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目
次 |
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01外観
10超大型の「石盾」
12八女丘陵の展望
14第Ⅰ章八女英雄伝説への招待
プロローグ
筑紫君一族と大首長 磐井
15磐井君全盛期頃の主要古墳分布図
20第Ⅱ章太古への旅路
磐井君誕生の謎を解く
21初めての八女市民誕生
23縄文時代の遺物
26較差が生まれた社会
30リーダーの誕生
32弥生式土器・石器
34弥生時代の祭祀具
35古代ハイテク技術
38弥生時代の鉄器作り |
50有明の海を制す
筑紫君 始動!
100第Ⅲ章磐井と石人・石馬
111 豪族出現のメカニズム
112石人山古墳 首長墓
120石人・石馬
210九州結束の証
212石人石馬の分布
220ナゼ岩戸山に多いのか
225朝鮮半島覇権争奪戦
230石製装飾品の変遷 |
240Ⅳ中央集権と地方豪族
エピローグ
筑紫君一族の末裔
241磐井の意思を受け継ぐ者たち
242地域支配の拠点「屯倉」
244殯とヒメクロバエの蛹跡
262古墳時代終焉の序章
270九州豪族からヤマトの臣下へ
299郷土の英雄「筑紫君磐井」
400屋外の石人・石棺
405岩戸山古墳「別区」
407復元建物 |
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01外観
岩戸山歴史文化交流館いわいの郷 |
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広い敷地に大きな展示室。更に裏山には石人が林立 |
筑紫君磐井像 |
「磐井の乱」後破壊の限りを尽くされ、見る影もなくなった石像群も、実はこのような精緻な姿だったようです。 |
常設展示室入口 |
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10超大型の「石盾」
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石人・石馬と言われる石製品は等身大が基本ですが、中にはこのような超大型のものも含まれています。
本品は上下別個体と思われますが。磐井の威厳を知らしめるため、これほどの大きなものを必要としたのでしょう。 |
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12八女丘陵の展望
八女丘陵にある主要な古墳の位置を示しています。
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古墳が造られた当時の地形を想定し、現在の情報を全て取り除いた、真白な模型となっています。 |
左端:石人山古墳 |
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岩戸山古墳
~茶臼塚古墳 |
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善蔵塚古墳~釘崎古墳群4号墳 |
本6号墳、円山古墳 |
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14第Ⅰ章八女英雄伝説への招待
プロローグ
筑紫君一族と大首長 磐井
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八女には、かつて九州を代表する大豪族筑紫君一族がおり、
八女北部の丘陵地に大きな古墳を次々に築きました。
中でも磐井はその絶頂期に活躍し、
九州の諸豪族と連携しながら
朝鮮半島との海外交流を行っていました。 |
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15磐井君全盛期頃の主要古墳分布図
磐井全盛期は527年以前ということになる。
磐井全盛期の頃の
主要古墳分布図
同時代に、これだけ全国に超豪族がいたんだ |
九州地区
筑紫火君 |
北部九州
有明海が巨大港湾になっていたのか |
中四国・近畿 |
近畿・東海・北陸 |
畿内 |
関東以西 |
関東・東海・北陸 |
福井県を三尾
北関東を武蔵
というのは初めて知りました。 |
群雄割拠
グンユウカッキョ
というのはこんな状態をいうのでしょう。
なその中でなぜヤマトが全国を支配できたか。
卓越した頭脳と戦略家がいたのでしょうか。 |
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20第Ⅱ章太古への旅路
磐井君誕生の謎を解く
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狩猟や採集をしていた太古の八女の人々は、約3500年ほど前から定住を始めるようになり、小さな集落が生まれます。
弥生時代には稲作が始まり、少しずつ人々の間に冨の格差が生じるようになり、集団内にリーダーが生まれます。
有力なリーダーの中からは、豪華な副葬品と共に埋葬される「首長」が出現するようになります。 |
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21初めての八女市民誕生
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丘陵地にある立山山遺跡では約1万年前の石器類が発見され、平野部などでは縄文時代初め頃の押し形文土器が多数見つかりました。
人々は移動生活を送っていたようです。
約3500年前、縄文時代終り頃のアモメ遺跡では定住型の集落と考えられる22軒の竪穴住居が発見されました。
歴史上初の定住した八女市民の誕生でしょうか。 |
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立山山遺跡・アモメ遺跡位置図 |
竪穴住居跡 アモメ遺跡2地点15号住居 |
アモメ遺跡3地点
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アモメ遺跡住居群 |
アモメ遺跡3地点
22.23号住居 |
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21初めての八女市民 |
23縄文時代の遺物
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石鏃
立山山遺跡
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十字形石器
アモメ遺跡B地点 |
分銅形石器
東館遺跡 |
剥片石器
立山山遺跡 |
掻器(スクレーパー)
立山山遺跡 |
石斧
立山山遺跡 |
敲打石
立山山遺跡 |
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25
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獣形勾玉
アモメ遺跡B地点 |
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押形文土器
立山山遺跡 |
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26較差が生まれた社会
稲作の始まりと環濠
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食料を平等に分配することが基本の縄文時代とは異なり、弥生時代は稲作が定着し、「貯え」が生まれ、貧富の差が拡大していきます。
稲作が中国から朝鮮半島南部へ、更に北部九州の玄界灘周辺へと広がっていく中で、八女市内では立野・大坪遺跡や宿町遺跡、亀ノ甲遺跡などで
約2400年前の米などの「貯え」を守る「環濠」が見つかっています。 |
較差が生まれた社会 |
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亀ノ甲遺跡
立野・大坪遺跡
宿町遺跡 |
立野・大坪遺跡
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宿町遺跡の円形環濠
白線部分
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弥生集落のイメージ |
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27
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30リーダーの誕生
大集落の形成
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約2000年前頃になると、北部九州の各地には地域の中核となる大集落が発生します。
春日市の須玖・岡本遺跡群(奴国)、糸島市の三雲・井原遺跡群(伊都国)などと共に、
八女市においても周辺集落とは隔絶した大規模な環濠集落を伴う室岡遺跡群が発生しました。このような大集落は、古墳時代における豪族の支配地域につながるものとして注目されます。 |
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室岡遺跡群中心部 |
室岡遺跡群
遺構配置図
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7号溝(環濠)断面 |
竪穴住居(亀ノ甲・山ノ上遺跡15号住居跡) |
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31
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32弥生式土器 後期
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弥生式土器には実用性の高い、簡素化された土器が多く見られます。また、稲作の伝来に伴い、甕や壺、鉢や高坏などの多くの器種が使用され、器の機能分化が進みます。
前期では器壁が厚く、重量感のある土器が多かったのですが、後期になると器壁の薄い洗練された土器が多くなってきます。 |
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33弥生石器
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柱状片刃石斧、石斧
弥生後期、熊野遺跡
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滑石製勾玉・臼玉
古墳時代中期
鍛冶屋遺跡 |
滑石製紡錘車
古墳時代中期
八女頭部第2地区圃場整備第8区
