阿弥陀経石製作
1195
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◆色定法師写経終了
1227
◆足利尊氏敗走、大宮司館に入る1336
◆おきのしまで御長手神事の竹伐り1368
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室町時代
受け継がれる信仰 |
宗像氏貞中津宮造営 1566
宗像氏貞辺津宮本殿修築 1157
宗像氏貞死去1586
小早川隆景辺津宮拝殿寄進1590
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536宗像本土
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中世の遺跡からは、中国で焼かれた青磁や白磁が多く見つかり、国際貿易が盛んであったと見られる。
これは、領主宗像大宮司一族が、宋商人の娘と婚姻し、密接な関係を築き。他者よりも有利な条件で貿易を行っていたためと考えられる。 |
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宗像氏は、神職と領地支配を兼任し、宗像大宮司を名乗り、戦国大名として台頭する。市内には、山城が各地に造られ、久原遺跡や田久立崎遺跡では、
居館を囲むと考えられる大溝が見つかった。しかし、 第79(80)代宗像氏貞に世継ぎがなく、その死により宗像大宮司家は滅亡し、宗像大社は著しく衰微した。 |
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頼朝、鎌倉幕府を開く
1185
宗像長氏、鎮国寺建立
1263
文永の役1274
考案の役1281
(宗像沖で激戦)
尊氏、室町幕府を開く
1338
足利直冬・少弐頼尚
宗像城襲来1351
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山田増福院御縁起
下巻 |
菊姫騒動1554
宗像氏貞城山に築城
1532
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600街道と海女の道
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古来より宗像は、都と大宰府を結ぶ場所にあり、道路が整備されてきました。江戸時代、唐津街道が整備され、宗像の赤間や原町が発展しました。
また、優れた航海技術を持った鐘崎の海女は、江戸時代には好漁場を求めて日本沿岸を広範囲に移動するようになりました。 |
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601赤間宿跡
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所在地 |
宗像市赤間 |
時 代 |
江戸時代~明治時代 |
内 容 |
宿場 |
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赤間宿は、参勤交代などのため、慶長8(1603)年頃に小倉-福岡-唐津を結ぶ唐津街道沿いに福岡藩主黒田長政が整備した宿場です。 宿場の長さは約500メートルで、南北に傾斜した街筋には町茶屋、問屋場、旅籠、商家が立ち並び、街道に面して往来する人々の喉を潤すため7つの辻井戸が掘られていました。
また、群内村役人の集会所である群屋や、宿場役人の下代屋敷、福岡藩御用米蔵などの公的施設も設けられ、現在の城山中学校グラウンドの場所には藩主の休憩、
宿泊のための御茶屋が置かれました。当時の赤間宿は、間口が狭く奥行きが長い短冊形の町屋が軒を連ね、家具屋や呉服屋、造り酒屋、鍛治屋、旅館があり「赤間に行けばなんでも揃う」と言われ、
峠を越えて鞍手郡や岡垣からも買い物客が訪れ賑わっていました。この宿場の賑わいは、明治23(1890)年に九州鉄道(現在の鹿児島本線)が開通するまで続きました。
宿場の面影
現在でも赤間の旧街道筋に行けば、当時の宿場のおもかげを随所に見ることができます。隙間なく並んだ、奥行きのある白壁の町屋をはじめ、地元で「祇園さん」と呼ばれる須賀神社、
辻井戸、「構口」という地名などです。宿場の中ほどにある勝屋酒造(1790年創業)の店舗兼主屋と煙突は、明治初期から中期の建築とされ、国の登録有形文化財(建造物)です。
このように、当時のおもかげを留める赤間宿跡に立てば、唐津街道を往来する人々で賑わった活気ある宿場の雰囲気を感じることができます。
歴史上の著名人も訪れた
交通の要衝、赤間宿には、多くの歴史上の著名人も訪れました。全国津々浦々を渡り歩き、精密な日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬もその一人です。 伊能忠敬の「測量日記」には、赤間宿の様子を「町並人家続き、家百五十六軒」と記しています。また、安永9(1780)年に奥村玉蘭が描いた『筑前名所図会』の「赤間駅の図」では、 家屋がびっしり並んだ赤間宿の様子を見ることができます。
幕末には、激変する時流の中で、尊皇攘夷派として京都を追われた、三条実美ら5人の公卿が御茶屋に、1か月あまり滞在し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)などもここを訪れたといわれています。
発掘調査で分かったこと
これまで行った発掘調査の成果から、赤間宿における人々の暮らしぶりの一部を知ることができます。
調査では、多くの陶磁器をはじめ、屋号の入った徳利、口紅を入れた紅皿、銭貨などが出土しました。陶磁器類は、碗や皿などの日用品が中心で、普段の暮らしは質素なものだったことが分かります。
徳利や紅皿は、質素な暮らしの中にも楽しみがあったことが分かる遺物で、もしかすると調査を行った場所に暮らしていたのは、大酒飮みの旦那さんとオシャレなおかみさんだったかもしれません。 江戸時代の早い時期から作られた寛永通宝などの出土銭貨は、赤間宿が物流の拠点として、金品のやりとりが多く行われたことの証ともいえます。 |
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街道と海女の道
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赤間宿跡 |
海女道具
ハチコナワ(腰縄)
昭和時代
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腰に巻いて、アワビガネや「きりがい」をはさむ |
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610唐津街道
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宗像に通っていた唐津街道は、安土桃山時代に豊臣秀吉が朝鮮出兵で使用し、江戸時代になると参勤交代の道として整備されました。
赤間宿は、長崎街道への分かれ道にあり、御茶屋(本陣)・旅籠などが並ぶ、街道の重要な中継地点となっていました。
赤間宿と畔町宿の中間に位置する原町は、街道を往来する旅人の休憩所として栄えました。 |
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611
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612街並み
