北部九州の縄文 №39 2020.11.22-1
大分県立埋蔵文化財センター 大分市牧緑町1-61
097-552-0077 月休・撮影可
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交通 |
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JR大分駅→4分→JR牧駅…→徒歩→500m8分 |
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目次
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01県立埋蔵文化財センター
豊の国考古館
10旧石器時代
20旧石器時代の環境と食料資源
30旧石器時代人の暮らし
34県内最古の石器
40日々の生活
41道具の製作
44調理
46祈り
100縄文時代
110縄文人の生活
111竪穴建物と炉
113木の実の利用と貯蔵穴
115縄文時代の埋葬
121縄文人の道具
※考察 草創期の
土器・細石刃・有茎尖頭器
※研究 細石刃核について
124異形石器
130編袋
140縄文土器の世界
150縄文時代の食べ物
153農耕の起源
160縄文時代の石器石材
168アワ圧痕土器 |
200弥生時代
210平野のムラ
215大分を代表する弥生土器
216弥生時代の道具
229石剣の鞘
230高原のムラ
考察 稲作農耕民
234高原部の竪穴建物の特徴
235 花弁型竪穴建物
※考察 二つの住居型式
238肥後からもたらされた土器
240弥生時代のまつり
243青銅器出土遺構
245祭祀土器
※考察 青銅器祭祀の終焉
250祭りに用いられた青銅器
260鉄器
270クニの成立
280邪馬台国と墳丘墓
290弥生時代の祭殿
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400古墳時代
402前方後円墳の出現と展開
406豪族居館
420副葬品
430古墳時代の家族
440鳥舟付器台
450古墳築造の広がり
470横穴墓の世界
500古墳時代集落の展開
510須恵器の生産
530飛鳥・奈平・平安
535終末期古墳
540役所と役人の登場
550大伽藍の出現
560古代の生産
568木棺墓出土品
573末法思想と経塚
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600鎌倉・室町・安土桃山
610大友氏の豊後入部
618中世大友府内町跡出土品
620中世人の葬送
630発掘された中世墓
650中世寺院
660ムラと町
670戦国期の城と館
680豊後府内と臼杵
700江戸時代
710織豊系城郭の展開
730城下町のくらし
750近世墓地の展開
800大分の土器
900豊後大友資料館
911中世都市豊後府内の復元 |
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01県立埋蔵文化財センター
県立埋文収蔵庫
修復センター |
県立埋文センター
豊の国考古館
BVNGO大友資料館 |
豊の国考古館(展示室)
BVNGO大友資料館
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左:大友資料館
右:豊の国考古館 |
豊の国考古館入口 |
由布岳 |
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豊の国考古館
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10旧石器時代
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11
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石器はアフリカ大陸で、約260万年前に初めて作られました。
日本列島では、約4万年前からヒトが住み始めた痕跡が各地に残されています。
そこから縄文時代の始まる1万6千年前までを旧石器時代と呼んでいます。
この時代は気温の低下した氷河期で、北海道は大陸と陸続きとなり、九州は唯一 対馬海峡西水道(対馬の西側の海)で大陸と隔てられた時代です。
この時代の人々は、石器や骨角器・木器を使い、遊動しながら堅果類の採取や狩猟を行っていたと考えられます。 |
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旧石器時代 |
旧石器時代年表
280万~1.7万年前 |
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旧石器時代年表 280万~1.7万年前
約280万年前 |
約20万年前 |
約90,000年前 |
約60,000年前 |
約50,000年前 |
約40,000年前 |
約35,000年前
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約32,000年前
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約30,000年前
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約17,000年前 |
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東アフリカにホモ属(ヒトが現れる) |
アフリカに現生人類ホモサピエンスが現れる |
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ホモサピエンスがアフリカを出て移動を開始する |
アジアにホモサピエンスが現れる |
日本の各地でヒトが生活を開始 |
台形様石器やナイフ形石器などの槍の他に
石斧が使われた |
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鹿児島湾北部で姶良カルデラが噴火し、
日本の広範囲に火山灰を降らせる |
細石刃を装着した槍が使用される |
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12旧石器時代の地層
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20旧石器時代の環境と食料資源
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約2万3千年前の最寒冷期は、世界中で海面が約120mも低下し、ていました。
そのため、寒い環境の中でしたが、人々や動物の行動圏は広がったと考えられます。
当時の大分県は、今の東北から北海道あたりの気候帯であり、植生も現在と大きく違っていました。 |
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21
2万3千年前の東アジア植生図
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旧石器時代は寒冷な氷河期にあたり、西日本の大半は冷温帯落葉広葉樹林と針葉樹林の混交林が広がっていました。
この環境の中で、人々はナウマンゾウ、オオツノジカ、オーロックスなどの大型獣や猪を狩り、
落葉低木のハシバミや針葉樹のカヤの実、チョウセンゴヨウ(松)の実などを採取して、食料としていたと考えられます。 |
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23旧石器時代の本州・四国・九州の代表的な哺乳類
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旧石器時代の日本列島に生息していた動物は、広島県の帝釈観音堂洞窟遺跡、長野県野尻湖立ヶ鼻遺跡など、各地で見つかった化石からわかります。大分県内でも豊後大野市代ノ原でナウマンゾウ、同市宇津尾木川でオオツノジカ、臼杵市神野洞窟では、ニホンムカシジカの化石が見つかっています。これらは旧石器人の貴重な食料でした。 |
旧石器時代の本州・四国・九州の代表的な哺乳類
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旧石器時代の本州・四国・九州の代表的な哺乳類
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げっ歯類
シントウトガリネズミ・ニホンモグラジネズミ
モグラ属・アカネズミ
ニホンムカシハタネズミ・ヤマネ |
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オオツノジカ・ナウマンゾウ
ニホンジカ・ヘラジカ
ニホンムカシジカ |
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ニホンザル・ノウサギ・オオカミ
クズウアナグマ・キサネ・
ツキノワグマ・ニホンムカシジカ |
ヒョウ・ヒグマ・オーロックス |
オオカミ・ニホンジカ・ヘラジカ
ツキノワグマ・ニホンムカシジカ
ヒグマ・オーロックス・ステップバイソン |
旧石器時代の環境と食糧資源
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25古代動物
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ナウマンゾウ脛骨
大分大在沖海底
更新世 |
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ヤベオオツノシカ下顎骨
豊後大野市宇津尾木川
更新世約9万年前
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ナウマンゾウ門歯牙
豊後大野市代ノ原
更新世6~6万年前
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ナウマンゾウ
門歯(牙) |
ナウマンゾウ脛骨
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ヤベオオツノシカ下顎骨
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30旧石器時代人の暮らし
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旧石器人は定住することなく、遊動しながら狩猟最終生活を送っていました。
世界各地の民族誌によれば、旧石器時代同様の生活を送る人々は共通して集団維持のために食料を平等に分配する習慣があります。
しかもこうした社会には権力者がいません。
旧石器時代の遺跡からは権威を示す遺物は見つかっておらず、このことからも旧石器時代は互恵・平等の社会であったことが推定されます。 |
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31
旧石器時代人の暮らし
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旧石器時代の主要遺跡分布図
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1.達磨山南遺跡は姫島である。旧石器時代人は重要な黒曜石産地を発見し、押さえていた。当時は陸続き |
4ヶ所の遺跡集中区はそれなりの便利な場所であったのだろう。 |
この時期は海水面が-120mなので、全ての遺跡が山の中の遺跡となる。 |
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旧石器時代の主要遺跡名
遊動 |
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現在の地球上には、遊動しながら狩猟採集をして暮らす人々がいます。
彼らの生活は、獲物や植物資源を追って季節ごとに離合集散し、遊動を繰り返すことで共通しています。
旧石器時代の人々も一ヵ所に定住するのではなく、狩猟採集を行いながら遊動していたことが遺跡に残された遺物などから推定されます。
※遊動:一年に何回か引越しながら生活すること。 |
住居 |
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この時代の住居がどの様なものであったのかは、よくわかっていません。
遺跡からは、石器の破片が残されているだけで、掘り込みなどが見つかることはまれです。
しかし、石器や石の破片などは直径3m程度に集中していることが多く、
これが住居の範囲を示しているものと考えられます。 |
狩猟 |
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旧石器人は、台形様石器・ナイフ形石器・角錐状石器・有茎剥片尖頭器などの石器を作り、
それに柄を付けて槍とし、狩りをしたと考えられます。
まだ、弓矢は用いていませんでした。
旧石器時代の終り頃になると、動物の角や骨に細石刃という小さな石器を並べて埋め込んだ槍も使うようになりました。
豊後大野市の郡山南遺跡からは動物を捕らえるための陥穴も見つかっています。 |
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33前期旧石器論争
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1960年代になると、前期旧石器時代の遺跡を探す気運が高まりました。
そのきっかけとなったのが、1960年の大分市丹生遺跡と1963年の日の出町速水台遺跡の発掘です。
これらの遺跡からはアフリカやアジアの前期旧石器とよく似た「石器」が出土したことで注目され、それぞれ60万年前や10万年以上前の年代が与えられたことから存否をめぐって激しい論争が展開されました。
現在では、この論争に関わる早水台の資料は偽石器、丹生遺跡の資料は縄文時代草創期(約16,000年前)の石斧と考えられています。 |
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前期旧石器論争 |
偽石器 |
縄文草創期石斧
丹生遺跡 1.6万年前
大分市
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34県内最古の石器 牟礼越遺跡(豊後大野市) 約40,000年前
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牟礼越遺跡から出土した台形様石器と石斧は、これまで県内で見つかったどの石器よりも古い地層から出土しました。
その出土層位と形状から約4万年前の石器と推定されます。
同様な石器が全国的に確認されており、この時期に大陸からホモ・サピエンス(新人)が幅の狭くなっていた海峡を渡って日本列島にやって来たことがわかります。 |
※4万年前の石器は、これまで「沖縄写真通信」に登場した中で、最も古い石器です。
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県内最古の石器
牟礼越遺跡
むれんこしいせき
4万年前 |
台形様石器(槍先)
牟礼越遺跡 4万年前
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石斧
牟礼越遺跡 4万年前
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角錐状石器(槍先)
2.4万年前?
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※「角錐状石器」は 初めてお目にかかりました。しかし、かなり広範囲な地域から出土しているようです。
九州鹿児島から宮崎・大分、広島県、香川県、奈良県香芝市、滋賀県、神奈川県、東京都、茨城県、東北などが見えます。
太平洋側を北上した石器だったのかもしれません。
※「角錐状石器」は
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朝鮮半島のスヤンゲ遺跡から出土しており、約2.5~2.4万年前の姶良カルデラ降灰後の列島へやって来た半島人が、
鹿児島←北部九州→瀬戸内海~東海~関東~東北へと拡散していった様子がわかる石器です。 引用№107
2.4万年前の石器?
まぁ、用途は尖頭器でしょう。 |
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35槍先形尖頭器
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ナイフ形石器
茶屋久保遺跡B地区
豊後大野市
約28,000年前 |
角錐状石器(槍先)
津留遺跡
豊後大野市
約28,000年前 |
有形剥片尖頭器
津留遺跡
豊後大野市
約28,000年前
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角錐状石器(槍先)
茶屋久保遺跡B地区
豊後大野市
約28,000年前 |
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36細石刃
細石刃
細石刃(植刃槍)
宮尾原遺跡
豊後大野市
約17,000年前 |
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細石刃 |
尖らせた鹿角の側面に彫った溝に細石刃を埋め込んでつくった道具で、槍として使われました。 |
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※槍と言われているが、これは突き刺さらない。せいぜい薙刀で、切り傷を追わせる道具ではないかな |
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38旧石器時代想像図
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40日々の生活
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日本列島に到達した人々は、既に今の我々と同じく高度な精神性を有していました。
死者を埋葬したり、儀礼や呪(まじな)いなど精霊に対する祈りを捧げたりしていたのです。
また、石器や料理を作ったり、絵を描いたりする際には完成形を頭の中に描いたうえで、複雑な工程を考えながらそれを形にしていきました。
言葉をしゃべり、歌も歌ったりしていたはずです。このような旧石器人の精神性は、様々な遺物から窺うことが出来ます。 |
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41道具の製作
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人々は石器作りに適した石を原石産地から採ってきたり、交換で手に入れたと考えられます。
大野川流域では祖母傾山系(そぼかたむきさんけい)の流紋岩とホルンフェルスという石が大野川に河床礫として堆積しています。
これらが石器作りの材料として大変重宝されました。集落ではこの石を、他の硬い石や鹿角で打ち割り、道具を作りました。
遺跡に残された石器や破片は、しばしば接合します。そこからは、石器の製作過程や石器集中部分相互の関係がわかります。 |
日々の生活 |
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道具の製作 |
石器石材の運搬方向 |
前田Ⅲ・駒方池迫・駒方古屋の各遺跡へ
岩戸・百枝・津留・東台の各遺跡から
机帳原・庄ノ原の各遺跡へ
一方平Ⅰ・丹生の各遺跡から
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42石器材料の割り取り
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旧石器時代の遺跡を発掘すると、石器製作に際して生じた剥片が多量に出土します。同じ色や同じ岩質の物を集めてパズルのように根気よく組み合わせていくと、稀に元の原石に復元できることがあります。この作業によって旧石器時代の人々の石器製作の工程が復元できます。
※石器ブロックの形成は後期旧石器時代前期のようです。 |
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43石器製作
未成品→完成品
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角錐状石器(槍先)
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有茎剥片尖頭器(槍先)
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ナイフ形石器(槍先)
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未成品
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完成品
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敲石
茶屋久保遺跡群B地区
豊後大野市
約28,000年前
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削器
一方平Ⅰ遺跡
大分市
約28,000年前
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44調理
礫群 |
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茶屋町久保遺跡群B地区(豊後大野市) |
礫器
旧石器時代の遺跡からは焼石のまとまりがしばしば見つかります。
葉に包んだ食材を焼いた石で覆い、蒸し焼きにした施設です。
また遺跡からは台石と敲石が見つかるので、ハシバミやチョウセンゴヨウのような実を潰し、食料としていたことが考えられます。
※大量の焼き石はTV番組で有名な南の島の石蒸し料理 |
礫群 |
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茶屋町久保遺跡群B地区(豊後大野市)
約28,000年前 |
礫群
茶屋久保遺跡群B地区から多くの石器類と共に礫群が14基見つかりました。
礫群は、被熱により赤化した礫で構成されており、民族誌を参考にすると、葉などで包んだ食材を焼けた石で覆い、蒸し焼きにした調理施設と考えられます。
このような礫群は、多くの旧石器時代遺跡で見つかっており、必要不可欠な施設であったことがわかります。
※地表の穴に皮を被せ、四方を止めて水を入れ、焼き石で湯を作ったとも考えられます。 |
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45調理道具
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削器
茶屋久保遺跡群B地区
豊後大野市
約28,000年前 |
台石、敲石
津留遺跡
豊後大野市
約28,000年前
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旧石器時代だからか
磨石ではなく
敲石となっている
のかな |
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46祈り
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コケシ形石製品
(岩偶)
岩戸遺跡(豊後大野)
約28,000年前
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石棒に目と鼻をつけたものか |
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ヴィーナス像 |
マリタ遺跡(ロシア)
約28,000年前 |
マリタ遺跡(ロシア)
約28,000年前 |
上面視 |
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100縄文時代
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縄文時代は今から約16,000~3,000年前までの、1万年以上にわたって続きました。
定住が始まり、、ドングリ・クリなどの木の実や、シカ・イノシシ、魚・貝などを食料とした狩猟採集の時代です。
煮炊きや貯蔵用の土器が作られ、獲物を獲るための弓矢が使われるようになりました。
九州では縄文時代後期後半にはマメや雑穀の栽培も行われていたようです。 |
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縄文時代の東アジア 引用「文化遺産の世界」 コピーライトがなかったので引用させていただきました。
縄文文化と東アジア
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101
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上に記述 |
年表
16,000~3,200年前
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海へ、山へ
進出する縄文人 |
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縄文時代年表 16,000~3,200年前
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草創期 |
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早期 |
鹿児島県上野原で集落が形成 |
鬼界カルデラ噴火(アカホヤ火山灰降下) |
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約6,000年前 |
約5,800年前 |
約5,500年前 |
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前期 |
縄文海進がピークに達する |
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青森県三内丸山遺跡で集落が形成 |
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約5,000年前 |
約4,700年前 |
約4,500年前 |
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中期 |
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新潟県を中心に火炎土器が出現 |
中部高地など東日本で集落が繁栄 |
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約4,000年前 |
約3,600年前 |
約3,200年前 |
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後期 |
磨消縄文土器が使われ始める |
東日本から九州にマメ類の栽培が伝わる |
九州で土偶等祭祀具が盛行 |
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晩期 |
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110縄文人の生活
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縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分します。
全国的に草創期の遺跡が少ない中で、鹿児島県・宮崎県南部では多くの遺跡が確認されており、いち早く定住生活が始まったと考えられます。
その後豊富な食料資源を背景に、前期から中期にかけて東日本では縄文文化が繁栄し、大規模な集落も出現します。
西日本では竪穴建物を伴う集落が一般化するのは後期以降で、後期後半には大規模集や土偶などの祭祀具も出現しますが、
その後、晩期末にかけて遺跡が小規模化します。
マメ類や雑穀の栽培を取り入れたものの、自然環境の影響を受けながら一進一退を繰り返していたことが窺えます。 |
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111竪穴建物と炉
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縄文時代の住まいには洞窟や岩陰も利用されますが、多くは円形ないしは方形に地面を掘って床面とし、柱を建てた竪穴建物と呼ばれるものです。
佐伯市森の木遺跡は草創期(13,000年前頃)の竪穴建物が25棟発見された九州でも最古級の集落です。
この頃の建物には炉がなく、屋外に煙道付炉穴(燻製?を作るための施設)や集石(蒸し焼きをするための調理施設)が作られます。
後期になると床面の中央部に炉をもつ建物が現れます。炉には地面を掘り窪めた地床炉や石囲炉、土器敷炉などのバリエーションがあります。
※草創期の建物に炉がないということは、草創期はまだ寒い時期なのだが、極寒の氷河期に馴化した人々には、気温が急速上昇すると、とても暖かく、または、暑く感じられたのかもしれない。そういえば、何年も前の春、TVの街頭インタビューで、当時のロシアからの女性の団体客がまだ寒い中、半袖で歩いているのをリポーターが寒くないですかというと、日本は暑いからと言っていた。極寒のロシアから春の日本へ来ると気温差が随分あるので、相対的に暑く感じられるのだろう。
鹿児島県霧島市上野原遺跡の竪穴建物跡でも内部に炉跡がないのは同じ理由だったようだし、同じように、外に燻製窯跡があった。
しかし、屋根を葺いた茅や柱などは燻さないと、たちまち虫の食害にあうし、屋根材の腐食が進んで、建て替えの頻度が早まるでしょう。ちょっと変だな。 |
竪穴建物と炉 |
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森の木遺跡全景 |
煙道付炉穴 |
集石
森の木遺跡 |
竪穴建物 |
石囲炉のある竪穴建物
飯田二反田遺跡
はんだにたんだ
宇佐市
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113木の実の利用と貯蔵穴
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縄文時代の主食はドングリやクリ、クルミなどの木の実でした。秋に収穫した木の実は叩き石を使って殻を割り、石皿と磨石で磨り潰して粉にしていました。東日本の遺跡からは炭化したクッキー状の物が発見されています。
杵築市山香町の低湿地にある龍頭遺跡では木の実を水にさらした穴が約60基発見され、中から約400kgものイチイガシ(の実)が出土ました。
ドングリを水漬けにすることでアク抜きや、虫(コクゾウムシ)を殺したり発芽を押さえたりしていたものと考えられます。
※なんでそんな大量の食料を置いたまま人々は消えてしまったんだろうね。浅い谷間にあったそうだから、土砂崩れで埋まったのかな。 |
貯蔵穴断面図
貯蔵方法→
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貯蔵方法
⑤ドングリの上に木の葉や木材で蓋をし、目印の重し石を置く。
④ドングリを入れる
(2回目)
③ドングリの上に木材で蓋をし重しの石を置く
②ドングリを入れる
(1回目)
➀穴底に木の葉を敷く
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狩猟と漁撈
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縄文時代の重要なタンパク源として、鳥獣や魚介類などがあります。
草創期には細石刃や有茎尖頭器(槍)など旧石器時代以来の石器が使われます。
が、やがて動きの早いシカやイノシシに対応出来る弓矢が一般的に使われるようになりました。
また、けもの道に仕掛けた落とし穴に動物を追い込むワナ猟も行われていました。
漁撈具には骨格製の釣針や刺突具、漁網の錘である石錘があります。
また、貝塚から出土する貝殻や動物骨から、人々が食べていた貝や動物の種類がわかります。 |
狩猟と漁撈 |
陥穴
日出町エゴノクチ遺跡
床面に杭を立てた小穴が残っています。
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陥穴
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※一般的に、落し穴の中に逆茂木を立てて、動物を殺したとなっているが、
せっかくの毛皮は穴だらけだし、しょっちゅう見回らないと肉が腐るし他の動物に食われる。しっょ中見回ると人のにおいがして動物は寄ってこない。
それに、両端を尖らせた杭をどうやって打ち込むのかとも思える。
只の杭を立てておくと動物が身動きとれなくなり、名ハンターである縄文人が見回って、一撃で急所を突いて仕留め、持ち帰れば新鮮な食糧となる。
第一、逆茂木だらけの穴の中から安全に獲物を引き上げるのは至難の業だろう。なんて思います。 |