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34弥生時代の祭祀具
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自然との共存の中で生きる弥生時代の人々にとって、神々に対する祀り事は欠かせませんでした。
自然や祖霊の恵みに感謝し、畏敬の念を表すため、模造品や滑石製品、ミニチュア土器や金属器などの祭具を用いて、ムラの安寧や作物の豊作などについても祈りを重ねていたのでしょう。 |
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土製模造鏡
弥生後期
上妻小学校校庭遺跡 |
弥生時代の祭祀具 |
土製模造鏡 |
土笛
古墳中期
口ノ坪遺跡 |
ミニチュア土器
古墳中期
口ノ坪遺跡 |
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35古代ハイテク技術を見た! 生産遺跡と墳墓 |
36
古代ハイテク技術を見た |
関係遺跡位置図 |
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鉄
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西山ノ上遺跡 |
西山の上遺跡では、多数の竪穴住居と共に鍛冶工房跡と思われる痕跡が多量の鉄器片、砥石類と共に出土しました。
「鉄」という当時最先端のハイテク素材の大量出土は、大きな権力の元で交易の拡大が進んでいたことを明らかにしてくれます。 |
石
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北山今小路遺跡 |
北山今小路遺跡では200軒を超える竪穴住居と多数の石材が発見されました。
石英斑岩と呼ばれるこのの石は、奴国(春日市周辺)で銅製品鋳造用の鋳型として用いられていたことが研究で判明しています。 |
銅
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茶ノ木ノ本遺跡
3号甕棺墓 |
茶ノ木ノ本遺跡では22基の甕棺墓と5基の石棺墓が発見され、3号・5号・9号甕棺墓からは
銅鏡、銅剣、鉄戈、ガラス玉が出土しました。
海外の舶来品を入手できる権力者が生まれたことを示しています。 |
鉛
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野田遺跡32号土壙墓 |
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野田遺跡では、多数の甕棺墓・石棺墓などが発見され、32号土壙墓からは九州で2例目となる鉛製の鉾が出土しました。
青銅の生産に不可欠な訛の存在は、八女地域が青銅器生産に深く関与していたことを示しています。 |
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38弥生時代の鉄器作り
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弥生時代の鉄器製作は素材を薄い板状に伸ばし、必要に応じて切断し形を整えていくもので、鉄を溶かす「鋳造」とは異なります。
高い温度での特殊な作業が必要で、朝鮮半島からの技術が不可欠でした。
遺跡からは鉄素材片や切断後の鉄片、砥石や鉄器が出土し、現在の鉄器作りと余り変わらないことがわかります。 |
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砥石
弥生後期
西山ノ上遺跡 |
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弥生時代の鉄器作り |
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鉄片類
弥生後期
西山ノ上遺跡
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鉄鏃、鏨たがね
弥生後期
西山ノ上遺跡
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砥石、敲打石
弥生後期
西山ノ上遺跡
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鉄斧
弥生後期
室岡・山ノ上遺跡
亀ノ甲・山ノ上遺跡
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39
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鉄戈、ヤリガンナ
弥生後期
茶ノ木ノ本遺跡
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ガラス玉
弥生後期
茶ノ木ノ本遺跡 |
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方格規矩鏡
弥生後期
茶ノ木ノ本遺跡 |
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細形銅剣
弥生後期
茶ノ木ノ本遺跡
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鉛鉾
弥生後期
野田遺跡
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銅矛
弥生後期
伝八女市星野村
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40年表
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縄文晩期~弥生後期 |
弥生後期~古墳前期 |
古墳中期~後期 |
弥生後期 |
弥生後期~飛鳥前期 |
飛鳥時代 |
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50有明の海を制す
筑紫君 始動!
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倭王武(雄略天皇)の上表文や日本書紀には、中国への渡航ルートや国際港湾としての有明海の姿が記述されています。
5世紀中頃、高句麗と百済の戦争により玄界灘から大陸への渡航ルートの一部が遮断され、有明海の重要度が飛躍的に上がりました。
既に地場の盟主となっていた筑紫君一族は、有明の制海権を握ることで、次第に巨大な豪族となったものと推定できます。 |
※有明航路とは、有明海から直接に百済の栄山江に行くコース。
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100第Ⅲ章磐井と石人・石馬
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筑紫君一族が大和王権との関係を深めて行く中で、磐井は北部九州を結束させる程の強大な影響力を持つようになります。
しかし反面、全国の古墳に見られる「埴輪」を立てるのではなく、被葬者を守る役目を持つ、凝灰岩製の石製品「石人・石馬」を数多く樹立させるなど、
九州古墳文化の独自性を強く表現するようになりました。 |
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101
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磐井と石人石馬 |
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石人石馬は、
埴輪以上の圧倒感を出しながら、
ヤマト王権との違いを表現しつつ
仲間との結びつきを確認する大事な
舞台装置だった。 |
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110筑紫の君始動
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111筑紫君始動 豪族出現のメカニズム
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5世紀初頭(西暦400年頃)になると、直径30m前後の円墳を築造し、権力の象徴である銅鏡・勾玉・鉄製武器を副葬する有力者が市内行に出現します。
古墳の構造や副葬品の類似から「個人」ではなく「地域代表」として上位権力から古墳築造の許可や副葬品の授与があったものと 思われます。
この有力者のさらなる結合が「筑紫君」一族を生み出したとも考えられ。一族は有力者連合の代表であったと考えられます。 |
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筑紫君 始動 |
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筑紫君はヤマトから前方後円墳の築造許可を
その下の者には円墳の築造許可をもらった。 |
5世紀前半の主な古墳
多数の地域代表が
石人山古墳の下位につながる古墳を築造した |
各古墳の位置図と勢力の結集イメージ |
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112石人山古墳せきじんざん~童男山古墳どうなんざん 首長墓系列
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115首長墓副葬品
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古墳時代5世紀
城の谷古墳 |
ヒスイ勾玉
古墳時代5世紀
城の谷古墳
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変形神人鏡
古墳時代5世紀
城の谷古墳
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ガラス玉
古墳時代5世紀
城の谷古墳
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碧玉製勾玉
古墳時代5世紀
城の谷古墳 |
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116
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獣形鏡
古墳時代5世紀
川犬第1号墳 |
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ガラス玉
古墳時代5世紀
川犬第1号墳 |
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117
