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  中部地方の縄文2 02  2017.11.22-01

  松本市立考古博物館 2/2   長野県松本市中山3738-1  0263-86-4710

  休館日  3月~11月の月曜日(休日の時は翌日)閉館、12月~2月は平日閉館

  交通  ・レンタカー
       ・バスは僅かで不便なようです

  見所  ①膨大な量の縄文中期土器の展示
       ②弘法山古墳の鏡や玉などの出土品、全国屈指の出土量となったエリ穴遺跡の土製耳飾りは
        特に注目されます。 


 おことわり(重要)
   この館では、脚注がなく、各コーナーに解説の綴りがありますが、しかし、それは不十分で、脚注には取って代わり得ないものでした。
   従って、そのままページを作成すると、単に遺物が並んでいるだけの、全く意味の分からない展示となってしまいます。

   ところが、ネット上に「展示解説」が公開されていて、この中では、展示されていない、旧石器~古代までの資料と解説があり、
   より幅広く館内展示が理解でき、更に松本平の考古理解に繋がると思います。

   来館の際には、、必ず、レシーバー借用をお願いします。。  展示解説は「右クリックで対象をファイルに保存する」ことができます。



300古墳時代
 古墳時代の幕開け
 国史跡 弘法山古墳
301市内の古墳
310古墳時代の松本平
313古墳の形
 権力と副葬品

314古墳前期の土器
 古墳時代の松本市

 古墳時代中期の副葬品
315副葬品

320松本市内の古墳
321土器
325埴輪

326古墳時代後期土器
330弘法山古墳
332副葬品

340副葬品 弘法山古墳
365中山36号古墳 
370桜ヶ丘古墳
374副葬品

385妙義山古墳群
386中山古墳群
389終末期の古墳

400奈良・平安時代
401須恵器
410古代の開発
仏教の広まり
413須恵器の生産と灰釉陶器

440大村遺跡
442奈良・平安時代の寺院の瓦
443古代の食生活
460平安時代のカマド

470川西開田遺跡
471鍛冶遺跡

480地域中山の考古学
481古墳の副葬品
484信濃国府


490向畑遺跡
500館内全景
530年表

540松本文化財マップ 
542松本市内の主な史跡
     





 300古墳時代 約1,700~1,300年前


  
 
 古墳時代の幕開け ―弘法山古墳― 古墳時代前期

 国史跡 弘法山古墳
  三世紀後半から七世紀まで、大規模な墳丘を持つ豪族の墓・古墳が全国で造られました。
  弘法山古墳全長60mを超す松本市内最大の前方後円墳です。三世紀末古墳時代の初めに造られた東日本最大級の古墳の一つです。

  中山丘陵の尾根の先端に位置し、墳頂部からは松本市内を一望できます。遺体を納めた竪穴式の礫槨の内部には、鉄器(剣・鏃・工具)、
  青銅器(鏡・鏃)、ガラス小玉が副葬され、被葬者の力の大きさが伺えます。

 被葬者の人物像
  礫槨の上に供えられた土器には、手焙形土器や東海地方西部に特有のパレス式土器が含まれ、被葬者は東海地方の勢力と関係が強い人物
  だったと考えられます。

  また、弘法山に対峙する棺護山の中山36号墳からは、4世紀前半の土器や弘法山古墳と同系統の銅鏡が出土しています。
  土器の年代から見ても、弘法山の被葬者の後継者の墓と位置付けられています。

 弘法山古墳の意義
  当時、大王を中心としたヤマト政権は地方の豪族と手を結び、国造りを進めていました。彼らの関係を示すのが前方後円墳や三角縁神獣鏡を
  はじめとする鏡です。長野県内では、4世紀の前方後円墳は善光寺平に多く、北信濃がシナノ支配の中心だったのでしょう。
 
 弥生時代後期に遡ると、南信濃の天竜川流域には東海系の土器が流入していました。
 弘法山古墳の存在はヤマト政権によるシナノ支配以前に、いち早く東海の勢力が松本や天竜川流域へ勢力拡大を図っていた証拠でしょう。

   転載「展示案内」書籍版
 


 古墳時代

  紀元3世紀末~ 4世紀初頭以降、日本の各地で土を盛り上げてつくった墓―古墳がつくられるようになりました。
  これより、7世紀後半以降に古墳がつくられなくなるまでのおよそ400年間を古墳時代といいます。
古墳時代は古墳の変遷から、前・後期あるいは前・中・後期に区分されます。

出現当初の古墳は、地域を治める人(首長)の墓であり、また後継者が首長権を継承する祭の場でもあったと考えられ、松本では弘法山古墳中山36号古墳が知られています。
古墳時代の家
白神場遺跡
古墳時代の土器白神場遺跡
  古墳時代の中頃から後半になると、中山山辺岡田本郷など市内の各地に古墳が造られるようになりました。その多くは横穴式石室をもった
  小規模な円墳です。この頃になると古墳の被葬者層は首長だけではなく、その下の有力者たちにも広がっていきました。

  また、新村では一般に古墳がつくられなくなる8世紀以降にも古墳がつくられたり、追葬が行われていました
  古墳時代の大半の人々は、竪穴式住居からなる集落を営み、鉄製農耕具により田畑を開発していったと考えられていますが、
  松本ではこの時代の集落の様相はまだよくわかっていません。 転載 展示解説

 
 
 古墳時代
   古墳時代はヤマト政権が地方の豪族と手を結ぶことでクニをまとめ国家を作った時代です
   古墳は大王(おおきみ) や豪族が自分のためだけに作った大きな墓で、前方後円墳はその大表的なものです。

   この時代の人々は竪穴住居に暮らしていましたが、5世紀には大陸から新しい文化が伝わり、カマドで炊事をしたり、
   個人が使う食器が現れ、食生活が変化します。また、農具や土木技術の発達によって土地の開発も進みます。



 301市内の古墳  約1,700年前から1,300年前


  松本市内では、出川南遺跡をはじめ古墳時代のムラ跡や、古墳も数多く残っています。展示室には、庶民の暮らしで使った生活道具、古墳に副葬
  されていた土器や、武器、装飾品など展示しており、当時の暮らしや文化について考えます。(引用施設案内) 出川南遺跡 出川南遺跡 出川南遺跡

