|
||||||||||||
|
||||||||||||
200常設展 (2) |
||||||||||||
400古墳時代 古墳に葬られた人々 4世紀頃、農業が生み出した富を手にした有力者が、人々の上に立った。彼らの力は、古墳に示されている。 5世紀の有力者は、武人として近畿地方の有力者に結びつき、朝鮮半島との交流もおこなった。 |
||||||||||||
410古墳時代 前期 |
||||||||||||
411ムラの生活 大和の王権が「クニ」づくりを進めるにつれて、西からの土器の移入が盛んになった。また、カマドが登場し台所の原型が出来上がった。 米の調理法も「煮る」に加えて「強飯」等の「蒸す」調理が可能となった。 |
||||||||||||
412炉からカマドへ 炉は縄文時代から、家の中での食べ物の調理に、明り取りに、寒さをしのぐための暖をとるものとして使われてきた。 5世紀になるとカマドが朝鮮半島から伝わり、科野にも急速に広まっていった。 科野では壁に作りつけられたカマドが用いられ、家の構造や土器の形にも大きな影響を与えた。 このカマドは奈良・平安時代にも引き継がれ、電気やガスが普及する最近まで各家庭で広く使われていた。 |
||||||||||||
420前期土器 |
||||||||||||
421炉を使っていた頃の土器 古墳時代前期~中期 (4世紀~5世紀 ) 長野市篠ノ井遺跡 掘り込みの浅い炉で煮炊きがしやすいように、球形の鍋 (甕) が使われました。壺や高坏など全ての土器が赤焼きの軟らかい土師器でした。 土師器 古墳時代前期 (4世紀) 長野市篠ノ井遺跡群 |
||||||||||||
中期土器 |
||||||||||||
422カマドが登場した頃の土器 古墳時代中期~後期 (5c~7c) 長野市篠ノ井遺跡 5世紀の中頃、調理用のカマドが登場すると、蒸気 (甑) や鍋 (甕) は次第に細長い形に変わりました。 食べ物を盛り付ける坏が増え、専用の窯で焼かれた須恵器も使われるようになりました。 カマドの部材の土器 7世紀初頭頃に一部の集落で、特別な竪穴住居のカマドに用いられた土製品です。カマド内部の筑炉材や煙突に使用されました。
資料 カマドの釜穴には釜輪と呼ばれる鋳物の輪がはめられ、その縁の上に釜をひっかけて納め、中空に浮かして焚口から燃やした炎が、 釜の底面全体に当るようにする。 釜輪がないと、釜穴の縁が崩れ落ちるので、釜穴と同じ大きさの甕をカマド内に落とし込み、お湯を沸かす鑵子(かんす)とし、その蒸気を利用する 当然、カマドの底に着くには、細長い甕となる。その蒸気発生装置の上に、蒸し器としての 甑 (こしき) を置いて、蒸し調理をした。 甑についている牛角把手は、鉄釜では、丸い輪っかとなって残っている。(超現代の羽釜には付いてない。これはきっと一人釜めし用の超小型だ) |
||||||||||||
440馬と科野の武人 古墳時代中期 科野の人々と馬の結びつきは、古墳時代中期に始まる。広大な原野を抱えた科野は全国有数の馬産地となり、ヤマト政権に駿馬を供給した。 馬産を通じて成長した地域の有力者は、甲冑に身を包み、ヤマト政権を支える騎馬軍団を率いた。 |
||||||||||||
441古墳文化と馬 科野に馬がもたらされた当時、下伊那地方は古墳時代有数の馬産地だった。6世紀後半になると、政変の続く大和政権の求めに応じ、 馬産は県内各地に広まった。それと共に、馬具は装飾豊かなものから、実用的なものへと変化した。 |
||||||||||||