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勾玉
古墳時代5世紀
鹿子島山4号古墳
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滑石製臼玉
古墳時代5世紀
鹿子島山4号古墳 |
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銅鏡
古墳時代5世紀
鹿子島山4号古墳 |
碧玉製管玉
古墳時代5世紀
鹿子島山4号古墳 |
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118
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硬玉製勾玉・ガラス玉
古墳時代5世紀
立山山12号墳 |
碧玉製臼玉
古墳時代5世紀
立山山23号墳 |
碧玉製棗玉
古墳時代5世紀
立山山23号墳 |
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119
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珠文鏡
古墳時代5世紀
立山山23号墳 |
四獣鏡
古墳時代5世紀
立山山25号墳 |
珠文鏡
古墳時代5世紀
立山山25号墳
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鉄刀
古墳時代5世紀
立山山25号墳
鹿角装鉄剣
古墳時代5世紀
立山山24号墳
鉄刀
古墳時代5世紀
立山山25号墳 |
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120武装石人
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顔面の一部を欠損していますが、ほぼ完形の石人で、衝角付冑や短甲、草摺(くさずり:腰から大腿部を保護する武具)を装着した姿を表現しています。 |
豊福の石人
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八女市豊福の祠に収められた上半身の石人(現存63cm)は、これまで出土地が不明でしたが、至近の距離にある鶴見山古墳から出土した武装石人と規模・形状共に酷似しています。そのため、この2体の石人は同一時期に製作され、鶴見山古墳に樹立していたと思われます。 |
豊福の石人 |
豊福の石人 |
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125石靫
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靫ゆぎとは矢を入れる容器です。
ほぼ完全な状態の石製品で、上部に上向きの矢を表現しています。
土の中に埋める部分がないことから、平置きで設置したものと思われます。 |
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130石盾
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表面にはノミの跡が残り、側面には赤色顔料が 確認できます。
大正時代に、岩戸山古墳の後円部と別区の接合部の南側で東西道路を掘削した際に、周提部から出土したと伝えられています。 |
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135石盾
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本体は3つに割れていますが、下半部の一部を欠損しているだけで大きな破損はありません。このような形の石製品は、石見型盾形石製品とも呼ばれています。平成3年(1991)の台風により、岩戸山古墳後円部北東側1段目平坦面より出土しました。 |
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140石馬
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現存するのは、頸の根元のあたりから胴部中央までです。
馬鐸(馬に付けて馬の歩みによって音を出す)や鐙(あぶみ、足を載せるための馬具)、手綱等が表現されています。 |
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145武装石人頭部
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兜を装着した武装石人の頭部です。
縦矧板たてはぎいたの兜の表現は、朝鮮半島系と思われます。
頭の後ろの錣(後頭部を保護する防具)の表現や、頭頂部には、受鉢状の表現の跡も確認できます。 |
武装石人頭部 |
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武装石人頭部
古墳時代 6世紀
伝岩戸山古墳 |
武装石人頭部 |
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180石馬
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頭と脚、尻の端部を欠損しています。首から胴にかけての曲面、丸みを帯びた腹から続く大腿部と尻の力強い筋肉や、馬鐸、鐙、手綱、鞍、杏葉(馬の胸や尻の部分などにつける装飾物)が浮彫で表現されています。 |
石馬 |
石馬
古墳時代 6世紀
伝 岩戸山古墳
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石馬 |
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185石刀
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両端が欠損していますが、現存部は折れはなく、1個体です。昭和38年(1963)の集中豪雨で、墳丘より露出しました。 |
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190靫を背負う石人
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美豆良(みずら:耳の横で束ねた男性の髪型)を結った人物が浮き彫りされており、背中には靫が表現されています。
文化5年(1808)岩戸山古墳の後円部頂部から出土しました。 |
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靫を背負う石人
古墳時代 6世紀
岩戸山古墳 |
靫を背負う石人 |
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195刀を帯び靫を背負う石人
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両手を挙げて、美豆良(みずら)を結った人物が浮彫されています。背面には、帯刀及び、靫が表現されています。 |
刀を帯び靫を背負う石人 |
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刀を帯び靫を背負う石人
古墳時代 6世紀
岩戸山古墳 |
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200継体大王が眠る今城塚古墳
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大阪府高槻市にある墳丘長190mの前方後円墳で、6世紀前半に築かれた古墳としては日本最大です。
墳丘は慶長・伏見地震(1596年)などで大きく崩れ、石室本体も失われていますが、平成13年には大規模な埴輪列区画が発見され、
当時の大王墓祭祀が明らかになりました。
平成10年には墳丘上で熊本県宇土市産凝灰岩の石棺材が発見され、磐井の乱後も火君ひのきみと大王家との関係が続いていたことが分かりました。 |
最大のライバル
今城塚古墳の埴輪祭祀場
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今城塚古墳の
埴輪祭祀場
ピンボケ
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継体王が眠る
今城塚古墳 |
今城塚埴輪祭祀場近景
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今城塚埴輪祭祀場全景
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202凝灰岩の生い立ち
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凝灰岩とは、噴火活動によって噴出したマグマにより発生した火砕流や火山灰が谷に堆積し、高温・高圧によって溶けて固結することで形成される
岩石を指します。
九州では阿蘇山の噴火により形成されるため、阿蘇溶結凝灰岩や阿蘇の灰石と呼ばれています。
凝灰岩は比較的軽く、加工も容易であることなどから、現在でも石灯籠や石像、オブジェなど幅広い用途に用いられています。 |
凝灰岩の生い立ち
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凝灰岩分布図
オレンジ色部分 |
火砕流・噴火の概念図 |
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203石製品
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石靫 |
石靫 |
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靫とは、矢を入れる容器です。
下半分は欠損していますが、上部には9本の矢が上向きに表現されています。
昭和38年(1963)の集中豪雨により墳丘より露出しました。 |
石靫
古墳時代6世紀
岩戸山古墳 |
石刀 |
石刀
古墳時代 6世紀
岩戸山古墳
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石刀 |
柄の部分と鍔の部分の境で2つに割れており、両端も欠損しています。
柄の部分には、緑色の顔料が確認出来ます。 |
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204勾金(←最初にリンク先を見て下さい)
まがりがね
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大刀の柄つかは、柄頭つかがしら、握る部分の柄間つかあい、柄縁つかぶちに分けられます。
