おことわり(重要) この館では、脚注がなく、各コーナーに解説の綴りがありますが、しかし、それは不十分で、脚注には取って代わり得ないものでした。 従って、そのままページを作成すると、単に遺物が並んでいるだけの、全く意味の分からない展示となってしまいます。 ところが、ネット上に「展示解説」が公開されていて、この中では、展示されていない、旧石器~古代までの資料と解説があり、 より幅広く館内展示が理解でき、更に松本平の考古理解に繋がると思います。 来館の際には、、必ず、レシーバー借用をお願いします。。 展示解説は「右クリックで対象をファイルに保存する」ことができます。 |
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300古墳時代 約1,700~1,300年前 |
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古墳時代の幕開け ―弘法山古墳― 古墳時代前期 国史跡 弘法山古墳 三世紀後半から七世紀まで、大規模な墳丘を持つ豪族の墓・古墳が全国で造られました。 弘法山古墳は全長60mを超す松本市内最大の前方後円墳です。三世紀末、古墳時代の初めに造られた東日本最大級の古墳の一つです。 中山丘陵の尾根の先端に位置し、墳頂部からは松本市内を一望できます。遺体を納めた竪穴式の礫槨の内部には、鉄器(剣・鏃・工具)、 青銅器(鏡・鏃)、ガラス小玉が副葬され、被葬者の力の大きさが伺えます。 被葬者の人物像 礫槨の上に供えられた土器には、手焙形土器や東海地方西部に特有のパレス式土器が含まれ、被葬者は東海地方の勢力と関係が強い人物 だったと考えられます。 また、弘法山に対峙する棺護山の中山36号墳からは、4世紀前半の土器や弘法山古墳と同系統の銅鏡が出土しています。 土器の年代から見ても、弘法山の被葬者の後継者の墓と位置付けられています。 弘法山古墳の意義 当時、大王を中心としたヤマト政権は地方の豪族と手を結び、国造りを進めていました。彼らの関係を示すのが前方後円墳や三角縁神獣鏡を はじめとする鏡です。長野県内では、4世紀の前方後円墳は善光寺平に多く、北信濃がシナノ支配の中心だったのでしょう。 弥生時代後期に遡ると、南信濃の天竜川流域には東海系の土器が流入していました。 弘法山古墳の存在はヤマト政権によるシナノ支配以前に、いち早く東海の勢力が松本や天竜川流域へ勢力拡大を図っていた証拠でしょう。 転載「展示案内」書籍版 |
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古墳時代 紀元3世紀末~ 4世紀初頭以降、日本の各地で土を盛り上げてつくった墓―古墳がつくられるようになりました。
小規模な円墳です。この頃になると古墳の被葬者層は首長だけではなく、その下の有力者たちにも広がっていきました。 また、新村では一般に古墳がつくられなくなる8世紀以降にも古墳がつくられたり、追葬が行われていました。 古墳時代の大半の人々は、竪穴式住居からなる集落を営み、鉄製農耕具により田畑を開発していったと考えられていますが、 松本ではこの時代の集落の様相はまだよくわかっていません。 転載 展示解説 |
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古墳時代 古墳時代はヤマト政権が地方の豪族と手を結ぶことでクニをまとめ国家を作った時代です。 古墳は大王(おおきみ) や豪族が自分のためだけに作った大きな墓で、前方後円墳はその大表的なものです。 この時代の人々は竪穴住居に暮らしていましたが、5世紀には大陸から新しい文化が伝わり、カマドで炊事をしたり、 個人が使う食器が現れ、食生活が変化します。また、農具や土木技術の発達によって土地の開発も進みます。 |
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301市内の古墳 約1,700年前から1,300年前 松本市内では、出川南遺跡をはじめ古墳時代のムラ跡や、古墳も数多く残っています。展示室には、庶民の暮らしで使った生活道具、古墳に副葬 されていた土器や、武器、装飾品など展示しており、当時の暮らしや文化について考えます。(引用施設案内) 出川南遺跡 出川南遺跡 出川南遺跡 |
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310古墳時代の松本平 市内の古墳を時期別に見てみましょう。前期の古墳は非常に少なく弘法山古墳群の中山36号墳が知られているだけです。 中期には城山、浅間、里山辺、出川など開発が進んだ地域に古墳が作られました。 後期には、入山辺の南方古墳など大きな横穴式石室を持つ古墳が築かれ、中山には小さな古墳が盛んに造られ、墓地として利用されました。 新村の安塚、秋葉原古墳群は、奈良井川西岸地域の開発を進めた人々の墓と考えられます。 |
