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目
次 |
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01筑後市郷土資料館 外観
02年表
03常設展示室
10先史時代
11筑後市の歴史的環境
12筑後の歴史と考古学 |
13旧石器時代
13a旧石器
13b縄文石器
14縄文土器 16縄文時代 |
20弥生時代
30弥生土器
40木製品
55古墳時代
60形象埴輪
71古墳石室 |
80飛鳥・奈良時代
82土師器
85平安時代
87須恵器と土師器
90中世
93陶磁器1 |
00近世
131西海道と墨書土器 |
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01筑後市郷土資料館 外観
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竃門(かまど)神社特別展 筑後市溝口1553
「鬼滅の刃」の聖地だったそうです。
九州旅行の最中に鬼滅の刃の列車が走っているのを、何度も見かけました。
九州を走っている電車は独特な列車が多いのですが、ホームのペンチに座っていた男性が、やおら立ち上がって巨大なレンズのカメラで通過列車を撮影し初めて最後尾に蒸気機関車のようなものを繋いでいました。これが特別列車だったのです。 |
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02年表
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03常設展示室
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10先史時代 |
11筑後市の歴史的環境
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筑後市は福岡県南部から佐賀県東南部に広がる「筑紫平野」を流れる筑後川左岸の「筑後平野」に区分されています。(原文ママ)
低平な地形と、肥沃な土壌、豊かな水源に恵まれ、古くから活発な人間生活が営まれた地域です。
筑後市の中心集落「羽犬塚」は、旧藩時代に坊津街道の宿場町として繁栄しました。
筑後市は明治21(1888)年の「市制・町村制」に始まる町村合併によって、周辺の町村と合併した結果、
昭和32年の合併を最後に現在に至っています。
筑後市の面積は41.85㎢、市域は東西7.5km南北9kmです。 |
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筑後市北部は洪積台地(約200万年前~約6万年前)からなる台地、筑後市南部は扇状地性低地です。
溝口、久恵、北永田、津島などは矢部川の洪水の際に堆積した土砂によって形成されたといわれています。
筑後市北西の西牟田流(にしむたながれ)から高江、庄島、折地、下妻を結ぶ線より以西は大部分が海抜5m以下の三角州性低地で、
筑後川・矢部川水系の堆積による微細な泥質土からなる低湿地で、この地域には「溝渠網(クリーク)」がみられ、日本の平野でも特異な
景観の地域です。クリーク造成の創始者は713年(和銅6年)筑後守となった「道君首名みちきみおびとな」と言われています。
筑後市の最高点(標高)は赤坂の40.5m最低点(標高)は井田(せいでん)の3.6mです。 |
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筑後川を流れる自然河川「矢部川」は、水源地の釈迦ヶ岳山地の三国山(八女市矢部村)からみやま市・柳川市の河口まで
57.8km、流域面積704.5㎢、福岡県内では筑後川、遠賀川に次ぐ第3位の河川です。
また、筑後市南西部の扇状地性低地に水田灌漑を行うために人工的に作られた河川として「花宗川」「山ノ井川」があります。
花宗川は矢部川・星野川合流点下流に江戸時代初期に井堰が造られたといわれています。
山ノ井川は星野川に築造された井堰から取水した川です。筑後川北部地域は台地であるため、多くの「溜池」も造られました。
筑後市は「船小屋温泉」を代表する「湧水」にも恵まれた地域です。
船小屋温泉は江戸時代末期の文化・文政期(1804~1830年)頃から知られた湧水です。 |
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歴史や自然を刻む地名は筑後市にも沢山残されています。
地名は人間が集団生活を営み、集落を形成して生活する上の必要性から土地の「記号」として生み出した、祖先が遺した貴重な文化遺産です。
特に「大字」「小字」は地域の特徴を如実に表したものです。 |
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先史時代
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12筑後の歴史と考古学
