|
北海道の縄文 №25 2022.06.11-2
東京大学実習施設
ところ埋蔵文化財センター 北海道北見市常呂町栄浦376
0152-54-3167 月・祝日の翌日休館 撮影可
近隣観光地 |
・知床観光、網走周辺、阿寒・屈斜路・摩周湖周辺 ・知床や三湖(阿寒~摩周)、網走・サロマ湖などは隣接の絶景Point。 拠点を決めて、車で巡ります。特に、早朝の摩周湖は絶景で、
摩周湖YHはとても便利な宿でした。 |
近隣博物館 |
知床周辺・網走周辺・白滝周辺 |
宿泊情報 |
知床・サロマ湖・三湖周辺は高額(3万)、網走には手頃もあり(5千)。 私の場合摩周湖ユースホステルが最高でした。易くて清潔親切。便利。
2023年以降日本中のホテル料金が倍以上高騰し、もうこの値段はないかもね。 |
|
|
|
|
|
目次
|
01外観・内観
10オホーツク人の竪穴住居
20オホーツク人の墓
21幼児の墓
23成人男性の墓
30常呂遺跡と竪穴群
311国指定史跡「常呂遺跡」と竪穴群
322竪穴住居と竪穴住居跡
333竪穴住居の発掘(1)
344竪穴住居の発掘(2)
355竪穴住居の発掘(3)
366竪穴住居ができるまで
|
40常呂遺跡ジオラマ
50模型 ところ遺跡の森
60常呂遺跡の森
63土器と石器
70擦文の村出土遺物
80発掘資料の整理
90完形で出土した土器
100発掘資料の整理
103道具類
153ところ遺跡の森 |
200収蔵庫
201丸木舟
210縄文時代
220早期
230前期前葉
231前期末
240中期後半~後期初頭
250後期
260晩期後半
300常呂川河口遺跡発掘調査模型
|
400続縄文時代
402続縄文前期前葉
403続縄文前期末~中期前葉
404続縄文中期中葉
405続縄文中期末葉
406後期初頭
420擦文時代
※研究 北大式土器
500オホーツク文化
600擦文時代 |
|
|
00 |
01外観・内観
|
10オホーツク人の竪穴住居
常呂河口遺跡・15号竪穴 オホーツク文化期(8~9世紀)
|
発掘成果をもとに縮尺1/10で建物を復元した模型です。
白樺樹皮を使った屋根、
「コ」の字形に粘土を敷いた土間、
中央の石組炉、
住居奥のヒグマの頭骨を集めた骨塚、
土器の置かれた場所などは、実際の発掘成果を元にしています。
また、この住居の発掘で発見されなかった部分については他の事例をもとに推定復元しています。(実際には異なっていた可能性もあります)。
太い柱は、複数の丸太を束ねて立てていますが、これはトコロチャシ跡遺跡7号竪穴の柱を参考にしています。
はしごと屋根の出入り口は、樺太アイヌの竪穴住居を参考にして、雪の多い季節に備えた出入り口をつけたものです。 |
オホーツク住居模型 |
【復元模型】オホーツク人の竪穴住居 |
白樺葺き、土掛け。 |
|
|
|
骨塚 |
|
炊事とベッド |
板張りベッド |
個別の仕切り |
割り木の土止め
住居内を巡るベッド |
炊事をする |
外側の造り |
|
母と子 |
漁撈に出かけた後の室内 |
|
|
20オホーツク人の墓 |
21幼児の墓
|
発掘されたオホーツク人の墓
栄浦第二遺跡、ピット78/オホーツク文化 8~9世紀頃
※ピット(pit)は「穴」のことです。発掘で見つかった。穴にピット○○と番号をつけて呼んでいます。(ピット=土壙墓)
発掘されたときの状態を再現した実物大の模型です。
墓の上には大きな石が7個並べられていました。墓に埋められていた人の骨はほぼ残っておらず、歯の一部だけ残っていました。
この歯を元にして4~6歳くらいの子供の墓だったと推定されています。
小さな土器は顔にかぶせて置かれたもので、西に頭が来るように寝かされていました。(※頭の向きは各地で異なる)