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312
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313古墳の形 古墳の形は主に前方後方墳・前方後円墳・円墳・方墳の4種類です。名前は墳丘の形を元にしました。 市内では、今のところ前方後円墳は見つかっていません。 古墳の中には、石室など死者を葬る部屋が作られました。 前期には、石室は一人のためだけに造られた竪穴式でしたが、後期以降、家族を後から葬ることができる横穴式石室へと変わりました。 |
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314古墳前期の土器 土師器 白神場遺跡 |
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古墳時代の松本市 古墳時代中期 市域における古墳の変遷1 古墳時代前期、弘法山古墳と中山36号墳に続く古墳は、現在確認されていません。 中期には城山、浅間、里山辺、出川など開発が進んだ地域に古墳が造られました。 桜ヶ丘古墳 浅間温泉にある桜ヶ丘古墳は松本市を代表する古墳の一つです。短甲・衝角付冑・鉄剣といった武器・武具に加え、金銅製天冠が副葬され、 中期(五世紀後半)の古墳と判明しました。短甲や衝角付冑は県内でも出土例は少なく、天冠は県内唯一の事例です。 天冠は一般的に、ヤマト政権から地方豪族へ与えられた品と言われ、古墳の被葬者がいかに有力だったかを考えさせます。 墓制の変化 古墳は主に、前方後円、前方後方、円墳、方墳の四種類です。前期には前方後円・前方後方墳が造られましたが、次第に前方後円が主流になり 大型化します。後期には王に限らず、有力者たちが小型の古墳を造り、古墳群が形成されました。 内部構造も、個人用の竪穴式石室が、後期以降、家族を追葬できる横穴式石室へと移行します。 王(被葬者)の人物像 副葬品の種類や組み合わせにも変化が見られます。 前期の鏡・玉などは、中期以降の武器・武具・工具・玉類・馬具へと変わり、王の性格が呪術的な人物から武人へと変わったことを示します。 市内における古墳の変遷2 古墳時代後期 後期には入山辺の南方古墳など大きな横穴式石室を持つ古墳が築かれ、中山には小さな古墳が盛んに作られます。 中山古墳群では多くの馬具が出土しており、奈良・平安時代の埴原の牧に繋がる馬飼い集団の存在が推測されています。 終末期(7,8世紀)、畿内では古墳築造は終焉をむかえます。しかし、松本市内では、新村の安塚、秋葉原古墳群(8世紀)が見られます。 これらは奈良井川西岸域の開発を進めた人々の墓と考えられます。 古墳時代のムラと人々の生活 前期に小さく散在していたムラは、中期になると水田に適した湿地の周りに大きく作られるようになりました。 中期に畿内の生活用具や習慣が東日本にも広がり、竪穴式住居にカマドが造られるようになります。 画一的な土師器が全国的に普及し、弥生時代に見られた地域性は次第に失われていきました。 後期には灌漑技術の進歩によって開発が進み、各地に大きなムラが次々と現れました。家や倉庫として使われた掘立柱建物も急に増え始めます。 新しい須恵器の登場 須恵器は中期(5世紀)に朝鮮半島から伝えられた新しい焼物です。専門の職人によって窯で焼かれ、硬質で灰色をしています。 古墳時代に於いては高級品で、多くは古墳の副葬品に使われました。 出川の平田里1号墳では、埋葬に伴って墳丘や周溝に供えられた高坏・坏・壺・ハソウのセットが見つかっています。 市内では珍しく埴輪が配された古墳として注目されます。 転載「展示解説」書籍版 以降、内容に重複が見られます |
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古墳時代中期の副葬品 315副葬品 |
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316装飾品 |
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317馬具 |
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318大刀 |
