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 西日本の縄文42    2019.8.1-3

  米子市埋蔵文化財センター  米子市福市281 0859-26-0455土日祝閉館・撮影可

交通   レンタカー
  路線バス 米子駅前バスターミナルより、溝口・日野方面行き、安養寺入口下車、西へ徒歩600m
   他に、八郷線、二部線、根雨線、賀野・岩屋谷線(御内谷行きを除く)
     路線バスのバス停よりの距離
周辺の観光・考古施設
    福市考古資料館、福市遺跡公園、福市遺跡、  青木谷公園、青木遺跡(米子市埋文近隣) 
    水木しげるロードみなとタワー米子城跡、 ホテルフロンティア米子
 



01外観
02入口展示
03富繁渡り上り遺跡

100展示室
101年表・米子市ジオラマ

110旧石器~縄文時代
111panel
112瀬戸内技法
113石器 諏訪南山遺跡
115縄文土器 目久美遺跡

120弥生時代
121panel
122弥生土器
123木器・土器
124石器・土笛

130古墳時代
131panel
133副葬品
141淀江の円筒埴輪
145農耕具

150飛鳥・奈良・平安時代
151panel
152暮しの道具

154博労町遺跡
古代の大規模集落遺跡

180鎌倉-戦国-江戸
181panel
183陶磁器 鎌倉~江戸代

185発掘調査の道具
 
 
 01外観
白鳳の丘→米子埋文
高速道無料中

この地域には低い丘陵が多く、縄文集落や

弥生墳丘墓、古墳時代の古墳群などが成立しやすい地形です。

実際、そのような遺跡が数多くあります。

米子市埋蔵文化財センターは旧日新小学校校舎を利用しています。
画像拝借
googleマップ


 02入口展示


 03富繁渡り上り遺跡 縄文早期末~前期前葉 約7000年前頃  米子市淀江町富繁渡り上り

富繁渡り上り遺跡は、米子市淀江町富繁渡り上りの水田下に所在する遺跡で、1995年に発掘調査されました。

遺跡は水田下にあり、当時の淀江湾のほとりと考えられる場所です。縄文土器、石器、木製品などの多くの遺物が出土し、
縄文時代早期末から前期前葉にかけての海辺の遺跡と考えられています。

中でも縄文土器は前期初頭の西川津式を出土した大変特徴的なもので、その他に、大量の黒曜石の薄片や石鏃、削器などの石器、ヤス、弓などの木製品が出土し注目されました。大量の石錘の出土は、六千年前の海辺のむらの人々の暮らしを物語ります。

 西川津遺跡 


玄関内正面にある
展示ケース
富繁渡り上り遺跡
(7千年前)
富繁渡り上り遺跡
上に記述
縄文地口唇突帯文土器 釣り下げ孔のある土器
縄文前期初頭(7千年前)
渡り上り遺跡
釣り下げ孔のある土器
条痕地文土器
口唇突帯
縄文前期初頭(7千年前)
渡り上り遺跡
土器出土状況 条痕地文土器
縄文前期初頭(7千年前)
渡り上り遺跡
条痕地文土器
(口唇刺突)

縄文前期初頭(7千年前)
渡り上り遺跡
 ※西川津式土器のサンプル写真はありませんが、上に並んだ土器が西川津式土器と考えていいと思います。


 07渡り上がり遺跡出土物 縄文前期初頭(約7千年前)
渡り上り遺跡地図 遺跡案内
大変遺跡の多い地域
黒曜石石材・石器 木器・弓出土状況 木器・ヤス出土状況
石鏃
黒曜石・サヌカイト
黒曜石剥片 ドリル(黒曜石) スクレイパー
サヌカイト
石錘(小型)
 
 




 100展示室


 
 

101年表・米子市ジオラマ 

鳥取の考古学年表
旧石器時代~弥生時代
引用

旧石器〜弥生 [更新済み] - 鳥取県

鳥取の考古学年表
古墳時代~平安時代

引用

旧石器〜弥生 [更新済み] - 鳥取県


年表

米子地域は旧石器から大変多くの事象が起こっていることがわかりました。
旧石器~古墳
古墳~室町
鎌倉~安土桃山
江戸~平成
米子市周辺遺跡分布及び地形模型 米子市周辺遺跡分布及び地形模型 米子市周辺遺跡分布及び地形模型
 




