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 新潟の縄文 №22 2020.10.02-5№22相川郷土博物館

相川郷土博物館  新潟県佐渡市相川坂下町20 0259-74-4312月休撮影可

  交通   レンタカー
博物館の歴史ある建物は、旧相川金銀山管理所を利用したものです。だから
敷地に隣接して鉱山関連施設があり、観光施設となった鉱山跡はすぐそばに
あります。従って佐渡観光では必ず訪れたい博物館です。

麻布を押し付けた文様の須恵器。珍しいと思う。
 



0外観

02考古展示室

弥生時代
10浜端洞穴遺跡

古墳時代
30橘古墳
32直刀
33玉類
35鉄器

古代
40馬場遺跡
41土師器
42土器製塩
43役所跡の所産


50遺跡
51台ヶ鼻古墳
53製塩土器
55立野遺跡

60貝器・骨角器・洞穴遺跡
61浜端遺跡
62石錐
63貝鏃
64貝輪
65貝刃
66骨角器・卜骨
68製塩土器

70浜端洞穴遺跡
71石製品
78鉄滓

80馬場遺跡
90独木舟


200金山遺跡
201a北沢地区工作工場群
202選鉱場
204佐渡金銀山遺跡

300道遊の割戸と大佐渡スカイライン
301佐渡金銀山
302大佐渡スカイライン
304レーダーサイト
310戻り船
 
 おことわり
建物について
 博物館は木造3階建の大変古い建物です。ほかの館ならとっくに取り壊して、建替えされていても不思議ではありません。
 しかし、この建物自体が記念物となっており、過去には皇族の訪問も受け、取り壊せないものとなっているのです。
 よくある、建物だけを保存維持しようとすると、大変傷みが早くなります。ここでは使用しながら維持しています。
展示物について 
 この館は、本来、隣接する金鉱山の、鉱山博物館なのです。従って、建物1階・2階は鉱山関連の道具などが展示されています。
 考古は3階と言われて、うっかり、そのまま3階だけを取材して帰ってきました。大きな失敗でした。
 
 三階考古展示室
  三階考古展示室は2室ありました。鉱山遺物の展示がメインなので、考古の展示は大変古く、おそらく何十年も前の展示がそのままきれいに
  残っています。きっと考古展示には、訪れる人が少ないのかもしれません。実際、私が行った時も三階までは誰も上がってきませんでした。
 
 01外観
佐渡島真野湾 相川郷土博物館・北沢浮遊選鉱場址 北沢浮遊選鉱場跡 相川郷土博物館 郷土博物館 玄関

 相川郷土博物館 坂下町
佐渡鉱山の縮小に伴って、その鉱山資料を保存するため、昭和31年、町立博物館として発足した。
建物は、三菱鉱山移管以前の御料局時代のもの。
 (御料局佐渡支庁:江戸幕府所有の相川金銀鉱山は、明治2年政府所有となり、明治22年皇室財産となる。これを管理する事務所のこと)
館内には、貴重な鉱山資料はじめ、考古資料、海府民俗資料が保管されている。
 (海府地区:大佐渡地区の黒姫~真更川までの地域。 外海府:大佐渡の下相川・尖閣湾弾崎)(※大佐渡島の日本海側全域)
 (海府民俗資料とは、大佐渡島の日本海に面した地域の民俗資料ということになります。)(※未撮影。2階にあったのかもしれません)

 御料局佐渡支庁
 維新と共に我が国鉱業界の黎明を告ぐる設備の洋風近代化は、まず、我が佐渡鉱山に於いて典型的な、そして先駆的な急展開を見せた。
即ち、此の建物は明治18年工部省官営当時並びに28年御料局佐渡支庁当時の貴重な洋風二階建の建造物で、当時の面影を今に伝えて興味深いものがある。

