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飯島町歴史民俗資料館 00飯島陣屋 (江戸時代の役所) 長野県史跡 伊那県庁(飯島陣屋)跡 ここは、かつて伊那谷や信濃の政治上、重要な拠点だった場所です。 飯島陣屋の由来 飯島陣屋が江戸幕府の代官役所として成立したのは延宝5(1677)年。 以来、主に伊那谷の幕府領(天領)を支配し、時期によっては筑摩郡・更級郡・小県郡にも管轄地を持った。 その石高は、はじめ3~4万石前後、18世紀末に5万石を超え、幕末には1万5千石歩程に減少した。 飯島陣屋は倒幕によって廃止され、慶応4(1868)年8月(この年9月に明治と改元)、新政府はその陣屋を県庁として、伊那県庁を発足させた。 伊那県庁は信濃と三河の旧幕府領などを県域に取り込み、明治2(1869)年末の石高は32万石に達した。 明治3年(1870)年9月、県域は南北に二分され、北は中野県として切り離された。 明治4(1871)年11月、政府は府県統合を実施して伊奈県を廃止し、松本を県庁として筑摩県を創設した。 この時、この地は政庁としての使命を終えた。 平成2年度から飯島町によって飯島陣屋復元整備事業が実施され、平成5年12月、主に役所として機能していた建物が幕末の姿で再現された。 |
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01
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10陣嶺館 (考古資料館) 飯島陣屋から 550m徒歩6分。車2分。駐車場も有ります。 |
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12外観
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13一階入り口展示 |
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二階展示室 |
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20旧石器時代 |
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21針ヶ平遺跡の石器とTn火山灰 「針ヶ平の石器は約2万年前の姶良Tn火山灰に覆われていた。」 ※姶良Tn層は2.9~2.6万年前(Wikipedia)、or 28.00ka (2万8000年前)(姶良丹沢(28.00ka) - 早川由紀夫研究室) と言われる。 ※2万8千年前で確定 姶良カルデラは鹿児島湾内北側の、桜島を外輪山とする火山
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22針ヶ平第一遺跡 3万年前 (旧石器時代) 堆積した火山灰の中から800点の石器や剥片、礫などが出土しました。出土状況から人々は、新天地を求めて移動する途中に針ヶ平にしばらく留まり、 天竜川から運びあげた石で石器を製作していました。 飯田市石子原遺跡、信濃町立ヶ鼻遺跡 (野尻湖遺跡群) も同じ頃の遺跡ですが、どんな生活をしていたのか、まだまだわからないことが多い時代です。 参考石子原遺跡・山本西平遺跡・辻原遺跡・赤羽原遺跡 - 全国遺跡報告総覧 仲町遺跡 - 全国遺跡報告総覧 ダウンロード 1 - 全国遺跡報告総覧 |
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30縄文時代 |
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31縄文時代の始まり 1万年前頃、長い氷河期が終わり、日本列島は温暖な気候となりました。山野にはクリやドングリが実る豊かな森が広がり、多くの野生動物が 登場ました。 狩猟を中心の生活は木の実を主食とする生活に変化していき、やがて木の実などを煮る為に土器が作られました。 ここに縄文時代が始まりました。 縄文土器の移り変わり 初期の土器文様は簡素でしたが、生活が安定し始めた前期頃から文様が複雑化し、やがて中期には最も華やかな装飾を持った土器が 作られました。 八ヶ岳山麓を中心とした一大文化圏が出来たのもこの頃です。しかし、気候が冷涼となる後期頃から立体的な装飾が減り、晩期には無文土器が 増えます。 縄文早期の土器 早期 (1万~7千年前)に使われた押型文と呼ばれる模様の土器の破片です。 飯島で確認されている遺跡の多くは縄文時代中期のもので、早期や前期の遺跡はあまり見つかっていません。
