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 北海道の縄文 №13 2022.06.05-1

 釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場
  史跡北斗遺跡展示館 釧路市北斗6-7
   0154-56-2677 月休・季節営業(4/16-11/15) 営業時間10:00-16:00
   遺跡・展示館とも撮影可
 
 館の特徴
・旧石器時代から縄文・続縄文時代を経て擦文時代に至る重複遺跡である。
・遺跡、展示館共に釧路湿原の中にあります。
・展示館の周囲は未発掘の住居跡、集落跡でいっぱいです。

交通 ・釧路駅から阿寒バス40分(鶴居線 北斗坂下 下車徒歩5分)釧路駅前時刻表
・バスは不便。湿原観光含めてレンタカーが最適。
近隣観光地 湿原観光を中心に、通年丹頂鶴が居る動物園など見どころ多数。
  近隣博物   多数。塘路湖畔には標茶町博物館もある。
塘路湖は湿原へのカヌーツアーの出発点です。
  宿泊情報   ホテル・旅館・民宿多数。数万円~4千円まで。より取り見取り。
    


01往路
02北斗遺跡展示館

10北斗遺跡探訪
12擦文文化
13先史時代年表
14住居復元展示場
31復元住居群
※住居の屋根
※考察 海岸段丘と釧路湿原

100北斗遺跡展示館
105住居群ジオラマ
107釧路湿原周縁の遺跡
110北斗遺跡
113湿原地形の変遷

 縄文時代
114北斗遺跡出土黒曜石の原産地
※考察 遠隔地からの黒曜石入手

120北斗遺跡の土器
121早期~続縄文
140北斗遺跡の石器
142旧石器時代
150縄文時代

200擦文文化
221擦文土器
240鉄器
300住居
※考察 山火再生林
315カマドの検出
331擦文土器
340焼失住居の炭化材
360刻印記号のある高坏形土器
※考察 祭器印(さいきじるし)
※考察 湖州鏡の伝来経路を想像する
400擦文時代の暮らし
410竪穴住居復元
420衣服
423はた織り
430食糧

600釧路湿原周辺の遺跡
510復元住居
530ビデオ資料


北斗遺跡とは、
旧石器・縄文・続縄文・擦文時代に到る複合遺跡です。
  擦文時代とは、 本州の古代文化の影響を受け、鉄器の普及や農耕の開始など、移住した和人文化や交易によって、基本的な生活文化の変化や発達が著しい時代である。また、北方渡来民(オホーツク人)との交易や文化の獲得など、内陸民族が外洋に乗り出すようになるなど、外来文化や技術の獲得にも目を見張る時代である。

 01往路
帯広から釧路へは白糠丘陵を越え海岸に出る 平地の海岸段丘は河川の浸食で谷を形成し
道路はUp&Downを繰り返す。 白糠丘陵 

 02北斗遺跡展示館
北斗遺跡・釧路湿原
釧路市市街地
北斗遺跡
旧石器・縄文・続縄文・擦文時代に至る重複遺跡。釧路湿原を望む標高20m前後の台地上の東西2500m南北500mの範囲に、
縄文・続縄文時代の浅い円形・楕円形竪穴102軒、擦文時代の四角形竪穴232軒がくぼんだ状態で残されている。
旧石器時代の火を焚いた跡、縄文時代の住居跡。墓壙や小貝塚、擦文時代の住居跡などが確認されている。
中でも擦文時代は、鉄器、繊維遺物、はた織具の一部、栽培植物の種子などが出土している。
1977年7月、釧路湿原西縁において最も規模の大きい重要な遺跡であることにより、東側233,471㎡が国指定史跡となった。
北斗遺跡展示館Leaflet 広域案内図 北斗遺跡周辺案内
90°左に倒れています
展示館から遺跡まで
復元住居
この周囲にも沢山の住居跡がある
竪穴住居跡群


 北斗遺跡展示館
北斗遺跡展示館 北斗遺跡
上に記述
展示館・遺跡と湿原展望台
周辺遺跡地図
 展示館駐車場から復元住居に至る道の両脇には、沢山の擦文時代の住居跡が見られます。
 案内板の説明の通り、何百軒もの住居跡が確認されており、大集落だったようです。
 来訪した6月初旬は、新緑の季節で、名も知らぬ木花が咲き乱れていました。
 


 10北斗遺跡 探訪 旧石器・縄文・続縄文・擦文時代遺跡 1万年前~900年前
   博物館に到着した私は、今なら、館員が作業中ということで、話が聞けるとの助言で、 館内見学の前に、遺跡に行きました。
 11

左下にアキタブキが自生。
この時期、北海道のどこでも見られるアキタブキですが、誰も採りません。この日も山菜採りが沢山入っていましたが、採るのはワラビだけです。
しかし、スーパーにはフキが調理惣菜で並んでおり、夕食に買って食べると、あく抜き不十分で、そのエグさに閉口しました。
だから誰も採らない。
製菓材料にこれの砂糖炊きがあります
右手に続く平坦面は全て住居跡です。 窪みが幾つもあるでしょう。 この辺りの斜面全てに竪穴が掘られています。全て、数知れないほどの住居跡です。ま、数えた人によると、上の通りです。

