四国の考古博物館1 09 2019.03.08-4
徳島県立博物館 徳島市八万町向寺山 2019.03.08-4徳島県立博物館 月休撮影可
|
交通 |
バス
徳島駅から |
①徳島市営バス3番のりば「文化の森」行き直通バスに乗車し約20分,終点「文化の森」で下車。
②徳島市営バス3番のりば「しらさぎ台」行き,「一宮」行き、または「天の原(入田)」行きに乗車し「園瀬橋」下車。徒歩約10分。
③徳島バス4番のりば「仁井田西」行き,または「佐那河内線 神山高校前」行きに乗車し「園瀬橋」下車。徒歩約10分。 |
|
|
レンタカー |
徳島駅から5.4km18分ニコレンで約3000円。タクシーよりは安いが、、。 |
|
|
目
次 |
地学
100徳島の自然と歴史
101結晶片岩
102四国の地形と地質
宍喰の漣痕跡
103四国の構造線
110日本列島と四国の生い立ち
112生命の生い立ち
113先カンブリア紀の動植物
116古生代の動植物
120太古の日本
世界最大のアンモナイト化石
122日本列島の地帯構造
日本列島の化石
123先カンブリア代
124古生代
125青石は語る 緑色片岩
126徳島の地質
128秩父帯の岩石と化石
129大陸移動
古生代後期~中生代
130三波川帯の結晶片岩
131世界の緑色岩の分布
132徳島の鉱石
150四万十帯の成長
153和泉層群の化石と分布
155白亜紀の西南日本
日本の恐竜化石
勝浦盆地の地層と化石
徳島県の恐竜化石
157四万十帯
160和泉層群の化石分布
日本の恐竜遺跡
164勝浦盆地
165四万十帯
170恐竜とアンモナイトの時代
(白亜紀)
アンモナイトの進化
地球を支配した恐竜
175頭足類
176いろいろなアンモナイト
177変わり巻きアンモナイト
180地球を支配した恐竜
186恐竜から鳥へ
188中生代の生物
230日本列島の始まり
230日本列島の始まり
238鮮新~更新世の黒潮域貝類
240中央構造線の発達
242四国の中央構造線
251恐竜骨 |
考古
300狩人達の足跡
311ナウマンゾウとオオツノジカ
312ゾウの来た道
更新世後期の日本列島と 動物群の移住
第四紀の生物
森山粘土層の化石
313第四紀における動物と植物の変遷
314鳴門海峡海底の化石
316人類の登場
320人類の出現 ラエトリの足跡
旧石器時代
400徳島の旧石器時代
410旧石器時代の徳島
サヌカイト
420旧石器時代の遺跡分布
423徳島の旧石器
424ナイフ形石器
425翼状剥片
430吉野川流域の石器
431①吉野川上流の旧石器遺跡
433②吉野川下流域のナイフ形石器
435③県南 (阿南市) の石器
細石刃
436旧石器時代の徳島の海岸線
③旧石器時代の徳島県
500縄文時代
501後氷期の自然と縄文人
尖底土器
502縄文時代の遺跡分布
510縄文時代草創期
弓矢の登場
520縄文時代早期
521石器 古屋岩陰遺跡
トロトロ石器
522土器
523貝塚出土品
530縄石器
考察 縦長石匙
540縄文時代前期~後期
森崎貝塚
550縄文人の食べ物
570狩人の森
拡がる照葉樹林
|
弥生時代
600ムラからクニへ
601米作りの始まり
610稲を作るムラ南庄遺跡
612弥生前期の土器
遠賀川式土器
630石器
631大陸系の磨製石器
631大陸系の磨製石器
640稲を作るムラ南庄遺跡
642庄・蔵本遺跡の墓地
643土壙墓の副葬品
弥生中期
650辰砂を掘る
651日本の水銀鉱山
丹生と丹生神社
考察 水銀朱の価値
652辰砂採掘から精製まで
若杉山遺跡
653若杉山遺跡の土器
654鉱山の暮らし
655米作りの始まり
670銅鐸 銅鐸のまつり
671田村谷銅鐸 弥生後期
672銅鐸を復元する
673銅鐸を科学する
674銅鐸の移り替わり
銅鐸を科学する
彩られた銅鐸
銅鐸の分布
675徳島の銅鐸
676~677銅鐸詳細
681平形銅剣
|
古墳時代
700首長墓の登場
730徳島の首長墓
720竪穴式石室のはじまり
巽山古墳 古墳時代前期
740銅鏡
751長谷古墳
752節句山古墳群 古墳時代中期
761古墳を造る
762曽我氏神社古墳群 古墳前期
曽我氏神社1号墳
765曽我氏神社2号墳
770古墳の移り変わりと分布
772恵解山古墳群 古墳中期
780忌部山古墳群 古墳後期
忌部氏とは
781横穴式石室
790古墳・埴輪
791前山遺跡
792古墳の大きさ比べ
793渋野丸山古墳
段の塚穴古墳
800古代
810郡里廃寺
820古代・中世の阿波
830国府と寺院
833阿波国府とその周辺
阿波国分尼寺跡
地方役人の仕事
臓骨器
836石櫃
840板碑 供養塔
850中世の阿波
852星兜
853細川・三好の台頭
阿波の荘園・公領と港
854中世の遺跡からの出土品
855三好氏の台頭
900近世
901藩制のもとで
|
|
|
地学
地方都市の博物館だと、(
)たかをくくってはいけません。莫大な資金と、熱い情熱で、見たこともない展示が行われています。
|
|
|
100徳島の自然と歴史 |
101結晶片岩 徳島市大原町大神子
|
吉野川の南側の幅10数kmの地帯は三波川帯と呼ばれ、結晶片岩という変成岩からできている。
大神子の海岸に見られるのは、砂岩・泥岩からできた結晶片岩である。
これらは日本列島の土台がつくられた際に、地下深くで高い圧力を受けてできたと考えられている。 |
※結晶片岩は大変硬質で、出雲玉作遺跡(松江市)では、四国から持ち込まれた結晶片岩を砥石に使っていました。
出雲と四国を結晶片岩でつないだのは忌部氏です。玉生産とその関連鉱物の産地を領有していました。
玉生産や、辰砂・水銀朱生産などの地域を所有していると、その膨大な経済力で、黎明期のヤマト政権の大王にもなれたほどなのです。
忌部氏については、あとで出てきます。
徳島県立博物館 |
地学展示室
巨大な漣化石の標本
漣痕です |
巨大な結晶片岩の標本 |
結晶片岩 |
結晶片岩
|
結晶片岩 |
結晶片岩 |
結晶片岩 |
エクロジャイト
Eclogite |
徳島県吉野川市山川町
高温高圧下でできた珍しい岩石。
三波川結晶片岩に伴って産出したもの。 |
|
|
|
102四国の地形と地質
宍喰の漣痕跡 海洋町宍喰浦 古第三紀始新世 国指定天然記念物
|
徳島県内の宍喰浦(ししくいうら)周辺に分布する砂岩・泥岩の互層には、いろいろな堆積構造が残されている。
「宍喰の漣痕」もそのひとつで、海底の水流が砂の表面に残した模様(漣痕)である。これは漣痕の中でも舌状リップルと呼ばれるもので、左下から右上へ水が流れたことがわかる。 |
宍喰の漣痕
|
ヘルミントプシス
|
ヘルミントプシス
(生痕化石)
|
徳島県海陽町小川皆ノ瀬
小動物が海底の堆積物を食べ歩いた跡。宍喰の漣痕の近くにも見られる。 |
宍喰の漣痕
|
|
宍喰の漣痕 |
|
四国の地形と地質
四国の地形と地質 |
|
四国の地形と地質
岩石帯がくっきりと分かれていることに驚き |
徳島・和歌山付近 |
|
103四国の構造線 引用「中央構造線の旅」
中央構造線 |
四国の構造線はこれだけと思っていました。
付加体が重なった地域であることを忘却していた。
着想「空から日本を見てみよう・愛媛県佐田岬」 |
|
中央構造線 |
御荷鉾構造線 |
仏像構造線 |
安芸・中筋構造線 |
|
↓外帯↑内帯 |
和泉層群・領家帯 |
三波川帯 |
白亜紀付加体起源の低温-高圧型変成岩 |
秩父帯 |
ジュラ紀付加体 |
四万十北帯 |
|
四万十南帯 |
|
|
|
|
|
110日本列島と四国の生い立ち
|
日本列島と四国の土台は、プレート運動に伴って、古生代後期から白亜紀にアジア大陸の東の縁に付加された砂や泥などの海底堆積物や玄武岩質の海洋プレートからなります。
その後、中新世に日本海が誕生することで、日本列島が形づくられました。。 |
|
111
|
112生命の生い立ち
|
世界最古の化石は、約35億年前の地層から見つかる原核生物である。その後、約21億年前に真核生物が生まれ、そして、先カンブリア時代の終わり、約5億5000万年前になると、エディアカラ動物群と呼ばれる大型の多細胞生物が現れた。しかし、まだどれも硬い殻を持たない動物であった。
古生代に入ると、海に棲む生物は種類・数ともに飛躍的に増え、、現在みられる無脊椎動物のほとんどのグループが現れた。
また、古生代には生命の上陸という大きな出来事が起こった。シルル紀に植物の上陸が始まり、それを追って動物も水中から陸上へと進出していった。 |
|
|
生命の生い立ち |
縞状鉄鉱
オーストラリア
先カンブリア紀約20億年前の堆積性鉄鉱層 |
この頃海水中の酸素が増え、海水中に溶けていた鉄分が大量の酸化鉄となって |
縞状鉄鉱
海底に沈殿し、堆積していったと感かえられている。 |
生命の生い立ち
QR |
地球上で最古の岩石 |
←
カナダ・アカスタ
角閃石黒雲母片麻岩
現在知られている最古の岩石で、39億66000万年前の年代値を示す。 |
|
|
|
|
113先カンブリア紀の生物
先カンブリア代の生物
|
世界最古の化石は、約30億年前の地層から見つかるバクテリアやラン藻類などの原核生物の化石である。
それから10億年たって、緑藻類などの真核生物が生まれた。
大型の多細胞生物は、先カンブリア代の終わり(6~7億年前)になって表れた。
それらはエディアカラ動物群と呼ばれ、ヒドロ虫類、ウミエラ類、多毛類などに似た、固い殻をもたない生物だった。 |
古生代の生物
|
古代になると、海に棲む無脊椎動物が飛躍的に増え、三葉虫、筆石類、碗足類、床板サンゴ、オウムガイ、紡錘虫などが栄えた。
それらは先カンブリア代の生物と違い、キチン質や石灰質の固い殻をもっていた。
古生代には、また、生命の上陸という大きな出来事があった。まず、植物がシルル紀に上陸をはじめ、それを追うように動物も陸上に進出した。 |
生物の歴史 |
先カンブリア代の生物 |
生物の歴史 |
先地質時代
(46億-39.6億年前)
先カンブリア代
(39.6億-6億年前) |
古生代
(5.9億-2.48億)
|
板床珊瑚類・四放サンゴ類・紡錘虫類
碗足類・オウムガイ類・アンモナイト類
三葉虫・筆石類・無顎類・板皮類→硬骨魚類 |
無顎類・板皮類
→軟骨魚類
刺魚類・条鰭類
→硬骨魚類・総鰭類
肺魚類
→両生類
|
古生代の生物 |
|
|
|
|
|
114カンブリア紀の動物
|
エディアカラの化石
オーストラリア・アデレード北方、先カンブリア代
チャニオディスクス
ウミエラ類
Charniodiscus
チャルニオディスクスor
カルニオデイスクス
エディアカラ動物群の一種 |
コレニア
Collenia cylindrica
中国遼東半島
先カンブリア代後期
ラン藻類の作った堆積構造。ストロマトライトの一種 |
モーソニテス
Mawsonites spriggi
原クラゲ類(刺胞動物) |
ディッキンソニア
Dickinsonia costata
双肋動物類(刺胞動物) |
ディッキンソニア Dickinsonia costata
双肋動物類(刺胞動物) |
エディアカリアEdiacaria
原クラゲ類? |
|
|
|
|
|
|
115カンブリア紀の植物
|
|
116古生代の生物
|
117古生代の動物
三葉虫のなかま
|
古生代の海に棲んでいたキチン質の外骨格をもった節足動物。カンブリア紀から古生代終末のオルドビス紀にかけて繁栄した。
1cmほどの小さなものから70cmにもなる大きなものまで、焼く1500属、1万種の三葉虫が知られている。
体を丸めた状態の化石は、外敵から身を守るときの姿勢を示していると考えられている。 |
|
|
三葉虫の仲間 |
|
セレノペルチス
モロッコ オルドビス紀
Selenopeltis |
|
グリーノプス
アメリカ・ニューヨーク州デボン紀
Greenops boothi |
|
ディクラヌルス モロッコ
デボン紀
Dicranurus monstrosus |
ホモテルス
米国オクラホマ州オルドビス紀
Homotelus bromidensis |
イソテルス カナダ
オンタリオ州オルドビス紀
Isotelus gigas |
メタクリフェウス
ボリビア デボン紀
Metacryphaeus caffer |
ファコプス
米国ミシガン州デボン紀
Phacops rana |
|
ファコプス
モロッコ デボン紀
phacops africanus |
|
|
|
|
118古生代の植物
|
維管束をもった最初の陸上植物の化石は、シルル紀後期の地層からみつかる古生マツバランの仲間である。