古墳時代
上に記述
古墳時代の松本平 針塚古墳発掘写真 平田里古墳発掘写真 現在の針塚古墳



 310古墳時代の松本平
   市内の古墳を時期別に見てみましょう。前期の古墳は非常に少なく弘法山古墳群の中山36号墳が知られているだけです。

   中期には城山、浅間里山辺出川など開発が進んだ地域に古墳が作られました。
   後期には、入山辺の南方古墳など大きな横穴式石室を持つ古墳が築かれ、中山には小さな古墳が盛んに造られ、墓地として利用されました。

   新村の安塚、秋葉原古墳群は、奈良井川西岸地域の開発を進めた人々の墓と考えられます。

  312
市内の古墳
~古墳文化の始まり~
古墳時代の松本平
上に記述
古墳時代のムラ
出川南遺跡の想像図
発掘された住居跡
出川南遺跡

  313古墳の形
   古墳の形は主に前方後方墳・前方後円墳・円墳・方墳の4種類です。名前は墳丘の形を元にしました。
   市内では、今のところ前方後円墳は見つかっていません。

   古墳の中には、石室など死者を葬る部屋が作られました。
   前期には、石室は一人のためだけに造られた竪穴式でしたが、後期以降、家族を後から葬ることができる横穴式石室へと変わりました。

古墳の形 石室の種類
竪穴石室
横穴式石室


 権力と副葬品

 大王や豪族は様々な副葬品を自分の墓に入れました。古墳時代の400年の間に、墓の形と共に副葬品の種類や組み合わせも変わりました。
 前期の鏡・玉類などから、中期以降の武器・武具・工具・玉類・馬具へと変化が見られます。

 これは、王たちが呪術的な人物から武人的な人物に変わったことを示しています

権力と副葬品 副葬品の移り変わり 副葬品の移り変わり
前期 銅鏡・石製腕輪・鉄製農耕具
中期 石製模造品・武具・金属製装身具・馬具
後期 須恵器・刀・装身具・葬送用品・馬具


  314古墳前期の土器  土師器 白神場遺跡

甕・壺

台付甕・高坏・壺

坩・器台

高坏
 

 



 古墳時代の松本市 古墳時代中期



 市域における古墳の変遷1
  古墳時代前期、弘法山古墳と中山36号墳に続く古墳は、現在確認されていません。
  中期には城山、浅間、里山辺、出川など開発が進んだ地域に古墳が造られました。

 桜ヶ丘古墳
  浅間温泉にある桜ヶ丘古墳は松本市を代表する古墳の一つです。短甲・衝角付冑・鉄剣といった武器・武具に加え、金銅製天冠が副葬され、
  中期(五世紀後半)の古墳と判明しました。短甲や衝角付冑は県内でも出土例は少なく、天冠は県内唯一の事例です。

  天冠は一般的に、ヤマト政権から地方豪族へ与えられた品と言われ、古墳の被葬者がいかに有力だったかを考えさせます。

 墓制の変化
  古墳は主に、前方後円、前方後方、円墳、方墳の四種類です。前期には前方後円・前方後方墳が造られましたが、次第に前方後円が主流になり
  大型化します。後期には王に限らず、有力者たちが小型の古墳を造り、古墳群が形成されました。

  内部構造も、個人用の竪穴式石室が、後期以降、家族を追葬できる横穴式石室へと移行します。

 王(被葬者)の人物像
  副葬品の種類や組み合わせにも変化が見られます。
  前期の鏡・玉などは、中期以降の武器・武具・工具・玉類・馬具へと変わり、王の性格が呪術的な人物から武人へと変わったことを示します。



 市内における古墳の変遷2 古墳時代後期

  後期には入山辺の南方古墳など大きな横穴式石室を持つ古墳が築かれ、中山には小さな古墳が盛んに作られます。
  中山古墳群では多くの馬具が出土しており、奈良・平安時代の埴原の牧に繋がる馬飼い集団の存在が推測されています。


  終末期(7,8世紀)、畿内では古墳築造は終焉をむかえます。しかし、松本市内では、新村の安塚、秋葉原古墳群(8世紀)が見られます。
  これらは奈良井川西岸域の開発を進めた人々の墓と考えられます。


 古墳時代のムラと人々の生活
  前期に小さく散在していたムラは、中期になると水田に適した湿地の周りに大きく作られるようになりました。

  中期に畿内の生活用具や習慣が東日本にも広がり、竪穴式住居にカマドが造られるようになります。
  画一的な土師器が全国的に普及し、弥生時代に見られた地域性は次第に失われていきました。

  後期には灌漑技術の進歩によって開発が進み、各地に大きなムラが次々と現れました。家や倉庫として使われた掘立柱建物も急に増え始めます。

 新しい須恵器の登場
  須恵器は中期(5世紀)に朝鮮半島から伝えられた新しい焼物です。専門の職人によって窯で焼かれ、硬質で灰色をしています。
  古墳時代に於いては高級品で、多くは古墳の副葬品に使われました。

  出川の平田里1号墳では、埋葬に伴って墳丘や周溝に供えられた高坏・坏・壺・ハソウのセットが見つかっています。
  市内では珍しく埴輪が配された古墳として注目されます。

    転載「展示解説」書籍版  以降、内容に重複が見られます
 
   



  古墳時代中期の副葬品



  315副葬品

  眉庇付冑

  蟻ヶ崎の放光寺開き松古墳は中期の古墳です。古墳からは眉庇付冑が見つかっています。
  眉庇付冑は5世紀後半と限られた時期に造られたもので、県内では、開き松を含め2点しか見つかっていません。被葬者は有力者だったのでしょう。