 12擦文文化 7~13世紀(飛鳥・奈良~鎌倉時代)
 擦文文化は、縄文・続縄文文化の伝統を受け継ぎ、北海道で7世紀頃に成立し、本州やオホーツク文化の影響を受け、13世紀頃アイヌ文化へ移り変わったとみられる。
 住まいは縄文・続縄文時代に引き続き竪穴式と呼ばれる半地下式の住居で、一時期の村は5軒前後であった。
屋内は、本州文化の影響を受け隅丸の四角形で、一片の長さが5~10m、深さ70~110cm、4~8本の柱、東壁に炊事用のかまど、中央に暖房・炊事用のいろり、南壁寄りに貯蔵穴、北・西側に寝床、東側に入り口が設けられていた。

擦文文化(案内板) 擦文住居跡 現在位置は復元住居展望可能位置
 13先史時代年表(案内板)
先史時代年表 旧石器~縄文早期

旧石器
釧路に人が住み始める
縄文早期
平底土器・竪穴住始まる
早期中葉
石刃鏃文化伝わる
縄文海進・小貝塚形成
早期後葉
縄目文の東釧路Ⅲ式土器が全道に広がる
前期~中期
前期
古釧路湾ができ東釧路貝塚・細岡貝塚が残る
丸底・尖底土器盛行
中期
生活圏拡大内陸に進出
中期末
円筒土器盛行
後期~晩期

後期後半
海進終了
晩期末
ヌサマイ遺跡・緑ヶ丘遺跡など大墳墓群残される
続縄文~擦文時代
続縄文前期
鉄器伝来・海岸台地に住居が展開する
続縄文末期
平面四角形半地下式にカマド・囲炉裏の住居
擦文前期
機織り・雑穀栽培開始
擦文後期
竪穴住居跡群出現
鉄器が普及する
アイヌ時代

鉄器・鉄鍋の使用開始
平地式住居に変貌
チャシが築かれる
クスリ場所開設
(クスリ=釧路)
松浦武四郎らの探検

 14住居復元展示場(案内板)
 竪穴住居は、発掘調査の記録をもとに考古学・、建築学の研究者に検討をいただき復元した。
北斗の村は、擦文時代後半の頃で、遺跡全体のあり方から一時期の住居数を推測した。
 竪穴は1m前後の深さがあり、屋根勾配を緩やかにしても十分な空間が取れ、降雪量が少ないことから屋根勾配約35°ヨシの逆葺とした。
出入り口の位置は、樺太アイヌの住居を参考にした。炊事用のかまどは煙道を持ち、いろりは暖房や明かりとりなど補助的であり、
保温を考えて煙出しは設けず出入り口での排煙とした。

※考察 屋根の逆葺
 逆葺(さかふく) カヤ・ヨシ の株本を奥に、穂先を外に。穂先が下になるように屋根を葺く方法です。
 週末縄文人氏の竪穴住居では熊笹を束ねて軸を上にしてこまいに結わえていました。こうすると、雨は下向きの葉に沿って流れていきます。

屋根の順葺
 ところ遺跡の森復元住居では、斬り揃えたヨシ束の穂を上に、株本を下にして、見てくれよろしく揃えたものです。これは、初期の登呂遺跡で行われていたものを踏襲したものです。ところ遺跡も登呂遺跡も東京帝国大学が発掘調査している。(揃えることは見てくれ以外に意味はない。)

 穂先を上にする屋根葺きは、飛騨高山白川郷でも行われている。
最初に木舞の上にヨシズを掛け、根元を下にした茅の束を置き、縄を掛け、屋根裏にその縄の端を通して木舞にくくりつける。
全体に葺きあがると、外に出ている株本(かぶもと)は板の道具でたたき込まれ、斬り揃えて株本だけが外に出ている独特な茅葺屋根が仕上がる。
これが一般的な草葺屋根の葺き方である。太い株本よりも、細い穂先を上(屋根の中)にした方が束ねやすい。
雨水の流れは、太い方から、細い方に流す方が流れやすいように思うが、この場合は太い茎が外に、屋根全体に並んで穂先が中なので密度が高く、圧迫されて雨が滲み込みにくいのかもしれない。  ただし、やがて「ふるやのもり」がやってきますが。

復元住居展示場 緑縄文竪穴
青擦文竪穴
赤復元住居

上に記述

 15史跡展望台から
史跡展望台 奥:復元住居
手前:土地に凹みが

奥にも手前にも竪穴跡

見渡す限り竪穴跡
おびただしい竪穴跡が いったいどれだけ人が住んでいたのかと思わせる
 
 20
展望台下り木道
親切丁寧に整備されています。滑り止めです。
右:復元住居 こんな灌木を建築材料に使ったのかも 花で画像検索。雪割草・岩桜がヒット。葉の形が違う 葉で検索。桜草・蝦夷大桜草がヒット。
きっと後者
あちこちに植えられて顔をだし始めている
エゾオオサクラソウ
急峻なキレット
水もなく谷川もないのになぜか急峻な切れ込み
環濠の壕のように切り立った谷筋。天然の防御施設か。2000年経っても深い傾斜のままだ。この日陰には遅れてワラビが出るのだろう。 ここの写真は全て私の好きな風景でした。
 
 30
 31復元住居群
左:史跡展望台
(今来た道)
奥:湿原展望台
(廃道行くな熊のエサ)
右:復元住居
人の轍があり、見学者が絶えない。か、ワラビ採りが多く入ったか(冗談) 学芸員による補修作業
ヨシの屋根は次第に風化して潰れて細くなり、屋根材の量が減るので次第に下がり、屋根の上部に屋根材がなくなり、空が見えるようになる。

