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 北部九州の縄文 №28  2020.11.18-1

  日田市生涯学習交流センター
   日田市埋蔵文化財センター28 大分県日田市友田2893番地44

   0973-26-3211 土日祝休、撮影可 日田杉の美林の中にある

交通 レンタカー
  備考  日田市生涯学習交流センター内となっています。

 
 日田市とは
大分県の北西部。熊本・福岡県に挟まれた県境の町。従って阿蘇山、九重連山、英彦山などに囲まれた山の中の盆地である。
かつては阿蘇火山灰に埋め尽くされた事もある。杉の美林が有名である。
 



01入口展示
10日田の火砕流年表
20吹上遺跡発掘調査再現ジオラマ

50玄関ホール展示
54阿蘇4火砕流

100常設展示室
103日田の地形

110旧石器時代
111狩猟民の生活
112黒曜石
120旧石器時代石器

150縄文時代
151定住生活の始まりと精神文化の発展
161縄文時代の道具と祭祀
167土偶
171縄文土器の変遷と特徴

200弥生時代
201日田盆地の弥生時代
210弥生土器
230甕棺墓の流入
240稲作の開始と技術革新
250吹上遺跡の首長墓
255弥生時代の祭と祈り

300古墳時代
301大和王権の時代とその暮らし
310墳墓を彩る副葬品
320鍛冶関連遺物
330住居跡
333土師器の登場
335須恵器の登場

340装飾古墳
343首長墓の副葬品

400古代
401律令国家と日田の成立
407墨書土器
409 千三百年前の柱木

500中世
501慈眼山と大蔵氏
503中世陶器

510近世
511永山城とその城下町

520古墳時代
540小迫辻原遺跡 ジオラマ

600企画展「日田の勾玉」
 

 01入口展示

小迫辻原遺跡
3号環濠居館復元模型
小迫辻原遺跡
2号環濠居館復元模型

豪族居館と高床倉庫でしょうか
居館の里
小迫町辻原遺跡
日田市
1~3号居館

 10日田の火砕流年表
阿蘇4火砕流(9万年前)によって埋め尽くされた日田盆地が、一面焼け野原になったことは容易に想像できる。
その後、自然の驚異的な回復力により、火砕流により形成された台地には樹木が生い茂り、森林が形成したと考えられる。
そして日田の地で生活した人々は樹木を伐採して、燃料としてとして使用したり、農具や生活用具に加工した。
また、火砕流台地を刳り抜いて墓として、切り出して石棺や石造物、石橋などとして利用、更に溶岩台地周辺の湧水を利用して、豊かな生活を営んで来た。このように人々は火砕流の産物である溶岩台地と密接に関りながら、歴史を歩んできたことが分かる。

※阿蘇山は27万年前から9万年前までに4回の巨大噴火を起こしており、9万年前の噴火では火山灰が九州のほぼ全域を覆いつくし、山口県愛媛県なども含めて、動植物に甚大に被害を与えました。ただし、これだけの巨大噴火、わが国最大、と言われるのであるから、おそらく中四国、近畿~東日本一帯に甚大な被害をもたらしたことでしょう。

日田の火砕流年表
見えない

見えない

 20吹上遺跡発掘調査再現ジオラマ 平成10年作
 21
吹上遺跡発掘調査
再現模型
吹上遺跡出土品
重文指定記念展示資料

 22吹上遺跡出土品  重要文化財指定記念展示

  吹上~弥生時代のヒタを治めた人々~
日田市小迫の吹上遺跡(の墓域)から出土した銅剣や貝輪などの装飾品、甕棺墓など計577点が国の重要文化財に指定されることになりました。
市内の重要文化財としては11件目、そのうち考古資料では初めてで、しかも発掘調査による出土品で指定を受けるのは県内でも初例になります。

吹上~弥生時代のヒタを治めた人々 銅剣・銅戈・銅矛 貝輪・勾玉 管玉
貝輪
吹上遺跡の墓域
 弥生時代中期前半~後期初頭
 (紀元前2世紀~紀元前後頃)

 木棺墓3・甕棺墓7
 甕棺墓4基から武器・装身具が出土

 当時一帯を支配(クニ)した豪族の副葬品と見られる

 23吹上遺跡概要
 遺跡は日田盆地北部の通称吹上原(ふきあげばる)と呼ばれる標高約140mの独立した台地上に位置し、古くから土器片や黒曜石などが散布する場所として知られていました。
 遺跡周辺には
弥生前期~中期の集落と後期後半~古墳時代初頭の環濠集落や豪族居館が確認された国指定史跡の小迫辻原遺跡、
後期後半~古墳時代中期まで続く総数200基を越す甕棺墓・土壙墓・方形周溝墓などの墳墓群が確認された草場第2遺跡、
弥生時代前期後半~後期初めの集落遺跡や墳墓群が確認されて朝日宮ノ原遺跡、
弥生前期~後期にかけての集落跡や墳墓群が発見されている後迫遺跡が所在しています。
 吹上遺跡を取り囲む一帯は、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が密集している市内随一の地域と言えます。

 昭和28年の調査もありますが、本格的な発掘調査は昭和54年から平成12年の間に11回行われ、中でも平成7年の調査では
青銅製武器や装身具といったひときわ豪華な遺物を副葬した墳墓群が発見されたことにより一躍脚光を浴びました。

吹上遺跡概要 遺跡概要 吹上遺跡

 24吹上遺跡の時代背景
吹上遺跡は大陸文化の影響を受け、日本国内に国家的なまとまりが次第に形成されていく時代です。

このまとまりはクニと呼ばれ、中国の史書(漢書地理誌)には『楽浪(紀元前108年に設置された漢の出先機関)海中に倭人あり、別れて百余国と為る。歳時を以って来たり献見すという。』と記載されていることから、紀元前1世紀頃には既に誕生していたことが窺えます。

 このような時代にあたる吹上遺跡の墳墓群は、国家形成の初期段階に於ける地域の様子を伝え、弥生社会がどの様に発展していったかを知る重要な手かがりとなります。

  終りに
 以上のような木棺墓や甕棺墓などで構成される複数の墳墓のうち、副葬品を有する4基の甕棺・木棺墓は、墳墓群の中心に位置して順番に築造されており、副葬品の構成が北部九州の他地域の有力者の墓と類似していることから、当時の日田を治めていた有力者層の存在が推測されます。

 中でもこれらの副葬品が発掘調査で出土する例は少なく、また、被葬者である人骨と共に発見される例は非常に珍しいことです。
 特に、貝輪の着装状況を具体的に知ることができる点では学術的価値が非常に高いものと言えます。

 このように弥生時代の葬送儀礼の実態を解明するうえで、非常に貴重な事例であることから、重要文化財に指定されることになりました。

吹上遺跡の時代背景
吹上遺跡の消長 吹上遺跡の時代背景 終りに
 25用語解説
甕棺    甕形に作った容器に遺骸を納める棺を意味する。
考古学上では特に、弥生時代の素焼き大型甕を単独又は2個合わせ口にし、遺骸をおさめた棺を対象とする。
日常容器を転用して新生児や死生児をおさめた例も見られるが、九州北部に特徴的なのは成人用棺です。
把頭飾(はとうしょく) 銅剣の柄頭にあたる部分の装飾品。吹上遺跡では、出土状況から有機質の柄がついていたものと推測され、
その先端に把頭飾がついていたものと思われる。
※左図の把部にあるのは、昆虫のサナギなどである。把頭飾の説明とは無関係です。
 銅戈 弥生時代の青銅武器の一つ。
この形態は、古代中国の長柄などを付けた斬殺用の武器を祖形として朝鮮半島で出現し、日本に伝わったもの。
特に細形銅戈は北部九州に多く見られる。
ゴホウラ貝製貝輪 奄美諸島以南の南海の暖地に生息する腹足網のソデ貝科の大型巻貝ゴホウラを素材とした貝製腕輪。
多くは沖縄方面で政策された製品・未成品が北部九州などに搬入されたものと考えられる。
弥生前期から中期後半にほぼ収まり、甕棺の被葬者に着装され、有力者と見られる男性の右手に装着される例が多い。
 イモガイ製貝輪 奄美諸島の以南の南海の暖地に生息する腹足網のイモガイ科の円錐形貝を素材とした貝製腕輪。
多くは沖縄方面で製作された製品・未成品が北部九州などに搬入されたものと考えられる。
女性に着装される例が多い。
経塚   写経を供養するための一形態で、経典を埋納したところ。
山岳や神社・寺院の境内あるいは高燥地など、多くは霊地・聖地とされたところにある。
一般的には経典を筒(経筒)に納めて外容器に入れ、それを土坑又は小石室に埋納し、上を土石で覆う。土石が塚状を呈することもあってこの名がある。
経典の埋納は弥勒が現世に出現するまで経典を保存することを目的として始まり、ついで追善・道修供養のための物が現れるようになる。

 26ジオラマ解説
吹上遺跡発掘ジオラマ 吹上遺跡6次調査区
遺構変遷図
イモガイ貝輪・勾玉
銅剣1・銅戈1ゴホウラ貝輪15、勾玉1
銅戈1
成人墓の変遷
1号木棺墓

2号甕棺墓

4・5号甕棺墓

1・6号甕棺墓

3号甕棺墓
 27ジオラマ

1-3号木棺墓
1・4・5号甕棺墓

1・2・3号木棺墓
1・4・5号甕棺墓

7号甕棺墓

1・2・3号木棺墓

2号木棺墓
7号甕棺墓
3・2号甕棺墓 4号甕棺墓 5号甕棺墓 6号甕棺墓
1・6号甕棺墓 墓前祭祀の再現
 

 50玄関ホール展示

 51地図
 館内は特産の杉で構成され、美しい日本の伝統美を演出しています。
日田市指定文化財 ・日田市埋蔵文化財センター
・威宣園教育研究センター
・日田市立小鹿田焼陶芸館
・日田市立郷土史料館
・天領日田史料館
・日田祇園山鉾会館
・日田市立博物館
 52土埋木
野川阿蘇4火砕流堆積物及び埋没樹木群
埋没樹林想像図
阿蘇4火砕流の発生時期と経路 小野川の阿蘇4火砕流堆積物及び埋没樹林群
埋没樹木杉科
 53阿蘇4火砕流 (読めない)(展示物に触れないでくださいの札をのけないと読めない。)
火砕流の成分分析の解説のようです 2015年1月7日の噴煙 2015年の火火山灰

 54阿蘇4火砕流
(題名と一行目不明)
付近の川床に埋没していた樹木群が平成20・22年度の発掘調査によって約9万年の眠りから覚め、私たちに火砕流の被害や当時の森林環境の様子を語ってくれた。

