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  2023.02.04
   
 発掘された日本列島2022 奈良会場 なら歴史芸術文化村 奈良県天理市杣之内町437
  0743-86-4420

交通 近鉄天理駅からシャトルバスあり
特徴 文化芸術棟、遺物修復棟、道の駅、高級ホテルが同一敷地内にある。
また、近隣には文化施設が多数あり、また、天理大学の天理参考館(大量の考古資料の展示館)は徒歩10分です。
 
 目次
20入口展示

100我が町が誇る遺跡
110A井戸尻遺跡群
111藤内遺跡
112双眼五重深鉢
120井戸尻遺跡
140広原遺跡 

200
 B公家が築いた京都の文化

210公家町の造営
220公家町出土遺物
250公家の暮らし
260陶磁器

300
C岩橋千塚古墳群と紀氏の遺跡
301器台
※研究 紀氏
320紀伊の古墳文化
321紀の川下流域の埴輪
330紀の川北岸の遺跡
335紀の川南岸の古墳
340紀の川北岸の遺跡
350古墳から寺社へ
353馬形埴輪
355胡籙形埴輪
356人物埴輪
※おわび
400新発見考古速報
410旧石器時代
411稚児野遺跡

500縄文時代
510取掛西貝塚
535コクゾウムシ圧痕
※考察 コクゾウムシ
540獣頭骨の祭祀跡
※考察 縄文早前期の祭祀跡
550宿戸遺跡
562アオトラ石
568玦状耳飾り
570縄文土器

600弥生時代
610東小田峯遺跡
620弥生土器
650中尾遺跡

700古墳時代
710猪ノ鼻(1)遺跡
721A群土壙墓
723続縄文土器
729B群土壙墓
※考察 二系統の土壙墓
730両迫間日渡遺跡
※考察 両迫間日渡遺跡の立地と祭祀
733祭祀遺構B
737祭祀遺構C
750金井下新田遺跡
751b豪族拠点
752火砕流被害者
760祭祀遺構ABC出土品
770ロクロ土師器
800古代
810鹿島沢古墳
813鉄製品
※考察 蝦夷の副葬品
830尾羽廃寺跡
850栢ノ木遺跡

900中世
910新宮下本町遺跡

950近代
960史跡橋野高炉跡
980史跡旧新橋停車場跡
  及び高輪築堤跡

1000調査研究最前線 地域展
1001物部氏の古墳
※研究 物部氏の興隆
1004物部氏の古墳
石上・豊田古墳群と別所古墳群
1011布留遺跡北方の古墳群
1012布留遺跡
1014石上大塚古墳
  ウワナリ塚古墳
1016ハミ塚古墳
1021豊田狐塚古墳
1031豊田トンド山古墳
1040石上豊田の中小古墳
1050布留遺跡
1061アミダヒラ支群
1063石上支群
1065ホリノヲ支群
1073タキハラ支群
1111平尾山1号墳
1130別所古墳群
1141別所鑵子塚古墳
1161別所大塚古墳と石川支群

 
 
 
 01外観
 20入口展示

ごあいさつ
      文化庁長官、都倉俊一

 我が国には47万カ所以上の遺跡が知られており、まさに遺跡の宝庫といえます。これらは単なる過去の遺産ではありません。それぞれの土地の気候や風土に適応して地域独自の生活を営み、世代を繋いできた私たちの祖先の文化的なDNAと言うべきものであり、私たちが未来を切り開いていく礎と言えるでしょう。

 こうした遺跡を守るため、毎年およそ8千件の発掘調査が行われ、数多くの成果が日々蓄積されています。文化庁では、そうした発掘調査のうち全国的に注目された成果を、多くの方々にご覧いただくことを目的に、平成7年度から「発掘された日本列島」展を開催しております。

 昨年度から実施している『わがまちが誇る遺跡』は、継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の特性や魅力」に目を向け、発信するものです。今回は、長野県富士見町、京都府京都市、和歌山県の三つの自治体を取り上げます。
 また、毎年実施している『新発見考古速報』では、旧石器時代から近代まで、近年広く注目を集めた14遺跡を取り上げ、速報展示を行います。

 さらに特集展示として『おうちで楽しむ埋蔵文化財』のパネル展示を行います。一昨年からのコロナ禍で外出自粛が余儀なくされ、現地に訪れて、実際の遺跡や遺跡に触れる機会が限られてしまいました。一方で、こうした機会でも文化財に親しむことができるように、動画やソーシャルネットワークサービスを用いた、オンライン上での文化財の活用事例が増えています。こうした多様な情報発信は、コロナ後の社会にも繋げていくことが重要です。各地のユニークな取り組みを取り上げて紹介します。

 今年度、本展覧会では33遺跡、約520点の出土品などを展示します。6月に開会する埼玉県立歴史と民俗の博物館での展示を皮切りに、伊達歴史文化ミュージアム、石巻市博物館、宮崎県総合博物館、なら歴史芸術文化村の5館を巡回します。

 多くの方々が本展覧会をご覧頂き、様々な発掘調査の意義と埋蔵文化財の保護へのご理解をいっそう深めていただければ幸いです。最後になりましたが、本展覧会の開催にあたり、ご協力を賜りました関係各位に深く御礼申し上げます。
   令和4年6月


日本列島発掘調査展2022

 日本列島では毎年約8000箇所の遺跡が発掘されています。
埋蔵文化財は、それぞれの地域特有の歴史や文化を雄弁に物語ります。
市民が交流できるのは、発掘された多くの遺跡のうちのほんの一部に過ぎません。そこで文化庁では、全国各地で特に人気の高い発掘調査の成果を、できるだけ早く、わかりやすく、多くの人に見てもらうことを目的として、1995年から毎年「日本列島発掘調査展」を開催しています。今年で28回目の開催となります。
 今年度は3件の展示を予定しています。
 一つ目は「遺跡、我が町の誇り」と題した展示です。
南北に細長い日本列島には、古来より多彩な地域文化が息づいており、そのいくつかは現代まで受け継がれています。
本展示では、各地域の継続的な調査研究によって明らかになった成果をまとめ、個性豊かな遺跡を通して語られる「地域の歴史の魅力」をわかりやすく紹介します。
 今回の展示の焦点は、町民自らが発掘・保存した縄文時代の遺跡が数多く点在する長野県富士見町。
平安時代の伝統から時代を経て、常に新たな文化を進化させてきた「千年の都」京都市。
古墳文化の中心地であるヤマト地方と、近隣の河内地方に独特の古墳文化を生み出した古代の豪族である紀氏の領地が位置する和歌山県。

 二つ目は、全国で最近発掘された旧石器時代から近世にかけての遺跡14件を紹介します。最新の発掘調査をお楽しみください。
 三つ目は、特別展「おうちで楽しく学べる埋蔵文化財」。新型コロナ感染症の影響で、在宅時間が増加している中、自宅時間を活用して楽しく学べる遺跡や遺物を紹介するユニークな展覧会です。
インターネットなどの様々な新しい技術やアプリケーションを活用して、遺跡や遺物の新しい楽しみ方をより多くの人に知ってもらいたいと考えています。


「我がまちが誇る遺跡」のねらい

 遺跡は土地に刻まれた歴史そのものです。その地域の人々がそれぞれの時代においてどんな場所に住み、何を食べていたのか、特産品は何か、またどの地域と交流をしていたのか。発掘調査の蓄積はこのような地域の歩みを解き明かすとともに、それらを他地域と比較することで、地域文化の特性なども明らかにします。

 「我がまちが誇る遺跡」は、継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の個性的な歴史」や「魅力的な遺跡」を、全国の地方公共団体の企画提案により紹介する企画です。

 今回は、「高原の縄文王国」としても知られ、地元住民自らが中心となり発掘調査や遺跡の保護を行ってきた。長野県富士見町、平安時代以来の伝統に、以後の時代の新しい文化を絶えず紡ぎ続けてきた「千年の都」の姿を描く京都市。古墳文化の中心地である大和や河内から至近の場所にありながらも、特色ある古墳文化を築きあげた古代豪族紀氏の本拠地を読み解く和歌山県の三つの企画を取り上げました。

 南北に細長く起伏に富んだ日本列島には、古くから多様な地域文化が花開き、その一部は現在にも継承されています。このような個性豊かな地域文化に目を向ける事は、日本の歴史や文化の魅力・面白さを「再発見」することにもつながるでしょう。そして本企画が少しでも「地域を元気にする」ことにつながれば、と考えています。


会場入口 ごあいさつ 日本列島発掘調査展2022
我がまちが誇る遺跡
「我がまちが誇る遺跡」のねらい
 


 100我が町が誇る遺跡
 101井戸尻遺跡群

 110A井戸尻遺跡群  長野県諏訪郡富士見町境6614 縄文時代中期(約5000年前)中部高地から西南関東に掛けて花開いた縄文文化
    ―おらあとうの考古学と遺跡の保護―

 111藤内遺跡  長野県諏訪郡富士見町落合 縄文時代中期中葉(約4700~4500年前)の集落遺跡。直径約90m。
    双眼五重深鉢 藤内Ⅰ式土器
    縄文時代中期中葉の土器 約5000年前
 112

  側面45°間隔
 113側面45°間隔
 114上部
 115下部
 

 120井戸尻遺跡 長野県諏訪郡富士見町境6614  縄文時代中期(約5000年前)
 121パネル
おらあとう(おれたち)の考古学と遺跡の保護 ◇展示コンセプト◇
 八ヶ岳の西南麓には、縄文時代中期の遺跡が数多く残されており、史跡井戸尻遺跡の名前をとって「井戸尻遺跡群」とも呼ばれています。
 この地域の発掘調査は、昭和33年の井戸尻遺跡の調査をきっかけに、「おらあとう(おれたち)の村の遺跡は、おらあとうの手で掘り、おらあとうの村の歴史は、おらあとうの手で明らかに。」を合言葉に、地元住民が中心となり、進められました。
 こうした発掘調査は、地域の眼差しを生かした独創的な研究へとつながり、中部高地の縄文文化研究をリードする役割を果たしました。
住民自ら調査に参加し、地域の歴史を解き明かす。大切な遺跡を保護しながら、そこで得た学びは、郷土の誇りとして、今なお受け継がれています。
 本展示では、富士見町で行われた縄文遺跡の調査研究成果と、先人の志を継承した遺跡保護の取り組みについて紹介します。

長野県富士見町 人の往来の結節点 ◇まちの紹介◇
 本州のほぼ中央、太平洋からも日本海からも遠く離れた内陸の町、富士見町は長野県の東南の端に位置し、釜無川や甲六川を隔てて山梨県に接しています。東を八ヶ岳、西を南アルプスに挟まれた町域は144.76㎢で、蝶が羽を広げたような形をしています。
 八ヶ岳西南麓の火山台地と、日本列島を東西に分かつ糸魚川―静岡構造線の谷を挟んで対峙する入笠山の麓には、中世の鎌倉街道、江戸時代の甲州街道が通っています。諏訪湖と甲府盆地を往来する人々は、必ずここを通る交通の要衝といえます。

高原の縄文王国

富士見町を中心とする八ヶ岳西南麓には、縄文時代の遺跡は数多く分布しています。「高原の縄文王国」とも呼ばれ、発達した集落と各地の英起用を受けた遺物が出土する場所として有名です。
イギリスの陶芸家バーナード・リーチ、日本の芸術家岡本太郎が本地域で出土した土器を目の当たりにし、その造形の素晴らしさに心を震わせたと言うエピソードも知られています。

おらあとうの考古学と遺跡の保護
長野県富士見町
人の往来の結節点
富士見町と縄文遺跡 高原の縄文王国 八ヶ岳南麓と縄文時代の遺跡

 123井戸尻遺跡

藤森栄一
1911~1973年。長野県生まれ。緯度尻遺跡群の調査結果を踏まえて「縄文農耕論」を唱えた考古学者。
アニメ映画「となりのトトロ」のサツキとメイの父・草壁タツオのモデルともいわれる。

長野県考古学会第1回大会で熱弁を振るう藤森栄一

縄文農耕論
出土した石器に農具としての機能を推定し、井戸尻遺跡群では、焼畑農耕が行われていた可能性も論じられた。

藤森栄一
井戸尻遺跡の石器
中期中葉
粗製大形石匙(靴形石) 粗製大形石匙(石鉈) 刃器(打製石包丁) 打製石斧(手鍬) 打製石斧(石鍬)
 125

井戸尻№1
山麓考古№2
井戸尻(単行本)
故意に欠き取られた
人面把手の一部
初期の報告書
「井戸尻№1」1961年
井戸尻遺跡保存会が遺跡見学の学者向けに刊行下解説パンフレット。町の協力を得て発刊された。

 山麓考古 第二号
1975年
素人考古研究会発行。
ガリ版刷りの研究雑誌。
第2号には武藤雄六が「中期縄文土器の文様解読」として図像学研究をまとめている。 
井戸尻1965年
 
藤森栄一が編集有した井戸尻遺跡群の発掘調査報告書。
考察に掲載された「中期縄文文化論」では
縄文中期に農耕が行われていた可能性に言及している。 

 127四方神面文深鉢(しほうしんめんもんふかばち) 井戸尻Ⅰ式土器 
   縄文中期 約5000年前 H34.7cm  R36.5cm
   四方の把手が大き過ぎ、非実用的な深鉢です。 
四方神面文深鉢
 128蛙文有孔鍔付土器(かえるもんゆうこうつばつきどき) 井戸尻Ⅰ式土器
 129素文内湾口縁深鉢(そもん ないわん こうえんふかばち) 井戸尻Ⅰ式土器
 

 130坂平遺跡 長野県諏訪郡富士見町落合 前期初頭から前葉の集落址
 131
おらあとうの考古学
井戸尻遺跡群で最初の発掘を行ったのは、地元の農家や高校生たちでした。
昭和31年5月に諏訪市在住の考古学者藤森栄一が公民館で講演を行い、その内容に触発された地元の人々は、昭和33年に自らの手で井戸尻遺跡の発掘調査を行います。 4棟の竪穴建物跡から縄文時代中期の土器や石器が多量に出土し、参加者を驚かせました。

独自研究の進展
井戸尻遺跡の調査後に組織された「井戸尻遺跡保存会」は毎年発掘調査を行い、着実に成果を積み重ねていきます。
竪穴建物の重複に基づいて新旧関係を把握し、中部では初めてとなる土器の年代基準「井戸尻編年」が誕生します。
また、藤森栄一が提唱した「縄文中期農耕論」や、井戸尻考古館を中心に進めている土器造形の図像学研究など、
学界と一線を画した独自の研究が生まれました。

おらあとうの考古学

井戸尻遺跡で行われたは、最初の発掘調査(昭和33年3月撮影)
独自研究の進展
井戸尻編年

 井戸尻編年 縄文時代中期 5500~4500年前
井戸尻編年
4500年前⇔5500年前
九兵衛尾根Ⅰ、Ⅱ式
→5500年前
新道式、狢沢式
藤内Ⅰ古、Ⅰ、Ⅱ式
井戸尻式
曽利
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ式


井戸尻遺跡群淵源のムラ
近年の発掘調査で最盛期の縄文時代中期以前の様子も明らかになってきました。
前期前葉の坂平遺跡では、東海、南関東、北関東の特徴を持つ遺物が出土し、様々な地域と交流があったことがわかりました。
また建物の数は180棟以上と推定されており、非常に大きな集落だったと考えられます。

井戸尻遺跡群の終焉
縄文時代後期になると、気温の低下などの環境変化に伴い、人々は生活スタイルを変えることを余儀なくされました。
八ヶ岳山麓から低地へと、その拠点を移していったようです。
大花遺跡では、大規模な掘立柱建物が立ち並び、出土する土器の多くが関東の影響を強く受けているなど、「井戸尻遺跡群」終焉の姿を見ることができます。
 ※大花遺跡:縄文後期中葉 長野県富士見町境7183-1、-2

井戸尻遺跡群淵源のムラ
坂平遺跡の竪穴建物
前期前葉
井戸尻遺跡群の終焉
大花遺跡
後期中葉
 132坂平遺跡(さかだいらいせき) 前期前葉 約6000年前
坂平遺跡
前期前葉の土器
約7000年前
深鉢
中越式土器
坂平遺跡の石器
前期前葉
粗刃礫器そじんれっき 敲石
先端角錐状石槌
打製石斧(石鍬) 石鏃(五角形鏃)

 133九兵衛尾根遺跡 縄文中期 約5500年前
   生物文深鉢 藤内Ⅰ式土器 
   器面を這い上がる蛇が描かれている
 134藤内遺跡 縄文中期 約5000年前
   区画文筒型土器 藤内Ⅰ式土器
  ※曽利遺跡 中期中葉 約4500年前
  ※中ツ原遺跡 後期前半 約4000年前 
 135大花遺跡(おおばないせき) 縄文後期中葉 約3500年前
深鉢(加曽利B式)
加曽利貝塚千葉市若葉区桜木8丁目、貝塚、環状集落。
 北貝塚=縄文中期、南貝塚=縄文後期
加曽利B式土器:後期後半 約3500年前
堀ノ内式土器:後期前半 約4000年前
加曽利E式土器:中期後半 約5000年前
縄文後期中葉の
土製耳飾り
滑車状土製耳飾り
 136大花遺跡 縄文後期中葉の土器
注口土器(加曽利B式)

 137藤内遺跡 中期中葉 約4700~4500年前(藤内・井戸尻期)
 138双環土器
双環を持つ深鉢
藤内Ⅱ式
 139浮彫帯波状口縁深鉢 藤内Ⅱ式土器
浮彫帯波状口縁深鉢
 
 140広原遺跡 
 141
守られた遺産
「井戸尻遺跡保存会」の調査研究は、地域の人々の遺跡に対する関心を高める大きな力となりました。
富士見町では、井戸尻遺跡の保存と活用に向けた計画を策定し、発掘調査事業を開始しました。
井戸尻考古館の隣にある曽利遺跡の発掘調査では、集落の範囲についての新たな情報が得られています。

縄文を生かした町づくり
平成14年に藤内遺跡の出土品199点が重要文化財に指定されました。
また、平成30年からは新たなイベントを開始し、縄文の特徴を生かした町づくりを進めています。
地域住民が自ら発掘を行い、自らの手で守り続けてきた縄文の遺跡群。
遺跡保護に対する先人達の志を今後も守り伝え、地域の誇りとして一層広げていきたいと考えています。

守られた遺産 曽利遺跡の発掘調査の様子(顔出した縄文土器)
縄文を生かした町づくり
高原の縄文王国収穫祭

毎年10月に開催県外からも多くの参加者が集まるイベントに成長した

 142広原遺跡 (ひろっぱらいせき) 縄文中期後葉
両耳壺(りょうじつぼ)
 143深鉢と磨製石斧 中期後葉 広原遺跡
  深鉢の中に石斧が入った状態で竪穴建物の入口に埋められていた。
深鉢
広原遺跡
磨製石斧
広原遺跡

 144曽利遺跡 富士見町境6614 中期中葉 約5000年前
   蛇文蒸器形深鉢(へびもんむしきがたふかばち) 井戸尻Ⅰ式土器
蛇文蒸器形深鉢
 145水煙文深鉢(すいえんもん) 井戸尻Ⅰ式土器
水煙文深鉢
 146曽利遺跡
俵形土製品(縄文後期)
浅鉢
縄文中期初頭

 148向原遺跡 (むこうっぱらいせき) 重弧文深鉢 曽利Ⅱ式土器
 


 200B公家が築いた京都の文化

京都と公家文化 ◇展示コンセプト◇
 延暦13年(794)、桓武天皇山背国葛野郡へ都を移します。
それが後の平安京で、明治時代に至るまで一時的な遷御を除いて、京都は朝廷の所在地であり続けました。
天皇や公家が長きにわたり住み続けた京都の町が、「千年の都」と称される所以が、そこにあります。

 中世以降、朝廷は政治的な力を失いましたが、朝廷・公家が守り伝えた伝統や、寺社や町衆が築き上げた芸術は、各地へ強い影響を与えるとともに、今も京都の各所に息づいています。そして、戦国時代に覇を争った、大名たちの足取りも、京都の町の各所に遺されています。

 江戸時代に公家たちが集住した公家町(現在の京都御苑一帯)は発掘調査が積み重ねられ、当時の公家の暮らしぶりが徐々に明らかになりつつあります。その成果から、京都文化の一端を掘り起こします。

