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 西日本の縄文45   2019.8.2-2

  出雲玉作資料館 島根県松江市玉湯町玉造99-3  0852-62-1040月・祝日の翌日休館、撮影可


交通 レンタカー これしかない。
JR玉造温泉駅からタクシー
周辺観光地   玉造温泉

 



00外観
01入口展示
02風土記提出の詔と出雲国風土記

資料 忌部氏

10勾玉の起源諸説
20蘇った古代の玉作り跡
22花仙山周辺の玉作り開始
23史跡出雲玉造遺跡出土資料
24碧玉製合子と細片
30玉作工房内の模型
40玉の作り方
42玉の製作工程
43玉類製作工程の実際
45筋砥石出土遺跡
50結晶片岩



考察 玉生産の微細加工と結晶片岩の入手

53列島各地の玉材料
60花仙山周辺の玉作り
65玉の原石
70舞錐
71算盤製作用舞錐
72花仙山産の碧玉・瑪瑙・水晶製勾玉
73林43号墳出土水晶製管玉
74片面から孔を開ける出雲玉作の技
75鉄製錐
76穿孔方法
77たたき法


 古代

81律令時代における玉の色々

100六反田遺跡出土資料
110国指定史跡出雲玉作跡に尽力した人達
120石釧の製作
 亀甲状石と石釧
 石釧の製作
130出雲の玉作

200二階展示室
210本船木窯 近世の窯業
211本船木遺跡
215出雲の瑪瑙細工
217玉製品

230花仙山瑪瑙と周辺の地質
232宍道湖南岸の地質形成
233布志名層・来待層の分布
235宍道湖周辺の地形地質と変遷

240出雲玉作りの復活
242玉作りの工程

250布志名焼き製品 近世~現代

300出雲玉作遺跡公園
 
 出雲玉作資料館
 
 00外観
出雲玉作資料館山中の落ち着いた博物館。玉造温泉はすぐ西側に広がる。
一階は玉製品
二階は陶磁器
本船木窯跡発掘調査
速報展

出土品
窯道具

「発掘された布志名焼」 発掘された窯は昭和の終わりごろまで操業しており、もともと「本船木窯」として操業していた ものが、大正 13 年の閉窯以降、「丸三窯」により引き続き使用されていたようです。ただし、この 窯の築造時期については、「本船木窯」の閉窯(大正 13 年)以前のものとは推測されますが、史料 等からは明確に確認できませんでした。類推ではありますが、近隣で島根県が調査した窯の中に、 ほぼ同類の構造の登り窯(1 号窯)が確認され、ここ では出土遺物等から明治期の窯と想定されました。ま た、レンガに書かれた「三石耐火煉瓦株式會社」も明 治 25 年創立とされていることから、当該窯も明治以降 に築造された窯である可能性が想定されます。(松江市 埋蔵文化財調査室 徳永 隆)  引用松江市玉作資料館たより


 01入口展示

 
玉は玉質(ぎょくしつ)といわれる美麗な石から作られることが多い。必ず穴があけられ、古代人は紐に通して身を飾った。
玉はまた、「魂」に通じ、呪性・宝性・祭性をも持つといわれる。玉が美しく神秘的でさえあるのはこのためである。
古代人の精神生活の一端を垣間見ることができよう。

 
 碧玉原石
古代人は緑色を好み、緑色の玉を一貫して作り続けた。出雲では花仙山から採れる深緑のこの石を用いた。
花仙山は玉作資料館の西側の裏山である。 (500m)旧石器・縄文・弥生・古墳から現在まで採取され続ける膨大な埋蔵量の鉱山資源である。

碧玉原石 花仙山

上に記述



上に記述

白瑪瑙勾玉
林43号墳水晶製切子玉

赤瑪瑙勾玉
金崎1号墳出土碧玉勾玉

林43号墳
埋もれ木棗玉
赤瑪瑙勾玉 重文指定書


 02風土記提出の詔と「出雲国風土記」
律令政治が確立した和銅6年(713)、元明天皇は列島内の各国々に対し、

 ①諸国の郡郷名に好字を当てさせよ。
 ②郡内に産出する銀・銅・彩色(染料や絵具)植物・鳥・獣・虫などの種類。
 ③土地が 肥沃か否か。
 ④山・川・原・野の名前の由来。
 ⑤古老が伝承している古い話。

などの項目を報告するようにとの命令を出しました。これを受けて、各国々から中央政府に提出されたのが
「解(げ)」という報告文書で、後に「風土記」と呼ばれるものです。

奈良の都にいながらにして、列島の隅々まで把握しておきたいという天皇の意図が窺えます。
各国々から提出された原本は、現在全て失われ、わずかに数国に関して写本が遺されています。
天平5年(733)に完成した「出雲国風土記」も現在写本の形で伝えられています。

国内最古の写本は、熊本県旧藩主細川家の[細川家本]慶長2年(1592)、県内最古の例は日御碕神社(日御碕本)寛永11年(1634)が知られています。
それは、写本とはいえ、奈良時代の出雲国内の様子が伺える重要な資料で、その中に出雲玉作に関わる技術が見られ、
出雲国造と朝廷の関わりや慣わし、忌部氏を含めた玉作の役割などが読み取れます。