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32土器 埋甕
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33特別な土器 有孔鍔付土器 土器の縁に小さな穴が開いているこの土器は「有孔鍔付土器」です。表面を赤く塗ることが多いこの土器は、 他の土器と比べて形や文様が 変わっていて、特別な土器です。 口縁部に皮を張って太鼓にしたとか、 お酒を作ったとか、 の用途が考えられていますが、よくわかっていない不思議な土器です。
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34ドングリを食べる 植物の中でも秋に採れる木の実類は大切な食糧でした。ドングリは苦味が強いので、水にさらしたり、土器で煮たりしてエグミをとり利用していました。 縄文人の台所 縄文人の主食はドングリなどの木の実です。沢山収穫された木の実は、凹石を使って皮をむき、石皿と磨石で粉にしました。 この粉を使っていろいろなメニューを作っていたと考えられます。 木の実の渋みを採るために土器で煮ることも有りました。 竪穴式住居の中央には炉が造られ、そこで煮炊きをしていました。現在の鍋に相当するのが「深鉢形土器」です。土器の外面に煤が、 内面におこげが付着しているものも見られます。「浅鉢型土器」は食べ物の盛りつけに使われました。 |
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35いろいろな形の土器 遺跡から出土する土器の多くは深鉢と呼ばれる煮炊きに使った道具ですが、この他に浅鉢や器台、瓢形(ひさご形)の土器など変わった形の土器も あります。 ※「ひさご」とはヒョウタンのことです。 日本のヒョウタンのようにくびれがあるので瓢箪型と名づけたのでしょう。 縄文人は瓢箪を真似て作ったのでしょうか。
資料 縄文時代のヒョウタン栽培 NHK視点・論点「ヒョウタン文化と人類」より抜粋 進化生物学研究所理事長・所長 湯浅浩史 ヒョウタンはアフリカ原産です。縄文早期9600年前の滋賀県粟津湖底遺跡や8500年前の福井県鳥浜貝塚から果皮と種子が検出されています。 また、1万年前のアメリカ大陸からアジア種のヒョウタンが出土しています。熱帯植物のヒョウタンは氷河期や寒冷地では生育しません。 これは氷河期のベーリング海峡ではなく、アジアから島伝いに1万年前に舟で持ち込まれたようです。 世界の海を越えて移住していった人々にとってヒョウタンは水筒に最適だったのでしょう。 このようなヒョウタンの利便性は土器に先立っていたと見られます。 世界各地の初期の土器は底の丸い壺型です。 ヒョウタンをモデルにしたと考えられます。 日本や中国のくびれのあるヒョウタンは中世・近世の突然変異です。世界的には球形や壺型です。従って先史時代のヒョウタンは壺型だったのです。 世界とは逆に、日本では尖底土器が先行します。しかし、ゆるい壺型をひっくり返すと尖底になります。 ヒョウタンに水を入れて内外を十分湿らすと火にかけて湯を沸かすこともできます。 (以下略) 引用ヒョウタン栽培の歴史 参考ヒョウタンと古代の海洋移住 |海洋政策研究所 ... ※世界中の超古い年代から出土するヒョウタンに困った考古学者が、あれはマクワウリだと言ってるようですが、 世界中の先史時代人が重宝したヒョウタンは、きっと、出アフリカの時に持って出たのではないでしょうか。 世界中に分布する「口琴」や「あやとり」と一緒にいくつかのものを持ち出したのでしょう。 新天地へ旅をするのに、まさか手ぶらで出かけるようなご先祖様なら、人類はもうとっくに絶滅しているでしょう。少なくとも水と狩猟具は持って きたでしょう。 ※結論 ひさご形土器という、私の三段腹のような土器は、くびれのあるヒョウタンを模したのではなく、単に考古学者が似たものとして 名付けただけでした。残念 |
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40縄文土器 中期 |
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41panel ここは解説・脚注のない、写真パネルの展示です。 |