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320松本市内の古墳 古墳時代の人々 前期のムラは小さくあちこちに点在していましたが、水田に適した湿地の周りに大きなムラが作られます。 この頃から、竪穴住居にはカマドが作られ、食生活も変わりました。 後期には、水を引く技術の進歩によって、開発が進み、各地に大きなムラが次々と現れました。 家や倉庫として使われた、新しい建物(掘立建物)の数も急に増え始めます。
土師器と須恵器 古墳時代には、弥生土器の系統をひく土師器とよばれる素焼きの上器が使われました。また、 古墳時代の中頃には、大陸から伝えられた技術によって、堅くて丈夫な灰色をした焼き物―須恵器が作られるようになりました。 しかし、須恵器は当初は人々の手に入りにくく、日常生活に使われることは少なく、多くは古墳の副葬品として使われました。転載 展示解説 |
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321土器 |
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325埴輪 平田里古墳出土品 古墳時代中期 平田里古墳群 平田里古墳群2 埴輪と、墓前に供えられた須恵器 |
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326古墳時代後期土器 出川南遺跡の土器 古墳時代後期 古墳時代後期の土師器・須恵器 |
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弘法山古墳は、4世紀半ば頃築造。全長63メートルの前方後方墳です。この規模の古墳では、東日本で最古級のものとして知られています。 埋葬施設は深さ1メートル、長さ5.5メートル、幅1.5メートルの竪穴式の礫槨です。松本市内を流れる梓川、奈良井川、田川、薄川の川原石が 使用されていることから、被葬者はこの周辺を治めた人物だったのかもしれません。 土師器の壺や高坏などの土器、剣や鏃、やりがんな、鉄斧などの鉄製品、鏡や鏃の青銅品、ガラス小玉などの出土資料を展示しています。 (引用常設展案内) 古墳時代の始め、ヤマト政権は地方の王と手を結び、国造りを進めました。彼らの関係を示すのが墓(前方後円墳)や鏡です。 長野県では前方後円墳の多く残る善光寺平 (長野盆地) が支配の中心だったようです。 弘法山古墳は、それよりも前に、東海地方の勢力が松本や天竜川の流域と結んでいたことを示しています。 副葬品 鏡1、ガラス小玉481、鉄剣3、鉄斧1、銅鏃1、鉄鏃21以上、土師器(壺・高杯・器台・手焙り形土器 副葬品 転載 展示解説 豪華な副葬品2 -土器以外の副葬品- 鉄器 剣、鏃などの武器と工具である斧・槍鉋が出土した。鏃や斧には木や布が僅かに付いていました。 もとは、布に包まれ、、木箱に入っていたのでしようか。 ガラス小玉 コバルトブルーと淡い緑色をしたガラス小玉は石室内の3ヶ所からまとまって出土しました。数や位置からガラス小玉は首飾りと腕飾りで、 主が身に着けていたと考えられます。 銅鏃は、主に4世紀の古墳から出土しています。先が丸く、実用的ではありません。呪術的な性格の強いものと考えられています。 ※武器信仰は、銅剣・銅鉾・銅戈は知っていましたが、銅鏃も信仰の対象とは知りませんでした。 銅鏡 半三角縁四獣文鏡です。「上方作竟自有□青□左城乕右」の文字が刻まれ、上方(中国の官営工房)製で日本渡来しました。 |
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331解説 |
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332副葬品 中山36号墳 中山36号墳は、弘法山古墳と和泉川の谷を隔てた棺護山に築かれた方墳です。古墳からは4世紀後半の畿内系の土器、東海地方の土器の 特徴を持つ土器、弘法山古墳の鏡と同系統の鏡が見つかりました。中山36号墳に葬られた人は弘法山古墳の後継者と考えられています。 円墳 直径15m高2.5m 粘土槨? 遺物 鏡 (「宣□□上方作党自有紀」銘)、 土師器 壺、鉄製品
中山36号墳 弘法山古墳 半三角縁四獣文鏡 「上方作党自有□青□左白斤居右」の銘をもつ舶載鏡。鏡面には赤色顔料が付着していました。直径11.65cm。(引用常設展案内) ガラス小玉※ コバルトブルーと淡緑色をしたガラス小玉は、石室内の3箇所からまとまって出土しました。 数や位置から考えて、これらのガラス小玉は首飾り・腕飾りとして使われたものと考えられています。 (引用常設展案内) |