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613 陶器 18~19世紀
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630鐘崎海女の出稼ぎ生活
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鐘崎の海女は、よい漁場を求めて広範囲に出稼ぎに行きました。この出稼ぎを「アマアルキ」と言います。江戸時代に中国への輸出品として干しアワビの需要が高まると、盛んに「アマアルキ」が行われ、そこに移住し海女の技術を広めました。
鐘崎の尼が移住したムラは日本海側の各地に見られることから、、鐘崎は「日本海沿岸の海女の発祥地」と言われています。 |
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631
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鐘崎海女の出稼ぎ生活 |
海女の像
鐘崎海女 |
俵物三品
フカヒレ、干しアワビ
イリコ(干しナマコ)
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鐘崎海女の移動と枝村 |
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632海女の道具
海女の道具 |
アタマカブリ
水メガネ
イソジュバン
アワビガネ(鮑起こし)
ハチコナワ
アワビ袋 |
鐘崎海女
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鐘崎海女は江戸時代には300人ほどいたんじゃが、約70年前の昭和13年には130似んに、昭和26人には29人に減ったんじゃ。
そしてもう現在は、わずか2人のみになってしまったんじゃぞ。
鐘崎海女が減ってしまった理由は、ゴム製ウエットスーツが広まり、女性よりも皮下脂肪が少ない男性が素潜りをしやすくなったからだといわれているんじゃ。 |
海女道具 昭和時代 宗像市鐘崎 福岡県指定民友形俗文化財
水メガネ |
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イソヒバチ |
アワビブクロ |
ハチコナワ |
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アワビガネ |
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キリガイ
目じるし |
俵物三品 |
フカヒレ、干しナマコ、
干しアワビ |
イソベコ、イソオケ、
アタマカブリ |
イソオケ |
イソジュバン
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俵物三品とは
江戸時代長崎から中国に俵に入れて輸出した水産加工品。
フカヒレ、干しアワビ、干しナマコ(イリコ) |
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690近世・近代陶器 赤間宿跡
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近世陶器
17~19世紀
白磁輪花皿18c-幕末
白磁盃 近代
染付網目文椀17c末
染付蛸唐草椀18c中頃-19c |
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白磁 紅皿 19c頃
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古銭
天聖元寶1023年初鋳
元□通寶1078年
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徳利 近代
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700宗像市内の指定・登録文化財
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701文化財地図とリスト
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702地図
宗像市全域 |
大島 |
沖ノ島 |
勝島・地島 |
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沿岸部 |
中部 |
南部 |
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703リスト 全てピンボケ
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704民俗文化
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海女の道具 |
玄界灘の漁撈具と
船大工道具 |
漁撈者の信仰道具 |
記念物
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田熊石畑遺跡 |
平等寺瀬戸遺跡 |
光岡八幡宮の大楠 |
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705宗像大社関連施設
宗像大社沖津宮
沖ノ島・小屋島・御門柱
・天狗岩
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宗像大社沖津宮は、九州北部の宗像地域から60km離れた沖ノ島と沖ノ島に付随する3つの岩礁、
小屋島、御門柱、天狗岩出構成される信仰の場です。
沖ノ島は周囲約4km、面積68.38ha、最高所243mで、島そのものが信仰の対象となっています。
沖ノ島の南東1kmにある3つの岩礁、小屋島(面積約1.89ha)、御門柱(面積約0.15ha)、天狗岩(面積0.19ha)は、個別の構成資産として区別されていますが、
沖ノ島と3つの岩礁は価値の観点から沖津宮という1つの神社を構成しています。
沖津宮は宗像大社三宮の1つで、宗像三女神の一柱、田心姫神が祀られています。 |
宗像大社沖津宮遥拝所 |
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沖津宮遥拝所は、沖ノ島から48km離れた大島にある信仰の場です。厳重な禁忌により通常渡島できない沖ノ島を遠くから拝むために
、宗像大社の一部として設けられました。境内には沖津宮遥拝所の名前と共に「寛延3年」(1750)と刻まれた石碑があり、
少なくとも18世紀中頃までには大島の北側の海辺に沖ノ島の方角を向いて沖津宮遥拝所が存在していたことがわかります。
現在の社殿は、昭和8(1933)年に建てられたものです。沖津宮遥拝所は、島そのものがご神体であり、通常入島が禁止されている沖ノ島を直接見ることなく参拝することができる場で、晴れて空気の澄み切った日には、ここから水平線上に沖ノ島を望むことができます。 |
宗像大社中津宮 |
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中津宮は、大島にあり宗像大社を構成する三宮の1つで、宗像三女神のうち湍津姫神たぎつひめかみが祀られています。
大島最高峰の御嶽山(標高224m)山頂に御嶽山祭祀遺跡、御嶽山の麓に中津宮社殿があり、中津宮はそれらを結ぶ参道と合わせて構成されています。