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地球が誕生して46億年と言われています。ヒトの発祥は約300万年前、現代人に直接つながる「新人」は約4万年以降に出現し、世界各地で発見されています。
日本で発見されている多くの先土器時代の石器は、約3万年前以降のものです。また、全国的には4000箇所以上の遺跡があります。
石器とは石を材料にした利器(道具)で、石器の大部分は「打製石器」(石に打撃を与えて製作する石器)と言われています。
また、この時代には土器がありません。時代の名称も「旧石器時代」「無土器時代」などと呼ばれることもあります。
筑後市では約3万年を超える遺跡や石器は見つかっていません。蔵数、鶴田で約3万年から約1万年前頃の石器が5点出土しています。
蔵数遺跡G地点(くらかず)からは「角錐状石器」と言われる未完成の石器で、石材は佐賀県伊万里市の腰岳産の黒曜石が使われています。
鶴田牛ヶ池遺跡(第4次調査)から出土した石器は「ナイフ形石器」で、石材はサヌカイト(讃岐石)を使用しています。
これらの石器を使った人々は、動物を採集し、短期間の移動を繰り返しながら生活を営んでいたと考えられています。 |
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筑後の歴史と考古学 |
筑後の歴史と考古学 |
坂口遺跡の旧石器実測 |
ナイフ形石器の
遺跡分布と地域性 |
東山型……東北地方
杉久保型…北陸・東北日本海側
茂呂型…伊勢湾~北関東太平洋側
国府型…近畿・中四国・九州北東部
九州型…九州島と山口西部 |
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13石器 |
13a旧石器時代
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13b縄文石器
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14縄文土器
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15縄文土器 押し形文土器 志西野々遺跡 約8000年前
押し形文土器
志西野々遺跡
約8000年前 |
九州縄文土器の編年
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草創期~早期 |
前期~晩期 |
縄文土器
曽畑式
古島榎崎遺跡
約3000年前
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16縄文時代
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縄文時代は縄文土器を使用した時代で、約1万年前~2400年前頃の期間を指します。
この時代は考古学では「草創期」「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」という、大きく6段階に分蹴られます。
約6300年前に鹿児島鬼界カルデラから噴出したアカホヤ火山灰が北関東までを含む西日本一帯に降灰しました。
この噴火により縄文早期から前期への環境・生活の変化は大きかったようです。
当時、温暖化のピークにあたり、年間平均気温は、現代よりも1℃~2℃高く、海岸線は内陸まで入り込み、海面が標高3~5m付近まで達していたようです。この時期に全国的に「貝塚」が形成されました。
その後、早期の終り頃の約5000年前から気温が下降し始め、海岸が後退していきます。
およそ3000年前の縄文時代晩期になると、動・植物相や海岸線は現在と同じ環境になります。
縄文土器は、その名の通り土器の表面に撚り紐を押し付けた紋様が見られることから名付けられました。
しかし、約8000年近い期間の中で、時代性や地域性により、土器の形も変化に富み、文様も無文や貝や竹を使った条痕、圧痕、刺突痕などが施され、火焔土器に代表される縄文人の高度な技術を垣間見ることができます。 |
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近年、全国的に縄文時代の遺跡が多く発掘調査され、縄文人の暮らしが復元されてきました。
縄文時代には竪穴住居という家を造り定住化します。住居内には炉で煮炊きをしていたようです。また、塩をつくる技術も生まれました。
これにより、食料の保存・加工ができるようになり、ます。
石器については「磨製石器」があらわれ、石を研ぐ技術を得ることで、石斧や砥石だけでなく、骨や木なども研磨し、道具として製作するようになります。
また、籠製品や編布・織布など、縄文人は現代人と同じような技術を使い、安定した生活を送るようになりました。
筑後市の縄文時代の著名な遺跡として上北島の「裏山遺跡」があります。
発見が昭和29年という、九州の縄文時代研究の先駆けとなった遺跡です。
遺跡からは、縄文時代早期(約8000年前)の「押型文土器」が数多く出土しています。
