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 四国の考古博物館1 08  2019.03.08-3


 徳島県立考古資料館 徳島市国府町西矢野10-1 088-637-2526月・休日の翌日、撮可



交通 レンタカー:ニコレン徳島駅店 088-623-1779  予約0570-042-525
      徒歩:JR徳島線府中駅から南西に2.7km徒歩40分
バス:JR徳島駅④番乗り場から50、51、53系統で鳥坂北下車南に1.2km徒歩20分
 

目次

01外観

100縄文時代
101鳥居龍蔵と城山貝塚
 城山貝塚ジオラマ

107三谷遺跡の貝塚
110縄文時代最後の土器
111三谷遺跡の土器
114突帯文土器深鉢
115石器
116海・川・山の幸をとる
201縄文人の食材
204貝類
208哺乳類・鳥類・爬虫類
209魚骨
230刺突具・装身具
250石鏃を作る

300弥生時代
301米作りの起源地と伝来ルート
310弥生時代初頭の土器
320灌漑用水路
325農具
327道具


330弥生土器
331前期
333中期
335中期末
337後期

370工具
372石斧
373石鏃等

400弥生時代Ⅱ 戦争の始まり
401竪穴住居
410名東遺跡3号(方形周溝)墓
414土器棺(甕棺)墓
420石器・土器
430土器棺
441ムラの祭り
442木偶 庄遺跡

450銅鐸
451名東銅鐸
456矢野銅鐸
453青銅器

490三角縁神獣鏡
495樋口遺跡の弥生土器


500古墳時代
501前方後円墳の誕生
510特殊壺・円筒埴輪

511四世紀の埴輪 古墳前期
520前期古墳の副葬品
525銅鏡
531武器・武具・馬具

541巨大古墳の出現 古墳中期
542矢野古墳の副葬品
543子持ち壺
561装身具
568祭祀遺物
 
700古代
701奈良・平安時代
705土器
707食器
709調理道具

721石帯
722古代の銭貨
740土器
751文字資料は語る

760国分僧寺と国分尼寺
761古代の生産と流通
762瓦の生産

770阿波国衙
771阿波国府跡
775執務の様子
 木簡の種類
778阿波国府跡推定域

800恵解山古墳群
810恵解山2号墳の甲冑
830鉄刀
840鹿角装鉄剣
850だ龍鏡
 
 
 
 01外観
徳島市立考古資料館
 



 100縄文時代





今から約1万年前、寒冷な気候は温暖化へと向かい、日本列島の自然が 持つ豊かさと多様性の基盤が出来上がりました。
以後、八千年余りに及ぶ狩猟・漁撈・採集を中心とする生活で、人々は自然の恵みを最大限に利用し、自然に対しておごり高ぶることなく、豊かでたくましい独自の文化を創造しました。

 101鳥居龍蔵と城山貝塚
1922年、日本の民族学・考古学・人類学の先駆者として著名な鳥居龍蔵博士により城山貝塚が調査されました。

貝塚は城山山頂の洞穴や岩陰で確認され、縄文土器のほか、ハマグリ・カキなどの貝類や貝製装身具、さらには埋葬人骨も発見されています。
展示模型は城山貝塚(3号)周辺での、人々の暮らしを想像復元したものです。

城山の貝塚  城山貝塚 城山(ホルトノキと城山貝塚) 徳島の散歩道 城山から貝塚 徳島市城山貝塚発掘調査の復元的研究 土器だけじゃない!「ここまでわかった!徳島の縄文時代」


 城山貝塚 引用wikipedia
3500~2500年前頃(縄文後期~弥生前期)に渡る複数の遺跡である。
海棲のハイガイを中心とする30~10cmの貝層で、大量の縄文土器を含んでいる。人々は岩陰や洞窟を利用した住居に棲んでいたと思われる。



 城山貝塚ジオラマ
展示室入口 城山貝塚模型
城山貝塚ジオラマ
魚の干物作り
煮貝づくり

狩猟からの帰還
土器づくり

干物作り、干貝作り、
子供に狩猟の仕方を教える老人

狩猟具の手入れをするヒマ人たち

籠の中身は何?
漁に向かう人
木の実をあやす人
下で受ける人

なり物をあやす人、下で拾う人

丸木舟・櫂・銛
鳥居龍蔵と城山貝塚
上に記述

 107三谷遺跡の貝塚 縄文時代晩期後半 徳島市南佐古六番町

 

三谷遺跡

 

徳島市三谷遺跡の研究 1

 

徳島市埋蔵文化財発掘調査委員会



三谷遺跡はかつて眉山山麓で繁栄した集落遺跡で、今から2200~2300年前縄文時代晩期後半の貝塚が発見されています。
貝塚からはおびただしい量の土器や石器、骨角器や装身具、食料として了した魚介類や鳥獣類の遺骸、埋葬されたイヌも見つかりました。
生活遺物が大量に発見される貝塚には、人々の文化史が詰め込まれています。

(城山貝塚と)共に徳島を代表する縄文時代の貝塚遺跡です。眉山の山麓に三谷遺跡、遠くに城山(城山貝塚)と吉野川河口を望みます。


三谷遺跡の貝塚 三谷遺跡と城山貝塚 共に徳島を代表する縄文時代の貝塚です。

眉山山麓に三谷遺跡、遠くに城山と吉野川河口を望みます。 

 110縄文時代最後の土器

 111三谷遺跡の土器
 112三谷遺跡の縄文土器
舟形土器
壺(口縁部)
 113縄文時代最後の土器 三谷遺跡
浅鉢

 114突帯文土器深鉢 三谷遺跡

突帯文深鉢

 115石器


 116海・川・山の幸をとる 三谷遺跡

三谷遺跡に暮らした人々は、河口~内湾~外海を漁場に約60種類の貝や魚を捕り、山野では鳥や獣を追いかけ、また、木の実の採集も盛んに行っています。
そこには人々の活動範囲と狩猟・漁撈技術の幅広さ、食用植物に対する知識の深さがうかがえます。
狩猟・漁労・採集の社会に生きた人々の、自然に対する何よりもひたむきな姿です。