 放光寺開き松古墳
  古墳からは眉庇付冑が見つかっています。眉庇付甲は5世紀後半と限られた時期に作られました

眉庇付冑
開き松古墳/古墳中期
眉庇付冑
5世紀後半にのみ作られた冑
放光寺開き松古墳
上に記述
  316装飾品

勾玉

勾玉

玉類
金環
  317馬具

杏葉、鉄地金銅張杏葉
絞具、雲珠

壺鐙つぼあぶみ

杏葉・絞具・雲珠
ぎょうよう、かこ・うす
 馬具の名前
  318大刀

柄頭・柄頭留金具・
刀装具

直刀
 


 320松本市内の古墳
 古墳時代の人々
   前期のムラは小さくあちこちに点在していましたが、水田に適した湿地の周りに大きなムラが作られます。
   この頃から、竪穴住居にはカマドが作られ、食生活も変わりました。

   後期には、水を引く技術の進歩によって、開発が進み、各地に大きなムラが次々と現れました。
   家や倉庫として使われた、新しい建物(掘立建物)の数も急に増え始めます。

 土師器と須恵器
   古墳時代の焼き物は、土師器須恵器です。

   土師器は伝統的な素焼きの土器で、平安時代まで日常の器として使われ続けました。
   須恵器は中期に朝鮮半島から伝えられ、専門の職人によって窯で焼かれました。
   堅くて灰色をしています。
   古墳時代には高級品で、多くは古墳の副葬品として見つかっています。
土師器と須恵器 柏木古墳

 土師器と須恵器
   古墳時代には、弥生土器の系統をひく土師器とよばれる素焼きの上器が使われました。また、
   古墳時代の中頃には、大陸から伝えられた技術によって、堅くて丈夫な灰色をした焼き物―須恵器が作られるようになりました。
   しかし、須恵器は当初は人々の手に入りにくく、日常生活に使われることは少なく、多くは古墳の副葬品として使われました。転載 展示解説

  321土器

市内の古墳
古墳文化の始まり
古墳時代の人々
古墳時代の家の中
上に記述
古墳時代の
須恵器と土師器
上に記述
須恵器の形の変遷 中期
 坏・蓋、高坏、はそう
 甕
後期
 坏・蓋、高坏、はそう、 平瓶、横瓶、甕
土師器の形 前期
 壺、鉢+器台、坩、
台付甕、甕、高坏

中期
 壺、坩、坏、甕、甑、
高坏
後期
 壺、坏、甕、甑、高坏

生活様式や、かまどの登場などによって、土器の形が変化している。
遺跡案内 開き松古墳(城山)
針塚古墳(里山辺)
県町遺跡(県)
南方古墳(入山辺)
中山36号墳(中山)
出川南遺跡(出川)
平田里1号墳(双葉)
平田里3号墳(双葉)
向畑遺跡(中山)
石行遺跡(寿小赤)
  

  325埴輪

   平田里古墳出土品  古墳時代中期  平田里古墳群  平田里古墳群

    埴輪と、墓前に供えられた須恵器
・朝顔形埴輪
・水鳥形埴輪
・水鳥形埴輪

壺・台付壺
ハソウ・坏と蓋



  326古墳時代後期土器



   出川南遺跡の土器 古墳時代後期
    古墳時代後期の土師器・須恵器

古墳時代後期の
土師器・須恵器


甑×2・坏・高坏
皿×4

甑×2・坏・高坏
皿×4

甑・台付甕・甕

高坏・鉢・ハソウ・壺
坏・壺

鉢・ハソウ・壺

甕、長胴甕、甕
  


 330弘法山古墳 古墳時代前期 松本市並柳2丁目1000番
墳丘測量図 埋葬施設配置図


 弘法山古墳4世紀半ば頃築造。全長63メートルの前方後墳です。この規模の古墳では、東日本で最古級のものとして知られています。
   埋葬施設は深さ1メートル、長さ5.5メートル、幅1.5メートルの竪穴式の礫槨です。松本市内を流れる梓川、奈良井川、田川、薄川の川原石が

   使用されていることから、被葬者はこの周辺を治めた人物だったのかもしれません。
   土師器の壺や高坏などの土器、剣や鏃、やりがんな、鉄斧などの鉄製品、鏡や鏃の青銅品、ガラス小玉などの出土資料を展示しています。
   (引用常設展案内)

     古墳時代の始め、ヤマト政権は地方の王と手を結び、国造りを進めました。彼らの関係を示すのが墓(前方後円墳)や鏡です。
     長野県では前方後円墳の多く残る善光寺平 (長野盆地) が支配の中心だったようです。

     弘法山古墳は、それよりも前に、東海地方の勢力が松本や天竜川の流域と結んでいたことを示しています。

     副葬品 鏡1、ガラス小玉481、鉄剣3、鉄斧1、銅鏃1、鉄鏃21以上、土師器(壺・高杯・器台・手焙り形土器

  副葬品  転載 展示解説

土師器(壺形土器) 半三角縁四獣鏡 鉄斧
銅鏃・鉄鏃
左1:銅鏃
他3:鉄鏃
ガラス小玉



 豪華な副葬品2 -土器以外の副葬品-

  鉄器 剣、鏃などの武器と工具である斧・槍鉋が出土した。鏃や斧には木や布が僅かに付いていました。
      もとは、布に包まれ、、木箱に入っていたのでしようか。
  ガラス小玉
      コバルトブルーと淡い緑色をしたガラス小玉は石室内の3ヶ所からまとまって出土しました。数や位置からガラス小玉は首飾りと腕飾りで、
      主が身に着けていたと考えられます。

  銅鏃は、主に4世紀の古墳から出土しています。先が丸く、実用的ではありません。呪術的な性格の強いものと考えられています。

      ※武器信仰は、銅剣・銅鉾・銅戈は知っていましたが、銅鏃も信仰の対象とは知りませんでした。

  銅鏡  半三角縁四獣文鏡です。「上方作竟自有□青□左城乕右」の文字が刻まれ、上方(中国の官営工房)製で日本渡来しました。

  331解説
弘法山古墳 弘法山古墳
上に記述
長野県の古墳分布
前方後円・後方墳
善光寺平と下伊那に集中
豪華な副葬品2

上に記述
銅鏡
(半三角縁四獣鏡)

ガラス小玉
遺跡案内
上に記述
遺跡案内
所在 並柳2丁目
全長 66m
埋葬施設
 竪穴式礫槨
 長5.5m幅1.5m深1m
 梓川、奈良井川、田 川、薄川の川原石で
 築造
出土物 壺・高坏
 剣・鏃・斧・槍鉋
 青銅製鏡、鏃
遺跡地図


