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  西日本の縄文 36    2016.07.29-1

    下関市立考古博物館   山口県下関市綾羅木454   083-254-3061 月曜休館 撮影可 

  交通  レンタカー

  見所  山口県で最大の考古学博物館です。 弥生から古墳期の展示が中心です。

  注意  展示方法は、タイムスロープを下りながら、古墳時代から弥生時代に遡ります。



次 

10入口展示
11ポスター
12絵画
13ディスプレイ

20古墳時代
21
22馬具
23
23a
24
25埴輪
26副葬品
27パネル
28
29
 

40弥生時代
41
42海からの文化
43パネル
45土笛
46銅鏡
50弥生土器 
51朝鮮系無文土器
52弥生時代の暮らしと弥生土器
53
60年表
61パネル
 朝鮮半島の環濠集落
62

70弥生のくらし
71パネル
73道具
73道具2
73道具3
75道具2
76
77
79呪術

80下関の発掘報告展
82土笛
83奇兵隊
84綾羅木台地遺跡
86重武屋式遺跡

 

90遺跡発掘再現展示
98土笛


100屋外復元施設
101
102
103
104
105
106
107
108


 10入口展示 

  11ポスター 館が開催してきた企画展です。 順に過去にさかのぼる形で貼られています。 とても興味深い企画展行われています。

綾羅木郷遺跡とその時代
青銅器と弥生人のまつり
弥生時代から古墳時代の建物
大和王権と地方豪族
弥生時代の拠点集落-その機能と構造-
もったいないの考古学-資源利用の知恵と工夫-
古墳時代の木器
木の文化-ハレとケの世界-
古墳時代の金・金銅製装飾品
一衣帯水の世界    
   古の日韓交流
定住の始まり-一万年前の社会-
玉つくり-原石に輝きを求めて-
瀬戸内海を介した交流-弥生時代の北部九州と四国-
弥生時代-日本海地域の交流-
倭人、文字と出会う   

弥生の装い-アクセサリーとその呪術性-
下関の弥生時代     

甦る下関の歴史-吉母浜遺跡-
下関市立考古博物館開館

  12絵画 大陸との交易船を描いた絵画から下関の置かれた位置と過去がわかります。

・馬関戦争絵図   
・上上官第三船団図
   長府毛利家御座舟

絵本金地着色安徳天皇絵
壇ノ浦合戦
中央公論社版 日本の絵巻15「東征伝絵巻」   ・青磁椀
  ・緑釉陶器水差し
  ・白磁椀
脚注なし 弥生の水稲稲作と戦乱のようです
土笛 この館のテーマの一つでもある


  13タイム・スロープのディスプレイ
土笛を吹く少年少女がバブルの上に乗っている 弥生時代の展示が垣間見える 特別ケースに入った貴重品が並んでいる こっちは少女。きっと土笛の音楽が流れていてそれを演奏している設定かな




 20古墳時代
     多くの村をまとめた人は、次第に権力を持つようになりました。 
     有力者が死ぬと、遠くからも村人たちが集められ、土を盛り上げた人工の大きな墓(古墳)が作られました。

     墓には、上から見た形が円形や方形、円形と台形を組み合わせた、前方後円と呼ばれる形があります。
     中でも前方後円墳には、最も強かった有力者が葬られたと考えられます。

     墓の中には、埋葬された人が日頃身体につけて使っていた飾り、権力を表す武器、食べ物を供えたほか、        
     粘土を焼いて作った埴輪(筒形、動物、人物など)を古墳の上に立てることもありました。

  下関と周辺の前方後円墳 ―下関の古墳時代―
     4世紀になると政治的にもいよいよ大きな力を持つ有力者が現れました。

     そしてこの有力者が死ぬと、丘の上などに人工の丘の墓を作りました。お墓の中で特に立派なものは、上から見下ろすと瓢箪形で、
     前方後円墳と呼んでいます。

     前方後円墳に埋められた棺の作り方は、響灘の弥生時代の伝統を残しながら、近畿地方の影響を受けました。
     下関市の周りにある前方後円墳の分布から、その頃の有力な集団の位置や範囲を考えることもできます。