また、鉄製の斧と折り曲げられた短刀(実物は「ところ遺跡の館」で展示中)が一緒に埋められていました。
貴重な鉄製品を持たされていることから、この墓は有力者の子供のものだったとする説もあります。
※基本的にオホーツク人は骨角器・石器文化。骨鏃・骨銛+石鏃など。 |
発掘されたオホーツク人の墓
周囲に列石 |
発掘されたオホーツク人の墓 栄浦第二遺跡ピット78オホーツク文化8-9c
|
被甕・曲げた短刀・石斧 |
甕を被せた墓
|
|
|
|
※被甕葬は、成人だけでなく、幼児の墓にも行なわれた。
幼児の墓にも石斧と鉄製刀剣を副葬した。 |
|
23成人男性の墓 資料「オホーツク人と死」
|
発掘されたオホーツク人の墓
栄浦第二遺跡ピット30/オホーツク文化 8~9世紀頃
発掘されたときの状態を再現した実物大の模型です。
墓に埋められていた人は頭が西側に来るように寝かされていました。
ひっくり返して置かれた土器は、オホーツク人の墓でよく見られるもので、顔にかぶせて置かれたものです。
(右橈骨、左尺骨)や脚(左大腿骨)など、一部の骨は形のわかる状態で残っており、手足を折り曲げた「屈葬」の状態で埋められていたことがわかります。
骨からは、成人男性の墓だったことが推定されています。
鉄製の刀子が一緒に埋められていました。
※網走市常呂では被甕屈葬。網走市モヨロでは被甕伸展葬。何が違うんだろう。 |
発掘されたオホーツク人の墓 栄浦第二遺跡ピット30オホーツク文化8-9c |
屈葬 |
大腿骨が残っていたか |
|
|
|
30常呂遺跡と竪穴群
|
311国指定史跡「常呂遺跡」と竪穴群
|
1国指定史跡「常呂遺跡」
北見市のオホーツク海沿岸部にあたる常呂地域には多数の遺跡が残されています。
中でも特に保存状態の良好な遺跡が国の史跡に指定されています。
史跡は4つの区域に分かれて広がっていますが、その全体をまとめて「常呂遺跡」と呼んでいます。中でも一番西側にあたるのがここ、「ところ遺跡の森」です。
2「常呂遺跡」の竪穴群
「常呂遺跡」では、大昔の人が住んだ竪穴住居の跡が、今でも地表からわかる「凹み」の状態で残っています。
竪穴住居は、地面に大きな「竪穴」を掘って建てる半地下式の家です。
この建物が約2700基、今でも埋まりきらずに残されています。
3「常呂遺跡」の特徴
竪穴遺跡をよく見ると、様々な形のものがあることがわかります。
竪穴住居は、時代や文化により異なった形のものが作られました。
常呂遺跡には、数千年にわたって、人々が暮らした結果、様々な時代・文化の竪穴住居が残されています。 |
|
1国指定史跡
常呂遺跡と竪穴群
|
|
常呂地域の遺跡分布 |
同一反復 |
常呂地域の遺跡名 |
1国指定史跡 常呂遺跡
2常呂遺跡の対穴郡
|
3常呂遺跡の特徴 |
|
|
|
|
各文化期の住居型式
|
縄文時代
約4500年前
ところ遺跡の森 |
オホーツク文化期
約1100年前
常呂川河口遺跡
|
擦文時代
約900年前
ところ遺跡の森
|
|
322竪穴住居と竪穴住居跡
|
竪穴住居は地面に掘った大きな穴(竪穴)を床・壁とし、その上を屋根で覆った作りの住居のことです。
床・壁が地中に入った半地下式の住居になっています。 |
竪穴住居断面 |
・地中に掘り込んだ竪穴が床・壁になります。
・掘った土で竪穴の周囲に土手を作っていました。 |
|
「くぼみ」で残る竪穴住居の断面
|
「くぼみ」は竪穴住居の竪穴がそのまま残ったものです。
・竪穴の中には住居の屋根や柱の残骸が炭になって残っていることがあります。
・竪穴住居の床・壁が半分埋まった状態。
・柱を建てた柱穴 |
|
333竪穴住居の発掘(1)
|
「くぼみ」が竪穴住居跡である事は実際に発掘で確かめられています。
