飛鳥の考古学01 03 2019.04.08-1
明日香村埋蔵文化財展示館 奈良県高市郡明日香村飛鳥225-2 0744-54-5600
定休日無し 撮影可
交通 |
近鉄橿原神宮前駅より3.1km
・徒歩40分
・レンタサイクル15分
・明日香村循環バス「カメバス」10分 一日券650円(橿原神宮前駅東口で販売) |
見所 |
明日香村見学の出発点。周囲にも多くの遺跡がある。 |
おことわり
展示館では詳細な脚注がなく、困っておりましたところ、ネット上に
明日香村埋蔵文化財展示室 展示資料がありました。どうやら、タブレットでこの解説を
見ながら鑑賞する方式らしい。QRコードが貼り付けてあるのと同じです。
きっと館内にその案内や、又は、管理者からの説明があったのかもしれませんが、私は
朝早く行き過ぎて、その説明を受ける以前に写真を撮り始めたため、聞きそびれたみたい。
ただ、私はスマホもタブレットも持ってません。
そこで、以前、QRコードを貼り付けたように、この解説を利用させ頂くことにしました。
明日香村文化財課の皆様よろしくお願いします。
|
朱雀 |
|
|
主な展示内容
明日香村内出土遺物展示
キトラ古墳石室模型展示
文化財課で発掘している最新情報
牽牛子塚古墳出土凝灰岩貼石
川原寺裏山遺跡出土品
飛鳥時代衣装 (参考:高松塚古墳壁画)
村内出土石造物模型
日本書紀写本
甘樫丘からの展望パノラマ写真 など
|
|
目
次 |
01飛鳥水落遺跡
11日香村埋蔵文化財展示館
12館内全景
20縄文時代
21飛鳥の夜明け
22飛鳥の遺跡
23石器・石製品
弥生土器
古墳時代
古代
30日本国の誕生
32日本国誕生までの主な出来事
39石人像
41豊浦宮から新益京へ
日本国誕生 大王から天皇へ
42飛鳥時代の器
50牽牛子塚古墳 古墳時代終末期
53越塚御門古墳
63飛鳥寺西方遺跡
65飛鳥時代の地名
66税
67猿石(女)
猿石(僧)
高取城の猿石
|
70復元塼仏璧
73貨幣経済の始まり
74ガラス工房跡出土品
75銭貨鋳造工房出土品
81飛鳥の水時計(水落遺跡)
飛鳥の迎賓館(石神遺跡)
飛鳥の祭祀場(酒船石遺跡)
82最古の暦・具注暦木簡
83酒船石遺跡
90飛鳥の氏寺(飛鳥寺)
101飛鳥の官寺(川原寺)
102川原寺裏山遺跡出土物
111雷丘東方遺跡の井戸枠
112飛鳥時代後半の装束
113都塚古墳復元
114甘樫丘からの展望
猿石(山王権現)
120豪族の墓(八釣マキト古墳群)
122馬具
123土師器
124装身具
129都塚古墳の復元 |
130渡来系氏族の墓
131真弓鑵子塚古墳
132安倍山遺跡群カイワラ1号・2号墳
133真弓テラノマエ古墳・カヅマヤマ古墳
飛鳥の遺跡にあった地震の跡
139猿石(男)
140飛鳥の大王(天皇)墓
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳
151飛鳥の壁画古墳(高松塚古墳)
162飛鳥の多角形墳 マルコ山古墳
164飛鳥の壁画古墳 キトラ古墳
170日本書紀
180天文図
181朱雀
190万葉集
201日本国創生のとき、飛鳥を翔けた女性たち
203キトラ古墳
220飛鳥路散策
|
|
|
はじめに
飛鳥時代は飛鳥の地に政権があった時代で、飛鳥の地を支配していた蘇我氏が政権を牛耳っていた時代と言えます。
その後、大阪平野に都が移動しますが、他の勢力が政権を奪取したという意味です。
初期の大和政権は、規模が小さく、時々の政権を握った大王が、それまでの権力者の影響を退けるため、大王ごとに移動できました。
それは、政権覇者の経済基盤がそこにあったからのようです。
やがて、支配する範囲が増え、政権の規模が増大すると、都は移動が困難となった。 詳しくは 「ここまでわかった「古代」謎の4世紀」
|
|
01飛鳥水落遺跡 漏刻、水時計
建物の概要 以下引用「飛鳥水落遺跡」wikipedia
|
発掘された遺構は楼状建物跡とそれに付随する水利用の施設、4棟以上はあったと推測される掘立柱建物跡及び掘立柱塀跡などからなる。
楼状建物は土を盛り上げ貼石をした基壇上に建つ4間(約11m)四方の正方形平面で、中央部を除いて合計24本の柱を立てる総柱様建物である。
礎石は基壇の地中1m下に据えられ、そこに空けられた径40cmの円形刳り込みに柱をはめ、更に各礎石間に石製の地中梁を巡らし、
基壇土で周りを固めている。 |
装置の概要
|
建物中央部の基壇下1mには花崗岩の切石を台石にして1.65m×0.85mの黒漆塗の木箱が置かれていた痕跡があり、基壇内には木樋や桝、木樋から上方に取り付けられたラッパ状のごく細い銅管などが設置されていた。基壇の下には東から建物中央部に向かって木樋暗渠があったことが知られ、木箱の西側にも流入した水を流すための別の銅管の設置も確認されている。 |
装置の動作
|
木樋から導入された水をラッパ状の銅管を使って上方高く吸い上げ、最終的に黒漆塗の木箱に流し込む構造であったと推定されている。 |