こんな整備不良の復元住居をよく見ました。ビニルシートを被せている。
そこで、館長が常に新しいヨシを上の方に差し込んで補充し、崩壊を防いでいます。

擦文人は土を載せて植物の根で屋根を守ったのでしょう。土屋根だから、劣化した住居は再建が大変なので、放置して新築したと思う。

右下の穴はカマドの排煙口(煙突)

隅丸方形の住居

土盛が寝床だろう
発掘に基づいた復元
火棚は火の粉や炎が舞い上がり火事になるのを防ぐ仕掛け。煤だらけ乾燥にも使えなくはないが、タールでベトベト カマド
石囲炉 土止め

地面から上がった木製ベッド各地にあるがここは土製寝床か
火だな(乾燥・燻製)
利用したかもね

ヨシの簾(ヨシズ)を敷いた上にヨシで屋根を葺いている
排煙口
復元入口
大きな入り口は想像。釧路湿原のヨシの大きさがわかる。
カマド
穴に適合した土器。
尖胴・平底土器が便利

※住居の屋根
 以前も書いたように、日本では、最初に復元した住居群が茅葺、しかも装飾的な葺き方で復元されたため、以後ほぼ全ての復元住居で茅葺となります。土載せの屋根御所野遺跡が有名です。樹皮葺きは写真では見ましたが、再現されたものは、やがて出てきますが、平地住居で北海道に一軒ありました。

 現代まで続いている藁葺き屋根(本当は茅葺。藁は茅の半分の耐久性)はやがて風に運ばれて土が乗り、茅が風化して土となり、やがて草が生え、草の根が土や屋根材を繋ぎとめて、長く、保てるようになるのです。子供の頃に屋根に草が生えている家を見たことがあります。
 馬鹿な人はそれを揶揄して、「お前の家の屋根にはペンペン草が生えとる」と、馬鹿にしたものです。そんな言葉もありました。が、草ぶき屋根には草が生えることが大事だったのです。

 しかし、茅葺のイメージしかない見学者に、土葺き屋根は理解が困難です。建築会社が苦労してかっこよく、綺麗に葺いてくれた茅葺屋根の復元住居が、やはり、展示として最も魅力的・効果的なのでしょう。屋根への常識が変わるまでこのまま続くようです。

 35住居跡群
未発掘だが、辺り一面 幾つもの窪みがあり
全て擦文住居跡です
しかし、この広大な山林を管理し、草刈りをするのは大変でしょう。
何気なく見ていますが、しっかり草刈りされ、外来種の雑草も取り除かれています。
管理がよく行き届いています。
同じ時期に他の遺跡では、かなりの草が生えていましたから、これは、目に見えないところでの大変な努力の賜物です。
ごくろうさまです。

※考察 海岸段丘と釧路湿原
 釧路湿原の周囲には、広大な平坦面が続いています。大昔の海底だった台地です。
 北海道南部海岸、日高から根室に連なる広大な段丘地形は、一挙に20mとか、10mとかの急峻な段差が出来ています。
 2024.01.01能登半島沖地震で顕著になった数秒間で4mの隆起が起こった事実から、北海道島南沖に千島から連なる活発な海底断層が超巨大地震を伴って一挙に隆起したものでしょう。そうでなければ、このような広大な海岸段丘は出来ません。徐々に隆起すれば、侵食されてただの斜面になるでしょう。
 釧路湿原を囲む台地は西側は急峻な崖で、東側はなだらかな斜面となっています。(この先2館程の記事で見えてきます)これも隆起運動の違いでしょう。
 上流の活火山から旧釧路湾に流れ込む沢山の河川が大量の土砂を押し流して堆積・埋設し、湿原へと変貌するも、
 巨大な釧路川(溺れ谷)には秋の鮭の遡上や、冬の海獣狩猟なども擦文時代・アイヌ時代までは可能だったのでしょう。


 37北斗遺跡探勝路(湿原遊歩道=旧木材搬出道と区別しました)

釧路湿原展望台の案内板があるので行こうと歩き回りましたがクマ出没などで通行止めでした。

後でとても遠く、廃道で困難で危険であることを知りました。残念。

エゾキンポウゲみたいな早春の草花。

史跡展望台を背景に擦文住居二棟遠望。
絵になりますね。

どちらも行くな!
クマに食われる。
引き返せ
住居跡は、環濠のような深くきつい溝で囲まれている。

斜面にはおびただしいワラビが。

ワラビ採りが次々とやってきました。

ワラビ採りの名所なのでしょう。
季節がよかったのか
とても綺麗でした。
北海道の野原を歩けたので大喜びしました。
なんかチョット?ヘン
 
 


 100北斗遺跡展示館

 101外観
常設展示室
 105住居群ジオラマ
側面から
発掘住居跡の下(ふもと)は釧路湿原です。

住居跡の山側を右から左に歩いて復元集落に行きました。

手前が湿原で段丘上が擦文住居跡

たいそう肥沃で住居跡には大量の蕨が連日生え続けるそうです
正面から
本来こっちから見るのですが、
歩いた通路の丘、その先
復元住居群の丘。
間の谷は驚くほど急峻です
先史人は建て替えずに20年余りで住居を新築しました。だから次々と穴が掘られました。 山林を全て切り払うと、もっと沢山の住居穴が露出するのです。
今はほんの一部だけ。

