北海道の縄文 №29 2022.06.12-1
北網圏北見文化センター 北海道北見市公園町1
(ほくもうけん、北見・網走地域のことかと)
0157-23-6700 月・休日の翌日休館 撮影可
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交通 |
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・JR北見駅から1.9km徒歩20分 ・レンタカー |
近隣観光地 |
・知床観光、網走周辺、阿寒・屈斜路・摩周湖周辺
・知床や三湖(阿寒~摩周)、網走・サロマ湖などは隣接の絶景Point。
拠点を決めて、車で巡ります。特に、早朝の摩周湖は絶景で、
摩周湖YHはとても便利な宿でした。 |
近隣博物館 |
知床周辺・網走周辺・白滝周辺 |
宿泊情報 |
知床・サロマ湖・三湖周辺は高額(3万)、網走には手頃もあり(5千)。
私の場合摩周湖ユースホステルが最高でした。易くて清潔親切。便利。 |
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目次
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01外観
02洞窟生活
100旧石器時代
110年表と遺物
113旧石器時代遺跡
120旧石器時代遺物
131旧石器時代の北海道
133広郷8遺跡[下層]
142後期旧石器時代の日本列島
※資料 細石刃
143北進遺跡
151細石刃の使い方
153北上4遺跡
161細石刃技法の比較
163広郷20遺跡
170北上台地遺跡
180広郷8遺跡[上層]
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190縄文時代 石刃鏃文化
190縄文早期
190川東羽田遺跡
191石刃鏃文化
193石刃鏃
200縄文時代
200草創期
300早期年表
310縄文中期
430中期土器
500後晩期の年表
510大昔の埋葬習慣
520晩期土壙墓
523副葬品
525土器
550晩期土器 |
600続縄文時代
610年表
650続縄文土器
800擦文時代
830擦文土器
900アイヌ文化期
※考察アイヌ文化の調理器具
920内耳鉄器
※考察 内耳鉄鍋
1000行燈展示
1200石器・土器の製作
1201石器製作
1203土器製作
1210中ノ島遺跡の土器 |
1213縄文時代
1215続縄文時代
1220東釧路式土器
1230縄文中・後期土器
1270中ノ島遺跡
1300美里洞窟遺跡出土資料
1302縄文早期
1303縄文中期
1304アイヌ文化期
1400アイヌ文化期
1500北見の自然
1510自然
1520開拓
1530北見の躍進
※北光社開拓の歩み |
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01外観
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入口展示
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02洞窟生活のようす 美里洞窟遺跡
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大昔の人々は雨露をしのいだり、長い夜に猛獣から身を守る住居として、水の浸食や自然崩壊によりできた岩陰や洞窟を利用することがありました。
仁頃山に近い美里洞窟遺跡は、道内でも数少ない例として知られ、クマやシカなどの狩猟や木の実の採集など、あるシーズンのみに使用したと考えられています。 |
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※美里洞窟:アイヌ文化期・縄文時代・旧石器時代のキャンプ地。住居ではなく、一時立ち寄る場所。
従って、各時代の遺物が出土している。 参照「美里洞窟 北見市」 |
美里洞窟遺跡 |
洞窟奥から入口方向 |
石灰洞窟 |
衣類は鹿皮のようだ |
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洞窟生活のようす |
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100旧石器時代
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110年表と遺物
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111旧石器時代年表
旧石器時代年表
5万~1.5万年前 |
5万年前~
北進遺跡
出土した石刃 |
出土した細石刃石核
先土器時代の遺跡分布
発掘調査の方法 |
グリッド毎の発掘作業
住居址の発掘 |
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前期白滝遺跡群 |
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白滝31遺跡 |
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豊田遺跡 |
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中本遺跡 |
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大正1遺跡 |
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本沢1遺跡 |
3.1-2.8万年前 |
広郷遺跡 |
1.6-1.5万年前 |
北上台地遺跡 |
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吉井沢遺跡 |
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113旧石器時代遺跡
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北進遺跡の発掘調査 約1万年前 北見市北進町 出土遺構:焼土 遺物:石器・剥片
小高い河岸段丘の辺り近くに位置する北進遺跡 約10,000年前のまだ土器のなかったころ、 当時の人々の生活の跡がここに残されています。
水の便など、周囲の環境に恵まれ、また動物の移動を見張るにも都合のよい場所だったようです。 |
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北進遺跡 |
北進遺跡
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北進遺跡 |
出土した石刃 |
出土した細石刃核
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発掘調査の方法
先住民族が営んだ生活の跡が、 今日まで残されているところが「遺跡」です。
遺跡は、ほとんど土中に埋没しているため、「発掘調査」をおこない当時の状況を正確に記録していきます。
1.表面採集
2.発掘区設定~杭打ち
3.地層層序順発掘~出土遺物の記録収集(実測図作成・写真撮影)
4.検出遺構の記録収集〜現状保存処理または復元 |
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先土器時代の遺跡分布
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先土器時代の遺跡分布
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発掘調査の方法 |
グリッド毎に行なわれる発掘作業
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住居址の発掘 |
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120旧石器時代遺物 |
121旧石器
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130後期旧石器時代
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131後期旧石器時代の北海道 ~ゾウがいた頃~
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北海道では後期旧石器時代の35,000~34,000年前頃にはヒトが住み始めていたと考えられています。
この時代は現在より気候が寒く、北海道はサハリン、大陸と陸続きになっていました。
北海道には現在見られない大型動物も生息しており、日本列島に分布していたナウマンゾウ、オオツノジカ動物群と、
北の大陸側から渡ってきたマンモス動物群が、それぞれ気候の変動に応じて分布を広げていたようです。 |
広郷8遺跡 |
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ナウマンゾウ動物群3万年前絶滅
マンモス動物群2万年前絶滅 |
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133広郷8遺跡 北海道北見市広郷958広郷8遺跡[下層] 後期旧石器時代前半 約31,000-28,000年前[?]
