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  中部地方の縄文2 06  2017.11.23-01

 長野県立歴史館 長野県千曲市屋代260-6 026-274-2000 月・祝日の翌日休館 撮影可

  常設展信濃の風土と人々の暮らし」(2)


 交通 しなの鉄道屋代駅から徒歩25分(2.1km)
・しなの鉄道屋代駅に有料レンタサイクル(1時間500円!(-_-;)!歩いて行ける)
・レンタカー
 
 見所 ・大量の展示物です。
・隣には森将軍塚古墳とその展示館もあります。(古墳までマイクロで無料送迎あり)
・博物館外には復元住居もあります。



400古墳時代

410古墳時代 前期
411ムラの生活

412炉からカマドへ
420前期土器
421炉を使っていた頃の土器

中期土器
422カマドが登場した頃の土器
 資料 カマド

440馬と科野の武人
441古墳文化と馬
443長野市松原1号墳

450中期
451甲冑

460朝鮮半島からの文化 後期
465合掌形石室 

471朝鮮半島と信濃の文化
473金製王冠
479柿木洞1号墳

500古代

501都と信濃 東山道
501a律令政治の始まり
502古代の信濃国
502a都と信濃 国印と貨幣
503条里と水田
504水田の跡を掘る
505水田と農具の変化

510農業用木製品
520木製農具の使い方
 古代農耕具に関わる資料

資料
522木製農具に関わる資料

531条里制水田


550平安時代

560平安時代の村の暮らし
561富裕農民の世界
563富裕農民の登場
564墨書土器
565下神遺跡出土品

570吉田川西遺跡
575墓に副葬された品々

580領主の登場
582平安時代初めの食器
583鍛冶の遺物

600中世・鎌倉時代

601鎌倉時代
602鎌倉時代の善光寺門前
604善光寺と中世の祈り

607善光寺
608鎌倉時代の善光寺
610善光寺の門前市

交通と流通
615中馬と地場産業の発達
616銭を使う人々

650戦国時代
 合戦図と武士の世界


700近世・近代

710江戸時代
 城と城下町
711大名の婚礼調度品
713農家
 庶民生活の高まり
715信州文化と民衆意識
 人形浄瑠璃
 近世の興業

750近現代

751長野県の誕生
753お蚕さま
755世界に繋がる養蚕

770大正時代以降

771信州の自由民権と大正デモクラシー
772戦前の観光信州
774第2次世界大戦
777暮らしの変化
 



 200常設展 (2)










 400古墳時代







  古墳に葬られた人々
    4世紀頃、農業が生み出した富を手にした有力者が、人々の上に立った。彼らの力は、古墳に示されている。
    5世紀の有力者は、武人として近畿地方の有力者に結びつき、朝鮮半島との交流もおこなった。




  410古墳時代 前期


  411ムラの生活
    大和の王権が「クニ」づくりを進めるにつれて、西からの土器の移入が盛んになった。また、カマドが登場し台所の原型が出来上がった。
    米の調理法も「煮る」に加えて「強飯」等の「蒸す」調理が可能となった。




  412炉からカマドへ
    炉は縄文時代から、家の中での食べ物の調理に、明り取りに、寒さをしのぐための暖をとるものとして使われてきた。
    5世紀になるとカマドが朝鮮半島から伝わり、科野にも急速に広まっていった。

    科野では壁に作りつけられたカマドが用いられ、家の構造や土器の形にも大きな影響を与えた。
    このカマドは奈良・平安時代にも引き継がれ、電気やガスが普及する最近まで各家庭で広く使われていた。

炉からカマドへ カマドの急速な普及 昭和のカマド 竪穴住居内のカマド カマドの使い方 炉からカマドへ
縄文時代の炉長野市篠ノ井遺跡群 古墳時代のカマド
篠ノ井遺跡群
大きなかまどで釜が5つもかけられた進歩型
カマドが急速に普及した理由については何も触れられていない。

室内でたき火をすると室内は煙で充満し、何もかもが煤だらけになる。
排煙装置である煙突があると、室内に漏れる煙は大変少ない。

生活がしやすいカマドはこのような理由で急速に普及した。
しかし、飛騨高山の合掌造りでは、合掌屋根を燻す必要があり、家中を常に煙で充満させる。

全ての木造建築では、煙による防虫が必要である。カマド設置以降でも、漏れる煙がそれをしたのかもしれない。
ただ、これでは、衣類も、家電製品も何もかも煤だらけ、ヤニだらけになる。

現代生活で維持するのは大変なことである。


  420前期土器


  421炉を使っていた頃の土器 古墳時代前期~中期 (4世紀~5世紀 ) 長野市篠ノ井遺跡

   掘り込みの浅い炉で煮炊きがしやすいように、球形の鍋 (甕) が使われました。壺や高坏など全ての土器が赤焼きの軟らかい土師器でした。

  土師器 古墳時代前期 (4世紀) 長野市篠ノ井遺跡群


焦げが残る土器
高坏 小型壺と器台
小型壺

 炉の中に五徳を立てていて、その上に甕や壺を置いたので、中・小形のものが多い。
 

  中期土器



  422カマドが登場した頃の土器 古墳時代中期~後期 (5c~7c) 長野市篠ノ井遺跡

    5世紀の中頃、調理用のカマドが登場すると、蒸気 (甑) や鍋 (甕) は次第に細長い形に変わりました。
    食べ物を盛り付ける坏が増え、専用の窯で焼かれた須恵器も使われるようになりました。