 332副葬品


 中山36号墳
  中山36号墳は、弘法山古墳と和泉川の谷を隔てた棺護山に築かれた方墳です。古墳からは4世紀後半の畿内系の土器、東海地方の土器の
  特徴を持つ土器、弘法山古墳の鏡と同系統の鏡が見つかりました。中山36号墳に葬られた人は弘法山古墳の後継者と考えられています。
   円墳 直径15m高2.5m 粘土槨?  遺物 鏡 (「宣□□上方作党自有紀」銘)、 土師器 壺、鉄製品



弘法山古墳大発掘 松本市の歴史に残る弘法山古墳の大発掘。
当時の様子を振り返ってみよう。
半三角縁四獣文鏡
弘法山古墳
ガラス小玉
首飾り・腕飾り/弘法山
中山36号墳/円墳
4世紀後半の畿内系・東海系の土器。弘法山古墳と同系統の鏡出土。
弘法山被葬者の後継者の墓
中山36号墳
壺・鏡/中山36号墳/
4世紀後半/古墳前期


 中山36号墳

中山36号墳/円墳
4世紀後半の畿内系・東海系の土器。弘法山古墳と同系統の鏡出土。
弘法山被葬者の後継者の墓
中山36号墳
壺・鏡/中山36号墳/
4世紀後半/古墳前期
 中山36号墳
中山36号墳は、弘法山古墳と和泉川の谷を隔てた棺護山に築かれた方墳です。
古墳からは4世紀後半の畿内系の土器、東海地方の土器の特徴を持つ土器、弘法山古墳の鏡と同系統の鏡が見つかりました。

中山36号墳に葬られた人は弘法山古墳の後継者と考えられています。
円墳 直径15m高2.5m 粘土槨?
    遺物 鏡 (「宣□□上方作党自有紀」銘)、土師器 壺、鉄製品
 


 弘法山古墳
  半三角縁四獣文鏡
   「上方作党自有□青□左白斤居右」の銘をもつ舶載鏡。鏡面には赤色顔料が付着していました。直径11.65cm。(引用常設展案内)

  ガラス小玉
   コバルトブルーと淡緑色をしたガラス小玉は、石室内の3箇所からまとまって出土しました。
   数や位置から考えて、これらのガラス小玉は首飾り・腕飾りとして使われたものと考えられています。 (引用常設展案内)


 340副葬品
  341弘法山古墳副葬品 古墳時代前期
礫槨と副葬品 副葬品の配置 金属製品
剣・斧・ヤリガンナ

銅鏃・鉄鏃


  350弘法山古墳 
    3世紀後半に造られた東日本でも最古級の古墳です。全長60mを超える前方後方墳で、頂上からは市内を一望できます。
    古墳の主は鏡や剣など多くの副葬品と共に礫槨に葬られました。強い権力を持った人だったに違いありません。

    長野県での古墳時代の始まりを調べるのに重要な遺跡として、1976年に国指定史跡になりました。
    今では桜の木々が植えられ、桜の名所になっています。

    礫槨 川原石などを使って、木製の棺を置く部屋を作ったもの。

  351弘法山古墳 副葬品-その1
     古墳の主はどんな人物だったのでしよう。その答えは土器にあります。
     礫槨の上には、東海地方西部の影響をうけた土器が供えられていました。主は東海地方の勢力と関係の強い人物と考えられます。

      弥生時代後期の東海地方西部に特有の、パレス・スタイルと呼ばれる土器の影響を受けています。
        赤い着色と、口の形、櫛状の道具でつけられた文様が特徴です。

     手焙形土器 手を温める手焙に似た形をしています。東海から中国地方にかけての弥生時代後期の遺跡で多く見つかります。
        何に使われたかはよくわかっていません。

弘法山古墳 弘法山古墳とは
上に記述
墳丘・礫郭
高価な副葬品-その1
上に記述
底穴土器
土器棺
手焙形土器
  

  352副葬土器 弘法山古墳 古墳前期

 (土師器 壺形土器) 
  竪穴式石室の直上にあたる位置からは葬送儀礼で使われた土師器の壺・高不・器台・手焙り形土器が出土しました。
  これらのなかには東海地方西部との関係の強い土器があり、古墳の性格を考える上で大きな問題をなげかけています。 (引用常設展案内)

弘法山からのパノラマ 壺/前期
手焙形土器


手焙形土器 壺口縁部破片 お供え用土師器
石室の横に置かれた

  360弘法山古墳の土器

  361古墳の特徴 弘法山古墳
    形状 前方後方墳 (古い古墳の特徴で、広報部が前方より高くなっている。) 長さ66m
    立地 尾根の先端にあり、松本平を一望できる。

古墳の特徴 測量図 航空写真

  副葬土器
高坏
弘法山古墳 古墳前期
高坏
高坏
高坏
  


 365中山36号古墳 古墳時代前期 4世紀後半築造

  中山36号墳は、弘法山古墳と和泉川の谷を隔てた棺護山に築かれた方墳です。古墳からは4世紀後半の畿内系の土器、東海地方の土器の
  特徴を持つ土器、弘法山古墳の鏡と同系統の鏡が見つかりました。中山36号墳の被葬者は弘法山古墳の後継者と考えられています。

   円墳 直径15m高2.5m 粘土槨?  遺物 鏡 (「宣□□上方作党自有紀」銘)、 土師器 壺、鉄製品  転載 展示解説

中山36号墳
4世紀後半の畿内系・東海系の土器。弘法山古墳と同系統の鏡出土。
弘法山被葬者の後継者の墓

壺・鏡/中山36号墳/
4世紀後半/古墳前期
墳丘図
転載 展示解説
土師器 壺
転載 展示解説
半三角縁六獣文鏡弘法山出土と同笵鏡
転載 展示解説
   


 370桜ヶ丘古墳  中期 5世紀後半 松本市浅間温泉36

墳丘図

転載 展示解説

  浅間温泉東南の丘陵端に位置する古墳で、昭和35(1960)年に発掘調査されました。
  墳丘の中央の、副葬品を納めるための副室をともなった河原石積みの石室からは多くの装身具・武器・武具が発見されました。
  特に、天冠は大陸文化の影響を受けている貴重なもので県宝の指定をうけています。5世紀末から6世紀前半の築造と考えられています。