柄の側方には手の甲を保護するために、柄頭から柄縁に欠けて渡した、細板状の帯を、勾金まがりがねと呼びます。
岩戸山古墳の石製表飾品の勾金には、三輪玉の装飾が施されています。 |
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勾金
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勾金
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勾金(付 三輪玉)
古墳時代6世紀
伝岩戸山古墳 |
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勾金(付 三輪玉)
古墳時代6世紀
伝岩戸山古墳 |
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205勾金(付 三輪玉) 古墳時代6世紀 伝岩戸山古墳
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206勾金(付 三輪玉・直弧文) 古墳時代6世紀 伝岩戸山古墳
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207石刀 古墳時代6世紀 岩戸山古墳 古墳時代6世紀 伝岩戸山古墳
石刀 |
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210九州結束の証
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5世紀前半頃、初代筑紫君と思われる石人山古墳の被葬者は石人に象徴的な意味合いを見出し、同族結束の証として石人を用い、視覚的にも結束を再認識することを目的として古墳祭祀に採用したものと考えられます。
石人・石馬は筑紫君一族のシンボルであり、有明海沿岸を拠点とする豪族達のシンボルでもあったのでしょう。 |
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211
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九州結束の証 |
有明海沿岸地域の
石製品の分布 |
上に記述 |
石製品 |
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石盾
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武装石人頭部 |
靫を背負う石人 |
石馬 |
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212石人石馬(石製表飾品)の分布
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216石蓋いしきぬがさ
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貴人に指しかざす、柄の長い傘を表現した者と思われます。下部内側には、柄を差し込むためと思われる、窪みが施されています。 |
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石蓋いしきぬがさ |
石蓋いしきぬがさ
古墳時代6世紀
伝岩戸山古墳
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217石壺
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型の部分が張り、口縁部がゆっくり長く外反する形から、須恵器の長頸壷を表現しているのではないかと思われます。 |
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218石獣胴部
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動物の脚から胴部にかけての部分と思われます。背や腹の曲線が表現され、その形から猪ではないかとも考えられています。 |
石獣胴部 |
石獣胴部 |
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石獣胴部
古墳時代6世紀
伝岩戸山古墳
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220ナゼ岩戸山に多いのか
石人が語る、磐井のリーダーシップ
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石人石馬の種類は多種多様に及びますが、地域でそのあり方に差があります。
八代海周辺では盾・靫などの武器・器材形が多く、
山鹿・菊池市周辺では武人など人物の形が中心となります。
ところが岩戸山古墳では全種類を多量に有しており、被葬者の筑紫君磐井が石製品を祀る各地域の首長の力を束ね、自身に集めることのできる強大な政治力を保持していたことを物語っています。 |
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221
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ナゼ岩戸山に多いのか |
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上に記述 |
フタツカサン古墳出土の石人
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姫ノ城古墳出土の盾形
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フタツカサン古墳出土の蓋形 |
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222力士の石人
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上半部ノミが残り、頭部、両腕、下半部は欠損しています。下腹部の影や、胸部の○○から力士が連想できます。
首回りやわき腹付近には、赤色顔料が残っています。 |
力士の石人 |
力士の石人
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力士の石人
古墳時代 6世紀
伝岩戸山古墳 |
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223褌をした力士
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褌を持つ表現があります。右手側は、5本の指の表現が確認できます。 |
褌をした力士 |
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褌をした力士 |
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褌をした力士
(腰部~脚部)
古墳時代6世紀
伝岩戸山古墳
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225朝鮮半島覇権争奪戦
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当時の朝鮮半島には高句麗、百済、新羅、伽耶諸国があり、半島の覇権を争う動乱の時期でした。
大陸の文化・情報を百済から一元的に受けていたヤマト王権は、九州で徴発した兵士や軍船をたびたび送るなど、
対新羅を目的とした軍事援助を行っていました。
良質の鉄を産出し友好関係にあった伽耶諸国にも援助を行い、百済支援と生命線である鉄の入手ルート確保に全力を注ぐため
地方支配の仕組みづくりを急いでいました。 |
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※ヤマト政権は「親百済政策」、九州の大王磐井政権は「親新羅政策」だったため、ヤマト政権の新羅討伐戦への出兵や軍船の徴発に応じなかった。
そのため「磐井の乱」と言われる内乱に発展した。 |
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226
朝鮮半島覇権争奪戦 |
朝鮮半島覇権争奪戦 |
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ヤマト王権の思惑と外交戦略
朝鮮半島の実情 |
筑紫とヤマト |
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227刀を帯びた石人
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扁平石人の胸より下にあたる部分で腰帯あたりから下げた小刀が浮彫で表現されています。
昭和38年(1963)の集中豪雨により、墳丘より露出しました。 |
刀を帯びた石人 |
刀を帯びた石人 |
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刀を帯びた石人
(腰部~基部)
古墳時代6世紀
岩戸山古墳 |
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228武装石人
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胸の部分から脚の部分にかけて残っており、短甲や、草摺を装着した姿だと考えられています。 |
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武装石人
(胸部~脚部)
古墳時代6世紀
伝岩戸山古墳
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武装石人 |
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230石製装飾品の変遷 ―最盛期から衰退期まで―
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231石製装飾品の変遷
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石製表飾品とは、古墳時代に阿蘇溶結凝灰岩を加工して墳丘上やその周囲に樹立された石造物であり、
土製の埴輪にかたどられたものを石製品に置き換えたもので、その分布は豊後と、筑後から肥後にかけての
有明海、八代海沿岸部、菊池川流域に集中して見られ、
これらの地域における独自的な葬送儀礼と考えられています。
これまで、「石人・石馬」の名称が用いられてきましたが、、石人・石馬以外の多種に及ぶため、