   カマドの部材の土器
    7世紀初頭頃に一部の集落で、特別な竪穴住居のカマドに用いられた土製品です。カマド内部の筑炉材や煙突に使用されました。

カマドが登場した頃の
土器
カマドが登場した頃の土器 須恵器/中期 カマドの部材の土器 カマドの部材の土製品
古墳時代後期/7世紀
長野市榎田遺跡

高坏・皿

甑・坏・長頸壷

把手付甑・長胴甕

 資料
  カマドの釜穴には釜輪と呼ばれる鋳物の輪がはめられ、その縁の上に釜をひっかけて納め、中空に浮かして焚口から燃やした炎が、
  釜の底面全体に当るようにする。

  釜輪がないと、釜穴の縁が崩れ落ちるので、釜穴と同じ大きさの甕をカマド内に落とし込み、お湯を沸かす鑵子かんす)とし、その蒸気を利用する
  当然、カマドの底に着くには、細長い甕となる。その蒸気発生装置の上に、蒸し器としての 甑 (こしき) を置いて、蒸し調理をした。

  甑についている牛角把手は、鉄釜では、丸い輪っかとなって残っている。(超現代の羽釜には付いてない。これはきっと一人釜めし用の超小型だ)

 





  440馬と科野の武人 古墳時代中期




    科野の人々と馬の結びつきは、古墳時代中期に始まる。広大な原野を抱えた科野は全国有数の馬産地となり、ヤマト政権に駿馬を供給した。
    馬産を通じて成長した地域の有力者は、甲冑に身を包み、ヤマト政権を支える騎馬軍団を率いた。

  441古墳文化と馬
    科野に馬がもたらされた当時、下伊那地方は古墳時代有数の馬産地だった。6世紀後半になると、政変の続く大和政権の求めに応じ、
    馬産は県内各地に広まった。それと共に、馬具は装飾豊かなものから、実用的なものへと変化した。

馬と科野の武人
古墳文化と馬
馬具副葬古墳の
都道府県別分布
長野・群馬・静岡の馬産地を支配する豪族の、生産者としての馬具の所有と、
福岡の交易主の多い富裕層地域では、消費としての馬の所有

あったと思われる。
畿内より多い。
古墳への馬具の副葬はいかに裕福であったか、どれほど半島と関係があったか。

出自が半島の王族との支族であったりとか、、、
県内の馬具出土古墳 北部 南部 伊那谷 金銅製馬具の分布状態の推移 下伊那では、急速に金銅製馬具が減少する。

中心地が他地域に移動し、衰退していったと思われる


  443長野市松原1号墳出土品 古墳後期 7世紀 大室古墳群の支群

      大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 内堀1号墳 大室25号墳

  1991(平成3)年に上信越自動車道のトンネル入口部にて県埋文センターにより発掘調査された後期円墳である。
 金井山山麓の西側急斜面、標高360 m付近に位置し、調査区外にもう1 基存在するらしい。

 急斜面のため、墳丘盛土と横穴式石室の天井石と羨道部を流失していた。山側斜面を切土して平坦面を造成し、直径約13 mの外護列石を配置している。
 列石は2 重で、さらに石室につながる内廻り石列が構築されている。現存する石室玄室の規模は全長3.9 m、最大幅2 mでやや胴張り傾向である。
 床面は拳大の角礫を敷いてあり、下部には石組みの排水溝が設置されている。

 石室床面から金環・銀環・勾玉・管玉・ガラス小玉・直刀・轡・鉄鏃などの遺物とともに7 体分の人骨も発見された。
 墳丘裾部からは須恵器の大甕、土師器の高杯が出土しており、7 世紀前半の築造時期が推定されている。


  松原1号古墳 出土品

金銅装大刀
銀装大刀

馬具
鞖金具(しおでかなぐ)
轡(くつわ)

勾玉

耳環・ガラス小玉

切小玉
大室25号墳/後期7c
 


  450中期

 古墳出現期3世紀半ば~ 前期3世紀後半~ 中期5世紀初頭~ 後期6世紀前半~7世紀

  451甲冑
冑かぶと
飯田市妙前大塚遺跡
冑/古墳中期飯田市妙前大塚古墳
頭上の鉢やつばの先には金銅の板がつき、光り輝いていた。
甲/古墳中期
飯田市鎧塚遺跡
甲よろい
剣道で使用する胴ような丈の短い甲。横長の鉄板を鋲で留めて作られている。
復元装束
 


  460朝鮮半島からの文化 後期 5世紀以降

    5世紀以降、硬い灰色の須恵器、鉄、織物、馬、カマドなどを、朝鮮半島からの人々が伝えた。
    信濃では、石で築く積石塚古墳や、合掌形石室が、彼らの故郷の風俗習慣を物語っている。
  461
朝鮮半島からの文化
青銅の碗
仏具の碗で、仏教伝来以後の古墳と仏教の関係を知る上で貴重なものである。

