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目次
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01外観・入口展示
03せたな町の遺跡
100縄文・続縄文時代
111縄文時代のせたな
112縄文時代の出土物
115続縄文時代のせたな
121南川遺跡の出土物
131続縄文人が築いた南川遺跡
152南川遺跡 |
200擦文時代~近代
230せたなの運上屋
250松浦武四郎が見た、せたな
300民具 瀬棚場所
320民具
330魚業
340林業
350農業 |
400町内の遺跡
401豊岡6遺跡
413大成区の遺跡
415縄文時代とは
416盛土遺構出土
417都遺跡調査沿革
418第3号竪穴出土石器
419縄文時代のアスファルト利用について
420都遺跡発掘調査
430盛土遺構出土土器
433遺物集中区出土石器
442盛土遺構出土土器
480瀬棚・北檜山区内の遺跡分布図
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01外観・入口展示
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各町の合併前の歴史
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北海道せたな町は、平成17年(2005年)9月1日に
大成町、北檜山町、瀬棚町の3つの町が合併して誕生しました。
その各町の歴史を一覧にまとめたものです。 |
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03せたな町の遺跡
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せたな町では、縄文時代~アイヌ文化期・北海道中世までの様々な時代の遺跡があり、現在見つかっているだけで、70もの遺跡が発見されています。
(うち49か所が縄文時代。)しかし、あくまでも調査した場所のみですので、まだ眠っている遺跡がある可能性があります。
発掘された代表的な遺跡は、
瀬棚区の続縄文時代(約2300~800)に作られた「南川遺跡」、
北檜山区の縄文時代早~前期(約8000~6000年前)に作られた「豊岡6遺跡」。
大成区(たいせい)の縄文時代中~後期(約5000~3000年前)に作られた「都遺跡」(みやこ)が代表的です。 |
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南川遺跡 続縄文時代 AI による概要
南川遺跡は、北海道久遠郡せたな町瀬棚区本町にある続縄文時代の遺跡で、道指定有形文化財に指定されています。
恵山文化の遺跡としては最大級のもので、本州北端・青森地方に伝わってきた弥生文化の影響がうかがえます。
【南川遺跡の主な特徴】
1800~2000年前の恵山文化の遺跡
5万平方メートルの海岸砂丘に分布
住居跡、墓跡、工房跡のほか、土器や石器などの生活用具が発見されている
土器には縞状の縄文がつけられ、石器には磨製石斧などがある
【南川遺跡の文化財】
土器25点と石器208点が北海道の文化財に指定されており、町の郷土館で展示されている
恵山式土器25点と石器208点は北海道指定有形文化財に登録され、瀬棚区の生涯学習センターで展示されている |
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豊岡6遺跡 縄文早期~前期 北海道瀬棚郡北檜山町字豊岡河川敷 AI による概要
豊岡6遺跡は、北海道瀬棚郡北檜山町字豊岡河川敷にある縄文時代の集落遺跡です。
縄文時代早期~前期にあたり、竪穴建物や掘立柱建物跡、石組炉などが調査されています。
【特徴】
種別:縄文早期の集落、散布地、包含地
時代:縄文時代早期、前期、後期
主な遺構:縄文早期の掘立柱建物跡(竪穴建物)、石組炉、焼土、土坑
主な遺物:縄文土器、石器 |
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都遺跡 北海道久遠郡せたな町大成区上浦175-3番地外
種別:集落
時代:縄文時代中期前葉~後期前葉
主な遺構:竪穴住居跡11 土坑32 柱穴様小土坑57 石組炉9 焼土8 配石集石4 遺物集中3 盛土遺構
主な遺物:涌元式 トリサキ式 大津式
[都遺跡 要約]
都遺跡は、渡島半島西部、せたな町大成区の海成段丘上に立地し、日本海に注ぐ笠島の沢川左岸の標高約27から30mにある。
本報告は、平成24年度に現地調査を行った2,895平方メートルを対象にしている。
検出した遺構は、
竪穴住居跡11軒、土坑32基、柱穴様小土坑57基、石組炉9か所、焼土8か所、配石集石4か所、遺物集中3か所、盛土遺構1カ所である。
出土した遺物の合計は、237,007点を数え、内訳は、土器等83,198点、石器等153,544点、その他265点である。
時期は、縄文時代中期前葉から後期前葉にかけてのものである。
このうち、盛土遺構から出土した縄文時代後期前葉の遺物が99,316点を占めている。
盛土遺構の形成は、涌元式からトリサキ式、大津式期にかけての所産である。
石器は、石鏃や扁平打製石器、台石、石皿が多く出土している。
包含層から出土した縄文時代早期の中茶路式土器に伴うつまみ付ナイフは、特徴的である。
剥片石器に用いられる石材は、頁岩が多く、黒曜石も渡島・檜山地域の中では比較的多く出土し、道東を原産地としたものも含まれていた。
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瀬棚町の年表