相川郷土博物館 解説 御料局佐渡支庁址 3階考古 懐かしい明治の木造階段

 02考古展示室

 船登源兵衛家 (:帰農武士)
江戸時代の初め頃より相川長岩谷口に住み、新潟・能登・京都・大坂と、米・衣類などの生活物資や鉱山資材の取引を行ってきた廻船商人である。
延宝年間から元禄年間(1673~1700)頃まで廻船諸取引に関する記録や商書簡を多数所有している。
船登の出自はよくわからないが寛永4年(1626)から川原という場所に住んでいたが、享保18年(1733)に現地に移った、と籾保存用のセイロの裏に書いてある。
本屋敷の大黒柱は青森産のアテビであったと言い伝えられている。また、現在の家にもって来たとも言われている。
平成7年11月、家を建て直すとき大黒柱・小黒柱・戸障子を寄贈してもらった。
また、古屏風の下張りから慶安~元禄年間(1648~1700)頃までの廻船取引に関する資料が沢山見つかった。
廻船業で蓄積した資金で、田地山林を買い、重立百姓として存続してきた家の歴史がよくわかる。



3階廊下展示 船登源兵衛家 考古展示室
掃除は丁寧にされているが、ほぼ来訪者がないことがわかる。
※鉱山博物館だから
考古を主眼に来るのは私ぐらいの変人でしょう
(笑)
 
 弥生時代

 10浜端洞穴遺跡 弥生~古墳時代の洞窟遺跡 新潟県佐渡市高瀬
 11
土師器甕
夫婦岩洞穴遺跡
夫婦岩
海の中に立つ岩の、写真で見える亀裂(穴)が開いており、この中が夫婦岩洞穴遺跡である。
天候や潮位によって中に海水が侵入してくる洞穴であり、居住は不可能と思われる洞穴であるのに、
縄文後期から古墳後期・奈良時代までの居住痕跡が確認され、同時に、複数の人骨も出土している。
そして驚くべきことは、潮に流されずに、非常に長い間の遺物が堆積していることだ。
古来から洞穴は墓地に利用されたので、甕類や多くの遺物は骨壺と副葬品だったのかもしれないし、祈りや呪い(まじない)の場としての捧げ物だったのかもしれない。
貫通した洞穴は居住に適さないのに2000年間の居住痕は驚きで風雨や波を防げば、住みやすかったのかもしれない。波打ち寄せる海岸のしかも長期間の遺跡は初めて見た。
土師器甕
夫婦岩洞穴遺跡

 12浜端洞穴遺跡
二見半島西海岸、相川町高瀬の北端にある。
段丘基盤の緑色凝灰岩の構造的に弱い裂け目が、波浪によって浸食を受けて形成された海蝕洞穴である。(※封鎖されている。)
幅約2m、奥行き約1.7m、北西を向いている。

発掘調査により約10層にわたる堆積層から、古式土師器千種式土器・人骨・獣骨・管玉・未完成品・貝の装飾品・貝鏃・貝刃・銛・ヤス・釣針などが出土した。
弥生時代から古墳時代にかけての遺跡である。(※夫婦岩洞穴遺跡の方が古く(縄文後期)からあったことがわかる。)

 ※穴居生活は、江戸時代近くまであったと言われている。集団に受け入れられなかった人々が住んだのだろうか。
  物資が乏しく、貧しく、他との交流がなかったのか、貝矢尻、貝刀、などが残されている時期もある。

 鹿骨の卜骨
鹿の肩胛骨を整形し、使用灼痕をもつ卜骨は、県内では浜端洞穴と千種遺跡(古墳時代初頭、低湿地遺跡、佐渡市千種(旧金澤村千種))だけであり、貴重な資料である。また、洞穴外部の貝塚から、貝類のほか多種の獣鳥魚骨が出土した。


蓋?
鹿骨の卜骨
浜端洞穴遺跡
上に記述
土師器口縁部
土師器口縁部
土師器胴部
マリ
夫婦岩洞穴
※マリ?
金椀(かなまり)金属製椀だが、この「マリ」は甕を逆さに伏せた形だ。
全体がいぶし焼にも見える。

※マリ
弥生土器の種類に「マリ」がある。(詳細不明)。 「台付まり」。 「まり」はわん(円形の器)の意。 かなまり(金椀・鋺)は金属製のわん。 
鋺とは - 酒や水などを飲むのに用いる器。碗や柄杓(ひしゃく)の類。

「わん」とは、飯や汁物などを盛るための食器。土製、金属製、木製、石製のものがある。 木製のものを木偏の椀、陶磁器製のものは石偏の碗、金属製のものには金偏の鋺の字を用いる。