 110旧石器~縄文時代




旧石器時代は現在よりも寒冷で、人々は毛皮や植物性の衣服を身にまとい、狩りをしながら移動する生活を送っていました。

氷河期の終わりと共に温暖化が進み、豊かな実を結ぶ広葉樹が広がると、人々は定住生活をしながら縄文土器を使用し、狩猟採集生活を始めます。
これが縄文時代の始まりです。

現在、米子市では、諏訪西山ノ後遺跡をはじめ、数か所で後期旧石器時代の石器が出土しています。

縄文時代には、大山山麓や中海沿岸で集落が営まれ、目久美遺跡では土器と共に当時の食生活を物語る多くの動物の骨が発見されました。
また、大山山麓の丘陵上では、シカやイノシシを狙った多数の落とし穴が発見されており、人々は豊かな自然の恵みを授かっていたようです。


�●市内の主な遺跡 諏訪西山ノ後遺跡泉中峰遺跡目久美遺跡陰田遺跡群上福万遺跡喜多原第4遺跡岡成第9遺跡青木遺跡
             鮒が口遺跡渡り上り遺跡古市遺跡群井手跨遺跡

 111panel
旧石器~縄文時代 旧石器~縄文時代
上に記述
上福万遺跡出土の縄文土器 上福万遺跡出土の耳飾 目久美遺跡の貯蔵穴
富繁渡り上り遺跡の
縄文土器
喜多原第4遺跡
落とし穴
目久美遺跡出土の
縄文土器
 112瀬戸内技法
瀬戸内技法の製作実験例 翼状剥片 翼状剥片 翼状剥片 国府型ナイフ形石器
①サヌカイトの礫を板材に分ける ②板材を刺身を切るように割って、翼状剥片と呼ばれる横長剥片を連続して取ります。 ③翼状剥片の打面側を除去して細長く尖らせ、ナイフ形石器に仕上げます。
多くの場合、槍崎として用いられたと考えられます。
名和小谷遺跡のナイフ形石器もこのようにしてつくられたものです。

 113石器 諏訪南山遺跡
石槍
諏訪南山崎遺跡
縄文時代草創期
石槍
石匙

目久美遺跡
縄文前期
石鏃

諏訪南山崎遺跡
縄文時代晩期
 

 115縄文土器 目久美遺跡
縄文土器
目久美遺跡
縄文前期
縄文前期 深鉢 土器の作り方 縄文土器
目久美遺跡 前期
 116
石錘・叩石
目久美遺跡 前期
叩石・石鍬・深鉢  叩石 目久美遺跡 縄文前期
 石鍬 長砂第4遺跡 縄文晩期
 深鉢 長砂第4遺跡 縄文晩期
 




 120弥生時代




弥生時代になると大陸から稲作がつたわり、鉄器や青銅器の生産、使用が始まります。
集落では人々を率いて祭祀を執り行う首長が表れ、次第に村々をまとめる「くに」が生まれていきました。時には地域同士の対立も起きたようです。

米子市内では、
弥生時代の始まりと共に加茂川下流域で農耕集落が営まれ、恵み遺跡や長砂第3遺跡では、水田跡や木製の農耕具が出土しています。
弥生時代の中頃になると、米子平野に接する丘陵上に遺跡が増加し、後半期には長者原台地青木遺跡や大山山麓の妻木晩田遺跡などで大規模な集落が展開されます。

また、日野川右岸の丘陵上に位置する尾高浅山遺跡や日下墳墓群では、山陰地方特有の四隅突出型墳丘墓が造営されています。

●市内の主な遺跡
   目久美遺跡長砂第1・2・3遺跡妻木晩田遺跡、  尾高浅山遺跡日下墳墓群池ノ内遺跡東宗像遺跡
   青木遺跡奈喜良遺跡稲吉角田遺跡今津岸の上遺跡
 121panel
弥生時代 弥生時代
上に記述
目久美遺跡の水田 稲吉角田遺跡出土の
絵画土器
尾高浅山遺跡の環濠
妻木晩田遺跡の四隅突出型墳丘墓 青木遺跡の遠景 大谷遺跡の水田跡

 122弥生土器
弥生前期の壺
目久美遺跡
弥生前期の蓋
目久美遺跡
弥生前期の小型壺
長砂第2遺跡
弥生前期の小型壺
目久美遺跡
弥生中期の甕
奈喜良遺跡
弥生中期の甕
福岡遺跡
弥生後期の甕
目久美遺跡
 123木器・土器
東日本形土器
目久美遺跡
弥生前期