より詳しくは、「水落遺跡の漏刻-明日香村」を参照ください。
展示館前は飛鳥水落遺跡で、裏には石神遺跡 |
古代首都「明日香」は随分狭い地域でした |
展示館は奈良県地方に見られそうな様式です |
水落遺跡 |
|
02史跡飛鳥水落遺跡 史跡指定 昭和51年2月20日
|
斉明天皇6年(660)5月、皇太子中大兄皇子は(天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせたと、「日本書紀」にあります。
書紀にはその場所についての記述はありませんが、1981年その漏刻遺跡がここ飛鳥水落遺跡で発掘されました。
ここでは。精密に、堅固に築いた水時計建物と、建物内中央で黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置とが見つかりました。
水時計建物を中心にして、水を利用した様々な施設があったこともわかりました。
当時の日本は、中国の先進文明をとり入れて、律令制に基づく中央集権的な国家体制を急速に整えつつありました。
中大兄皇子は中国にならい、政治や人々の社会生活を、明確な時刻制によって秩序付けようとしたのです。
時計装置の製作と運用は、当時の、最新かつ最高の科学技術を 結集した国家的な大事業だったことでしょう。
その意味において、飛鳥水落遺跡は律令国家への記念碑といえるでしょう。 |
史跡飛鳥水落遺跡 |
史跡飛鳥水落遺跡
上に記述 |
礎石と地中梁 |
堅固で特異な基礎工法を採用しています。
受水槽や木樋は、基礎工事の途中で埋め込んでいます。 |
建物構造 |
1階には時計装置
2階には都に時刻を知らせる鐘や太鼓があったでしょう。 |
施設の概要 |
水時計建物は、塀で囲まれた一郭にありました。
時計を管理し、天文・暦・呪いなども担当した役所だったのでしょうか。
後方は飛鳥寺 |
水時計建物と地下水路網 |
ほぼ、何のことやらわかりませんが、
平面図に加えて側面図や立面図があればいいのですが。 |
|
|
|
03飛鳥水落遺跡
|
排水施設でしょうか |
受水槽と木樋を表したようです |
外観 |
側面には貼り石、おそらく内部は盤築工法なのでしょう。 |
|
04春の飛鳥路
広い農地の下には |
膨大な量の遺跡が眠っており、 |
飛鳥法で規制され、むやみな開発や掘削は |
できません。それがこの一見のどかな風景を |
演出していますが、それがそのまま |
明日香村の人々の誇りでもあります。 |
|
|
10施設外観 |
11日香村埋蔵文化財展示館
新しい建物なのに、横に連なる軒の線が歪んでいます。入口上部が盛り上がり、樋の会所が沈んでいます。 |
屋根からの排水を効率化するためか、未熟な鉄筋工事のためか、基礎の盛土の沈下が激しいためでしょうか。 |
|
ようこそ!
明日香村埋文展示館へ
|
引用展示資料解説 |
|
12館内全景
全体に狭いです。村立埋文所有物の展示場 |
そもそも明日香村埋文てどこにあるの。 |
この奥の石室の復元がうまく撮れていません |
この写真だけが全体を表しています。 |
|
|
20縄文時代
|
21飛鳥の夜明け
|
飛鳥の地には縄文時代から飛鳥川の流域に人々の生活の営みがあり、
その後、弥生時代、更に、古墳時代へと続く時間の中で肥沃な大地が形成されました。
そして飛鳥時代に都が造営されることとなり、日本国誕生へと躍進していきます。 |
展示資料解説№12
橿原市の縄文時代詳細 より引用
|
草創期・早期
有舌尖頭器が夫婦池周辺と新沢千塚の丘陵の一端から採取されたが、周辺に遺跡の存在は不明。当該期の遺跡は山間部に集中。 |
|
前期
藤原京跡下層から数点の北白川下層式土器が出土。(北白川下層式土器は縄文時代前期、同上層式土器は後期の標式) |
|
中期
飛鳥川右岸の藤原京右京五条四坊で、船元式土器の破片が河道内から数点出土しています。(約5千年前の縄文時代中期前半に相当する土器)
貝吹山から北に延びる丘陵の北端に位置する鳥屋遺跡でも、戦前に中期後半の土器が数点発見されています。 |
|
後期
耳成山北方の下明寺遺跡や橿原遺跡で、元住吉山式土器の破片が出土しています。(縄文時代後期中葉から後葉にかけて)
文久三年(1863)に、その北側の畝傍北山麓でおこなわれた神武陵築造の際に後半期の土器がほぼ完形に近い形で発見されています。
明日香村では、天香久山の南に位置する大官大寺下層遺跡から中期末から後期初頭にかけての重要な土器が出土しています。 |
|
晩期
橿原遺跡・曲川遺跡・坪井遺跡などがあります。
また、藤原京内など他遺跡でも、下層部分などから出土する例が増加し、当該期になると市内のほぼ全域に認められるようになりました。 |
「飛鳥・藤原宮発掘調査概報8 大官大寺下層出土の縄文土器」 63頁 を参照ください。
[PDF]
縄文時代遺物展示 |
縄文土器 |
