西日本の縄文42 2019.8.1-3
米子市埋蔵文化財センター 米子市福市281 0859-26-0455土日祝閉館・撮影可
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目
次 |
01外観
02入口展示
03富繁渡り上り遺跡
100展示室
101年表・米子市ジオラマ
110旧石器~縄文時代
111panel
112瀬戸内技法
113石器 諏訪南山遺跡
115縄文土器 目久美遺跡 |
120弥生時代
121panel
122弥生土器
123木器・土器
124石器・土笛
130古墳時代
131panel
133副葬品
141淀江の円筒埴輪
145農耕具 |
150飛鳥・奈良・平安時代
151panel
152暮しの道具
154博労町遺跡
古代の大規模集落遺跡
180鎌倉-戦国-江戸
181panel
183陶磁器 鎌倉~江戸代
185発掘調査の道具
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01外観
白鳳の丘→米子埋文
高速道無料中
この地域には低い丘陵が多く、縄文集落や |
弥生墳丘墓、古墳時代の古墳群などが成立しやすい地形です。 |
実際、そのような遺跡が数多くあります。 |
米子市埋蔵文化財センターは旧日新小学校校舎を利用しています。 |
画像拝借
googleマップ |
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02入口展示
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03富繁渡り上り遺跡 縄文早期末~前期前葉 約7000年前頃 米子市淀江町富繁渡り上り
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富繁渡り上り遺跡は、米子市淀江町富繁渡り上りの水田下に所在する遺跡で、1995年に発掘調査されました。
遺跡は水田下にあり、当時の淀江湾のほとりと考えられる場所です。縄文土器、石器、木製品などの多くの遺物が出土し、
縄文時代早期末から前期前葉にかけての海辺の遺跡と考えられています。
中でも縄文土器は前期初頭の西川津式を出土した大変特徴的なもので、その他に、大量の黒曜石の薄片や石鏃、削器などの石器、ヤス、弓などの木製品が出土し注目されました。大量の石錘の出土は、六千年前の海辺のむらの人々の暮らしを物語ります。
西川津遺跡 |
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07渡り上がり遺跡出土物 縄文前期初頭(約7千年前)
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渡り上り遺跡地図 |
遺跡案内
大変遺跡の多い地域 |
黒曜石石材・石器 |
木器・弓出土状況 |
木器・ヤス出土状況 |
石鏃
黒曜石・サヌカイト |
黒曜石剥片 |
ドリル(黒曜石) |
スクレイパー
サヌカイト |
石錘(小型) |
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100展示室
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101年表・米子市ジオラマ
鳥取の考古学年表
旧石器時代~弥生時代 引用
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鳥取の考古学年表
古墳時代~平安時代
引用
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年表
米子地域は旧石器から大変多くの事象が起こっていることがわかりました。 |
旧石器~古墳
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古墳~室町
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鎌倉~安土桃山
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江戸~平成
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米子市周辺遺跡分布及び地形模型 |
米子市周辺遺跡分布及び地形模型 |
米子市周辺遺跡分布及び地形模型 |
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110旧石器~縄文時代
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111panel
旧石器~縄文時代 |
旧石器~縄文時代
上に記述 |
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上福万遺跡出土の縄文土器 |
上福万遺跡出土の耳飾 |
目久美遺跡の貯蔵穴 |
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富繁渡り上り遺跡の
縄文土器 |
喜多原第4遺跡の
落とし穴 |
目久美遺跡出土の
縄文土器 |
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112瀬戸内技法
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瀬戸内技法の製作実験例 |
翼状剥片 |
翼状剥片 |
翼状剥片 |
国府型ナイフ形石器 |
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①サヌカイトの礫を板材に分ける |
②板材を刺身を切るように割って、翼状剥片と呼ばれる横長剥片を連続して取ります。 |
③翼状剥片の打面側を除去して細長く尖らせ、ナイフ形石器に仕上げます。
多くの場合、槍崎として用いられたと考えられます。
名和小谷遺跡のナイフ形石器もこのようにしてつくられたものです。 |
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113石器 諏訪南山遺跡
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115縄文土器 目久美遺跡
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縄文土器
目久美遺跡
縄文前期 |
縄文前期 深鉢 |
土器の作り方 |
縄文土器
目久美遺跡 前期 |
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116
石錘・叩石
目久美遺跡 前期 |
叩石・石鍬・深鉢 |
叩石 目久美遺跡 縄文前期
石鍬 長砂第4遺跡 縄文晩期
深鉢 長砂第4遺跡 縄文晩期 |
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120弥生時代