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100縄文・続縄文時代
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110 |
111縄文時代のせたな
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縄文時代は約1万年前から始まり、約2千年前に終焉を迎え、町内で見つかっている。70カ所の遺跡のうち、49カ所が縄文時代の遺跡で、半数以上が縄文時代に作られました。
町内の発掘されている代表的な縄文時代の遺跡は、
早期(約8000~6000年前)~前期(約6000~5000年前)の豊岡6遺跡、
中期(約5000~4000年前)~後期(約4000~3000年前)の都遺跡、
晩期(約3000~2300年前)の生渕2遺跡(なまぶち)などで、
土器や石器、土製品など、日常生活や儀礼などで使用したと考えられる道具が出土し、縄文時代のせたな町で、どのような生活が営まれていたかを伺うことができる貴重な資料が数多く見つかりました。 |
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112縄文時代の出土物 第1号墓
南川遺跡第1号墓
出土土器 |
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南川遺跡第1号墓
出土石製品 |
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115続縄文時代のせたな
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弥生時代が始まる頃、北海道でも新しい時代である「続縄文時代」が幕を開けます。
続縄文時代は、縄文時代の伝統を受け継ぎながら、金属器を活用しているのが特徴で、
続縄文時代前半期は、渡島地方、釧路地方などで地方独自の土器を使用し、それぞれの社会集団が互いに交流しており、本州の弥生時代と平行します。
後半期は北海道独自の土器が制作されるようになり、北海道全体に広がり、北海道だけでなく、千島列島などにも数多く進出しており、本州の古墳時代と並行します。
続縄文時代の遺跡は、70カ所のうち、7遺跡が該当します。
その中で発掘が行われたのは
北海道指定有形文化財が出土した瀬棚区にある「南川遺跡」、
大成区の洞窟から発見された「貝取澗2洞窟遺跡」
が発掘され、土器や石器などの生活用具ほかに、動物の骨や貝殻といった、同時の食生活をうかがうことができる遺物が数多く発見されました。 |
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南川遺跡
続縄文土器
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南川遺跡
第2号墓出土土器 |
南川遺跡
第3号墓出土土器 |
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120 |
121南川遺跡の出土物
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第4号墓出土土器 |
道指定有形文化財指定書
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土器の出土 |
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第2号墓出土土器 |
第3号墓出土石器
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第4号墓出土土器
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第4号墓出土土器 |
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123南川遺跡の出土物
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130 |
131続縄文人が築いた南川遺跡
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南川遺跡は瀬棚区南川57番地に位置し、砂利採取業者が砂の置き場所を造成中に完形の土器を発見したことで発掘調査をすることになりました。
本遺跡は昭和50(1976)~57(1983)年の5ヵ年にわたり発掘調査され、遺構が、墓39基、埋設土器3カ所、竪穴住居跡7軒、工房跡1ヶ所、土器585点、石器40807点、骨角器4点、動物遺存体137点、合計41533点が発見されました。
この時代の遺跡では、住居址、墓跡、工房跡などが総合的に発見された例が少なく、続縄文時代の生活を知る上で極めて重要と判断され、出土遺物の一部(土器と石器を合わせて233点)が昭和56年3月31日に17例目の北海道指定有形文化財として登録されました。 |
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続縄文人が築いた南川遺跡
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14号墓合甕
右に扁平楕円礫
左に合甕※ |
南川遺跡出土土器
続縄文時代 |
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南川遺跡は、せたな町瀬棚市街の南の海岸砂丘にあり、面積5万平方メートルに分布しています。