飛鳥の夜明け |
大官大寺下層遺跡
検出の土器
中期末~後期初頭 |
|
里木式
(岡山、西日本系) |
中津式土器
(近畿・縄文後期) |
飛鳥前史
|
引用展示資料解説 |
左の二点は、里木式、中津式と思われますが、
ちょっとわかんないです。 |
|
22飛鳥の遺跡
飛鳥の遺跡 |
縄文時代
|
藤原京左京
大官大寺下層
飛鳥池遺跡
藤原京跡
島庄遺跡
坂田寺下層
檜前脇田遺跡
稲渕ムカンダ
遺跡 |
弥生時代
|
大官大寺下層
飛鳥寺下層
飛鳥京跡
島庄遺跡
御園アリイ遺跡 |
古墳時代
|
日高山古墳群
古宮遺跡
雷丘
雷内畑遺跡
山田道下層
南山古墳群
上ノ井手遺跡
竹田遺跡 |
飛鳥寺下層
飛鳥池遺跡
川原寺下層
藤原京跡
島庄遺跡
坂田寺下層
御園アリイ遺跡 |
|
23石器・石製品 縄文・弥生時代
弥生時代
島庄遺跡
御園アリイ遺跡
奥山カシヤタ遺跡
弥生時代
|
|
|
|
|
古墳時代
|
|
|
30日本国の誕生
|
31
|
|
538(552)仏教伝来
587蘇我馬子物部守屋滅ぼす
588蘇我馬子飛鳥寺造営開始
589隋が中国を統一
592推古天皇即位
600第1回遣隋使派遣
603冠位十二階制定
604憲法十七条制定
607小野妹子らを遣隋使に派遣
618隋滅亡唐が建国 |
|
601厩戸皇子 斑鳩宮をつくる
607小野妹子を隋に派遣
607鵤に法隆寺を創建
608小野妹子、答礼使の裴世清と帰国
628推古天皇死去629欽明天皇即位
630第1回遣唐使派遣
643蘇我入鹿、山背大兄王とその一族を
滅ぼす
645中大兄皇子と中臣鎌足ら、蘇我入鹿を
殺す。乙巳の変 参照日本の宮都変遷 |
|
|
645乙巳の変。孝徳天皇即位、
難波遷都
646改新の詔を出す
655斉明天皇即位
658阿倍比羅夫を蝦夷地に派遣
660百済滅亡
661斉明天皇死去、
中大兄皇子称制を開始
663倭の遠征軍 唐・新羅軍に大敗 白村江の戦
667近江大津宮に遷都 |
|
668中大兄皇子(天智天皇)即位
672壬申の乱
673大海人皇子(天武天皇)
飛鳥浄御原宮で即位
684八色の姓を制定
686天武天皇死去
689飛鳥浄御原令を施行
694藤原京に遷都
701大宝律令完成
710平城京遷都 |
飛鳥時代とは飛鳥地域に宮都があった時代で、明日香は蘇我氏の本拠地であり、蘇我氏が大王政治に強い影響を持っていた時代となる。
蘇我氏が没落した乙巳の変以後、難波に一時的に遷都されている(645-655)。この時の 孝徳天皇は難波に本拠地を持つ集団だったのだろうか。
ただし、667年大津宮遷都は、663年の白村江の敗北による唐・新羅軍の攻撃に備えて首都を移動したからであることはよく知られている。
|
32日本国誕生までの主な出来事
|
日本国誕生 |
飛鳥で活躍した主な
人物 |
政治クーデター
乙巳の変 |
わが国初の対外戦争
白村江の戦 |
国内最大の内乱
壬申の乱 |
日本国誕生
~飛鳥から始まった主な制度~
|
①「日本」「天皇」の呼称 |
②時計・暦 【水時計(漏刻)】、勤務時間等 |
③官僚制度・国政機関 【役所組織(大蔵省等)の成立】 |
④中央と地方の行政区画 【畿内・京・国・評郡等】 |
⑤戸籍制度・住居表示【木簡・庚午年籍】 |
⑥納税制度【租庸調・各地からの特産物・漆等】 |
⑦貨幣経済の始まり 【富本銭・和同開珎の鋳造】 |
⑧仏教興隆 【飛鳥寺の造営・国際総合センター】 |
⑨交通路・都市計画 【藤原京・横大路等の整備】 |
⑩歴史書・文学 【日本書紀・古事記の編纂・万葉集】 |
|
飛鳥で活躍した主な人物
推古天皇~小墾田宮~ |
聖徳太子~橘寺~ |
蘇我馬子~飛鳥寺~ |
|
|
中大兄皇子と中臣鎌足 |
~槻木の広場~ |
蘇我入鹿~飛鳥板蓋宮・首塚~ |
|
|
|
斉明天皇~酒船石遺跡~ |
天智天皇~川原寺~ |
天武天皇~飛鳥浄御原宮~ |
持統天皇~さららの道~ |
|
|
663白村江の戦 |
672壬申の乱 |
|
694藤原京遷都 |
|
|
|
|
村内出土石造物模型
39石人像
|
この石人像は、年老いた男女の姿が彫られた石造物で、飛鳥時代の庭園を飾っていた噴水と考えられています。
石造内部には、水が通る細い穴があけられていて、そこから取り入れた水が男性が持つ盃と女性の口からあふれ出る仕組みになっています。
石人像は。明治37年(1903)に飛鳥石神遺跡の水田から掘り出され、現在は飛鳥資料館で展示保管されています。 |
石人像 |
|
石人像
上に記述 |
石人像(実物)飛鳥資料館
石人像の噴水(模造)飛鳥資料館
内部に開けられた噴水用の穴 |
|
|
|
|
|
40古代
|
41豊浦宮から新益京(藤原京)へ
|
推古天皇が豊浦宮で即位して以来、飛鳥に継続して宮が造営され、天皇を中心とした律令国家建設を目指し新益京で完成を迎えます。
大王から天皇へ、そして倭国から日本国へと躍進する過程を東アジアの枠組みの中で飛鳥の宮都造営から垣間見ることが出来ます。 |