これらは土器の表面に丸い粒上の文様が施されたものです。また、遺跡からは屋外炉の跡も見つかっています。
市内の微高地の遺跡からは「落し穴」が見つかっています。
約8000年前の築後に住む縄文人がドングリやクリ、トチなどの木の実を押し形文土器で煮炊きし、石器を使った弓矢を携え、
小動物などを、落とし穴を使って捕え生活していた様子が明らかとなっています。 |
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石組炉 縄文時代
志前田遺跡 |
縄文時代
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20弥生時代
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弥生時代は、アジア大陸から様々な技術が伝わり、とりわけ稲作技術や金属加工技術などにより、大きな社会変化が起こり、発展していく時代です。
稲作は縄文時代晩期には九州に伝わっており、農業による生産体制の確立、定住生活、共同体としての生活を送るようになり、階級社会が生まれます。
弥生時代は「前期」「中期」「後期」という3段階に分けられ (早期・終末期を含め5段階とも言われます)、
時期的には紀元前3世紀から紀元後3世紀の約600年間を指します (現在、科学的な研究で年代がさらに遡るとも言われています)。
弥生人は水田を開発することで共同体として集落を形成し、九州を代表する遺跡である吉野ケ里遺跡や板付遺跡などの「環濠集落」と呼ばれる、
集落を溝で囲う集団が現れます。
北部九州の特徴的な遺跡に「甕棺墓」というお墓があります。これは土器に亡骸を入れ埋葬する北部九州特有の墓制で、福岡県内各地で見つかっています。
筑後市内では、全域的に弥生時代の遺跡が残っています。
時代的にみると、前期の遺跡は少なく、中期・後期の集落が沢山見つかっています。
代表的な遺跡に「蔵数森ノ木遺跡」「田仏遺跡」「常用日田行遺跡つねもちひたゆきいせき」などがあります。
これらの遺跡は、竪穴住居を中心とした大集落で、中期以降に住居が爆発的に増えた様子は、稲作を中心とした生産体制が十字した結果であると考えられています。
出土する土器や石器、木製品は種類も数も豊富で、文献資料のない弥生時代の暮らしぶりが考古学から読み取ることができます。 |
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弥生時代の稲作
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弥生時代とそれまでの時代の最も大きな違いは、「稲作が始まった」ということです。
弥生時代の遺跡からは、稲作の普及に伴って新たに使用されるようになった「農具」が出土します。
中でも特徴的なものが「石包丁」です。
「包丁」という名前は、発見された当初は調理用のナイフだと 考えられたためで、その後用途に関する研究進み、現在では稲刈りをする道具だと考えられています。
弥生時代は稲作が始まったばかりで、まだ、 品種が不ぞろいだったといわれています。
同時に植えても稲によって収穫できるタイミングが違うため、現代のようにまとめて根元から刈り取ることができず、熟れている穂だけを選んで
穂先を刈り取る「穂刈」の方法で収穫したと考えられています。
石包丁は、半円形や楕円形をした平らな石器で、周囲を研磨して刃部を作っています。
2つの孔に紐を通し、指にかけて使用しました。
このような形の石包丁は東アジア一帯で見られ、日本でも九州から東北地方までの広い範囲に分布しています。
筑後市ではこれまでに100個を超える石包丁が出土しています。 |
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➀大量の石包丁(蔵数森ノ木遺跡)
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筑後市蔵数の「蔵数森ノ木遺跡」は、弥生時代~古墳時代にかけての大規模な集落遺跡で、市内で最も多い24個の石包丁が見つかりました。
これらの石包丁の多くは筑後地方で産出される緑泥片岩という石材で作られています。
また、中には飯塚市立岩で産出される輝緑凝灰岩という石材のものも含まれており、当時筑豊地方と交流があった可能性を示しています。 |
②大きな石包丁(古島榎崎遺跡こじまえのきざき)
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筑後市南西部に位置する「古島榎崎遺跡」でも数多くの石包丁が出土していますが、その中に長さ17.3cmの大型製品があります。
これは筑後市内で出土した最大のもので、一般的な石包丁の1.5倍ほどの大きさです。 |
③四つの穴の石包丁(田佛遺跡でんぶつ)
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筑後市北牟田の「田佛遺跡」からは、紐を通す穴が4つあいた石包丁が出土しました。なぜ多くの孔があるのでしょうか?