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121panel
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122弥生土器
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123木器・土器
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東日本形土器
目久美遺跡
弥生前期 |
甕
長砂第4遺跡
弥生前期
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横槌
目久美遺跡
弥生中期 |
壺
目久美遺跡
弥生前期
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木製の鍬
目久美遺跡
弥生後期
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弥生時代の木の道具 |
ナスビ形の鍬
目久美遺跡
弥生後期 |
甕
目久美遺跡
弥生後期
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124石器・土笛
石包丁
福市遺跡
御所原遺跡
弥生中期 |
石斧
橋本徳道西遺跡
弥生中期 |
弥生土器蓋
長砂第3遺跡
弥生前期 |
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木製鏃・磨製石剣
目久美遺跡 中期 |
土笛
目久美遺跡
弥生中期
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130古墳時代
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131panel
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133副葬品
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勾玉・管玉
陰田古墳群
古墳後期 |
小形銅鏡
博労町遺跡 古墳前期
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石製模造品 博労町遺跡 古墳前期
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袋状石製品
博労町遺跡 古墳前期
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青銅製の鏡
新山山田7号墳
古墳後期 |
木製櫛
土下狼谷古墳(北栄町)
古墳前期 |
鉄製刀子
大﨏山横穴C-7号墓出土
古墳後期 |
鉄製の鏃
大﨏山横穴C-7号墓出土
古墳後期 |
車輪石
奈喜良遺跡
古墳前期 |
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134
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青銅製耳環 大﨏山横穴C-7号墓出土
古墳後期
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鉄製馬具
陰田横穴墓群
古墳後期 |
鉄製鍬先 土下狼谷古墳(北栄町)
古墳前期
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鉄製の刀 陰田横穴墓群
古墳後期
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鉄製の刀 陰田横穴墓群
古墳後期 |
韓式土器(壺)
青木稲葉遺跡
古墳中期 |
鉄製馬具
米子市岡成出土
古墳後期 |
舟形土製品
博労町遺跡
古墳前期 |
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141淀江の円筒埴輪 米子市淀江町
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米子市淀江町には5世紀から7世紀にかけて造られた古墳がたくさん分布しています。
このうち、淀江町福岡にある石馬谷古墳や向山古墳群では、大型の前方後円墳がたくさん作られており、この地域を治めた豪族の墓所と推測されています。
これらの古墳には埴輪が並べられていましたが、この中でも円筒埴輪と呼ばれる円筒形の埴輪が最も一般的なものでした。
ここに展示している円筒埴輪は、向山3号墳(5世紀後半)、井手挾3号墳(5世紀後半)、石馬谷古墳(6世紀後半)の3基の古墳から出土したものです。
これらの円筒埴輪は、全て高さ50cm程度にそろっていることから、規格品として製作されていることがわかります。
また、向井山3号墳の円筒埴輪と井手挾3号墳の円筒埴輪は、透かしと呼ばれる丸い穴の左隣に「へ」字形の印があることから、
二つの古墳に並べられた埴輪は、同じ職人集団によって製作されたものと推定されます。 |
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145農耕具
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各地域の木製鋤・鍬
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ナスビ形着柄鍬
目久美遺跡
三又鍬 |
又鍬
弥生中~後期
目久美遺跡
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平鍬
弥生中期~後期 目久美遺跡
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鋤・二又鍬 弥生中期~後期 目久美遺跡
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池ノ内遺跡鉄の刃をつける斧の柄
弥生後期 |
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150飛鳥・奈良・平安時代
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飛鳥時代以降、中国に倣った律令体制がしかれ、天皇を中心とした国家が成立します。
都には本格的な都城が造営され、各地方には地方の行政を担当する国庁・郡衙が置かれました。また、大陸から伝来した仏教が広まり、畿内を中心に全国各地で寺院が建立されていきます。
米子市街地の博労町遺跡では奈良時代の役所跡と思われる大型建物跡が見つかっており、かつての「半生郷」の一部であると考えられています。
また、中海に近い陰田遺跡群では集落遺跡と共に鍛冶や祭りに関係する遺物が見つかっています。
一方、地方での寺院建立が広まり、淀江平野を見下ろす丘陵にある淀江廃寺跡では、多量の塑像片と共に日本最古級の彩色仏教壁画が発見されています。
