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 北部九州の縄文 №12  2020.11.13-4

  大野城心のふるさと館  福岡県大野城市曙町3丁目8−番3号
   092-558-5000 月休・撮影可

交通 西鉄バス 「イオン大野城行」で大野城市役所下車徒歩3分
西鉄 春日原駅から徒歩12分
   
  備考  
 
 大野城市地名の由来
 大野城市は博多湾の南奥に位置し、大宰府政庁に隣接する。そのため、6世紀から9世紀にかけて、わが国最大の須恵器製造団地があった。
 7世紀663年に白村江の海戦に敗れ、唐・新羅軍の襲来を恐れ、北部九州最大の政治都市である大宰府を防衛するために、水城などの防衛線を構築し、さらに、
避難場所として、朝鮮式山城を幾つか作った。その一つが大野山の大野城である。
 本来の地域の名前は大野郷→大野村→大野町である。市政に移行しようとしたとき、既に福井県に大野市が誕生していたため、大野城市とした。
まあ、南セントレア市よりも格調が高く、南アルプス市よりも真実なのだから、(南アルプス市は南アルプスにはない)、忘れられないネーミングかもしれない。
 はじめに
 「大野城市心のふるさと館」にはたしか、常設展らしいほどの展示はなかったと記憶しています。とても小さな展示館です。しかし、ここで以前発掘された日本列島展をやったと思います。以前は、近所にもう一館展示館(大野城市歴史資料展示室)があり、両館で実施したのように記憶しています。って、、知らんけど。
 



大野城市地名の由来
はじめに

01企画展「発掘された大野城市の遺跡展」
02ポスター
10入口展示
11企画展展示遺跡地図
12企画展関連年表

10①玉づくり 石勺遺跡
111玉作りの工程
112滑石製品の製造
114滑石製品完成品

120②古墳づくり~金山遺跡ほか~
121壺型埴輪
122金山遺跡
123開拓者たちの古墳群
126古野古墳群
127古野8号墳石室配置
130須恵器作り
131激動の時代の須恵器作り➀ ~谷蟹窯跡~
133激動の時代の須恵器作り②
135須恵器作りを支えた人々 ~古墳の副葬品~
136古墳副葬品
138U字形鋤先
139飛燕式鉄鏃

170③須恵器づくり~牛頸須恵器窯跡~
171須恵器づくり
172須恵器づくり職人のリーダー~ヘラ書き須恵器~
173法を守る職人たち~ヘラ書き須恵器~
180歴史遺産


140④国づくり~水城跡・小水城跡~
141水城跡最新調査①②
145水城出土遺物
146土師器 甑
148鬼瓦

150⑤村づくり~宝松遺跡・御笠の森遺跡~
151遺跡出土物
153裕福な人が住んだ村
155戦乱を生き抜いた人達の村~御笠の森遺跡~
156玩具 17世紀

160⑥街づくり~後原遺跡
161後原遺跡
162陶製品
 
 
  

 01企画展「発掘された大野城市の遺跡展」

 02ポスター
発掘された大野城市の遺跡
 大野城市教育委員会では、市内各地で発掘調査を行っており、その成果については文化財調査報告書と言う形で刊行しています。
昨年度は弥生時代から近世・近代に及ぶ6つの遺跡について報告書を刊行し、遺跡から見た「大野城市らしさ」を語る手がかりが蓄積しつつあります。
 本展では「つくる」を共通のテーマに、近年報告書が刊行された遺跡や関連遺跡の資料を中心に展示し、令和2年6月に広域認定を受けた
「日本遺産」の構成文化財についても紹介します。
 人類が誕生してからこれまでの間、様々なモノ・コトを「つくる」ことで私たちは生き延びてきました。
「つくる」ことは「生きる」こと、本企画展を通じて大野城市で生きてきた人々の営みをご覧いただければと思います。

発掘された大野城市の遺跡展

 10入口展示
 11企画展展示遺跡地図
ごあいさつ
関連遺跡地図
大野城市北部
大野城市南部
 12企画展関連年表
弥生~飛鳥 飛鳥~鎌倉
鎌倉は記述なし
室町~昭和
 


 110①玉づくり 石勺遺跡こくじゃくいせき 福岡県大野城市曙町2丁目3

石勺遺跡は大野城市まどかぴあ周辺にある遺跡で、これまでの調査で弥生時代から古墳時代にかけての大きな集落であったことがわかっています。
大野城心のふるさと館を建設する際の発掘調査で、5世紀後半の滑石を使った玉作りの工房が見つかりました。
ここでは、出土品から分かった玉作りの工程を紹介します。
 111玉づくりの行
①玉づくり石勺遺跡