「くぼみ」は地に掘られた竪穴が半ば土で埋まった状態になっています。
発掘では土の色や質を確かめながら、後からかぶさった土の層だけを取り除いて、元の館穴を掘り出すことが必要になります。
1地表の草を刈り取る
地表の障害物を取り除くと「くぼみ」になって残る竪穴住居跡が現れます。
2表土を掘る
表土(地表の黒い土)を掘ります。あとで土の層の境目を確認するため、十字形に堀り残しておきます。 |
竪穴住居の発掘 |
地表の障害物を取り除く
|
表土を掘る |
|
344竪穴住居の発掘(2)
|
地面を掘っていくと、通常は地表に黒い土の層があり、その下に赤土(ローム)の層があることがわかります。多くの場合、竪穴住居はこの赤土の層まで掘り込んで作られています。
3床面に向かて掘り下げる
竪穴の底部に見えている黒い部分は、床面の上を覆う炭の混じった土です。
4壁を掘り出す
竪穴は赤土の中に掘られているため、赤土のところまで掘って壁面を出します。 |
竪穴住居の発掘2 |
床面に向けて掘り下げる
|
壁を掘り出す |
|
355竪穴住居の発掘(3)
|
床面近くまで掘り進むと、竪穴住居の上屋を作っていた木材やかつて住居の中で使われていた道具などが見つかります。それらを取り上げ、床面まで掘り下げて発掘は完了となります。
5炭化材を掘り出す
竪穴住居の残骸が竪穴内に炭になって残っています。
屋根や壁に使われていた丸太材やや板材を丁寧に掘り出します。
6床面を掘り出す
炭化材を取り除き、赤土に掘り込まれた床面を出します。床面に掘られた、柱穴や、焚き火の跡が現れます。 |
竪穴住居の発掘3 |
炭化材を掘り出す |
燃えた住居跡 |
床面を掘り出す |
|
|
366竪穴住居ができるまで
|
くぼみで残る竪穴住居がどのようにしてできたのか、発掘地用差の製菓をもとに再現してみよう。 |
竪穴住居ができるまで
|
|
1竪穴住居を建てるまで
|
1竪穴住居を建てるまで
➀竪穴住居を建てる前。地表の黒土の下には赤土の層があります。
②竪穴を掘る。掘った土を周りに盛って、土手を作ります。
③竪穴の上に柱を立て、屋根を汲み上げて竪穴住居を建てます。 |
2竪穴住居がなくなった後
|
2竪穴住居がなくなった後
➀竪穴内に住居の残骸があります。竪穴の周りの土地が崩れ、竪穴内にも流れ込みます。
②腐植土などが積もり竪穴が埋まります。積もる土の量が少ないと、竪穴の場所はくぼんで残ります。
③火山灰が降るなど、土が多く積もる場所では、竪穴は完全に埋まってしまいます。 |
|
|
40常呂遺跡ジオラマ
|
41常呂遺跡の時期 縄文早期後半~アイヌ文化期 (約8500~約300年前)
|
北海道では、本州以南とは異なる時代区分が用いられています。
その中で常呂遺跡では約8500年前の縄文時代早期後半から約300年前のアイヌ文化期まで様々な時代の人の生活の跡が発見されています。 |
北海道の時代区分と常呂遺跡の時期
北海道の時代区分と
常呂遺跡の時期 |
|
旧石器時代 |
紀元前 12000 年頃、北海道最古の土器 |
|
縄文時代 |
紀元前 7000年頃、 北海道でも 土器や竪穴住居が 増え始める |
|
続縄文時代 |
紀元前400年頃、 東北地方まで 稲作が広まるが、 北海道では狩猟・ 採集の暮らしが続く |
|
オホーツク文化期 |
紀元 400~500年、 オホーツク人が北海道に入ってくる |
|
擦文時代 |
紀元700年頃、 擦文土器が 作られるように なる |
|
アイヌ文化期 |
紀元1200~1300年頃、北海道で竪穴住居や攘文土器が 使われなくなる |
|
|
オホーツク地域を代表する大規模竪穴住居群
史跡常呂遺跡