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115縄文時代の埋葬
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縄文時代の墓の多くは地面に穴を掘り遺体を埋葬した土壙墓で、遺体を折り曲げた屈葬が一般的です。
墓は居住区とは異なる場所に作られました。貝塚や洞窟・岩陰や利用されなくなった竪穴建物を墓に利用することもありました。
また、土器を棺に利用した埋甕もあります。棺にされた土器は一部を打ち欠いています。
土器棺での埋葬はほとんどが子供の墓であると考えられています。
こうした墓のあり方は縄文人の「生と死」の考えが映し出されていると考えられます。 |
縄文時代の埋葬 |
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横尾貝塚の埋葬人骨
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原田遺跡(玖珠町)の
埋甕(縄文時代)
甕の上には安山岩の蓋石が被せられていた |
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原田遺跡の埋め甕
甕の上には安山岩の蓋石が被せられていました。 |
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120縄文人の生活
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121縄文人の道具
縄文草創期の土器
縄文土器
森の木遺跡 佐伯市
草創期 約1.3万年前 |
no caption |
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隆起線文土器
目久保第1遺跡
草創期 約1.3万年前 |
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石皿
賀来西遺跡 大分市
後期 約3600年前 |
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122
※考察草創期の土器・細石刃・有茎尖頭器
※九州では豆粒文土器、隆起線文土器,、爪形文土器の順で古く、 隆起線文土器+細石刃 の組み合わせが一般的であるそうだ。しかし、
※四国では隆起線文土器+有茎尖頭器が、同時期に盛行していた。
※ここには、隆起線文土器と細石刃と、有茎尖頭器が展示されており、しかも、大分は四国に近く、どのような組み合わせであったのか、
私にはわかりかねます。
参照文献『
Ⅰ』の「九州北部の細石刃文化」を参照されたい。
また、➀大分の細石刃の型式について、②長崎の細石刃について、③野岳・休場型細石刃核について、④
(上黒岩遺跡) 参照されたい。 |
※研究 細石刃核について
➀細石刃核には二系統あり、
北東日本の楔形細石刃核、シベリア・北海道経由で本州に入ったもの。
南西日本の円錐形・角柱状、中国黄河中下流域から九州を経由したものである。
前者には、湧別技法の白滝型・札滑型・峠下型・蘭越型・忍路子型・幌加型・射的山形・紅葉山型などがある。
これらが東北地方の北半部に拡がり、荒屋型彫器を伴って検出される。
後者には、西北九州に福井型が豆粒文・隆起線文・爪形文土器を伴う。南九州には畦原型細石刃核がある。
野岳(長崎県の遺跡)・休場(静岡県の遺跡)型は九州から中部・関東に拡がっており、円錐形・半円錐形・角柱状の石核を呈す。
また、船野型も東九州の宮崎平野、大野川流域から近畿・中部地方に分布している。 引用細石器 - YouTube
②前出(122)の細石刃は、豊後大野市 市ノ久保遺跡出土であるので、大野川流域の船野型細石刃ということになる。船野型は初期の細石刃核。
船野型細石刃の写真とは形状が似つかないので、野岳→船野→福井が正しいかはわからないが、九州の楔形細石刃である福井型ではないだろうか。
※ネット検索では細石刃核は区別がされてなく、ほとんど何がなんやらわからない。 |
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123
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124異形石器
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石器の中には、一見して用途がわからないものがあります。
ドーナツ形の環状石斧や十字形石器などの特徴的な形態のものや、石鏃に似るものの先端が丸く裾が広がるトロトロ石器、
突起のつく棒状やJ字形など一般的な石器とは形状の異なる異形石器などです。こうした石器がどの様に使われたのか、皆さんも考えてみてください。 |
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不思議な石器 |
トロトロ石器
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異形石器
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異形石器
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十字形石器
神原遺跡
豊後大野市
後期 約3500年前
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環状石斧
森の木遺跡 佐伯市
早期 約8000年前
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石斧・石錘
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126
御物石器
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御物石器という名称はかつてこの石器が皇室に献上されたことに由来します。祭祀具と考えられますが、明確な用途は不明です。
後期後半~晩期にかけて中部地方~北陸地方を中心に分布しますが、九州では類例がなく、どういう背景で持ち込まれたのか興味深い所です。 |
御物石器
田井原遺跡 竹田市 |
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竹田市 田井原遺跡 御物石器 石材 引用Wikipedia
長さ約40cm、幅約13 - 8cm、重さ約5kgの黒色粘板岩製の石器で、縄文時代晩期の地層から出土した。材料の石は付近のものではなく、本州などの他所で作製された石器が持ち込まれたものと推測されている。仮に中心的な出土地である北陸や近畿地方で作製されたものであれば、縄文時代晩期にこれらの地方と九州地方との間に交流があったことを示すものとなる。
※後晩期寒冷期に北陸近畿からこの呪術具を持って大分の山中に移住した人々がいたようだ。意味不明のクソ重たい石器だけが来るわけがない。 |
玦状耳飾
右:かわじ遺跡
由布市
前期 約6000年前
左:岡遺跡
豊後大野市
後期約3,300年前 |
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玉類
尾畑遺跡 宇佐市
後期 約3200年前 |
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小型玉類
岩鼻岩陰遺跡
豊後高田市
晩期 約3100年前 |
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129土器
脚注は当初よりなし |
上菅生B式(弥生早期)
縄文晩期に当たる |
上菅生B式
引用「大分県考古学の諸問題」
上菅生B式は刻目突帯甕出現の前段階に位置づけられよう(第一図−。 この刻目突帯甕は大分郡狭間町の下黒野遺跡において良好な資料が確認されており…
縄文晩期=弥生早期の、刻目突帯文土器出現以前の土器のようです。夜臼式などの近辺 |
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130編袋 龍頭遺跡 杵築市 後期 約3700年前
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ツル植物を編んで作られた袋状の製品です。全体に縦横それぞれ素材を1本ずつ編みこむ交差編みで成形していますが、部分的に編みこむ単位を変えることで、装飾的効果を出していると考えられます。
袋の口には持ち手となる組紐が付きます。貯蔵穴から出土しており、ドングりの運搬に使われたものと考えられます。
※編みガゴにドングリを採集し、カゴのまま水漬け穴にいれて保存し、取り出すときはカゴのまま取り出すためにカゴが貯蔵穴に残った。 |
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140縄文土器の世界
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日本列島における土器の出現は約16,000年前のことです。粘土をこねて火にかけることで丈夫な器が出来るという現象は、人類が最初に利用した化学変化とも言われています。
土器の登場により煮炊きが出来るようになり、利用できる食物が拡大しただけでなく、水や物の貯蔵・運搬、植物繊維や漆の加工も可能になりました。
縄文時代の土器は主に煮炊き用の深鉢と、食物を盛り付ける浅鉢、液体を入れる注口土器からなります。
壺の出現は一部を覗き縄文時代の最終末です。 |
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141
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142縄文土器の編年
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文字資料のない縄文時代では、土器が年代を知る手掛かりとなります。
土器には形や表面に付けられた文様など、作られた時代や地域によってそれぞれ共通する特徴があります。
こうした特徴から年代・地域を示す単位として設定されたのが「土器形式」(○○式と表現されます)です。
そして時代の変化を表す要素を見出し、時系列に並べる作業を編年と言います。 |
縄文土器の編年 |
縄文土器の編年
草創期→晩期の順
左→右の順で新しい |
草創期~前期 |
中期~後期 |
晩期 |
九州の土器編年 |
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143土器形式圏の変化
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土器は形や文様など一定の約束事に従って作られています。
そのため同じような形・文様の土器が分布する範囲は、人やモノの行き来が活発であった範囲と考えられます。
その範囲は時期によって狭くなったり、あるいは広くなったりと変化します。
例えば中期前半では、大分を含む西北九州から近畿地方にかけて、広範囲で共通した土器が使われ、中・南九州とは異なる様相を示します。
逆に前期は型式圏が狭まり、地域色が強く現れた時期だと言えます。 |
土器形式圏の変化 |
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早期
約8000年前
押型文土器
南九州:貝殻文系土器 |
前期
約5300~5000年前
曽畑式土器
東海-中国:北白川下層式
東海-関東:貝殻条痕文系
東北:大木式
北海道: |
中期
約5000~4500年前
船元式
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後期
約4000~3700年前
磨消縄文土器
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晩期
約3000年前
黒色磨研土器 |
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145
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147
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150縄文時代の食べ物 ~海と山のめぐみ~
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縄文人は四季の変化に応じ、様々な方法で食べ物を手に入れていました。
主食となるドングリなどの木の実の採集や、イノシシ・シカなどの動物の狩猟、海や河川での魚の捕獲や貝類の採集に加え、
近年ではマメ類の栽培も行われていたことが分かってきました。
マメ類の栽培が九州に伝わるのは後期後葉ですが、この時期に扁平打製石斧が急増することから、マメ類栽培に使われた道具だと考えられます。
遺跡から発見された多様な食べ物は、縄文人のグルメぶりを伝えています。 |
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151海のめぐみ~貝塚~
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貝塚は当時の人々が貝殻を捨てた場所です。日本の多くは酸性土壌のため骨は溶けて残りませんが、貝塚では貝殻のアルカリ成分で中和され、骨が残されるため、重要な情報源となっています。
大分県では前期から晩期の貝塚が見られますが、特に後期以降貝塚を伴う集落が多くなります。
これらの貝塚は、遠浅海岸が広がる周防灘沿岸のほか、別府湾にも見られます。
大分市横尾貝塚は前期~中期の貝塚で、前期はヤマトシジミ、中期はマガキを主体とします。
貝の他にクロダイやサメ類、カモ、イルカ、イノシシ、シカ、ウサギなどの骨が出土しています。 |
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海の恵み~貝塚~
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縄文時代の主要遺跡分布図 |
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横尾貝塚の貝層
ヤマトシジミ |
貝層下の黄色い土層はアカホヤ火山灰
※7300年前の鬼界カルデラから噴出した火山灰・火砕流
横尾貝塚は鬼界カルデラ噴火後に半島から来た人々の遺跡だった。
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縄文時代の遺跡
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153農耕の起源 後期後半
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大野川流域の火山性台地上では後期後半に遺跡が急増し、大規模な集落も出現します。
竹田市下坂田西遺跡では、約40棟の竪穴建物が確認されています。
この時期の遺跡で特徴的な出土品に扁平打製石斧があり、豆類や雑穀の栽培、球根・ヤマイモなどの収穫に使われた土堀具と考えられています。
また、近年、土器表面の圧痕分析から、後~晩期にはダイズやアズキ、シソ、エゴマなどの栽培植物が存在することが確かめられました。
コメの水田栽培は弥生時代の開始を待たねばなりませんが、こうした雑穀類栽培の知識が稲作の普及につながったとも考えられます。 |
縄文カレンダー
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貝塚や低湿地遺跡から出土した食料資源の分析により、当時の食料獲得の様子が明らかになってきました。
四季のサイクルに応じてとれる食料を選択し、植物・動物資源をバランスよく利用していた様子がうかがえます。 |
土器表面から畑作物を発見
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土器の表面にあいた小さな穴(圧痕)にシリコン樹脂を流し込み、その圧痕が何に由来するかを電子顕微鏡で観察して分析する「レプリカ法」が普及してきました。その結果、後期~晩期の土器から栽培植物や、穀物や木の実をエサとするコクゾウムシなどの昆虫が確認されるようになりました。
発見された圧痕にはダイズ・アズキ等のマメ類、エゴマ・シソ・アワ・キビ等の雑穀や畑作物があります。
今のところ確実なイネの圧痕が確認されるのは弥生時代早期以降です。 |
農耕の起源 |
縄文カレンダー |
縄文カレンダー |
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土器表面から畑作物を発見
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アワ圧痕のある土器
石井入口遺跡(竹田市)
の縄文土器
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石井入口遺跡出土土器のアワ圧痕 |
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155横尾貝塚 大分市 前期~中期
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豊の国考古館
縄文時代の食べ物 |
横尾貝塚出土貝殻
大分市 前期~中期
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ハマグリ
中期 約5000年前
マガキ
前期~中期
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160縄文時代の石器石材
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161主な石器石材産地
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縄文時代の石器は硬くて割れ面の鋭い石材を選んで作っていました。代表的な石材として黒曜石やサヌカイトが有名です。
黒曜石は急速に冷えて固まった天然ガラスで、一般的には黒みを帯びていますが、姫島の黒曜石は乳白色をしており、肉眼でも判別が可能です。
姫島の対岸にある国東市羽田遺跡では、原石や大型の石核など80kgもの黒曜石が出土しており、石材供給の拠点的な遺跡と考えられています。
姫島の黒曜石は九州内だけでなく四国・中国地方や遠く近畿地方にまで運ばれました。 |
石器石材産地
※今回、北海道同様巨大火山を有する九州でも沢山の黒曜石産地があったことがわかった。ただ、品質は姫島・腰岳に劣るようだ。
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163姫島産黒曜石の分布
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165石器石材の標本箱
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リンク先で、地図をクリックすると産出場所が出ます。中には、“島”とあるのに、島嶼ではない産地もあります。 |
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166獣骨 横尾貝塚 大分県 前期~中期
横尾貝塚出土獣骨
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ニホンジカ |
イノシシ
前期~中期 |
シカ肩胛骨
西和田貝塚 宇佐市
後期 約3800年前
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168アワ圧痕土器 石井入口遺跡 竹田市 晩期 約3000年前
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200弥生時代
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朝鮮半島から北部九州に米作りが伝わり、弥生時代が始まりました。
その後、米作りは徐々に東へ進み、前期の終りには東北地方にまで到達しました。
大分では、早期から前期にかけての遺跡は少ないものの、前期末~中期初頭には遺跡が増加し、
平野部で水田耕作を行う大規模な集落が形成されました。
後期には「奴国」や「邪馬台国」などの国々が中国の史書に記されます。
それらの国々の成立には、米作りや青銅器・鉄器などの金属器の使用を含めた大陸からの先進文化の受容が大きく作用していました。
大分の地は、「奴国」などがあった北部九州を通じて、間接的にそれらの文化に触れていたのです。 |
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201
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210平野のムラ
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広い平野一面に稲穂がたなびく光景は、弥生時代にはまだ出現していませんでした。
自然堤防などの微高地と旧河道などが織りなす起伏を利用して、局所的に水田を拓いていったのです。
大分・宇佐・中津・日田・玖珠などの平野部では、前期末になるといくつかの拠点的集落が作られ、数百年間に渡って存続しました。
これらの遺跡にはしばしば集落を守るための溝が巡らされました。 |
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211下郡遺跡群(大分市)の集落変遷図
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下郡の平野部に形成された微高地上には、長期にわたって複数の集落が営まれました。後期になると周囲に溝を巡らせた集落も現れます。
多数の木器などが出土した下郡桑苗遺跡は、住居が建っていた微高地とは異なり、旧河道によって作られた低湿地にあります。 |
下郡桑苗遺跡 (大分市) |
川沿いの低湿地であったため、前期末~中期初頭にかけての木製品が良好な状態で出土しました。 |
諌山遺跡 (中津市) |
犬丸川と山国川には摘まれた台地に広がるこの地域の拠点集落遺跡です。
円形や方形の竪穴建物186基や貯蔵穴、甕棺墓などの墓が確認されました。 (図中、赤で囲んだところが調査した範囲) |
四日市遺跡 (玖珠町)
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玖珠盆地の拠点集落の一つです。
円形や方形の竪穴建物や貯蔵穴、子供用の甕棺が発見されました。
建物内部の土壌からイネやアワなどの雑穀類と木の実などの堅果類が見つかり、当時の人が様々な物を食料としていたことが分かりました。 |
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212植物残渣 四日市遺跡
四日市遺跡の竪穴建物内の土壌から見つかった穀類や堅果類 |
アワ、トチ |
イネ、アズキ、イチイガシ |
ダイズ、モモ |
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214弥生時代の主要遺跡分布図
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215大分を代表する弥生土器
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大分の弥生土器は、前期末に成立する下城式土器、後期に成立する安国寺式土器や粗製甕に代表されます。
特に「く」字状に開くという弥生土器甕の特徴を欠く下城式土器と粗製甕は、縄文土器との繋がりが考えられています。
一方、精緻な波状文を口縁部に施す安国寺式土器は、汎西日本的な複合口縁部化の影響を受けて大分平野で成立したまさに豊後を代表する土器で、古墳時代初頭まで使われ続けました。
この土器は甕の地域性を越えて、国東半島から別府湾沿岸、大分川や大野川流域、海部地域など筑後の影響が強い玖珠・日田地域を除く後の豊後国の領域に広く分布しています。 |
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216弥生時代の石器
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217弥生時代の木器
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諸手鍬
下郡桑苗遺跡 大分
竪杵
下郡桑苗遺跡 大分 |
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220弥生時代の土器 |
221
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甕
森本遺跡 国東市
弥生早期
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壺
一方平Ⅳ遺跡 大分
弥生早期
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甕
下郡桑苗遺跡 大分
弥生前期末~中期
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壺
大在浜遺跡 大分市
弥生前期末~中期 |
高坏
大在浜遺跡 大分
前期末~中期 |
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器台
諌山遺跡 中津市
弥生後期
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鉢
諌山遺跡 中津市
弥生後期 |
甕
諌山遺跡 中津市
弥生後期 |
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225石器・木器
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227食物残渣
豚?の頭蓋骨
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下郡桑苗遺跡から出土したイノシシ類の頭蓋骨は、当時のイノシシと比べて後頭部が高いという特徴を持っていました。それらには
、臼歯の一部に歯槽膿漏の痕跡が確認されたことから、家畜(ブタ)として飼育されていた可能性があると指摘され、弥生時代は欠畜農業であったという従来の考え方に、一石を投じた発見となりました。 |
炭化種子 四日市遺跡 玖珠町 弥生中期
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229石剣の鞘 下郡桑苗遺跡 大分市 弥生前期~中期
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マタタビ属の樹木を用い、内面を楕円形に刳り抜いています。長さ24cmで先に行くに従って僅かに細くなっており、外面にベルト状の装飾を3ヶ所巡らせます。 |
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石剣の鞘 |
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火切臼
下郡桑苗遺跡 大分市
弥生前期~中期
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太型蛤刃石斧と木製柄 下郡桑苗遺跡(大分市) 弥生時代前期末~中期
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太型蛤刃石斧は、樹木の伐採に用いられていた道具です。
朝鮮半島から渡来した大陸系磨製石器のひとつで、刃部を正面から見た形が口を閉じたハマグリの姿に似ているためこの名称が付きました。
柄はアカガシ製で、石斧の装着部下部の前後に深い刻み目が複数入れられています。
このように石斧が柄に装着された状態で出土した例は全国的に珍しく、当時の使用状況を示す遺跡として大変貴重です。 |
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230高原のムラ
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阿蘇山外輪山の東斜面に広がる広大な高原地帯で、大規模な弥生時代の集落遺跡が相次いで見つかりました。
弥生土器の規範を外れた甕形土器や土器組成、石包丁が出土しない代わりに、木の実などを磨り潰すのに使った石皿と磨石が大量に出土する
ことなどから、縄文時代的な伝統社会の存在が考えられていました。
しかし、実際は北部九州からもたらされた青銅鏡や、大分平野と共通する壺形土器などから、決して孤立的な社会ではなく、
畑作を基盤とした豊かな地域社会であったことがうかがえます。 |
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231高原のムラ
鹿道原遺跡
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鹿道原遺跡(豊後大野市)
矢油井時代中期後半から古墳時代前期前半の竪穴建物が288基確認されました。
また、倉庫とみられる多数の掘立柱建物が発見されたことで、当地の集落や社会ののあり方一石を投じることになった遺跡。 |
石井入口遺跡 |
石井入口遺跡(竹田市)
弥生時代中期~古墳時代前期の竪穴建物を97基調査しました。
建物内からは、日本製や中国製、朝鮮半島製の青銅鏡(片)や多数の鉄器類等が出土しています。
大野川上流地域の高原地帯を代表する集落遺跡です。 |
都野原田遺跡 |
都野原田遺跡(竹田市)
大分川上流域に広がる標高600m前後の高原地帯にあります。
弥生時代中期後半から古墳時代中期にかけての竪穴住建物を97基調査しました。
また、居住区に隣接して51基の墓で構成される集団墓地が見つかりました。
居住区と墓域がセットで調査された貴重な遺跡です。 |
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引用「文化遺産の世界」 コピーライトがなかったので引用させていただきました。
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➀弥生時代の信州の雑穀文化人(南)と稲作文化人(北)の対立は全く違う民族がやって来たからだったとわかりました。
そして、畑作農耕民が馬産を行ったのも、遊牧農耕地帯の出身だったからでした。
②稲作農耕民は長江以南の人々で、稲作農耕民で漁民であった人々が陸伝いに列島に来たことがわかります。
初期の稲籾には雑種・雑草が多く混じり、早生、陸稲、中手などが混在したのでしょう。
雑穀文化に近い場所では陸稲種。北方では早生種。などにヒエなどが混じった、雑穀状態だったのでしょう。
③稲の伝播ルートに南西諸島を含めるのは、農耕海洋民が列島伝いに鹿児島に到達し、隼人となるったからでしょう。
山東半島方面は北方種(青森に渡った種)の伝播に、半島ルートは、第二次の稲作民の渡来ルートなのでしょう。
第二次渡来ルートは半島で水田稲作や灌漑の技術が完成し、同時に農産物を巡る争いが発生し、環濠集落や山賊・強盗・海賊などの社会現象を内包した状態の渡来農耕民ではなかったか。彼らは一から開墾することもあったかもしれないが、海岸近くや河口近くのすでに小規模に水田が始まった地域を襲ってなり変わったのではないだろうか。そして、半島で培った進んだ農耕・灌漑技術や社会システムと戦争を持ち込んだのではないか。と想像する。 |
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考察 稲作農耕民
※弥生時代の宮崎県には「山の民」と言われる縄文系の人々がいた。彼らは弥生文化と接触して、影響を受け突帯文土器を使用して縄文的に生きました。その他、東北地方でも弥生時代に生きる縄文文化人の末裔がいました。
※弥生人には水田稲作民と、陸稲稲作民(焼畑)がいました。
どちらも大陸からやって来た人々で、例えば広島県の山中から突如出現した西谷遺跡の四隅突出型墳丘墓の人々はこの
焼畑農耕民ではなかったかと考えられます。このような人々なら弥生文化をもっていながら、しかも山の民であってもおかしくはない。
※2023.08.23追記
稲作農耕民が全て半島から来たのではなく、インドネシア系、チャイニーズ系の海洋民は九州各地で小さな水田を作って稲作農耕をしていた。
その後、このような集落を襲って乗っ取り、自分たちの持ってきた種籾を栽培した半島人が定着したという考えがあり、二種類の形質の稲が発見されるのは、このためだという。(詳細不明、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカではないか)
初期稲作民は専業農民ではなく、海人族であり、半農半漁で生活していたとされる。
確かに、開墾の必要な未開地では、専業農家だけでは決して暮らしていけない。日々自然から食物を得なければ飢え死にする。
菜畑遺跡程度の小さな開墾地を作りながら、一年以内に稲を植え、実るまで半年掛かるので、その間の生活は、狩猟だけではまかなえない。獣たちはすぐにいなくなってしまう。魚業ができれば食い繋ぐことができ、開墾と両立する。菜畑遺跡は環濠集落ではなかった。