上陸した植物は、茎・根・葉の分化が進み、次第に大型化していった。そして、石炭紀からペルム紀にかけて大森林を作った。
石炭紀の湿地に大森林を作った植物は、鱗木、封印木、ロボクなどのシダ植物だった。大きなものは幹の直径2m高さ30m
にもなり、ヨーロッパやアメリカの石炭のもとになった。 |
|
|
120太古の日本
|
121太古の日本
|
日本列島で古生代前半の古い年代を示す岩石は、飛騨帯や黒瀬川構造帯、南部北上帯、阿武隈帯などの限られた地帯に分布する。
そして、その周りを古生代末から中生代に作られた付加体が取りまいている。
古生代の中頃、地球の南半球では、現在の南極、アフリカ、オーストラリア、アメリカ、インドの各大陸となる地塊が、
ゴンドワナと呼ばれる巨大な大陸を作っていた。アジア大陸はまだなく、幾つかの陸塊に分かれていた。
日本列島の基盤と考えられたこともある古い年代の岩石は、当時のゴンドワナ大陸の端で作られ、
プレートに乗って運ばれてきたものだと考えられるようになった。 |
|
太古の日本 |
立川のシルル紀石灰岩 |
徳島県勝浦郡勝浦町辷谷
黒瀬川構造体の構成岩類。
四国で最も古い地層で、
クサリサンゴやハチノスサンゴの
化石が入っている。 |
QR |
世界最大のアンモナイト化石 パラプゾシア デスモセラス科 ドイツ・ウェストファリア地方 白亜紀後期
|
アンモナイトはシルル紀後期、約4億年前から白亜紀末、約6500万年前まで繁栄していた頭足類と呼ばれるタコやイカの仲間です。
その種類は1万種を越え、大きさも数ミリから2m近くになるものまで様々です。その中でもパラプゾシア亜科のアンモナイトは最も大きくなる種類です。 |
世界最大のアンモナイト |
パラプゾシア |
世界最大のアンモナイト化石
|
|
|
122日本列島の地帯構造
|
日本列島の土台は、色々な時代の地層が帯状に寄せ集められてできている。
プレートテクトニクスの考えによれば、中朝地塊の南側に生まれた海溝(沈み込み帯)に溜まった土砂は、
プレートの沈み込みに伴い複雑な褶曲と変成作用を受け、次々と大陸側に付け加えられていった。
日本列島の地帯構造はこのようにして形づくられたと考えられている。 |
日本列島の化石
|
長い間シルル紀の床板サンゴや碗足類の化石が、日本最古の化石だと考えられてきたが、
1980年以降、それより古いオルドビス紀の貝形虫(カイケイチュウ)や放散虫などの微化石も発見されるようになった。
これらの古い時代の化石は、ほとんど、飛騨帯、黒瀬川帯および南部北上帯などの古い地塊の岩石を取り巻く、構造体の石灰岩から見つかっている。 |
日本列島の地帯構造 |
|
北海道・北東北 |
|
|
東北・北関東 |
北関東・中部・近畿 |
近畿・中国・四国 |
西日本 |
日本列島の地帯構造 |
日本最古の化石 |
|
|
123先カンブリア代
|
正珪岩の礫
大阪府豊中市大阪層群(第四紀)に含まれる先カンブリア代の岩石 |
正珪岩の礫
石川県石川郡手取層群(白亜紀前期)に含まれる先カンブリア代の岩石 |
はんれい岩
勝浦郡勝浦町辷谷
三滝火成岩類の一員の岩石 |
花崗岩 阪南市上大野町城山
三滝火成岩類
3.9~4.6億年の年齢を示す |
眼球片麻岩 富山県上新川郡大山町
飛騨片麻岩帯を作る片麻岩の一種 |
|
黒雲母角閃石片麻岩
岐阜県吉城郡神岡町
飛騨帯をつつくる片麻岩の一種 |
|
124古生代
|
パラエオレペルディチア
岐阜県吉城郡福地
オルドビス紀 貝形虫類 |
層孔虫の仲間 勝浦郡勝浦町辷谷
シルル紀 |
クサリサンゴの一種
halysitesシルル紀 |
ハチノスサンゴの一種
Favosites asper |
ハチノスサンゴの一種
Favosites
岐阜県吉城郡福地 デボン紀 |
チノスサンゴの一種
Favosites asper
高知県高岡郡横倉山 |
クサリサンゴの一種
halysites
高知県高岡郡横倉山 シルル紀 |
|
125青石は語る
|
秩父帯をはじめ、日本列島の土台の大部分は、古生代末から中生代にかけてつくられた付加体からできている。
そこでは、砂岩や泥岩の地層の中に、それより古い時代の石灰岩やチャート、緑色岩などがブロック状に取り込まれている。
大陸側から供給される砂や泥と、海洋プレートの上に乗って運ばれてくるチャート、溶岩、石灰岩などが海溝周辺で混じり合って
付加体特有の地層ができると考えられている。
吉野川の南に広がる三波川帯は、付加体が変成してできた岩石からなる地体である。この中で広く認められる
「阿波の青石」も付加体の緑色岩が変性してできた緑色片岩である。緑色片岩は海底に噴出した溶岩が変性してできたものである。 |
|
126徳島の地質
青石と緑色岩
|
緑色岩は、もともとは、海底火山活動によって噴出した玄武岩質の溶岩や凝灰岩である。それらは南の海で多数の火山島や海山を造っていたが、ペルム紀からジュラ紀にかけて、次々と大陸側に付加された。
緑色岩の一部はその後、地下十数kmの深さに引きずり込まれ、高い圧力の変成作用を受けた。青石はこうしてできた変成岩と考えられる。 |
|
徳島県地質図 |
地層・岩石種類・
地質年代・構造線区画 |
青石と緑色岩 |
|
127
|
杏仁状輝緑凝灰岩
勝浦郡上勝町藤川
「梅林石」として知られる秩父帯の岩石。
海底に噴出した溶岩のガスが抜けた気孔を、方解石が二次的に埋めている。 |
紅れん石片岩
徳島市眉山 三波川帯
|
緑色片岩
徳島市眉山 三波川帯
内部は細かく褶曲している |
|
|
128秩父帯の岩石と化石
秩父帯の岩石と化石 |
ダオネラDaonella |
那賀郡那賀町臼ヶ谷
中生代三畳紀中期
臼ヶ谷層
扁平な殻をもち、両殻はほぼ同形の半円形状の二枚貝 |
赤色チャートRed chert |
那賀郡那賀町久井谷川放散虫化石を大量に含んでいる。 |
|
石灰岩と緑色岩 |
Limestone.green rock
那賀郡那賀町沢谷 |
粘板岩Slate |
那賀郡那賀町沢谷
弱い変成作用を受けた泥岩で、薄く剥がれる性質をもつ |
ダオネラ Daonella sp. |
那賀郡那賀町木頭
中生代三畳紀中期
臼ヶ谷層
扁平な殻をもち、両殻はほぼ同形の半円形状の二枚貝 |
モノチス |
Monotis(Entomonotis) ochotica
那賀郡那賀町臼ヶ谷
中生代三畳紀後期
梅ヶ谷層
散じよう来後期の示準化石となる二枚貝類 |
ホモミア |
那賀郡那賀町臼ヶ谷
中生代ジュラ紀
鳥巣層群
ずんぐりとした形態の二枚貝類 |
オキシトマ
Oxytoma sp.
|
那賀郡那賀町臼ヶ谷
中生代三畳紀後期
梅ヶ谷層
二枚貝類で、左殻と右殻で殻形が異なる
|
粗粒変はんれい岩 |
Metagabbro
名西郡神山町治郎鉱山みかぶ帯の岩石 |
緑色岩 |
Green rock
那賀郡那賀町久井谷川
玄武岩やはんれい岩などが弱い変成作用を受けたもの |
|
|
|
129古生代後期~中生代の大陸移動
古生代後期~中生代の大陸移動 |
ペルム紀後期の古地理図(約2億5000万年前) |
ペルム紀後期の古地理図
(約2億5000万年前)
古生代の終わり頃、地球上の陸地は、パンゲアと呼ばれる一塊の大きな陸地だった。
東アジア大陸はまだなく、バラバラの地塊群に分かれていた。
これらの地塊群は、ペルム紀末から三畳紀にかけてしだいに寄せ集められ、北ユーラシア大陸が作られた。 |
ジュラ紀前~中期の
古地理図
(1億9000万年~1億7000万年前) |
ジュラ紀前~中期の古地理図
(1億9000万年~1億7000万年前)
パンゲアの分裂は、ジュラ紀中期に始まった。
アフリカ大陸と北アメリカ大陸の間にできた裂け目は、次第に南北に拡がり、北のローラシア大陸と南のゴンドワナ大陸に分かれた。そして、北大西洋ができた。 |
白亜紀中期の古地理図
(約1億年前)
|
白亜紀中期の古地理図
(約1億年前)
白亜紀になると、ゴンドワナ大陸の分裂が始まった。
南アメリカ大陸とアフリカ大陸の間に裂け目ができ、南太平洋が生まれた。
また、インド大陸もアフリカ大陸から離れ、北上し始めた。 |
大陸の分節と移動
|
大陸の分裂と移動
中生代になると、超大陸パンゲアの分裂と移動が始まり、大西洋やインド洋、北極海が新しく生まれた。
このことは、海域の分化や気候帯の変化をもたらし、海だけでなく、陸上に棲む生物にも大きな影響を与えた。
アジア大陸が形作られ、その東の縁での付加作用によって日本列島の土台が作られたのもこのような大陸の分裂・移動と深く関連した出来事だった。 |
|
|
130三波川帯の結晶片岩類
三波川帯の結晶片岩 |
点紋緑泥岩片岩 |
吉野川市山川町
高越鉱山
白色の曹長石の斑状変晶(点紋)がみられる |
藍閃石片岩(青色片岩)
|
徳島市眉山
藍閃石(らんせんせき)という鉱物を多く含む結晶片岩、眉山と高越山に多いことから
「徳島県の岩石」に選定された。 |
|
石墨(せきぼく)片岩 |
三好市山城町大歩危
泥岩が結晶片岩となったもので、炭素を多く含むため、黒っぽい。 |
層状含銅硫化鉄鉱 |
名西郡神山町折木鉱山
三波川タイの緑色片岩類に伴って算出する鉱石で、黄鉄鉱・磁硫鉄鉱を主体とし、黄銅鉱、閃亜鉛鉱などを伴う。 |
礫質片岩 |
三好市城山町大歩危
礫岩が結晶片岩となった |
緑泥石石英片岩 |
吉野郡山川町高越鉱山 |
|
|
|
|
|
131世界の緑色岩の分布
世界の緑色岩の分布 |
世界の緑色岩は、特定の地域に、細長い帯状に分布している。
このことは、そこが、かつてのプレートとプレートの境界(沈み込み帯)だったことを示している。 |
|
緑色岩とは、
正式な名称は、緑色岩類。
海底火山が噴火し、放出された火山灰や溶岩がその熱と海水との作用によって緑色になってできた岩石です。
普通は、堆積岩の地層中に挟まれてくるので、凝灰岩の一種と考えられ、輝緑凝灰岩と呼ばれていました。
地学の散歩-緑色岩 - ヨッシンと地学の散歩 |
|
132徳島の鉱石
|
斑銅鉱
|
徳島県吉野川市山川町高越鉱山
高品位の銅鉱石。
この標本では黄銅鉱を伴っている。 |
ルチル |
徳島県吉野川市山川町
二酸化チタン鉱物の一種。金紅石(きんこうせき)ともいう。
石英岩脈の中に入った結晶が見られる。 |
|
ルチル |
徳島市眉山
明治時代の採取品
かつて眉山からは大きなルチルが算出したが、現在採れない。 |
自然金 |
徳島県美馬市吉野川
銀を僅かに含んでいる |
|
|
ざくろ石 |
徳島市眉山
12面体結晶の満ばんざくろ石。
元々は紅簾石石英片岩の中に入っていたもの。 |
|
|
紅簾石石英片岩 |
徳島市眉山
紅簾石(こうれんせき)という濃赤色のマンガン鉱物を沢山含んだ結晶片岩
紅簾石は「徳島県の鉱物」に選定されている。 |
エクロジャイト |
徳島県吉野川市山川町
地下数十kmの深さで出来た、玄武岩や斑レイ岩起源の変成岩。世界的にみても産地が限定されている。 |
サーサス石 |
徳島県徳島市入田町白竜鉱山
マンガンを含む鉱物。黒色の二酸化マンガン鉱を伴う。 |
サーサス石 |
|
苦土リーベック閃岩 |
徳島県徳島市眉山
石英片岩の片理沿いにできた黒っぽい柱状結晶。眉山から産出する珍しい鉱物の一つ。 |
緑色片岩 |
徳島市入田町白竜鉱山
マンガンを含む鉱物、黒色の二酸化マンガン鉱を伴う。 |
|
|
|
|
150四万十帯の成長
|
四万十帯は、秩父帯側の外側、即ち日本列島の一番太平洋側に分布する地体である。
大きく見て北半分は白亜紀、南半分は古第三紀の付加体から作られている。
四国の遥か沖合の海底には、南海トラフと呼ばれる沈み込み帯があり、そこでは現在の付加体がつくられていると考えられている。
白亜紀には、一旦陸化した秩父帯にも浅い海が入り込んだ時期があり、勝浦盆地に分布する植物化石や貝化石を含む地層は、その時作られたものである。
また、この海は白亜紀末にはさらに北まで広がり、中央構造線沿いに和泉層群が堆積した。
中央構造線の北側の陸上では、激しい火山活動が起こっていた。 |
|
151
|
|
四万十帯の成長 |
コダイアマモの一種 |
板野郡上板町泉谷
白亜紀後期
現生のアマモ類の祖先とされたが、現在では、生物が海底を行動した痕跡(生痕化石)と考えられている。 |
QR |
|
|
|
153和泉層群 |
154和泉層群の化石
|
和泉層群は、中央構造線の活動によって生まれた堆積盆を埋めた、礫岩・砂岩・泥岩の厚い地層からできている。
そして東西300km以上にわたって細長く分布している。
ここからは、白亜紀末のアンモナイトをはじめ、二枚貝、巻貝、コダイアマモなどの化石が見つかる。
アンモナイトには、プラビトセラスやディディモセラスなど、和泉層群からしか知られていないものも多い。 |