長砂第4遺跡
弥生前期
横槌
目久美遺跡
弥生中期

目久美遺跡
弥生前期
木製の鍬
目久美遺跡
弥生後期
弥生時代の木の道具 ナスビ形の鍬
目久美遺跡
弥生後期

目久美遺跡
弥生後期
 124石器・土笛
石包丁
福市遺跡
御所原遺跡
 弥生中期
石斧
橋本徳道西遺跡
弥生中期
弥生土器蓋
長砂第3遺跡
弥生前期

木製鏃・磨製石剣
目久美遺跡 中期
土笛
目久美遺跡
弥生中期
 




 130古墳時代




古墳時代には、畿内を中心に大型の前方後円墳が出現し、日本列島各地でも数多くの古墳が築造されます。
各地域を支配していた豪族達は次第に大和政権の下に組み込まれ、大王を中心とした古代国家が形作られていきます。

古墳時代の米子では、3世紀末に法勝寺川流域で日原6号墳が造営されます。
この頃から古墳の築造が開始され、後期には急激に増加し、中海沿岸の陰田古墳群や日野川東岸の台地上に広がる石州府古墳群、百塚古墳群などでは、群集墳と呼ばれる大規模な古墳群が造営されます。

また、百塚遺跡群や長者原台地の福市遺跡などでは集落が営まれ、大山山麓の丘陵上に位置する尾高遺跡では、
古墳時代初頭の豪族の館跡が発見されています。

●市内の主な遺跡 日原6号墳陰田古墳群石州府古墳群日下古墳群、仲間古墳群、百塚遺跡群青木遺跡福市遺跡尾高遺跡
             宗像古墳群向山古墳群境古墳群中西尾古墳群新山古墳群小枝山古墳群
 131panel
古墳時代 古墳時代
上に記述
福市遺跡吉塚地区全景 上ノ山古墳の玉類 上ノ山古墳の家形埴輪
石州府古墳群の遠景 井手挾3号墳出土の
盾持人埴輪
岩屋古墳の横穴式石室
 
 133副葬品
勾玉・管玉
陰田古墳群
古墳後期
小形銅鏡
博労町遺跡 古墳前期
石製模造品
博労町遺跡 古墳前期
袋状石製品
博労町遺跡 古墳前期
青銅製の鏡
新山山田7号墳
古墳後期
木製櫛
土下狼谷古墳(北栄町)
古墳前期
鉄製刀子
大﨏山横穴C-7号墓出土
古墳後期
鉄製の鏃

大﨏山横穴C-7号墓出土
古墳後期
車輪石
奈喜良遺跡
古墳前期
 134
青銅製耳環
大﨏山横穴C-7号墓出土
古墳後期
鉄製馬具
陰田横穴墓群
古墳後期
鉄製鍬先
土下狼谷古墳(北栄町)
古墳前期
鉄製の刀
陰田横穴墓群
古墳後期
鉄製の刀
陰田横穴墓群
古墳後期
韓式土器(壺)
青木稲葉遺跡
古墳中期
鉄製馬具
米子市岡成出土
古墳後期
舟形土製品
博労町遺跡
古墳前期
 


 141淀江の円筒埴輪 米子市淀江町
米子市淀江町には5世紀から7世紀にかけて造られた古墳がたくさん分布しています。
このうち、淀江町福岡にある石馬谷古墳では、大型の前方後円墳がたくさん作られており、この地域を治めた豪族の墓所と推測されています。

これらの古墳には埴輪が並べられていましたが、この中でも円筒埴輪と呼ばれる円筒形の埴輪が最も一般的なものでした。
ここに展示している円筒埴輪は、向山3号墳(5世紀後半)、井手挾3号墳(5世紀後半)、石馬谷古墳(6世紀後半)の3基の古墳から出土したものです。

これらの円筒埴輪は、全て高さ50cm程度にそろっていることから、規格品として製作されていることがわかります。

また、向井山3号墳の円筒埴輪と井手挾3号墳の円筒埴輪は、透かしと呼ばれる丸い穴の左隣に「へ」字形の印があることから、
二つの古墳に並べられた埴輪は、同じ職人集団によって製作されたものと推定されます。