板付遺跡は、環濠集落と、灌漑設備の整った大きな水田である。最初から環濠集落の適地を目指して来たのは、襲撃されることを知っていたからだろう。
襲撃されたあとで環濠にすることはできない。その時は集落は全滅している。初めから襲撃対策として環濠を目指していた。
そうでなければ高地性集落になっていただろう。
彼らが水田を襲撃して奪い、住居は環濠が作りやすいところにし、そのために水田開発よりも環濠づくりを主にできたのではないか。
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232粗製甕
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大野川上・中流域では、
弥生時代中期末から少し変わった甕が使われるようになります。
器壁が厚く、外面に刷毛目調整を施さず、櫛状の道具で模様を描いたり、「工」字状に突帯を貼り付けたりする非常に在地色の強い土器です。
古墳時代前期になるとこれらの甕は姿を消し、一般的な薄手でハケ目調整を施す甕が使われるようになります。 |
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「工」字状突帯文
櫛描文 |
※
「工」字文は縄文末期の土器紋様であり、
「櫛描文」はシベリアに起源をもつ半島系の土器文様。
縄文系と北部朝鮮半島系が一緒に暮していたんだろうか? |
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233弥生時代の石器
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石器Ⅱ |
磨製石鏃
石を磨いて作った矢尻
磨石と石皿 (石井入口遺跡・竹田市)
磨石は木の実や雑穀類を磨り潰す道具。
石皿は磨り潰しの台石。 |
磨製石鏃製作過程
古市遺跡(豊後大野) |
荒割り・整形
↓
研磨
↓
仕上がり |
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234高原部の竪穴建物の特徴
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平野部と高原(山間部)の集落とでは、竪穴建物の構造に大きな違いがあります。
中期には、
平野部の集落では、平面円形の建物が主体だったのに対し、
高原部では、中期後半には方形の建物が主体となります。
後期になると、
平野部で徐々に方形建物になりますが、一部で終末近くまで円形建物が残っていました。それに対し、
高原部では一貫して方形基調の建物を造り続けます。そして、柱配置や炉の状況、更には突出部を持つなど、平面プランにも特徴を持っていました。
このことは、粗製甕と共にこの地域の強烈なアイデンティティを示しているといえます。 |
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高原部の建物の特徴
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高原部の建物平面図 |
中山遺跡(竹田市)
15号竪穴建物
6.4×6.8m 6本柱
南側の主柱穴間に炉跡その南側に浅い土坑 |
中山遺跡(竹田市)
17号竪穴建物
8.0×6.6m 9本柱
柱が22本1組で4ヶ所に配され中央部に更に1本柱を持つ |
石井入口遺跡 竹田市
50号竪穴建物
6.3×5.3m 7本柱
柱を片側に3本ずつ配し、中央部に更に1本の柱を持つ |
西園遺跡(竹田市)
5号竪穴建物
6.3×5.7m4本柱
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突出部が3ヶ所見られますが、どの様に使われたかわかっていません。 |
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235 花弁型竪穴建物の分布弥生時代後期
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円形もしくは方形プランの建物内部を複数の突出壁によって間仕切りし、上から見ると花弁形に見えることからこのように呼ばれています。
佐賀県の西寒水四本柳遺跡(にししょうずよんほんやなぎ)で確認された中期初頭の例が最古と考えられています。
中期中葉から古墳時代初頭にかけて、宮崎県、鹿児島県、香川県などにも分布し、大分県では中期後半を中心として舞田原遺跡(まいたばる、豊後大野市)
や鹿道原遺跡(豊後大野市)、都野原田遺跡(竹田市)など大野川中流域や大分川上流域で見つかっています。 |
※考察 九州弥生時代の二つの住居型式
―「松菊里型竪穴建物」と「花弁型竪穴建物」―
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松菊里型は、朝鮮半島松菊里の住居形式で、初期稲作文化と共に弥生時代前期に九州から関東に持ち込まれた住居形態。松菊里文化の沢山の渡来人が九州や関東へ入植したため根付いた文化である。
花弁型竪穴建物は弥生時代後期の住居型式で、南九州を中心に九州各地に分布している。
住居型式は、円形や方形住居に内に向かって小部屋または間仕切りがあるもので、松菊里型住居の変形と考えられている。
南九州特有のものと考えられていましたが、九州各地で見つかるようになりました。九州島を北から南へと下ったのか、南で成立して北へ進出した文化なのか。住居形態というのは、その文化をもった人々が持ち込むものであり、大規模な人の移動があったと推定される。 |
花弁型竪穴建物の分布 |
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花弁型竪穴建物
舞田原遺跡 豊後大野 |
花弁型住居の
西日本の分布 |
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236花弁型住居跡出土遺物
※土器片加工品
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土器の破片を打ち欠いて半月形や円形に整形しています。
割れ面が滑らかになっていることから、皮なめしに用いたという説もあります。
弥生時代後期~古墳時代前期にかけて、特に大野川中流域で多く出土します。 |
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237紡錘車
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弥生時代は、布を織る材料として、主にカラムシ、大麻などの麻類の植物繊維を使いました。
強度のある長い糸を製作するため、紡錘車と呼ばれる土製や石製の円盤の中心に、長い棒を差し込み、
長くつないだ繊維をその棒の先端に装着し、コマのように回転させることで撚りをかけて糸を紡ぎました。 |
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238肥後からもたらされた土器
前棚平置き展示土器
脚付甕 (肥後系)
内河野遺跡 竹田市
弥生後期
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肥後からもたらされた土器
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239後段の土器類
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240弥生時代のまつり
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卑弥呼が「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」と『魏志倭人伝』に記されているように、
国々のリーダーは豊饒を祈る農耕の祭祀や戦勝祈願などの場面で、呪術的な力を発揮していました。
これらのまつりには、鏡や武器形祭器などの青銅器や赤く塗られた土器が用いられました。
墓地では、「祭祀土坑」と呼ぶ葬送で使った土器を埋めた穴が墓のそばから見つかることがあります。
また、集落内からは銅鏡(片)やミニチュア土器、赤彩土器がしばしば見つかります。何らかのまつりで使われたものでしょう。
更に、集落から離れた台地の縁や小さな谷部には、青銅製武器形祭器がまとまって埋められることがあります。いくつかの集落が集まった祀りで使われたものと考えられます。
※墓前祭祀専用の土器は墓地周辺や周溝に打ち捨てます。持ち帰って普段使いにはできません。
しかし、とても高価な青銅器の祭器は祭祀のたびに持ち出して使います。埋納することが祭祀の目的ではありません。
にもかかわらず、山奥に埋められたのは、埋納ではなく、隠蔽・秘匿のためでしょう。
青銅器崇拝がキラキラ輝く金属器を太陽神と誤解したために始まった間違った信仰であることを知っている支配者が、それを禁止し、聖なる祭器を鋳つぶされることを嫌って隠したものでしょう。
それに代わって支配者が要求したのが、支配者崇拝。支配者の墓地への崇拝と信仰。
つまり、価値観の全く違う支配者がやってきて、意味の分からん、むかしピカピカだった青銅器(きっとその頃には緑青が吹いて汚くなっていたでしょう)を拝むことをやめさせ、新しい宗教として支配者崇拝を強制したのでしょう。青銅器は隠された。ただしこれは、弥生時代の終わり頃でしょう。 |
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241筒形器台 四日市遺跡 玖珠町
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器台とは、まつりに用いる供物を入れた器を置く台のことです。
写真のような鍔がついて脚が長く伸びた器台を特に筒形器台と呼びます。
祭りに使う土器は日常で使用する土器と異なり、質の良い粘土を使い、外面が赤く塗られています。
筒型土器が大分で出土することは珍しく、今のところ玖珠・日田地域に限られることから、筑後川を通じて北部九州と共通するまつりが行われていたことが考えられます。
※筒形器台はこの上に何かを置く台ではないか。上部の口径はほとんど同じですから、これにあう何かが置かれたのでしょう。
直接この上で何か(お香などや灯りなど)を燃やした痕跡はなく、全てきれいです。各地出土の筒形器台のてっぺんの形状はほぼ同じ大きさ形状です。
それと、墓地の入り口から出土することが多く、「灯りを灯す皿」のようなものや、「台付甕」のようなものを置いたのではないかと想像します。 |
祭祀土坑 |
祭祀土坑 御幡遺跡(宇佐市)
まつりに用いられた土器の多くは赤く彩色され、まつりでの役目が終わると穴の中に埋められました。
このような穴のことを祭祀土坑と呼んでいます。
前期から中期の墓地でしばしば見つかります。
※とても高価なベンガラを塗った土器をたった一回使用で捨てるのです。権力者の祭祀ですね。 |
銅矛の出土状況 |
銅矛の出土状況 猪野遺跡 大分市
猪野遺跡は、弥生時代中期を中心とした遺跡です。
出土した銅矛は、遺跡の中心部分から谷を隔てた丘陵上で出土しました。
長さ96cm幅30cm深さ15cmの楕円形の穴に刃を立てて埋められていました。まつりの後に埋められたものでしょう。 |
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243大分県内の青銅器出土遺構
大分県内の青銅器出土遺構
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※やはりこの頃は、道などなく、川沿いの踏み分け道が
最大の交易路であったようです。
地図からは、川沿いに文物が流通したことがよくわかりました。 |
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244青銅器
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舶載鏡片(連弧文昭明鏡) 高松遺跡 豊後大野市
前漢時代の中国で作られた鏡で、銘文に「昭明」という文字があります。
縁は広く厚みがあります。貫通していませんが、穴を空けようとした痕跡が認められます。
(復元直径 10.5cm) |
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舶載鏡片(内行花文鏡) 雄城台遺跡(おぎのだい) 大分市
後漢時代の中国で作らけた鏡で、縁は広くその内側に櫛歯文が巡ります。
内区には、内行花文と呼ばれる文様帯があります。
割れ口は滑らかに磨かれ、紐を通すための穴が1ヶ所空けられています。(復元直径0cm)
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舶載鏡(方格規矩鏡) 小園遺跡(竹田市)
後漢時代の中国で作られた鏡で、中央部にT、L、V字形文に加え、四神や十二支などが描かれています。
割れ口は磨かれており、穴が3ヶ所ありますが、そのうち2か所は割れ口に痕跡として残されています。 |
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小形仿製鏡 (内行花文鏡) 後迫遺跡(日田市)
後期後半になると、日本国内でも青銅鏡が製作されるようになります。
しかし、中国に比べ質が劣ります。(直径8cm)
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巴形銅器 雄城台遺跡(大分市)
雄城台遺跡は、大分平野の拠点集落の一つです。建物の側のピット(柱穴)の底から立った状態で出土しました。
大きさは直径5.5cmで、座と呼ばれる半球状の胴部に鉤状(かぎ)に曲げられた脚が6本付いています。
また、脚の裏側には綾杉文様が見られます。 |
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245祭祀土器
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高坏
四日市遺跡 玖珠町
弥生中期 |
脚付鉢
大在浜遺跡 大分市
前期末~中期 |
甕
四日市遺跡 玖珠町
弥生中期 |
脚付鉢
四日市遺跡 玖珠町
弥生中期
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脚付注口土器
四日市遺跡 玖珠町
弥生中期
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長頸壷
北ノ後遺跡 大分市
弥生後期 |
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246
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筒形器台
四日市遺跡 玖珠町
弥生中期
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甕
四日市遺跡 玖珠町
弥生中期 |
壺
後迫遺跡 日田市
弥生後期 |
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247長頸壷
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248
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小型仿製鏡
稙田条里遺跡 大分市
弥生後期 |
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内行花文鏡 国産鏡
岡遺跡 豊後大野
弥生後期
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破棄された鏡片 高松遺跡(豊後大野市)、 小迫辻原遺跡(日田市)、原遺跡(臼杵市) 弥生終末期
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大分県では、後期後葉から古墳時代初頭にかけて、墓や竪穴建物跡から青銅鏡が出土します。
特に注目されるのは、大分平野から大野川流域で多く見られる建物跡からの舶載鏡片、及び完形の国産鏡の出土です。
これらは奴国を中心とした北部九州からもたらされたものと考えられ、彼の地との繋がりを想定出来ます。
しかし、古墳時代初頭までに(青銅鏡が)一斉に破棄されたことは、古墳時代の到来とともに政治的な関係が大きく変動したことをうかがわせます。 |
※考察 なぜ青銅器祭祀が一斉に終わったのか
※これは個人の感想です。
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弥生時代の始まりと社会
1300年続いた弥生時代は、大陸で寒冷化による畑作牧畜民の武装南下によって始まった。
九州へは当初チャイナ系やインドネシア系の海人族が稲穂を携えて半農半漁民としてやって来て筑紫付近てだ農耕を開始した。また、
半島南部漁民の海賊もやって来た。
やがて人々は犇めき合いながら列島沿岸部を開拓して水田を開き、米を作り、やがて(米交易で)冨を蓄え、貧富の差が拡大し、指導者=有力者と農耕民=隷属民の関係が出来上がった。海賊はそのような集落を襲撃して略奪したり、虐殺してなり変わり、定住したりした。
一方、農耕社会には近隣での、土地争い、水争い、穀物の強奪、などの争いが常にあり、
他方、外からの侵略者・海賊・強盗・山賊などといったならず者が集落を襲い、
収穫物・財物・人を奪ったり、殺したり、村ごと奪って居座り、なり変わったり、の無法状態でもあった。 |
弥生の祭祀
農耕社会では祭祀は重要で、収穫への願いと感謝を中心に様々な農耕祭祀が行われた。縄文以来の原始的な祭祀が行われていたが、
弥生中期に青銅器が登場すると、これまでに見たことのない、その太陽の輝きにひれ伏し、信仰するようになった。
この太陽の輝きは、縄文以来の『太陽信仰』であり、おそらく後の『アマテラス信仰』となったのに違いない。当時の『絶対神』だったのだろう。
狩猟・農耕社会では太陽は重要なファクターであり、信仰の対象であった。イギリスでは太陽信仰のためにストーンサークルを、太陽神殿はエジプトでもクスコでも世界中で見られる。
半島では戦争や災害が起こると、多くの難民が列島に押し寄せ、武装集団も押し寄せて、豊かに発展した弥生集落を襲撃して支配し王となる。
ご近所トラブルによる農民の自然発生的な武装力は、大陸や半島での戦乱を経験した武装集団には、装備でも戦法でも戦闘力でもかなわない。弥生の農村はすっかり支配され、武装集団に隷属することになる。村を支配するとやがてもっと多くの富を得るために他の村を襲撃し、戦乱となる。
そして、やがてそれぞれの軍事力が平衡に達するとにらみ合いとなり、緊張状態が支配し、軍事バランスがとれるようになる。
魏書で、ヤマタイの女王と書かれた「卑弥呼」は、ただの巫女であったにもかかわらず30ヶ国余を従えることができたのは、その託宣が、
ただの占い師の言葉、ただの巫女の言葉、巫女自身の言葉、ではなく、誰もがひれ伏す、『絶対神』の言葉を伝えたからである。
当時は何と呼ばれたかはわからないが『太陽神の言葉』である。縄文時代から続く『絶対の信仰を寄せる神』の言葉として誰もが平伏する素地があったのである。
「アマテラス」は7世紀に擬神化(擬人化)して作られた言葉であり、この時代には何と呼ばれていたのかわからない。 |
支配者の祭祀
さて、卑弥呼のいない国々では、
弥生後期社会の支配者は、出来上がった豊かな弥生農耕社会の冨を奪取しようとして後発でやって来た武力集団(海賊)であるが、
、弥生民の稚拙な呪術信仰(おそらくその頃の青銅器祭祀具は、光を失い、緑青の吹いた錆びてみすぼらしいものだっただろう)を嘲笑い、支配者が司祭となって新たな半島の祭祀を始める。
この祭祀を成立させるためには、『イワシの頭』を拝むような馬鹿げた青銅器祭祀を廃止し、司祭を崇めさせ、支配者の祖先を崇めさせ、支配民に造らせた支配者の墓を崇めさせるようにしなければならなかった。
司祭墓(支配者の墓=弥生墳丘墓)を築造させ、司祭と司祭墓即ち、支配者一族と支配者の墓(祖先)を崇拝するように強制したのだ。
このためにはそれまでの信仰を奪うために、青銅器祭祀具を供出させ、鋳潰してまじない道具の巴形銅器(スイジガイ=魔除け)にしたり、三環鈴などの新しい祭祀具や馬具にした。
弥生人は、数百年続いた青銅器祭祀を禁止され、巨大な銅鐸を火に投げ込まれ、水を掛けて粉々に打ち砕かれたりすることに心を痛め、自宅や山中、浜辺の砂の中などに青銅器を埋納して隠すようになった。
これらは、弥生国家の支配者が被支配民の心まで支配しようとしたために起こった宗教意識の違いであろう。 |
九州の外の世界
この頃、列島の世界観は、北部九州と西中国に止まらず、遥か東国に拡がり、半島交易のみの北部九州に比べ、もっと広範囲にダイナミックに交易を行う国家群が繁栄を極めていた。その中心は要害の地畿内纏向であり、国家群は、畿内・中国・四国・北陸・東海・関東にあり、半島を含めた広範囲の交易圏を構築し、合意形成して新しい秩序を作っていた。
これが未だ政権と呼べない纏向の国家連合である。その中心は、纏向・吉備・讃岐・出雲・越・東海などの国々である。
弥生時代には中期以降、各国で新しい産業が始まり、弥生時代のテクノポリスと言われる奴国を初め、各地で弥生国家を形成支配し、社会体制を整え、経済基盤を確立するために、先端産業を育成して高い文化を築いていた。
そして、彼らは、ヤマト連合を結成し、自分たちのキャラを作り上げようとした。
平面形が讃岐の円形周溝墓、
吉備の特殊器台・特殊壺、
出雲の四隅突出型墳丘墓の貼石墓、
北部九州の青銅鏡の多量副葬(糸島市平原遺跡)ですから、九州から伊都国が参加していたようです。
を、混ぜ合わせ、前方後円墳の墳墓形式を連合の旗印しとした。
そして、 纒向石塚古墳(3c初96m)、矢塚古墳(3c中96m)、勝山古墳(3c前-後115m)、ホケノ山古墳(3c後80m)を築造し、
完成形を箸墓古墳とし、これと同型の縮小サイズを各地の連合参加国に造らせることにした。箸墓古墳の築造は240~260年とされている。
連合は同時に、古墳の形、埋葬形式(竪穴式石室に割り竹形木棺など)や、葬送祭祀を統一し、これを連合国家の祭祀とした。 |
纏向連合の敗北と新しい畿内政権の誕生
古代の大豪族、物部氏は九州の出身である。
遠賀川付近から筑後川付近に勢力を持っていた。丁度、邪馬台国と戦闘状態にあった狗奴国と隣接し、挟まれる形になっていたが、1世紀頃に畿内纏向に移住した。九州二大勢力の対立によってはじき出されてしまったようである。移動の祭には瀬戸内海南岸の四国側を移動した。吉備の勢力におびえていたからである。
西暦300年前後に、この大繁栄する纏向を侵略しようとした国がある。
中九州から南九州に勢力を持ち、中国三国の呉に遣使して大量の鉄製品を入手し、武器の製造を行っていた狗奴国である。
彼らは纏向侵略を決意し何度も何度も東進しその都度進軍地に拠点を構築し、何年もかけて遂に熊野から侵入し大軍を呼び寄せて進軍を開始した。
そして、いざ纏向決戦というときに、纏向政権のブレーンとなっていた物部氏が現れ、すでに纏向政権は放逐したという。
物部氏の九州での隣国は狗奴国。筑後川水系で隣接しており、纏向政権を裏切ってクーデターを起こして纏向政権を放逐し、狗奴国軍を迎え入れてしまった。
纏向連合の盟主は軍事的には脆弱なグループであったようだ。おそらくこのような侵略は想定していなかったのだろう。そして、連合は、というよりも、物部氏は戦乱よりも、占領を受け入れ、即ち盟主の交代のみでこの事変を終わらせ、政権の安泰を図ろうとしたようだ。この裏には狗奴国の軍事力をよく理解していたからだろう。邪馬台国連合30ヶ国と狗奴国1国が対等に戦闘していたのである。戦闘力の差は明白である。
船団は紀国名草村で海女族の村を襲撃して滅ぼし、女首長の名草戸畔を五つに切り刻んでし各地へ遺棄した。おそらく生きたまま手足をもぎ取ったのでしょう。これは、大和川河口からの侵略に失敗し、兄が矢傷で討たれたことへの腹いせだったに違いない。
青谷上寺地遺跡でもわかるように、半島出身の海賊は、敗戦後は全員を惨殺し15歳の少女の額に刀を突き刺して殺すなど、むごたらしい仕方で殺し尽くし、村の水路に投げ込んでなり変わったように、
纏向も水路を縦横に張り巡らせたベニスのような水路都市である、この水路におびただしい死体が浮かぶことを畏れたのかもしれない。纏向政権は東北に逃がし、平和的に交渉して支配を受け入れたのだろう。
弥生時代にはこのような侵略と虐殺支配、なり変わりが横行し、それによって各地に新しい国が成立していくことが常識だったのだろう。
いや、何事もなく平和なように感じる古墳時代でも、例えば、大阪府池田市の猪名川流域では、3つの首長が居たのが、急に2つに減っていたりする。常に戦争があり、他の地域豪族を滅ぼして領地・財産・隷属民を我がものにする傾向は続いていたようだ。 |
第二次畿内政権の全国支配
狗奴国勢力は橿原に新都を定めた。初期の支配範囲は奈良盆地南部周辺の狭い範囲であった。
傀儡政権は、なり変わっても国の運営を何をどうすることもできない、ただの兵隊。人殺しに強盗、侵略者である。
物部氏は水路都市纏向から離れた、山裾の橿原に狗奴国勢力を駐屯させ、これまで通りの纏向連合の政策を推し進めた。
それは、せっかくの纏向の大繁栄を壊滅させることなく、膨大な利益をこれからも長く甘受するためだっただろう。考えとしては正しいかも。
つまり、テクノクラートも、政策もそのまま何事もなかったかのように続けさせた。つまり、連合の交易も同じ、キャラとしての前方後円墳の造営も同じ、狗奴国勢力はそれに従うしかなかった。何しろ従う以外に何もできない国策ビジョンはなかったから。ただの外来の野蛮人。できることは戦争。
この物部氏が作った傀儡政権は、それまでの纏向連合の諸国に自分たちが新しい支配者であることを示威するために、戦争大好きなので『四道将軍』を派遣して、吉備、越、東海、丹波に戦争を仕掛けて征服し、吉備では首長の首を切ってカマドの下に埋めたと言うから、残虐性は相変わらずだったようだ。
強大な出雲には国譲りなどという恫喝で支配した。また、スサノオという架空の人物に関東・東海の各諸侯に示威行動し、傀儡政権に服従させた。
畿内政権は各地との連合の結果広域交易で大繁栄しており、わざわざ各国に戦争を仕掛ける必要などなかったのだが、とにかく戦争をしたい狗奴国勢力の力を外に向かわせて、畿内政権にかかわらせないようにすることと、もし戦争が成功すればそれでよし、負ければ、傀儡を排除できる、そんな考えが物部氏を初め、畿内系大豪族にはあったのかもしれない。
このようにして、日向の山の中から出てきた首長が、畿内からやがて全国へその支配を広げた。
九州では中国大陸派の狗奴国は、半島派の北部九州連合に半島攻撃を命じ、これに反発した磐井の乱を、物部氏が鎮圧することによって九州を支配下に置いた。物部氏にとっては積年の恨みを晴らしたのかもしれない。これによって畿内政権は東北以南の列島を支配圏に入れることになった。ヤマト政権の成立である。 |
記紀の謎
神話に語られる高天原伝説やオオゲツヒメ伝説は、南洋諸国の神話である。このような物語がなぜ記紀にあるのかの謎がやっとわかった。
有力氏族の多くが南方から来た海人族の末裔であり、スサノオは朝鮮古語の巫女を表すススングであることから半島の情報も盛りだくさんだ。。
神道の絶対神アマテラスは縄文以来の太陽信仰であり、卑弥呼がその言葉を伝えたことによって、卑弥呼をモデルに女性神とされたことである。
これらの話が記紀の成立まで、各氏族の中に、長いものでは千七百年以上も語り伝えられていたことになる(南方系神話)。
稗田阿礼という人物を、口承伝承の人と学習した。文字の無い時代にはアイヌ文学のように口承伝承が行われていたらしい。
そうすると、その正確さは1700年もの間続き、自らが南方から舟に乗ってやって来た事実や南方の神話まで語り継がれていたことになる。
半島からやって来たものも、自らの出自を海賊やら漁師やらとするわけにいかず、伝説を作って神の子とした。
アマテラスの子孫、スサノオの子孫、竹内宿祢の親だの子孫だの、、
そして、そのようなでっち上げの家系図をぞろぞろと作って、皇別氏族、神別氏族、諸蕃氏族などと永遠の人種分けを行った。彼らが列島にやって来た700年から1000年も経ってもその祖先の事がはっきりと分かっていたからだ。
このような系統や祖先を誇張する流れは日本人に極めて強く、と言ってもこれはかつての中国や現代の朝鮮半島も同じである。
特に日本の場合はでっち上げ家系図が横行し、現代でも、結構真新しい家系図を持ち出して、清和天皇以来の家系を誇るものがいることが滑稽である。戦国時代や江戸期、それ以前に何度かニセ家系図づくりの時期があった。映画『七人の侍』でも三船敏郎演じる主人公が出来立ての家系図を手に入れて笑われる場面がある。 |
青銅器祭祀
弥生青銅器祭祀具は、銅鐸、武器形祭器の銅矛、銅剣、銅戈である。 ※青銅鏡は入っていない。
青銅鏡は弥生中期に北部九州で製造が始まった。日用品が、魔除けとして用いられ、弥生後期から副葬品として埋納されるようになる。
青銅鏡の保有は有力者や司祭に限られていた。
青銅鏡は、ときにいくつもに壊されて保有し、おそらく護符のように大切にされていたのだろう。
ところが、人はピカピカ光るものに特別な力があると思えるらしい。実用品の鏡がやがて魔除けにもてはやされるようになった。
各地で青銅鏡の生産が始まり、古墳時代には権力者のみの占有物とされるようになった。
キラキラ輝く青銅製武器が魔を払い邪を断ち切る魔除けや神宝として、
美しい外観で神秘的な金属音が太陽神の美しい響きに聞こえて神の化身
となった銅鐸。(背後に太陽信仰)
それらが輝かなくなると、鋳潰して鏡にし、必死で磨いて輝きを取り戻すと、破魔・破邪の神鏡として魔除けとする。
ただし、権力者や司祭以外は所有を禁止され、女性はお化粧をできなくなった。
(しばらく前の時代に鏡を使ったホラーや、魔鏡だのと、おかしな妄想をする話がありました。現代人も同じかも)
青銅鏡は大王の持ち物とされ、各地の首長に服属のしるしに分け与えるものとなった。
同時期に鉄剣も中央豪族の物部や曽我氏が豪華な装飾の太刀を地方豪族に与えて服従のしるしとした。
いずれにしても青銅鏡は権力と結びつき、石室や石棺に埋納されるものとなったため、一般人は持つことができなくなった。
しかし、古墳の副葬品に墓型式よりも古い鏡片が出土することが多々あり、入手した鏡を使用する中で、割れたものを破鏡として個人で長く使っていて、もうどうにもならなくなったところで副葬することが多々ある。鏡は実用品であり、お守りでもあり、威信具でもあったものと思われます。
政治と占い
記紀は中国王朝にヤマト国の制度が呪術的で、歴史書もないことを指摘され、慌てて作ったものである。閲覧対象は中国王朝である。
そのため、見てくれ重視のでたらめや誇張。真実でないことも多い。編集者はあえて意図的に神話化してえがいたものであろう。
そして、隠さざるを得なかった事実も神話。自分たちの出自も神話。に変え、それまでにあった歴史書は、全て焚書にして隠蔽した。
つまり、消された歴史書には事実が書かれていたものと思われる。
狗奴国と対立した邪馬台国は祭政一致の、巫女の言葉に左右される国だった。大王となった者が、巫女のたわごとに行動を規制されることは好ましくない。そこで、狗奴国勢力は政権から呪術を排し、アマテラス神を外に追い出し、結果、アマテラス神は各地をさまよって長くかかって伊勢の地に落ち着いた。そして、大王は伊勢を長く無視し、宇佐神宮との間で頻繁な交渉を持ち、政治に取り込んだ。
どうも狗奴国勢力には女性の神がにがてだったらしい。 |
個人の感想す。
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破棄された破鏡
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249
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250祭りに用いられた青銅器
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銅と錫の合金である青銅は、弥生人が初めて接した金属です。
表面が妖しく輝く剣・戈・矛などの武器や鏡、鐸は弥生人を魅了し、祭りや祈りに欠かせない祭器となりました。
奴国(現:福岡市)周辺で作られた銅矛や銅戈は東九州の地まで運ばれ、更に一部は四国や瀬戸内地域にまで海を渡っていきます。
東九州はその中継基地的な意味もあったのです。
一方、銅鏡は武器形祭器が使われなかった大野川の中・上流域まで運ばれましたが、それらは弥生時代の終りには、一斉に廃棄されてしまいます。
新しい秩序の到来を示す現象です。
※青銅鏡を保有していた地域が豊後大野市付近。
弥生墳丘墓への埋納は 北部九州の奴国王墓、伊都国王墓。ここではすでに暗闇に潜む魔・邪を打ち破る魔除けとして扱われていたようです。
現代の消毒用アルコールみたいなものじゃないですか。2023.08.24 |
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251祭器
銅鐸 |
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銅鐸 吉野ケ里遺跡 佐賀県
外縁鈕式銅鐸と呼ばれています。
佐賀県や福岡県で銅鐸の鋳型は出土していましたが、製品としてはこの事例が九州初となります。
九州は銅剣・銅矛文化圏と考えられていましたが、
この発見により今までの考え方を再検討する必要が出てきました。 |
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朝鮮式小銅鐸 別府遺跡(びゅういせき 宇佐市)
国内で唯一の朝鮮半島製の小銅鐸です。
弥生時代後期の竪穴建物から、潰れた状態で出土しました。