常呂遺跡は、北見市のオホーツク海岸に広がる広大な遺跡で、現在でも地表からわかる状態で、竪穴住居址が残されています。
この模型は遺跡の主要部分にある竪穴住居跡を示したものです。
密集して住居跡がありますが、これらは同時にあったわけではなく、数千年にわたって残されたものの集まりです。 |
|
43ジオラマ概観
|
栄浦第一遺跡 TK-66 遺跡
栄浦第二遺跡
常呂竪穴群 |
|
|
|
|
|
ピンボケ |
|
|
|
|
|
45ジオラマ詳細
このジオラマ製作の目的は、自校(東大)の学生に遺跡全体を把握させるためのものと思われます。
従って、学生への説明時にはもっと違った使われ方がされるのだと思われます。
|
|
50「ところ遺跡の森」
|
51 模型 ところ遺跡の森 ジオラマ
|
ここ「ところ遺跡の森」は、広大な国指定史跡「常呂遺跡」の一部を見学のために整備した施設です。
森の中には、縄文、続縄文、擦文の各時代の遺跡があり、多数の竪穴住居跡が現在でも地表からわかる状態で残っています。その一部は実際に竪穴住居が建っていた位置に建物を復元しています。
また「ところ埋蔵文化財センター」(現在地)「常呂遺跡の館」と、東京大学ところ、実習施設の関連施設など、考古学資料の展示・収蔵施設、研究施設も設置されています。 |
|
60 |
61ところ遺跡の森・「縄文の村」・「続縄文の村」 出土遺物
|
「縄文の村」「続縄文の村」では、主として
縄文時代中期(約4500年前)、
続縄文時代の半ば頃(約2000~1600年前)の竪穴住居跡や遺物が見つかっています。
竪穴住居跡は、円形・楕円形で土器や石が多数出土しています。 |
|
|
|
写真 6号竪穴住居跡(左)と出土土器(右) |
6号竪穴住居跡 |
6号竪穴出土土器 |
|
63土器と石器(続縄文時代)
|
|
宇津内Ⅱb式土器
続縄文(1~2c)
6号竪穴住居跡出土 |
宇津内Ⅱb式土器
続縄文(1~2c)
6号竪穴住居跡出土
|
|
後北C2・D式土器
続縄文(3~4c)
7号竪穴住居跡出土
|
|
|
参照
ところ遺跡の森ガイドブック |
|
|
|
|
|
70 |
71ところ遺跡の森「擦文の村」出土遺物
|
「擦文の村」は、11~12世紀頃、擦文時代後半の集落遺跡です。
この時代の竪穴住居とは正方形をしているのが特徴です。
土器は「擦文土器」と呼ばれるもので、調理用の甕と、配膳用の坏、高坏(脚のある坏)とがありました。 |
|
|
写真
擦文時代
3号竪穴住居跡(左)と
出土土器(右)
|
3号竪穴住居跡 |
出土土器
|
|
73擦文土器
|
以下の展示は、東京大学の研修施設としての、研修のための展示です。
|
80発掘資料の整理・復元・記録・保存(1)
|
90完形で出土した土器
|
常呂川河口遺跡出土 ◆続縄文時代後半 3~4世紀頃
遺跡から発見される土器の中には、奇跡的に壊れず残っていたものもあります。
ここに展示した土器は、いくらかヒビが入っているものの、ほぼ当時の形を保っています。 2つとも続縄文時代の墓穴に埋められていたものです。 |
|
100 |
101発掘資料の整理・復元・記録・保存(2)
|
火災に遭った竪穴住居の屋根材
栄浦第二遺跡45号竪穴住居跡出土 ◆擦文時代後半 12世紀頃
竪穴住居の屋根部分は通常は残りませんが、火災で焼け残り炭になったものが見つかることがあります。
失われた屋根の作りや材料を推定するための資料となるものです。
この住居の屋根では、樹皮の上に葦の茎が重なっていました。木材の骨組みの上を樹皮で覆い、その上を葦で葺いていたことがわかります。樹皮の上には屋根材を固定したと考えられる、繊維を撚った紐の断片も残っています。 |
|
|
火災に遭った竪穴住居の屋根材料
