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  東北の縄文1   04  2016.10.13-2

 山形県埋蔵文化財センター 山形県上山市中山壁屋敷5608 023-672-5301 月・祝・年末・年始休館 撮影可


 時代 縄文時代 旧石器~古代

 見所 展示量は少ないですが、山形県全体の先史の傾向がつかめます。 ※この館には縄文時代出土の青銅製刀子が収蔵されています。
      収蔵庫には縄文遺跡から発見された殷(商)の青銅刀子など、驚くようなものが収蔵されています。

 交通 車 カーナビでは「中山小学校」か、「上山市中山壁屋敷」と入力し、候補から「中山小学校」を選ぶかです。
        中山小学校は廃校。同名小学校は無し

 反省 キャプションが付いていないので、はっきり言って、何も分かりませんでした。



01外観

10旧石器時代 
11石器
 
20縄文時代
22石器
23土器
24土器と装飾品
 資料
25円筒式土器と大木式土器
30縄文土器の移り変わり 

36祭祀具
  円筒土器と大木式土器
37土器
38土器と石器
  日本最大級の縄文土器 
 
40弥生時代
41土器と石器
44土器
考察
 再葬墓
 弥生稲作農耕の広がり
 古墳文化人の移住
 
50古墳時代
53土器と装身具
55服部・藤治屋敷遺跡 

60奈良・平安時代
  出羽国の成立
62生石2遺跡/酒田市
64古窯からの出土物
 
 01外観
山形県埋文旧上山小学校 縄文の女神像 土笛埋文所蔵の珍しいもの② 埋文やまがたHP2017.03.06に掲載された土製品。

羽黒神社西遺跡
検出遺構
 盛り土遺構、フラスコ状土壙、土壙、石囲い炉、土器敷き石囲い炉
出土遺物
 縄文土器(早期:押型文・条痕紋・尖底、中期:大木8b 式)
 土偶 袋状土製品 円管 形土製品 石鏃 石匙 錐形石器 異形石器
 ヘラ形石器 磨製石斧 剥片 石核 石皿 磨石 凹石 須恵器 砥石

 ※山形県にはとても変わったものが残っていると感じています。
 







  10旧石器時代 山形のはじまり 3万年前~12000年前






  約3万年前の山形は気温が今より6度近く低く、多くの湖や低湿地が点在していました。
  その頃、ナウマンゾウやヘラジカ等の動物を狩猟する人々が山形の大地に現れました。

  山形県内の旧石器時代の遺蹟は約100箇所近く確認されており、その多くは最上川やその支流の河岸段丘上にあります。
  旧石器人は石刃・ナイフ形石器・尖頭器・細石刃と石器製作技術を進歩させながら、豊かな狩猟場を求めて移動する生活をしていました。

  11石器
旧石器時代 旧石器時代の石器 石刃 石刃とは
  割った石の剥片。
  石器の素材となる
    剥片石器 と言う

    反対語は
       石核石器
ナイフ形石器 掻器・彫掻器・彫器
 



 20縄文時代

 ムラの豊かな生活
   1万2千年前、人々の生活は大きく変化します。 定住生活が始まり、土器の発明により木の実を中心とした食生活になりました。
   安定的な生活により人口が増加し、山形でも最上川などの広い河岸段丘の上に大きな集落が築かれました。

   現在、山形県内では1300箇所以上の縄文遺跡が確認されています。
   各時期ごとに特徴的な土器がつくられ、様々な用途の石器や、 土偶などの祭りや精神生活に関わる道具も生まれました。