製作及び伝来は遡ると思われますが、長期間使用した後、
役目を終えて捨てられたと考えられます。 |
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252武器
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銅戈
吹上遺跡(日田市)
長い柄の先端に直角方向に装着し、振り下ろして用います。 |
銅剣と把頭飾
吹上遺跡(日田市)
手持ち用の柄(つか)を付け用います。把頭飾りは柄の端部に付けられた飾りです。 |
銅矛
切寄遺跡 宇佐市
長い柄に差し込んで槍のように用います。 |
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253銅剣・銅矛・銅戈の変遷
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弥生時代前期に朝鮮半島より伝わった、剣、矛、戈といった青銅製の武器は、次第に祭りに用いる重要な祭器となりました。
これらは図のように次第に大型化していき、武器や鈴としての実用性を失います。 |
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255青銅製武器
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260鉄器
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弥生時代前期末に鉄器が初めて朝鮮半島からもたらされました。
それは、それまで長い間使われていた石器の何倍もの威力を発揮する利器でしたが、
中期末までは列島内で製鉄技術がなかったため、石器に置き換わることはありませんでした。
中期末になると、北部九州での生産をきっかけとし、列島内でも鉄素材を熱し鍛えることによって、鉄器を作るようになります。
その結果、大分県内の集落遺跡からも鉄器が多く出土するようになりました。
また、高松遺跡(豊後大野市)では鉄素材が大量に出土する竪穴建物確認されており、後期後葉には鍛造鉄器の生産が行われていたことが分かりました。
※鍛造鉄器…打ち刃物、赤熱し叩いて成形した鉄器
※鋳造鉄器…溶融した鉄を鋳型に流し込んで成形した鉄器。(もろくて壊れやすい) |
鉄器
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261鉄製品
武器
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鉄鏃 鹿道原遺跡(豊後大野)
左と中は、茎(なかご)と呼ばれる部分を矢の先端に差し込んで使用しました。
右は、茎がないもので矢の先端に挟み込んで使用したものです。 |
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鉄剣 吹上遺跡第4号甕棺墓(日田市)
武器形祭器と共に出土しました。
刃渡り32cmで周りに鞘の残欠と思われる木質が付着していました。 |
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262工具
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ヤリガンナ 石井入口遺跡(竹田市)
木材の表面加工するための道具です。
刀子 石井入口遺跡(竹田市)
現代の小型ナイフのように動物をさばいたり、木を削ったりするための道具です。 |
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斧
脇遺跡(竹田市)
石井入口遺跡(竹田市)
木を伐り倒すための道具です。
板状のタイプ(左)と
折り曲げて柄にはめ込むタイプ(右)
があります。 |
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263農具
農具 |
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264鉄器製作に用いた鉄素材
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高松遺跡(豊後大野市)では2基の竪穴建物から多量の棒状や板状の鉄片が出土しています。
このことから鍛冶工房が営まれ、鍛造鉄器を製作していたと考えられます。 |
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265鉄器
鉄器 |
手鎌
花立遺跡 竹田市
弥生後期
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刀子
石井入口遺跡 竹田市
弥生後期 |
鉄剣
石井入口遺跡 竹田
弥生後期
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鉄斧
石井入口遺跡
弥生後期
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鉄鏃
石井入口遺跡
弥生後期
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鉄器 |
祭りに用いられた青銅器
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270クニの成立
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朝鮮半島に近い北部九州では、弥生時代中期に王をいただくクニがありました。これらは、現在の市町村ほどの広さだったと思われます。
大分県域については、クニがあったのかは記録からはわかりませんが、青銅器の入手など北部九州との関係を深める中で、
何らかの政治的まとまりが平野単位ほどの広さで生まれていたことでしょう。日田市吹上遺跡の甕棺墓は、その証左のひとつでもあります。 |
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271北部九州の主要な首長墓の分布
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273副葬品の比較
日田市 吹上遺跡 4号甕棺墓
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口縁部を打ち欠いた甕を組み合わせて棺としています。被葬者は成人男性とみられ、右手にゴホウラ貝の貝輪を15個装着し、銅戈1振、鉄剣1振などの多数の副葬品と共に葬られていました。 |
吉野ケ里遺跡佐賀県
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280邪馬台国と墳丘墓
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弥生時代後期には各地に特徴的な大きな墓が築かれました。これらを「墳丘墓」と読んでいます。
山陰から北陸にかけては墳丘の四隅が張り出す「四隅突出型墳丘墓」が、
吉備(岡山県)では埴輪の祖形となる特殊器台や特殊壺を立てた、大型の双方中円型の楯築墳丘墓などが、
大和(奈良県)では前方後円墳の祖形となる大型の墳丘墓も作られました。
九州でも、40面もの青銅鏡を副葬した平原1号墓(福岡県)があります。
これらのことから、「邪馬台国」の時代には、既に列島各地にひとつの「クニ」を超える大きなまとまりが形成されつつあったことが伺えます。
その中に「邪馬台国」も含まれていたのは間違いないでしょう。
※邪馬台国連合は30余国が卑弥呼のもとに集まっていた。 |
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281弥生時代後期の墳丘墓の分布とクニグニの広がり
墳丘墓
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大きな墳丘を持つ弥生時代の墓を「墳丘墓」と呼びます。すぐ後に成立する「前方後円墳」が斉一的であるのに比べ、
地域によって形や埋葬施設、副葬品などに違いがあることから、そこに弥生時代と古墳時代をわける画期を見出す研究者が多くいます。 |
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283弥生墳丘墓
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285
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平原遺跡5号墓
福岡県前原市
宮山4号墓
島根県安来市 |
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287
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対馬国
一支国
末盧国
伊都国
奴国 |
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290弥生時代の祭殿?
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吉武高木遺跡(福岡県)、柚比本村遺跡(佐賀県)、などで発見された大型の特殊建物は、神殿、祭殿など祭祀色の強い性格を持った建物であるといわれています。
大分県では、四日市遺跡(玖珠町)で、大型掘立柱建物が見つかっています。
同じ場所で3回の建て直しを行っている点で、柚比本村遺跡と同様であり、建物の場所に意味があったと考えられます。 |
弥生時代の祭殿? |
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大型掘立柱建物 柚比本村遺跡(佐賀県鳥栖市)
大型掘立柱建物は3回の立て直しが確認されました。
四日市遺跡の建物との違いは、柱穴の形状と大きさです。
一辺約1mの方形をした柱穴です。
大型の建物を支えるため大きな柱を立てていたことが推定されます。 |
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大型掘立柱建物 四日市遺跡(玖珠町)
同じ場所で3回の建て直しを行っています。
柚比本村遺跡の大型掘立柱建物と面積はほぼ同じですが、柱穴の直径は小さく円形です。 |
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295甕棺
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296草場第二遺跡(日田市) 弥生後期~古墳中期
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草場第二遺跡では、弥生時代後期から古墳時代中期にかけての大規模な墓地が営まれていました。
調査で甕棺墓13基、土壙墓171基、大型の甕の破片を組み合わせた土器棺墓1基が発見されました。
展示している甕棺は終末期のもので、高さ90cm最大幅60cmあります。この甕は斜めに埋められ、石で蓋をされていました。
甕の大きさから推定すると大人が埋葬されていた甕棺であったと思われます。 |
甕棺
草場第二遺跡
日田市 |
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甕棺
草場第二遺跡 |
甕棺墓の設置方法 |
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297大型甕棺
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400古墳時代 3世紀後半~6世紀末
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古墳時代は前代の弥生時代末の墳丘墓と比べ、大規模で定型化した前方後円墳が出現する3世紀後半代から6世紀末頃までの時代です。
政治的には、畿内の大和の勢力を頂点とする政治体制がつくられ、古代国家への基礎となった時期と言えます。
5世紀以降は朝鮮半島から騎馬文化や鉄器生産、製陶、土木建築などの新しい技術がもたらされました。 |
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401古墳時代
古墳時代年表 3世紀後半~6世紀末
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前期 |
奈良県箸墓古墳、 |
京都府椿井大塚山古墳 |
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266倭の女王西晋に遣使 |
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奈良県渋谷向山古墳(景行天皇陵) |
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400高句麗好太王倭国群を破る(広開土王碑) |
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中期 |
大阪府陶邑窯で須恵器の生産開始 |
大阪府大仙陵古墳(現仁徳天皇陵) |
471稲荷山鉄剣作られる |
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後期 |
525筑紫国造磐井の反乱 |
福岡県岩戸山古墳 |
538仏教伝来 |
588飛鳥寺の造営開始 |
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畿内で前方後円墳の造営が終わる |
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402前方後円墳の出現と展開
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前方後円墳は大和で成立し、その後北は岩手県から南は鹿児島県まで全国に広がります。
大分県では約50基の前方後円墳が確認されています。
県内最古の前方後円墳は沿岸部にある赤塚古墳や下原古墳で、3世紀後半の築造です。
その後各地に広がり、特に宇佐地域や海部地域、三重盆地で多く造られました。
中でも宇佐市の川部・高森古墳群では赤塚古墳をはじめとして、6世紀前半の鶴見古墳まで6基の前方後円墳が近接して造営されます。
前方後円墳は首長の墓と考えられています。(※宇佐では同一氏族の首長が古墳時代全時期を支配していたようです。大変な財力・権力だったでしょう) |
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403大分県の前方後円墳分布図
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404三角縁神獣鏡の分有関係
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宇佐市赤塚古墳から4面の三角縁神獣鏡が出土しています。
その内1面は当時の盟主墳であった椿井大塚山古墳(京都府)出土のものと 同じ鋳型でつくられており(これを同范鏡という)、畿内政権との強い関係が窺われます。
このように、三角縁神獣鏡は多くの同范鏡があり、古墳時代前期の同盟・服属関係を表す資料として重要です。 |
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405大分の首長墓編年
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406豪族居館
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豪族居館の出現 |
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豪族居館の出現 (日田市小迫辻原遺跡)
首長の住む居館は、首長が畿内王権との関係を背景に在地の政治、経済、社会を統率する中心的な場です。
構造的には濠に囲まれた方形の敷地を持ち、内側に柵を巡らし主屋となる掘立柱建物を防御する施設、広場を持つことが一般的です。 |
小迫辻原遺跡
おざこつじはら |
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小迫辻原遺跡(日田市 4世紀)
小迫辻原遺跡の首長居館は古墳時代初頭のもので、発見当時全国最古例として注目されました。
居館は3基確認されています。
居館は首長の居住施設と、首長権執行に係る施設、祭祀を行う広場で構成されていることが推定されています。
居館の東方100mに弥生時代後期の環濠集落が位置しており、この集落と強い関係を持って出現したことと想起されます。 |
小部遺跡
こべ |
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小部遺跡(宇佐市 4世紀)
小部遺跡で古墳時代前期の方形に廻る溝が発見されました。
その規模は南北約50m東西約37mで、内部に少なくとも掘立柱建物が2棟建っていたことが分かりました。これらの特徴から首長の居館と考えられています。
近接地に前時代の環濠集落が発見されており、居館の出現と深い関りが考えられます。
集落から分離独立して居館が成立する状況は小迫辻原遺跡と共通しており、居館出現の背景を考えるうえで重要です。 |
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420副葬品 |
421鏡
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神人車馬画像鏡 鑑堂古墳(豊後高田市) 5世紀
江戸時代末期に鑑堂古墳から出土したと伝えられています。
この鏡は直径20cmの画像鏡です。鏡背は鈕の周囲に珠文圏を配し、内区は4つの乳で4分されています。その間に2つの神、2つの獣、1つの馬車が配置されています。内区に接した銘帯には「劉氏作」などの銘文が陽刻されています。
後漢末~三国時代の作と考えられていますが、時間を経て、この古墳に副葬品として納められたと思われます。
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三角縁神獣鏡 赤塚古墳(宇佐市)
三角縁神獣鏡は縁の形(※断面)が三角形で、神像や獣像を描いた文様を持つ鏡のことをいいます。この鏡は直径22.6cmの獣文帯三神三獣鏡です。鏡背の中央に半球状の鈕をもちます。
内区は6つの乳で6区分され、その間に神像と獣像が交互に配置されています。
銘帯には「天王日月」とあります。
天帝のもと昼と夜、夏と冬など陰陽のバランスがとれた状態を象徴した文言と考えられています。 |
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中国鏡 |
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423土製品
手焙形土器 下原古墳 国東市 3世紀後半
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手焙り形土器は内部に煤の付着している例が多いことから、火を使った祭祀用いられたと考えられています。
下半部は鉢部、上半部は覆部といいます。
鉢部の口縁部は受口状で、覆部は口縁端部に接合します。覆部には綾杉文が施され、鉢部内外面と覆部外面に赤く彩色されています。
この形の土器は弥生時代後期後半に現れ、古墳時代前期に消滅します。
本品は3世紀後半に作られたものであり、全国的にも例が少なく、注目されています。
※手あぶり型土器は吉備からも出土しており、何らかの関係があったのかもしれない。 |
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425瀬戸1号墳出土品 鏡・鉄製品・玉類 玖珠町 4世紀
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427小迫辻原遺跡1号方形環溝出土 土師器 日田市 3世紀後半
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430古墳時代の家族
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中津市の上ノ原横穴墓群の調査では、九州大学に人骨調査を依頼しました。
その結果、残りの良好な人骨から死亡時の年齢・性別に加え、歯冠計測によって同じ横穴墓に埋葬された人物同士の血縁関係の有無など多くのことを知ることが出来ました。それらの情報に加え、考古学的な所見から埋葬の順位や埋葬間隔を決定することにより、同じ横穴墓に埋葬された被葬者達の生前の世代構成が復元でき、最も妥当な親族関係モデルを描き出すことに成功しました。
それによると同一横穴墓に埋葬された人々の関係は、男性家長(第一)とその子供(第二世代)というものでした。非血族の家長の妻は葬られていません。このような形態は5世紀中頃までのキョウダイ原理から6世紀になった西日本で見られる家長夫婦を中心とする埋葬原理への過渡的段階ととられています。
このように画期的な調査方法によって県内の古墳時代の親族関係・埋葬原理が明らかとなってきたのです。考古学的に「家族」の姿が分かる貴重な事例です。 |
古墳時代の家族 |
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上ノ原横穴墓群における埋葬システム
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古墳時代の家族 |
同一横穴に葬られる人物
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出土人骨調査の過程
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横穴墓の人骨発見 |
人骨調査 |
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埋葬状況の確認・検討
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整理・分析 |
記録 |
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440鳥舟付器台 一ノ瀬2号墳(国東市) 6世紀末~7世紀前半
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装飾須恵器の一種で、舟・人物・鳥・龍(?)が重層的に配置されることから、死者が舟に乗り鳥に導かれながら黄泉の国へ旅立つ情景を表したものと考えられています。
古墳時代の死者に対する思いや死生観を表現した他に類例のない貴重な資料です。
※編集にあたって、この器台写真は掲載の倍ほど撮っています。余りにも装飾が多くて掲載写真が多くなり過ぎました。
本当は、鳥と舟だけでよかったのかもしれません。しかし、舟の底を貫いて何か(龍の尾)が立ち上がっている様子や、鳥は舳先ではなく、何かの上に止まっていたりします。
もしかすると、他の遺跡の準構造船と多数の漕ぎ手を描いた線刻壺や、須恵器器台に被葬者の生涯のエピソードを粘土人形で貼り付けた器台などとは違っているのではないか。
この器台の話は一番下から始まり、舟で、黄泉の国に至るまでには困難な船旅があり、巨大な怪物が襲ってきたり、などなどの困難を乗り越えて
最上部の「黄泉の国なのか、死者の楽園とされた蓬莱山」に到達するといった、これまでに見られなかった説話に基づいているのではないかと、
私には見えます。 |
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450古墳築造の広がり 中期
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古墳時代中期には古墳の造営が拡大し、旧郡単位程のエリアで首長墓が見られるようになります。
大分市では結晶片岩製の箱式石棺、臼杵市では凝灰岩製の舟形・家形石棺が用いられるなど、遺骸を納めた石棺に地域的な特徴も現れています。
古墳時代後期は、横穴式石室の採用という埋葬施設の大きな変化がありました。群集墳などが見られるようになるのもこの時期です。
しかし、大分県内で横穴式石室を持つ古墳は少なく、上ノ原横穴墓群などのような崖面に穴を穿つ横穴墓が多く見られるのも特徴です。 |
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451古墳時代前・中期の古墳
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452古墳時代後期の古墳
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後期古墳 |
有田塚ヶ原古墳全景
日田市 6世紀後半 |
有田塚ヶ原古墳石室
日田市 6世紀後半
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鶴見古墳
宇佐市 6世紀後半 |
古墳時代 後期の古墳
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453装飾古墳
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大分県下では6世紀後半に筑後川上流域を中心とした地域で石室内に彩色で絵を描くことが行われます。
これは、筑後川中・下流域からの影響と考えられています。6世紀後半~末には別府湾沿岸、さらに宇佐、国東半島にみられるようになり、
これらの地域では線刻で描くものがあることや横穴墓に装飾がみられるのも特徴です。
邪悪なものを避けることや死者の来世への旅立ちの無事を願って描かれたと想定されています。 |
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455 |
456彩色系装飾
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彩色系装飾 |
穴観音古墳 日田市
奥壁 同心円文が2段9つ、山形文
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前室右側壁 |
前室左側壁
舟2艇、同心円 |
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ガランドヤ1号墳
日田市
奥壁全景 人物・馬・鳥・舟・円文など |
奥壁左側部分 |
右側仕切り石 |
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458線刻系装飾
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千代丸古墳
大分市
玄室 |
石棚 山形文・三角文・人物・動物 |
羨門 人物像・同心円 |
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460古墳埋葬祭祀具 |
461
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古墳築造の広がり |
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462有田塚ヶ原古墳出土品 須恵器
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464夕田横穴墓群 第1支群第1号墓(日田市) 5世紀後半
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466古墳後期の須恵器
円筒埴輪
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埴輪は古墳という聖域を区画し、災いや悪霊の侵入を防いだり、祭政の様子を再現したりするために墳丘に建てられたものです。
その種類には円筒埴輪、壺形埴輪、家・鳥・人物・器財などを模した形象埴輪があります。大分では、埴輪が4世紀代から6世紀まで見られます。 |
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470横穴墓の世界 古墳時代中期
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横穴墓は古墳時代中期に豊前地方で始まり、後期には東日本にまで伝播した墓制で、丘陵の斜面や垂直の崖面に横方向の穴を掘って墓としたものです。
死者を安置する玄室に通じる長い墓道を持ったものもあり、一つの横穴墓が家族の墓として何度も利用されました。
大分県を代表する上ノ原横穴墓群は、福岡県竹並横穴墓群とともに最古段階の横穴墓として知られており、7世紀代にかけて形象して営まれました。
大分県は良好な凝灰岩崖面に恵まれた事もあって、豊前地域だけでなく別府湾沿岸部や大野川流域、日田・玖珠地域などで特に多く造られました。 |
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471
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472大分の横穴墓群
上ノ原横穴墓群
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上ノ原横穴墓群は初期の横穴墓として知られ、福岡県竹並横穴墓群に次ぐ、東九州有数の規模と造営期間を持つことでも注目されています。
調査では、5世紀後半から7世紀前半までの横穴墓の造営・追葬の実体を知ることが出来ました。
特に古墳時代の家族の解明に大きな成果がありました。 |
上ノ原横穴墓群 |
横穴墓の名称 |
横穴墓の名称 |
奥壁
玄室
玄門・羨道・羨門
前庭部
墓道
床面・敷石・天井 |
前庭部の祭祀 |
玄室内の人骨 |
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473上ノ原横穴墓群の変遷
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5世紀中~後半代 |
5世紀後半代
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6世紀初頭
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6世紀前半
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6世紀後半代
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6世紀末~7世紀初頭 |
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475滝尾百結横穴墓群 大分市 6世紀後半
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滝尾百穴横穴墓群
大分市 6c後半 |
崖面を利用した横穴墓の典型です。 |
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志津里遺跡B地区横穴墓群
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志津里遺跡B地区横穴墓群は豊後内陸部の玖珠盆地北部に位置します。調査を行った4基は未盗掘であったため、埋葬最終段階の人骨や副葬品の状況から当時の葬法や被葬者の親族関係などの豊富な情報がえられました、 |
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志津里 2号横穴墓
右の人物は玄室奥壁側に安置されている。
一方、左の人物は玄室に入らず、羨道に置かれた珍しい例です。 |
志津里 2号横穴墓
羨道から玄室を見る |
玄室内部
玄室内部玄門寄りに置かれた副葬品 |
奥壁
奥璧寄りの床面から出土した鉄鐸 |
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480横穴墓群副葬品 上ノ原横穴墓群 |
481
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横穴墓の世界 |
鉄鏃
上ノ原28・35号横穴墓
中津市 6世紀後半 |
鉄鏃
上ノ原62号横穴墓
中津市 6世紀前半
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鉄斧
有田塚ヶ原古墳
日田市 6世紀後半 |
鉄鏃
上ノ原2号横穴墓
中津市 6世紀後半 |
鉄鐸
上ノ原27号横穴墓
中津市 6世紀後半 |
刀子、鉄鐸
志津里遺跡B地区
3号横穴墓 玖珠町
6世紀後半 |
ヤリガンナ
上ノ原25号横穴墓
中津市 5世紀後半
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1カラスガイ
2ヌマガイ
志津里遺跡B地区
3号横穴墓 玖珠町
6世紀後半 |
耳環
飛山17・27号横穴墓
大分市 6世紀後半
左1点が17号
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玉類
上ノ原55号横穴墓
中津市 6世紀末 |
銅釧