|
プラビトセラス
鳴門市大津町山路
アンモナイト類 |
ランダイコウバシの仲間
板野郡盗人谷川
ウニの仲間
兵庫県南淡路市志知
白亜紀後期 |
|
三角貝の仲間
兵庫県淡路市長田
白亜紀後期 |
イノセラムス(二枚貝類)
香川県さぬき市兼割
白亜紀後期 |
スッポン(カメ類)
兵庫県淡路市長田
白亜紀後期 |
六放サンゴ類の一種
板野郡谷川 |
ディディモセラス
鳴門市瀬戸町(島田島)
アンモナイト類 |
ディディモセラス
(アンモナイト類)
兵庫県南あわじ市木場
白亜紀後期 |
|
|
155和泉層群の化石と分布
|
整然とした和泉層群の砂岩・泥岩の互層
鳴門市大毛島 |
和泉層群の分布と
化石産地 |
|
パキディスカス 阪府貝塚市蕎原
アンモナイト類
兵庫県南あわじ市長田
白亜紀後期
|
ゴードリセラス 阪府貝塚市蕎原
アンモナイト類 |
ナノナビス(二枚貝類) 大阪府貝塚市蕎原 |
クリソコルス
大阪府泉佐野市新池
二枚貝類 |
プリューログラマトドン
大阪府貝塚市蕎原
二枚貝類 (そぶら) |
パキティスカス
庫県南あわじ市志知
白亜紀後期 |
パキティスカス
兵庫県南あわじ市
白亜紀後期 |
パキティスカス
大阪府貝塚市蕎原
アンモナイト類 |
|
|
155白亜紀の西南日本
日本の恐竜化石
|
1978年に岩手県から日本で初めての恐竜化石が発見されて以来、各地から相次いで化石が見つかるようになりました。
特に北陸地方の手取層群からは10種を越える恐竜の多数の歯や骨が見つかっています。
また、近年、兵庫県の笹山層群からも竜脚類をはじめとする多数の恐竜化石が見つかっています。
徳島県勝浦町から見つかった恐竜化石は、西南日本外帯では、群馬県中里村に次いで2番目のものです。 |
勝浦盆地の地層と化石
|
勝浦川流域から羽ノ浦町にかけて、秩父帯の中・古生層を不整合に覆って、白亜紀前~後期の地層が分布している。
最下部の立川層は汽水性の環境を示し、シジミの仲間の貝化石や、ニルソニア、オニキオプシス、クラドフレビスなどの植物化石(領石植物群)を
算出する。
立川層より新しい地層からは、三角貝やアンモナイトなど海生の生物の化石が見つかる。 |
徳島県の恐竜化石
|
徳島県の勝浦盆地には、物部川層群と呼ばれる白亜紀前期(約1億3000万~1億年前)の地層が分布しています。
この地層の一部には、湖や河川又は、汽水域(淡水と海水が混ざる干潟のような環境)などの陸域でできた地層があり、その周辺に生きていた淡水生の貝やシダ・裸子植物などの化石が発見されます。
この陸域でできた地層からは、恐竜の化石も発見されています。2016年にも、竜脚類ティタノサウルス形類と推定される歯化石が発見されました。 |
|
白亜紀の西南日本
|
白亜紀の西南日本
模式断面図 |
日本の恐竜化石
ピンボケ |
勝浦盆地の地層と化石 |
|
勝浦盆地の化石
|
徳島県の恐竜化石 |
勝浦盆地の化石 |
ジャスティクリオセラス
勝浦郡勝浦町中小屋
白亜紀前期 |
ウミシダの仲間
勝浦郡勝浦町広安
白亜紀前期 |
ヘテロセラス
(アンモナイト)
勝浦郡勝浦町中小屋
白亜紀前期 |
デスモセラス
勝浦郡上勝町藤川
白亜紀前期 |
フィロパキセラス
勝浦郡勝浦町中小屋
白亜紀前期 |
マリエラ(アンモナイト)
勝浦郡上勝町藤川 |
|
|
|
|
157四万十帯
|
四国の四万十帯は、安芸構造線を境にして、北半分は白亜紀、南半分は古第三紀の地層からできている。
砂岩・泥岩を主体とし、チャートや凝灰岩などを伴う地層で、放散虫などの微化石を除けば、アンモナイトや貝などの大型化石はほとんど含まれていない。
宍喰町竹ケ島周辺に見られる古第三紀の砂岩・泥岩の互層には、生痕化石や、流痕・漣痕などの堆積構造が良く残されている。 |
四万十帯 |
チャートを含む四万十帯の砂岩・泥岩互層
阿南市蒲生田岬 |
|
|
|
160和泉層群 |
161和泉層群の化石分布
|
和泉層群は、中央構造線の活動によって生まれた堆積盆を埋めた、礫岩・砂岩・泥岩の厚い地層からできている
そして、東西300km以上にわたって細長く分布している。
ここからは、白亜紀末のアンモナイトをはじめ、二枚貝・コダイアマモなどの化石が見つかる。アンモナイトには、ブラビトセラスやディディモセラスなど、和泉層群からしか知られていないものも多い。 |
日本の恐竜遺跡
|
1978年に岩手県から日本で初めての恐竜化石が発見されて以来、各地から相次いで化石が見つかるようになりました。
特に北陸地方の手取層群からは10種を越える恐竜の多数の歯や骨が見つかっています。
また、近年、兵庫県の笹山層群からも竜脚類をはじめとする多数の恐竜化石が見つかっています。
徳島県勝浦町から見つかった恐竜化石は、西南日本外帯では、群馬県中里村に次いで2番目のものです。 |
|
和泉層群の化石 |
和泉層群の分布と
化石産地 |
日本の恐竜遺跡 |
イグアノドン科の歯化石 |
|
|
|
|
164勝浦盆地
|
勝浦川流域から羽ノ浦町にかけて、秩父帯の中・古生層を不整合に覆って、白亜紀前~後期の地層が分布している。
最下部の立川層は汽水性の環境を示し、シジミの仲間の貝化石や、ニルソニア、オニキオプシス、クラドフレビスなどの植物化石(領石植物群)を
産出する。
立川層より新しい地層からは、三角貝やアンモナイトなど海生の生物の化石が見つかる。 |
勝浦盆地の地層と化石 |
勝浦盆地の化石 |
ハボウキガイの仲間
勝浦郡勝浦町広安
白亜紀前期 |
ブンブクの仲間 勝浦郡勝浦町広安
白亜紀前期 |
ネイセア
勝浦町立川 白亜紀前期
プチコマイア
勝浦町広安 白亜紀前期 |
ハヤミナ
勝浦郡上勝町柳谷 白亜前
ニルソニア
勝浦郡勝浦町立川 白亜前 |
クラドフレビス(シダ類)
勝浦郡上勝町正木ダム
白亜前 |
プテリネラ (二枚貝)
勝浦町広安 白亜紀前
プテロトリゴニア
勝浦町広安 白亜紀前
徳島県の石 |
|
165四万十帯
|
四国の四万十帯は、安芸構造線を境にして、北半分は白亜紀、南半分は古第三紀の地層からできている。
砂岩・泥岩を主体とし、チャートや凝灰岩などを伴う地層で、放散虫などの微化石を除けば、アンモナイトや貝などの大型化石はほとんど含まれていない。
宍喰町竹ケ島周辺に見られる古第三紀の砂岩・泥岩の互層には、生痕化石や、流痕・漣痕などの堆積構造が良く残されている。 |
四万十帯
|
四万十帯の岩石と化石 |
プロトバーギュラ
徳島県海陽町竹ケ島
|
|
新生代古第三紀始新世
奈半利川層
海底に浅く潜った二枚貝が歩いた痕。
以前はネレイデスと呼ばれていた。 |
|
コードリセラス
海部郡牟岐町楠之浦
白亜紀後期 |
発見を伝える新聞記事 |
マキヤマ
海部郡海陽町竹ヶ島 |
新生代古第三紀始新世
奈半利川層
有孔虫の殻と考えられているが、以前は生痕化石とされていた。 |
フルートキャスト |
新生代古第三紀始新世
奈半利川層
砂岩層の表面に残された水流の痕で水の流れの方向が分かる。 |
|
|
170恐竜とアンモナイトの時代(白亜紀) 約1億4500万年前から6600万年前
|
171頭足類
|
173恐竜とアンモナイト
|
中生代は、「恐竜とアンモナイトの時代」とも呼ばれる。陸上では、裸子植物が生い茂り、恐竜類が全盛を極めた。三畳紀に最初に現れた恐竜は、比較的小型であった。しかし、ジュラ紀・白亜紀には20mを超える巨大な恐竜もあらわれ、陸上に君臨した。
一方海の中ではアンモナイト類が大繁栄した。そのほか、魚類、首長竜などの爬虫類も沢山すんでいた。
ところが恐竜やアンモナイトをはじめ、多くの生物が中生代末に一斉に姿を消した。
現在研究者の多くが、隕石の衝突が引き金になって、大量絶滅が起こったと考えている。 |
|
|
恐竜とアンモナイトの時代
|
パキディスカス
(アンモナイト)
メキシコ白亜紀後期 |
アンモナイト |
隔壁で仕切られた気房部だけが残った標本。
住房まで完全に残れば直径60cmを超える大型だった。 |
|
174頭足類
アンモナイトの進化
|
アンモナイト類は、古生代デボン紀から中生代白亜紀にかけて栄えた軟体動物頭足類である。
実に様々なグループがあり、時代とともに、だんだん複雑な殻の装飾を持つものへと進化した。
白亜紀には、変わった巻き方をしたものもかなりいた。
アンモナイトはオウムガイによく似た殻をもつ外殻性頭足類であるが、イカやタコに近いグループだと考えられている。 |
地球を支配した恐竜
|
"恐竜"は、爬虫類竜盤目と鳥盤目を合わせた呼び名である。
三畳紀に最初に現れた恐竜は、全長1m程の小型のものだったが、ジュラ紀・白亜紀には20mを超える巨大な種類もあらわれ、陸上に君臨した。
恐竜のほか、翼竜や魚竜、首長竜(鰭竜目きりゅうもく)なども中生代に栄えた爬虫類である。
近年爬虫類温血説や、鳥類が恐竜の子孫であるという説も出され、話題を呼んでいる。 |
頭足類の系統樹
|
頭足類の系統樹
|
アンモナイトの進化
|
地球を支配した恐竜
|
|
175頭足類
頭足類の仲間 |
リツイテス
(オウムガイ類)
スエーデン オルドビス紀 |
タイノセラス
(オウムガイ類)
米国カンサス州
石炭紀 |
リロセラス
(オウムガイ類)
米国カンサス州
石炭紀 |
ユートレフォセラス
北海道小平町中記念別川 白亜紀後期 |
ペレムニテス
(矢石類)
ドイツ ジュラ紀 |
|
176いろいろなアンモナイト
|
メヌイテス
北海道小平町達布
白亜紀後期 |
セラタイテス
ドイツ 三畳紀 |
ゴニアタイテス米国オクラホマ州
石炭紀 |
コロニセラス ドイツ
ジュラ紀
レイオセラス 英国
ジュラ紀 |
オッペリア
ドイツ ジュラ紀
殻口についているのは
顎器 |
ゴードリセラス
北海道三笠市幾春別
白亜紀後期 |
カドセラス
英国 ジュラ紀 |
プランセンチセラス |
ジンボイセラス 北海道小平町中記念別川 白亜紀後期 |
プランセンチセラス |
カナダアルバータ州
白亜紀後期
丸い穴はモササウルスの歯型 |
|
177変わり巻きアンモナイト
|
ポリプチコセラス
北海道羽幌町二俣沢
白亜紀後期 |
ニッポニテス北海道三笠市桂沢
白亜紀後期 |
アイノセラス
北海道日高町上貫別
白亜紀後期 |
ムラモトセラス
北海道夕張市大夕張
白亜紀後期 |
ハイファントセラス
北海道中川郡佐久
白亜紀後期 |
ホプロスカフィテス
米国サウスダコタ州
白亜紀後期 |
ディディモセラス 米国サウスダコタ州
白亜紀後期 |
バキュリテス
米国 モンタナ州
白亜紀後期 |
|
|
|
|
|
180地球を支配した恐竜
|
"恐竜"は、爬虫類竜盤目と鳥盤目を合わせた呼び名である。
三畳紀に最初に現れた恐竜は、全長1m程の小型のものだったが、ジュラ紀・白亜紀には20mを超える巨大な種類もあらわれ、陸上に君臨した。
恐竜のほか、翼竜や魚竜、首長竜(鰭竜目きりゅうもく)なども中生代に栄えた爬虫類である。
近年爬虫類温血説や、鳥類が恐竜の子孫であるという説も出され、話題を呼んでいる。 |
|
185
地球を支配した恐竜 |
爬虫類の系統樹 |
恐竜類の系統樹 |
|
186恐竜から鳥へ
|
最古の鳥の化石は、1861年にドイツのジュラ紀の石灰岩から発見された始祖鳥である。
始祖鳥は、爬虫類と鳥類の中間的な特徴を持つが、鳥が爬虫類のどのグループから進化したかは、長い間謎であった。
しかし、近年、中国の白亜紀前期の地層から羽毛をもった恐竜化石が相次いで発見された。これらの恐竜化石から、鳥は恐竜の獣脚類を起源にしていることが明らかになった。くちばしをもった原始的な鳥の化石も発見されている。 |
|
鳥類の系統樹
|
恐竜から鳥へ
|
鳥類化石 |
プテロダクチルス ドイツ ジュラ紀 |
始祖鳥 ドイツ ジュラ紀後期 |
孔子鳥
中国遼寧省
白亜紀前期 |
|
|
|
|
|
|
188中生代の生物
|
アスピドリンクス
ブラジル・セアラ州
白亜紀後期
全骨類
(アスピトリンクス目) |
|
ヒプセロサウルス
(恐竜)の卵
フランス 白亜紀後期 |
ナンヨウスギ族の球果
アルゼンチン 白亜紀
裸子植物(球果目) |
|
プテロトリゴニア
スペイン 白亜紀
三角貝類 |
ステノプテリギウス
(魚類)
ドイツ ジュラ紀前期 |
トリゴニア(三角貝類)
スペイン 白亜紀
スタインマネラ(三角貝類)
スペイン 白亜紀 |
|
|
トリゴニア(三角貝類)
ドイツ ジュラ紀
グリフェア(カキの仲間)
英国 ジュラ紀
グリフェア(カキの仲間)
英国 ジュラ紀 |
|
|
|
200 |
230日本列島の始まり
|
新第三紀中新世のはじめ(約1900万年前)、アジア大陸の東の端に裂け目ができ、次第に拡大して海が入り込み、日本海が生まれた。
