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掲載遺跡一覧 ●長野県埋蔵文化財センターが発掘・整理を行った遺跡 朝日村 山鳥場遺跡(縄文時代中期)、 栄村 ひんご遺跡(縄文時代後期)、 中野市 柳沢遺跡(弥生時代中期)、 長野市 小島・柳原遺跡(平安時代)、 長野市 長谷鶴前遺跡(近代) ●市町村教育委員会が調査・整理を行った遺跡(長野県の弥生時代) 土器・石器等 須坂市 塩川・須坂・小山遺跡群 須坂園芸高校内(後期終末〜古墳前期初頭)、 長野市 塩崎遺跡群(中期前葉〜中葉)、 長野市 篠ノ井遺跡群 高速道路地点(中期中葉)、 長野市 浅川扇状地遺跡群長野吉田高校グランド遺跡(後期初頭)、 長野市 浅川扇状地遺跡群 桐原宮北遺跡(後期終末)、 千曲市 力石条理遺跡群(前期)、佐久市 森平遺跡(中期後葉)、 佐久市 枇杷坂遺跡群道路遺跡?(中期終末)、 飯田市 恒川遺跡群(中期後葉)、 飯田市 高松原遺跡(後期前半) 稀少遺物 長野市 松原遺跡 高速道路地点(漆塗り竪櫛・炭化種子入り小壺:中期後葉)、 長野市 長野遺跡群県町遺跡 後町小学校地点(炭化粟粒入り小壺:中期後葉)、 佐久市 岩村田遺跡群北一本柳遺跡?(炭化米入り壺:後期後半)、 佐久市 西一里塚遺跡群(鉄剣・鉄釧・後期後半) ●長野県立大学設立に関わる発掘・整理遺跡 長野市 浅川扇状地遺跡群 本村南沖遺跡 長野県短期大学構内(弥生時代後期初頭・平安時代)、 長野市 長野遺跡群 県町遺跡 後町小学校地点(弥生時代中期後半・平安時代) |
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00外観 | |||||||||||||||
01入口展示 |
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長野県の遺跡発掘2018 |
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02ポスター |
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10長野県埋蔵文化財センターの 発掘調査 |
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11朝日村 山鳥場遺跡 (縄文時代中期 約4700年前) 長野県東筑摩郡朝日村西洗馬 ・縄文時代中期の大きな集落跡です。今回の調査で注目すべきは、大きく立派な石囲炉をもつ竪穴住居跡が発見されたことです。 昨年の調査では、なんと土器破片をびっしりと炉の中に敷き詰めた「土器敷炉」をもつ住居跡が1軒見つかりました。 ・縄文時代中期後半の集落遺跡で、14軒の竪穴住居が発見されました。 土器片をびっしりと敷き詰めた立派な石囲炉と中信地域に特徴的な深鉢形土器が出土しました。 土器にはエゴマやダイズなどの種子圧痕の見られる例もあり、縄文の植物栽培について良好な研究材料が示されました。 土器敷きのある石囲炉 ・縄文時代中期を中心とする集落跡で、竪穴住居跡14軒、土坑108基が確認されました。住居の平面形は、円形・方形・五角形などがあり 炉を大きな石で囲む石囲炉に特徴がありました。また、石囲炉の中に土器の破片を敷き詰めた珍しい例も発見されています。 出土した中期の土器には、エゴマやダイズ属、アズキ亜属の圧痕が観察されました。 縄文時代の植物栽培を示す、松本平初の資料となりました。 山鳥場遺跡 縄文時代中期 約4700年前 朝日村 山鳥場遺跡現地説明会資料 |
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12栄村 ひんご遺跡 (縄文時代中期~後期) 約4500~3500年前 長野県下水内郡栄村豊栄平滝 ひんご遺跡 平成28年度調査情報(1) ひんご遺跡 H28年度調査情報(2) 平滝集落で「ひんご遺跡報告会」 | 栄村復興への歩み ・縄文時代中期から後期にかけての大きな集落です。中期の敷石住居跡や本県では珍しい火焔型土器が多数出土しました。 また、後期の注口形の土器なども発見されていますので、今回はそうした遺物を中心に展示します。 ・縄文時代後期前半を中心とする竪穴住居跡23棟を調査した。土偶や注口土器、磨製石斧などが出土し、 新潟県に分布する土器や関東地方の影響を受けた土器などがあり、広い交流の様子を窺うことができます。 土瓶のかたちをした土器 ・縄文時代中期から後期の集落跡で、竪穴住居跡23軒のほか、石を敷き詰めた敷石住居跡が5軒確認された。 新潟県や長野県にみられる地域的な土器や関東地方の影響を受けた土器が出土し、千曲川沿いに他地域との交流が盛んだったことがわかる。 土瓶の形をした注口土器は、4000年ほど前の物とは思えないほど、現代的な姿をしています。 |