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42土器 |
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4.3土器
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45縄文土器2 中期~後期 |
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50弥生時代 |
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弥生時代の始まり 縄文時代の終わり頃、中国大陸から大きな変革の波がやってきました。日本列島に稲作が伝えられたのです。 九州に伝わった稲作文化は東へ急速に広がって行きました。この頃、東海地方には「条痕文土器文化」を持つ人々が住んでいました。※ この人々が稲作文化を受け入れ、やがて天竜川を遡って伊那谷へと稲作文化を伝えたのです。 新しい文化の到来を示す東海地方の条痕文土器が高尾第2遺跡やうどん坂遺跡から出土しています。 しかし、飯島町は地形的な特徴から田んぼに適した湿地が少なく、小規模なムラが点在するぐらいだったと思われます。 石の鍬と思われる打製石斧が沢山出土していることから、稲作と共に畑作が重要な割合を占めていたことがわかります。 ※条痕文土器 引用条痕文系土器様式の研究 条痕紋系土器様式とは、中部地方に広がりをもつ弥生時代の広域土器様式である。 淵源は愛知県内を中心に分布する、貝殻を原体とする、いわゆる「二枚貝条痕紋土器」にある。 その後、弥生時代前期後半から中期中葉にいたる時期を中心に、中部地方各地域の在来系土器と交流をもちながら、地域独自の型式を 存続させる。 考察 ※条痕文土器は、 半島系土器である。すると、水稲稲作に先立って、既に半島人がやってきて東海地方に文化圏を築いていたことになります。 九州~近畿では 突帯文土器期 がそれにあたると思われますが、それが 東海では、条痕文土器なのかな。ちょっと調べてみよう。 おおー! やはりありました。山口県立山口博物館のWEB博物館に。 刻目突帯文系土器(縄文土器) と 二枚貝条痕文系土器(縄文土器) ←当時は縄文期ですが、今は弥生早期か、縄文晩期です やはり、縄文晩期に東海地方にも、半島人が来て、文化を築いていたようです。 |
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51弥生時代の文化 二つの文化 弥生時代の中頃、 人々は稲作に適した土地に田圃を作り定着していました。やがて条件の良い農地を確保するために、ムラの間で争いが起こりました。 また、広大な水田を作るためにはいくつかのムラの共同作業が不可欠で、人々を取りまとめる有力者が誕生し、やがてムラからクニへ発展して いきました。 ※このように書いてあるが、伊那谷では高地性集落・環濠集落は見つかっていない。戦闘や虐殺などの遺跡は聞いてないが、でも戦ったのでしょうね。 東海地方では環濠集落遺跡がありました。 弥生時代後期になると、今の長野県には複数の文化圏が成立しました。 その一つが下伊那を中心とした、天竜川流域の座光寺原・中島式文化です。 やがて 弥生時代最終末を迎えると、伊那谷も、畿内・東海の地域統合の波に飲み込まれていきます。 飯島町は座光寺原・中島式文化圏に含まれていましたが、遺跡の数が少なく当時の様子はよくわかっていません。 町谷遺跡から出土した煮炊きに使った甕型土器の頸部に、座光寺原・中島式に特徴的な櫛描きの波状文が見られます。 長野の3文化圏※ ①伊那谷地方の 座光寺・中島式土器文化圏 (座光寺中島遺跡) ②諏訪地方の 橋原式土器文化圏 (橋原遺跡-中部山岳地の集落址) ③北信州~群馬の箱清水式土器文化圏 弥生後期 栗林式土器は箱清水の北部 弥生中期後半 栗林式土器編年 栗林遺跡 弥生時代中期関東の4地域の併存 栗林式土器は弥生時代中期後半、箱清水式土器は弥生時代後期を代表する土器。 栗林式土器は縄文時代の紋様を受け継ぎ、箱清水式土器は縄文の伝統は消え赤く塗られた壺形へ変化する 栗林式は縄文系が、箱清水式は弥生人が、文化を担っていたようです。 弥生中期が栗林式・北原式土器分布圏、後期が吉田・箱清水式と座光寺原・中島式土器分布圏でした。 お詫び 実は、座光寺原・中島 と 座光寺中島 なのかが、最後まで分かりませんでした。 実在する座光寺中島遺跡があります。そして、 座光寺原式、中島式 という標識遺跡があるのです。 どうなってんのやろね。 |