この変動により、それまでアジア大陸の一部だった日本列島は大陸から切り離され、今の日本列島の原型ができ始めました。
約1700万年前には黒潮が発生し、日本列島に沿って流れるようになった。
これ以後、現在に至るまで、黒潮は日本列島の動植物に大きな影響を与え続けている。 |
|
231
|
日本列島の始まり |
カガミガイの仲間の化石
京都府綴喜郡宇治田原町 |
ノムラカガミの貝殻の密着化石。この二枚貝も |
カガミガイの仲間の化石
第一瀬戸内海を代表する生物の一つである。 |
QR |
|
235黒潮生物
|
236最初の黒潮域の動物
|
中新世の中頃(約1600万年前)、現在の中国地方から北海道南部にかけての広い地域で、熱帯~亜熱帯の浅い海が広がった。
この海で溜まった地層からは、ビカリアなど、干潟のマングローブリン周辺に棲んでいたと考えられる貝化石が共通して見つかる。
この時期の温暖化は世界的な現象であったが、とくに日本の場合は、成立したばかりの黒潮が強く関わっていたと考えられている。 |
|
最初の黒潮域の動物 |
1600万年前の古地理と
海中気候
|
列島は南東北まで熱帯。
東北地方から南北海道まで亜熱帯
北海道道東地域は温帯。 |
泥岩中のビカリア
鹿児島県中種子町
(種子島中部)犬城海岸 |
ビカリアの多くは、このような炭質な泥岩から産出する。 |
|
|
ノムラカガミ
岡山県新見市
カケハタアカガイ
岡山県勝田郡奈義町
キララガイの仲間
岡山県新見市
ミミエガイの仲間
岡山県勝田郡勝央町 |
|
←
ニッコウガイの仲間
岡山県津山市
リュウグウハゴロモの仲間
岡山県津山市 |
→ タマガイの仲間
新見市
タテイワイア
岡山県勝田郡奈義町 |
|
キイキリガイダマシ 岡山県勝田郡奈義町 |
イズモユキノアシタ 岡山県勝田郡奈義町 |
|
デスモスチルス 臼歯
米国カリフォルニア州
中新世
哺乳動物(束柱目) |
|
ビカリア
岐阜県瑞浪市月吉町
ビカリエラ
岡山県勝田郡奈義町
ビカリア
岡山県勝田郡奈義町 |
|
ビカリア 岐阜県瑞浪市月吉町 |
|
ビカリエラ 岡山県勝田郡奈義町 |
ビカリア 岡山県勝田郡奈義町 |
|
|
|
238鮮新~更新世の黒潮域貝類
|
太平洋沿岸各地の鮮新世~更新世前期(約300~100万年前)の地層からは、モミジツキヒやニチフミガイなどの暖流系貝類化石が共通して見つかる。
これらは、当時の黒潮の影響を強く受けた浅海に生息していた貝類であり、その多くは、現生種か現生種に近い近縁な絶滅種である。
現在の黒潮域の浅海に棲んでいる貝類群の先がけと考えられている。 |
|
モミジツキヒなどの鮮新世~更新世暖流系貝化石が見つかる場所 |
穴内層の貝化石密集層
高知県唐浜 |
穴内層と段丘堆積物
|
唐浜の穴内層からは、 鮮新世~更新世前期の暖流系貝化石が多数見つかる
(高知県安田町唐浜) |
|
239
|
|
スズキサルボウ
沖縄県名護市我部祖河
更新世前期 仲尾次層
サトウニシキ
宮崎県川南町伊倉
更新世前期
宮崎層群高鍋層 |
|
ヒラカメガイ属の一種
高知県安田町唐浜
鮮新世後期
唐ノ浜層群穴内層
暖流系で浮遊性の巻貝 |
|
コンボウカニモリ類似種
高知県安田町唐浜
鮮新世後期
唐ノ浜層群穴内層
コンボウカニモリはポリネシア南部~オーストラリアなどに分布する |
カジトリグルマ類似種
高知県安田町唐浜
鮮新世後期
唐ノ浜層群穴内層
カジトリグルマ(台湾以南生息)に似ているがとげが短い。 |
ダイニチフミガイ |
高知県安田町唐浜
鮮新世後期
唐ノ浜層群穴内層
静岡県掛川市周辺
鮮新世後期
掛川層群大日層 |
キヌガサガイ
高知県安田町唐浜
鮮新世後期~更新世前期 唐ノ浜層群穴内層 |
ミズホスジボラ
高知県安田町唐浜
鮮新世後期 唐ノ浜層群穴内層
ホオジロザメの歯 キヌガサガイ
高知県安田町唐浜
鮮新世後期~更新世前期
唐ノ浜層群穴内層 |
|
トウキョウホタテ
スズキサルボウ 高知県安田町唐浜
鮮新世後期 唐ノ浜層群穴内層
キヌガサガイ 高知県安田町唐浜
鮮新世後期 唐ノ浜層群穴内層 |
↓高知県安田町唐浜
更新世後期 唐ノ浜層群穴内層 筒状の殻を作る二枚貝 |
|
タカサゴツキヒ
沖縄宮古島市平良西中曽根
鮮新世前期 島尻層群城辺層
モミジツキヒ
鹿児島県南種子町島間
第四紀更新世前期 増田層
コガチサルボウ
沖縄県名護市古我知
更新世前期仲尾次層 |
|
モミジツキヒ
宮崎県川南町通浜
更新世 宮崎層群高根層
モミジツキヒ
高知県安田町唐浜
更新世後期 |
ヨコヤマツツガキ |
|
|
240中央構造線の発達
|
中央構造線は、九州から関東まで1000kmも続く、わが国第一級の活断層である。
その活動は、泉層群堆積前の白亜紀に始まり、色々な時期に性格の異なる活動があった。
現在、四国では、右横ずれが優勢な運動をしていると考えられている。 |
破砕された岩石
|
板野郡板野町犬伏 和泉層群の砂岩・泥岩互層が破砕され、角礫-粘土状になったもの。中央構造線沿いには破砕帯が発達する。 |
|
241
|
中央構造線の発達 |
破砕された岩石 |
|
QR |
破砕された岩石 |
|
242四国の中央構造線
阿讃山脈と模式断面図 |
阿讃山脈と模式断面図 |
空から見た中央構造線
阿南市市場町上喜来
上空より西を望む |
阿讃山脈の模式断面図
北← →南 |
|
|
和泉層群(左上)が第四紀礫層へ乗り上げてる
美馬市美馬町荒川 |
和泉層群の破砕帯
板野郡板野町犬伏 |
和泉層群(右)と結晶片岩(左)の接触部分
東みよし町昼間 |
|
|
|
|
ランドサットが捉えた
中央構造線 |
断層ガウジ |
断層ガウジ |
三好市三野町太刀野
断層の運動によって岩石が粉砕され、粘土状になったもの |
ミロナイト
長野県上伊那郡非持
花崗岩が圧砕された岩石 |
実体鏡で覗いてみると |
|
実体鏡は二枚のずれた平面図を立体化してみる装置です。 |
|
|
|
|
|
251恐竜骨
|
|
アパトサウルス
(ブロントサウルス)
(=雷竜) |
|
|
これは、アパサウルスという恐竜の化石です。ブロントサウルス(雷竜)と呼ばれていたものです。
体長22m体重60t以上もあったと考えられています。 |
チロサウルス頭骨 米国カンサス州
白亜紀後期 |
チロサウルス頭骨 |
チロサウルス頭骨 |
米国カンサス州、白亜紀後期(約8000万年前)の海に棲んでいた、
体長9mの爬虫類(トカゲ類)。モササウルスもこの仲間である。
鋭い歯とたくましい尾びれを持ち、魚やアンモナイトを捕食していた。
チロサウルス類のかみ跡のついたアンモナイトの化石も、時々発見される。 |
ティタノサウルス類
|
ピンボケサウルス
|
ディプロドクス 頭骨
|
ディプロドクス 頭骨
米国ワイオミング州
ジュラ紀後期 |
ディプロドクス 頭骨
|
ディプロドクスは竜脚類に属する植物食恐竜。全長20-35m。
ジュラ紀後期(約1億5000万年前)の地層から同様に発見される竜脚類のアパサウルスに比して、全体時に細身の体形。頭骨は前後に長く、
前方に細い鉛筆状の歯が並ぶ。これを櫛状に使って樹木の歯をむしり取っていたと考えられる
|
252
ティタノサウルス類前脚
|
ティタノサウルス類前脚
|
ディプロドクス前脚
|
ティタノサウルス類後脚
|
ティタノサウルス類
|
ティタノサウルス類
|
|
ヘレラサウルス |
ティラノサウルス |
|
プシッタコサウルス |
プシッタコサウルス |
プシッタコサウルス |
プロトケラトプス |
パレオパラドキシア |
プロトケラトプス |
パレオパラドキシア |
プロトケラトプス |
|
サヌカイト原石 |
|
|
|
|
|
|
考古
|
300狩人達の足跡
ナウマンゾウをはじめ、氷河時代に大陸からやってきた生物を紹介すると共に、徳島に住み着いたヒトの生活ぶりを、出土品を基に探ります。
|
311ナウマンゾウとオオツノジカ
ナウマンゾウ
|
北海道広尾郡忠類村 更新世後期 原標本は北海道開拓記念館蔵
更新世中期に、当時陸化していた黄海ゃ朝鮮半島を経由して渡来し、20-30万年前から2万年前までの日本のほぼ全土に棲んでいた。
肩までの高さは2m余りで、アジアゾウとほぼ同じ大きさだった。
日本からはいろいろな種類のゾウの化石が産出するが、中でもナウマンゾウの化石が最も多い。
瀬戸内海や鳴門海峡からも沢山の化石が見つかっています。 |
ヤベオオツノジカ
|
岐阜県郡上郡八幡町熊石洞 更新世後期 原標本は大阪市立自然史博物館
オオツノジカは、大きな掌状の角を持った大型のシカの仲間で、更新世の冷温帯の草原や森林に棲んでいた。
中には差し渡し4m近くになる巨大な角を持つ種もあった。最終非容器が終わる頃に地球上から姿を消した。
更新世後期の日本各地には、ヤベオツノシカが棲んでいた。その化石は、ナウマンゾウの化石と一緒に発見されることが多い。 |
|
312ゾウの来た道
|
日本列島の第四紀前期の気候は比較的温暖で、多くの亜熱帯~暖温帯の動植物が生息していた。
日本列島が大陸と陸続きになると、南アジアや中国北部に起源をもつ動物が分布を広げた。
更新世中期になると気候が次第に寒冷化し、寒帯や亜寒帯の動植物が日本列島に進入し始めた。
しかし、温暖な気候を好む動植物は間氷期にはまだ広く見られた。
この時代になると、氷河の融解と凍結による海面の上下動により、地球上には何回もの寒い氷期と、温暖な間氷期が交互に訪れ、
氷期には日本列島と中国大陸はしばしば陸続きになった。
更新世後期の日本列島には、ナウマンゾウやヤベオツノシカのような冷温帯の動物が多数生息した。 |
|
ゾウの来た道 |
ナウマンゾウの右下顎骨と小臼歯 |
ゾウの来た道
|
ナウマンゾウの右下顎と小臼歯 子供のナウマンゾウの化石。氷河期の徳島にも親子連れの群れがみられたに違いない |
更新世後期の日本列島と 動物群の移住
|
|
北方系の動物群
ヒグマ・ヘラジカ
ウスリジカ・マンモスゾウ
・オオカミ
ナキウサギ・
タイリクヤチネズミ |
|
ムカシヤギュウ
ウシ
ナウマンゾウ
オオツノジカ
ウマ
トラ
イノシシ・ハタネズミ
オオヤマネコ
ニホンジカ・テン |
第四紀の生物
|
第四紀の前半は、氷河期と言ってもまだ暖かい気候が続き、メタセコイア植物群で特徴づけられる、第三期型の生物も多く見られた。
その後、気候は次第に寒冷化していったが、間氷期には、トウヨウゾウやマチカネワニなど南方系の生物も渡って来た。
最終氷期のウルム氷期は、もっとも気候が寒冷になった時期である。マンモスやヘラジカ、ヒグマが渡って来たのはこの時期である。 |
第四紀の生物 |
|
シカ肩甲骨 麻植郡
鴨島町 森山粘土層 |
動物の骨片 麻植郡
鴨島町 森山粘土層 |
|
森山粘土層の化石
下に記述 |
森山粘土層の化石
|
麻植郡鴨島町森山 鮮新世~更新世前期
吉野川南岸の鴨島町周辺の丘陵には、森山粘土層と呼ばれる県下唯一の鮮新-更新統 (鮮新世から更新世にかけての地層) が分布している。ここからは、メタセコイアなどの植物や淡水性貝類の化石が見つかる。昭和32年には大規模な発掘調査が行われ、ゾウの牙やシカの骨などの破片多数が採取された。 |
|
313第四紀における動物と植物の変遷
|
314鳴門海峡海底の化石
|
瀬戸内海は第四紀の化石の宝庫で、底引き網にかかって、ナウマンゾウをはじめ、様々な獣の化石が引き上げられている。
鳴門海峡から見つかるのはほとんどがナウマンゾウとムカシジカの化石である。これらは、氷河時代に棲んでいた生物の化石で、海底の地層から潮流によって洗い出されたものである。 |
ナウマンゾウの化石
鳴門海峡 更新世後期
左寛骨・左脛骨・右脛骨
|
鳴門海峡海底の化石 |
ナウマンゾウの化石
ナウマンゾウ牙 |
右下顎、 第3大臼歯
右下第2大臼歯
左大臼歯、右大腿骨 |
右下顎 第3大臼歯 |
|
315
ナウマンゾウ牙 |
ナウマンゾウ牙、
左大腿骨 |
左大腿骨、左〇骨
右下顎第2大臼歯
左上第3大臼歯 |
|
316人類の登場
|
第四紀は、人類が生まれ発展した時代でもあるので、「人類の時代」とも呼ばれている。
第三紀鮮新世にアフリカで生まれた猿人(オーストラロピテクス)のあるグループから私たちの先祖にあたるホモ属の原人が生まれた。
そして、原人から旧人、新人へと進化したと考えられている。
日本からは、原人や旧人の確かな化石はまだ見つかっていない。 |
|
|
|
|
アケボノゾウ臼歯
長野県東部町滋野
小諸層群大杭層 |
マンモスゾウ臼歯
アケボノゾウ臼歯
トウヨウゾウ右上第2大臼歯
京都伏見区深草 更新世中期 |