|
下の方 ヨシ |
|
屋根葺きの構造
(上)束ねた葦葺き
(中)白樺樹皮葺き
(下)木材骨組み |
|
103道具類 ◆オホーツク文化期 8~9世紀
|
骨角器 |
骨角器
栄浦第二遺跡出土 ◆オホーツク文化期 8~9世紀
動物の骨や角・歯を素材にした道具です。もろくなった表面を固める薬を塗って壊れるのを防いでいます。 |
鉄製品 ◆オホーツク文化期 8~9世紀
鉄製品 |
|
鉄製品
栄浦第二遺跡出土 ◆オホーツク文化期 8~9世紀
鉄製の刀子ですが、全体が錆びた状態で出土をしました。表面
○○で○○、脱酸素剤を入れて密封してあります。 |
木製品 ◆アイヌ文化期 18世紀初頭以前
|
木製品
常呂川河口遺跡出土 ◆アイヌ文化期 18世紀初頭以前
地下水につかった状態で発見されましたが、水分が抜けると変形してしまうため樹脂を染み込ませて処理してあります。 |
|
153遺跡の森
|
常呂遺跡の森、見所案内
~復元住居と村の遺跡~
「ところ遺跡の森」には、様々な時代の竪穴住居跡が残っています。竪穴住居は、地面を大きく掘り下げて、床と壁を作り、その上に屋根をかぶせて建てられた半地下式の家です。その床と壁を作っていた大きな穴の跡が今でも残っているのです。
時代によって、住居の形や作りが違い、それは住居跡の形にも表れています。建物を再現した復元住居と合わせて、各時代の遺跡と住居の変化を探ってみましょう。 |
|
常呂遺跡の森 見所案内
|
縄文から続縄文時代の竪穴住居跡
約5000~2000年前
円形・楕円形の浅いくぼみみとなって残っている。 |
擦文時代の竪穴住居跡(11~12世紀頃)
ほぼ正方形。時代が新しいため、穴の形も明瞭な状態で残っている。 |
続縄文時代の復元竪穴住居(約2000年前)
約2000年前の竪穴住居の建物を復元したもの。 |
擦文時代の復元竪穴住居(11~12世紀) 11~12世紀頃の建物を復元したものです。
カマドなどこれ以前の時代の住居にない設備を備えています。 |
|
縄文から続縄文時代の竪穴住居跡 約5000~2000年前
円形・楕円形の浅いくぼみみとなって残っています。 |
|
擦文時代の次竪穴住居跡(11~12世紀頃) ほぼ正方形。時代が新しいため、穴の形も明瞭な状態で残っている。 |
|
続縄文時代の復元竪穴住居
約2000年前の竪穴住居の建物を復元したものです。 |
|
擦文時代の復元竪穴住居
11~12世紀頃の建物を復元したものです。
カマドなどこれ以前の時代の住居にない設備を備えています。 |
|
|
|
200収蔵庫
|
201丸木舟
北海道アイヌの
丸木舟 |
|
昭和18年製作
20年でここまで傷む |
|
|
はじめに
収蔵庫内は入口付近だけの照明で、奥の方は点灯してもらえませんでした。
最初に「ところ遺跡の館」に行きましたが、そこの職員(東大の職員)が私が行く先々に来て、このような(妨害的)手配をし、
次に行く「東京大学陳列館」の職員は呼び戻して、 そちらでは全く照明がない状態での撮影となりました。
私が片っ端から撮影しているのが気に入らなかったのでしょうか。
光の無いところの遺物はほぼ真っ黒に写っており、それをパソコンで色を復元しています。 見にくいですが仕方ありません。 さすがT大ですね。 |
|
210縄文時代 (約14,000~2,400年前)
|
常呂で最も古い遺跡は、2万年以上前のものとされていますが、人口が増え、安定して人々が暮らすようになったのは、約5000年前頃からです。当時から豊かな海産資源が利用されており、貝塚なども残されています。 |
|
220早期 東釧路Ⅲ式 約7000年前 薄手平底土器、縄文を施文、早期終わり頃に道内に広く分布した。、
|