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52文化圏
考察 土器文化圏の違いは民族の違い、出自の違い、やってきた地方や国の違い。それから、支配者の違いでしょうか。 座光寺原・中島文化は東海系、箱清水文化は北陸からやってきた出雲か吉備勢力。※ 岡谷市付近の橋原文化圏は明らかに半島系土器を使用する、その他の集団でした。 ※橋原文化はほとんど手掛かりがない。 ※北陸からやってきた箱清水文化は、当初出雲が主導していましたが、後に、吉備がとってかわりました。 出雲が朝廷内の権力闘争に敗れたのでしょう。 出雲を成立当初の大和政権から追い出したのは、吉備だったかもしれない。 |
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53土器 |
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60古墳時代 |
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61古墳時代の飯島 (3世紀末~7世紀) この時代は大和 (奈良県) を中心とした統一国家が生まれた時代です。 各地の有力者 (首長) は権力を誇示するため大きな古墳を造りました。 善光寺平を一望する山頂に前方後円墳の森将軍塚が造られたのも、この頃です。 伊那谷では箕輪町の松島大墓古墳が知られています。 残念ながら飯島町には古墳がありません。水田に適した広い湿地を持たない飯島町では、有力な首長が誕生しなかったと思われます。 飯島町の古墳時代の住居跡はとても少なく、堂前遺跡で古墳時代終末の住居が一軒確認されています。 カマドの出現 古墳時代の人々の多くは平面形が方形の竪穴住居に住んでいました。5世紀後半になると朝鮮半島から新しい文化が次々と入ってきました。 その一つが「カマド」です。カマドが伝わると煮炊きの方法が大きく変わりました。それまでは甕(かめ)でコメを煮ていましたが、カマドの出現により 甕の胴が長くなり、「こしき」を使ってコメを蒸して食べるようになりました。 蒸したコメは「強飯こわめし」と呼ばれました。現在の「おこわ(赤飯)」にその面影が残っています。 ※蒸した強飯は木製の食槽の上にあけられ、そのまま手づかみで食べていました。現在もこの原始的食習慣の人々が世界の大半ですね。 ※低温焼成の土師器の甕で米を煮ると、泥の成分が溶け出して、ジャリジャリだそうです。でしょうね。泥ご飯。だから、蒸し器が発明されたので しょう。大陸や半島では、列島より古くから稲作・雑穀文化だったのに、蒸し器の発明が5世紀、それまで泥ご飯を食べていたのですね。 ※ここの資料では、当時のカマドが、関西のような移動式か、作り付けの固定式かは不明です。 |
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70奈良・平安時代 奈良時代 (710~794年) 平安時代 (794~1185) |
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71古代のくらし 奈良・平安の飯島 (8世紀~12世紀) 大宝元年 (701年) に大宝律令という法律が制定され、日本に本格的な中央集権国家が誕生しました。 その後、都が京に移り平安時代が始まります。 平安京での貴族の暮らしぶりは「源氏物語絵巻」などからその華やかさが伝わってきます。 貴族たちは寝殿造り住居に住み、地方からの税収入で暮らしていました。 それでは地方の人々の暮らしはどうだったのでしょうか。多くの人々は地面を掘り下げた竪穴住居に住んでいました。 壁の隅には石組の「カマド」 (作り付け固定式) が築かれ、近くには食料貯蔵用の穴が作られていました。 鉄製の農具も広がり、稲の収穫量も増えてきましたが、よく取れる田んぼで1段(10a)あたり150kgと現在の4分の1ほどでした。 お膳の成立 奈良時代に入ると須恵器と土師器の坏・皿・埦からなる食膳具が確立されました。個人ごとに飯、菜(おかず)、汁を器に盛り付け、 箸を使って食べるという食事法が確立しました。 土師器などの焼き物のほかに、木椀や曲げ物なども使われたことでしょう。 