マンモスゾウ臼歯
オランダ 更新世後期 |
ムカシニホンジカ角
鳴門海峡 更新世後期 |
トウヨウゾウ右上第2大臼歯
京都伏見区深草 更新世中期 |
|
|
|
320人類の出現
ラエトリの足跡
|
タンザニア北部ラエトリ地方 新第三紀鮮新世(約360万年前)
1973年に発見された、凝灰岩の上に2列に続く54個の足跡の一部。3人のアファール猿人が残したもので、最古の人類の足跡でもある。
この足跡の発見によって、初期人類が石器の製作や脳の拡大の前に、直立二足歩行をしていたことが証明された。
体の大きさの違う2人は、男と女、親と子、兄弟などいろいろな解釈ができるが、確かなことはわからない。 |
|
ラエトリの足跡 |
人類の系統 |
港川人
沖縄県具志頭村
1万8520年前 日本で最も完全な化石頭骨 |
クロマニヨン人
フランス クロマニヨン |
|
ネアンデルタール人
フランス、ラ・シャペル |
ホモ・エレクトス
ケニア、トゥルカナ湖岸 |
ホモ・ハビリス
ケニア、トゥルカナ湖岸 |
ホモ・ハビリス ケニア、トゥルカナ湖岸 |
ボイセイ猿人
タンザニア、オルドヴァイ渓谷 |
アファール猿人 下顎骨
タンザニア、ラエトリ |
|
|
400徳島の旧石器時代
|
410旧石器時代の徳島
|
徳島にヒトが住み始めたのは、約2万年前の最終氷期の頃からと考えられています。
この頃、徳島では、香川から運んだサヌカイトを加工して、色々な石器が作られた。
この石器を使って、草むらや水辺に集まる動物を捕らえて暮らしていた。彼らの生活の場は、主に吉野川北岸の見晴らしの良い台地上であった。
徳島の旧石器時代遺跡は、吉野川流域で約30箇所発見されている。
また、このほかに、県南では廿枝遺跡(はたえだ)、延野大原(のぶのおおはら)遺跡が知られている。 |
サヌカイト
|
香川県坂出市金山産
旧石器時代、西日本では、石器の材料にサヌカイトを使った。サヌカイトは、大阪府二上山や香川県国分台などで採れるが、徳島の旧石器を分析すると、金山産サヌカイトが殆どである。 |
|
420旧石器時代の遺跡分布
石器の作り方
|
旧石器時代には、打ち欠いて石器を作る方法が主に使われた。その方法は、直接打法、間接打法、押圧剥離に分けられる。
直接打法は、川原石や鹿の角などをじかに石材に打ち付ける方法で、原石の荒割りや大まかな加工に使われた。
間接打法は、石材にタガネをあてがい、その頭を叩く方法で、薄く長い剥片が取れた。
押圧剥離は、鹿の角などの先を剥片に押し付けて加工する方法で、極めて細かい剥離に用いられた。 |
|
旧石器時代の遺跡分布 |
主な旧石器時代の遺跡 |
石器の作り方 |
石器の作り方 |
|
423徳島の旧石器
|
阿南市桑野町の廿枝遺跡で旧石器が発見されて以後、県下の旧石器時代遺跡は吉野川沿岸を中心にその数を増やしてきた。
石器は主にナイフ形石器が採取され、尖頭器や細石刃は数少ない。
ナイフ形石器は、縦長剥片や瀬戸内技法による翼状剥片(横長剥片)などが作られる。
吉野川沿岸ではサヌカイト、県南ではチャートや酸性凝灰岩が使われる。 |
|
424ナイフ形石器 剥片の片側又は両側を加工して作った石器。主に動物の解体などに使われた。
|
425翼状剥片 瀬戸内技法によって連続的に剥離された剥片。上から見ると鳥が翼を広げたように見える。
阿南市と東みよし町は随分離れた地域にあります。しかし、石器の文化は同じようです。この時期はまだ地域に閉じこもる条件ではなかったようです。
|
|
430吉野川流域の石器
|
431①吉野川上流の旧石器遺跡
|
吉野川上流域の旧石器遺跡
|
吉野川上流域の旧石器遺跡
|
ナイフ形石器、翼状剥片
三好市池田町白地峰遺跡 |
ナイフ形石器
池田町新山遺跡 |
ナイフ形石器
池田町洞草遺跡 |
ナイフ形石器
池田町井ノ久保西遺跡 |
三好市の隣に東みよし町だって。
なんで、有名でもない市の名前を借りるかね。
あこがれかい。
そんなに好きなら、一緒になればいいのにね。ややこしいよ。 |
|
|
433②吉野川下流域のナイフ形石器
椎ヶ丸遺跡出土品(徳島県阿波市)
|
吉野川下流域で、旧石器が最も多く採集されている重要な遺跡。サヌカイト製の大・小のナイフ形石器の他、翼状剥片や石核などが出土。 |
椎ヶ丸遺跡出土品 |
椎ヶ丸遺跡出土品 |
ナイフ形石器 |
横長剥片石核
翼状剥片石核
盤状剥片 |
|
|
435③県南 (阿南市) の石器
廿枝遺跡出土品(はたえだいせき)
|
徳島で最初に発見された旧石器時代遺跡。丘陵先端に立地する、チャートや酸性凝灰岩で作ったナイフ形石器、尖頭器、細石刃などが出土。 |
細石刃
|
細石刃核から押圧剥離で剥がした石刃。組み合わせて骨などに埋め込み、槍先として使う。 |
|
|
|
※下写真の細石刃は半円錐形細石刃核を用いている。旧石器終末期に北海道から南下し恩原遺跡を基地として瀬戸内側に進出し、香川県からも出土する楔形細石刃核を使った湧別技法ではなく、それ以前から、半島経由で広く本州全体に流布していた技法である。 |
|
廿枝遺跡出土品 |
尖頭器 |
ナイフ形石器 |
細石刃 |
剥片 |
|
436旧石器時代の徳島の海岸線
旧石器時代の地形
後期旧石器時代末期の海岸線
引用紀伊風土記の丘 |
四国付近のClose-up
①驚いたことに、太平洋側はすでに現代と同じ海岸線となっている。 |
②紀伊水道が存在し、
徳島から大河吉野川・那賀川、
和歌山から紀ノ川が流入していた。更に
紀淡海峡(淡路島東岸)から淀川・武庫川
鳴門海峡(淡路島西岸)から兵庫・岡山・香川の河川が流入していた。
淡路島は、東西の大河川が、さらに交わらないよう、中央で巨大な中洲のようになっていた。
【結論】 旧石器時代の徳島東岸は、
巨大河川の河口域にあたり、生態系の活発な地域であったと考えられる。 |
対岸徳島の旧石器遺跡の分布 |
|
③旧石器時代の徳島県
吉野川上流域、下流域そして、県南の阿南市、これら三か所で旧石器製作に地域性があるということは、かなりの閉鎖性があったようです。
こんなに近接したところなのに、石器製作に方言があり、緊密な接触がなかったのは不思議です。
石器の形状、石材。特に県南の石材と技法には驚きます。
|
|
500縄文時代
|
|
501後氷期の自然と縄文人
|
氷河時代が終わり気候が暖かくなると、自然環境は著しく変わった。人々は、山や海へと活動の場を広げていった。
縄文人は鹿や猪を狩り、栃の実やドングリなどを集め、海岸近くではシジミ、ハマグリ、ハイガイ、カキなどの貝やクロダイ、スズキ、ヒラメなどの魚をとって生活していた。
彼らは、岩陰やほら穴を利用したり、竪穴住居を造って住み、自然の恵みに頼って暮らしていた。 |
尖底土器
|
縄文時代早期 約1万年~6000年前 奈良県山辺郡山添村大川遺跡
縄文時代始め頃の土器は、底の尖ったものや、丸底のものが多い。 |
|
後氷期の自然と縄文人 |
尖底土器 |
|
尖底土器 |
1後氷期の自然と縄文人 |
|
502縄文時代の遺跡分布
|
縄文時代の遺跡分布 |
縄文時代の遺跡分布 |
縄文時代の遺跡分布 |
縄文時代の遺跡
▲草創期
(約1.2~1万年前)
有舌尖頭器出土地
1.阿波郡阿波町野神
2.麻植郡川島町唐戸
3.麻植郡鴨島町敷地
4.鳴門市大麻町檜
5.鳴門市大麻町大谷
6.海部郡由岐町木岐 |
△早期
(約1万~6000年前)
7.廿枝遺跡
阿南市桑野町
8.谷内A遺跡
那賀郡相生町
9.古屋岩陰遺跡
那賀郡上那賀町
10.加茂谷川5号岩陰遺跡
三好郡三加茂町
11.新山遺跡 三好郡池田町
12.洞草遺跡 三好郡池田町 |
■前期
(約6000~5000年前)
13.加茂谷川1号2号遺跡
(前期~晩期)
三好郡三加茂町
14.森崎貝塚(前期~後期)
鳴門市大麻町
□中期
(約5000~4000年前)
15.東禅寺遺跡(中期~後期)
麻植郡鴨島町 |
●後期 (約6000~5000年前)
16.ウエノ遺跡 三好郡池田町
17.大柿遺跡 三好郡三好町
18.庄遺跡(後期~晩期)
徳島市庄町
19.南佐古浄水場遺跡
徳島市南佐古6番町
20.城山貝塚(後期~晩期)
徳島市城ノ内
21.三倉遺跡 徳島市長生町
22.中連遺跡 阿南市福井町 |
〇晩期
(約3000~2300年前)
23.稲持遺跡
三好郡三加茂町
24.光勝院寺内遺跡
鳴門市大麻町
25.名東遺跡 徳島市名東 |
土器と弓矢
|
約1万2000年前、土器と弓矢が使われ始めた。この頃の土器は底が深く、貝を煮たり、トチの実やドングリなどのアク抜きに使われた。
弓矢を使うと離れたところにいるシカやイノシシ、素早い動きのウサギや鳥などをたやすく射止められるようになった。
土器と弓矢の使用によって、人々の食料は豊富になり、やがてムラが形作られるまでになった。 |
土器と弓矢 |
古屋岩陰遺跡
縄文早期
那賀郡上那賀町 |
古屋岩陰遺跡 |
城山貝塚のくらし |
|
510縄文時代草創期
弓矢の登場
|
旧石器時代の終わりから縄文時代初めには、木葉型尖頭器、有舌尖頭器、石鏃などが現れる。有舌尖頭器はすぐに姿を消すが、石鏃を使った弓矢は狩りを効率よくし、縄文時代を代表する狩猟具として長く使われた。 |
|
弓矢の登場 |
有舌尖頭器 基部に舌状の作り出しを持ち、
両面を加工した尖頭器。
槍先として使われた。 |
阿波市阿波町野神
鳴門市大麻町大谷 |
鳴門市大麻町檜
吉野川市鴨島町敷地
吉野川市川島町唐戸 |
廿枝遺跡の石鏃
はたえだ
|
縄文時代早期
約1万~6000年前
阿南市桑野町
凹基のものが多い。
チャート製。 |
洞草遺跡の石鏃
|
三好市池田町
凹基のもの。長脚鏃もある。
左下はチャート製、
他はサヌカイト製。 |
廿枝遺跡のナイフ形石器 |
|
|
520縄文時代早期
|
521石器
古屋岩陰遺跡
|
縄文時代早期 約1万~6000年前 那賀郡那賀町
那賀川の上流、古屋川に面した岩陰遺跡。
押型文土器や条痕文土器、無文土器とともに、石鏃や磨石などの石器、食料とした動物の骨や貝などが発見された。 |
トロトロ石器
|
素材はチャートである。トロトロ石器という名前は、表面が部分的に磨かれていることに由来しており、押型文土器に伴うものだと考えられている。
この石器は、形態から見てトロトロ石器と考えられるが、表面は磨かれていない。 |
|
古屋岩陰遺跡 |
すり石 |
楔形石器
石鏃 |
石鏃 |
楔形石器
|
トロトロ石器 |
那賀郡那賀町
鮎川西ノ宮遺跡 |
|
|
|
|
|
522縄文時代早期の土器
|
彫刻された木を使った押型文、貝殻による条痕文がみられ、とんがり底や丸底の深鉢であろう。 |
|
|
縄文時代早期の土器 |
押型文土器 |
無文土器 |
条痕文土器 |
|
523貝塚出土品
骨の加工品、骨ベラ
カワニナ、小動物の骨
|
ハマグリ、シジミ、
カワニナ
|
|
|
530縄文時代の石器
|
縄文時代には、石鏃、石槍、石匙、掻器、削器、石錐、石斧、砥石、磨石、くぼみ石などが多く使われる。
石匙は獲物の解体、掻器や削器葉皮なめしや、木・骨の加工、磨石やくぼみ石は木の実やイモを砕き粉にする道具。 |
東禅寺遺跡の石器 縄文時代後期 約4000~3000年前 吉野川市川島町
|
|
くぼみ石 |
磨石 |
くぼみ石 |
石匙 |
石匙
阿波市土成町
宮川内遺跡 |
石匙
阿波市阿波町
長峰遺跡 |
|
|
|
|
|
考察 縦長石匙
|
横長石匙は西日本型、縦長石匙は北日本型。東北縄文人が、使い慣れた縦長石匙をもって鳴門の海を越えてやって来た。
東北の人々は、縄文後期の4.3kaイベントで南下を始め、四国にまでやって来たようだ。 しかし、どうやって瀬戸内海を渡ったんだろう。
確かに、九州まで行ったのだから海を渡るのは当然かもしれないが、舟をどうやって調達したんだろう。
大量の東北縄文人が、何世代何世代もかけての大旅行。大量南下の中で、舟を作る技術と知識を持ち続けることが出来たんだろうか。
彼らは、青森で始まった座産土偶の作り方さえ、長い放浪と飢餓の生活の中で(簡略化ではなく)忘れて曖昧になっているのに、
舟が簡単に作れたのかな。道具や舟材をどうやって入手した。どうやって四国まで来たんだろう。 |
|
|
540森崎貝塚 縄文時代前期~後期(中期前半から後期後半) 徳島県鳴門市大麻町大谷森崎
|
旧吉野川沿いの標高5mの自然堤防上にある貝塚。
ハイガイを主体にした貝層からは、縄文時代前期末から後期の土器や石器、多量の貝類や魚骨が出土。 |
|
550縄文人の食べ物
遺跡から出土する動物の骨や貝殻から、縄文時代の人々が何を食べていたかわかる。
|
縄文人の食べ物 |
小型魚の脊椎骨 黒鯛
魚のヒレのトゲ
