西日本の縄文 28 2016.04.21-1
福山市 しんいち歴史民俗博物館 広島県福山市新市町大字新市916 0847-52-2992 月曜休館撮影可
(正式名称: しんいち歴史民俗博物館・あしな文化財センター のようです)
交通 新市駅から800m徒歩10分
見所 旧石器時代終末期の石器、縄文時代の石棒、二子塚古墳。 広島県の瀬戸内側で撮影可能な唯一の博物館です。
時代 旧石器時代~古墳時代(古墳時代が中心)
注意 ここは本来、絣(かすり)博物館で、そこに、歴史博物館を増築しました。外観が二つの建物なのはそのせいです。
注意 絣博物館では織物教室を連日開催し、技術の動態保存・継承保存がなされています。
この日も経糸 (たていと) を掛ける作業の準備中だったので、
挨拶をすると、無言の女性の指導者は、突然、「あんた! どちらさんだすか!」と怒鳴り、あとは無視されてしまった。
見学施設に久々に来た見学者に、お前は何者だ。怪しいやつ。おかしなやつ。というのは、それこそおかしいではないか。
博物館で働いている以上、見学者に対して説明の義務がある。
博物館が何か、見学者にどう対応すべきか、全くわかっていない博物館指導員でした。 腹を立ててはいけませんね。
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目
次 |
01外観と年表
02入口展示
広島県東部の古墳
03二子塚古墳
04市原遺跡
05矢立遺跡
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10旧石器時代
11宮脇遺跡
20縄文時代
21早期 宮脇遺跡
22中期・後期 芋平遺跡 新市町常
23石棒 福山市新市町戸手出土(伝)
24中期・後期・晩期
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30弥生時代
31福山市年表
31大森遺跡 弥生前期
33久保田遺跡・神谷川遺跡
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40古墳時代
41汐首遺跡
汐首C遺跡
汐首B遺跡
44下迫古墳
45尾ノ上古墳
46二子塚古墳 |
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01外観と年表
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02入口展示 |
広島県東部の古墳
広島県東部は、古代では備後国。更に古い古墳時代には、吉備に含まれていました。 吉備には巨大古墳が築かれました。
広島県東部では、神石高原町に辰の口古墳(前期L=77m)、福山市加茂町に尾ノ上古墳(前期L=60m破壊)、尾道市に黒崎山古墳(中期L=70m消滅)
大元山古墳(中期L=50m消滅)等がありました。
古墳時代後期6世紀後半には、広島島県東部北寄りの地域では20~30m級の前方後円墳が造られましたが、南寄りの地域では知られていません。
そこへ突然、当時の吉備の国の範囲で、こうもり塚古墳に続く規模の大きな前方後円墳、二子塚古墳が築かれました。
03二子塚古墳
・時期 古墳時代後期 6c末~7c初頭 西日本最後の前方後円墳
・墳丘 L=68m、周溝を含むとL=73m、広島県内4番目、後期では最大
・石室 前方部、後円部に各々横穴石室あり。 後円部石室14.9m前方部石室12.6m
・石棺 後円部の石棺は、大王の石棺と呼ばれる竜山石(兵庫けん高砂市)
・副葬品 須恵器・土師器(後期の特徴)、双龍環頭柄頭は全国類例無い意匠で瀬戸内初出土
・周辺の古墳 周辺には大型横穴式石室墳や横口式石槨が集中。
このような終末期古墳の集中的な分布は、畿内,出雲,上野など限定地域以外にない
古墳後期吉備国だった福山に、二子塚大型前方後円墳が築造された。 |
広島県東部の古墳
6c末~7c初頭、墳長68m全長73m
横穴式石室14.9m |
二子塚古墳
石棺は兵庫県加古川市竜山石製(大王墓専用の石材産地だった) |
古墳図面
双龍環頭柄頭(類例無い意匠、瀬戸内初)
終末期での大型古墳 |
後円部石室
前方・後円両部に横穴式石室をもつ。 |
二子塚古墳の現状
古墳後期、小型円墳が主流の時、巨大前方後円墳はヤマト政権関係者の→ |
古墳の崩壊
→巨大古墳でしょう。当時の支配者吉備は中央と強く]結びついていた。 |
石室の発掘調査 |
前方部石室の発掘調査 |
埋葬施設全景 |
玄室床面
石棺を取り除いたところ |
入り口から玄室方向 |
前方部石室の土層断面 |
盗掘跡
赤字は石材採取による攪乱 盗掘跡 |
甕出土状況 |
双龍環頭柄頭 |
双龍環頭柄頭は、
・大和政権から下賜され た大刀です。すなわち
国産刀です。
・この大刀政策職人の
模造刀の
制作技術についての理 解が不十分であったと
されています。 |