資料 忌部氏
忌部氏のち斎部氏(ともにいんべうじと読む)は天太玉命を祖とする神別(天神)の古代氏族。古代朝廷における祭祀を担った。引用wiki

古代よりヤマト王権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族であった。「忌部」は穢れを忌む集団という意味。「忌」は、慎みをもって神事で穢れを取り去り、身を清めることをいう。引用忌部-一般社団法人忌部文化研究所

宮廷祭祀とは、季節折々の年中行事だけではなく、政治そのものが司祭によってきめられていた時代であるため大変重要であるばかりでなく、
年中起こる地震・風水害・疫病・飢饉・渇水など、様々な局面で行われる行事であり、更に大王の死亡・誕生・就任などヤマト政権の隅々にまで根を張った官職であり、絶大な権力を持っていた。
従って、日本各地に領地を持ち、阿波国と安房国は、忌部氏が徳島から移民させて作った領地が安房国(千葉県南房総市)となった。


風土記提出の詔と
「出雲国風土記」
上に記述
「出雲の国風土記」
忌部神戸の条
「出雲の国風土記」
忌部神戸の条
玉湯町全域航空写真 玉湯町の遺跡分布 玉湯町の遺跡分布
 


 10勾玉の起源諸説

勾玉が何を起源やモデルにしてできあがるのか、古くから諸説が提出されてきました。
1.獣牙起源説
2.胎児起源説
3.魚形起源説
4.肝臓起源説
5.釣針起源説
6.欠損した玦状耳飾りの再加工説
7.三日月起源説

※上記の1.6.7についての補足

1.起源を獣の牙をモデルとする説は、縄文時代の資料に獣の牙の付け根に小さな穴を開け、ペンダント状にしたものが あることを根拠に、
 坪井正五郎が「東京人類学雑誌」294号「管玉・曲玉の未成品」(1910年)で提唱したものです。

6.玦は「漢和辞典」に「半分かけた環状のたま」と説明があります。玦状耳飾りはリング状の一部に切り込みがある耳飾り。
 その欠損したものが勾玉に似ることから想定された説です。

7.水野祐が著書「勾玉」(1992年)に「鏡が日神の憑代(よりしろ)であり、勾玉が月神の憑代である」と紹介されています。


勾玉の起源諸説
上に記述
「訂正 出雲の国風土記」 訂正
出雲の国風土記」
未記述
勾玉 勾玉
勾玉
松江市 玉作湯神社
松江市 寺山小田遺跡
古墳中期
勾玉
松江市 薦沢遺跡出土
碧玉勾玉
松江市 小無田Ⅱ遺跡
赤瑪瑙勾玉
・玉製玦状耳飾り
・クマの牙製ペンダント

・壊れた耳飾りが、勾玉に似ている説。
・動物牙の垂飾が勾玉に似ている説。
 

 20蘇った古代の玉作り跡

 玉作山
「出雲国風土記」には「玉作山」の記載が見られます。
玉作山は、宍道湖南岸にある標高約200mのなだらかな山で、現在は花仙山と呼ばれています。
地下には碧玉の岩脈があって、碧玉は別名出雲石と呼ばれるほど、その輝きと深緑色は古代の代表的玉材です。

この他、地下には赤メノウ白メノウ水晶の岩脈も存在しています。

古墳時代の前半期、碧玉と水晶が主流であったのに対し、後半期には赤メノウや白メノウの玉材も採用されるようになり、出雲の玉は色とりどりの組み合わせにより高く評価されることとなりました。その頃が出雲国の玉作の全盛期であったと考えられます。

その後も忌部氏を介して朝廷の祭祀に必要な玉を生産する全国唯一の地域でした。
この山名、「玉作山」の記載は、櫛明玉命を祖とする玉作集団(玉造部たまつくりべ)のシンボル的存在であったことを伺わせます。


 玉作湯神社と史跡出雲玉作跡 [宮ノ上地区
昭和58・59(1983-4)の発掘調査により、境内のF区から弥生時代末~古墳時代初頭の玉の未成品や大量の土器が見つかっています。
玉材は碧玉(青メノウ)と水晶に限られていることも大きな特徴です。
花仙山を中心とする玉作遺跡群の中で、ここが碧玉を材料とする最も古い例として注目されます。

弥生時代末は、硬質の碧玉や水晶の加工に不可欠な鉄器が普及する時期で、鉄製ドリルが玉作の作業効率を高める役割を担ったと推定されます。

玉作湯神社には、忌部氏の由来書古語拾遺」にも記されているように、玉作集団の守護神である。櫛明玉命が祀られていることから、この場所が出雲玉作発祥の地である可能性が高いと考えられます。

 21
玉作山
上に記述
玉作山・玉作湯神社
位置図
「風土記」玉作山の記述 玉作湯神社と史跡出雲玉作跡
上に記述
玉作山(花仙山)遠望
玉作湯神社

 22花仙山周辺の玉作り開始
史跡出雲玉作(宮ノ上地区)では、近年の発掘調査により、3世紀中頃まで遡ることが判明しました。

 宮ノ上地区(F-4-d層)土層について
この層から出土した大部分の土器は、弥生時代末から古墳時代初頭に属するものです。
玉未成品の石材は、碧玉と水晶に限られ、赤メノウが全くない点が大きな特徴です。

