北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて08 2014.05.23(金)
長者ヶ原考古館 新潟県糸魚川市一ノ宮1383 025-553-1900 休館日月曜・祝日の翌日9:00~16:30
遺跡名 |
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国指定史跡 長者ヶ原遺跡 リンク01 02 03 04 |
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特徴 |
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大きな集落跡は、ヒスイの玉や蛇紋岩 (じゃもんがん)の石斧の生産・交易拠点として有名である。 |
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時代 |
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縄文時代早期~後期 特に縄文時代中期・後期(5,000~3,500年前)を中心に栄えたムラ。 |
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交通 |
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レンタカー。 えちごトキめき鉄道糸魚川駅から車で10分 |
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魚津で車を借りましたが、通常の保険つき料金を払っているのに更にまた掛け捨て保険に入れと要求し、8000円を遥かに超す最高値の賃料でした。糸魚川駅付近に格安ンタカーのニコレンがあります。事前調査して利用しましょう。 |
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見所 |
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カッパ型土偶、妊婦土偶、人物文深鉢、牙状勾玉、指輪状石製品、ヒスイの玉製品、蛇紋岩の磨製石斧の生産・流通拠点の遺跡 |
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注意 |
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長者ヶ原遺跡・長者ケ原遺跡 の二種類の表記があり、検索がヒットしにくくなっています。 |
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失敗 |
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隣のフッォサマグナミュージアムも撮影可なので記事にしようとしましたが、石ばかりでストーリーがなく、編集は困難でした。 |
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05長者ヶ原遺跡
06遊歩道
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07復元竪穴住居 中央に広場があり、これを取り囲むように住居がある、環状集落だった。広場の端には立石墓があった。
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081号建物 (掘立柱建物)
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10長者ヶ原考古館
11常設展示室1 埋もれる大集落 ~長者ヶ原ヒスイの故郷
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糸魚川の蛇紋岩・翡翠の発見は、そのような知識や加工技術などの文化を持った人々が舟で一帯の海岸を通過し、これら原石を発見したと思われる。 |
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親不知・子不知断崖の陸封
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糸魚川と富山の間には交通の難所、親不知・子不知断崖があり、ために海路を余儀なくされ、天候によっては付近の海岸に避難する必要があった。 |
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このとき、翡翠や蛇紋岩の海岸を見つけ、原石のある谷を見つけたのでしょう。この地域には、陸路入るのは不可能な地域ですから。
八ヶ岳を踏破して黒曜石を見つけたり、伊豆諸島から運んだり、スーパーマン縄文人はどんなことでもできたのかもしれません。 |
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親不知・子不知断崖は日本海側の東西の陸上交通を妨げ、文化を途絶えさせる重要なファクターだった。 |
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旧石器時代後葉の細石刃文化は、日本海側では親不知断崖で、西の朝鮮半島型と、北のシベリア型に分かれている。 |
糸魚川の縄文遺跡海から舟で来て上陸し、村落を広げたようだ。
陸から近づきにくい
ここは陸の孤島です |
常設展示室1 |
脚下照顧足元に注意 埋納穴あり |
細長い石を入れた甕と
扁平な石を載せた甕が
それは、男用と女用の埋甕。子供の墓です。 |
住居の入口近年まで縄文の風習が残って続いていた |
この地域では、戦前まで胎盤や嬰児胎児の埋甕埋納が続いていたという
縄文人の末裔 |
着色部が住居で炉がある |
扁平な石で囲んだ炉。扁平石は利用目的があった |
遺跡を発掘した人々
相馬御風 |
縄文土器深鉢浅鉢が大量出土
渦巻文など高い芸術性
煮炊き用の深鉢と
取り分け用の浅鉢 |
早期と晩期1万年の差
尖底回転押し型文土器
刺突文・魚文土器 |
縄文中期の土器
発達多様化した土器形状
土器を囲炉裏にかけるとやがて真横に切ったように、パッカンと割れる。 |
復元住居模型と
アンギン編み |
海沿いに来て海岸で翡翠を見つけ、川を遡ってこの谷にたどり着いた |
長者ヶ原遺跡の環境海路が交通の手段だった |
長者が原遺跡は※ |
中期の集落遺跡数軒の建物に大家族で暮らし、作業したのか |
遺跡中央の集落広場、住居域、墓域、廃棄域など分けていた |
縄文カレンダー
アシカ・イルカやナラ・シイ。サケ・マスなど |
集落は海岸や姫川に近く豊かな食生活だったかもしれない |
地形模型場所を変えながら長く続いた遺跡 |
遺跡全体の地形模型全体 |
北部 |
南部 |
※ |
黒曜石と同等以上の価値を持つ資源を見つけても、まず、食料と水生活資源が確保できて、製品原料である斧柄の材料も手に入る場所に集落を作り、 |
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その上で、石を拾ってきて交易品を加工した。 |
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彼らは既に蛇紋岩を使う知識を得ていた。どこで知識を得て、どこから来たのだろうか。半島から? 北方から? 大陸から?
