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 北部九州の縄文 №15  2020.11.14-3

  小郡市埋蔵文化財調査センター  福岡県小郡市三沢5147-3
  0942-75-7555 休館:毎土と第3日・月(休日の時は翌日)撮影可


交通 西鉄三国ヶ丘駅下車徒歩10分
      レンタカー
  備考  九州歴史資料館(撮影禁止)はすぐそば。ここもぜひ登館下さい。
三国ヶ丘駅→遺跡→九州歴史資料館小郡市埋蔵文化財調査センター
  はじめに
九州歴史資料館は福岡県立で、太宰府天満宮から広大な土地の提供を受けて建設され、県内出土の遺跡保存や展示を行っています。
分館として、豊前市求菩提資料館、朝倉市甘木歴史資料館、柳川市古文書館があります。

小郡市埋蔵文化財センターは、周囲の開発が進んだため、昭和60年に建設九州歴史資料館は昭和48年創立だそうです。

これらの施設は、小郡市最北部にあり、しかも、遺跡の真上。大宰府政庁と同じ位置にあります。
 



01外観
10三国が丘団地遺跡
11三国が団地の昔の地形
15一ノ口遺跡
「竪穴住居跡」と「貯蔵穴」
17「道状遺構」と「柵列」
18開発前夜
19弥生人の生活
獣の骨と貝の殻
20年表

30小郡市の遺跡
31小郡市の遺跡
32花立山古墳群
33小郡官衙遺跡群
34大保原合戦
35薩摩街道
36小郡市内の遺跡
40三国の鼻1号墳の版築

100ミニ特別展
 「歴史のなかの植物」

110衣 -着る-
112衣服を作るための道具
113機織の神~媛社と宗像氏~

114食 -べる-
115自然改変の始まり
116食料を守るめの知恵

120飾 -いろどる-
122弔いの場の植物
123仏の教えを載せた屋根
125食卓を彩った植物

130材 -つくる-
132道具と道具製作用道具
134必要からの賜り物
135小市内遺跡の花粉分析
136経済を支えた植物

140祈 -うやまう-
 神社と植物
 九州地方とクスノキ
 終わりに

150江戸陶器
161漆器
162籠状編組製品
170復元穴釜

300九州歴史博物館
 
 
 01外観
小郡市埋蔵文化財調査センター 鶏形埴輪 こんな鶏形埴輪は見たことがない。
朝顔型埴輪以前の、壺型埴輪以前の、
特殊壺と、ずっと後の形象埴輪である
鶏形埴輪が融合したかのようだ。

伝聞による思い違いが産んだ産物か、
何かの目的で作られた物なのか、
推察するのは難い。

 10三国が丘団地遺跡
   当館はこの団地の建設によって設立された施設です。
   最寄駅名は「三国が丘」で丘陵の名前は「三国丘」遺跡の正式名はわからない。三国丘陵の三沢遺跡なんても言ってる

 11三国が団地の昔の地形(一ノ口遺跡
1984(承和59)年に、団地造成が開始される前まで、現在、三国ヶ丘団地がある一帯は、人家もなくうっそうとした丘陵地帯であった。
造成に先立って発掘調査を行ったところ、渡来人の集落や市内最大の前方後円墳、最古級の古墳、環濠集落などが姿を表した。
開発によって発掘調査が進み、それによって新たな歴史が解明されることは事実だが、遺跡保護という観点から見るとその代償は大きかった。

三国が団地の昔の地形 津古土取遺跡
津古生掛遺跡
津古中剪遺跡
三国の鼻遺跡
横隅北田遺跡
横隅鍋倉遺跡
横隅鍋倉遺跡Ⅱ
横倉狐塚遺跡
三沢京江ヶ浦遺跡
三国が団地の昔の地形

 12三国が団地の昔の地形 (恐れ入ります。全てピンボケで遺跡名が読めません。)

  表現されているもの 渡来人の集落 前方後円墳最古級の古墳環濠集落
集落遺跡 集落遺跡 道状ピット 建物
集落遺跡 建物遺構

 15一ノ口遺跡 弥生前期~中期の大規模集落遺跡
「一ノ口遺跡」は、小郡市から筑紫野市に渡って広がる「三国丘陵」の一角にある遺跡で、平成元年(1989)に発掘調査が行われました。
この遺跡は、今から約2200年前の弥生時代前期から中期の間に弥生人が生活した大規模な「集落跡」で約55,000㎡の巨大な丘(長さ450m 最大幅200m)の上には、数多くの「竪穴住居跡」や「貯蔵穴」(地下式倉庫)が築かれています。
また、集落を囲む「柵列」や、出入りするための「道」などあまり例がない遺構も発見され、当時の集落の姿をそのまま留めた貴重な遺跡と考えられます。
 一ノ口遺跡の遺跡総数
縄文時代(早期前後) 落し穴状遺構 24基   ※細長く深く掘った穴か
竪穴状遺構 3基   報告書の遺構名統一 一覧表で「竪穴建物」とされている。
   
弥生時代(前期~中期) 竪穴住居跡 119軒    
掘立柱建物 4棟    
貯蔵穴 273基    
土壌(土坑?) 232基   ※土壌という遺構はないので、土壙の誤植であろう。
道状遺構 4条    
7条    
柵列状ピット 多数   柵列状ピットって何?柵列の穴を指しているのか。柵の杭は抜かれたようだ。
(中期) 甕棺墓 7基   ※原文「壅」だが「甕」の誤植か。壅=ふさぐ・さえぎる。音=ヨウ・ユ、訓=ふさぐ
土壙墓・木棺墓 20基    
(後期) 竪穴住居跡 4軒    
周溝墓 1基    
           