現在では 「石製表飾」、「石製表飾品」の名称が用いられています。
これらの石製表飾品は5世紀初頭から6世紀後半代の古墳時代中期から後期にかけて造られたもので、
その分布は『日本書紀』に伝承される「筑紫・火・豊」の国とも一致することから
、磐井に代表される北部九州の独自性のシンボルとも考えられています。 |
石見型盾形 (西原古墳)
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奈良県三宅町石見遺跡から出土した特殊な形象埴輪(被葬者を守る盾もしくは玉杖を表現)を「石見型盾形埴輪」と呼び、
その埴輪に類似しているため、この石製品は「石見型盾形石製品」と呼ばれています。
西原古墳からは、下半部を欠損していますが、現存長77cm最大幅46cm最大厚13cmを測ります。
特徴である上部の角状突起部は、両角とも先端部を欠損していますが、段帯と呼ばれる幅広い帯状の表現が一段だけ見られます。
段帯の中央部に見える円孔は個人の庭石に用いられた際に開けられたものです。 |
石製装飾品の変遷 |
石製装飾品の変遷 |
石製装飾品とは |
石見型盾形
(西原古墳)
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有明海沿岸の
石製表飾品の分布 |
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232石見型盾形 (姫ノ城古墳)
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姫ノ城古墳から石見型盾形は、7点出土しています。
その1つの展示資料は2個体に割れ、茎部先端を一部欠損していますが、現在高約136cm最大幅40cm厚さ13cmで扁平に作られています。
姫ノ城古墳出土品は段の数が三段構成が多い中、本例だけは四段構成のタイプのもので、岩戸山古墳出土の石盾との類似が見られます。
石見型盾形石製品は佐賀県西原古墳が初見で、本例の他に岩戸山古墳から出土しています。 |
石見型盾形
(姫ノ城古墳) |
出土状況 |
石見型盾形石製品
出土状況 |
展示品とは別品 |
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233石蓋 (姫ノ城古墳)
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蓋(きぬがさ)は貴人などの頭上に差し掛ける笠部と、地面に立てるための支柱部の組み合わせで一個体となります。
姫ノ城古墳古墳からは、笠部6点と支柱部3点が出土しています。
笠部は直径が50~60cmに統一されており、頭頂部の突出の度合いは弱いタイプで支柱部を受けるホゾ穴はやや大きく作られています。
支柱部は二個体に割れていますが、全長134cm直径28cmで断面は僅かに楕円形を呈しており、上端部は笠部と組み合わせるためのホゾを設けています。展示している笠部と支柱部がセットであるかは不明です。 |
姫ノ城古墳 熊本県八代郡氷川町
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姫ノ城古墳は、八代平野北部の八代海を望む標高100m前後の丘陵上に築造された5基の前方後円墳からなる野津古墳群中2番目の規模(墳丘長86m)を誇り、岩戸山古墳に次ぐ多数の石製表飾品が出土していて特筆されます。
靫2点、蓋の笠部6点、蓋の支柱部3点、石見型盾形7点の総数18点が出土していますが、
種類は器材・武具類のみであり、人物型は1点も見られないなど、岩戸山古墳のありようとは違いも見られます。
姫ノ城古墳を含む野津古墳群は出土品などから岩戸山古墳と同じ6世紀初頭から6世紀中頃にかけての短期間に築造された
火君一族の奥津城と考えられています。 |
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石蓋 (姫ノ城古墳) |
姫ノ城古墳 |
姫ノ城古墳
熊本県八代郡氷川町 |
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234木柑子古墳
(きこうじ)
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木柑子古墳からは須恵器、鉄器、石製品(石蓋2点)の大量の遺物が出土しました。須恵器の型式から6世紀中頃の築造と考えられ、半世紀以上にわたり、追葬や祭祀が行われていたことがわかります。
石蓋(笠部)(木柑子古墳)
展示している石蓋は、直径60×50cm高さ45cmを測り、支柱部を受けるホゾの深さは10㎝のもので、全面に加工痕を明瞭に残しています。
頭頂部はシルクハット形を呈しており、特徴的な形であることがわかります。
この他に同古墳からは直径90×80cmの大型の石蓋(笠部)も出土しています。 |
木柑子古墳実測図と
石製表飾品 |
木柑子古墳の石蓋
上に記述 |
木柑子古墳
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木柑子古墳(通称フタツカサン)は、墳丘長約65mの前方後円墳で、周壕(濠?からぼり?)を含めた全長は100m前後の大型墳となります。
現地に樹立している石人は、高さ約90cmで右腕が欠けていますが、両手を腰にあてており、指の1本1本まで表現されています。
樹立位置は菊池市教育委員会の調査により、当初の位置から移動していることがわかりました。 |
木柑子古墳 |
木柑子古墳(熊本県菊池市)
石人(頭部は模造追補)
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235靫とは(岩戸山古墳)
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靫(ゆぎ、うつぼ)とは矢を入れて背負って携行するための矢筒のことを指しており、埴輪にも多く用いられています。
岩戸山古墳出土の石靫は、奴凧形の上部中央に長方形の凸出部を造り出し、この部分に鏃を上面にして、並列する7~9本の矢を収納している状態が 表現されています。
下部には土中に樹立させるための基部をもつものと、基部を持たず地上に平置きしたと思われる2種類が見られます。
本例はほぼ完全な状態の9本の矢尻を有する石靫で精美な造形品です。実物は中央展示をご覧ください。 |
靫 (姫ノ城古墳) ひめのじょう
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姫ノ城古墳からは、石靫は2点出土しており、展示している資料は完形品で高さ145cm最大幅53cm厚さ15cmほどで扁平な奴凧形を呈し、
表面は平滑に仕上げられています。
支柱部は長さ50cmほどで荒削りのままで、二次加工は施されておらず、本体部分よりも分厚く作られていて、土中に埋設されたものと考えられます。
靫の矢筒は簡略化され矢の表現は見られません。
岩戸山古墳出土の靫のように矢筒の裏面(反対側)に人物の顔を彫刻する手法を用いないなど、造形に違いが見られます。 |
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236臼塚古墳 武装石人
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岩戸山古墳とほぼ同時期と考えられている直径約28mの円墳で、石室には円文や三角文などが描かれている装飾古墳です。
石人は頭部を欠損していますが、奴凧形の円彫の武装石人で短甲を身にまとい背面には、上面に矢じりを上にして並列する矢じりを収納する靫が表現されています。
短甲の表現は簡略化されていて、円彫から扁平への過渡期のものと考えられます。 |
臼塚古墳 武装石人 |
臼塚古墳 武装石人 |
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237子を背負う女性埴輪 栃木県真岡市鶏塚古墳出土
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高さ41.2cmの上半身の女性埴輪で一般の女性を表現したものと考えられます。
左腕は欠損していますが、両腕を背中に回して子供をあやしている様子がよくうかがえます。
童男山古墳群(福岡県八女市)出土の「子負いの女性石人」と後頭部の髷や赤子の表現など共通するところも多く、関東と九州というそれぞれの地域で日常生活をうかがわせる埴輪と石人がつくられています。 |
女性石人 (熊本県富ノ尾古墳群)
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子の石人は奴凧型で乳房を表現した扁平な女性石人で、ほぼ正円形に近い顔に目、口もとの表情がうかがえます。
下半部を欠損し、高さは85cmの者です。 |
女性埴輪と女性石人
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女性石人の背中
背中にこどもがしがみついている。首元にあるのが子供の手。 |
子を背負う女性埴輪 |
子供を背負う女性埴輪 |
女性石人 |
女性石人 |
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238チブサン古墳石人
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チブサン古墳は、全長約44mの前方後円墳で、後円部径23m高さ7mの菊池川流域の首長墓です。
後円部中央には複室の横穴式石室があり、玄室内部には精美な石屋形が設置され、菱形文、同心円文、冠を被り両手足を広げた人物像などが描かれた装飾古墳です。
石人はかつて前方部と後円部のくびれ部上に立っていました。この石人は奴凧型で、甲冑の表現はない平装石人で高さ約150cmのものです。 |
木柑子高塚古墳(きこうじたかつか)
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木柑子高塚古墳は菊池川中流域近くの丘陵上に位置し、木柑子古墳(通称フタツカサン)が隣接しています。
周溝内からは4体の石人が横倒しの状態で検出され、更に須恵器や雲珠、鉄製品などの遺物も多く検出されていたことから、
石人は石室入口付近にまとまって樹立していた可能性が強いと考えられています。
出土した須恵器により、6世紀後半の築造と考えられており、この須恵器は八女産の可能性が高いとの指摘も見られます。 |
チブサン古墳石人 |
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木柑子高塚古墳 |
石人(文人)検出状況
菊池市木柑子高塚古墳
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240Ⅳ中央集権と地方豪族 飛鳥時代
エピローグ