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04市原遺跡 弥生時代 の資料がありましたが、少量で他とかわらないので割愛しました。 |
05矢立遺跡 古代の製鉄遺構 弥生時代 の資料は、製鉄資料がないので意味なしと判断し割愛しました。 |
10旧石器時代 |
11宮脇遺跡(新市町常) 後期旧石器時代~縄文時代早期
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旧石器時代の遺物は,サヌカイト製の細石核・細石刃・小型のナイフ形石器が少量伴出し,旧石器時代終末およびそれ以降の過渡的な様相を示す。
遺跡は群馬県岩宿遺跡の発見に先立って報告された。日本に細石器文化の存在が提唱され、後の研究に大きく影響を与えました。
出土した石器の多くは、縄文時代早期以降のものですが、安山岩製の横長剥片石核1点と縦長剥片石核1点については、後期旧石器時代
(2万年前~1.2万年前)の新しい段階に属するものと考えられます。(後期旧石器時代 終末期) |
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旧石器・縄文時代 |
宮脇遺跡
(旧石器・縄文早期)
縄文早期-押形文土器・
石鏃・刃器・磨製石斧
・剥片
旧石器-細石器 |
芋平遺跡(縄文中~晩)土器・磨製・打製石斧・
石鏃・刃器・敲石・石錘
土坑
土器は8種類中期~晩期
最盛期は後期中頃 |
神谷川遺跡(縄文晩期)晩期土器・石鏃・刃器・
剥片・敲石 |
石核(旧石器・宮脇遺跡) |
後期旧石器時代 末期細石刃・細石核 |
後期旧石器時代 末期尖頭器・ナイフ形石器
宮脇石器時代遺跡 |
宮脇遺跡は、
サヌカイト製の細石核・細石刃ならびに小型ナイフ形石器が少量伴出する。
旧石器時代終末期
(約20,000~12,000年前)
としている。
一般的には1.8万~1.6万年前と考えられている |
※宮脇遺跡=
宮脇石器時代遺跡 |
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旧石器
安山岩製横長剥片石核
縦長剥片石核、各1点
3.5~1.2万年前
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20縄文時代
宮脇遺跡
縄文時代早期の押型文土器と細石器を出土した遺跡として知られているが,二次的に堆積した可能性が強い。
縄文時代の遺物は,押型文土器・撚糸文土器・無文厚手土器,それに伴う石鏃など縄文時代早期中葉のものが中心である。
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21早期 宮脇遺跡
縄文土器 宮脇遺跡 |
縄文土器 |
縄文時代早期押形文・山形文土器 |
押形文土器 |
押し形文には、
器面を整える以外に、スリップ防止の意味もあったのかな。 |
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22中期・後期 芋平遺跡 新市町常
芋平遺跡 中・後期 |
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石器 剥片・スクレイパー |
石鏃 |
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23石棒 福山市新市町戸手出土(伝)
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他の地域で見られない独特な意匠の石棒です。
北陸の彫刻石棒でもない |
時期が不明ですが、
中期後期でしょうか |
頭部に二本の横くびれ。
被熱の痕跡がなく |
物理的破壊の痕跡だけ。
何でしょうかこれは。 |
後期晩期に北陸から大量の移民が関西・瀬戸内・九州に流れ込みました。
しかし、彼らの意匠とは
かけ離れた、独自のものです。 |
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24中期・後期・晩期
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中期・後期
汐首・後池遺跡群 |
中期・後期 汐首・後池遺跡群 |
晩期 神谷川遺跡 |
土器形式が全く分からないので、どうしようもありませんでした。 |
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30弥生時代 紀元前2・3世紀頃~紀元3世紀頃の5・600年間
青銅器・鉄器の使用。水田稲作を主とする米作りの農耕社会が形成された。 木製農具などで水田を開発し経営した。
米交易により、農業生産力の向上は富の蓄積を増大し、戦乱を経た集団の統率者は、次第に政治的な支配者に変化した。