海・川・山の幸をとる 打製石鍬 打製石鍬
打製石鍬
石棒 埋葬されたイヌ 石棒 石棒・磨製石斧・ 埋葬されたイヌ
磨製石斧・凹石 凹石 台石 敲石、石棒 敲石、石棒
 

 200貝塚遺跡

 201縄文人の食材
 202貝
 204貝類
ハマグリ ハイガイ マガキ オキシジモ スガイ・スガイの蓋
ウミニナ・イボウミニナ
 205

オキアサリ、ヤマトシジミ

アカガイ、イタボガキ
サトウガイ、サルボウ

イタボガキ、イタヤガイ
サルボウ、シオフキ
アカニシ、サザエ

アカニシ、テングニシ
、サザエ
 206

フトヘタナリ、イボニシ

オオタニシ、
オオタニシ幼貝

カワニナ、イシマキガイ
 

 207動物骨
 208哺乳類・鳥類・爬虫類

イボウミニナ・イノシシ

シカ・クジラ

ツキノワグマ・ニホンザル
イタチ・テン・カワウソ

ツル
トビ・カラス・ガン

イタチ・テン・カワウソ
ムササビ・タヌキ・アナグマ

トビ・カラス・ガン
ウミガメ・スッポン・ヘビ

 209魚骨


クロダイ

カンゾウヒラメ

ボラ

エイ

マアジ、スズキ

ウナギ

コイ

アユ
 

 210縄文人の食材 三谷遺跡

 230刺突具・装身具 三谷遺跡

骨製刺突具

貝製装身具

骨製装身具

牙製装身具
 240食材 三谷遺跡

炭化ドングリ

ドングリ
炭化米
 
 250石鏃をつくる 三谷遺跡

サヌカイト大型剥片

サヌカイト中型剥片


サヌカイト剥片

石鏃未成品


石鏃未成品

打製石鏃
 




 300弥生時代




今からおよそ2,400年前、朝鮮半島南部の人々によってもたらされた稲籾と鉄の道具は、日本列島各地に新しい稲作文化を誕生させました。
米を主とする穀物生産の本格的な始まりです。
安定した食料生産により、各地で人口が急速に増えて行きました。
彼らは水田をつくる新たな土地を求めて戦いと統合を繰り返し、やがて有力な集団を中心に原始的な国々が西日本に現れました。


 301米作りの起源地と伝来ルート
①直接九州に伝わった説

②南西諸島を通って九州南部へ伝わったとする説

③北周りに朝鮮半島を通って九州北部へ伝わったとする説
稲穂と炭化籾 
 

 310弥生時代初頭の土器 三谷遺跡

 コメ作り文化がやって来る
三谷遺跡の貝塚では、大量の縄文土器に混じって、弥生土器や炭化したコメが見つかっています。
人々の暮らしには、縄文的な色合いが強いが、コメ作りに代表される弥生文化の一端もすでに伝播していることがわかります。
異なる文化との接触と伝統的な文化への固執、まさに時代の過渡期を経て、本格的なコメ作りがもうまもなく始まろうとしています。

弥生時代初頭の土器 コメ作り文化がやって来る
上に記述

高坏







 320弥生時代
 灌漑用水路
弥生時代の遺跡からは大小様々な水路が発掘されます。遺跡で水量を調節し、鍬で荒起こしした田んぼに水が引かれ、田植えが行われました。
  
弥生時代
上に記述
灌漑用水路
上に記述
平鍬未成品

庄遺跡
二又鍬・掘り棒
庄遺跡

 325弥生時代の農具 南庄遺跡
畑の土堀用の石鍬、耕作・掘削用の木製鍬と木製鋤、また収穫具として石包丁、石鎌など、藁仕事用具として木槌が出土しています。
後期になると鉄製の農具も使用されました。


打製石鍬・磨製石包丁

磨製石包丁・打製石包丁・大型磨製石包丁・鉄鎌
弥生時代の農具
上に記述
打製石鍬
磨製石包丁 磨製石包丁の製作工程と使い方
打製石包丁

大型磨製石包丁・鉄鎌

 327弥生時代の道具

 ※庄遺跡 01 02 03

石錘(南庄遺跡)
軽石製浮子(南庄遺跡)
木製台付鉢(庄遺跡)
木製台付鉢(庄遺跡)
木製高坏脚部(庄遺跡)
木製匙(庄遺跡)
木製漆塗杓子(庄遺跡)
網代(庄遺跡)

 330弥生土器
弥生土器は、容量、形、装飾などの違ういくつかの器種によって成り立っています。
 貯蔵用の壺、
 煮炊きをする甕、
 盛り付けやお供え用の高坏や鉢などです。
更に土器は壊れやすく、しかも補充が容易なため、流行の移り変わりに敏感で、形、文様、製作技術は常に変化します。
この変化の後を追うことによって年代の経過を知ることが出来ます。弥生時代は土器の変化を手掛かりに大きく前期、中期、後期に区分されます。


 331弥生前期土器
弥生土器
上に記述
弥生時代前期の土器
甕(南蔵本遺跡)
把手付高坏(南庄遺跡)

甕(南蔵本遺跡)
鉢(南庄遺跡)
鉢(鮎喰遺跡)

壺(南庄遺跡)

壺(南蔵本遺跡)
壺(南庄遺跡)

壺(南庄遺跡)

壺(南庄遺跡)
 333弥生中期土器
弥生時代中期土器
甕・高坏
南庄遺跡

把手付鉢・南庄遺跡

長頸壷・名東遺跡
壺・南庄遺跡

壺・南庄遺跡

把手付壺・南庄遺跡
脚付注口鉢・南庄遺跡

脚付注口鉢・南庄遺跡
器台・南庄遺跡
 
 335弥生中期末土器

  名東遺跡21号(方形周溝)墓 -名東町2丁目150番地地区- 弥生時代中期末~
弥生中期末土器
長頸壷・甕

把手付鉢・高坏

壺・高坏

長頸壷
 337弥生後期土器
  矢野遺跡 徳島県徳島市国府町矢野

  