小動物の骨 |
シカ
|
ハマグリ
バイ貝、アカニシ貝 |
ハイガイ、カガミガイ
シジミ
マガキ、ハマグリ |
|
560城山貝塚出土品
|
縄文時代後期~晩期 徳島市城の内
徳島市内の中央にある城山の南や東側のすそには、鳥居龍蔵博士が1922(大正11)年に発見した3つの貝塚がある。
何れも洞窟や岩陰の遺跡で、貝類や獣骨、土器、石器、埋葬された人骨が出土しており、縄文人が狩りや漁をして暮らしていた様子がわかる。 |
|
|
570狩人の森
拡がる照葉樹林
|
照葉樹林は、シイやカシ、ヤブツバキ、クスノキなどの常緑広葉樹を主とする林で、縄文時代になり、暖かくなると、次第に東北地方まで広がった。
徳島では、高い山地のほかは、ほとんどが照葉樹林に覆われた。
照葉樹林は、木の種類が多く、秋には豊かに木の実がなり、沢山の動物が集まった。
縄文人は、この林で木の実を集めたり、狩りをして数多くの食料を得ていた。
|
|
|
|
600ムラからクニへ
弥生から古墳時代にかけての徳島を、米作りの道具や、出土数を誇る銅鐸、特産品であった辰砂を中心に、遺跡の出土品で紹介します。
|
601米作りの始まり
|
2500年程前、米づくりや金属器、はた織りなどの高い技術をもった文化が大陸から伝わり、西日本から東へと急速に広まった。
この時代を弥生時代という。
弥生時代の人々は、米作りによって安定した豊かな生活を営むことが出来るようになった。
人口は次第に増加し、大きなムラが作られた。大きなムラでは、水田や収穫物は、長(おさ)のもとで管理された。
ムラ同士の争いも多くなり、やがて強いムラは弱いムラを従え、強いムラの長は地域の支配者として地位を高めていった。 |
|
602
ムラからクニへ |
|
米作りの始まり |
米作りの始まり |
木偶
|
木偶
弥生時代中期~後期
徳島市庄遺跡 |
|
目と口を彫り込み、鼻を削り出して顔を表現。
男性か。ムラの安全と豊かな実りを祈った。 |
|
|
|
|
|
|
610稲を作るムラ南庄遺跡
|
612弥生土器
遠賀川式土器
|
弥生時代前期の土器は遠賀川式土器と呼ばれ、西日本を中心に分布する。壺、甕、鉢、のセットからなり、縄文土器に比べて壺の比率が高い。
前期も終わりになると、各地の土器に強い地域色が現れ、徳島でも、壺では胴部のふくらみが弱いものが多く、波状口縁や突起列を持つ甕もある。 |
遠賀川式土器 |
甕、南庄遺跡 |
遠賀川式土器 |
遠賀川式・模倣土器の分布
引用日本人らしさの起源 |
①遠賀川式土器分布圏
伊吹山地・養老山地以西
※突帯文土器が越えられなかった両山地は、
やはり越えられれなかった。
②東海北陸・関東・南東北
搬入遠賀川式土器+壺主体の模倣土器
③東北中・北部
遠賀川式土器の模倣土器のみ
④北海道
遠賀川式土器がない地域 |
甕、南庄遺跡
甕、徳島市庄
蔵本遺跡
弥生時代前期 |
甕、徳島市庄
蔵本遺跡
弥生時代前期 |
甕、徳島市庄
蔵本遺跡 弥生前期 |
壺、徳島市庄
蔵本遺跡
弥生時代前期 |
甕、徳島市庄
蔵本遺跡
弥生時代前期 |
甕、徳島市庄 蔵本遺跡
弥生時代前期 |
|
|
630石器
|
631大陸系の磨製石器
|
米作りと共に大陸から伝わってきた石器は石包丁類である。
石包丁は稲の穂首刈りに使われ、重量のある太型蛤刃石斧は、木を切り倒すのに、数種の片刃石斧は加工用に使われた。 |
|
|
大陸系の磨製石器 |
弥生前期、徳島市庄
蔵本遺跡 |
徳島市庄 蔵本遺跡 |
石包丁の使い方
イネは穂首で刈り取る |
太型蛤刃石斧
柱状片刃石斧
扁平片刃石斧
弥生中期
徳島市南庄遺跡 |
|
太型蛤刃石斧
徳島市南庄遺跡
柱状片刃石斧
鳴門市大麻町 柱状片刃石斧
鳴門市大麻町 柱状片刃石斧
徳島市入田町安都 真 |
|
|
|
|
632縄文の伝統を引く打製石器
|
鏃や錐、槍などの石器は弥生時代になっても、縄文時代と変わらぬ技術でサヌカイトなどを打ち欠いて作られた。
弥生時代後期になるとこれらの石器は大陸系の磨製石器と共に鉄製品にとってかわられた。 |
縄文の伝統を引く打製石器
|
|
|
石鏃 弥生中期
徳島市 南庄遺跡 |
楔形石器 弥生中期
徳島市 南庄遺跡 |
石鏃 弥生中期
徳島市 南庄遺跡 |
サヌカイト剥片 弥生中期
徳島市南庄遺跡 |
石鍬 弥生前期
徳島市庄 蔵本遺跡 |
砥石
弥生後期 徳島市庄遺跡 |
くぼみ石
弥生前期 徳島市庄遺跡 |
米を作るようになっても植物性食料の採集は続けられ、その加工のための道具も残った。 |
|
|
|
640稲を作るムラ
|
米作りのムラは、川沿いの小高い所に作られた。
大きな濠で囲まれたムラには竪穴住居や籾を蓄える高床倉庫などが建ち並び、広い水田や共同墓地も作られた。
水田を耕したり、水路を開いたりする仕事は、長を中心にムラ人が力を合わせて行った。
弥生のムラを発掘すると、土器や石器、水田を耕す鋤や鍬などの木製農耕具、稲穂を摘む石包丁、籾をつく臼や杵などが出土する。 |
|
641
|
稲をつくるムラ |
竪穴住居群 |
溝跡 |
土器だまり
徳島市 南庄遺跡 |
|
642庄・蔵本遺跡の墓地
|
庄・蔵本遺跡からは、弥生前期の墓地が発見されている。甕棺墓、石棺墓、覆石墓と多くの土壙墓からなり、土壙墓の内半数以上には配石が伴う。
甕棺墓には碧玉製の管玉やサヌカイトの石鏃などが副葬されているが、全体的にみると副葬品は少ない。 |
|
壺(壺棺)弥生前期
庄・蔵本遺跡 |
上に記述 |
|
弥生時代前期の墓地の調査風景 |
石棺墓の出土状況
庄・蔵本遺跡 |
甕棺墓の出土状況
庄・蔵本遺跡 |
|
|
|
|
|
|
643土壙墓の副葬品
|
石鏃10点と管玉11点が副葬されていた。石鏃は全てサヌカイト製で五角形や三角形の凹基のものと棒状のものとがある。
管玉は碧玉製で小さく精巧な作りである。首飾りにするほどには量が多くない。 |
徳島市庄・蔵本遺跡
|
|
|
650辰砂を掘る
|
弥生時代中頃、死者の顔や胸に赤い顔料を振りかけて埋葬する風習が、北部九州で始まり、次第に各地に広がっていった。
その赤い顔料とは辰砂とベンガラである。
辰砂は、中国では長生きの薬として大切にされてきた。日本にも伝えられ、やがて国内でも採掘がはじまった。
徳島では、弥生時代の終わりごろ、若杉山一帯で辰砂の採掘が始まり、特産品として各地に運び出された。 |
|
651日本の水銀鉱山
|
辰砂(水銀朱)葉、ベンガラ(水酸化第二鉄)などよりも色鮮やかで好まれ、朱、丹などと呼ばれる。辰砂を算出する水銀鉱床は、日本列島各地に分布するが、特に治雄王構造線上に分布する大和水銀鉱床群や阿波水銀鉱床群は代表的なものである。『魏志倭人伝』にいう「其山有丹」は、これらの鉱山であるという説もある。 |
丹生と丹生神社
|
水銀鉱床の近くには、「丹生」地名や「丹生神社」が多く所在する。丹生神社は辰砂産出を司る女神を祭る。
若杉山遺跡近くの那賀郡那賀町鷲敷にも「仁宇」などの地名と、古くは丹生神社と呼ばれた
「にうはちまん神社」がある。
信州星糞峠の黒曜石採掘穴で唯一発見の土器を採掘場所選定の祭祀痕と推測したが、
水銀朱採掘でも同様の祭祀を行うために、水銀朱産出ベルトでは、後に同名神社となる、同一祭祀が行われたのか、(今も昔も鉱山採掘には採掘場所選定の祭祀が付きもの)
それとも同一採掘集団が水銀朱ベルトに広がっていったため、同じ神話が広がったのか。 |
|
丹生の名と神社
引用丹生の茶碗祭り |
水銀鉱床と丹生神社
引用丹生都比売神を
祀る神社一覧 |
考察 水銀朱の価値
|
水銀朱なんて、印肉に使う以外特に気に留めない鉱物だけれど、弥生・古墳時代から、大変な価値を持つ希少品だったようです。
特に、ヤマト政権黎明期には、奈良県の水銀朱産地を押さえる豪族が、莫大な富を得て共立時代の大王(後の天皇の意味)になったという。
空海の一族は水銀朱産地を持つ豪族で、莫大な財力で遣唐使となり、天文学的経費も全て水銀朱で支払ったという。この時代には、大陸や半島に輸出もしていたそうです。そして、何より、空海が短期間で学問を習得できたのは、中国語や朝鮮語に堪能であったからで、それは、常に幼少のころから大陸系の人々が周囲にいて、日常会話として日本語・中国語・朝鮮語が使われていたことと、頭脳明晰が決め手でしょう。
水銀朱の価値は金鉱山よりも価値の高い、ダイヤモンド鉱山ほどの価値のあるものだったようです。使い道は葬送儀礼だけではなかったようです。 |
|
辰砂を掘る
|
辰砂を掘る
上に記述 |
水銀鉱山の分布
中央構造線南側に鉱床がある |
|
日本の水銀鉱山 丹生と丹生神社
上に記述 |
阿波の辰砂
阿南市水井町
若杉山遺跡 |
大和の辰砂
奈良県宇陀郡大和水銀鉱山産 |
三重の辰砂
三重県多気郡丹生
水銀鉱床産
北海道辰砂
北海道常呂群置戸
水銀鉱床 |
|
|
|
|
652辰砂採掘から精製まで
|
辰砂採掘から精製まで |
①露頭した辰砂を掘り出す。
②掘り出した塊を小さく砕く
③小さな塊を砕いて粉末にする。
④更に小さな粉に磨り潰す。
⑤不純物を洗い流す。
|
⑤の絵は、内容の理解をしていないイラストレーターの作品ね。
粉砕した鉱物は、水槽のようなところで時間をかけて静かに沈殿させ、重さや粒度によって分離し、ゆっくりと水を抜き出して層状になったものを分けて取り出します。
⑤のように流水で洗うとせっかく細かくした辰砂が流れて行ってしまいます。でも、上手な絵です。素晴らしい。 |
若杉山遺跡
|
戦後の開墾で、弥生土器に混じって、辰砂を粉末にするために用いたと考えられる石杵や石臼が発見された。
1984(昭和59)年から4年計画で当館が行った発掘調査によって、弥生時代から古墳時代にかけての水銀朱生産遺跡の姿が明らかになった。 |
|
|
若杉山遺跡
|
|
|
|
朱のついた石杵
|
採掘・打ち割りの石杵
辰砂を採掘したり、採掘した鉱石を小さく打ち砕くための道具 |
粉砕用の石杵・石臼
打ち砕いた鉱石を小さな粉に潰す道具 |
石臼、石杵
|
精製用の石杵・石臼
|
粉砕した辰砂を更に細かい粉に磨り潰すための道具 |
|
653若杉山遺跡の土器
弥生時代後半から終末期(畿内庄内式併行期)、および古墳時代初頭(畿内布留式古段階)のものが出土。
|
654鉱山の暮らし
辰砂採掘の工人たちは、鉱山で暮した。恵まれた山の幸はもとより、遠く海岸まで出かけて海の幸をもとめた。
(※海に出かけたのではなく、海から取り寄せたと思います。なにぶんにも物凄い大金持ちたちですから。なんでも手に入ったはず。)
|
|
獣骨・獣牙・レイシ(貝) |
アカニシ・マガキ
ハマグリ・チョウセンハマグリ・オキシジミ
サルボウ・ハイガイ・クロダイ |
アカニシ・マガキ
ハマグリ・チョウセンハマグリ・オキシジミ |
|
|
655米作りの始まり
|
|
670銅鐸
銅鐸のまつり
|
銅鐸は稲作のまつりに用いられたカネ(鐘)である。
近畿地方を中心に約600個が発見されているが、徳島県からは約50個が出土しており、その数の多さは全国的に知られている。
銅鐸の独特の形は朝鮮式小銅鐸をもとに作られ、吊り下げられて鳴らす小さなカネから大型のものへと変わっていった。
しかし、古墳造りが始まると、いっせいに地上から姿を消した。 |
|
671田村谷銅鐸 弥生後期
1911(明治44)年、阿南市山口町の通称田村谷から出土した、突線鈕式銅鐸。高67cm身は6区の区分けされ、全区に流水文が描かれている。
田村谷銅鐸 |
全区画に流水文描画 |
|
田村谷銅鐸
記述済み |
|
672銅鐸を復元する
|
銅鐸は、初期は石製、後に土製の2つの外型と1つの中型を組み合わせた鋳型に、高温で溶かした青銅を流し込んで作られた鋳物である。
「青銅」は、銅・錫・鉛の合金で、錆びると青緑から黒っぽい色になるが、元は新品の10円硬貨や5円硬貨のような銅色から金色である。
弥生時代の人々が目にした銅鐸は、金色に輝く神々しいものだったことだろう。 |
銅鐸の移り替わり
|
銅鐸の移り替わりは、大きさや鈕の形に現れる。大きさは、約20cm前後のものから、次第に大きくなり、100cmを超えるものもあらわれる。
それに合わせて鈕も、断面が菱形のものから、周囲に文様のある扁平な部分が付き、ついには本来の機能を失い文様が主体のものになり、
鳴らす銅鐸から、見る銅鐸へと移り変わっていく。 |
|
673銅鐸を科学する
|
674銅鐸の移り替わり
|
銅鐸のうつりかわり
菱環鈕式→外縁付鈕式→扁平鈕式→突線鈕式 |
|
銅鐸を科学する
|
銅鐸の中には赤い顔料が付着しているものがある。蛍光X線分析装置で調べると、赤い顔料は辰砂かベンガラであることがわかる。
銅鐸を赤く彩った意味は何なのだろうか?