藤原京 |
甘樫丘から見た藤原京 |
藤原京復元模型 |
藤原宮 |
|
豊浦宮から新益京(藤原京)へ(2.7km北へ) |
飛鳥諸宮の変遷 |
日本国誕生
大王から天皇へ
下に記述 |
|
|
日本国誕生 大王から天皇へ
・天武3(674)年 「凡そ銀の 倭国に有ることは、初めてこの時に出得たり」
↓
「天皇露をあつめて云々」天皇木簡 が飛鳥池工房跡から出土
↓
・大法元(701)年 遣唐使が 日本の国号を使用する。
「日本」の呼称は674から701の間に使用が始まった。
「日本」という呼称は外国に対して使うので、正式には大宝律令の中でや、遣唐使として派遣されたときに使用したと考えられる。
|
42飛鳥時代の器 西橘遺跡
|
土師器
西橘遺跡 |
土師器 |
皿 |
鉢 |
甕 |
須恵器
西橘遺跡 |
須恵器 |
蓋付坏 |
小鉢 |
平瓶 |
平瓶 |
飛鳥時代の二つの土器
|
土師器・須恵器は、時代によって、その形が少しずつ異なります。古墳時代的なものから、現在の茶碗につながるような形のものへと変化します。
飛鳥時代の100年間を見ても、飛鳥Ⅰから飛鳥Ⅴまでの5段階に区分できます。
飛鳥Ⅰは西暦590年代~640年代
飛鳥Ⅱは西暦640年代~660年代
飛鳥Ⅲは西暦660年代後半~670年代
飛鳥Ⅳは西暦680年代~690年代
飛鳥Ⅴは西暦690年代~710年代 の藤原京遷都までにあたります。
土師器は、古墳時代以前は粗雑なつくりのものでしたが、、飛鳥時代初めになると、金属製の鋺を模倣し、良質な土と丁寧なつくりで、内外綿を磨いたり削ったりして光沢を放っています。しかし、時代が下がるに従ってこれらの技法も徐々に省略されていきます。
須恵器も古墳時代に流行した碗形の蓋と身の組み合わせは、飛鳥時代中頃にはなくなり、現代に繋がる茶碗型へと変化します。
この時代の土器は全国的に極めて統一的な食器の形態・厚生となっており、「律令的土器様式」と呼びます。 ※中央文化が国府などを通じて波及したため。 |
|
|
50牽牛子塚古墳 古墳時代終末期 明日香村大字越 八角墳 対辺の長さ約22m高さ約4m。貼石。斉明天皇陵の可能性がある。
|
51牽牛子塚古墳の閉塞石(内扉)
|
52
牽牛子塚古墳石槨名称図 |
牽牛子塚古墳石槨
復元模型 |
石槨入口 |
石槨模型 |
|
53越塚御門古墳 明日香村大字越 大田皇女の墓 方墳
越塚御門古墳 |
|
|
60牽牛子塚古墳 撮影不十分でリンクの写真を御覧下さい。
|
埋葬施設全景 |
越塚御門古墳 |
牽牛子塚古墳 |
牽牛子塚古墳 |
|
63飛鳥寺西方遺跡
|
飛鳥寺西方遺跡は飛鳥川右岸の段丘上で、飛鳥寺の製法に広がる遺跡です。北は石神遺跡、南は飛鳥京跡、飛鳥川を挟んだ西側には甘樫丘があります。
奈良文化財研究所や奈良県立橿原考古学研究所、明日香村教育委員会による継続的な発掘調査により、掘立柱塀や土管暗渠、石組溝、敷石遺構、砂利敷等が 確認されています。
周辺の調査の結果、石組溝が南北に130m、土管暗渠が 南北に約180mに渡って苑池用していることがわかっています。また、建物の痕跡が認められず、砂利や礫が敷かれた石敷き空間が広がっていたと想定されます。具体的な年代を決定できる出土物は見つかっていませんが、、周辺の遺跡との関係から、飛鳥時代前時期に渡る遺跡と考えられます。
飛鳥寺西方地域は『日本書紀』において、「法興寺槻樹下」や「飛鳥寺西槻下」として度々登場します。
そこで、大化の改新の前には、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠を通じて出会った場所として、また壬申の乱に際しては、飛鳥を守るための軍営として、また、蝦夷や隼人などの辺境の人々を饗宴した場所として描かれています。
これらの記事から飛鳥寺西方遺跡を含むこの地域周辺には、槻樹の下に人が多く集まることのできる"槻樹の広場"があったとかが得られます。 |
土管 飛鳥寺西方遺跡
|
飛鳥時代に造られた瓦製の土管です。
この土管は幅1.6m深さ1mの溝の底面に、互いに連結された状態で見つかりました。土管は、いずれも全長55~56cmで、外形は23cmを測ります。
外面は、表面をなでて制作の痕跡が見えませんが、内面には布目の痕跡が残っていました。 |
飛鳥寺西方遺跡
土管 |
飛鳥寺西方遺跡
上に記述 |
土管
上に記述 |
飛鳥寺西方遺跡 |
土管出土状況 |
|
|
64
|
戸籍と住居表示 |
身分・官僚制度/役所組織の成立 |
納税制度/各地からの特産物 |
|
65飛鳥時代の地名
三重県四日市(三重評)や岐阜県武義郡(牟義)や土岐郡(刀支縣)などの地名が記されています。
飛鳥時代の地名 |
地名 |
戸籍関係 |
官僚関係
飛鳥時代の出勤簿
名前の下に出勤した日付を記したものです |
納税関係 |
飛鳥時代の荷札
全国各地からの物産を飛鳥の都へ運ぶ際、品名等を記したもの。