「まり椀」は、弥生土器まり木製に置き換えたものである。

 13浜端洞穴出土品 弥生時代後期
高坏、高坏脚
浜端洞穴
高坏
浜端洞穴
弥生時代後期
土師器 甕
浜端洞穴
弥生土器
弥生土器
 弥生時代後期
 

 古墳時代


 30橘古墳  円墳 古墳終末期(7世紀以降) 新潟県佐渡市橘宮の浦

 31
橘古墳墳丘実測図 竪穴式石室に見えるが、盗掘により天井石が撤去されている。
終末期、横穴式石室
橘古墳石室実測図 側面視
※羨道と玄室を遮る閉塞石も完備している。石材から、畿内式かと思える。
上面視 側面視
 32橘古墳出土品 直刀 古墳時代後期
直刀
 33切子玉 橘古墳
水晶製切子玉
橘古墳
裕福な被葬者だった。
盗掘者の見落とした遺物が、大きな水晶玉に、佐渡産でない管玉。

飛鳥時代の佐渡は海上交易路も発達し、群集墳が増加したようだ。
交易品はなんだろう。それとも、日本海航路の船から通行税を取ったのかな。
 34
滑石製管玉
碧玉製管玉
土製丸玉、土製管玉
橘古墳
 35鉄器
鉄鏃 橘古墳

長大な対人用鉄鏃
佐渡でも主権争いが激しかったのか。
土師器 碗 橘古墳
古墳時代後期
鉄鍬

飛鳥時代の農具
鉄鎌
飛鳥時代の農具
 

  古代

 40馬場遺跡 相川町藻浦崎  7~8世紀 祭祀遺跡
馬場遺跡は石花川河口(イシゲガワ)から約200m遡った左岸の段丘北斜面下部の砂丘上。標高14mにある。
製塩や小鍛冶址、神饌料理の跡などの焼土遺構と、青銅製帯金具、フイゴ、鎌、釘、やりがんな等の鉄製ミニチュア製品、馬歯、鉄滓、土師器、須恵器などが出土した。出土遺物や遺構、地理的状況から、7世紀頃から8世紀にかけての、祭祀遺跡であることが明らかになった。
※祭祀関連の役人がいたのかな。船の航行の安全祈願のための。

 41土師器
馬場遺跡 馬場遺跡
海を監視する場所だったのかな。
馬場遺跡出土土器
8~9世紀馬場遺跡

42土器製塩
土師器甕・製塩土器 製塩土器 脚台
佐渡島の製塩土器は能登から伝わったバケツ型
直接火にかけずに炭火の中に脚台を置いて製塩土器を置いたようです。製塩土器に穴があるのは、燃え火が尽き、炭火になってから、焼けた脚台の上に
製塩土器を置くための貫通した棒穴のようです。
土師器 
甕・製塩土器片佐渡の製塩土器はバケツ形です

 43役所跡の所産 須恵器 馬場遺跡 8~9世紀 
須恵器蓋
8~9世紀
馬場遺跡
須恵器 墨書土器 坏
8~9世紀
馬場遺跡
須恵器 碗 馬場 須恵器瓶子(へいし)
壷の一種で、口縁部が細く窄まる比較的小型の器形のものをいい、主に酒器として用いられた。
須恵器脚付広口壺 短頸壷 須恵器 短頸壷 須恵器 甕※
 ※麻布模様の須恵器甕
 古代に瓦を作るとき、型板の上に麻布をかぶせ、粘土の板をのせて押し付け、量産する方法がありました。
現代でも、小皿を作るときに型となる木の板や、本物の小皿に麻布をかけて、スライスした粘土板を押し付け、切り取って作る方法があります。

 須恵器は一般的なろくろ成形と、稀に輪積み成形がありますが、ここでは甕を縦に何分割かした木型を束ねて底を上にして麻布をかけ、粘土を貼り付けて最後に麻布を巻き、ひっくり返して木型を抜く、(これは大きな提灯を作るのと同じ方法です)、という方法で作ったのでしょうか。
麻の布目がついている理由の説明ですが、それとも故意に麻の布目をつけたのでしょうか。須恵器としては始めてこの文様をみました。