小野川の阿蘇4火砕流堆積物と埋没樹林群は、平成20・22年度に大分県教育委員会が行った県道改良工事に伴う発掘調査で、鈴連町下小竹付近の川底から発見された。地元では古くから川底には大きな木が埋もれていることが知られていたが、詳しい事は謎だった。

発掘調査や各種分析の結果埋没樹林群は今から約9万年前の阿蘇山4回目の噴火に伴う阿蘇4火砕流の影響を受け、埋没したことが判明した。小野川下流から上流へと流れ込んだ火砕流は、流下の途中で森林をなぎ倒し、大量の樹木を巻き込んで移動させ、下小竹付近に堆積させたと考えられている。

樹種鑑定によって確認された樹種は、ヒノキ科、トウヒ属(マツ)、杉などの針葉樹木や、オニグルミ・ブナ属・ニレ属・モクレン属・サクラ属・カエデ属・アサガラ属・トネリコ属・アサダ・コナラ節などの広葉樹木の13種である。

今回の発見は、日本列島史上最大級の阿蘇山4回目の巨大噴火がもたらした。火砕流の破壊力と自然の脅威を教えてくれた。また一方では阿蘇4火砕流によって砂漠化した。9万年前の日田が、現在の地形へと変化する過程や森林の形成など、自然環境の回復の様子を知る手がかりとなっている。

発掘された埋没樹木群

阿蘇4火砕流の発生時期と経路

阿蘇4噴火の発生時期については、発見されたヒノキの樹皮の木材組織の分析によって、樹木の生育停止期間であった、その年の晩秋から晩春にかけての10月以降から翌年の4月ごろまでに起こったと推定された。

この時期に発生した阿蘇4火砕流は日田盆地に到達すると、盆地北側の小野谷を埋め尽くし、そのまま北九州方面へと流れていく。
また一方では日田盆地や小野谷を埋め尽くすと、筑後川を西下して佐賀平野にまで到達したと考えられている。

阿蘇4火砕流発生時期と経路
阿蘇4火砕流の流れ
北北西方向へ
小野川全景 阿蘇4火砕流堆積地層断面

阿蘇4火砕流の威力
小野川の埋没樹林群は、阿蘇4火砕流によってなぎ倒された森林樹木が、火災流によって運ばれて、小野川の下小竹付近に再堆積させた「異地性化石」である。
これに対し、樹木の樹根が残るなど元の位置からは動いていないものを「現地性化石」と呼ぶ。佐賀県八藤遺跡の埋没樹林群がそうである。
4mを超える樹木を含め大小約300点にものぼる発掘された樹木群は、その大半は表面が黒く炭化し、断面は扁平に変形している。なかには、火砕流に含まれていた礫が直撃し、樹木の片面に火山礫が撃ち込まれた例もあり、阿蘇4火砕流の衝撃エネルギーの凄まじさを知ることができる。

阿蘇4火砕流の威力 おしが谷斜面を流下する火砕流
(島原市雲仙普賢岳)

 55埋没樹林
発見までの経過
埋没樹林群の発見は、昭和15年頃日田市鈴連町下小竹橋建設の際に、大量の樹木片が出土したことに端を発します。

平成3年には大分県日田土木事務所によって、その一部が引き上げられ、平成7・8年には現地の状況調査や資料採取が行われました。

その後、県道建設に伴う発掘調査において、大分県教育委員会により、平成18年に事前調査、平成19年に試料等の採取、平成20・22年に本格的な発掘調査が行われました。

発見までの経過

阿蘇4火砕流堆積物とは

阿蘇4火砕流は、今から約9万年前、阿蘇山の過去4回目の巨大噴火の際に発生しました。この噴火は北部九州を壊滅状態に導くほどの大きな火山活動に起因しており、火砕流は九州のほぼ全域を埋め尽くした上、山口県萩市まで到達し、火山灰は遠く、北海道東部まで飛散しています。

この火砕流が小野川に到達し、火砕流によってなぎ倒された樹木化石と火砕流堆積物が良好に残存していることが、平成20・22年の発掘調査によって明らかとなりました。
これらの堆積物からは、その圧力によって形が大きく変形した13種類の樹木が確認され、火砕流の威力を伺い知ることができるとともに、高熱によって動植物の多くが焼き尽くされ、当時の自然環境を一変させたと考えられます。
阿蘇4火砕流堆積物

埋没樹木群

発見された樹木の大半は、表面が黒く炭化しており、炭化の軽いものから、全体が硬く化石化したものも見られます。
樹木の断面は、火砕流堆積物の圧力によって扁平に変形しているものが大半を占めています。
埋没樹木は、樹種鑑定が行われ、次の13種が確認されました。
 針葉樹:ヒノキ科、ブナ属、トウヒ属
 広葉樹:オニグルミ・ブナ属・ニレ属・モクレン属・サクラ属・カエデ属・アサガラ属・トネリコ属・アサダ・コナラ節の10種


発掘調査で明らかになったこと

小野川の埋没種木は全試料の65%が針葉樹で、針葉樹が森林を構成する主要樹種であったと考えられます。また樹木の寿命はヒノキ科1000年以上、トウヒ属400年以上、スギ300年以上と、老樹木が生育していたといえます。
こうしたことから火砕流以前の小野川周辺の森林景観は現在の屋久島の標高1100m以上の林相に近かったと考えられます。

埋没樹木群 発掘調査で明らかになったこと

佐賀県八藤遺跡との比較

年輪年代学的検討から阿蘇4火砕流の発生時期は、10月以降から翌年の4月頃までと推定されています。この結果は、佐賀県上峰町の八藤遺跡の埋没樹林群の調査結果と一致しています。

また小野川の埋没樹林群の多くが、原形を留めておらず、別の場所から火砕流に運ばれて小野川に堆積しているのに対し、八藤遺跡では樹根を残し、元位置からほとんど動いていません。これは阿蘇から小野川まで約60km、八藤遺跡まで約100kmと言う距離の差が、両遺跡の被災状況に反映していると考えられます。
このように両遺跡の比較によって、阿蘇4火砕流の発生時期や、火砕流の発生状況等の詳細な知見を得ることができます。

小野川の阿蘇4火砕流堆積物及び埋没樹林群は、日本列島の火山噴火史の中でも最大級と言われる阿蘇4噴火による自然災害の状況や、被災前の自然環境などを知ることができる貴重な地質遺産です。
こうしたことから、平成23年9月21日に国の天然記念物に指定されました。

佐賀県八藤遺跡との比較
 


 100常設展示室

 101年表

順路は反時計回り
年表からです
縄文~古墳 古代~近世

 103地形
はじめに~日田の地形~

日田市は、東西24.88km、南北46.63km、面積66 6.03㎢の面積を有する。
市域の北、大山川と玖珠川の合流する三隈川を中心としたした日田盆地は、周囲を耶馬渓火砕流や阿蘇4火砕流によって形成された台地や丘陵が巡る盆地を形成する。盆地内は幾つもの川が流れ込んで谷底平野を成しており、夏は暑く、冬は寒いと言う盆地特有の自然環境を作り出している。

市域の東にあたる九重山系を源流とする玖珠川沿いの天ヶ瀬は、川北は山地、川南は台地地形を成し、玖珠川に流れ込む支流には、優れた景観を残す滝が
分布する。
単純硫黄泉の源泉が湧き出る玖珠川河川敷は、『豊後国風土記』にその由来が記されるをなど、古くから天ヶ瀬温泉の名で全国に知られている。

市域の南にあたる阿蘇を源とする大山川流域には、津江山系を中心に深い谷地形が形成され、水系に沿って断崖絶壁の小谷が随所に見られる。
年間の降水量が多く、豊富な水資源に恵まれているこの地域の基盤には、金鉱脈を含む鯛生層や、植物や魚の化石を含む大山層が堆積している。

このように日田は多様な地形に富み、筑後川上流域に位置するという地理的条件も加わり、四方からの文化を受け入れては、独自の歴史を育んできた。
それは大山川流域の汗入場で採取される黒曜石大山産黒曜石)や松原周辺に分布する小国産黒曜石などを日田に住む私たちの祖先である。旧石器時代人が石器へと道具化することに始まる。

はじめに
~日田の地形~
日田盆地の底霧
日田盆地の底霧
地表の熱が上空に放射され、地表付近の気温が下がる事で発生する霧で、盆地特有の自然現象である。
特に晴天の冬の朝に見られる。
 


 110旧石器時代


 111狩猟民の生活
 地球上の人類が登場するのは数百万年前と言われているが、現在の日本列島に人類が登場するのは、約3万5千年前である。
この時から約1万5千年前までを旧石器時代と呼ぶ。
 氷河期であったこの時代は、現在より約100m海面が低く、大陸と陸続きであったため、日本人の祖先は、ナウマンゾウやオオツノジカなどの獲物を求めて、日本列島に移動してきたと考えられる。
 これらの人々は動物や植物を得るための道具である石器などを造り、移動しながら生活を送っていたと考えられる。 

 日田市南東部に広がる五馬台地(いつま)では、日田市最古の約3万4千年前の焚火跡が確認された高瀬Ⅲ遺跡や、
狩猟具の製作や道具の手入れの際に出た石屑等、約2万点の石器が出土した亀石山(かめいしざん)遺跡など、多くの遺跡が発見されており、狩猟が盛んだった様子をうかがうことができる。

狩猟民の生活
石器出土状況 石器出土状況
高瀬川遺跡
後期旧石器時代
約34,000年前
後期旧石器時代の石器が数多く出土した状況である。
ナイフ形石器のほか、台形石器や細石刃も出土しており、
長期間にわたる人々の生活の痕跡を見て取ることができる。
五馬台地南東部遠景  五馬台地南東部遠景
 
 遺跡は阿蘇山の外輪山北側、亀石山の麓にある。
調査地点は谷地形となっており、人々は水野確保が容易な遊水地を選んだと考えられる。
写真の江川には阿蘇山が見える。

 112黒曜石産地

大分県姫島産黒曜石
姫島産の黒曜石は、一般的な黒色の黒曜石に対して、乳白色から乳灰色を呈しているのが特徴です。
旧石器時代(約4万~1万3千年前)から弥生時代(紀元前3世紀~紀元後3世紀)に、南は鹿児島県の種子島から北は大阪府まで広く流通していました。
全国的にも貴重な資料として、平成19年に国指定天然記念物に指定されました。

北海道産黒曜石(別名:十勝石。北海道の十勝・白滝・置戸・赤井川産黒曜石すべてを一括していう呼び名)
北海道は全国でも有数の黒曜石産地です。北海道産黒曜石は、石の中に赤茶色の成分を含んでいることが特徴です。