古墳時代(後期) 円墳 1基    
    道状遺構 1条    

一ノ口遺跡 一ノ口遺跡の遺跡総数

 「竪穴住居跡」と「貯蔵穴」
この集落では、約120年の間弥生人が生活を続けています。 弥生人が住んだ「竪穴住居跡」は123軒あります。
この数は、長い年月の間に多くの世代によって住居が何度も建て替えられた結果の総数で、123軒が同時に建っていたのではありません。
ある世代には、20~30軒の住居が建ち、200人程が暮していた。それが古代の「一ノ口遺跡」の姿ではないでしょうか。
住居の周りには、「貯蔵穴」と呼ばれる深さ2~3mの穀物用の地下倉庫が数多く掘られており、長い年月の間に273基が次々と設けられています。
 下図は「竪穴住居」や「貯蔵穴」などの分布を示しています。

竪穴住居跡と貯蔵穴 竪穴住居・貯蔵穴
 17「道状遺構」と「柵列」
この遺跡の特色は、単に大規模な集落遺跡というだけではなく、いろいろな施設が発見されていることです。
その一つは、集落への出入りのための「道状遺構」が4条あることで、模型に長く溝のように掘り込まれている「2号道状遺構」は長さ60mにも及びます。
この道の両側には、柱や杭を立てたと考えられる小さな穴が数多くならんで見つかり、それらは集落を囲む「柵列」が存在したことを示しています。

模型の中の小さな穴や左の写真の白い丸をご覧になると、その配列がよくわかります。
「柵列」の中には、2棟の「高床建物」(1・2号建物)があり、場所からして、この建物は、集落に出入りしたり近づいたりする人間を監視する
「やぐら」の役目をしていたのかもしれません。
右のイラストは、「道」「柵列」「やぐら」に構想を交えて当時の「一ノ口遺跡」の姿を描いてみました。

「道状遺構」と「柵列」 2号道状遺構と柵列状ピット群 道状遺構と柵列 「道」「柵列」「やぐら」 ※最初に「環濠集落」とありましたが、濠ではなく柵列に囲まれた(環)、防禦的集落だったことが分かりました。
環濠集落「吉野ケ里」でも柵や逆茂木を多様していますから、水に乏しい丘陵上では、柵列等によって防禦したようです。
 やはり環濠集落の一種ですね。
 18開発前夜
開発前の
一ノ口遺跡周辺
調査中の中央部全景
調査中の北部全景
調査中の南部全景
 19弥生人の生活
今から約2300年前、中国大陸や朝鮮半島から日本に「稲作」が伝播し、「弥生時代」が始まります。
以後、人間の生産活動は「米作り」に重点が置かれるようになります。
この集落に住んだ弥生人も、せっせと米を作っては「貯蔵穴」に蓄え、取り出しては食べたことでしょう。
また、「狩猟」も盛んに行われたらしく、石の矢尻や動物解体用の石器が沢山見つかりました。
下のイラストは「一ノ口遺跡」のある日の様子を想像して描いています。

弥生人の生活 弥生人の生活

 獣の骨と貝の殻
穀物を保管した「貯蔵穴」の多くは、使用後にはゴミ穴として再利用されています。(※使用後とは?貯蔵施設が高床式倉庫に移ったという意味か。)
通常、割れた土器や住居の炉で燃やした木材の灰がよく見つかりますが、「一ノ口遺跡」ではそれらに混じって、弥生人が食べたと考えられる獣の骨や貝殻が数多く発見されました。
獣はイノシシが大部分で、周辺に沢山生息していたことを示しています。
貝は、淡水産のタニシやカワニナのみならず、海水産のカキ、オキシジミ、ウミニナ類も大量に含まれています。
弥生時代当時も海から離れていた小郡市北部に、海産物がもたらされているのは驚きです。下はそれらの出土状況写真です。

獣の骨と貝の殻 イノシシ骨の出土状況 食べ、そして捨てられた貝殻
 
 20年表

年表
旧石器~古代

旧石器時代

・三国丘陵と花立山麓に旧石器人が住み始める
・干潟花立山麓に遺跡出現。
  干潟向畦ヶ浦遺跡

縄文時代

・三国丘陵に短期間人が生活する
 早期(横隅山遺跡)


弥生時代

・農耕集落 (三沢栗原・三国小学校・津古内畑)
・朝鮮渡来人の集落形成か(横隅鍋倉・大板井・小郡)
・大規模甕棺墓地形成 (横隅狐塚・井上北内原)
・鉄器普及、首長出現 (三沢栗原・三国保育園)
・方形周溝墓が造られる (権現山遺跡)

古墳時代

・前方後円墳が造られる
 津古1・2、三国の鼻1
・須恵器出現
 夜須町小隅窯跡
・三国丘陵・花立山麓に
 群集墳(穴観音古墳群)

古代

・井上に寺院造られる
 井上廃寺
・御原郡役所が造られる
 小郡官衙遺跡

 30小郡市の遺跡
花立山古墳群(1400年前)
小郡市内の遺跡
 31小郡市の遺跡
三沢遺跡
苅又須恵器窯
三国境石
九州歴史資料館
埋文センター
越前筑後国境石
薩摩街道
花立山古墳群
花立山穴観音古墳
古代西海道
西島如来石
旧筑前街道
佐ノ古二ツ塚
下鶴古墳跡
太刀洗飛行場跡
この付近は巨大な平野で大阪平野ほどの農地があります
   小郡官衙遺跡
甘木鉄道
媛社神社(七夕神社)
福童原古戦場
上岩田遺跡
筑後平野東西官道
下高橋官衙遺跡 
   