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31福山市年表
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縄文・弥生時代
宮脇遺跡/縄文早期
芋平遺跡/中~晩期 |
古墳前・中・後期 |
古墳後期・終末期二子塚古墳6c後半 |
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31大森遺跡 弥生中期
大森遺跡は、下層で弥生前期の壺・鉢が、 上層で弥生中期の壺・甕が出土した。
大森遺跡 弥生前期
久保田遺跡 弥生中期
神谷川遺跡 弥生後期 |
3cBC~3cADの5~600年 |
大森遺跡 中期壺・甕(中期) |
石斧・石包丁
(新市町戸手) |
甕・壺/大森遺跡 |
鉢(前期) |
二松井遺跡
(新市町宮内)壺 |
下迫遺跡(下安井)中期 甕 |
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33久保田遺跡・神谷川遺跡 弥生時代 後期
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久保田遺跡 (弥生後期) |
弥生時代後期を中心とする、古墳時代初めにかけての甕・壺・鉢・高坏・ミニチュア土器等が大量に出土した。 |
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神谷川遺跡 (弥生後期) |
川の合流する付近の丘陵上に位置する集落跡で、竪穴住居跡・貯蔵穴・炉跡などの遺構が発見された。
また、土器は、「神谷川式土器」と呼ばれる、広島県東部の弥生後期の指標土器となっている。
そのた、砥石・磨製石斧などの石器類や貝類が出土した。 |
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久保田遺跡弥生後期 |
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神谷川遺跡弥生後期 |
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久保田遺跡/後期土器 |
神谷川遺跡/後期土器
鉢・高坏・器台 |
神谷川遺跡/後期土器鉢 |
神谷川遺跡/後期土器
壺・甕 |
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40古墳時代
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3c末~7c |
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弥生農耕社会が発展し、コメ交易で膨大な富と権力と武力を蓄え、地域の支配者となった人々の墳墓である。 |
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4c~5c(前・中期) |
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竪穴式石室に多数の副葬品を伴う大規模なものが多い。 |
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6c以降(後期) |
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横穴式石室を持つ小規模な古墳が多数つくられるようになる。 |
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これは、生産力が増大して、それまで古墳を造らなかった有力農民層が家族墓を作ったと考えられる。 |
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41汐首遺跡
※1汐首C遺跡 (弥生後期~古墳初頭) 丘陵上の墳墓群
土壙墓・石蓋土壙墓・木棺礫槨墓・箱形石棺墓・竪穴系箱形石棺墓など多様な墓の形態がまとまって見つかった。
弥生時代には有力者の埋葬施設を中心に集団墓を形成。
古墳時代には有力者の墓は溝などで周囲から隔絶するようになる。
※2汐首B遺跡 (弥生後期~古墳初頭) 丘陵頂部の集落跡
竪穴住居跡・平地式住居跡・貯蔵穴用土坑。柵列・墳墓群が見つかった。
竪穴住居は斜面を開削して建築。
頂上付近には一般と異なる規模の大きい竪穴住居と柵で仕切られた平地式住居があった。
古墳時代 |
汐首C遺跡※1 弥生後期~古墳初頭 |
汐首B遺跡※2弥生後期~古墳初頭 |
丘陵上の弥生ムラ
汐首B遺跡 |
竪穴住居汐首B |
弥生集団墓汐首C |
5号古墳汐首C |
2号墳汐首C
矢印は壺形土器出土位置 |