銀の耳飾り
飯田市畦地1号墳

刀の柄頭
茅野市釜石古墳

馬具 飾り金具
長野市大星山2号古墳


  465合掌形石室 大室225号墳

    長野市松代の大室にはおよそ500の古墳がある。225号墳は、板石を屋根のように組み合わせた合掌形石室 (長2.22m幅1.38m) の周りに
    石を積み上げた円墳 (高1.24m) である。百済から移り住んできた人の墓だろうか。5世紀の終わり頃に築かれた。

合掌形石室 大室225号墳 合掌形石室の位置 合掌形石室の復元



  471朝鮮半島と信濃の文化



青銅板を唐草模様に切り抜いて金メッキ。6世紀の百済製
武寧王陵

5世紀代に新羅でつくられた金製の冠。
古墳に葬られた有力者の権力の大きさを物語る

皇南洞98号古墳
くつわ
くつわ
百済で作られた馬の口に噛ませる金具。手綱を付けて馬を乗りこなす。

清州新鳳洞8号土壙墓
朝鮮半島と信濃の
古墳文化 
ハソウ
ハソウ
液体を注ぐ土器
胴部の穴に竹筒を差し込み液体を注ぐ。二重になった胴部の外側に透かしが入っている。
丸子町鳥羽山洞窟
馬の墓 馬の墓 
馬の骨と共に、馬具が出土。馬具を供えた古墳の中で、長野県は全国の約20%を占める
飯田市新井原古墳群
カマド
 カマド
5世紀後半になると、竪穴住居の壁にカマドが作られる。手前から薪をくべて煮炊きし、煙は煙突で屋外へ出した。
長野市榎田遺跡
  473金製王冠
カップ形須恵器
古墳中期5世紀
千曲市城ノ内遺跡
須恵器
朝鮮半島から伝来した窯により、高い温度で硬く焼かれた土器。朝鮮半島の陶質土器に形が似ている。

古墳時代中期5世紀
松本市桜ヶ丘古墳

銅板に金メッキをした天冠と呼ばれる冠である。
朝鮮半島に見られる波形の文様で縁どられている。

カップ形陶質土器
日本の須恵器作りに影響を与えた朝鮮半島の土器。

窯で高温で焼かれ、質感や色が須恵器とよく似ている。
カップ形陶質土器
 
古墳中期(5c) 韓国道渓洞古墳
  477鳥・帯金具
鳥形飾り金具/後期
安曇野市有明古墳群
奈良県藤ノ木古墳出土の冠にも、同じ鳥形の飾り金具がついている。 獅子文の帯金具

大韓民国宗山里2号墳
獅子文の帯金具
獅子文の帯金具
有力者が腰に占めたベルトについていた飾り金具

古墳中期
須坂市鎧塚2号墳
 


  479柿木洞1号墳 (韓国)

   百済では、6世紀頃、合掌石室を持つ古墳が発達した。これはその代表例 (R=20m) 埋葬石室 (長275m幅1.25m) 、通路 (長1.60m) が付いた
   横穴式石室に盛り土をした円墳である。

柿木洞1号墳/韓国 屋根形天井を持つ石室
合掌石室/6世紀韓国/柿木洞1号墳
3分の1模型
本場の物は住居を模した石室構造になっているようですが、
長野の物は知識か、材料か、技術か、権力かが足りず、本来構想したものが何かわからない
 





 500古代





 500奈良時代


 501都と信濃
   7世紀頃法律を拠り所とする律令政治が始まった。全国は60以上の国々からなり、国の下に郡が置かれた。
   信濃は10郡に分かれ、人々はそれまでより都を意識した暮らしを送るようになった。

  東山道を結ぶ
   信濃を通る官道には、畿内と東国を結ぶ東山道と、筑摩(つかま)郡内で東山道から分かれ、越後国で北陸道と結ぶ支道があった。
   これらの道は人や物と共に政治や文化が伝わる道であった。

都と信濃
都と信濃
東山道をむすぶ


 501a律令政治の始まり

   7世紀後半以降、畿内 (今の奈良県、大阪府、京都府辺りの地域) には、大規模な都が築かれた。
   政治の組織も整えられ、都には太政官のもとに、八省などの役所がおかれた。
   地方の国々は七道によって畿内と結ばれ、それぞれ国司が郡司を率いて政治を行った。

律令制の始まり 都の移り変わり 中央政治の仕組み 律令政治の始まり



 502古代の信濃国

  信濃国の政治の中心である国府や、仏教の中心である国分寺・国分尼寺は、小県郡に置かれた。このうち、国府は平安時代に筑摩郡に移った。
  東山道には役人が利用する馬や宿泊施設を備えた駅家が設けられた。また、有数の馬の産地であった信濃各地には朝廷の牧が設けられ、
  優れた馬を産出した。


 万葉集 防人の歌
 神坂峠からみた美濃 (岐阜県) の景観

  信濃と美濃の国境にある御坂 (現:神坂峠) は東山道の大きな難所であった。ここを越える人々は峠の神様に幣 (ぬさ) をささげ旅の安全を祈った。
  万葉集巻きの二十には、御坂を越えて遠く、九州の守りに向かう信濃の防人が詠んだ歌が載せられている。

   ちはやぶる 神の御坂 (みさか) に 幣奉 (ぬさたてまつ) り 斎 (いは) ふ命は 母父 (おもちち) がため
     ~神人部子忍男 (みわひとべの こおしを) 「万葉集」巻20-4402