上ノ原69・80号横穴墓
中津市 6世紀末
右80号
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上ノ原2号横穴墓
中津市 6世紀前半 |
1弓付属品
2鉸具
3帯金具 |
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483鉄刀
鉄刀
上ノ原40号6c後半
鉄剣
上ノ原25号5c後半
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485飛山横穴墓出土品 鉄製品 大分市 6世紀
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490 |
491長湯横穴墓群7号墓出土品
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長湯横穴墓群は竹田市直入町長湯で見つかった古墳時代後期に築造された墓地です。
7号墓(6世紀前半)の玄室内部から人骨3体と鹿角装鉄刀1、鹿角装鉄剣1、鉄剣1南海産ゴホウラ製貝釧やヤコウガイ製垂飾品、石枕など
大型古墳と遜色のない副葬品が出土しました。このような副葬品を持つ被葬者はこの地域の首長と考えられます。 |
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長湯横穴墓群 |
7号墓の詳細 |
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下写真の出土遺物 |
玄室左壁際の人骨 |
鉄剣に装着された
鹿角製装具
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直弧文が施された鞘尻
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長湯横穴墓群7号墓
出土品 |
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493長湯横穴墓群7号墓出土品
長湯横穴墓群7号墓出土品 |
4須恵器坏身 |
5ガラス玉 |
7夜光貝製垂飾品
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6ゴホウラ貝製貝釧 |
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1鹿角装飾鉄刀
2鹿角装鉄剣
3鉄刀
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8石枕 |
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鹿角装差鏃 |
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鹿角装鞘口 |
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500古墳時代集落の展開
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古墳時代は各地の首長が大規模な開発を進めた時代です。
その背景には大陸の進んだ農業土木技術と、U字鍬先、曲刃鎌等の優れた鉄製農具の伝来があったと考えられます。
大分県では大規模な開発事例は今のところ確認されていませんが、平野部に立地する集落が増えたことを考えると、平野部の水田開発が進んでいたことがわかります。
5世紀代になって、大きな火力が得られるカマドが竪穴建物の壁際に設けられることは、調理をする上で大きな変化でした。 |
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501
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502前期 石井入口遺跡 竹田市
古墳時代集落
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石井入口遺跡は竹田市に所在します。熊本県と境を接する阿蘇外輪山の東部にあたる菅生台地上に、弥生中期から古墳時代中期の集落が展開します。
古墳時代前期の集落は前時代とは異なり、5軒ほどの竪穴建物が規格的に配置される傾向が見られるようになります。
台地内で新たに集落や耕地の拡大など古墳時代に居住や生産の再編成が始まることを示しています。 |
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石井入口遺跡 |
古墳時代前期の竪穴建物配置想定図 |
古墳時代集落
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503中期 金田遺跡 日田市 5世紀近頃
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金田遺跡は日田盆地東部の求来里川流域の沖積地に立地しましす。集落は竪穴建物約30基で形成され、前期から後期の変遷が明らかになりました。
5世紀中頃の9号竪穴建物にはカマドが設けられていました。大分県では最古例であり、筑後川中流域での導入期とほぼ同時期と考えられます。
北部九州との強い関係性が想定されています。
この時期には一般的にはカマドがなく、9号竪穴建物のカマド導入は先進性を示しているものと言えます。 |
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金田遺跡 日田市 |
金田遺跡 |
9号竪穴建物カマド跡 |
集落全景 |
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稙田市遺跡(わさだいちいせき 大分市) 5世紀中頃~6世紀初頭
稙田市遺跡は七瀬川流域に立地します。古墳時代中期~後期には水田耕作用の流路が掘削され、数回の改修を経て長期間使用されていました。
5世紀中頃~6世紀初頭にかけて25基の竪穴建物で構成される集落となります。
5世紀後半にはカマドを付設する竪穴建物がつくられますが、金田遺跡と同様に伝統的な炉を持つ竪穴建物もまだ存在します。 |
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カマド
カマドは5世紀に朝鮮半島からもたらされた調理設備です。
その構造は、竪穴建物の壁際に粘土をドーム状に積み上げ、建物内部に焚口を設け、
カマド上部には甕を据える穴をあ持ちます。
内部には甕を支える支脚が設けられます。
また、排煙のため壁を掘り込み煙道を設けるなど、快適な環境と効率の良い設備は
6世紀には広く普及します。 |
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504後期 北ノ後遺跡 きたのうしろ 大分市 6世紀後半
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北ノ後遺跡は大分川右岸の段丘上に立地します。6世紀後半に竪穴建物を中心とする集落が形成され、カマドは全ての建物に設けられます。 |
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505稙田市遺跡出土土器 土師器
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古墳時代集落の展開
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埦
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鉢
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把手付鉢、高坏
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ミニチュア土器
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長頸壷
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二重口縁壺
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甕
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甕
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507佐知遺跡11号竪穴建物 中津市三光佐知
佐知遺跡11号竪穴建物カマド一括遺物 |
須恵器坏 |
土師器甕 |
土師器甕 |
土師器甑 |
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510須恵器の生産
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須恵器は、5世紀前半に大阪府南部の陶邑で生産が始まった青灰色で硬い土器です。
その背景には、粘土から形を整形するロクロ技術や1200度を超す高温で焼成する登窯を造る技術が朝鮮半島から伝わったことがあります。
そして陶邑では、5世紀中頃に朝鮮陶質土器の模倣から日本独自の形になり、それらは日本各地へはこばれて葬送の際などに使われました。
九州でも早い時期に須恵器が生産されますが、一端途切れ、6世紀代になって再開されます。
牛頸窯跡群・八女古窯跡群(福岡県八女市)、周防灘沿岸部の天観寺山窯跡群(福岡県)、その南に位置する中津市の伊藤田窯跡群などが生産の拠点となっていきます。
※須恵器は職人が渡来すると、すぐに各地で生産が始まりましたが、ヤマト政権が全ての半島人職人を陶村に集めて生産を初め、それから全国に散らばるようになりました。 |
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511古墳時代の窯跡
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512伊藤田窯跡群 中津市 6世紀後半~9世紀前半頃
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伊藤田窯跡群は東西3km南北1kmの範囲に展開するいくつかの窯跡群の呼び名です。現在調査で明らかになった窯跡のうち最も古い例は、
6世紀後半の瓦ヶ迫窯跡で、その後、草場窯跡(6世紀末頃)→穂屋1号窯跡・城山窯跡(7世紀前半)→穂屋2号窯跡(7世紀後半)→
→コンゲ窯跡(8世紀前半)と変遷します。古墳時代から奈良時代までの長期間操業が特徴的です。 |
伊藤田窯跡群と周辺の窯跡
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伊藤田窯跡群 |
中津・宇佐に多い |
穴窯の様子 |
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513ヘラ記号をもつ蓋坏 瓦ヶ迫窯跡(中津市) 6世紀後半
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ヘラ記号は須恵器を窯で焼く前に刻まれるため、須恵器工人との結びつきを示すものと想定されています。
瓦ヶ迫窯跡ではヘラ記号を持つ蓋坏が多数出土しました。ヘラ記号の種類は大きく8種類に分けられます。
ヘラ記号は通常外面に刻まれますが、瓦ヶ迫窯跡の場合は、外面に加えて内面のみ及び内外面に持つことが特徴です。
内外面のヘラ記号は今のところ九州でも稀な例であり、注目されています。
坏の蓋と身は同じヘラ記号を持つこと、同一のヘラ記号を持つ坏は細部の形も同じことから、工人を特定することが可能となりました。
工人組織の編成や須恵器の流通などを考えるうえで貴重な資料と言えます。 |
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須恵器の生産 |
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ヘラ記号を持つ蓋坏 |
ヘラ記号分類 |
ヘラ記号の坏身蓋 |
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515草場窯跡出土須恵器 中津市 6世紀末
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焼台(窯道具)
瓦ヶ迫・草場窯跡
中津市
6c後半~7c初頭 |
蓋坏 |
高坏、ハソウ |
すり鉢 |
棒状製品 |
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520龍が描かれた土器
東田室遺跡出土絵画土器 古墳中期(5世紀前半)
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東田室遺跡の古墳時代中期(5世紀前半)の竪穴建物から出土した土師器壺です。意図的に口縁部と胴部を分割し、伏せた状態で出土しました。
最大の特徴は、肩部に曲線で三角形や四角形状、弧線、魚鰭状のモチーフをヘラを使って描いている点です。
魚鰭(ひれ)状のモチーフは西日本の弥生時代後期から古墳時代の龍と推定される文様と類似しており、これも龍を描いた可能性があります。
このような竜の絵画土器は県内では例がなく、古墳時代の精神文化や祭祀行為を解明する上でも学術的価値の高い資料と言えます。 |
龍が描かれた壺 |
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東田室遺跡出土絵画土器
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線刻絵画土器
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530飛鳥・奈平・平安
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飛鳥・奈良・京都に都が置かれ、律令制度に基づいた天皇中心の中央集権国家を目指した時代です。
当時の大分県は、豊後国と豊前国の一部にあたり、役所である国衙や郡衙などが設けられていました。 |
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531
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535終末期古墳
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7世紀になると前方後円墳は造られなくなります。しかし、円墳や方墳は引き続き造られます。
この時代は古代国家の形成期にあたり、宮都が置かれた地名をとって飛鳥時代と呼ばれます。この時代に造られた古墳を終末期古墳といいます。
古宮古墳(国指定史跡)は壬申の乱の功臣で675(天武4)年に没し外小紫位(とのしょうしい)を追贈された大分君恵尺(おおきだのえさか)の墓と想定されています。
墳形は方墳で、九州では唯一の例である横口式石槨を持つことからも畿内で中級官人として活躍した人物像が浮かんで来ます。 |
古宮古墳石室・石槨
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古宮古墳空撮
中央部が石室 |
丘陵の南斜面の中腹に築造されています。
これは終末期古墳の特徴の一つであり、墓地の選定には風水思想の英起用も考えられています。 |
羨道・石槨全景 |
石槨は、複数の遺体を追走する横穴式石室とは異なり、一人のみの埋葬が基本です。
そのため石槨内部の幅は狭く、高さは低くなっています。 |
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537石槨・羨道実測図
墳丘復元図
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古宮古墳は墳形規模 南北12.45m東西12.15mの方形プランを持ち、2.6m程の高さが想定されています。
主体部は凝灰岩を刳り抜いた石槨部で、その前面に羨道が付きます。
石槨は長さ2.05m幅0.8m高さ0.88mの規模です。羨道は東西壁に各大小2枚の切り石を立て天井石を据えています。
長さは東壁2.68m西壁2.46m幅1.13m~1.29m高さ1.25mです。 |
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540役所と役人の登場
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豊後国、豊前国と呼ばれた大分県内各所に国や郡に関わる役所が置かれ、それらを結ぶ道も造られました。
国の役所である国衙では中央から派遣された国司が、また郡の役所である郡衙(郡家)では郡司に任命された地方豪族がそれぞれ行政を担いました。
城原・里遺跡(大分市)では海部郡衙と思われる建物群が見つかり、また、
長者屋敷官衙遺跡(中津市)では、下毛郡衙の正倉が確認されています。
これらの役所跡からは墨書土器や硯のほか、役人の地位を示す石や金属で作られた帯飾り、緑釉陶器や中国産の青磁などが見つかっています。 |
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541古代の行政区画と駅・道
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地方制度は当初「国・評・里制」でしたが、大宝律令の施行後に「国・郡・郷制」になりました。
奈良時代、県下には豊後国衙の下に大分郡、海部郡など8つの郡が、豊前国衙(現福岡県京都郡)の下に下毛郡、宇佐郡の2郡が置かれていました。
各国の国衙を結ぶ官道として、豊後道、日向道などが県内に整備され、各道にはおよそ30里(約20km)ごとに計12の駅が設けられていました。
海上交通としては、瀬戸内海や豊前への中継基地として重要な国崎津が知られています。飯塚遺跡(国東市)はその一部と考えられます。 |
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543官衙遺跡
城原・里遺跡(大分市)
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城原・里遺跡(大分市)
飛鳥時代にロ字状(四角形)に並ぶように掘立柱建物が建てられます。
引き続き奈良時代前半には掘立柱建物や四脚門がコ字状に立てられていることから、
この場所に飛鳥時代の海部評衙の政庁やそれに続く奈良時代の海部郡衙の政庁があったと考えられています。 |
長者屋敷官衙遺跡(中津市)
長者屋敷官衙遺跡(中津市)
120×90mの広さに、高床倉庫などの建物群が20棟以上あり、そこからは大量の炭化米や陶硯、墨書土器などが見つかっています。
これらの建物群は、豊前国に税として納められた米を郡で保管するための正倉と考えられ、国や郡にとっては非常に重要な施設です。
また、一番大きな礎石建ちの蔵の前には、儀式を華やかに飾る旗が立っていました。
幢竿遺跡は平城宮跡、長岡宮跡等の宮殿跡での発見例はありますが、群の尚早で見つかるのは大変珍しいことです。 |
飯塚遺跡(国東市) |
飯塚遺跡(国東市)
桟橋に続く道路が見つかり、その両側にはイネや各種の交易品を保管した倉庫群とその管理をしたと思われる建物跡が立ち並んでいました。
また県内では木棺が初めて出土したほか、墨書土器、刻書土器等貴重な文字資料が見つかっています。
これらのことから、「国埼津」の姿が浮かび上がってきました。 |
訳書・役人に関する遺物
訳書・役人に関する遺物
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木簡 |
訳書の文書や税の荷札などを書き記した短冊形の木札です。 |
権(けん) |
計量に使用された重りです。 |
和同開珎 |
皇朝十二銭のひとつで、708(和銅元)年に造られます。 |
銙(か) |
役人の地位を示す帯飾りで、金属製の物や玉、石製のものがあります。 |
硯 |
当時の識字層である役人や僧侶と関わるもので、当時は須恵器と一緒に焼かれています。 |
越州窯青磁 |
中国の唐・宋の時代に浙江省で焼かれた磁器です。 |
緑釉陶器 |
平安時代の初め頃、中国産の青磁を真似て、陶器に緑色釉薬を掛けて作ったものです。
尾張(愛知県)、長門(山口県)などで焼かれています。 |
墨書(刻書)土器 |
嘉字(かじ)や人名などを墨やヘラで書き記した土器です。 |
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納税の様子 |
いつも生活は苦しい |
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545役所と役人の登場
木棺
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記録木簡
飯塚遺跡 国東市
9世紀
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記録木簡
飯塚遺跡(国東市)
稲の出し入れを記録した「倉札」です。
6月20日二は67束を出したため残りが14束8把と少なくなっています。
322束や8月□2日に520束のように稲の量が多い月もあります。 |
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指令書木簡
飯塚遺跡 国東市
9世紀
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指令木簡
飯塚遺跡(国東市)
「20日までに製品を作り終え、それを殿門に報告するよう」
担当の弥栄師が11月18日に国前臣刀佩に伝えたものです。
このことから、国前臣が作人を動員できる力を有していた事がわかります。 |
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546
権 上野第1遺跡 日田市 8世紀
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権は、8世紀前半代の掘立柱建物跡の柱穴から出土しました。これは倉庫に納められる物の計量に使われたものです。
頁岩製で片面には「豊馬豊馬」と細い線で刻まれています。現状で29gあります。裏面上部には紐を通す穴があいています。
権が出土したことから、遺跡は古代石井駅に関わる物であろうと推定されます。 |
権
上野第1遺跡 日田市
8世紀
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548陶器
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549須恵器
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須恵器坏蓋
土師器坏身
竜王畑遺跡 大分市
8世紀 |
土師器坏 |
越州窯青磁碗
黒色土器高台付小皿
越州窯青磁合子
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胞衣壺 久末京徳遺跡 国東市 9世紀
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遺跡は、奈良時代後半から平安時代初めにかけて掘立柱建物跡が建ち並ぶ在地首長クラスの居宅跡です。
建物付近の土坑から土師器で蓋をした須恵器壺(頸より上を打ち欠き)が出土しました。
壺の中に残った土壌を分析した結果、相当量の動物性脂質が検出されたことから、胞衣を納めたものと思われます。
子供の健やかな成長を願って、丁寧に埋納したことでしょう。 |
胞衣壺 |
胞衣壺
久末京徳遺跡 国東
9世紀
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550大伽藍の出現
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仏教は538年の公伝以来全国に広まり、各地で寺院が建立されました。
瓦葺き、礎石建ちの巨大な寺院はそれまでの日本にはない荘厳さがあり、地域権力の新たなシンボルとして、人々を圧倒したことでしょう。
大分県下の古代寺院は、宇佐郡、下毛郡と、国府の置かれた大分郡に多くあります。 |
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551古代寺院
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虚空蔵寺(宇佐市) |
寺の広さは一辺約120mあり、発掘調査で講堂・金堂・中門・塔・回廊などが見つかり、
その伽藍配置は、金堂と塔が東西に並ぶ法隆寺式でした。
塔跡からは南法華寺(奈良県)と同じ型で作った塼仏が九州で唯一出土しており、
畿内との強い繋がりが窺われます。 |
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弥勒寺跡(宇佐市)
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弥勒寺は宇佐八幡宮の神宮寺で、神宮境内に建っていました。奈良時代中頃に完成し、明治の廃仏毀釈まで長期に渡り、存続しています。
発掘調査で、講堂・金銅・塔跡などが見つかり、金銅の南側の東西両方に塔を配置する薬師寺式伽藍配置を取ることが分かりました。 |
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豊後国分寺の瓦 |
弥勒寺の瓦 |
虚空蔵寺の瓦 |
瓦の種類 |
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555臓骨器
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仏教の思想に基づく火葬の風習が、おもに僧侶や役人を中心に広まったことが、蔵骨器の出土により分かります。
我が国における最初の火葬は700年前の入唐僧道昭と言われています。
天皇では、持統天皇が702(大宝2)年に初めて火葬され、遺骨は金銅製の像骨器に納められ、夫の天武天皇の陵に葬られました。
大分県内では、勘助野地遺跡(中津市)から出土した蔵骨器が最も古く8世紀前半代のものです。 |
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火葬墓蔵骨器
寺迫遺跡 中津市
9世紀
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3号火葬墓蔵骨器 勘助野地遺跡 中津市
8世紀 |
5号火葬墓蔵骨器
勘助野地遺跡 中津市
8世紀
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1号火葬墓蔵骨器
勘助野地遺跡 中津市
8世紀
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像骨器 |
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大伽藍の出現
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大伽藍の出現 |
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軒丸瓦・軒平瓦
豊後国分寺跡
大分市 8世紀 |
軒丸瓦・軒平瓦
弥勒寺跡
宇佐市 8世紀 |
軒丸瓦・軒平瓦
虚空蔵寺跡
宇佐市 7世紀
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塼仏
虚空蔵寺跡
宇佐市7世紀 |
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560古代の生産
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律令体制を進めていくために、税である米を作る一町四方の区画を持つ条里水田が全国で整備されています。
また経済活動のもととなる貨幣の鋳造も始まり、国が中心となって様々な生産活動を拡大していきました。
県内でも条里跡のほか、製鉄炉跡、土器や漁労に関わる蛸壺などの生産を行った遺跡が見つかっています。 |
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561条里水田
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河川に堰を設け、水路を引き、「条里」と呼ばれる水田を開いていきました。
土地の耕作者を定め、税を取りやすくするため、土地を1町(約109m)四方の正方形に区分し、それぞれの土地に番号を付けました。
1町四方の基本単位を「坪」といい、坪を6×6に並べた区画(6町四方)を「里」とし、その横列を「里」、縦列を「条」と呼びました。
「一ノ坪」「三ノ坪」などの小字はその名残です。
県内の「条里」跡は、中津市の約800町に広がる沖代条里を初め、かつては各地の平野で見られましたが、現在ではその多くが失われています。 |
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562鉄の生産
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鉄の生産 |
寺院や役所などの大規模な建物を造ったり、水田の開発などに伴い、鉄の需要は格段に高まりました。そのため、7世紀から8世紀には砂鉄から鉄素材を作り出す製鉄炉が各地で造られます。
大分県内では伊藤田田中遺跡(中津市)で横沖の箱型製鉄炉が見つかっています。
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箱型炉を使った製錬
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製鉄炉跡実測図
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木炭の生産 |
鉄を造る製鉄炉を操業するためには、大量の炭が必要でした。そのため専用の炭窯が各地で造られました。
大分県でも、炭の取り出しを行う横口がいくつも開いた横口式炭窯が見つかっています。
写真は国東市の塩屋伊豫野原遺跡のものです。
※この穴に人が入って椎や樫の木を立て並べていたので、この入口の高さは1m以上になり、
全体としてかなりの大きさになります。
また、このような効率的な炭窯は他所で見たことがなく、(大抵1窯1口)高い生産効率を得たと
思われます。 |
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土器の生産 |
公式の行事や祭祀などでは土師器(素焼きの土器)を大量に使うため、各地で焼かれました。
大分県では、平安時代初めの土師器焼成坑が、豊後国府から東南東約4.8kmのところで集中的に見つかっており、国府や郡衙が関与して土師器の生産が行われていたことをうかがわせます。 |
海に関する生産
海に関する生産 |
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漁具の生産 蛸壺漁、焼塩壺
周防灘に面した中津市の定留(さだのみ)遺跡からは、
蛸壺漁に使う壺を焼いた直径1.5m、深さ50cm程の窯が見つかっています。
大分県では塩を生産した遺跡は見つかっていませんが、焼塩壺が海から遠く離れた
九重町の井尻日焼田遺跡でも見つかっており、当時の交易の広がりを伺えます。 |
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565製鉄関連遺跡 伊藤田田中遺跡 中津市 7世紀
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製鉄炉跡からは炉壁片や鉄滓が出土します。それらをよく観察すると、炉壁片が炉のどの部分であったか、どの部分でできた滓かなどが分かります。
このように詳細に観察し分析すると、炉の構造や操業時の状況、出来た鉄の良し悪しなどが分かります。
それによると、伊藤田田中遺跡の製鉄炉は高チタンの砂鉄を原料とした箱型炉で、製鉄滓に鉄分が多く含まれることから、
出来た金属は炭素含有量が低く、滓との分離が悪い状態であったと考えられています。
そのため、炉の底に溜まった炉底塊を叩き石で小割りし、鍛冶原料となる鉄塊をとりだすのも、相当丹念に行われたと思われます。
※チタンを含む砂鉄はたたら製鉄には不向きです。 |
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製鉄関連遺物 |
製鉄関連遺物
上に記述 |
送風管
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たたき石 |
炉内流動滓 |
炉内滓 |
流出孔滓 |
砂鉄焼結塊 |
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炉壁
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566コンゲ窯跡出土品
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須恵器
坏、高台付坏
中津市 8世紀