 107釧路湿原周縁の遺跡
 釧路湿原は、面積21,440ha、国内湿原総面積の60%を占める低湿地帯である。
 湿原の周りには、旧石器時代からアイヌ時代にかけて約400カ所の遺跡が分布する
湿原東側
 釧路川シラルトロ沼塘路湖達古武沼など海跡湖沼に沿った東側台地に多い
 交通や食料確保など生活条件に恵まれていたためである。
 東釧路貝塚緑ヶ岡遺跡幣舞遺跡モシリヤ砦跡などは東側台地にあり、
湿原西側
 西側の拠点となる遺跡として北斗遺跡が存在する。

釧路湿原周縁の遺跡
上に記述
釧路湿原周縁遺跡
分布図

900年前まで海だった
海岸線沿いに集落集中

は海退廃棄の遺跡
この内湾は豊穣の海。
秋は大量の鮭が遡上
春から夏も湾内で安全な漁ができただろう。

よい漁場を独占するために人々は集まってより大きな村を作り、威力を持って漁をしたため、巨大竪穴群ができたのでしょうか。

海にも出かけ、大型回遊魚の漁や、海獣やシャチ猟も行なったようです。

 110北斗遺跡
 釧路駅から北西10km、釧路湿原を望む標高20m前後の台地上にある。旧石器時代から擦文時代の遺跡で、東西2500m南北500mの範囲に
縄文時代、続縄文時代の浅い円形、楕円形竪穴102軒、
擦文時代の四角形竪穴232軒がくぼんだ状態で残されている。
 これまでの調査で、
旧石器時代の火を焚いた跡
縄文時代の住居、墓、小貝塚などと
擦文時代のはた織具や繊維遺物などが確認されている。
 111
北斗遺跡 発掘調査状況1990 旧石器時代の調査
1991
縄文中期の竪穴住居
 112先史時代年表
旧石器~縄文前期
旧石器末の石器出土
早期平底土器・石刃鏃・縄文海進小貝塚出現
東釧路ⅢⅣ式全道に拡がる。※東釧路人が全道に拡散したのか
縄文前期~晩期
前期古釧路湾でき東釧路貝塚・細岡貝塚は残る。丸底・尖底の土器盛行。
中期内陸に進出し遺跡形成。円筒土器盛行。
後期海進終了現在の形となる
晩期幣舞遺跡・緑ヶ丘遺跡など大墳墓群が形成
縄文後期~擦文時代

続縄文鉄器使用開始。海岸の台地に遺跡が展開する
擦文本州の影響でカマドを持つ平面四角形の竪穴住居盛行
機織り、雑穀栽培始まる。
多くの竪穴群が出現(北斗遺跡・春採台地竪穴群)
鉄器が普及する
擦文~アイヌ時代
アイヌ鉄鍋が盛行、平地住居
チャシ築造
クスリ場所開設
松浦武四郎らの探検始まる
 113湿原地形の変遷
地形の移り変わり 旧石器、縄文早期 前期、中期

中期最大の海進
縄文後晩期~続縄文
海退。湿原の始り。
海への漁撈だけ
続縄文~擦文
釧路市は巨大な軟弱地盤の上に形成された。
 
 
  

  縄文時代


 114北斗遺跡出土黒曜石の原産地
 石器の原材料として黒曜石が多く用いられている。北海道内の主な黒曜石原産地は8カ所知られており、
縄文時代早期は置戸と十勝、中期は赤井川産が多い傾向がうかがわれた。

黒曜石原産地の変化
縄文早期は、置戸、白滝Ⅱ、十勝三股
縄文中期は、置戸、白滝Ⅱ、赤井川

 ※考察 遠隔地からの黒曜石入手
 赤井川カルデラから、北斗遺跡までは現代の道路を通っても388km。徒歩88時間。当時は道もなければ、宿屋も食堂も靴もありません。重い石を運んでくれる牛馬もいません。自分のからだで運ぶしかありません。往復の食料を持ち、往路は交換材を持ち、復路は重い黒曜石を持って歩く。これだとほんの少しの黒曜石しか運べません。おそらく、各地に交易拠点があり、そこで交換したのではないでしょうか。白滝・置戸産も同様だったと思います。
 黒曜石は産地によって特性が違い、用途が変わるるそうで、遠方の赤井川産が何かに使いやすかったのでしょうか。
信州産黒曜石も、何か所もの中継地点が発見されています。しかし、北海道では中継点の話は聞きませんが、延々400kmもわずかな量を手に入れるために行くとは思えません。


 120北斗遺跡の土器 ※脚注に土器型式は記述されていません。
 121早期  東釧路Ⅲ東釧路Ⅳ

縄文早期
縄文早期の墳墓 縄文前期の墓壙
 123中・後期 北筒式土器
  北筒式土器は、縄文中期〜後期の北海道の道東を中心に展開していた土器型式のひとつであり、北海. 道式円筒土器の略である。
縄文中~後期 縄文中~後期
縄文中~後期
縄文中~後期
 125後・晩期、続縄文
縄文時代の北筒式以降の土器は、
 後期中葉~晩期前半は、突瘤文や沈線文を主体とする土器が作られます。 さらに
 晩期後半になると「幣舞式」と呼ばれる縄線文(縄を押し付けた文様)や沈線文を特徴とする土器が作られるようになります。引用