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北見市内では最も古い年代のものと推定される遺跡の1つ。
石刃を加工し、とがらせた「広郷型尖頭器形石器」や台形様石器が狩りの道具だったと考えられています。 |
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広郷型尖頭形石器
石刃を加工した石器 |
台形様石器
(石槍の一種)
石槍の一種と考えられる石器 |
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掻器
円弧状の刃で皮革の加工を行った。 |
削器、彫器 |
削器
ものを切ったり削ったりする用途の石器
彫器
骨や角の溝彫りや切削のための石器 |
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140
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142後期旧石器時代の日本列島 ~氷期の古地理~
約25,000年前の海岸線
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陸地が氷河に覆われていた分、海水が減り、最も寒い時期には、海水面が今より120m以上低くなっていました。 |
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後期旧石器時代の
日本列島
~氷期の古地理~
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25,000年前の海岸線 |
・対馬海峡は水道に
・津軽海峡も水道に
・サハリン間宮海峡陸地化
・稚内宗谷海峡も陸地化 |
凡例
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※資料 細石刃
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143北進遺跡 後期旧石器時代 後半期 約25,000-23,000年前
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北見市内で細石刃が出土する遺跡としては、最も古い時期のもの。
細石刃は主に峠下型細石刃核から製作されています。
石器に黒曜石以外の様々な石材が多く使われている点も特徴です。 |
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北進遺跡
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峠下型 細石刃核 |
細石刃
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左:黒曜石製
右:黄色い碧玉製 |
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145
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彫器 |
掻器
黒曜石の他、碧玉や
珪質頁岩が使われている |
石刃
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礫器
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安山岩の礫の下端に鋭い角度の刃を付けたもの。 |
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150 |
151細石刃とその使い方 ~後期旧石器時代の狩りの道具~
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当時の人々は狩りで動物を獲って暮らしていました。
石で作った石器が狩りの道具であり、時期によって様々な形、作り方のものが工夫されていました。
北海道では後期旧石器時代後半期に、「細石刃」と呼ばれるカミソリの刃のような石器が発達しました。
北見市内でもこうした石器が数多く発見されています。 |
北上4遺跡 |
細石刃とその使い方 |
細石刃の使い方 |
細石刃の使い方
細石刃は何個か組み合わせて使われたと考えられています。
例えば、骨製、角製の柄に溝を彫り、そこに細石刃をはめ込んで鋭い刃のついた槍をつくりました。 |
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153北上4遺跡 北海道北見市北上433他
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後期旧石器時代後半期 約18000-17000年前
細石刃は幌加型細石刃核と峠下型細石刃核から製作され ています。 古い時期と比べると細石刃核や細石刃がやや大形になっている点が特徴となっています。 |
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細石刃核
左の2点が幌加型。 右が峠下型で、細石刃核製作時に取られた剥片を再接着してある。 |
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細石刃核
←幌加 峠下→ |
幌加内形
幌加内形 峠下型
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幌加内型細石刃核
北海道~東北地方に分布。
断面三角形状の両面調整石器の一端に打撃を加え、規格的な細石刃を作出する。
引用置戸町郷土資料館 |
峠下型細石刃核
北海道と東北アジアで類似の技法が確認される。片面に調整剥離を施した石器の長辺に打撃面を作出し、そこから細石刃の剥離作業を進める。
引用置戸町郷土資料館 |
細石刃 |
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彫器・掻器・削器 |
彫器
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掻器・削器 |
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160 |
161細石刃技法の比較
細石刃の作り方 ~いろいろな石割の手順~
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細石刃の作り方は様々な方法が工夫されており、時期によって変化がありました。 |