この調査によって列島内で最も早く碧玉を使用して勾玉を作っていることが 明らかになりました。
花仙山周辺の玉造遺跡の分布
史跡出雲玉作跡出土資料
(宮ノ上地区)
弥生終末期~古墳前期
宮ノ上地区の地形と
調査区の配置
史跡玉作跡出土資料
弥生終末期~古墳前期
土器出土状況
土器出土状況
宮ノ上地区出土土器片

弥生末~古墳初め
宮ノ上地区の土層 宮ノ上地区土層について

上に記述
出土土器片

 23史跡出雲玉造遺跡出土資料(宮ノ上地区) 玉湯町宮の前 弥生終末期~古墳前期
宮ノ上地区(4-d層)
出土碧玉・水晶
花仙山(玉作山)周辺の
玉作の開始は?

3世紀中頃まで遡る
と判明。
碧玉・水晶 宮ノ上地区(4-d層)
出土水晶
宮ノ上地区(4-d層)
管玉未成品
碧玉製未成品
管玉未成品(碧玉)
碧玉製鏃形製品
勾玉未成品

 24碧玉製合子と細片 玉湯町宮の前 弥生終末期~古墳前期
碧玉細片出土状況
碧玉製合子と素材
碧玉製合子
合子用碧玉素材
碧玉細片
 

 30玉作工房内の模型
三人の工人が水を入れた作業穴の周囲で玉作作業を行っています。
右端の男性は先が尖った道具(ケンカネ)により原石を大まかな形に割り、中央の女性はそれを砥石で磨いています。
左端の男性は舞錐で穴を開けています。穴あけは玉作作業の中で最も難しく、失敗する確率の高い工程です。

これらは1971年の調査で明らかになった出雲玉作跡A区Ⅰ号工房跡をモデルに表現したものです。

左:孔あけ
中:玉砥石
右:荒割り
玉作工房内の様子
 

 40玉の作り方
 41砥石
玉磨き砥石

 42玉の製作工程
玉の製作工程  
 1 原石採取方法
転石を海浜や川原などで拾う場合(採拾)と、原石を岩脈から直接採取する(採掘)の二種があります。
花仙山周辺では、採掘が 多いと考えられます。
今も残る「メノウ穴」の中には古代のものも含まれている可能性があります。
 2.荒割工程
玉の大きさを想定しながら、原石を大まかに分割する工程です。
工具は叩石(ハンマーストーン)や、鉄製タガネが用いられた考えられます。
一つの原石から何個の玉を取り出しが可能なのか、腕の見せ所だったにちがいありません。
 3 形割工程
各種の玉の基本形を造り出す工程です。
管玉であれば四角柱、勾玉であれば扁平な半円形を作り出します。
工具は各種タガネや叩石が想定されます。
この段階の出土資料を見ると、どのような玉を作ろうとしたのか、想定が可能です。
 4 整形工程
形割工程を経た未成品の側辺の稜を、
打ち欠くか、稜を「剣タガネ」などで力をかけて潰すように角に丸みを持たせます。
かつて石器製作で行われた方法の応用です。
 5 研磨工程
砥石に水を注ぎながら、表面を滑らかにする工程です。
砥石は形態から平砥石・筋砥石・内磨砥石などの種類があります。

段階を追って荒砥石・中砥石・仕上砥石などの種類があり、
前工程の研磨痕跡をより細かい粒子の砥石で研ぎおろします。
 6 穿孔工程
穿孔は一方穿孔と二方穿孔とがあります。
錐は弥生時代の終り頃に鉄製錐が普及しますが、それ以前はメノウやサヌカイトなどの石製錐が使用されました。
錐の先端は鋭く尖るのではなく平であったと考えられ、いずれも錐の回転と水晶の粉末などの研磨剤が併用されたと考えられます。
 7 仕上行程
玉の表面に残る研磨痕を取り去り、光沢を出します。
その方法としては松江市忌部町の忌部後原遺跡出土の木砥のような道具が用いられたと推定されます。
 8 完成した各種玉
完成した玉は孔に細い紐を通して連ねたり、吊るして身に着けられました。
古代の玉には、それそれ名称がありますが、当時からの呼び名ではありません。
いずれも形状から命名された便宜的なものです。
管玉・勾玉、切子玉棗玉臼玉、小玉、丸玉、粟玉

 43玉類製作工程の実際
  原石・荒割・形割・側面打烈
碧玉管玉
碧玉勾玉
瑪瑙勾玉
水晶切子玉
側面打烈・研磨・穿孔・仕上
碧玉管玉
碧玉勾玉
瑪瑙勾玉
水晶切子玉
研磨・穿孔・仕上
碧玉管玉
碧玉勾玉
瑪瑙勾玉
水晶切子玉
原石採取・荒割・形割・側面打裂・研磨・穿孔・仕上 形割・側面打裂・研磨・穿孔・仕上