高坏 (汐首C) 後期 |
鉢汐首C 古墳後期 |
土師器 |
古墳前期土師器製
高坏(亀寿山1号)
壺(汐首C) |
ミニチュア土器(宮脇)
古墳前期土師器製の鉢 (浅原遺跡)
丸底壺(清長遺跡)
壺 (浅原遺跡) |
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44下迫古墳 4c古墳前期
10m前後の円墳で、地山を掘り込んだ二基の墓壙があり、二基から二体ずつ四体の人骨と鉄器・玉類が出土。
下迫古墳 赤色顔料の木棺 |
二体分の人骨 |
2体分の墓壙 |
潮崎山古墳三角縁神獣鏡
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複製鏡/三角縁五神四獣鏡 |
汐首C遺跡汐首2号古墳
汐首C遺跡 |
鉄鎌・鉄斧・槍鉋・剣
・文殊鏡 |
ガラス小玉・内行花文鏡 |
汐迫古墳鉄斧・ガラス小玉・管玉・鉇・勾玉・鉄剣 |
尾市古墳発掘調査 |
尾市古墳 模型両袖付き横穴石室 |
尾市第1号古墳 |
両袖。両袖室には宝物が多数納められた |
大変珍しい形式
(十字塚) |
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45尾ノ上古墳
古墳時代前期 (4世紀) 前方後円墳 全長60m、加茂谷地域の首長墓
墓壙内の埋土から「き鳳鏡」や翡翠製勾玉2点、緑色凝灰岩製管玉12点、ガラス製小玉187点出土
尾ノ上古墳 |
墳丘葺石と壺形埴輪出土状況 |
円筒埴輪と装飾品/
きほう鏡/
壺形埴輪 |
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壺形埴輪 |
ガラス製小玉 緑色凝灰岩製管玉・翡翠製勾玉 |
中国製/
夔鳳鏡
きほうきょう |
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裏面に鳳凰が翼を広げているようにみえる竜形の文様をつけた青銅鏡をいう。後漢のものが多い。 夔というのは竜のようで1本足,また牛のようで角がなく,水に出入りすると風雨あり,その光は日月のごとく,声は雷のようだといわれている。
引用コトバンク |
尾ノ上古墳の被葬者
吉備地方縁辺の、
小地方豪族にしては
後漢の輸入鏡が副葬さ れており、勢いのあった
地域首長のようです。 |
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46二子塚古墳 古墳時代後期 (6世紀後半~7世紀)
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全長68mの前方後円墳。古墳時代後期の築造では最大。後円部石室は両側から玄門にかけて狭まる両袖式。
玄室内では、破壊されていた組み合わせ式櫃形石棺 (ひつがた、兵庫県加古川市産竜山石製:竜山石は大王専用の石材産地だった)
石棺内寸は長1.8m幅0.8m高0.75m。須恵器の供献から6世紀末築造。畿内では前方後円墳の築造は終わっており、西日本最終末の前方後円墳である。 |
汐首古墳
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古墳後期 出土物 |
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芦田川南岸の丘陵斜面にあった古墳。昭和の開墾で破壊。 円墳/内部主体の長さ2.7m幅1.8m高さ1.5mの横穴石室と推定。 環頭大刀柄頭・平瓶・直刀・須恵器坏・高坏・提瓶・平瓶 |
二子塚古墳出土物副葬品 環頭だけが残っていたか |
二子塚古墳
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二子塚古墳 |
二子塚古墳図面横穴式前方後円墳/二か所の横穴式石室を持つ |
版築工法の墳丘は1500年経ってもしっかりしています |
石室内 |
石棺・石室 |
石室内の須恵器 |
竜山石は大和政権専用の砕石場 |
これを使えたのは政権に深く関与した人物だけ
そんな人の古墳→ |
大量の供献土器
一体どんな人物だったのだろうか |
供献土器 |
供献土器 |
土器・馬具等 |
金銅製鐙金具・杏葉・金銅製鍔・
金銅製双龍環頭太刀柄頭 |
鉄鉾・馬具 |
馬具 轡くつわ |
汐首古墳 |
汐首古墳付近の
環頭大刀分布 |
耳環・刀子
新市町常 出土
尾市第5号古墳 |
環頭柄頭
汐首第1号墳 |
須恵器
はそう・長頸壺・高坏・蓋
新市町内出土 |
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汐首古墳 古墳後期
墳丘規模不明
破壊消滅
遺物-環頭大刀柄頭
平瓶各1点
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