両端を伐り込んで取り付けやすくした。 |
|
66税
|
漆土器の蓋
飛鳥京跡、飛鳥時代 |
漆が付着した土器 飛鳥京跡、飛鳥時代 |
税を運ぶ様子 |
|
|
|
村内出土石造物模型
67猿石(女)
|
この石像は、吉備姫王墓内に置かれている四体の猿石の内の一体で、胸にちぶさがあるように見えることから、女と呼ばれています。
両腕を膝の前に垂らして座る姿で、長い鼻と目、大きな口を持つ奇妙な顔をしています。
後面は獣の姿と考えられ、下部にはくちばしのような口があります。丸い目の上には津のがあり、耳にたてがみのような筋が彫られています。 |
猿石(僧)
|
吉備姫王墓内に置かれている四体の猿石の内の一体で、僧(法師)と呼ばれる石像です。他の三体の猿石は両面に顔がありますが、
この像は前面のみに顔が彫られています。
手をお腹の上で組み、膝を立てて座るたくましい体の像で、背中には肋骨のような筋が見られます。
大きな鼻と耳、丸く飛び出た目、そして深い皴のある顔が特徴的で、坊主頭のように見えることから僧と呼ばれています。 |
高取城の猿石
|
この石造は、高取町の山中に築かれた高取城の城跡に置かれている猿石です。猿石はこの他に吉備姫王墓内に四体ありますが、いずれも
江戸時代に欽明天皇陵の南の田から掘り出され、その後、この石像だけが城の石垣に使用する目的で高取城に運ばれたと考えられています。
猿石の中で最も猿に近い姿の石造で、一部が欠けた後面には別の像が彫られていたと思われます。 |
|
|
70復元塼仏璧
|
夏見廃寺(三重県名張市)より出土した塼仏をもとに推定復元した壁面の様子。
山田寺や川原寺などより出土した多数の塼仏も、このように壁一面に取り付けられていたと考えられている。 |
|
73貨幣経済の始まり
|
|
富本銭の製造工程
|
貨幣経済の始まり
|
手工業
金銀生産・ガラス生産
富本銭鋳造 |
ガラス工房 |
鍛冶工房 |
※貨幣経済が実際に一般化するのは鎌倉時代からで、それまでは政権が十分な貨幣を発行しなかったため、 |
中国から流入した宋銭が貨幣経済を発達させた。
|
|
|
74ガラス工房跡出土品
|
75銭貨鋳造工房出土品
|
皇朝十二銭 |
べっこう原料 |
饒益神宝
にょうやくしんぽう
じょうえきしんぽう |
富本銭 |
|
76工房の遺物
|
鉄滓(かす)
檜隈寺周辺 |
ふいごの羽口
檜隈寺周辺 |
鍛冶工房 |
鍛冶炉
ふいごの羽口
ふいご |
鉄鎚(かなづち)
鉄鉗(かなばし)
鉄鏨(たがね)
鉄砧(かなとこ)
|
|
77
|
|
80 |
81
飛鳥の水時計(水落遺跡)
|
〇昭和47年 水落遺跡調査開始
〇昭和56年 水時計台発見
〇礎石や梁石などで耐震に備えた基壇が設けられており、『日本書紀』の斉明6年条に記されている、中大兄皇子が初めて造った漏刻(水時計)台と
考えられます。 |
|
81a飛鳥の迎賓館(石神遺跡)
|
〇明治35・36年 須弥山石・石人像出土
〇昭和56年 石神遺跡調査開始
〇新羅土器や東国産の黒色土器等が出土しており、建物配置や噴水石造物の存在、文献資料などから、迎賓館的な施設と考えられます。 |
|
81b飛鳥の祭祀場(酒船石遺跡)
|
〇平成4年 酒船石遺跡調査開始
「宮の東の山の石垣」発見
〇平静12年 亀石石造物発見
〇酒船石が位置する丘陵裾から、亀形石造物を中心とした導水施設が見つかったことから、遊水を利用した天皇祭祀が行われた聖なる空間と
考えられます。 |
|
|
82最古の暦・具注暦木簡 ~飛鳥のカレンダー~
|
|
持統3(689)年3月と4月の暦日が記されています。 |
|
|
|
|
83酒船石遺跡
|
酒船石遺跡で発見された湧水施設は周囲を砂岩で囲み、中央には取水塔と取水口が設けられています。取水口から出た水は小判形・亀形石造物へと流れる構造になっています。
展示では取水口(実物)部分を再現しており、また発見当時に破損していた蓋石も修復して元の位置に設置しています。 |
砂岩切石
宮の東の山の石垣
石上山石 |
砂岩切石
酒船石遺跡 |
砂岩切石 |
酒船石遺跡 |
酒船石遺跡 |
酒船石取水口(写真) |
取水口石組と亀形石盥 |
導水施設想像図
木樋じゃなくて銅樋
じゃないかな |
取水口石組(実物) |
砂岩製 |
発掘時の写真 |
|
|
|
90飛鳥の氏寺(飛鳥寺)
|
〇日本最初の七堂伽藍を備えた本格的寺院
〇国際総合センター[・仏教の教義を説く宗教拠点 ・知識層(僧)が集う学問所 ・先端技術を駆使した高層建築]
〇1400年間鎮座している金銅釈迦如来坐像は当時の中国や朝鮮半島の仏教文化や芸術性の高さを現在に伝えています。 |
|
|
飛鳥の氏寺(飛鳥寺) |
飛鳥寺建設想像図 |
|
金銅釈迦如来坐像
飛鳥大仏 |
飛鳥寺伽藍配置図 |
|
飛鳥寺の鴟尾 |
明日香村内
鴟尾破片出土位置図
(知られざる廃寺跡) |
飛鳥寺の鴟尾 |