矢野遺跡Ⅲ (弥生・古代篇) - 全国遺跡報告総覧

 

矢野遺跡 - Wikipedia


弥生時代後期の土器
広口長頸壷
矢野遺跡

高坏(樋口遺跡)
細頸壷(矢野遺跡)
 

 370弥生時代の工具 南庄遺跡
原木を伐採する太型蛤刃石斧、切削用の柱状片刃石斧、扁平片刃石斧、小型方柱状片刃石斧などがあります。
後期になると鉄製品が徐々に普及を始め、鉄器を研磨するための砥石が多く出土します。

 371

弥生時代の工具
上に記述

太型蛤刃石斧未成品
太型蛤刃石斧
南庄遺跡

太型蛤刃石斧

扁平片刃石斧
柱状片刃石斧

扁平片刃石斧
柱状片刃石斧
板状鉄斧

柱状片刃石斧
 372南庄遺跡の石斧

扁平片刃石斧

柱状片刃石斧

小型扁平片刃石斧

小型方柱状片刃石斧

鉄刀子

板状鉄斧・南庄遺跡
 373石鏃等

砥石・南庄遺跡

石匙・石錘
南庄遺跡

筋砥石・凹石
南庄遺跡

木製横槌・庄遺跡
木製チキリ・庄遺跡

石製紡錘・南庄遺跡

石製紡錘車・南庄遺跡
土製紡錘車・南庄遺跡

土製紡錘車・南庄遺跡
 


 400弥生時代Ⅱ

 戦争の始まり
稲穂たなびくのどかな田園風景。私たちが持つ弥生ムラのイメージとは反対に、弥生時代は日本史上初めて戦争が行われた時代です。

ムラは周囲に濠を廻らし、縄文時代に出現した狩猟具としての石鏃は武器として大型化し、大量に作られます。

また、青銅製の武器が祭器として崇拝されます。「魏志倭人伝」がいうところの「倭国乱れ。相攻伐して年を歴たり」といった事態が広く日本列島を覆っていたようです。

 401竪穴住居
鮎喰川流域の弥生遺跡 網の目のような複雑な流れを示す鮎喰川旧河道に囲まれた微高地上に

矢野遺跡や名東遺跡など徳島県を代表する弥生集落が群在しています。
名東遺跡の竪穴住居 地面を円形や方形に掘り込み、数本の柱を立て、屋根を葺いて作ったのが竪穴住居です。

中央には炉が設けられ、炊事や暖房、照明の役目を果たしました。


 方形周溝墓
 四方を溝で囲んだ方形周溝墓と呼ばれる墓が名東遺跡などで発見されています。

中央部の盛土に木簡が埋められ、周溝の中外には底部や胴部に穴を開けた土器が供えられています。
 戦争の始まり

 410名東遺跡3号(方形周溝)墓 弥生時代中期末
 411
竪穴住居跡の復元模型
小型水差形土器

名東22号墓東周溝の共献土器出土状況
 412名東遺跡3号(方形周溝)墓 弥生時代中期末
3号(方形周溝)墓 弥生時代中期末
壺・水差形土器

水差形土器

脚台付鉢
 413

長頸壷


高坏

 414土器棺(甕棺)墓
土器棺(甕棺)墓 土器棺(甕棺)墓
 
 420石器・土器 南庄遺跡

台石・敲石
磨製石包丁未成品
南庄遺跡

サヌカイト剥片
南庄遺跡
石鏃の作り方
サヌカイト剥片→

→石鏃未成品→
サヌカイト剥片

→石屑→

→打製石鏃

磨製石鏃

打製石槍

打製石剣

鉄剣

磨製石剣 南庄遺跡

投弾
 
 430土器棺
土器棺 土器棺
 
 440
 441ムラの祭り 南庄遺跡
庄遺跡の自然河川から二つの木製祭具が出土しました。木偶は農耕祭祀に登場する祖霊像を表現したものと考えられます。
また、剣形木製品は魔物や悪霊を断ち切る祭りがムラの中で行われていたことを物語ります。

ムラの祭り
蛇紋岩製勾玉

蛇紋岩製勾玉

緑色凝灰岩製管玉

滑石製管玉
碧玉製管玉
 442

ガラス製丸玉
南庄遺跡

ガラス勾玉
庄遺跡

剣形木製品 庄遺跡

木偶 庄遺跡
 




 450銅鐸


 451
 クニのまつり 名東銅鐸
銅鐸はそれ自身に描かれた絵画から、穀霊を祭る農耕祭祀に用いられたと考えられています。
また、武器から祭器に変化した銅剣や銅矛などは、武威の象徴として崇拝され、悪霊を祓う祭器となりました。

これらの青銅器の多くが、ムラから離れた丘陵や山腹などに埋められており、ムラのまつりとは格の違うクニ単位の特別なまつりが 行われていた考えられます。

 埋められた銅鐸
1987年、名東遺跡の発掘調査中に銅鐸が発見されました。
銅鐸は鰭を上下にした状態で土坑の中に埋められていました。周りには方形周溝墓があり、墓域の一角に埋納されていることがわかりました。

1992年の矢野遺跡の調査では、弥生時代後期の竪穴住居群の間から、名東銅鐸と同様に鰭を上下にして土坑に埋納された大型の銅鐸が発見されました。
鮎喰川・園瀬川流域にはこの他にも、源田遺跡。安都真遺跡、星河内美田遺跡など河川に接する山の斜面から多数の銅鐸が出土しており、
全国でも有数の銅鐸出土地域となっています。