御嶽山山頂からは、北西方向に沖ノ島、東南方向に辺津宮を望むことができ、その山頂にある御嶽山祭祀遺跡は沖ノ島と辺津宮を結ぶ直線状に位置しています。
御嶽山祭祀遺跡では、7世紀後半から9世紀末頃にかけて露天祭祀が行われ、沖ノ島の露天祭祀遺跡と共通した奉献品が出土しています。現在の中津宮本殿は、17世紀前半の再建と言われています。 |
宗像大社辺津宮 |
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辺津宮へつみやは、かつて入海であった釣川沿いにあります。宗像大社を構成する三宮の1つで、宗像三女神のうち市杵島姫神いちきしまひめのかみが祀られ、現在の宗像大社の神事の中心です。
釣川を見下ろす宗像山の中腹に古代祭祀の跡である下高宮祭祀遺跡しもたかみやがあり、その麓に社殿が建っています。この境内の最高所の宗像山の頂上からは、大島、沖ノ島を望むことができます。
下高宮祭祀遺跡は、沖ノ島露天祭祀遺跡や御嶽山祭祀遺跡から出土した奉献品と共通する土器や滑石製品が数多く見つかっており、辺津宮の社殿成立以前においてここが祭祀の中心的な場であったことを物語っています。
記録によると、辺津宮社殿は遅くとも12世紀には存在していたことがわかっています。現在の辺津宮本殿は、弘治3年(1557)年の焼失後、天正6(1578)年に最後の大宮司宗像氏貞が再建したもので、拝殿は天正18(1590)年に再建されたものです。 |
新原・奴山古墳群 |
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沖ノ島へと続く旧入海を見渡す台地上に位置する新原・奴山古墳群は、前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基、の計41基で構成されています。
大型の前方後円墳(22号墳)と中型の前方後円墳(1号墳)、中型の円墳(20、25号墳)は、沖ノ島で岩陰祭祀が始まった、5世紀後半に築かれた古墳です。
中型の前方後円墳(12、24、30号墳)は6世紀前半に築かれました。
新原・奴山古墳群は、5世紀から6世紀にかけて41基の大小さまざまな墳墓が一帯に築かれています。
沖ノ島へと続く海を臨むこの古墳群は、地域の人々によって大切に守られ、ほとんどの墳丘は良好な保存状態を保っています。 |
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730年表
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810宗像沖ノ島関連年表 |
811「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
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本遺産群は、「神宿る島」を崇拝する文化的伝統が古代から今日まで発展し継承されてきたことを物語る稀有な物証です。
1500年以上にわたり神聖な島とされてきた沖ノ島では、4世紀から約500年間に及ぶ古代祭祀の変遷をほぼ手つかずの状態で伝える考古遺跡が守り伝えられてきました。
自然崇拝を基盤として航海の安全を祈る祭祀は、宗像三女神をまつる宗像大社の三つの宮における祭祀へと発展し、それぞれの信仰の場として今に続いています。
新原・奴山古墳群は信仰の文化的伝統を築いた宗像氏の存在の物証であり、沖津宮遥拝所が大島に設けれられるなど、禁忌や遥拝といった島に対する信仰の伝統は宗像地域の人々の間で現在まで継承されています。 |
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世界遺産を俯瞰 |
宗像から一直線になる釜山 |
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宗像大社関連施設 |
宗像大社沖津宮
沖ノ島・小屋島・御門柱
・天狗岩
宗像大社沖津宮遥拝所
宗像大社中津宮
宗像大社辺津宮
新原・奴山古墳群 |
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812
西暦300~600年 |
西暦500~700年 |
西暦600~900年 |
西暦800~2000年 |
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813
西暦300~600年
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西暦300~600年鮮明
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西暦700~900年補記
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西暦900~2000年
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西暦900~2000年鮮明
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814 |
815沖ノ島祭祀遺物
岩上祭祀21号遺跡
4c後半~5c前半
三角縁神獣鏡
方格規矩鏡
内行花文鏡
鉄斧 |
岩陰祭祀 7号遺跡
5c後半~7c
金銅製歩揺付雲珠
金銅製心葉形杏葉
金製指輪
金銅製棘葉形杏葉
カットグラス碗片
金銅製帯金具 |
岩陰祭祀
金銅製棘葉形杏葉
カットグラス碗片
金銅製帯金具
半岩陰・半露天祭祀
金銅製雛形五弦琴 |
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半岩陰・半露天祭祀
5号遺跡
7c後半~8c前半
金銅製雛形五弦琴
唐三彩長頸瓶
金銅製龍頭
有孔坩・有孔坏 |
露天祭祀
8c~9c末
富寿神宝
奈良三彩小壺
滑石製船形
滑石製馬形 |
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734祭祀場別祭祀史
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灰色:沖ノ島・沖津宮
黄色:大島・中津宮
樺色:辺津宮 |
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大島 御嶽山祭祀遺跡 |
大島御嶽山祭祀遺跡
奈良三彩小壺片 |
本土 下高宮祭祀遺跡 |
下高宮祭祀遺跡
滑石製玉類 |
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大島御嶽山祭祀遺跡
滑石製石製品 |
下高宮祭祀遺跡
滑石製船形 |
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本土宗像大社
石造狛犬 |
本土宗像大社
阿弥陀経石 |
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本土辺津宮第二社殿 |
本土:辺津宮第三社殿 |
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大島:中津宮社殿 |
本土:辺津宮社殿 |
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735祭祀史解説
沖ノ島祭祀遺跡 |
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🔴岩上祭祀
4c後半~5c前半