上に記述
玉作工房イメージ


 臼玉作りの工程
臼玉作りの工程
➀板状素材
 滑石の原石から形を整えて、厚さ5mm程度の薄い板になるまで削る。
②棒状素材
 鉄の工具で両面に線を引いて筋目を付け、細長い板を折り取る。
③方形素材
 棒状素材からさらに方形の小さな板を折り取る。
④穿孔
 方形素材の中央に穴を開ける。
⑤仕上げ研磨
 角を取り、縁が丸くなるまで磨き上げる。

完成品の臼玉は幅3mm厚さ2mmほどしかない小さなもので、
失敗作を含め、数百個も見つかっています。


 石勺で作った玉類 
石勺遺跡で作った玉類
石勺遺跡の工房では、
滑石という柔らかくスベスベした石を加工し、
臼玉(平たいビーズ)、勾玉、
中央に小さな穴を開けた有効円盤や、
糸をつむぐための紡錘車などを作りました。
糟屋郡にある若杉周辺の滑石産出地域から
原石を入手したと考えられています。
玉類 臼玉、勾玉、有孔円板、紡錘車


 112滑石製品の製造 石勺(こくじゃく)遺跡
 様々な素材や未製品が出土したことにより、玉作の工程を復元することができます。

滑石製品 滑石製品
上に記述
滑石製品の製造 滑石剥片
荒割素材 板状素材 棒状素材
方形素材
方形素材 穿孔した未製品 臼玉 穿孔した未製品
勾玉
有孔円板
紡錘車
 114滑石製品完成品
滑石製品 勾玉未成品
有孔円板
紡錘車
 


 120②古墳づくり ~金山遺跡ほか~
 大野城市頭部にある四王寺山(しおうじさん)乙金山(おとがねやま)の麓では、多くの古墳が造られました。
5世紀前半には笹原古墳という比較的大きな古墳が築造され、
5世紀後半になると古野古墳群、
6世紀後半には善一田古墳群など、小さな古墳がたくさん集まった群集墳が出現します。
 近年、四王山麓で発見された金山遺跡・原田遺跡・薬師の森遺跡は、これらの古墳と同時代の集落で、古墳づくりに関わった人々が生活していた可能性があります。

ここでは、市域東部にあった5~6世紀の集落と古墳について紹介します。
 121
 壺型埴輪
 大きな壺のような形をした埴輪で、底は筒抜けになっています。古墳の墳丘に立て並べ、古墳を飾りました。


上に記述
古墳づくりのイメージ 土師器
鉢・高坏
5c金山遺跡
壺型埴輪
5c 笹原古墳
 122金山遺跡
 太宰府インターチェンジ近くにある金山遺跡では、5世紀前半の集落が見つかりました。
ここから南東に300mの地点には、埴輪を立てて甲冑を副葬した笹原古墳があります。
 金山遺跡と笹原古墳は近接する同時代の遺跡であることから、金山遺跡に住んだ人々が笹原古墳の築造に関わったと考えられます。
 金山遺跡の北東にある原田遺跡では、5世紀後半に人々が住み始めました。金山遺跡で暮らした人々の子孫達の集落と考えられます。
ここから1kmほど北には5世紀後半に築造が始まる古の古墳群があり、原田遺跡で生活していた人々が古墳造りに関わった可能性があります。

古墳と集落の関係を探る
上に記述
乙金山麓から四王山麓の古墳と集落
壺形埴輪 土師器 甕
原田遺跡5c
土師器 鉢
原田遺跡5c
三角板革綴衝角付冑
5c 笹原古墳
頭を守るためのカブトの破片です。
三角形の鉄板に穴を開け、革紐で閉じ合わせて作っています。
三角板革綴短甲
5c 笹原古墳
体を守るためのヨロイのはへんです。
三角形の鉄板に穴を開け、革紐で閉じ合わせて作っています。

※方形短冊形鉄板(小札こざね)よりも、三角形のほうが、曲面である身体の形状に合わせやすいので、発達したのでしょう。
王塚古墳の壁面を埋める三角模様も三角形であれば不定形の石の表面を覆いつくせるのでこの形にしたといわれています。