厳しい暮らし 人々には「口分田」と言われる田んぼが中央政府から貸し与えられていました。稲ができると収穫量の3~10%を「租」という税として地方政府に 納めました。 そのほかにも庸、調といった布や特産物を中央政府に納めるなど重い税が課せられ、人々の暮らしはとても厳しいものでした。 堂前遺跡や山溝遺跡に暮らしていた小さなムラの人々にも厳しい税が課せられたことでしょう。 これらの税は年に一度農民が都まで運びました。重い税や貧しい生活から口分田を捨て、貴族が支配する私有地(荘園)へ逃げ込む人が急増し、 やがて国を支えていた制度が崩れ、時代は中世へと大きく変わります。 |
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80平安時代 (794~1185) 須恵器の登場 5世紀前半に朝鮮半島から新しい焼き物の技術が日本へ伝えられました。 今までの土器は野焼きでしたが、新しい技法では窯を使い1000℃以上の高温で焼きました。 この青みを帯びた硬質の土器は須恵器と呼ばれていました。 当初は大阪府の陶邑で焼かれていましたが、各地に窯ができると比較的入手し易くなり、堂前遺跡13号住居の頃には一般の人々の日常食器 となりました。 須恵器の登場以後、焼き物は専門の職人によってつくられるようになり、、、、、発展していきました。 謎の10世紀 飯島町では、弥生時代以降遺跡の数が激減します。 ところが平安時代前期末 (9c~10c) になると、町内各地に小規模な集落が出現します。 しかし、集落の存続は短期間で、再び消滅します。再度人々が住み始めるのは、岩間氏や飯島氏※の登場を待たねばなりませんでした。 土器に描かれた文字 堂前遺跡7号住からは、墨書土器のほかに灰釉陶器がたくさん出土しました。 ※平安~鎌倉にかけて登場した武家 |
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81 |
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90中世 |
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91中世の飯島 平安時代に貴族の家来として登場した武士が力を持ち、ついに鎌倉に幕府を開いて政権を担当するようになりました。 しかし、各地には有力な武士がいて度々戦いが起こりました。また、この頃の天候は寒冷で飢饉になることも多く、死と隣り合わせの生活を 送るというとても不安な時代でした。 飯島でも飯島氏や岩間氏などの地方武士が力をつけ人々を支配していました。各地に山城が造られたのもこの時代です。 阿弥陀塔に葬られた人々 若森社近くの阿弥陀塔の下から、中・近世の陶器と経文石が出土。灰釉陶器の四耳壷は13世紀の古瀬戸。この他に天目茶碗まで出土して います。 庶民の遺体は捨てたり土葬したりですが、高価な灰釉陶器の四耳壷などに葬られるのは、僧侶や、裕福な人々でした。 中世から江戸時代まで続いた名家の墓地遺跡でしょうか。
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特別展示コーナー |
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110カゴ田遺跡 縄文早期 引用カゴ田 - 全国遺跡報告総覧 縄文時代早期の一大遺跡 ―カゴ田遺跡― カゴ田遺跡は縄文時代早期の遺跡です。発掘調査によって343個のピットが見つかりました。 居住跡と思われる3つのピットは直径3~4mの円形で、中央に地面を浅く掘り下げた炉があり、住居の中からは沢山の土器や石器が見つかっています。 ほとんどのピットは何に使われたのか不明ですが、お墓や食料を貯蔵する穴の可能性が考えられます。 運ばれた耳飾り カゴ田遺跡の装飾品の滑石は飯島町では産出せず、遠く大町市周辺に良質な滑石が産出し、石製装飾品の加工施設がいくつか見つかっています。 これらの品々をどのように入手したのでしょう。石の産地、アクセサリー製作地、そして消費地を結ぶネットワークがあり、交易によって運ばれた。 たくさんの石鏃 カゴ田遺跡からは石族や石匙をはじめ、いろいろな種類の石器が出土しました。中でも狩猟に使われた石鏃の出土数は、他の遺跡に比べて多量です。 狩猟がカゴ田の人々の生活を支えていたことが伺えます。 |