・今から1800~2000年前、渡島半島から道央にかけて広がった恵山文化の遺跡の中では最大級のもので、昭和50年(1975)から発掘が行われました。
・北海道の文化財指定を受けたのは、昭和50年に同遺跡の墳墓群から出土した土器25点と石器208点で、町の郷土館で展示しています。
・土器・石器とも、本州北端・青森地方に伝わってきた弥生文化の影響を強く受けています。
土器には縞状の縄文がつけられ、石器には磨製石斧があります。
・これらは、恵山文化の人たちの生活を解き明かす貴重な資料です。 引用「文化財オンライン」
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合甕:読み=ごうがめ。
意味=あわせぐちかめかん:2つの甕の口を合わせてつなげたものです。中に被葬者を入れて埋葬されました。 |
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132
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第10号墓出土石器 |
石鏃 |
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第12号墓出土土器
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第12号墓出土石器

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135
第13号墓 |
第13号墓出土土器 |
第13号墓出土石器
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140
第6号墓 |
第6号墓出土土器
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第6号墓出土土器 |
第6号墓出土石器
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第8号墓出土土器 |
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150 |
152南川遺跡
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第17号墓 |
石鏃の出土 |
発掘風景 |
第17号墓出土土器 |
第18号墓出土石器
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156
第18号墓出土土器
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第19号墓石器
第20号墓石器 |
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19号墓土器 |
20号墓土器
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160
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南川遺跡土壙墓 |
14号墓土器 |
15号墓石器
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15号墓土器 |
16号墓石器
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16号墓土器 |
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200擦文時代~近代
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201擦文時代~近代の瀬棚
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擦文時代のせたな
擦文時代は続縄文時代の伝統を受け継ぎながら、日本文化の影響を受けて、独自の文化を形成した、北海道のみの文化区分で、「擦文」とは「縄文」と同様に、土器の特徴から名付けられており、土器を形成する際にヘラ状工具を用いて土器をこすって整えた痕跡が名前の由来となっています。
町内に所在する擦文時代の遺跡は4箇所があり、大成区の平浜海岸遺跡、瀬棚区の南川2遺跡・利別川河口遺跡、北檜山区の高下遺跡が該当し、
どの遺跡も大きな河川の河口付近か海岸段丘上に位置していることから、狩猟よりも漁撈を生業の中心にしていたと考えられます。
また、農業も補助的に行っていたようで、町内からは発見されていませんが、畝跡や鉄製鍬先など農業の痕跡が他市町村の遺跡から発見されています。 |
擦文時代の瀬棚 |
南川2遺跡
擦文土器
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南川2遺跡 北海道瀬棚郡瀬棚町字南川29
種別:散布地
時代:続縄文
主な遺構:遺構なし
主な遺物:土器 石器
特記事項 続縄文期から擦文期にわたる土器群
種別:包含地
種別:集落 墓
時代:擦文
主な遺構:竪穴建物1 土坑1 焼土26-
主な遺物:土器 須恵器 蕨手刀
特記事項 近世(アイヌ)墓
種別:墓
時代:近世(細分不明)
主な遺構:墓10
主な遺物:鉄製品(刀+刀子+鉈+鍋+針+鎌+小札ほか)
アイヌ玉 銭貨 耳飾 刀装具 漆器 骨角器 |