 ◇町の紹介◇
 碁盤の目のように区画された古代の都、平安京は平安時代後期に大きな変化を遂げます。
この頃、平安京の外にあたる鴨川左岸に有力貴族の別邸や寺社が置かれ、京都の中心となっていきます。

 院政が行われた白河鳥羽、平家や鎌倉幕府の拠点であった六波羅もそこにあります。中世都市「京都」の誕生です。

 室町時代になると、京都は再び政治的な拠点となるとともに、経済的にも発展し、町衆による自治の伝統が生まれます。
また、室町将軍の邸宅である花の御所(室町殿)北山を中心とした新たな町が造られ、その姿は各地の守護大名のまちづくりにも強い影響を与えました。

 戦国時代を迎えると、京都は戦乱により荒廃しますが、織田信長や豊臣秀吉の保護を受けた町衆の力により復興を遂げます。
特に秀吉は洛中を総延長22.5kmにわたって囲んだ総構え「御土居」(土塁)を構築するとともに、聚楽第武家町、公家町などを建設しました。

 201
京都と公家文化
空から見た公家町と京都御所
◇町の紹介◇ 公家町遺跡の位置

 210公家町の造営

桃山時代に始まった公家町造営
 公家町は江戸時代の公家の集住地で、現在の京都御苑よりも少し広い範囲が「公家町遺跡」です。
戦国時代以前、公家の邸宅は上京一帯に散在していましたが、豊臣秀吉はそれらを内裏(だいり、皇居)周辺に集め、公家衆を集住させました。
 公家町は明治2年(1869)の東京奠都(てんと=新たに都を定めること)まで維持されました。

幻の京都新城の発見
 秀吉、最晩年の慶長2(1597)年、内裏の南東に巨大な城の造営を始めます。この城が「京都新城」です。
 令和2年、仙洞御所(江戸時代の上皇の御所)で実施した発掘調査で、この京都新城の石垣と堀を初めて確認しました。
堀の中からは転落した石材が多数出土し、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いに先立ち、堀や塀を破壊した際に崩されたものと考えられます。

桃山時代に始まった公家町造営
内裏の図 幻の京都新城の発見 京都新城の石垣

公家邸宅の様子 ―五摂家・二条家の屋敷―
二条家は公家の最高家格である五摂家の内の一つです。
五摂家の屋敷地は他の公家衆の屋敷とは隔絶した敷地面積を持ち、
二条家邸の発掘調査では、池や蔵などの建物、井戸跡、半地下式通路などが見つかりました。
半地下式通路は、廊下で建物同士が繋がれた御殿に特有のもので、内裏や宮家、摂家などの最上級の屋敷で見ることができます。
半地下式通路
引用公家町遺跡
平面図・側面図

公家邸宅 ―中級公家衆の屋敷―
京都迎賓館建設地の発掘調査では概ね15家程度の中級公家衆の屋敷地を発見しました。
池をしつらえた邸宅が多く、江戸時代後期の柳原家の邸宅能舞台も備えていました。池を眺めながら鑑賞できる配置となっていたようです。
公家衆の邸宅は寝殿を中心に据える、伝統的な配置を意識し、池は宴や儀式に用いられたと考えられます。

公家邸宅の様子
二条家邸半地下式通路
中級公家邸宅 柳原家邸能舞台跡

 220公家町出土遺物
 221京都改造の年代が刻まれた瓦
瓦線刻部分
紀年銘瓦には、「瓦御大工」「天正拾八年十月吉日」「福(田加)賀守ふくだかがのかみ」と刻まれていました。
京都市の大徳寺黄梅院の瓦を製作した「福田彦太郎吉長」と言う人物が瓦御大工と言う指導的立場で公家町形成に関わっていたことがわかりました。

天正拾八8年(1590)銘刻書瓦
鬼瓦(棟端瓦)
瓦線刻部分


 222軒丸瓦
 223金属製品
金属製品 髪飾り
(銀合金製か)
水滴(銅製か)
硯の水容器
勾玉(銀製鍍金)
中央にガラスを埋め込む
 224建築部材の装飾金具
建築部材の装飾金具
蝶番(ちょうつがい)
銅製
扉開閉の軸となる金物
二条家家紋入り銅製蓋
八双金具(銅製鍍金)

門扉・板戸に打ち付ける装飾金具
引手金具(銅製鍍金)
座金具(銅製鍍金)
 225土製品
左:17世紀のかわらけ白散」墨書
白散びゃくさんは正月儀式の屠蘇散と共に健康長寿を願って飲んだ薬酒。
右2:18世紀柳原家ゴミ捨て穴出土の食器

外面「きよひ」内面「きよ火」の墨書
右1:人面墨書 18世紀ゴミ穴出土
土師器皿
土人形
18c末~19c初頭

ひよこ、西行、力士
猿回し
 
 
 250公家の暮らし
公家の墓所
公家の墓所は、家によって造営地が異なり、
①中世以前からの菩提寺に営む場合、
②桃山時代以降に公家町から隣接した寺町の寺院に営む場合、
③公家町から少し離れた近隣寺院に営む場合、
④所領の地に営む場合があることが確認されています。

摂家など有力な公家の多くは中世以前からの菩提寺に墓所を営み、他家とは明確に区画されています。
調査された事例はまだまだ少ないものの、葬送と言う側面からも公家の実態の解明が期待されます。

伝統と最先端を両立させた公家町文化➀
公家町のゴミ捨て穴から出土した遺物の破片を数えると、総点数の実に99%がかわらけ(土師器皿)でした。
かわらけは、古代から儀式や飲食に用いられ、中世には全国各地に広がりますが、江戸時代には京都の町中でも減少します。
しかし、公家町では江戸時代のゴミ捨て穴からも多量のかわらけが出土しており、伝統的な儀式が維持し続けられていたことがわかります。

伝統と最先端を両立させた公家町文化②
公家衆は伝統を守るだけではなく、新たな文化も積極的に取り入れていました。
江戸時代前期の穴蔵からは、輸入陶磁器のほか織部焼の鉢京都産の施釉陶器など、当時最先端の陶磁器が出土しています。
また二条家当主である二条綱平は、土地を尾形乾山に提供し、そこで乾山焼創出されました。
その縁を示すかのように、二条家邸跡からは、複数の乾山焼が出土しています。

公家文化解明に向けて
考古学から公家を調査・研究する歩みはまだ始まったばかりですが、近年の発掘調査から、京都の文化を守り、かつ先導した公家衆の姿が伺えます。
京都御所・御苑の足元に眠る朝廷や公家衆の暮らしの実態が解明されることで、京都文化の一端が明らかになりつつあります。
今後の新たな発見が大いに期待されます。

公家の墓所
伝統と最先端を両立させた公家町文化➀
柳原邸のゴミ穴
伝統と最先端を両立刺せた公家町文化② 江戸時代前期の穴蔵から出土した遺物
正親町三条家屋敷跡
公家文化解明に向けて
二条家邸調査区全景

 260陶磁器
 261十七世紀中頃の陶磁器
施釉陶磁器蓋
施釉陶器壺
17c頃の陶磁器
色絵壺蓋
色絵壺
17c末~18c初頭
染付椀、染付皿

 263二条家邸出土乾山焼 十七~八世紀
尾形乾山
1663~1743。江戸時代の陶工、絵師。兄は琳派を代表する画家尾形光琳
水墨画のような渋い銹絵(さびえ)から、琳派の意匠を使った大胆な図柄の器も数多く残した。

尾形乾山
施釉陶器角皿 施釉陶器碗 施釉陶器皿 施釉陶器平碗
二条家邸出土
墨書陶器
「二」字を5カ所に墨書
 265十八世紀
 施釉陶器平碗 
施釉陶器平碗
 266
染付皿
17c後半~18cの陶磁器
染付碗・色絵小碗・染付皿
柳原家邸のゴミ穴出土の18世紀の食器
 267
青花碗(中国産)
青花鉢(中国漳州窯系)
丹波陶器徳利
織部陶器
肥前陶器皿
呉須赤絵皿(中国漳州窯系)
 


 300C岩橋千塚古墳群紀氏の遺跡
    ―石室と埴輪が織りなす紀伊の古墳文化―


 301器台 楠見遺跡 紀の川北岸  和歌山市大谷楠見小学校
    須恵器 初期須恵器の楠見式土器
    古墳時代中期 4世紀末~5世紀  

 ※研究 紀氏
 紀氏は神武東征にかかわった氏族で、素戔嗚を奉じる半島出身の海人族である。記紀では、亀に乗って現れたとされる。
神武軍が日向から北部九州東岸を北上し、瀬戸内海北岸の中国地方側を侵攻した時、紀氏は瀬戸内海南岸の四国側を侵攻し、各地に拠点を作り、阿多隼人を常駐させた。これが越智氏の始まりである。(後の海賊・水軍の始祖である。)

 神武軍はやがて、大阪湾に進み、大和川河口から侵入して纏向を攻撃しようとしたが、ナガスネヒコ軍に敗退し、兄弟を失った。
やがて軍船は南下し、和歌山県紀ノ川河口に到達し、ここに住んでいた海女族の村を襲撃し、海女族の女統領の手足を引きちぎって殺し、各地に捨てたという。これは、ナガスネヒコ軍に敗退し、親族が戦死したことへの八つ当たりにすぎなかった。実に残忍な行為である。海女族などほとんど抵抗もできなかっただろうに。青谷上寺地事件同様の、海賊による残虐行為である。この噂は、直ちに纏向政権に伝わっただろう。これが、その後の、纏向無血開城に繫がったのかも知れない。
 紀氏は、この海女族が住んでいた紀の川河口に駐屯し、国造(くにのみやつこ)の称号を与えられ、橋頭保を築き兵站を担ったのだろう。
当時このような法定制度はなかったが、そのような地位を与えて地域を占領させ、国としての統治を命じたのだろう。

 神武軍は、この地から紀ノ川を遡って南から奈良盆地に侵略することができたのだが、おそらく、五條市・御所市辺りで待ち伏せされ、大和川合戦と同じ運命を辿ることになると考えて、更に南へ迂回して三重県から侵攻した。船による戦は不利であること、両地とも狭まった函谷関状態であることが不利であると判断したのだろう。平地で白兵戦を挑もうと考えたに違いない。
 しかし、これらの情報は、全て纏向政権に筒抜けだったことは明らかである。

 「紀」氏に関しては、筑紫紀氏説越智氏=紀氏=阿多隼人説中国人「紀」氏説など、多くの文献で多くの説が唱えられている。
紀氏=木氏で半島から持ち帰った木を植えた人というのはかなり信ぴょう性があるが、いずれも海人族であったことは否めない。
あまりにも文献と説が多すぎてまとめられないので、この程度しか書けません。
   
 

 320紀伊の古墳文化

石室と埴輪が織り成す紀伊の古墳文化 ◇展示コンセプト◇

 和歌山市は、和泉山地の南麓を東西に流れる紀の川下流に位置します。継続的な発掘調査により、紀の川の北岸と南岸で遺跡や古墳の様相が大きく異なることが、近年明らかとなってきました。
 北岸では古墳時代中期(5世紀)大谷古墳を始めとした他地域との交流を示す国際色豊かな遺跡や古墳が展開します。一方、紀の川
 南岸では古墳時代後期(6世紀)に、岩橋千塚古墳群で、個性豊かな地域色をもつ古墳の築造が活発化します。
この北岸と南岸の遺跡の様相の差は、この地を拠点に活躍した古代豪族紀氏集団の差を示すと考えられています。(紀氏集団の差??)

 また、南岸岩橋千塚古墳群では、約900基にも及ぶ古墳の築造やこの地域特有の埋葬施設である岩橋型横穴式石室地域色の強い形象埴輪の樹立などが認められたことから、昭和6年に史跡、昭和27年に特別史跡に指定され、その保護が図られてきました。
 ここでは、発掘調査成果をもとに、地域色豊かな紀伊の古墳文化の実像を紹介します。

※岩橋型横穴式石室は、薄く割った石板を垂直に積み上げ、横長の石で石棚を設け、さらに上方に崩落防止の石梁を入れています。
 岩橋型横穴式石室の特徴は、垂直積の割石壁、水平に渡された石棚石梁です。
 最後に大石を蓋石に置いています。

 石川県立博物館の朝鮮式石室では、薄板を少しずつ持ち送りにしてドーム状にするのだが、和歌山では垂直に積んで蓋石を並べて屋根石兼重しにしている。 同じ朝鮮式築造技術であるが、大きな違いがある。

地域色の強い形象埴輪として鳥形埴輪があげられています。これはタカ狩りの鷹のようです。
 「発掘された日本列島2021」の展示に鷹匠埴輪を記憶しています。鷹狩・鷹匠は元は中央アジアの乾燥地帯の狩猟で、この時代に和歌山にも猛禽類を使役した狩猟者と狩猟技術が伝来していたようです。
 馬の飼育や鷹匠などという、北方アジア系技術者の渡来は、北部九州ばかりでなく、直接日本海を渡って渡来していた形跡があるようです。
特に紀氏はその海運力によって半島との交易が盛んだったので、直接招聘し、他地域に先駆けて、紀伊の山野で首長が鷹狩を楽しんでいたのでしょう。

石室と埴輪が織り成す紀伊の古墳文化
和歌浦から岩橋千塚方面を望む(南方向)
 321
紀の川下流域のうつろい ◇町の紹介◇

 紀の川下流域は古来より紀伊の中心地として発展してきました。
この地は瀬戸内海と太平洋を結ぶ海路上にあり、上流は大和盆地に繋がる交通の要衝であったため、古墳時代には外交の窓口として機能しました。

平安時代には、都の貴族が熊野三山へと向かう熊野参詣道のルート上にあたり、風光明媚な和歌の聖地として、貴族の憧れの地であったようです。
戦国時代には、鉄砲に秀でた傭兵集団の雑賀衆が治める地として知られ、
江戸時代には、和歌山城を中心に紀州徳川家50万石の城下町として栄えました。
現在、和歌山市は関西国際空港に最も近い中核都市であり、これからも国際的観光地としての発展が期待されています。

紀の川下流域のうつろい
 
紀の川下流域の遺跡分布
 
➀紀氏は草創期ヤマト政権との政治的結びつきを強めるために、北岸に発展したが、政権からの失脚によって力を失う。
南岸の紀氏は交易に最大限有利な位置にあり、莫大な財力を蓄積し、天然の要害の地を利用して、北岸紀氏失脚以後に政治力を高めた。これによって巨大で豪華な副葬品を携えた古墳が山のように造られた。
③和歌山市付近は紀の川の堆積物による砂州で、現在の地形はその後の放水路が河口となっているようです。軟弱地盤の上に和歌山城が建設されたか、堅い残丘を捜してその上に建てられたか、きっと建設当時は河口の砂州の上にぽつんと建っていたのではないでしょうか。
地震の多い中央構造線上の和歌山市域が軟弱地盤の上だとは、地図を見て感じました。

水上交通を掌握した紀氏の遺跡

 5世紀は、日本列島と朝鮮半島の交流が活発化した時期で、瀬戸内海を含めた海を介して、たくさんの人々や物資が行き交いました。
紀の川下流域北岸に位置する鳴滝遺跡では、整然と配置された大型の倉庫群が発見されるとともに、朝鮮半島の陶質土器と類似する須恵器が出土しました。これらは、この地が朝鮮半島との交流の窓口として、当時の物資の集積を担っていたことを物語ります。

 水上交通を掌握した紀氏の遺跡
水上交通を掌握した紀氏の遺跡
鳴滝遺跡の大型倉庫群柱穴痕
復元された鳴滝遺跡の大型倉庫群
鳴滝遺跡出土の須恵器大甕

 323双脚輪状冠帽  双脚輪状冠帽の役割

※円盤に2本の長い突起が付いたもの。
文様の起源は、➀スイジガイ釧・②翳(さしば=貴人にかざす長い柄の付いた団扇状の用具、日除け)・③蓮華文・④旗指物などが候補に挙げられている。
盛行期は、6世紀初頭から6世紀末まで。 引用「双脚輪状文」Wikipedia

双脚輪状冠帽 井辺八幡山古墳
後期前半
双脚輪状冠帽を被る人物

大日山35号墳
 324双脚輪状文埴輪 (形象埴輪)
 325双脚輪状文関連資料の分布
1~5

12~17
6-7 10-11、8-9
さしば
橿考研博物館
 
➀-②朝鮮半島
樹皮製品:双脚部不明

③-⑤畿内地域
木製品:双脚部上向き
形象埴輪:
 双脚部横向き
 片面線刻
⑫-⑰毛野地域
人物埴輪:双脚後向き
形象埴輪:
 双脚部下向き
 片面線刻
⑥-⑦筑肥地域
装飾古墳壁画
双脚部向き多様
⑩-⑪紀伊地区
人物埴輪:双脚後向き
形象埴輪:
 双脚部後向き
 片面線刻
⑧-⑨瀬戸内地域
形象埴輪:
 双脚部横向き
 両面線刻
金鈴塚慶州
天馬塚(大陵苑)慶州

四条7号墳橿原
音乗谷古墳
 (石のカラト古墳)奈良
荒蒔古墳天理市
⑫⑭綿貫観音山古墳
    高崎市
小林山台7号墳高崎
殖蓮村208号墳伊勢崎
塚回り3号墳太田市
中原Ⅱ遺跡1号墳高崎
横山古墳山鹿市
王塚古墳福岡県
大日山35号墳和歌山市岩橋
大谷山22号墳和歌山市岩橋

新城36号墳愛媛県
公文山1号墳丸亀市

 326人物埴輪に付属する鳥 井辺八幡山古墳 形象埴輪
人物埴輪に付属する鳥
 327鳥形埴輪 大谷山22号墳
 328胡籙形埴輪(ころく=大形矢筒)
 

 330紀の川北岸の遺跡
紀の川両岸の古墳群

紀の川北岸の古墳
 5世紀中頃には、3基の古墳からなる釜山(木ノ本)古墳群が作られます。
このうち車駕之古址古墳は、盾形の堤と周濠が巡る全長110~120m、墳長86mの前方後円墳で、これまでの紀伊にはなかった規模を誇ります。
 この古墳の出現は、この地を拠点としていた紀氏が、大王家や大和南部を勢力圏とした葛城氏などとの関係の中で、港津「紀水門」を拠点に朝鮮半島との交流の窓口として勢力を拡大したことを示します。

紀の川北岸の古墳 車駕之古址古墳の
(しゃかのこし こふん)
墳丘模式図
車駕之古址古墳出土金製勾玉
車駕之古址古墳
くびれ部の円筒埴輪


紀の川北岸の生産活動
 平成25年に大谷古墳の西側500mの丘陵端部にある平井遺跡で、埴輪窯が2基発見されました。平井遺跡 古墳時代の埴輪窯 和歌山市平井
このうち2号窯出土の埴輪の特徴から大谷古墳並べられた埴輪を焼いていたと考えられています。

 紀の川北岸では5世紀後葉に築造された大谷古墳を最後(5c末-6c初)に、大型の古墳が築造されなくなり、これ以後、古墳築造の中心は南岸へと移ります。
 紀の川北岸古墳群の終焉 5世紀後葉  古墳時代中期)

紀の川北岸の生産活動 平井遺跡1号埴輪窯 平井遺跡2号埴輪窯

 335
紀の川南岸の古墳
岩橋千塚古墳群は、紀の川南岸の丘陵地に築かれた古墳群で
4世紀末から7世紀にかけて、首長墓を含む大小約900基の古墳が築かれました。
5世紀中頃には古墳の築造が一時停滞しますが、

紀の川北岸で大型古墳が築造されなくなる5世紀末から6世紀初頭には、岩橋千塚古墳群で古墳の築造が活発化し、この時期に築造された古墳が認められます。(紀の川南岸古墳群 4世紀末~7世紀

紀の川南岸の古墳 岩橋宣塚古墳全体図

石室に表れた岩橋千塚古墳群の特色
 近畿では、5世紀末から6世紀初頭になると、埋葬施設に横穴式石室が導入され始めます。
岩橋千塚古墳群では、紀の川南岸などで産出する板状の緑色結晶片岩を石材とし、玄室に石棚石梁玄室と羨道の間に玄室前道を設けるなど、他の地域とは異なる特徴的な構造を持つ岩橋型横穴式石室を埋葬施設に採用します。

石室に表れた岩橋千塚古墳群の特色 天王塚古墳横穴式石室
(半分に切って側面から見た状況)
 