塼 飛鳥寺跡 飛鳥時代 |
飛鳥寺軒瓦 |
刻書瓦 |
|
飛鳥寺創建軒瓦
豊浦寺の軒瓦
花組・星組
鬼面文軒丸瓦 |
「花組・星組・雪組」の
軒丸瓦
|
引用展示資料解説 |
|
91飛鳥寺の創建瓦
|
|
100 |
101飛鳥の官寺(川原寺)
|
〇天智天皇が実母斉明天皇の菩提を弔うために造営した大王家(天皇家)の寺院
〇川原寺の内部荘厳の高さを示す塼仏や塑像など数多くの遺物が隣接する川原寺裏山遺跡から出土しています。
〇朱鳥元年(686)に川原寺の伎楽(クレカクラ)を筑紫に運んで稲五千束を治めたとあり、伎楽とのかかわりを知ることが出来ます。 |
|
飛鳥の官寺 |
川原寺の屋根葺 |
川原寺復元模型 |
夏見廃寺の復元塼仏璧 |
塼仏出土状況 |
塼仏出土状況 |
川原寺の塼仏 |
引用展示資料解説 |
|
|
102川原寺裏山遺跡出土物 飛鳥時代
川原寺の塼仏
飛鳥時代
川原寺裏山遺跡 |
緑釉塼 飛鳥時代
川原寺裏山遺跡 |
飾金具・皇朝十二銭
銅線・銅製蓮華座
銅鈴・銭貨 |
銅線・銅製蓮華 |
飾金具
|
銅鈴・皇朝十二銭 |
塑像 |
小金銅仏の手 |
|
|
|
|
|
|
110 |
111雷丘東方遺跡の井戸枠
|
この井戸枠は昭和62年に発掘され、「小治田宮」と墨書された土偽果数多く出土しました。これによって奈良時代の小治田宮の場所が確定しました。
従来この井戸は奈良時代末頃に造られたと考えられていましたが、年輪年代測定法によって、井戸枠材の伐採年代が758年+αと判明しました。
淳仁天皇が小治田宮に行幸した記録が760年であることから、製作年代゛か判明しました。ヒノキ材。 |
雷丘東方遺跡の井戸枠
上に記述 |
雷丘東方遺跡の井戸枠 |
|
|
小治田宮の井戸 |
引用展示資料解説 |
|
111o小治田宮
|
|
112飛鳥時代後半の装束
飛鳥時代の位階(冠位)と装束の色
|
天武天皇の頃には位階が
"明"(朱華(ハネズ))
"浄"(朱華)
"正"(深紫)
"直"(浅紫)
"勤"(深緑)
"務"(浅緑)
"追"(深葡萄(深エビ染め))
"進"(浅葡萄)
と、なり、"明""浄"は皇子の位階を表し、"正"以下は貴族や役人の位階を示しています。
この位階は上衣の色で示され、冠は漆沙冠(黒色)になります。
この頃には唐への指向性が強くなり、それまでの服装や髪形を改め、新たなスタイルが採用されるようになりました。
この時代の服装としては、高松塚古墳壁画の男子群像・女子群像が参考となります。
男子群像では、上衣(Y字襟)は、浅緑・黄色・青・白で、下袴(ズボン)は白色で、腰には朱や茶色の長紐が結ばれています。頭に漆沙冠を被り、
黒い靴を履いています。鞄は正面に手を添えて持つようになります。
女子群像では、上衣(Y字襟)は、朱・浅緑・黄色で、下裳(ロングスカートの巻きスカート)は、青、緑、やストライプのものを着ています。
手には翳(団扇)や笏を持っています。 |
飛鳥時代の衣装 (参考:高松塚古墳壁画)
|
|
114甘樫丘からの展望パノラマ写真
甘樫丘からの展望
パノラマ写真 |
甘樫丘からの展望
パノラマ写真 |
猿石 (山王権現) |
猿石 (山王権現) |
|
猿石(山王権現)
|
この石造は、吉備姫王墓内におかれている四体の猿石の内の一体で、山王権現と呼ばれています。
前面は大きな目と鼻、口を持つ裸の男性で、烏帽子を被り、おなかを押さえるような仕草で正座する姿が彫られています。
後面の顔は少し下がった位置にあり、四角い顔に牙と角がある獣のような顔が彫られているところから、邪気の姿と考えられています。 |
|
|
|
120八釣マキト古墳群
|
121豪族の墓 (八釣マキト古墳群)
|
〇墳丘 |
円墳(直径約10m) |
〇埋葬施設 |
両袖式横穴石室 |
〇主な出土品 |
土師器、須恵器、耳環、ガラス玉、刀子、馬具他 |
〇八釣マキト古墳群は飛鳥盆地の東側の丘陵に造営された古墳群で、5基の横穴式石室と1基の小石室、さらに東山地域で1基の横穴式石室が
確認されています。 特に八釣マキト5号墳はその規模や副葬品の内容から、当地出身の中臣氏との関りが注文されます。 |
|
豪族の墓
(八釣マキト古墳群) |
八釣マキト5号墳石室 |
巨石の運搬 |
飾り馬具の名称 |
八釣マキト5号墳 |
八釣マキト古墳群 |
古墳とその世界 |
引用展示資料解説 |
|
|
122馬具 八釣マキト古墳群
|
|
鞍(前輪)(後輪)
鉄地金銅張鞍金具 |
辻金具
鉄地銀張雲珠・雲珠 |
雲珠・兵庫鎖 |
留金具・鉸具 |
|
123土師器 古墳時代
|
124装身具 八釣マキト古墳群
|
125
|
|
127都塚古墳発掘 6世紀後半
都塚古墳の墳丘構造
|
都塚古墳の墳丘は当時のとしても珍しい段状を呈した墳丘で、盛り土を段状に成型してその上にこぶし大から人頭大の川原石を充填するなど大量の石材を用いて墳丘が構築されています。 |
段状石積み
|