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163広郷20遺跡 後期旧石器時代後半 約16,000-15,000年前
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石刃の側縁部から細石刃を取る「広郷型細石刃核」を始めとする石器が出土しています。諸説ありますが、細石刃の遺跡の中では新しい時期と推定されます。 |
細石刃核
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広郷型細石刃核。大型の石刃の側縁部から直線的な形状の細石刃が剥がされています。 |
広郷20遺跡 |
広郷20遺跡
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広郷型 細石刃核 |
細石刃 |
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彫器 |
掻器 |
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錐形石器 |
削器 |
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170北上台地遺跡 北見市北上 |
171北上台地遺跡 後期旧石器時代後半期 約16,000~15,000年前
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細石刃が出土をする遺跡の中では最も新しい時期のもの。
細石刃は主に忍路子(おしょろっこ)型細石刃核から製作されており、細石刃核・細石刃はかなり小型のものが多くなります。 |
北上台地遺跡 |
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忍路子型細石刃核・細石刃はかなり小型になります。 |
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細石刃 |
細石刃 |
錐形石器 |
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173
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180広郷8遺跡[上層] 後期旧石器時代後半期 約16,000-14,000年前
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後期旧石器時代終わり頃と考えられる石器。細石刃に代わって尖頭器・有茎尖頭器を使った石槍が使われたと考えられます。 |
広郷8遺跡[上層] |
有茎尖頭器
柄につけるための出っ張り(茎)のある尖頭器 |
尖頭器
左の大型2点は製作途中で折れたようだ。 |
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縄文時代
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縄文早期
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190川東羽田遺跡(石刃鏃文化遺跡) 主として縄文時代早期 約8500-8000年前 北見市川東498/514/515
石刃鏃492点、石刃鏃を利用した彫器24点が出土
※高度で独特な技術が必要な、石刃鏃の生産工房だったかのだろうか。 |
191石刃鏃文化
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石刃を加工した鏃である。「石刃鏃」が多数出土した遺跡。
石刃鏃はこの時期の東北アジア一体に広まっており、大陸の影響を受けた文化の石器と考えられています。 |
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先土器時代の遺跡分布 |
発掘調査の方法 |
発掘調査の方法
先住民族が営んだ生活の跡が、 今日まで残されているところが「遺跡」です。
遺跡は、ほとんど土中に埋没しているため、 「発掘調査」をおこない当時の状況を正確に記録していきます。
発掘調査の順序"
1.表面採集
2.発掘区設定~杭打ち
3.地層層序順発掘~出土遺物の記録収集(実測図作成・写真撮影)
4. 検出遺構の記録収集~現状保存処理または復元 |
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193川東羽田遺跡
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主として縄文時代早期 約8500-8000年前
石刃を加工した矢じりである「石刃鏃(せきじんぞく)」が多数出土した遺跡。 石刃鏃はこの時期の東北アジア一帯に広まっており、大陸の影響を受けた文化の石器と考えられています。 |
石刃鏃・石鏃・彫器
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石刃鏃492点 |
石刃鏃 |
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石刃鏃 |
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石鏃
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彫器 |
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194
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200縄文時代
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200縄文時代草創期 年表
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中ノ島遺跡 (中期~アイヌ文化)
多数の住居址の他、「土拡墓」も発見されている大規模な遺跡です。
縄文中期 (約3,500年前)からアイヌ期 (約200年前) まで、一か所でこれほど長期間使用されたところはあまり例がありません。
河川に近く、また山にも近いことから、川魚や獣、ヤマブドウ・コクワや山菜に恵まれた住みよい環境であったことが想像されます。 |
草創期年表