 32花立山古墳群(1400年前)

画像拝借
花立山は標高130.6mの山で、その南側のふもと(小郡市側)を中心に
300基以上もの古墳が作られています。。孔観音古墳は大きな石を組んで作った石室が残っています。
 33国指定史跡 小郡官衙遺跡群(小郡官衙遺跡・上岩田遺跡)(1300年前)
上岩田遺跡 小郡官衙遺跡
画像拝借
飛鳥時代から奈良時代の遺跡です。
今でいう「役所」の働きをしました。
上岩田遺跡の古代役所跡は678年の筑紫国地震で被災し、小郡官衙遺跡へと移ります。
 34大保原合戦(660年前)
大保原合戦図屏風

画像拝借
鎌倉時代が終わった頃、1359年に懐良親王・菊池武光などの南朝(宮方)と少弐頼尚などの北朝(幕府方)が戦った九州最大の合戦がこの小郡を部隊に繰り広げられました。
 35薩摩街道(350年前)

旧松崎旅籠油屋

画像拝借

画像拝借
江戸時代に整備された参勤交代の道が小郡を南北に走っています。
松崎は宿場町で、江戸時代には129軒の建物があり、旅籠(旅館)は
26軒ありました。
現在、旅籠の「油屋」が復元されています。 
 36小郡市内の遺跡
小郡市北部三沢 三沢遺跡
九州歴史資料館
埋蔵文化財センター
丘陵南側の遺跡群
乙隈城跡 花立山遺跡群
小郡官衙遺跡
上岩田遺跡
大崎遺跡
 
 40三国の鼻1号墳の版築 前方後円墳、後円部二段築盛、割竹形木棺 古墳前期か?
古墳の盛り土は、細かく敲き締めながら上に盛って行きます。こうして堅く締まった土を版築と言います。
細かく締められた土は長い間、雨に打たれても崩れることはなく、古墳の「土まんじゅう」の形を保つことができます。
この土層は薬品を用いて三国の鼻1号墳の土層断面を剥ぎ取ったものです。
三国の鼻1号墳の版築

この凄いジオラマは三国の鼻に関係した集落なのか。完成度が高い。
 
 
 

 100ミニ特別展「歴史のなかの植物」

 はじめに
四季の変化が豊かな日本には、むかしから数多くの植物が生育しています。
しかも、気候や地勢、季節によって、芽生える草花や生い茂る木々の種類は異なり、日本各地でその地域独特の景色や環境を生み出してきました。

これらの植物には、いにしえから人々にとって身近な存在であり、日々のくらしの中で様々に利用されてきました。
心身を保つための食事や薬、肉体を守るための衣服や住まい、生活を豊かにするための色どりなど、その用途は枚挙にいとまがありません。
また、地域ごとに特色ある植物を活用してきたことにより、多様な文化が生まれてきました。

今回の特別展では、このような植物と人々のくらしの歴史をご紹介します。
現代でも、私たちのくらしのすぐ傍らにある、植物の姿に目を向けて頂く機会になれば幸いです。

最後になりましたが、今回の特別展を開催するにあたり、ご協力頂きました関係各位に記して感謝申し上げます。


 110

 111衣 -着る-
中国の正史で、日本の3世紀前半の様子が書かれた「魏志倭人伝」には衣服について次のような記述があります。
 「男子は皆、何もかぶらず結った髪を出しており、木綿で頭を縛り付けている。
  その着物は横幅があり、ただ、結び付けて繋げているだけで、ほとんど縫っていない。
  婦人はおでこを髪で覆い、折り曲げて結っている。
  上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。」

またこの頃の人々は、既に苧麻(カラムシ)や綿、蚕から取った繊維を撚り合わせて糸を造り、機で布を織る技術を持っていたようです。
この布を接ぎ合わせ、頭と手を出す穴を残した「環頭衣」と呼ばれるタイプの衣服を着ていたと書かれています。

麻や苧麻、葛など、野山でごく普通に目にする植物を材料にした布は、その後も市井の人々の衣服の材料として利用されました。
特に麻布は、奈良時代から国に納める税としても取り扱われるようになります。
江戸時代中頃に綿布の生産が本格化するまで、麻や苧麻の布は日本の衣服の主役だったのです。

※苧麻(カラムシ)の呼び名が、なぜか兵庫県播州地方でのみ「ヒウジ」というのです。なぜそんな方言ができたのかとても不思議です。理由を知りたい。

はじめに 衣 -きる-
貯蔵穴出土の
壺に入っていた
アカソの布
布が入っていた壺
弥生土器 壺
横隅北田遺跡44号貯蔵穴
アカソの布
弥生時代
横隅北田遺跡44号貯蔵穴
イラクサ科植物製の布
 112衣服を作るための道具
 外気や衝撃から身体を守るための衣服は、動物の皮革を利用することから始まったと考えられています。
その後、アンギンや機織の技術が広がったことで、薄くて軽い布製の衣服が一般的になりました。

 布を織るためには、まず、そのもとになる糸を作らなければなりません。
材料となる繊維質のものをつなぎ、これに「撚り」をかけることで強くしなやかな糸にします。
遺跡の発掘調査では、厚みのある円盤に穴をあけた、紡錘車という道具が出土します。
この中央の穴に棒を刺し、おもちゃのコマのように回転させることで、繊維を撚り合わせていたようです。

こうして作った糸を布に仕上げるための機は、現代のもののようにしっかりした枠組みを持つものではなく、経巻具や綜絖といったパーツが
縦糸によって繋がる簡便なものだったと考えられます。
また、衣服一着分の布を織るのに5,400mの糸が必要で、材料集めから完成まで二カ月かかる、という専門家の試算があります。