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アイヌ文化期のせたなの遺跡
せたな町のアイヌ文化期の遺跡は70カ所のうち4カ所が該当します。
セタナイチャシ、太櫓(ふとろ)チャシの2つは「チャシ跡」と呼ばれる遺跡です。
『アイヌ語小辞典』の中で、チャシとは「砦・館・柵・柵囲い」と言う意味で紹介されていますが、一般に広く知られている意味として砦があります。
しかし、実際のチャシの機能は大きい5つに分けられると考えられます。
1つは先ほど挙げた「砦」としての機能
2つ目は「聖域、祭りの場」
3つ目は「資源監視の場」(見張り場)
4つ目は「懇談をする場所」
5つ目は「村長が住む場所」と言う機能があると考えられています。
残りの2つは南川2遺跡、高山下遺跡からアイヌ文化期の遺稿・遺物が発見され、ガラス玉や鉄製品など様々な要素が出土しました。 |
アイヌ文化期のせたなの遺跡
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太櫓チャシ遠景 |
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和人とアイヌ民族
今からおよそ560年前、室町時代前期に相当)、当時せたな町は「セタナイ」(瀬棚内)と呼ばれていた頃、現在の青森県あたりから松前藩の藩祖となる武田信広が蝦夷地(北海道)に渡ってきました。
その後、蝦夷地の豊かな資源を求め、多くの和人(日本人)が移住し、アイヌ民族の生活圏にも多く進出し、次第にアイヌ民族と和人との軋轢が大きくなっていきました。
このような背景があり、「コシャマインの戦い」(1457年)、「シャクシャインの戦い」(16699年)、「クナシリ・メナシの戦い」(1784年)と言う
大きな対和人闘争が幾度か起きました。
しかし意外に思うかもしれませんが、せたな町(セタナイ)でも対和人闘争が二度起きていました。
その戦いこそ、北海道最古の古文書である「新羅之記録」に記される「タナサカシの乱」と「タリコナの乱」と呼ばれる戦いです。 |
和人とアイヌ民俗 |
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アイヌ文化期のセタナイチャシ出土
刀飾りの金属製品 |
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せたなの戦い ~タナサカシの乱~
タナサカシ(タナケシ)が乱を起こした背景には、和人のアイヌ民族に対する横暴な振る舞いと、それに対する不満があったと考えられます。
タナサカシが蜂起する4年前の1525(大永5)年には、その横暴な振る舞いのために東西蝦夷地で乱がおきていますが、1528(享禄元)年に平定されます。
しかし、平穏は長く続かず、1529(享禄2)年にセタナイ(地域)のリーダーであるタナサカシが乱を起こします。乱を起こした理由についての詳しい資料が乏しいため、判然としないものの、乱が起きてすぐであることから和人の横暴な振る舞いが背景にあると考えられます。
当時セタナイには、工藤祐兼が館を築いて警備に当たっていましたが、タナサカシ軍が討破り、上ノ国和喜館(勝山館)まで攻め入りますが、蠣崎義広は和睦と偽らり、タナサカシを討ち、乱を平定し、西蝦夷地には一時の平和が訪れます。 |
せたなの戦い
~タナサカシの乱~ |
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左赤丸がタナサカシの砦。
右赤丸が工藤刳ろ羽左衛門の館
利別川河口より撮影 |
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220せたなの戦い~タリコナの乱
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せたなの戦い~タリコナの乱~
平和は長くは続かずのタナサカシの乱から10年後の1536(天文5)年に「タリコナの乱」が起こります。
タリコナはタナサカシの婿養子で、養父を討った蠣崎義広に対する不満を持っており、妻も仇討ちを望んでいたことが背景にあります。
500名の手勢を率いて熊石まで進軍し、迎え撃つ義広軍は工藤祐致(すけむねも祐兼の弟)を先鋒としては300名で迎撃にあたり、両軍は熊石で激突し、決戦の火蓋が切って落とされます。
しかし決着は容易につかず、長期戦の様相を呈してきた頃に、義広が和睦を持ちかけますが、これもタナサカシの時と同様に罠で、タリコナ夫婦が祝宴で泥酔したのを見計らい義広は伝来の太刀を用いてタリコナを斬り、次いで妻とお供をしていた数名の部下も斬り捨て、タリコナ乱は終結します。
タナサカシ・タリコナの両名とも、和睦と偽って討たれたが、蝦夷地に進出したばかりの数で劣る和人勢力は、策略を用いなければ、戦いに勝利することが難しかったと考えられます。 |
瀬棚の戦い
タリコナの乱
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西夷大将ハシタイン
タナサカシの乱、タリコナの乱を鎮圧した蠣崎義広の子である季広(すえひろ4代目)は、1550(天文19)年に、アイヌ民族と敵対するより信頼関係を築く事を考え、宝物(漆塗りの行器・鉢・杯・刀) をアイヌ民族に渡しました。
そして西のリーダーにセタナイのハシタインを、東のリーダーには、シリウチのチコモタインを任命し、上ノ国の天河にハシタインの住居を作り
「夷狄商舶往還の法度」を定めます。
これは蠣崎氏が交易で得たお金を東西のリーダーに分配すると言う制度です。