   神の御坂に 幣をたてまつり 命の無事を祈るのは 母と父のためです

古代の信濃国 神坂峠から見た美濃の景観 万葉集 防人の歌 古代の信濃国 信濃国の流通網
信濃国府
延喜式の御牧
駅屋
木簡と正倉院宝物にみる信濃の特産物 国分寺・国分尼寺の復元図


 502a都と信濃 国印と貨幣

信濃国印/奈良前期 信濃国印/奈良前期
公文書などに押す国司の印鑑。

政府が鋳造し国ごとに与えた。

この印の字体は8世紀前半のもの。
信濃国印/奈良中期

8世紀半ばに大和国印を最初として国印の改鋳が行われ、

信濃国印も新しい字体の印となった。
信濃の古代銭貨
和同開珎枝銭
飛鳥時代
大阪市細工谷遺跡
信濃の古代銭貨
和同開珎/佐久市柴宮
万年通宝/松本市下神
神功開寶/松本市下神
/奈良時代

隆平永寶/千曲市更埴条里遺跡
富壽神寶/塩尻市吉田川西遺跡
承和昌寶/長野市篠ノ井遺跡
平安時代


長年大寶
饒益神寶

長野市榎田遺跡
平安時代


貞観永寶
延喜通宝

長野市松原遺跡
平安時代

 和同開珎枝銭 飛鳥時代 大阪市細工谷遺跡
  鋳型に金属を流し込む湯口、鋳棹(いさお) (湯道)に3枚ずつの銭が並ぶ。銭の鋳造方法を具体的に示す資料。
 


  503条里と水田

    人々は自然を開発し、調和を保ちながら農業を営んできた。
    土地に刻まれている農業の歴史を、掘りだされた水田の跡から読み取ってみよう。

条里と水田


  504水田の跡を掘る 土層標本
   地面を掘り下げていくと、いくつもの層が重なった土の断面が現れる。盛り上がった畦と平らな水田の耕土、その上を覆い尽くす洪水の層もある。
   これらから開発の様子や環境の変化を読み取ることができる。

水田の跡を掘る 石川条里遺跡の
土層
古墳時代の層
1500~1600年前頃

弥生時代の層
1700~1800年前頃
水田の大畔
洪水の土砂の層
水田の小畔
平安時代の層
1100年前頃

古墳時代の層
鎌倉時代の層
700年前頃
平安時代
現代の地表面
江戸時代の層
350年前頃

鎌倉時代


  505水田と農具の変化
    遺跡には時代の違う水田の面がいくつも重なっている地点がある。その地面を上から順に剥がしていくことによって、
    畦・水路や農具の移り変わりが明らかになり、農業技術の発展の様子を知ることができる。

弥生時代

土地の傾斜や水の流路など自然の地形のまま水田が造られ、形がまちまちである。
古墳時代

一辺2m前後の小さな水田が数多く作られ、整備された用水路も現れる。
平安時代

大畔が東西方向に、小畔が南北方向に作られ条里制の景観が現れる。
鎌倉時代

この時代の水路や大畔は、現代の圃場整備まで受け継がれる。
田面には無数の足跡が見られる。
江戸時代

水田の一つ一つが鎌倉期よりやや大きめになり、田面には当時の稲株の跡名と背が見られる。
現代の川田条里遺跡
圃場整備や高速道などで地表の景観は大きく変わった。

  古代に作られた畔や水路は動かすことができず、現代までそのまま引き継がれた。
   現代の圃場整備によって新たな区画や水路に作りなおされ、初めて消えることになった。それほど、変更することはタブーであったのだ。

  510


  511農業用木製品

  512
田下駄古墳~奈良時代
長野市川田条里遺跡
ケンポナシ
柄ぶり古墳中期
長野市榎田遺跡
アサダ
横槌古墳時代中・後期
榎田遺跡/カエデ
えぶり
弥生中期
中野市七瀬遺跡
えぶり弥生中期
中野市七瀬遺跡
  513
直柄平鍬/弥生後期
長野市石川条里遺跡
クヌギ

・膝柄平鍬/弥生中期
中野市七瀬遺跡
一木平鍬/榎田遺跡中期/アサダ 直柄横鍬/榎田遺跡古墳中期/クヌギ 
  514
ナスビ型平鍬長野市榎田遺跡 ナスビ型又鍬
長野市石川条里遺跡
クヌギ

  520木製農具の使い方
  521
木製農具の使い方 木製品の使い方
・なすび型鍬―土を耕す
力任せに叩きつける

・二又鋤―足で踏み込んで土を掘る

・臼と杵―籾を摺(す)る

・エブリ()
 土を均(なら)す。種もみを蒔く前に泥田を均す。畑を均す。
木製農具の変遷図 ごめんなさい。
←の図はあまり分かりませんでした。

 古代農耕具に関わる資料

マント蛙のブログ 日本の産声「古代の農具の変遷 (木製農耕具の解説)
鍬の機能に関する基礎的研究 - 愛知県埋文 (木製農耕具の写真と解説)
福岡市埋蔵文化財センター:収蔵資料画像 第2弾 (木製農耕具の写真と解説)

  