衣服を作るための道具
機織の道具 石製紡錘車
弥生時代
三沢北中尾遺跡7、32号貯蔵穴・2号環濠
土製紡錘車
弥生時代
三沢北中尾遺跡7、34号貯蔵穴・2号環濠
カラムシの繊維
弥生時代~
紡錘車を使った
糸紡ぎ
環頭衣 弥生時代

 113機織の神~媛社宗像氏
奈良時代にまとめられた『肥前国風土記』には小郡市大崎にある媛社神社(ひめこそ、七夕神社)にまつわるエピソードが記されています。
 「肥前国基肄郡きいぐん姫社郷ひめこそむら に流れる山道川やまぢがわには、荒ぶる神がいて、道行く旅人の半数を害していた。
  この被害をおさめるべく占いをしたところ、宗像の珂是古かぜこなる人物に祀らせるように、との結果が出た。
  そこで珂是古を招いて神の社を祀らせることにした。
  社を立てる場所を選ぶために、珂是古がはたを放つと、三原郡の姫社の杜に落ち、また、反り飛んで山道川のあたりに落ちたので、
  そこに神を祀った。」 (※幡のいみはわからず。漢字の意味はまきちらすの意味だが。バンのことかもしれない。細長い旗である。)

その後、珂是古の夢に機織りと糸繰の道具が登場したことで、荒ぶる神が織女神であることが分かったとされます。
このエピソードは、単なる荒ぶる神の調伏ちょうぶくの物語ではありません。
玄界灘沿岸を拠点としていた宗像氏が、内陸にある御原郡まで影響力を及ぼしていたこと、そしてこの物語の舞台である御原郡や基肄郡の辺りは、
女神を戴き祀るほどの機織の技術を持っていたことを示しています。
 ※渡来人の機織部が沢山住んでいたのかな。
 ※しかし、なんで機織りの渡来人が、通りすがりの人の半分を殺すんだ。意味が分からない。
 説話が混濁してごちゃ混ぜになっているのかもしれない。

 日本の衣服
 環頭衣から始まった日本の衣服は、絹と麻を素材とし、主に貴族階級によって変化と発展を遂げました。
飛鳥時代には中国の影響を受けた袴はかまや裳(女性用スカート状の衣服)をつけたスタイルが成立し、
平安時代になると、表衣を沢山重ねた束帯そくたいや重袿かさねうちぎとよばれる形が登場します。
鎌倉時代以降はこれが徐々に簡略化され、礼服と平時の衣服に大きく差が見られるようになります。
江戸時代には、庶民文化の隆盛とともに一般の人々の衣服も発達していきました。

絵巻物や浮世絵に描かれた人々の衣服は、様々な色や柄で溢れています。
これらの色は、茜や紅花のように高価で希少な染料を使ったものもあれば、
藍のように毒消しの効果を持たせた実用的な染物もあります。

 衣服の色の大半は、山野に生育する草木の花や葉、幹、根など、身近な植物を染料にして生み出されました。
また、衣服を重ねた色目にも「桜」や「山吹」、「竜胆りんどう」といった植物の名前がつけられています。

機織の神~媛社神社と宗像氏~
日本の衣服
草鞋(わらじ)
平安~江戸
糸車
江戸~明治
糸に撚りをかける
浴衣 江戸時代
湯上り・寝間着
 

 114食 -たべる-
 今から1万年~2,000年前までは、山の獣を狩ったり、木の実や野草を集めたりして普段の食事をまかなっていました。
住まいの近くで土を耕し、作物を栽培していた地域もあったようですが、食料の大部分は自然の中に存在しているものでした。

その後、大陸から水稲耕作がもたらされると、人々の食を取り巻く環境は大きく変化します。
自然の恵みも引き続き利用しましたが、主食である米の栽培が、集落の最重要事項とされました。

木々を切り倒し、丘を削り、、小川を堰き止め、水路を掘り、…米作りに適した環境が人々の手によって造られて行きました。
いわゆる「環境破壊」とは、自然景観を人間の力によって変え始めた、この時代に始まったと言えるでしょう。
しかしこうして育てられた米によって、それまでよりも多くの人々の生命をつなぐことができるようになりました。
稲作の技術が広がるとともに、日本の人口はどんどん増加していったと考えられています。

※弥生人たちが米を作ったのは、主食とするためだったのでしょうか。
準構造船という、小さくて、足元は海水に浸かったままの、いつ沈むかもしれない乗り物で、危険を冒してやって来た半島人は、米を作りに来た。
着の身着のままで、唯一価値のあるものは籾だったに違いない。小さくて軽くて少々塩水に浸かってもかまわない、
そして、湿地を見つけて蒔けば、やがて何十倍にも増え、それを商品として、やがて季節風に乗ってやってくる定期船に渡せば、財物となり、
半島の衣類とも、交換できる。やがては、もっと高価な財物とも交換できるほどの水田を開墾できれば、なんでも望めるだろう。
半島では、地主や領主に農奴としてこき使われたが、ここで成功すれば、大地主にだってなれる。

半島人は、きっとそう思って来たのに違いない。米は商品であり、彼らの食料は裏作で作る雑穀だっただろう。

食 -たべる-
農具 石包丁 石包丁
井上北内原遺跡
9号住居
石包丁
一ノ口遺跡
鎌 弥生時代
鉄鎌
大板井遺跡1号祭祀土壙
石鎌
井上北内原遺跡
表面採集
籾跡のある弥生土器
大保横枕遺跡2内環濠