 45筋砥石出土遺跡
筋砥石は玉製作専用の砥石です。現在まで出土地域が明らかなものは、
松江市大草町出雲国府跡出土砥石 
松江市玉湯町内出土砥石(玉作湯神社所有) 
松江市忌部町内出土砥石(忌部神社所有)
史跡出雲玉作遺跡出土砥石  などが知られています。

①と比較する②③④に関する砥石の出土点数は圧倒的に多いことが注目されます。(※出雲国府跡からの砥石出土は少なく生産量が少)

古墳時代後期、玉作遺跡は花仙山周辺に集中する傾向を示し、これが「出雲国風土記」に記された「忌部神戸※(地名:忌部郷と神戸郷又は忌部の神戸)」とされていますが、それを裏付ける数値といえます。

筋砥石出土遺跡 筋砥石出土遺跡
上に記述
筋砥石 平砥石
玉作遺跡(宮垣地区)
管玉未成品
碧玉管玉未成品

玉作遺跡(宮垣地区)
管玉未成品
出雲玉作跡
宮垣地区
壁菊管玉未成品 研(と)クソ
下に記述
玉研磨により磨り減った砥石と玉粉の混ざった物

普通は流してしまうものを乾燥して糞状にしているのは、これをさらに研磨に使うからなのだろうか。

 研クソ 出雲玉作跡 71CⅡ工房出土
玉の研磨は、少量の水を加えながら、砥石の上面で玉をすり下ろすようにして行います。両者の接触により玉も砥石もすり減って
細かな粉末(研クソ)が水に混じって生じます。この液が「研ぎ汁」と呼ばれるものです。

展示中の研クソは、その研ぎ汁が乾燥したものです。長時間玉を研磨し続けた玉作の人々の努力が窺える資料です。

 

 50結晶片岩
出雲では弥生時代から玉材の分割時に刻みを入れる道具(石鋸)として、古墳時代には勾玉の内湾下部分を磨く砥石としても用いられています。
白雲母・緑泥岩・黒雲母等薄板状の鉱物を多く含み、それらが平衡の配列となっていることから、節理に沿って薄板状に割れやすい性質を持っています。
結晶片岩は、紅簾片岩こうれんへんがん)・石英片緑泥片岩などの種類があります。
これらは山陰では産出せず、日本列島の一部を縦断する三波川変性帯四国~和歌山県、北関東の一部)に限定され、その産出地と古代忌部氏が設定した「忌部神戸」の位置と重なることは大きな意味があると考えられます。

古代出雲では、その出土地が玉作遺跡に断定してよいほど玉の細部研磨の作業に欠かすことができないものです。おそらく三波川変性帯のいずれかの地から搬入されたものです。

日本各地に領地を持つ忌部氏は、このような玉関連の産出地を押さえていて、玉材産地出雲と、玉砥石徳島を領地としている。


 考察 玉生産の微細加工と、結晶片岩の入手
玉生産における、子持ち勾玉などの微細加工に結晶片岩が不可欠です。
それを忌部氏が入手を可能にしたということは、忌部氏の支配地や交易範囲が、結晶片岩の産地があったということです。

上記説明文には、入手先が、どこか、とされていますが、ネットを開いてみれば、一目瞭然。徳島県です。
徳島県には忌部氏の支配地があり、忌部神社という聖地までありますから、ここで採掘し加工して花仙山まで運んだのでしょう。

一方、徳島県でも玉生産が行われており、忌部氏が支配するところは、玉生産と深い繋がりがあるところです。

 51
結晶片岩 結晶片岩
上に記述
内磨砥石

内磨砥石
玉作遺跡(宮ノ上地区)

筋状剥片により玉に微細加工を行う

磨砥石
玉作遺跡(宮垣地区)

内磨砥石(結晶片岩)

水晶原石(松江市)
国庁跡

碧玉 花仙山産
白瑪瑙 花仙山産

白瑪瑙 花仙山産

碧玉 花仙山産

 53列島各地の玉材料

石川県小松市
ツバイ谷産「碧玉

石川県加賀市片山津遺跡緑色凝灰岩
鳥取県羽合町長瀬高浜遺跡「緑色凝灰岩

奈良県橿原市曽我遺跡
碧玉
新潟県佐渡産「碧玉

石川県小松市宇谷川産
碧玉

新潟県糸魚川産「翡翠

新潟県佐渡島産
「鉄石英(赤玉石)」

千葉県銚子市産「琥珀」
岩手県久慈市産「琥珀」
 
 60花仙山周辺の玉作り
 61
 波止・平床玉作遺跡 玉湯町
  玉湯を挟んで史跡公園と相対し、類似した地形をなしている。各種の玉類未成品や砥石が出土しているが、量的には少ない。

 根尾玉作遺跡 玉湯町
  旧拝志郷に属する。根尾谷の中ほど、宍道湖を正面に見る台地上に立地し、出雲国玉作では最西端の遺跡である。

 玉作湯神社周辺玉作遺跡(玉湯町、国指定史跡)
  玉作湯神社は式内社で、大名牟遅命成の神々と共に、櫛明玉命をも祭る古社である。境内及び周辺から各種玉類未成品や砥石が出土している。

 別所谷、玉の宮玉作遺跡 (玉湯町、国指定史跡)
  玉湯川の支流大連川の狭い谷あいに位置する。各種玉類未成品の他にガラス溶解るつぼやガラス片が多数出土し、注目される。