443長野市松原1号墳出土品 古墳後期 7世紀 大室古墳群の支群 大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 大室古墳群 内堀1号墳 大室25号墳 1991(平成3)年に上信越自動車道のトンネル入口部にて県埋文センターにより発掘調査された後期円墳である。 金井山山麓の西側急斜面、標高360 m付近に位置し、調査区外にもう1 基存在するらしい。 急斜面のため、墳丘盛土と横穴式石室の天井石と羨道部を流失していた。山側斜面を切土して平坦面を造成し、直径約13 mの外護列石を配置している。 列石は2 重で、さらに石室につながる内廻り石列が構築されている。現存する石室玄室の規模は全長3.9 m、最大幅2 mでやや胴張り傾向である。 床面は拳大の角礫を敷いてあり、下部には石組みの排水溝が設置されている。 石室床面から金環・銀環・勾玉・管玉・ガラス小玉・直刀・轡・鉄鏃などの遺物とともに7 体分の人骨も発見された。 墳丘裾部からは須恵器の大甕、土師器の高杯が出土しており、7 世紀前半の築造時期が推定されている。 松原1号古墳 出土品 |
||||||||||||
450中期 古墳出現期3世紀半ば~ 前期3世紀後半~ 中期5世紀初頭~ 後期6世紀前半~7世紀 |
||||||||||||
451甲冑 |
||||||||||||
460朝鮮半島からの文化 後期 5世紀以降 5世紀以降、硬い灰色の須恵器、鉄、織物、馬、カマドなどを、朝鮮半島からの人々が伝えた。 信濃では、石で築く積石塚古墳や、合掌形石室が、彼らの故郷の風俗習慣を物語っている。 |
||||||||||||
461
|
||||||||||||
465合掌形石室 大室225号墳 長野市松代の大室にはおよそ500の古墳がある。225号墳は、板石を屋根のように組み合わせた合掌形石室 (長2.22m幅1.38m) の周りに 石を積み上げた円墳 (高1.24m) である。百済から移り住んできた人の墓だろうか。5世紀の終わり頃に築かれた。
|
||||||||||||
471朝鮮半島と信濃の文化
|
||||||||||||
473金製王冠 |
||||||||||||
477鳥・帯金具 |
||||||||||||
479柿木洞1号墳 (韓国) 百済では、6世紀頃、合掌石室を持つ古墳が発達した。これはその代表例 (R=20m) 埋葬石室 (長275m幅1.25m) 、通路 (長1.60m) が付いた 横穴式石室に盛り土をした円墳である。 |
||||||||||||
500古代 |
||||||||||||
500奈良時代 |
||||||||||||
501都と信濃 7世紀頃法律を拠り所とする律令政治が始まった。全国は60以上の国々からなり、国の下に郡が置かれた。 信濃は10郡に分かれ、人々はそれまでより都を意識した暮らしを送るようになった。 東山道を結ぶ 信濃を通る官道には、畿内と東国を結ぶ東山道と、筑摩(つかま)郡内で東山道から分かれ、越後国で北陸道と結ぶ支道があった。 これらの道は人や物と共に政治や文化が伝わる道であった。 |
||||||||||||
501a律令政治の始まり 7世紀後半以降、畿内 (今の奈良県、大阪府、京都府辺りの地域) には、大規模な都が築かれた。 政治の組織も整えられ、都には太政官のもとに、八省などの役所がおかれた。 地方の国々は七道によって畿内と結ばれ、それぞれ国司が郡司を率いて政治を行った。
|
||||||||||||