この石包丁は通常より小さく、使い込まれた痕跡があります。
このことから、刃が磨り減っては研ぎ直し、それを繰り返して次第に小さくなっていったものを手に合うように穴の位置を変更し、リサイクルして使っていたと考えられます。
大人が漬かっていたものを子供が使えるように作り替えたのかもしれませんね。 |
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弥生時代 |
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弥生時代の稲作
ピンボケ |
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➀大量の石包丁
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②大きな石包丁
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③四つの孔を持つ石包丁
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30弥生土器
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40弥生時代の木製品
津島九反坪遺跡出土『2000年前の木材』
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遺跡から「溜井」と呼ばれる約2000年前の灌漑施設(農業用水施設)が見つかりました。
この溜井から、農具や家の柱を作るために切り出した木材を、溜井の中で保存した物が出土しました。
これらの木は薬品で「保存処理」し、展示しています。 |
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対馬九反坪遺跡
『木材』
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竪杵残欠
握り手
椀(イヌガヤ)津島九反坪
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2000年前の木材 |
弥生時代の農耕具 |
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50
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53
トピック➀「科学の進歩」 「こげ」と「炭化米」を科学する
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近年、科学的な手法を用いて、遺跡から出土する遺物 (土器など) の年代を特定することや、保存に適した処理をすることができるようになりました。
例えば遺跡から出土した人骨から遺伝子を取り出し、現代人との比較や古代人との遺伝的なつながりを分析する方法、
木の年輪による時代の特定、遺跡の土壌から稲の細胞を分析し、稲作が行われていたかを判別する方法など、
現代科学が考古学にも活用されています。
筑後市では平成16年に国立歴史民族博物館が、筑後市で出土した煮炊きに使用されたと考えられる土器に付着した「こげ」と
竪穴住居の床から出土した「炭化した米」を分析しました。
分析の方法は「放射性炭素14年代測定」と呼ばれるもので、モノの死滅後(生物の死や物質の破壊を受けたとき)から「炭素14」という物質が
年々減少していく現象を利用して、科学的に年代を推定する方法です。
分析の結果、「こげ」は年代範囲の95.1%が紀元前80年から520年の範囲に収まるという結果でした。
従って、科学的には一番古くて紀元前800年頃、新しく見て紀元全530年頃についた「こげ」であるとしました。
従来からの考古学で推定している「こげ」が付いて土器の年代とは300~600年も古い結果となりました。
次いで、「炭化した米」につても、年代範囲の95.4%が紀元前105年から紀元後60年の範囲に収まるという結果でした。
これも同時に出土している土器の年代とは50~100年も古い結果でした。
国立歴史民俗博物館は、全国的にデータを集め、平成16年に「弥生時代が500年遡る」という発表を行いました。
これには考古学者との間で論争になり、どちらが正しい年代なのか現在も研究が続いています。 |
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トピック➀
「科学の進歩」 |
炭化米 |
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55古墳時代
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古墳時代は全国的に「古墳」が造られた時代を指します。時代区分は概ね弥生時代末の3世紀代後半から7世紀代頃までを
「前期」「中期」「後期」と分けます。日本史などでは6世紀後半を「飛鳥時代」「白鳳時代」と呼称するため、時代に幅があります。
古墳の中でも日本的な特徴を示すものが「前方後円墳」です。
この頃から「大和政権」という国家としての発展と、地方は豪族による支配という階級社会が確立されていきます。
社会の中では生活にも大きな変化が生まれます。
古墳時代になると遺跡から「畑」の遺構が検出され、中期(5世紀)には竪穴住居内にあった「炉」が「竈かまど」へ変化します。
また、生活に使用する土器も素焼きのものから、窯で焼いた硬質の土器「須恵器」が朝鮮半島からもたらされ、山裾を利用し、窯が造られます。