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13中野市 柳沢遺跡 (弥生時代中期) 中野市大字柳沢字屋敷添 ※この遺跡出土の多量の青銅製品は当時の列島の政治的環境を示す重要な遺物です。 弥生時代中期後葉の竪穴住居1軒と水路跡1本が確認されました。重要文化財指定の銅戈・銅鐸の埋納遺構発見場所から南300mに位置し、 青銅器を埋めた集落との関係が課題になります。 この遺跡は、東日本で初めて弥生時代の銅戈・銅鐸(重要文化財)がまとまって出土したことで知られています。 その出土地点から北へ300m、南に150mと300mの3地点で調査が行われました。主な出土品(弥生土器)を展示します。 以下転載 海底遺跡ミュージアム構想
※考察 柳沢遺跡の青銅遺物の意味
写真引用転載 中野市柳沢遺跡発掘報告書
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14長野市小島・柳原遺跡群 (奈良・平安時代) 長野市大字柳原1561ほか 古代の瓦を発見 全国的に出土例の少ない、平安時代の製作と推定される県内初の「塔鋺形合子」(とうまりがたごうす) が出土し注目された遺跡です。 昨年は善光寺の周辺で出土しています。 これまでに平安時代の竪穴住居35軒、古墳時代から平安時代の土坑約680基などが確認されました。 緑釉陶器や灰釉陶器、墨書土器、丸鞆 (ベルトの飾り金具) などの他、善光寺周辺で発見例のある布目瓦 (布の痕跡が残る古代瓦) が出土した。 この布目瓦は、古代寺院との関係を考える上で重要です。 「塔鋺形合子」とは、 「合子」とは蓋の付いた容器のことですが、蓋の頭頂部に仏塔の相輪を模した装飾(つまみ)が付いたものを「とうまりがたごうす」と呼んでいます。 これは、インドや中国では舎利容器として使用されています。奈良県法隆寺玉虫厨子では。僧侶が柄香炉(柄付香炉)と塔鋺形合子を持っている 様子が描かれており、奈良県正倉院の宝物の一つにはお香の粉末が付着していました。 日本では主に香合として使用されたようです。 金属製品では正倉院に10組、法隆寺献納物1組、栃木県日光男体山々頂の発掘調査で出土した13点があります。 |
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15長野市 長谷鶴前遺跡群 長谷焼工房跡 (江戸時代~明治時代) 長野市篠ノ井塩崎 慶応3年〜明治29年ごろまで、この地域に「長谷窯」があり、灯明具やカマドに関わる道具を焼いていました。 珍しい轆轤(ロクロ)台石や陶磁器、窯道具などが出土し、巨摩地域に伝承された焼き物の技術を示す貴重な発見になりました。 今回、初めて「長谷焼」に関わる資料がまとまって出土したので、これを展示します。 長谷焼の工房跡(長野市) 平安時代の水田跡、中世とみられる道路跡や居館の堀跡などが確認されました。また、幕末から明治期にかけて操業した長谷窯の工房跡が初めて 調査されていました。この地域に伝承されていた焼き物の技術を示す貴重な発見と考えられます。 工房跡に伴うロクロ台石の発見を始め、窯道具 (輪トチ・円錐ピン・粘土型など)、素焼きや施柚の燈明具などの珍しい遺物が出土しています。 |
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15a石川条理遺跡群・長野市下川原遺跡 弥生時代後期の小さな水田跡 石川条理遺跡群 (弥生~平安時代) 長野市 長野市篠ノ井塩崎 千曲川の後輩湿地に営まれた弥生時代後期の水田遺跡が確認されました。 水田跡は等高線に沿った小さな畔で区画され、一つの区画は5~25㎡ほどありました。 弥生時代から平安時代に至るまでの水田層が重層的に確認されました。 1面目の調査では掘立柱建物跡などの中近世の居住遺構が確認され、 2面目と3面目では平安時代と古墳時代の畦跡が確認されました。 特に4面目は弥生時代後期と推定される水田跡が発見され、 等高線に沿った小さな畦で区画された水田でひとつの区画は5~25㎡程でした。 石川条理遺跡現地説明会資料より 中世の葬送に関わる土坑を発見 下川原遺跡 (中世~近世) 飯田市下久堅 ・天竜川を望む丘陵上に、石を並べた土坑1基と小土坑14基が確認されました。 川原石に混じって中世の内耳土器、陶磁器の破片などが出土しました。 ・調査区東側で石を入れた土坑9基と石を並べた土坑1基が確認されました。土坑は、大きなもので長さ2.5m程あります。 平面の形状は長楕円形で、川原石に交じって中世の内耳土器、陶磁器の破片、炭化物などが出土しました。 これらの石を伴う土坑は、近接した場所に繰り返し作られ、火を焚くような行為が認められることから、中世の葬送に関わる遺構の可能性が 考えられます。 |