縄文文化(早期―約7,000年前)
東釧路Ⅲ式土器
この頃の道南西部は尖底土器、道東部は平底土器の文化であった。
土器の表面には絡縄文、羽状縄文、〇縄文を施すものが多く、この土
器には羽状縄文が見られる。 |
縄文時代 |
東釧路Ⅲ式 |
東釧路Ⅲ式土器
約7000年前
|
|
東釧路Ⅲ式土器説明
上に記述 |
|
|
230前期前葉 綱文式土器 約6000年前 常呂川河口遺跡
太目縄文 尖底土器 繊維混入土器(尖底・繊維土器は東北の影響を受けた道南系の土器)
綱文式土器 |
|
綱文式
太い縄目。
胎土に繊維を含む。 |
|
231前期末 平底押型文
約4300年前 前期末~中期初頭 円筒平底形(平底土器は道東系の土器)
北見市 前期末から中期前半の土器参照
|
240中期後半~後期初頭 北筒式土器 約4000年前
|
250後期 約3000年前
栗沢式土器
後期末
約3000年前
|
|
|
堂林式土器 縄文後期末葉
斜行・羽状の縄文を地文として、平行沈線文、弧線文、渦巻文、曲線文、磨消縄文、突瘤文などが組み合わさり、精製・粗製の二種類がある。精製土器には貼瘤文が付されるものもある。 引用札幌市図書館デジタルアーカイブ
縄文後期末葉の深鉢、鉢などの口縁に内側から細い棒で直角に突刺して表面に小さな瘤をつくる粗製土器(突瘤文土器)と、
沈線文や磨消縄文が発達した壺や浅鉢などの精製土器が組合わさって出土し、堂林式土器と名付けられた。コトバンク堂林遺跡 |
|
260晩期後半 約2000年前
幣舞式土器
丸底の器形である。深鉢形・浅鉢形・舟形など多様な器形がある。
文様は、口縁部に横方向にめぐる縄線文や沈線文が特徴である。
幣舞式土器
晩期 約2000年前 |
深鉢形
|
|
|
|
|
|
舟形
晩期土器
約2500年前
|
|
浅鉢形
晩期土器
約2500年前
|
|
|
|
|
300常呂川河口遺跡発掘調査模型
|
常呂川河口遺跡は常呂川河口から直線距離で700mほど上流地域にあります。標高4~5mの低地帯にある遺跡で、これまでに
縄文文化期
前期(約6000年前)
前期末(約5000年前)
中期(約4000年前)
後期(約3000年前)
晩期(約2000年前)
続縄文文化期 (約1800~1500年前)
オホーツク文化期(約1100年前)
擦文文化期(約1000年前)
の竪穴住居やお墓で構成される集落跡です。
昭和63年から発掘調査が続けられ、これまでに 竪穴住居180軒、
お墓などが、1400基発見されています。
この模型は、擦文・縄文文化の発掘風景を表したものです。住居内の柱穴、カマドを調査し、平面図の作成など測量を行っている様子です。 |
|
発掘調査風景 (常呂川河口遺跡
遺跡の発掘調査には様々な方法がありますが、写真はグリッド調査法と称するものです。
この調査は、発掘調査地域に4×4mの方眼を設定し、これを基準に掘り進めるものです。
土手(畔)は、竪穴住居内に入り込んだ土砂の堆積や複数の住居が絡んだ際の新旧関係を明らかにするためのものです。
写真右下は、土手を残して住居内部を掘り下げており、左上は出てを取り除き、住居の全容明らかにしているところです。 |
|
常呂川河口遺跡発掘調査模型
|
|
|
|
|
|
|
グリッド調査 |
発掘調査風景 |
|
|
|
|
400続縄文時代 紀元前4世紀~紀元6世紀頃
|
本州で弥生時代が始まり、稲作が広まった後も、北海道では狩猟・採集中心の文化が続いていました。
常呂川河口遺跡は、この縄文時代の文化を代表する、道内でも有数の規模を誇る重要な遺跡です。 |
|
|
←縄文時代のコハク玉
(常呂川河口遺跡) |
|
|
402続縄文前期前葉
|
403続縄文前期末~中期前葉
|
