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  西日本の縄文  22    2016.03.30-1

   蒜山郷土博物館  岡山県真庭市蒜山上長田1694  0867-66-4667 月曜休館 撮影禁止

  交通  車

  見所  岡山県北部の謎に包まれた旧石器時代の遺物

  注意  展示方法は、時代別展示ではなく、テーマ別展示でもないようです。 時代が前後しますが、展示に沿って掲載しています。

 
 

00蒜山の概要
00蒜山の遅い春
01外観
02古墳公園
10旧石器時代
11岩宿時代の石器
 蒜山の地層
20縄文時代
21土器・石器
30弥生時代

50古墳時代
51蒜山原の古墳

60弥生時代
70古墳時代
71水別遺跡出土物
74水別古墳
 水別古墳の歯
80四つ塚古墳
83馬形埴輪
 埴輪の入手方法
89四つ塚ジオラマ
 

00蒜山の概要

   蒜山(ひるぜん)は岡山県北部の鳥取県境にある火山です。周囲に蒜山高原蒜山盆地などがあります。
   鳥取県の大山より早く活動を始め、早く終了しました。
   蒜の意味は食用球根のネギ・ニンニク(大蒜)・ノビルのことで、山蛭・吸血蛭ではありません。


 蒜山の形成
100万年前 噴火を始めた蒜山は60万年前活動を停止。火山形成のマグマフロントが移動して噴火口が移動し三つ子の山になりました。
(一説に元は一つの独立峰だったが浸食・崩壊で三つの峰になったとも言われている)
35万年前 大山の噴火により西側で河川が堰き止められ、南山麓一帯は、200k㎡の蒜山湖となり、
15万年前 浸食で湖は消滅し、一帯は珪藻土と火山灰土の覆う蒜山盆地となりました。珪藻土は耐熱陶土で煉瓦・焜炉(七輪)に有用です。


 蒜山の旧石器
3万年前 中山西遺跡(蒜山高原=環状集落跡)、 野原遺跡(神郷町)、下郷原田代遺跡、城山東遺跡、戸谷遺跡、 などがあり、
ナイフ形石器、削器、掻器、彫器、石斧が出土
21000年前 火山活動の活発化、火山灰の大量流出、河川への火山灰の流入、狩猟採集対象動植物の激減、寒冷化などにより無人化。
 
      蒜山一帯は、東の扇ノ山から山口県に至る山稜交通ルートの一部です。周囲には水晶が豊富に採れ、重要な石器石材産地でした。


 蒜山の縄文
12,000年前 温暖化・植生(果実・木の実・食糧植物)や動物の回復により、川沿いに集落を形成。
恩原遺跡(上斎原村)、戸谷遺跡(八束村)=調理(炉)跡が出土
10,000年前 縄文土器がつくられ始める
8,400年前 中山西遺跡・城山東遺跡(蒜山高原)など。 =竪穴住居、丘陵の縁辺部に百基近い落とし穴 を構築していた。
縄文人たちは、動物を集団で落とし穴に追い込んで捕獲していたようです。
約 6,000年前 気候の変化や動物の獲り過ぎなどで居住地を山間部から移動し、次第に平地へ住居を構えました。

     転載岡山の風|郷土史|旭川<歴史>



 00蒜山の遅い春
3/30私の近所は桜が開花していた。寒冷蒜山は梅花満開。桜は4月下旬 古蒜山湖の湖底。珪藻土の堆積と火山灰の影響で農業不適だった。 牛舎が沢山。至る所で牛糞の臭いがすごかった酪農と、大根の畑作が主 広大な湖だったですね。
一帯が全て水の中だったなんて。松本盆地みたい
蒜山(下蒜山)遠望  20万年間堆積した珪藻土は耐熱陶土であるが
透水性が良過ぎて農業には不向きです。

 火山灰は強酸性土壌で生育可能は大根だけです。
 01外観
ここは四つ塚古墳群のガイド施設なんですね 蒜山高原は、倉敷に次いで、岡山県下第二の観光地で膨大な収益が上がる 手前が常設展示室
奥が企画展示室
(笑)弥生時代に鶏は、
神聖な意味を持つ鳥だった
素晴らしい箱ものだと思います。


 02古墳公園 一帯は古墳群にあり、館の庭先に、古墳を移築してあります
よくある子供騙しの住居かと思いきや、 説明看板と思いきや 説明が何もないのです 水別れ古墳を移築し、
崩壊状態まで再現した優れものでした
古墳時代後期の横穴式石室ですが、石棺等は 持ち去られたか。昔の人はこれが墓だと千年も言い伝えて知っていた。
崩れていた古墳も再現してあります本物みたい 下の方はセメントでした。メンテがし易いように。 円形炉は始めてみましたが本当ですかね あまり燻していませんが、虫が出て崩れてしまう。