黒曜石の主な原産地 北海道 白滝村
北海道 十勝平野
栃木県 高原山
長野県 霧ヶ峰
東京都 神津島
島根県 隠岐島
大分県 姫島
佐賀県 腰岳
熊本県 阿蘇山

日田市
日田市 黒曜石製石器出土 主要遺跡分布図
(旧石器・縄文時代)
 113黒曜石 産地別
十勝産、白滝産

黒曜石は黒ばかりでなく赤っぽい~透明までいろいろある
十勝産黒曜石 白滝産黒曜石
腰岳産黒曜石 腰岳産黒曜石
隠岐島産黒曜石 姫島産黒曜石 姫島産黒曜石 姫島産黒曜石 大山産黒曜石(日田産)
 

 120旧石器時代石器
 121
 122旧石器時代の道具と変遷
 この時代は使用された石器の形の変遷から大きく三つの時期に区分される。
約3万年前までの間、使用された特徴的な石器は、その形が台形状や切り出し状をした「台形様石器」である。
 続いて
約3万年前頃から約1万8千年前頃までの長い期間にわたり、狩猟などの生活道具の主体を占める「ナイフ形石器」が使用される。
このナイフ形石器には槍先として使用された三稜尖頭器や剥片尖頭器が一緒に使われる。

 そして、後期旧石器時代の終末の
約1万8千年前になると、細石刃と呼ばれる小さな石器を組み合わせた、効率的な技術を使う「細石器」へと変わる。

 このように旧石器時代の道具は発達し、その様相は高瀬Ⅲ遺跡亀石山遺跡などの出土物に見られる。

旧石器時代の道具と変遷
尖頭器
三稜尖頭器
 後期旧石器時代
 約3万~1.8万年前
  馬形遺跡
  平島遺跡
  町ノ坪遺跡

剥片尖頭器
 後期旧石器時代
 約3万~1.8万年前
  高瀬Ⅲ遺跡
ナイフ形石器
大坪遺跡
後期旧石器時代
約3万~1.8万年前
ナイフ形石器
左:宇土遺跡
右:高瀬Ⅲ遺跡
後期旧石器時代
~約3万年前
台形様石器
左:高瀬Ⅲ遺跡
右:宇土遺跡
~3万年前
台形石器

ナイフ形石器

細石器

石鏃
 123狩猟具の変遷と使用例
狩猟具の変遷と使用例
台形石器・台形様石器
ナイフ形石器・尖頭器
細石刃・細石刃核
石鏃
 124
細石刃核
平草遺跡
後期旧石器時代
約1.8~1.5万年前
細石刃核
宇土遺跡
後期旧石器時代
約1.8~1.5万年前
細石刃
宇土遺跡
後期旧石器時代
約1.8~1.5万年前
細石刃
大坪遺跡
後期旧石器時代
約1.8~1.5万年前
細石刃核
大坪遺跡
後期旧石器時代
約1.8~1.5万年前
細石刃
亀石山遺跡
後期旧石器時代
約1.8~1.5万年前
細石刃装着例
デンマーク出土
細石刃核
亀石山遺跡
後期旧石器時代
約1.8~1.5万年前
 
 128縄文時代
 


 150縄文時代


 151定住生活の始まりと精神文化の発展
 長く寒い氷河時代が終わりに差し掛かったころに始まる縄文時代は、今から約1万5千年前には画期的なできごとが起こる。弓矢と土器の発明である。
 弓矢は戦いを有利にし、遠くの獲物や動きの速い小動物を獲りやすくなるなど、狩猟の対象となる獲物の幅を拡大させた。

また、土器は食材の貯蔵や運搬を容易にし、煮炊きやアク抜きなどによる、新たな調理方法を生み出すことになった。
 この時代の遺跡は五馬台地のほか大肥川流域(大肥下河内遺跡祝原遺跡など)や大山川流域(手崎遺跡など)で発見されており、
旧石器時代に比べ暖かくなったこの時代には、食料を獲得しやすい川の近くにも生活域が広がったと考えられる。

 こうして利用できる食物の幅が広がって暮らしが安定し、豊かになっていくと、人々は定住生活を営むようになり、大山川流域(中川原遺跡)をはじめ、
市内各地で竪穴住居が見つかっている。更に、定住生活は家族や集団の存在意識を芽生えさせ、祖先崇拝などの精神文化を発展させることになる。
定住生活の始まりと精神文化の発展
  川の近くに広がる縄文の遺跡
 
遺跡は鶴河内河左岸の段丘上に広がる。
土器の他に石鏃や石匙など、狩猟・加工の道具が出土していることから、
食料を獲得しやすい場所であったと考えられる。

  大肥下河内遺跡(縄文時代前期:約6000年前)
  集石・石製品発掘状況
 
 玉形石製品は、集石の外側で土器などと共に発見された。
集石のそばで、祭祀を行った際に使用していたものと考えられる。

  大肥下河内遺跡(縄文時代前期:約6000年前)
   川の近くにある縄文の遺跡
遺跡は大肥川右岸の三隅川との合流点の約700m上流にある。
水や食料確保が容易な場所を選び、一時的な生活を営んだと考えられる。

  祝原遺跡(縄文時代後期:約3500年前)
   集石発掘状況  拳大の川原石を十数個並べている。
焼けた石があることから煮炊きを行った可能性がある。

  祝原遺跡(縄文後~晩期:約3000年前)
   川の近くにある縄文の遺跡
遺跡のそばには大山川が流れる。
土器や石鏃などのほかに、川での漁に使った石錘が大量に出土しており、
ここで生活した人々は川から多くの恵みを受けていたのであろう。

  中川原遺跡(縄文後期:約3500年前)
   竪穴住居発掘状況
 住居の床面中央付近には石組の炉、その周囲に柱穴が4個確認され、
住居の構造を推し量ることができる。

  中川原遺跡(縄文後期:約3500年前)
   竪穴住居発掘状況  楕円形の竪穴住居の一部が確認された。
中央部分では、炉跡と見られる焼けた土が見つかった。

  尾部田遺跡(縄文後期:約3500年前)
  落し穴の埋没状況
 
 狩猟は弓矢や槍を使うだけではなく、落とし穴も重要な手段の一つであった。
落とし穴はけもの道や獲物を追い込む場所に彫、底に逆茂木を立てた。
落ちた動物は逆茂木に引っ掛かり、動けなくなったところを捕獲されたと考えられる。

 写真は落とし穴に土が埋まった状況手であるが、底の中央付近に逆茂木を
立てた痕跡がはっきりと残っている。

  ノヲガケ遺跡(縄文前期以降:約6000年前~)

 152
弓矢の使用例 石匙
左:ノヲガケ遺跡
右:徳瀬遺跡B区
縄文時代
石匙
求来里平島遺跡
縄文時代後~晩期
約3千年前
石匙
西遺跡
尖頭器
祝原遺跡A区
打製石鏃
平原遺跡
山田遺跡
打製石鏃
祝原遺跡D区
縄文後期
約4千年前
打製石鏃
祝原遺跡D区
縄文後期
約4千年前
打製石鏃
大宮司遺跡
打製石鏃
大宮司遺跡
 
 160
 161縄文時代の道具と祭祀
縄文時代は、旧石器時代に比べて多種多様な道具が作られるようになる。
狩猟・漁労具として、旧石器時代から尖頭器に加え、石鏃や石錘が出現する。
調理具には獲物の皮を剥ぐ石匙、ドングリなどを加工する、窪み石(敲き石)、磨り石・石皿などがある。
農耕具としては、伐採用の石斧(打製・磨製)などがあり、後期になると根茎類の確保のため、土堀用の打製石斧が増加する。

また定住生活が定着すると、人々に信仰心が芽生えるようになり、祭祀に用いられたと考えられる道具類が多数出土している。
祈りの道具である土偶や身に付ける勾玉・管玉のほか、トロトロ石器、玉形石製品など多くの種類が発見されており、
縄文時代の人々の豊かな精神世界を垣間見ることができる。

縄文時代の道具と祭祀 石錘
中川原遺跡2次
縄文後期約3~4千年前
石錘 打製石斧
中川原遺跡2次
縄文後期約4千年前
打製石斧装着例 磨製石斧
中川原遺跡2次
縄文後期約4千年前
凹石 平草遺跡
磨石 祝原遺跡D区
縄文後期約4千年前
石皿
石ヶ迫遺跡
縄文早期
 ~約8千年前
 
 165
 166装身具
管玉
西有田赤ハゲ遺跡
縄文後期 約4千年前
求来里平島遺跡
縄文後~晩期
約3千年前
玦状耳飾り再加工品
大肥吉武遺跡
 167土偶
左:上出手遺跡
右:牧原遺跡
縄文後~晩期
約3千年前
 168異形石器
トロトロ石器
左:名里遺跡B区
右:宮原遺跡
円盤状石製品
尾部田遺跡
縄文後~晩期
約3千年前
十字形石器
赤迫遺跡
分銅形石製品
左:吹上遺跡
右:葛原遺跡
異形石器
中尾原遺跡
玉形石製品
大肥下河内遺跡
縄文前期
約6千年前
 

 170縄文土器

 171縄文土器の変遷と特徴
 縄文土器は時期によって草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に分けられる。
九州では、その特徴によって東九州西九州南九州の大きく三つの地域にわかられるが、後期後半頃になると、特徴の似た土器が使用されるようになる。

 九州の縄文土器は、土器表面に縄目を施した、装飾的な文様の土器はあまり見られないのが特徴の一つで、
早期までは、爪形文や無文土器があり、その後、押形文や押引き文を施したものが多くなり、
前期以降は押引き文に加え、条痕文や隆起文といった施文法の土器がみられる。
中期になると、
 西九州では凹線文や沈線、刻み目などを施し、滑石を混ぜた土器が分布するのに対し、
 東九州では瀬戸内地方の土器などが出土し、当時の人々の広域的な交流の様子を窺がうことができる。
 日田でも中期以降、瀬戸内地方の土器が多く出土している。

後期以降は、東日本の縄文文化の影響を受けて、縄目を磨いて出土した磨消縄文土器が盛行し、
晩期には土器の表面を光沢が出るまで丁寧に磨いた黒色磨研土器が作られるようになる。

縄文土器の変遷と特徴
包含層遺物出土状況
 
 遺跡の地殻を流れる大肥川の氾濫で流されてきたと考えられる土器が多く見つかった。

 古屋敷遺跡(縄文時代前期:約6000年前)
 竪穴住居遺物出土状況
 炉跡の周囲から、縄文土器がまとまって出土したほか、円盤状石製品屋磨製石斧が見つかった。

  尾部田遺跡(縄文時代後期:約3500年前)
  土器・石器出土状況   大量の縄文土器や台石・石皿などの石器が出土した。
土器の表面が擦り減っていないことや石皿などの大型の石器の出土状況から、
住居など、人の滞在を示すような遺構があった可能性がある。

  上井手遺跡(縄文時代後~晩期:約3000年前)