502古代の信濃国 信濃国の政治の中心である国府や、仏教の中心である国分寺・国分尼寺は、小県郡に置かれた。このうち、国府は平安時代に筑摩郡に移った。 東山道には役人が利用する馬や宿泊施設を備えた駅家が設けられた。また、有数の馬の産地であった信濃各地には朝廷の牧が設けられ、 優れた馬を産出した。 万葉集 防人の歌 神坂峠からみた美濃 (岐阜県) の景観 信濃と美濃の国境にある御坂 (現:神坂峠) は東山道の大きな難所であった。ここを越える人々は峠の神様に幣 (ぬさ) をささげ旅の安全を祈った。 万葉集巻きの二十には、御坂を越えて遠く、九州の守りに向かう信濃の防人が詠んだ歌が載せられている。 ちはやぶる 神の御坂 (みさか) に 幣奉 (ぬさたてまつ) り 斎 (いは) ふ命は 母父 (おもちち) がため ~神人部子忍男 (みわひとべの こおしを) 「万葉集」巻20-4402 神の御坂に 幣をたてまつり 命の無事を祈るのは 母と父のためです |
||||||||||||
502a都と信濃 国印と貨幣 和同開珎枝銭※ 飛鳥時代 大阪市細工谷遺跡 鋳型に金属を流し込む湯口、鋳棹(いさお) (湯道)に3枚ずつの銭が並ぶ。銭の鋳造方法を具体的に示す資料。 |
||||||||||||
503条里と水田 人々は自然を開発し、調和を保ちながら農業を営んできた。 土地に刻まれている農業の歴史を、掘りだされた水田の跡から読み取ってみよう。 |
||||||||||||
504水田の跡を掘る 土層標本 地面を掘り下げていくと、いくつもの層が重なった土の断面が現れる。盛り上がった畦と平らな水田の耕土、その上を覆い尽くす洪水の層もある。 これらから開発の様子や環境の変化を読み取ることができる。 |
||||||||||||
505水田と農具の変化 遺跡には時代の違う水田の面がいくつも重なっている地点がある。その地面を上から順に剥がしていくことによって、 畦・水路や農具の移り変わりが明らかになり、農業技術の発展の様子を知ることができる。 ※古代に作られた畔や水路は動かすことができず、現代までそのまま引き継がれた。 現代の圃場整備によって新たな区画や水路に作りなおされ、初めて消えることになった。それほど、変更することはタブーであったのだ。 |
||||||||||||
510 | ||||||||||||
511農業用木製品 |
||||||||||||
512 |
||||||||||||
513 |
||||||||||||
514 |
||||||||||||
520木製農具の使い方 |
||||||||||||
521
|
||||||||||||
古代農耕具に関わる資料
|
||||||||||||
資料 522木製農具に関わる資料 引用「古代農具の変遷」マント蛙のブログ 日本の産声 (1)木製農耕具の使い方と種類 鍬は柄をもって振り上げて打ち下ろし身の刃先を土に食い込ませて柄の基部を持ち上げて土を起し、 鋤は身の刃先を押したり踏み込んだりして土に食い込ませて柄を手前に引いて土を起こす現代のスコップに相当します。 刃先がフォーク状になった又鍬・又鋤と呼び、ふつうの刃先のものを平鍬・平鋤と区別していました。 木鍬・木鋤:鍬と鋤の身の部分が、刃先まですべて木でできたもの。 風呂鍬・風呂鋤:木製の鍬や鋤を台にして鉄の刃先をはめ込んだもの。身の全てが鉄でできた金鍬・金鋤が一般化するのは明治以降のことです。
(2)弥生農耕具の文化圏の形成と変遷 弥生前期では農耕具は多くの地域で共通し地域差は極めて僅かでした。 弥生中期になると様相は一変し地域型と呼ばれる直柄平鍬や曲柄鍬が各地で成立し互いに影響を及ぼしながら地域圏を形成し始めます。 特に、韓半島の影響を強く受けながらこれを堅持した九州北部と、中部瀬戸内・山陰にみられる一定のまとまりと近畿や北陸との関連は注目されます。 弥生後期から古墳前期にかけて、農耕具の伝播の中心地が出雲と吉備であることは、当時の政権の成立の原型であるかの幻想を抱かせます。 (3)蓄力の農耕具 中国や朝鮮半島の影響を受けて畜力耕具が導入されます。畜力耕具の代表が耕起に用いる犂(からすき)と代掻きに用いる馬鍬(まぐわ)でした。 6世紀以降日本列島においては長い地割の水田が出現・普及し牛馬耕に適した水田形態になっていきます。 唐犂は、7~8世紀の古代犂が20例ほど出土し、犂先にはU字形の鉄刃先をはめていたとされています。 馬鍬は、6世紀後半以前に九州から東北まで分布しており、西日本を中心とする犂と対照的です。馬鍬の歯はカシなどの堅い木でできています。 起源は江南にあって倭の五王のころ乗馬の風習にやや遅れて日本に導入されたという推定が有力です。