   21下関と周辺の前方後円墳
下関の大型前方後円墳 古墳時代 下関と周辺の前方後円墳 ―下関の古墳時代― 響灘周辺 仁馬山古墳/宮山古墳
観音崎古墳/若宮1号墳

  22馬具
馬具の副葬 馬具の名称 轡/兵庫鎖/絞具/鉄地金銅張辻金具 兵庫鎖/絞具/鉄地金銅張辻金具 装身具類
空玉/丸玉/青銅環 耳環/銀製耳飾り/
才川古墳出土
帯金具/秋根2号墳

  23武器・装飾品 秋根2号墳
武器・装飾品 切子玉/水晶製
勾玉(メノウ製)
耳環
鉄鏃/小玉(ガラス) 鍔/刀子

  23a弥生土器
須恵器の大甕
須恵器の大甕の出土状況 岩谷古墳模型円墳/全長13.6m 岩谷古墳石室横穴式石室

  24綾羅木郷若宮1号墳
若宮1号墳模型(前方後円墳)1/20L=39.7m
埋葬形式 箱式石棺

全長39.7m
副葬品
管玉(碧玉)
勾玉(翡翠)

六鈴鏡/上の山古墳

管玉緑色凝灰岩/小玉ガラス/吉見上越石棺

獣形鏡/勾玉(ガラス製)/吉見上越石棺

勾玉/上の山古墳

管玉/碧玉製

三輪玉/刀の握りに付けた飾り

小環付釧/上の山古墳

鈴付釧/腕輪/上の山古墳

  25埴輪

壺形埴輪/円筒埴輪
綾羅木郷若宮1号墳

円筒埴輪/5世紀中頃
大阪府野中古墳

壺形埴輪/5世紀初頭
福岡県老司古墳


  26副葬品
   27パネル

   変わっていった古墳 ―下関の古墳時代― 
     綾羅木や安岡、幡生の丘の上の前方後円墳は、4世紀から6世紀にかけて造られました。

     5世紀になると、朝鮮半島の土木技術が伝わって、墓の部屋(石室)も、その前につくりつけた通路も壁から天井まで、
     石で築きました(横穴式石室)。

     通路の入り口をふさいだ石をはずすと、何回でも墓に使うことができるようになりました。
     石室の中には、武器や飾りのほか亡くなった人が使う食器などが供えられました。

古墳時代の下関と古墳の副葬品 綾羅木平野の古墳 変わっていった古墳 仁馬山古墳4c-5c 古墳時代初頭の前方後円(方)墳の比較
若宮1号墳5c中 箱式石棺墓に追葬 岩谷古墳6c末 先に横穴式石室を作り葬送儀礼の後土盛りして円墳にした

 古墳時代の土器
   28副葬品
杯・提瓶・壺・甕
杯・杯
平瓶・壺・提瓶・壺
高坏・平瓶
竃(カマド)・壺・台付鉢
カマドの副葬には地域的流行があるようです。
ここではカマドの副葬例は僅かだった。が、畿内では膨大な量にのぼる。
須恵器(壺) 土師器(杯) 土師器の注口と器台
土師器の台付皿
土師器の甕 土師器の甕 土師器の甕
甕の形状の違いは用途の違い
土師器 壺

   29ミニチュア道具など
滑石製ミニチュアの
有孔円盤・小玉
剣形/滑石製ミニチュア 手づくね土器 鉄鏃・骨鏃 鉄鎌
三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡は
 フチが三角断面の、神様とけだものをデザインした鏡です。

 中国魏の年号を鋳込んであり、3世紀前半頃に
邪馬台国の卑弥呼に下賜されたものである。
 
三角縁神獣鏡は、
近年、中国でも発見され、中国鏡であることがわかりました。


 40弥生時代
     西暦紀元前4世紀頃になり、日本で稲やアワ、キビなどの穀物を作ることが人々の暮らしの基本になりました。

     収穫した穀物・木の実などを土器などに入れて蓄えるために、地面に深い穴を掘り、くら (貯蔵用竪穴) として使いました。
     砥石で石を磨き、鋭い刃を付けた斧、短剣や矢尻をはじめ、朝鮮半島で使われていた道具を作り、機織りで衣類も作り始めました。

     また、朝鮮半島や中国で作った青銅の剣や鏡のほか、鉄で作った道具も輸入され、毎日の暮らしやお祭りに使われました。

     この頃は、人がなくなると海岸の砂浜に板石を組み合わせた棺や、土器を組み合わせた棺に葬りました。
     (初期の墓は砂浜に埋葬した)
     そして次第に高い丘の上にも墓地を作るようになりました。
     (次第に丘の上に移った。)
     (すると、土井ヶ浜は初期段階の墓だ)