続縄文時代前半
 北海道の東西で異なる土器文化が栄えました。東部では、縄文晩期後半の土器型式が使われました。西部では恵山式土器が用いられました。

続縄文時代後半は土器型式によって後期・晩期に分けられています。
 後期は後北C1式土器、後北C2・D式土器が中心に作られた時期で、
 晩期は北大Ⅰ式土器、北大Ⅱ式土器が中心に作られた時期です。
  
後晩期~続縄文 晩期
後期 続縄文
続縄文 続縄文
 

 140北斗遺跡の石器
 141

 142旧石器時代の石器

石斧
石斧(破片)、敲石 敲き石、砥石
 143
彫器 石刃
グレイヴァースポール
(グレイパースポール)
glaive-r-spall
二次加工使用剥片らしい


グレイヴァースポール(glaive-r-spall)はちょっとわからない。グレイパースポール(削片)というのもあるが、スポールは破片。
グレイブは薙刀状の槍、まあ、なぎなたやね。グレイー(grape-r)ならブドウの房切りやね。初耳の専門用語、意味を教えて!
 対象物は、下手な細石刃みたいだが、ただの剥片はこんなに揃ってはいない。 剥片? 削片? 細石刃? 何かわからないグレイヴァースポールだ!
 144
両面加工石器
スクレイパー
 

 150縄文時代
 151
 152石槍 縄文時代
最下段
石槍

石槍
 153石鏃
下から二段目
石鏃
 154
下から三段目
石鏃
 155石鏃
最上段
石鏃
石鏃
 
 
 160
 161縄文時代石器
 163石錘
石錘
 164石匙
石匙(把手付削器)
 165削器
 169彫器・掻器
彫器と掻器 掻器
掻器 掻器
 
 170
 171砥石・石斧
砥石 砥石
砥石
 173石斧
石斧
この辺からもう、彫器じゃないか

とても小さいよ
 


 200擦文文化 7世紀~13世紀

 210
 211擦文文化
 擦文文化は、縄文・続縄文文化の伝統を受け継ぎ、北海道で7世紀頃に成立し、本州やオホーツク文化の影響を受け、13世紀頃アイヌ文化へ移り変わったとみられる。
 生活は、サケ。マス漁が中心で、狩や野生植物の採取及び雑穀栽培も行われていた。
生活用具の石器は姿を消し、鉄が多様されるようになる。
 擦文の名称は、土器の表面に残された「はけめ」による。土器の形を整える際、木片で擦った跡である。

北斗遺跡竪穴群 擦文文化 第3号竪穴住居
 213
北斗遺跡竪穴分布図 擦文時代の暮らし
1-2海獣狩猟
3-4ヒグマ猟
3-6エゾシカ猟
4-6野草採取
5-6雑穀栽培(種蒔き)

6-7マス漁
7-9雑穀栽培(収穫)
8-9エゾシカ漁
9-10サケ漁
9-10植物採集(堅果・球根)
 
 220
 221擦文土器
擦文土器は7世紀頃から北海道で作られた土器です。同時代の本州で作られていた土師器の製法が伝わって作られるようになりました。
擦文土器のもっとも一般的な特徴は、器面にヘラ状の道具でこすった擦痕(ハケメ)や種々の刻線文(沈線文)がみられることです。
弥生土器の系統をひく土師器と縄文土器の伝統を残す北海道系の続縄文土器が相互に影響を及ぼし合いながら形成されたと考えられています。

本州の文化の影響を受け、それまで使われていた縄文のついた土器と石器がみられなくなり、本州の土師器に似た土器や鉄器が使われ始めます。
この文化を「擦文文化」とよび、7~12世紀頃までつづきました。奈良・平安・鎌倉時代に相当します。

 土器型式は、北大Ⅲ式からが擦文土器に含まれます。擦文土器は  写真サンプル
➀前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6-7世紀、飛鳥時代)、
②土師器の影響を最も強く受け、東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 ~8世紀、奈良時代ころ)、
③擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀以降、平安時代前期以降)
のものに大別される。独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。 引用wikipedia
11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。

※上記➀②③を前期、中期、後期とし、以下の土器を仕分けする。

 
擦文土器 下段
後期

後期

後期
 223擦文土器
上段
前期

前期・後期

 225
33号住居跡 39号住居跡
 
 240北斗遺跡の出土物
 241
鉄器

鉄針
 242
鉄斧、鏨(たがね) 刀子
 243
骨鏃 軽石製砥石 骨鏃は、縄文早期に始り、中・後期に多い、とされるが、
この擦文時代に使っていたのは、オホーツク人だけでした。
 墓地から出たのならオホーツク人との戦争犠牲者。
住居跡から出たのなら、過渡期に擦文人も使ったか、オホーツク人からの記念物だったか。説明がつかないね。
 