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須恵器坏蓋 |
須恵器皿 |
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尾崎遺跡出土品 大分市 8~9世紀
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567
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土錘
上野遺跡群
大分市 9世紀 |
土錘
上野遺跡群
大分市 9世紀 |
蛸壺
野田遺跡 中津市
9世紀
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蛸壺
野田遺跡 中津市
9世紀 |
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焼塩壺
井尻日焼田遺跡
九重町 10世紀
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568木棺墓出土品 四日市遺跡(玖珠町) 9世紀
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墓は長さ1.75mほどの木棺で、体を延ばした状態で葬られており、出土した土師器から9世紀のものと考えられます。
中国越州窯青磁の唾壺は、口縁部を打ち欠いて墓に納められていました。
本来は貴重品として室内装飾などに重用されたもので、出土例は少なく全国的にも珍しいものです。
また、鏡は唐代に作られた銅製の無文隅入り方鏡で、四隅にえぐりが入っています。1点は別の墓から出土したものです。
これらの副葬品から、役人の墓であったと考えられます。 |
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570豊後大神氏の活躍
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平安時代終りの12世紀には、土地などの利権を巡って、一部有力者が武装していきます。
豊後では大神氏らの武士団が登場し、その一人である、緒方三郎推栄(これよし)は北部九州における反平氏勢力の中心として活躍しました。
大神一族が栄えた豊後南部地域には、元町石仏(国史跡・大分市)、菅生石仏(国史跡・豊後大野市)・臼杵石仏(国宝、臼杵市)などの
摩崖仏が多く残されており、その関係が考えられています。 |
臼杵石仏
臼杵石仏(臼杵市) |
古園石仏 |
ホキ石仏第二群の阿弥陀三尊像や古園石仏の大日如来坐像など60体余りの尊像が
4つの石仏群に分かれて彫られています。
石仏の造立年代とその歴史的背景については、多くの謎が残されていますが、
大神一族の臼杵氏が関わった可能性があると考えられています。 |
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大神氏の大蛇伝説 |
平家物語 巻八 緒環(おだまき)
豊後の山里に住む娘に夜な夜な通う男がいました。
これを娘の母が不審に思い、男が帰る時、糸の付いた針を付けておくよう教えます。
その糸を辿っていくと姥ヶ岳の岩屋にたどり着き、そこには、喉に針の刺さった大蛇がいました。
大蛇は日向の高千穂明神で「お前が産む男子は武勇に優れ、九州では並ぶものはないだろう」と言い残します。
やがてその言葉通り男の子が生まれ、あかがり大太(あかがりだいた)(惟基これもと)と名付けられます。
緒方惟栄はその五代目の子孫であり、このように恐ろしいものの末裔なので、九州の武士たちはみな惟栄に従いました。 |
573末法思想と経塚
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平安時代後期の11世紀になると仏教の正しい教えが廃れ、争いが絶えなくなる時代が始まる、という末法思想が流布し、多くの人々は現世や死後の不安にかられました。
56億7千万年後に人々を救うために現れるとされる弥勒菩薩にすがるため、経済的に豊かな貴族や僧侶たちは、法華経などの経典を保存しようと、金属製あるいは陶製の容器に入れて地中に埋納しました。これを経塚と呼びます。 |
末法思想と経塚 |
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妙楽寺経塚(宇佐市)
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宇佐市木内にある妙楽寺の境内には、この場所で入滅したとされる求菩提山(くぼてさん福岡県)中興の祖である頼厳(宇佐郡出身)を供養する板碑が2基建っています。
そこを望む尾根の上で12世紀代の経塚3基が発掘されました。さらにその周辺から3くちの経筒も見つかりました。
そのうち四耳壷を転用した経筒の底には「厳」の文字が書かれており、妙楽寺と頼厳の関係が裏付けられました。 |
妙楽寺経塚2号経塚 |
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経筒
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陶器経筒 |
銅製経筒
妙楽寺経塚
宇佐市 12世紀
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陶器経筒
妙楽寺経塚
宇佐市 12世紀 |
陶器経筒底面 |
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600鎌倉・室町・安土桃山時代 1185年~1600年
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鎌倉時代になると中央の寺社・貴族や宇佐宮が持っていた広大な荘園は、幕府から地頭に任命された武士が支配するようになります。
豊後では、それら地頭を家臣団に編入した大友氏が守護大名、戦国大名へと成長し、徐々に在地支配を強めていきました。
また、この時代は中国(宋、明)との貿易や国内産業の発展もあり、経済活動が活発となっていきます。
また、現在につながる「ムラ」の基礎が出来てきたのもこの時代です。 |
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601
鎌倉・室町・安土桃山時代 |
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鎌倉・室町・安土桃山時代 |
1185~1600 |
鎌倉・室町・安土桃山 1185年~1600年
鎌倉 |
1185(文治元) |
1192(建久3) |
1196(建久7) |
1232(貞永元) |
1272(文永9) |
1274・81
(文永11・弘安4) |
1283(弘安6) |
1306(徳治元) |
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全国に守護・地頭が置かれる |
源頼朝が征夷大将軍になる |
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元寇(文永の役・弘安の役)
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大友頼泰が豊後に下向する |
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岩戸寺に国東塔が造られる |
大友貞親が万寿寺を創建する |
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室町 |
1333(元弘3) |
1336(建武3) |
1338(暦応元) |
1371(応安4) |
1392(明徳3) |
1467(応仁元) |
1530(享禄3) |
1543(天文12) |
1549(天文18) |
1550(天文19) |
1551(天文20) |
1571(元亀2) |
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後醍醐天皇が建武の新政を行う |
南朝と北朝に分裂する |
足利尊氏が征夷大将軍になる |
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南北朝が合一される |
応仁の乱起こる |
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種子島に鉄砲が伝わる |
キリスト教が伝わる |
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この頃、高崎城などで戦が起こる |
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大友義鎮が誕生する |
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大友義鎮(宗麟)が家督を継ぐ |
フランシスコ・ザビエルが豊後に来る |
大友相輪が九州6か国の守護となる |
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安土桃山
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1573(天正元) |
1586(天正14) |
1588(天正16) |
1590(天正18) |
1592(文禄元) |
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1598(慶長3) |
1600(慶長5) |
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織田信長が足利将軍を追放する |
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豊臣秀吉が全国を統一する |
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朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役) |
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関ヶ原の闘いが起こる |
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豊薩戦争(島津氏の豊後侵攻) |
黒田官兵衛が中津城築城に着手する |
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1593(文禄2)大友吉統が豊後国から除かれる |
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石垣原合戦が起こる |
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610大友氏の豊後入部 1196(建久7)年
ピンボケ
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大友氏の豊後入部
鎌倉時代になると、相模の国(神奈川県)の御家人であった大友能直が豊後の守護に任命され、その後一代〇
事が○○(文永の役)を契機にし、豊後に下りました。また、その一族は豊後国内を豊後国内に所領を得て、○○○○○○○
氏、戸次氏などの家を興しました
大友氏は、元々荘園の支配を行っていた荘官などとの領地支配権争いを繰り返しながら、徐々に領地支配を
○○○○○大名、戦国大名と成長していきました。そして1593(文禄2)年に改易されるまで、一貫して
○○○○○○○に関わり続けました。 |
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611
大友氏の豊後入部 |
ピンボケ見えない
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大友氏の系図
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大友氏主要家臣の配置
~戦国時代~
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現在、地名として残っている名前が沢山あります。
日田、佐伯、臼杵、津久見などなど
他にもあるのでしょう。 |
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以下は大友氏家来の豪族居館です。 |
612岡ノ前遺跡(杵築市)
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岡ノ前遺跡は、田原別符(宇佐宮領荘園)の地頭職を得た大友能直の子、泰廣が築いた館と考えられています。
13世紀後葉~15世紀前半にかけて使われていました。大きさは一町(約109m)四方と想定されています。
館の周りには、多くの五輪塔からなる田原家墓地や田原盛直、田原直平の墓と伝えられる優美な五輪塔と五重塔などの石塔があり、田原氏に関わる遺跡群として当時がしのばれる良好な歴史的景観を保っています。 |
岡ノ前遺跡(杵築市) |
岡ノ前遺跡 |
田原氏館周辺の
歴史的環境 |
田原氏館
(岡ノ前遺跡)
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田原氏館 |
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613古庄屋遺跡(こしょうや中津市)
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古庄屋遺跡は、一辺が一町(109m)ある鎌倉時代の居館です。中央に掘立柱建物群が建ち、南北を画す溝の内側には溝に沿うように土壙墓が並んでいます。豊前の宇佐郡、下毛郡は、元々宇佐宮が勢力をもつ地域でしたが、鎌倉時代になり、下野国(栃木県)御家人の地頭職を得て、勢力を強めて行った地域です。古庄屋遺跡は、このような新興勢力が築いた武士の館と考えられています。 |
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614上城遺跡(うえんじょう竹田市)
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上城遺跡は、独立した台地上にあり、そこから13世紀前半~14世紀後半の主屋、副屋、倉庫、厨、雑舎と考えられる37棟にも上る掘立柱建物跡が見つかっています。 当時の直入郡における有力武士(朽網氏か)の館の実体が明らかとなりました。 |
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615上城遺跡出土品 竹田市 13~14世紀
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ピンボケ |
上城遺跡出土品
うえんじょうあと
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紡錘車 14c |
碗状鉄器14c |
炉壁・鉄滓14c |
磁竈窯黄釉鉄絵盤
じそうようおうゆうてつえばん
13c
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土師質小皿
13~14c |
土師質坏
13~14c
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616古庄屋遺跡出土品 中津市 13~15世紀
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青銅製品14c
青磁碗13c |
古庄屋遺跡
こしょうや
中津市13~15c |
土師質坏 |
瓦器埦 16c |
瓦器埦 13c |
土師質 鉢14c |
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617岡の前遺跡出土品 杵築市 13~15世紀
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白磁皿13c
高麗青磁碗15c
青磁碗13c
瓦器埦13c
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陶器甕(常滑焼)13c |
銅製蓋14c
刀の鞘金具14c
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土師質燭台14c |
土師質坏
土師質小皿 |
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618中世大友府内町跡出土品 ※「府内」とは明治以前の大分市中心部の呼び名です。
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土師質小皿
土師質坏 |
青磁碗
土師質坏 |
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銅銭 |
土錘 |
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620中世人の葬送
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中世には、一般の人々にまで仏教思想が広まり、それを背景とした葬送儀礼が広くおこなわれました。
12世紀終り頃(鎌倉時代初頭)から、新興の武士層の墓と思われる、中国製の青磁碗などを入れた土壙墓(土葬)が検出される例が増えてきます。
そして、14世紀中頃(南北朝時代)から増加する石塔には、舎利信仰を背景にしばしば火葬した骨を納めたものが見られるようになりました。 |
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621屋敷墓
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中世前半期には、有力者が住む屋敷地内あるいは屋敷地に近い場所に一基から数基の土壙墓が築かれることが多く、
墓には中国製青磁碗を初めとする貴重な副葬品が入れられていました。
このことから、これらの墓は屋敷の開発者などの家長(惣領)が埋葬されたと考えられています。
※これは土葬の事を言っているようです。豪族居館の武士は土葬が行われた。
実際、昭和30年代までは土葬が多かったですから。ずっと、火葬と土葬が併行していたのでしょう。 |
佐知遺跡(中津市)
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集落のはずれで、一辺約50mの屋敷が発掘されました。屋敷の南西隅から、太刀等を副葬した武士の墓が見つかっています。 |
八坂中遺跡
八坂中遺跡(杵築市) |
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八坂中遺跡(杵築市)
屋敷の周辺から多くの墓が見つかっています。
頭位を西または北にして葬られ、中国産青白磁合子や青磁等が供えられていました。
※土葬墓です |
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623集落の墓地
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中世後半になると自立を強めつつあった村落では、ムラ人が一致団結して行動するためにお堂に集い、同じ神仏を信仰し、心の繋がりを深めていきました。墓地もそのような場として機能しました。 |
集落の遺跡 |
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千人塚遺跡(豊後大野市)
千人塚と呼ばれる墓地には、15世紀末から17世紀後半までの約200年間に渡り造られ続けた約170基の墓があります。
埋葬したあと周囲の土を削り出して塚を造っているため、風雨により土が流れることなく、今日まで「土饅頭」が残ったようです。
葬法には土葬と火葬があり、土層には座った姿勢と手足を曲げて寝た姿勢の2種類があります。
墓の規模や副葬された物に違いがあり、生前の社会的地位の差を表しているようです。
※近年、大阪のコンテナヤード跡地から、江戸時代の巨大な土葬の墓地が見つかり、多数の墓穴と人骨が出ました。 |
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城前遺跡(豊後高田市)
斜面を削って段を造り、そこに穴を掘って骨を納めています。
その上には五輪塔が建っていました。 |
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笠松遺跡(宇佐市)
土壙内で以外の上に藁などを乗せて焼いた跡です。
拾骨し、寺や石塔に納めたと考えられます。 |
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625千人塚遺跡出土品 15~16世紀 豊後大野市
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鉄鎌
15~16c
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土師器
小皿15~16c
坏15~16c
皿(京都系)16c
埦16c
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626笠松遺跡中世墓出土品 宇佐市 13~16世紀
土師質小皿15-16c |
瓦器埦13c
土師質坏15-16c
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627八坂中遺跡中世墓出土品 杵築市 11~14世紀
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碁石11c |
数珠玉 13c
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鉄鎌 12c |
鉄刀 13c |
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青磁碗
小迫墳墓群
日田市13c
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628
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629尾漕遺跡中世墓出土品 日田市 13世紀
鉄刀 |
白磁碗
白磁皿 青磁碗
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630発掘された中世墓
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631発掘された中世墓 佐知遺跡 中津市
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佐知遺跡17号遺構は、屋敷の一隅に頭位を北にして埋葬された13世紀の武士の墓です。
土坑の底に炭を敷き詰め、その上に遺体の入った木棺を置き、中には生前使用していた武具(太刀・短刀・鉄鏃)が納められていました。
遺体は、右を下にして横向きに寝かされ、剣と鋏を入れた木箱の上に頭を載せていました。
木棺の蓋を閉めた後、縁を欠いた青磁碗と土師器皿を棺の上に置き、さらに土を被せた後、大きな川原石を置いています。 |
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湖州鏡 |
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直径13.5cm。中国宋時代の青銅鏡。6ヶ所に抉りを持った花弁形です。縁は蒲鉾型に膨らんでいます。 |
和鋏 |
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全長12.2cm刃部6cm。持ち手には細い紐が巻かれていました。 |
太刀 |
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刀身82cm茎22cm。茎部には金銅製の金具が残り、鞘は鮫革黒漆塗りです。
太刀は20cm程抜いた状態で見つかっています。 |
鉄鏃 |
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鏃部分のみ4点あり、雁股式。斧箭式塔に分類される形態です。 |
青磁碗 |
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南宋の時代に造られた龍泉窯青磁碗が2点見つかっています。
内面には、5つに区画された中に花文が描かれています。縁は小さく打ち欠かれていました。 |
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633埋葬状況の再現 佐知遺跡17号遺構出土品 中津市 13世紀
埋葬状況の再現 |
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復元模型の上に出土品をおいて発掘状態を再現。 |
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佐知遺跡17号 |
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640石造物が語る中世社会
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大分県内には約3600ヵ所に、3万基の中世石造物があり、数、種類とも全国有数の「石造物王国」です。
仏教に関わる五輪塔や宝塔、宝篋印塔などの石塔や摩崖仏、神社の結界を示す鳥居やキリシタンの石製十字架など様々なものが
永遠を願って石で造られました。数百年にわたって風雨に耐えたこれらの石造物からは、中世人の祈り、弔い、供養の心が伝わってきます。 |
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五輪塔
五輪塔は大分県では最も身近な中世石造物であり、「ぐりんさん」などとよばれ、大切に扱われてきました。
五輪塔は、世界を構成していると考えられていた「空・風・火・水・地(五大)」を造形物として立体的に表現したもので、
四つの部材で構成されるものと、一石で全てを表した一石五輪塔とがあります。
大分県内では臼杵石仏の背後にある丘の上に建つ大型の一石五輪塔が最も古く、1170(嘉応2)年に造られました。 |
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国東塔
国東塔は国東地方で独特な展開を遂げた宝塔です。
その特徴は、塔身の下に蓮華座があること、基礎に二つあるいは三つに区切った格狭間(こうざま)が彫られていること、
さらに相輪先端が火焔宝珠になることが挙げられます。
最も古いものは六郷山寺院の一つである国東市の岩戸寺にあり、1283(弘安6)年の銘が刻まれています。
国東塔の広がりは、概ね中世六郷山寺院が存在した地域と重なります。 |
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五輪塔 |
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板碑
板碑は塔身の上部に仏菩薩を表す種子を刻んだり、墨で書いたりして、個人の追善供養などのために造立された塔婆です。
県下では1291(正応4)年に造られた阿弥陀三尊の種子を刻んだ国東市の護聖寺板碑が最も古く、
この板碑はあごの突出した頭部が別石造りになっている点が他とは異なっています。 |
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石幢(せきどう 幢は旗)
石幢は柱状の幢身と仏龕(どうしんとぶつがん)、笠などからなり、県内最古のものは豊後大野市にある1339(暦応2)年の
早尾原石幢です。
しかし、この石幢は龕部がなく、八角形の各面が板碑という特殊な形をしています。
龕部(がんぶ)に六地蔵や司命(しめい、閻魔の書記官)を彫る一般的な石幢で最も古いものは、
大分市にある1399(応永6)年の中間石幢です。 |
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宝篋印塔
宝筐院陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)の教えに基づいた宋代の中国で造られたものがその祖形で、
日本でも広く普及した石塔です。
大分で臼杵石仏の近くにあり、日本有数の高さを誇る「日吉塔」と呼ばれる宝篋印塔が最も古いとされ、
その造立時期は鎌倉時代後期(13世紀後半)と考えられています。 |
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650中世寺院 |
651
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平安時代に荘園経営をもとに勢力を拡大した宇佐宮や大神氏などの武士団の周辺地域に多くの密教寺院が立てられました。
特に宇佐国東の天台宗寺院は「六郷山」と呼ばれる寺院群を形成しました。
鎌倉時代に成立した新仏教は、民衆の救済に重きを置いたものであったため、一般にも広く仏教が普及することになりました。
更に武士が臨済宗・曹洞宗などの禅宗を庇護したため、各地に広がっていきました。
五代大友貞親は1306(徳治元)年、博多より直翁智侃(じきおうちかん)を招いて、府内に万寿寺を建立し、その後、県下に臨済宗寺院が多く開かれることとなりました。
また、曹洞宗は、1375(永和 )年に国東市泉福寺の開山以降、県北地域を中心に広がっていきました。 |
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653
六郷山 |
岩戸寺修正鬼会 |
天念寺
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「六郷満山」として親しまれている天台宗の寺々は、国東半島に広がっていますが、その成り立ちは様々でした。
平安時代の終り頃、「六郷山」としてまとめて延暦寺に寄進され、
鎌倉時代以降に寺院や組織の整備が進んだものと考えられます。
今では国東市の岩戸寺と成仏寺、豊後高田市の天念寺の3ヶ寺のみで催されている修正鬼会と呼ばれる法会からは、往時の六郷山をしのぶことが出来ます。 |
津久見門前遺跡
(もんぜ、津久見市) |
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発掘調査で14世紀後半代の瓦が大量に出土しました。
すぐ近くには1374(応安7)年あるいは1385(至徳2)年に創建されたと伝わる禅宗寺院の解脱闇寺(げだつあんじ)があり、その創建に関連する遺構と考えられます。
中世にこの地域で活躍した津久見氏や薬師寺氏などの津久見衆と強い繋がりのある寺院であったようです。 |
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654旧万寿寺跡(大分市)
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万寿寺は、禅宗寺院の官位では五山十刹(ござんじっさつ)に列せられる格式の高い寺院として発展していきます。
15世紀終りには、京都の戦火を逃れた雪舟がここの僧を頼りに来院しています。
発掘調査では、大量の瓦、土師質土器のほか、備前焼・瀬戸美濃焼などの国産陶器、タイ・中国・朝鮮産などの貿易陶磁器、
銅銭、鍵、櫛、硯などの多種多様なものが見つかっており、経済的な豊かさが伺えます。 |
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万寿寺の山号「蒋山」記名の瓦質土器火鉢
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赤く塗られた鬼瓦
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10貫文(約1万枚)の銅銭、備蓄か |
寺域北限の堀
幅6m深さ2.5m |
万寿寺遺構
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寺域が段丘で分断されたのは、火山のすそ野が六郷満山なので、浸食のようです。 |
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655
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万寿寺遺跡
軒丸瓦14-15c
軒平瓦14-15c
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瓦質燭台
青磁器台14-15
白磁多角坏14-15
滑石製蓋15-16
青花碗15
瓦質円盤状15-16
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瓦質香炉15-16
瓦質燭台15-16