クニの祭り 埋められた銅鐸 銅鐸の埋納状況 名東銅鐸の埋納状況
下写真
 452名東銅鐸の埋納状況
 453
源田中広形銅剣
源田2号銅鐸
源田1号銅鐸
名東銅鐸
大きさ比べ
   
中広形銅剣・源田遺跡

扁平鈕式袈裟襷文銅鐸
源田遺跡
Ⅲ-2式六区袈裟襷文 

突線鈕式袈裟襷文銅鐸
源田遺跡
Ⅳ-1式六区袈裟襷文 

扁平鈕式袈裟襷文銅鐸
名東遺跡
Ⅲ-2式六区袈裟襷文 
大きさ比べ
左:名東銅鐸(初期)
右:矢野銅鐸(後期)
大きさを見て下さい 

 456矢野銅鐸


矢野銅鐸
突線鈕式袈裟襷文銅鐸
矢野遺跡
Ⅳ-5近畿Ⅳ式六区袈裟襷文

矢野銅鐸

矢野銅鐸
 




 490三角縁神獣鏡 宮谷古墳

三角縁神獣鏡は、前期古墳(3世紀後半~4世紀)の代表的な副葬品で、政治的同盟又は統合の証として畿内政権から地方の首長に下賜されたものだと考えられています。
宮谷古墳からは、3面が出土しており、うち2面には同范鏡(同じ鋳型から作った兄弟鏡)が存在します。
同范鏡の分有関係は、畿内政権を中心に中央集権国家が確立していく様子を示しており、当時の政治体制や社会を解明する重要な鍵とされています。

 491宮谷古墳 古墳時代
三角縁神獣鏡
上に記述
宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同范鏡野分有関係図 空から見た宮谷古墳 三角縁神獣鏡
三角縁張是作六神獣鏡
宮谷古墳
三角縁張是作六神獣鏡 三角縁神獣鏡片
宮谷古墳
三角縁神獣鏡片 三角縁唐草文帯二神二獣鏡片
宮谷古墳
三角縁唐草文帯二神二獣鏡片
 495樋口遺跡 弥生時代
小型丸底鉢
樋口遺跡(弥生)
高坏
樋口遺跡(弥生)
高坏
樋口遺跡(弥生)

樋口遺跡(弥生)

樋口遺跡(弥生)

樋口遺跡(弥生)

樋口遺跡(弥生)
 






 500古墳時代



   引用古墳時代wikipedia
  古墳時代前期 3世紀後半~4世紀末 都が桜井市・天理市にあった時代
  古墳時代中期 5世紀初頭~6世紀末 都が河内平野に移り、人物埴輪が現れた時代。
  古墳時代後期 6世紀前半~6世紀末 西日本に横穴式石室が盛行する。前方後円墳が造られなくなる。
  古墳時代終末期 6世紀末~ 方墳め八角墳が盛行する


3世紀後半から4世紀にかけて、立地や規模・形態、副葬品の内容などにおいて、弥生時代の墓とは異なる墓「古墳」が出現します。
古墳は、生産力増加による経済力の向上を基盤とした支配者階級の権威の象徴であり、当時の社会や文化の様子を反映しています。

古墳時代は律令国家が成立し全国に仏教が波及する7世紀までの約400年間続きます。

 前方後円墳の誕生
3世紀後半畿内で誕生した前方後円墳は、畿内政権と政治的完形を結ぶ各地の首長に、絶大な権力の象徴として受け入れられます。
3世紀末~4世紀初頭頃には気延山の東の尾根上に、県内最古の前方後円墳である宮谷古墳が誕生します。

4世紀末頃までには、奥谷1号墳(前方後方墳)・八人塚古墳(積石塚の前方後円墳)などの首長墓が、鮎喰川流域の尾根上に築造されます。

 501前方後円墳の誕生
古墳時代
上に記述
前方後円墳の誕生
上に記述

宮谷古墳の竪穴石室
割竹形木棺と呼ばれる棺を納めるための
長大な竪穴石室(内法全長5.95m幅1.2~1.3m)は、

前期古墳の典型的な埋葬施設です。
奥谷1号墳の円筒埴輪列
気延山の標高41mの尾根上に4世紀末頃に築造された全長約50mの前方後円墳です。

墳丘の周りには円筒埴輪や朝顔形埴輪が巡らされています。

前方後方墳


 510特殊壺・円筒埴輪


 5114世紀の埴輪

二重口縁壺
宮谷古墳

二重口縁壺
宮谷古墳
壺形埴輪

壺形埴輪
松熊神社古墳
壺形埴輪

壺形埴輪
松熊神社古墳
4世紀の埴輪

円筒埴輪
奥谷1号墳

朝顔形円筒埴輪
奥谷1号墳

朝顔形円筒埴輪
奥谷1号墳

朝顔形円筒埴輪
渋野丸山古墳

朝顔形円筒埴輪
渋野丸山古墳

円筒埴輪
渋野丸山古墳
 

 520前期古墳の副葬品 宮谷古墳

前期古墳の副葬品の特徴は、銅鏡・鉄製葺・鉄製農耕具・玉類などを持つことです。宮谷古墳にもその特徴が窺えます。

前期古墳の副葬品 前期古墳の副葬品 前期古墳の副葬品 重圏文鏡

宮谷古墳
ガラス製小玉
ガラス製小玉
宮谷古墳
管玉・ガラス玉
碧玉製管玉
ガラス製丸玉
宮谷古墳
碧玉製管玉 ガラス製丸玉 ガラス製小玉

宮谷古墳

鉄剣・宮谷古墳
鉄鉾・奥谷2号墳

ヤリガンナ・宮谷古墳

板状鉄斧・宮谷
鉄鏃・宮谷

 525銅鏡
鏡は呪術性をおびた祭器あるいは宝器であり、権威の象徴でもありました。4~5世紀の古墳には様々な種類の鏡が副葬されました。
※古墳時代初期に見られるこの副葬品は、首長に呪術的要素があったことを表しています。シャマンを兼ねていました。