 250粘土塊
 第21号住居の貯蔵穴の南西隅から出土した。重さは、水分を含んだ状態で5kgと6kg、土器1個分の大きさである。

 260
21号住居内貯蔵穴

粘土塊
39号住居内貯蔵穴
ここは焼失住居だった
炭化木製品
炭化木製品出土状況
 
 300住まい

 310焼失住居
 縄文・続縄文時代に引き続き、擦文時代も竪穴式と呼ばれる半地下式の住居であった。
屋内は、本州文化の影響を受け四角形で、一片の長さが5~10m、深さ70~110cm、4~8本の柱、
 東壁に炊事用のかまど、中央に暖房・炊事用のいろり
 南壁寄りに貯蔵穴、北・西壁側に寝床が設けられ、出入り口は東側と考えられる。
住居の柱や梁は、ミズナラ・ヤナギなど、屋根材にはヨシが用いられている。

20号住居炭化材検出 住まい

 311 第20号住居跡 炭化材の樹種別分布
炭化材の樹種同定で、住居の構造材はコナラ属 ヤナギ属が主で、 ハンノキ属・シナノキ属・カバノキ属を含み、
当時の林相は山火再生林あるいはブナ科樹木を主とする陽樹林の可能性が考えられている。

※考察 住居構造材と環境
太材の柱や主たる垂木などがコナラ属です。その次の太材がヤナギ材です。他は雑木。
山火再生林とは、山火事後の自然回復中の山林の樹相の意味です。
山火事の後には、ススキなどが生えた後でブナ科の樹林が入り込みやすいのかもしれない。
陽樹林とは、シラカンバやアカマツ林。やがて陰樹林に遷移する。

しかし、原始の森で山火事が起こると、消火不可能。広大な範囲が焼けつくすまで消えなかったでしょう。重要な食糧資源が失われ、生活困難・居住困難になったでしょう。

住居に使用された木材から、当時、周辺は山火事後の再生林か、ブナの生える明るい林だったと想定された。なぜブナ林だった?
 
※考察 山火再生林
 北斗遺跡
 第20号焼失竪穴住居建築材は、
 ドングリのコナラでした。その他ヤナギハンノキシナノキカバノキなど全て雑木林の木材でした。
雑木林は湿原や周辺の段丘上に沢山生えており、これは、日々の生活の燃料や、堅果類や野草の採取に欠かせない里山です。

 陽樹林とは土地が土砂の流入や、山火事などで草原になった時に、太陽光を享受して最初に入り込んでくる上記樹種の雑木が成長して灌木林となり、やがて赤松・黒松・唐松などが生え込んでくる状況を言います。
 陰樹林とは松類が生え始めるとやがて日当たりが悪くなり、そのような環境に適した陰樹系植物群が生え始め、エゾ松の森になったりします。

 ヨシ葺屋根
 ヨシとは、葦(アシ)のことで、「悪しに通ずる」というので、葦をヨシと呼ぶようになりました。アシ原、ヨシ原は異音同義語です。
 関西を始め日本の多くで草屋根材としてカヤが使われてきました。カヤはイネ科ススキ属。草丈2mヨシはイネ科ヨシ属。草丈3mです。

 ですが、琵琶湖周辺では、軸長4m余りその上に穂がついてさらに大きな草丈です。軸質は硬く、乾燥すると篠竹のようで、簾を編みます。
ヨシを生やすためには早春の植物が芽吹く前にヨシ原に火をかけて野焼きをします。これをしないとよいヨシ材を入手できません。
琵琶湖でも2024.02.18に「西の湖のヨシ焼き」が行なわれました。これは伝統行事で大昔から行なわれています。

 釧路湿原のヨシ原
 釧路湿原は、現在も過去も一面のヨシ原でした。ヨシ原は有用植物ヨシを入手する大切な場所であり、動植物の宝庫でした。東ヨーロッパの大河ドナウ川の河口ルーマニアでは、広大な湿原にヨシ原が広がり、季節になると漁師や猟師が舟でやって来てヨシで作った狩猟小屋に寝泊まりしながら狩猟漁撈を行なうというのを聞いた記憶があります。実際、釧路湿原でも、各種大型野鳥やエゾシカ、キツネ(両方とも見かけました)、イトウや鮭、マスなど、動物や植物の宝庫です。これらの湿原を維持していくためには、野焼きが不可欠で、現在も釧路湿原でも野焼きが行なわれているようです。
 旧石器時代から擦文時代まで暮らし続けた人々は、当然この野焼きを行なっていたことでしょう。

 山火再生林か陽樹林
 北斗遺跡から北に行くと「温根内ビジターセンター」があり、この周辺では遺跡がないかわりに寒冷地らしい針葉樹のエゾマツなどが太い幹で生えています。北斗遺跡周辺では灌木や雑木林が主で、随分樹相が異なります。
 縄文人にとって巨木は、必要でなく、里山の木、雑木林が木材も利用しやすく、植物も手に入り、食糧となる動物もやってくる、便利な林だったでしょう。巨木の繁る森林は、下草が少なく、巨木は利用価値が低く、切り倒しにくい。丸木舟や板綴舟を作るときに、何年かに一度山奥に切り出しに行くのみだったでしょう。

 釧路湿原周辺に住み着いた人々は遺跡周辺に里山を育て、湿原を保護するために野焼きして管理し、ここから得られる全てのものを大切にすることによって、1万年も住み続けることができたのではないでしょうか。山火再生林とは野焼き後の湿原で、陽樹林は作り上げた里山林のことだったのではないでしょうか。