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草創期遺跡
7000年前
豊地1遺跡
上仁頃遺跡
川東羽田遺跡
5000年前
川東10遺跡 |
中ノ島遺跡 |
中ノ島遺跡 |
河岸に位置する中ノ島遺跡
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河岸に位置する中ノ島遺跡
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300早期年表
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310縄文中期 |
中ノ島遺跡 北見市中ノ島町3丁目13 3,500-200年前
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多数の住居址のほか、「土坑墓」も発見されている大規模な遺跡です。
縄文中期(約3500年前)からアイヌ期(約200年前)まで、1カ所でこれほど長期間使用されたところはあまり例がありません。
河川に近く、また山にも近いことから、川魚や獣、ヤマブドウ、コクワや山菜に恵まれた住み良い環境であったことが想像されます。 |
中ノ島遺跡 |
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川岸に位置する
中ノ島遺跡
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川岸に位置する
中ノ島遺跡 |
検出された住居址と墳墓
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400中期年表 |
410
縄文時代中期・後期・晩期
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まだ採集・漁撈・狩猟が生活の基盤であった縄文時代。
中期には道央から道東、北にかけて北筒式土器に代表される文化がありました。しかし、後期になると本州東北地方の文化の影響が北海道にも伝わり、晩期には全道各地に広がりました。 |
大昔の住まい
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大切な食料源である動物を追って移動していた狩猟、採集生活の時代。人々は、岩陰や洞穴などを利用し、一時の住居としていました。
しかし、時が経つにつれ、食糧保存方法の発見など、次第に安定した食糧確保ができるようになり、定住生活への道が開けてきました。
竪穴式住居は、この定住生活のはじめの頃に利用されていた「すまい」です。 |
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縄文時代以降の
遺跡分布 |
縄文時代中期・後期・晩期 |
大昔の住まい |
洞窟生活 |
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430中期土器
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500後期・晩期の年表 |
510大昔の埋葬習慣
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縄文晩期(約2500年前)の人々には、死者を大切に葬る習慣が既に定着していました。
円形の穴を掘り、底に赤いベンガラを撒き、遺体を埋めた「墳墓」が『中ノ島遺跡』で多数見つかっています。
墓の中には生前使用していた飾り物・土器・石器などの生活用品を一緒に副葬しています。4死後の世界で困ることのないよう配慮したことが伺えます。 |
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520晩期土壙墓 中ノ島遺跡 |
521土壙墓
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土坑墓
小物入れ・石斧・平玉 |
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※考察 平玉
土壙墓出土の平玉は装飾品には違いない。
北網圏では琥珀製の高価なものも出ますが、それはサハリン渡来の族長か交易の長者ではないか。利尻礼文では貝製の粗製平玉が大量に出ます。とても御洒落や儀式では恥ずかしくて掛けられないものです。これらは死者の旅立ちの装束なのではないでしょうか。現代でいう袈裟のようなものでは。 |
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523副葬品
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525土器 中ノ島遺跡
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550晩期土器 中ノ島遺跡
中ノ島遺跡
縄文晩期
晩期後半の幣舞式以後の終末期と想定される |
緑ヶ岡式土器
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緑ヶ岡式土器 |
晩期土器型式
緑ヶ岡式
晩期後半の変化は
幣舞式→緑ヶ岡式 |
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600続縄文時代
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本州東北南部まで北進してきた稲作農耕の文化。
しかし北海道では農耕は行われず縄文時代とほとんど変わらない生活が続きました。 |
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610続縄文時代年表
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650続縄文土器 中ノ島遺跡
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深鉢
中ノ島遺跡 |
注口土器
中ノ島遺跡 |
開成4遺跡 |
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開成4遺跡 |
中ノ島遺跡 |
中ノ島遺跡 |
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800擦文時代
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810擦文時代