 173早期・前期土器
押形文 鉢
左:長者原遺跡
右:山田遺跡
縄文早期(約7千年前)
轟B式 深鉢
左:中川原遺跡
右:古屋敷遺跡
縄文前期(約7千年前)
曽畑式 深鉢
左:中川原遺跡
右:古屋敷遺跡
縄文前期(約6千年前)
 174縄文時代の土器形式
早期
押形文土器
9500~6000年前
前期
轟B式、曽畑式
6千~5千年前
中期
船元式、阿高式
5千~4千年前
2500
後期
中津式⇒福田K2式、小池原上層式⇒
⇒鐘崎式⇒西平式⇒三万田式⇒御領式
4千~3千年前
  晩期
黒色磨研土器
3000~2500年前
      中津式
福田K2式
小池原上層式
鐘崎式
西平式
三万田式
御領式
 
 175
船元式 深鉢
大肥吉武遺跡
縄文後期
約4~3.5千年前
阿高式 深鉢
祝原遺跡
縄文中期
約4.5千年前
中津式 深鉢
祝原遺跡
縄文後期
4千年前
福田K2式 深鉢
出口遺跡
縄文後期
4千年前
鐘崎式 深鉢
出口遺跡
縄文後期約4千年前
小池原上層式 深鉢
祝原遺跡
縄文後期約4千年前
磨消縄文土器 浅鉢
祝原遺跡D
縄文後期4千年前約
西平式 深鉢
大肥下河内遺跡
縄文後期約3千年前
 177
三万田式 深鉢
出口遺跡
縄文後期約4千年前
御領式 深鉢
尾部田遺跡
縄文後期約3千年前
黒色磨研土器 浅鉢
平草遺跡
縄文晩期約2.5千年前
 
 200


 200弥生時代

 201日田盆地の弥生時代
 今から約2500年前、大陸から渡来人により稲作が伝えられ、石を磨いた磨製石器や青銅器・鉄器といった中国・朝鮮半島の道具類など先進的な文物も伝来する。
縄文文化と融合した大陸文化は、それまでの生活様式を一変させ、食料の確保や多様な手工業の発展を促す。
更に集団で農業を営むようになり、集落は大型化し、佐賀県吉野ケ里遺跡のように大規模な濠を巡らせた環濠集落がつくられるようになる。
このほか、生活環境の向上によって集落内での階層が生まれ、北部九州を中心に有力者の墓が造られるようになり、
『金印』で知られる『奴』のようなクニが誕生していくのである。

 弥生時代の先進地は大陸に面している福岡や佐賀県であった。
これらの地域と地理的に近い日田でも先進地域の文化は伝来しており、徳瀬遺跡(とくぜ)や吹上遺跡などでもいち早く集落が造られ、
北部九州の影響を受けた弥生土器や、
福岡県飯塚市で作られた石包丁などが出土するなど、交易が盛んな様子が分かる。

 また、大肥遺跡では木製農具や農業用井堰等が発見されており、これらの発見から日田が北部九州と同時期に稲作が行われていたことが判る。
その後2~3世紀頃には、台地を巡る濠を持つ集落が長者原遺跡(ちょうじゃばる)や
三和教田遺跡(みわきょうだ)などで造られるようになり、日田の各地で人々が大きな集落をつくり暮していたことが判る。
このような有力者の墳墓や環濠集落が古墳や豪族居館へと姿を変えてその後の古墳時代へと繋がって行く。

日田盆地の弥生時代
弥生集落の風景2 竪穴住居など居住空間の周囲に彫を廻らし区画する
弥生時代の集落の特徴である環濠集落を見ることができる。

  三和教田遺跡(弥生時代後期:2世紀頃)
   弥生集落の風景1  平地などではなく周囲よりも高い台地の上に集落が築かれている。
こうした一に集落を築くのも弥生時代の集落の特徴の一つである。

  祇園原遺跡(弥生時代後期:2世紀頃)
   円形住居と方形住居   中期までの住居は平面形が円形のものが一般的であったが、
後期になる方形に変化していく。
これは住居の上部構造の発達や住居内土坑の設置など、
機能向上によるものと考えられる。

 高野遺跡(弥生時代中期:上段写真 1世紀)
 高野遺跡(弥生時代後期:下段写真 2世紀)
  円形住居と方形住居 
右上に記述
 

祭祀土坑
墓域とは少し離れた位置で検出された祭祀名伴うと考えられる土坑。
周囲からの流れ込みとは異なり、中央の一ヵ所にまとまって出土している様子が分かる。

 上野第2遺跡(弥生時代中期:紀元前1世紀)
   貯蔵穴  食料を保存するための円形袋状の穴蔵で、底面中央に柱を立てたものや
、開口部に板などで蓋をした物があったと想定される。
写真に見られる土器は食料を貯蔵するためのものと考えられる。

 吹上遺跡(弥生時代中期:紀元前1世紀)
 

 210弥生土器

 縄文土器から弥生土器へ
 弥生時代には朝鮮半島の無文土器の影響を受け、文様のない土器が主流となった。
また、煮炊き用の甕、貯蔵用の壺、食物盛り付け用の高坏・鉢と、器種と機能が分離・特化していく。
これらは時代と共に変化していき、前・中期の甕は頑丈で分厚い平底であるが、後期の甕は丸みのある薄い底へと推移する。
煮炊きの熱効率を考慮した結果であろうが、後迫遺跡高野遺跡などの土器からその変化を読み取ることができる。
土器には生活や地域の技術変化が如実に現れ、その変化は時代を特定する物差しと言える。

 丹塗土器
 朱やベンガラなどの赤色顔料を塗り、赤く仕上げた土器で、、主に祭や葬儀などの特別な儀式に用いられる。
集落の限られた場所や墓地で発見され、鎮魂や魔除けなど呪術的な意味を持つと考えられる。

大坪遺跡の丹塗りの甕は、亡くなった子供を葬る棺として使われた小児用甕棺であり、
大肥中村遺跡の高坏は、信仰対象に共献するために特別に赤く塗られたものと考えられる。


大坪遺跡
弥生中期 1世紀頃
縄文土器から弥生土器へ

会所宮遺跡
弥生中期 1世紀頃
高坏
大肥中村遺跡
弥生中期 1世紀頃
丹塗土器
吹上遺跡第9次
弥生前期
紀元前1c頃

吹上遺跡第9次
弥生前期
紀元前1c頃

上野第2遺跡
弥生前期
紀元前1c頃

後迫遺跡
弥生前期
紀元前1c頃
 220弥生後期土器
弥生のくらし 器台
後迫遺跡
弥生後期
2世紀頃

高野遺跡
弥生後期
2世紀頃

小西遺跡
弥生後期
2世紀頃
高坏
金田遺跡
弥生後期
2世紀頃

高野遺跡
弥生後期
2世紀頃

小西遺跡
弥生後期
2世紀頃

 230甕棺墓の流入
北部九州の影響を色濃く受けて成立した日田の弥生社会を特徴付けるもののひとつに、甕棺墓が上げられる。
甕棺墓は、甕や壺を棺として利用したもので、埋葬専用に造られたものと別の用途に使用していたものを転用したものがある。

 日田で最古クラスの甕棺墓は上野第2遺跡の前期末~中期初頭の子供用のもので、その後は吹上遺跡・大肥遺跡・朝日宮ノ原遺跡など
市内各所で甕棺墓が採用されるようになる。

日常生活に使う甕や壺を棺として転用した子供用の墓は県内でも一般的にみられるが、
埋葬専用として造られる成人用の大型甕棺墓は大分県内では日田盆地以外では例がなく
筑後川を介してつながった北部九州の人々との交流の証をここに見ることができる。

 弥生時代の墓域
 成人用甕棺墓のほかに石棺墓、小児用甕棺など様々な墓が築かれており、この周囲は墓域として利用されていた様子が分かる。

甕棺墓の流入 弥生時代の墓域 弥生時代の墓域
日田の甕棺墓分布図
甕棺の移り変わり 前期~中期前半
前期
伯玄式→金海式(古)
※半島式甕棺
中期前半
中期前半
金海式(新)→城ノ越式→汲田式
中期後半前葉
中期後半
須玖式→立岩式(古)→立岩式(新)
中期後半
大型成人用甕棺
大肥遺跡B-1区
弥生中期
紀元前1世紀
大型成人用甕棺
元宮遺跡2次
弥生後期
2世紀頃
小児用甕棺
上野第2遺跡
弥生中期
紀元前1世紀頃
 
 240稲作の開始と技術革新
 241
 稲作文化の伝来は米作りに必要な灌漑や土木工事の技術と同時に、田を耕す鍬・鋤、コメを収穫する石包丁・鎌、そして、
それらを作るための大陸系磨製石斧などの新たな道具を伝えた。
さらに、大陸から鉄が伝わると、石包丁は鉄鎌へ、石斧は鉄斧へと、石の道具は次第に刃が鋭く作業効率の良い鉄製の物へと変化していく。

 大肥遺跡では三又鍬(平鍬)など木製農具が数多く出土し、農業用の堰や水路などの土木遺構の存在は水田稲作技術が
既に完成した形で伝わっていたことを教えてくれる。
このほか、祇園原遺跡佐寺原遺跡では鉄斧や鏃などが出土しており、次第に鉄製品へと技術の変化がおきていたことが分かる。

稲作の開始と技術革新
流路より出土する
大量の木器
木器や加工木などが多数出土しており、
この時代に多様な木製品が生活の中で用いられていたことが分かる。

 大肥遺跡A区 (弥生時代後期:2世紀頃)
   弥生時代の
食物加工場
 導水路より2つの木枠組に水を引き込みアク抜きが必要な堅果類の水さらし(食物加工)を
行っていたと想定される。

 大肥遺跡A区 (弥生時代後期:2世紀頃)

 242弥生時代の農具
 242a土堀具
鉄刃装着の土堀具
岡山 上東

土堀具の鉄の刃
(鉄鍬先・鉄鋤先)
福岡 宮の前

木の土堀具(広鍬)
長崎 里田原
畑の土堀具(有肩扇状石器)長野 恒川

木の土堀具(狭鍬)
大阪 池上・曽根
木の土堀具
福岡 拾六町築地

木の土堀具(一木鋤)
大阪 亀井
穂摘み具
抉り入り打製石包丁
長野 恒川

打製石包丁
岡山 菰池

石包丁
大阪 池上・曽根
鉄製手鎌
福岡 赤井手

木包丁
大阪 巨摩廃寺
 242b

平鍬:奈良県唐古鍵33.4cm
広鍬:静岡剣登呂25.0cm

木鍬:大阪瓜生堂127cm
鉄製鋤先:福岡県宮ノ前10.1cm
青銅製鋤先:福岡県田隈8.8cm
えぶり:静岡県山木38.4cm
田下駄:静岡県登呂38.6cm
収穫
 