以後、西から上ノ国へ交易に来るアイヌ民族は一度帆を下げハシタインに一礼し、東からのアイヌ民族の商船はチコモタインに帆を下げ一礼する慣習となり、アイヌ民族は季広のことをカムイトクイ(神の友)と呼ぶようになり、コシャマインの戦い(1457年)から始まった長きにわたるアイヌ民族と和人との戦いは、一時的に終結します。 |
征夷大将ハシタイン
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セタナイチャシ
南川2遺跡 近世アイヌ期墳墓
南川2遺跡
続縄文・擦文・アイヌ文化・近世
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2号墓出土
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ガラス玉
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3号墓
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4号墓
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セタナイチャシ 17世紀中頃 住居跡の凹みから
セタナイチャシ出土
ガラス玉 |
ガラス玉 |
雁首、吸い口
セタナイチャシ出土 |
骨角器
セタナイチャシ出土 |
アイヌ文化期に骨角器?
これが原因で死亡したのでなく副葬品か。
儀式用の骨格器かも知れない。
いや、実際の狩猟用・戦闘用かも知れない。
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230
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せたなの運上屋(うんじょうや) 古畑家
松前藩は米が採れない藩だったため、家臣達に米ではなく、知行地として交易場の独占権を与え、知行地として与えました。
これを「商場知行制」(あきないばちぎようせい)といいます。
元々商いをやっていない武士だったため、経営が上手くいかず、多くの武士が商場所の経営を商人に委託するようになりました。
これを「場所請負制」(ばしょうけおいせい)と言い、場所を受け持った人々のことを「場所請負人」と呼び、この請け負い人達の経営拠点を「運上屋」(うんじょうや)と言いました。
請負人は運上屋に支配人、通詞、帖役(ちょうやく書記)、番人、稼方などを置き、場所の経営を行って得た利益の一部を知行主に「運上金」として納めていました。
せたなにも多くの場所があり、瀬棚区では瀬棚・須築(すっき)・北檜山区は太櫓、大成区は久遠で場所経営が行われ、それぞれの場所で運上屋が営まれ、多大な利益を得ていました。 |
古畑家の持ち物 |
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せたなの運上屋 |
せたなの運上屋 |
望遠鏡と船入樽 |
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家紋入の盃・箪笥・盆
・蒔絵重箱・錦徳利
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深皿、皿鉢 |
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240
打掛(うちかけ)
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250松浦武四郎が見た、せたな
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松浦武四郎とは幕末から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家、 好古家で、 蝦夷地にも数多く訪れた人物です。
武四郎が蝦夷地を探検し、見聞きした情報は「蝦夷日誌」や「武四郎廻浦日誌」などの著書にまとめられ、幕末の頃の北海道の様子やアイヌ民族の暮らしを記録に残しました。ま
た、「北海道」という名前の名付け親でもあります。
そんな、武四郎は弘化3(1846)年に、熊石から大成区長磯に入り久遠まで行き、太田・太櫓・瀬棚を抜け島牧へと進んでいきました。
この道中、地元のアイヌ民族や場所経営で蝦夷地に来ていた和人の案内で、見聞きしたものを日誌にまとめています。
その中には長磯は鮑・海鼠が多く、鰊もよく獲れるなど、久遠・太櫓・瀬棚須築の商場所にどのような建物が建っているかや、地名の由来や、アイヌ民族の伝承など、当時の瀬棚の生活を知ることが出来る貴重な情報が書かれて いました。 |
松浦武四郎が見た瀬棚
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安政年間の瀬棚図 |
武四郎が、 せたなを旅したころである安政年間に書かれた絵図。 |
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明細地図 |
印刷物なのでかなり
のちの時代のよう |
渡来銭と日本のお金 |
重皿鉢、たばこ入れ
印籠、ツバ、御用箱 |
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300民具 瀬棚場所 |
301
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320民具
欄引,水瓶.焼酎樽 |
ランプ,算盤, |
算盤,硯,硯箱,嬰児籠
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330魚業
定置網の模型と
磯舟 |
鰊鍋?