 145農耕具
各地域の木製鋤・鍬
ナスビ形着柄鍬
 目久美遺跡

三又鍬
又鍬
弥生中~後期
目久美遺跡
平鍬
弥生中期~後期
目久美遺跡
鋤・二又鍬
弥生中期~後期
目久美遺跡
池ノ内遺跡鉄の刃をつける斧の柄
弥生後期
 
 




 150飛鳥・奈良・平安時代




飛鳥時代以降、中国に倣った律令体制がしかれ、天皇を中心とした国家が成立します。
都には本格的な都城が造営され、各地方には地方の行政を担当する国庁・郡衙が置かれました。また、大陸から伝来した仏教が広まり、畿内を中心に全国各地で寺院が建立されていきます。

米子市街地の博労町遺跡では奈良時代の役所跡と思われる大型建物跡が見つかっており、かつての「半生郷」の一部であると考えられています。
また、中海に近い陰田遺跡群では集落遺跡と共に鍛冶や祭りに関係する遺物が見つかっています。

一方、地方での寺院建立が広まり、淀江平野を見下ろす丘陵にある淀江廃寺跡では、多量の塑像片と共に日本最古級の彩色仏教壁画が発見されています。

●市内の主な遺跡 上淀廃寺跡博労町遺跡久米第1遺跡陰田第2遺跡陰田隠れが谷遺跡青木遺跡樋ノ口遺跡、〇山下
             諏訪西山ノ後遺跡今在家下井ノ上遺跡

 151panel
飛鳥・奈良・平安時代 上淀廃寺跡出土塑像 上淀廃寺の壁画(神将) 上淀廃寺跡調査風景
上淀廃寺遠景 隠れが谷遺跡の土馬 長砂経塚の埋納容器
 152暮しの道具
墨書土器
博労町遺跡
奈良・平安
土師器 坏
今在家下井ノ上遺跡
奈良時代
緑釉陶器
博労町遺跡
平安時代
糸を紡ぐ 鉄製紡錘車
博労町遺跡
奈良時代
軒丸瓦・軒平瓦
上淀廃寺跡
飛鳥時代
水晶製辻玉
博労町遺跡
平安時代
鉄製短刀
博労町遺跡
平安時代



 154博労町遺跡 米子市博労町4丁目 勾玉

    古墳時代から平安時代の大規模集落遺跡
博労町遺跡は米子駅の北約1.3kmの市街地に所在する砂丘遺跡で、県立米子工業高校の改築工事に伴う平成19年から21年の発掘調査により、グラウンド下から発見されました。周辺には四日市遺跡、錦町第一遺跡があります。

調査の結果、弥生時代後期末~中世・近世にかけて砂州上に営まれた複合遺跡であることがわかりました。
検出された遺跡は竪穴住居跡・掘立柱建物跡・溝・畠跡・井戸などです。遺跡からは、土師器・須恵器を中心に勾玉・小型鏡・陶磁器・古銭・金属製品など、コンテナ約1200箱もの遺物が出土しました。

この遺跡では、
弥生時代末~古墳時代前期(3~4世紀)及び後期(6~7世紀)の竪穴住居跡や大型掘立柱建物跡と古墳時代前期の大溝が確認されました。
古墳時代になると妻木晩田遺跡、福市遺跡、青木遺跡にみられる弥生時代の大型集落が終息に向かう一方、各地で小集落が営まれるようになります。
しかしながら今までは、そのような集落は台地上でしか見つかっていませんでしたが、今回の調査によって海の近くの砂丘低地でも人が生活していたということが初めてわかりました。

また、県内では湯梨浜町長瀬高浜遺跡でも同時期の大集落が検出されており、日本海沿岸の砂丘地にかなり大規模な古墳時代を中心とする集落が点在していた可能性が考えられます。

奈良・平安時代(7~12世紀)では、大小の掘立柱建物跡や区画とみられる溝などが検出されています。
これらの遺跡からは多量の土器のほか、腰帯具(石帯:帯の金具、石製品など。役人の身分を表す)・墨書土器といった、古代の役所に関連する遺物が多く出土しています。

平安時代中頃に編纂された「和妙類聚抄」によれば、現在の米子市街地は伯耆国会見郡にあたり、博労町付近に会見郡の12の郷の内の一つである半生郷がありました。今回見つかった遺構はこの郷、もしくは郡に関係する施設であった可能性が考えられます。