  石包丁:佐賀県吉野ヶ里   鉄鎌:

鉄製手鎌:福岡県赤井手10cm 

脱穀
竪杵
脱穀には円筒形や鼓形の材をくりぬいて作った木臼。
棒状の材の中程を握りやすく削った竪杵が対で用いられた。
長崎県里田原遺跡 高さ94cm

木臼
大阪府亀井遺跡高さ38.6cm

脱穀の様子
刈り取った稲の穂は、木臼に入れ、棒状の竪杵でついて籾をとる。高さ94cm

高床倉庫
 高床倉庫
板材を多く用い、長い柱で床を地表から持ち上げた高床倉庫は湿気を防ぎ、洪水を避けるのに有効で、ネズミや虫から米を守るうえでも効果的である。
柱や梯子と建物の床の間に、「ねずみ返し」という板をつけたものもある。
岡山県百間川遺跡  岡山県百間川遺跡
岡山市の百間川原尾島遺跡では、弥生後期末の水田跡で稲の株と見られる丸い穴が列をなして7つのブロックを作っているのが発見された。これは、7人が並んで田植えを行っていたことを示すと考えられている。
 243弥生時代の石器
磨製石斧
後迫遺跡
弥生後期 2世紀頃
石斧の種類
①太型蛤刃石斧
②抉入片刃石斧
③扁平片刃石斧
柱状片刃石斧
大肥遺跡A-2区
弥生中期 1世紀頃

扁平片刃石斧
祇園原遺跡
弥生後期 2世紀頃
抉入石斧
後迫遺跡
弥生中期 1世紀頃
石包丁
右:高野遺跡
左:祇園原遺跡
弥生後期
2世紀頃
石包丁
山田原遺跡
弥生後期
2世紀頃
石包丁の使い方
 245
鋳造鉄斧 佐寺原遺跡
後期 2c

刀子 徳瀬遺跡
後期 3c
手鎌
徳瀬遺跡
弥生後期 3c
砥石 祇園原遺跡
後期 2c

鉄のみ(鑿) 徳瀬遺跡
後期 3c
鉄鏃
祇園原遺跡
鉄鏃
金田遺跡
鉄鏃 祇園原遺跡
弥生後期 2c
鉄鏃 徳瀬遺跡
弥生後期 3c
石鏃
右:祇園原遺跡
中:後迫遺跡
左:吹上遺跡
木甲
大肥遺跡A-2区
弥生中期 紀元前1c
木甲もっこう(鎧)
 247木製品
木製農具 三又鍬
大肥遺跡A-2区
弥生後期 2c
又鍬
大肥遺跡A-2区
弥生中期 紀元前1c
鍬柄 鍬柄
大肥遺跡A-2区
弥生後期 2c
斧柄
大肥遺跡A-2区
弥生中期 紀元前1c
杓子
大肥遺跡A-2区
弥生後期 2c
火起こし道具
舞錐法
火切臼
大肥遺跡A-2区
弥生後期 2c

大肥遺跡A-2区
弥生中期 紀元前1c
 

 250吹上遺跡の首長墓
弥生時代の先進地である北部九州では、弥生中期になると特定の墳墓に青銅器などを副葬するようになる。
これは、一般の墳墓とは異なり、集落内でも指導者的な立場の人物(首長)の墓であったと考えられる。

日田では、北部九州で一般成人まで浸透した成人用甕棺墓がこれにあたり、使用できるのはムラの有力者に限られている。

首長墓とは別に一般墓としては、
木材や板石を過去状に組み合わせた、木棺墓や石棺墓、
素掘りの穴に木や石の蓋を被せた石蓋土壙墓がある。これらは居住域から少し離れた場所に集団墓地を形成した。

こうした状況は、盆地を見下ろす高台にある吹上遺跡でも見られ、集落とは離れた場所に鉄製・青銅製の武器、南海産の貝輪、勾玉やガラス製の管玉などの装身具類など豪華な副葬品を持った甕棺墓が作られるようになる。当時、貴重な金属器や遠く沖縄近海の貝製品を数多く持つこれらの墓群は、市内で見られる副葬品を持った甕棺墓とは一線を画しており、被葬者が吹上遺跡の集落だけでなく、日田盆地内の指導者たち立場にあった特定集団の墓であったと考えられる。

こうした有力者の墓が見つかったことで、日田にも北部九州に見られるクニの様なまとまりが形成されつつあったことを示している。
 251吹上遺跡の首長墓
吹上遺跡の首長墓 石棺墓より出土した鏡片

弥生後期の石棺墓で、鏡を用いた祭祀を行っていた可能性がある。

徳瀬遺跡
弥生後期2世紀頃
朝日宮ノ原遺跡 日田盆地を見渡す吹上台地に築かれた遺跡。当時の拠点的な集落であり、
その墓群の規模から、此処には盆地内の指導者的な立場にあった人物がいたと想像させる。

吹上遺跡
弥生中期紀元前1c頃
 4号甕棺墓発掘状況
 被葬者男性。腕にゴホウラ製貝輪、勾玉、大量のガラス管玉。甕棺上部には鉄剣・銅戈と大漁の副葬品が埋納され、生前の地位の高さを窺わせる。

吹上遺跡
弥生中期紀元前1c頃
5号甕棺墓発掘状況
 
 被葬者女性。4号甕棺と同時期に埋葬されたと考えられる。また4号甕棺の被葬者同様にイモガイ製貝輪を腕に嵌めた状態で出土。

吹上遺跡
弥生中期紀元線1c頃
4号甕棺墓副葬品出土状況実測図
5号甕棺墓副葬品出土状況実測図
甕棺墓の埋葬方法 吹上オウの埋葬
 253
石剣
石剣
石戈
石戈
右:跡迫遺跡
左:大肥遺跡
弥生中期 紀元前1c
石剣
大肥遺跡B-1
中期 紀元前1c
石剣
吹上遺跡
弥生中期 紀元前1c
 
255弥生時代の祭と祈り
農耕が始まる弥生時代は豊穣を祈り、共同体のシンボルとなる銅鐸、銅矛、鏡や剣の石製模造品などを用いた祭祀が行われるようになる。
市内でも本村遺跡の鏡片や大野老松神社の銅矛など青銅器を用いた祭祀が、大肥遺跡や後迫遺跡では石製武器を用いた祭の姿が想像される。
このことから弥生時代の日田には、農耕の技術だけでなく、その精神文化も早くから伝わっていたことが分かる。

碧玉製管玉
後迫遺跡
弥生後期
3世紀
彷製内行花文鏡
本村遺跡
弥生後期 3世紀頃
舶載鏡 位至三公鏡
徳瀬遺跡
弥生後期 3世紀
弥生時代の祭と祈り
ガラス小玉
平島遺跡D区
弥生後期 3世紀
鉄斧
右:朝日宮ノ原D区
左:五馬大坪遺跡
弥生後期 3世紀
刀子
朝日宮ノ原D区
弥生後期 3世紀

 257首長と眠る道具
 弥生時代~古墳時代頃の首長墓には、鏡や青銅製品、鉄製武器・農具などのほか勾玉などの装身具が 多く副葬される特徴がある。
これはともに副葬することで被葬者の生前の地位を象徴する威信財としての意味があったと考えられる。
 吹上遺跡にみられる副葬された武器や装身具も、弥生時代の副葬の始まりを告げるとともに、当時の人々の被葬者に対する思いや往時の地位を繁栄したものと考えられる。

管玉
吹上遺跡6次
弥生中期
紀元前1c
鉄剣(レプリカ)
吹上遺跡6次
弥生中期 紀元前1c
把頭飾(レプリカ)
吹上遺跡6次
弥生中期 紀元前1c
銅剣(レプリカ)
吹上遺跡6次
弥生中期 紀元前1c
貝輪(レプリカ)
吹上遺跡6次
弥生中期 1c頃
首長と眠る道具 ゴホウラ貝
 


 300古墳時代


 301大和王権の時代とその暮らし
古墳
 前方後円墳に代表される墳墓が造られた古墳時代には、近畿地方に大和王権が誕生し、各地の豪族を従えていく。
日田盆地でも小迫辻原遺跡で政治的な様相が強い集落が出現し、豪族(首長)の登場と古墳文化の開始を告げる。

 豪族の墳墓である古墳はその形や規模によって中央と地方の政治秩序が表現されており、全国で数十万基が存在する。
日田地域では大山や三津江を除く各地で80数基程度しか確認されず、
その他の有力者の墳墓の多くは、石棺系竪穴式石室や溶岩台地の崖面を利用した横穴墓などとして市内各地に築造されるようになる。

生産・技術
 古墳時代になると様々な生産や製作技術、風習などが日本各地や朝鮮半島から伝わり、古代人の生活は大きく変化する。
4世紀には畿内や山陰などから伝わった土器製作技術によって、弥生土器は土師器へと変革し、
5世紀頃には朝鮮半島から伝わった革新的な製陶技術によって、以降の日本の製陶技術に大きな影響を与えた須恵器が登場する。
日田盆地では須恵器窯跡は発見されていないため、筑紫や筑後、豊前などの生産地から供給を受けていたのであろう。

カマド
 こうして多様化する食器と共に、炊飯技術の変革をもたらした竃(かまど)が壁面に備えつけられたことで、
炊事場などの生活空間構成や建物構造に大きな変革をもたらす。
日田盆地の多くの住居では5世紀にはいち早く竃が採用され、その先進性を窺い知ることができる。

鉄生産
 さらに、鉄の生産技術の進歩は、馬具や武器類などの様々な精神的道具類を生み出し、
鉄原料を求めて百済・新羅や高句麗といった東アジアの古代国家と積極的に関わることになる。
萩鶴遺跡の鍛冶工房跡や鉄原料の鉄鋌などの発見は日田盆地も古代社会の動向と無関係ではなかったことを伝えてくれるのである。

大和王権の時代と
その暮らし
古墳(円墳)と周囲の集落
 有田地域の首長墳と見られる直系25mの円墳で、頂部に2基の主体部が作られていた。
丘陵端部の尾根を削り出して築造しており、尾根を分断するように周溝が造られていた。

丘陵の眼下の小さな谷には竪穴建物の集落群、前方には沖積地が広がっている。
被葬者はこの地域の首長であったのであろう。

 尾漕2号墳(古墳時代中期 5世紀)
 鍛冶遺構の姿  金属加工技術は、古墳時代には成熟し、鍛冶専業集団が出現する。
中央の金床石(かなとこ)の横に高温で黒くなった炉跡、
周囲にはフイゴに使った高坏の脚部などが散乱する。
この時代は本格的製鉄は行われておらず、朝鮮半島などから輸入した鉄鋌などを素材として
製品加工を行い、武器や農具が造られる。