     農業が軌道に乗り、人口が増え、ムラが大きくなると水田も広がり、時には近くの村との争いも起こりました。 
     争いの中で、いくつもの村が政治的にひとつにまとまっていきました。

  41弥生文化と弥生土
弥生時代 綾羅木郷遺跡出土 胴部への貝殻文の精緻な施文。 木の葉文です。 頸部及び口縁への丁寧な施文。赤く塗った祭祀用土器 二重口縁は
土器棺です。



  42海からの文化
     数千年もの昔から、海を隔てた朝鮮半島や中国大陸との交流がありました。暮らしに使う優れた道具や習慣は、各地に伝えられました。
     そのあかしとして残された多くの文化財は、長い年月の間に地中に埋もれ、今、私たちの前に姿を現してきました。
   43パネル
海からの文化 大陸から日本へ
金製垂飾(慶州) 
金製垂飾(奈良県)
三葉文環頭大刀(慶尚北道)
三葉文環頭大刀(愛媛県)
ガラス製璧(中国長紗)

ガラス製璧(福岡県)
漆鞘銅剣(慶尚南道)
有柄銅剣(吉野ヶ里)
蛇行状鉄器(慶尚南道)
蛇行状鉄器(福岡県 )
土笛(福岡・鳥取・島根・京都府・慶尚南道)

板状鉄斧(慶尚南道)
板状鉄斧(佐賀県 )
蛇紐銅印-不明
蛇紐金印-雲南省
蛇紐金印-福岡市
日本から大陸へ
小形仿製鏡(慶尚南道・長崎県)
碧玉製鏃(慶尚南道・奈良県)
巴形銅器(慶尚南道・大阪府)
弥生土器壺(慶尚南道・長崎県)

    44交易品 大陸から日本へ

金製垂飾(慶州) 
金製垂飾(奈良県)

三葉文環頭大刀    
     (慶尚北道)
三葉文環頭大刀(愛媛県)
ガラス製璧(中国長紗)
ガラス製璧(福岡県  )

漆鞘銅剣(慶尚南道)
有柄銅剣(吉野ヶ里)
蛇行状鉄器(慶尚南道)
蛇行状鉄器(福岡県  )
土笛(福岡・鳥取)

土笛(島根・京都府・慶尚南道)
板状鉄斧(慶尚南道)
板状鉄斧(佐賀県 )
蛇紐銅印-不明  
蛇紐金印-雲南省
蛇紐金印-福岡市

   44a日本から大陸へ

小形仿製鏡(慶尚南道・長崎県)
碧玉製鏃(慶尚南道・奈良県) 巴形銅器(慶尚南道・大阪府) 弥生土器壺(慶尚南道・長崎県)



 45土笛・陶塤
  中国の殷 (紀元前17c-11c) の時代に使われ始め、数千年の時を隔てて綾羅木郷に伝えられた土の笛(陶塤)は、

  豊浦郡菊川町、豊浦町、福岡県宗像市、島根県米子市、京都府京丹後市(丹後半島)などの地域で見つかっており、

  当時から日本海沿岸の人々との行き来があったと考えられます。

土笛の展示 土笛の説明 土笛の出土分布図 目久美遺跡(米子市)
光岡長尾遺跡(宗像市)
綾羅木郷遺跡(下関市)

扇谷遺跡(京都府峰山町)
タテチョウ遺跡(島根県)

  土笛は 中国の陶塤に似ていることからそのように呼ばれていますが、吹き口にあたる部分が広すぎて、これでは音が出ないでしょう。


 46銅製品

 蓋弓帽の飾り
   中国前漢(紀元前200年頃)の貴人が乗る馬車に付けた傘の飾り。

   下関にやってきた半島人の王族はこのようなものまで持ち込んで自らを貴人たらしめたのか。
   しかし、当時、これを馬に引かせて旅ができるほど国内幹道は整備されておらず、散歩程度で使用か。