16、17、18、19、21
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●岩陰祭祀
5c後半~7c
4、6、7、8、
10、11、12、13、
22、23
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●半岩陰・半露天祭祀
7c後半~8c前半
5 |
● 露天祭祀
8c~9c末
1、2、3、 |
岩上祭祀 4c後半~5c前半
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4世紀後半、対外交流の活発化を背景に巨岩の上で祭祀が始まりました。
祭祀に用いられた品は、銅鏡や鉄剣などの武具、勾玉などの玉類を中心とし、当時の古墳に副葬された品々と共通します。
5世紀中頃には、巨岩の上の大石を石で方形に囲った祭壇が設けられるようになります。
ヤマト王権が朝鮮半島から調達した鉄素材が捧げられたことは、当時の対外交流をよく反映しています。 |
岩陰祭祀
5c後半~7c |
岩陰祭祀
5世紀後半になると、祭祀の場は庇の様に突き出た巨岩の影へと遷り変ります。
この岩陰祭祀の奉献品には、鉄製武具や刀子・斧などのミニチュア製品、装飾製の高い金銅製の馬具、金製指輪などが
あります。 これらは当時の最高の技術で作られた、朝鮮半島~もたらされた品々が含まれます。
新原・奴山古墳群
新原奴山古墳群はかつて入海だった農地に面し、本土から沖ノ島へと続く海を見渡すことができる台地上に、
前方後円墳や円墳、方墳など、大小様々な墳丘が密集して築かれています。
対外交流の舞台となった海に生き、沖ノ島に対する信仰を担い育んだムナカタ地域の古代豪族のあり方を最もよく
示しています。 |
半岩陰・半露天祭祀
7c後半~8c前半 |
7世紀後半、祭祀は僅かな岩陰と大部分の露天との両方にまたがって行われました。
金堂製の紡織具や琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品が目立つようになり、
中国伝来の非常に珍しい品々が見つかっています。
この時期に登場した新たな祭祀は、その後現在まで続く日本固有の信仰における祭祀の基盤となりました。
上記の金銅製品などは、現代も用いられている伊勢神宮の神宝と共通しています。 |
露天祭祀
8c~9c末 |
8世紀になると、巨岩群からやや離れた露天の平坦地で祭祀が行われました。
大石を中心とする裁断上の石積み以降の周辺には、大量の奉献品が残されています。
9世紀末頃まで、約200年間に渡り、継続的に祭祀が行われたとみられます。
捧げられた奉献品は、主に孔を開けられた祭祀用のものを含む多種多様な
土師器・須恵器や人形・馬形・船形などの滑石製形代などです。 |
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自然崇拝から三女神信仰へ |
宗像地域では、
7世紀後半までに大島の御嶽山祭祀遺跡、九州本土の下高宮祭祀遺跡でも、沖ノ島での祭祀と共通性を持った露天祭祀が行われるようになりました。
8世紀前半に成立した『古事記・日本書紀』には、宗像地域の人々が沖津宮・中津宮・辺津宮で宗像三女神を祀っていると記されています。
沖ノ島に対する自然崇拝から、宗像三女神という人格をもつ神に対する信仰が現れ、両者は併存しながら
以後の宗像地域の信仰の基盤となりました。 |
現代まで続く信仰の場 |
宗像大社は、
沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、九州本土の辺津宮という三つの宮からなる神社で、それぞれが古代祭祀遺跡を起源として、現代まで続く宗像三女神をまつる信仰の場です。
沖ノ島では、17世紀半ばまでに古代祭祀の場であった巨岩群の間に沖津宮の社殿が築かれました。また、普段は立ち入ることのできない沖ノ島をはるか遠くに拝むための信仰の場である沖津宮遥拝所は、18世紀までに大島の北岸に設けられました。
大島の中津宮では、山頂で古代祭祀が行われた御嶽山の麓に、16世紀までに社殿が設けられました。
社殿と御嶽山山頂戸は参道で結ばれ、一体となった中津宮の境内を形成しています。
辺津宮では、丘陵上に位置する下高宮祭祀遺跡の麓に、遅くとも12世紀までには社殿が設けられました。 |
海と共に生きてきた
ムナカタ地域の人々 |
宗像三女神信仰は、現在に至るまでこの宗像地域の人々によって受け継がれています。特に漁業者達の沖ノ島に対する信仰は厚く、長く島を守って来たという自負を持ち、豊漁や海の安全などを願っています。
三女神は年に一度の「みあれ祭」に於いて、漁船の大船団によって辺津宮にそろいます。これは、中世の神事を復興し
て行われているもので、宗像地域における現代の宗像三女神信仰を象徴しています。 |
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736遺物詳細説明
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珠文鏡(しゅもんきょう)
銅鏡の一種。鏡背に数珠玉状の文様(珠文)を持つことから名づく。
宗像市近郊(本土)では、福津市浦峯畑古墳に出土例がある。
小玉・臼玉群(小玉臼玉群)
古墳時代の代表的的な装身具であり祭具。ガラス製の小玉や、
滑石製の扁平な形の臼玉などが代表的。
沖ノ島では数万点出土している。7号遺跡では真珠玉もある。 |
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切子玉・三輪玉(きりこだま・みわだま)
切子玉は多面的にカットされた長楕円の玉。三輪玉は玉を3個つなげ
たような形をしていることから名付けられた。大刀の飾りとして使用。
ガラス製や水晶製がある。
鉄剣(てっけん)
刀身の両側に刃部を作る古代前期の刺殺用の武器。
5世紀後半頃から出現し、振り下ろして使用する鉄剣は、
片刃で反りのない直刀(大刀)である。 |
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800 特別展
ムナカタ
-祈り・暮らし・交わり-
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801
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820第1章ムナカタ海人のルーツ |
821➀
縄文時代のムナカタ
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縄文時代前期(約4700年前)における宗像地域の地勢は、ボーリング調査によってその姿が復元されています。
これを見ると、海が釣川河口から約8km上流の稲元、曲地区まで入り込んでいます。
また、沿岸部には縄文時代前期~後期にかけての遺跡が確認されていることから、古くから海と共に生きた人々がいたことがわかります。 |
沿岸部の縄文遺跡
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市内にある縄文前期の遺跡として、沖ノ島社務所前遺跡や、さつき松原遺跡があります。
遺跡名のとおり、両遺跡とも海に近い場所に位置し、この2つの遺跡からは、曽畑式土器と呼ばれる、西北九州沿岸部を中心に広く分布する土器が出土しています。当時のムナカタ地域に住んでいた人々が海を介した交流の中で、生活を営んでいたことを示す貴重な資料と言えます。 |
沖ノ島への渡海