 荻鶴遺跡(古墳時代中期:5世紀)
横穴墓群の全容  横穴墓は古墳時代後期を中心に流行する埋葬主体で、台地崖面に複数の横穴を掘り込み石室とする群衆墳である。市内の崖面の至るところで見られる。
平島横穴墓群では86基の墓が多数並んで造られていた。
上段のものが古く、数世代にわたる墓群である。

 平島横穴墓群(古墳時代後期:6世紀)
  古墳の棺と被葬者   尾漕2号墳の棺は石棺で凝灰岩の板石で造られていた。
被葬者は3名で、半島系の素環頭大刀や櫛などを副葬し、朱が塗布されていた。
この地域の主導的人物たちの権威を示している。
この頃から墳墓に大量に埋納される武具や農具は、鉄器の普及や富の拡大といった社会の成熟を教えてくれる。

 尾漕2号墳(古墳時代中期:5世紀)
  竪穴系石棺と被葬者  日田地域でよく見られる板石の小口を重ねて積み上げた石棺で、墳丘は伴わない集団墓である。
若年の被葬者で、石室内面には赤色顔料が塗布されていた。
一般構成員の姿を想像させる。

 長者原遺跡(古墳時代中期:5世紀)
  墓前祭祀の状況  横穴式石室や横穴墓の入口を塞ぐ蓋石の前では墓前で祭祀が行われる。
須恵器や精製土師器などが備えられ、被葬者を弔う古代人の祈りが込められている。

 平島横穴墓群(古墳時代後期:6世紀)

 310墳墓を彩る副葬品
勾玉や管玉などの権威を象徴する伝統的な装身具のほかに、鉄製の武器類が多数副葬されることも古墳時代の特徴である。
 311刀剣類
鉄刀
 尾漕2号墳
 赤迫遺跡 中期 5c
鉄剣
  赤迫遺跡 中期 5c
 313刀子・石鏃等
鉄剣  左右:赤迫
中:長者原 中期 5c
鉄鏃
鉄鏃 中期 5c
左:赤迫 右:長者原
鉄剣  左右:赤迫
中:長者原 中期 5c

 315玉類
玉類
平島横穴墓群
古墳後期 6c

中尾原遺跡
古墳中期 5c
碧玉製管玉
平島横穴墓群
古墳後期 6c
 
 320鍛冶関連遺物
 321鉄製品
円盤状石製品
右:萩鶴遺跡
左:町ノ坪遺跡
古墳中期 5c
鉄鋌
下:萩鶴遺跡
上:一丁田遺跡
古墳中期 5c
鉄片
町ノ坪遺跡
古墳中期 5c
鉄鎌
平島横穴墓
古墳中後期 6c
刀子
下:平島横穴墓群
上2:元宮遺跡3次
古墳後期 6c
絞具(かこ)
平島横穴墓群
古墳後期 6c

 323多彩な鉄器と鍛冶工房
 古墳時代には鉄生産が本格化し、荻鶴遺跡ではフイゴの羽口や金床石といった鍛冶道具や原材料の鉄鋌、製鉄屑の鉄滓などが発見された。
石製品などは危険な鍛冶作業の安全を祈願したものであろうか。
馬具や工具など様々な鉄製品と共に精緻な木製品も造られるなど、手工業の発展を窺い知ることができる。

鍛冶の様子(中世頃) 鉄槌 てっつい
鉄鉗 かなはし =やっとこ
鉄鑿 てつのみ =たがね
鉄砧 てっちん (金床石かなとこいし) =かなとこ
多彩な鉄器と鍛冶工房
鉄滓
荻鶴遺跡
古墳中期 5c
フイゴの羽口
荻鶴遺跡
古墳中期 5c
フイゴ羽口
荻鶴遺跡
古墳中期 5c
 325打金道具
下駄
赤迫遺跡
古墳中期 6c
金床石
荻鶴遺跡
古墳中期 6c
斧柄
赤迫遺跡
古墳中期 6c
 
 330住居跡
 331
 竪穴住居と廃棄された土器
 伝統的な住居跡は、2ないし4本の柱と地上に掘った竪穴部に屋根や壁を付けて建てられ、
建物中央には炉が設けられる。
住居跡を発掘するとしばしば大量の廃棄された土器が出土する。
この住居では感性系などが多く、祭祀などを行った様子が窺える。

 一丁田遺跡(古墳時代前期:4世紀) 
   竃を持つ竪穴住居
ピンボケでした
 
   竃と祭祀  燃焼室を補強するための袖石と天井石を使うことの多い日田の竃の多くは、
共献土器が周囲に産卵し、破壊された状態で発見されて本来の姿を留めることはほとんどない。
竃を壊して底に宿る髪をあがめた古代人の恐れと祈りがこめられる。

 本村遺跡5次 (古墳時代後期:6世紀)

 333土師器の登場
古墳時代には近畿や山陰などの英起用を受けて全国的に斉一性が高い土器が登場し、
弥生的な製作技術を脱却した薄い素焼きの土器は土師器と呼ばれる。多彩な食器や
煮炊きのためのコシキなどが登場し、また、丁寧に
造られた精製土器は墳墓などにも副葬された。

土師器甕
低脚坏:一丁田:前期4c
土師器の登場 甕 町ノ坪B区
中期 5c
小型丸底壺、高坏
町ノ坪:中期 5c

 竃と煮炊き
熱効率と排煙技術を向上させた竃は、炉より格段に優れた屋内施設として住居構造の変革を促しつつ、全国に広がる。
また、同時に伝わる甑を用いた「蒸し」により、炊飯技術に変革がもたらされたと考えられる。

竃と煮炊き 竃の模式図 甑と甕
長迫遺跡C地点
古墳後期 6c
甑と甕

 335須恵器の登場
古墳時代中頃にはロクロ成形や窖窯(登り窯)を用いた焼成技法などが朝鮮半島から伝わる。
坏などの生活食器類や大型甕や壺などの多彩な容器が造られ、各地に窯業生産地ができる。
日田からは朝倉(福岡)や陶邑(大阪)産の須恵器などが発見される。装飾豊かで精緻な須恵器は副葬品としても利用される。

精製高坏、
精製小型器台
徳瀬遺跡
古墳中期 5c
精製小型器台
精製小型丸底鉢
徳瀬遺跡
古墳中期 5c
須恵器 坏蓋
金田遺跡 中期 5c
須恵器広口壺
町ノ坪B区
中期 5c
須恵器の登場
須恵器製品
ガランドヤ1号墳
古墳後期 6c
坏、高坏、盌、短頸壷
 

 340装飾古墳


 341豪族の墓を彩る装飾
 古墳は前方後円墳を最上位の階層とする多様な大きさと形状のものが畿内を中心に造られるが、日田での本格的な古墳の出現は古墳時代中期の4世紀末以降である。
それ以前は方形周溝墓や低墳丘墓などが主体で、5世紀以降に古墳の築造は増加し、6世紀には前方後円墳や装飾古墳なども造られるようになる。

 全国で5200基以上造られる前方後円墳は市内には4基あり、中でも朝日天神山古墳群には市内最大規模の墳丘に須恵器を埴輪代わりに並べていたことが知られ、その権威を示している。
 ※当時の須恵器は超高級品で、宝物に等しかったので、高級品とはいえ土師器製の埴輪は須恵器の足元にもよれなかったでしょう。
 須恵器を並べられるほどの超富裕者のようです。

古墳装飾
 また、古墳内部の石室を彫刻や彩色によって装飾する装飾古墳は全国で約660基以上が存在し、九州北部と中部にかけての河川流域にその半数が分布する。
5世紀頃の文様は死者の鎮魂的な意味合いで鏡や武器と共に直弧文や鍵手文など複雑な幾何学文様が描かれるが、
6世紀頃には同心円文や三角文など比較的単純な文様と共に、人物や動物・船・馬など具体的な絵画を石室自体に描くようになる。

神仙思想の流布
 大陸との交流によって人々に霊魂観が芽生えたことで、人々や動物、移動手段を描き、物語性を持たせることによって、死後の世界観などを表現した絵画へと変化していった過程を表すと考えられている。
 こうした変化は、筑後川を伝って市内4基の装飾古墳に影響を与えている。

豪族の墓を彩る装飾
 342
法恩寺3号墳の装飾壁画
 横穴式石室の玄室右側の小口積みの側壁に赤い円文が無数に描かれる。
他にも玄門や楣石に動物や円文が描かれる。
  (楣=のき、ひさし)
 赤単色で璧画画描かれる。古墳は径約20mの円墳である。

法恩寺山古墳群(古墳後期 6世紀後半
ガランドヤ1号墳の装飾壁画
 横穴式石室の玄室奥壁に緑と赤で人物、鳥や船、円文などの多彩な文様が描かれる。
 多彩な文様は仏教などの影響で生まれた死生観が筑後川を経由して伝わった物だろうか。古

ガランドヤ古墳群(古墳後期 6世紀後半)
ガランドヤ2号墳の装飾壁画
 横穴式石室奥壁に赤地に緑で馬上で弓引く人物、山形もン、円文などが描かれる。
単純な文様構成。

 ガランドヤ古墳群(古墳後期 6世紀中頃)
穴観音古墳の装飾壁画
 表面の劣化でわかりにくいが、横穴式石室の玄室奥壁に緑と赤で円文が描かれる。ほかにも前室両側壁などに船や人物などが描かれる。
赤や緑のほかに、石を掘り窪めて延や船などを表すなどの多彩な技法が採用されている。
古墳は径約19mの円墳である。

 穴観音古墳(古墳後期 6世紀末)
大型円墳と埴輪
 全長38mの大型円墳で
、古墳の周囲からは円筒埴輪のほか、太刀形埴輪や家形埴輪の破片なども出土しており、
その威容を示している。

 薬師堂山古墳(古墳中期 5世紀) 
朝日天神山の2基並ぶ前方後円墳
 市内の4基の前方後円墳のうち、2基が前後(2号⇒1号)して築造される。
全長65mの2号墳には2重に周溝が巡り、全長33mの1号分には1重の周溝が巡る。

沖積平野を望む好立地に築造された古墳からは、三輪玉や馬具・鏡など副葬品の出土が伝えられ、
日田玖珠地域最大の古墳の被葬者の優れた権威を示している。

 朝日天神山古墳群(古墳後期 6世紀)
埴輪に使われた大型平底壺
 2号墳の周溝からは埴輪の代用品であった大型平底壺の破片が大量に出土し、古墳の周囲を埴輪のように飾っていたと考えられる。

 朝日天神山古墳群(古墳後期 6世紀)

 343
 装飾古墳の被葬者
 市内の装飾古墳は墳丘や石室の規模が比較的大きく、副葬遺物も鏡や装身具の他に馬具や銀象嵌画施された鉄刀などが出土しており、
被葬者の権力の高さを示している。
 また、穴観音古墳のある内河町の原はるでは、長者の草壁(日下部)春里の説話が伝えられ、
法恩寺山古墳群のある「靫負ゆぎおい」(現在の刃連町ゆきい)には、
日下部君の祖先・邑阿自おおあじが「靫部ゆぎべ」として仕え住んだと『豊後国風土記』に記される。