 蓋弓帽と連弧文銘帯鏡
   稗田地蔵堂の丘の上に作られた墓の中から、棺の中に葬られた人の両側に1本ずつ置かれた蓋弓帽と、連弧文銘帯鏡が一枚発見された。

   連弧文銘帯鏡には、中国の詩人屈原が作った詩が鋳込まれている。

   多紐細文鏡と細形銅剣
   梶栗浜の波打ち際に設けられた弥生人の墓の一つに、朝鮮半島で作られた青銅製の多紐細文鏡が供えられていました。 

蓋弓帽の飾り 連弧文銘帯鏡 蓋弓帽の出土分布図 細形銅剣/多紐細文鏡
梶栗浜遺跡
多紐細文鏡と細形銅剣の出土分布



 50弥生時代 

  51朝鮮系無文土器  
     朝鮮半島で作られたものと同じ形態のものが、北九州北部から関西にかけての遺跡から見つかっています。
     綾羅木郷で使われたタコの土器も、そうした形を真似て作ったものです。

     っていうか、やってきた朝鮮人たちが作ったのだから、べつに真似なくても、同じ形になりますよ。普段使いの土器でしょ。

朝鮮系無文土器綾羅木郷出土 朝鮮系無文土器佐賀県土生遺跡出土   形は弥生式土器ですが、表面を磨いて仕上げた後に、黒色に焼き上げることや、
胴部の牛角把手(ぎゅうかくとって)に、朝鮮の無文土器の影響が見られます。



  52弥生時代の暮らしと弥生土器

   53弥生土器
      弥生時代になると、壺が作られ始めます。壺は、食べ物や稲モミ、あるいは飲み物などを入れたと考えられます。
      煮炊きには、縄文時代から使われている甕や鉢、このほか壺や甕の蓋、お祭りやお祝いに使った高坏やミニチュア土器なども使われました。

      綾羅木郷遺跡では、土器の形の変化から4時期(Ⅰ~Ⅳ式)に分けられます。
弥生時代の暮らしと
弥生土器
土器全景 木葉文 木葉文北部九州~伊勢湾沿岸の弥生土器の模様。貝殻で描く 貝殻のふちをかすかに押し当てて描く。名人芸です。 竹の小枝で線を引き、突いて刺突文を付ける
弥生土器の種類と用途 弥生土器 鋸歯文 有軸羽状文
皮袋形土器/祭祀具  脚注を付けずに土器を山積み。

 展示目的がわからず撮影しづらい。何を撮る?


  60年表
   61パネル
縄文時代 弥生時代 縄文 草創期~前期 縄文 中期~晩期 弥生 前期~中期 弥生 中期~後期 古墳 前期・後期

  朝鮮半島の環濠集落

    縄文時代後期から、既に朝鮮半島では環濠集落が発達していた。 大陸・半島は戦乱の時代、戦国時代だったのだ。

    乱世の半島を脱出した渡来人は、列島に活路を見出そうとやってきた。
    しかし、列島の農業生産が軌道に乗ると、武力集団や、強盗集団。人殺し集団などが、追いかけてきた。

    水争い、土地争いなどと言われるが、私は、生産せずに農産物を略奪・強奪して、定期航路で半島に売って富を得る者や、
    逃散した、逃亡農奴や、ならず者。不作で収穫かなかった農奴や領主など、食い詰め者が、、日常的に集落を襲っていたのに違いない。

    映画「七人の侍」の世界である。 伊賀・甲賀の忍者はもともと、隣村を夜襲するドロボー農民の発達したものだと聞いたことがある。
    それがやがて、より多くの収穫を求める領主が武装化し、他の領主の土地を攻撃して略奪したり、農奴を奴隷化したり。

    こんな動きは一旦始まると、行き着くところまで行き着かなければ、おさまらない。戦国時代である。
    徳川家康のように天下を納めたのが大和朝廷であり、巨大勢力になると、何もしなくても、向こうから平身低頭して配下になった。

    こうして、大陸から始まった戦国時代は、弥生時代の列島にも拡大し、大和朝廷を生み出すことによって終結した。

    次の古墳時代とは、大和朝廷が国内支配を進めるための巧妙な政治体制や制度の確立と、その実行の時代であった。 と、考える。


   62年表2
縄文 草創期~後期 縄文中期~弥生前期 弥生前期~後期 古墳時代前・後期 古墳時代前・後期


 70弥生のくらし

  71模型
綾羅木郷の模型 ムラの暮らし環濠の整備。半島でも行っていたいたことである。慣れたものである。 漁業の想像図魚道に直角に網を張り、雑魚を一網打尽にする。時には群れが入るかもしれない。 海水や砂底の状態がとても見事に再現されている。 弥生の道具 春の農作業
夏の地引網って 秋の取入れ 冬の暮らし