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縄文人は本当に丸木舟で沖ノ島へ渡海できたのでしょうか。海洋冒険家の八幡暁氏は、「特別な身体能力がなくても誰でも沖ノ島に行くことができる。航海術や海域の情報を持つ集団に属していれば、なお楽である。」と言われています。八幡氏のホームページの情報から産出すると、動力なしのシーカヤックの漕行時間は、1日7~9時間、移動可能距離にして約50kmとなり、大島~沖ノ島間の距離に相当します。縄文の海の民たちは、風や雲、潮流、天候の状況など、海に関する多くの経験を一族で共有し、沖合での漁撈活動や渡海を行っていたことでしょう。 |
第1章ムナカタ海人のルーツ |
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縄文時代のムナカタ |
縄文時代前期
4700年前 |
沿岸部の縄文遺跡 |
さつき松原遺跡調査 |
沖ノ島への渡海 |
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大島→沖ノ島約50km |
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825②
鐘崎貝塚
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縄文時代後期(約4500~3300年前)になると、さつき松原遺跡から北に約800mの砂丘上に鐘崎(上八こうじょう)貝塚が形成されます。
遺跡は、縄文時代後期中葉(3500年前)の海浜遺跡で、アサリ、サザエ、シジミ、猪、鳥類、魚類といった自然遺物と、頭部に鹿角製かんざし2点を装着した老齢女性などの人骨が計5体、サメ歯製の耳飾り、貝輪などが発見されています。
※わざわざ老齢女性と言っているのは、渡来系女性が若くして渡来し、長くこの地に住んでいたと、何世代もの渡来の歴史を述べていると思います。 |
鐘崎式土器
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鐘崎(上八)貝塚出土の「鐘崎式土器」は、磨消縄文という縄目を施した土器の表面を沈線で区画し、その内側か外側をなで消す文様が特徴です。
この特徴を持つ土器は、周防灘や瀬戸内海西部に分布していることから、縄文時代前期から続く海を介した文化の伝播・交流があったことを物語っています。
※青森県津軽半島の亀ヶ岡式土器は日本海航路を通じて九州まで分布・流行し、その磨消縄文技法が鐘崎式土器にも採用されたのでしょう。 |
縄文の海の民
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縄文時代における宗像地域の人々は、海との密接な関係の中で生活し、独自の文化を形成していったと考えられます。
また、狩猟採集を基盤とする生活形態の中で、時には海での事故や自然災害、獣害で命を落とすこともあったでしょう。
この縄文時代の営みの中で蓄積された航海技術や知識は、次の弥生時代に登場するムナカタ海人達へと受け継がれていくことになります。
※何かおかしいですね。朝鮮半島南部からは頻繁に人が渡ってきていました。彼らは全て縄文人と呼ばれています。
彼らの多くは漁民で、半島式の漁撈技術を北部九州だけでなく列島各地へ伝えました。また、九州島を南下し、沖縄諸島にまで拡散しました。
紀元前10世紀頃、中国に出自をもち半島国家の大臣だった人が海上交易を始め、広い地域を航海し、交易による物資を運搬し始めます。
この頃は地球規模の寒冷化で食料不足であり、大陸では北方民族の南下、土地の乾燥化などが続き、民族の大移動が始まり、半島から列島へ多くの困窮民が渡海してきたようです。その中に、漁業、特に現在の済州島にみられる海女漁を得意とする漁民集団がいて、それが宗像族と言われています。
(後に済州島には元寇に際して大量のモンゴル人が移住し、現在も暮らしています)
つまり、縄文人と、弥生人との間にはつながりがなく、知識や経験の伝授はなかったはずです。ましてや、宗像族は渡来してきた多数の半島系民族の一支族に過ぎません。宗像族は北部九州縄文人より、高度な漁撈技術や航海技術を持っていたと思われます。
が、しかし、北部九州の縄文人の住民も朝鮮半島南部から移住してきた人々が暮らしていたのでした。 |
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鐘崎貝塚 |
鐘崎貝塚出土遺物
鹿角製かんざし
サメ椎骨製品
貝輪
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鐘崎式土器 |
鐘崎式土器 |
縄文の海の民 |
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826
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曽畑式土器
縄文前期 曽畑貝塚 |
曽畑式土器
(櫛目文土器)
※シベリア起源で朝鮮半島まで広く分布する。この後、沖縄に拡散する。 |
鐘崎式土器
縄文後期 |
※縄文的な土器です。
半島の櫛目文に対して和柄というべきか。
近畿地方から九州へ波及した土器 |
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鐘崎式土器 |
鐘崎式土器
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830第2章玄界灘の文化交流 |
831➀
弥生時代のムナカタ
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弥生時代に入るとムナカタ地域に限らず、北部九州を中心に朝鮮半島との交流が活発に行われるようになります。
弥生時代前期の田久松ヶ浦遺跡では、木棺の周りを石積みの壁と石蓋で覆う、「石槨墓」と呼ばれる墓が発見されています。
朝鮮半島南部の墳墓形態と同じ特徴を有していることから、弥生時代の前期段階には、モノだけでなくヒトの往来があったと考えられます。
※ここも何か変ですね。縄文時代以前から半島南部と北部九州には頻繁ではないが往来があり、人も物も来ていたようです。
この時代、列島から半島へ交易するものはでき始めたコメしかありません。というか、地球規模の食料不足の中で、新しい農地、開墾できる低湿地を求めて沢山の半島人が列島に植民し、物の交易をしに来たのではなく、縄文人の土地を奪い本国への食料供給のために、大量の半島人が来たのです。
ですから、できたコメは、農民の食料ではなく、交易品、または、半島人の本国への献納品でした。 |
弥生の土笛 陶塤
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沿岸地域でのみ出土する遺物として、光岡長尾遺跡で出土した土笛があります。土笛は弥生時代前期末と考えられる環溝に囲まれた貯蔵穴の下層から出土しました。
土笛は手になじむ卵型をした中空の小型土器で、笛と名のある通り、上端部に吹口(歌口)、胴部に音階調整用の音孔(指孔)が穿たれています。
また、平成24年(2012)には、福津市香葉遺跡でも完成品の土笛が、光岡長尾遺跡同様に貯蔵穴の下層から出土し、時期も弥生前期末~中期初頭のものと考えられます。
※土笛は弥生初期段階の日本海交易の範囲を表すものと考えられており、瀬戸内に入り込んだ下関を始め、日本海の各地から出土しています。 |
弥生の土笛 |
光岡長尾遺跡 環濠に囲まれた貯蔵穴群 |