|
||||||||||||
531条里制水田 千曲市に残る水田跡では、約100m毎に設けられた平安時代の大きな区画が見つかり、それが後の時代の水田区画にもほぼ受け継がれている 事が分かった。このような条里水田は県内各地にも残っていた。 長野盆地の条理遺跡 長野盆地の千曲川沿いの低地では、弥生時代から現代にいたるまで水田が営まれていた。近年この地域を通る高速道路工事に先駆けて 発掘調査が行われ、石川条里遺跡、川田条里遺跡などの大規模な水田遺跡の様子が明らかにされてきている。 |
||||||||||||
550平安時代 |
||||||||||||
560平安時代の村の暮らし 多くの農民が貧しく暮らす一方で、豊かな農民が現れた。彼らは11~12世紀、武力を蓄えて領主へと成長する。 古文書などではわからない彼らの暮らしの実態を発掘調査が明らかにしている。 |
||||||||||||
561富裕農民の世界 松本市下神遺跡の大きな建物や倉・作業場などは、豊かな農民の姿を物語る。更に塩尻市吉田川西遺跡では高級な陶磁器や宴会用の 大量の土器などが発見され、領主に成長しつつある有力者の姿が伺える。 |
||||||||||||
562 |
||||||||||||
563富裕農民の登場 松本市下神遺跡の水底復元図。9世紀の半ば頃の遺構図を参考に描いた。左上の掘立柱建物が有力者の住居で、周りに工房や倉庫、 大きな竪穴建物などもあり、周辺の中小の農民を支配するようになった。 下神遺跡からは「草茂」と墨書された土器が見つかっており、文献資料に見える「筑摩郡蘇我郷草茂庄」という荘園の中心に位置する遺跡です。 |
||||||||||||
564墨書土器 平安時代の9世紀に、富裕農民が村の有力者として登場する。富裕農民のいる村では祭りに際して、文字を墨で土師器や須恵器に書き、 村としてのまとまりを示した。10世紀になり、新しい村の秩序ができると、墨書の意味は薄れ、墨書土器も消える。 |
||||||||||||
565下神遺跡出土品 |
||||||||||||
570吉田川西遺跡 食器は実用的なものであると同時に、身分によって使うことのできる食器が決まっていた。都の有力者は金属器や漆器を、 国司級の中級貴族は緑釉・灰釉など釉薬のかかった陶器を用いた。 庶民は共同墓地に葬られたが、村の有力者は、その身分に応じて墓に食器と共に葬られた。 出土した漆器や緑釉陶器から、墓の主が地元で抜きんでた力を持つ人物であったことが想像される。 |
||||||||||||
571 |
||||||||||||
575墓に副葬された品々 |
||||||||||||
580領主の登場 11世紀頃の有力者の館跡から、朱墨の硯・大量の土器・馬具・鉄のやじり・緑釉陶器などが出土した。 この事から、ここが税の徴収に携わり、武器を持ち、祭り事を行う領主の館であったことが彷彿される。 |
||||||||||||
581吉田川西遺跡 |
||||||||||||
582平安時代初めの食器 |
||||||||||||
583鍛冶の遺物 吉田川西遺跡 平安時代後半 塩尻市 |
||||||||||||
600中世・鎌倉時代 |
||||||||||||
601鎌倉時代 |
||||||||||||