  円墳:径18m 高4m 竪穴式石室?
  遺物 衝角付冑1、短甲1、頸鎧1、鉄刀1、鉄剣5、鉄鉾1、鉄鏃数個、天冠1、竹櫛1、勾玉1、丸玉9、小玉35、日玉5  (引用常設展案内)


 桜ヶ丘古墳とは
   桜ヶ丘古墳の第一発見者は中学生でした。古墳上部は崩れており、アリの研究をしていた時に偶然、石室を掘り当てたのです。
   その後の発掘調査によって大小の石室があったことがわかりました。

   冑と短甲、鉄剣、玉類や天冠など多くの副葬品が見つかり、中期(5世紀後半)の古墳であることがわかりました。
   桜ヶ丘古墳出土品は、長野県宝に指定されています。

  372解説
桜ヶ丘古墳石室
桜ヶ丘古墳
桜ヶ丘古墳とは

上に記述
墳丘の様子 石室の様子


 天冠
  天冠はハチマキ状の帯に飾りをつけた冠です。近畿地方を中心に、全国的に見つかっています。
  長野県では桜ヶ丘古墳でしか見つかっていません。桜ヶ丘古墳の天冠は金銅製です。

  天冠は一般的にヤマト政権から地方豪族に与えられたといわれています。
  金銅製の冠は朝鮮半島南部の伽耶地域とのつながりが強く、この時代の海を越えた交流を物語っています。

 短甲
  短甲は胴体を覆うよろいで、腰のくびれが目を引きます。おもに前期から中期に作られました。
  桜ヶ丘古墳の短甲は、長方形板革綴短甲と言い、横長(長方形)の鉄板を革ひもで綴じたよろいを井もします。

  古墳時代でも古い形のよろいです。完全な形ではなかったので、石川県羽咋市柴垣丸山古墳の出土品をモデルに復元されました。

天冠
天冠の出土状況 短甲
長方板革綴短甲 横長鉄板を革ひもで綴じたもの
装着復元図

  衝角付冑(しようかくつきかぶと)
   古墳時代中期から後期にかけて使われたかぶとです。卵を縦割にした形と額に付いた舟のへさきのような板が特徴です。
   桜ヶ丘古墳のものは、三角板革綴衝角付冑と言います。

   三角形の鉄板を革ひもで綴じ合わせてあります。冑には革ひもが部分的に残っています。
   この形の冑は長野県では桜ヶ丘古墳でしか見つかっていません。

衝角付冑 三角板革綴衝角付冑 冑左側面の破片 遺跡案内 桜ヶ丘古墳
所在 浅間温泉
形状 円墳
全長 長15m高5m
施設 竪穴石室
主室 長2.5m幅1.2m
副室上 長2.5m幅1.4m
副室底長1.85m幅60cm
遺物 衝角付冑・短甲      刀・剣・鉾・鏃・
    頸鎧あかべよろい
    天冠・玉類・竪櫛

  374副葬品
天冠 天冠復元品 玉類 頸鎧破片
あかべよろい
頸の周囲から肩を覆う付属具を頸甲(あかべよろい),
頸甲の両側から肩に垂下する部品を肩甲(かたよろい)と呼ぶ習慣があるが,
一連のもので二つに分離すべきではない。
あかべよろい 古墳時代の鎧兜
衝角付冑 短甲 石葺古墳部分  
  
 ※以下は、「展示解説」に掲載されたその他の古墳の図・写真・文です。本文中に多数引用していますが、まとめて引用します。



 385妙義山古墳群  転載 展示解説


  浅間温泉の南、大村東方の丘陵端部に3基の古墳が築かれています。1号墳は、直径32~ 35mの円墳で、墳丘斜面には葺石がみられます。
  内部構造や副葬品はわかっていませんが、墳丘規模の点からかなりの有力者だったのではないかと考えられます。また、
  203号墳は、1号墳の陪塚的な性格が考えられます。特に2号墳の石室内からは3体の人骨とともに多くの装身具・武器・馬具が出土しています。

 埴輪
  古墳の墳頂部や段になっているところに埴 輪を巡らす古墳は各地でよくみられます。
  埴輪には、筒形の胴部をもつ円筒埴輪、人・動物・器材を模した形象埴輪があります。
  しかし、松本平では埴輪を伴う古墳についてはほとんど知られていません。

測量図 雲珠・鉸具 埴輪破片 沢村出土



 386中山古墳群  転載 展示解説
中山丘陵には明治の始め頃には100基を超える古墳があったといわれていますが、現在では40数基の古墳が残っているだけです。

広義の中山古墳群は、弘法山古墳中山36号古墳前期古墳から、横穴式石室をもつ後期古墳までを含み、時期・立地・分布状況などから、更に小さな古墳群に分けられます。

そのなかでも、中山丘陵の南斜面には、馬具・武具を副葬品にもつ横穴式石室の円墳が数多く分布しています。
小丸山古墳 中山古墳群分布図



 柏木古墳 (中山古墳群)  転載 展示解説

 中山丘陵の東斜面に位置する古墳で、6世紀後半頃築造の、中山古墳群のなかでも古いものです。大正14年に発掘調査。
 横穴式石室からは多くの副葬品が出土しました。
 その出土状態は発掘した人たちによって詳細な図が残され、中山古墳群のなかでも構造・出土状態が判明している数少ない古墳のひとつです。

 円墳:規模 直径17m 高さlm  構造 横穴式石室  
 遺物 勾玉12・管玉3・切子玉6・小玉・丸玉25・金環・銀環15・直刀4・鉄鏃53・轡4・辻金具3・
     須恵器(高杯4・提瓶1・皿1・壷1)、  土師器(高不2・皿1・魅1)

 土師器と須恵器
 古墳時代には、弥生土器の系統をひく土師器と呼ばれる素焼きの土器が使われました。
 また、古墳時代の中頃には、大陸から伝えられた技術によって、かたくて丈夫な灰色をしたやきもの―須恵器が作られるようになりました。
 しかし、須恵器は当初は人々の手に入りにくく、日常生活に使われることは少なく、多くは古墳の副葬品として使われました。