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340副葬品 |
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341弘法山古墳副葬品 古墳時代前期 |
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350弘法山古墳 3世紀後半に造られた東日本でも最古級の古墳です。全長60mを超える前方後方墳で、頂上からは市内を一望できます。 古墳の主は鏡や剣など多くの副葬品と共に礫槨に葬られました。強い権力を持った人だったに違いありません。 長野県での古墳時代の始まりを調べるのに重要な遺跡として、1976年に国指定史跡になりました。 今では桜の木々が植えられ、桜の名所になっています。 礫槨 川原石などを使って、木製の棺を置く部屋を作ったもの。 |
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351弘法山古墳 副葬品-その1 古墳の主はどんな人物だったのでしよう。その答えは土器にあります。 礫槨の上には、東海地方西部の影響をうけた土器が供えられていました。主は東海地方の勢力と関係の強い人物と考えられます。 壺 弥生時代後期の東海地方西部に特有の、パレス・スタイル式と呼ばれる土器の影響を受けています。 赤い着色と、口の形、櫛状の道具でつけられた文様が特徴です。 手焙形土器 手を温める手焙に似た形をしています。東海から中国地方にかけての弥生時代後期の遺跡で多く見つかります。 何に使われたかはよくわかっていません。 |
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352副葬土器 弘法山古墳 古墳前期 壺※(土師器 壺形土器) 竪穴式石室の直上にあたる位置からは葬送儀礼で使われた土師器の壺・高不・器台・手焙り形土器が出土しました。 これらのなかには東海地方西部との関係の強い土器があり、古墳の性格を考える上で大きな問題をなげかけています。 (引用常設展案内) |
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360弘法山古墳の土器 |
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361古墳の特徴 弘法山古墳 形状 前方後方墳 (古い古墳の特徴で、広報部が前方より高くなっている。) 長さ66m 立地 尾根の先端にあり、松本平を一望できる。 |
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365中山36号古墳 古墳時代前期 4世紀後半築造 中山36号墳は、弘法山古墳と和泉川の谷を隔てた棺護山に築かれた方墳です。古墳からは4世紀後半の畿内系の土器、東海地方の土器の 特徴を持つ土器、弘法山古墳の鏡と同系統の鏡が見つかりました。中山36号墳の被葬者は弘法山古墳の後継者と考えられています。 円墳 直径15m高2.5m 粘土槨? 遺物 鏡 (「宣□□上方作党自有紀」銘)、 土師器 壺、鉄製品 転載 展示解説 |
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浅間温泉東南の丘陵端に位置する古墳で、昭和35(1960)年に発掘調査されました。 墳丘の中央の、副葬品を納めるための副室をともなった河原石積みの石室からは多くの装身具・武器・武具が発見されました。 特に、天冠は大陸文化の影響を受けている貴重なもので県宝の指定をうけています。5世紀末から6世紀前半の築造と考えられています。 円墳:径18m 高4m 竪穴式石室? 遺物 衝角付冑1、短甲1、頸鎧1、鉄刀1、鉄剣5、鉄鉾1、鉄鏃数個、天冠1、竹櫛1、勾玉1、丸玉9、小玉35、日玉5 (引用常設展案内) 桜ヶ丘古墳とは、 桜ヶ丘古墳の第一発見者は中学生でした。古墳上部は崩れており、アリの研究をしていた時に偶然、石室を掘り当てたのです。 その後の発掘調査によって大小の石室があったことがわかりました。 冑と短甲、鉄剣、玉類や天冠など多くの副葬品が見つかり、中期(5世紀後半)の古墳であることがわかりました。 桜ヶ丘古墳出土品は、長野県宝に指定されています。 |
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372解説