 115自然を改変することの始まり
 力武内畑遺跡りきたけうちはた
小郡市で最初に米作りが始まったのは、市の北西部から延びる丘陵に挟まれた小規模な谷の辺りと考えられています。
力武内畑遺跡は、弥生時代初め頃のムラで、小高い丘の上に住居や食料を保管するために貯蔵穴などがあったことがわかっています。

このムラに住んでいた人々は、近くの谷を水田にして米作りを行っていました。
田圃は幅30cm程の畔で区切られており、1枚あたりの面積は現在の田圃よりかなり狭いものだったようです。

また、近くを流れていた小川の水を稲作に利用するため、井堰という施設を造っていました。
小川の途中に、木杭や板材を打ち込んで水の流れを堰き止め、水田に繋がる溝を掘ってここに堰き止めた水を誘導するという仕組みです。
稲作に必要な水を確保するためのこのような方法は、現在でも多くの場所で行われており、古くから高い米作りの技術が伝えられていたことがわかります。
今の稲穂たなびく田園都市・小郡の姿は、2000年以上前の人々からずっと受け継がれてきたのです。

 日本人が食べてきた植物
弥生時代に伝わった米作りは、その後、国の基盤を支える産業になっていきます。
国の重要な儀礼として新嘗祭が執り行われるようになり、人々に課される主な税は米とされました。
このように米を重要視する考えと、仏教の広がりにより肉食を避けるようになったことが、日本の食文化に大きな影響を与えました。
日本最古の歌集といわれる『万葉集』には、様々な食用植物が登場しています。
主食となる米や粟、麦のほか、嫁菜よめな・芹せりなどの野草も歌に詠みこまれています。
また、瓜、芋といった栽培種の野菜類や、調味料である醤ひしお・酢の名前も見られます。

温暖で四季の変化に富んだ日本の豊かな自然が、植物 を多様する食生活を生み出したと言えるでしょう。

 「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば 増して思はゆ  何処より 来たりしものぞ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ
   瓜を食べると子供のことが自然におもわれる、 栗を食べるとなお一層。
   いったいどこからやって来たのか、近々と目に迫り、とても眠れない。」  (※どうも迷訳なので、外部へ)

自然を改変することの始まり
力武内畑遺跡
日本人が食べてきた植物
イチイガシ
・横隅狐塚井堰7 16号貯蔵穴
・一ノ口遺跡26号住居
アズキ 栽培種
・横隅狐塚井堰7 16号貯蔵穴
・上岩田遺跡305号住居
コナラ
一ノ口遺跡
モモ
一ノ口遺跡21号土壙
オニグルミ
一ノ口遺跡64土壙
コメ
ダイズ・トチ・クリ

 116食料を守るめの知恵
苦労して集めたり、工夫して育てたりした食料は、次の収穫が得られるときまで、大切に保管しておかねばなりません。
米作りが始まったころは、地面に深い穴を掘り、簡単な屋根をかけて、中に食料である木の実や米を蓄えていたようです。
このような穴は貯蔵穴と呼ばれています。その後、湿気や虫、小動物などに食料が害されないように、床を高く上げた建物を倉庫としてるようになります。
弥生時代のムラである横隅狐塚遺跡では、深さが2~3mもある貯蔵用の穴が沢山見つかっています。
穴の壁が崩れたり湿気が入ったりしないようにするため、火を焚いて床や壁を堅く焼き締めてあり、そこに米や豆、木の実を貯蔵していました。

特に米は、まず藁を穴の底に敷き、その上に稲穂の状態で置くという方法を採っていました。さらにその上を籾殻などで覆っていた可能性も考えられています。収穫するまで長い期間と多くの労力が必要な米を、人々が大切に取り扱っていたことがわかります。

食料を守るめの知恵
コメ 弥生時代
横隅山遺跡26号貯蔵穴
炭化米 稲穂
 

 120飾 -いろどる-
 121
植物、特に花を愛でたり祭事の為に捧げたりする行為は、世界各地で行われています。
日本でもその歴史は古く、『日本書紀』のイザナギ、イザナミに関わる章の中に「死者に対して花をもって弔う」という内容の記述があります。
また、奈良時代には、春の野原での菜摘み、梅や桜の花見が一首の娯楽とされていました。

女性が髪に、男性が冠などに草花を挿すことも多かったようですが、これは単なる飾りとしてではなく、植物を身につけることでその生命力や霊的な力を宿そうとした、まじないの一種と考えられています。

室町時代になると、茶の湯の流行と共に床の間に花を飾る「生け花」が成立します。
生ける植物の種類はもちろんのこと、器の素材や形、季節感にも工夫が凝らされていたことが、記録からわかります。
植物を美しく飾ることを目的とした「いけばな」は、時代毎に流行や好みが加えられて、現代までその流れは繋がっています。
本物の植物ではなく、その姿かたちをモノの装飾として使うことも、長く行われてきました。

神事や仏寺に関わるものを初め、日常生活に使う道具にも、よく見ると様々な植物の模様が見られます。

飾 -いろどる-
蕨手文鏡
弥生時代
横隅狐塚遺跡2
63号土壙墓

拓本
蕨手文鏡
弥生時代
横隅狐塚遺跡2
63号土壙墓

 122弔いの場に描かれた植物
古墳の石室に顔料や線刻で様々な紋様を描いた「装飾古墳」は、福岡県と熊本県で多く見つかっており、
装飾の種類も幾何学文や船、鳥などバリエーション豊かです。

この装飾の中に「蕨手文」と呼ばれる紋様があります。
逆ハの字に延びた線の先端が、外側にくるりと巻き込む形をしており、これが蕨の若葉に似ていることから名付けられました。
うきは市の珍敷塚古墳や桂川町の王塚古墳の壁画に描かれています。