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土器の縄目模様が、「刷毛目」と呼ばれる擦痕に変わる。坏形など、新しい器形の土器がつくられる。
本州で用いられていた「土師器」の影響を受けた、新しいスタイルの土器が見られ始めます。
しかし、オホーツクのごく限られた沿岸では、擦文文化と全く異質のオホーツク文化(沿海州・樺太・千島に分布)が見られました。 |
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830擦文土器 中ノ島遺跡
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900アイヌ文化期
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本州との交易が多くなり、土器・石器などに代わって鉄製品が多く使われるようになりました。
アイヌ文化は12~13世紀から発達し、道内全域に広がっていきました。
※考察 アイヌ文化期の調理器具
これまで1万年続いていた土器文化が断たれ、鍋の役割は土器から鉄鍋へ置き換わった。おそらく、高温度で焼く窯がなかったのでしょう。
北海道からは須恵器窯あとは発見されておらず、発掘されるものは本州からの高価な持ち込み品だったようです。
しかし、本州では、平安時代の鉄鍋の同上以後も相変わらず土器文化が続いています。個食用の陶磁器はますます発達します。
北海道では、木器文化は鉄鍋の登場以後も廃れることなく持続していて、個食用食器は木製品が使われ続けたのでしょう。
この違いは、本来北海道では人口が少なく、木材資源が豊かであり、縄文時代から続く木器加工技術が高かったと推測されます。
本州でも木器の生産は盛んで、沢山の木地氏が山中を往来して、素晴らしい木製品を作り続けていました。しかし、窯業文化も盛んで、海外陶磁器の影響を受けてますます発達し、生活に浸透していました。
アイヌ文化で鉄鍋が隆盛となったのは、使いやすく壊れにくく、低音焼成土器特有の粘土が溶け出して煮物に混じることがないからでしょう。 |
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910
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南町遺跡
中ノ島遺跡
開成4遺跡
相内チャシ遺跡
コシャマインの乱 |
アイヌ文化期 |
アイヌ期時代
1192
中ノ島遺跡
開成4遺跡
1333
相内チャシ遺跡 |
アイヌ期時代
松前藩時代
(コシャマインの乱)
(シャクシャインの乱)
1669 |
現代1897
野付半島に北光社移民団・屯田兵入地
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920
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内耳鉄鍋
中ノ島遺跡出土/時期不明
取っ手をつけるための耳が内側にある鉄鍋です。 取っ手は木などで作ったため、 鍋を火にかけても燃えないように耳が内側にあります |
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小札
相内チャシ出土/時期不明
「小札」 と呼ばれる長方形の鉄板を組み合わせて作る 「小札鎧」の一部です。 小札同士をつなげるためヒモを通す穴が並んでいます。 |
内耳鉄鍋
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※考察 内耳鉄鍋
内耳鉄鍋は平安時代の11~12世紀に登場したと推定されている。
これまで内耳鉄鍋の全体の形を知らなかったため、おかしな想像をしていましたが、鍋の二方向対面に穴があり、これに湾曲した鉄製のツルと呼ばれる把手をはめ込んで持ち運びし、不用な場合は取り外すことができる鉄鍋です。実に機能的な道具です。
このような鉄鍋は現代でも使われており、居酒屋や和風料理などではおなじみの鍋です。へーぇ!平安時代に発明されたのか!
内耳土器・内耳鉄鍋
内耳土器(内耳土鍋)では、ヒモでつながった木製の鈎を引っかけるため、鈎やヒモが燃えるの防止のために、工夫して内耳としました。従って、本来の鉄鍋とは少し形が異なり、ここから逆に内耳鉄鍋を想像したために誤った想像をしていました。
ただ、自在鉤にぶら下げて調理するために内耳になったのだろうか。洗う時だけ把手をはずしたのかな。 |
内耳鉄鍋
中ノ島遺跡 |
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イナウケマキリ
開成4 |
小札
相内チャシ |
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アイヌ文化はここまで |
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1000行燈展示
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1100 |
1200石器・土器の製作 |
1201石器製作
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石器の製作と使用
大昔、武器や工具等の刃物には石器が使われていました。
鋭利な刃の石器にはガラス質の石材が適しており、北海道では黒曜石が多く利用されました。
遺跡には石器とともに、石器製作の過程で生じた石の破片が大量に残されています。 |
石器の製作 |
石刃の剥離 |
鹿角による剥離 |
石器の製作と使用
上に記述 |
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石器ができるまで (石刃を使う場合)
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●石核と剥片・石刃
多くの石器は、石の塊を割って剥ぎ取った薄い破片をもとに作られました。このときの石の塊を「石核」、はぎ取られた破片を「薄片」と呼びます。あらかじめ石核の形を整えてから割ることで、ある程度意図した形の剥片を取ることができます。両側が平行した細長い形に連続的に割り取った剥片は特に「石刃」と呼ばれます。 |
石器ができるまで
石刃を使う場合
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石器ができるまで
【石刃を使う場合】
➀材料の石を入手する