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土笛出土状況
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把手付方形台付鉢
出土状況 |
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832②
日本海文化圏
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土笛の特徴の一つとして、分布域が日本海沿岸地域にほぼ限定されることが挙げられます。
分布域をエリア分けすると、中心は関門地域であり、宗像地域はこの日本海文化圏の西端に位置していたと考えられます。 |
土笛のルーツと役割
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土笛のルーツについてはいくつかの説がありますが形態的類似点が多いことから、列島の沿岸部に漂着するココヤシの実がそのモデルでないかとする説が有力です。長崎県壱岐島原の辻遺跡から、ココヤシを笛に加工したものが出土している点もこの説を裏付ける資料として注目されます。
土笛は、貯蔵穴や流路からの出土が多いことから、日本海沿岸部に共通する農耕祭祀に用いられたもの、あるいは、日本海沿岸部でも限定された地域で出土することから、拠点地域との政治的な結びつきを示すものとする説などがありますが、未だ未解明な点が多いといえます。 |
クニの誕生
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弥生時代中期に入ると、釣川支流に面する台地上に形成された田熊石畑遺跡の存在が特筆されます。
調査された墓域から計15点もの武器型青銅器が出土したほか、貯蔵穴などから朝鮮半島計土器や、関門地域・瀬戸内地域の土器なども出土しています。
このことは、ムナカタ地域に於いても内外各地との交流を持つ有力者層が誕生し、明確な身分の階層化が開始されたことを意味しており、日本におけるクニの成り立ちを考える上でも重要な遺跡です。 |
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日本海文化圏 |
土笛のルーツと役割 |
クニの誕生 |
田熊石畑遺跡出土の武器形青銅器と玉類
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833
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土笛 弥生前期 |
光岡長尾遺跡 |
香葉遺跡
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把手付方形台付鉢
香葉遺跡
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1号銅矛
田熊石畑遺跡2号墓 |
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銅戈
田熊石畑遺跡2号墓 |
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銅剣
田熊石畑遺跡7号墓 |
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840第3章ムナカタ海人集団の出現 |
841➀
ヤマトとムナカタ
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弥生時代の終焉と共に、ヤマト王権を中心とした国造りが進み、朝鮮半島や中国大陸との外交のために、ムナカタ海人が持つ外洋航海技術の需要が高まります。
これを背景に、4世紀後半には、沖ノ島に代表される古代祭祀も開始され、ムナカタ海人達は激動の東アジアの中で徐々にその地位を確立していきます。 |
東郷高塚古墳の意味 (4世紀後半頃)
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ヤマト王権との関係を図る指標として、ヤマトとの密接な関係にある人物が葬られた前方後円墳があります。
ムナカタ地域では、沖ノ島祭祀が始まる4世紀後半頃、釣川中流域の見晴らしのよい丘陵上に全長64.4mの前方後円墳「東郷高塚古墳」が築造されます。
埋葬施設は、粘土槨に内法長5.4mを測る九州最大級の長大な割竹形木棺納めており、築造年代と埋葬施設の規模から見て、ヤマト王権や初期沖ノ島祭祀に関わった人物の墓ではないかと考えられています。
※4世紀後半頃に中規模の前方後円墳が許可された。宗像族の地位が上昇し始めた頃の古墳かなぁ。後に宗教的祭祀で重要な地位を獲得しもっと上昇。
ただ、100m級以上の前方後円墳は大王の親族や大臣に限られるのでしょう。宗像族も大王家に嫁いだように記憶しているが、、、 |
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第3章ムナカタ海人集団の出現 |
ヤマトとムナカタ |
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東郷高塚古墳の意味 |
4~5世紀の宗像地域の主要古墳 |
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東郷高塚古墳
墳丘測量図 |
東郷高塚古墳
埋葬施設復元図 |
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842②
海の豪族
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5世紀になると、より海への意識が高まり、首長墓系列は内陸の釣川流域から現在の福津市沿岸部へその分布域を移します。
(宗像族の首長墓の場所が移動した)
5世紀中頃~後半になると勝浦地域にも全長約70mの勝浦井ノ浦古墳や、全長97mを図る勝浦峯ノ畑古墳など盟主級の前方後円墳が出現し、
5世紀末には、より海岸線に近い神湊の丘陵上に神湊上野古墳群が出現します。
また、古墳群の立地環境から復元するならば、この古墳群の北西側には、海浜集落が展開していたと想定でき、被葬者は、その海の集団を束ねた小首長だったと考えられます。 |
海人集団の躍進
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4~5世紀に掛けてのムナカタ地域は、ヤマト王権が推し進める対外交渉の仲介役としての役割を担っていたものと考えられます。
他の地域に比べ大規模な平野部を持たず、生産基盤が乏しいムナカタにおいては、縄文時代から蓄積した優れた航海技術を活かし、
ヤマトと朝鮮半島を結ぶ海路の仲介役としての役割を全うすることが、自身の勢力の維持・拡大をしていく唯一の道だったのかもしれません。
そして、その結果がイラストにもあるような沖ノ島出のヤマト王権が関与する古代祭祀へ繋がっていったものと考えられます。 |
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4~6世紀の宗像地域主要古墳の変遷 |
海人集団の躍進 |
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843壺形埴輪
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埴輪は古墳の周囲に並べられた大型の土製品で、円筒埴輪や朝顔形埴輪など様々な種類がある。