対して「木の葉文」と呼ばれる紋様もあります。こちらは上毛町の穴ヶ葉山古墳群で見つかっていますが、葉脈がしっかり表現された非常に写実的なものです。古墳を造った人々が、明らかな意図をもって木の葉という題材を選んだことがうかがえます。

古墳時代の葬送儀礼には、葬られた人の社会的立場や属していた集団の政治的立場など、様々な要素が影響していたと考えられています。
石室の装飾もまた同様であったことでしょう。
死者を送る弔いの場に残された多様な紋様は、一体どの様な思いで描かれたのでしょうか。

弔いの場に描かれた植物
うきは市 珍敷塚古墳の彩色絵画
九州歴史資料館
上毛町・穴ヶ葉山1号墳線刻画

 123仏の教えを載せた屋根 ~上岩田遺跡と井上廃寺の瓦~  飛鳥白鳳~奈良時代 上岩田遺跡
現在のように、壺や皿などの入れ物に植物を挿し入れて飾るようになったのは、仏教行事で花を供えていたことが始まりと言われています。

このような(仏教行事の)ときは、樒しきみや蓮といった仏教と関わりの深い植物を選んで使っていたようです。とりわけ蓮は重要視され、供花としてだけでなく、仏教寺院の建物や仏像を彩る装飾のモチーフとしても多く使われています。

小郡市上岩田遺跡では、7世紀の仏堂と考えられる建物跡が見つかっています。この建物の屋根を飾った様々な形の瓦には、蓮の花の紋様が施されていました。当時の職人は、まず紋様を木型に彫り、そこに粘土を詰めてかたどって作りました。1300年以上前に造られたこの紋様、蓮の花の肉厚な花弁と中央の花托が見事に表現されています。

上岩田遺跡の仏堂は678年の筑紫大地震で倒壊してしまいました。しかし、蓮の紋様の瓦は、小郡市井上で新たな寺院を建てる際に再利用され、仏の教えを伝えました。

仏の教えを載せた屋根
~上岩田遺跡と井上廃寺の瓦~
鬼板瓦
飛鳥白鳳~奈良時代
上岩田遺跡
桷先瓦たるきさきがわら
軒丸瓦
軒平瓦
 奈良時代 井上廃寺
軒平瓦
奈良時代 井上廃寺

 125食卓を彩った植物
日常的に使われる漆器類に植物の紋様が見られるようになるのは、平安時代に入ってからのことです。
10世紀の中国では細い線で草花などを彫り込んだ陰刻文の磁器が作られるようになり、交易品として日本にもたらされて全国各地に流通しました。
畿内や東海地方にあった焼き物の産地では、これを模した陶器を生産するようになります。

戦国時代には社交としての茶の湯の浸透を受け、国内の焼き物の生産が活発になります。また、同時期に、朝鮮半島から新たに磁器の製作技術が伝えられ、日本の焼き物の生産は大きな画期を迎えます。

またこのころから、装飾のために様々なモチーフを描く「絵付け」の焼き物が造られるようになります。
「絵付け」の題材は、詩歌や故事に由来するもの、山河の風景など多岐に渡りますが、圧倒的に多いのが植物を描いたものです。当時の人々がくらしの近くにあった草花を生活の彩りに用いた様子が伺えます。

食卓を彩った植物 青磁 碗 青磁 碗
鎌倉時代
青磁 碗
青磁 皿
平安~鎌倉
津古元矢次遺跡
青磁 碗
平安~鎌倉
津古東台遺跡
 

 130材 -つくる-
 131材 ―つくる―
生活の場の近くにある植物は、住まいを整える時や食料を加工するときの道具の材料として使われていました。また、米や麦、野菜の栽培や収穫にも、身近にある植物を材料にした道具を利用していました。このような道具を作るとき、その用途によって材料に求める強度や重さ、形は異なります。自然の近くで生活していた昔の人々は、植物の持つそれぞれの性質を熟知しており、その特性をうまく活用していました。また、道具材料が手近な素材なので、使っていて壊れた時もすぐに修理することができました。

植物を材料にした道具は、捨てられると腐って土に還るため、遺跡の発掘調査ではめったに見つかりません。ただし、火事などで炭化した時や、水気の多い土地に埋まって空気に触れずに時間が経過した時など、ごくまれに元の形を保ったまま出土することがあります。

このように偶然残った道の中には、1000年以上前のものでも現代の道具とほとんど変わらない形のものが見られます。
道具がその役割を果たすためには、どのような形にすると1番効率が良いのか。いにしえの人々の発明した形は、現代でも通用する非常に高いレベルであったといえます。

材 -つくる-
縄文土器
船元式
干潟向井畔ヶ浦遺跡
縄文をつける道具
植物の繊維を撚り合わせたもの

 132「道具」と道具を作るための道具
人類最大の発明品と言われる「土器」。
今から12,000年程前に造られた縄文土器には、表面に植物の繊維を撚り合わせた縄を押し付けた紋様、いわゆる「縄文」がついています。
これは土器に装飾性を持たせると同時に、器壁の厚みを均一にする目的があったと考えられています。

そののちに誕生した弥生土器の表面には、1mmくらいの幅の縦線が密集しているのが見られます。
これは粘土同士の繋ぎ目をなくすため、木目のある板で表面をなでた痕跡で「刷毛目」と呼ばれています。
また、土器を作るときの台として木の葉を使っていたらしく、葉脈が文様のように残っている例もあります。

住居の柱から、火を起こすときの燃料まで、木には様々な用途があり、普遍的に使われています。
こちらはまず石の道具で、その後金属を用いて加工されていました。
弥生時代の遺跡からは、伐採をするための重くて太い蛤刃や、表面の細かな調整を行うための刀子や・ヤリガンナといった工具が見つかっています。