 123開拓者たちの古墳群
 大野城市東部の乙金東にある善一田古墳群は、6世紀後半~7世紀にかけての古墳群で、30基程が密集して造られました。最大の特徴は鉄器作りや朝鮮半島との交流に関わる人々のお墓であることです。
 古墳群の南にある薬師の森遺跡は、善一田古墳群と同時代の集落です。6世紀中頃にこの地の開発を進めた開拓者集団の集落で、武器造りの職人や渡来人が住んでいたことから、ここで 生活した人々が善一田古墳群を造ったことが明らかになっています。
 善一田古墳群で最も大きな18号墳に埋葬された人は、このような人々のリーダーだったと考えられます。

 薬師の森遺跡出土物

上に記述
善一田古墳群全景
18号墳石室
軟質系土器 甑
薬師の森遺跡
軟質系土器 甑 6~7世紀

食物を蒸すための調理具です。
土器表面を叩きしめて作る技法や把手上面の切り込みが特徴で、朝鮮半島から来た渡来人が作った土器と考えられます。

 薬師の森遺跡

軟質系土器高坏
薬師の森遺跡
軟質系土器 高坏 6~7世紀

脚部の透かし孔が上下互い違いに配置されるのは、
新羅の高坏の特徴です。
新羅系の渡来人がいたことが考えられます。

 薬師の森遺跡
軟質系土器
 薬師の森遺跡
軟質系土器 高坏 6~7世紀

小型で平底であることが特徴です。
朝鮮半島に一般的な煮炊具によく似ており、朝鮮半島の土器の影響を受けた可能性があります。

 薬師の森遺跡

 善一田古墳群副葬品
三累環頭大刀把頭 三累環頭大刀把頭
三累環頭大刀把頭 6~7世紀

刀の柄に装着した飾り金具です。
本体は銅で、表面に金を貼り付けています。
もともとは朝鮮半島にあった新羅という国の貴族の間で流行しました。

 善一田古墳群

※三累とは三つ重ねるという意味で、円が三つ連なっている意味です。
これまで、三累を三塁と書いてきたかもしれませんね。とても見にくい。
靭金具(ゆぎかなぐ) 靭金具(ゆぎかなぐ) 6~7世紀

 矢を入れる容器の金属部分です。内側には布・木質が付着しており、木製の本体に布をかぶせ、金属で補強したことがわかります。

 善一田古墳群
鉄鉗(かなはし) 鉄鉗(かなはし)  6~7世紀

 鍛冶や金属加工の際に、熱した鉄を挟むための道具です。金属製さんに関わる人の副葬品と考えられます。

 善一田古墳群

※薬師の森遺跡(集落遺跡)では、新羅系土器が散見され、その集落の群集墳である善一田古墳群では、新羅系武器が副葬される。
すると、二つの遺跡に葬られた人々は、新羅から、渡来した武器職人ということになります。

 

 126古野古墳群
 古野古墳群は、乙金宝満神社北側の小高い丘の上に密集して造られました。古墳は総数で40基ほどあり、いずれも直径が10mに満たない小さな円墳です。
 このうち、8号墳は、未盗掘の状態で発見されたので、副葬品が当時のままの状態で遺されていました。

 埋葬時の風景を探る
 古野8号墳の被葬者は、副葬品の配置状況から埋葬時には次のような姿勢(状態)であったと復元できます。
 遺体は仰向けの状態で、頭を石室の奥側に向けています。
頸には青いガラス玉と青銅鏡を連ねた首飾りを付け、腰には青銅製の鈴をぶら下げていたと考えられます。
また、頭の近くに須恵器の壺、左腕の近くに鉄剣、左足の近くに鉄の矢尻、右足の近くにU字形鋤先・鉄鎌・鉄斧を副葬していました。

 農工具類や剣・矢尻の存在から、被葬者は開発や軍事に関わる人物と想定できます。
また、鏡や鈴を持つことから司祭者的・宗教的な側面もうかがえ、多様な性格をおびた人だったと考えられます。