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100長野県立大学建設用地発掘 (埋蔵文化財センター) |
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111浅川扇状地遺跡群 本村南沖遺跡 県短期大学構内 (弥生時代後期・平安時代中期) 吉田式土器 長野市三輪8丁目49−7 弥生時代後半と平安時代の集落遺跡が調査されました。 ●弥生後期、吉田式土器の時期を中心に、竪穴住居跡7軒、掘立柱建物1軒、墓跡3基などが調査されました。この時期の集落遺跡には 調査例が少なく、長野吉田高校グランド遺跡と伴に、集落研究にとって、貴重な資料が得られました。 ●平安時代の集落は、ほぼ9世紀に限定でき、竪穴住居跡10軒、流路跡2本などが調査されました。浅川扇状地上の古代集落は、8世紀に姿を 消していく例もありますが、その中で新たに営まれた集落としては、やはり重要な研究材料が提供されました。 数少ない吉田式期の集落 弥生時代後期と平安時代の集落跡が発見されました。弥生時代後期初頭の吉田式土器を中心としており、竪穴住居跡7軒、掘立柱建物跡1棟、 墓跡3基などが調査されました。 吉田式期の集落跡は発見例が少なく、吉田高校グランド遺跡の調査成果と共に、集落研究にとって重要な資料が提供されました。 また、平安時代の集落跡は、ほぼ9世紀に限定出来、竪穴住居跡10軒、流路跡2本などが調査されました。 浅川扇状地では、8世紀代に広がりを見せた集落が、この時期に減少してしまう中、新たに営まれる集落として重要な位置にあると考えられます。 弥生時代後期の土器 弥生後期初頭 約1950年前
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112長野遺跡群 県町遺跡 後町小学校地点 (弥生時代中期 平安時代前期) 粟粒3万粒 長野市南長野639 ●弥生時代中期、栗林式土器の時期にあたる竪穴住居5軒、溝跡1本が調査された。断面がV字をした溝跡から環濠集落とされました。 出土土器は栗林式も後半で、中期の終末に位置付けられます。出土した小壺から炭化した粟粒が出土し、食糧生産に関わる資料が得られた。 ●県町遺跡は、古代の役所「水内郡家」の推定地とされています。今回の調査で平安時代の竪穴式住居13軒、掘立柱建物跡4棟が確認された。 須恵器の稜椀なども出土し、官衙の関連遺跡として重要な研究材料です。 壺の中に粟粒3万粒 長野遺跡群 県町遺跡 後町小学校地点 弥生時代中期と平安時代を中心とする集落跡が発見されました。 弥生中期は、栗林式土器の時期にあたり、竪穴住居跡5軒、溝跡1本が確認されました。断面V字形の発見から、環濠集落が推定されています。 出土した小壺から炭化した粟粒3万粒が見つかり、食料生産に関わる貴重な資料を得られました。 また、県町遺跡は、古代水内郡の郡家推定地とされています。本地点の発掘では、竪穴住居13軒、掘立柱建物跡4棟が確認され、 須恵器の坏類のほか、出土例の少ない稜椀なども出土しました。古代官衙に関わる周辺遺構として、重要な研究材料が提供されました。 弥生時代中期後半の土器 |
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200市町村発掘遺跡 |
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201千曲市 力石条里遺跡群(ちからいしじょうりいせき) (弥生時代前期) ・弥生時代前期末から中期中葉の土坑墓56基を調査。墓中の土器棺には、東海地方との関わりを示す条痕文の壺と、在地色の強い無文の壺、 2種類が別々に使われていました。 稲作伝播期の土器棺と東海地方の壺 力石条里遺跡(千曲市) ・約3000年前、日本列島に水田稲作の技術が伝わり、弥生時代が始まります。 この時代には籾などを蓄える壺が新たに登場しました。 縄文時代に東日本地域で流行した土器棺にも壺が用いられ、この遺跡群でも弥生時代前期の墓に使用されていました。 在地で作られた素文の壺の他、東海地方に分布する「貝殻条痕文土器」と呼ばれる壺があり、この壺には孔のあいた「石製円盤」が伴っていました。 |