 340
 341西庄遺跡 北岸の遺跡 和歌山市西庄・磯ノ浦
鹿角製疑似餌
鹿角製銛先
骨製刺突具
鹿角製鏃
鹿角製釣針 鉄製釣針
土錘 紡錘車
表面を複線鋸歯紋で装飾
 製塩土器
製塩土器
中期から後期
小型半球形 卵形
甕形
 
 342大谷山6号墳 以降南岸の遺跡
管玉
大谷山6号墳

 前山A58号墳 和歌山市岩橋1796-1
玉類
前山A58号墳
玉類
土師器壺
前山A58号墳
 343玉類 井辺前山6号墳 和歌山市岩橋井辺前山
玉類(首飾り) 耳環
 344将軍塚古墳 和歌山市岩橋
蓋坏ふたつき
後期後半
将軍塚古墳
須恵器
寺内35号墳
蓋坏
飛鳥時代
坏蓋
奈良時代
 345天王塚古墳  和歌山市吉礼・下和佐
装身具
後期中葉

銀製空玉、瑪瑙製切子玉、滑石製臼玉、ガラス小玉、トンボ玉、小玉、粟玉

小玉、粟玉
 346

小玉、粟玉
胡籙金具 飾り金具
 348陶質土器
陶質土器
有蓋高坏 後期後半
前山A46号墳
陶質土器
蓋坏 後期後半
将軍塚古墳
須恵器
蓋坏 飛鳥時代
坏蓋 奈良時代
寺内35号墳(千塚古墳内)
 349軒丸瓦 秋月遺跡 和歌山市秋月365
軒丸瓦 秋月遺跡
秋月遺跡東部(国懸宮東側隣接地)の旧大神宮寺跡出土軒瓦

上野廃寺系

秋月遺跡西部(日前宮西隣)の旧貞福寺出土
 

 350古墳から寺社へ
 351

埴輪に表れた岩橋千塚古墳群の特色
 平成15年度から行われた大日山35号墳(和歌山市鳴神)の発掘調査では、くびれ部に付設された造り出しから多数の形象埴輪が出土しました。
同時期の大王墓とされる大阪府高槻市今城塚古墳(継体天皇陵墓531没)との共通性がうかがえる、大型の家型埴輪とともに他地域に類例のない独特な表現を持つ両面人物埴輪翼を広げた鳥形埴輪などの形象埴輪が出土しています。
 石室だけでなく、埴輪にも地域色を認めることができます

埴輪に表れた岩橋千塚古墳群の特色
 
大日山35号墳出土の形象埴輪(重要文化財)
 
翼を広げた鳥形埴輪  両面人物埴輪
 
   

岩橋千塚古墳群の終焉 4世紀末~7世紀
 6世紀中頃になると岩橋千塚古墳群での埴輪の使用は低調となり、個性豊かな埴輪も姿を消します。そのため、一見地域色は薄れたかのように見えますが、埋葬施設には岩橋型横穴式石室を採用し続け、強い独自色を維持し続けました。しかし、
 7世紀には古墳の築造は終わり、寺内35号墳などの一部の古墳で行われた8世紀前半の追葬を最後に、古墳群はその役割を終えます。

岩橋千塚古墳群の終焉
寺内35号墳の
横穴式石室
寺内35号墳の墳丘
寺内35号墳横穴式石室の土器出土状況


古墳から寺社へ
 紀の川下流域に勢力基盤を置いた紀氏には二つの集団が存在したとされています。
一方は、5世紀に紀の川北岸で勢力を持った集団で後に中央貴族になった「紀臣(きのおみ)、もう
一方は、紀の川南岸の集団でのちに紀伊国造(きのくにのみやつこ)として地域社会で中心的な役割を担った「紀直(きのあたい)と言われています。

 紀伊国造家は、日前神宮(ひのくまじんぐう)國懸神宮(くにかかすじんぐう、通称・日前宮(にちぜんぐう)を奉斎し、現在も日前宮で祭祀を続けています。
このように、古墳時代に源流を持つ紀氏の姿を今も和歌山では見ることができるのです。

古墳から寺社へ 日前宮から岩橋千塚を臨む
 手前(西)から順に貞福寺日前神宮大神宮寺が並び、それらの南に紀伊国造の屋敷があったとされる。
 奥は岩橋千塚古墳郡の築かれた岩橋山塊。
平安時代の紀伊国造印と印影

 352須恵器 大甕
   紀の川北岸 鳴滝遺跡 古墳時代中期 4世紀末~5世紀 和歌山市善明寺
鳴滝遺跡
 紀ノ川北岸の鳴滝古墳群の所在する尾根の一角で5世紀前半から中頃大規模倉庫群が発見されました。
一辺が7~10mもの大規模掘立柱建物が7棟、軒を並べて整然と立ち並んでいました。
 出土遺物の大半が初期須恵器の大甕であり、物資の貯蔵施設であったことを物語っています。
 古墳時代の倉庫規模としては、大阪市法円坂遺跡の例とともに、国内では屈指の規模をもっており、当時、紀ノ川河口域が重要な地域であったことを示しています。


須恵器大甕

 353馬形埴輪
   紀の川南岸 前山A58号墳 古墳時代後期 6世紀前半  和歌山市岩橋1796-1
前山A58号墳
墳長約20m、 後円部径約14m、前方部長約6mの小形の前方後円墳であ. ることがわかりました。
前方部の墳頂平坦面は円筒埴輪列により囲われ、. その内側の後円部寄りに馬形埴輪が樹立されています。

馬形埴輪
 355胡籙形埴輪
   大日山35号墳 古墳時代後期前半 6世紀前半  和歌山市鳴神
 356人物埴輪
前山A58   
大谷山22 大谷山22
大谷山22号墳
盾持人埴輪
後期前半 6世紀前半
大谷山22号墳
盾持人埴輪
後期前半
前山A58号墳
人物埴輪
後期前半

 357淡輪系埴輪(たんのわ)―底部に残る段差―
 蔓製の輪を台にして製作するため、底部に段差があるのが特徴です。
こうした特徴を持つ埴輪は和泉山地を挟んだ大阪府岬町の淡輪古墳群(たんのわこふんぐん)でも使用されており「淡輪系埴輪」と呼ばれています。

東三河に淡輪系円筒埴輪があります。今回は大阪岬町淡輪古墳群の円筒埴輪型式を取り上げています。
 東三河淡輪系は窖窯焼成の青灰色、硬質。 大阪淡輪系も、窖窯焼成である。
 大阪淡輪系は
『底部下端に段をもつことが特徴である。この底部下端の段は、蔓などをリング状にはめた痕跡であるとされている。埴輪製作の最終段階に回転台から埴輪を容易に切り離すための技法であることが指摘され、その系譜は朝鮮半島南部の大型送風管の製作技術と共通することが確認されている』
 引用紀の川北岸の古墳文化
※製鉄道具の製作技法が埴輪づくりに転用されたようだ。が、実際の技法にはさっぱり理解できないが、、(>_<)

淡輪系埴輪 ―底部に残る段差―
円筒埴輪
車駕之古址古墳
淡輪技法により製作
円筒埴輪
平井遺跡
中期末頃 淡輪技法
円筒埴輪
大谷古墳
中期末頃 淡輪技法
 
※ おわび

 和歌山に大きな足跡を残す紀氏を調べようと2か月余り調査しました。しかし、あまりにも文献の記述内容が様々で、まとめることができませんでした。
そこで、時間をおいて再考することにし、その間に頭の中でまとまるだろうと思っていました。これまではそうしていました。
そして、六郷満山から中津市歴史博物館、豊前市埋文、北海道支笏湖、伊達歴史文化ミュージアムを編集していました。

 ひと段落着いたので、もう一度「発掘された日本列島2022の紀氏」を書こうと思いましたが、なんと頭の中から何もかもが消えていました。
時間を置きすぎた、他の編集をし過ぎた、などを考えましたが、そうではなく、記憶がほとんど維持できなくなっていました。
 考えてみますと、最近は、一つ書くたびに、いくつもの単語や地名を思い出せず、膨大な時間がかかるようになっています。
例えば、このひと枠を書くのに一日かかっているものもあります。私の限界が見えてきたように思います。しかし、ここでこれをやめたら、一気に認知症が悪化するのではないかと思います。
 目もひどく悪くなり、記憶力・思考力も衰えて、やがて廃人になるとしても、せめて、少しでも、健康を保ってその日まで過ごしたいと思っています。

 紀氏については沢山の書きかけの文書があるのですが、もうすでにそれらを統一して一本の文章にまとめることはできません。
たとえまとめたとしても膨大なものとなり、ここに乗せるには不適当と思われます。
 大変残念ですが、このページで最も書きたかった紀氏の出自については、この程度で終りにさせていただきます。
皆様のご期待に沿えずに大変申し訳ありませんでした。

 私の考え

 神武東征はあった。邪馬台国は北部九州である。卑弥呼が居たのは、吉野ケ里のような巨大な環濠集落ではなく、連合国に近く、中心となりやすい位置であっただろう。それらの遺跡は、もうすでに、破壊攪乱されてしまったかもしれない。

 磐余彦(いわれびこ)の国は邪馬台連合と対立する狗奴国であろう。磐余彦以前にも北部九州からの小国の東征はたびたび起こっていた。
しかし、彼らは畿内で纏向連合を形成し、新しい連合国家を作って北部九州・中国地方から東海・関東・北陸・四国地方までの広範な地域を結んだ巨大経済圏を構築し、東征した小国はこのテクノクラートとして活動していたようである。
 そして、この経済連合を運営してその象徴として有力各国の特徴を持ち寄った巨大墳丘墓である前方後円墳の構築を連合の(あかし)とすることにした。

 この経済連合に参加しようとしたのではなく、これを乗っ取ろうとして磐余彦軍は東征を始めた。
時代が戦乱の倭国大乱から、安定平和を目指す中、いつまでも邪馬台連合と戦争をし続けるという、時代遅れな小国だったのだ。
 そして、その結果、残虐な殺し合いを望まなかった、纏向連合の北部九州に出自を持つ一部の氏族が磐余彦軍を受け入れ、軍事支配を許したのだ。

 おそらく、纏向連合の平和主義に対して、ただただ野蛮な、時代錯誤の田舎集団が侵略してきたのを、上手に受け入れて穏便にことを納めたのだ。
そうでなければ、東海から、九州南部を巻き込んだ巨大大戦が起こるところであり、もしかすると狗奴国の後ろ盾である「呉」の介入を招くかもしれない。それは、厄介なことになる。だからこそ、軍事侵攻を許したのだろう。磐余彦軍の戦争は、かなり不発に終わってしまった。
 
しかし、磐余彦軍はとにかく戦争がしたい。支配したい。奪いたい。殺したい。なので、東征して自分たちの経済基盤を持たない、ただの軍事集団であるから、纏向経済連合に入れない。そこで、各連合国に戦争を仕掛けて奪うことを考えた。子供達を順次「征伐軍」(何を根拠にした征伐かは知れないが)四道将軍などと称して、他の経済国家に侵略戦争を仕掛け、支配圏を広げたのだ。

 私にはこのように見える。このように考えられるのです。
日本の歴史を美化したり、神話化したり、したとしても、真実は隠せない。あり得もしない御伽噺を並べても私は納得できない。
 戦前には、九州の人々に対しての差別の教育。東北地方の人々に対する差別を教える教育が成されており、間違った考えを相手の立場にも立たずに押し付けるのはよくないことだと現代の日本人なら、誰だもわかることである。これは、青森県の博物館を巡ったとき、私たち畿内の人間は、東北地方の人々を今もなお蝦夷と見下しているだろうといった発言が、博物館関係者からの第一声に真面目に語られたことが何よりも心に響いている。

 纏向遺跡の成立

 突然出現した纏向遺跡は誰が造ったのかということだが、それは、伊都国の東征ではないだろうか。(nhk邪馬台国サミット参考)
以前も調べて記述したが、小さな弥生集落しかなかった湿地帯に、突如水路を掘り、地割し、排水して都市を建設した。
大きな経済力と高度な土木技術がなければできないことだ。
 伊都国は北部九州の盟主的存在で、漢の力を背景とした先進国だったが、漢が滅亡し力を失い東征したのではないかとされる。。
そしてその後、同じように九州からさみだれ的に東征した諸氏族が幾つかあり、戦乱や対立の無い奈良盆地南部の湿地を開発して水路型政治都市を建設し、平和的な巨大経済圏の中心都市とした。
 この時代には魏志倭人伝にも書かれたとおり、道路が未発達で、交通は水路が主だったため、水路型都市が建設された。
水路は交通以外に、水源であり、ごみや糞尿の処理施設だった。以後の奈良盆地の都がたびたび遷都されるのは、この機能が満杯になったためであるといわれる。

 卑弥呼と邪馬台国

 邪馬台国の卑弥呼は、突如出現したスーパー巫女・予言者であるが、当時最先端の鬼道を修得した高学歴の女性は伊都国の王族ではないかと言われている。また邪馬台国は北部九州連合に所属する連合国家に囲まれた宗教政治集落で、連合国に囲まれた中にあり、吉野ケ里のような巨大経済力を持った大集落である必要はなかった。
 この中で、卑弥呼はどのような託宣が連合を安定させるかを考えながら占いを行ったのだ。ただ、このような巫女はヤマタイの卑弥呼だけではなく、沢山いたのだと思われる。例えば、纏向から拝領に発掘された桃の種は、同じような祈祷や占いが各地で行われていたことを示している。
ただ、この頃の桃や梨は食べられたものではなく、現代人の思い描くものではなかった。桃太郎噺の桃は何も知らない現代人が描く絵である。

 連合国家邪馬台国は台与の死で崩壊したが、やがて対立国家狗奴国が東征したため、北部九州は安定を取り戻したかもしれない。
 では、ナガスネヒコは誰なのかは、伊都国の末裔だったのかもしれない。

 と、考えている。
 
 


 400新発見考古速報


出品遺跡 稚児野遺跡 (京都府福知山市)
史跡取掛西貝塚 (千葉県船橋市)
宿戸遺跡 (岩手県洋野町)
東小田峯遺跡 (福岡県筑前町)
中尾遺跡 (鳥取県倉吉市)
猪ノ鼻(1)遺跡 (青森県七戸町)
両迫間日渡遺跡 (熊本県玉名市)
金井下新田遺跡 (群馬県渋川市)
鹿島沢古墳 (青森県八戸市)
尾羽廃寺跡 (静岡県静岡市)
栢ノ木遺跡 (京都府井手町)
新宮下本町遺跡 (和歌山県新宮市)
史跡橋野高炉跡 (岩手県釜石市)
史跡旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡 (東京都港区

 年表(※この年表は最新の考古情報に基づいて作られています)
  旧石器~縄文   弥生~古代 平安~江戸     

  旧石器~縄文
 旧石器~縄文  年代 北海道 本州・四国・九州 沖縄 展示品を中心とした主な出来事 新発見考古速報の遺跡
BC32000
(BC36000)
 
BC11000
(BC1300)
 
 
BC5000
BC3000
BC2000
BC1000
BC300


後期




大陸から現生人類が日本列島に渡り、居住を始める
ナイフ形石器や槍先が尖頭器が使われる
細石器が使われる
土器が使われ始め、定住が始まる
気候温暖化により海面上昇(縄文海進)
貝塚が形成され、大規模集落が出現
日本列島全体で貝塚が広く分布する
土偶や石棒を用いた祭祀が行われる。
東日本で環状集落が多く営まれる
北海道南西部・東北地方で亀ヶ岡文化が栄える
 九州北部で水稲耕作が始まる
稚児野遺跡
史跡 取掛西貝塚
宿戸遺跡
 
 縄


草創期
 
早期
 
前期
中期
後期
 
晩期(弥生早期)

 弥生~古代
  弥生~古代 年代 北海道 本州・四国・九州 沖縄 展示品を中心とした主な出来事 新発見考古速報の遺跡
BC1000
BC300
(BC800)
 
AD1
300 
400
500
600
700
 
800
縄文晩期
(弥生早期)


北海道南西部・東北地方で亀ヶ岡文化が栄える
九州北部で水稲耕作が始まる
東北北部に水稲耕作が伝わる
銅鐸など青銅器祭祀が行われる
57奴国王後漢から「漢委奴国王」印綬
239邪馬台国の卑弥呼魏に遣使
前方後円墳の築造始まる
 
倭の五王、中国に遣使
人物埴輪を中心とした埴輪祭祀盛ん
横穴式石室が造られる
各地で群集墳造営盛ん
592推古天皇即位、飛鳥遷都
630最初の遣唐使
646大化の改新、律令国家の礎を築く
 
701大宝律令制定される
710平城京遷都
741聖武天皇国分寺建立の詔を発布
 
794平安京遷都
894遣唐使廃止
東小田峯遺跡
中尾遺跡
猪ノ鼻(1)遺跡
 
両迫間日渡遺跡
金井下新田遺跡
 
鹿沢古墳
尾羽廃寺跡
 
 栢ノ木遺跡




弥生前期
 中期
後期
古墳前期
 中期
後期






 飛鳥時代
奈良時代

 平安~江戸
平安~江戸  年代 北海道 本州・四国・九州 沖縄 展示品を中心とした主な出来事 新発見考古速報の遺跡
800
1000
1200
1400
1500
1600
1800








平安時代







794平安京遷都
894遣唐使廃止
 
1192源頼朝、征夷大将軍となる
1338足利尊氏、室町幕府を開く
1467応仁の乱が起こる
1590豊臣秀吉、全国を統一する
1603徳川家康、江戸幕府を開く
1868明治維新
栢ノ木遺跡
 
 
新宮下本町遺跡
史跡 橋野高炉跡
史跡 旧新橋停車場
 鎌倉時代
南北朝時代
室町時代
戦国時代
安土桃山時代
 江戸時代
 


 展示室内
 


 410旧石器時代 38,000~15,000



■概要:
 現在の証拠が示しているのは、この列島に置けるホモ・サピエンスの歴史が、約38,000年前の後期旧石器時代に始まったということです。
その後、人類は簡素なテントや岩陰で生活しながら、採食や狩猟を行ったと考えられています。
地域毎に使用される石器が異なり、人々はそれぞれの環境に適応した生活を送っていたと考えられます。

■展示遺跡:
 京都府の稚児野遺跡は、約3万6千年前の遺跡です。(京都府福知山市夜久野町井田児野/稚児野

 遺跡は直径数メートルの円形で、主に石器が出土しました。旧石器時代の人々が棲んでいた集落の跡と考えられています。
石器の石材は、奈良県と大阪府の間にある二上山と、島根県隠岐諸島産のもので、旧石器時代の人々の広範囲な移動を示す重要な証拠となっています。

概要、展示遺跡

 411稚児野遺跡  石を割る 広場囲んで ひたすらに
   後期旧石器時代前半 約3万6000年前 
   特徴:石器ブロック、旧石器時代の石器製作跡

どんな遺跡かな
稚児野遺跡は約3万6千年前の旧石器時代の ムラまたはキャンプ跡と考えられる遺跡です。
兵庫県との境界に近い京都府北西部の丹波山地にあり、合流する2つの河川により形成された小高い丘(河岸段丘)上に立地しています。

稚児野遺跡 どんな遺跡かな ※下に出。
稚児野遺跡は、氷上回廊を回遊する動物のルート上にあったのかもしれない。

くわしくみてみよう
石器ブロックと呼ばれる石器の集中箇所が広場を取り囲むように円環状にまとまって見つかりました。
これは後期旧石器時代のうちでも前半期のみに認められる「環状ブロック群」と呼ばれるもので、近畿での確認は2例目です。(板井寺ケ谷遺跡)篠山市

くわしくみてみよう
出土した石器には、ナイフ形石器や、削器、掻器、刃部磨製石斧があり、それらの石材は奈良県と大阪府の境にある。二上山のサヌカイトや島根県隠岐島産の黒曜石を用いています。旧石器時代の人々の広域的な移動を考える上で重要です。

くわしくみてみよう 環状ブロック群 遺跡全体図
サヌカイト、チャート、シルトのブロック
特定の石材にこだわらず、入手できた物で石器を作っていた。
二上山の讃岐石、
加古川のチャート
泥岩は加工簡単すぐ壊れる、その辺に落ちている石。よほど入手に困ったようだ。
くわしくみてみよう 石材搬入経路
隠岐・二上山は遠い。
加古川は氷上回廊の南端。比較的近隣。
氷上回廊は動物の回遊ルートだったかも
 413
環状ブロック群の分布と稚児野遺跡
 環状ブロック群は後期旧石器時代前半期(約3万5千~3万年前)に盛行する集落形態の一つです。
複数の石器製作跡(ブロック)が中央の空閑地を囲むように円形に配置されており、おそらくその背後に、テントのような居住空間があったと推定されています。