交易が弥生時代にもまして盛んになり、様々なモノが造られ、地域間で交流も進んでいくようです。 |
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筑後市内では、「石人山古墳せきじんざん」「瑞王寺古墳」「欠塚古墳かげつか」という3つの古墳があります。
石人山古墳は八女丘陵上にある他の著名な古墳と総称して「八女古墳群」として使用和53年に国指定重要文化財に指定されています。 |
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石人山古墳は5世紀前半に造られた全長107m、竪穴系横口式石室内に、阿蘇溶結凝灰岩製の「家形石棺」が安置され、石室入口には「武装石人」が1体立っています。
家形石棺には幾何学的な装飾文様が施されています。これらの装飾された古墳を「装飾古墳」と呼びます。
被葬者は八女市の「岩戸山古墳」被葬者とされる「筑紫君磐井」の先祖ではないかと考えられています。
瑞王寺古墳は直径26mの円墳です。時期は5世紀中頃、石室は竪穴系横口式石室で、片岩を積んで赤色顔料で赤く染めていました。
石室内からは「珠文鏡」、羨道からは金属製馬具や鉄製鋤先、臼玉などが出土しています。
欠塚古墳は全長58mの前方後円墳です。時期は5世紀後半、石室は竪穴系横口式石室で
石室内からガラス玉、墳丘や周濠から円筒埴輪、形象埴輪、須恵器が出土しています。
筑紫市内では古墳出土の遺物は見られますが、集落遺跡は、弥生時代や後の飛鳥・奈良時代に比べて少ないです。
大型古墳が造られる時期になぜ集落が少ないかはいまだ判明していません。
また、遺跡からは勾玉や鏡・土製人形など「祀り」に関係した特異な遺物の出土も見られます。 |
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古墳時代 |
古墳時代の竪穴住居
蔵数立野遺跡 |
古墳時代の竪穴住居群
田仏遺跡 |
石人山古墳
欠塚古墳 |
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60古墳時代の遺物
坏、高坏 |
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鉄製鋤先
鶴田西畑遺跡 |
小札(こざね)
欠塚古墳 |
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土製品
雨乞い用奉献具 |
動物形土製品 |
人形土製品 |
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70 |
71古墳の石室
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72
③土製模造鏡
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銅鏡を模して造った素焼きのミニチュア鏡で、関東・東海地方と山陽西部、九州北部で多く出土しています。
筑後市内で出土したものは
、粘土を抓み出して鈕ョ造るタイプで、概ね5世紀~6世紀前半の時期に比定されます。 |
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④ミニチュア土器
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手づくねで造られた小さな土器で、生活用の土器の1/4~1/8程度の大きさです。甕や壺、鉢など様々な器種があります。 |
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⑤人形・動物形土製品
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筑後市鶴田の「鶴田西畑遺跡」からは土製の人形が、蔵数の「蔵数東野屋敷遺跡」唐は馬形の土製品か゛出土しています。
どちらも筑後市内で唯一の出土例で、人形は5世紀前半、馬形土製品は5世紀後半頃のものだと考えられます。
『肥前国風土記』佐嘉郡(佐賀県)の条には「土製の人形・馬形を造って荒神を鎮めた」という記述があります。
また、『日本書紀』には
、雨ごいをするため殺牛・殺馬の風習があったことが書かれています。
人形や動物形土製品は、生きた動物の代わりに神に捧げられた奉献用の道具だったようです。
※ということは、上記解説文では触れていないが、雨乞いのために、人も殺していたということになる。 |
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➀土製模造鏡
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④ミニチュア土器
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⑤人形・動物形土製品 |
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73仿製珠文鏡
➀古墳に副葬された鏡 瑞王寺古墳
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筑後市西牟田の「瑞王寺古墳」では石室から仿製珠文鏡が出土しました。珠文鏡とは、鏡の背面に乳頭と呼ばれる小さな点を数多く並べたもので、
この鏡では紐の上下左右の他に58個の小さな乳頭が確認できます。 |
④ミニチュア土器 |
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➀古墳に副葬された鏡