筑紫君一族の末裔たち
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磐井の乱が集結し、磐井の息子「葛子」は罰せられることを恐れ差し出した糟屋の地に、ヤマト王権は直轄地『屯倉』を設置、
以後、北部九州各地に次々と設置していきます。
こうして地方の直接支配を着々と進め、中央集権国家を目指すヤマト王権に対し、筑紫一族の生き残りを掛けた模索が始まります。 |
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磐井の乱で敗北したものの、一族の勢力は残すことが出来たんだけど、これからは九州の王ではなく国の地方長官として生きていかなくてはならなくなったんだ。 |
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241磐井の意思を受け継ぐ者たち
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磐井の後継者たちは乗場古墳や鶴見山古墳などの大型前方後円墳を次々と築造していきます。
規模は90m前後で岩戸山古墳より小型化しますが、6世紀中頃の九州では最大級の大きさです。
乱で敗北した一族ですが、平成17年度に行われた鶴見山古墳の調査において武装石人が発見されるなど、最盛期の勢力はヤマト王権にそがれながら
も、強い地域色を出しながら一族再興の機会をうかがっていたようです。 |
磐井の意思を受け継ぐ者たち |
上に記述 |
鶴見山古墳 |
乗場古墳石室内部 |
乗り場古墳(装飾古墳)
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岩戸山古墳~釘崎古墳群位置図
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善蔵塚古墳 |
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242地域支配の拠点「屯倉」
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磐井の乱後、ヤマト王権は地方支配の一環として、各地に地域支配の拠点となる「屯倉」を設置しました。
磐井の子「葛子」が献上した糟屋の屯倉を含め、その数は筑紫・火の国・豊国だけで9ヶ所にのぼります。
王権側は屯倉を核とした地域生産力の取り込みを測ると同時に、後の古代官道につながる地域間ネットワークを整備と、
物や人の交流を促進しながら地方への睨みを聞かせていました。 |
「屯倉」とは
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「屯倉」はヤマト王権の直轄地であると同時に地域支配・交流の要所となっていたようで、屯倉を中心としてほかの地域の情報や物品が沢山やり取りされていたことが近年の研究により次第に明らかになりつつあります。 |
地域支配の拠点「屯倉」 |
「屯倉」とは |
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九州北部の屯倉分布 |
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243人物埴輪頭部 乗場古墳
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革またはは布製の帽子を被った男性埴輪です。帽子は背後で結び合わせ、表面には縫い目のようにも見える刺突文による格子模様が入ります。
両側の髪は省略され、写実的に表現された耳が印象的です。高さ17.7cm |
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人物埴輪頭部
乗場古墳 |
人物埴輪頭部 |
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単鳳環頭大刀柄頭
古墳時代6世紀
乗場古墳
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244殯とヒメクロバエの蛹跡サナギ 鶴見山古墳
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「殯」(もがり)は今のお通夜と同じで、亡き人をあの世に送る儀式です。ただ、現代と異なるのは2週間程度遺骸をそのままにしておくことです。
遺骸はすぐ腐敗し、体全体をウジが覆います。やがてウジは蛹になりますが、、この蛹跡はその痕跡なのです。
この後、遺骸は石室に入れられますが、この光景は日本書紀 神代 上「黄泉の国」に書かれている「イザナミの尊」のウジだらけの姿が思い出されます。 |
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※日本中の古墳からはこのような被葬者を食い尽くしたニクバエの蛹の痕跡が残った遺物もあったのでしょう。
しかし、その生々しいものは展示されないか、最初の洗浄でこすり取られてしまったか、、でしょうか。見たことがない。
このような展示こそが、本当の古墳の姿を知る大切な展示だと思います。 |
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馬具破片
古墳時代6世紀
鶴見山古墳
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鏡板吊金具 |
帯金具 |
絞具 |
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殯とヒメクロバエの蛹跡 |
銅鏡破片
ヒメクロバエ蛹跡付着
古墳時代6世紀
鶴見山古墳
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ヒメクロバエ蛹跡
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ヒメクロバエ蛹跡
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245須恵器破片 古墳時代6世紀 鶴見山古墳
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246葬送儀礼と古墳 墓前祭祀と須恵器 丸山古墳
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地域の有力者が亡くなると、古墳が築造され、亡骸(遺体)は埋葬されます。
この時執り行われる祀りことを全般に葬送儀礼と呼び、被葬者をあの世(黄泉の国)に送るための儀式となっていきます。
古墳の前(墓前)では死者との別れの祭祀を行うのですが、この時に使われる供物用の容器として須恵器が用いられます。
この須恵器にも死者を無事にあの世に送り出す使命が与えられていたのでしょうか。 |
墓前祭祀と須恵器 |
高坏
古墳時代 5世紀
丸山古墳
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器台
古墳時代 5世紀
丸山古墳 |
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器台
古墳時代 5世紀
丸山古墳 |
壺
古墳時代 5世紀
丸山古墳 |
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250本6号墳(真浄寺2号墳) 本古墳群6号
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5世紀に築造されたと考えられる直径30m超の大型円墳です。昭和35年の調査の折、石室内から短甲2領が出土しました。
鉄製短甲や装飾付き大刀などはヤマト王権からの配与されたものと考えられており、被葬者は王権との関係が深かったものと思われます。 |
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本6号墳
(真浄寺2号墳) |
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関連遺跡地図 |
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本6号墳出土1号短甲 |
本6号墳出土2号短甲 |
古墳全景 |
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251短甲 古墳時代 5世紀 本6号墳
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252筑紫の君一族の側近の墳墓? 釘崎古墳群
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前方後円墳4基と円墳12基からなる古墳群です。5世紀末頃に築かれた2号古墳を初代として、6世紀後半まで古墳築造が続きます。
磐井が出現する直前から、筑紫君一族最後の首長墓・童男山古墳どうなんざんまで続くことから、磐井と共に歩み、筑紫君一族と運命を共にした被葬者たちの姿が想像できます。 |
筑紫の君一族の側近の墓 |
上に記述 |
釘崎古墳群位置図 |
釘崎1号・2号古墳 |
2号古墳発掘状況 |
1号古墳発掘状況 |
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253鉄製品
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鉄鏃
古墳時代6世紀
釘崎3号墳 |
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鏡板付轡
古墳時代6世紀
釘崎3号墳
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轡
古墳時代6世紀
釘崎3号墳
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254 |
254a装飾付大刀
ヤマト王権のお墨付き?装飾付大刀
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古墳には数多くの副葬品が埋葬されますが、鉄製武器もその一つです。
装飾付大刀はヤマト王権との関係の中で配与されるもので、各地の有力者は大王や中央支族の権威を信じ地域を支配していました。
装飾付大刀は所有した有力者の階層や職能の差によるものと考えられていますが、八女地域を本拠とした豪族の実情については現在の所明確にはなっていません。 |
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装飾付大刀 |
単龍環頭大刀
古墳時代6世紀
釘崎3号墳 |