 屋根葺き材料としてヨシ
 秋に北斗遺跡から急峻な谷を降りて湿原に入り、ヨシを刈り取って上部を束ね、インデアンテントのように立たせておき、乾燥した頃に葉を落とし、穂を切り落として軸にし、屋根材とする長さや、入口などに使用する長さなどに切り分け、集落に運んで利用したり、デポしたりしたのでしょう。
 簾状に編んだ炭化物が出ていますが、スダレ編み機は見つかってていません。しかし、その編みようは木製の編み機を利用したものと思われ、編み機を何台か連ねて長いスダレを編み、屋根材にも、床材にも、はたまた、ヤナ漁の道具としても使えたことでしょう。



 315カマドの検出状況
20号住居跡カマド検出 カマド復元図 ※考察 カマド
カマドとは、屋内炉で火を燃やすと、何もかもが煤だらけになるので、排煙して過ごしやすくし、囲炉裏には、燃え火の後の炭火を供給し、室内生活を快適にする手段だったのです。

 炊事準備は屋外でしたのでしょう。

第2・3号住居跡調査 竪穴住居の構造と外形

 330

 331擦文土器 深鉢
擦文土器 後期線刻期
深鉢
 333擦文土器 高坏形
高坏
※深鉢はカマドに差し込んで安定させたが、この高坏はどのように
安定を保ったのか。置くことはできないので、両足裏で挟んでいたのではないか。
 
 340焼失住居の炭化材
炭化材コナラ属 炭化材ヤナギ属 炭化ヨシ(屋根材) 垂木にヨシの芯を束ねてくくりつけた。草葺・土葺き・樹皮葺きかは未調査らしい。全道で屋根葺き材については触れられていない。ヨシが出たのは初めてだ。 
 350
ミズナラ
ヤナギ
ヨシ
屋根材のヨシは毎年大量に刈り取って葉を取り除いて芯だけにし、葺き替えに使えるように廃屋などに大量に備蓄していたのだろう。雨ざらしにすると、直ちに腐り始める。

 360刻印記号のある高坏形土器
刻印記号は、高坏形・坏形や、台付浅鉢形など特別な機能を持つと見られる土器に限られることから、「祭器印」の可能性が考えられている

刻印記号のある高坏形土器 ※土器の刻印は、製造所、製作者、持ち主などを明示するもの。
擦文土器の規格的な形は、専門の製造工房が複数あったのだろうか。
それとも、注文主を区別したものだろうか。

 ※考察 祭器印(さいきじるし)
 「祭器印」は聞いたことない言葉。アメブロに1件だけ投稿がありました。
 荒神谷・加茂岩倉遺跡の祭器に×印がついているものがあり、それは、出雲王家の家紋、<竜鱗枠銅矛交差紋>という、六角形の亀甲文の中に、二本の(ホコ)が交差した文様がある家紋、のことである。つまり、×印は出雲王家の所有物を表しているというのである。
これは、出雲では祭器を表す記号ではなく、所有者を表す記号であるという。
 さて、これらの脚付高坏は、どこかに伏せて保存するはずである。前出333の並んだ脚付高坏には何ら印がなく、この完成度の高い高坏は、逆さに並べて置くと、この文様のために、一目瞭然他と区別できる。しかし、これは祭器として、祭壇に飾っておくことはできない不安定な容器であり、酒を入れるにしても、主食・副菜を入れるにしても、両足の裏ででも挟んでおかねばならないものであるから、貴人・大人の所有を表したものか、
ハレの宴席で賓客に捧げるための一級品であったのかもしれない。
 この場合、「祭器印」とは、特別品を示す記号、言葉なのだろう。


  湖州鏡(複製)
釧路市材木町5遺跡擦文竪穴住居出土。
北海道では初めての出土で、中国の南宋時代(1127~1279年)に浙江省湖州地方で造られていた鏡である(制作地不明)。

湖州鏡(複製)  大陸中部の浙江省から何千キロも遠回りしてアムール川から樺太を南下し、オホーツク海を南下して根室まで来たのだろうか。
 それとも、和人との交易で、南から入手できたのだろうか。
 ※考察 湖州鏡の伝来経路を想像する
  湖州は中国大陸中部の内陸にある。そこで作られたものが北海道釧路までどうやって到達したのだろう。
一つは北ルート。大陸中部の浙江省から大陸の中を商業ルートに乗って移動し、商人の手に渡り、これを他の商品と共に、何千キロも遠回りしてアムール川付近に至り、オホーツク文化の終末期などの交易で樺太を南下し、オホーツク海を南下して根室まで来たのだろうか。
それとも、南ルート。日宋貿易が盛んだった和人が中国から入手したものを、毛皮などとの交易品として、南から運ばれ、釧路に持ち込まれたのだろうか。

 400擦文時代の暮らし


 410竪穴住居復元
垂木取付 木舞(こまい)取付 屋根葺き
完成

 420衣服
 421
 422衣服
 衣服は、毛皮をなめして用いたと思われるが、擦文時代の初め頃、紡錘車や栽培植物アサの種子が出土しており、はた織り技術が本州より伝わったらしい。
 擦文時代後半の北斗遺跡では、はた織具の一部や編み糸の束・編み物・組紐・織物などの繊維遺物及び鉄製の針と鳥骨性の針入れが出土している。
 糸材は、オヒョウ・ハルニレなどの樹皮やアサの繊維であろう。絹の布も出土しており、交易で入手したとみられる。