 新宮塚古墳
徳島市渋野町にある円墳。内側に赤色顔料を塗った箱式石棺 (板石を組み合わせた棺) が見つかった。鉄剣・鉄刀・勾玉・鏡等が出土した。
被葬者は、近くにある渋野丸山古墳の被葬者とつながりがあると考えられています。

銅鏡 新宮塚古墳の銅鏡
五獣鏡・恵解山1号墳

四神鏡・新宮塚古墳

勾玉文鏡・新宮塚古墳

獣帯鏡・気延山古墳

捩文鏡・三谷遺跡
ねじり

変形神獣鏡・丈領古墳

変形神獣鏡・丈領古墳
新宮塚古墳
上に記述
 

 531武器・武具・馬具 新宮塚古墳
5世紀後半(古墳時代中期後半)になると副葬品にも変化が現れ、軍事的性格の濃い武器(弓矢・刀剣)や武具(甲冑)、馬具などが副葬されるようになります。

武器・武具・馬具
鉄刀

鉄鏃

鉄鏃

鉄刀子
 535武具

三角板鋲留短甲
恵解山1号墳

衝角付冑
恵解山1号墳

頸甲
恵解山1号墳

三角板鋲留短甲
恵解山1号墳
 538気延山古墳群 (3世紀末~7世紀中期 100基以上)

鉄鏃・気延山古墳群

鉄刀子・気延山古墳群

兵庫鎖・気延山古墳群

素環鏡板付轡
気延山古墳群

素環鏡板付轡
気延山古墳群
 
 540
 541
 巨大古墳の出現
古墳時代中期になると、大規模な墳丘を持つ古墳が平野部に出現します。
勝浦川流域の平野部に、5世紀の中頃に突如として現れた渋野丸山古墳は、周濠をもつ推定全長約900mの県下最大の前方後円墳です。

渋野丸山古墳の出現は、この地域に新たに強力な政権が誕生したことを示しています。
しかし、徳島県内では、渋野丸山古墳を最後に前方後円墳はほとんど築かれなくなります。

 横穴式石室の採用
5世紀後半に大陸の影響を受けて導入された「横穴式石室」が、6世紀になると各地に普及します
この石室構造は、家族や近親者の追葬を可能とし、首長権の誇示というこれまでの古墳の性質に変化をもたらします。

市内では、6世紀後半~7世紀初頭の矢野古墳(国府町)や穴不動古墳(名東町)が、巨大な石を用いた誇穴式石室として代表的ですが、
これらの古墳を最後に、古墳の築造は終わりをむかえます。

 矢野古墳の横穴式石室
石室全長8m。奥壁に一枚石を用いるほか、側壁や天井にも巨大な石をと使用しており、その構造や形態には畿内的な特徴が見られます。

 古墳時代の集落
古墳時代には、灌漑技術の進歩や鉄製農耕具の普及により水田経営が飛躍的に発展します。
その背景には、ムラとムラがより強力に統合された集落共同体の存在があり、この共同体によって古墳は造営されました。

徳島県内では、三好町の大柿遺跡などから竪穴住居跡などが発見され、古墳時代の集落の実態が判明しつつあります。
市内で手は、鮎喰・庄・南庄遺跡などで古墳時代中期(5世紀末~6世紀頃)の方形の竪穴住居跡が見つかっていますが、集落としての実態はよくわかっていません。

 古墳時代の住居跡
南庄遺跡~南庄町4丁目地区~の発掘調査では、4世紀前半の隅丸方形帯竪穴住居跡1軒、5世紀末の方形竪穴住居跡3軒が発見されています。

巨大古墳の出現
上に記述
横穴式石室の採用
上に記述
矢野古墳の横穴式石室
上に記述
古墳時代の集落
上に記述
古墳時代の住居跡
上に記述
 542矢野古墳の副葬品
第1次埋葬・矢野古墳
(6世紀後半)
坏身・台付壺・有蓋壺
第2次埋葬・矢野古墳
(7世紀中葉中心)
坏身・坏蓋(矢野遺跡)

平瓶・提瓶
気延山古墳群
 第1次埋葬、第2次埋葬の意味は不明
100年も経って追葬もない。
副葬品の違いでもなかろうし。わかりません。

←の提瓶・平瓶とは無関係のようです。

 543子持ち壺
  気延山古墳群出土となっている。そこでは子持ち壺祭祀(納棺の儀)が行われたのでしょうね。当然ですね。

子持台付壺
気延山古墳群

子持台付壺
気延山古墳群

台付壺
気延山古墳群

高坏・ハソウ
気延山古墳群

短頸壷
気延山古墳群
 544

高坏・南庄遺跡
坏身・南庄遺跡

坏身・南庄遺跡

坏身・南庄遺跡

坏身・恵解山10号墳
 545

提瓶・ハソウ
三谷遺跡

甕・横瓶
三谷遺跡
 
 560古墳時代

 561装身具 新宮塚古墳

  金箔や銀を被せた耳環(イヤリング)や玉類(ネックレス)・釧(腕輪)も、富や権威の象徴として権力者に愛好されました。

装身具
上に記述
緑色凝灰岩製管玉
新宮塚古墳
瑪瑙製勾玉
新宮塚古墳

 562装身具 城山神社1号墳

水晶製切子玉
城山神社1号墳

蛇紋岩製勾玉
城山神社1号墳

ガラス製丸玉・小玉
城山神社1号墳

翡翠製勾玉
城山神社1号墳

瑪瑙製勾玉
城山神社1号墳

金環・矢野古墳

 565装身具 気延山古墳群

水晶製管玉
気延山古墳群

緑色凝灰岩製管玉
気延山古墳群

ガラス製小玉
気延山古墳群

碧玉製管玉
気延山古墳群

ガラス製丸玉
気延山古墳群

翡翠製勾玉
気延山古墳群

瑪瑙製勾玉
気延山古墳群

滑石製勾玉
気延山古墳群
 567装身具 気延山古墳群

土製丸玉
気延山古墳群

滑石製臼玉
気延山古墳群

水晶製切子玉
気延山古墳群

耳環
気延山古墳群

鉄釧
気延山古墳群

 568祭祀遺物
   鏡や玉を模造した祭祀具の出土は、古墳の被葬者が行った祭りと共通の祭りが、集落内(イエ)でも行われていたことを示しています。

祭祀遺物
滑石製管玉
鮎喰遺跡

蛇紋岩製勾玉
鮎喰遺跡

土製勾玉
鮎喰遺跡

素文鏡
南庄遺跡

滑石製模造鏡
鮎喰遺跡

滑石製有孔円板
鮎喰遺跡

滑石製有孔円板
南庄遺跡
 

 