天冠 天冠はハチマキ状の帯に飾りをつけた冠です。近畿地方を中心に、全国的に見つかっています。 長野県では桜ヶ丘古墳でしか見つかっていません。桜ヶ丘古墳の天冠は金銅製です。 天冠は一般的にヤマト政権から地方豪族に与えられたといわれています。 金銅製の冠は朝鮮半島南部の伽耶地域とのつながりが強く、この時代の海を越えた交流を物語っています。 短甲 短甲は胴体を覆うよろいで、腰のくびれが目を引きます。おもに前期から中期に作られました。 桜ヶ丘古墳の短甲は、長方形板革綴短甲と言い、横長(長方形)の鉄板を革ひもで綴じたよろいを井もします。 古墳時代でも古い形のよろいです。完全な形ではなかったので、石川県羽咋市柴垣丸山古墳の出土品をモデルに復元されました。
衝角付冑(しようかくつきかぶと) 古墳時代中期から後期にかけて使われたかぶとです。卵を縦割にした形と額に付いた舟のへさきのような板が特徴です。 桜ヶ丘古墳のものは、三角板革綴衝角付冑と言います。 三角形の鉄板を革ひもで綴じ合わせてあります。冑には革ひもが部分的に残っています。 この形の冑は長野県では桜ヶ丘古墳でしか見つかっていません。
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374副葬品
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※以下は、「展示解説」に掲載されたその他の古墳の図・写真・文です。本文中に多数引用していますが、まとめて引用します。 | ||||||||||||||||||
385妙義山古墳群 転載 展示解説 浅間温泉の南、大村東方の丘陵端部に3基の古墳が築かれています。1号墳は、直径32~ 35mの円墳で、墳丘斜面には葺石がみられます。 内部構造や副葬品はわかっていませんが、墳丘規模の点からかなりの有力者だったのではないかと考えられます。また、 203号墳は、1号墳の陪塚的な性格が考えられます。特に2号墳の石室内からは3体の人骨とともに多くの装身具・武器・馬具が出土しています。 埴輪 古墳の墳頂部や段になっているところに埴 輪を巡らす古墳は各地でよくみられます。 埴輪には、筒形の胴部をもつ円筒埴輪、人・動物・器材を模した形象埴輪があります。 しかし、松本平では埴輪を伴う古墳についてはほとんど知られていません。 |
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386中山古墳群 転載 展示解説
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柏木古墳 (中山古墳群) 転載 展示解説 中山丘陵の東斜面に位置する古墳で、6世紀後半頃築造の、中山古墳群のなかでも古いものです。大正14年に発掘調査。 横穴式石室からは多くの副葬品が出土しました。 その出土状態は発掘した人たちによって詳細な図が残され、中山古墳群のなかでも構造・出土状態が判明している数少ない古墳のひとつです。 円墳:規模 直径17m 高さlm 構造 横穴式石室 遺物 勾玉12・管玉3・切子玉6・小玉・丸玉25・金環・銀環15・直刀4・鉄鏃53・轡4・辻金具3・ 須恵器(高杯4・提瓶1・皿1・壷1)、 土師器(高不2・皿1・魅1) 土師器と須恵器 古墳時代には、弥生土器の系統をひく土師器と呼ばれる素焼きの土器が使われました。 また、古墳時代の中頃には、大陸から伝えられた技術によって、かたくて丈夫な灰色をしたやきもの―須恵器が作られるようになりました。 しかし、須恵器は当初は人々の手に入りにくく、日常生活に使われることは少なく、多くは古墳の副葬品として使われました。 武器・武具・馬具 古墳の副葬品のなかには金銅技術や象嵌技術を用いてつくられた武具・馬具があります。 柏木古墳からは、金環・銀環のほか、鉄地金銅張りの辻金具、銀象嵌の刀装具・鍔が出土しています。 また、実用には適さない長刀(直刀)が出土しており、古墳の被葬者がかなりの有力者だったことをうかがわせます。 |
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389終末期の古墳 転載 展示解説