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202長野市 塩崎遺跡群 (弥生時代中期) 長野市篠ノ井塩崎 H29年度までの5年間で、弥生時代の竪穴住居約190棟が確認された。H27年の発掘では、中期前葉から中葉の木棺墓64基が確認された。 墓には素掘りと礫敷きの2種類があり、7点の石鏃と2点の石斧を副葬した例、小型の壺や鉢を副葬した例など、特別な墓の存在が明らかになった。 弥生式木棺墓と特別な墓の登場 塩崎遺跡群 長野市 弥生時代中期前葉から中葉、長野県では新たに弥生式の木棺墓が登場します。 この遺跡では、千曲川に近い調査区で木棺墓3~4基からなる墓地群が発見されました。 木棺墓には7点の打製石鏃と2点の石斧を副葬する特殊な例が有りました。 また、木簡の下に礫を敷く礫床木棺墓にも、小さな筒型と鉢型の土器を副葬する特殊な例がありました。 複数の墓の中に、副葬品を伴う特別な墓の存在がわかりました。 |
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203長野市 篠ノ井遺跡群 高速道地点 (弥生中期) 弥生時代の竪穴住居23軒を調査し、中期中葉では住居跡2軒と溝跡1本があった。この住居跡からは箆や櫛歯状の工具で模様を描いた 「栗林式」と呼ばれる土器と共に、県内最古級に位置付けられる磨製石包丁が出土しました。 栗林式土器の成立と磨製石包丁の登場(栗林式櫛描文土器と磨製石包丁) 弥生時代中期中葉、稲穂を摘み取る磨製石包丁が登場します。この時期、長野県の北部では「栗林式」と呼ばれる櫛描文を特徴とする土器が 作られるようになります。磨製石包丁は、この土器に伴い竪穴住居跡の中から発見されました。 新旧のある住居跡には、それぞれ1点ずつの磨製石包丁があり、古い住居跡からは製作地不明の完成品が、 新しい住居跡からは製作途中の品が出土し、製作の開始を窺うことができます。 |
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204飯田市 恒川遺跡群 (ごんが) (弥生時代中期後葉) 約2100~2000年前 恒川遺跡群出土品 恒川遺跡群出土品 恒川遺跡群 官衙編 恒川遺跡群 恒川遺跡群 国道153号座光寺バイパス建設に伴う発掘で、弥生時代中期後葉の竪穴住居跡26軒が調査されました。 飯田下伊那地域に分布する「北原式」と呼ばれる弥生中期の土器が主体でしたが、 中には、北信地域で製作されたとみられる磨製石斧や栗林式土器の出土がありました。 栗林式と北原式の交流 1次調査では弥生時代中期後葉の竪穴住居跡26軒が発掘され、言い田・下伊那地域における弥生時代集落の一例が確認されました。 この地域には「北原式」と呼ばれる箆描文や櫛描文の土器が分布し、壺の上半部に連続した三角文をもつ特徴があります。 北原式土器と共に、栗林式土器、更には北信地域で製作された磨製石斧が出土し、県北部の栗林式土器地域圏との交流関係の有ることが 明らかになりました。 |
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205佐久市 森平遺跡(もりだいら) (弥生中期後葉) 約2100~2000年前 佐久市横和 森平遺跡 森平遺跡 弥生時代中期後葉から後期初頭にかけての竪穴住居跡22軒を調査。中期に盛行した栗林式土器の終わる頃、縄文の消失化と共に 土器の文様は崩れ、「オオバコ文」や「魚骨文」と呼ばれる進出の模様が現れます。 栗林式土器と「縄文」の終わり 弥生時代中期後葉を中心とする遺跡で、竪穴住居跡17軒を調査。出土した栗林式土器は、「縄文」の文様が減少し、「縄文」に代わり、 雑草の「オオバコ」を押しつけたり、あるいは沈線で描いた魚骨のような文様の表現があります。 また、瓢箪形のような変わった形の土器が出現するのも、この時期の特徴と言えます。長野県内に鉄器の流通の始まる時期ですが、 狩猟用の打製石鏃や伐採用の磨製石斧などの石器がまだ残っています。 |
