西日本の縄文 36 2016.07.29-1 下関市立考古博物館 山口県下関市綾羅木454 083-254-3061 月曜休館 撮影可 交通 レンタカー 見所 山口県で最大の考古学博物館です。 弥生から古墳期の展示が中心です。 注意 展示方法は、タイムスロープを下りながら、古墳時代から弥生時代に遡ります。 |
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10入口展示 |
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11ポスター 館が開催してきた企画展です。 順に過去にさかのぼる形で貼られています。 とても興味深い企画展行われています。 |
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12絵画 大陸との交易船を描いた絵画から下関の置かれた位置と過去がわかります。 |
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13タイム・スロープのディスプレイ |
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20古墳時代 多くの村をまとめた人は、次第に権力を持つようになりました。 有力者が死ぬと、遠くからも村人たちが集められ、土を盛り上げた人工の大きな墓(古墳)が作られました。 墓には、上から見た形が円形や方形、円形と台形を組み合わせた、前方後円と呼ばれる形があります。 中でも前方後円墳には、最も強かった有力者が葬られたと考えられます。 墓の中には、埋葬された人が日頃身体につけて使っていた飾り、権力を表す武器、食べ物を供えたほか、 粘土を焼いて作った埴輪(筒形、動物、人物など)を古墳の上に立てることもありました。 下関と周辺の前方後円墳 ―下関の古墳時代― 4世紀になると政治的にもいよいよ大きな力を持つ有力者が現れました。 そしてこの有力者が死ぬと、丘の上などに人工の丘の墓を作りました。お墓の中で特に立派なものは、上から見下ろすと瓢箪形で、 前方後円墳と呼んでいます。 前方後円墳に埋められた棺の作り方は、響灘の弥生時代の伝統を残しながら、近畿地方の影響を受けました。 下関市の周りにある前方後円墳の分布から、その頃の有力な集団の位置や範囲を考えることもできます。 |
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21下関と周辺の前方後円墳 |
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22馬具 |
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23武器・装飾品 秋根2号墳 |
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23a弥生土器
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24綾羅木郷若宮1号墳
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25埴輪 |
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26副葬品 |
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27パネル 変わっていった古墳 ―下関の古墳時代― 綾羅木や安岡、幡生の丘の上の前方後円墳は、4世紀から6世紀にかけて造られました。 5世紀になると、朝鮮半島の土木技術が伝わって、墓の部屋(石室)も、その前につくりつけた通路も壁から天井まで、 石で築きました(横穴式石室)。 通路の入り口をふさいだ石をはずすと、何回でも墓に使うことができるようになりました。 石室の中には、武器や飾りのほか亡くなった人が使う食器などが供えられました。 |
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古墳時代の土器 28副葬品 |
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29ミニチュア道具など |
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40弥生時代 西暦紀元前4世紀頃になり、日本で稲やアワ、キビなどの穀物を作ることが人々の暮らしの基本になりました。 収穫した穀物・木の実などを土器などに入れて蓄えるために、地面に深い穴を掘り、くら (貯蔵用竪穴) として使いました。 砥石で石を磨き、鋭い刃を付けた斧、短剣や矢尻をはじめ、朝鮮半島で使われていた道具を作り、機織りで衣類も作り始めました。 また、朝鮮半島や中国で作った青銅の剣や鏡のほか、鉄で作った道具も輸入され、毎日の暮らしやお祭りに使われました。 この頃は、人がなくなると海岸の砂浜に板石を組み合わせた棺や、土器を組み合わせた棺に葬りました。 (初期の墓は砂浜に埋葬した) そして次第に高い丘の上にも墓地を作るようになりました。 (次第に丘の上に移った。) (すると、土井ヶ浜は初期段階の墓だ) 農業が軌道に乗り、人口が増え、ムラが大きくなると水田も広がり、時には近くの村との争いも起こりました。 争いの中で、いくつもの村が政治的にひとつにまとまっていきました。 |
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41弥生文化と弥生土器 |
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42海からの文化 数千年もの昔から、海を隔てた朝鮮半島や中国大陸との交流がありました。暮らしに使う優れた道具や習慣は、各地に伝えられました。 そのあかしとして残された多くの文化財は、長い年月の間に地中に埋もれ、今、私たちの前に姿を現してきました。 |
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43パネル |
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44交易品 大陸から日本へ |