鰊を煮て干物や油を取った大鍋か |
イカ釣仕掛(トンボ)
ふのりとり,銛
ガラス製浮き
トンズ,磯船舵 |
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タモ,櫓・モッコなど |
北前船の模型? |
圧搾機
ニシン油を絞ったか
干し魚を圧縮したか |
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340林業
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田の草取り除草機
せたなの農業の起こり
藁靴_thumb.jpg) |
方形住居 チセ_thumb.jpg) |
山道具,野道具
右端:種蒔き器
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350農業
足踏み脱穀機.振るい.こも編み機 |
こも編み機,石臼
こんな目の粗い藁製品てなんだろう |
馬具,鞍,蹄鉄,馬草鞋 |
唐箕(風力選別機) |
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360龍虎屏風
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400町内の遺跡
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401豊岡6遺跡
はじめに
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このたび、生涯学習センター特別展示『続々・せたな発掘ものがたり~都遺跡編いら』として開催する運びになりました。
さて、皆さんの多くは「遺跡」と言う言葉を聞いたことがあると思いますが、身近にあるものと言う認識を持っている人は少ないのではないかと思います。
今回の展示会で、自分たちの身近にも多くの遺跡があり、今、皆さんが生活を営んでいるこの場所で、古くは約15,000年前~約10,000年前から人々が住み始め、生活をしていたと言う事実の一端を伝えることができたら嬉しい限りです。
まだ「せたな町」はなく、「縄文時代」と呼ばれる時期にあった1つの集落での生活をご覧ください。
せたな町教育委員会 学芸員 工藤 大 |
町内の遺跡及び都遺跡周辺の遺跡
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現在町内では70ヶ所の遺跡が発見されており、内訳は大成区が30カ所、北檜山区が25カ所、瀬棚区が15カ所で、半数以上が縄文時代に構築された遺跡です。
発掘調査のされている遺跡は
・瀬棚区の続縄文時代(約2300~800年前)の「南川遺跡」、アイヌ文化期~中・近世(約800~200年前)の「南川2遺跡」、「利別川河口遺跡」、
「セタナイチャシ」
・北檜山区の縄文時代早期~前期(約8,000~6,000年前)の「豊岡6遺跡」、縄文時代後期~晩期(約6,00~2,300年前)の「生渕2遺跡」
・大成区の「都遺跡」、続縄文時代の「貝取澗2洞窟遺跡」
が発掘され、調査結果や出土遺物は各区の郷土資料館で展示公開され、瀬棚地用の先史時代の様相を明らかにする貴重な資料となっています。 |
豊岡6遺跡
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豊岡6遺跡は、北海道瀬棚郡北檜山町字豊岡河川敷にある縄文時代の集落遺跡です。縄文時代早期の前期にあたり、竪穴建物や掘立柱建物跡、石組炉などが確認されています。
豊岡6遺跡 北海道瀬棚郡北檜山町字豊岡河川敷
種別:集落 散布地 集落 包含地
時代:縄文(早期 前期 後期)
主な遺構:竪穴建物 焼土 土坑
主な遺物:縄文土器 石器
特記事項:縄文時代早期の集落、掘立柱建物跡、石組炉を調査した
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豊岡6遺跡
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はじめに |
町内の遺跡及び都遺跡周辺の遺跡
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北檜山区
豊岡6遺跡 |
都遺跡調査状況 |
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410豊岡6遺跡