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400奈良・平安時代 約1,300年~800年前 7世紀の後半以降、中央集権化がすすむと地方は整備されて中央とのかかわりを強くしていきました。 現在の松本市は、信濃の国の筑摩郡の一部になりました。8世紀の終り頃には国府が上田から移り、松本は政治の中心になりました。 また、信濃の国には朝廷に納める馬を飼育する16の牧がおかれ、中山の埴原の牧にはこれらをまとめる牧監庁がありました。 奈良・平安時代には中国にならった都がつくられ、政治・文化の中心となりました。 都は碁盤の目のように整然と区画され、役所をはじめ貴族の屋敷や瓦ぶきの寺院が建ち並んでいました。 まちの中では定期的に市が開かれ、各地の産物が集まり、多くの人々が行きかって活気に満ちていました。 このような貴族のはなやかな生活に対して、多くの庶民達は厳しい税のとりたてや労働をしいられるなど、苦しい生活を送っていました。 奈良・平安時代の遺跡は現在の集落とほとんど重なっており、その数は168と多く、また最近の発掘調査によって更に増加の傾向にあります。 (引用展示解説) 奈良・平安時代は中国の政治制度にならって都を中心とした国づくりが進められました。政治の実権を握った天皇は律令によって地方をおさめ、 各地からの租税で財政をまかないました。 各地には信濃国のように国が置かれ、国司の指示で土地開発がすすめられますが、やがて貴族による私的な開発によって荘園が生まれます。 政治の実権も次第に貴族へと移り、手を結んだ地方の有力者は栄華を極めました。地方の庶民は竪穴住居にくらし、厳しい生活を送りました。 |
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401須恵器
窯跡出土の須恵器 焼けてゆがんだり、土器と土器期が焼け付いてしまった失敗品。 |
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410古代の開発 約1,300年前から800年前 奈良や京都に都が置かれた時代の松本平に暮らした人々の生活や、当時の中央との地方の関係などについて紹介します。 古代の鍵(海老錠)がかかったケースをあけると、中には、松本市で出土した実物の海老錠や緑釉陶器、硯などが展示されています。 その他、開発に使われた農耕具、個人用として使用され始めた食器なども展示しています。(引用施設案内) 仏教伝来と人々の願い (仏教公伝:日本書紀では552年 元興寺縁起では538年) 仏教は古墳時代後期に日本に伝えられ、都の貴族に受け入れられました。 その後、地方へも広まり、市内でも仏像や瓦塔、「卍」や「寺」と書かれた土器がムラの跡から見つかっています。 人々の間には、土器に文字を書いて、豊かな財産を願うまじないもあったようです。 |
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412解説 瓦がごろごろ 瓦が日本に伝わったのは6世紀。仏教が伝来し、都を中心に建てられ始めた寺院の屋根を飾るものでした。 瓦葺の屋根はとても重く、建物には太い梁と太い柱が必要です。その建築には高度な技術が求められ、寺院や役所などに限られていました。 大村遺跡では古くから瓦が見つかっており、寺があったと考えられました。今回の鴟尾(しび)と瓦の発見は、その可能性を高めました。 仏教の広まり 都を中心として広がった仏教は、やがて地方にも伝わり、多くの人々の間で信仰されるようになりました。 また仏教のほかにも神や民間信仰が信じられ、それらに関係する物が遺跡から発見されています。 松本では仏具として用いられた奈良三彩の小壺や銅の鋺(かなまり)、小形の仏像などのほか、骨を入れた大甕や壺などが出土しています。 くまのかわ遺跡 では鉄鐸が出土しましたが、これは塩尻市北小野の小野神社の宝物にあるように、神を招く時の儀式に使われたものと 考えられています。 (引用常設展案内) 奈良三彩の小壺 小壺は回径3.6、底径4.2、器高3.7cmで回縁から肩にかけて欠けていますが、緑、褐色、自の三色の釉(うわぐすり)が美しい薬壺です。 三彩は都で作られたもので、長野県下で三点しか出土しておらず、ごく限られた者しか所有出来なかったものと思われます。(引用常設展案内)
瓦の種類と使用法 ①鴟尾 奈良東大寺の屋根の両端に乗っているシャチホコに似たものがシビです。飛鳥~平安時代まで作られた屋根飾りです。 水に住む魚の形をしているとも言われ、建物を火災から守るために載せられました。 ②平瓦と丸瓦 平瓦は屋根全体を覆うように並べられた瓦です。平瓦のつなぎ目に置かれたのが丸瓦です。 ③軒丸瓦と軒平瓦 軒先を飾った瓦です。花の模様などが造り出されました。 生活を支えた道具 開発を支えた人々の生活はどうだったのでしょう。彼らは竪穴住居で暮らし、カマドで煮炊きをし、自分用の食器で食事をしていました。 また、稲刈り鎌や、鍬や鍬の先には鉄の刃が付けられました。 ムラ跡から見つかる使い込まれた砥石からも鉄器が日常的に使われていたことが伺えます。 陶器 古代には中国との国交が始まり、政治や文化、青磁などの品々が伝えられました。 青磁は貴族たちの間でもてはやされ、それを真似て国内では緑釉陶器や灰釉陶器がつくられました。 ・磁器の一つ。青緑色のガラス質の釉薬がかかった焼き物。 灰釉陶器 植物の灰で作った釉薬を掛けて焼かれたもの。はじめは高級品でしたが、大量生産されて次第に庶民へも広まっていきました。 緑釉陶器 鉛と銅を混ぜたうわ薬をかけて焼かれたもの。古代を通して焼き物として、もてはやされました。 |