段状の石積はこぶし大から人頭大の川原石を2~3段ほど積み上げています。
現在5段分確認でき、墳丘最下段のテラス面までさらに数段伸びるものと推定されます。高さは約0.3~0.6mを測り、各段までのテラスの面の幅は約1mとなっています。 |
都塚古墳の発掘 |
都塚古墳の壇状石積み |
都塚古墳の墳丘構造 |
段状石積み |
|
128都塚古墳の模型
|
129都塚古墳の復元
|
都塚古墳は東西約41m南北42mの方墳で、6世紀後半でも最大級の規模を誇ります。
また段状石積みにより墳丘全面装飾しており、日本国内では他に例がありません。
時代は若干異なりますが、高句麗の巨石積石塚で知られる将軍塚(中国吉林省)との関連性が注文されています。 |
墳丘東南隅部分
|
段状積み石から南へ続く墳丘南東隅出はコーナー部分を確認できました。
ここでは段状石積を3段分確認でき、もっとも残存状況の良い3段目のコーナーには人頭大の石材が使用されており、
東面と南面の石積と揃うように面を持っています。 |
|
|
|
|
131真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん) 6世紀中期
|
〇墳丘
〇埋葬施設
〇主な出土品 |
円墳、一辺約40m
穹窿状横穴式石室(全長18m以上)
獣面装飾金具、銀象嵌刀装具、馬具、ミニチュア炊飯具 |
〇石棺と木棺により複数の人物が埋葬されている巨大な横穴式石室は、石舞台古墳をしのぐ規模であり、被葬者とされる東漢氏の勢力の大きさが
うかがい知ることが出来ます。 |
渡来系氏族の墓 真弓鑵子塚古墳
安倍山遺跡群
真弓テラノマエ古墳 |
|
|
渡来系氏族の墓
真弓鑵子塚古墳 |
|
真弓鑵子塚古墳
横穴式石室 |
板状土製品 真弓鑵子塚古墳 |
獣面飾金具
真弓鑵子塚
銀釧
安倍山カイワラ1・2号 |
獣面飾金具 真弓鑵子塚古墳 |
獣面飾金具 真弓鑵子塚古墳 |
銀釧
安倍山カイワラ1・2号墳 |
|
|
132安部山遺跡群カイワラ1号・2号墳
|
〇墳丘
〇埋葬施設
〇主な出土品 |
方墳、一辺約10m
右片袖式横穴式石室
土師器、須恵器、ミニチュア土器、馬具、銀釧、鉄製品他 |
〇貝吹山と細川谷周辺以外で檜隈盆地に隣接した場所から、渡来系要素を含む遺物が出土したことで、檜隈盆地に氏寺を造営した東漢氏の
新たに墓域が想定できるようになりました。 |
|
|
安部山遺跡群カイワラ1号・2号墳 |
ミニチュア炊飯具
副葬用台所用品 |
|
|
カイワラ2号墳 |
漆喰が付着した瓦
棺台に使用されていた瓦 |
|
|
|
|
|
133真弓テラノマエ古墳・カヅマヤマ古墳
|
〇墳丘
〇埋葬施設
〇主な出土品 |
方墳、一辺約23m
塼積横穴石室(結晶片岩)
土師器、黒色土器、鉄製品、漆片(漆塗り木棺)、人骨他 |
〇結晶片岩を使用した塼積石室は紀路沿いの西飛鳥地域で確認されており、真弓テラノマエ古墳から真弓ミヅツ古墳、カヅマヤマ古墳と
7世紀前半から後半にかけて継続的に造営された古墳群です。 |
飛鳥の遺跡にあった地震の跡
|
カヅマヤマ古墳では石室を分断する最大2mにも及ぶ地滑り跡が確認された。
これは正平16年(1361)にあった正平南海地震によるものと考えられ、震度5強~6弱の揺れがあったと推定される。
南海地震はほぼ90~150年周期で起こっていた巨大地震で、飛鳥地域ではカヅマヤマ古墳の他にも、酒船石遺跡では天武13年(684)の
白鳳南海地震によって砂岩石垣が倒壊しており、高松塚古墳でも南海地震による断層や亀裂が見つかっている。
遺跡は過去の地震を探るタイムカプセルでもある。
奈良は地震が少ないと言われるが、過去の地震の痕跡を考えると、次の南海地震もそう遠い未来ではない。 |
飛鳥の遺跡にあった
地震の跡 |
|
南海トラフは、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に潜り込みながら巨大地震を引き起こす細長い凹地。
A・Bから南海地震、 C~Eから東海地震が発生する。 |
|
139猿石(男)
|
この石像は、前と後ろに顔がある奇妙な姿の石造物で、猿に似た顔をもつことから猿石と呼ばれています。
前面はユーモラスな表情で座る男の像で、後面はしゃがんだ邪気(もののけ・妖怪)の様にも見えます。
猿石は、江戸時代に欽明陵の南の水田から四体が掘り出され、明治の始め頃に現在の吉備姫王墓内に移されたと伝えられています。
この猿石(男)はそのうちの一体です。 |
|
|
|
140飛鳥の大王(天皇)墓 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 |
141
|
〇墳丘
〇埋葬施設
〇主な出土品 |
八角墳、対辺長約22m
刳り抜き式横口式石槨
夾紵棺、ガラス玉、七宝飾金具、力環座金具、鉄製品、歯牙他 |
|