 春の暮らし
   田作り、モミまき  綾羅木の丘に沿ったぬかるみを耕して水田を作り、モミ(稲籾)をまいています。
   スキやクワは、刃まで木でできています。海岸は、潮干狩りや魚とりでにぎわっています。

 夏の暮らし
   地引網漁
   水田では草取りをして稲が実るのを待ちます。
   海岸では、大勢で網を引いて魚を獲っています。時には浅瀬に乗り上げた鯨も捕まえました。
   ヤマモモやモモなど果物を採ることも大切な仕事です。

 秋の暮らし
   稲の収穫
   待ちに待った稲の収穫です。 石で作った小さな刃物で、茎から切り取ります。
   モミ(稲の実)を入れた土器は、地面に掘った深い穴に入れ、大切に保存し、食べる分を杵と臼を使って脱穀します。

   ※現代は豊かになり、常食としてコメを食べているが、つい最近までは、麦が主食だった。その前は雑穀。
   この時代も江戸時代と同じで、米は換金作物として売られ、一般庶民は雑穀を食べていたと解釈すべきでしょう。

   稲作が軌道に乗った弥生時代から古墳時代にかけて、首長が権力を持ったのは、米交易による富の蓄積である。米は主食ではなかった。

 冬の暮らし
   狩りの季節になりました。男たちは冬の食べ物を蓄えるために、弓矢を使ってイノシシ狩りに出かけます。
   家の中では炉で火を焚いて、機を使って布を織っています。



  73弥生の道具1
弥生の道具 弥生の石器
打製石鏃・黒曜石製も

磨製石鏃・石戈(祭祀具)

土弾・ヘラ
紡錘車・骨針・カニの爪・ウニの棘
土製円板・有孔円盤
石剣
祭器・武器

土錘・ヤス・アワビおこし
勾玉類・貝小玉・管玉 翡翠製勾玉
アマゾナイト製勾玉
貝小玉・管玉 アワビおこし
があるということは、海女の集団も来ていた証拠。

 済州島からやってきたのかな。
土弾は
紐を付けて投げるとある。
 紐の両端に土弾をくくりつけてぶんぶん振り回し、鳥の群れに投げると絡まって捕獲できる。
 または、武器。
アマゾナイトはパワーストーン。幸福をもたらしますって、迷信しか出てこん。

微斜長石。マイクロクリン
珪酸塩鉱物

   73弥生の道具2
柱状片刃石斧
(伐採用)
扁平片刃石斧
(削器)
  扁平片刃石斧(削器)
  太形石斧
  錐
石板 線刻模様
鉄板(インゴット) 鉇やりがんな 鉄斧 鉄滓
籾痕付土器/炭化米/
石包丁/シイの実/モモの種
籾痕付土器 炭化米 石包丁 シイの実/モモの種

  73織物の付いた土器
麻布の破片が付いた、
赤色に彩色された土器
形状と色彩から
二次葬の土器棺でないか
骨壺を麻布に包んで古墳内にいれたのか



  75石斧

  76石斧・石器
石錘・土錘・アワビおこし
・玉砥石(管玉を研いだ)
・砥石(祭りの道具)   
・砥石(飾り等小さなものを研いだ)
・砥石(石器の刃研ぎ) 
・石製容器(石をくりぬいて作った、火皿か)
・敲石           

・石杵
・蛤刃石斧(両刃・伐採用)
・石鍬(農耕具)

・有肩石器(動物の皮や木の皮を削る)
・クツ型石器(畑を耕す)
・抉入片刃石斧(削り具)

有段石器(動物の皮や木の皮を削る)
・大型石包丁      
大型石包丁 石鎌
  77弥生人の食べ物
アズキ・クリ・ドングリ キビ・アワ・ウメ 米(イネ) アワビ・ハマグリ・サザエ ヤマトシジミ オオアサリ
ウミニナ オキシジミ・タニシ類

  79呪術 呪術用の人形は、縄文時代と違った使われ方をしたんでしょうか。
分銅形土製品横幅6.9㎝
 岡山市役所遺跡

・分銅形土製品(h21.8㎝)山口県埋文
・土偶(h11.6㎝)香川県大川郡志度町
土で作った人形
下関市 綾羅木郷遺跡
山口県下関市綾羅木郷遺跡
人面土製品鯨面土偶
首を作り、胴体は別の物に付けていた