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254c単龍環頭大刀
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254d
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254e
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平縁四乳文鏡
古墳時代6世紀
釘崎3号墳
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辻金具、雲珠
古墳時代6世紀
釘崎3号墳 |
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255副葬須恵器 釘崎3号墳
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堤瓶
古墳時代6世紀
釘崎3号墳 |
高坏 |
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脚付有蓋壺 |
壺
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256貝飾付銅製辻金具 古墳時代6世紀 東館遺跡6号墳
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貝飾付銅製辻金具 |
鞍金具 |
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金銅製杏葉
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絞具 |
馬具名称早わかり図 |
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257装身具 古墳時代6世紀 東館遺跡6号墳
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258鏡板付轡 古墳時代6世紀 南中学校校庭遺跡
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260筑紫一族の盟友達が眠る 童男山古墳群
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6世紀中頃から末頃に形成された古墳群で、1号墳を盟主墳とした27基の古墳で成り立っています。
熊本県北部地域に多く存在するタイプの石室が構築され、内部には同地域で特徴的な石屋形や死床、石棚状の構造が見られ、
一部には石人も認められます。
被葬者たちは現在の山鹿地方から進出してきた一族と考えられ、「火国」の系統で筑紫君と関係が深い「火中君ひなかのきみ」の関係者である可能性があります。 |
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261いろいろな埋葬施設
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石屋形や死床、石棚と呼ばれていますが、全て古墳に葬られた被葬者を安置する石室内の施設です。
形状の違いから、このような名前が付いています。主に熊本県に多く分布しています。 |
筑紫一族の盟友達が眠る 童男山古墳群 |
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上に記述 |
童男山古墳群遠景
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童男山古墳群1号墳 |
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童男山古墳群2号墳 |
童男山古墳群3号墳 |
いろいろな埋葬施設
上に記述 |
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262古墳時代終焉の序章 八女古墳群最後の首長墓
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童男山古墳どうなんざん(1号墳)は推定直径48mの大型円墳です。
福岡県内3番目の長い横穴式石室を持ち、内部には石屋形と呼ばれる安置施設と石棺3基がありました。
八女古墳群では1号墳築造直後から前方後円墳が築かれます。
以後古墳は徐々に姿を消し、やがて古墳時代は終焉を迎えます。 |
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263巨大な一枚岩
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(八女市童男山古墳)1号墳の壁には巨大な安山岩の一枚岩が用いられています。
熊本県山鹿市周辺ではこのような巨大な石材が用いられることは少ないのですが、八女市・鶴見山古墳の石室右側の石は材質も使用方法も同じです。このことから童男山古墳の被葬者と筑紫君直系の人物と思われる鶴見山古墳の被葬者は深い関係があるものと推測できます。 |
古墳時代終焉の序章 |
上に記述 |
童男山古墳群位置図
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童男山古墳1号墳
石屋形と石棺
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巨大な一枚岩
上に記述 |
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264須恵器 童男山古墳 11号墳 古墳時代6世紀
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265武器・武具 童男山古墳 古墳時代6世紀
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鐙
童男山古墳11号墳
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鉄鏃
童男山古墳11・12号
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金銅製圭頭大刀柄頭
12号墳
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銅地銀張耳環
11号墳
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267童男山古墳1号墳石屋形と石棺
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270「九州の豪族」から「ヤマトの臣下」へ
北部九州 兵站(軍事)基地化計画
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磐井の乱後、大和王権は筑紫君や火・豊国等監視のため北部九州各地に拠点となる「屯倉」を設置し、
国造として臣下となった豪族の反乱など、不測の事態に備えつつ百済救援、新羅討伐を継続します。
また、北部九州には乱を鎮圧した物部氏や大伴氏一族が軍事的一団を従えて進出して来るようになり、
北部九州の兵站(へいたん軍事)基地としての最前線化が顕著になってきます。
火君は得意な海上活動能力を買われ、乱後、九州各地に進出していきます。しかし、これはヤマト王権の北部九州兵站基地化を推進するための「移住命令」であり(邪魔者を追い出す移住命令)、勢力拡大のための積極的な進出ではなかったものと思われます。 |
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「九州の豪族」から「ヤマトの臣下」へ |
上に記述 |
福岡市側から見た糸島半島 |
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童男山古墳 |
姫ノ城古墳
(野津古墳群) |
火君の進出経路 |
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磐井の末裔たち
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乱後、岩戸山古墳に続き善蔵塚・鶴見山・童男山古墳など首長墓と呼べる大型古墳が築造されており、筑紫君一族は滅亡することなく継続したものと思われます。
日本書紀 天智10年(671年)の条には筑紫君一族である「筑紫君薩野馬さちやま」の名称を見ることができ、乱後約150年経過した後でも筑紫君一族は脈々と影響力を行使していることがわかります。 |
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271八女 古墳時代の生き証人
立山山古墳群
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5世紀~6世紀にかけて造られた42基の古墳からなる古墳群です。弥生時代から成る古墳群です。
弥生時代からの墓制である
箱式石棺系石室のほか、竪穴・横穴式の石室など多彩な形態の石室が見られ、八女市域の古墳時代全期間に関わった古墳群です。
8号墳出土の金製垂飾付耳飾は極小の金細工が見られ、朝鮮半島で製作されたものと考えられます。
八女と海外が活発な交流をしていたことを示す貴重な一品です。 |
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八女古墳時代の生き証人 立山山古墳群 |
古墳群位置図 |
発掘調査時の
立山山古墳群 |
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272埴輪
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入れ墨のある人物
古墳時代6世紀
立山山13号墳
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猿面 古墳時代6世紀
立山山8号墳
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人物埴輪(右手) 古墳時代6世紀
立山山13号墳
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人物埴輪頭部 古墳時代6世紀
立山山13号墳
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273鉄製品 立山山古墳群13号墳
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274海外交流の証 金製垂飾付耳飾