瑞王寺古墳
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仿製珠文鏡
瑞王寺古墳 |
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80飛鳥・奈良時代
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81飛鳥奈良時代
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大化元年(645)大化の改新により大化2年(646)、改新の詔と同時に「薄葬令」が出されます。
これは、身分や地位に応じてお墓の造営を細かく定めたものです。
これは、言い換えれば大小にかかわらず、各地に前代の象徴である古墳が造られていた証です。
(終末期古墳にはこの規定を無視したような古墳も存在します。)
八女丘陵上にも500と言われる古墳が造られた時代が終わり、和銅3年(710)に奈良「平城京」という都ができ、
「大宝律令」という国家の基本法ができました。これにより天皇と都を中心とした「中央集権国家」が充実するものとなります。
時代は和銅3年(710)~平安京ができる延暦13年(794)までを指します。 |
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山上憶良は「万葉集」に「貧窮問答歌」を詠んでいます。「・・・伏廬(ふせいお)の 曲廬(まげいお)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方(かた)に 妻子(めこ)どもは 足(あと)の方(かた)に 囲(かく)み居(い)て 憂へ吟(さまよ)ひ かまどには 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて・・・」
(地面に伏せたように屋根が低くて、斜めに傾いて今にも倒れてしまいそうな粗末な小屋の中に、床に藁を直接敷いている。
父母は自分の頭の方に、妻や子供は足元の方に丸くなって横になり、寒さや飢えに震え、カマドには、飯を炊くための火の気もなく、甑には蜘蛛の巣が張っている。)
これは当時の竪穴住居のくらしの様子や住居の構成人数をうかがえる資料となっています。 |
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筑後市域は
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筑後市域は6世紀は「筑紫国」、7世紀末に筑紫国が分割され、「筑後国」になります。
また、国の下に置かれた「郡」があり、郡の下には「里」があり、後に「郷」と改められます。
現在の市域は「上妻郡こうづまぐん」と「下妻郡しもつまぐん」であったとされています。
平安時代の文献には上妻郡には4つの郷があり、「葛野郷」が市域に該当し、
下妻郡には3つの郷が記載されていますが、市域に該当する地名が不明です。
国には「国府」、郡には「郡衙(郡家)」と言われる役所が配置されていました。
「筑後国府」は久留米市、「上妻郡衙」は広川町が発掘調査でわかっていますが、「下妻郡衙」は筑後市大字下妻という地名のみで,
いまだ発掘調査等では明らかになっていません。
筑後地方のクリークの創始者と言われる「道君首名みちのきみおびとな」は和銅5年(712)に筑後国の長官「筑後守」に任命されています。
彼は「大宝律令」の尖選定者の一人で、著名な人物であったと言われています。しかし、養老2年(718)に在職中に56際で亡くなっています。 |
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82土師器
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85平安時代
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86
平安時代
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桓武天皇は平城京から延暦3年(784)に長岡京へ、延暦13年(794)に平安京へ遷都しました。その後約400年間を平安時代と呼びます。
天皇は、当時衰えてきた律令制度の再建を目指しましたが、「三世一身の法」「墾田永年私財法」を発布したものの、かえって土地公有制度が
崩れたことにより、律令制度が崩壊し、「初期荘園」が発生し貴族や寺社が力を付けていきます。
9世紀の中頃から11世紀前半まで藤原氏による「摂関政治」その後、11世紀中頃には白川上皇による「院政」が始まります。
地方では10世紀になると「武士」が台頭し、後に「平氏」と「源氏」という武士団が 現れ、政治に関与し、平清盛は政権を手に入れますが、
文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで「平氏」が滅び、平安時代は終わりを告げます。
筑後市内の遺跡では、9世紀初めの集落は若干見られますが、9世紀中頃から12世紀の集落(遺構)がほとんど見られません(遺物は出土します)。
これは律令期の崩壊時期と合致するものですが、歴史的に何を意味しているのかはいまだ判明していません。
可能性を指摘するなら、律令制度による農村・農民の疲弊及び秩序の乱れによるものではないかと考えられます。
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市内での一般民の暮らしがどの様なものであったかは遺物から見ていく必要があるようです。