古野古墳群
上に記述
古野8号墳副葬品
埋葬時の風景を探る

上に記述
古野8号墳 石室 古墳造りのイメージ
 127古野8号墳石室配置

ということは、この展示物は本物
鉄剣の位置 鉄剣
須恵器 壺 5c
古野8号墳
銅鈴 5c
四禽文鏡5c

中国舶載青銅鏡
四羽の鳥を表現
ガラス玉ネックレス。一つだけ赤い玉があり、インド周辺でつくられたもの。
 

 130須恵器作り


 131激動の時代の須恵器作り➀ ~谷蟹窯跡~
 大野城市南部、旭ヶ丘のリョーユーパン工場近くの山で見つかった谷蟹窯跡は、水城・大野城が築造された頃に須恵器を焼いた窯跡です。
すぐ近くには水城跡・上大利小水城跡があり、防衛施設の築造と並行して須恵器作りを続けていたようです。
 窯は山の斜面を煙突状に掘り抜いて、造られました。窯の奥に筒状の煙突がつく構造は、7世紀以降の窯の特徴です。
窯の長さは3~4mと小さく、こうした窯を複数築き、坏や皿などの食器を大量に生産しました。

※小さなアナ窯で、手返しよくいろいろなものを短期間で焼いていたようです。頭脳的ですね。後世の登り窯(アナ窯を連ねたもの)では、年に1回か2回ほどしか焼けないので、実に効率的です。

激動の時代の須恵器作り➀

上に記述
谷蟹窯跡
奥に煙突が見える
須恵器 食器
7~8世紀
右に記述
水城跡や小水城跡が築造された頃に谷蟹遺跡で焼かれた須恵器です。いずれも失敗作で、大きくひずんだ須恵器もありました。
 谷蟹窯遺跡 

※焼き物には必ず焼き損じが出るので、窯の下に捨てますが、発掘はそれを拾ってきて、失敗だ失敗だと言ってるのです。現代でも製造すると必ず何%かのロスが出ます。
 132
谷蟹窯跡と
水城・小水城
須恵器 蓋坏
7世紀

7c前半の食器です。
蓋と身が同じような形で底部は丸く、食事の際は手のひらに乗せて使用しました。

7c中頃の食器です。
蓋にツマミがつくのが特徴。中国・朝鮮半島の金属製の器に影響を受けたと考えられる。

7c後半の土器です。
7c後半以降に一般的となるもので、底部に高台が付き、安定した形になります。

 133激動の時代の須恵器作り②
 谷蟹窯跡で須恵器が造られていた頃は、倭国(日本)が古代国家形成に向けて大きく変化していく時代です。
これは人々の食事スタイルにも影響を与えました。

 最もポピュラーな食器である蓋坏は初めは丸底だったものから、次第に平底や台が付くものへと変化していきます。
 この変化の背景には、中国や朝鮮半島の金属器の影響がありました。
また、食事の作法ともかかわっており、中国や朝鮮半島との交流の中で、匙や箸を使う食事法を受け入れ、た結果、御膳に据えて使う平底や高台が付く食器が好まれ、るようになったと考えられます。

激動の時代の須恵器作り②

上に記述
詳細図を掲載不能
ピンボケ
須恵器 有蓋埦
7世紀 後田遺跡
高い台が作く埦です。
金属製の器をまねたと考えられ、
7世紀後半以降に流行する食器の先駆けとなる土器です。

 後田遺跡
 

 135須恵器作りを支えた人々 ~古墳の副葬品~
 牛頸にある古墳は、窯近くに造られていることが多く、須恵器作り職人のお墓と考えられています。
古墳の副葬品には、色とりどりのガラスや石で作った装身具があり、須恵器作りの職人の中にはアクセサリーで身を飾った人がいたことがわかります。
 須恵器の窯を掘るのに必須のアイテムであるU字形鋤先(スコップの刃先)を副葬することも大きな特徴で
須恵器作りに対する職人魂が感じられます。また、副葬品には鉄の矢尻も多く、武器も保有していたようです。

須恵器作りを支えた人々~古墳副葬品~

上に記述
須恵器作りを支えた人たちの古墳
後田古墳群全景

 136古墳副葬品 6~7世紀 
装身具
6~7世紀
中通古墳群

材質はガラス・石、形は勾玉・管玉・切子玉等、産地は山陰地方・北陸地方の他、朝鮮半島産もあります。
子持ち勾玉
7~8世紀
日ノ浦遺跡

大きな親勾玉に小さな子勾玉がくっついている。須恵器生産にかかわる祭の道具と考えられます。
 

 138U字形鋤先 5~7世紀  中通古墳群、後田古墳群
 土を掘るためのスコップの刃先部分です。木製の本体に装着して使用しました。
剣先スコップ ※ご注意ください。
関東ではこれをシャベルと言います。
 139飛燕式鉄鏃 6~7世紀 中通古墳群、後田古墳群
飛燕式鉄鏃  鉄の矢尻で、燕が飛んでいるような独特の形をしています。
須恵器や鉄などの生産集団のシンボル的な武器と考えられています。