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立山山古墳群8号墳から出土した垂飾がつく純金に近い金製耳飾りです。
細金細工の技法を用いて中間飾りや垂下飾り部分の表面に非常に細かい金粒を吹きつけた見事な金粒細工が見られます。
6連の鎖部分を二重にするなど複雑ながらも精巧なつくりとなっています。
この耳飾りは朝鮮半島南部周辺で製作され、日本国内に持ち込まれたものと考えられています。 |
海外交流の証 |
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※金製副葬品には階級があり、最上級は冠や金製の靴などがあり、
金製耳飾りだけの副葬は、金製品を副葬できる地位の最下位だと記憶しています。 |
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275装身具 立山山古墳群
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水晶製切子玉 |
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銅地銀張耳環 |
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銅地金張り耳環
古墳時代6世紀
岩戸山4号墳
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銅地金張り耳環
古墳時代6世紀
牛焼谷古墳群1号墳
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金製垂飾坏耳飾り
古墳時代6世紀
立山山古墳群8号
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銅地銀張耳飾
古墳時代6世紀
立山山古墳群8・13号 |
銅地銀張耳飾
古墳時代6世紀
立山山古墳群8・13号 |
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276古の焼き物 土師器と須恵器
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土師器とは弥生式土器から続く伝統的な作りの土器で、地面を掘り下げた穴窯で露天焼きをします。
800℃前後で焼き、酸素を多く取り込むため色は赤褐色になります。主に日常の器として用いられていました。
須恵器とは5世紀初め頃に朝鮮半島から伝わった技術で作られた土器で、斜面に造られた半地下式の登り窯で1000℃前後の高温で焼きます。
酸素を遮断し、土器に含まれた酸素が無くなるため色は青灰色となります。
初期には祭祀用として用いられますが、後に日常容器として用いられるようになります。 |
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277須恵器 古墳時代 6世紀 立山山古墳群
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278須恵器 古墳時代 6世紀
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器台
古墳時代6世紀
八女古墳群
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鳥の透かしのある器台
6c立山山13号墳
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器台 6c立山山13号墳
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290石像製品 |
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頭を欠く石人 |
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岩戸山古墳から出土したと考えられる小型の石人です。
現寸で高さ28cm幅31cm厚さ28.5cm重さ11.568gとなっています。
頭部を欠損していますが、ほぼ前身が残っており、両手を広げる表現がなされています。
下半部は大きく裾が広がっており、スカート状の着衣をしているような表現がなされます。
出土地 伝 岩戸山古墳 【国指定重要文化財】 |
頭を欠く石人 |
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岩戸山古墳から出土したと伝えられる小型の石人です。
現寸高さ27.5cm幅26cm厚さ24cm重さ10.973gです。
頭部を欠損していますが、ほぼ全身が残っており、僅かにふくらみのある腹部に両手を中央付近であてながら座っている様子が見られます。下半部はスカート状の着衣をしているような表現がなされています。
左手には指の表現が見え、優しく腹部をなでているかのようです。おそらく赤子の誕生を待ち望んでいるのでしょう。 出土地 伝 岩戸山古墳 【国指定重要文化財】 |
正座した裸形の石人 |
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岩戸山古墳の別区出土の小型石人
現寸高さ25.5cm幅25.5cm厚さ31.5cm重さ10,827g
胸から胸部を欠損していますが、首から下はほぼ全身が残っており、正座し両手を膝上に置き、現代風に言えば、「お行儀のよい」姿勢で座している様子が見られます。折り曲げた足の表現も良く、小型ながら洗練された感があります。 出土地 伝 岩戸山古墳 【国指定重要文化財】 |
横座りした石人
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岩戸山古墳から出土したと伝えられる小型の石人です。 現寸で高さ18cm幅25.5cm厚さ21.5cm重さ288gです。
腰部分から足部分にかけて残っている石人で、右足をひざ下から曲げ、欠損していますが、左足を外方に投げ出すような表現が見えます。
「あぐらを」かいて座っているものと思われ、文官か武官が座っている様子を表しているものと考えられます。 出土地 伝 岩戸山古墳 【国指定重要文化財】 |
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石人頭部
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岩戸山古墳から出土したと伝えられる小型の石人です。現寸で高さ21cm幅17cm厚さ16cm 重さ3,514gです。
頭部のみの遺存となっていますが、本来は胴部や手・足部分の表現があったものと思われます。頭部側面には、わずかですが美豆良(みずら)が見られます。つぶらな瞳で遠くを見つめているような表情が印象的な石人です。
出土地 伝 岩戸山古墳 【国指定重要文化財】 |
上半身の石人 |
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昭和31年10月
、岩戸山古墳近隣の個人宅庭から出土した小型の石人です。
現寸高さ22cm幅18cm厚さ12cm 重さ3,343gです。
肩から上腕にかけての部分が残っていますが、手首周辺を欠失していますので詳細は判りませんが、星座をして両手を前に出している様子が想像できます。
僅かに微笑んでいるような表情が印象的な石人です。 出土地 伝 岩戸山古墳 【国指定重要文化財】 |
石人頭部 |
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時期は不明ですが、岩戸山古墳の別区から出土し、近隣の個人宅にて大切に保管されていた小型の石人です。
現寸高さ20cm幅19.5cm厚さ20.5cm重さ5,711gです。
頭上に布上の被り物が表現された非常に珍しい石人で、頭部側面には正面から三角形状に見える美豆良(みずら)が表現されています。
鼻の表現が残ることの少ない石製品ですが、本例は奇麗に鼻が残っている貴重な資料です。
出土地 伝 岩戸山古墳 【国指定重要文化財】 |
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299郷土の英雄「筑紫君磐井」
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西暦527年に起きた「磐井の乱」。
地域の首長が各地を治める中、
親百済を貫く大和王権は5世紀後半頃から
大王(天皇)を頂点と下統一国家を強く望んでおり、
乱は不可避なできごとでした。
磐井が真に望んだことは、
九州の盟主としてヤマト王権に介入されることを排し、
「地方の地方による統治」を実現する。
これこそ磐井が目指した物であり、
実現するため避けて通ることが出来なかった戦い、
それが「磐井の乱」だったのではないでしょうか。 |
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400屋外の石人・石棺 |
401
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405岩戸山古墳「別区」
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ここは「別区」と言って約43mの正方形になった台地です。
『磐井の乱』(527年)後、約200年を下手奈良時代に造られた、筑紫国風土記にこの別区のことが次のように記されています。
「東北のかどにあたりて一つの別区あり、号けて衙頭と日ふ。(衙頭とは政所なり) 其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり、号けて解部と日ふ。
前に一人有りて、裸形にして地に伏せり。号けて偸人と日ふ。生けりしとき、猪を偸みき。仍りて積みを決められむとす。側に石猪四頭有り。
臓物と号く。彼の処に亦石馬三疋、石殿三間、石蔵二間有り。」
すなわち盗人が猪四島を盗んで、その積みを裁かれる状況と解釈されるような石製品配置がなされたところがここの「別区」であり、また「別区」は祭儀の場所であったとも考えられています。
全国の古墳の中でこのような「別区」を有し明確に現代まで残っている野は、ここ岩戸山古墳だけです。 |
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407高床倉庫・竪穴住居
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平成二年に発掘調査を行った赤氏遺跡(飯納楚字赤氏)より発見された弥生時代後期の高床建物跡・竪穴田建物址をモデルに建設しました。 |
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