銅鐸には鋳込みの際の欠損部分を、再び鋳込んで補っているものがある。X線透過撮影でみると、「鋳掛け」と呼ばれるこの技法には、弥生時代の銅鐸工人のすばらしい技を読み取ることが出来る。
※昭和30年代まで、鍋や釜に穴が開いたり壊れたりしたものを修理する、「鋳掛屋」が村々を渡り歩いたものである。
時代劇で、「張り込み」と称して鍋・釜を並べ、どうするのかわからないので、金槌で叩いているのがあった。かえって壊れてしまうよね。 |
彩られた銅鐸
|
伝長者ヶ原1号銅鐸は、「朱塗り銅鐸」として古くから知られていた。蛍光X線分析装置で調べたところ、銅鐸に塗られていた赤い顔料は水銀朱(辰砂)であることがわかった。
徳島県からは、他にも名東銅鐸や源田3号銅鐸、星河内美田銅鐸の一部にも朱塗りが見つかっており、現在唯一確認されている辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡との関係が注目される。 |
鳴門市名東遺跡 |
銅鐸を科学する
上に記述 |
彩られた銅鐸
上に記述 |
銅鐸の分布
|
675徳島の銅鐸
|
676
伝吉野川沿岸出土銅鐸
弥生中期 吉野川沿岸より出土したと伝えられる外縁付鈕式2区画流水文銅鐸。高42cm香川県観音寺市古川銅鐸と鳥取市越路銅鐸の2個の同笵銅鐸がある。 |
榎瀬銅鐸
弥生時代中期
明治初年徳島市川内町榎瀬出土と伝えられる外縁鈕式2区画理由水門銅鐸。奈良市町出土のものと同笵。知友の内縁の左右にシカが描がかれた珍しい銅鐸。 |
曲り1号銅鐸
弥生時代後期 |
川島銅鐸
弥生時代中期
吉野川市川島町神後出土と伝わる。高45.6cm外縁付知勇式2区画流水文銅鐸。 |
神宅銅鐸
弥生後期
1915(大正4)年、板野郡上板町出土。高41cm。扁平鈕式の6区画袈裟襷文銅鐸 |
上浦銅鐸
弥生後期
1900(明治33)年、吉野川市鴨島町上浦出土。高34.7cm。扁平鈕式6区画袈裟襷文銅鐸 |
安都真遺跡の銅鐸 (あずま)
|
弥生時代後期
1959(昭和34年)、徳島市入田町の急斜面を開墾中、4個の銅鐸が出土した。1号銅鐸を中心に、右に2号、左に3号が、鈕を斜面上に向けて横倒しに埋まっていた。4号銅鐸は、これら3個の上に重なっていたようである。 |
銅鐸の埋納
|
銅鐸は多くの場合、人里離れた谷や、山の斜面に単独で埋納されている。しかし、鮎喰川流域の源田遺跡や安都真遺跡の様に、同じ場所に多くの銅鐸が埋納されている例もある。また、徳島市名東遺跡の様に、平地の集落から発見される例もある。
埋納の方法には決まりがあるようで、鰭を立て、倒した状態で埋納されるものが多い。 |
安都真遺跡の銅鐸
①安都真1号銅鐸
②安都真遺跡の銅鐸
③銅鐸の埋納 |
安都真1号銅鐸
扁平鈕式4区画袈裟襷文。高29.5cm岡山県倉敷市種松山出土銅鐸と同笵。 |
安都真2号銅鐸
扁平鈕式4区画袈裟襷文
高21.7cm |
安都真3号銅鐸
扁平鈕式4区画袈裟襷文
高24.6cm |
安都真4号銅鐸
扁平鈕式4区画袈裟襷文 |
星河内美田銅鐸 |
弥生時代後期
1932(昭和7)年、徳島市上八万星河内の美田から出土した銅鐸7個のうちの一つ。
いずれも20~30cmの
扁平鈕式銅鐸 |
伝徳島県内出土銅鐸 |
弥生時代後期
徳島県内出土と伝わる
扁平鈕式4区画袈裟襷文高26.5cm全体に薄手で扁平な作りて゛星河内美田銅鐸に似る。鈕や身に(足掛かりを伴う銅鐸〇)が見られる。 |
伝徳島県内出土銅鐸のX線透過写真 |
江原小銅鐸
銅鐸の模造
|
銅鐸をまねたものに、土製品や銅製品がある。銅鐸型土製品は、形をまねただけのものが多いが、文様を精密に描いたものや、銅鐸を製作したムラから出土する例もある。
銅鐸型銅製品は小銅鐸とも呼ばれ、、銅鐸の小型のものとも、模倣品とも、また、銅鐸製作の際の試作品とも言われる。土製品、銅製品とも、具体的な用途はわかっていない。 |
江原小銅鐸 |
左:江原小銅鐸
右:銅鐸型土製品 |
左:江原小銅鐸
弥生時代
美馬市脇町拝原出土の銅鐸型土製品(小銅鐸)高6.2cm。小銅鐸としては県内唯一のもの。文様は全く描かれていない。 |
右:銅鐸型土製品
弥生後期
名西郡石井町高川原遺跡
1979(昭和54)年出土。高6.8cm。他の銅鐸が土製品に比べて極めて精巧に作られている。 |
江原小銅鐸
銅鐸型土製品
左にそれぞれ記述 |
銅鐸の模造
上に記述 |
|
677
畑田銅鐸
弥生時代後期
1966(昭和40)年、阿南市下大野町字畑田出土
突線鈕式6区画袈裟襷文銅鐸。高54.2cm。身の内面の内突帯のない銅鐸として全国唯一のもの。 |
勢合銅鐸
弥生後期
1927(昭和2)年、小松島市立江町赤石出土。
扁平鈕式6区画袈裟襷文銅鐸。鈕の外縁と鰭を欠損している。高39.3cm |
名東銅鐸
弥生中期
扁平鈕式6区画袈裟襷文銅鐸。高39.3cm
発掘調査で埋納が確認された。ほぼ前面に水銀朱が塗布されていた痕跡が残っている。 |
八貫渡銅鐸
弥生時代後期
突線鈕式銅鐸のうち近畿式に属する銅鐸の鈕。
阿南市中大野町八貫渡出土 |
源田遺跡出土品 弥生後期
|
徳島市国府町西矢野に所在し1948(昭和23)斜面を開墾中に3個の銅鐸と1本の銅剣が出土した。
銅剣を中央に、左右に並行して、鈕を下にして1号・2号銅鐸が出土した。銅鐸と銅剣が伴って出土した県内唯一の埋納遺跡である。 |
源田一号銅鐸
突線鈕式6区画袈裟襷文銅鐸。高52cm |
|
源田2号銅鐸
扁平鈕式6区画袈裟襷文銅鐸。高41.5cm |
銅剣
長54.3cm 幅5.2cm |
源田3号銅鐸
扁平鈕式6区画袈裟襷文銅鐸。
破片に赤色顔料が付着している。 |
伝長者ヶ原銅鐸 弥生時代後期
|
宝永年間(1704~1711)、阿南市山口町の長者ヶ原山頂から出土したと伝えられる。1号銅鐸には、前面に赤色顔料が塗られているが、特に鈕の部分に鮮明にみられる。阿南市水井町の辰砂(水銀朱)採掘遺跡の若杉山遺跡との関係が興味深い。 |
伝長者ヶ原銅鐸
上に記述 |
長者ヶ原1号銅鐸
|
弥生時代後期
扁平鈕式4区画袈裟襷文銅鐸。高64.3cm |
長者ヶ原2号銅鐸 |
扁平鈕式6区画袈裟襷文銅鐸。高41.0cm |
ピンボケ
銅鐸材料の成分表 |
|
|
680銅剣・銅矛
|
681平形銅剣
|
平形銅剣は朝鮮半島からもたらされた青銅製の武器をまねて、日本で作られたものである。武器本来の機能は失っており、祭りの道具として使われたと考えられている。銅鐸と同様に、山の斜面等に埋納されることが多く、銅鐸と一緒に出土することもある。中国四国地方の瀬戸内海沿岸を中心にした地域で発見される。 |
|
平形銅剣
上に記述 |
左右山遺跡の銅剣
弥生後期 明治初年に名西郡神山町下分出土の平形銅剣2本。 |
左右山遺跡の銅剣
残りのよい方は長46.1cm
他方は44.8cm |
東寺遺跡の銅剣
名西郡神山町下分の左右山遺跡の対岸にあたる傾斜地から出土。 |
東寺遺跡の銅剣
2本の平形銅剣。
ほぼ完形葉長さ42.5cm
欠損した方は21cm |
平形銅剣
|
平形銅剣
|
平形銅剣
徳島県内で出土地不明。
先端を欠く。長さ40cm |
|
|
|
|
|
古墳時代
700首長墓の登場
|
弥生人は共同墓地をつくったが、有力者の家族墓は次第に大きくなり、さらに特定の首長の墓をつくるようになった。古墳である。
3世紀の中頃、大和地方に前方後円墳が現れると、各地の首長は競ってその形を採り入れた。
古墳には、土を高く盛り、表面には石を葺き、埴輪を巡らせた。内部には大きな石室を築き、貴重な中国製の鏡や大量の武器、工具、装飾品などを納めて、死者を手厚く葬った。 |
|
710
首長墓の登場 |
|
首長墓の登場 |
|
首長墓の登場
上に記述 |
|
730徳島の首長墓
|
足代東原墳墓
三好郡三好町 |
萩原1号墳墓
鳴門市大麻町 |
気延山古墳群
矢印右:宮谷古墳
左:八倉比売神社古墳
後方は気延山
徳島市国府町 |
丹田古墳三好郡三加茂町 |
長谷古墳
中央の山頂
名西郡神山町 |
勢見山古墳
手前右側の山頂部
後方は眉山
徳島市西二軒屋町 |
長谷古墳竪穴式石室 |
東西に向く石室 |
埋葬の方向
古墳時代前期(4~5c)世紀
近畿地方では、死者の頭を北に向けて埋葬する風習があった。
一方、徳島、香川、愛媛、兵庫(加古川から西)、岡山、広島など瀬戸内海地域には、近畿地方と異なり、
頭を東西いずれかの方向に向けて埋葬する風習が広まった。
※東西方向の習慣もやがて南北方向に変化した。
仏教の習慣に北枕があるが、これは仏教以前の葬送儀礼だとわかった。
普通東西に向くのは望郷というのが多い。
|
|
720竪穴式石室のはじまり
|
弥生時代の首長墓は、穴を掘って、棺を直接埋葬するものであった。
古墳時代になると、墳丘の中央に穴を掘り、長い割竹形の木簡を置き、それを覆うために石で大きな竪穴式石室をつくるようになった。
これは死者を手厚く葬る風習の表れで、多くの副葬品などと共に、死者の権力の大きさを物語るものである。 |
古墳の副葬品
|
古墳には、そこに葬られた人の地位や権力を象徴するものが副葬されている。
前期の古墳には、石製品の刀、三角縁神獣鏡などの鏡と共に、斧などの工具類や鎌や鍬先などの農具類が多い。
やがて社会の変化に合わせて、甲冑などの武具や大量の武器が副葬されるようになり、大陸の影響を受けた馬具や須恵器も見られるようになる。 |
巽山古墳 古墳時代前期 4世紀後半 徳島市上八万町星河内
|
竪穴式石室を持った前期の円墳。銅鏡、鉄刀などと共に、車輪石、鍬形石、石釧などの石製腕輪類が出土。この豊富な腕輪類は、県下で例を見ない。 |
|
|
|
竪穴式石室の始まり
上に記述 |
古墳の副葬品
上に記述 |
巽山古墳
上に記述 |
平縁変形神獣鏡
|
変形方格鏡
|
直径9.5cm
岡山県金倉山古墳出土鏡に似通ったものがある。
|
|
|
|
車輪石
凝灰岩製の腕飾り |
鍬形石 凝灰岩製の腕飾り |
石釧 |
車輪石 |
|
|
|
|
|
740銅鏡
|
前期や中期の古墳に副葬される鏡には、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの神獣鏡類、方格規矩鏡や内行花文鏡などがある。
これらの鏡は権力のシンボルとして中国から輸入されたり輸入した鏡をまねて日本で作られたものであるが、
大和政権が各地の首長との同盟関係を結ぶために、配布したものだと考えられています。 |
|
鏡
上に記述 |
三角縁神獣鏡
徳島市宮谷古墳出土 |
張是作銘。直径22.4cm
京都府八幡市内里古墳、奈良県天理市黒塚古墳出土と同笵鏡 |
復元銅青銅鏡の鏡面
銅72錫%22%鉛6%
で復元した青銅鏡の鏡面 |
復元銅青銅鏡の鏡面 |
|
750 |
751長谷古墳 古墳時代前期
標高181.5mの山頂部に単独で立地する。直径12m円墳、竪穴式石室に銅鏡、鉄剣、鉄刀、硬玉製勾玉などを副葬。
墳丘には結晶片岩の葺石がある。 ※大変美しく緑に光る墳丘だったことでしょう。
ピンボケ |
長谷古墳 |
ピンボケ
内行花文鏡 |
仿製品。直径9.2cm
袋に入れていたか。 |
鉄剣、勾玉
|
|
752節句山古墳群 古墳時代中期 5世紀 徳島市名東町
地蔵院の西の、南から北に延びる細長い尾根上に立地する。 1号墳は石蓋盤棺、2号墳は箱式石棺である。
「工口子上」の銘を持つ四獣鏡、勾玉、鉄剣などが出土している。
※「工口子上」の意味は分かりませんでした。
|
鉄鏃・刀子・手鎌
直刀・鉄鉾・鉄剣・ヤリガンナ・鉄斧 |
節句山古墳群 |
勾玉
節句山2号墳 翡翠製。透明感のある緑色である。 |
琴柱形石製品
鳴門市大麻町姫田 |
|
|
760古墳時代
|
761古墳をつくる -曽我氏神社古墳(名西郡石井町)- 古墳時代前期
|
|
曽我氏神社古墳 |
曽我氏神社1号墳
二つ石室
1号墳第1石室
中央の凹みは割竹形木棺の跡 |
1号墳第2石室
中央の凹みは箱式木棺の跡
1号墳第2石室の副葬品 |
|
762曽我氏神社古墳群 古墳時代前期 4世紀後半 名西郡石井町城ノ内
|
蘇我氏神社境内の標高50mの尾根に位置する2基の古墳。南に1号墳.北に2号墳がある。1980(昭和55)当館が発掘調査を行なった。 |
曽我氏神社1号墳
|
直径12mの円墳に、幅3m長さ3mの突出部をもつ円墳。2つの竪穴式石室をそなえ、それぞれ割竹形木棺、組み合わせ式箱式木棺を持つ。
銅鏡、鉄剣、石剣、硬玉製勾玉などが出土した。 |
第1石室
|
北側の大きな石室は。長さ4.25m、幅95cm高さ58cm。床に礫を敷き、中央に長さ約3mの割竹形木棺を置く。埋葬頭位は東側。 |
|
|
棺外副葬品
|
ピンボケ
鉄鎌・鉄斧・鉄剣 |
|
|
蘇我氏神社古墳群
蘇我氏神社1号墳 |
第1石室 |
四獣鏡 |
|
|
|
|
763第2石室
第1石室に並行する小さな第2石室は、長さ2m幅70cm高さ56cm。箱型木棺は長さ1.5mその周りは粘土で固める。