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206佐久市 枇杷坂遺跡群 直路遺跡Ⅰ(びわざか すぐじ) (弥生時代中期後葉) 約2100~2000年前 佐久市長土日字直路30 1-1 弥生時代中期の竪穴住居4軒と、竪穴状遺構1基を調査。 焼失した1軒の住居跡からは、形のわかるものだけでも壺と甕が各7点、高坏4点、磨製石斧3点、砥石1点などがまとまって出土しました。 栗林式の壺は無文化が進み、後期初頭の特徴とされた鋸歯文が描かれています。 栗林式の終わりと焼失住居跡 中期後葉の竪穴住居跡4軒を調査。このうち1軒が焼失住居跡で、出土した土器には、壺7点、甕7点、台付甕3点、鉢4天、高坏4点、蓋1点があった。 土器以外にも、磨製石斧5点、敲き石2点、砥石1点などがあり、1軒の住居跡で保有した土器や石器の種類と量をつかむことができました。 中期後葉には、県内各地で焼失住居跡が発見されており、失火や放火など、いくつかの要因が考えられます。 |
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207長野市 長野吉田高校グランド遺跡 (弥生時代後期) 長野市吉田二丁目 長野県北部の弥生時代後期初頭、「吉田式土器」の標識遺跡です。 28軒の竪穴住居跡を調査。吉田式の壷は縄文が失われ、頸部に箆や櫛歯状工具で沈線文や鋸歯文が描かれている。 遺跡からは、東北地方南部の特徴を示す土器と珍しい「アメリカ式石鏃」7点を検出。 吉田式土器の成立と石器の終わり 弥生時代後期は、石器の消滅という文化の転換期にあたります。 長野県北部では「吉田式」土器が作られるようになり、壺の無文化が進み、赤彩が多用されるなどの特徴が現れます。 集落跡の発見例が激減する中、この遺跡では28軒もの住居跡が調査された。吉田式土器の標識遺跡であり、集落研究を進める上で重要な遺跡です。 石器には東北地方南部を中心に分布する「アメリカ式」(北米大陸の石鏃に似ている) と呼ばれる特殊な石鏃7点があります。 |
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208飯田市 高松原遺跡 (弥生時代後期前半) 約1900年前 長野県飯田市上郷黒田 飯田高校内の小体育館建設に伴う発掘で、弥生後期前半の竪穴住居跡9軒を調査。この時期の県南部には「座光寺原式」土器が広く分布しています。 壷は屈折した口縁で、頸部に櫛歯状工具で波状文が描かれています。 また、遺跡からは、硬砂岩で作られた石器が数多く出土し、土掘り具や収穫具など、石製農具が発達していたことが分かりました。 座光寺原式土器の成立と石器の継続 弥生時代後期を中心とする遺跡で、、5次調査では後期前葉の竪穴住居跡9軒を調査。 この時期、飯田・下伊那地域には「座光寺原式」土器が作られるようになり、折れ曲がった口縁と頸部付近の大きな波状文が特徴です。 住居跡からは土器のほか、数多くの打製石器が出土しました。 石鍬や有肩扇状型石器などの農具があり、全国的に石器が消滅していく中、石器の継続的な使用は、この地域の重要な特徴です。 ※段丘地の乾燥地であり、畑作地として使われた。石が多く、鉄器よりも石器の方が耕作に適していた。 飯田市 高松原遺跡 5次調査
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209長野市 浅川扇状地遺跡群 桐原宮北遺跡ほか (弥生後期) 高田若槻線建設に伴い4つの遺跡が発掘されました。弥生後期の竪穴住居跡24軒と弥生後期末から古墳前期初頭の方形周溝墓1基を確認。 周溝墓からは在地の甕や赤彩の壷、それに北陸色の強い土器が伴って出土しました。 特別に作られたとみられる二段口縁の壷は、県内でもほとんどない資料です。 「赤い土器」と弥生時代の終わり 弥生時代後期終末の方形周溝墓が発見されました。周溝から出土した壺は、後期後半に県北部で作られるようになった箱清水式土器(赤い土器)の 系統をひくもので、1点を除き全てが赤く塗られていました。口縁部を二段につくる壺や小さな壺などは祭祀用に作られた土器と考えられます。 また、口縁部が厚く、北陸地方の特徴を持つ土器1点は、弥生時代の終わりに北陸地方と交流関係の有ったことを示す重要な資料です。 |