 10旧石器時代





  11岩宿時代の石器
八束地区を中心に10数箇所の遺跡から岩宿時代(先土器時代・旧石器時代)の石器が発見されている。
石器のほとんどは打ち欠いて作られ、主に槍の穂先として使われた。凡そ1万年から3万年前のものである。

当時の蒜山原は今よりもやや寒く、人々は動物を狩りし、木の実・草の根を集め、時に鮭などの川魚を獲って暮らしていた。

展示室の全体 岩宿博物館を見学しての物真似です。(笑)誰もこんな事言わん 尖頭器/牧野遺跡
ナイフ形石器/戸谷遺跡/サヌカイト/2万年前

削器・尖頭器・掻器/東遺跡/2万年前
細石核/隠岐島産
1万8000~1万6000年前
蒜山の地層
蒜山の地層※1

  ※1蒜山の地層     大山火山灰
    
     地 層  時代を表すもの   遺跡名   年 代   特 徴 
 Ⅰ.表土(アカホヤ火山灰層) 縄文土器   縄文時代     7300年前  
 Ⅱ.漸移層    細石刃    東遺跡  1万8000~1万6000年前  
 Ⅲ.ソフトローム層     尖頭器
 ナイフ形石器
 東遺跡
 笹畝遺跡・竜頭遺跡
 2万5000~2万年前  
 Ⅳ.弥山パミス (大山軽石)        
 Ⅴ.上のホーキ火山砂層         
 Ⅵ.黒色帯(18400±230BP)       

 Ⅶ.オドリ火山灰層
 ナイフ形石器

 フコウ原遺跡

  2万7000年前  石刃基部を奇妙に加工
 した造りでした
フコウ原型ナイフ形石器
 Ⅷ.下のホーキ火山砂層         
 Ⅸ.キナコ火山灰層(AT層) (21000±500年BP)      約2.6~2.9万年前  
 Ⅹ .赤褐色火山灰層

 ナイフ形石器・石斧

 小林河原遺跡/戸谷遺跡
 3万3000~2万8000年前  石刃素材ナイフ形石器
 台形石器
 Ⅺ.下のホーキ火山灰層(50000±13000年BP)      
                 
   引用恩原遺跡群 鏡野郷土博物館





 20縄文時代


 縄文時代の石器と土器
土器が使われるようになってからの時代を縄文時代という。
土器で肉や植物繊維などの食べ物を煮沸するようになったから、消化よく衛生的に食べることができるようになり、赤ちゃん・年寄・病人をはじめ人々の食生活が改善された。

この時代には弓矢や銛が使われ、狩猟や魚とりが盛んに行われた。また、磨いて作った石斧が広く使われた。

  21土器・石器

押形文土器
八束村山城遺跡

押形文土器
川上村西茅部

押形文土器
川上村湯船
縄文時代の石器と土器
石鏃・石匙/八束村山城
石鍬/八束村中福田
石錘/八束村山城
石鏃・石匙/八束村山城
石斧と石匙
石鍬(いしくわ)打製石斧と言わないのは、岡山特有の言い方でしょうか?

一般に石鍬は弥生時代の大型の鍬形石器をいい
縄文の打製石斧を指さない。
 間違いかと思われる。

  石鍬について
    西日本では、縄文中期から農耕の痕跡があり、雑穀や、ときにはイネをも栽培していたと考えられています。

    岡山県姫笹原遺跡からイネのプラントオパールが、縄文中期土器(5000~4000年前)から、検出されている。
    後期中頃からは、盛んに籾殻圧痕土器や、土器中からプラントオパールが検出され、

    また、この頃から、収穫道具が検出されるようになり、イネやシコクビエの栽培がおこなわれていました。

    詳しくは、のちに掲載する「帝釈峡博物館展示施設 時悠館」に掲載します。 既に編集済みです。





 30弥生時代



 弥生時代の蒜山原
弥生時代は稲作が始まった時代であるが、気温・水温の低い蒜山原ではすぐには行われなかった。
弥生時代の中頃にようやく最初の水田が開かれ、以後次第に人口が増え、耕地も広がっていった。

弥生時代の終わり頃には、旭川やその死理由の理由域のあちこちに水田が作られ、人々は小さな集落を作り、低い丘の上や山の斜面に住むようになった。

  31
弥生時代の蒜山  気温水温の低い当地では弥生中期になって、最初の水田が開かれた。

 弥生終末期には、旭川や支流流域に水田と小集落が形成され、

 低い丘の上や斜面に棲むようになった。
弥生土器(八束村栃の木)
石鏃(八束村下見)
石斧
石包丁(八束村吉森)