※須恵器職人がこんな殺傷力の高い武器で攻撃していたなんて、
およそ、その職業からは想像できない危険な集団です。
刺さったらもう、抜けない。切開できないので死ぬしかない。
 
 
 
 


 170③須恵器づくり~牛頸須恵器窯跡



 171須恵器づくり
大野城市南部の上大利牛頸周辺では、6世紀中頃から9世紀中頃までの間に600基程の窯が築かれ、「須恵器」という焼き物が沢山作られました。
ここで造られた須恵器は、西の都「大宰府」をはじめ九州各地にもたらされました。
九州最大の須恵器生産地であることから、「牛頸須恵器窯跡」として国の史跡に指定されています。
ここでは近年調査された谷蟹窯跡の発掘成果をはじめ、牛頸地区にある古墳の副葬品や「ヘラ書き須恵器」から、須恵器づくりに携わった職人たちの姿に迫ります。

 須恵器 大甕 7~8世紀
6~7世紀の牛頸須恵器窯跡では、大きな甕も盛んに造られました。展示している甕は、高さ約90cmの大型品で、200~250ℓ程の液体を入れることができると考えられます。
焼き上げると硬く締まり、水を通しにくくなるので、水や穀物などの貯蔵のほか、酒などの醸造に使われたのでしょう。

③須恵器づくり
上に記述
窯焚きのイメージ 須恵器 大甕 須恵器大甕7-8c

 172須恵器づくり職人のリーダー~ヘラ書き須恵器~
牛頸須恵器窯跡の須恵器には「大神部おおみわべ」「大神君おおみわのきみ」のほか、「内椋人うちのくらひと」「押坂(部)おしさかべ」などの人名が記された物があり、
様々な氏族が須恵器生産に関わっていたことがわかります。
なかでも「大神」姓がもっとも多く、牛頸の須恵器生産を主体的に担った氏族と考えられます。
「大神部見乃宮みのみや」と書かれたヘラ書き須恵器の存在は、この人物が須恵器生産の「官」(管理者)であったことを伝えます。

 ヘラ書き須恵器 7世紀
[釈文] 「大神部見乃官」
大甕の頸部に横書きで文字を記しています。胴部との接合部分に近く、書きにくい場所にかなり明瞭で達筆な文字で書かれています。

須恵器づくり職人のリーダー~ヘラ書き須恵器~

上に記述
「大神部見乃官」 ヘラ書き須恵器
上に記述

 173法を守る職人たち~ヘラ書き須恵器~
牛頸ハセムシ窯跡群で出土下奈良時代のヘラ書き須恵器には、和銅6(713)年に筑紫国那珂郡手東里に暮す大神部得身ら3名が
「調」(税として納めた地域の特産物)として須恵器の大甕を納めたことが記されています。
奈良時代の法律には「国、郡、里、戸主、姓名、年月日」を記して「調」を納めるという規定があり、牛頸の須恵器職人達は法律を忠実に守っていたようです。

 ヘラ書き須恵器 8世紀
大甕は畿内では六人で一口を調(税金)として納めることになっていますが、その他の地方では三人で一口と規定されていました。

法を守る職人たち~ヘラ書き須恵器~
上に記述
ヘラ書き須恵器
ヘラ書き須恵器
 
 180歴史遺産
上大利小水城跡 上大利小水城跡
調査成果
水城跡とは別に、小さな谷を塞ぐために造られた小規模な土塁が「小水城」です。
調査の結果、長さ90m幅23m高さ5mあることが判明しました。

土塁は上下二段構造で、砂と粘土を交互に積み上げて造られるなど、水城本体とよく似ています。
外濠はないものの、土塁北側(博多湾側)には湿地が広がっており、防禦機能を意図してこうした場所を選んだ可能性があります。
伝説の父子嶋
ててこじま
水城造りに携わった父子
昭和50年頃の父子嶋
(奥の森が水城跡)
水城西門跡から北へ約150mの所に小高い丘があります。
水城造りに携わった父と子の親子にまつわる民話から「父子嶋」と呼ばれています。