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210須坂市 塩川・須坂・小山遺跡群 須坂園芸高校内 (弥生後期終末期~古墳前期初頭) 須坂市須坂1616 高校内の調査で、土師器に伴い、赤彩のある高坏や櫛描文の甕などが出土した。このことから、弥生後期終末期から古墳前期初頭に位置づけられた。 土師器の出現と古墳時代の始まり 平成25年の須坂創成高校建設にともない、旧須坂園芸高校内の調査成果がまとめられました。 発掘では古墳時代前期初頭の遺物集中が確認されました。 出土土器の大半は古墳時代の土師器でしたが、弥生時代後期の箱清水式土器の系統を引く赤彩の高坏や櫛描波状文の甕、胴部下半が 屈曲する壺なども含まれていました。弥生時代の最終末から古墳時代への移行期の土器として、時代の画期を考える上で貴重な資料です。 |
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-壷に入った炭化種子- |
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211長野市 松原遺跡高速道地点 (弥生時代中期) 弥生時代中期の集落跡で、240軒の竪穴住居跡を調査。 炭化植物種子 集落北端の埋没河川跡から、栗林式の小壷と共に炭化したナデシコ科の種子が出土した。食用になる植物だが、どのような料理に使われたか不明。 食用以外の目的も考える必要があるのかもしれません。 木製品の出土 栗林式土器や炭化種子が出土した埋没河川からは、弥生中期の木製品も数多く出土した。 臼や鎌などの木製農具、そして赤漆塗りの竪櫛などがありました。竪櫛は結歯式で柄の部分が長い特徴があります。 |
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212長野市 長野遺跡群 県町遺跡 後町小学校地点 (弥生中期) 弥生中期の竪穴住居跡5軒と溝跡1本を調査。 焼失した1軒の住居跡から栗林式の小壷と共に、炭化した粟粒3万粒が出土した。ほかにもヒエ粒などがあり、雑穀の種を蓄えていたと思われる。 |
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213佐久市 岩村田遺跡群 北一本柳遺跡Ⅲ (弥生後期後半) 約1850年前 佐久市岩村田 壺に貯蔵された種子 弥生後期の環濠集落で、竪穴住居跡45軒を調査。焼失した1軒の床面付近からは、焼けた木材と共に「箱清水式土器」が出土した。 その中の一つの壷から、炭化した稲籾が1千粒余り出土した。籾の状態であることから、種籾として貯蔵していた可能性があると考えられます。 |
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-鉄釧・鉄剣・漆塗り竪櫛- |
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214佐久市 西一里塚遺跡群 (弥生後期) 佐久市岩田村・平塚 弥生時代後期を中心とする木管墓2基、周溝墓12基を調査。 木棺墓からは螺旋式の鉄釧1点とガラス製小玉9点が出土し、周溝墓からは鉄剣1点が出土した。装身具と武器、副葬品に違いが認められます。 |
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長野県の遺跡発掘2018 の地域展 (平出博物館独自の協賛展) 300松本平の弥生文化 弥生時代に焦点を当てた、長野県歴史館巡回展「長野県の遺跡発掘 2018」 を平出博物館で開催するに当たり、地域展を同時開催します。 この地域展では、松本平各地に見られる弥生時代遺跡の概要と共に、縄文から弥生へ時代が大きく変化する中で、東日本において盛行した 「再葬墓」を中心に、墓制から見える松本平の弥生文化について紹介します。 ※ただし、解説・説明文や、解説レジュメ等がなく、脚注のみが置かれている。少々展示内容がわかりませんでした。 |
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301青銅製品 柴宮銅鐸は、 ※昭和35年、それまで銅鐸分布圏外と考えられていた南信州で初めて出土した銅鐸で、考古学界に衝撃を与えました。 三遠式銅鐸は分布しましたが、必ずしも文化圏であったかは定かではありません。 平成19年に北信州の中野市柳沢遺跡から銅鐸・銅戈が出土し、これまでの青銅器分布についての常識が覆りつつあります。 |