奈良時代には、すでに現在のものとほぼ同じ形の鋸が使用されていたようです。

「道具」と道具を作るための道具
さまざまな種類の斧
太型蛤刃
柱状片刃石斧
扁平片刃石斧
柱状片刃石斧
弥生時代
津古内畑遺跡

大きな木材の表面を平らに削る
太型蛤刃
弥生時代
津古内畑遺跡

木を伐採する
鉄斧
弥生時代
小郡若山遺跡3
8号住居

木を切り倒す
鉄製鋸
奈良時代
小坂井京塚遺跡3
2号住居
切り分ける
鉄製刀子
弥生時代
横隅狐塚遺跡2土壙墓
木材を削って加工する
鉄製槍鉋
弥生時代
横隅狐塚遺跡2
木の表面を平らに削る
 133
竪杵たてぎね
弥生時代
三沢南崎遺跡4
3号流路

穀物などを搗いて加工する
横杵よこぎね
脱穀する
弥生時代

弥生時代
小郡川原田遺跡2
自然流路

 134必要なものは全て自然からもらう
遺跡の発掘調査で見つかった木材の一部は、樹種の分析がなされています。その結果、弥生時代の初め頃から、コナラ、アカガシ、ツブラジイ、クヌギが一般的な材料として利用されていたことが わかっています。アカガシは堅く、切ったり削ったりすることが難しい種類の木なので、当時から木材加工の優れた技術と道具があったと考えられます。

大崎中ノ前遺跡でも、アカガシとツブラジイが多く見つかっていますが、漆塗りの製品にはヒノキ、農具にはクスノキを使うなど、用途によって樹種を使い分けていたようです。
三沢水島遺跡では、サカキやサクラ、ヤナギなど様々な種類の木を使っていますが、特にクヌギが多く利用されています。
西日本では、シイやカシといった照葉樹を一度伐採すると、森が元通りに回復するまでに時間が掛るため、徐々にコナラやクヌギを中心とする落葉樹林へ変化すると言われています。

むかしの人々の道具は、自然の中から材料を調達して作られています。その材料の種類がどの様に変化するか調べることで、当時の人々の生活をしていた環境の変化も知ることができます。

必要なものは全て自然からもらう
網枠 弥生時代
小郡川原田遺跡2
Bトレンチ
 135小郡市内の遺跡の花粉分析の結果
小郡市内の遺跡の
花粉分析の結果
弥生前期 弥生中期
弥生中期後半~後期終末期
弥生人が自然を改造し始めた。有用植物に変え始めた。
弥生後期後半有用材が全く変わってしまっている。
木炭や薪の需要が高まった。

 木器・土器底部
三又鋤 弥生時代
小郡川原田遺跡2
自然流路
鋤の柄 弥生時代
小郡川原田遺跡2
1号館環状遺構
葉脈が付いた土器
大保横枕遺跡2内環濠
敷物痕付き土器
三沢北中尾遺跡4土坑

 136経済を支えた植物
小郡は弥生時代の水稲耕作から始まり、現在でも農業と縁の深い所です。
この小郡で栽培や品種改良を進め、江戸時代に久留米藩の重要な商品作物となったのが、木蝋の原料である櫨ハゼの実です。

17世紀の初め頃、小郡町の庄屋であった池内孫右衛門は、家の周りや空き地に櫨の木の苗を植えることを始めました。
当時の小郡町は米作りに必要な水の確保が難しく、農民が生活に困っていました。
そこで櫨の栽培と販売でお金を稼ぎ、地域の農業を助けようと考えたのです。
孫右衛門は内山伊吉樋青年と共に、収穫を挙げるための品種改良も行いました。

毎年確実に実が生り、付きも良い新種の櫨は「伊吉櫨」とよばれ、久留米藩内だけでなく九州一円に広がります。
小郡町では、やがて加工や販売にも人々が関わるようになり、その後の町の発展に繋がっていきました。

このように江戸時代の小郡町や久留米藩の経済を支えた櫨ですが、ロウソクの代わりにランプが照明の主流になり、びんづけ油が必要なちょんまげが禁止されたこともあって、木蝋が使われなくなり、明治時代には栽培されなくなりました。

※家の周りにハゼの木は植えないだろう。これは、泥棒除けに違いなかろう。物凄くカブレるから、うかつに侵入すると泥棒に成功しても、カブレた人間を探せばすぐに犯人が分かってしまう。ただし、正面玄関から押し入る強盗を働けば別だが。

経済を支えた植物 和ろうそく
ハゼの実
ハゼの実
 
 
 140祈 -うやまう-
 141祈 -うやまう-
日本は、およそ2000年前から米を主な食料としてきました。そのため、稲を初めとする農作物の豊作を願う意識が強く、
古くから人智を越えた存在への祈りと感謝の思想があったと考えられます。その理由は、農作物の豊凶は天候に大きく左右されたものであり、
その天候は人間の力ではどうすることもできない、いわば「神仏が司るもの」という認識があったからと思われます。

弥生時代の遺跡では、大量の土器を棄てた穴や、金属器を埋納した穴が確認されています。これらは、祈りや感謝を捧げ、共に生活する人々の繋がりを深める、祭の儀式に関係するものと考えられています。生活の場であるムラには人々が集い、祈りと感謝を捧げるための場が作られていたのでしょう。

現在でも多くの集落には地域の人々が「神仏をまつる場」である寺社があります。そしてそこには、目に見えない神仏を思うよすがとして、また神仏の憑代として、榊や供花、御神木など、植物の存在が見られます。その他にも、新年の祝いや収穫を感謝する神事など、神仏を敬う年中行事が生まれ、門松や注連縄などの植物が用いられてきました。