発掘調査の結果、この丘は9万年前の熊本・阿蘇山噴火時の火砕流堆積物でできた
自然の丘であることが明らかになりました。

火災流堆積物の土は水城土塁の積土として使われたことが明らかになっており、残された父子嶋も水城と共に敵の侵入を防ぐ役割を担った可能性も考えられています。
上大利老松神社の門礎石(唐居敷)
かみおおりおいまつ
からいしき
門礎石、
門礎石の使用法
平成29年末、大野城市上大利3丁目にある老松神社の境内に安置されていた大きな石が実は古代の城門を支える門礎石であるとわかりました。

この門礎石は、掘立柱式の門に据えられたもので、大野城や水城が造られた時期に極めて近いものです。
本来あった場所はわかっていませんが、水城西門跡が上大利小水城跡が候補と考えられます。
御笠の森
御笠の森
大野城市山田交差点近くにある森は、昔から「御笠の森」と呼ばれてきました。
『日本書紀』には、神功皇后が橿日宮かしいのみや(福岡市香椎かしい)から
松峡宮まつのおのみや(筑前市)へと向かう途中、つむじ風により皇后の笠が飛ばされたことから、
この地が「御笠」と名付けられたことが記されています。

また、御笠の森を詠んだ歌は『万葉集』に収録されており、現地には万葉歌碑が立てられています。
街中に残る森と背後にそびえる四王寺山は、万葉の姿を今に伝えます。
日本遺産 日本遺産(Japan Heritage)は、地域の歴史的魅力や特性を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するものです。
平成27年に大宰府市が認定を受けた『古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~』が、令和2年に大野城市、春日市、那賀川市、宇美町、佐賀県基山町まで広がり、計30件の構成文化財でストーリーが構成されています。

大野城市では、水城、大野城跡、牛頸須恵器窯跡、牛頸須恵器窯跡出土ヘラ書き須恵器、御笠の森、善一田古墳群が認定されました。
それぞれの遺跡については、展示の中で紹介してきましたが、ここでは、最後に大野城跡についてご紹介します。
大野城① 大野城全景 665年に築造された日本最古の朝鮮式山城です。
663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に破れた倭軍(日本)は、早急に防衛体制を整える必要性に迫られました。
百済の亡命貴族の指揮により築造されたことが「日本書紀」に記されています。

南の麓には「遠の朝廷とおのみかど」大宰府政庁があり、西側に連なる水城と共に、築造当時に敵対関係にあった唐や新羅の襲来に備えました。
大野城② 百間石垣 全長8kmに及ぶ土塁・石垣が四王寺山の山頂を巡っています。なかでも長さ180m以上ある百間石垣は、往時の堅牢な城の姿を伝えています。

内部では様々な施設が見つかっています。建物跡は70棟墓度あり、ほとんどが大型の総柱建物で、米などを備蓄する倉庫であったと考えられます。

また、城野内外を繋ぐ城門跡は9ヶ所で確認されており、門を支えた礎石が残っています。
 
 


 140④国づくり ~水城跡・小水城跡~

 水城跡・小水城跡は664年に築造された古代の防衛施設です。
663年の白村江の戦いで敗れた倭国は、福岡平野が最も狭くなる場所に巨大な土塁(土を積み上げた堤防上の壁)を築き、
博多湾側に濠を掘り、唐・新羅連合軍の襲来に備えました。
土塁は全長1.2km高さ10m、濠は幅約60m深さ4mで、東西2か所には門があり、土塁の下を通る導水管の木樋が見つかっています。
 ここでは、日本の国造りの礎(いしづえ)とも言える水城跡について近年行った最新の発掘調査成果を紹介します。

④国造り 
上に記述
水城づくりイメージ
 141水城跡最新調査①
 令和元年度の調査は御笠川の近くで行い、土塁北側(博多側)に「広場」を発見しました。
この広場は水城築造時につくられた可能性があり、出土遺物から水城築造時から奈良時代にかけて、何らかの活動があったことがわかりました。
 広場が何に使われたかは明らかではありませんが、御笠川に面した立地から、兵士が守る防御的な施設や川港のような施設があったのかもしれません。

水城跡最新調査①

上に記述
調査地の位置
調査正か概念図
調査地の位置

 水城跡最新調査②
 平成27~29年度の調査では、水城西端部近くにある西門跡の北側(博多側)で行いました。
平安時代末期に使われた道路の西側溝を確認し、西門で使われた鬼瓦が出土しました。
水城が築造された頃の道路は失われていましたが、今回発見した側溝は、大宰府から鴻臚館へと通じる官道の名残と考えられます。
 また、外堀があると想定した場所では濠は発見されなかったため、水城の構造を考えるうえで新たなきっかけとなりました。
 ※水城は土塁外側に大きな濠を持つことから水城というのかと思っていましたが、場所によっては濠が途絶えたんですね。