 資料

 522木製農具に関わる資料  引用「古代農具の変遷」マント蛙のブログ 日本の産声

 (1)木製農耕具の使い方と種類

   鍬は柄をもって振り上げて打ち下ろし身の刃先を土に食い込ませて柄の基部を持ち上げて土を起し、
   鋤は身の刃先を押したり踏み込んだりして土に食い込ませて柄を手前に引いて土を起こす現代のスコップに相当します。

   刃先がフォーク状になった又鍬・又鋤と呼び、ふつうの刃先のものを平鍬・平鋤と区別していました。

   木鍬・木鋤:鍬と鋤の身の部分が、刃先まですべて木でできたもの。
   風呂鍬・風呂鋤:木製の鍬や鋤を台にして鉄の刃先をはめ込んだもの。身の全てが鉄でできた金鍬・金鋤が一般化するのは明治以降のことです。

木製農耕具

諸手鍬
直柄平鍬・直柄又鍬


膝柄平鍬・反柄平鍬
膝柄又鍬


一木鋤・組合せ鋤
堀り棒
弥生中期の平鍬の伝播
出雲から

北部九州・長門地域へ
吉備へ、
畿内・北陸地域へ
弥生後期~古墳前期のナスビ型鍬の伝播
吉備から
出雲へ、・機内へ
出雲から北陸へ
北部九州から上越へ


 (2)弥生農耕具の文化圏の形成と変遷

  弥生前期では農耕具は多くの地域で共通し地域差は極めて僅かでした。
  弥生中期になると様相は一変し地域型と呼ばれる直柄平鍬曲柄鍬が各地で成立し互いに影響を及ぼしながら地域圏を形成し始めます。

  特に、韓半島の影響を強く受けながらこれを堅持した九州北部と、中部瀬戸内山陰にみられる一定のまとまりと近畿北陸との関連は注目されます。

  弥生後期から古墳前期にかけて、農耕具の伝播の中心地が出雲吉備であることは、当時の政権の成立の原型であるかの幻想を抱かせます。


 (3)蓄力の農耕具
  中国や朝鮮半島の影響を受けて畜力耕具が導入されます。畜力耕具の代表が耕起に用いる犂(からすき)と代掻きに用いる馬鍬(まぐわ)でした。

  6世紀以降日本列島においては長い地割の水田が出現・普及し牛馬耕に適した水田形態になっていきます。

  唐犂は、7~8世紀の古代犂が20例ほど出土し、犂先にはU字形の鉄刃先をはめていたとされています。

  馬鍬は、6世紀後半以前に九州から東北まで分布しており、西日本を中心とする犂と対照的です。馬鍬の歯はカシなどの堅い木でできています。
       起源は江南にあって倭の五王のころ乗馬の風習にやや遅れて日本に導入されたという推定が有力です。

唐犂(からすき)

拝借田起こし | むかしから伝わる農具と稲作 | 食料 | くぼたのたんぼ
馬鍬(まんが)

拝借代掻き (しろかき) | 伝統農具と稲作 | 食料 | くぼたのたんぼ
 



  531条里制水田
    千曲市に残る水田跡では、約100m毎に設けられた平安時代の大きな区画が見つかり、それが後の時代の水田区画にもほぼ受け継がれている
    事が分かった。このような条里水田は県内各地にも残っていた。

   長野盆地の条理遺跡
    長野盆地の千曲川沿いの低地では、弥生時代から現代にいたるまで水田が営まれていた。近年この地域を通る高速道路工事に先駆けて
    発掘調査が行われ、石川条里遺跡川田条里遺跡などの大規模な水田遺跡の様子が明らかにされてきている。

条里水田
長野盆地の条里遺跡 条里の跡が残っていた
地域
条里の跡が残っていた
地域

 条里水田の畦
  条里制では、畦や用水路によって土地を碁盤の目のように区画する。
  更埴条里遺跡では、平安前期 (9c) の水田で、南北の大畔と約100m余りの間隔で交わっていることが確認された。

  この大畔は条里の坪に当たる基本的な区画と考えられ、中世以降の時代にも受け継がれていったが、1960年の圃場整備で地表から消えた。
発掘した水田遺構模型 条里水田の畦の遺構 条里水田の畦
  



 550平安時代




  560平安時代の村の暮らし
   多くの農民が貧しく暮らす一方で、豊かな農民が現れた。彼らは11~12世紀、武力を蓄えて領主へと成長する。
   古文書などではわからない彼らの暮らしの実態を発掘調査が明らかにしている。


  561富裕農民の世界
    松本市下神遺跡の大きな建物や倉・作業場などは、豊かな農民の姿を物語る。更に塩尻市吉田川西遺跡では高級な陶磁器や宴会用の
    大量の土器などが発見され、領主に成長しつつある有力者の姿が伺える。
  562
平安時代の村の暮らし 富裕農民の世界 大甕/須恵器平安前期/下神遺跡
掘立柱建物の中に3基埋められていた


  563富裕農民の登場
   松本市下神遺跡の水底復元図。9世紀の半ば頃の遺構図を参考に描いた。左上の掘立柱建物が有力者の住居で、周りに工房や倉庫、
   大きな竪穴建物などもあり、周辺の中小の農民を支配するようになった。