 700古代






 701奈良・平安時代

中国の唐にならって、7世紀後半に天皇を中心とした強力な国家体制をつくるため、律令という法律をもとに、朝廷が全国を直接支配する国家のしくみが作られました。

阿波国でも、徳島市国分町に国府が置かれ、朝廷から任じられた国司が地元の豪族を郡司として使い、政治を行いました。
また、仏教が全国に広まり、各地に寺院も造られました。

 阿波国府跡の検出遺構
国分町の観音寺の南西付近で、阿波国府に関連する掘立柱建物などの遺構や木簡・墨書土器など多数の遺物が発見されています。

 名東郡衙の検出遺構
庄遺跡などからは、寛平8年(896)に名方郡から分割された名東郡衙に関連すると思われる大型の掘立柱建物などや遺物が発見されています。

 702panel
奈良・平安時代

上に記述
阿波国府跡の検出遺構
上に記述
名東郡衙の検出遺構
上に記述
 705 平安時代

壺・長頸壷
阿波国府跡(平安時代)

長頸壷・壺・短頸壷
阿波国府跡(平安時代)

壺・短頸壷・皿
阿波国府跡(平安時代)
 706 平安時代

灰釉陶器 小皿・埦
阿波国府跡(平安時代)

坏身
阿波国府跡(奈良時代)

蓋・坏
阿波国府跡(平安時代)


阿波国府跡(平安時代)

緑釉陶器
小皿・皿
阿波国府跡(平安時代)

緑釉陶器 坏
阿波国府跡(平安時代)
 
 707いろいろな食器
 708いろいろな食器 阿波国府跡 平安時代

甕・甕・甕
坏・台付鉢・皿・黒色土器埦
坏蓋・台付皿・台付皿

甕・甕
坏・台付鉢
坏蓋・台付皿

甕・甕
坏・台付鉢

甕・台付鉢・甕・甕
皿・黒色土器埦
台付皿
 709調理道具

甕・甕・竈
皿・黒色土器埦
小皿・黒色土器坏


竈(奈良時代)

竈(奈良時代)

黒色土器埦
黒色土器坏
 

 720役人のシンボル

 721石帯 平安時代
 役人のシンボル
役人の制服で、そのシンボルの川帯を飾る装飾品には、金属製品(帯金具)と石製品(石帯)などがあり、位によって違っていました、

役人のシンボル 銅製金具付革帯 巡方 だ尾 だ尾
巡方 だ尾


 722

 古代の銭貨
  律令国家は平城京造営のために、和同開珎を発行し、その後も私鋳銭や価値の下落に伴い、皇朝十二銭という銭貨(せんか)を発行した。

 皇朝十二銭
  708年から963年にかけて鋳造された12種類の銅銭をまとめて皇朝十二銭と呼びます。阿波国府跡で出土した万年通宝は、皇朝十二銭のうち
  2番目(760年)に作られた銅銭です。皇朝十二銭は、時代を追うごとに質と価値が低下していきます。

古代の銭貨 皇朝十二銭
萬年通宝・平安時代
阿波国府跡
萬年通宝 皇朝十二銭
 
 740土器

丹塗土師器 坏・皿
奈良時代・庄遺跡

丹塗土師器 皿・蓋
奈良時代・庄遺跡


奈良時代・庄遺跡

坏・皿
奈良時代・庄遺跡

 750文房具


 751文字資料は語る
  阿波国府跡などの官衙関連遺跡を中心に、木簡・墨書・朱書・刻書土器などが発見され、古代や古代人の様子を物語ってくれています。

阿波国分寺 事務用品 文字資料は語る 墨書土器「政所」
平安時代・阿波国府跡
墨書土器「大」
平安時代・阿波国府跡
刻印丸瓦「守」
阿波国分寺
刻印丸瓦「守」
刻印丸瓦「守」
木簡・墨挺
 753

木簡・墨挺・筆・小刀
平安時代・阿波国府跡

墨挺・筆・小刀・風字硯
平安時代・阿波国府跡

水滴・円面硯
平安時代・阿波国府跡
 


 760国分僧寺と国分尼寺
律令国家の繁栄を願って、天平13年(741)に聖武天皇は「国分寺建立の詔」に基づき、国府の近くに、官立寺院の国分寺(僧寺)と国分尼寺の造営を命じました。
阿波国では、徳島市国分町の現国分寺付近に国分寺(方2町)、名西郡石井町尼寺に国分尼寺(方1町半)が造営されました。
しかし、仏教の力による鎮護国家体制も、律令体制の崩壊により、次第に衰退します。


 761古代の生産と流通
古代(奈良・平安時代)には、阿波国でも須恵器の生産が、徳島市入田町の内ノ御田窯跡、瓦と土師器の生産が内ノ御田瓦窯跡等で行われています。
また、畿内の大寺院と同系統の瓦、畿内周辺などで生産された施釉陶器(緑釉・灰釉陶器等)などが阿波国分寺・阿波国府や名東郡衙関連井堰などから発見されています。
これらの出土遺物などから、古代の生産物が活発に流通していたことが伺えます。