404続縄文中期中葉 宇津内Ⅱb式土器 続縄文 約1700年前
|
405続縄文中期末葉
後北C1式
約1700年前 |
後北C1式
約1700年前 |
後北C1・D式
約1600年前
|
後北C1・D式
約1600年前 |
後北C1式
約1700年前 |
|
|
続縄文文化
(約1700年前)
後北C1式土器 |
|
|
|
|
|
406後期初頭
後北C2・D式
約1600年前 |
|
後北C2・D式
約1600年前
|
後北C2・D式
約1600年前
|
後北C2・D式
約1600年前
|
|
舟形土器 |
|
|
|
|
|
|
|
420擦文時代 (7~13世紀)(1400~800年前)(飛鳥・奈良・平安時代)
北大式土器 約1300年前
続縄文終末期
擦文文化初期
約1300年前
北大式土器 |
|
|
|
|
|
※研究 北大式土器
|
➀北大式土器は続縄文時代終末期(5~7c)の土器である。従って、上出の北大式は続縄文・擦文の境界時期の土器である。
7世紀に東北北部の古墳人が北海道石狩平野南部に移住して始まった擦文文化が、最果ての常呂地域に波及するまでにはまだ時間があり、
この地では続縄文終末期が続いていたと言えます。
②引用「特集「北大式」」埋蔵文化財調査室ニュースレター 北海道大学 第11 2011年3月
「北大式土器」 続縄文期
北大式土器とは、紀元5世紀から7世紀にかけて、北海道から東北地方北部にかけて、時期によっ ては分布圏を多少伸縮させながらも広がっていた土器型式です。
「土器型式」とは、ある時期・地域 に特徴的に認められる土器のまとまりのことです。 そうした土器型式の設定にあたっては、該当す る資料がまとまってはじめて確認された遺跡名をとってその名称が付けられます。
北大式土器は、 最初に北大構内から発見されたものを示準資料として設定されたために、この名称が付けられました。
また大学名が土器型式の名称に用いられることは全国的にも (おそらく世界的にも) 例がないことです。
北大式土器は、時間的には、古墳文化の中期から後期に併行します。この時期、東北地方の中部 まで、前方後円墳に象徴される 「古墳文化の政治圏」が伸張してきていました。その中で、それら
の地域の人々と活発な交易活動を展開し、接触を頻繁に繰り返しながらも、依然として異質な文化 伝統を維持し続けようとした人々が主に残したのが北大式土器です。
古代の文献史料などで 「蝦夷(えみし)」 と呼ばれた人々とも関連性 があるのではないかと考えられています。 東北日本の古代史を考えるうえで、
北大式土器は非常に大きな意味を持っていることがわかるでしょう。 |
|
|
500オホーツク文化、紀元6世紀~9世紀頃
|
続縄文時代末から擦文時代の頃、オホーツク海沿岸には、北から異民族が渡来し、独自の文化を築いていました。常呂地域では、このオホーツク文化の遺跡も発見されています。この文化は、アイヌ文化の形成にも影響与えたと考えられています。 |
|
オホーツク文化 |
オホーツク文化
6c~9c
|
ラッコ彫像 |
|
|
オホーツク土器
|
|
600擦文時代 紀元7世紀~13世紀頃
|
本州からの影響を受けて文化が変化した時代で、縄文のある土器にかわって「擦文土器」と呼ばれる土器が作られるようになりました。この時代の文化が後のアイヌ文化に直接つながっていきます。
常呂遺跡では、この時代に作られた竪穴住居の跡が千数百基も見つかっています。 |
擦文時代 |
|
擦文土器
約1000年前
|
擦文土器
約1000年前
|
|
|
擦文土器
約1000年前 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|