②石を割って形を整える
③角の部分をたたき、縦に剥片をはがす
④ ③でできた角の部分をたたくと、続けて縦長の剥片がはがせる
⑤同様に角の部分を使って連続的に石刃をはがす
⑥石刃をさらに加工して、各種の石器が作られました |
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1203土器製作
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土器の製作と利用
食料を煮炊きして食べる。保存しておく。土器を作る技術を知り、古代の人々の生活は大きく進歩しました。
世界で土器が作られるようになったのは約7000年前と言われています。しかし、日本ではそれよりも古い年代を示す土器時が見つかっています。
土器の文様や器形には、時代によってそれぞれの特徴があり、時代の新旧を知る大切な資料となっています。 |
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土器作り |
土器の製作と利用 |
土器製作の各種手法
ロクロ、手捏
輪積、巻上げ
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1210中ノ島遺跡の土器 主な時代:縄文(早期+中期+晩期)
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1211表面採集資料 中ノ島遺跡
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こちらの資料は中ノ島遺跡が調査を開始する前から土地の持ち主や近隣住民から寄贈をいただいた資料になります。
無断で遺跡を発掘する行為は盗掘になりますが、こちらの資料は畑などで拾ったものがほとんどです。無くなるのも悲しいと言うことで大事にされていた資料を寄贈をいただきました。
半世紀に及ぶは中島遺跡と周辺に住む人とのつながりを感じます。 |
中ノ島遺跡 遺構外出土資料
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北海道は降雪や低温のため土壌の分解による土の堆積が少なく現在でも竪穴住居の窪みが確認できるほどです。さて、中ノ島遺跡も竪穴住居が見つかっていますが、中ノ島遺跡とその周辺は発掘調査前は牧草地などの畑や農道があり、遺跡は隠れていました。そのため中ノ島遺跡は一部が畑で壊されていたため畑内に土器や石器が散乱してる状態でした。
ここで展示している資料はそうした遺構に伴わない資料が中心です。その数は1万点を超えますがここでは特徴的な資料を紹介します。 |
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中ノ島遺跡
表面採集資料 |
中ノ島遺跡
遺跡外出土資料 |
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1213縄文時代
後期(紀元前2000~1000年前) 後北式
晩期(紀元前1000~300年前) 北大式
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1215続縄文時代 紀元前3世紀~紀元後7世紀
続縄文土器(初頭)×2
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磨製石斧
続縄文土器初頭
ベンガラ
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ベンガラ |
続縄文土器初頭×2 |
続縄文土器初頭
石皿・磨製石斧
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棒状敲き石
石皿
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棒状叩き石
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石皿
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内耳鉄鍋
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1217
ライフル弾 |
※発掘中に発見されたライフルの弾。5発も同じところに撃ち込まれていたのは、なにか恐ろしいものを想像します。
狩猟ではなく、射撃訓練か?だとすればもっと沢山落ちているはず‥‥謎 |
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1220東釧路式土器 縄文早期
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北見市内で最古級の土器
東釧路式土器
こちらの土器は東釧路式土器と呼ばれている土器です。釧路市東釧路貝塚から層位的に発見されたため、このような名称がつけられています。
下層から順にⅠ~Ⅴ式と名付けられ、川東13遺跡ではⅡ式・Ⅲ式・Ⅳ式が出土しています。
このほか周辺の遺跡では中ノ島遺跡で東釧路Ⅲ式とⅣ式土器が出土しています。
東釧路Ⅱ式土器はおよそ8500~8000年前頃の縄文時代早期に使われていた土器で、北見市内では最古級の土器になります。
土器は厚さが5~6mmと薄く、胎土は石英等を含む粘土で焼成はあまり良くありません。無文の土器もありますがほとんどが縄文が施されています。
主要な文様構成は撚糸文・絡条体圧痕文・縄の圧痕で、全体の形状は平縁平底の土器であったと思われます。 |
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1230縄文中~後期土器
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絡条体圧痕文と単節の斜行縄文が施文された土器
この土器は棒状工具に文を巻き付けた施文具 (絡条体) を転がした文様と、 単純なによる施文がなされています。 このような土器は周囲の遺跡からは見 つかっておらず珍しい土器です。
北筒式土器
縄文中期後半の道東を中心に展開していた土器型式。北海道式円筒土器。
口縁は山形突起をもった波状もしくは平縁で、口縁部に肥厚帯がつくられ、その直下に円形の刺突文が数センチメートル間隔でめぐる特徴を持った土器。
モコト式土器
モコト式は、口縁部に刺突文・押引文・沈線文や、上部に刺突文や指頭・縄側面の押圧文が施された貼付帯を有することが特徴である。平口縁と波状口縁の両者があり、胴部にふくらみをもち口縁部にむかって開く器形が一般的で、地文は基本的に単節の斜行縄文である。引用「北筒式土器の変遷と展開」