 古代人のくらし
古代の人々は竪穴住居に居住し、土師器や須恵器などの食器を使用して生活していたことが集落遺跡の発掘などで判明しており、以前とあまり大きな変化のないものだったといわれています。
庶民と貴族の暮らしには、大きな差異がありました。
貴族や役人は大陸の新しい文物を採り入れており、唐風衣服、緑釉陶器、寺院に葺かれた瓦など、衣食住の全てにその影響が見られます。

 大浦遺跡
徳島市名東町にある遺跡です。密教の仏具をつくるための土製鋳型が全国で初めて出土しました。
独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵(さんこしょ)・錫杖(しゃくじょう)の鋳型は11世紀頃のものだと考えられています。

これらの仏具には邪悪なものを祓う力があると考えられ、儀式に使用されました。

 仏具の生産
大浦遺跡から密教仏具の土製鋳型が発見され、平安時代に阿波国でも仏具の生産が行われたことが伺えます。

国分寺と国分尼寺
上に記述
古代の生産と流通
上に記述
古代人のくらし
上に記述
大浦遺跡・仏具の生産
独鈷杵土製鋳型
平安時代・大浦遺跡
上に記述

独鈷杵土製鋳型
平安時代・大浦遺跡

独鈷杵
平安時代・大浦遺跡

三鈷杵土製鋳型
平安時代・大浦遺跡

錫杖土製鋳型
平安時代・大浦遺跡

錫杖
平安時代・大浦遺跡

錫杖
平安時代・大浦遺跡

 762瓦の生産
7世紀後半以降、阿波国でも寺院が建てられるようになり、それに伴い国分寺・尼寺などに供給するために瓦の生産が行われました。


平瓦・重郭文軒平瓦・
丸瓦・八葉複弁蓮華文軒丸瓦
均整唐草文軒平瓦
瓦の生産
扁行唐草文軒平瓦

扁行唐草文軒平瓦

均整唐草文軒平瓦
均整唐草文軒平瓦

均整唐草文軒平瓦
扁行唐草文軒平瓦

宝相華唐草文軒平瓦
宝相華唐草文軒平瓦
重郭文軒平瓦

重圏文軒丸瓦
八葉複弁蓮華文軒丸瓦

八葉複弁蓮華文軒丸瓦
八葉単複弁蓮華文軒丸瓦
十四葉単弁蓮華文軒丸瓦
 

 770阿波国衙

 阿波国衙はどこにあったか
阿波国の行政を担った国衙がどこにあったのかについては未だにわかっていません。他の地域で見られるような塀や区画溝で囲まれた場所に集中して建てたのではなく、複数の小河川に区切られた微高地に分散して建てられた可能性があり、それがより一層国衙の所在地の推定を困難にしています。


 771阿波国府跡

 赤い土器・黒い土器
阿波国府跡からは様々な種類の土器が見つかっています。その中には表面が赤い土器と、主に土器の内側が黒い土器があります。
表面が赤い土器は丹塗り土師と呼んでいます。普通の土師器に成形後、表面に酸化鉄を多く含んだ土を塗って焼成したものです。

内側が黒い土器は黒色土器と呼んでいます。土師器を焼成後、高温状態のまま土器の中に籾殻や木屑を入れて炭素を吸着させたものです。
どちらも器に光沢が出るので、特別な咳の食事の際に用いられました。1月1日に行われた元日節会などの饗宴でも用いられていたのかもしれません。

 役人たちの福利厚生
国衙では国司のほかに実務を行う役人がいました。具体的な人数はわかっていませんが、阿波国の規模からみて数百人に及ぶのではないかと考えられています。平城宮では働いていた役人には朝夕の2回の給食があったことがわかっており、国衙でも同じような制度があり、国厨(くにのくりや)と呼ばれる施設で作られていました。

平城宮で働く下級役人の給食は玄米を主食に焼き物や煮物、酢の物などのおかずが二品程度。汁物に漬物、塩、粕湯酒(酒粕を湯で溶いた)といった構成で、国衙出働く下級役人の給食も同じようなものだったと考えられています。
国司などの上級役人の給食はおかずの数が増え、下級役人よりも豪勢でした。

阿波国衙はどこにあったか

上に記述
赤い土器・黒い土器
上に記述
黒色土器 埦
丹塗り土師器
蓋・台付皿・皿
平城京荷札木簡から再現した貴族の食事
土師器鉢 土師器 埦・皿 土師器 埦・皿 土師器坏

土師器皿
役人たちの福利厚生
上に記述
 
 775執務の様子

 776阿波国衙の前身施設
701(大宝元年)に国郡里制が定められ、都から派遣された国司が各国の政務を司るようになりました。しかし、それ以前の前進となると制度が存在していたことが指摘されます。

阿波国の場合、観音寺遺跡から「己丑つちのとうし」と干支がが記された木簡が出土しており、これは689(持統3)を指したものと考えられています。
また、国郡里制が定められる以前は郡の代わりとなる単位の評(こおり)が用いられており「麻殖評おえのこおり」と記された木簡も出土しています。

このような出土事例から、阿波国においても奈良時代の終わり頃には、後の国衙につながるような施設が設けられて政治が行われていたことが伺われます。

阿波国衙の前身施設
上に記述
木簡
観音寺遺跡4・41号木簡
(国府以前の施設)

観音寺遺跡
114・182・137号木簡
(国府以前の施設)
木簡の形状 木簡の種類
下に記述

 木簡の種類
付札木簡(つけふだもっかん)
荷物の内容や数量を簡潔に記した木簡。紐をくくるための切り欠きなど、荷物に取り付けやすい加工を施している。

荷札木簡(にふだもっかん)
運ぶときに荷物に取り付けるための木簡。
内容や送り主の住所・名前などが記されている。紐をくくるための切り欠きなど、荷物に取り付けやすい加工を施している。