 武器・武具・馬具
  古墳の副葬品のなかには金銅技術や象嵌技術を用いてつくられた武具・馬具があります。
  柏木古墳からは、金環・銀環のほか、鉄地金銅張りの辻金具、銀象嵌の刀装具・鍔が出土しています。
  また、実用には適さない長刀(直刀)が出土しており、古墳の被葬者がかなりの有力者だったことをうかがわせます。

柏木古墳 横穴式石室見取図1 横穴式石室見取図2 土師器と須恵器
柏木遺跡
銀装の刀装具 直刀
 
 388中山古墳群出土遺物  転載 展示解説

 中山古墳群の多くは消滅してしまいましたが古墳の副葬品が採集されているものがあり、古墳の年代や性格を知る貴重な手がかりとなっています。

留金具 中山15号墳

辻金具 柏木古墳
轡 柏木古墳

高坏 坂上古墳
長頸壷 中山39号墳



389終末期の古墳  転載 展示解説

新村秋葉原古墳群安塚古墳群
 横穴式石室をもつ円墳からなる比較的新しい古墳群です。

 なかには、8世紀代の遺物を副葬品にもつ古墳があり、一般に古墳がつくられなくなる8世紀に
 入っても一部の地域では古墳が築造、あるいは追葬が行われていたことが考えられます。

安塚第8号墳

高坏
金環
銙帯
 






 400奈良・平安時代 約1,300年~800年前





  7世紀の後半以降、中央集権化がすすむと地方は整備されて中央とのかかわりを強くしていきました。

  現在の松本市は、信濃の国の筑摩郡の一部になりました。8世紀の終り頃には国府が上田から移り、松本は政治の中心になりました。
  また、信濃の国には朝廷に納める馬を飼育する16の牧がおかれ、中山の埴原の牧にはこれらをまとめる牧監庁がありました。

  奈良・平安時代には中国にならった都がつくられ、政治・文化の中心となりました。
  都は碁盤の目のように整然と区画され、役所をはじめ貴族の屋敷や瓦ぶきの寺院が建ち並んでいました。
  まちの中では定期的に市が開かれ、各地の産物が集まり、多くの人々が行きかって活気に満ちていました。

  このような貴族のはなやかな生活に対して、多くの庶民達は厳しい税のとりたてや労働をしいられるなど、苦しい生活を送っていました。
  奈良・平安時代の遺跡は現在の集落とほとんど重なっており、その数は168と多く、また最近の発掘調査によって更に増加の傾向にあります。
     (引用展示解説)


 奈良・平安時代は中国の政治制度にならって都を中心とした国づくりが進められました。政治の実権を握った天皇は律令によって地方をおさめ、
   各地からの租税で財政をまかないました。

   各地には信濃国のように国が置かれ、国司の指示で土地開発がすすめられますが、やがて貴族による私的な開発によって荘園が生まれます。
   政治の実権も次第に貴族へと移り、手を結んだ地方の有力者は栄華を極めました。地方の庶民は竪穴住居にくらし、厳しい生活を送りました。

  401須恵器
奈良・平安時代
上に記述

 窯跡出土の須恵器
  焼けてゆがんだり、土器と土器期が焼け付いてしまった失敗品。
松本平の須恵器生産
窯跡出土の須恵器  窯跡から出土した
須恵器

失敗作品

窯の壁についた

触れる土器



 410古代の開発  約1,300年前から800年前
  奈良や京都に都が置かれた時代の松本平に暮らした人々の生活や、当時の中央との地方の関係などについて紹介します。

  古代の鍵(海老錠)がかかったケースをあけると、中には、松本市で出土した実物の海老錠や緑釉陶器、硯などが展示されています。
  その他、開発に使われた農耕具、個人用として使用され始めた食器なども展示しています。(引用施設案内)



  仏教伝来と人々の願い (仏教公伝日本書紀では552年 元興寺縁起では538年)

   仏教は古墳時代後期に日本に伝えられ、都の貴族に受け入れられました。
   その後、地方へも広まり、市内でも仏像や瓦塔、「卍」や「寺」と書かれた土器がムラの跡から見つかっています。
   人々の間には、土器に文字を書いて、豊かな財産を願うまじないもあったようです。


  412解説

 瓦がごろごろ
  瓦が日本に伝わったのは6世紀。仏教が伝来し、都を中心に建てられ始めた寺院の屋根を飾るものでした。
  瓦葺の屋根はとても重く、建物には太い梁と太い柱が必要です。その建築には高度な技術が求められ、寺院や役所などに限られていました。

  大村遺跡では古くから瓦が見つかっており、寺があったと考えられました。今回の鴟尾(しび)と瓦の発見は、その可能性を高めました。


 仏教の広まり
  都を中心として広がった仏教は、やがて地方にも伝わり、多くの人々の間で信仰されるようになりました。
  また仏教のほかにも神や民間信仰が信じられ、それらに関係する物が遺跡から発見されています。

  松本では仏具として用いられた奈良三彩の小壺銅の鋺(かなまり)小形の仏像などのほか、骨を入れた大甕や壺などが出土しています。
  くまのかわ遺跡 では鉄鐸が出土しましたが、これは塩尻市北小野の小野神社の宝物にあるように、神を招く時の儀式に使われたものと
  考えられています。 (引用常設展案内)

 奈良三彩の小壺
  小壺は回径3.6、底径4.2、器高3.7cmで回縁から肩にかけて欠けていますが、緑、褐色、自の三色の釉(うわぐすり)が美しい薬壺です。
  三彩は都で作られたもので、長野県下で三点しか出土しておらず、ごく限られた者しか所有出来なかったものと思われます。(引用常設展案内)

古代の開発 仏教伝来と人々の願い 仏像
願いを書いた皿 瓦がごろごろ
上に記述
出土した瓦





 瓦の種類と使用法
   ①鴟尾 奈良東大寺の屋根の両端に乗っているシャチホコに似たものがシビです。飛鳥~平安時代まで作られた屋根飾りです。
         水に住む魚の形をしているとも言われ、建物を火災から守るために載せられました。