●市内の主な遺跡 上淀廃寺跡、博労町遺跡、久米第1遺跡、陰田第2遺跡、陰田隠れが谷遺跡、青木遺跡、樋ノ口遺跡、〇山下
諏訪西山ノ後遺跡、今在家下井ノ上遺跡 |
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151panel
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152暮しの道具
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墨書土器
博労町遺跡
奈良・平安 |
土師器 坏
今在家下井ノ上遺跡
奈良時代
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緑釉陶器
博労町遺跡
平安時代 |
糸を紡ぐ |
鉄製紡錘車
博労町遺跡
奈良時代 |
軒丸瓦・軒平瓦
上淀廃寺跡
飛鳥時代 |
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水晶製辻玉
博労町遺跡
平安時代 |
鉄製短刀
博労町遺跡
平安時代 |
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154博労町遺跡 米子市博労町4丁目 勾玉
古墳時代から平安時代の大規模集落遺跡
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博労町遺跡は米子駅の北約1.3kmの市街地に所在する砂丘遺跡で、県立米子工業高校の改築工事に伴う平成19年から21年の発掘調査により、グラウンド下から発見されました。周辺には四日市遺跡、錦町第一遺跡があります。
調査の結果、弥生時代後期末~中世・近世にかけて砂州上に営まれた複合遺跡であることがわかりました。
検出された遺跡は竪穴住居跡・掘立柱建物跡・溝・畠跡・井戸などです。遺跡からは、土師器・須恵器を中心に勾玉・小型鏡・陶磁器・古銭・金属製品など、コンテナ約1200箱もの遺物が出土しました。
この遺跡では、
弥生時代末~古墳時代前期(3~4世紀)及び後期(6~7世紀)の竪穴住居跡や大型掘立柱建物跡と古墳時代前期の大溝が確認されました。
古墳時代になると妻木晩田遺跡、福市遺跡、青木遺跡にみられる弥生時代の大型集落が終息に向かう一方、各地で小集落が営まれるようになります。
しかしながら今までは、そのような集落は台地上でしか見つかっていませんでしたが、今回の調査によって海の近くの砂丘低地でも人が生活していたということが初めてわかりました。
また、県内では湯梨浜町長瀬高浜遺跡でも同時期の大集落が検出されており、日本海沿岸の砂丘地にかなり大規模な古墳時代を中心とする集落が点在していた可能性が考えられます。
奈良・平安時代(7~12世紀)では、大小の掘立柱建物跡や区画とみられる溝などが検出されています。
これらの遺跡からは多量の土器のほか、腰帯具(石帯:帯の金具、石製品など。役人の身分を表す)・墨書土器といった、古代の役所に関連する遺物が多く出土しています。
平安時代中頃に編纂された「和妙類聚抄」によれば、現在の米子市街地は伯耆国会見郡にあたり、博労町付近に会見郡の12の郷の内の一つである半生郷がありました。今回見つかった遺構はこの郷、もしくは郡に関係する施設であった可能性が考えられます。
中世(鎌倉時代:13世紀)には調査区全体に畠がひろがっていたことが わかりました。遺跡から西500mの錦町第一遺跡でも同時期の畠跡が発見されており、中世には現在の中心市街地一帯で耕作が行われてたことがわかりました。現在のところ陸稲が作られていたことはわかっていますが、その他の作物については不明です。
近世(江戸時代末~明治時代)には、井戸や畠跡が確認されました。当時の人はここで綿などを作っていたようです。
以上のように博労町遺跡は米子市市街地の歴史や海浜砂丘地の遺跡形成を考えるうえで重要な遺跡といえます。 |
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古墳~奈良・平安の
全体図 |
博労町遺跡
上に記述 |
博労町遺跡の中世畠跡全体図 |
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中世の畠跡が見つかった博労町遺跡 |
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156
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158博労町遺跡の出土品
生活道具の土器
山陰型甑形土器と、他の土器との大きさが違い過ぎる。甑ではないようだ。 |
山陰型甑 又は
土管・煙突 |
山陰型甑 又は
土管・煙突
高坏・山陰型器台
皿・小壺脚付皿
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台付鉢・山陰型器台+壺or 鉢
小壺
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小鉢
坏・蓋坏付・脚付坏 |
博労町遺跡掘立柱建物?
中央が掘り込まれている |
坏・蓋坏付
須恵器 |
遺跡断面の剥ぎ取り標本
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180鎌倉-戦国-江戸時代
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12世後半以降、天皇や貴族による支配が終わり、鎌倉幕府による武家政治が成立します。しかし、南北朝・室町時代を経て支配力を強めた各地の勢力は、領土の拡大を狙い、次第に戦乱の時代へ突入していきます。
そして、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が1603年に江戸幕府を開き、以後約260年間、幕藩体制の下で日本独自の文化が発展していきました。
戦国時代になると米子市域は山名氏、尼子氏、毛利氏による覇権争いの舞台となり、尾高城や戸上城など各地に砦が築かれました。
17世紀初めに完成した米子城は、大小二つの天守閣を持つ壮麗な城で、城下には武家町や町人町が整備され、山陰を代表する商業の街として大いに賑わいました。
🔴市内の主な遺跡 尾高城跡、錦町第1遺跡、博労町遺跡、久米第1遺跡、米子城跡、中村一忠墓地、横田内膳墓碑、小原家長屋門、荒尾家墓所
淀江台場跡、小波城跡、戸上城跡、石井要害、七尾城跡、新山要害 |
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181panel
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183陶磁器 鎌倉~江戸時代
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185発掘調査の道具
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