   下神遺跡からは「草茂」と墨書された土器が見つかっており、文献資料に見える「筑摩郡蘇我郷草茂庄」という荘園の中心に位置する遺跡です。

富裕農民の登場 富裕農民の登場 下神遺跡
下神遺跡の溝と建物跡
大型竪穴建物の跡
松本盆地の主な平安時代遺跡


  564墨書土器
   平安時代の9世紀に、富裕農民が村の有力者として登場する。富裕農民のいる村では祭りに際して、文字を墨で土師器や須恵器に書き、
   村としてのまとまりを示した。10世紀になり、新しい村の秩序ができると、墨書の意味は薄れ、墨書土器も消える。
  
墨書土器 墨書土器 長良私印
長良私印/ 平安前期
松本市三間川左岸遺跡
住居跡で出土した銅印「長良」の2字は、当時の有力者の人命と思われる。


  565下神遺跡出土品

/平安前期
古代役人の必需品は硯・墨・小刀。
腰帯/平安前期
律令役人の会期夕を示す帯金具は、地方有力者の権威の象徴となった。
書かれた文字
松本盆地では奈良自体から食器にムラを代表する文字・地名・自明が墨で書かれるようになった

爪・榛原・草茂
 


  570吉田川西遺跡
   食器は実用的なものであると同時に、身分によって使うことのできる食器が決まっていた。都の有力者は金属器や漆器を、
   国司級の中級貴族は緑釉・灰釉など釉薬のかかった陶器を用いた。

   庶民は共同墓地に葬られたが、村の有力者は、その身分に応じて墓に食器と共に葬られた。
   出土した漆器や緑釉陶器から、墓の主が地元で抜きんでた力を持つ人物であったことが想像される。
  571
吉田川西遺跡
瑞花双鳥八稜鏡
灰釉陶器
緑釉陶器
土壙墓 墓の作り方 墓から出土した食器
吉田川西遺跡の食器
  575墓に副葬された品々
墓に副葬された品々 緑釉陶器 重文
土師器

灰釉陶器


  580領主の登場
    11世紀頃の有力者の館跡から、朱墨の硯・大量の土器・馬具・鉄のやじり・緑釉陶器などが出土した。
    この事から、ここが税の徴収に携わり、武器を持ち、祭り事を行う領主の館であったことが彷彿される。
  581吉田川西遺跡 
領主の登場 領主の登場 貢納する人々 貢納を移査する人
朱墨の硯/パレット
宴会する人々
大量出土の食器
武装する人々
鍛冶の作業場
ふいごの羽口
吉田川西遺跡


  582平安時代初めの食器


松本盆地では、地元産土師器・須恵器を使用した。器の内側を黒く→
平安時代初期の食器
松本市下神遺跡
平安前期
仕上げた物なども見られる。
土師器 灰釉陶器 高坏/須恵器


  583鍛冶の遺物 吉田川西遺跡 平安時代後半 塩尻市
    
鉄鏃
吉田川西遺跡
塩尻市
平安時代後期
ふいごの羽口
竪杵/コナラ
竪杵/クヌギ
弥生後期/石川条里遺跡

一木又鍬/古墳前期
石川条里遺跡
クヌギ

膝柄/弥生後期
石川条里遺跡/カヤ

膝柄平鍬/古墳前期
石川条里
クヌギ
 




 600中世・鎌倉時代




  601鎌倉時代



  602鎌倉時代の善光寺門前
    鎌倉時代には、土地の開発が進んだ。しかし、災害・飢餓・伝染病が絶えなかった。善光寺門前の日時用生活と華やかな仏の世界。
    ここでは、現世と来世、地獄と極楽とが、隣り合っていた。

  603
鎌倉時代の善光寺門前


  604善光寺と中世の祈り
    善光寺の本尊は、子の世でもあの世でも人々を救うありがたい仏として、全国に知られた。
    仏たちの悟りの世界を描いた曼荼羅や、仏画・仏具をきらびやかに飾り立てた様子を目にして、人々は感激し、信仰を深めた。

  605
善光寺と中世の祈り
二河白道 二河白道図 善光寺式阿弥陀三尊像
  606
金銅三鈷杵
金銅五鈷杵
南北朝/大桑村/出雲社両端が三or五に分かれた金剛杵で、密教で修行者の菩提信を起こさせる法具。
・羯磨
・金銅五鈷鈴
長野市世尊院
鎌倉後期
羯磨
三鈷杵を十字に組んだ形をしており、大檀や敷き曼荼羅の四隅に置かれ、邪悪を防ぐ働きをする仏具。
金銅五鈷鈴
五鈷杵の一端に鈴をつけた法具で仏を呼び覚まし、万物を賢くさせる働きを持つと信じられた。
・鰐口/1445文安2年
・華鬘/室町時代/山形県熊野大社
・鉦鼓/延慶元1308/
中野市
鰐口信州〇光寺井福大明神

華鬘寺内を飾る荘厳具。戦国時代の善光寺もの。
鉦鼓一遍の踊念仏に欠かせない打楽器



  607善光寺



  608鎌倉時代の善光寺

    善光寺の寺域は、現在よりもかなり南にあった。南大門は現在の鐘鋳川付近にあり、北端はもとの湯福川(駒返り橋付近)間であり、
    築地によって囲まれていた。大門・西の門・東の門などの地名がその名残である。