  西海渕遺跡 縄文時代中期後半  参考_西海渕遺跡発掘調査報告書



  22石器
ムラの豊かな生活 石箆・石匙・石錐・石鏃西海渕遺跡 村山市 石箆・石匙 磨製石斧

  23土器 大木8b式土器
西海渕遺跡の土器 右:手形付土器
左:器台
大木8b式土器
手づくね土器 葬送儀礼用

  24土器と装飾品  大木8b式土器

西海渕遺跡/村山市

吹浦遺跡/遊佐町

吹浦遺跡
市野々向原遺跡
/小国町

西海渕遺跡大木式
吹浦遺跡円筒式土器
玦状耳飾吹浦遺跡/遊佐町
大陸系民族の持ち込んだ文化か


 25円筒式土器と大木式土器  転載・引用「変転する大地が生み出す新しい文化東京大学大学院新領域創成科学研究科 辻 誠一郎
円筒下層式土器の分布
十和田カルデラの降灰地に発生した円筒下層式ならば、北海道に多いはずであるが、実際は東北に多い。
円筒下層式文化人が東北に来たから起こった文化のようである。
三内丸山の文化変遷
円筒上層式土器は、
5000年前に、始まった変化により、
大木8式に影響され榎原式となり、更に
大木9式により最花式へと変化し
最終的に大木10式となる。
この時期に、環状配石や巨大6本柱大型建物等の文化が起こる。
円筒土器文化と人為生態系の関わり
広大な土地で栽培されていたクリ・クルミ主体であった食文化は、次第に寒冷植物であるトチ・ナラに変化していく。沿海州には今も栗林が残っている。



巨大噴火の火山灰と土器文化の変遷

縄文早期~前期初頭に東北北部では、尖底土器の表舘式・早稲田6類、平底の大木1式2a式だった。

5900年前の十和田火山のプリニー式噴火によって絶滅し、前期中頃に、突如見たこともない、円筒下層a式土器が出現した。
三内丸山周辺の植生変化
5900年前 十和田火山爆発。東北
北部の落葉広葉樹林が壊滅。
5400年前 クリ・クルミの栽培文化 人が到来。爆発から自然の回復に500年かかった。       
4600年前 寒冷化の始まり、トチノ キ増加。火山灰の影響が減少し
大木式土器の影響強まる。 
4000年前 気候冷涼化。トチノキ増加。大木系文化圏となった後
集落は終焉する。      
3500年前 無人化しナラ・ブナ類主体の落葉広葉樹林となる。




 尖底土器と平底土器 引用「平底土器の出現」

  尖底土器は煮沸に便利な形で、平底土器は保存に適した形といわれる。

  クリやクルミを栽培し、保存する人々にはカゴや革袋以上に大容量の保存容器が必要であった。すると円筒下層式の巨大バケツのような土器は、
  単に煮込み用と言われてきたが、それ以上に保存機能が重要視されたのではないだろうか。

  円筒式土器やクリ栽培文化を持つ遼河文明人は、その後の気候変化、火山灰土壌の減少等から、生活様式が変化し、大木式土器を使用する
  ようになった。



    北大式や早稲田式など、自分たちの手柄を誇示するような名前付けは、困ったものだ。何の関係もないのだから。



 30縄文土器の移り変わり

  36 祭祀具 宮の前遺跡 村山市 縄文晩期

   参照 村山市宮の前遺跡 ヒスイ製勾玉の出土状  宮の前遺跡第3次発掘調査報告書  宮の前遺跡第2次発掘調査報告書
       山形県における土偶の分布           宮の前遺跡

縄文土器の移り変わり 宮の前遺跡/晩期村山市
縄文時代晩期が主体
宮の前遺跡 注口土器
香炉形土器 石刀/石棒

 円筒土器と大木式土器

   東北地方では5900年前に十和田火山が噴火し、東北北部~北海道南部に降灰し、甚大な被害を与えた。
   噴火後の降灰地域では円筒土器が、そうでない地域では大木式土器が用いられ、やがて、火山灰の影響が少なくなると、円筒土器は使用され
   なくなった。

  三内丸山遺跡
   5900年前-4000年前まで1900年間続きました。 十和田火山噴火後からその影響が消えるまでの2000年間続いたことになります。



  37土器 かっぱ遺跡 最上町  縄文後期中葉  かっぱ遺跡発掘調査報告書

注口土器 深鉢/大木式 内耳式土器/アイヌと関連か?

  38土器と石器
     熊ノ前遺跡 山形市  縄文中期中葉~後葉  熊ノ前遺跡第3次調査報告書   熊ノ前遺跡第1次調査報告書
     小反遺跡  鮎川村  縄文中期末葉       小反遺跡発掘調査報告書 
再葬墓/熊の前遺跡 再葬墓土器棺
熊ノ前遺跡
大木8b式~9・10式期
複式炉埋設土器
小反遺跡/鮎川村
大木8b式~9・10式期
石皿と磨石 日本最大級の土器※

 日本最大級の縄文土器 山形県埋蔵文化財センター所蔵  参照 山形県水木田遺跡出土品  水木田遺跡発掘調査報告書  水木田遺跡画像

       埋蔵文化財センターの入口に展示してあったようです。が、見落としました。





 40弥生時代 農耕文化の幕開け

      今から2500年前、水稲農業と金属器の使用を特徴とする弥生文化が、日本海ルートを通って荘内地方から内陸部へ伝わりました。
      豊かな暮らしは階層分化を生み、社会はムラからクニへと変わっていきました。