 40遺跡地図
  41
遺跡地図米子自動車道建設に伴う遺跡発掘 縄文土器  旧石器時代
(7千年前) ナイフ形石器
        2万5千年前
玉の原石・古代の装飾品
分銅形土製品
石斧・たたき石
弥生時代

玉の原石・古代の装飾品
 何となく、陳列の仕方が少しおかしいと感じます。

年代を間違えたり、特別に旧石器~弥生を並べたり、
意味不明な展示です。




 50古墳時代





  51蒜山原の古墳
蒜山原の低い丘陵や山々には、多くの古墳が造られている。中には前方後円墳ではないかと思われる古墳もあるが、確かめられていない。
古墳の総数は150基を超えるものと思われる。発掘調査がほとんどなされていないので、年代や性質のわかる古墳は大変少ない。

群れをなしていることが多く、旧八束村四つ塚古墳群や、旧川上村石道山古墳群が有名である。

蒜山原の古墳
古墳時代
 低い丘陵や山嶺には古墳が150基以上ある。
 未発掘で年代や性質の判るものは少ない。

 旧八束村の四つ塚古墳群や旧川上村の石道山古墳群が有名である。
落とし穴 中山西遺跡
縄文時代
7千年前頃の住居跡
中山西遺跡
縄文時代
火災住居
下郷原和田遺跡
弥生~古墳期
須恵器・弥生土器
手づくね土器
弥生時代
  ↑なぜ古墳期のパネルの横に縄文から弥生・古墳期の写真が並べてあるのか意味が分からん。




 60弥生時代 古墳と関連して出土したためこのような展示になっているのでしょうか。時代がメチャクチャに展示です。
  61上野遺跡・水別遺跡
小型丸底壺・高坏・埴輪
甕・鉢 上野遺跡
小型丸底壺・高坏・埴輪 甕・鉢 蓋・坏・短頚壺・小型壺・坏
提瓶・平瓶・高坏
水別遺跡
蓋・坏・短頚壺・小型壺・坏 提瓶・平瓶・高坏


  古墳時代


 70水別古墳群・水別遺跡 古墳時代後期~終末期(6世紀後半~7世紀) 3基の古墳。

1号墳(円墳R7m)横穴式石室。太刀・耳環・装身具(勾玉・管玉・切子玉・ガラス玉)・須恵器。6世紀後半築造し8世紀前半頃まで利用。
2号墳はほぼ同じで1号墳築造後、6世紀後半に造られた。
3号墳はほぼ壊されていた。7世紀中期頃に築造。大きさも同じ。

四つ塚古墳群後の蒜山の有力者の古墳でした。

水別古墳群は、蒜山下長田に存在した古墳時代後期から終末期(6c後半-7c)にかけての古墳群です。平成8年に3基の古墳を調査した。

水別1号墳は、径約7mの円墳で、横穴式石室の石室内から大刀、耳環、装身具(勾玉、管玉、切子玉、ガラス玉)及び須恵器等が出土した。
6c後半に築造され、8世紀前半まで利用されていたことが わかりました。

水別2号墳も同規模・同形式です。石室の天井が一部壊されていましたが、石室内から、耳環や装身具(勾玉、ガラス玉など)、須恵器が出土した。
出土物から、1号墳築造後の6世紀後半頃に築造されたことがわかりました。

水別3号墳は大部分が破壊されていましたが、7世紀中頃に築造された、一辺が6~7mの方墳の可能性があります。

このように、水別古墳群は、四つ塚古墳群よりものちの時代の蒜山地方の有力者の古墳群であることがわかりました。
尚1号墳、2号墳は、博物館の外に移築されています。
                      真庭市

  71水別遺跡出土物

上に記述
1号墳石室内 北から 1号墳全景 2号墳出土玉類 耳環
1号墳出土玉類 勾玉・丸玉・切子玉 耳環・玉 長頸壺 鉄滓
製鉄技術を持つ集団の頭目の墳墓でしょうか。
ると伽耶人かな

  74水別古墳

 水別古墳の歯
1号墳からは、40点近い歯が出土しました。20代前後の男性3人と、20だい前後の女性一人。8歳前後の幼児1人の合わせて5人でした。
横穴式石室ですから、追葬したものですが、若者や幼児の墓だとは、驚きです。

古墳群全景 斜面利用の円墳 1号墳出土の歯
頭蓋骨片
水別古墳群の歯二十歳前後の男性3人と女性1人分及び
8歳位の子供の歯が出土
古墳の主人は誰だったのか。 これだけの大古墳なら当然首長の墓でしょう。
すると、これ等全ての若者と子供が殉死のようです。
頭蓋骨の年齢については何も書かれていない 副葬された鉄剣
密封されています
短刀 密封処理済 岡山県美作地方でも同様の鍛冶集団の長の古墳があります ↑複数の人骨が発見されると合葬墓と考えるのは間違い。
 権力者の墓は一人一墓
あとは全て殉死者の骨。