衣服 炭化繊維遺物の出土 炭化繊維遺物の出土

大きなゴザが敷いてある。
組紐、編物、糸 織物、繊維
織物
 423はた織り
アッシ機織は、筬(おさ)上下糸分離器綜絖棒(そうこうぼう)、箆(へら)、緯糸巻棒(よこいと)布巻取棒腰当経糸巻杭の8個の部品からなる。
擦文時代のはた織具も類似したものとみられる。

はた織り アイヌ民族のはた織具 箆(へら)
綜絖棒
上下糸分離器
筬(おさ)
(経糸を掛ける棒)
はた織り具の一部
紡錘車 紡錘車のおもり  
 424針入れ
鳥骨製針入れ
アイヌ時代
 

 430食糧
 431食糧
 川をさかのぼるサケ・マスが重要な食料源であった。
このほか、川のイトウ・ウグイや海のニシン・カレイ・オットセイあるいは陸のエゾシカ及びカモ類など多くの種類を食料としており、
ウバユリ、ドングリなどの野生植物も採取していた。
 また、雑穀栽培も行われており、炭化した粥状のキビのほかオオムギ・アサ・小豆などの栽培植物が確認されている。

食糧 竪穴住居出土の食糧 出土状況 キビ
 433食物残渣
食物残差
カモ・カイツブリ・アビ類・オオハム・カモ類

ウグイ

サケ

イトウ
 435
種子
アサ アサってなんだろう。
麻のことかな。

麻の種実 
オオムギ、小豆、山葡萄
 437竪穴住居内出土食糧
大麦、小豆、キビ、麻、山ぶどう、
カワシンジュガイ、ワカサギ、マダラ、イトウ、ヌマガレイ、ニシン、サケ、
鹿、マガモ、カイツブリ、オオハム、アビ 
 
 600釧路湿原周辺の遺跡  壁面展示
 東釧路貝塚
 旧釧路川左岸、標高14mの台地上にある。
縄文時代前期(約6000年前)の貝塚は、東西120m、南北90mの範囲に大小11ブロックが分布し、貝層の厚さは約1mである。アサリが最も多く70%を占め、カキ、オオノガイなどと共に暖海性のアカガイ、シオフキなども含まれている。
 貝層中には、イルカの頭骨を放射状に配列したり、トド・飼い犬を埋葬するなど宗教的に利用されたことも明らかになっている。下層に早期の小貝塚も存在する。
 春採台地竪穴群
 かつて、春採湖の周りの台地には217軒の竪穴住居跡があったが、現在、地表面から窪みとして確認できるのは31軒に過ぎない。
 市の中心部に残されている竪穴群としては最も規模が大きく、擦文時代後半(12・13世紀頃)の集落跡であることがわかっている。
 湖側の崖面からは、縄文時代早期の土器(7000年前)も採集されている。

 北海道東部の遺跡
北海道東部の遺跡
 鶴ヶ岱チャランケ砦跡 江戸時代
 春採湖の北岸から半島状に突き出た標高12mの丘頂部分に、ジグザグになった幅3m、深さ1mの2条の壕が巡らされ、壕内の広さは東西30m、南北15mである。
 この場所は、トーモシリ (湖の中島)と呼ばれる離れ島で、トーコロカムイ(湖の神様)の遊び場であったと伝えられている。チャランケは、話し合いの意味でこれは後世の人がつけた名である。

 モシリヤ砦跡 江戸時代
 旧釧路川に面して半島状に伸びる標高18mの丘陵を利用して作られた丘頂式のチャシである。
チャシは砦・柵囲いを意味するアイヌ語である。
 砦の形から「お供え山」として親しまれ、サシナイ(芦の生えている沢)チャシ、ポロ 大きい)チャシとも呼ばれてきた。
モシリヤ(川中の島の対岸の丘)は、この一帯の地名である。
 18世紀の中頃釧路に勢力のあったトミカラアイノにより作られ、その一族のタサニセやメンカクシも利用したと伝えられている。
 
 
 500
 510復元住居

ビル内に住居を

復元するのは大変

劣化は少ないが
制約が多すぎる
カゴ
見事に編まれています
カマドと深鉢よく表現されています
 
 530ビデオ資料
 531
釧路湿原1万年前 6000年前 3000年前 1000年前
 532
釧路湿原空撮 旧石器時代 縄文時代 続縄文時代 擦文時代
擦文土器
オホーツク文化の広がり オホーツク土器と
本州古代文化
 533
北斗遺跡の住居跡 カマド 復元住居 入口 火だな ベッド
土止め

さすがに土間の上では
床面とベッド
寒すぎて眠れません

ベッド棚はオホーツク人の

住居にあったもの
御座の上で生活 カマドに土器がないのに
火が燃えている
現代人はカマドを知らない殻こんなビデオができたのかな

薪をくべる女性

外の排煙口
これでは火事になる確率が高い。煙突周りのヨシ材には土を被せなければ火が付くよ。
 534
炭化したキビ オオムギ アサ アズキ 雑穀栽培
鮭漁 散乱 マレク漁 北斗遺跡
エゾシカ エゾシカ猟
 535
鉄斧 小刀 原始機 紡錘車
編み物
ゴザ
織物
 536
擦文住居から隣家 農耕
狩猟・漁撈