平安時代の食器を見てみると、前代の「土師器」「須恵器」以外に「輸入陶磁器」「黒色土器」「瓦器」などがあります。
市内では若菜森坊遺跡や徳久中牟田遺跡などでこれらの遺物が出土しています。
また、この時代は社会が不安定で仏教に於ける現世否定の「末法思想」を強く信じ、末法に入るとされる永承7年(1052)までに
経典を地下に埋納する行為が流行します。
若菜八幡宮出土の滑石経は「王平3年(仁平3年1153年の誤りと考えられる)」銘の甕に入れられ、江戸時代に見つかったものです。 |
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平安時代
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竪穴住居内出土
『米』線刻土器
羽犬塚山ノ前遺跡
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平安時代 |
古代の食生活 |
貴族 |
一般民、役人 |
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87須恵器と土師器
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90中世
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91中世
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鎌倉時代から室町時代までの約400年間を一般的に中世としますが、史学では、中世は平安時代の院政期を始まりとし、織豊政権成立期までとする見方もあります。
鎌倉時代には農業技術の進歩による生産が高まり、商業が盛んになり、貨幣経済が進行します。この頃の貨幣は輸入銭を使用し、発掘調査でも「備蓄銭」などの輸入貨幣が出土します。
その後南北朝の内乱を経て、室町幕府が 成立します。幕府は明との貿易「勘合貿易」を行い、幕府の財政を補いました。
また、室町幕府は民衆の活動が商業や手工業などにより活発化した時代です。
応仁の乱(応仁元年:1467年)後、勢力を延ばし、やがて朝廷や幕府の支配を目指す「戦国大名」があらわれ、戦乱の世になります。
市内では、中世の遺跡は長崎屋島田、若菜、江口などで居館跡や居館を囲う堀などの遺構が見つかっています。
堀はV字状に深く掘り下げるなど、当時の荘園領域に関する地域の争いや、戦国期の騒乱を彷彿とさせるものです。
島田の彼岸田遺跡からは14世紀~15世紀にかけての居館を2重に囲う堀の跡が見つかり、堀からは「呪符木簡」といわれる、
疫病を祓うための墨書の木札が出土しています。
居館については、室町時代に水田荘福嶋村の支配に関わった大鳥居氏関連のものと推定されています。
長崎の長崎坊田遺跡からも居館を囲う溝が見つかり、溝からは全国各地から持ち込まれた食器や中国から輸入された陶磁器も出土しており、
中世の有力者層の生活が復元されています。
高江の高江遺跡では、中世の建物跡とお墓が見つかっています。墓には「湖州 鏡」や輸入陶磁器が副葬されていました。
古代から、死者へ対する敬いは時代が変わっても同じである様子が見て取れます。 |
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93中世陶磁器
トピック④「漆器」 四ヶ所古四ヶ所遺跡の漆碗 (しかしょこしかしょいせき)
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平成4年度に行った「四ヶ所古四ヶ所しかしょこしかしょ」遺跡から「漆碗」が出土しました。
この地域は、標高5m以下の中近世から残るクリークが縦横に張り巡らされ、土壌は水分を多く含んだ粘土層です。
従って、木製品などの有機物が水漬けにされ、自然に保存されやすい環境になります。
漆碗は全面に黒漆を塗り、「草文そうもん」と呼ばれる文様を朱漆で描いています。
漆碗などの木製品は、常温では乾燥や劣化・分解してしまうので、科学的に薬品を使った「保存処理」をして展示しています。 |
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100近世
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徳川家康が江戸に幕府を開き、15代265年間続いた、江戸時代を指します。
また、安土桃山時代(永禄11年1568~慶長3年1598頃)から大政奉還(慶応3年1867)までを近世と呼ぶこともできます。
織田信長は安土城を築き、全国統一の基礎を、豊臣秀吉は大坂城や桃山城を築き、全国統一を成します。
秀吉は太閤検地を行い、その結果、荘園制度が姿を消し、公家や寺社の勢力は弱められました。
筑後市内では、福王寺文書に溝口地区や柳川領の検地の結果を示す資料が残っています。
また、秀吉の朝鮮出兵により、朝鮮陶工が佐賀県有田町などで優れた陶磁器を造り始めます。市内からも肥前系陶磁器が近世の遺跡から出土します。
食事に関しては、この頃から朝夕の2回から朝昼晩の3回へと変化しました。
江戸時代になると幕府による幕藩体制が確立され、制度整備が全国的に行われ。政治的、経済的な独自の体制が出来上がります。
江戸時代になると、江戸を中心とする「五街道」が整備されました。
筑後市内には「薩摩街道(坊津街道)」が整備され、参勤交代に伴う宿「羽犬塚宿」が置かれ、羽犬塚町が形成されます。