〇牽牛子塚古墳は大王墓に採用されている八角墳であることが確認され、更に南東側から刳り抜き式横口石槨墳の越塚御門古墳が発見されました。
被葬者については『日本書紀』天智天皇6年2月条との関連が注目されます。
|
飛鳥の大王(天皇)墓 ・牽牛子塚古墳
・越塚御門古墳 |
牽牛子塚古墳 |
牽牛子塚古墳と飛鳥宮 |
越塚御門古墳 |
越塚御門古墳想像図 |
|
142牽牛子塚古墳出土物 飛鳥時代
|
143
|
145
塚越御門古墳 |
凝灰岩貼石
牽牛子塚古墳 |
用途不明石材
牽牛子塚古墳 |
|
|
|
151飛鳥の壁画古墳 (高松塚古墳)
|
〇墳丘
〇埋葬施設
〇主な出土品 |
円墳、対角長約24m
組合わせ式横口式石槨
漆塗木棺、海獣葡萄鏡、金銅製大刀金具、人骨他 |
|
〇昭和47年(1972)に極彩色の壁画が描かれていることが確認されました。
壁画には男女の人物像、四神図、星宿図などが描かれており、飛鳥時代を彷彿とさせる壁画の発見は国内外ともに注目を集めました。 |
|
高松塚古墳
|
東壁男子群像
|
東壁女子群像
|
東壁 青龍 |
東壁男子群像 |
|
発見直後の石槨内部 |
北壁 玄武 |
西壁女子群像 |
西壁 白虎 |
西壁男子群像 |
壁画古墳て何? |
壁画が描かれた古墳です。
壁画は中国や朝鮮半島に由来する文化や風雌雄を伝えた内容で、日本では高松塚古墳、キトラ古墳で確認されています。 |
|
|
|
|
|
|
160 |
161壁画古墳
|
162飛鳥の多角形墳 マルコ山古墳
|
〇墳丘
〇埋葬施設
〇主な出土品 |
多角形墳、対角長約24m
組合わせ式横口式石槨
漆塗木棺、金銅六花形飾り金具、鉄製大刀金具、人骨他 |
〇マルコ山古墳の石槨は壁画が描かれているキトラ古墳や高松塚古墳と同じ構造となっています。
隣接して真弓テラノマエ古墳(7世紀前半)やカヅマヤマ古墳(7世紀後半)などが築かれていることから、それぞれの古墳の被葬者との関連が
注目されます。 |
飛鳥の多角形墳 マルコ山古墳 |
|
|
金銅製鉸具 |
刀金具 |
釘隠 棺金具 |
|
163
漆塗り木棺 |
|
164飛鳥の壁画古墳 キトラ古墳
|
〇墳丘
〇埋葬施設
〇主な出土品 |
円墳、直径約14m
組合わせ式横口式石槨
漆塗木棺、ガラス玉、金銅製飾金具、鉄製大刀、人骨他 |
〇キトラ古墳の展示用に描かれている天文図は現存する東アジア最古のものです。当時の東アジア諸国との交流で得た知識や技術の高さを、
飛鳥の地で現在もなお知ることが出来ます。 |
飛鳥の壁画古墳
キトラ古墳 |
鐶座金具
高松塚古墳
|
大刀(復元)キトラ古墳 |
海獣葡萄鏡
高松塚古墳 |
|
|
170日本書紀写本 |
171
|
|
|
日本書紀て何? |
奈良時代に成立した日本の正史をまとめた歴史書。各天皇の在位した時代を年代毎に1月から12月の順に記されている。例えば「地震う(うちふるう)」等政治だけでなく災害や天文に関する内容も書かれています。 |
酒船石遺跡石垣 |
|
180天文図 |
181朱雀
|
中国神話に登場する伝説上の獣で、四神の一つ。四神はそれぞれ、青龍=東、白虎=西、朱雀=南、玄武=北を司る。
万物を「木・火・土・金・水」5つの元素で説明する古代の五行思想では、朱雀は火の象徴とされていた。
伝説上の瑞獣で、風を司る鳳凰と混同されることも多いが、本来は別物である。
キトラ古墳の石室内にも東西南北の壁にそれぞれに対応した四神の壁画発見された。
高松塚古墳でも、東西北の壁には青龍・白虎・玄武が描かれており、南側にあった朱雀は、盗掘で失われたと考えられている。
本館で展示されているキトラ古墳壁画の朱雀をほぼ実物大で復元したものである。
壁画を元に3次元モデルを作成し、真鍮を削り出して加工を行った、まさに朱雀が今飛び立とうとしている瞬間を立体的に表現している。 |
|
190万葉集
|
191万葉木簡
|
|
200 |
201日本国創生のとき、飛鳥を翔けた女性たち
|
203キトラ古墳
|
|
211竹野王石塔 (撮り損ねたらしい)
|
|
220飛鳥路散策
石神遺跡
石神遺跡 館のすぐ裏手。今では小さな遺跡だが |
館を含む周辺一帯が飛鳥時代の迎賓館 |
|
|
石神遺跡だったようです |
|
耕起した土の鮮やかさ。春の野に出でて若菜摘む、、、ではなく |
籠もよみ籠持ち掘串もよみ掘串持ちこの丘に菜摘ます児 |
どちらも季節がずれてるな、、 |
雷丘
柿本人麻呂 |
|
|
いい場所に案内板が |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
しかし、真正面の生垣の剪定が不十分で |
いい雰囲気だが、目隠しになって何にも見えない。 |
|
南北に長い奈良盆地の東部には非常に古い山岳地帯が続いている。
西部の日本の山地ができる以前からあった山地です。 |
ピンボケ写真ですが、とっても高い山々だとお分かりいただけます。
旧石器人~縄文人の活動の場でした。 |
|
|
|