 忌部中島・後原玉作遺跡 (松江市)
  遺跡の立地は玉湯町の諸遺跡と類似する。工房跡1棟が発掘され、各種の玉類未成品、石製模造品が出土している。
  他に石釧の未成品(亀甲状石)が採集され、注目されている。

波止・平床玉作遺跡
玉湯町
根尾玉作遺跡
玉湯町
玉作湯神社周辺玉作遺跡(玉湯町、国指定史跡)
別所谷、玉の宮玉作遺跡
(玉湯町、国指定史跡)
忌部中島・後原玉作遺跡
(松江市)
玉造川の谷 忌部川の谷

 65玉の原石
玉作りには材料となる石材の確保が重要でした。縄文時代の大珠や、弥生時代以降の勾玉の材料には新潟県糸魚川産のヒスイが珍重されました。

出雲の玉作りでは、弥生時代には緑色凝灰岩、古墳時代には花仙山で採れる碧玉・瑪瑙・水晶が主に使われました。
また、石材の理化学的な分析により、その石材がどこで採られたものかを推定する研究も進められています。


 出雲ブランドの原郷・花仙山
松江市玉湯町にある標高約200mのなだらかな山。約1500万年前前にマグマの噴出によって碧玉やメノウが形成された。
「出雲国風土記」には「玉作山」として登場する。


 碧玉の原産地
現在、日本列島における碧玉産地は、日本海沿岸部を中心に11か所が明らかになっている。
このうち、玉の材料として使用されるのは、猿八(佐渡)菩提・那谷(小松市)玉谷(兵庫県日高町)、花仙山(島根県松江市)の4か所に限られる。


 花仙山産の碧玉の流通
石材の理化学的な分析により、花仙山産碧玉製の玉類が全国に流通していることが明らかになりつつある。
また、玉の材料としても西日本各地の玉作遺跡に運ばれている。

玉の原石 碧玉の原産地 花仙山産の碧玉の流通
石川・小樽・八戸
関東
岡山・四国・畿内・中京
九州

日本海航路が八戸まで行っていた。アイヌ交易とつながるか。
 
 70舞錐
 71算盤製作用舞錐
古代の玉作の作業の中でも、孔はどのような方法で開けたのかは未だに明らかになっていません。
そのヒントとなるのが、ここに示した算盤製作用の「舞錐」です。
「舞錐」は錐の軸の下方に弾み車を取り付け、軸と直交する腕木を上下させることで、錐を回転させる構造のものです。

腕木を上下させる速度により、錐の回転速度を調節することが出来る便利な工具として電動のボール盤が普及するまで広く使用されていました。
算盤玉や枠は硬質の木材が用いられ、作業は困難を極めました。
2点の舞錐は島根県仁多郡奥出雲町・玉算堂株式会社の協力を得て、複製しました。古代の玉作の技術を追及する参考になれば幸いです。

舞錐 そろばん製作用舞錐の複製品 舞錐 舞錐

 72花仙山産の碧玉・瑪瑙・水晶製勾玉
北陸地方の玉作りが最盛期を迎えた古墳時代前期前半、出雲はついに独創的で刺激的な勾玉を作り、独自ブランドを誕生させました。
管玉だけの材料だった碧玉を勾玉にも使用しただけでなく、赤いメノウや白く透き通った水晶という新たな石材を用いることで、どこの地域もつくらなかった勾玉を作り上げたのです。しかも、これらは鉄針によって片側から孔を開けているのも大きな特徴です。

出雲ブランドの勾玉は「勾玉=緑=ヒスイ」という、縄文時代以来の勾玉の概念を根底から覆すものであったに違いありません。

花仙山産の碧玉・瑪瑙・水晶製勾玉

上に記述
出雲で造られた古墳時代管玉のX線写真 ドリルの先端痕跡が残る切子玉

下に記述
鉄製ドリルが折れ残った

 ドリルの先端痕跡が残る切子玉
町内の布志名狐廻遺跡から出土した、穿孔途中の切子玉内部の痕跡からすると、ドリルの先端は意外にも鋭く尖らずやや丸みを持っていることが確認できます。


 73林43号墳出土水晶製管玉
林43号墳は約50基で構成される、当地最大の古墳群中の一基です。6世紀中ごろに築かれた九州系の横穴式石室で、昭和60年に調査が行われ、多くの玉が出土しました。このことから被葬者は当地の玉作の統括に関わる人物と想像されます。水晶は透明であることから、穿孔に関わる観察が可能です。

林43号墳出土水晶製管玉 玉の穿孔技術模式図

 74片面から孔を開ける出雲玉作の技
古墳時代前期から中期にかけて、両面から孔を開けるのが各地の玉作りの方法でした。
古墳時代後半、片面から孔を開ける方法が出雲の玉作遺跡の特徴として注目されます。

一方から孔を開けた証拠として、「へそ石」が出雲の玉作遺跡から出土します。
仮に出雲以外の玉作遺跡からこの「へそ石」が見つかれば、出雲の工人が関わっていると考えられます。