|
第2石室 |
珠文鏡・勾玉
|
管玉 |
丸玉 |
管玉 |
珠文鏡 |
勾玉 |
石釧 |
|
|
|
|
765曽我氏神社2号墳
|
一辺10~12mの県下唯一の方墳。墳丘裾部に幅1mほどのテラスを巡らせ、円筒埴輪をすえる。
1号墳と同じ竪穴式石室をもつが、盗掘されており、副葬品は少ない。1号墳より新しい。 |
|
|
曽我氏神社2号墳 |
|
直刀、鉄剣 |
ヤリガンナ |
鉄鎌、刀子 |
鉄斧 |
2号墳出土の円筒埴輪 |
|
|
|
|
|
770古墳の移り変わりと分布 |
771
古墳の移り変わりと分布 |
縦軸:時間
横軸:地域 |
|
|
|
古墳名 |
|
|
|
|
古墳築造時期
築き方
墳形
埋葬方法 |
古墳分布地域 |
|
吉野川流域
古墳集中域 |
|
|
772恵解山古墳群 古墳時代中期 5世紀前半
|
5世紀前半の1・2・8・9号墳など、総数10基り円墳からなる古墳群。際立った量の優れた副葬品を持ち、特に武器・武具類が多く出土している。
徳島県の前期古墳の代表ともいえる古墳群である。 |
恵解山9号墳
|
長さ2.6m幅1.65m高さ70cmの竪穴式石室をもつ。石室の内部には赤色顔料が塗られた箱式石棺があり、成人男性が、珠文鏡、鉄刀などと共に埋葬されていた。この石室の北には、幼児を埋葬した箱式石棺も出土している。 |
恵解山古墳群 恵解山9号墳
|
|
鉄刀 |
刀子・鉄鎌・鉄斧 |
鉄鏃 |
珠文鏡 |
|
|
780忌部山古墳群 6世紀後半 古墳後期
忌部山古墳群
|
標高240mに位置し、直径10m前後の5基の円墳からなる。いずれも忌部山型石室と呼ばれる横穴式石室を持つ。
ドーム状の天井と玄室部の隅を丸く積んだ石室が特徴。
忌部山古墳群は、旧麻植郡を中心とする忌部氏とかかわりのある貴重な古墳である。 |
忌部氏とは
|
忌部氏は渡来人で、中臣氏などと伴に大和政権の宗教儀礼を担当する一族でした。
この一族は海を渡って各地に植民し千葉県に安房(あわ)国を築いた。
物部氏は阿波を拠点とした氏族でした。
この部分はもっと深堀したいところですが、、、資料が少ない。
物部氏と忌部氏に関しては こちらを ご覧ください。
|
|
781横穴式石室
|
5世紀になる大陸からの影響を受けて横穴式石室が九州北部に現れた。
それまでの竪穴式石室は首長一人の墓でしたが、横穴式石室は追葬ができるようになっていて、家族の墓としての性格を備えている。
副葬品も大陸の影響を受けた馬具や須恵器が多くなった。
横穴式石室は、6世紀には全国各地に広がり、地域ごとに特色のあるものが盛んに作られるようになりました。 |
|
|
忌部山5号墳
麻植郡山川町 |
横穴式石室 |
忌部山2号墳 |
|
782忌部山2号墳
|
玄室の長さ3.38m幅1.92m高さ1.98mの規模の横穴式石室を持つ。碧玉製管玉、滑石製臼玉、ガラス製臼玉、ガラス製小玉などの他、
羨道部から100個体もの須恵器が出土した。閉塞後の葬送儀礼をおこなったのであろう。 |
|
|
忌部山古墳群 忌部山2号墳
|
長頸壷・須恵器
有蓋短頸壷・短頸壺 |
長頸壷 |
|
783
甕
|
|
|
785忌部山5号墳
|
玄室の長さ2.78m、幅1.5m高さ1.1mの規模で、床面には扁平な緑泥片岩を敷き詰め、羨道入口に羨門を立てている。
瑪瑙製勾玉、碧玉製管玉、ガラス小玉や耳環、須恵器などが出土した。 |
|
ガラス製臼玉・小玉
滑石製臼玉・碧玉製管玉 |
忌部山5号墳 |
有蓋坏 |
提瓶 |
蓋付高坏 |
|
|
790古墳・埴輪
|
791前山遺跡 古墳時代後期 6世紀 小松島市田浦町
|
1962(昭和37)、古墳群の一角の尾根を開墾中に、人物埴輪や蓋(きぬがさ)、盾などの器財埴輪などが大量に出土した。
埴輪は古墳の墳丘に立てられるのが普通だが、前山遺跡の埴輪は古墳に伴うものではない。ここで何らかの祭りを行ったのであろう。 |
|
朝顔形埴輪
|
人物埴輪
|
武人埴輪
|
盾形埴輪
|
前山遺跡 |
口縁部がラッパ状に開いているので。 |
髪を左右に分けている。庶民の姿を表現したものと思われる。 |
冠を被り、正面に楯を持つ。 |
円と直線を組み合わせた直弧文が、前面に描かれている。 |
|
792古墳の大きさ比べ
|
793渋野丸山古墳 古墳時代中期 5世紀前半 徳島市渋野町
|
北から野蒜尾根を切断し、東西に主軸を持つ徳島県最大の前方後円墳である。三段築成の墳丘は、全長約90mである。
前方部の幅は32m、後円部の直径は45mで、前方部は後円部よりも少し低くなる。墳丘南側には周溝が巡る。 |
段の塚穴古墳 古墳時代後期 美馬郡美馬町坊僧
|
吉野川を西へ49km遡った河岸段丘上に、「段の塚穴」と呼ぶ大きな二つの円墳がある。いずれも横穴式石室を持つ古墳である。
東の大きい円墳を「太鼓塚」、西を「棚塚」と呼ぶ。
太鼓塚の墳丘は直径約37m、高さ10m、石室は長さ13m高さ4mと四国最大級である。石室は太古の様に胴張りでドーム状になっている。
特に天井の築き方は全国に例がない。この形を持つ古墳は、東は阿波町、西は池田町まで広く分布する。
段の塚穴はこの地域の中心的豪族の墓である。 |
渋野丸山古墳 |
渋野丸山古墳 |
|
土成丸山古墳
濠を持つ県下最大の円墳 |
段の塚穴古墳 |
段の塚穴古墳 |
|
|
800古代
|
810郡里廃寺(こおさとはいじ)
|
郡里廃寺は、美馬郡美馬町にあり、徳島県で最も古い寺院跡のひとである。7世紀後半に建てられたこの寺は、東西94m、南北120mの広さがあり、
東に塔、西に金堂を置く法起寺式の伽藍配置である。
塔の基壇は一辺12.1mで、金銅の基壇は幅18m、奥行15mと推定される。回廊の跡や寺を囲む土塁・石敷が見つかっているが、南大門、中門、講堂、僧房の位置や大きさなどは、はっきりとわかっていない。 |
郡里廃寺の塔心礎復元模型
|
この模型は、塔の中心柱である心柱を復元したものである。心礎は基壇の下に埋まっており、心柱は断面八角形で。基壇に埋まった部分は
柱が腐るのを防ぐために根巻板があてられていた。これは、法隆寺や法輪寺と同じ方式である。心柱は根元で径108cmほどあり、上に行くほど細くなる。 |
郡里廃寺の塔心礎復元模型 |
郡里廃寺の伽藍復元 |
郡里廃寺の伽藍復元 |
郡里廃寺 |
・郡里廃寺の塔心礎
7世紀後半
美馬郡美馬町
・郡里廃寺の塔跡 |
・石井廃寺の塔心礎
・石井廃寺の塔心礎
8世紀前半
名西郡石井町
|
・国分寺の塔心礎
8世紀中頃
徳島市国府町
・現在の国分寺 |
郡里廃寺の塔心礎復元模型 |
郡里廃寺の塔心礎復元模型 |
|
|
|
820古代・中世の阿波
県内各地の寺院跡の出土品、平城宮木簡に記された古代阿波の情報、板碑にみられる信仰などを手掛かりに、古代・中世の阿波の様子を探ります。 |
821
|
|
830国府と寺院
|
831
国府と寺院
|
大化の改新(645年)のあと、朝廷は次第に律令(法律)を整え、天皇中心の政治を行なうようになった。
奈良には藤原京、平城京などをつくり、地方には国・郡・郷の制度を敷き、国府などの役所をおいた。
また、朝廷は、朝鮮半島から伝えられていた仏教を、災いから国家を守るものとして次第に取り入れ、大きな寺院を建てた。
奈良時代になると、聖武天皇の命令によって、全国の国府の近くに国分寺、国分尼寺が建てられた。 |
国府と寺院 |
阿波国府とその周辺 |
|
新島荘枚方地区絵図
|
758(天平宝字2)年6月23日 (正倉院宝物)
新島荘は、東大寺造営の〇〇〇〇のために、吉野川下流域に置かれた荘園。本荘・枚方・大豆処の3地区に分かれていた。
この地図は、枚方地区を描いたもので、堤防で湿地を囲い込み、耕地化しようとしていたことがうかがえます。 |
|
832
|
833阿波国府とその周辺
|
都から阿波国府へは、南街道を下り、郡頭の駅を南下して至る。徳島市国府町一帯が阿波国府跡に比定されており、この範囲に位置する観音寺遺跡、敷地遺跡などでは国府との関連が推定される木簡が多数出土している。また、周辺には条里跡や国分寺め国分尼寺跡などが残っている。 |
阿波国分尼寺跡
|
国分寺の来た1.5kmの場所(名西郡石井町)にあった。寺域は約160m四方あり、金銅や北門、回廊などの跡が発見されている。
金堂の基壇は、凝灰岩の切石で飾られている。北門跡は、全国で初めて発見されたものである。 |
|
|
835 |
836石櫃
|
840板碑 供養塔
|
板碑は、供養塔の一種で、死者の弔いなどを目的に建てられた。その表面には、梵字や仏像、願文、年月日などが刻まれている。
阿波の板碑は、関東地方の板碑と共に、青石で作られ、形の整ったものが多い。その主な分布地域は、吉野川と鮎喰川の流域である。
建てられた年代は、12世紀から16世紀にわたっている。これらの板碑は、中世の人々の暮しの中に、仏器用が深く根付いていたことを示している。 |
|
板碑 |
|
850中世の阿波
|
中世には。荘園・公領が支配や生活の場となった。荘園は、天皇家、貴族、寺社などの私有地で、現地の武士によって管理された。
知行国主や国司が治める公領でも、現地で役人になった武士が力を持った。
鎌倉時代には、幕府がおいた守護や地頭による支配も加えられていった。
室町時代になると、細川氏や三好氏など、大きな勢力を持つ支配者もあらわれた。
このような支配のもとで、民衆は、税や戦乱に苦しみながらも生産に励み、暮らしていた。 |
|
852星兜 板野郡藍住町徳命 出土
|
鉄板5枚を建てに重ね、干しと呼ばれる鋲でつないで、すり鉢のような形に作られている。
星兜の中で、もっとも古いものの一つです。 |
|
853細川・三好の台頭
|
細川氏は、室町幕府の管領家の一族で、有力な守護大名として阿波を支配した。
三好氏は、その下で勢力を伸ばし、やがて細川氏をしのいで行った。16世紀半ばには、畿内も抑え、幕府の実権を握るほどになった。
しかし、土佐から攻め入った長宗我部氏に敗れ、滅びて行った。
細川氏と三好氏の様に、阿波を足場に中央の政権と深く関わった例は少ない。 |
中世の種野山
|
中世の種野山は、美馬郡木屋平村と麻植郡美郷村・山川町の一部にまたがる山間部の広い地域であった。
その頃の様子は、この地域に残る古文書、民家や耕地の分布、地名などを手掛かりにして伺うことが出来る。
種野山では、いくつかの在家からなる名(みょう)を単位に税が集められ、支配が行われた。人々は、山林を切り開き、農業や手工業を
行いながら暮らしていた。なかには、天皇の即位行事のひとつである大嘗祭に奉仕する者もいた。 |
|
ピンボケ
中世阿波の城 |
ピンボ
細川・三好の台頭 |
細川・三好の台頭 |
中世の山村
―種野山三木名― |
中世の種野山 |
阿波の荘園・公領と港
村の暮らし
|
荘園や公領の農民は、名主を中心に、村のまとまりをつくった。税の負担などに耐えながらも、農業技術を発展させ、次第に生産を高めていった。
やがて生産物の交易が盛んになり、人の往来も活発になった。
天災や戦乱が多いこの時代には、武士も農民も、神仏にすがることが多かった。今日に残る経塚や板碑は、中世の信仰の様子をよく示している。 |
|
854中世の遺跡からの出土品
|
各地で発掘された中世の遺跡からは、当時の人々の日常生活の中で使われた食器や道具などが出土している。
これらを通じ、生活の具体的な様子をうかがい知ることが出来る。 |
|
|
中世遺跡からの出土品
上に記述 |
|
|
土師質土器(鍋)
土師質土器(釜) 鎌倉~南北朝14世紀
名東遺跡 徳島市名東町 |
吉備系土師質土器(碗) 鎌倉~南北朝14世紀
中島田遺跡 徳島市中島田町 |
瓦器
鎌倉~南北朝14世紀
中島田遺跡 徳島市中島田町 |
瓦器(皿)、土師質土器(皿)
平安~鎌倉12世紀後半
阿波国府跡 徳島市国府町 |
|
土師質土器・備前産坏
鎌倉~南北朝14世紀
中島田遺跡 徳島市中島田町 |
東播系練り鉢
鎌倉~南北朝14世紀 |
瓦質三足羽釜
南北朝時代14世紀
名東遺跡 徳島市名東
|
土師質土器
鎌倉~南北朝14世紀
中島田遺跡 徳島市中島田町
|
温石・硯・土師質土器
鎌倉~南北朝14世紀 名東遺跡 徳島市名東 |
|
855三好氏の台頭
|
|
900近世
|
901藩制のもとで
蜂須賀家や山村の資料を基に、藩のしくみや見ん雌雄の生活を紹介します。また、美術作品や阿波藍の生産用具、
人形頭の名作についても詳しく取り上げます。
|
藩制のもとで |
安定した江戸時代には、 |
海運による交易が経済を支えたようですです。 |
有力商人はこぞって廻船を造って交易した。 |
吉野川の中州に発達した徳島は海運に有利でした。 |
また、不毛な砂州を利用して藍を栽培し、全国シェアを占めた。 |
徳島は杉の美林で、生産が盛んでした。 |
|
庚申塚
|
庚申塔 |
鷲の門:徳島城南門 |
|
鷲の門 |
|
|
|
|
|
|