    メイン展示は、南大門から裾花川(現在の八幡側及び昭和通り付近)までの門前を縮小して想定、実物大復元模型にしました。
    また、伽藍模型は、南大門から見える奥の仏堂などを復元した。

鎌倉時代の善光寺 鎌倉時代の善光寺 善光寺伽藍復元模型 「一遍上人絵伝」などの絵巻物にもとづいて当時の善光寺の様子を復元した。

  610善光寺の門前市
  611



鎌倉時代の仏師の工房
鎌倉時代の棚店 鎌倉時代の町屋在家
鎌倉時代の仏師の工房 鎌倉時代の寺庵


  交通と流通
   信濃の武士・寺院・神社は、日本各地や中国・朝鮮と交流し (交易)、沢山の品物や文化を取り入れた。
   寺社の門前や人の集まるところには市が立ち、商業が盛んになり交通も発達した。



  615中馬と地場産業の発達
   街道の宿場に置かれた問屋は、輸送を独占していた。これに対して信濃では、荷主から先送りまで直接農民が馬や牛で運ぶ仕事が盛んになり、
   中馬と呼ばれた。信濃各地の産業は、この中馬の活動と結びあって発達した。

   中馬と塩の道
   中馬の輸送によって、信濃の産物が江戸・名古屋など各地へ送られ、他方、大量の商品が入ってきた。中でも塩は、太平洋側と日本海側から
   川を船で遡り、中馬や牛に積まれて、信濃の隅々にまで届けられた。

中馬と地場産業の発達 中馬と地場産業の発達 中馬と塩の道

  616銭を使う人々
    今から700年前の鎌倉時代の終わり頃には、様々な取引の場面において中国から輸入された埋蔵銭や残された古文書によって、
    信濃の人々も当時の東アジアの国際通貨である中国銭を利用したことが分かる。

銭を使う人々 十貫文の銭さしを数える女御と高利貸 溝から銭を差し出す。
一遍上人絵伝

発掘された銭甕
中野市西条岩船遺跡
鎌倉・室町時代の物価 中世の木曽地方の物価の例 戦国時代の竹水別神社祭礼の費用 県内の大量出土銭密集地帯/5千枚以上
南信
全国の埋蔵銭の時期ごとの枚数 常滑焼の甕 宋銭・明銭 中国の宋や明の時代に作られた銭。中世の日本では銭は鋳造せず、日宋・日明貿易などを通じて大量に輸入され、広く国内に流通した。
 







 650戦国時代






   合戦図と武士の世界

    「自力の時代」と言われる武士の世は、地方から始まった。武士たちは開発した土地を根拠地に力を蓄えていった。
    合戦図や絵巻物などの資料は彼らの活躍ぶりや生活を今に伝えている。

合戦図と武士の世界
合戦図
 



 700近世・近代





  710江戸時代

  城と城下町
    大名は領地を治める拠点として城を作り、城の周りに武士とその暮らしを支える商人・職人の町を設けた。
    城下町は、江戸など全国各地と地元の村を結ぶ経済のかなめとして栄え、町並みは次第に拡大した。



  711大名の婚礼調度品 江戸後期

    大名家に輿入れした際、持参した婚礼道具。地は梨地で統一され、葵紋が散らされている。大名家の婚礼道具が残されている例は少なく、
    奥方の生活の一端を知る貴重な資料である。

城と城下町
婚礼調度品
江戸時代後期
料紙箱

小角赤・乱れ箱
黒棚
白綸子松竹梅疋田紋
小袖
白綸子松竹梅疋田紋
小袖
長野の古地図
正保国絵図


  713農家  (※この復元農家はかなり裕福である。)

   江戸時代には、武士・商人・職人は城下町に集められ、村に住む者は百姓身分とされた。街道が整備され、宿場には輸送を扱う問屋が置かれたが
   信濃国では、農民が馬や牛で運ぶ中馬輸送が盛んになった。信濃各地の産業は中馬によって発達した。

   江戸時代前期の茅葺中層の農家では、土間と土座で暮らし、糅飯や粉食を食べた。家族で耕作し夜なべ仕事に励んだ。
   農家のくらしは経済の発達につれて大きく変わり、麻から木綿、一日二食から三食へ、土座から板の間へと衣食住が向上した。

   庶民の文化や意識も高まり、、支配者の不法には訴えなどを繰り返した。時には一揆などで立ち向かうこともあった。


 庶民生活の高まり
  農家の暮らしは18世紀に大きく変わった。脳器用技術が進んで収穫が増し、商品作物の栽培や諸稼ぎも発達して収入を得、麻から木綿へ、
  一日二食から三食へなど、衣食住が向上し、村の社会生活も変わり始めた。



  715信州文化と民衆意識 人形浄瑠璃

農民の生活 農民一揆とその展開


  近世の興業
   近世後期、伊那地方を中心に人形芝居、歌舞伎、相撲の興行が行われた。相撲興業では雷電が活躍。祭日は村人の楽しみだった。
   博打に対する幕府の禁令をものともせず、博打打ちが横行した。
近世の興業 大田切人形とは 吉田金吾とは 天狗久とは 祭と人形芝居
 