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302土器棺 墓制からみた松本平の弥生文化 針塚遺跡(松本市) 松本市山辺の畑の一角で長野県内初の弥生再葬墓が発見され、しかもその時代が弥生時代前期にまで溯ることがわかり、大きな話題となりました。 再葬墓は、8m四方の範囲に7基あり、合計で12個の土器が埋められていました。4個一緒に埋められていた墓が一箇所、ほかの墓には1~3個の土器が 立てられた状態で収められていました。 土器は、1個の甕を除いてすべて壺が使われています。
境窪遺跡に使われた弥生土器(弥生中期前半) 境窪遺跡 (松本市) 松本市と山形村との境にある弥生中期前半の集落です。 4号と5号の住居の東の一角に再葬墓ないしは乳幼児の墓と考えられる土器棺墓が作られており、口の部分を欠いた深鉢を埋め、 別の壺の大きな破片を蓋にしていました。
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305再葬墓 弥生の墓 縄文時代の墓は、素掘りの穴に埋葬する土壙墓が一般的で、まれに土壙の壁に石を立てたり、底に石を敷いたりした石棺墓も造られました。 弥生時代に於いても、土壙墓が一般的ではありますが、穴の中に木の棺を設けた木棺墓、穴の底に小石を敷き詰めた礫床墓、 壺や甕を棺とした土器棺墓などもあり、墓穴の周囲に溝を巡らせた周溝墓など特別な施設を設けた墓も出現します。 再葬墓とはどんな墓か
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306再葬墓に使われた弥生土器 なぜ墓とわかるのか? 東日本各地で、弥生時代初期の壺形土器が埋められた穴がしばしば発見され、これはいったい何かと話題になりました。 昭和39年、千葉県佐倉市の天神遺跡で見つかった壺の中から大人の骨が出てきたことで、墓であることが判明しました。 しかも、出土した土器は口が狭い壺で、遺体をそのまま葬ることは不可能なため、一旦遺体を白骨化させた後に骨を壺に入れたもの、 再葬であることもわかりました。 ほうろく屋敷遺跡 (安曇野市) 安曇野市明科の犀川の段丘上で16基もの弥生再葬墓が見つかりました。松本平屈指の弥生再葬墓の遺跡です。 この俸禄屋敷の再葬墓の特徴の一つに、墓穴の上部に石を敷き詰めた配石が認められる点を挙げることができます。 墓穴の平面形は楕円形ないし円形で、1基に2~4個の土器が納められていました。また、使われている土器は壺が20個とほとんどで、 甕は僅かに2個だけでした。
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310方形周溝墓と副葬品 |
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311方形周溝墓 墓の周囲を方形に溝で囲み、内側に土を低く盛った墓のことで、松本平では弥生時代後期を中心とした時期に田川流域周辺で多数作られています。 方形周溝墓と認識して発掘調査が行われたのは、昭和57年の丘中学校遺跡 (塩尻市) が最初で、全長約13mの墓からは、ガラス小玉110点、管玉5点、 鉄釧 (ブレスレット) 1点が出土しています。これらは埋葬された人物の副葬品と考えられます。 同じく剣ノ宮遺跡 (塩尻市) からは11基の方形周溝墓群が発見され、ガラス小玉や鉄釧などが発見されています。 |
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312装飾品 |
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313県町遺跡出土品
潮神明宮前遺跡 (うしお しんめいぐうまえ) 安曇野市(長野県東筑摩郡明科町大字中川手6824-1)
中城原遺跡(なかじょうばら) 弥生中期 大町市大字社5834-1
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315打製石器 (和手遺跡) 長野県塩尻市大字広丘高出 |
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316石鏃 (和手遺跡) |
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317 和手遺跡 |
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318石器の材料 下呂石 和手遺跡 |
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320土偶 |