中世(鎌倉時代:13世紀)には調査区全体に畠がひろがっていたことが わかりました。遺跡から西500mの錦町第一遺跡でも同時期の畠跡が発見されており、中世には現在の中心市街地一帯で耕作が行われてたことがわかりました。現在のところ陸稲が作られていたことはわかっていますが、その他の作物については不明です。

近世(江戸時代末~明治時代)には、井戸や畠跡が確認されました。当時の人はここで綿などを作っていたようです。

 以上のように博労町遺跡は米子市市街地の歴史や海浜砂丘地の遺跡形成を考えるうえで重要な遺跡といえます。

古墳~奈良・平安の
全体図
博労町遺跡
上に記述
博労町遺跡の中世畠跡全体図
中世の畠跡が見つかった博労町遺跡
 156
博労町遺跡 二重口縁壺 中世の畠跡
畠の畝上に残された足跡

牛の足跡
遺跡の断面図
 ※畑跡のそばから骨壺が出土。すると、155の土器は、全て骨壺だったかもしれない。そのうちの立派なものが二重口縁壺で富裕層の骨壺。
  地形的に遠くに墓域を設けることが出来なかったのかもしれない。
 158博労町遺跡の出土品

生活道具の土器

山陰型甑形土器と、他の土器との大きさが違い過ぎる。甑ではないようだ。
山陰型甑 又は
土管・煙突
山陰型甑 又は
土管・煙突

高坏・山陰型器台
皿・小壺脚付皿
台付鉢・山陰型器台+壺or 鉢
小壺
小鉢
坏・蓋坏付・脚付坏
博労町遺跡掘立柱建物?
中央が掘り込まれている
坏・蓋坏付
須恵器
遺跡断面の剥ぎ取り標本
 




 180鎌倉-戦国-江戸時代




12世後半以降、天皇や貴族による支配が終わり、鎌倉幕府による武家政治が成立します。しかし、南北朝・室町時代を経て支配力を強めた各地の勢力は、領土の拡大を狙い、次第に戦乱の時代へ突入していきます。
そして、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が1603年に江戸幕府を開き、以後約260年間、幕藩体制の下で日本独自の文化が発展していきました。

戦国時代になると米子市域は山名氏、尼子氏、毛利氏による覇権争いの舞台となり、尾高城や戸上城など各地に砦が築かれました。
17世紀初めに完成した米子城は、大小二つの天守閣を持つ壮麗な城で、城下には武家町や町人町が整備され、山陰を代表する商業の街として大いに賑わいました。

🔴市内の主な遺跡 尾高城跡錦町第1遺跡博労町遺跡、久米第1遺跡、米子城跡中村一忠墓地横田内膳墓碑小原家長屋門荒尾家墓所
            淀江台場跡小波城跡戸上城跡石井要害七尾城跡新山要害

 181panel
鎌倉-戦国-江戸時代 鎌倉-戦国-江戸時代
上に記述
福岡遺跡の中世墓副葬品 博労町遺跡の畠跡 大下畑遺跡
備前焼すり鉢
米子城跡の石垣 米子城絵図 淀江台場跡 須恵器の大甕 須恵器大甕

下に記述
 須恵器の大甕
  大甕は、陰田16号横穴の墓室の床面に、タイルのように敷き詰められていたものを復元したものです。
  この地域では、石室の中に(多くは2種類の)大甕を打ち壊した破片を突き詰めて、床にしていました。

 183陶磁器 鎌倉~江戸時代
唐津焼 江戸後半
備前焼 江戸前期
褐釉陶器 鎌倉末期
半島製陶器 中世後半
白磁皿 鎌倉末期
備前焼 江戸時代 天目茶碗 江戸前期
中国製磁器
 中世末~近世前期
志野焼 江戸前期
鉄絵唐津 江戸前期
織部焼 江戸前期
上野焼・高取焼
  江戸前期
唐津焼
天目茶碗 江戸前期
唐津焼
伊万里焼 江戸前期
志野焼  江戸前期
鉄絵唐津 江戸前期
上野焼高取焼
     江戸前期
鉄絵唐津 江戸前期
伊万里焼 江戸後期
布志名焼 明治時代
伊万里焼 江戸後期
伊万里焼 江戸前期
鉄絵唐津 江戸前期
伊万里焼 江戸前期
鉄絵唐津 江戸前期 ビール瓶 昭和24-32
ニエル電池容器
  明治時代
ヨーロッパ産陶器瓶
   明治時代
 
 185発掘調査の道具
大山