日下部氏は後に日田を統治する氏族で、装飾古墳被葬者の権威を教えてくれる。

金耳環
ガランドヤ1号墳
古墳後期 6c
珠文鏡
ガランドヤ2号墳
古墳後期 6c
金耳環
ガランドヤ2号墳
古墳後期 6c
装飾古墳の被葬者
銅釧
ガランドヤ2号墳
古墳後期 6c
鞖(しおで、馬具)
ガランドヤ1号墳
古墳後期6c
馬具
飾金具・辻金具・絞具
ガランドヤ1号墳
古墳後期6c
くつわ
ガランドヤ1号墳
古墳後期6c
 345
変形五獣鏡
法恩寺4号墳
古墳後期 6c
玉類
法恩寺4号墳
古墳後期 6c
鈴雲珠
法恩寺4号墳
古墳後期 6c
絞具、帯先金具
法恩寺4号墳
古墳後期 6c
脚付器台
法恩寺4号墳
古墳後期 6c
 347首長墓の装飾品
 豪族(首長)の墓を飾る埴輪は全国で多数見つかるが、日田では薬師堂山古墳などでしか類例がない。
朝日天神山古墳では全国的に珍しく須恵器を埴輪がわりに利用しており、更に畿内有力墓などの出土例が多い刀装具(三輪玉)などが出土している。被葬者の権威を示すものとして注目される。

首長墓の装飾品
須恵器器台
朝日天神山2号墳
古墳後期 6c
大型平底壺
朝日天神山2号墳
古墳後期 6c
円筒埴輪
薬師堂山古墳
古墳後期 6c
 


 400古代

 401律令国家と日田の成立
中央政権の確立
 各地に存在する豪族の支配体制を確立した大和王権は、大化改新(645)、改新の詔(646)、大宝律令制定(701)、平城京遷都(710)を経て
天皇中心の中央集権国家(律令国家)を完成させた。奈良時代の始まりである。

法治国家
 律令とは大まかにいえば法律のことで、天皇が国家を一元的に統治するために様々な新しい仕組みが整うられた。その一つに行政組織の整備がある。
 それまでの各地の豪族が支配していた自然発生的なムラやクニが、中央政権が把握しやすいように「国・郡・里(郷)」に再編成されて当地の拠点
としての役所(国府・郡衙など)が設置され、この時現在の日田市域とほぼ同じ「豊後国日田郡」が成立した。
 日田郡の中は更に「石井」「靫編」「在田」「日里ひたり」「夜關よあけ」の5つの郷に区分けされた。
郡や里(郷)の長(国司)は中央政権から定期的に派遣され、道路(官道)や、乗り継ぎのための馬と宿泊施設を備えた駅が整備された。

役所の建設
 この役所や駅などど考えられる遺跡が日田市でもいくつか見つかっている。
 大原八幡宮あたりに広がる大波羅遺跡では、一辺1mもある大きな四角い柱穴とそこに立てられた大きな木柱が列を梨て確認されると共に、
墨書土器や硯として使った土器、瓦などが出土している。

 一般住居を遥かに凌駕する建物規模と識字層の存在から郡衙などの日田郡の役所と想定されている。
また、小迫辻原でも、規則正しく並んだ建物群と共に、郡司職の名称である「大領かみ」銘の墨書土器が出土しており、郡司の館の存在を想像させる。
一方三隅川南岸の上野第1遺跡では古代の道路・倉庫群とともに「豊馬豊馬」と線刻された石製品が出土し、平安時代の法典『延喜式』に見える
「石井駅」の候補地とされる。
 これらのほかに瓦や墨書土器が出土した遺跡も、同じく公的施設や寺院など都考えられており、日田郡内の律令期の姿を想像させてくれる。

律令国家と日田の成立 日田五郷の推定範囲
 402
大型柱穴列と庇付掘立柱建物
調査区中央を分断する溝の左に四角い柱穴の大型柱穴列が2列、
右に丸い柱穴の掘立柱建物が1棟見つかった。
柱穴の大きさや構造の違いは建物の役割の違いを表すと考えられる。
 柱として使われた木材が、大型柱穴列の物はあまり建材としては使われないカヤ(栢)、
掘立柱建物の物が普通の健在であるケヤキやクリであることにも
、大型柱穴の特異性が現れている。

 大波羅遺跡5次(奈良時代 8世紀)
 銭物遺跡の大型建物
 三隅川南岸、高瀬保育所そばの銭渕遺跡でも、大波羅遺跡と同様の大きな柱穴の建物が見つかった。
 川を見下ろす高台にあること、また、上野第1遺跡付近を通っていたと考えられる官道にも近いことから、陸上と河川交通に関わる施設の可能性がある。
 掘立柱建物群
 7棟の掘立柱建物が「L」字又は「コ」字状に配置されており、柱穴から転用硯や墨書土器が出土した。これらの出土遺物や、建物の規則的な配置と建物規模から、郡司の居宅と考えられる。

 奈良時代の文献『豊後国正税帳』には孤軍の郡司として日下部氏の名前が見られ、居宅都日下部氏の関係が注目される。

 
小迫辻原遺跡 (奈良時代 8世紀)
 「花度大」銘須恵器坏出土状況
 朱墨で「花度大」と書かれた須恵器は、ごく一般的な竪穴住居から出土した。
 朱書きの文字は非常に珍しく、この頃の九州の統括拠点であった大宰府で記号の書かれた土器が確認されている程度である。

 大肥吉武遺跡 (奈良時代 8世紀)
 1300年前の柱木の列
 カヤの柱木は、表土除去段階で既に列をなして露出していた。
柱穴の大きさは1辺1m、柱木は直系が30cm程度を測る。
 現在の一般住宅に使われる柱の太さが12cm程度であることと比べると、かなり大きな柱であったことが分かる。

 大波羅遺跡5次 (奈良時代 8世紀)
 403鉄製品
毛抜き、鉄釘
馬形遺跡
平安時代 9c
刀子:馬形遺跡
平安時代 9c

火打金
大肥吉竹遺跡
奈良時代 8c
鉄製紡錘車
小迫辻原遺跡
奈良~平安
8~9世紀
鉄鎌
小迫辻原遺跡
奈良~平安
8~9世紀
 405土製品
土壁:小迫辻原遺跡
奈良~平安8-9c
温石:尾部田2次
平安9~12c
権承具
長迫C地点
奈良 8c
権承具=権
竿秤の重り

 瓦の使用例
屋根を葺き、飾るための焼き物である瓦は、まだ一般の住居には使用されず、役所などの公的施設や寺院のみに使われた。
大波羅遺跡では、他に仏教的な遺物が出土していないため、寺院ではなく公的な建物があったとか考えられる。

瓦の使用例 平瓦
左:大肥吉竹遺跡
右:大波羅遺跡1次
奈良時代 8c
須恵器皿
大肥吉竹遺跡
奈良時代 8c
土師器坏
大肥吉竹遺跡
飛鳥時代 7c
左:土師器甕
大肥吉竹遺跡
奈良 8c

右:須恵器長頸壷
大波羅遺跡1次
奈良 8c
 407墨書土器
 輸入陶磁器
 主に中国や朝鮮半島などから貿易により輸入された焼き物で、日田の遺跡では平安時代後半から出土するようになる。
平安時代に白磁や越州窯青磁が多く、中世になると同安窯や龍泉窯の青磁へと変化する。
 普段の生活に使う器の色が灰色や茶色だったこの頃、このような釉のかかった美しい焼き物は有力者だけが手に入れられる貴重品であった。

当時の日田郡司・大蔵氏は、領地を宇佐や大宰府などに寄進することで各地との繋がりを強くし、その過程でこれらを入手したと考えられる。
日田ではお墓の副葬品として完形の陶磁器が比較的よく見られるが、他の地域ではあまり出土するものではなく、大蔵氏の勢いがこの遺物に現れている。

左:「大領」銘須恵器
小迫辻原遺跡
奈良~平安 8~9c

右:「花度大」銘須恵器
大肥吉竹遺跡
奈良時代8世紀
・「大領」は「かみ」と読み、律令制における郡司の役職名を表す。

・「花度大」刃万葉仮名表記で「かどた」と読み、漢字では「門田」となる。これは屋敷の前や地殻にある田圃を指すとされる。
左:「山」銘土師器坏皿
大波羅遺跡1次
平安9~10c

右:「田」銘須恵器坏蓋
大波羅遺跡1次
奈良 8c
・「山部」(山に生活の糧を求める民)を意味すると考えられる。

・「田部」(水田民又は平地の民)を井もするとかが得られる。
 越州窯青磁片 平安9c
須恵器坏:大肥中村9c
土師器埦:平田:10c
須恵器四耳壷:長迫
10~11c

 朱墨転用硯片
左:大原遺跡5次
右:大肥吉竹遺跡
左:転用硯:大波羅8c
右:円面硯:三和教田
奈良8c
 
 黒色土器埦
大肥中村遺跡
平安 10c
・白磁小皿:日田条里
:平安11-12c

 

 409 千三百年前の柱木

 柱木出土状況
 この柱木は長楕円形の柱穴に立てられ、土中では画面右側に見える川原石で支えられていたようである。
 遺跡がある盆地東側は地下水位が高く、少し掘るだけで水が湧き出す。
水気が多いと木が腐りやすいように思われるが、ずっと水に浸かっている状態ならば、1000年を越えても木は残る。

 大波羅遺跡5次 (奈良時代) 8世紀
 
 1300年前の柱木
 現存長:約64cm
 最大径:約26cm
 樹 種:カヤ(榧)
 樹 齢:200年以上

 ここに展示する柱木は大波羅遺跡の大型柱穴の列から出土した18本の柱木のうちの1本である。
カヤは年輪が密で水に強く丈夫ではあるものの成長か遅いため、通常は建築材としては使われない。
このような特殊な樹木がこの遺跡では大型柱穴から出土した柱木の9割を占めている。
大型柱穴の列から溝を挟んで西側にある掘立柱立物では建築材として一般的なケヤキ・クリが柱木として使われており、
カヤで造られたこの建物の特異性が際立つ。
 
柱木出土状況 1300年前の柱木
 


 500中世

 501慈眼山と大蔵氏
中世の日田を代表する武士である大蔵氏が拠点とした慈眼山。
その麓には大奥の関連遺跡が見つかっており、当時の華やかな生活の情景が見て取れる。
 慈眼山遺跡 (中世 15~16世紀)