細岡式土器
縄文時代中期末 、 約4500年前 細岡式(ほそおかしき)土器は北筒式土器の中でも新しいグループの土器です。口の部分は分厚い帯状になっています。 |
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ピンボケ
北筒式土器 |
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絡条体圧痕文と単節の斜行縄文が施文された土器
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この土器は棒状工具に縄文を巻き付けた施文具 (絡条体)を転がした文様と、
単純な縄による施文がなされています。 このような土器は周囲の遺跡からは見 つかっておらず珍しい土器です。 |
絡条体圧痕文と単節の斜行縄文が施文された土器
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細岡式土器
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北筒式(羅臼型)
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1270中ノ島遺跡 縄文晩期 |
1271北見市指定文化財第5号 中ノ島遺跡出土の縄文晩期土器 28点
指定理由
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中ノ島遺跡出土の土器群の中で、約2000年前の縄文時代晩期末に編年される土器です。展示している時は2つのグループに大別できます。
第一グループは文様として土器の胴部から口縁部にかけ、幅広磨消帯、沈線、刻線あるいは粘土による貼付装飾文を特徴とし、
器形は船底形が多く他に浅鉢形、高坏形が見られます。また、ベンガラで彩色したものもあり、祭祀などに使用する「精製土器」と考えられます。
第二グループは文様として、土器口縁部に波状を施し、胴部から口縁部にかけ沈線、刻線、または撚糸などにより押圧されています。
器形は底部が丸みを帯びる。深鉢形、朝鉢形があり、日常的に使用する「粗製土器」です。
こうした土器群はオホーツク管内では海岸から河口付近での出土例はありますが内陸での発見例は非常に少なく、この時期の文化伝播を研究する上で貴重な資料になっています。 |
北見市指定文化財第5号 中ノ島遺跡出土の縄文晩期土器 28点
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北見市指定文化財第5号 中ノ島遺跡出土の縄文晩期土器
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1272中ノ島遺跡 縄文晩期
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1273中ノ島遺跡
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中ノ島遺跡 擦文時代
擦文文化の土器(約900年前)、深鉢は現代で言うお鍋、高坏は食べ物を載せる食器の役割があります
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擦文土器 |
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1300美里洞窟遺跡出土資料 縄文時代~アイヌ文化期までのキャンプ跡(一時立ち寄り場所)
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1301
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1302縄文早期 約8000~7000年前
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1303縄文中期 約5500~4500年前
北筒式土器 |
北筒式土器
(羅臼型)(観音山式)
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石槍
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1304アイヌ文化期 約300~200年前
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1400アイヌ文化期
トンコリ
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こちらのトンコリは作りを方を説明するためにあえて製作途中の状態です。
1本の木材をくり抜き、壁面の厚さは5~6mmに仕上げており丹念な仕事
が見受けられます。 楽器としてのトンコリを意識しての職人のこだわりが伝わってくる一品です。 |
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トンコリ |
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こちらと展示ケース中央のトンコリ2点はその文様から金谷栄二郎氏が製作したトンコリと思われます。 それぞれ部分的に欠損していますが状態は良好です。 |
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シントコ
アイヌ文化のシントコは漆器の中でも特に重要で貴重な宝物の 一つです。 主にお祝いの席等で食物を運ぶ容器として用いられます。日本では平安時代頃から使用され
「行器」と言います。 |
シントコ |
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マキリ
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展示しているマキリは北見市在住の方より御寄贈いただきました。
手前が現代の工人諏訪良光氏作のマキリ、
奥が形態的特徴と文様から昭和初期の作品と思われます。
両方とも全体にうずまきや三角に近い文様が彫られています。 これはレブンカムイ(沖にいる神シャチ) を表現した文様です。 海の恵みをもたらしてもらえるようにマキリに願いを込めていたのかもしれません。