 現在全国で134箇所確認されており、分布の中心は関東にあります。
面白いのはその多くで刃部磨製石斧が出土していることで、両者の間に深い関わりがあったようです。
稚児野遺跡は西日本では貴重な事例といえます。

※「環状ブロック群」「陥穴」「刃部磨製石斧」は日本の旧石器時代の3大特徴のひとつです。

※環状ブロックはテントではなく、毛皮や編み物などで石器製作場所を腰高に囲った作業場だと思います。
石器片は安全靴を履いていない旧石器人には超危険物。足を切ったら致命的。破傷風で死ぬ恐れ。剥片が飛び散らないように囲った。
そして、そのまま囲いをはずさず、そのままにした。
毛皮テントで上まで覆うと真っ暗で仕事ができない。きっと、腰高の囲いでしょう。

環状ブロック群の分布
後期旧石器時代前半期
約3.5万~3万年前
東日本 関東・東海・北陸・近畿
関東以西

※石器ブロックは関東・中部高地に集中している。これは、発掘の頻度によるのではないか。元々先史人口密度は東高西低。
 加えて開発と発掘の頻度が関東・中央高地に高く、遺跡保存への関心もその地域が高かったためではないかと感じる。


 415刃部磨製石斧 画像
刃部磨製石斧
石材名不明
 417原石と石器
チャート原石
サヌカイト?
横長剥片
(瀬戸内技法)
剥片 剥片(黒曜石)
環状ブロック群における示準.的な石器器種は,

台形様石器, ②石刃製か剥片製の基部加工石器,(尖頭器)
ナイフ形石器, ④局部磨製石斧である。
 引用「後期旧石器時代前半期における 環状ブロック群の多様性と現代人の拡散」/明治大学
掻器
皮なめし(脂肪掻き?)
削器
切る・削る道具
ナイフ形石器
国府型ナイフ形石器

ナイフ・尖頭器

※旧石器時代後期前半の環状ブロックが京都府で発見されたことから、関東から南下した集団かと思ったが、
瀬戸内技法の横長剥片を使用していたことから、西からやって来た人々だとわかりました。

 


 500縄文時代 15,000BP~2,800BP

■概要:
 土器の利用が始まり、この時期に日本列島各地で個性豊かな装飾性の高い土器(縄文土器)が作られるようになります。
人々は竪穴住居で定住または半定住の生活を送り、狩猟、採集、漁撈を行っていました。
 これらの社会は基本的に平等主義であり、人々に順位はありません。
彼らは土偶などの豊かな精神文化を持っていました。
男根石をはじめ、祈りに使われる石器、耳飾り、ペンダントなどのアクセサリーも多数あります。

■展示遺跡:
 千葉県鳥掛西貝塚縄文草創期から縄文前期にかけて栄えた集落の痕跡です。(船橋市飯山満町1丁目から米ケ崎町)
 縄文前期の貝殻層からは、クルミなどの木の実、ミズキなどの果実類大豆や小豆などの豆類のほか、魚介類、哺乳類、鳥類など多種多様な動物の遺存体が確認されています。
 貯蔵食品を食害する害虫であるトウモロコシゾウムシの食痕も確認されており、人々は一定の期間、一定の集落で生活していたと推測されます。

 岩手県宿戸遺跡縄文時代前期から中期末期の遺跡です。(岩手県九戸郡洋野町種市第6地割地内)  石斧製作遺跡
 遺跡からは未完成品を含む多数の磨製石斧が出土しており、この地で石斧づくりが盛んに行われていたことがうかがえます。
遺跡とその周辺で生産された石斧は近隣地域に供給されると同時に、遠く離れた地域から多くの残骸が持ち込まれました。
 北海道をはじめとする地域間での交流が活発に行われていた事を示す有力な証拠となっています。

概要、展示遺跡


 510取掛西貝塚(とりかけにしかいづか) 船橋市飯山満町1丁目から米ケ崎町
   定住だ コクゾウムシと シカ、タヌキ
   縄文時代早期前葉~前期前半 約1万~6000年前

どんな遺跡かな
東京湾に面した下総台地上に位置する縄文時代早期前葉と前期前半の貝塚を伴う集落です。
早期前葉(約1万年前)の貝塚は全国的にも希少で、縄文時代の貝塚が数多く集まる東京湾東岸部でも最古のものです。

取掛西貝塚 早期の竪穴建物に堆積する貝層
 511
くわしくみてみよう
貝塚からは二枚貝のヤマトシジミをはじめ、コイ科やクロダイ、イワシ等の魚類、イノシシやシカ、タヌキ等の哺乳類、キジやカモ等の鳥類と、多種多様な動物骨が出土しました。1万年前の食生活と周辺環境を知ることができる貴重な資料です。

※淡水産貝と淡水大型魚のコイ。海産のクロダイとイワシ(釣り漁と網漁)、イノシシ・シカ(陥穴or狩猟)、タヌキ(落とし罠猟)、キジ・カモ(専用の弓矢)など、多種多様な道具や狩猟法を用いていたようです。特に鳥猟では、群れ飛ぶ鳥に向けて矢を放ち、先端が当らずとも、矢柄の中間に逆向きの刃部があり、落ちるときに他の鳥を引っかける道具をどこかの博物館で見ました。モヨロ貝塚館だったかな。

くわしくみてみよう
竪穴建物一棟から、イノシシとシカの頭蓋骨を並べ、その場で火を焚いた跡が見つかりました。
イノシシ3頭分の頭蓋骨が軸を揃えて互い違いに、シカ1頭分がそれらと直交する向きに並べられており、縄文人の儀礼や精神文化を考える上で貴重な発見です。
※イノシシ3頭とシカ1頭が獲れて、その送りの儀式をしたという意味かな。
そのほかにも鹿・猪の頭骨があちこちで、ひっくり返らずに置かれているのは、それぞれ、送りをした跡なのだろうか。

くわしくみてみよう
竪穴建物に堆積した貝塚の断面
取掛西貝塚と東京湾
くわしくみてみよう
集中して見つかった動物骨
 513土器・石器
石鏃 石斧

 スタンプ形石器
 ※説明なしだが 、スタンプ形石器『使用痕から調理道具の仲間』。出土地域・時期が限られる希少品。となっている。
  食物を磨り潰す道具か、もしかすると、乾燥時にクシャクシャになった鹿皮を伸ばして修正する道具だったのかも知れない。
スタンプ形石器


 骨角器
骨角器
刺突具・髪針・針
刺突具

髪針
※縫い針の使い方考
針穴に通したのは、植物繊維の糸?動物繊維の腱?
針は穴を開ける道具ではなく、
石錐で開けた穴に糸を通すためだけの道具。

 貝製品・歯牙製品
貝製品
貝類現生資料(メダカラ)
タカラガイ類製装飾品
ヤマトシジミ穿孔品
歯牙製装飾品(サメ) 
 歯牙製装飾品(サメ) ヤマトシジミ穿孔品 
説明なし
タカラガイ類製装飾品  貝類現生資料
(メダカラ)タカラガイ科 

※サメの歯の垂飾
 サメの歯を穿孔した垂飾はよく見かけます。硬い歯牙に石錐で穴を開けると手は血だらけになるでしょう。それに滑るしねェ。

※ヤマトシジミ穿孔品 
  シジミの殻を煮沸した後に取り出して穿孔し、首飾りにしたのでしょうか。
 しかし、シジミの殻は乾くと白っぽくて装飾品にはなりません。せいぜいニワトリの餌です。だのになぜ穿孔したのでしょう。
  漁民は貝の採取には目の粗い竹製品などで砂ごとすくって水中でゆすって貝採取する。その時、死貝と生貝を選別する。

 更にこの時に、殻の根元に穴のあるカラっぽの貝殻を選んで採取したのではないでしょう。
  その貝殻は、ツメタガイの食害に遭った貝です。巻貝のツメタガイは二枚貝を捕獲して溶かして穿孔し、中身を食べます。
 殻の外側を溶かすためにツルツルのピカピカになります。人が手で磨くよりはるかに効率的にピカリます。
 その貝殻を集めて首飾りにしたのではないでしょうか。

  タカラガイの殻は、磨かなくてもピカピカです。ただ、なぜ穴の位置が規格化されていないのか不思議です。やはり装飾品かな。
 どんな用途なのでしょうか、それとも用途はなかったのでしょうか。 


 貝製品
貝製品
貝類現生資料(ツノガイ)
ツノガイ類製装飾品(小玉状)
ツノガイ類製装飾品(管状)
貝類現生資料
(ツノガイ)
ツノガイ類製装飾品
(小玉状)

ツノガイの輪切り
※平玉状で墓の副葬品、死出の首飾りに似ている
ツノガイ類製装飾品
(管状)

管状ツノガイの接続部にクッションを入れて再現している。
丸玉の代用だが、ここでは丸玉が出土していない。
ツノガイの管玉とヤマトシジミの穿孔品を組み合わせたらと思いましたが、二枚貝がバラバラに開いて痛いでしょう。ね。(笑)


炭化ミズキ核
炭化オニグルミ核 
炭化ミズキ核  炭化オニグルミ核       
石皿 石皿 ※割れた石皿。
女性の埋葬のために割られたのかもしれません。
 515
 
 530
 531縄文土器
平坂式、天矢場式 平坂式土器
平坂貝塚の無文土器
早期初頭
天矢場式土器
天矢場遺跡の土器。器面にある擦過痕が特徴(擦過痕は見えない)
早期末葉~
稲荷原式、花輪台式 稲荷原式土器 早期
 撚糸文系土器
花輪台式土器
 早期中葉の花輪台式土器は撚糸文、羽状縄文と無文、凹線文の尖底深鉢で、Ⅰ式とⅡ式に分類されている。コトバ
 533
縄文土器 大浦山式
早期前葉

撚糸文系土器
東山式
前期終盤

撚糸文系土器
東山式
早期前葉終盤
井草式
早期前半

口縁部が外反した丸底深鉢土器。撚糸文を土器の縁から全面に付けるのが大きな特徴です。
東山式

 535コクゾウムシ圧痕
土器表面の小さな穴にシリコンを注入して型を取り観察したところ、コクゾウムシである事が判明しました。
左が型取りしたシリコン、右がその電子顕微鏡画像です。

 ※コクゾウムシとは
コクゾウムシは、コウチュウ目・オサゾウムシ科のゾウムシの一種。世界各地に生息するイネ科穀物の有名な害虫で、和名もそれを表したものである。また、日本では縄文時代後期の土器圧痕からの検出例があるなど穀物栽培の開始と同時に見られるとして、稲作とともに渡来したとするのが定説であったが、これを覆すとされる発見がなされている。 ウィキペディア

※考察 コクゾウムシ
 以前、某局の考古学番組で、コクゾウムシは自力では飛べないので、人や動物と共に移動したと公言していた。
ネット検索すると、飛べる種と飛べない種があることが分かった。
 私は以前、ダイエットのために随分長く米食をやめていたことがある。
塩ビの密閉式米櫃の米はそのままにしていた。ある日米櫃を開けるとコクゾウムシが大発生していた。
これは初めから米の中にコクゾウムシが入っていて、半年間に掻い出して増殖したと思っていました。周辺にはコクゾウムシが這い入る環境もなく、しかも密閉容器です。 飛来したか、初めから入っていたかは、米屋さんに聞いてみないとわからない。道端に生えるイネ科植物の実をコクゾウムシが食べて自然繁殖しているのだろうか。

 問題は、縄文人はどのような穀物を採取・貯蔵していたために土器表面に圧着するほど大繁殖したのだろうかということだ。
縄文農耕は否定されているので、麦や陸稲などはないはず。しかも縄文早期の段階である。縄文海進で温暖化した千葉県で、野生植物に野生コクゾウムシが大繁殖する。考えられない話である。イネ科の雑草は脱穀できるほどの種実はないし、竹の花が実を付けると雀が大繁殖すると言われるが、これは60年に一度のことで、たまたま、この土器が作られた年に雑穀が大豊作だったのだろうか。

 コクゾウムシは雑穀を食べる、米・麦・ヒエと思い込んでいたが、コクゾウの圧痕と共に大豆が出土していた。野生の大豆である。(蛋白質)
コクゾウは大豆にも食害するので、これを食べていたのかもしれない。だとすると、スズメノエンドウなどもイネ科雑草よりも実が大きい。(澱粉)
そして何よりも、炭化ミズキが出土している。ミズキの実は澱粉質であるらしく、これでパンを作る実験がされていた

 そして、この遺跡での出土は報告されていないが、何よりも、ドングリ、クリなどの堅果類もコクゾウの餌となるので、このような食糧を蓄えていた縄文人は、コクゾウムシだらけの食事をしていたのかもしれない。
 そういえば、あの頃、私は趣味の造形にドングリを拾ってきていた。ドングリの硬い殻には小さな穴があって、食害されていることが多々ある。
コクゾウムシ発生の原因は、出土しているミズキの実、油脂とタンパク質を主成分とするオニグルミなどの堅果類だったようだ。
だから、縄文人は、渋抜きと害虫駆除のためにドングリを水漬けにして保存していたのだ。

 コクゾウムシが稲作と共に大陸から持ち込まれたとする説が長く定説であった。しかし、現実には、太古の昔から、日本の堅果類にはコクゾウムシが穴を開け、増殖していたのだ。そんなことは誰でも知っているはずだが、一度、稲作と共にと強弁されると、反論できないのだろう。
そういえば、60万年前の石器が次々と、発見されたころの非科学的・非常識な行為も、長く『神の手』と言われて奉られていたからなぁ。

 コクゾウムシ圧痕 取掛貝塚 縄文早期前葉~前期前半 約1万~6000年前
コクゾウムシ圧痕 この頃には、
ドングリや
野生大豆を
食べていたようだ。
  ダイズ属種子圧痕         
コクゾウムシ属甲虫圧痕

 540獣頭骨の祭祀跡

※考察 縄文早・前期の祭祀跡
 猪や鹿の頭骨を燃やして送りをしたのだろうか。猟の豊穣を願ったのか。
 周囲に転がる頭骨は以前の送りの痕跡だろうか。
 猪猟には猟犬が必須だが犬骨の出土がなく、猪や鹿は陥穴や罠猟が主だったのだろうか。
 しかし、千葉県の他の加曽利貝塚からは葬られたイヌの骨も出土しているが。

シカ角(成獣)
イノシシ骨の配置
シカ頭蓋骨
(成獣・後頭部)
イノシシ頭蓋骨
(成獣)
イノシシ頭蓋骨
(幼獣)
イノシシ頭蓋骨
(成獣・オス)
 

 550宿戸遺跡(しゅくのへいせき) 岩手県九戸郡洋野町種市第6地割字宿戸

   斧斧斧斧斧 海を眺めて コツコツと
  縄文時代早期中葉~前期前半 約95000~6000年前

どんな遺跡かな?
三陸沿岸部の最北端にあたる岩手県羊野町に所在する縄文時代早期中葉~前期初頭の集落です。
遺跡の近くには砂浜があり、岩礁性の海岸が多い三陸沿岸部では、例外的に海との行き来が容易な場所に立地しています。

宿戸遺跡 遺跡遠景

 551
くわしくみてみよう
 約9200年前に、現在の十和田湖近くで発生した噴火で降り積もった火山灰が確認されています。
この火山灰を手がかりに竪穴建物の分布の変遷を調べると、
噴火前の早期中葉の竪穴建物は遺跡中央に多く、 (9200年より前)
噴火後の前期前葉になると、そこからさらに南側へ移り変わる様子が確認されました。(前期7000年前以降)

9200年前の十和田湖付近の噴火はネット検索に掛かりませんでしたが、十和田カルデラ付近ではたびたび中小の噴火を繰り返しており、周辺に降灰したのでしょう。
※(早期1万1500~7000年前)(前期7000~5500年前) なので、9200年より前と7000年前以降の比較。って、簡単に言うけれど、
おそらく、9200年前以前と以後の短い期を比較していると思います

くわしくみてみよう 遺跡全体図


くわしくみてみよう
 2000点以上に及ぶ石斧やその未成品が出土しており、集落では盛んに石斧作りが行われていたようです。
 また、遠隔地で取れる石材で作られた装飾品や北海道糠平産のアオトラ石を加工して作られた磨製石斧も出土しており、
海を介した地域間交流の様子も伺えます。
※まづ、こんなに古い遺跡から大量の出土があったことに驚きます。

アオトラ石を加工した長大な石斧は青森県から新潟県の沿岸部や、陸路で運ばれた内陸部からも出土する。
三陸海岸の断崖に位置する宿戸へは直接海路で、海路と陸路で、のいずれで運ばれたのだろうか。

北海道沙流川を川船で下り平取まで。そこから外洋航海舟で太平洋岸を西へ。室蘭から鹿部町へ噴火湾を横断
恵山岬から松前町方面へ。そこから竜飛崎を目指すか大間町を目指して八戸まで海流に乗るか。
帰路は尻屋崎から反流に乗るように必死で漕ぐと平取に変えることができる。

 すると宿戸遺跡までは、海路で行くことができる。ただし、船の重しである高価なアオトラ石と、引き換えに何を交易したのだろう。
アイヌの交易船は新潟県まで南下しており、また、のちには北海道の二倍ほど長いサハリン島を北上してアムール河口へ。
また、カムチャッカ半島まで漕ぎだしている。

宿戸遺跡の位置
 
 560石製品 宿戸遺跡 早期中葉~前期前葉
 561

※展示は左←右へ流れています
尖頭器
石鏃
石匙

 562アオトラ石
 青みがかった縞状の模様を特徴とする緑色岩のことで、北海道額平川流域一部で産出します。
緻密で硬く、しかも粘りが強い、石斧に適した石材です。
 縄文時代にはアオトラ石製石斧が東北の広い範囲に流通し、宿戸遺跡でも19点見つかっています。(石斧全体の1%)。
地元産石材(花崗閃緑岩等)の石斧は、ほとんどが壊れたら捨てられていますが、アオトラ石製の石斧は何度も加工を繰り返し小さくなっても使用されていることから、貴重品として大切にされたことが伺えます。

※北海道からのアイヌの舟は八戸までは来ていたので、南方15kmの宿戸遺跡は海岸に砂浜があり、海路で繋がっていたようです。

アオトラ石製石斧 アオトラ石

 563石斧
砂岩、ヒン岩
石斧
討ち割りによる成形
 564
砥石
敲石
成形加工に使用
線刻石製品 なんだろうこれは、呪術用品かな、護符かな。
精霊の姿かな。
 

 566石斧の製造
⑤磨製石斧
完成品

叩打によって縁を成形

細粒花崗閃緑岩
②加工
右面は加工された面
左面は原礫面
➀討ち割りによる成形
材料を打ち割った段階
②左面は未加工・原礫面 ②真ん中から見る
 

 568玦状耳飾り
玦状耳飾り

 石製垂飾品
石製垂飾品
 

 570縄文土器
 ※長七谷地貝塚  小田内沼Ⅰ群土器
 ※土器型式の詳細は不明
縄文土器 長七谷地Ⅲ群土器
前期初期
長七谷地貝塚
長七谷地Ⅲ群
小田内沼Ⅰ群
早期
小田内沼遺跡

北海道系土器の南下
小田内沼Ⅰ群 小田内沼Ⅰ群
 


 600弥生時代 2,800 BP~1750 BP

■概要:
 水稲栽培は、中国大陸・朝鮮半島から列島に組織的に伝わり、青銅や鉄などの金属製の道具が使用されるようになりました。
人々は素焼きの弥生土器を使い、鐘や剣、槍などの青銅器を象徴とする祭祀を行っていました。
この時点で各地の社会統合が始まり、社会の階層化が進む。
 米の栽培は北の北海道にも南の沖縄にも及んでいませんが、この両極端な地域には以前の文化につながる文化がありました。
北海道では続縄文時代、沖縄では貝塚時代と呼ばれています。

■展示遺跡:
 福岡県東小田峰遺跡弥生時代前期から中期の集落と墳墓群からなる。(福岡県朝倉郡筑前町東小田) 弥生前期~中期
10号甕棺墓の副葬品は豪華で、『クニ』に相当する大規模な集落が管理していたことを示している。
遺跡では、青銅器の鋳造が確認されており、玄界灘沿岸の遺跡に匹敵する先進的な集落であった事がわかります。