土で作った人形
(h8.7w4.1)
土で作った人形
入れ墨のある顔を描いた土器(h26.5㎝)
愛知県安城市亀塚遺跡人面文土器
人形土製品
(h6.3)
岡山市百間川兼基遺跡

 土で作った人形
    綾羅木郷遺跡の貯蔵穴から発見された人形。(h8.7w4.1)土を焼成してあります。 タマキ貝を使って入れ墨状の線を刻む。
    3世紀の魏志倭人伝に「倭人は顔に入れ墨をする」と書いてあり、各地の弥生遺跡から、頬から額にかけて線を刻んだ顔の絵が見つかっています。

 ※顔への入れ墨は、農奴や奴隷など低い身分の者が、逃げてもすぐにわかるためにか、(これは"奴"の入れ墨だったか)
   シャマンのような、苦痛に耐えねばならない、あるいは殺されることを覚悟の特殊な身分の者ではないだろうか。

   しかし、奴隷の彫像を作る、物好きはいない。やはり、シャマンでしょう。祈祷が成立・成就しなければ殺されたから。




 80下関、発掘報告展
 82弥生時代の土笛
    ・出土遺跡:綾羅木郷台地遺跡 大溝/幅5m以上、深さ約2m  大きさ:最大長7㎝/最大幅4.6㎝/口径最大2.4㎝
    ・全国で、出土数27遺跡115例を確認。完形は17例
    ・綾羅木遺跡では全国で初めて土笛が検出されました。

下関発掘報告展 下関発掘報告展の
遺跡地図
弥生時代の土笛 土笛

弥生前期
弥生時代前期
綾羅木郷台地遺跡・
庄屋敷地区出土
こんなでかい穴、音は出るんでしょうか。
無理かと思います。
では何でしょう。

  先日、テレビを見ていると、篠竹で作る伝統の笛を作る職人で、演奏家としても有名な人が、笛と土笛を並べて置いていた。
  吹き口はこれより少し小さめでした。
  音は出るようです。
                  2016.12.31記述


91土笛

 弥生時代の土笛
   土笛とは、弥生のまつりで奏でられ、粘土で作られた素焼きの楽器である。
   今から50年前、弥生時代の土笛は、綾羅木郷遺跡の貯蔵用竪穴から、日本で最初に出土した。

   土笛の形や穴の位置が、中国の楽器である陶塤に似ていることから、弥生時代に大陸から伝わったともいわれている。
   複数で出土する場合が多く、貯蔵用竪穴・土坑・溝で発見されることが多い

  ※貯蔵穴に土笛を埋納するって、何かの信仰か、まじないでしょうか。

 土笛の大きさ
   日本で出土した土笛は、現在100個を超えている。大きさは様々だが6~8㎝のものが多い。最大12.9㎝、最少3.6㎝である。

   形状は卵形で、底部がやや尖っているものと、丸いものがある。正面に4孔。反対面に2孔が一般的である。
   大きさの違いは音程の高低差を意識して作ったと考えられている。

  ※しかし、大きな吹き口は、音の吹鳴を困難にしている。もしかして、ネズミ除けのまじないでは?(笑)

 土笛の分布
   九州北部の玄界灘沿岸から丹後半島までの日本海沿岸地域から多数出土しています。
   綾羅木遺跡から6点出土したほか、島根県西川津遺跡とタテチョウ遺跡で全体の半数以上を占めている。

   土笛は、日本海沿岸を西から東へと伝わり、弥生時代前期から中期の初め頃までの短期間に使用された。

弥生時代の土笛 土笛の大きさ 土笛の分布 土笛の吹き方 土笛の吹き方裏の孔を両親指で押さえる。
四つの孔を人差し指中指で押さえる 吹き口に斜めから息を吹き込む 下関市内出土の土笛




 


 90遺跡発掘再現展示

 92綾羅木郷遺跡 貯蔵穴 発掘状況復元展示

 弥生時代アラカルト
   弥生時代 (2300~1700年ほど前) は、既に大陸から伝わっていた稲作が広まり、新たに金属器も伝わって、暮らしの様子が大きく変化しました。
   稲作や金属器の利用によって、暮らしの技術は進歩しましたが、一方では人々の間に貧富の差が生まれ、戦争が始まり、権力を持つ人が
   現れました。