ちなみに、アイヌ文化では古くは小刀や短刀をエベラと言いましたが東北地方で漁師やマタギ達が使用していた爪切刀がアイヌ文化に伝わり小刀や短刀をマキリと呼称する人が増えたと考えられています。 |
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1500北見の自然 |
1510自然
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B 北見の自然
春――北へ向かい飛び立つ渡り鳥。 雪のすきまから顔をのぞかせる早春の花。
夏――高い温度と低い温度のコントラスト。その中で、短い季節とその生命を謳歌する昆虫。
秋――いちはやく色づく山々。 自然の神秘をからだいっぱいに満たし、 帰ってくる神の魚。
冬――しばれた朝、青空の下で、きらめき踊るダイヤモンドダスト。雪の上に足跡を残す北の動物。
単調に見える北見のマチも、よく見まわすと豊かな自然の恵みに気づきます。 |
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B1 北見の昆虫たち
冬の気温は、氷点下30℃、北見に棲息する昆虫はこの寒さに耐え、世代をつなげています。
高山地域・農耕地域・海岸地域などの土地条件。
針葉樹林帯・針広混交林帯・草原地帯などの植生条件。
陽当たりのよい場所・わるい場所、水中や地中。
昆虫たちは、それぞれ生きるエリアを求め、自然の法則にしたがい生活しています。
さらに、同じ仲間の昆虫でも、環境の違いで色や形が変わってきます。
昆虫も他の生物と同じように、進化の途中なのです。 |
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樹林の生きものたち
オホーツクの夏は遅く、 そしてかけあしで去っていきます。 し かしこの短い季節、陽射しは強く照りつけます。
まわりの山々の樹林地帯で、 生きものたちはこの陽射しを、時には体いっぱいに受け、時には木陰で避け、それぞれの生活を営んでいます。
アオバト・エゾリス・クマタカ・アカゲラ・ゴジュウカラ・キジバト・フクロウ・ミヤマカケス・シュ・ヨタカ・コチョウゲンボウ・カワラヒワ・トビ・エゾシカ・ヒグマ・ムクドリ・コノハズク・オオタカ・コムクドリ・クマゲラ・エゾシカ・クマタカ・エゾライチョウ・カッコウ・トラフズク・オオコノハズク・エゾモモンガ・トラツグミ・シマフクロウ・ツグミ・エゾタヌキ・ヤマシギ・キタキツネ・エゾクロテン・ヒグマ・ヤマゲラ・エゾリス・エゾライチョウ・エゾリス・アオジ・ミヤマカケス |
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1520開拓
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C北見の開拓
若い北海道の大地。 そのなかでも、北見地方は、もっとも遅れて開発がすすめられた地域の一つです。
開拓の歴史は、けっして輝かしい事ばかりではありません。
道路開削には囚人労働、 鉄道建設には タコ労働、飢餓とたたかった北光社移民団。
これらの先人の労苦のもとに北見は開拓されてきました。 |
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北見の開拓 |
こんな立派な開拓小屋は、開拓を始めてから、どれくらい後にできたのだろう |
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1530 D北見の躍進
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田中式薄荷蒸溜機
薄荷草から油を取る方法は水蒸気による蒸溜法がとられています。
田中式薄荷蒸溜機は、 田中篠松氏の手により薄荷の主産地北見で生ま
れ、北見ばかりではなく広く日本・海外でも普及した、「ハッカ産業」 の代表のひとつといえます。
それまで使われていた 「天水釜」 に比べ、 時間 燃料・労力・収油率が飛躍的に上がった「田中式」は、その後も改良を加えられ、「北見ハッカ」を支える大きな力となりました。 |
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田中式ハッカ蒸留器 |
昭和8年ころのハッカ畑 (北見市川東) |
北光社開拓の歩み
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※北光社は高知県の移民団体で、キリスト教精神に基づいて人を集め、オホーツク海に面した北見市に入植した結社である。
明治まもなくの日本にキリスト教がそれほど深く全国に浸透していたはずもなく、新天地移住の話で集まった、農家の二三男達やその家族が応募したのだろうか。
映画「北の零年」では淡路島からの武士団が、また、50年前の映画「家族」でも長崎の離島から北海道へ入植する話である。
移動が禁止されていた江戸時代。明治になってやっと解放された人々は抑圧された生活困難から逃れるために、「新天地」北海道にこぞって移住したのであろうか。きっと彼らはそこが極寒の地であることなど知る由もなかったに違いない。新政府と戦争した会津藩が下北半島斗南藩に移される時も、まことしやかに豊かな土地と騙されて移住し、辛酸をなめたように(現在は自衛隊の演習場として買い上げられている、農耕不可の土地。)詳細情報は知らなかったのだろう。
「空知川の岸辺」の国木田独歩も新天地を描いているが、冬の極寒には絶えられなかっただろう。
映画「家族」の中で、北海道を走る列車の中で春川ますみ演じる乗客が涙ながらに「あんな暖かいところからこんな寒い土地に引っ越さなくても」と語る場面や、過酷な列車移動の途中に子供を亡くし、やっと北海道に付いた夜に笠智衆演じる祖父を亡くし、それ以前に、移住費用をねん出するために借金をしまくる井川比佐志、倍賞千恵子演じる妻は花柳徳衛に色仕掛けで金を借りたり(50年前の大阪万博の会場でであって、返却を迫られたり)、おそらく、明治初期の移住物語を現代版に置き換えて描いたものに違いない。150年前には更に過酷な船旅やろくに道もない、湿地に原野、などを歩いたりと、さらにさらに過酷であっただろう。
如何に明治日本が貧困で、生きていくのも過酷な時代であったかが想像される。そして、日本全国からこの極寒の地に移住殺到したのだから、恐ろしい。一旦故郷を出てしまうと帰るところもない農民たちは、石にかじりついてでも開拓・開墾にしがみつき成功せざるを得なかったのだろう。そんな先人の決死の想いの上に現在の北海道があると思うと、何とも言えない気分になる。 |
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