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413須恵器の生産と灰釉陶器 土器は古墳時代に引き続いて、土師器と須恵器が使われていましたが、次第に須恵器の占める割合が多くなってきました。 9世紀に入ると松本の北東の山地でも須恵器が生産されるようになり、現在数十のカマ跡が残っています。 その頃、寺院や役所では須恵器の系統をひく釉薬をかけた灰釉陶器が使われ始めました。 農村では平安時代の中頃になってから使われるようになりました。(引用常設展案内)
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430北方遺跡出土の大甕 北方遺跡では、3基の大きな須恵器甕が、三角形の位置関係で見つかりました。 大甕の内部からは、大甕自体の破片や焼けた跡のある石、炭化物が見つかりました。そのうち1基の大甕は、上方の胴体部分が割れ、蓋状に 覆い被さって出土しました。 使用されていた当時は、甕の上部が地上に出た状態で埋め込まれていたと考えられます。しかし、用途については、明らかになっていません。 埋葬用の棺だとした場合、墓の盛り土が付近にあったと考えられますが、確認されていません。 貯蔵用だとした場合、骨臓器の外容器、染料や水等の液体貯蔵用器、人糞等の肥甕などが考えられますが、特定されていません。 |
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440大村遺跡 |
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441panel
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442奈良・平安時代の寺院の瓦 大村遺跡 平安時代 |
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443古代の食生活 | ||||||||||||||||||
444食生活 |
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460平安時代のカマド 高畑遺跡の住居跡から、平安時代のカマドの痕跡が発見されました。発掘されたカマドの石を使い、当時の様子を再現しています。 焚口に基礎となる石を立て、その上を粘土で固め、上部には煮炊き用の土器を置くための穴を開けます。 焚口から地面は、赤く焼けた焼土が出土しました。 生活の基本となる「食」。このカマドで、平安時代の人々はどんな料理を作っていたのでしょう。 |
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470川西開田遺跡 古代・中世 |
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471鍛冶遺跡 鉄の道具 鉄の道具は古墳時代の中頃に大陸の影響を受けて改良されて以来、奈良・平安時代にいたるまで大差ないものが使われました。 松本では鉄製のU字形の刃先をつけたクワやスキ、鎌などの農具のほか、刀子、紡錘車、火打ち金具などが出上しています。 このようにこの時代には多くの鉄製の道具がつくられて、広く生活のすみずみまで使われていました。(引用常設展案内) ふいご 鉄を作ったり加工するときには加熱して鉄を溶かします。この時、人工的に風を起こして火を強くする道具がふいごです。 ふいごの羽口は、炉の中に送風する部分に取り付けられたものです。 古代の生産の道具 |
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480地域中山の考古学 松本市立考古博物館が建つ中山では遺跡がたくさん見つかりました。 特に向畑遺跡は、縄文・古墳・奈良・平安・中世にわたる複合遺跡として、其々の生活の跡が残されていました。 |
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481古墳の副葬品