      県内では盆地の低地を中心に、約165箇所の遺蹟が確認されており、炭化米やモミの痕がついた土器も見つかっています。


  41土器と石器
弥生時代
-農耕文化の幕開け-
農耕文化の幕開け 有色品種の米 蓋と高坏 境田D遺跡/山形市石包丁 石斧扁平片刃石斧・太型蛤刃石斧/
百刈田遺跡/南陽市

  44土器 百刈田遺跡 南陽市   百刈田遺跡第1~4次発掘調査報告書
       向河原遺跡 山形市  向河原遺跡第5・6次発掘調査報告書  向河原遺跡発掘調査報告書  向河原遺跡



百刈田遺跡/南陽市

文様に注目

文様に注目

向河原遺跡/山形市

 考察

  キャプションがなく詳細不明ですが、  これらの特殊な形の壺形土器は、骨壷ではないでしようか。この形状の物は東北のどこかで見ました。
  だとすると、再葬墓です。半島系弥生人が東北の各地でこのような 曝葬 (ばくそう=風葬) の後に壺に収骨して何個かまとめて埋めることが多い
  ようです。

 
 考察

 弥生稲作農耕の広がり
   日本海ルートで青森県弘前市まで拡大した水田農耕は、縄文人が縄文人集落で耕作するようになり、まさに、稲作文化の伝来であった。
   ただし、結核や回虫などの病原菌や寄生虫が出現していることから、弥生人も来ていたことがわかる。

   しかし、西日本的な弥生文化は全く見られず、縄文文化に稲作農耕が加わったにすぎなかった。

 古墳文化人の移住
   弥生終末期の2c~3cの寒冷期に東北地方では稲作農耕が壊滅し、多くの農地や村落が放棄され、同じ理由で南下した北海道アイヌが住み着いた。

   古墳時代初頭の4c~5cに、関東・東海・北陸から大量の古墳文化農耕民が組織的に移民し、古墳を築造して古墳文化を築いた。
   これによって東北地方に古墳文化が始まったのである。

   つまり、これらの移民集団が、やがて武力で縄文系弥生人を征服して支配地域を拡大してクニをつくっていった。






 50古墳時代 北限の古墳文化

    畿内を中心とした統一政権が広がり、国家が成立した時代、日本各地に墳丘墓が出現します。
    山形でも四世紀になり、置玉地方を中心に古墳が造営され、最上川流域の川沿いには多くの集落が営まれ、副葬品も出土しています。

    土器も全国で共通性の高い土師器が用いられるようになり、朝鮮からは須恵器製作の技術が伝わりました。
    鉄器の普及で農耕具の技術も高まり、機織りや玉作りなどの生産技術が格段に進歩しました。


  53土器と装身具
北限の古墳文化 須恵器 はそう 北限の古墳文化 子持ち勾玉 坏・紡錘車
土師器 甑こしき

子持ち勾玉

弥生時代に現れなかった
西日本的・半島的祭祀具が、
古墳人によって持ち込まれたようです。
古墳人の登場と共に
須恵器が出現しました

  55
服部・藤治屋敷遺跡/
山形市
服部・藤治屋敷遺跡/
山形市高坏・穴あきの壺・赤塗の鉢
孔をあけられた壺 高坏/赤塗の鉢
赤塗の鉢類
鍬・田下駄
板橋2遺跡/天童市




 60奈良・平安時代  出羽国成立

  平城京・平安京といった都が建設され、律令制による統治制度が導入されました。東北地方への古代国家の進出も始まり、地方に国司が
  派遣されました。

  山形の地にも国府がおかれ、712年に出羽国が建国されました。県内でも須恵器の生産が始まり、窯跡も確認されています。
  出土した文字資料からは当時の様子を知ることができます。

  須恵器の生産は、712年前後だったようです。

  62生石2遺跡/酒田市
生石2遺跡/酒田市 奈良・平安時代 墨書土器 石帯・漆紙文書 上高田遺跡/遊佐町
黒色土器・燈明皿 漆が付着した土器 絵が描かれた土師器
  64古窯からの出土物
壺・横瓶/泉森南窯跡 溶着した坏蓋身平野山古窯跡群/寒河江市 須恵器の大甕/泉森南窯跡