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44a日本から大陸へ |
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45土笛・陶塤 中国の殷 (紀元前17c-11c) の時代に使われ始め、数千年の時を隔てて綾羅木郷に伝えられた土の笛(陶塤)は、 豊浦郡菊川町、豊浦町、福岡県宗像市、島根県米子市、京都府京丹後市(丹後半島)などの地域で見つかっており、 当時から日本海沿岸の人々との行き来があったと考えられます。 |
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46銅製品 蓋弓帽の飾り 中国前漢(紀元前200年頃)の貴人が乗る馬車に付けた傘の飾り。 下関にやってきた半島人の王族はこのようなものまで持ち込んで自らを貴人たらしめたのか。 しかし、当時、これを馬に引かせて旅ができるほど国内幹道は整備されておらず、散歩程度で使用か。 蓋弓帽と連弧文銘帯鏡 稗田地蔵堂の丘の上に作られた墓の中から、棺の中に葬られた人の両側に1本ずつ置かれた蓋弓帽と、連弧文銘帯鏡が一枚発見された。 連弧文銘帯鏡には、中国の詩人屈原が作った詩が鋳込まれている。 多紐細文鏡と細形銅剣 梶栗浜の波打ち際に設けられた弥生人の墓の一つに、朝鮮半島で作られた青銅製の多紐細文鏡が供えられていました。 |
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50弥生時代 |
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51朝鮮系無文土器 朝鮮半島で作られたものと同じ形態のものが、北九州北部から関西にかけての遺跡から見つかっています。 綾羅木郷で使われたタコの土器も、そうした形を真似て作ったものです。 っていうか、やってきた朝鮮人たちが作ったのだから、べつに真似なくても、同じ形になりますよ。普段使いの土器でしょ。 |
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52弥生時代の暮らしと弥生土器 |
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53弥生土器 弥生時代になると、壺が作られ始めます。壺は、食べ物や稲モミ、あるいは飲み物などを入れたと考えられます。 煮炊きには、縄文時代から使われている甕や鉢、このほか壺や甕の蓋、お祭りやお祝いに使った高坏やミニチュア土器なども使われました。 綾羅木郷遺跡では、土器の形の変化から4時期(Ⅰ~Ⅳ式)に分けられます。 |
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60年表 |
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61パネル
朝鮮半島の環濠集落 縄文時代後期から、既に朝鮮半島では環濠集落が発達していた。 大陸・半島は戦乱の時代、戦国時代だったのだ。 乱世の半島を脱出した渡来人は、列島に活路を見出そうとやってきた。 しかし、列島の農業生産が軌道に乗ると、武力集団や、強盗集団。人殺し集団などが、追いかけてきた。 水争い、土地争いなどと言われるが、私は、生産せずに農産物を略奪・強奪して、定期航路で半島に売って富を得る者や、 逃散した、逃亡農奴や、ならず者。不作で収穫かなかった農奴や領主など、食い詰め者が、、日常的に集落を襲っていたのに違いない。 映画「七人の侍」の世界である。 伊賀・甲賀の忍者はもともと、隣村を夜襲するドロボー農民の発達したものだと聞いたことがある。 それがやがて、より多くの収穫を求める領主が武装化し、他の領主の土地を攻撃して略奪したり、農奴を奴隷化したり。 こんな動きは一旦始まると、行き着くところまで行き着かなければ、おさまらない。戦国時代である。 徳川家康のように天下を納めたのが大和朝廷であり、巨大勢力になると、何もしなくても、向こうから平身低頭して配下になった。 こうして、大陸から始まった戦国時代は、弥生時代の列島にも拡大し、大和朝廷を生み出すことによって終結した。 次の古墳時代とは、大和朝廷が国内支配を進めるための巧妙な政治体制や制度の確立と、その実行の時代であった。 と、考える。 |
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62年表2 |
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70弥生のくらし |
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71模型
春の暮らし 田作り、モミまき 綾羅木の丘に沿ったぬかるみを耕して水田を作り、モミ(稲籾)をまいています。 スキやクワは、刃まで木でできています。海岸は、潮干狩りや魚とりでにぎわっています。 夏の暮らし 地引網漁 水田では草取りをして稲が実るのを待ちます。 海岸では、大勢で網を引いて魚を獲っています。時には浅瀬に乗り上げた鯨も捕まえました。 ヤマモモやモモなど果物を採ることも大切な仕事です。 秋の暮らし 稲の収穫 待ちに待った稲の収穫です。 石で作った小さな刃物で、茎から切り取ります。 モミ(稲の実)を入れた土器は、地面に掘った深い穴に入れ、大切に保存し、食べる分を杵と臼を使って脱穀します。 ※現代は豊かになり、常食としてコメを食べているが、つい最近までは、麦が主食だった。その前は雑穀。 この時代も江戸時代と同じで、米は換金作物として売られ、一般庶民は雑穀を食べていたと解釈すべきでしょう。 稲作が軌道に乗った弥生時代から古墳時代にかけて、首長が権力を持ったのは、米交易による富の蓄積である。米は主食ではなかった。 冬の暮らし 狩りの季節になりました。男たちは冬の食べ物を蓄えるために、弓矢を使ってイノシシ狩りに出かけます。 家の中では炉で火を焚いて、機を使って布を織っています。 |
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73弥生の道具1
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73弥生の道具2