 750近現代








  蚕糸王国長野県
   江戸時代から明治初めにかけて、外国との交流が始まると、長野県はいち早く器械製糸を取り入れた。
   繭・蚕種・生糸などの生産の近代化をはかった結果、日本一の養蚕王国になった。


  751長野県の誕生
     明治維新後、信濃国は、旧幕府領を引き継いだ伊那県と十四藩が分立する県藩時代となった。更に1871年の廃藩置県を経て飛騨国を含む
     筑摩県と東北信の長野県が成立。その後、1876年、長野県に筑摩県が合併して現在の長野県が誕生した。

世界に繋がる県民の
暮らし
蚕糸王国長野県 長野県の誕生 伊那県県域と諸藩領ほか
筑摩県絵図
筑摩県
筑摩県は1871明治4年
現在の長野県中南信と岐阜県飛騨地域を合併して作られ、1876明治9まで存在した。戸数11万5千戸、人口45万
県庁は松本城だった。
1876明治9年筑摩県は飛騨を分離し、長野県と合併した
筑摩県と長野県

  753お蚕さま
   蚕糸業には、蚕の蛾から卵を採る蚕種、蚕に桑を与えて眉を私有核する養蚕、繭から生糸を作る製糸がある。
   県民は、蚕を「おこさま」「おかいこさま」とよんで大切に扱ってきた。
江戸時代の養蚕 大正片倉製糸の外観
お蚕さま

江戸時代の養蚕
養蚕の発育順序 蚕が中で繭を作る
藁製品
取引の様子 糸繰り機などの資料


  755世界に繋がる養蚕
    長野県の蚕糸業は、小規模であったが、協業化によって飛躍的に発展した。小県蚕業学校の設立や製糸金融・倉庫業などもこれを支えた。
    信州の製糸家は海外にまで進出し、県民も視野を世界に広げた。

世界に繋がる蚕糸業 商標 シルクラベル 繭煮鍋 紡績工場外観
上州富岡製糸工場 工場内の様子 六工製糸場の図
明治11年1878
六工製糸場機械復元フランス製機械製糸機 糸取りの復元煮繭からささらで糸をとり、撚糸した。
 






 770大正時代






  771信州の自由民権と大正デモクラシー

     「国会を開き人民の代表を送ろう、政党を作ろう」という自由民権運動を、長野県民は全国に先駆けて繰り広げた。
     大正に入ると、デモクラシーの時代風潮を受けて、個人を尊重する運動が展開した。

教婦と工女の服装と
工女の食事
ご飯おかず一品味噌汁
ご飯味噌汁はおかわり可
大正期の小学校

  大正デモクラシーの運動は、信州では児童を主体とした教育運動として行われた。この辺りは「聖職の碑」新田次郎に詳しい。
  児童中心の教育は、文芸「白樺」の人道主義・理想主義に共鳴し、手本を写す図画をやめ、子どもの感動を表現する自由画が行われた。

  信州は、この頃から現代まで、教育の先進地域である。



  772戦前の観光信州

    大正末~昭和戦前にかけて、長野県でも横長の「鳥瞰図」を中心とした観光パンフレットが盛んに発行されました。
    これらは、戦前の観光の歴史を語る基地ような資料となっています。

長野県の温泉と名勝
昭和7年
長野電鉄沿線名所案内
昭和5年
大正から昭和にかけて、一般庶民の間でも観光旅行が盛んに行われ、長野県内でも全県に張り巡らされた鉄道網が、関東東海方面からの
来訪を容易にし、観光開発が進みました。
 この当時、盛んに印刷発行されていたのが、横長の鳥瞰図が付いた「観光パンフレット」です。
それらの製作時期は昭和初期から使用を12年頃までに集中しています。(以降省略)


  774第2次世界大戦

 様々な戦争体験
  アジア・太平洋戦争では、動員された兵士をはじめ、勤労動員、疎開者の受け入れ、生活の統制、空襲による被害など、
    長野県民も様々な形で戦争を体験した。

  歴史と資料 - 満蒙開拓平和記念館ページ  満蒙開拓移民 - Wikipedia  満蒙開拓団のトップは長野県 - 季節の変化 - Gooブログ

  満州移民送出における民衆動員の過程と背景 - 金沢大学学術情報 ...

  なぜ、長野県が満州移住民最大だったのでしょうか。世界恐慌に引き続く昭和恐慌によって、産業が大打撃を受けたからでしょうか。
  歴史家はそのあたりの情報を語らない。

様々な戦争体験 長野県は満州移民送出日本一
人口に占める市町村別満州移民の割合
満州国への入植地地図


  長野空襲 - Wikipedia  長野県の空襲被害データ - 都道府県別 被害データ - 空襲の記録 - 未来に ...

空襲に備える
電燈の傘
灯火管制時の室内電燈の覆い

  777暮らしの変化
    1980年代、日本の高度経済成長政策のもと、長野県の商工業は大きく発展し、生活も豊かになった。いっぽうでは、農山村の過疎化、
    都市の過密化、郊外の発生、環境破壊などの新しい社会問題が出てきた。

黒電話、ラジオ

電気あんか、電炬燵
ガラ製真空魔法瓶、
もっと古い足踏みミシン
手回し絞り式洗濯機

  779長野県立歴史館内から見える秋の山