片面から孔を開ける出雲玉作の技 片面から穴を開ける
出雲玉作の技

上に記述
実験用舞錐で開けた孔
鉄製錐

史跡出雲玉作跡
宮垣地区出土
大和も注目した
出雲の玉作技術
大和王権が出雲の玉作に着目した理由は、

玉材資源の確保、
硬質玉材加工の技術、
更に穿孔技術の熟練度

にあると考えられています。

 75鉄製錐 宮垣地区出土鉄製錐
鉄製錐
宮垣地区出土鉄製錐
 76穿孔方法
手動錐による穿孔方法 「玉の宮跡」出土石英 色・質ともに玉材に不向きと判断され、研磨剤として使用された可能性あり。
 77たたき法
 ヤと小槌(矢と小づち)
たたき法で孔をあけるための工具。近代のある時期に使用された。
二階展示室「出雲の瑪瑙細工」のコーナー参照。古代の玉作での確実な使用例は不明。

たたき法

たたき法で用いる工具
叩き法でかどを取っていたそうです。 舞錐コーナー
 


 80蛇喰遺跡 島根県八束郡玉湯町蛇喰(じゃばみ) 島根県八束郡玉湯町玉造237



 古代
 
 81律令時代における玉の色々 奈良~平安時代


鎮壇具、碁石、装飾品、数珠玉、装身具、観賞用として利用されていたようである。特に水晶は諸経典に説く七宝の一つとされ、重用視されていたようである。仏具に使用されている勾玉は前代からの伝承品である可能性が高い。

ヘラ書き須恵器
503点のヘラ書き文字の須恵器が出土した
刻書土器
桐家・林・白田原
有・畠のヘラ書き
律令時代における玉の色々(奈良~平安)
上に記述
円面硯・水滴
 82律令時代における玉の色々
律令時代における玉の色々
平玉未成品
(碧玉・けつ岩)

管玉未成品 碧玉
勾玉未成品 瑪瑙

平玉未成品 水晶
円面硯・水滴 筋砥石
 

 100六反田遺跡出土資料  松江市玉湯町林村 本郷

 宿木と常緑の神秘
「あしびきの山の木ぬれのホヨとりて、かざしつらくは千年ほぐとぞ」
〔深い山の老木の枝に寄生して繁る、ホヨを挿頭にしたのは、千年の命を祝うからである〕
  天平勝宝二年正月二日 於国庁給饗諸司等宴歌一首

右の歌は、大伴家持が越中の守であった天平勝宝2年(750)正月、郡司を国庁に招いて酒宴を開き、その席で詠んだ一首です。この時、家持はホヨの枝を山奥から採ってきて髪飾りとしています。ホヨと呼ばれていた「宿り木」は、常緑であること、決して枯れた親木には寄生しないことも大きな特徴です。

家持が歌を詠んだ正月、ホヨは親木が落葉しても青々とした枝葉を茂らせていたに違いありません。彼らも年の初めに際し、その呪力にあやかりたいと願ったのでしょうか。

縁起の良いものとされた結果「榊・松・竹」などの常緑植物は現在も伝統的な行事に使用され続けています。
古代の人々が青や緑の玉材を採用するのも、常緑植物に求めたと同じ意識の繁栄とみることが出来ます。

※宿り木は、鳥モチノキとして知っていました。子供の頃、冬に山に行ってこれをとってきて自然のガムだともらったこともあります。
 山でこれを噛んで、実のついた枝に塗り付けると粘着力で鳥が捕獲できるということでした。
 一度、友達とやったことがありますが、大量のトリモチを噛んで、忘れずにパトロールすることが出来ずに尻切れとんぼでした。

 青色と玉の色
古代の玉には、碧玉(アオメノウ)や翡翠に見られるように青色を示すものが多く見られます。当時、青色は緑色も包括するものでした。

多くの玉が青色であるのも、青は若々しい生命色、魂の溜まるものとしての信仰が、やがてお守りとしての役割を果たすようになったと考えられます。
現在の私どもが正月の松飾りや玉串に表現される青に神の憑代として、特別の意味を見出すその伝統を受け継いでいるからと考えられます。

宿木と常緑の神秘
上に記述
六反田遺跡出土資料 碧玉 青色と玉の色
上に記述

 110国指定史跡出雲玉作跡に尽力した人達


 120石釧の製作

 各地の玉作と分業の開始
出雲もかつては釧(腕輪)を生産していました。出雲では釧の生産を北陸に譲り、玉類の生産に専念するようになったと考えられます。


 亀甲状石と石釧
大正4年(1915)頃、松江市忌部町後原で碧玉製の亀の甲羅に似た石製品が見つかり、近くの忌部神社に奉納されました。

これは古墳時代前期の腕飾りの一種「石釧」の加工途中のものです。北陸ではこれと同様な未成品があって、石釧路を製作した遺跡が知られています。後原遺跡出土の亀甲状石は当地出雲玉作でも石釧路を製作していたことを示す重要な資料です。

当資料館では、島根半島産の緑色凝灰岩を用いてロクロによる加工実験を行いました。その時得られた刳貫円盤(くりぬきえんばん)には、
北陸の遺跡で見られるものと全く同じ回転痕跡が認められました。このことから石釧路の製作に横軸ロクロを使用した可能性が極めて高いと考えられます。