水城跡最新調査②
上に記述
調査位置
調査成果概念図
 
 145水城出土遺物 須恵器 蓋坏 7~8世紀
須恵器 蓋坏7~8c
欠堤部の外側
水城築造時に近い7c後半~8c頃の食器。
御笠川に面した広場で、人々が活動をしていたことを示す重要な資料です。
土師器 盤8c
欠堤部の外側
皿を大きくしたような土器です。奈良時代には使用する場所や身分によって使われる食器に違いがありました。このような大型の食器は階層の高い人が使用した可能性があります。

 146土師器 甑
甑(参考資料) 水城跡(欠堤部の外濠)出土の甑と同じ形式の甑です。全体がわかる参考資料年てご覧ください。 仲島遺跡

 甑の牛角把手(こしき  ぎゅうかく とって) 水城跡(欠堤部の外濠) 7~8世紀
 食物を蒸すための調理具です。2ヶ所に把手が付き、そこには蒸気孔があります。
御笠川に面した広場で、人火度が活動していたことを示す資料です。

土師器甑の牛角把手 土師器 甑
上に記述
甑の牛角把手
 7~8世紀

上に記述

 148鬼瓦 8世紀
西門周辺で出土した大宰府式鬼瓦です。眉をつり上げ、憤怒の形相をした鬼を表現しています。
鬼瓦は門を立派に見せるとともに、悪い「気」を寄せ付けない役割を期待して屋根の上に葺かれました。

鬼瓦 鬼瓦
上に記述
 


 150⑤村づくり ~宝松遺跡・御笠の森遺跡~



 151遺跡出土物
大野城市北部の山田にある「御笠の森」周辺には、平安時代~江戸時代のはじめ頃まで続く大きなムラであった御笠の森遺跡があります。
また、御笠の森遺跡のすぐ南にある宝松遺跡の調査でも、平安時代の終り頃のムラの一部が見つかりました。
平安時代の宝松遺跡・御笠の森遺跡は、日田街道沿い(現在の県道112号線)に広がる江戸時代の山田村へとつながって行きます。
ここでは「山田村」のルーツともいえる宝松遺跡・御笠の森遺跡について紹介します。

⑤村づくり

上に記述
江戸時代の山田村
イメージ
土師器皿・鉢
瓦器碗
白磁皿・碗
滑石製石鍋12c×2
滑石製硯12c
 152
土師器皿・坏 12c
宝松遺跡

中世初期の土師器の食器。皿や坏は大きさで年代を特定できることから、時代の物差しといえます。
瓦器 椀 12c
宝松遺跡

瓦器は中期に出現する灰黒色の土器です。器の内外を磨き、表面を燻しているため、独特の光沢があります。中世の大野城市内で瓦器の生産をしており、地元産の可能性があります。
白磁皿・椀 12c
宝松遺跡

表面に透明な釉薬をかけた土器です。中国・福建省周辺で作られた輸入品で、博多や太宰府を通じて入手したと考えられます。
滑石製石鍋 12c
御笠の森遺跡

煮炊き用の石鍋です。石鍋4つで牛一頭の価値があったと言う記録があります。縦に着いた突起は「縦耳」と言い、後に横に突起がつく「横耳」に変化します。本例は縦耳で古いタイプの石鍋だとわかります。
滑石製石鍋 12c
宝松遺跡

小型の石鍋です。4カ所に縦方向の突起がついています。外側には煤が付着しており、実際に調理に使用されていたことがわかります。
滑石製硯
宝松遺跡

石鍋を再加工した硯です。上面はツルツルとしており、実際に墨を磨ったことがわかります。下面は荒く削り、硯の座りを良くする加工を施しています。

 153裕福な人が住んだ村~宝松遺跡~
平成30年に行った発掘調査で、幅2mの溝に囲まれた村の一部が 見つかりました。
溝からは当時使われていた食器のセット(国産の土器類・中国産の陶磁器類)や調理道具(すり鉢や石鍋)などの良好な形で見つかりました。
また、滑石製の硯や中国産の緑釉陶器などもあり、村に暮した人の裕福さがわかります。
宝松遺跡の年代は、12世紀後半と考えられます。隣接する御笠の森遺跡は、生活域が大きく広がる時代であり、村は拡大・繁栄していたようです。