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富貴寺遺跡
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石硯13-14 |
陶器おろし皿
瀬戸美濃系
13-14 |
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656天念寺遺跡円重坊 豊後高田市 12~16世紀
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土師質坏13-14
瓦器埦13c
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657旧万寿寺跡出土品 14-16c
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軒平瓦14
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京都系土師器
燈明皿16c |
鬼瓦14c |
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鳥衾とりふすま14c |
軒丸瓦14c
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660ムラと町 中世後半
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中世後半になると、それまで数軒で点在していた家々が、一ヵ所に集まってムラを形作るようになっていきます。
その中心には在地領主の館がありました。この時出来たムラが代を重ねて現在の村落に繋がっているのです。
また、宇佐宮の門前に広がる「宇佐町」や大友氏の館を中心とした「府内」などの町も造られました。 |
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661八坂遺跡群 杵築市
中世杵築の港湾都市であり、大変繁栄した。
八坂遺跡群 |
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遺跡は杵築市の八坂川河口近くの沖積微高地にあります。
ここは宇佐宮弥勒寺領荘園「八坂荘やさかのしょう」の海の玄関口にあたり、
そこで大規模なムラが発見されました。
更に、発掘調査で中国産陶磁器、愛知県の常滑焼の他、西日本各地で焼かれた土器が出土しています。
付近には今も小字「市」の地名が残っていることと合わせて考えると、そこで開かれた河原市に多くの人と物資が集まったことが想像できます。
ここは八坂荘で最も賑わった場所であったことでしょう。
写真はムラの中心部にある堀で囲まれた村落上位層の屋敷群です。 |
八坂遺跡群出土
搬入土器 |
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11~12世紀 |
13~14世紀 |
15~16世紀 |
九州 |
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豊前型瓦器碗 |
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中国 |
吉備系土師器碗 |
吉備系土師器碗 |
備前焼擂鉢・大甕 |
近畿 |
瓦器埦(和泉・楠葉型)
京都系土師器皿 |
楠葉型瓦器小碗 |
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東海 |
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常滑焼 |
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国外 |
龍泉窯系青磁碗 |
鎬蓮弁文青磁碗 |
青花碗 |
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662下深水のムラ(しもふこうず中津市)
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室町時代後半に、在地領主である深水氏(ふこうず)の屋敷「ズリヤネ城」を中心として、その南北にムラが形成されました。
屋敷の一辺は60~70mで、そこからは集落を一望できます。
北側にあるカシミ遺跡からは掘立柱建物跡や焼土坑、春畑遺跡からは一辺30~40mの区画を持つ屋敷が見つかりました。
このことから、生産性を高めた有力農民たちが土塁と堀で囲まれた屋敷に住み領主と一体となって「ムラ」を守る姿が浮かんできます。 |
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663宇佐町(宇佐市)
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宇佐町は宇佐宮の門前に造られた町です。
発掘調査(藤田遺跡)では平安~鎌倉時代の宇佐宮大宮司に関わる遺構が見つかりました。
宇佐宮を描いた応永の「宇佐宮古図」には呉橋に近い「本町」「横町」などの町しかないことからも、少なくとも15世紀前半の宇佐町は荘園領主でもあった大宮司家を初めとする宇佐宮有力者の屋敷が立ち並び、門前の一角に小さな町屋があった「領主都市」と考えられます。
その後、室町時代後半から江戸時代にかけて、宇佐大路を挟んだ短冊状の地割りの街並みが整えられていったと推測できます。 |
宇佐町(宇佐市) |
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応永の「宇佐宮古図」には本町や横町辺りが描かれています |
宇佐町古地図
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665宇佐町遺跡出土品
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ムラと町 |
青花皿・青磁皿
内黒土器埦 |
楠葉型瓦器埦 |
八坂遺跡出土品
瓦器小皿13-14
銅銭(北宋・明)11-14 |
土師器坏
土錘
土師器小皿 |
瓦質茶釜15-16 |
陶器すり鉢 備前焼
16c
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凹石 中世 |
土鍋12c |
藤田遺跡出土品 |
磁竈窯黄釉陶器盤12c
白磁・青白磁皿12c
青白磁合子
土師質小皿 |
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670戦国期の城と館
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鎌倉時代は平地に館を構えた武士たちも、戦国時代になると比高差20~30m程度の丘陵の上に要塞化した城館を築くようになります。
さらに、いざという時に領民たちの逃げ込む避難場所でもある山城も築かれました。
それらは麓からは200m程の比高差があり、敵の動きを封じるため堀切や竪堀を何本も入れて防禦を固めています。
いまでも堀切や土塁などが残っている城跡を県内600ヵ所近くで見ることができます。 |
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671
戦国期の城と館 |
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大分県にある主要中世城館 |
県内中世主要城郭 |
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672戦国期の山城と館
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高崎城(大分市)
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高崎城 |
海から屹立きつりつする高崎山の山頂に築かれた大友氏の詰城つめじろです。山頂付近には、土塁で囲まれた主郭と階段状の曲輪くるわなどがあり、それら全体を低い石塁せきるいで囲って防禦を固めています。また、南側山腹斜面には虎口こぐちを守るために複数の竪堀が彫られています。
これらの遺構葉戦国末期の大友氏の城造り技術の到達点を示しています。 |
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妙見岳城(宇佐市) |
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妙見岳城 |
妙見岳山頂にある山城で、元々周防の大友氏が築いたものでした。戦国時代に入ると大友氏と大内氏の間で争奪戦が繰り広げられます。
その後、大内氏が滅んだ後、大友氏の豊前支配の拠点の一つとして、戦国時代末期まで使われます。1586(天正14)年
、島津氏に府内を終われた大友義統が逃げ込んだ城でもあります。 |
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673山城測量図
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上門手遺跡
豊後大野市
有力在地領主の城館 |
一万田館
豊後大野市
一万田氏の居館 |
小路遺跡(竹田市)
朽網(くたみ)氏の居館 |
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675山城出土品
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慈眼山遺跡出土品
日田市15c |
土師質坏
青磁碗・土師質小皿
小青銅仏・宋銭 |
ピンボケ
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一万田館跡出土品
豊後大野市15-16c
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羽口・銅製注口付柄杓 |
京都系土師器 |
陶片 |
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680豊後府内と臼杵
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681豊後府内と臼杵
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大分県を代表する戦国期の町に、大友氏が武士や商人・職人を集めて築いた豊後府内と臼杵があります。
臼杵は近世都市としてもその姿を一部に留めていますが、豊後府内は1586(天正14)年の島津氏侵攻で消失しており、
更に城下町が移転したことから、近世以降は水田地帯となりました。
しかし、近年の大規模な発掘調査によって、急速にその往時の姿が明らかになってきました。 |
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682臼杵
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臼杵の町は1556(弘治2)年頃、大友義鎮(宗麟)が家臣の反乱を契機に居所を府内から丹生島城に移した際に城下町として整備されたものです。
大友氏除国後の1593(文禄2)年の検地帳には、唐人町、畳屋町、浜町、菊屋町、横浜町などの町名が見られます。
府内と同様に唐人町があり、大友氏の御用商人中屋宗悦の屋敷もあるなど、府内の町人を移住させて町立てが行われたものと考えられます。 |
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685中世大友府内町出土品 大分市 16世紀
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中世大友府内町 |
中世大友府内町 |
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豊後府内と臼杵 |
戦国期の城と館
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687大友府内出土品
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700江戸時代
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江戸時代の大分県は、「八藩七領」といわれる府内藩や中津藩などの八つの小藩と、幕府領(天領)・宇佐神宮領・島原藩領などの七つの分知領が複雑に入り交じります。
この状況は「小藩分立」とも呼ばれ、各藩の城下町が経済的な発展を遂げるのを阻害する大きな要因でもありましたが、地域の特色を生かした産業や個性豊かな文化を生み出す土壌ともなったのです。 |
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701
江戸時代 1185年~1600年
鎌倉 |
1600(慶長5)
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1603(慶長8) |
1615(元和元) |
1637(寛永14) |
1650(慶安3) |
1659(万治2) |
1662(寛文2) |
1689(元禄2) |
1716(正徳6享保元) |
1781(天明元) |
1787(天明7) |
1803(享和3) |
1817(文化14) |
1826(文政9) |
1841(天保12) |
1860(万延元) |
1867(慶応3) |
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関ケ原の戦い |
徳川家康征夷大将軍となる |
大坂の陣が起こる |
島原・天草一揆が起こる |
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享保の改革が行われる |
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寛政の改革が行われる |
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天保の改革が行われる |
桜田門外の変起こる |
大政奉還・王政復古の大号令 |
明治政府が始まる |
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オランダ船リーフテ号臼杵の佐志生沖に漂着
石垣原合戦 |
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府内藩、初瀬井路を開く |
豊後崩れ(キリシタン弾圧)が行われる |
岡藩、緒方井路・城原井路を完成する |
中津藩、荒瀬井路を完成する |
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佐伯藩主毛利高標、佐伯文庫を開く |
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唐橋君山ら、豊後国志を完成させる |
広瀬淡窓が 咸宜園を開く |
広瀬久兵衛が呉崎新田の干拓を始める |
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福沢諭吉、咸臨丸でアメリカに渡る |
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710織豊系城郭の展開と大分(撮り忘れ)
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複雑に折れる虎口(入口)や高くそびえる石垣、その上に建ち並ぶ瓦葺建物といった要素が揃った城郭を「織豊系城郭」と呼びます。
九州では小早川氏の名島城(福岡県)とともに、黒田官兵衛の中津城(中津市)が、その最古のものです。
その後、大友氏の豊後除国により、豊臣秀吉の配下の武将が豊後各地を支配するようになると、豊後にも織豊系城郭の影響かに多くの城が築かれるようになっていきました。 |
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711
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713県下各地の織豊系城郭
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中津城(中津市)
黒田孝高(官兵衛)が1588(天正16)年より築城を開始しました。
本丸周辺や大手門跡に黒田氏段階の石垣が残っています。
石垣には7世紀の古代山城である「唐原山城とうばるさんじょう」(福岡県築上郡上毛町)の石も利用されました。
その他、桐文軒丸瓦や金箔瓦、豊前小倉城や肥前名護屋城との同笵瓦なども出土しており、当時の城郭築城の様子を窺い知ることが出来ます。 |
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角牟礼城(つのむれじょう 玖珠町)
大手門付近に典型的な「穴太積みあのうづみ」の石垣が残されていることから、国指定史跡になっています。
発掘調査で大手門と西門にほぼ同規模の礎石建物(門跡)が確認されました。
1594(文禄3)年から1600(慶長5)年にかけて、日田・玖珠地方を領有した毛利高政が築城したと推定されています。 |
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安岐城(国東市)
天守台や石垣、土塁、空堀等が今でも良く残っており、発掘調査では瓦葺の礎石建物である隅櫓も確認されました。
熊谷信盛によって1594(文禄3)年から1600(慶長5)年に掛けて整備されたもので、慶長5年に黒田官兵衛によって攻められ、落城しました。 |
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715関ケ原以降の織豊系城郭ピンボケ・撮り忘れ
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・・・・大友義統(大友宗麟の嫡子)は豊臣秀吉から豊後国を改易されます。
その後の豊後国は、秀吉の家臣である複数の武将たちに与えられ、彼らは自らの領地に拠点となる城郭を建設します。
豊後各地に織豊系城郭の影響を受けた城が出現するきっかけは、この時にあったのです。
1600(慶長5)年の関ケ原合戦後には西軍方に付いた豊臣系大名は滅亡し、これに代わって徳川系の大名が新たな支配者として各藩に入部します。
新築や改築された城郭は、その後の藩体制の礎となるものでした。 |
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716角牟礼城跡出土品
つのむれじょう
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陶器・土器
角牟礼城跡
16世紀
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白磁皿
瓦質土器擂鉢
京都系土師器皿
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青花碗・青花皿 |
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門の扉の引手
円形金具 |
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かんぬき金具 |
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718安岐城跡出土瓦等
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コビキA技法による丸瓦 中世大友府内町跡第72次調査(大分市) 16世紀
「コビキA」とは、瓦の原材料となる粘土板を粘土塊から切り出す際に、撚糸を使って切り離す技法(糸切り技法)及び痕跡のことで、瓦の凹面に撚糸がスライドした斜め方向の痕跡が残ります。古代から中世にかけて多くの丸瓦がこの技法で作られました。
コビキB技法による丸瓦 安岐城跡(国東市) 16世紀
コビキB」とは、鉄線を使って切り離す技法(鉄線切り技法)及び痕跡のことで、瓦の凹面に鉄線がスライドした水平方向の痕跡が残ります。
16世紀末葉頃からこの技法で作られた丸瓦が出現し、地域差はありますが、全国的にも丸瓦の製作技法がコビキA技法からB技法へ変化します。 |
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719角牟礼城瓦等ピンボケ
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730城下町のくらし
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「城下町」とは大名の居城を中心に展開した都市のことです。
藩主が住み、政治を行う本丸などの周辺に家臣の武家屋敷を配置し、武家地の更に外側には商人や職人を職種ごとに分かれて居住させるなど、
同心円的な構造を持つことが一般的でした。
大分県には幕末まで存続した八つの城下町があり、これらは各地地域の経済の中心都市て発展しました。 |
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731杵築城下町(杵築市)
杵築城内外古図
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1645年(正保2)年、杵築に入部した能美松平氏3.2万石の城下町です。
北台と南台という高台に武家屋敷が置かれ、その間に挟まれ谷部に町屋を配置するという、自然地形を巧みに利用した珍しい形をしています。
谷部の町屋の発掘調査では5面の焼土層が確認されるなど、たびたび火災にあったことが分かりました。
※能美とは三河国額田郡能美の出身だから。石川県の能美は野身郷を能美に改めたもの。偶然の一致 |
慶長拾年府内絵図
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福原直高のあと、1600(慶長5)年に入部した竹中重利は城下町の整備を行い、大友氏以来の府内の町から住民を移しました。
その後、日根野吉明を経て、1658(万治元)年府内藩に大給松平氏(だいきゅうまつだいら)が2.2万石で入府し、幕末まで存続しました。それ以前の1694(元禄7)年に府内を訪れた貝原益軒は、「城は(略)すこぶる大なり、(略)町もすこぶるひろし」(『豊国紀行』)と記しています。 |
杵築城内外古図 |
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府内城下町(大分市) |
慶長拾年府内絵図 |
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735城下町出土品
寛保3年大火資料 府内城三ノ丸遺跡(大分市)18世紀
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1743(寛保3)年に府内城下で発生した大化では、府内城天守閣が焼失するなど、城と城下町の大半が火災の被害を受けました。
出土した陶磁器の中には、強く熱を受け、焼けただれた状態の物があり、火災の凄まじさを物語っています。 |
城下町出土資料 |
陶磁器 |
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被熱した陶磁器 |
寛保)年大火資料 |
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737城下町出土資料
大給松平家紋鬼瓦
左:17世紀
右:19世紀
※幕末に城の屋根替えをする余裕があったのか |
鯱瓦しゃち
府内三ノ丸19世紀 |
生活雑貨17c |
磁器燈心押さえ
西洋式鍵・賽子・花瓶 |
鈴・小柄・土人形
煙管・鳥笛 |
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740江戸時代の焼き物
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江戸時代には県下各地で土器や陶器を焼成した窯場がありました。これらは火鉢や甕といった生活に密着した道具を生産する小規模なものが多かったのですが、小鹿田焼()などのように流通圏を確立し、その地域の主な産業となるものもありました。
また、江戸時代後期以降になると肥前地域などから陶石を持ち込んで磁器の生産を試みる窯場もありましたが、原料の不足などから長続きせず、短期間で生産を終了しています。 |
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741
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743
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小鹿田焼おんたやき |
①小鹿田焼(おんたやき)
1705(宝永2)年、日田市源栄町皿山に開かれた陶器窯です。
日田郡代、室七郎左衛門重富の要請により、福岡藩主黒田信正が筑後小石原の陶工、柳瀬三右衛門を技術指導に派遣して開窯をしたと伝えられています。
近代になって民芸運動を提唱した柳宗悦やイギリス人陶芸家バーナード・リーチによって、日本全国や海外にも紹介され、現在も10軒の窯元が陶器の生産を続けています。 |
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高村焼 |
②高村焼
宇佐市高村で生産された、宇佐神宮で神事に使われる素焼きの焼き物(土器かわらけ)です。
高村では、少なくとも鎌倉時代の初めには土器作りが始まっていたことが古文書で確認できますが、
近世には「ほうろく」「こね鉢」などの日常雑器が生産されていました。第二次世界大戦後には、需要の減少とともに、土器作りの伝統も途絶えました。 |
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末広焼 |
③末広焼
臼杵市大字末広字寺尾にあった陶磁器の窯です。1802(享和2)年に臼杵藩によって開窯されました。陶工には肥前島原三重町の金助、松蔵、伊右衛門、筑後小石原の武介、日向延岡小峰町の勝弥など9人が知られけています。
肥後天草から陶石を入手し、陶器の生産も行われました。窯は10年近く稼働していたと言われていますが、1815(文化12)年には廃業となりました。 |
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丸山焼 |
④丸山焼
臼杵市仁王座丸山にあった陶器の窯です。幕末期に臼杵藩が日向延岡から、陶工白瀬定吉・木村某を招いて開窯させました。丸山焼の生産地は陶器場と呼ばれ、明治10年代前半頃まで生産が続いたと言われています。
近年、臼杵城下町跡の発掘調査で「臼杵丸山」の刻印を持つ瓦質土器・焜炉が多量に出土し、丸山ではこのような土器製品も生産されていたことが確認されました。 |
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波越焼なんごう |
⑤波越焼
佐伯市大字片田字サラヤキにあった陶器の窯です。文禄慶長の役に出兵した毛利高政が朝鮮半島から連れてきた陶工により開窯した陶器窯あると伝えられています。大分県では最古の陶器窯で、碗・皿のほか、蓋置などの茶道具も生産されていたことが確認されています。 |
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750近世墓地の展開
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16世紀末から17世紀前半にかけての一時期、キリシタンの多く住んだ臼杵、直入などでキリスト教による墓地が営まれました。
しかし、これらの墓地は1613(慶長18)年の禁教令を契機として使われなくなりました。そこには、墓の上に被せられた「かまぼこ状」の石が残されています。
一方一般村民の墓地は17世紀前半まではあまりはっきりしませんが、17世紀後半になると墓石を建てるようになり、今につながる墓地が成立します。発掘調査では、外からうかがい知れない埋葬法(土葬か火葬か)や埋葬品の内容が分かり、近世の埋葬習俗を検討する上で貴重な資料となっています。 |
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751
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752発掘された主な近世墓地
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中尾近世墓地(大分市) |
中尾近世墓地(大分市)
約80基の墓を調査。このうち46基の下には墓坑が残されていました。
埋葬の棺が1790年代を境に、早桶(円形)から木棺(方形)に変化していることや、
明治時代になると木棺に使われている釘が角釘から丸釘に変化していることなどが分かりました。
六道銭は限られた少数の墓にしか使われていませんでした。 |
桐ヶ迫遺跡近世墓地
宇佐市
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桐ヶ迫遺跡近世墓地(宇佐市)
丘陵斜面を掘削し、平坦面に3基の墓を構築した近世墓地。1号墓は塚状の墳丘とそれを取り巻く溝を持つなど、特殊な形態でした。
墓坑内部から六道銭とともに錫杖や輪宝形金物が出土したことから、修験者の墓と考えられています。 |
横塚第2遺跡
大分市
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横塚第2遺跡(大分市)
海浜部の砂地に立地する近世墓地。砂地で深い墓坑が掘れないため、ほとんどの墓が下層墓でした。蔵骨器として蛸壺と推定される土器が使われているものもあり、漁民の墓地だった可能性があります。胎児の墓やペットと思われる猫の墓も発見されました。 |
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753キリシタン墓地
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下藤地区キリシタン墓地(臼杵市) |
下藤地区キリシタン墓地(臼杵市)
近年の発掘調査で60基を超える伸展葬のキリシタン墓が墓上施設から墓坑に至るまで、ほぼ完全な形で残っていることが判明しました。
墓は複数の列をなして作られており、使われた石材の中には中世石塔の部材もありました。
墓地内には十字架を立てたであろう石敷広場や石敷の道路なども発見され、その年代は16世紀末から17世紀代と推定されています。 |
掻懐キリシタン墓地
臼杵市 |
掻懐キリシタン墓地(臼杵市)
凝灰岩で作られた2基の墓碑があります。このうち
1号墓(写真左)は日本でも最大級の半円形伏碑で、正面小口にカルワリオ(ゴルゴダの丘)とラテン十字の表現があります。
2号墓(写真右)は方柱形状墓で、1号墓と同様、カルワリオとラテン十字の表現がありますが、
カルワリオは小口の下面を弧状に突出させて表現しています。墓碑の年代は17世紀前半と推定されています。 |
岡ナマコ墓地 |
岡ナマコ墓地(豊後大野市)
発掘調査は行われていませんが、近年の現地調査でキリシタン墓地と考えられているものです。
墓上施設はほとんどが伏碑で伏碑の下に石組遺構を持つものもあります。
墓上施設には、石塔類の部材を転用したものがあるなど、下藤地区キリシタン墓地と共通した特徴が見られます。
墓地の年代は17世紀初頭と推定されています。 |
近世墓地とキリシタン墓地の分布
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近世墓地
ガラヌノ遺跡
広瀬遺跡・峯添遺跡
桐ヶ迫遺跡
小野家墓地
祇園原遺跡 |
女狐近世墓地
中尾近世墓地
茨川原近世墓地
久原第2遺跡
稲荷谷近世墓地 |
キリシタン墓地
掻懐キリシタン墓地
御霊園クルスバ墓地
下藤地区キリシタン墓地
岡ナマコ墓地
重岡るいさ墓地 |
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755墓地出土品 中尾近世遺跡18~19世紀
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土師質土器小皿
中尾近世墓地
18世紀 |
土師器小皿
18世紀 |
布が付着した六道銭
18世紀 |
色絵稲荷像
中尾近世遺跡
18~19
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染付仏飯器
中尾近世遺跡
18世紀
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白磁 紅皿
18世紀 |
染付 紅皿・埦
18世紀 |
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756修験者墓地出土品
輪宝形金物りんぽうがたかなもの 桐ヶ迫遺跡 1号墓 宇佐市 18世紀
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輪宝は厄災をはね除ける効果があるといわれている金属製品です。