古墳時代特有の製品で、高い技術レベルを持った専門の工人集団も存在し、当時の首長の葬送に不可欠だった。
東郷高塚古墳の出土品は「壺形埴輪」と呼ばれるもので、当時実際に使用された貯蔵具に似る。
しかし、底部は焼成前に穿孔されており、実用品ではなく宗像地域の首長のために作られた祭祀専用具であることがわかる。
※王権側から埴輪職人が派遣されたのではなく、一般の土師器職人が伝聞に基づいて製作した物のようです。円筒埴輪がない。伝わらなかった。 |
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850第4章ムナカタ人たちの実像 |
851➀
海人の手がかり
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古墳時代におけるムナカタ海人は、ヤマト王権と繋がり、半島との対外交渉の仲介役としての役割を全うしたことで、「ムナカタ海人集団」としての地位を確立したといえます。では、海に自分たちの活路を見出し、それを支えたムナカタ海人とは、どの様な人々だったのでしょう。 |
浜宮貝塚の発見
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浜宮貝塚は、神湊の沿岸部、南西から北東に延びる標高4~104mの低砂丘上に位置し、古くから土器などの散布地として知られていました。
平成29年度(2017)からは資料の再整理と2回にわたる発掘調査が実施されました。
調査では、砂地に営まれた竪穴建物が合計8棟確認され、共伴する土器の年代から5世紀中頃~6世紀代を中心とする海浜集落であることが初めて確認されました。 |
浜宮貝塚の発見 |
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浜宮貝塚から沖ノ島を望む |
貝塚出土遺物 |
貝塚、竪穴建物跡検出 |
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853②
海人の暮らし
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浜宮貝塚から出土した貝や魚骨等の自然遺物の分析の結果、マダイ、ハタ科、フグ類等が魚種の主体を占めていることから、彼等は眼下に広がる玄界灘の沖合を主な魚場としていたと考えられます。
出土した貝類もその生息場所が多岐にわたっており、遺跡西側の神湊から草崎半島の岩礁地帯や、前面の外海に面した砂丘海岸一帯、釣川河口の汽水域から淡水域など、遺跡を中心に半径2km圏内で採取活動を行っていたようです。 |
神湊地域の役割
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調査結果から、沖ノ島祭祀でいえば、岩陰祭祀段階(5世紀後半~7世紀)の並行期に、神湊に約150年間に渡り、ムナカタ海人達の集落が営まれていたことがわかりました。
生業の主体は 漁撈・採取活動と思われましすが、製塩土器も確認されていることから、塩作りも行っていたようです。
このほか少量ですが、朝鮮半島系瓦質土器片も見つかっており、対外交流に関わっていたことも考えられます。
また、周辺では、沖ノ島祭祀遺跡で見られる曽世紀代や大型の滑石製臼玉が採集されていることも重要です。 |
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855浜宮貝塚 古墳後期
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鉄製ヤス、鉄製刀子
古墳後期 浜宮貝塚 |
鹿角製刀子柄
古墳後期 浜宮貝塚
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鉄製釣針
古墳後期
大穂町原貝塚
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鉄製釣針
古墳後期 浜宮貝塚
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製塩土器
古墳~奈良時代
神湊上方遺跡 |
有孔貝未成品
ハマグリ・ザルガイ
イタヤガイ
古墳後期 浜宮貝塚 |
アカニシ
古墳後期 浜宮貝塚
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土師器 甕・埦
古墳後期 浜宮貝塚 |
滑石製紡錘車
後期 浜宮貝塚 |
土師器 甑
古墳後期 浜宮貝塚
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土師器高坏
後期 浜宮貝塚
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土師器甕 後期
浜宮貝塚
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860第4章ムナカタ海人たちの実像 |
861③
6世紀のムナカタ
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6世紀には、現在の八女市を拠点とする九州最大の豪族「筑紫の君磐井」がヤマト王権に反旗を翻した古代最大の内乱「磐井の乱」が発生します。
ムナカタ海人達もヤマト王権か磐井のどちらの勢力に加担するかで大きく揺れ動いたことでしょう。
ここでは浜宮貝塚と同時期に築造された海人たちの墓所へ目をむけ、大きな歴史の転換期の中を生きた海人の長たちの人物像に迫って見ます。 |
牟田尻古墳群 宗像市牟田尻(桜京古墳)
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牟田尻古墳群は、5世紀後半~6世紀末にかけて築造された約100基からなる海人集団の墓所と考えられています。
古墳群からは、金銅製馬具や金銅製飾履、鉄製戟(げき)など珍しい副葬品と共に漁撈具と考えられるアワビオコシ状鉄器も出土しており、被葬者の海人としての一面を伺わせます。
また、古墳群の中には、ムナカタ地域唯一の装飾古墳である桜京古墳もあります。 |
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6世紀のムナカタ |
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牟田尻古墳群 |
桜京古墳 |
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桜京古墳奥壁彩色復元 |
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862④
田野瀬戸古墳 宗像市田野
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当時の小首長達の性格をよく表している古墳として、6世紀中頃の前方後円墳である田野瀬戸古墳があります。古墳は標高25~26mの砂丘上に築造されており、晴れた日には沖ノ島を眺めることができます。
古墳からは、挂甲と呼ばれる鎧や弓矢を入れる胡簶などの武具と共に、漁撈具である鉄製のヤス(刺突具)が出土しており、地域を束ねる小首長達が海人であるとともに武人としての性格を併せ持っていたことを意味します。
※宗像族は本来は、漁撈民・海女族であったと言っているようです。 |
ムナカタ海人達の実像