裕福な人々が住んだ村
上に記述
宝松遺跡-御笠の森遺跡の集落範囲の変遷
平安・戦国・江戸
茶臼 17世紀 茶臼 17c
茶臼の上石です。上面にある穴から茶葉を入れ、側面にある穴にハンドルを差し込み回転させて茶を挽きます。下面が著しく擦れてていることから、かなり使い込んだことがわかります。
鯨骨 17世紀
刃物跡から食用として持ち込まれたと考えられる。
鯨の骨 17c
御笠の森遺跡
鯨の脊椎骨です。直径で8.8cm、10m前後の体長に復元できます。表面には、刃物で削ったような痕跡があり、食用として持ち込まれた可能性があります。



 

 155戦乱を生き抜いた人達の村~御笠の森遺跡~
御笠の森の遺跡の戦国時代の集落は、溝で囲まれた屋敷が集合した姿へと変化します。
戦乱が絶えなかった戦国時代、敵の侵入から村を守る工夫だったと考えられます。
これを裏付けるように火縄銃の弾丸(鉛玉)も出土しました。一方で、羽子板・独楽や碁石など遊び道具も出土しており、
戦乱の合間の平和な時間も垣間見えます。
その後、江戸時代のはじめ頃(17世紀後半)になると、村は300~400m南側に移動します。その後の山田村、そして現在の山田に繋がっていきます。

戦乱を生き抜いた人々
上に記述
御笠の森調査風景 遺跡区画溝

 156玩具 17世紀
鉛玉 17c  鉛玉
火縄銃で使用される弾丸で、直径10~12mmです。
「二匁玉」に相当する一般的な大きさです。
火縄銃は天文12(1543)年、ポルトガル人により日本に伝来しました。

 玩具
碁石
17c 御笠の森遺跡

独楽17c
御笠の森遺跡

直径2cmほどの黒い石と白い石を碁石として使用しました。囲碁は戦国時代には武将のたしなみとされ、江戸時代には広く普及していたと考えられます。
独楽
17c 御笠の森遺跡


独楽は江戸時代には一般的な玩具として親しまれました。江戸時代の博多では「博多独楽」と言うよく回る独楽が開発され、曲芸である「曲独楽」へとつながっていきます。
羽子板
17c 御笠の森遺跡

 羽子板は鎌倉~室町時代に出現し、正月行事で使用されました。
「胡鬼板」とも呼ばれ、子供が蚊に刺されないためのおまじないとして使われたとも言われています。
 157モマ笛
モマ笛(フクロウ形土器)
江戸~明治 宝松遺跡

モマ笛
江戸末期~明治時代
モマ(フクロウ)をかたどった土笛です。笛の下部分のみが出土しています。現在、津谷崎人形で人気となっているモマ笛よりも鳥らしい古式の造形で、モマ笛の変遷を知る上で貴重な一品です。

モマ笛 昭和
原田半蔵作の津屋崎人形のモマ笛(ミミズク形)です。老人の嚥下障害を防ぐために作られるようになったと伝えられるモマ笛は、現在も津屋崎で作られており、人気となっています。
 158武者人形
大型武者人形
明治以降
宝松遺跡
人形の部品 源義経
 


 160⑥街づくり~後原遺跡~(うしろはら)
 

 161後原遺跡
後原遺跡西鉄白木原駅の西側一帯に広がる遺跡で、江戸時代の書物に記された「白木原村」の中心集落「本村ほんそん」跡です。
最近の調査では14~15世紀頃の集落も見つかり、白木原村の始まりが更に古く遡る可能性も出てきました。
室町時代~江戸時代の村を経て、戦前・戦後、そして今の街へとつながる変遷が明らかになりつつあります。

⑥街づくり 昭和40年頃の白木原のイメージ
変わりゆく街 大正15、昭和20年頃

 162陶製品
 青磁碗・皿
中国浙江省の龍泉窯で生産された磁器です。蓮弁文がトレードマークで、どっぷりとした厚い釉薬をかけることがこの時代の特徴です。

青磁碗・皿 瓦質土器釜
ピンボケ
 163
ガイシ(碍子)
送電線の絶縁体
ピンボケ
瓦(現代)

 164陶製ポンプ 後原遺跡
「新衆特許 花尾か式」の文字が書かれています。手押しポンプは金属製でしたが、太平洋戦争の激化によって金属が不足したため、金属の代替品として陶器で造られました。

陶器製ポンプ 陶製ポンプ使用イメージ 古博多人形