 佐渡には新潟や福島県などから、沢山の移住者があったそうなので、このような技法も伝わったのかもしれません。きれいな文様ですね。

 

 45馬場遺跡 須恵器鉢形土器
須恵器 鉢形土器 須恵器壺 須恵器 杯型土器 須恵器 杯型土器 須恵器 甕形土器
 
 
 
 

 50遺跡

 51台ヶ鼻古墳 相川町米郷字台ヶ鼻 7世紀後半の円墳
相川町米郷字台ヶ鼻にある。真野湾に突出した岬の頂上に築かれた、7世紀後半の円墳。(※馬場遺跡も同条件にある役所跡だった。)
石室は両袖型横穴式石室で、玄室の四隅は三角状の石を置いて天井まで持ち送る構築法が用いられている。

台ヶ鼻古墳
台ヶ鼻古墳
石室実測図


台ヶ鼻古墳
送り崎遺跡
製塩炉跡図

 53製塩土器 送り崎遺跡 7~8世紀 相川町二見

製塩炉跡図 赤茶:礫
灰色:炉壁
送り崎遺跡 製塩土器
※製塩炉
炉底に平礫を敷き、粘土の炉壁を三回貼り直している。1度・2度目の炉底は木炭の燃えカスの撤去によって削れ、貼り直したと思われる。
その後、遣われなくなり、燃えカスの炭化物や、土砂の流入などによって埋設されたものと思われる。
 

 55立野遺跡 縄文時代 相川町二見立野230-2

爪形文が多く見られ、最盛期は縄文中期であるが、蓮華文も数点見られ、中期後葉まで遺跡が存在したと判断される。これらは越後を含む北陸地域で成立した文化と云われ、爪形文を有する遺跡は、島内では… 引用転載「立野遺跡」

縄文式土器 尖頭器、石斧 石斧、尖頭器
 56
縄文式土器
 

 60貝器・骨角器・洞穴遺跡

 61浜端遺跡 弥生中期~古墳時代 佐渡市高瀬
 62管玉・石錐
管玉 未成品
浜端洞窟遺跡
弥生時代中期
石錐 浜端洞窟遺跡
弥生時代

 63貝鏃 浜端洞穴遺跡
沖縄では多く発見されているようです。沖縄ではその実用性が疑問視されています。魚用鏃とも言われています。
魚用鏃は、アマゾンのヤノマミ族も貝ではないですが使用しています。和歌山県串本町では大変小さな石鏃が多量にあり、対魚用と思われました。
海岸の遺跡なので、引き潮で磯に残った小魚を射たのでしょうか。

貝鏃
浜端洞穴遺跡

 64貝輪 浜端洞穴遺跡
   ※ベンケイガイは東海地方から北海道まで分布する大型の二枚貝。
貝輪 浜端洞穴遺跡
ベンケイガイ

 65貝刃
関東では貝殻の腹縁をギザギザに加工して貝刃として使用しています。  佐渡島では貝を打ち割って割れた面を刃部として使用しています。
割れた貝殻はそれだけで大変鋭いもので、海岸で砂遊びをしていて、割れた貝殻に触れるとナイフで切ったかのように深く鮮やかに切れることがあります。関東のギザギザ加工はきっと切削する対象物が佐渡とは異なっていたのでしょう。

貝刃 浜端洞穴遺跡
弥生時代

 66骨角器・卜骨 浜端洞穴遺跡 古墳時代初期
卜骨
古墳時代初期
※鹿の肩甲骨を利用した卜骨。
硬くて大きい肩甲骨に焼けぽっくいを押し当てて割るというのだ。
鉄の火箸なら、高温に焼けて割れるかもしれないが、せいぜい300度程度の木では、
なかなか焼き割るのは大変だったのでしょう。
するとこの占いはかなり作為的と思うのですが。