   ②平瓦と丸瓦 平瓦は屋根全体を覆うように並べられた瓦です。平瓦のつなぎ目に置かれたのが丸瓦です。
   ③軒丸瓦と軒平瓦 軒先を飾った瓦です。花の模様などが造り出されました。


 生活を支えた道具
   開発を支えた人々の生活はどうだったのでしょう。彼らは竪穴住居で暮らし、カマドで煮炊きをし、自分用の食器で食事をしていました。
   また、稲刈り鎌や、鍬や鍬の先には鉄の刃が付けられました。
   ムラ跡から見つかる使い込まれた砥石からも鉄器が日常的に使われていたことが伺えます。


 陶器
   古代には中国との国交が始まり、政治や文化、青磁などの品々が伝えられました。
   青磁は貴族たちの間でもてはやされ、それを真似て国内では緑釉陶器や灰釉陶器がつくられました。
     ・磁器の一つ。青緑色のガラス質の釉薬がかかった焼き物。
 
 灰釉陶器
   植物の灰で作った釉薬を掛けて焼かれたもの。はじめは高級品でしたが、大量生産されて次第に庶民へも広まっていきました。
 緑釉陶器
   鉛と銅を混ぜたうわ薬をかけて焼かれたもの。古代を通して焼き物として、もてはやされました。

瓦の種類と使用法
上に記述
生活を支えた道具
上に記述
陶器
上に記述
灰釉陶器の皿と壺
灰釉陶器の碗・皿
(原畑・宮の上遺跡)
灰釉陶器の壺
(三間沢川左岸遺跡)
緑釉陶器の碗と皿
三間沢川左岸遺跡
遺跡案内
  

 413須恵器の生産と灰釉陶器
  土器は古墳時代に引き続いて、土師器と須恵器が使われていましたが、次第に須恵器の占める割合が多くなってきました。
  9世紀に入ると松本の北東の山地でも須恵器が生産されるようになり、現在数十のカマ跡が残っています。

  その頃、寺院や役所では須恵器の系統をひく釉薬をかけた灰釉陶器が使われ始めました。
  農村では平安時代の中頃になってから使われるようになりました。(引用常設展案内)

土師器 土師器
 坏 南栗遺跡
 甕
 高坏 秋葉原遺跡
須恵器・灰釉陶器 須恵器
 四耳壷 南栗遺跡
 長頸壷 秋葉原古墳
 四耳壷 南栗遺跡
灰釉陶器
 神戸遺跡
手付瓶  南栗遺跡
平瓶  下神遺跡
 



 430北方遺跡出土の大甕

  北方遺跡では、3基の大きな須恵器甕が、三角形の位置関係で見つかりました。
  大甕の内部からは、大甕自体の破片や焼けた跡のある石、炭化物が見つかりました。そのうち1基の大甕は、上方の胴体部分が割れ、蓋状に
  覆い被さって出土しました。

  使用されていた当時は、甕の上部が地上に出た状態で埋め込まれていたと考えられます。しかし、用途については、明らかになっていません。
  埋葬用の棺だとした場合、墓の盛り土が付近にあったと考えられますが、確認されていません。
  貯蔵用だとした場合、骨臓器の外容器、染料や水等の液体貯蔵用器、人糞等の肥甕などが考えられますが、特定されていません。

北方遺跡出土の大甕
甕の出土状況

大甕

大甕

大甕


 440大村遺跡
  441panel
平安時代の寺院跡
鴟尾出土状況
現場風景
鴟尾出土状況

  442奈良・平安時代の寺院の瓦 大村遺跡 平安時代

鴟尾

・鴟尾  ・軒平瓦
・軒丸瓦・四葉複弁蓮華文・六葉素弁蓮華文

丸瓦・平瓦
 
  443古代の食生活
  444食生活

甕・壺・蓋杯・鉢・皿

蓄える 壺・鉢

煮る 甕
食べる鉢・皿

煮る 甕


  460平安時代のカマド
    高畑遺跡の住居跡から、平安時代のカマドの痕跡が発見されました。発掘されたカマドの石を使い、当時の様子を再現しています。

    焚口に基礎となる石を立て、その上を粘土で固め、上部には煮炊き用の土器を置くための穴を開けます。
    焚口から地面は、赤く焼けた焼土が出土しました。

    生活の基本となる「食」。このカマドで、平安時代の人々はどんな料理を作っていたのでしょう。

平安時代のカマド カマドと甕(ナベ)



 470川西開田遺跡  古代・中世


  471鍛冶遺跡

 鉄の道具
   鉄の道具は古墳時代の中頃に大陸の影響を受けて改良されて以来、奈良・平安時代にいたるまで大差ないものが使われました。
   松本では鉄製のU字形の刃先をつけたクワやスキ、鎌などの農具のほか、刀子、紡錘車、火打ち金具などが出上しています。
   このようにこの時代には多くの鉄製の道具がつくられて、広く生活のすみずみまで使われていました。(引用常設展案内)

 ふいご
   鉄を作ったり加工するときには加熱して鉄を溶かします。この時、人工的に風を起こして火を強くする道具がふいごです。
   ふいごの羽口は、炉の中に送風する部分に取り付けられたものです。

  古代の生産の道具

鉄滓。砥石

鞴(ふいご)・羽口

鉄鏃

紡錘車・鍬先

鍬先・鎌・刀子
のこぎり
のこぎり






 480地域中山の考古学





   松本市立考古博物館が建つ中山では遺跡がたくさん見つかりました。
   特に向畑遺跡は、縄文・古墳・奈良・平安・中世にわたる複合遺跡として、其々の生活の跡が残されていました。
  481古墳の副葬品
地域中山の考古学 中世の墓の出土品
銭貨
鉄鉗(てつはし)ヤットコ

紡錘車・高坏
甕の口縁

壺・玉類
玉類


  482地域中山の考古学

    考古館の建つ中山地域は遺跡の宝庫です。縄文時代に多くのムラが栄えますが、弥生時代にはほとんど生活の跡が見られません。
    古墳時代には再びムラが作られますが、中期以降は墓地として利用されました。