修験者や僧が着る袈裟などに付けて使われました。 |
錫杖 桐ヶ迫遺跡 1号墓 宇佐市 18世紀
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錫杖とは修験者や修験僧が持ち歩く杖のことです。杖の頭の部分には特殊な金具がつけてあり、杖を突くと音が鳴ります。木でできた杖の本体は腐って失われていましたが、頭に付けられていた銅製の飾り金具が残っていました。 |
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757火葬骨骨壺
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770僧侶の墓(女狐近世墓地7号墓)
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無縫塔形式の墓石の下から、棺として使われた唐津焼大甕が見つかりました。
戒名脚字に「法印」と記されていたことや、瓶から木製の珠数や、袈裟金具が出土したことから、僧侶の墓と考えられます。
福岡平野などの北部九州では、大甕を埋葬主体に用いる事は、一般階層にも普遍的に認められますが、女狐近世墓地では、僧侶の墓に限られると言う特徴があります。福岡平野に比べ、唐津焼大甕を入手しづらいことがその背景にあったのでしょうか。 |
僧侶の墓 |
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女狐近世墓地 大分 |
僧侶の骨壺(骨大甕) |
土師質小皿 |
袈裟金具、木製数珠 |
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800大分の土器たち
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人間が初めて化学変化を利用して作り上げた造形物である土器。
それは時には実用性を優先させた機能美を持ち、時には芸術品と見まがうほどの造形美を持ちます。
また、時間の経過と共に形は移り変わり、時代の画期を教えてくれます。
さらに、土器に現れた地域的な特徴は、集団アイデンティティを自覚的にせよ、無自覚的にせよ示すものといえます。
このように、土器は考古学の基本資料としてもとても有用なのです。
また、必要以上の華美な装飾を施す縄文土器は、縄文人の精神生活を映し出しています。
いかにも実用的に見える中世の土器には清浄性がもとめられ、一度宴会で使われると捨てられました。
土器にも先人のいろいろな思いがこもっているのです。 |
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801
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ここに並んだ土器や陶磁器は1万年近くに渡って、すべて昔の人が手作りしたものです。
時代とともに形や色が変わっていくのがわかると思います。一つ一つをじっくり見てくださいね。 |
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810縄文時代
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820弥生時代
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830古墳時代
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840古代
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843中世
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850江戸時代
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※はじめに
次項からの写真は大変下手です。まともに撮れていません。最初にお詫びします。
次項から始まる「豊後大友資料館」は、大友宗麟時代の豊後が、南蛮貿易によって発展し、華麗な絶頂期を迎えた時代の展示である。
石川県立博物館が“加賀王朝文化”を展示の中心にしたように、ここでは、別室を設けて安土桃山時代の南蛮文化を展示するものです。
BVNGOとは当時の西欧人が“BUNGO”を自国流の言語で表記したものです。
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900豊後大友資料館
ごあいさつ
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大友宗麟は南蛮貿易を積極的に推し進め、その結果、大分県には様々な南蛮文化が花開きました。
この南蛮文化の姿は、今も伝え残されている当時の貴重な資料を通してうかがい知ることができます。
本展示会では、その伝来された貴重な南蛮資料を多数所蔵している津久見市との共催を得て、その全点を一挙公開します。
また宗麟の城下町である豊後府内では、発掘調査によって多数の南蛮資料が出土しており、当時の南蛮文化を伝える貴重な資料として令和元年に国の重要文化財に指定されました。
しかし、この出土資料は、地中から発掘されたという性格上、完全な形で残っている資料はほとんどありません。
そこで、本展示会では、それらの資料の完全な形を対比することにより、重要文化財に指定された豊後府内出土遺物の迫力を視覚的にも体感していただきたいと思います。
さらに、南蛮資料の代表的作品である南蛮漆器については、東京文化財研究所が中心となって、美術史学、考古学、理化学、動物学等様々な分野を統合した学際的研究が進められています。
津久見市が収集する際に参考とした、南蛮文化館所蔵のIHS書見台はCTスキャンによって、その製作構造まで解明されています。
現在津久見市所蔵資料についても、考古学的な形態研究に加え、蛍光X線分析等の理化学分析も行っており、その学際的研究が進みつつあるところです。本展示会では、この最先端の学問研究の成果を展示と講演会、シンポジウムでたどります。
最後になりましたが、本展を開催するにあたり、多大なご協力をいただきました関係各位に心よりお礼申し上げます。 |
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901企画展「大友氏の栄華」
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910 |
911中世都市豊後府内の復元
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大友氏時代の都市「豊後府内」の様子を現在に伝える資料として、「府内古図」と呼ばれる古絵図が知られています。
「府内古図」は現在10枚程度の資料が残されていますが、いずれも江戸時代以降の写しです。
『大分市史』編纂の過程で、それまでに知られていなかった元本に近いものが確認され、それをもとに、戦国時代の豊後府内の復元図が作られました。
絵図の表現・記載事項の違いから、府内古図はA、B、Cの3つに分類され、豊後府内研究の基礎資料となっています。 |
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913
蒔絵螺鈿花鳥文書箪笥 |
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蒔絵螺鈿花鳥文書箪笥 安土桃山時代~江戸時代初期 約450~400年前
下辺の蝶番をつけた蓋(扉)が前方に倒れの形式の箪笥。
蓋を倒せば机の下の天板の代用となることから書箪笥と呼ばれている。
本作は鍵の付いた蓋の表面に平蒔絵で花鳥文を配し、蓋裏面には朝顔文を、内部の抽斗には南蛮唐草で囲った蔓文、中央の抽斗にはアーチ型の装飾を施す。
四周には、黒漆地に幾何学文様で縁取りし、花樹の模様を金銀平蒔絵で螺鈿を併用して隙間なく描き込むなど、ひと目見て綺麗な作品に仕上がっている。
16世紀から17世紀初頭にかけて生産された典型的な輸出漆器のひとつである。 |
蒔絵螺鈿花鳥窓絵箪笥
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蒔絵螺鈿花鳥窓絵箪笥 江戸時代初期 約400年前
各観音開きの扉。内面に小抽斗ひきだしを設け、花鳥文様を配する。四周に菱形文を連ねて装飾。
さらに内面には二重山形文風の図様を連ねて意匠を取り巻く。
正面の扉、天板、両側面にそれぞれ窓枠を設け、中に花鳥文を描き込むなど、黒漆の余白地を生かした図様構成は見事で、江戸時代の初期の様式を示しているといわれます。
金銀の蒔絵や螺鈿を多用し、華やかな感じのする輸出用漆器の中で、趣が異なり独特の味わいを見せる作品と言える。 |
蒔絵螺鈿花弁文小洋櫃
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蒔絵螺鈿花弁文小洋櫃 安土桃山時代から江戸時代初期 約450~400年前
大中小ある洋櫃の中で最も小型の部類に入る洋櫃。蓋の上部には持ち運びができるように提げるための金具が付けられている。こうした小型の部類に入る洋櫃の特徴のひとつが蓋に側面が付かず、身の方が半月状に立ち上がった 造りとなっている点で、そのほとんどがこの種の南蛮漆器の中でも、比較的古い時代の作品と考えられている。
総体、黒漆塗り。周囲に幾何学文を巡らし、中央縦に七宝繋ぎ文を帯状に施し区割りし、中に葛や萩といった草花を金の平蒔絵と螺鈿で表している。特に、四方を取り巻く螺鈿による鋸歯紋は印象的。
漆地の黒と、花(螺鈿の白)と花枝(金蒔絵)とのコントラストが絶妙で、南蛮輸出蒔絵の典型的な作品。 |
蒔絵螺鈿花鳥文洋櫃
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蒔絵螺鈿花鳥文洋櫃 安土桃山時代~江戸時代初期 約450~400年前
大中小と様々な大きさがあり、個々に意匠を凝らすなどバラエティに富んだ作品の多い洋櫃の中で、この洋櫃はどちらかと言えば、中くらいの大きさのもの。
総体を黒漆塗で、器面を市松模様風の帯で縁取り、その中を花鳥文様で充填している。穹窿形の上面には孔雀を、鍵金具が付いた前面には兎と鳥を平蒔絵で、その隙間に花樹を平蒔絵に螺鈿を交えて加飾している。
器面全体が経年による劣化で平蒔絵が傷み、薄くなっているが、それがまた独特の趣を感じさせる作品となっています。
桃山時代のスタイルを有する洋櫃の優品と言える。 |
蒔絵螺鈿鮫皮貼社殿に花鳥文櫃 |
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蒔絵螺鈿鮫皮貼社殿に花鳥文櫃 安土桃山時代~江戸時代初期 約450~400年前
天板が上に開く形式の装飾用の箱。下部に抽斗が設けられ、側面に把手を付ける。洋櫃・書箪笥とは明らかに異なった器形。
総体に黒漆塗り、各器面の周縁部を鋸歯文で縁取り、内に窓絵状の飾り枠を螺鈿で設け、平蒔絵や螺鈿によって花鳥図や花鳥に社殿の図を描き込む。窓枠の外側は鮫皮(鱏エイの皮)を周囲に貼って装飾している。
桃山時代の様式を色濃く残す典型的な南蛮漆器の優品のひとつ。 |
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914
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天正遣欧使節肖像画(複製)
原品 紙本 木版着色 1586年(天正14) 京都大学附属図書館
天正10年アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(イタリア人・キリスト教巡察使)の勧めにより、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠ら九州のキリシタン大名は4名の少年をローマ法王(グレゴリオ13世)のもとに派遣した。
原本は、1586年ドイツのアウグスブルクので発行された新聞に掲載された一行の肖像画で、中央上部に案内役を務めた
ディエゴ・デ・メスキッタ師(ポルトガル人司祭)、伊藤マンション(右上)、千々石ミゲル(右下)、原マルチノ(左下)、中浦ジュリアン(左上)、らの一行の肖像画が描かれている。 |
天正遣欧使節訪問記念メダル
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天正遣欧使節訪問記念メダル
(グレゴリウス13世メダル)
銅製 1585年 長崎歴史博物館蔵
天正遣欧使節は、1585年にローマに到着し、3月23日に教皇グレゴリウス13世に謁見した。
教皇は東洋の布教にも尽力した人物で、天正遣欧使節団を歓迎した。
このメダルは、その記念と教皇の権威を称えるために作られたと考えられる。
表面にはグレゴリウス13世の横顔と「GREGORIVS XⅢ PONT-OPT-MAXIMVS」の文字、裏面には「日本の王によるローマ教皇への最初の使節および服従 1585」の意のラテン語が刻まれている。 |
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グレゴリウス14世メダイ(原文まま)
16世紀 茨木市指定有形文化財 茨木市個人蔵
円形の形態をなし、図像は表面に教皇グレゴリオ14世の肖像と「GREGORIVS・ⅩⅣ・MAX」、「AN・I」の文字が見られ、「最高の司教;教皇」「教皇在位の第一年」を意味する。
裏面は向かって右ニキリスト、左に聖母マリア、その上方中央に政令をあらわす鳩の像が描かれる。
時計廻りに「IN・GRAM・PHILIPPINARVM」、下方には反時計廻りに
「ROMAE・AN・1591」のラテン語の銘文をみとめられ、「フィリピン諸島への恩顧」と解されている。
グレゴリオ14世の在位期間は1590年12月5日から1591年10月15日までで、智雄三年代が1591年に特定される。 |
天正遣欧使節訪問記念メダル
左:グレゴリウス13世
右:グレゴリウス14世 |
左:グレゴリウス13世
右:グレゴリウス14世 |
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920 |
924南蛮漆器を科学する
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考古学とは、過去の人類が残した物質資料に基づいて、人類の過去を研究する学問であるため、その物質資料の詳細な検証がベースとなる。
考古学では、通常出土資料が対象となるので、南蛮文化に関しては、土中で腐食せず遺跡に残存することのできる貿易陶磁器の研究が進んでいる。
さらに近年では、同じく遺跡で残存できるキリシタン遺物を始めとした金属製品の研究も進み、キリシタン文化とともに南蛮文化の要素が考古学的にもつかめるようになってきた。
ただ、南蛮漆器などのいわゆる有機質の物質については土中では残存しにくく、出土例がほとんどないのが現状で、考古学的研究もあまり進んでいない。
しかしながら、考古学がモノを詳細に観察すると言う点においては、その研究手法は伝世資料にも応用でき、小林公治氏を中心に書見台や聖龕の編年が試みられている。
さらに、豊後府内では城下町をめぐっている堀の最下層は、泥状の水分を含んだ土層であるために、数多くの漆器が当時の輝きを保って出土している。
今後、南蛮漆器のようなものも出土する可能性が期待できる。
本展示では、小林氏の編年試論に基づき、聖龕の中でも初現期の資料を中心に紹介する。聖龕とは、観音開きの厨子の扉の中にキリスト教礼拝用の聖画などを納める携帯可能な祭壇のことである。
形態的には○○の形状に水平、三角、波〇、湾曲などの種類があり、蝶番や隅金具には装飾がされるものが多いが、初期のものは、水平屋根で、蝶番などの金具部分が無文であるのが特徴である。 |
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考古学の型式編年による時期の解明 |
蒔絵螺鈿 聖者像 聖龕 安土桃山時代~江戸時代初期 約450~400年前
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聖龕とは観音開きの扉の中に礼拝の対象となる。聖画を納める厨子。
本作は、スペイン舟の寄港地プエルト・リコで発見された作品として知られる。
この聖龕には、上部に破風はなく、吊り金具がついた壁掛け用に仕立てられたもの。扉の表面には、右に朝顔、左に菊、また裏面にも枝垂れ桜、左に葡萄が描かれている。
技法は金銀平絵巻に螺鈿を併用。その意匠はおおらかで、表現は高台寺蒔絵に近く、17世紀初頭のものとされている。
そして、内部には、漆塗りの背板に直接、両手を広げ上空に発するわずかな光に反応するかのように、見上げる聖者と、百合の花を持つ天使と、本を開いている天使がそれぞれ油彩で描かれている。画像の周囲には飾り枠が付けられていたと思われる跡が残る。
これまで、この聖人が誰なのか特定されていなかったが、近年、聖ガエターノである可能性が指摘された。
全体的に、保存状態も良好で、海外もほとんど認められない優品として評価も高い。 |
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CT scanによる製作技法の解明
南蛮文化館所蔵の2基の書見台(イエズス会紋章入り書見台、IHS菊桔梗蒔絵螺鈿書見台)が、奈良県奈良国立博物館によってCT scan撮影された。CTスキャン映像には、木目がはっきりと写し出されており、木目は接合部分を通り越してつながっていた。つまり、この2基の書見台はいずれも一枚板から作られていたことが判明したのである。
さらに、1枚は針葉樹、モイ1枚は広葉樹の厚板材を、板目方向に縦引きにし、蝶番部分を刳り抜いて作っていることも明らかになった。
奈良国立博物館では、インドネシアの木彫コーラン書見台とトルコの螺鈿コーラン書見台もCTscan撮影を行っており、その結果、両者ともに南蛮文化館所蔵の書見台と同じように1枚板から作られていることが判明した。南蛮文化館所蔵の書見台は、17世紀にキリスト教の聖書を置くために作られた台と考えられ、インドネシアとトルコの書見台は、イスラム教のコーランを置くための台で用途は異なる。しかし、もともと聖書用の書見台は、コーランの書見台の影響を受けて作られたとも言われており、両者の関係は深い。 |
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2-4イエズス会紋章入り書見台 17世紀初頭
この書見台は、小林氏が「類南蛮漆器式書見台」と呼称しているもので、日本本土以外(おそらく中国南方沿岸地域)で南蛮漆器を模して、制作されたと考えられているものである。
中央にイエズス会の紋章「IHS」が浮き彫りで、その周囲には箔絵で竹花鳥模様が施されているほか、四隅には花弁が浮き彫りにされている。
この書見台脚部の格挟間の形態は2-5の書見台に比べ古式の模様を呈しており、、
小林氏編年ではⅠ期17世紀初め頃に位置づけられている。
2-5の書見台と共に、上部背板部と脚部がそれぞれ一枚板で作られていることがCT scan撮影により判明した。 |
Tスキャンによる製作技法の解明 |
2-4イエズス会紋章入書見台
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2-6木彫コーラン書見台
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ジャワ島製と聞くインドネシアのコーラン用小型木彫書見台である。
書載面は無文であるが、左右外面上半分にはそれぞれ花文で取り囲むアッラーとマホメットを示すアラビア文字、またその四隅に花弁様の文様を彫り込む、ガジアンテブの書見台同様、一枚板を上下から半裁し両面から切り込みを入れて蝶番を作っており、こうした方法がコーラン書見台製作技術として、世界各地に広く共有されていることがわかる。(2018年ジャカルタにて入手)。 |
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蒔絵螺鈿花樹鳥獣文箱
安土桃山時代~江戸時代初期 約450~400年前
各面に七宝繋の縁飾りを凝らし、内に花樹鳥獣文を表した合口作りの箱全体的に上部に兎に鳥、前面に兎、また側面に花木、柘榴の樹木と石。
裏面にも花木と柘榴を平蒔絵と螺鈿で加飾し、華やかな感じのものとなっている。
花木の表現に対し、兎や鳥、その両脇に配置された土坡や東屋などは稚拙な表現ではあるが、それが逆に愛くるしいものとなっており好印象を与える。金具や金彩に補修、補筆が目立つが、海外で長期間保管されていたものとしては致し方のないところであろう。南蛮輸出色の典型的な作品。 |
蒔絵螺鈿花樹鳥獣文箱 |
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蒔絵螺鈿鮫皮貼花鳥文小箱
江戸時代初期
下部に浅い抽斗が付いた家形の小箱。南蛮漆器としては、他に類例のない異形の箱で、おそらく特別に注文して作られたものと思われる。
箱の各面には丁寧に鮫皮を貼り付け、上から蒔絵七宝文で縁飾りを施し、鮫皮の上に施された、双鶴、鉄線唐草、梅折枝文などの蒔絵から、江戸時代の様式が見て取れる。
前面に鶴文、裏面には梅鉢文、花弁文を薄肉の蒔絵で施し、内面は輸出漆器に珍しい朱漆で仕上げている。
器型の珍しさに加え、鶴・亀・松などといった吉祥的なモチーフを効果的に配しているのが特徴。17世紀中頃の作と推定される。 |
蒔絵螺鈿鮫皮貼花鳥文小箱 |
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蒔絵螺鈿花鳥窓絵箪笥
江戸時代初期 400~40年前
観音開きの扉。内面に小抽斗を設け、花鳥文様を配する。四周に菱形文を連ねて装飾。
さらに内面には二重山形文風の図様を連ねて意匠を取り巻く。
正面の扉、天板、両側両にそれぞれ窓枠を設け、中に花鳥文を描き込むなど、黒漆の余白地を生かした図様構成は見事で、江戸時代初期の様式を示していると言われている。
金銀の蒔絵や螺鈿を多用し、華やかな感じのする輸出漆器の中で、趣が異なる独特の味を見せる作品と言える。 |
※これら上記の工芸品は、日本国内で生産されて西欧へ輸出されていたもののようです。
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930 |
931鉛インゴット
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タイ・ソントー鉱山発見の円錐形鉛インゴットの鋳型
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円錐形鉛インゴット
タイ・ソントー鉱山 |
円錐形鉛インゴット |
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円錐形鉛インゴット
16世紀 |
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府内型メダイ 16c
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鉛玉 16c |
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932仏像彫円錐形鉛製品 8世紀 タイ
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タイのシーテープ遺跡から出土したと伝えられる。
8世紀頃のものと考えられている。円錐形を成し、法輪と仏像が線刻されている。
蛍光X線分析により、純鉛製であることが確認され。更に鉛同位体比分析でタイのソントー鉱山の鉛であることが判明した。ている。 |
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933メダイ、鉛滓
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メダイ
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府内型メダイ
16世紀 |
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ヴェロニカのメダイ
16世紀
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マリア・キリストのメダイ
16世紀 |
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金属滓 |
Bronze slag 16c |
鉛滓 16c |
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934灰匙、笄
鉄砲を描いた真鍮製小柄
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935真鍮製府内型メダイ
真鍮製府内型メダイ |
真鍮製チェーン
16c |
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真鍮製府内型メダイ
16c |
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936
右:亜鉛インゴット |
指輪、メダイ |
指輪 |
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ヴェロニカのメダイ
16c |
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937真鍮製試作品(純銅)
真鍮製試作品(純銅) |
左:銅8対亜鉛2
左:銅9対亜鉛1
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左:純銅(100%)
左:銅7対亜鉛3
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真鍮材 17c
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左:るつぼ蓋17c
右:取瓶17c
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坩堝17c |
坩堝17c
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950 |
951ミャンマーの陶磁器
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豊後府内で出土したミャンマー産の陶磁器としては、黒釉陶器三耳壺が中世大友府内町跡第3次調査区から1個体、
中世大友府内町跡第111次調査区の道路状遺構と焼土層から白釉陶器盤が出土している。
黒釉陶器三耳壺は、タイ産陶器四耳壷などと共に天正14年(15896)の火災一括資料として出土しており、時期が確定できる資料として貴重である。
さらに、通常、把手が横耳の形態が多いのに対して、縦耳である点も特徴的である。
タイ産四耳壷同様にコンテナとして用いられたものと考えられる。白釉陶器盤も焼土層から出土している点から、
黒釉陶器三耳壺と同じ16世紀末の時期に位置づけられると考えられる。このうち、道路状遺構から出土したものには目跡が確認できる。 |
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黒釉四耳壷1点 16世紀
「マルタバン・ジャー」と称される大壺で、南蛮貿易時には、コンテナとして活用された陶器である。
四カ所に横耳の把手を有し、肩部とと胴部には黄白褐色土を使用した貼帯装飾文が描かれ、その中に列点文が配される。 |
ミャンマーの陶磁器
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黒釉四耳壷
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白釉陶磁器盤16c
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白釉陶磁器盤16c
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ベトナムの陶磁器
豊後府内で出土したベトナム産の陶磁器としては、長胴壺と印花文白磁碗がある。
長胴壺は、胴の長い器形をしており、江戸初期に描かれた「世界図屏風」(堺河盛家所蔵)中に書かれた、ベトナムからの輸入品目に、「黒砂糖」の記載があることなどから、黒砂糖などの固形物が入れられていた可能性が指摘されている。天正14年(1586)の一括資料内や、1580年代に比定される遺構から出土している。
印花文白磁碗は、外面が無文で、内面に花唐草などの印花文が施され、見込みに3~4カ所、大きめの目跡が認められる。
中には漆継ぎによって補修したものも見られ、珍重されている様子がうかがえることから、「茶陶」として用いられた可能性が指摘されている。
豊後府内では、主に1580年代の遺構やを包含層、整地層から出土しており、中には1590年代の遺構に伴うものもある。 |
ベトナムの陶磁器 |
焼締陶磁器長胴壺 |
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953中国の陶磁器
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豊後府内で最も多く確認される貿易陶磁器は、中国産磁器である。中でも、中国浙江省、景徳鎮窯で生産された、呉須と呼ばれる藍色の顔料で染め付けられた時期が主体となる。中には、赤・青・黄・緑・紫などの釉で色や模様を表した五彩と呼ばれるものや、さらに金泥や金箔の文様を施した金襴手と呼ばれる優品も出土しており、これらの中には漆継ぎをして再利用されたものも見られ、珍重されていたことがうかがわれる。 |
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碗 金襴手 16世紀
タイとミャンマーの国境近くに位置するメーソート山中で発掘された。上絵付けの後に金箔を焼きをつけて文様を描く、金襴手と呼ばれる技法が施された碗で、中国景徳鎮窯で生産された。外面には菊花文、トンボが描かれる。 |
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碗 金襴手 16世紀
メーソート山中で発掘された。中国景徳鎮窯で生産された金襴手の碗である。外面には4カ所に赤玉が配され、その間を瓔珞文で飾る。金は剥落し僅かしか残っていない。 |
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碗 金襴手 16c
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合子 16世紀
メーソート山中で発掘された。瓜形をした河南三彩の合子である。蓋と身の双方ともに線で八区画に区切り、蓋頂部は円形に黄釉が施されている。 |
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960景徳鎮窯青花皿
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970海外陶磁器
釉裏紅玉壺春 14世紀
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釉裏紅とは、中国の元の時代に始まった焼き物で、銅系統の彩料を使っているために、赤色を発している。
頸部には芭蕉文、胴部には草花文が描かれる。
インドネシアのスラウェシ島で発掘されたもので、一部補修されている。 |
釉裏紅玉壺春 |
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貼花文五耳壺 16世紀 大分と勝光寺蔵
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「トラディスカント壺」と呼ばれる貼花唐草文五耳壺は、豊後府内出土資料によって、その初現が16世紀末葉まで遡ることが判明し、形式的変遷も明らかにされた資料である。
肩部に五つの把手を持ち、胴部上位には唐草文や宝相華文、胴部下位には蓮弁文の貼花文様が施されるが、
豊後府内3次や5次出土資料は、同部下位の蓮弁文が密で、胴部中位の唐草文に子葉が伴う最古形式である。
大分市竹中の勝光寺にも同形態の貼花唐草文五耳壺が伝わっており、
豊後府内に、少なくとも、3個体以上の同様の貼花唐草文五耳壺が伝わっていたことを示している。 |
クンディ 唐珍木蔵 15-16世紀
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乳房型に膨らんだ注ぎ口と円盤状の鐔状(つば)の口縁部を有す水注である。
赤色と白色の色調の異なる粘土を練り混ぜたものを器表面に薄く貼る「練上手」と呼ばれる技法が器面全体に施され、底部はドーナツ状に露胎となっている。 |
鳥形水注
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鳥形水注
唐珍木蔵 16世紀
カンボジアのウドンで発掘された鴨の形をした水差しです。
くちばしが注ぎ口で、背中部分が注入部となり、蓋を有するもので、
蓋を閉じるともう一羽の家紋゛乗っており、つがいと考えられる。 |
鶴形水注 復元品
16世紀
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