602鎌倉時代の善光寺門前 鎌倉時代には、土地の開発が進んだ。しかし、災害・飢餓・伝染病が絶えなかった。善光寺門前の日時用生活と華やかな仏の世界。 ここでは、現世と来世、地獄と極楽とが、隣り合っていた。 |
||||||||||||
603 |
||||||||||||
604善光寺と中世の祈り 善光寺の本尊は、子の世でもあの世でも人々を救うありがたい仏として、全国に知られた。 仏たちの悟りの世界を描いた曼荼羅や、仏画・仏具をきらびやかに飾り立てた様子を目にして、人々は感激し、信仰を深めた。 |
||||||||||||
605 |
||||||||||||
606 |
||||||||||||
607善光寺 |
||||||||||||
608鎌倉時代の善光寺 善光寺の寺域は、現在よりもかなり南にあった。南大門は現在の鐘鋳川付近にあり、北端はもとの湯福川(駒返り橋付近)間であり、 築地によって囲まれていた。大門・西の門・東の門などの地名がその名残である。 メイン展示は、南大門から裾花川(現在の八幡側及び昭和通り付近)までの門前を縮小して想定、実物大復元模型にしました。 また、伽藍模型は、南大門から見える奥の仏堂などを復元した。 |
||||||||||||
610善光寺の門前市 |
||||||||||||
611 |
||||||||||||
交通と流通 信濃の武士・寺院・神社は、日本各地や中国・朝鮮と交流し (交易)、沢山の品物や文化を取り入れた。 寺社の門前や人の集まるところには市が立ち、商業が盛んになり交通も発達した。 615中馬と地場産業の発達 街道の宿場に置かれた問屋は、輸送を独占していた。これに対して信濃では、荷主から先送りまで直接農民が馬や牛で運ぶ仕事が盛んになり、 中馬と呼ばれた。信濃各地の産業は、この中馬の活動と結びあって発達した。 中馬と塩の道 中馬の輸送によって、信濃の産物が江戸・名古屋など各地へ送られ、他方、大量の商品が入ってきた。中でも塩は、太平洋側と日本海側から 川を船で遡り、中馬や牛に積まれて、信濃の隅々にまで届けられた。 |
||||||||||||
616銭を使う人々 今から700年前の鎌倉時代の終わり頃には、様々な取引の場面において中国から輸入された埋蔵銭や残された古文書によって、 信濃の人々も当時の東アジアの国際通貨である中国銭を利用したことが分かる。 |
||||||||||||
650戦国時代 合戦図と武士の世界 「自力の時代」と言われる武士の世は、地方から始まった。武士たちは開発した土地を根拠地に力を蓄えていった。 合戦図や絵巻物などの資料は彼らの活躍ぶりや生活を今に伝えている。 |
||||||||||||
700近世・近代 |
||||||||||||
710江戸時代 城と城下町 大名は領地を治める拠点として城を作り、城の周りに武士とその暮らしを支える商人・職人の町を設けた。 城下町は、江戸など全国各地と地元の村を結ぶ経済のかなめとして栄え、町並みは次第に拡大した。 |
||||||||||||
711大名の婚礼調度品 江戸後期 大名家に輿入れした際、持参した婚礼道具。地は梨地で統一され、葵紋が散らされている。大名家の婚礼道具が残されている例は少なく、 奥方の生活の一端を知る貴重な資料である。 |
||||||||||||