    奈良・平安時代は埴原の牧があったと考えられますが、その時期のムラは見つかっていません。
    戦国時代には市内でも大き埴原城が作られました。


   向畑遺跡は、中山を代表する遺跡の一つです。4つの時代の遺構が重なる複合遺跡です。

    ・第1段階 -縄文時代中期初め
       8軒の住居跡が見つかり、小さなムラがあったことがわかりました。

    ・第2段階 -古墳時代前期
       弘法山古墳と同時期の大きなムラの跡で、この遺跡が最も栄えた時期です。
       風当たりの強いこの土地になぜ大きなムラがあったのか謎です。

    ・第3段階 -古墳時代中期
       台地の西に、15基の古墳が相次いで造られます。1つの集団によって代々造り続けられようです。

    ・第4段階 -鎌倉~室町時代
       非常にたくさんの墓穴が密集して見つかりました。副葬品はほとんどなく、庶民の集団墓地だったと考えられます。

地域中山の考古学 中山ってどんな場所 中山の遺跡散策マップ 向畑遺跡
第1段階 第3段階
第2段階 第4段階

  埴原の牧
   平安時代に書かれた「延喜式」によれば、長野県には16ヶ所の牧 (天皇の馬を育てる牧場) が置かれていました。埴原もその1つです。
   その場所は、「埴原」の地名が残り、牧場に適した場所であることなどから、中山の埴原(古屋敷、千石、乾田)と推定されます。

  埴原の牧
  平安時代朝廷専用の牧場 (勅旨牧てしまき) が設けられ、信濃には16の牧がつくられ、これを統括する牧監庁(もくげん)が埴原牧におかれました。
  牧監は国司に準ずる権力を持ち、都から赴任しました。

  牧監庁跡は考古博物館の北西に接し、昭和39年の発掘調査によって礎石群が発見され、間口9間(16.2m)奥行3間(5.4m)の建物址であることが
  確認されました。
  牧場は鉢伏山山麓西側と、中山丘陵の間にひろがっていたものと思われ、南の古屋敷と千石地籍には冬季間馬を追込む繋飼場跡があり、
  6段のテラスが残っています。(引用常設展案内)

  埴原城
   戦国時代の山城で、その規模は林城(里山辺)と並ぶほどの大きさです。今も多くの郭や掘、飲用の湧水、石垣などが残っています。

埴原の牧 埴原の牧 推定地 埴原城 想像図 遺跡案内
 



 484信濃国府
  国の東北地方を治める政策の一つとして信濃に国府がおかれ、8世紀の終わり頃上田から松本に移ってから、およそ400年間にわたって信濃国の
  政治の中心として栄えました。

  国府は中央の都を小さくしたもので、国庁を囲んで8町(872m)四方、あるいは6町(654m)四方の街で、松本では
  (1)大村説、(2)惣社説、(3)筑摩説、(4)深志説 があって、実際にはどこにあったのかまだわかっていません。

  そのため、市教育委員会では昭和57(1982)年から5年間にわたって、惣社周辺を中心に発掘調査をしましたが、奈良・平安時代の住居址の発見は
  あったものの、国府の存在を証明するような遺構・遺物は何も出ませんでした。(引用常設展案内)


  信濃国府推定地(引用常設展案内)
信濃国府推定地 信濃国府推定地図

  年表(引用常設展案内)
旧石器~縄文 弥生~古墳 奈良~平安
   
 


 490向畑遺跡
  491①縄文時代

住居址・土器出土状況

住居址
土器出土 出土土器群
  492②古墳時代
古墳前期の家跡
須恵器 出土状況

古墳前期の住居跡出土の土器
古墳前期の住居跡出土の土器
  493③古墳後期~中世

沢山の中世のお墓
向畑8号墳の石室

古墳に供えられた土師器・須恵器

供献土器
須恵器甕

ハソウ・手焙形土器

古墳の供献土器
 
 500館内全景
  511
  512
松本まるごと博物館考古館シンボル
耳飾り
エリ穴遺跡の耳飾
  530年表

旧石器~縄文

弥生・古墳

古墳~平安
古墳~平安
 
 540松本文化財マップ 
  541遺跡マップ
松本文化財マップ
松本市北部西

松本市北部東

松本市南部西

松本市南部東




  542松本市内の主な史跡

弘法山古墳
中山丘陵の北端に所在。全長約66m、東日本最古級の前方後円墳。
3世紀末に松本平一帯を治めた豪族が葬られたと考えられています。

石室上からは土器が、
石室内からは銅鏡やガラス小玉・武器などが見つかり、長野県宝に指定されています。
針塚古墳
里山辺に所在し、現在、墳丘は保存され、周辺は公園として整備されています。
直径約20m高2m、5世紀後半築造、円墳。土の代わりに石を盛って墳丘を造った積石塚古墳であることが特徴。

石室内からは、内行花文鏡・刀子・ガラス小玉などが見つかっています。 
秋葉原第1号古墳
新村駅の周辺には安塚・秋葉原古墳群が分布しています。
 水田の下から見つかったこの古墳は、墳丘が失われ石室のみが残っていました。
直径約12m程の小円墳と推定されています。

古墳に供えられた土器の年代から8世紀前半築造と思われる。
中山古墳群
旧中山村は、古くから数多くの古墳があるところと知られ、その数は80
基以上に及びます。
 古墳の築造年代は5世紀に始まり、8世紀のものまであります。

今では宅地や畑などになり、数は少ないですが、中山15、16、17、39号墳など、
いくつかは現在も墳丘や石室を見ることができます。
桜ヶ丘古墳
金銅製天冠
浅間温泉にある桜が丘古墳は、昭和29年に中学生によって発見された古墳です。
5世紀後半の円墳とされ、石室内から県宝指定の金銅製天冠が見つかっています。

また、甲冑や剣など、その他の出土品も松本市重文に指定されています。
埴原城中山を見下ろす東山にあり、戦国時代を代表する、市内でも最も大規模な山城です。 城跡には今でも多くの郭や空掘、化粧清水、土塁・石垣などが残っています。

このお城にまつわる史料がなく詳細不明ですが、その構造から、戦国時代を通じて使われ続けた可能性が高いと考えられています。