習書木簡(しゅうしょもっかん)
役人の手習いのために記した木簡。同じ文字を繰り返した跡が残る木簡がある。文章としての意味はないものが多い。

文書木簡(もんじょもっかん)
公的文書(差出と宛名があるものや、伝票など)を記した木簡。
木簡に記された文書は一時的に保管しているものが多く、木簡を作成して約1年程で廃棄されたのではないかと考えられている。

呪符木簡(じゅふもっかん)
まじないや祭祀に用いた木簡。まじないの文句が書かれていたりする。


 777観音寺遺跡の木簡

観音寺遺跡発掘状況 自然流路検出状況 観音寺遺跡の木簡 観音寺遺跡の木簡 観音寺遺跡の木簡


 778阿波国府跡推定域

 国司とその役割
国司は都から国々へ派遣された官吏のことを指し、役職の高い順に守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)に分けられます。
ただし、国の規模によっては介や掾を任命しない場合もありました。

国司の大きな仕事である租税の徴収に向けて国内に住む人たちの戸籍を調査して、戸籍に合わせて口分田を支給していました。
これらの仕事の他に犯罪者に対する査定や、各国に設置された軍団に関する軍事指揮、国内の五穀豊穣や安寧を祈願する祭祀の執行といった強い権限が認められていました。

国郡里制が定められ国司が派遣されるようになる前に勢力を誇っていた在地の豪族たちは国司の下で郡を治める郡司に任命されました。

国司は定められた任期で都から任地へ赴任していきましたが、制度が安定して運用され一定の租税が確保できるようになった平安時代になると、都にとどまって赴任せず目代(もくだい)と呼ばれる代理人を派遣する国司が現れるようになりました。このような国司のことを遥任国司と呼んでいます。

やがて武士の時代を迎えると国司の権威は弱まっていき、守護や地頭と呼ばれる武士に権限を奪われ、実態を伴わない名称だけの役職になります。

以前の阿波国府跡
推定行
観音寺遺跡遠景
観音寺木簡 観音寺木簡 国司とその役割
上に記述
記録に残る阿波国司
 
 

 800恵解山古墳群

 801恵解山古墳群概要
恵解山古墳群概要① 恵解山古墳群概要② 恵解山古墳群概要③ 恵解山古墳群概要④ 恵解山古墳群概要⑤

 810恵解山2号墳の甲冑

 冑の出土状況
冑は地板などの多くの部分が失われていますが、短甲と同様に地板の形状から細分化することができ、2号墳出土の衝角付冑は地板を三角形に加工して組み上げた三角板革綴衝角付冑です。長さ25cm幅20cm高さ15cmを測ります。

冑は錣(しころ)と腰巻板(こしまきいた)などの大半を失っていますが、衝角部分が完形で残っていました。
衝角の下には眉庇が取り付けられており、前方の視認性を高める役割を持っていましたね。眉庇の先端は花弁状に円弧を重ねた装飾性の高い形状になっています。

冑の出土状況
上に記述
恵解山2号墳埋葬施設 衝角付甲
恵解山2号墳
古墳時代5世紀
衝角付甲 衝角付甲

 820鎧出土状況
恵解山2号墳からは冑(かぶと)・頸甲(あかべよろい)・短甲が出土しています。
これらは西棺と呼ばれる箱式石棺に接して設けられた副室内から出土しました。

短甲は三角形に加工した鉄板を革紐で綴じて組み上げたものです。高さ42cm肩幅44cm接地面幅37cm接地面奥行き35cmを測ります。
竪上板(たてあげいた)・押付板(おしつけいた)・帯金(おびがね)・裾板(すそいた)で枠を組み、その間を埋めるように地板をあてて組み上げます。
2号墳の短甲は地板を三角形に加工していることから、三角板革綴短甲とも呼ばれます。

主に革綴じの技法は古墳時代前期から中期にかけて用いられたものです。
恵解山古墳群の1号墳から出土した短甲は中期以降に用いられた鋲留めの技法で製作されています。

甲冑部位名称 鎧出土状況

上に記述
頸甲
恵解山2号墳
古墳時代5世紀
革綴短甲
恵解山2号墳
古墳時代5世紀

三角板

 830鉄刀
鹿角製の刀装(把頭つかがしら・把縁つかぶち・鞘尻)をもつ鉄刀です。身の長さ67.5cm把の長さ15cmを測ります。
型式的には全国で出土したものと大差はない資料ですが、装具の着装を考察する上で貴重な資料となりました。

把頭は鹿角の幹部分を切り落としたものをそのまま使用しており、小孔をあけています。
把縁にも小孔が開いており、装飾や腕貫尾を取り付けるためではないかと考えられています。

鞘尻には直弧文が施されることも注目できます。

鉄刀 恵解山2号墳出土鉄剣 刀剣部位名称 鉄刀
上に記述

 840鹿角装 鉄剣

直弧文
直線と円弧の組合わせ文

把頭・把縁
鉄刀子

 850だ龍鏡  
東棺から出土した直径13.8cmの仿製鏡です。内区には図像が退化しているためわかりにくいものの、神像と獣像が表現されています。
乳を巡るように配置された龍のような獣に載るようにして神像や長い棒状のものを咥えた獣像が配置されていることから、いわゆるだ龍鏡と呼ばれる鏡であると考えられています。

主文である神獣を配置した外側には、珠文と銘文を記号化した偽銘帯が見えます。
更にその外側に向かって櫛歯文・鋸歯文・複線波文・鋸歯文を配置しています。鏡面には布が付着した状態で出土しています。

布片は麻布とみられ、織り目を観察すると右に撚った太いよこ糸と細いたて糸の平織りであることが確認できます。
この布片は鏡を副葬する際に鏡を包んだ布の一部と考えられます。

眉山西麓の名東山に築造された古墳から出土したと伝わる小型仿製鏡でも布に包んで副葬したとみられる痕跡が残っており、これらは鏡を副葬する意図と役割を考えるうえで示唆的な事例といえます。

だ龍鏡 だ龍鏡 鼉竜鏡
だりゅうきょう
だ龍鏡 
上に記述