 67骨角器 浜端洞穴遺跡
※脚注なし ですが、見て取れるのは、笄・針・刺突具・銛・ヤス類、釣り針 などが見えます。その他、不明のものも、、、

骨角器
鹿 骨片

 68製塩土器 夫婦岩洞穴遺跡 夫婦岩 佐渡市高瀬 縄文晩期~弥生時代~古墳時代 製塩土器は奈良時代
製塩土器
夫婦岩洞穴遺跡
夫婦岩の中は洞穴になっており、洞穴遺跡は段丘崖下の高さ16mの岩裾にある。海浪の侵蝕によって形成され、海抜3m、奥行16m余、北西に開口する。洞穴入口はフジツボ類の遺骸が付着し、近く海浪の侵入を許したと考えられるが、今でも冬期の時化では波が打ち込む状況である。
 堆積土は七層に分類され、遺物から見て、縄文晩期から弥生、古墳前期・後期と認定され、浜端洞穴より遅くまで居住の跡が窺われる。
 人骨は成人期以前と以後に分かれるが、海蝕洞穴で標高が低く、海進・海退の影響を受けて小片が多く、層位的特質ができず、また八個体以上あると思われるものの、固体数は確認できる状態ではなかった。
 土器のほか石製品、骨角器・鉄斧が見られるが、獣類ではモグラ・ネズミ・ウサギ・タヌキ・イタチ・シカ・イノシシ・イヌがあり、海獣はアシカが出ている。鳥類はカケス・カモ・ヒメウ・ミズナギドリ・アビ・カモメ・ウミネコ・ウミガラス・ウミスズメ・キジがあり、魚類はハリセンボン・フグ・カワハギ・カサゴ・ベラ・カンダイ・マダイ・クロダイ・イサキ・ハタ・サバ・イカであった。その他ウニ・カニ・マイマイ、貝類はサザエ・アワビ・シタダミ・ガンガイ・カキ等で、浜端洞穴と同じであった。
 この遺跡が機能したのは、遺物から見て縄文晩期から弥生時代を経て、古墳後期が主体を占め、一部奈良時代の製塩遺物を含む。 引用「夫婦岩洞窟遺跡」
 
 70浜端洞穴遺跡

 71石製品
二見半島考古遺跡
分布図
日本海側
〇摩崖仏
谷内塚古墳
岩塚古墳
〇平田摩崖仏
浜端洞穴
夫婦岩洞穴
目観音川瀬戸
目観音堂
〇杉島摩崖仏
立花古墳
宮の原古墳
稲鯨古墳
シンダラ
真野湾側
上立野
立野
送り崎
台ヶ鼻古墳
〇台ヶ鼻


 縄文時代
 弥生時代
 古墳時代
 〇古代以降
※大佐渡日本海側には、金銀山発見の遥か以前に古墳を築造するほどの首長が存在した。この経済基盤は何だったのか。
 新潟本土との航路は小木港・宿根木・真野湾側であり、この付近には沢山の古墳、間の古墳群などがあり、交易等で繁栄した首長が成長した。

 二見半島西部・北部の繁栄は、日本海航路を行き交う舟との交易や通行料・積荷の奪取などがあったのか、それとも停泊地として潮待ち・風待ちの船が寄港したためなのだろうか。
 また、佐渡島は富山・石川県地方と結びつきが強かったようなので、そのような地域の交易船の航行によるものだったのかもしれない。
特にこの地域は外海府と呼ばれる厳しい断崖と独特な風習を持つ地域だったので、独立的だったのかもしれない。
 72石鏃 弥生時代 浜端洞穴遺跡 
石鏃 浜端洞穴遺跡 
 73石鏃
石鏃 浜端洞穴遺跡
 
 76石製品 浜端洞穴遺跡
石製品
石斧?

石斧?
石製品
 77砥石 浜端洞穴遺跡
 78鉄滓
貝のかたまり
浜端洞穴遺跡
古墳時代前期

磨石?、敲石?
鉄滓 浜端洞穴遺跡
時期不明
 


 80古代 馬場遺跡 佐渡市相川町北片辺 (※佐渡でも馬牧があったのでしょうか。現代で言えば自動車屋さんですから。)