弥生時代アラカルト 貯蔵穴の発掘状況 溝の剥ぎ取り地層 環濠の溝? 
3mもある巨大な貯蔵穴
強盗防止には運搬しにくいのが良かったのか
左にブルドーザーが迫る中の発掘。70-80年代は高松塚古墳が発見されるまでこんな状況だった。発掘の傍から破壊された 発掘と破壊。身を挺して破壊を待ってくれと言う 弥生人が貯蔵している穴を 向こうでって、後世になって研究員が発掘する
傍でブルが破壊しようと待っている。 せめて調査終わるまで待ってくれ。それが精いっぱいの要求。 なんか悲しい時代だったんだ。 立柱には意味はないが、何となく台湾でも日本でも立っている 台湾では、認定された少数民族の数を表している

 かつて、破壊に抵抗した発掘員の学生たちは機動隊に殴り倒され、逮捕されてきました。
  そして、間髪を入れずに何十もの古墳がプルドウザーで瞬時に破壊されました。
  そのような犠牲の上に、高松塚の発見があったのです。

  高松塚発見以降は、国の態度は手のひらを返し、逆転遺跡保護に走った。
  それまでに破壊された遺跡には、何倍も価値あるものがあったかもしれない。





 100屋外復元展示施設
  101
博物館装飾壁 屋外施設案内図 綾羅木遺跡の全体像 屋外施設への入口 屋外施設案内図 
  102弥生時代の竪穴住居
弥生の竪穴住居跡 円形住居
 福岡県行橋市の弥生住居を元に復元しました。 直径8mの円形に一団深く掘り下げ、中央に炉を堀り、壁際には屋根を組むための柱穴8本掘っています。  私にわからないのは、
縄文後・晩期には東北地方から平地式住居・掘立柱建物が広がっていました。

だのに、弥生文化は竪穴住居と言う後進の住居です。
半島人にとっては、竪穴住居の方が住みやすかったのでしょうか。

それとも、知らなかったのでしょうか。平地住居を。


  103古墳時代の竪穴住居 6世紀後半
古墳時代の竪穴住居 竪穴方形住居 大型化用の屋根構造

周囲に壁が立ち上がり、金生遺跡のようです。
作り付けのカマド 外の煙突を見なかったのは残念 綾羅木遺跡西端で発見された。方形竪穴住居。4.5×4.0 北側のほぼ中央の壁際にはカマドを造りつけている。
 かまどの外に煙り出し(煙突)があったと考えられる。

  104岩谷古墳 6世紀後半 直径13.65m 横穴式石室 葬祭後盛り土をして墳丘を作り上げた。

  106若宮3号墳 5世紀 直径8m 円形墳の中に1基の組合式箱式石棺 30代の男性と鉄製直刀、小刀が副葬。
若宮3号墳 組合式箱式石棺 墳丘断面と組合式箱式石棺墓出土状況 円墳 辺りには沢山の墳墓が
この先にも墳墓がありそう 若宮古墳 2号石棺墓組合式箱式石棺 2号石棺墓 これは大きな前方後円墳 四隅突種型墳丘墓のようにカドに登る道が自然にできていました
前方部から3段の後円部を見る 3段の後円部

  107墳丘墓 弥生中期から若宮1号墳築造までの間に造られた。
          弥生時代前期(2100年前)に使われていた貯水用の竪穴が埋まった後に、周りを削って整地し、盛り土したものです。

          頂上には5つの墓が重なり合って造られています。これ等は土壙に遺体を納めたものと、組合式箱式石棺とがあります。

墳丘墓上部に埋葬施設が見えます 遺構及び復元図 石棺の分布状況
墳丘上の5つの埋葬施設 一時期に作られたかのように揃っている

  108若宮2号墳 6世紀後半 直径6.4m高さ0.8m周濠の幅1.5m
調査前の様子 遺構及び復元図 平面図 円墳
 綾羅木郷遺跡は、海岸を見晴らす丘の上に、弥生時代中期から古墳時代にかけて造られた墓地です。
 これ等は弥生前期の集落跡に築かれました。
 前方後円墳の若宮1号墳は5世紀中期の下関一帯を支配した首長の墓と考えられています。
 北側には1号墳以前の重なり合った墓があります。
 1号墳の周囲には6世紀中期の円墳があります。