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73織物の付いた土器 |
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75石斧 |
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76石斧・石器 |
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77弥生人の食べ物 |
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79呪術 呪術用の人形は、縄文時代と違った使われ方をしたんでしょうか。
※土で作った人形 綾羅木郷遺跡の貯蔵穴から発見された人形。(h8.7w4.1)土を焼成してあります。 タマキ貝を使って入れ墨状の線を刻む。 3世紀の魏志倭人伝に「倭人は顔に入れ墨をする」と書いてあり、各地の弥生遺跡から、頬から額にかけて線を刻んだ顔の絵が見つかっています。 ※顔への入れ墨は、農奴や奴隷など低い身分の者が、逃げてもすぐにわかるためにか、(これは"奴"の入れ墨だったか) シャマンのような、苦痛に耐えねばならない、あるいは殺されることを覚悟の特殊な身分の者ではないだろうか。 しかし、奴隷の彫像を作る、物好きはいない。やはり、シャマンでしょう。祈祷が成立・成就しなければ殺されたから。 |
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80下関、発掘報告展 |
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82弥生時代の土笛 ・出土遺跡:綾羅木郷台地遺跡 大溝/幅5m以上、深さ約2m 大きさ:最大長7㎝/最大幅4.6㎝/口径最大2.4㎝ ・全国で、出土数27遺跡115例を確認。完形は17例 ・綾羅木遺跡では全国で初めて土笛が検出されました。 |
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91土笛 弥生時代の土笛 土笛とは、弥生のまつりで奏でられ、粘土で作られた素焼きの楽器である。 今から50年前、弥生時代の土笛は、綾羅木郷遺跡の貯蔵用竪穴から、日本で最初に出土した。 土笛の形や穴の位置が、中国の楽器である陶塤に似ていることから、弥生時代に大陸から伝わったともいわれている。 複数で出土する場合が多く、貯蔵用竪穴・土坑・溝で発見されることが多い。 ※貯蔵穴に土笛を埋納するって、何かの信仰か、まじないでしょうか。 土笛の大きさ 日本で出土した土笛は、現在100個を超えている。大きさは様々だが6~8㎝のものが多い。最大12.9㎝、最少3.6㎝である。 形状は卵形で、底部がやや尖っているものと、丸いものがある。正面に4孔。反対面に2孔が一般的である。 大きさの違いは音程の高低差を意識して作ったと考えられている。 ※しかし、大きな吹き口は、音の吹鳴を困難にしている。もしかして、ネズミ除けのまじないでは?(笑) 土笛の分布 九州北部の玄界灘沿岸から丹後半島までの日本海沿岸地域から多数出土しています。 綾羅木遺跡から6点出土したほか、島根県西川津遺跡とタテチョウ遺跡で全体の半数以上を占めている。 土笛は、日本海沿岸を西から東へと伝わり、弥生時代前期から中期の初め頃までの短期間に使用された。 |
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90遺跡発掘再現展示 |
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92綾羅木郷遺跡 貯蔵穴 発掘状況復元展示 弥生時代アラカルト 弥生時代 (2300~1700年ほど前) は、既に大陸から伝わっていた稲作が広まり、新たに金属器も伝わって、暮らしの様子が大きく変化しました。 稲作や金属器の利用によって、暮らしの技術は進歩しましたが、一方では人々の間に貧富の差が生まれ、戦争が始まり、権力を持つ人が 現れました。 ※かつて、破壊に抵抗した発掘員の学生たちは機動隊に殴り倒され、逮捕されてきました。 そして、間髪を入れずに何十もの古墳がプルドウザーで瞬時に破壊されました。 そのような犠牲の上に、高松塚の発見があったのです。 高松塚発見以降は、国の態度は手のひらを返し、逆転遺跡保護に走った。 それまでに破壊された遺跡には、何倍も価値あるものがあったかもしれない。 |
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100屋外復元展示施設 |
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101 |
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102弥生時代の竪穴住居 |
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103古墳時代の竪穴住居 6世紀後半
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104岩谷古墳 6世紀後半 直径13.65m 横穴式石室 葬祭後盛り土をして墳丘を作り上げた。 |
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106若宮3号墳 5世紀 直径8m 円形墳の中に1基の組合式箱式石棺 30代の男性と鉄製直刀、小刀が副葬。 |
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107墳丘墓 弥生中期から若宮1号墳築造までの間に造られた。 弥生時代前期(2100年前)に使われていた貯水用の竪穴が埋まった後に、周りを削って整地し、盛り土したものです。 頂上には5つの墓が重なり合って造られています。これ等は土壙に遺体を納めたものと、組合式箱式石棺とがあります。 |
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108若宮2号墳 6世紀後半 直径6.4m高さ0.8m周濠の幅1.5m |