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111
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112縄文のアクセサリー 縄文時代には石や動物の牙などを加工した装飾品がありました。 玦状耳飾りと呼ばれるピアスや、硬玉の大珠や管玉などのペンダントです。 これらの美しい装飾品は単なる装飾品ではなく、信仰やマツリのための呪術具の可能性が高く、ごく限られた人だけが身につけたと考えられています。 カゴ田遺跡からみつかった石製装飾品は国内最古級のものです。 カゴ田の人々はどこから来た カゴ田遺跡から出土した土器は、伊那谷の縄文早期末葉を解明するうえでとても重要なものです。 土器の中には「神之木台式」と呼ばれる神奈川県などで使われていた土器があります。 また、東海地方で使われていた「塩屋式」や「天神山式」などの土器も沢山見つかっています。 これらの土器は、関東や東海地方からカゴ田の(に)人々が持ち込んだと考えられています。 縄文時代の人々は住みやすい場所や獲物を求め、広い範囲を移動していたのでしょうか。 |
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113縄文人の道具箱 縄文人の道具には、狩りや採集に使う道具のほかに、日常の生活用具を作るための様々な道具がありました。 |
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114ムラとムラの交易 黒曜石は「天然のガラス」とも言われている火山岩です。旧石器時代から石器の材料として使われてきました。 黒曜石の産地は限られていますが、長野県の霧ケ峰や和田峠から産出する黒曜石はとても良質で加工しやすく、関東や遠く青森まで運ばれて いました。 縄文時代には広い範囲で交易が行われていたのです。 |
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120縄文中期 |
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121 |
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122 縄文人の祈り 縄文時代の人々の生活は、豊かな自然の恵みの上に成り立っていました。しかし、狩猟採集の成果は気候に大きく左右されます。 縄文人は、自然の中にいる神に生活の安定を祈ったり感謝したりするマツリを行いました。 この時使われたのがミニチュア土器や釣手土器です。また、人面を表現した文様を付けた土器もあります。 土器に人の顔を付けることによって器に特別な力を持たせたと考えられます。 壊された女神 土偶は女性の姿を現していますが、かなり形が誇張されていることから女性を表したと考えられています。土偶は壊れて出土することが多く、 マツリの時に祈りを込めて、壊されたと考えられています。 自然の恵みが豊かに実りますように・・・・ 子どもが沢山生まれますように…・ 病気が治りますように・・・ 様々な祈りがささげられたことでしょう。 土偶は何のために作られたのか。 いまだに多くの謎を残しています。 |
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123尾越遺跡の人々 縄文中期後半~後期後半の遺跡 東海地方の土器が多く出土している。 中期の終わりから後期にかけて気温が低下したことで、木の実やシカ・イノシシなどの野生動物が減少し、食料危機が深刻となりました。 多くの人々が食料を求めて住みなれた土地を離れ、集落数が大きく減りました。 尾越に残った人々は沢山の石を並べた広場(配石遺構)を作り、神に土偶やミニチュア土器を捧げました。 自然が暖かさを取り戻し、木の実やイノシシなどに満ち溢れた豊かな生活を願う祈りの場所だったのでしょう。 ※尾越遺跡は配石遺構などで有名で、沢山の文献に名前を出すが、遺跡調査報告書には出てこない。 |
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130中期 土器 |
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140石器 |
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