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482地域中山の考古学 考古館の建つ中山地域は遺跡の宝庫です。縄文時代に多くのムラが栄えますが、弥生時代にはほとんど生活の跡が見られません。 古墳時代には再びムラが作られますが、中期以降は墓地として利用されました。 奈良・平安時代は埴原の牧があったと考えられますが、その時期のムラは見つかっていません。 戦国時代には市内でも大きな埴原城が作られました。 向畑遺跡は、中山を代表する遺跡の一つです。4つの時代の遺構が重なる複合遺跡です。 ・第1段階 -縄文時代中期初め 8軒の住居跡が見つかり、小さなムラがあったことがわかりました。 ・第2段階 -古墳時代前期 弘法山古墳と同時期の大きなムラの跡で、この遺跡が最も栄えた時期です。 風当たりの強いこの土地になぜ大きなムラがあったのか謎です。 ・第3段階 -古墳時代中期 台地の西に、15基の古墳が相次いで造られます。1つの集団によって代々造り続けられようです。 ・第4段階 -鎌倉~室町時代 非常にたくさんの墓穴が密集して見つかりました。副葬品はほとんどなく、庶民の集団墓地だったと考えられます。
埴原の牧 平安時代に書かれた「延喜式」によれば、長野県には16ヶ所の牧 (天皇の馬を育てる牧場) が置かれていました。埴原もその1つです。 その場所は、「埴原」の地名が残り、牧場に適した場所であることなどから、中山の埴原(古屋敷、千石、乾田)と推定されます。 埴原の牧 平安時代朝廷専用の牧場 (勅旨牧てしまき) が設けられ、信濃には16の牧がつくられ、これを統括する牧監庁(もくげん)が埴原牧におかれました。 牧監は国司に準ずる権力を持ち、都から赴任しました。 牧監庁跡は考古博物館の北西に接し、昭和39年の発掘調査によって礎石群が発見され、間口9間(16.2m)奥行3間(5.4m)の建物址であることが 確認されました。 牧場は鉢伏山山麓西側と、中山丘陵の間にひろがっていたものと思われ、南の古屋敷と千石地籍には冬季間馬を追込む繋飼場跡があり、 6段のテラスが残っています。(引用常設展案内) 埴原城 戦国時代の山城で、その規模は林城(里山辺)と並ぶほどの大きさです。今も多くの郭や掘、飲用の湧水、石垣などが残っています。
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484信濃国府 国の東北地方を治める政策の一つとして信濃に国府がおかれ、8世紀の終わり頃上田から松本に移ってから、およそ400年間にわたって信濃国の 政治の中心として栄えました。 国府は中央の都を小さくしたもので、国庁を囲んで8町(872m)四方、あるいは6町(654m)四方の街で、松本では (1)大村説、(2)惣社説、(3)筑摩説、(4)深志説 があって、実際にはどこにあったのかまだわかっていません。 そのため、市教育委員会では昭和57(1982)年から5年間にわたって、惣社周辺を中心に発掘調査をしましたが、奈良・平安時代の住居址の発見は あったものの、国府の存在を証明するような遺構・遺物は何も出ませんでした。(引用常設展案内) 信濃国府推定地(引用常設展案内) |
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年表(引用常設展案内)
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490向畑遺跡 |
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491①縄文時代 |
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492②古墳時代 |
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493③古墳後期~中世 |
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500館内全景 | ||||||||||||||||||
511 |
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512 |
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530年表 |
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540松本文化財マップ | ||||||||||||||||||
541遺跡マップ |
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542松本市内の主な史跡 |