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古墳時代の海人の多くは、浜宮貝塚の様に、縄文時代から変わらず続く海からの恩恵を受けながら日々の生活を営んでいたことでしょう。
一方で、その地域を治める小領主達は、漁撈はもとより、水運や交易を担い、時には沖ノ島祭祀に奉仕し、
有事の際は海の武装集団としての役割を担う多面性を持った人々だったようです。 |
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田野瀬戸古墳 |
古墳石室入口
墓道から鉄製ヤス |
田野瀬戸古墳から沖ノ島遠望 |
ムナカタ海人達の実像 |
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863
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鉄製戟 古墳後期
牟田尻桜京A-6号墳
戟葉矛と戈を合体した武器 |
アワビオコシ状鉄器 牟田尻桜京A-6号墳
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杏葉 古墳後期
田野瀬戸古墳
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鉄製ヤス 後期
田野瀬戸古墳 |
須恵器
坏身・蓋、ハソウ
古墳中期
牟田尻桜京A-5,6墳 |
須恵器 高坏、甕
古墳中期
牟田尻桜京A-6墳 |
須恵器 高坏
古墳中期
牟田尻桜京A-6墳 |
須恵器 甕
古墳中期
牟田尻桜京A-6墳 |
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須恵器短頸壷
古墳後期
牟田尻桜京A-01墳 |
須恵器高坏
古墳中期
牟田尻桜京A-06墳 |
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870第5章ムナカタ海人の繁栄 |
871➀
尼子娘(宗像豪族の娘・天武の妻)と大海人皇子(天武天皇) あまこのいらつめ と おおあまのみこ
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7世紀に入ると、白村江の戦に代表されるように東アジアは緊張状態に入ったことや、遣隋使や遣唐使の派遣など、この当時の宗像の海は
それまで以上に様々な船が往来していたことでしょう。
こうした情勢のもと、ムナカタ海人の長である「胸形君徳善」の娘「尼子娘」が大海人皇子(後の天武天皇)と婚姻関係を結びます。
この事実は、のちの「日本書紀」天武二年(673)之条に記されており、これまでにも増して、中央政権とのパイプが強固なものとなり、
ムナカタ海人達が一族繁栄の極みを迎えたことを象徴しています。 |
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872②
ムナカタ海人の血脈
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その後、ムナカタ海人の血脈は、尼子娘と天武天皇の息子で、臣下の最高位である太政大臣にまで上り詰めた高市皇子へ引き継がれます。
更に彼の息子であり、聖武天皇政権下で左大臣を務めた長屋王は、その邸宅の発掘調査で、「宗形郡大領鯛醤」「宗形郡大領鮒鮨」と書かれた木簡が出土していることから、律令期にあっても依然として母方の出身地である宗像との繋がりを保っていたと考えられます。
※朝廷につながりのできた地方では、その血縁者を全力を揚げて応援することがその地方を中央政界でクローズアップさせる手段であり、子・孫・玄孫まででも支援したことでしょう。 |
今後の展望
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浜宮貝塚と周辺の古墳の調査成果から、古代ムナカタ海人達の実像が少しずつ明らかになってきました。
今後の調査研究により、沖ノ島祭祀と海人達を直接的に結ぶ遺物や遺構の発見、また、浜宮貝塚の前身となる集落やそれ以後の海人たちの拠点集落の存在など、宗像の海を制した海人たちのより鮮明な姿の解明が期待されます。 |
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873
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土師器器台
古墳時代 麦田遺跡 |
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麦田遺跡(宮若市)出土 土師器 器台
器台は、いずれも端脚で下部に大きく開き、沖ノ島1号祭祀遺跡や大島御嶽山遺跡出土品によく似ており、
古墳~奈良時代以降の製品である可能性が高い。
また、この器台が宮若市の遺跡で出土している点は、この地域の人々の祭祀行為などに対して同様の認識を持っていたものと考えられる。
※若宮市も宗像文化圏であったと言っている。 |
滑石製臼玉、勾玉
古墳時代 浜宮貝塚
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須恵器器台 古墳時代 浜宮貝塚
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展示されている器台は、沖ノ島で出土する器台と類似する点が多く、
宗像地域に限って6世紀頃から出現する器種と考えられている。
沖ノ島祭祀遺跡と宗像本土の関りを示す物証の一つと考えられる。 |
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900ビデオ「遥拝の伝説」
宗像の人々は風景に神の気配を感じつつ、日々の暮らしの中で様々な思いを込めて沖ノ島を遥拝して来たのでしょう。 |
沖ノ島と共に歩んできた宗像地域
信仰を継承してきた人々の歩みの痕跡は、台地のいたるところに残されている |
入海と古代宗像市 |
入海は縄文の最温暖期には、奥深くまで広がっていた |
海水面の後退や土砂が堆積して、浅瀬は次第に湿地に変わり |
弥生時代に稲作が始まると水田に利用された。高台には定住村が形成された。 |
低湿地の田熊石畑遺跡には、弥生の首長墓や古墳時代の倉庫群も見つかった |
砂州に守られた入海は天然の良港となりました。 |
海で繋がった様々な地域との交易が繁栄をもたらし、4~7世紀には約2800もの古墳が宗像地域に築かれました。 |
支配者古代豪族の宗像氏の古墳は、主に入海に面して築かれました。 |
古代入海と東郷高塚古墳(h64m)
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勝浦峯ノ畑古墳(h97m)からは福津市側に造られました。 |
新原・奴山22号墳 |
生家大塚古墳
須多田天降天神社古墳 |
須多田下ノ口古墳 |
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宮地嶽古墳 7世紀
以後7cまで築かれた津屋崎古墳群は北部九州有数の首長墓群です。 |
津屋崎古墳群
宗像氏は海の近くに古墳群を築いた |
新原・奴山古墳群はその象徴的な古墳群です。 |
ドローン映像 |
築造時のCGイメージ |
勝浦潟には中国人が居住し中世交易を行う |
鎖国の江戸時代には入海は干拓された |
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920宗像神社
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