※昔はゴミ収集がなかったから、腐敗分解・焼却できないごみは、屋敷の隅に穴を掘って埋めたんだ。又は、台風や豪雨のときに川に流したんだ。

祈 -うやまう-
小郡市の天然記念物
今隅・天忍穂耳神社のオオクス
小郡市の天然記念物
横隅・隼鷹神社の
クスノキ群


 神社と植物
神々と関わりの深い樹木、古くから特定の土地にある木や社名に縁のある木を「御神木」と読んで祀ることがあります。
大抵は神社の境内にあり、注連縄を掛けたり、周囲に柵を廻らせたりして敬い、大切にされています。
御神木には杉やなぎ、梅、松、桂、椿、藤など様々な種類があります。
小郡市内の神社の御神木のうち、

大中臣神社境内の将軍藤は福岡県の天然記念物に、
横隅・隼鷹神社境内のクスノキ群と今隅・天忍穂耳神社境内の大クスは小郡市の天然記念物に指定されています。

信仰に関係する植物は御神木だけではありません。6月末に行われることの多い「茅の輪くぐり」と呼ばれる神事があります。
茅の輪とは、茅または藁を束ねて作った大きな輪のことで、これを鳥居などに掛け、その中をしきたりに合わせて人々がくぐることで、
病気や災厄を祓うとされています。
また、秋の収穫に感謝する神事として、隼鷹神社や乙隈・天満宮の早馬祭では藁で作って馬を、上岩田・老松神社では藁で作った人形の注連縄を用いています。

 九州地方とクスノキ
クスノキは暖かい地方に育つ常緑樹で、日本では約80%が九州地方に分布しています。その歴史は古く、「魏志倭人伝」に「櫲樟ヨショウ」の名称で
紹介されています。害虫が嫌うため、古代から仏像や厨子、建物の材料として用いられてきました。

『風土記』や『日本書紀』に播磨国や伊豆国のクスノキで造った巨船について記述されているように、堅くて水に強いことから船の材料としても利用されました。
戦国時代の初め頃にかけて、各地で城や軍船が建造されたため、木材資源の枯渇が深刻になり、鹿児島藩や福岡藩ではクスノキの植林・育成や伐採の禁止といった保護政策を打ち出しました。

また、江戸時代に日本を訪れた外国人もクスノキについて記しています。ドイツの博物学者であったケンペル(1651~1716)の『江戸参府旅行日記』には、長崎街道の山家宿の手前にクスノキの大木があったという記述が残されています。
このようにむかしから身近にあり重宝されていたクスノキは、九州地方では御神木として祀られていることも多く、小郡市内の神社の御神木も大半をクスノキが占めています。

 おわりに
今の時代に生きている私たちにとっても、植物はとても身近な存在です。しかし、日常的に触れる植物とは、人の手で育てられた観賞用であったり、厳しく選別された食用であったりと、自然な姿からは遠く離れたものがほとんどではないでしょうか。
また、最近の環境や気候の変化により、かつてはよく目にすることのあった植物が全く見られなくなった例も少なくありません。

70~80年ほど前までの日本では、日々の暮らしに必要な物の多くを住まいの近くにある植物でまかなっていました。日本の長い歴史において、暮らしの中心に自然があり、それを損ねない程度に利用するという生活が一般的でした。

ところがこのくらし方が激変し、現代の生活を取り巻くものは多くが産業化・工業化されています。
衣食住や生業、まつりなど、地域に根ざしている文化の背景には、そこに住む人々と自然との関りが存在します。人々の暮らしと自然の繋がりや、周囲の自然そのものが変わってしまえば長い年月をかけて作り上げられ、伝えられてきた文化は消えていかねばなりません。

今回の展示を機に、植物を初めとする皆さんの周りの自然に付いて、そしてそれらが生み出した文化について、思いをはせて頂ければ幸いです。

神社と植物 九州地方とクスノキ おわりに 人形じめ
上岩田・老松神社

秋の神事で作り。拝殿に祀られる注連縄
 
 150江戸陶器 ピンボケ
色絵陶磁器
江戸時代
色絵 碗
色絵皿 染付陶磁器
江戸時代
染付碗
染付皿
 160
 161漆塗り木製品
漆塗り木製品
木製入れ物の脚部分か
漆塗り木製品
弥生時代
大崎中ノ前遺跡2
12号土坑
黒漆と赤漆の塗分けの様子
 162籠状編組製品 弥生時代 大崎後原遺跡2 2号井戸
籠状編組製品
弥生時代
大崎後原遺跡2
2号井戸
編組製品実測図 籠状編組製品
弥生時代
大崎後原遺跡2
2号井戸
幅の広い植物を編んだ入れ物 
 
 170復元穴釜
 
 300九州歴史博物館
 九州歴史博物館は、小郡市埋蔵文化財調査センターのすぐ北側にあります。同じ三国ヶ丘団地遺跡の丘陵上にあります。
西鉄天神大牟田線三国ヶ丘駅(この丘陵の東麓にある)から遊歩道があり、歩いて行けます。
以前行った時には開館初期で遊歩道途中に発掘調査中の遺跡が「発掘展示」という方法で展示されていました。
 大変立派な建物で、大量の遺物が展示されています。ただし、ここは撮影禁止で、何があったかは、全く覚えていません。
しかし、今回、小郡市埋蔵文化財調査センターを訪問し、はじめてこの丘陵自体が巨大な遺跡群の集合体であることが判りました。
 小郡市埋文は、小さな展示場ですが、そのような意味で大変重要な展示が行われていると感じ、取り上げています。