 鳥取県の中尾遺跡では、弥生時代中期の焼失した竪穴住居跡から完全な鉄槍1本と鉄斧2本が出土した。(鳥取県倉吉市大谷) 弥生中期 巨大鉄鉾
鉄の槍は朝鮮半島で作られました。
鉄斧の一つは朝鮮半島の鋳鉄斧、もう一つは中国の鋳鉄斧です。
竪穴住居に保管されていた鉄槍・鉄斧の例は、国内に例がなく、鉄器具の流通経路や使用方法を知るうえで重要な遺物となっています。

概要、展示遺跡


 610東小田峯遺跡 福岡県朝倉郡筑前町東小田  王墓級遺跡
    内陸の クニに伝わる 最先端
   弥生時代前期~中期 約2400~2000年前

どんな遺跡かな
弥生時代前期から中期を中心とする集落と墳墓の複合遺跡です。
10号甕棺墓の副葬品は王墓に類似する内容であり、また青銅器の鋳造を行ううなど、「クニ」に匹敵する大規模かつ先進的な集落であった事が窺えます。

遺跡全景
遺跡の位置
 611
くわしくみてみよう
10号甕棺墓には、前漢鏡2面(内行花文青白鏡内行花文日光鏡)鉄戈1本鉄剣1本鉄鑷子(ちょうし=毛抜き)1点ガラス璧再加工円盤2点などが副葬されていました。埋葬されたのは、この集落で最も有力な人物であったと考えられます。

くわしくみてみよう
墳丘墓や祭祀土坑から大量の丹塗り黒漆土器が出土しています。
これらの土器は様々な儀礼に使用された「マツリの土器」と考えられています。
これらの土器の製作遺構は未確認ですが、近隣で製作されたと推測しています。

くわしくみてみよう 10号甕棺墓 くわしくみてみよう 遺構配置図 1号墳丘墓土器出土状況
11号竪穴建物土器出土状況

 620弥生土器
 621
黒塗 直口壺 小壺 鋤先状口縁
鋤先状口縁は不明
樽形土器
 6231丹塗り土器 (墓前祭祀の土器)
丹塗り弥生土器 袋状口縁
樽形土器 無頸壺
袋状口縁壺、直口壺
 625
甕 高坏 注口土器 高坏、注口土器
 630
甕×2 高坏×2
高坏、注口土器
高坏×3 高坏×3 筒形器台
 645
細形銅剣
石製銅戈鋳型
湯口(溶融銅の流し口)
土製銅矛鋳型の中子
 

 650中尾遺跡 鳥取県倉吉市大谷
     鉄鉾と 鉄斧がムラに やってきた
   弥生時代中期後葉~古墳時代前期 約2000年前  大きな鉄鉾の出土

どんな遺跡かな
弥生時代中期から古墳時代前期の竪穴建物11棟や、古墳時代中期から後期の古墳25基などを検出しました。
中でも注目されるのは、焼失した弥生時代中期の竪穴建物から完形鉄鉾1点鉄斧2点が出土したことです。

中尾遺跡
どんな遺跡かな   遺跡全体図 焼け落ちた竪穴建物
(西半分) 
     
 651
くわしくみてみよう
鉄器が出土した竪穴建物は、直径約7.5mの円形で、当時の竪穴建物としてはやや大型です。
炭化した骨組みと屋根材が残っており、屋根を支える柱穴が6基確認されるなど、建物の上部構造を推定することもできます。

くわしくみてみよう
 3点の鉄器は、いずれも焼け崩れた梁や屋根の下から見つかりました。
鉄鉾は柱の根元に突き立てられていたとみられ、
板状鉄斧も同じ柱の根元に刃を上に向け突き刺さっていました。
中尾遺跡のように竪穴建物から鉄鉾や鉄斧が揃って見つかった例は国内では他にありません。

くわしくみてみよう
鉄器が出土した竪穴建物全体図
炭化した屋根材
くわしくみてみよう 鉄鉾・鉄斧出土状況
 653
鉄斧
板状鉄斧、鋳造鉄斧
鉄鉾
鉄鉾の展示は中止
砥石


 
 670中尾遺跡
 古きを守る新しきわざ
サビとの闘い
金属は放置すると安定しようとしてサビが進みます。
そこで、一般的な鉄製品では脱塩処理(資料中の塩化物イオン等の除去)により、資料の中にあるサビの要因を除くとともに、合成樹脂によるコーティングを行い、サビを進行させる要素(水分や酸素)を遮断します。

有機質情報を残す
鉄鉾の表面を観察すると、布の折り目の痕跡が確認でき、布に巻かれて埋納されたと推定されます。
本来あったであろうこうした情報を取り出す事は、考古学研究に有益であると考えられており、保存修理の際には、最新の研究動向へ応え、積極的に情報提供することも求められます。

資料に合わせた修理
有機質が多く残っていたため、筆やメスなどで細かいクリーニングを行いました。
また鋳造品は、水分や温湿度の影響を受けやすく、脱塩処理により崩壊するリスクが知られているため、鋳造鉄斧では、脱塩処理は行いませんでした。
資料に合わせた修理方法の適切な選択が求められるのです。

X線の力
X線画像から、鋳造鉄斧の内部に何かが入っていることがわかりました。X線CTによりさらに詳しく調べると、それは棒状の鉄製品であることがわかりました。
用途までは明らかにすることはできませんでしたが、X線の力によって肉眼では不可能な検討を加えることができた事例です。

サビとの闘い
有機質情報を残す
資料に合わせた修理
X線の力
 


 700古墳時代 1,750 BP~1400 BP

■概要:
 社会の階層化がさらに進み、近畿地方を中心とした広域にわたる国家体制が形成される。
各地の首長のために多くの古墳が築造されています。これらの古墳には、青銅の鏡や鉄の武器など、多くの副葬品や装飾品が納められています。
古墳の上や周囲には、さまざまなのものを表現した素焼きの埴輪が並べられています。
 この段階では、初期状態の形成まで進みます。(?)
 古墳文化は東北北部や北海道、南の島々までは及ばず、それぞれの文化が発展し続けました。

■展示遺跡:
 青森県猪ノ鼻遺跡(1)からは古墳時代後期の竪穴墓6基が発見された。(青森県上北郡七戸町字猪ノ鼻地内) 古墳後期
竪穴墓群には続縄文文化の特徴と、続縄文文化と古墳文化が混在する特徴がみられることから、この地域は北海道以南の続縄文文化と東北南部以北の古墳文化が複雑に絡み合った地域であったことが知られている。

 熊本県の両迫間日渡遺跡、古墳時代中期の3つの祭祀場跡が見つかった。 (熊本県玉名市両迫間日渡)
祭祀に用いられる品物は、時代ごとに変化するが、その残骸型のものと共にクスノキの大木の根元から発見された。
古墳時代の祭祀の様子とその変化を示す好例である。

 群馬県の金井下新田遺跡では、(群馬県渋川市金井1837)
6世紀初頭の榛名山の噴火による火山灰や火砕流堆積物に埋もれた古墳時代後期の集落跡が発見された。
約54mの空間を藤柵で囲まれた曲輪跡とその中の建物、柱、円形遺構などが発見された。
古墳時代の集落の様子や首長の砕いてきな身長を知るうえで貴重な手がかりとなるっ。


概要、展示遺跡


 710猪ノ鼻(1)遺跡 青森県上北郡七戸町字猪ノ鼻地内

     北の地に はるばる来たか 古墳人
   古墳時代前期 3世紀後半~4世紀   北海道続縄文文化と、東北地方南部の古墳文化が混交する遺跡

どんな遺跡かな
 古墳時代前期(3世紀後半から4世紀)の土壙墓が6基見つかりました。
北東北の古墳時代の始まりは不明な点が多いのですが、この遺跡の調査により、
北東北の太平洋側が、北海道から南下してきた「続縄文文化」と
南東北以南から北上してきた「古墳文化」が複雑に入り混じる地域だったことがわかってきました。

  猪ノ鼻(1)遺跡 
どんな遺跡かな  土壙墓群の全景     

 711
くわしくみてみよう
 土壙墓はいずれも平面は楕円形ですが、
続縄文文化に特有な「柱穴状ピット」と「袋状ピット」が付属する4基(A群)と、
それらの付属しない2基(B群)の2つのタイプに分かれます。

くわしくみてみよう
A群からは、続縄文土器や古式土師器、鉄製品、ガラス小玉が出土するなど、続縄文文化と古墳文化の両方の要素が認められます。
B群からは、古式土師器や玉類が出土するなど、古墳文化の要素が濃いことがわかります。

くわしくみてみよう A群・B群土壙墓の分布
くわしくみてみよう A群の土壙墓
続縄文土器の出土
B群の土壙墓
古式土師器・玉類出土

 721A群土壙墓 続縄文+古墳
A群土壙墓 方割石、剥片
方割石は葬送儀礼に用いた説と、皮革の柔軟化(黒曜石製掻器)に用いた説がある。
剥片

土器と墓制から見た北東北の続縄文文 化

 PDF
P34③石器について④黒曜石製石器について
を参照のこと。
北海道続縄文文化では方割石は出土しない。
北東北特有の加工具か
なぜ、黒曜石製石器とコンビ出土なのか
ガラス小玉
 
ガラス小玉       
石製品 メノウ小礫
上:不明副葬品
(褐鉄鋼か)
下:刀子   

下:刀子

 723続縄文土器
続縄文土器 注口土器
 724台付深鉢
台付深鉢
 725
台付深鉢 無文土器、台付深鉢
 727
二重口縁壺 二重口縁壺 複合口縁壺

 729B群土壙墓 古墳文化
B群土壙墓 管玉
(碧玉製・緑色凝灰岩製・滑石製)

丸玉(琥珀製)
古式土師器 高坏

 ※考察 二系統の土壙墓
「猪ノ鼻(1)遺跡」ではなぜ同一墓地内に続縄文系と古墳系の土壙墓が混在するのだろうか。また、その新旧は?を考えてみた。

 「平安時代の竪穴建物跡の下から、古墳時代前期の土坑墓が見つかりました。
土坑墓の中からは赤く塗られた高坏(脚のついた皿のような土器)の脚の部分が出土しました。
昨年度の調査では、この近くから同時期の土坑墓が4基見つかっており、古式土師器や続縄文土器が出土しました。」 引用「七戸町猪ノ鼻(1)遺跡」

 と、あり、平安時代には、古墳前期の墓地の上に、ムラが作られていた。
古墳時代前期には、東北南部の古墳人と、北海道から来た続縄文人が同じムラで同時期に共存していたようです。(土壙墓の新旧はなかった)

 弥生前期の終りには寒冷化で東北地方に入植していた弥生人が集落や耕作地を放棄して撤退した。そのあとに道南の続縄文人が入植した。
残留した弥生化縄文人は、失われていた縄文文化に逆戻りし、狩猟採集を生業とするようになり、天王山式土器を各地に残しながら彷徨した。
その後、弥生後期から温暖化し、東北地方以南から多くの入植者が北上した。

 やませの吹く寒冷な北東北太平洋岸には入植が遅れ、古墳前期に東北エミシが北上し、偶然、続縄文人のムラに遭遇し、同居するようになった。なぜか?
➀言葉が通じたのではないか。南に避難した東北アイヌの子孫だったからではないか。
②最新の農耕文化を持っていたために、新たな開墾をするよりも、既にある畑地に協力して新技術や新しい栽培種を植える方が何百倍も楽だった。
 こんな状況の中で、両者とも生活の基本は古墳文化。古墳文化と交易した。
しかし、そこに、葬送儀礼では、伝統的に続縄文土器を副葬する北海道アイヌの伝統が残っていたのかもしれない。

 

 730両迫間日渡遺跡(りょうはざまひわたし) 熊本県玉名市両迫間日渡

    巨樹の下 祈りを込めて 石並べ
   古墳時代中期 4世紀末~5世紀末  巨木祭祀の遺構

どんな遺跡かな
両迫間日渡遺跡は、熊本県北部の玉名平野の中央に位置する縄文時代から中世の遺跡です。中でも注目されるのが古墳時代中期の祭祀遺構を3箇所で検出したことで、これは古墳時代の祭祀の実態とその変遷を知る好例といえます。

※樹木下祭祀遺構(岩上・岩陰は大岩に神が降りると信じ、岩を依代に祭祀を行う。)(大樹に神が降りると考え大樹を依代にした祭祀)

両迫間日渡遺跡 どんな遺跡かな 遺跡遠景(南から)

※考察 両迫間日渡遺跡の立地と祭祀
 上の写真⑥によると、暴れ川・菊池川の中に大きく突き出した氾濫原の中に、かつては巨樹が立っており、現代であっても、なおさら大古代であれば、
水田や村の守り神に見えたのでしょう。
 先日TV放映された和歌山県の大水害でも一本の巨樹のある集落は深層崩壊の土砂崩れが起こらず、この巨樹が村を守っていると地元住民が語っていた。確かに「窓から見ていたら、隣の集落の、何十軒もの家が山頂から深層崩壊し、一瞬で押し流され百人もの人が死んだ」という現場を目撃すれば、そのようにも信じるだろう。
 古墳中期の樹木祭祀も4世紀末から5世紀末までの百年にわたって村と水田を守ってくれた神木と住民が信仰した巨木だったのだろう。
 その後、樹根と祭祀の共献遺物が流されずに埋もれた。
下の写真③に見るように、菊池川上流の開発が進むと、洪水が頻発し、土砂が堆積して河床が上昇し、祭祀遺構も埋設され、同時にムラや水田や、巨樹も流されるか、切り倒されたのだろう。

 731
くわしくみてみよう
祭祀遺構はクスノキの根本で見つかりました。
祭祀は場所を少しずつ変えながら、50年以上にわたって行われており、時期によって用いた道具が異なります。
4世紀末~5世紀前葉は土器のみですが、
5世紀前半~中葉には、それに土製模造品や玉類、石製模造品が加わり、
5世紀後半~末には、石製模造品の種類が増えます。

くわしくみてみよう  祭祀遺構検出状況と
遺物検出状況 
祭祀遺構B 
クスノキ樹木根
 祭祀遺構A
祭祀遺構C   

くわしくみてみよう
石製模造品を用いた祭祀は大和政権により創出されたと考えられており、その導入は玉名地域の首長と大和政権の関係が深まったことを示すと考えられます。一方で、わずかに場所を変えつつも、クスノキ周辺を祭祀の場とする伝統はそのまま継承されました。

くわしくみてみよう 祭祀遺構とクスノキの
樹木根

 733祭祀遺構B
祭祀遺構B
祭祀遺構B 管玉 土製勾玉 石製勾玉
有孔円盤
ガラス小玉
 735手づくね土器
手づくね土器 高坏・鉢・坏 土師器壺×3

 737祭祀遺構C
 玉類
玉類 石製勾玉 管玉 棗玉

 土製模造品
土製模造品 鏡 須恵器 坏蓋
 741
石製模造品 有孔円板 石製模造品 剣形(けんがた)
 743
甕・鉢・坏蓋 壺・甕・鉢
手づくね土器
甕・壺・坏

 

 750金井下新田遺跡 群馬県渋川市金井1837
   榛名山 馬飼いの子ら たわむれて
   古墳時代後期 6世紀初頭    榛名山の噴火鎮めの祭祀遺構

どんな遺跡かな
古墳時代、後期の集落遺跡で、6世紀初頭の榛名山噴火による火山灰火砕流によりムラがそのままパックされた状態で見つかりました。
榛名山北東麓の火山性扇状地端部に立地し、「甲(よろい)を着た古墳人」が発見された金井東裏遺跡の南側に隣接しています。

金井下新田遺跡
 751
くわしくみてみよう
火山灰に直接覆われた古墳時代後期の集落で最も注目されるのは、一辺約54mの平行四辺形の空間を高さ、3mの網代垣で囲んだ「囲い状遺構」です。
その内部には、竪穴建物掘立柱建物円形遺構などが計画的に配置されており、地域首長の拠点施設とみられます。

小型倭鏡出土状況
西区画の南西隅の網代囲いの柱のすぐ内側から出土、そのすぐ下に大形の剣形石製模造品2点が埋まっていた。
近くに掘立柱建物と土壇状り円形の高まりがあり、祭祀エリアと考えられる。

網代垣の出土状況 小型和鏡出土状況
小型和鏡と石製模造品
 751b豪族拠点
西区画と東区画の建物は
軸線をそろえ、「囲い状遺構」の東辺に直交する位置に配置されている。

➀西区画と東区画は最初はひと続きの敷地で、全体を網代垣で囲まれている。しかし、

②ピンクの西区画の掘立柱建物と、青の東区画の大型竪穴建物は軸線が同じで同時に建てた関連建物で、盾形石製模造品が置いてある。
③その後、二つの建物の間に垣根が作られて分離されている。
 752火砕流被害者
くわしくみてみよう
火山灰の上の面では、西から東へ移動する人と馬の足跡を上に検出しました。
噴火から逃れる人々が馬と共に東へ向かったことがわかります。
避難途中で凹地に落ち込み、火砕流に埋まってしまった。10歳前後の古墳人2人と仔馬を含む馬3頭も見つかりました。
火砕流に埋まった
子供1人と馬2頭
人の足跡と馬の蹄跡
 753石製模造品 網代垣内出土
石製模造品 臼玉 一連資料 臼玉・石製模造品 臼玉 石製品
臼玉・石製品

 755出土品

 剣形 石製模造品
小形 和鏡
囲い状遺構南西隅出土
剣形 石製模造品
小型和鏡の下から出土
石製模造品と小型和鏡 剣形 石製模造品
小型和鏡の下から出土

 小形 和鏡
小形 和鏡
囲い状遺構南西隅出土

 古墳人の首飾り
古墳人の首飾り
被災した子供が身に着けていた
子供を逃がすときに
災厄除けか、
親子がわかるためか、
一人になった時の財産として持たせたのか。

白鳳期の仏像に同様の首飾りが掛けられていた気がする。破魔。
 756
鉄鏃
囲い状遺構内大型竪穴建物の
周堤盛土下出土
盾形石製模造品
囲い状遺構南辺出土
鉄鏃
囲い状遺構内大型竪穴建物の周堤盛土下出土
鉄製鑷子
囲い状遺構内大型竪穴建物周堤盛土下出土
鉄製鉋(やりがんな)
囲い状遺構内大型竪穴建物の周堤盛土下出土
鉄製鉋(やりがんな)2
6区囲い状遺構内1号掘立柱建物建物出土
盾形石製模造品
囲い状遺構南辺出土

 祭祀遺構ABC出土品


 761祭祀遺構A
子持勾玉
祭祀遺構A出土

 祭祀遺構C
鉄斧・鉄鏃
祭祀遺構C出土
 763石製模造品 一括出土 祭祀遺構出土
石製模造品
祭祀遺構C出土
有孔方板、有孔円板 刀子形、勾玉形 半円形
短甲形
鎌形、剣形 斧形、鍬鋤形
  手づくね土器 脚台付坏 祭祀遺構C出土
手づくね土器 脚台付坏          
 
 770ロクロ土師器 高坏 祭祀遺構B出土
ロクロ土師器 高坏

 須恵器 高坏 祭祀遺構B出土
須恵器 高坏形器台
祭祀遺構B出土
須恵器 高坏形器台
祭祀遺構B出土
須恵器 高坏形器台
5区8号遺構出土
 


 800古代 1,400 BP~900 BP

■概要:
 この時代に日本という国家が登場する。
中国の隋・唐や朝鮮半島の百済・新羅から、律令・刑法・行政法・文書行政などの国家運営を学び、
飛鳥地方を中心とした中央集権的な国家が形成されました。
 飛鳥時代の藤原京から奈良時代の平城京を経て、平安時代には平安(京都)に都が遷ります。
仏教の伝来により各地に寺院が建立され、大きな行政領域である国には出先機関が設置されると共に、
辺境地域を統治するために郡と呼ばれる中規模の機関が置かれるようになった。
北海道と沖縄は国の管理下にはありません。
北海道には擦文文化があり、沖縄には貝塚文化が続いています。

■展示遺跡:
 青森県鹿島沢古墳飛鳥時代の古墳です。  (青森県八戸市沢里)  8世紀後半~9世紀後半
7号墳から出土した太刀や馬具、宝石など、の副葬品は南東北や関東地方から運ばれたもので、丸い錫容器は北から運ばれたとみられる。
これは南北に渡る交流の広がりを反映しており、地域間交流や蝦夷の階層構造を把握するうえで重要である。