713農家 (※この復元農家はかなり裕福である。) 江戸時代には、武士・商人・職人は城下町に集められ、村に住む者は百姓身分とされた。街道が整備され、宿場には輸送を扱う問屋が置かれたが 信濃国では、農民が馬や牛で運ぶ中馬輸送が盛んになった。信濃各地の産業は中馬によって発達した。 江戸時代前期の茅葺中層の農家では、土間と土座で暮らし、糅飯や粉食を食べた。家族で耕作し夜なべ仕事に励んだ。 農家のくらしは経済の発達につれて大きく変わり、麻から木綿、一日二食から三食へ、土座から板の間へと衣食住が向上した。 庶民の文化や意識も高まり、、支配者の不法には訴えなどを繰り返した。時には一揆などで立ち向かうこともあった。 庶民生活の高まり 農家の暮らしは18世紀に大きく変わった。脳器用技術が進んで収穫が増し、商品作物の栽培や諸稼ぎも発達して収入を得、麻から木綿へ、 一日二食から三食へなど、衣食住が向上し、村の社会生活も変わり始めた。 |
||||||||||||
715信州文化と民衆意識 人形浄瑠璃 近世の興業 近世後期、伊那地方を中心に人形芝居、歌舞伎、相撲の興行が行われた。相撲興業では雷電が活躍。祭日は村人の楽しみだった。 博打に対する幕府の禁令をものともせず、博打打ちが横行した。
|
||||||||||||
750近現代 蚕糸王国長野県 江戸時代から明治初めにかけて、外国との交流が始まると、長野県はいち早く器械製糸を取り入れた。 繭・蚕種・生糸などの生産の近代化をはかった結果、日本一の養蚕王国になった。 |
||||||||||||
751長野県の誕生 明治維新後、信濃国は、旧幕府領を引き継いだ伊那県と十四藩が分立する県藩時代となった。更に1871年の廃藩置県を経て飛騨国を含む 筑摩県と東北信の長野県が成立。その後、1876年、長野県に筑摩県が合併して現在の長野県が誕生した。 |
||||||||||||
753お蚕さま 蚕糸業には、蚕の蛾から卵を採る蚕種、蚕に桑を与えて眉を私有核する養蚕、繭から生糸を作る製糸がある。 県民は、蚕を「おこさま」「おかいこさま」とよんで大切に扱ってきた。 |
||||||||||||
755世界に繋がる養蚕 長野県の蚕糸業は、小規模であったが、協業化によって飛躍的に発展した。小県蚕業学校の設立や製糸金融・倉庫業などもこれを支えた。 信州の製糸家は海外にまで進出し、県民も視野を世界に広げた。 |
||||||||||||
770大正時代 |
||||||||||||
771信州の自由民権と大正デモクラシー 「国会を開き人民の代表を送ろう、政党を作ろう」という自由民権運動を、長野県民は全国に先駆けて繰り広げた。 大正に入ると、デモクラシーの時代風潮を受けて、個人を尊重する運動が展開した。 |
||||||||||||
772戦前の観光信州 大正末~昭和戦前にかけて、長野県でも横長の「鳥瞰図」を中心とした観光パンフレットが盛んに発行されました。 これらは、戦前の観光の歴史を語る基地ような資料となっています。 |
||||||||||||
774第2次世界大戦 様々な戦争体験 アジア・太平洋戦争では、動員された兵士をはじめ、勤労動員、疎開者の受け入れ、生活の統制、空襲による被害など、 長野県民も様々な形で戦争を体験した。 歴史と資料 - 満蒙開拓平和記念館ページ 満蒙開拓移民 - Wikipedia 満蒙開拓団のトップは長野県 - 季節の変化 - Gooブログ 満州移民送出における民衆動員の過程と背景 - 金沢大学学術情報 ... なぜ、長野県が満州移住民最大だったのでしょうか。世界恐慌に引き続く昭和恐慌によって、産業が大打撃を受けたからでしょうか。 歴史家はそのあたりの情報を語らない。 長野空襲 - Wikipedia 長野県の空襲被害データ - 都道府県別 被害データ - 空襲の記録 - 未来に ...
|
||||||||||||
777暮らしの変化 1980年代、日本の高度経済成長政策のもと、長野県の商工業は大きく発展し、生活も豊かになった。いっぽうでは、農山村の過疎化、 都市の過密化、郊外の発生、環境破壊などの新しい社会問題が出てきた。 |
||||||||||||
779長野県立歴史館内から見える秋の山 |
||||||||||||