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321弥生時代の土偶
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325弥生土器 和手遺跡 塩尻市広丘高出 土器側面の文様が見えるように、あえて大きな画像にしています。 |
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墓制からみた松本平の弥生文化―お墓いろいろ― |
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330木棺墓 礫床木棺墓 礫床木棺墓とは、板で四辺を囲んだ木棺の底板の代わりに、小さな礫を敷き詰めたお墓です。 弥生時代中期を中心に、群馬県や長野県などごく限られた地域で見つかる墓址で、検出例はこれまでのところ遺跡数にして30遺跡ほど、 総数でも300基以下とされています。 木炭棺墓 平成22~23年にかけて行われた県町遺跡(松本市)の第16次調査では、指輪状石製品や鉄釧を共伴する最長100cm程の炭化材が確認され、 遺構の検出状況及び形状から棺材と推定されています。 この炭化した木棺が、現地で燃やされたものなのか、元々炭化させた材を組みたてたものなのかは不明ですが、 弥生後期の物である可能性が年代測定により示されています。 |
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331 |
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332古城遺跡 大町市大町3887 古城遺跡は、大町市街地の南西に位置する遺跡です。平成元年に行われた発掘調査では、弥生時代中期~後期の住居址32軒を検出。 この調査によって、それまで箱清水式土器文化圏 (弥生後期、長野県北部地域に展開した、鮮やかな赤で飾られた土器をもつ文化) に含まれるとされながら、発掘事例に乏しくはっきりとしなかった当該地域の様相が明らかになってきました。 |
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333町田遺跡 安曇野市豊科 安曇野市豊科に位置する弥生中期後半の集落です。 この時期の土器様相は松本平と善光寺平(長野市周辺)で比較的均質ではあるが、若干の差異もあるとされており、 町田遺跡出土の土器群は、松本平南部より善光寺平に近い要素を持つことが指摘されています。 また、素材の粗割から穿孔に至る各段階の磨製石鏃の未製品が出土しており、一連の製作工程を復元できる資料となっています。 |
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334町田遺跡 |
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341百瀬遺跡 (ももせ) 松本市長野県松本市寿豊丘 昭和26~27年の第1次調査では、弥生時代中期末の住居址1軒が検出された。 この調査で出土した土器は、壺・甕・鉢・高坏塔の良好な組成が見られ、中南信地域における弥生中期末土器編年の標識として 「百瀬式土器」が設定されました。また、この時の調査が、松本平に於ける初の弥生時代遺跡の調査となりました。
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342県町遺跡 (あがたまち) 松本市県 県町遺跡は、弥生~平安時代にまたがる大規模集落遺跡で、弥生時代については中期を主とした在地系の土器のほか、 弥生後期後半の北陸系の土器も出土していることから、遠隔地との交流も想定される、この地域を代表する遺跡です。 これまで行われた調査では、住居址のほか、土器棺や鉄釧・指輪状石製品を伴う木炭棺などの墓址も見つかっています。 |
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350土偶・土偶形容器 |
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351土偶形容器 下境沢遺跡 塩尻市 弥生前期 |
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352土偶、土偶形容器、黥面土偶
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