また、薩摩街道筋の一条には盛徳町、尾島には尾島町、福島往還という道路沿いには水田町、西牟田往還沿いには西牟田町などの「在郷町」が形成されます。
市内の近世の遺跡として羽犬塚寺ノ脇遺跡や水田上町遺跡などがあります。
羽犬塚寺ノ脇遺跡は現在の羽犬塚小学校で、江戸時代には「御茶屋」と呼ばれる大名の宿泊施設があった場所になります。
遺跡からは水田焼や赤坂焼などの焼き物が出土しました。
水田上町遺跡は、現在の水田天満宮参道近くにあります。遺跡からは江戸時代の生活に関する道具や国産陶磁器などの食器が数多く出土しています。 |
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101熊野屋敷遺跡一字一石経
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近世
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九州北部街道略図 |
水田町略図 |
江戸末期~明治前期の羽犬塚
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熊野屋敷遺跡
一字一石経
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羽犬塚宿町略図 |
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103遺物
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130 |
131トピック②「古代の道路」 西海道と墨書土器
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奈良時代は律令体制のもと、中央集権国家が確立する時期です。その国家建設の一環として全国を「五畿七道」と呼ぶ行政区画に分け、主要な幹線道路を造ります。
九州は「西海道」と呼ばれ(九州という「地域」と「道路」という二つの意味があります。:以下、道路という意味で「西街道」とします)、
大宰府を中心に西街道は九州各国へ放射状に造られます。
古代道路を建設する目的は、国家が各国を支配するため、また、地方の反乱などへの速やかな軍事的対応などの目的があり、道路建設や
道路使用に関しての規則が平安時代初めの「延喜式」という規則に残っています。
筑後市内では数十か所で西海道の発掘調査を行いました。その結果、1200年前の西海道は筑後市の中心を南北にほぼ一直線に貫いていることが わかりました。現在でも市北半分の大字境界が一直線にわかれているのが その名残です。
道路の幅は約9mから12mもあり、両側に速攻を設け、道路面は土木工事を行い、路面の修復などを行っている様子も明らかになりました。
西海道には16kmおきに「駅家うまや」という馬の乗り継ぎや役人の宿舎が置かれます。
「延喜式」には駅家の記載があり、北の久留米市「御井駅家」と南のみやま市「狩道駅家かりみちうまや」間の筑後市大字前津字丑ノマヤが
「葛野駅家かつらのうまや」の推定地となっています。
小字名「丑ノマヤ」は「駅家うまや」が転訛したものと考えられ、発掘調査では総柱の大型倉庫等が見つかっており、「駅家」の可能性が高いと考えられます。
現在の羽犬塚中学校体育館下から、奈良時代から平安時代の集落が確認されました。
その中の「土坑」と呼ばれる穴から8世紀~9世紀代の食器が沢山出土し、その中に「郡符葛野ぐんぷかつらの」と墨書された土器が見つかりました。
遺跡は西海道から約200m東出、駅家があったとされる字丑ノマヤから約250m東に位置していました。
「延喜式」や「和名類聚抄」(平安時代の百科事典)の「葛野」の文字が駅家周辺で発見されたことは、駅家の存在を示すものとして重要な発見となりました。 |
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井田堀越遺跡出土「枡」
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この枡は、四角い枡の側板の一部で、両端には木製の釘の跡が残っています。これを復元すると京枡(1803.9)換算で約6合という推定が出来ます。
全国的に枡の出土は少なく、貴重な遺物です。出土状況からこの枡は中世のものであると推定されます。 |
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133墨書土器・桝
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奈良時代
『西海道』 |
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下駄
上北島篠嶋遺跡
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曲げ物
上北島篠嶋遺跡
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桝
井田堀越遺跡
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135墨書土器
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137民具
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シェーとり祭
同様の仮面が縄文遺跡から出土している |
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