 石釧の製作
各地の玉作と分業の開始 石釧の製作 亀甲状石 亀甲状石と石釧
上に記述

➀亀甲状石をロクロの軸に固定する。
②ロクロ挽き作業

ドーナツ状石釧未成品
石釧未成品 刳貫円板
⑤石釧路完成



亀甲状石
松江市忌部神社

加賀市片山津遺跡
亀甲状石

緑色凝灰岩性亀甲状石
穴あけ途中段階
 
碧玉製石釧複製品
 片山津玉造遺跡  片山津遺跡 亀甲状石  加賀市 片山津遺跡 玉生産   北陸 玉 生産 石釧  石川県の主な玉出土遺跡 古代歴史文化協議会


 130出雲の玉作 忌部中島遺跡
出雲玉作関係年表
出雲の玉作遺跡 花仙山周辺の、玉生産遺跡が忌部川・玉湯川流域にあるのは、道路がなく、河川沿いの踏み分け道を交通路にしていたのでしょう。

この頃には国内には、旧石器・縄文時代以来のけものみち・踏み分け道しかなかったんですね。
忌部中島遺跡
第1工房出土
碧玉勾玉・赤瑪瑙勾玉
・水晶切子玉
各未成品
忌部中島遺跡
古代玉作の研究
忌部中島遺跡第1工房
内磨砥石

忌部中島遺跡
工作用穴出土
古墳時代中頃
 




 200二階展示室






 210本船木窯 近世の窯業 ミニ企画展

 211本船木遺跡
本船木窯跡調査の概要   本船木窯跡調査の概要
若山陶器製作所
 

作業室出土 
   
①作業室 作業室床面の排水用埋甕

埋甕内
埋甕
本船木の刻印あり
 212本船木窯跡
本船木窯跡 窯跡 窯図面 ③第1焼成室・第2焼成室 焼成室正面写真

作業室出土

第1焼成室

窯道具

陶片

ドンバリ煉瓦
(耐火煉瓦のこと)
耐火煉瓦について 高煉瓦


 215出雲の瑪瑙細工

 216出雲の瑪瑙細工
出雲の瑪瑙細工 箸未成品 大正 櫛未成品 大正 箸未成品 碧玉製 大正
羽織の紐 明治・大正 瑪瑙硯 現代 緒締 明治 御統玉(すみまるのたま)
現代
 217玉製品
印鑑未成品 大正 丸玉 昭和初期
勾玉未成品 大正
瑪瑙細工装飾品 大正
笄(こうがい)未成品 大正
笄 昭和
ボタン未成品
赤瑪瑙・碧玉・水晶
 


 230花仙山瑪瑙と周辺の地質

 231花仙山周辺の地質形成
花仙山瑪瑙と周辺の地質 瑪瑙露頭 地質年代表及び地層表 第四紀(沖積・洪積)
0~200万年前
新第三紀(鮮新世・中新世)200万~3400万年 古第三紀・中生代
それ以前
2400万年前以前

 232宍道湖南岸の地質形成

 宍道湖南岸の化石
第三期中新世の地層中には、多かれ少なかれ貝類や有孔虫などの化石を含む。なかでも中新世後期に堆積した来待層(きまち)、布志名層(ふじな)は化石の産出層として知られている。
 ※来待層(きまちそう):松江市宍道町来待~玉湯町林付近にかけ て広く分布する凝灰質砂岩
 ※布志名層(ふじな): 大森層の砂岩が上位に向け細かくなり泥岩になった地層。宍道湖南岸の国道9号線に沿って東西に細長く分布しています。全体的に貝化石が多産します。
  ハハハ。なんのこっちゃわからんがな。分からんものの説明に、わからんものを持ってきたら、もっとわからんがな。

来待層からはサメ、クジラ、シカ、それに最近発見された珍獣パレオパラドキシアなどの脊椎動物が主に見つかっている。
布志名層は50種近い貝類が中心で、ウニ、カニ、サメなど、いたるところから多量の化石が見つかる

 来待層と布志名層
両者とも宍道湖南岸に帯状に分布する。
大森層を不整合の関係で覆う海成堆積層。両者合わせて700m以上の厚さを持ち、北に10°傾く。
来待層は凝灰岩質砂岩で、来待石として石材に使われる。
布志名層は来待層に引き続き堆積した砂質泥岩である。

宍道湖南岸の化石 来待層と布志名層 来待層 来待層
布志名層

 233布志名層・来待層の分布
玉湯~来待間の地質
 
 
 

 235宍道湖周辺の地形地質と変遷
 出雲地方周辺の地質  中海・宍道湖周辺地域地質概略図  出雲地方周辺の地質  国引き神話の地学 宍道湖南岸の地質  中海・宍道湖

 236出雲平野と宍道湖の生い立ち 引用出雲平野と宍道湖斐伊川

2万~5,000年前
➀約2万年前(旧石器時代・氷河期)、この一帯は陸となっており、松江市街地の東側に分水嶺があり、ここから西へ古宍道川が流れ、斐伊川・神戸川を合わせて、日本海へと注 いでいました。松江市東方からは意宇川が東方へ流下し、飯梨川を合わせ美保湾へ注いでいたようです。