 出てきた骨のどっちが主人でどっちが殉死か見極めが大切。



 80四つ塚古墳
古墳時代後期 谷の稜線に沿って造営された古墳群で、全て円墳です。最大R20m 10~15mのものが多い。
広大な蒜山盆地を支配しながら、農業不振であったためか、米交易ルートを持っていなかったためか、富の集積はさほどでもなかったようだ。

それでも、半島から馬を買い、きらびやかな装束を付けて引き回し、権力と富を見せびらかしたようです。
多くの、一族の小古墳を造り続けたことは、永く人々と土地を支配できた証でもある。

  四つ塚1号墳
   6世紀前葉
横穴式石室 R27mの円墳 1500年も禁忌とされた貴人の墓を、維新以後に破って盗掘した。
武器・馬具・農具・工具・装身具・須恵器は東京国立博物館に接収された。
薄い割石を持ち送りに積んだ朝鮮式石室。


  四つ塚13号墳
R20mH2.3m(経年変化で古墳の高さは潰れて低くなってしまう) 台形の造り出しを持つ。
百本以上の円筒埴輪・壺形埴輪を巡らし、造り出し礼拝部に、馬・鶏・人物等や、頂上に家形埴輪の形象埴輪を置いていた。

墳頂下に二つの木棺の主体部があり、武器・馬具・鏡・装身具・須恵器などを出土した。


  81
四つ塚古墳群前方後円墳時代なんて
誰も言わんよ!
古墳群部分の図面 八束村四ツ塚古墳全景
「八つ墓村」の「八墓のたたりじゃ~」 
「八束村の四つ塚」   
横溝正史の構想力に
乾杯
1号墳
上に記述
石室内部 装身具 勾玉・小玉
杏葉ぎょうよう 鐙あぶみ 13号墳上に記述 発掘の様子 出土状況

こんな山中でもコメ交易経済に参加し、半島から収入を得て独占し、玉や装飾馬を得ることができたのは、やはり、同族のネットワークがなければ不可能。
列島の津々浦々と、半島から大陸を結んだ、大きな経済ネットワークがあったようです。運送システム。交換・対価としての交易品。

昔から、山家に暮らす人々は収入を得るのに大変苦労しました。産物を金に換えるために交易拠点まで運び、それをブローカーに買いたたかれ、
僅かな値段で、それでも仕方なく売却しました。儲かるのはブローカー。いわゆる蔵元でした。

そうならないためには、蔵元も同じ一族で、足元を見ずに適正な価格を支払ってくれる、つまり、同族のネットワークが不可欠だったことでしょう。
同国人ですね。

  83四つ塚13号墳 埴輪
鶏型埴輪・馬形埴輪 四つ塚13号墳全景 図面 家形埴輪 人物埴輪
埴輪 埴輪列このように見事に残った 埴輪列の写真展示は 初めてです。 素晴らしい 円筒埴輪

  埴輪の入手方法
    前回の鏡野郷土博物館の陶棺は、明らかに吉備から運んだものとわかりました。
    それでは、沢山の埴輪は何処から運んだのでしょう。地元で作ったのでしようか。吉備や、それらの生産地に取りに行ったのでしょうか。

    東海地方に円筒埴輪を土器棺にした埋葬跡が出土しています。 吉備の風習ですが、遠すぎるので人が移動して行った埋葬と思います。

    古墳群の傍に埴輪窯があった畿内。職人が派遣された東北。 いろいろだったのでしようね。

  84四つ塚13号墳 埋葬主体部
 深く大きい主人墓と、
傍らに
殉死の武人の棺があった。
首長の埋葬墓壙 頭部に杏葉も見える 殉死の武人の墓壙  朝鮮半島の殉死を要求する思想と言うのは
そこまで主人に忠誠を誓う必要があったのか。
 死後の世界などと言うものを信じていたのだろうか。あほらしい
  87出土品
玉類・鈴

櫛 実寸は数㎝です
左下端に櫛の実物があります 管玉・丸玉・勾玉・鈴・
小玉
五獣鏡 5c前半 櫛、写真で超拡大していました 四つ塚古墳
  88馬具

雲珠うず・杏葉ぎょうよう
面懸金具おもがいかなぐ
鉸具こうぐ轡くつわ
鉄製馬具
よく似た馬具を使っていた。
半島製の量産品でしょう

雲珠うす・杏葉ぎょうよう
面懸金具おもがいかなぐ
鉸具こうぐ轡くつわ

鉄鏃・刀
胡籙金具ころくかなぐ
(腰下にげる矢筒)
  89四つ塚ジオラマ

 90四塚古墳公園
静かな小さな谷筋にひっそりとある墳丘墓群です