  中世墓とその思想
 長方形の墓壙に体を横向きにし、抱きかかえるような状態で埋葬されている。
火葬はされていない。腕には稔珠が握られており、この時期には仏教思想が一般にも広がっていたことを伝えてくれる。
 中川原遺跡 (鎌倉時代 13世紀前半頃)


中世社会と大蔵氏の栄華
ピンボケ
大蔵氏は当地方を5百年間にわたって支配した地方豪族であり、
ピンボケでは済まない重大な情報欠落なので 以下を参照してください。

豊後大蔵氏
慈眼山と大蔵氏 中世墓とその思想
 503中世陶器
中世の屋敷の様子
慈眼山遺跡5次
室町時代 16c
杓文字
室町時代 15世紀
毬・独楽・箸
室町15~16c
小札:小迫辻原:12-16
燈明皿 鎌倉 13c
宋銭:室町:16c
耳皿:慈眼山:室町15c
碁石:室町:16c
青磁碗
右:朝日宮ノ原
左:慈眼山6次
鎌倉時代 13c
懸仏
尾漕遺跡4次
中世12~16c
和挟
青白磁合子
朝日宮ノ原遺跡A区
鎌倉時代13c

 中世の祈りと信仰
 平安時代末期、末法思想が流行し弥勒の現世復活に備えて経典を保管した筒形の容器を埋納する行動が見られるようになる。
山岳信仰と密接に関わったこの行動は吹上遺跡の経筒からも見ることができる。

この時期、貴族などに保護されていた仏教は、武士や一般民を対象として普及し始め、中川原遺跡の稔珠や吹上遺跡の経筒など
仏教が次第に庶民の間に定着し、信仰の対象となった様子が分かる。
また、朝日宮ノ原遺跡の墓より出土した輸入陶磁器などの副葬品は、この頃に盛んに交易が行われていたことを物語る。

中世の祈りと信仰 湖州鏡こしゅうきょう
朝日宮ノ原A遺跡
鎌倉時代13c
経筒ピンボケ 中世の墳墓の様子
 


 510近世

 511永山城とその城下町
 1593年、全国統一を果たした豊臣秀吉によって日田が太閤蔵入地となると、隅町には秀吉の家臣である宮木長次郎が日隈城と城下町として隈町を
つくり、日田の近世が幕をあける。
やがて徳川へと政権が移ると徳川家の家臣である小川光氏が月隅山に丸山城(のちの永山城)を築き、丸山城の城下町として豆田町が誕生する。

 九州地方の各大名を監視する重要な拠点であった日田は一時、親藩・譜代の大名支配を経て、1639年永山城の堀外に代官陣屋がおかれるなど、
その大部分は幕府直轄地(天領)であった。
このような天領日田の歴史の初源となる永山城からは、築城当初の瓦や茶器として用いられる陶器碗などが少量であるが出土しており、
当時の領主たちの趣向を窺い知ることができる。また、豆田町は代官・郡代の庇護の下、多くの商人たちが移住・土着し、商人町として発展する。

そうした商人の中には、九州各藩の御用達となるもの(掛屋)があらわれ、九州経済の中心的役割を担うようになるのである。
こうして城下町として栄えた豆田町の庄屋中村家跡の発掘調査では陶磁器や硯などが多数出土しており、当時の繁栄した町の姿を想像させてくれる。

永山城とその城下町
礎石玉石列 高石垣
 515近世陶器

皿(肥前17c後半)
(景徳鎮系16c末-17c
初頭)
瓦(永山城)江戸時代

皿(瀬戸美濃19c)
小皿(肥前19c)
皿(有田19c)
皿(小石原:系19c)
皿(肥前)

硯(城下町遺跡)
皿(小石原19c)
 
 
 


 520古墳時代

 521
鉄鏃
小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c
鉄刀、刀子、鉄鎌
小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c

小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c
碗、小型丸底鉢
小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c
高坏、鼓型器台
小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c
台付碗
小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c
 523各地の甕
甕(布留系)
小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c
甕(庄内系)
小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c
甕(第Ⅴ様式系)
小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c
甕()在地系
小迫辻原遺跡
古墳時代初頭 3c
 
 540小迫辻原遺跡 ジオラマ
 
 
 
 


 600企画展「日田の勾玉」


 601

 611ミニ特集展示「ひたの勾玉」
 遺跡の発掘調査では、住居やお墓などから、奇麗な色の石で作った「玉」が出土することがあります。
「勾玉」をはじめ、「玉」の形や材質はさまざま。そこで、これまで日田市内で出土した「勾玉」などの玉類を一堂に集めてみました。

 市内で出土した勾玉
 これまでに市内では、24個の勾玉が出土しています。このうち、吹上遺跡6次調査の甕棺墓から出土した2個は国重要文化財に指定されています。(宇佐市の大分県立歴史博物館に保管中)。
 時代別では、縄文時代?1、弥生時代6、古墳時代17です。古墳時代のお墓からの出土例が最も多いということになります。
また中尾原遺跡(天瀬町五馬市)では古墳時代の2基のお墓から合計7個も出土しており、『豊後国風土記』に登場する女性首長
「五馬媛いつまひめ」が治めた有力な集落の存在を想像させます。

 勾玉以外の玉類
 遺跡からは、勾玉以外にも色々な形の玉類が出土します。
 ・管玉・・・筒形の玉
 ・丸玉・・・ほぼ杞憂系。小型の物を「小玉」という。
 ・切子玉・・2つの角錐体の頂部を切って底面で合わせたような形の玉。
 なお朝日天神山1号墳(朝日町)で見つかった三輪玉は、全国的に見ても出土例が少なく、大和朝廷と関りがあったしるしとされる珍しいものです。

 玉類の材質
 展示ケースの中を見渡すとさまざまな色の玉があることがわかります。
勾玉で多いのは、緑色がかった「硬玉(ヒスイ)・碧玉」です。他には半透明のメノウや白っぽい滑石・水使用などがあります。
その他の玉類では、鮮やかな青・黄・赤はガラス製、灰色っぽい滑石もあります。
 なお、本村遺跡(清岸寺町)や町ノ坪まちのつぽ遺跡(求町)からは粘土製の勾玉・丸玉が出土しています。
集落の人々が奇麗な勾玉にあこがれて、粘土で真似て作ったものでしょうか。

 その後の玉類
 古墳時代より後、市内では勾玉を初めとする玉類はほとんど見られなくなります。
市内で次に玉類が登場するのは約600年後の鎌倉時代、朝日宮ノ原遺跡(朝日町)のお墓に副葬された水晶製の稔珠(数珠玉)や
室町時代の那珂川遺跡(大山町西大山)のお墓に埋葬された人が身につけていたガラス製の稔珠になります。
仏教の広がりと共に玉類が復活します。

 そして現代、私たちの生活を見渡すと、玉類は稔珠や水晶玉などの祈り・まじないの道具に使用されるほか、
ガラスビーズ細工などアクセサリーとして、また携帯電話のストラップなどにも勾玉が使われていることがあります。
玉類は時代によってその意味を変えながら、今に息づいているのです。

ミニ特集展示
「ひたの勾玉」

 612まがたまってなあに
勾玉は、縄文時代から使われているアクセサリーの一つです。
奈良時代の歴史書である『日本書紀』には「曲玉」と書かれており、曲がった形をしているので「まがたま」と呼ぶと考えられます。
おもに、管玉や小玉などと一緒に紐に通して首飾りにしていました。
勾玉は、時代や地域によっていろいろな形や材質があります。

旧石器時代には、動物の牙に穴をあけた牙勾玉を首飾りにしていました。
縄文時代になると、ヒスイ(硬玉)などのきれいな石で勾玉を造るようになります。C字形の勾玉や、動物のような形をした獣形勾玉
ひも通しの穴に更に盾と横から穴をあけた緒締(おじめ)形勾玉などがあります。

弥生時代には、縄文時代から続く石製の牙型・獣形・緒締形・不定形の勾玉に加えて、整った形の勾玉や、ガラス製のものが登場します。
定形勾玉は、頭が 丸く胴体との境がはっきりしていて、尾に行くにつれて細くなるものをいいます。
その中でも、頭の部分に3条の刻み目が入ったものを丁字頭勾玉と言います。
また、朝鮮半島で見られる半玦状勾玉は、半円の真ん中を刳り抜いたような形で、日本でもよく似た勾玉が見つかっています。

古墳時代には、弥生時代に続いて定形・丁字形・不定形勾玉を作っていましたが、碧玉やメノウ、滑石゜などの新たな材料を使った勾玉が登場します。特に、滑石という柔らかい石に細かい細工をした子持勾玉は、アクセサリーではなく特別なお祭りの時に使ったものと考えられています。

まがたまってなあに 日田市内出土の勾玉

朝鮮半島の勾玉
勾玉の種類
勾玉の首飾りを付けた女性
群馬県塚廻3号墳出土人物埴輪
 614
勾玉
中尾原遺跡49号墓
玉類
中尾原遺跡49号墓

勾玉(メノウ・碧玉)
管玉(硬玉?)
小玉(ガラス)
勾玉
中尾原遺跡67号住居
硬玉?
弥生後期~古墳初頭
勾玉・丸玉
本村遺跡26号住居
弥生後期 3c
勾玉
町ノ坪遺跡
クロム白雲母
縄文時代?
 616
丸玉・小玉
平島横穴墓群64号墓玄室 ガラス
古墳後期 6c
小玉
平島横穴墓群41号墓玄室 ガラス
古墳後期 6c
小玉
平島横穴墓群66号墓玄室 ガラス
古墳後期 6c
三輪玉 水晶
朝日天神山1号墳
古墳後期 6c
臼玉
平島横穴墓群61号墓玄室
古墳後期 6c
 618
玉類
平島横穴墓群28号墓玄室
古墳後期6c
勾玉(滑石?)
管玉(硬玉?)
小玉(ガラス)
切子玉(水晶)
玉類
平島横穴墓群64号墓玄室
古墳後期6c
勾玉(水晶)管玉(硬玉)
丸玉・小玉(ガラス)
切子玉(水使用)
勾玉
平島横穴墓群62号墓玄室
メノウ、滑石
古墳後期 6c
勾玉
平島横穴墓群43号墓玄室
璧玉、滑石
古墳後期 6c

勾玉
町ノ坪B区24号住居
年度
古墳中期 5c後半

勾玉
元宮遺跡
蛇紋岩 中期?5c?

勾玉
金田遺跡9号
硬玉(ヒスイ)
古墳中期 5c後半
 621稔珠
朝日宮ノ原遺跡
水晶 鎌倉 13c
中川原遺跡
室町時代
ガラス 14c
 623
国宝東大寺法華堂
不空羂索観音 宝冠
中川原遺跡の中世墓
 625色々な勾玉
牙勾玉
獣形勾玉
緒締形勾玉
丁字頭勾玉
定型勾玉
不定形勾玉
子持勾玉