 静岡県の尾羽廃寺跡、7世紀後半に建立されたと考えられる古代寺院遺跡です。 (静岡市清水区尾羽)創建白鳳期7c後半頃、12c頃廃寺
これまでに金堂や講堂跡が確認されており、このほど金堂の南西で塔礎石1基と礎石2基が確認された。
また、本殿の南東にある基壇のある礎石建物の柱や仕切り溝も全て発見された。
駿河国井原の官寺であった可能性がある。

 京都府の栢ノ木遺跡で、奈良時代から平安時代にかけて存在した古刹・井手寺の塔跡が発見された。(綴喜郡井手町栢ノ木)
井手寺遺跡での塔跡の初発見は、井手寺のみならず、飛鳥時代の氏寺の寺院を解明する上で重要な発見である。
※橘諸兄が建立した「井手寺」(奈良時代後半~平安時代初頭)跡と言われる栢ノ木遺跡

概要、展示遺跡


 810鹿島沢古墳 青森県八戸市沢里
   レアな馬具 蝦夷の長が 眠る墓
   飛鳥時代 7世紀前葉~中葉       末期古墳群

どんな遺跡かな
 馬淵川(まべちがわ)に面した、舌状台地上に立地する古墳群で、飛鳥時代に作られた10基以上の円墳からなります。
この時期の北東北から北海道に見られる古墳は「末期古墳」と呼ばれ、地域特有のものです。
この古墳からは大刀や馬具、南東北以南から搬入された須恵器の優品が出土しており、被葬者は蝦夷のリーダー層と考えられます。

遺跡全体図 遺跡の近影
 811
くわしくみてみよう
 7号墳の埋葬施設は、床面が石敷きで、南壁(写真奥)に石積みを確認しました。
副葬品には、大刀や鉄鏃、環状錫製品、錫製丸玉、ガラス小玉、土師器甕・壺があります。
房総半島で製作されたとみられる二円孔鍔付大刀(にえんこうつばつきたち)が、地元産の甕に立て掛けられていました。

くわしくみてみよう  7号墳の埋葬施設  7号墳石室実測図       

くわしくみてみよう
周囲には鹿島沢古墳の造営に関与したと考えられる田面木平(1)遺跡(たものきたい)湯浅屋新田遺跡(ゆあさやしんでん)などの集落や、
金装獅噛三塁環頭大刀柄頭(きんそうしがみさんるいかんとうたちつかがしら)が出土した丹後平古墳群(たんごたい)などがあります。
これらの遺跡や遺物は、飛鳥時代の八戸地域に他地域との太いパイプを持った有力者が存在したことを示しています。

※鹿島沢古墳群も丹後平古墳群も、北の阿光坊古墳群と同じ終末期古墳で、小さな円墳が密集している。
しかし、その副葬品は豊かで、関東からの宝飾品や刀剣が出土している。
 これらの遺跡は馬産業者の墓で、馬と引き換えにもらった宝物が副葬されたのではないだろうか。

 貨幣の流通が未発達な時代に、高額商品の馬と引き換えにするには、役に立たない宝飾品しかなかったのだろうか。
宝飾品で食べ物を買うこともできないし、キラキラ光って重いだけだが、ほかには役に立たない。私がダイヤをもらうのと一緒。役立たず。
だから、終末期古墳にはおしげもなく副葬品として入れられたのかもしれない。

くわしくみてみよう 周辺の遺跡の図
 813鉄製品
鉄製品 鉄鏃 二円孔鍔付大刀 鉄鏃 刀、刀子
須恵器
堤瓶
フラスコ形長頸瓶
静岡県湖西窯産)
静岡県湖西窯は古墳時代後期からの操業で、この墓はそれ以降の築造となる。
 815
金銅製杏葉
環状錫製品 銅釧
金銅製品
※ベルト金具?
 817
水晶製管玉
水晶製切子玉
水晶製勾玉
土師器
壺、甕
 821
メノウ製勾玉
ガラス小玉 錫製小玉
 823
須恵器 横瓶

※考察 蝦夷の副葬品
八戸の馬産業者は蝦夷である。彼らは放牧し自然交配で優秀な駿馬を生産して捕獲し、関東に運んで、いろいろな宝物を下賜されている。
威信材としての刀剣や、宝飾品としての玉類、そして、ベルトが出土しているということは衣冠束帯をも下賜されたということのようだ。
ベルトは、阿光坊古墳群からも出土している。
 しかし、蝦夷の馬方に衣冠束帯を与えても着る場所もない。こんなの着ていたら『馬子にも衣装』となるのだろう。似合わない典型である。
貨幣がない時代には、実用性のない高級品をもらっても、結局、墓に入れるしかなかったのだろう。
 こんなものに交換価値があったのだろうか。

 それにもう一つ。装飾性豊かな一見豪華な大刀が副葬されているが、この刀剣の刀身は刀だろうか。ただの鉄の板ではなかったのか。
アイヌがヤマトとの交易で手に入れたアイヌ刀は全く切れない刀身は木刀ほどの脆弱さだった。
 普通、刀は腰にさすものだが、アイヌは首から専用の帯で胸の前に提げていた。
これは、刀の外装が大変豪華で価値あるものとして、一家に一振りのみを長老に許されて保持することができ、儀式の際に家長の権威を示す威信材として身に着けたものだ。
 蝦夷の馬産業者に交換材として渡された刀剣は、このような外見の豪華な美術品で、実戦に役立たない玩具ではなかったのか。だから副葬したのではないだろうか。
 

 830尾羽廃寺跡(おばねはいじあと) 静岡県静岡市清水区尾羽
   わからない なんでここから 塔心楚
   飛鳥時代~平安時代 7世紀後半~12世紀

どんな遺跡かな
静岡市清水区に所在する7世紀後半に創建された古代寺院跡です。
この地域の有力豪族の氏寺であったと考えられています。
発掘調査の結果、奈良時代には、寺院の東方に郡役所が置かれたことが確認されました。

尾羽廃寺跡
どんな遺跡かな  遺跡遠景  調査区配置図       
 831
わしくみてみよう
これまでに金堂跡や講堂跡が確認され、金銅の東側の地点で塔の露盤が出土していました。
また、発掘調査では、金堂跡の南西の地点で、本来の位置は保っていないものの、新たに塔心楚が見つかりました。これらは寺院の建物配置を復元する上で重要な情報です。

塔の露盤は、仏塔の上に付ける相輪の根元にある方形の

くわしくみてみよう
金堂の南東では、基壇を伴う総柱の礎石建物や区画溝が見つかりました。
礎石建物は9世紀初頭のもので、建物付近からは焼けて炭になった米が見つかっており、税として納められた穀物を保管した正倉の可能性が考えられます。

※この遺跡は寺院である。寺院遺跡に正倉があるのは、東大寺正倉院の例でもわかる。しかし、境内の回廊の中に正倉があるのは聞いたことがない。
※役所の建物跡からは、周囲から火災の延焼を防ぐために塀と広い敷地の中に作られた正倉が、火災に遭い、炭化米が出土することが多い。
防火対策をしているのに火災に遭うことが非常に多いのは、なぜだろうか。住民の反乱にあって焼き討ちされたのだろうか。それとも戦火だろうか。
※この寺院も、寺が所有する農奴から納められた米を金堂や講堂、塔がある寺域に正倉を建てて納税させていたようだ。そりゃ、いつかは反乱に遭うわな。

 寺院が郡役所を兼ねていたようです。驚きです。こんなことは聞いたことがない。

塔心楚の出土状況 郡役所の正倉とみられる建物跡
 833出土品
平瓦、軒平瓦 丸瓦、軒丸瓦、軒丸瓦
木簡 炭化米
 

 850栢ノ木遺跡(かやのき) 京都府井手町井手石橋/宮ノ前 
   橘の 力を映す 井手の寺
   奈良時代~平安時代 8世紀~9世紀
   ※京都府南部の京都市の南、旧巨椋池南の山裾にある遺跡。山城(やましろ)と言われた地域


どんな遺跡かな
奈良時代から平安時代(8~9世紀)の古代寺院である井手寺跡は、この時期の有力豪族である橘氏の氏寺と考えられる寺院跡です。
寺域の東側で行われた発掘調査により、井手寺の塔跡が見つかりました。
※橘氏は、飛鳥時代以来の皇別氏族。

栢ノ木遺跡 どんな遺跡かな 調査地遠景 周辺の同時代の主な寺院
 851
くわしくみてみよう
塔の基壇及び基壇に伴う階段、犬走り、雨落溝、石敷などを検出しました。
塔基壇は、平面形が15.3m(51尺)四方のほぼ正方形で、四辺に階段が付きます。
基壇は、自然石や割石を積み上げる乱石積基壇(らんせきづみきだん)ですが、石材が大きいことや犬走りを設けるなど、
国の大寺などで採用される壇正積基壇(だんじょうづみきだん)を強く意識したものと考えられます。

くわしくみてみよう
塔基壇の上面で見つかった鎮壇具と考えられる銅銭の年代から、この塔は井手寺の主要伽藍の創建からやや遅れて平安時代前半頃に建立されたと考えられます。その後、平安時代中頃には、大規模な修理が行われたと考えられますが、鎌倉時代に老朽化のため倒壊したようです。

※奈良の古代寺院の塔が今だに建っていることから、老朽化ではなくて、荒廃して補修されずに倒壊したのではないでしょうか。
橘氏は、887年の阿衡事件によって中央政界から消え、下級官吏となる。その後、武士として再登場するが、経済力の差は歴然で、大寺院の維持はできなかったのでしょう。

くわしくみてみよう 塔基壇平面図 塔基壇全景 乱石積基壇(左)と壇正積基壇(右)の模式図 くわしくみてみよう 塔基壇北辺の階段
 853出土瓦
垂木先瓦
たるきさきがわら
文字瓦
 855
軒平瓦、軒丸瓦 軒平瓦、軒丸瓦 鬼瓦
 


 900中世 900 BP~400 BP

■概要:
 この時代に武家階級が新たに台頭し、京都の朝廷から権力を奪うことに成功した。
 平安末期から鎌倉、そして室町時代へと権力は遷りました。
室町時代後期は戦国時代へ突入します。多くの場所にある高度に要塞化された城はこの時代のものであり、当時の戦争の性質を伝えています。

 北海道ではアイヌ文化が花開き、沖縄では各地にグスク(城)が築かれ、『グスク時代』と呼ばれています。

■展示遺跡:
 和歌山県新宮下本町遺跡熊野速玉大社門前町として栄えた新宮の一角を占めていた中世の港跡です。
 熊野神道の信仰を背景とした中世の太平洋沿岸貿易の状況を知るうえで重要な遺跡です。
 (和歌山県新宮市下本町2丁目2番地の1)  中世港湾遺跡

概要、展示遺跡

 910新宮下本町遺跡 和歌山県新宮市下本町2丁目2番地の1
   見つかった 熊野潤す 港町
   平安時代末期~室町時代 12世紀末~16世紀前葉
   
どんな遺跡かな
紀伊半島南東岸の熊野川河口に位置する中世の港町の遺跡です。
熊野速玉大社阿須賀王子といった熊野信仰の中心となった神社に挟まれるように立地しており、
中世の港町の構造だけでなく、熊野信仰を背景とした太平洋交通の実態を解明していく上でも重要な遺跡です。

どんな遺跡かな 遺跡遠景 熊野川河口域の
中世遺跡分布図
 911
くわしくみてみよう
見つかった遺構には、掘立建物、方形竪穴建物、熊野川の河川敷へと降りる石段通路、石垣、丹冶遺構などがあります。
15世紀には、熊野川に向かって階段状に土地が造成され、そこに方形竪穴建物が規則的に配置されるようになります。(倉庫群)

くわしくみてみよう
遺跡全体図 石段通路 倉庫群

くわしくみてみよう
30基以上見つかった方形竪穴建物は、地下式倉庫と考えられており、この地に様々な物資が集積されたことを示すと評価されています。
当時の記録には、熊野三山の荘園から米が運び込まれたことや、紀伊山地の木材が新宮から運び出されたことが記されています。
※半地下式倉庫には油が貯蔵されていることがある。

くわしくみてみよう 多様な構造の地下式倉庫
掘立柱建物
土台遺構 土台遺構 石積み遺構
 921出土品
南伊勢系 土師器皿
15c
備前焼擂鉢・壺
東播系須恵器捏鉢13c
渥美焼壺12c
滑石製石鍋14c
常滑焼甕 14世紀
土師器鍋15c
 南伊勢系
 播磨型

 ※常滑焼は本当にどこででも出土していると言って過言でない。きっと、凄い海運力を持った海人族が販売をしていたのでしょう。
 そして、舟が難破しそうになると、全て海の中に投げ込んだようです。海中から完形品がよく引き上げられます。
 923
卸皿 瀬戸焼14c
香炉 瀬戸焼15c
子供の頃病人用にオロシ皿があり、よくリンゴをすってもらいました。
山茶碗12c
平碗
銅銭15c 白磁 八角坏15c
青磁 皿13c 瓦質土器13c
ミニチュア三足羽釜
燭台 瀬戸焼14c

倒れにくいけど邪魔になる燭台
青白磁瓶(梅瓶)13c

白磁 四耳壷12c
 


 950近代 150 BP~40 BP

■概要:
 開国とその後の西洋文化の流入により、政権は江戸幕府から取り戻され、明治新政府が樹立されました。
さまざまな形で近代化が進み、北海道と沖縄は統合された近代国家に組み込まれていく。

■展示遺跡:
 岩手県の橋野高炉跡には橋野鉄山の銑鉄を製造するための鉄鉱石を精錬した日本最古の洋式高炉跡があります。
この高炉は安政5年(1858年)から明治27年(1894年)の廃炉まで盛岡藩に寄って創業されました。
 現場からは炉の基礎石、水路石、土床などが発見されており、最初期の高炉の構造を知る上で重要です。
  (岩手県釜石市橋野町)

 旧新橋停車場と高輪築堤跡は1872年に新橋と横浜を結ぶ日本初の鉄道か開通した跡です。
開業当初は海の上にある線路を走る必要が遭ったため、最近発掘された高輪築堤は、現在の田町駅の北側から品川駅の南側まで、の延長2.7kmの水上に
築かれました。
 このほかにも版画によく描かれている第7橋台をはじめとする幾つかの遺跡が発掘されており、当時の日本の鉄道工学史、土木史の観点から非常に重要な遺構である。
  (東京都港区東新橋1丁目5−3

概要、展示遺跡


 960史跡橋野高炉跡 岩手県釜石市橋野町
   ニッポンの 近代支えた 鉄の里
   江戸時代末期~明治時代中期 1858~1894年  製鉄炉、溶鉱炉
どんな遺跡かな
江戸時代末期から明治時代にかけて稼働した日本最古の西洋式高炉です。
安政5(1858)年に日本で初めて洋式高炉による出銑に成功した盛岡藩士 大島高任により造られ、翌年から南部藩の直営となりました。
また、高炉の約2.5km南方には鉄鉱石を採掘した橋野鉄鉱山があります。

どんな遺跡かな 遺跡遠景
石全体図

 961
くわしくみてみよう
二番高炉の覆屋建物跡の発掘調査では、高炉の基壇石組、フイゴ座石組、土間、砂場跡、水車場跡、柱跡を確認しました。
現存する二番高炉の絵図も併せて検討することにより、伝統的な「たたら製鉄法」から「高炉法」へと転換した近代製鉄の具体的な姿が見えてきます。

くわしくみてみよう
炉上部から鉄鉱石と木炭を1:2の割合で投入し、約1400度まで加熱すると、
融着帯で溶解が始まり、
滴下帯でろ過され、精錬された銑鉄が下に落ちてきます。
壁に穴を開けると、溶解した銑鉄が、高炉手前の砂場にたまります。

くわしくみてみよう 二番高炉全景 くわしくみてみよう 内部構造 出銑シーン
 963
耐火煉瓦
撥形、矩形
耐火煉瓦
 965
舟釘、
鎹(かすがい)
平鎹手違い鎹(左ひねり)
角鎹
銭竿(ぜにさお)
鉄銭(てつせん)
銭竿付鉄銭 銭竿坏鉄銭のX線画像
 967
二番高炉石組の
チキリ装着部
チキリ
※チキリ
石材どうしや木材どうしなどを繋げるために、接合部を加工してあいだ入れて繋ぐための道具
  甘石 高炉構築材 磁鉄鉱 
東北地方に多い鉱物
餅鉄 

磁鉄鉱が浸食された鉱石、釜石付近に多い
炭化材  銑鉄
 
鉄鉱石を還元して得た鉄鋼原料

※当時の列島ではコークスがなかったため、木炭を利用している。効率の低い木炭でコークス並みの高温度を得ようとすると、かなりの工夫や努力が必要だったでしょう。
 

 980史跡旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡 東京都港区新橋1丁目5-3
  海上に 積み上げられた 智恵と技
  明治時代 19世紀後葉

どんな遺跡かな
明治5(18272)年新橋と横浜間で開業した日本で最初の鉄道の遺跡です。
旧新橋停車場跡と、海上に線路を通すために造られた高輪築堤跡が発掘され、その一部は日本の近代化を象徴する遺跡として保存が図られています。

史跡旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡
どんな遺跡かな 上空から見た
高輪築堤
 981
くわしくみてみよう
開業期の高輪築堤の規模は、上面の幅6m強、石垣下端の幅17.5m、高さ4m弱です。
盛り土の両側を石垣で押さえる構造で、海側が35°の勾配、陸側は直立します。基底は海水面より−1m程の海中にあり、軟弱な地盤を抑えるための多数の杭が打ち込まれていました。

くわしくみてみよう 築邸断面土層 築堤断面図


くわしくみてみよう
高輪築堤には、漁船が沖へ出るための航路を確保するため、堤と堤の間に橋を架けていました。
それらのうち第七橋台が発掘調査されました。切り石積みの精緻な造りは、当時の土木技術の高さを物語っています。
この橋を蒸気機関車が走る様子を描いた錦絵も多く残されています。

くわしくみてみよう 高輪築堤第七橋梁橋台部
高輪築堤を描いた錦絵

 983旧新橋停車場跡及び高縄築邸跡

乗車券
錠、パンチ(改札挟み)
チエッキ

チェッキ
手荷物預かり証
京都-新橋銘
新橋-三宮銘
 チッキとは、陸・海の運輸業者による「託送手荷物」のうち、鉄道による手荷物輸送、またはその手荷物、もしくはその預り証のことである。
 手荷物の預り証を示す英語の check(チェック・チェッキ)からチッキと呼ぶ。wikipedia

※荷送り札はチッキです。チエッキって言いにくいでしょ。
その後、紙の荷札も、木の荷札もチッキと呼ばれていました。

汽車土瓶
駅弁のお茶入れ
しずおか、大船軒
 
 


 1000調査研究最前線 地域展


 1001物部氏の古墳 石上・豊田古墳と別所古墳群

 1002地域展のぼり
地域展 物部氏の古墳
石上・豊田古墳群と別所古墳群

 1003地域展ポスター

発掘された日本列島2022地域展
 物部氏の古墳
  石上・豊田古墳群と別所古墳群

 なら歴史芸術文化村の北側にある石上・豊田古墳群と別所古墳群(いそのかみ・とよだ・べっしょ)は、文化村南側の杣之内古墳群(そまのうち)とともに、
古代の有力氏族「物部氏」との関わりが深いと考えられている古墳群です。
石上、豊田古墳群と別所古墳群におけるこれまでの発掘調査成果のご紹介を通じて、「物部氏」の実像を探ります。

【展示で紹介する主要な古墳】
 石上・豊田古墳群
  ウワナリ塚古墳、ハミ塚古墳、豊田トンド山古墳、ホリノヲ1・2・4号墳、タキハラ3号墳、狐ヶ尾8号墳、平尾山1号墳、豊田狐塚古墳
 別所古墳群
  塚山古墳、袋塚古墳、別所鑷子塚古墳、別所大塚古墳

※研究 物部氏の興隆
 物部氏は北部九州遠賀川から筑後川周辺に勃興し、紀元1世紀頃に東遷した。移動時には瀬戸内北岸の吉備氏を怖れ、南岸を進んだという。
これは邪馬台国連合形成以前の北部九州の戦乱からはじき出された形である。本来人流の流動的な半島からやって来たのだから、その地が棲みにくければ、一族皆殺しや奴隷にされる前にどこにでも移住することはいとわなかっただろう。