馬の歯
8~9世紀
馬は運搬用か乗用か
駅馬か。
魚の歯、鉄器 窪み石、磨石
くぼみいし、みがきいし
磨石、砥石 鉄器 ヤリガンナ 帯金具 紡錘車

下の石斧は脚注なし
 
 90独木舟 平安時代以降
相川町石花(いしげ)より、昭和33年12月農道開削工事中に発見された。
出土地点は石花部落石花川に挟まれた沖積地で石花城のあった北側の洪積地が傾斜をなして沖積地と接するところである。

独木舟は表土から深さ70cmのシルト(砂と粘土の中間の土)層より出土した。
杉材を縦2つに割って内側をえぐって作ってあり、幅は60cm以上あったと思われる。(現在幅36cm)(※出土後樹脂含浸処理せず収縮したようです。)
舟の年代は調査によって明らかになった範囲では、シルト層の最下部より須恵器片が発見されていることから、須恵器より少し新しい時代、平安時代以降のものと考えられる。

また、シルト層の上の青色粘土層からは木製塔婆が出土している。信仰的色彩の強い木製塔婆が沖積層にあった理由については、未解決の問題を含んでいる。


独木船 丸木舟 木製塔婆
 
 
 
 


 200金銀山遺跡


 201北沢浮遊選鉱場 :経路
浮遊選鉱法とは
粉砕し細かくなった鉱石を、油や起泡剤、界面活性剤などの化学薬品とともに水槽に投入し、撹拌して泡を発生させ、ぬれにくい鉱物粒子を
気泡に付着させて浮き上がらせ、水槽表面に浮かばせて分離・回収する選鉱法である。

北沢浮遊選鉱場跡 シックナー
円形建物
北沢地区工作工場群

 201a北沢地区工作工場群
北沢地区工作工場群は、濁川を挟んだ北沢浮遊選鉱場の対岸に位置し、佐渡鉱山の各施設で使用する機械部品類の製造や修理のためにの施設である。
この場所には、明治20年代には、すでに選鉱・精錬施設のほかに、機械製作工場や鍛冶場などが設置されていた。
さらに昭和10年代の大増産時代になると、木工工場や鋳造工場、仕上げ工場、製缶工場、分析所など複数棟の施設が作られ、昭和27年(1952)まで稼働したが、時間の経過とともに数多くの施設が撤去された。
平成20年、明治以降の施設全容を確かめるために発掘調査が行われ、当時の建物の基礎部分が残っていることが判明した。
現在の広場は、昭和大増産時代の建物配置に基づいたものである。

機械部品の原型となった木型 昭和10年代の北沢地区 北沢区工作工場群
北沢地区工作工場群 工場群詳細 50mシックナー 昭和17年の配置図
 ※シックナー
工場排水中の懸濁物質(SS)を比重差で分離する沈殿分離装置です。 重金属などの固液分離をはじめ、様々な分野で使用され、工場排水で最も広く使用されている装置です。 装置中央部に給泥し沈降分離を行います。 沈殿槽部分には濃縮した汚泥を集めるレーキが取り付けられており、ポンプで連続的・断続的に排泥します。


 202選鉱場
坑道から搬出され、含有率の高い鉱石が斜面最上部に運ばれ、粉砕する。
薬剤と混ぜ、浮遊選鉱機によって比重の高い液状とし、気泡を発生させて気泡の表面についた鉱物を集める。上段から下段へこれを連続して繰り返し、各段階で、様々な鉱物を選別回収する。



 写真説明 製材及び雑作業場跡 50mシックナー
手前の製材及雑作業場では、機械部品の原型となる木型用材を製材した。発掘調査によってコンクリート製の壁や床、機械の台座などが確認された。

奥に見えるシックナーは、昭和15年(1940)に完成した直径50mの泥鉱濃縮装置である。
濁川上流にある間ノ山(あいのやま)搗鉱場(とうこうば)から排出された泥状の金銀を含んだ鉱石は、この50mシックナー装置で水分を分離する工程を経た後、対岸へと送られた。
対岸の北沢浮遊選鉱場では、他の金銀原料と一緒に処理されて精鉱が産出された。

