東北の縄文1 04 2016.10.13-2 山形県埋蔵文化財センター 山形県上山市中山壁屋敷5608 023-672-5301 月・祝・年末・年始休館 撮影可 時代 縄文時代 旧石器~古代 見所 展示量は少ないですが、山形県全体の先史の傾向がつかめます。 ※この館には縄文時代出土の青銅製刀子が収蔵されています。 収蔵庫には縄文遺跡から発見された殷(商)の青銅刀子など、驚くようなものが収蔵されています。 交通 車 カーナビでは「中山小学校」か、「上山市中山壁屋敷」と入力し、候補から「中山小学校」を選ぶかです。 中山小学校は廃校。同名小学校は無し 反省 キャプションが付いていないので、はっきり言って、何も分かりませんでした。 |
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01外観
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10旧石器時代 山形のはじまり 3万年前~12000年前 約3万年前の山形は気温が今より6度近く低く、多くの湖や低湿地が点在していました。 その頃、ナウマンゾウやヘラジカ等の動物を狩猟する人々が山形の大地に現れました。 山形県内の旧石器時代の遺蹟は約100箇所近く確認されており、その多くは最上川やその支流の河岸段丘上にあります。 旧石器人は石刃・ナイフ形石器・尖頭器・細石刃と石器製作技術を進歩させながら、豊かな狩猟場を求めて移動する生活をしていました。 |
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11石器 |
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20縄文時代 ムラの豊かな生活 1万2千年前、人々の生活は大きく変化します。 定住生活が始まり、土器の発明により木の実を中心とした食生活になりました。 安定的な生活により人口が増加し、山形でも最上川などの広い河岸段丘の上に大きな集落が築かれました。 現在、山形県内では1300箇所以上の縄文遺跡が確認されています。 各時期ごとに特徴的な土器がつくられ、様々な用途の石器や、 土偶などの祭りや精神生活に関わる道具も生まれました。 |
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西海渕遺跡 縄文時代中期後半 参考_西海渕遺跡発掘調査報告書 22石器 |
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23土器 大木8b式土器 |
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24土器と装飾品 大木8b式土器 |
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25円筒式土器と大木式土器 転載・引用「変転する大地が生み出す新しい文化」東京大学大学院新領域創成科学研究科 辻 誠一郎
尖底土器と平底土器 引用「平底土器の出現」 尖底土器は煮沸に便利な形で、平底土器は保存に適した形といわれる。 クリやクルミを栽培し、保存する人々にはカゴや革袋以上に大容量の保存容器が必要であった。すると円筒下層式の巨大バケツのような土器は、 単に煮込み用と言われてきたが、それ以上に保存機能が重要視されたのではないだろうか。 円筒式土器やクリ栽培文化を持つ遼河文明人は、その後の気候変化、火山灰土壌の減少等から、生活様式が変化し、大木式土器を使用する ようになった。 北大式や早稲田式など、自分たちの手柄を誇示するような名前付けは、困ったものだ。何の関係もないのだから。 |
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30縄文土器の移り変わり |
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36 祭祀具 宮の前遺跡 村山市 縄文晩期 参照 村山市宮の前遺跡 ヒスイ製勾玉の出土状 宮の前遺跡第3次発掘調査報告書 宮の前遺跡第2次発掘調査報告書 山形県における土偶の分布 宮の前遺跡 円筒土器と大木式土器 東北地方では5900年前に十和田火山が噴火し、東北北部~北海道南部に降灰し、甚大な被害を与えた。 噴火後の降灰地域では円筒土器が、そうでない地域では大木式土器が用いられ、やがて、火山灰の影響が少なくなると、円筒土器は使用され なくなった。 三内丸山遺跡は 5900年前-4000年前まで1900年間続きました。 十和田火山噴火後からその影響が消えるまでの2000年間続いたことになります。 |
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37土器 かっぱ遺跡 最上町 縄文後期中葉 かっぱ遺跡発掘調査報告書 |
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38土器と石器 熊ノ前遺跡 山形市 縄文中期中葉~後葉 熊ノ前遺跡第3次調査報告書 熊ノ前遺跡第1次調査報告書 小反遺跡 鮎川村 縄文中期末葉 小反遺跡発掘調査報告書
※日本最大級の縄文土器 山形県埋蔵文化財センター所蔵 参照 山形県水木田遺跡出土品 水木田遺跡発掘調査報告書 水木田遺跡画像 埋蔵文化財センターの入口に展示してあったようです。が、見落としました。 |
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40弥生時代 農耕文化の幕開け 今から2500年前、水稲農業と金属器の使用を特徴とする弥生文化が、日本海ルートを通って荘内地方から内陸部へ伝わりました。 豊かな暮らしは階層分化を生み、社会はムラからクニへと変わっていきました。 県内では盆地の低地を中心に、約165箇所の遺蹟が確認されており、炭化米やモミの痕がついた土器も見つかっています。 |
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41土器と石器
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44土器 百刈田遺跡 南陽市 百刈田遺跡第1~4次発掘調査報告書 向河原遺跡 山形市 向河原遺跡第5・6次発掘調査報告書 向河原遺跡発掘調査報告書 向河原遺跡 |
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考察 弥生稲作農耕の広がり 日本海ルートで青森県弘前市まで拡大した水田農耕は、縄文人が縄文人集落で耕作するようになり、まさに、稲作文化の伝来であった。 ただし、結核や回虫などの病原菌や寄生虫が出現していることから、弥生人も来ていたことがわかる。 しかし、西日本的な弥生文化は全く見られず、縄文文化に稲作農耕が加わったにすぎなかった。 古墳文化人の移住 弥生終末期の2c~3cの寒冷期に東北地方では稲作農耕が壊滅し、多くの農地や村落が放棄され、同じ理由で南下した北海道アイヌが住み着いた。 古墳時代初頭の4c~5cに、関東・東海・北陸から大量の古墳文化農耕民が組織的に移民し、古墳を築造して古墳文化を築いた。 これによって東北地方に古墳文化が始まったのである。 つまり、これらの移民集団が、やがて武力で縄文系弥生人を征服して支配地域を拡大してクニをつくっていった。 |
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50古墳時代 北限の古墳文化 畿内を中心とした統一政権が広がり、国家が成立した時代、日本各地に墳丘墓が出現します。 山形でも四世紀になり、置玉地方を中心に古墳が造営され、最上川流域の川沿いには多くの集落が営まれ、副葬品も出土しています。 土器も全国で共通性の高い土師器が用いられるようになり、朝鮮からは須恵器製作の技術が伝わりました。 鉄器の普及で農耕具の技術も高まり、機織りや玉作りなどの生産技術が格段に進歩しました。 |
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53土器と装身具 |
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55
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60奈良・平安時代 出羽国成立 平城京・平安京といった都が建設され、律令制による統治制度が導入されました。東北地方への古代国家の進出も始まり、地方に国司が 派遣されました。 山形の地にも国府がおかれ、712年に出羽国が建国されました。県内でも須恵器の生産が始まり、窯跡も確認されています。 出土した文字資料からは当時の様子を知ることができます。 須恵器の生産は、712年前後だったようです。 |
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62生石2遺跡/酒田市 |
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64古窯からの出土物 |