 纏向遺跡は3世紀初頭の弥生時代末期に突如出現し、4世紀初頭まで(古墳時代初期)までの非常に短い期間の遺跡である。
この時期の土器は庄内0式土器期である。(庄内式土器庄内遺跡 )

纏向遺跡は3世紀初頭の弥生時代末期の畿内に突如出現し、4世紀初頭(古墳時代初期)までの非常に短い期間の遺跡である。
3世紀初頭の畿内の土器は庄内0式土器期である。(庄内式土器庄内遺跡 )
 北部九州では、それぞれ、中国王朝を後ろ盾に小さな都市国家が戦乱に明け暮れていた。
しかし、戦乱の北部九州とは別に、その時すでに列島各地に大きな国を築いていた豪族たちは、九州から関東に及ぶ広大な交易権を構築し、半島をも巻き込んで安定した国家連合を構築していた。
その

 戦乱を避けて畿内に集まった豪族たちは、物部氏や在地系の葛城氏などと協調して安定を目指し、その後の百年の間に、各地の大豪族と結んで、東日本から北陸、西日本にわたる巨大交易圏を築き上げた。
 畿内に移り住んだ物部氏の布留遺跡は纏向遺跡の北隣であった。彼らは神武同様の天孫降臨の氏族であるとのちに称している。
これは、朝鮮半島から来たと言っているのである。

 神武東征の際には、最終の纏向決戦を前に無血開城し、東征軍を受け入れ、後にヤマト王権において大きな力を持つこととなった。
 物部氏は鉄の鋳造や鉄器の生産にかかわる一族で(半島南部伽耶地域の出自ではないか)転じてヤマト政権で大伴氏と共に軍事を担当するようになる。
200年後の継体朝では525年の磐井の乱を平定し大きな力を持った。
 6世紀初頭の仏教の導入を巡って蘇我氏と対立し、587年に蘇我氏と連合軍によって戦死(丁未の乱)し没落する。その後石上氏として復活する。

 物部氏の居住地・布留遺跡の北に石上豊田古墳群別所古墳群、南の杣之内古墳群は物部氏にかかわる古墳群とされている。
さらに北方の佐紀古墳群は、ヤマトの大王の、古墳時代前期の墳墓であると言われている。神武天皇は橿原宮に居住したが、墳墓は遥か北の佐紀古墳群でした。
 物部氏については別に、三韓時代に辰韓の北に位置するが侵入して王朝を打ち立てた。この辰韓から遠賀川付近に侵入して都市国家を築き、これが物部氏の前身であるとする説もある。濊はエベンキ人である。考えてみると平安時代の美人は「ひきめかぎばな」と言われたがエベンキ人女性にそっくりだ。

 と、このようなストーリーを考えてみた。



 1004物部氏の古墳 石上・豊田古墳群と別所古墳群

 上のリンクは、博物館のPDF文書「別所古墳群石上・豊田古墳群と別所古墳群」を閲覧することができる。
 もし、削除されている場合は、次の保存済みをクリックすると見えるはず。

   関連文書➀(発掘列島2022文書) 関連文書②橿原考古研究所文書) 関連文書③(天理市文書)  関連文書④(天理市観光協会)
 
 1010地域展フロアー

 1011布留遺跡北方の古墳群 石上・豊田・別所古墳群
 奈良県天理市の中心市街地の地下に眠る布留遺跡は、古墳時代中期~後期(5~6世紀)には、儀礼・政治・生産といった様々な機能を兼ね備える奈良盆地内有数の集落でした。
 この布留遺跡を見下ろす高台には、古代史上重要な石上神宮(いそのかみ=物部氏の祖先を祀る神社)が位置します。
もともと大和王権が奉斎し、王権の管理する宝物を神庫(ほくち)に収めていたと考えられていますが、遅くとも6世紀代には有力氏族である「物部氏」が、祭祀や神宝を管掌していたことがわかっています。その「物部氏」が拠点を置いたのが布留遺跡です。

 ※物部氏は王権の宝物を自己の神庫に預かっていた。王権は自己の神社を持たなかった
 ※ヤマト王権は、「アマテラス神」を切り離し、長らく畿内のあちらこちらをたらいまわしにした挙句、伊勢に神社を構えたが一度も参拝しなかった。
 ※天照と王権を結びつけたのは記紀神話の創造によってであり、明治時代まで王権は伊勢神宮を無視し続けた。
 ※おそらく明治維新の神道思想が天皇家と伊勢神宮を強引に結びつけて先祖としたのだろう。
 ※明治以降の神道主義の台頭で、アマテラス神が皇室の祖先として参拝を始めた。橿原神宮や陵墓は明治時代に造られた歴史の浅いもの。
  ただし、明治時代のPlannerは、それまでの皇室と縁の深かった宇佐神宮を切り捨てた。遠かったからだろうか。理由は何だろう。
 ※神宮と神社

 布留遺跡を取り巻く東西2km、南北3kmほどの空間には、南に杣之内古墳群(そまのうち)、北に石上・豊田古墳群別所古墳群が広がっています。
布留遺跡北方の石上・豊田古墳群と別所古墳群は合わせて270基以上もの古墳を擁する一大群集墳であり、6世紀を中心に大型前方後円墳や 中小規模の円墳が多数築かれました。
 南方の杣之内古墳群とともに、布留遺跡に拠点を置いた地域勢力の墓域と考えられています。
 今回の展示では石上・豊田古墳群と別所古墳群におけるこれまでの発掘調査成果を通じて、王権の中枢で権勢を誇った「物部氏」の実情を探ることにします。

布留遺跡周辺の古墳群
・遺跡
石上・豊田、別所
古墳群
布留遺跡
杣之内古墳群
布留遺跡周辺の地形 布留遺跡北方の古墳群

 1012布留遺跡

拠点化する布留遺跡と周辺の古墳群
 布留遺跡では5~6世紀になると、武器や玉・鍛冶の工房が出現し、ものづくりの一大拠点となりました。ウマの飼養が始まるのもこの頃です。また、大規模な溝の掘削や、整地行為、大型掘立柱建物の建設、特殊な円筒埴輪を樹立した祭場の出現など儀礼・政治の舞台が整えられ、ありふれた集落から傑出した集落へと変貌を遂げていきます。

 ※弓月君に導かれた秦氏が高い知識や技術、教養、音楽、など、幅広い文化をもたらした。5世紀初頭のことである。
 ユダヤ人の国=弓月国の王が、秦王朝に仕え(始皇帝はユダヤ人とも言われる)秦滅亡後朝鮮半島に逃亡。ヤマト王権に救助要請後、
 数年を掛け、新羅の妨害を排除して救出渡来した。その数、数万人とも、十数万人とも言われており、日本各地に分散し、
 本拠地は京都太秦に置いた。この大量渡来によって列島の科学技術や土木技術、機織り技術、文化・芸術などか飛躍的に発達した。

 さて、このように拠点化した布留遺跡周辺には3つの古墳群が成立しました。

南方の段丘上に広がる杣之内古墳群は、日本列島最大の前方後方墳である西山古墳4世紀に築かれたのち、とくに5世紀後半から6世紀前半にかけて西乗鞍古墳(にしのりくら)を始めとする100m級の大型前方後円墳や小規模円墳が約80基築かれました。

 一方、布留遺跡北方の丘陵では、5世紀石上・豊田古墳群別所古墳群で、それぞれ古墳築造が始まり、
別所古墳群では6世紀前半にかけて、
石上・豊田古墳群では6世紀後半から7世紀前半を中心に、100m級の大型前方後円墳や多数の中小規模の円墳が築かれました。その総数は約270基に及びます。この当時100m級の大型前方後円墳を築くことができたのは、王権中枢にごく近い一部の首長層に限られます。

 ※4世紀(杣之内古墳群)→6世紀前半(別所古墳群)→6世紀後半~7世紀前半(石上・豊田古墳群)

 ※布留遺跡の古墳造営地は、4世紀~6世紀に杣之内古墳群。 5世紀に石上・豊田古墳群で始まり
 別所古墳群では5~6世紀前半に、 石上・豊田古墳群では5世紀から6世紀後半から7世紀前半にかけて大型前方後円墳が築造されました

石上・豊田古墳群の首長墳
布留遺跡周辺の首長墳は、
5世紀末から6世紀前半にかけて南方の杣之内古墳群に出現しますが、
6世紀中葉以降になると、北方の石上・豊田古墳群や別所古墳群に築かれるようになります。
6世紀末に前方後円墳造営が停止した後も、大型方墳・円墳造営が続きます。

 布留遺跡周辺の首長墳は、規模が大きい点、途切れることなく造営されている点で、他地域を圧倒しています。こうした首長墳のあり方は、布留遺跡の地域勢力が王権の中で極めて重要な地位にあったことを如実に物語っています。

 ※以上のことから、物部氏の勢力がいかに大きく、長く政権に君臨していたかが大変よくわかる。
拠点化する布留遺跡と周辺の古墳群
石上・豊田古墳群の首長墳

岩谷大塚古墳 天理市岩屋町 古墳時代後期前半
 岩屋谷のほぼ中央に位置する古墳で、前方部を東に向ける前方後円墳です。現状では全長約76mですが、本来は84m程あったようです。
昭和39(1964)年に行われた発掘調査では、後円部中央と前方部で横穴式石室の痕跡が確認されました。前方部石室では羨道側壁の一部と床面敷石や排水溝が確認されました。
本来は全長16.8mに及ぶ巨大な横穴式石室であった可能性があります。
石室床面からは、凝灰岩製の板石が出土しており、組合式石棺の一部と考えられています。

岩屋大塚古墳 岩屋大塚古墳

装飾付須恵器 6世紀前半~後半に盛行
 副葬や儀礼用の土器で、壺・器台の肩部や口縁部に小型の壺や坏を載せます。(子持土器)。
人物や動物の小像を配置するものもあります。
 岩屋大塚古墳でも子持器台の子にあたる𤭯が出土しています。

参考
子持ち装飾付脚付壺
岡山県瀬戸内市牛窓町槌ヶ谷出土
参考
子持脚付壺
京都府福知山市牧出土

岩屋大塚古墳
 発掘調査前の岩屋大塚古墳の写真。古墳の南半分は名阪国道建設で失われました。

岩屋大塚古墳遠景 岩屋大塚古墳測量図
前方部と後円部で横穴式石室の痕跡が見つかっています。
岩屋大塚古墳横穴式石室

 1013子持ち器台の一部 岩屋大塚古墳
子持ち器台の一部 子持ち器台の
装飾土器部
子持ち器台の一部 石棺材 凝灰岩

 1014石上大塚古墳ウワナリ塚古墳測量図

石上大塚古墳
ウワナリ塚古墳
測量図
※測量図上の写真は
前出の
岩屋大塚古墳の石室内写真でした。
岩屋大塚と
石上大塚の
掲示間違いと思います。

 石上大塚古墳 6世紀中葉 天理市石上町
 岩屋谷に面する丘陵上に、ウワナリ塚古墳と並ぶように築かれた全長約107mの前方後円墳です。
特に前方部の周囲には周濠と外堤が明瞭に残っていて、前方の北東隅付近は陸橋のような地形になっています。
昭和34(1959)年に短期間の発掘調査が実施され、前方部斜面で葺石が確認されました。
 後円部の横穴式石室は、玄室の長さ約6.3m、奥行き幅2.8mの大規模な片袖式石室で、羨道まで含めた本来の全長は10m近くあったようですが、大部分の石材は既に失われています。

石上大塚古墳 横穴式石室
天井石は全て失われており、壁の石材も上位は既にありません。石室床面には、拳大の礫が敷き詰められていて、細片となった石棺材が出土しました。

石上大塚古墳
 6世紀中葉 
石上大塚古墳
横穴式石室
 
石上大塚古墳
横穴式石室と測量図
 石上大塚古墳
前方部前面の葺石
   

 ウワナリ塚古墳 6世紀後葉 天理市石上町
 石上大塚古墳の東側に隣接する全長約110mの前方後円墳で、墳丘には円筒埴輪列が存在したと報告されています。
 花崗岩の巨石を積み上げた、横穴式石室が、現在も後円部の南側に開口しています。
玄室は長さ約6.8m、幅3.1m、高さ3.6mの巨大なもので、羨道は現況で 3.5mほどですが、本来は長さ9m以上はあったと考えられています。
 石室内の発掘調査は実施されていませんが、床面には、拳大の石が見られるほか、凝灰岩製の石棺の破片も見つかっています。

ウワナリ塚古墳横穴式石室 ウワナリ塚古墳
 1015ウワナリ塚古墳
ウワナリ塚古墳 円筒埴輪 横穴式石室模型1:30

 1016ハミ塚古墳 終末期古墳 6世紀末~7世紀初頭 天理市岩屋町
ハミ塚古墳横穴式石室
ハミ塚古墳横穴式石室
奥壁方向から

 ハミ塚古墳 6世紀末
 東西約46.7m、南北推定44.1mの方墳です。平成7(1995)年に横穴式石室の発掘調査が行われました。
両袖式の横穴式石室で、壁の1段目の石材のみが残り、天井石は全て失われていました。
現存する石室の長さは約12mで、玄室の長さは5.7m、奥壁幅2.9mです。

 床面には排水溝があり、その上に平らな床石を敷いていました。さらに、白石と黒石の玉砂利を厚さ約5~10cm敷き、その上に内面に多量の赤色顔料(ベンガラ)を塗った凝灰岩製の刳抜式家形石棺を置いていました。

ハミ塚古墳 破砕された須恵器
 石室内から出土した須恵器には、完形を留めるものはなく、意図的に破砕されて石室内に撒かれたと考えられています。

ハミ塚古墳 6世紀末  ハミ塚古墳  破砕された須恵器       

 ハミ塚古墳 玄室床面の玉砂利
 床石の上位には白石・黒石による玉砂利が、厚さ5~10cm敷かれていました。
石室全体では12万個以上の玉砂利が使われていたようです。

ハミ塚古墳
玄室床面の玉砂利
 1017
ハミ塚古墳遺物 頭椎大刀模式図
かぶつちのたち
藤ノ木古墳
捩り環頭付大刀
(ねじりかんとう)
金銅装頭椎大刀
頭椎大刀の構造
➀茎を柄木に落とし込む
②目釘で固定
③柄間に金属線を巻く
④金銅板で柄頭を挟む。江頭の内部には布などをつめる
⑤鳩目金具をはめる
⑥切羽をはめる
⑦責金具で金属線を固定する
⑧鍔をはめる
⑨責め金具、鎺(ハバキ)の順ではめる
⑩梢木をあわせる
⑪鞘口に金堂板を巻き、蝋付けする
⑫鞘間に金銅板を巻き、蝋付けし、責金具で固定する
⑬鞘尻に金銅板を2枚合わせにし、蝋付け、責金具で固定する


 1018大刀部品
刀装具
ねじり環
刀装具
はと目金具
刀装具
(何かの部品)
吊金具
帯から吊り下げる
馬具 曇珠 弓の金具
両頭金具(不明)

 1019玉石 石室内にちりばめられていた玉砂利
白石 黒石
 
 1020

 1021豊田狐塚古墳 6世紀中葉 天理市豊田町815
豊田ドンド山古墳の南東方向約100mの尾根筋の南端に築かれており、墳丘は直径20m程度の円墳です。
 道路建設に伴う発掘調査により見つかった横穴式石室の玄室は長約4.4m、北壁幅約2.2m、床面からの高さが約2.2mあります。
 玄室は一部で盗掘を受けていたものの、埋葬当時の状況を比較的よく残していました。床面には木質が残存する箇所があり、少なくとも3基の木棺が安置されていたようです。銅鏡、馬具、鉄刀、鉄鏃、玉類、須恵器、土師器、など豊富な副葬品が出土しました。

豊田狐塚古墳
1三葉文楕円形杏葉
2雲珠
3辻金具
環状鏡板付轡 旋回式獣像鏡 環状鏡板付轡
 1022
鉄鏃
鉄刀 捩じり環 刀装具
 1023
 1024豊田狐塚古墳  須恵器
豊田狐塚古墳横穴式石室 床面には板状の木質が3ヶ所残っており、
3基の木棺を納めていたことが窺えます。
豊田狐塚古墳
玄門部の出土状況
須恵器
台付長頸壷
※初期の須恵器は副葬用品としての超高級品だった。
 1025
坏、身・蓋 堤瓶 直口壺、𤭯 広口壺・高坏
直口壺・蓋
 1027
豊田狐塚古墳
横穴式石室
須恵器
台付長頸壷
 1028玉類
銀製空玉 琥珀製玉
水晶製切子玉
水晶製管玉・丸玉
水晶製切子玉 水晶製
管玉×2
丸玉×9
ガラス製小玉
土製丸玉 土製棗玉(なつめ)
 
 1030
 1031
豊田トンド山古墳 7世紀中葉 天理市豊田町819

 布留遺跡を見下ろす丘陵頂上部の南斜面にあります。後世の山城の築城により地形が改変されていますが墳丘は直径35m程度の円墳です。
 横穴式石室は全長約9.4m。玄室は奥壁幅2.0m、側壁長約4.9mです。最大で一辺約3mに及ぶ巨石を積み、床面には長径30cm程度の床石を敷き詰めていました。
 石室内は盗掘されていましたが、玄室内に凝灰岩製の石棺が安置されていたようです。また、羨道付近から鉄釘が多数出土しており、羨道部に木管が追葬されていた可能性が考えられます。
豊田トンド山古墳
7世紀中葉
豊田トンド山古墳
横穴式石室
 1032石棺材
豊田トンド山古墳の出土土器は、なら歴史芸術文化村の、考古遺物修復工房で、復元作業を実施しました。

石棺材 石棺材 凝灰岩
 1033須恵器 坏
  ※大量の蓋付坏には何が入っていたのか。大豪族の物部氏である。天然香原料のお香ではなかっただろうか。
須恵器 蓋 坏
 1034須恵器 日常土器
   ※これが酒と食物なのでしょうか
台付長頸壺
須恵器
蓋、高坏
 1035木棺材料鉄製品
鉄釘、鉄刀 環座金具(棺の金具)
責金具(締付け金具)
鉄鏃 責金具
 刀剣の柄の部品
鉄鏃
 があれば弓もあったはず。その他は盗掘済みか。
 

 1040石上・豊田古墳群の中小古墳 6世紀中葉~7世紀前半
 石上豊田古墳群では、中小規模の円墳が尾根や谷に面した斜面に多数分布しています。
横穴式石室を中心とした群集墳が古墳群全体に広がるのは、6世紀中葉以降で、築造は7世紀前半まで続きます。
これらは墳丘や横穴式石室の規模が相対的に大きい支群と、小さい支群に二分でき、

石上・豊田古墳群で古墳築造が最も盛んになった6世紀中葉から後葉にかけて、上位階層の支群と下位階層の支群が並存していたことが伺えます。
とりわけ鍛冶に関わる遺物の出土例が目立つのもこの古墳群の特徴です。
 ※物部氏は最後まで、半島渡来の鍛冶集団だった。
 ※首長層と中規模有力者の墓地が近接しているのは、首長層の力衰退か、中小有力者が力を持ってきたからか。、

石上・豊田古墳群の中小古墳
 1041
狐ヶ尾支群 6世紀中葉~後葉
名阪国道天理東I.C.の西側一帯に広がる支群です。東側は尾根上に立地していますが、西側では上部の古墳が尾根上に分布する一方、下部は尾根端部に密集しているのが特徴です。
 発掘調査は東側のみで進展しており、昭和25(1950)、平成3(1991)年に実施されました。
 谷の西側では発掘調査がありませんが、現地踏査により前方後円墳1基が石上・豊田226号墳(32.5m)として報告されています

狐ヶ尾8号墳 6世紀後葉
 名阪国道天理東ICのすぐ西側にあります。水道施設の建設に伴って8・9号墳の2基を天理市教育委員会が発掘調査しました。
 8号墳は東西約20m、南北16mの円墳で、横穴式石室は全長8.2m、玄室長4.3mの大型のものです。
他に例を見ないT字形鏡板付轡を始めとした馬具や多量の須恵器を副葬していました。
鍛冶生産の際に生じる鉄滓を副葬していたのも特徴です。

須恵器の副葬
 須恵器は5世紀に普及した焼き物で、従来の野焼きとは異なり窖窯で焼かれて作られた硬い土器です。
6世紀になると、古墳の石室に多量の須恵器が副葬されるようになります。

 副葬をされた須恵器にはどのような意味が込められていたのでしょうか。
①死後の世界で用いるための土器
②土器に入れた飲食物を死者に供えるための土器
③死後の世界の食事(ヨモツヘグイ)を象徴する土器
④飲食を伴う葬送儀礼で用いられた土器
などといった様々な可能性が考えられています。