③約7,000年前(縄文時代早期)には海面が上昇し、西から古宍道湾が、東からは古中海湾が入り込み、 松江市街東方の分水嶺付近にわずかに陸が残り島根 半島へと続いていたようです。

④約5,000年前(縄文時代前期末)になると、海面がやや下がり、西側の神門水海(かんどのみずうみ)と呼ばれる入り江と東側の古中海湾の間に古宍道湖が出現しました。この時、古宍道湖の水は古中海湾へと注ぐようになったようです。このようにして宍道湖の原型が完成したのです。
  2,400~100年前
 
⑤その後,湖や入り江は大きさや環境を変化させながら現在の地形へと近づいてきました。

⑦江戸時代に至り、神戸川を合わせて西方の日本海へ注いでいた斐伊川の流れが東に変わり,宍道湖へ流入するよう になりました。この結果,宍道湖の西側に斐伊川の三角州が成長し、

⑧明治の初めにはほぼ現在のような宍道湖ができあがってきたようです。
 237地形・地質
引用出雲地方周辺の地質

布志名層1160万年前

花崗岩3400万年前
引用中海・宍道湖周辺地域地質概略図

布志名層-泥岩・砂岩・礫岩
引用国引き神話の地学
中新世2300万-500万
花崗岩 白亜紀-第三紀
1億4500-6400万年前
花仙山位置図
 238
中海・宍道湖周辺の第四紀地質図
引用中海・宍道湖
島根半島周囲は急激に落ち込んでいる。
中海・宍道湖湖底の
地質断面
宍道湖・中海とも水深5m程
基盤岩上に1.1万mもの堆積層がある。
宍道湖の湖底地形分析 1635(寛永12)or1639(寛永16)
 出雲大洪水。それまで西流していた斐伊川が東流し
 宍道湖は淡水化した。

 中海ではこの頃までに弓ヶ浜さすが完成し、
 閉鎖的環境が出現した。
 

 240出雲玉作りの復活
出雲国玉作は、こふんじだい 前期から平安時代まで行われていたことが確かめられている。地頃が以後は全く消息を絶った。
しかし江戸時代末期に若狭国(福井県)から玉作の技術が移入され、古代玉作の里に再び瑪瑙細工の灯がともった。
以来現在に至り、玉湯町の特産品として種々の製品が盛んに作られている。ここでは鯛使用末期の攻玉法を紹介する。
 241
出雲玉作りの復活

上に記述
原石採集

花仙山には、原石採取のために縦横に掘られた「めのう穴」があちこちにある。竪穴は深いもので約10m横穴は更に奥深い。
石材切断

採取された原石は、「石引き鋸」によって筋を入れ「矢」と言われるノミをその筋に入れて打ち割る。
荒作り

適当な大きさに割られた石材の周辺を「剣ガネ」で「こぎ破り」大まかな形を作る。
穿孔

各種の玉の形に刳り抜いた木台に材料をはめ「孔アカシ矢」と言われる、先の平らなクギを揉みながら、小さな鉄槌で打って孔をあける。
一方より行う。
荒磨き
水を張った桶の中に鉄板を斜めに置き、水と伴に磨き砂を粗から細に順に使って磨く。勾玉には他に「星金ホシガネ」「鉄棒」を用いる。 仕上げ
砥石には荒砥・中砥・仕上砥の3種があり、これを順に使用し、最後に桐の木砥で 磨いて光沢を出す。
勾玉の腹部には細い桐の棒を用いた。

 242玉作りの工程

 加温用炉
瑪瑙は河口に先立ち、熱を加えると発色が良くなり、も加工もしや少なる。この炉中に生石灰と一緒に原石を入れ、その上に炭火を置き、一週間以上焼き上げる。ただし、碧玉(アオメノウ)は生のまま加工する。

加温用炉(石釜) 石釜
①原石採集
バチグワ 昭和初期
②石材切断
③荒作り
石引き鋸
③荒作り

タガネ・タガネ枕
④穿孔
剣タガネ・コギ板
孔アカシ矢・小鉄槌
⑤荒磨き
研磨材・つや出し材
手木
⑥仕上げ
砥石・木砥
 
 250布志名焼き製品 近世~現代
布志名のやきもの 布志名のやきもの
出雲東部の焼き物
紅茶セット
 260入口展示
瑪瑙原石
 

 300出雲玉作遺跡公園
この史跡は、古墳時代から平安時代にかけて約500年間、玉作りが盛んに行われていた遺跡の一つで、国の史跡「出雲玉作遺跡(宮垣地区)」と呼ばれています。
「玉」しお守りや宝物として古代人が身体につけていました。玉湯町内には30ケ所以上の玉作跡が確認されていて、古代には日本最大の玉生産地でした。盛んになった理由は玉の材料となる碧玉(青瑪瑙)が玉造温泉のすぐ東側にあたる花仙山周辺で最初できたためと考えられています。


出雲玉作資料館を出てすぐ下の駐車場から

道路を挟んですぐ真ん前にあります。

広い敷地が公園となっていますが、

家内工業的に作られた玉は生産量が低く、
ために、30ケ所もの制作工房が必要でした。 古墳時代以前は、縄文人が鏃などに使っていました。