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413大成区の遺跡 旧大成町
都遺跡 北海道久遠郡せたな町大成区上浦175-3番地外
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AI による概要
都遺跡は、渡島半島西部にある遺跡で、海成段丘上に立地しています。
【位置】
北海道せたな町大成区の海成段丘上
日本海に注ぐ笠島の沢川左岸
標高約27から30m
遺跡には、過去の人類が営んだ痕跡である「遺構」と、土器や石器などの「遺物」が含まれます。
文化財総覧 都遺跡
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都遺跡の出土物
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415縄文時代とは
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縄文時代とは旧石器時代(約2~3万年前)のあとに展開する日本の時代区分の1つです。
旧石器時代と縄文時代の大きな違いが3つあります。
1つは土器の使用、2つ目は弓矢の使用、3つ目は定住生活を始めたことです。
土器が発明される以前は、木の器などを用いていましたが、土器が作られるようになってからは煮炊きが可能になり、食料選択の幅が広がり、今まで食べられなかった堅果類(ドングリやクリ)などが食べられるようになりました。
旧石器時代はマンモスなどの大型哺乳類を狩猟対象とし、アトラトル(投槍器)を用いた狩猟を行っていたが、縄文時代に入ると、氷河期が終わり、今まで狩猟対象となっていた大型哺乳類が姿を消し、狩猟対象が小型哺乳類(ウサギなど)や鳥類へと変わったため、道具も対象に合わせて変化しました。
氷河期が終わり、温暖な気候となったため、獲物を追いかける移動生活から、一ヶ所に拠点を持ち
、季節的に移動などを行う生活へと変化したため、竪穴住居等が用いられるようになりました。 |
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縄文時代とは
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都遺跡出土
トリサキ式土器
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都遺跡出土石鏃
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都遺跡3号住居 |
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都遺跡はどんな遺跡なのか?
都遺跡は「集落遺跡」と呼ばれる大昔の村です。町内に所在する遺跡の中でも、長い期間にわたって土地利用がなされているのが特徴で、発見されている遺物から、
縄文時代早期(約10,000~8000年前)から晩期、擦文時代、中世・近世、
そして現在も土地使用が行われていることから考えると、約11,000年と言う長い期間利用され続けていることになります。
また遺跡を形成している主な時代は、縄文時代後期(約5000~4000年前)から晩期初頭にかけてであることから、この時代が最も人が暮らしていた時期であることが推測できます。
しかし、続縄文時代の遺物が発見されていないことから、約2,300年前から約1,300年前の1,000年間の間は土地利用はなされなかったようである。この要因として考えられるのが「弥生海進」と呼ばれる自然現象で、温暖な気候の影響により、現在よりも内陸部に海が広がっていたため、海岸線に合わせてより住み良い土地を利用していたと考えられます。
※弥生小海退
弥生海退なら聞いたことがあるが、弥生海進はどこを調べても出て来ない。むしろ、弥生人は、寒冷化した列島の、干上がった低湿地に
水稲耕作の可能性を見つけたとされているものだが、、、何のことだろう。北海道だけの現象かな。 |
都遺跡はどんな遺跡か
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盛土遺構断面検出状況
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遺構・遺物とは何か?