※搗鉱とは、鉱石を臼で磨り潰すこと

製材及び雑作業場跡 50mシックナー 製材及び雑作業場跡 50mシックナー

 204国指定史跡 佐渡金銀山遺跡
 旧佐渡鉱山
重量のある鉱石を原材料とする鉱業では、山の上から下に向かい作業工程が設定される。
旧佐渡鉱山では、採掘場所の大立・高任地区(おおたて・たかとう)から鉱石選別のための高任・間ノ山地区
選鉱や精錬をする間ノ山・北沢地区を経て、生産品を積み出す大間港まで、約3kmにわたる生産ラインが設定されていた。

明治2年(1869)、政府はいち早く佐渡鉱山を官営化すると同時に、御雇い外国人達を派遣して世界の最新技術を次々と佐渡に取り入れて行った。
この結果、佐渡鉱山は近代的な鉱山へと変貌を遂げた。明治20年代には、国内の「模範鉱山」と目されるようになり、生産量・技術共に国内貴金属鉱山をリードする存在となった。

昭和に入り、戦争の影が色濃くなると、国策により金銀の大増産がはかられるようになり、北沢地区で刃北沢浮遊選鉱場や50メートルシックナー、
高任地区では粗砕場などが次々と建造された。この結果、昭和15年(1940)には、年間の金生産量が1,547kgとなり、佐渡鉱山における年間最高生産量を達成した。

昭和27年(1952)の佐渡鉱山の大縮小により、北沢浮遊選鉱場をはじめ多数の施設が閉鎖された。その後も操業は続けられたが、金脈の枯渇と金価格の低下などによって平成元年(1989)に休山となった。
日本で最も早い鉱業の近代化が進められた旧佐渡鉱山は、一連の施設をよく残す貴重な文化財であるとして、国指定史跡としての保護がはかられている。
旧佐渡鉱山

約3kmに渡る生産ライン
佐渡鉱山全景案内
昭和7年
明治34年(1901)
大立地区
昭和初期の高任地区
大正中期の間ノ山地区
昭和10年代の北沢区
明治松野大間地区
 
 
 


 300道遊の割戸と大佐渡スカイライン

初期の金銀鉱石採掘の露天掘りで、この幅、この奥行き、の金鉱脈を採掘し、山の頂上を切り取った跡です。そして、その後、採掘坑は下へ下へと伸びてゆきました。(ブラジルのガリンペーロ(砂金堀)も、アマゾンの奥地で山をいくつも掘り崩して砂金採掘をしたと言われています。)

 301佐渡金銀山 新潟県佐渡市相川銀山町1-1
道遊の割戸
初期金山の露天掘跡
山を二つに割っている
観光地 佐渡金銀山 佐渡金山展示資料館
佐渡金山展示資料館 道遊の割戸

 302大佐渡スカイライン
佐渡島をドローンのように空から眺める美しい観光道路。

尖閣湾 真野湾方向 大佐渡から南西
真野湾
 303
大佐渡スカイライン
大佐渡スカイライン
パノラママップ
現在地
地図は南北逆です
北から南を遠望
佐渡金山
佐渡奉行所
尖閣湾
七浦海岸
国仲平野遠望
北の大佐渡から南の
小佐渡と間の国仲平野をながむ
両津湾と加茂湖 真野湾
 304レーダーサイト
沖縄をめぐると必ず遭遇するレーダー基地。久しぶりで見かけました。この大佐渡スカイラインは周辺の自衛隊基地や宿舎のための道路のようです。
途中に何か所も狭い箇所がありました。そこに大型観光バスが走っているなんて、狭所で出会わなくてよかった。屋久島でも、同様のことがあった。
 306
両津湾 佐渡の観光名所
 
 310戻り船
帰路の船中から
佐渡両津港

船にはカモメがついてきて、

観光客が物珍し気に

餌を投げ与えていた。

戻り舟という、独特の雰囲気の中、けだるい
疲労感と共に空中で餌をくわえるカモメは、

気持ちを和らげてくれました。
弥彦山と角田山
海上独標
両津→新潟航路で最初に見える本土
➀小木・宿根木・真野から本土に渡る船は東に漕ぎ続け弥彦山を見つけて位置を知ったでしょう。
これが縄文時代から佐渡と能登半島の交流が盛んだった理由です。
美しい夕陽
やがて夕闇が迫り、

日没となり、一気に疲れが押し寄せると
新潟港
新潟港に帰ってきた。新潟の縄文終了。