狐ヶ尾支群
6世紀中葉~後葉
ヶ尾8号墳 6世紀後葉 須恵器の副葬
狐ヶ尾8号墳横穴式石室

 1043上段の須恵器
長頸壷
高坏・𤭯・短頸壺
高坏・鉢・蓋
※須恵器
長頸壷
短頸壷・高坏
坏・皿・坏
※赤色は土師器
 1045下段土器
蓋付坏と甕 蓋付坏 蓋付坏

蓋付坏
蓋付坏
 
 1050
 1051往年の布留遺跡周辺の古墳群
昭和36(1961)年の航空写真。名阪国道は未着工で、アクセス道路も未整備である。
かつての石上・豊田古墳群の様子がわかる。

石上・豊田古墳群
別所古墳群

別所古墳群
赤土山古墳
別所大塚古墳
別所鑵子塚古墳

石上・豊田古墳群
岩屋大塚古墳
ハミ塚古墳
ウワナリ塚古墳
石上大塚古墳
豊田トンド山古墳
布留遺跡  杣之内古墳群
塚穴山古墳
西山古墳
焼戸山古墳
小墓古墳
須川1号墳
幾坂池
西乗鞍古墳
東乗鞍古墳
峯塚古墳
石上神宮
内山永久寺跡
 1052近年年の布留遺跡周辺の古墳群
令和3(2021)年撮影の航空写真。左の写真から60年が経過し、市街地の発達や名阪国道の開通により古墳群を取り巻く景観が大きく変化した。

石上・豊田古墳群
別所古墳群
別所古墳群
赤土山古墳
別所大塚古墳
別所鑵子塚古墳

石上・豊田古墳群
岩屋大塚古墳
ハミ塚古墳
ウワナリ塚古墳
石上大塚古墳
布留遺跡
 杣之内古墳群

塚穴山古墳
西山古墳
焼戸山古墳
小墓古墳
幾坂池
西乗鞍古墳
東乗鞍古墳
峯塚古墳
石上神宮
内山永久寺跡
 1053狐ヶ尾8号墳 副葬品
耳環
鉄鏃
鉄釘 T字型鏡板付轡 鉸具、鋤鍬先 鉄滓
鍛冶工房の不純物
 
 1060
 1061
アミダヒラ支群 6世紀中葉~7世紀前葉 杣之内古墳群内

岩屋町集落の東方、岩屋谷に面した北向きの斜面中腹に密集して分布する支群です。
名阪国道の建設事業に伴って、昭和39(1964) 年に6基の古墳が発掘調査されました。
いずれの古墳も斜面下の方のみに盛土をして築いたものでした。
1~4号墳は直径15m程度の円墳で、いずれも玄室長3.25~4.5mの両袖式の横穴式石室がありました。
5号墳・6号墳は無袖式の小規模な横穴式石室でした。

アミダヒラ支群の発掘調査
アミダヒラ支群
須恵器 高坏
須恵器
台付長頸壷
土師器 直口壺
 1063
石上支群 6世紀中葉~後葉

名阪国道天理東IC東方の一群で、岩屋谷に突き出した2本の尾根上に分布しています。
名阪国道の供用後に実施された天理東ICの改良工事に伴って発掘調査が実施されました。
6世紀中葉に支群内で最初に築かれたと考えられているA6号墳は木管直葬(もっかんじきそう)でしたが、その後は横穴式石室が採用されるようになりました。
6世紀後葉になるとさらに築造範囲が広がっていきます。石峯北・石峯南支群と同様に墳丘や石室が比較的小規模な支群です。

石峯北・石峯南支群 6世紀中葉~後葉

石峯北支群
石峯北支群南側の谷筋に分布する支群で、谷に面した南斜面上に広がっています。
昭和46(1971)年、同50(1975)年、平成2(1990)年に道路建設等に伴って発掘調査をが行われました。
支群群全体で20基程度の分布が知られていますが、多くの古墳は6世紀後葉に築造されたものです。

石峯南支群
石嶺北支群の南側の尾根上に分布する支群です。
昭和46(1971)年に発掘調査が実施されました。
支群全体で5基が把握されていますが、調査が行われたのは1~3号墳のみです。

石上北支群6c中~後葉
石峯北・南支群
6c中~後葉
石上北A8号墳 石上北A8号墳
須恵器 高坏
石峯6号墳

石峯5号墳

 1065ホリノヲ支群 6世紀前葉~後葉

ホリノヲ支群 6世紀前葉~後葉
 石峯南支群南側の尾根上に分布する支群分です。
昭和5(1930)年に行われた砕石作業中に出土した遺物は東京国立博物館に所蔵されていますが、
これは後に堀ホリノヲ1号墳のものと判明しました。
さらに、名阪国道建設時の土取場に予定されたため、昭和41(1966)年にも発掘調査が行われました。

 6世紀前葉に木管直葬の主体部を持つ3号墳が築かれたのち、
6世紀中葉には片袖式の横穴式石室を有する1・2・4・5号墳、
6世紀後葉には最高所に6号墳が築造されました。

ホリノヲ支群


ホリノヲ1号墳 6世紀中葉
直径約25mの円墳です。昭和41(1966)年の発掘調査時に実施した聞き取りにより、昭和5(1930)年に遺物が出土した「豊田古墳」と同じ石室であることが判明しました。

ホリノヲ1号墳 ホリノヲ1号墳
 横穴式石室

片袖式の横穴式石室。玄室は長さ3.3m幅1.9m。
ホリノヲ1号墳
 旋回式獣像鏡

直径13.5cmチ。内区に獣像と神像を4体ずつ配置する倭製鏡。

東京国立博物館所蔵
土製棗玉 琥珀製棗玉 ガラス製小玉
管玉
須恵器 高坏

 1067鍛冶関連遺跡
鍛冶関連遺跡の出土状況
石上・豊田古墳群
別所古墳群
布留遺跡
杣之内古墳群

ホリノヲ2号墳 6世紀中葉
 直径約18mの円墳です。鍛冶工具(鉄鉗かなはし・鉄槌かなづち)を副葬していました。
 玉類も豊富に出土しており、古墳時代の天河石(てんがせき・アマゾナイト)製勾玉は非常に珍しいものです。

  ホリノヲ2号墳  ホリノヲ2号墳
横穴式石室 
ホリノヲ2号墳 横穴式石室

 片袖式の横穴式石室。玄室は長さ3.9m 幅1.6m。
石材はほとんど抜かれていましたが、遺物は横残っていました。
 (※よくのこっていました。の意味)
石材が目的の盗掘であったことが窺えます。

鍛冶関連遺物の副葬
 石上・豊田古墳群では。鍛冶関連遺物を副葬する中小古墳が多いのが特徴です。
鍛冶工具が出土したホリノヲ2号墳の他にも、鞴羽口(フイゴ、鍛冶工房で用いる送風口)・鉄滓(鍛冶の工程で生じる不純物)を副葬する古墳が目立ちます。
 南方の布留遺跡でも鍛冶関連遺物や刀剣装具が多数検出しており、大規模な鉄器生産が組織的に行われていたと考えられています。
布留遺跡で鉄生産に携わった工人たちの中には、石上・豊田古墳群の中小古墳に葬られた人がいたのかもしれません。

鍛冶関連遺物の副葬

 ホリノヲ2号墳副葬品
ホリノヲ2号墳遺物 鍛冶工具
鉄鉗かなはし
金槌
  水晶製勾玉
天河石製勾玉
ガラス製小玉
 
水晶製切子玉       
堤瓶 須恵器 高坏
 
 1071ホリノヲ4号墳 6世紀中葉
 直径約14mの円墳です。金銅装の馬具が副葬されていました。
須恵器双口𤭯が連接下形の珍しい須恵器で、内部は粘土板で完全に仕切られ、それぞれ独立した空間になっています。

ホリノヲ4号墳 ホリノヲ4号墳 横穴式石室

片袖式の横穴式石室。
玄室は長さ3.3m 幅1.6m

 ホリノヲ4号墳
ホリノヲ4号墳 雲珠・馬具・心葉形杏葉

これしか脚注がない

雲珠、心葉形杏葉

辻金具と円形杏葉
双口𤭯 台付長頸壷

 1073タキハラ支群 6世紀前葉~7世紀前葉
 ホリノヲ支群南側の谷沿い斜面に分布する支群です。道路工事に伴って発掘調査が実施されました。(1~5 号墳)。

タキハラ支群で、片袖式の横穴式石室を有する5号墳は6世紀後葉に遡り、石上・豊田古墳群では最も初期の横穴式石室です。
1・2・4号墳は6世後葉
3号墳は7世紀後葉築造です。

タキハラ3号墳は横穴式石室の床面敷石に、天理砂岩を使用していることで知られています。
 長期間にわたって築造が続いたのもこの支群の特徴です。

タキハラ3号墳
横穴式石室
タキハラ支群

タキハラ3号墳 7世紀前葉
直径16mの円2墳です。横穴式石室の床面敷石には「天理砂岩」と呼ばれる石材が使われていることで知られています。
天理砂岩は、主に飛鳥地域において、庭園や古墳に用いる切石として好まれたたもので、
石上・豊田古墳群内にある通称「豊田山」がその採取地と推定されます。

キハラ3号墳 タキハラ3号墳
 横穴式石室
タキハラ3号墳
 横穴式石室

玄室は正方形に近く、
長さ3.1m、幅2.7m
玄室床面の敷石 玄室床面の敷石

天理砂岩の床面敷石。
L字形に加工した石で中央を埋める。


須恵器
高坏
天理砂岩 敷石

 1075西ノ森支群 5世紀前半
西ノ森支群CⅠ・CⅡ号墳
直径15m程度の円墳2基が並ぶように築かれて居ました。

西ノ森支群CⅠ・CⅡ号墳
西ノ森支群CⅠ・CⅡ号墳
2基並んだ円墳
CⅡ号墳主体部
主体部は粘土槨で、礫を敷き詰めた上に床を張る構造でした。
粘土槨は、初期の
割り竹形木棺の
次の大王の世代。

※群集墳は終末期でなく中期からあった。

西ノ森支群 5世紀前半
 石上豊田古墳群では最も西側に位置します。昭和59(1984)年に発掘調査が実施され「豊田山遺跡」として報告されました。
この調査では古墳時代の円墳2基(直径15m程度)が見つかっています。
 北側のCⅠ号墳は主体部は削平されていたが、墳丘裾から円筒埴輪・草摺形埴輪などが出土しました。
 南側のCⅡ号墳は粘土槨でした。鉄鎌・刀が副葬されていたほか、周辺から鉄剣と小型仿製鏡が出動しました。
 埴輪などの遺物は5世紀前半のもので、石上・豊田古墳群では最も古い時期の支群です。

古墳群由来の遺物

獣帯鏡
 天理大学附属天理、参考館が所蔵する資料で、「天理市豊田山出土」とされています。内区の4個の乳の間に簡略化された獣像を配置しています。ホリノヲ1号墳や豊田狐塚古墳から出土した旋回式獣像鏡と類似する銅鏡です。

皮袋型須恵器
 須恵器研究の大著『須恵器体成』で「石上古墳群」出土として紹介されたものです。
皮袋形須恵器は東北アジアに分布する革(皮)袋製の容器を模したものとも言われますが、詳しい事は分かっていません。国内での出土例が100例に満たない珍しい須恵器です。

  西ノ森支群  古墳群由来の遺物
 
     

塚平古墳 7世紀中葉 天理市岩屋町

 岩屋集落を北側の尾根を登り詰めた標高約320m付近に立地する方墳で、周辺の古墳の中では最高所に位置します。
尾根の稜線から一段下がった南斜面に一辺約30mの方形の区画を削りだし、その中央に方形の墳丘を造っており、本来は一辺16m前後の方形の墳丘であったと考えられています。
 墳丘には南に開口する花崗岩切石の横穴式石室があります。石室の南側は破壊されていますが、奥壁付近は天井石まで残存しています。
石室の形態から7世紀中葉以降の築造と考えられています。

塚平古墳横穴式石室 塚平古墳墳丘測量図 塚平古墳
 1077
皮袋形須恵器
草摺形埴輪
豊田山遺跡
(西ノ森支群)
CⅠ号墳
天理市豊田山出土
獣帯鏡
小型仿製鏡
豊田山遺跡
(西ノ森支群)
CⅡ号墳
 
 1100
 1110
 1111
平尾山1号墳 6世紀中葉  天理市石上町

 石上・大塚古墳のすぐ西側にあります。
水道施設建設に伴って天理市教育委員会が発掘調査しました。
 直径23mの円墳で中心に横穴式石室が残っていました。玄室の幅は約1.8m、残存長約1.6mです。本来の石室は全長6~7m程度の片袖式石室であったようです。床面には複雑に枝分かれした排水施設が設けられていました。
 盗掘受けていましたが、各種の埴輪、須恵器、玉類、挂甲小札、鉄鏃などが出土しました。

平尾山西支群 6世紀中葉~後葉
 石上大塚古墳西方の一群で、「平尾山西支群」の呼称が与えられています。複数の尾根上に円墳が散在しています。
 天理市教育委員会が調査した平青山1号墳の石室石材は玄室の一部を残すのみでしたが、奥壁の構成などから6世紀中葉の築造とみられます。
1号墳は石上・豊田古墳群の円墳としては、規模が大きい(直径23m)、墳丘及び外堤に埴輪列を有すること、各種形象埴輪や馬具・武具の保有などが特筆されます。

平尾山1号墳の小札
小札は円筒形の小型鉄板で、これを革紐で綴じ合わせたものが挂甲です。
平尾山1号墳からは約200点の小札が出土しており、石上・豊田古墳群では他に例がありません。

参考 埴輪挂甲の武人
群馬県太田市飯塚町出土、東京国立博物館所蔵

平尾山1号墳の小札
 1113小札類
小札類
 1111
 1114
捩り環 飾り金具
ガラス製小玉 水晶製切子玉
 1120平尾山1号墳
 1121
平尾山1号墳測量図 平尾山1号墳 平尾山1号墳
円筒埴輪列
平尾山1号墳
横穴式石室
 1123円筒埴輪
円筒埴輪 土に埋め込まれた部分が残存していたようです。
露出部は何者かに打ち壊された様です。
 1125埴輪
石見型埴輪 双脚輪状文埴輪 双脚輪状文埴輪の類例
音乗谷古墳
蓋形(きぬがさ)埴輪 盾形埴輪
動物埴輪
屋根、家型埴輪
 1126須恵器
須恵器
高坏
器台
器台、壺 須恵器は共献土器として、墓前祭氏などに用いられたものだろうか。

 1130別所古墳群
 1131
別所古墳群 天理市別所町 6世紀以降
 布留遺跡北方の古墳群のうち西半に位置する別所古墳群は、長さ約125mの
別所大塚古墳を中心に前方後円墳(可能性のあるものを含む)5基と、石川支群などに属する円墳17基(現状)で構成されます。

 石上・豊田古墳群は、前駆的な造営が5世紀前半に始まりますが、本格的な造営開始は6世紀以降で、最も盛行するのは、6世紀中葉になってからです。

一方、別所古墳群は5世紀中葉から6世紀中葉にかけて造営が続きます。
大局的には造営の中心が別所古墳群から石上・豊田古墳群へと移動する様子が見て取れます。

塚山古墳 5世紀中葉  
 別所大塚古墳の南約200mに位置し
ますが、墳丘は完全に消失して小学校の
敷地になっています。『山邊郡誌』では東西約49m、南北約36mほどの規模とされ、
『天理市史別冊古墳墓一覧』では
前方部を北西に向ける前方後円墳が描かれています。一方、周辺の地割などから、西側に短い造り出しを有する一辺60m前後の方方墳とする見解もあります。
 小学校敷地内で実施した発掘調査では、周濠の一部と見られる遺構から円筒埴輪が出土しました。別所古墳群では、最初に築造をされた可能性が高い古墳です。

ダンゴ塚古墳 5世紀後葉  天理市豊田町
 現在の行政区画では、豊田町に属しますが、周辺の古墳分布から見て石上・豊田古墳群よりは、別所古墳群の一部と考えられます。
 これまでの発掘調査により、最低でも径15mの規模の墳丘が残存していることが明らかになりましたが、周濠は確認できませんでした。また、南西方向に開口していたらしい横穴式石室の痕跡も見つかっています。
 古い記録では前方後円形であったとされており、本来は西向きの前方後円墳であったようです。

別所古墳群 塚山古墳
ダンゴ塚古墳
ダンゴ塚古墳
 1133塚山古墳
円筒埴輪
 1135ダンゴ塚古墳
円筒埴輪 須恵器
 1140
 1141別所鑵子塚古墳(かんす) 6世紀前葉 天理市別所町
 山の辺小学校のすぐ東側にある前方後円墳で、西側には塚山古墳、南側には袋塚古墳が立地します。現在も全長約57mの墳丘が残っています。
周濠の痕跡と思われる地割が見られ、現在はその大部分が駐車場として利用されています。
 天理大学歴史研究会の測量調査報告によると、石棺が後円部と前方部に1基ずつ存在するとされます。
 墳丘から埴輪片が採集されているほか、後円部南側隣接地での工事立ち会い調査中にほぼ完全な形の円筒埴輪が出土しました。


空からみた古墳 別所鑵子塚古墳 別所鑵子塚古墳
 1142円筒埴輪
円筒埴輪


 
 1150
 1151袋塚古墳 6世紀中葉 天理市別所町
 別所鑵子塚古墳のすぐ南側に所在した前方後円墳で、現在は地上から完全に姿を消しています。大正初期までには墳丘が失われていたようです。

 道路建設に伴う発掘調査の結果、後円部から前方部にかけての墳丘・周濠の一部が埋没していることが確認されました。
全長は55~60m程度に復元されます。
周濠内から多量の埴輪や土師器、須恵器が出土しました。
埴輪には円筒埴輪、朝顔形埴輪、家型埴輪、石見形埴輪などが多数見られます。

袋塚古墳復元図 調査で見つかった
墳丘・周濠
袋塚古墳
 1153
靫形埴輪(ゆぎ)
矢尻の表現
石見型埴輪
須恵器 𤭯 土師器 𤭯・坏 太刀形埴輪
 1155円筒埴輪
円筒埴輪
 1157家型埴輪
屋根 屋根 家形埴輪
 
 1160
 1161別所大塚古墳石川支群
  別所大塚古墳    大和国古墳墓取調書
別所大塚古墳測量図
 
 

別所大塚古墳 6世紀 天理市別所町466
 別所町集落の東北側に位置する長さ約125mの前方後円墳で、別所古墳群では最大規模です。墳丘西側には周濠と外堤が良好に残っています。埴輪片が採集されたとも言われますが、詳細は不明です。
 発掘調査は行われていませんが、『大和国古墳墓取り調べ書』(明治26年(1893)年)に作成された資料には「五尺四寸斗(ばかり)ノ石棺ヲ出シ」と記され、多数の副葬品が出土したと伝えられています。

現在も後円部は奥行き20mの掘削跡があり、ここに巨大な横穴式石室が存在したと推定されています。

別所大塚古墳と
石川支群
別所大塚古墳 6世紀


石川支群 6世紀前半

 別所大塚古墳南側の尾根上には、
弥生時代後期の高地性集落や方形台状墓が見つかっており、別所裏山遺跡と呼ばれています。
同じ尾根上に直径10m級の円墳が10基程度あり、別所古墳群石川支群と命名されました。
4~7号墳は昭和61(19849)年に発掘されました。

 このうち5号墳・6号墳では、墳丘の裾付近に儀礼行為の際に使用した食器類(須恵器坏身・坏蓋)を埋納した遺構が見つかっています。主体部構造が明らかになった古墳はありませんが、調査区外の8号墳は木棺直葬であったようです。

   石川支群6号墳
須恵器を埋納した土坑
石川支群 6世紀前半
 
     

 1165須恵器 坏 蓋  別所裏山遺跡(石川支群)6号墳
須恵器は浅い土坑のなかに、坏蓋のうえに坏身を重ねた状態で埋められていました。
展示は現地で出土状況を再現しています。

須恵器 坏 蓋
別所裏山遺跡
(石川支群)
6号墳
 
 1200埋蔵文化財センター連絡協議会
発掘された日本列島2022
日本列島を発掘する
埋蔵文化財センター一覧
 1300なら歴史芸術文化ムラ 施設周辺