考古学における遺構とは台地に備え付けられて動かせないもの、つまり「不動産」のことを指します。
竪穴住居跡や土壙などの他にも、地面に備え付けられた石組炉や掘っ建て橋に住居作る際に建てた柱の跡なども遺跡に分類されます。
近年ですと水中にある遺跡のほうも重要視されており、桟橋跡や堤防跡なども水中にある遺構として分類されています。
遺構とは、反対に考古学において人が作り、遺したモノや食糧とした動植物の残渣などを指し、基本的に「動産」という考え方がなされています。
その種類は、土器、石器・骨角器・鉄器・木器・動物依存体などを作るために使用した材料によって分類がなされています。 |
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遺構・遺物とは |
配石を伴う土壙
都遺跡 |
都遺跡出土
土器・石器 |
石鏃・石匙・掻器 |
土器
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都遺跡の
416盛土遺構出土
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盛土遺構出土石器 |
石錐
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石槍
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石斧
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アスファルト付着石器 |
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417都遺跡調査沿革
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遺跡は大成区の市街地から北西側に約0.7km、日本海に注ぐ笠島の沢川左岸海成段丘上の標高約27~30mに立地しています。
検出した遺構は竪穴住居跡11軒、土壙32基、柱穴様の小土壙57基、石組炉跡9ヶ所、焼土跡8ヶ所、配石・集石4ヶ所、遺物集中3ヶ所、盛土遺構1ヶ所です。
遺構包含層から出土した遺物の合計は237,007点を数え、内訳は土器83,198点、石器等153,544点、鉄器等265点となっており、
主体となる時期は、縄文時代中期中葉から、後期後葉にかけての時期で、少量ながら縄文時代早期、前期、晩期、擦文時代の遺物も見つかっています。
特に特徴的なものは「盛土遺構」で、調査区の東側で竪穴住居に沿うような形で分布しています。盛り土の形成は、土器や石器、住居や土壙などを構築する際の削土や排土などで、これらを日常的に廃棄し続けたた結果、集積された堆積層であると考えられています。 |
都遺跡調査沿革 |
盛土遺構調査 |
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7号竪穴出土石器 |
スクレイパー |
石核
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石斧
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418第3号竪穴出土石器
3号竪穴出土石器 |
石鏃 スクレイパー |
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垂飾(泥岩製) |
摘み付ナイフ |
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419縄文時代のアスファルト利用について
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現代では道路や道の舗装に使用されているアスファルトが、実は縄文時代から使用されていたと言ったら、皆さんは信じられるでしょうか?
しかしこれは嘘のような本当の話で、北陸・関東地方から北海道にかけて接着剤や補修材、漆と混ぜて黒色顔料として実際に使用されており、
今回展示している都遺跡のアスファルト付着石鏃をはじめとして、
函館市南茅部の摩光B遺跡・豊崎N遺跡、
八雲町浜松2遺跡、野田生1遺跡、
礼文町船泊遺跡などにおいて、
石器や土器にアスファルトが付着している遺跡やアスファルト塊、アスファルトの工房跡と思われる遺構が出土しています。
このアスファルトは、道外の生産遺跡から摩光B遺跡のような一時集積遺跡に運ばれ、各消費遺跡で消費されたと考えられています。
そのため、アスファルトが出土する遺跡には加工の専門家がおり、縄文時代の人々は、かなり高度な技術を有していたことがわかります。 |
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磨光B遺跡 北海道芧部群南芧部町川汲1520-4
種別:集落 祭祀
時代:縄文
主な遺構:竪穴住居6 竪穴遺構2 掘立柱建物9 環状配石2 大形柱穴1 Tピット6
主な遺物:アスファルト塊 アスファルト付着土器 朱塗り土器 その他土器・石器
特記事項:アスファルト加工工房とアスファルト塊 環状配石遺構 |
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420都遺跡発掘調査
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都遺跡完掘 |
pit29
遺物出土状況
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pit15礫を伴う土坑 |
pit14大型礫出土状況
(約80cm)
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pit14上面配石検出状況
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遺物出土状況 |
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第4号竪穴住居完掘状況
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第1号住居完掘状況
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都遺跡調査風景
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第11号住居検出状況 |
都遺跡遠景 |
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都遺跡遺物集中検出状況 |
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都遺跡
430盛土遺構出土土器 |
431
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盛土遺構出土土器 |
盛土遺構出土土器 |
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皿状?土器内・外面 |
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432
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都遺跡
433遺物集中区出土石器
遺跡集中出土石器
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跡集中出土石器
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跡集中出土石器
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跡集中出土石器
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跡集中出土石器
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都遺跡
440盛土遺構出土物 |
441
盛土遺構調査 |
盛土遺構調査
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pit12土器を伴う土坑
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遺物出土状況
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442盛土遺構出土土器
土器型式は、涌元式→トリサキ式→大津式期 縄文後期前葉
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443
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450 |
451出土土器
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455
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460盛土遺構出土土器 |
461盛土遺構出土土器
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463盛土遺構出土土器
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465盛土遺構出土土器
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480瀬棚・北檜山区内の遺跡分布図
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