思議である。なぜ急に出現できたのか。 |
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原
世界最古の土器 |
題「長江流域における世界最古の稲作農業 1.世界最古の土器を作った人々が稲作を開始した」 |
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国際日本文化研究センター 教授 安田喜憲 |
この論文では、土器の発明と稲作農耕の始まりについて論じている。面白いのでかいつまんで紹介する。
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広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡では暦年代2万~1万8000年前にまでさかのぼる土器が発見された。 |
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土器製作の担い手は、小柄で短頭の港川人やワジャク人に代表される「森の民」」が、土器づくりを開始し、世界にさきがけて定住生活に入った。 1万6500年前には日本列島北部から沿海州において土器づくりが始まった。 |
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彼らはまた稲作農耕をも始めた。稲作農耕の起源は1万年以上前、おそらく1万4000年前頃までさかのぼる可能性がきわめて高い。といっている。 |
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土器文化を持って拡散し、列島にやってきて縄文人となった人々は、この時間差のために稲作文化を伴えなかった。 |
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新潟における土器形式、土器編年に関するオンラインデータはまったくありません。なにもデータを書くことができません。
12縄文土器概略
縄文土器 前期 |
中期 |
中期 |
中期 |
後期 注口土器 |
ヘビ装飾の土器装飾が取れてないのは食器でなかった |
注口土器 |
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13縄文石器 概略
磨製石斧製造割れにくく切れ味のよい磨製石斧製作を生業にしていた |
石鏃と打製石斧農耕が盛んだった |
石皿と磨り石
磨製石斧製の丸木舟 |
石匙 中期摘み付きナイフ
干魚・干肉は切らずに煮込み、自分で切って食べる。
そのための道具 |
石鏃 中期乾燥状態の干魚・干肉は硬くて切れない |
石錘or飛び玉(アンギン編みの錘) 中期 |
打製石斧 中期 |
凹み石 中期火起こし道具や
木の実固定穴 |
石皿と磨り石 中期 |
磨製石斧 中期 |
磨製石斧装着例オノ・チョウナ・ノミ
斧刃だけを作ったのでなく斧柄に装着して製造したでしょう |
石斧の柄も作った。ヤブツバキなどの木を栽培しなければ供給できない |
種まき後15年位の木が必要だから、栽培したと思う |
紐は麻を栽培した。 |
栽培などと突然言ってごめん。
田舎では炭焼きをしていた時代、炭焼き用の雑木を切り出すと、交換条件で、山林地主との約束で、跡地にクヌギやカシの種・ドングリを
撒くことになっていた。おそらく現在も。
縄文時代は クリやドングリは主食で、積極的栽培品種でした。必需品の石斧用のヤブツバキの実を植えてもおかしくないと思います。
長者ヶ原の南向き斜面に赤いヤブツバキの生える一角があったらきっと美しかったでしょう。
そのほか色んなものも栽培した。えごま、や、豆やら、、、
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21土器 縄文時代中期
長者ケ原式土器という:形式は、越後と北陸の様式が合一したもので、縄文中期前半が主体です。
また、長者ヶ原遺跡からは東北地方・関東地方・中央高地・北陸地方の土器も出土しているようです。
超有名な遺跡でありますが、ネット公開された報告書はなく、土器形式も、土器編年も、長者が原式土器の写真すら見当たりません。
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24土偶・祭祀具
26カッパ型土偶 縄文中期
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壊れた頭部の下部。中空だった頭部の。下顎部から後頭部にかけてが皿のように見える。だからこの名をつけた。のではない。完成品がカッパ形です。
扁平な板状胴部に対して、中空の頭部とは、大変高度な作品で。
埋納の仕方も女性を意味する砥石or石皿二枚の上に丁寧に置いた、女性をかたどった土偶。
これは、死者に手向けられたことを意味する埋納。しかし、ムラの外れの斜面の土壙は最下層女性の捨てられた穴だったかもしれない。
大変珍しい埋納方法で、顔を壊して「送った」のにはひどいリンチを想像させる。
大きく膨らんだ頭部の姿は、上の写真のようなものです。 |
長者ケ原遺跡の
大形土偶頭部が打ち壊された土偶左右対称の図柄 |
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貯蔵穴でなく墓穴に埋納または、貯蔵穴を墓穴に転用 |
妊婦土偶です |
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カッパ型土偶は
大型砥石・石皿の上に
置かれて出土した
石棒は
広場から出土
妊婦土偶は
土器捨て場から出土 |
カッパ型土偶
東北から中部地方にかけて東日本全域に出土。
米原市筑摩佃遺跡は西限
面白い考察の記事 |
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・「カッパ型土偶は縄文中期の北陸地方では多く見られる形です。」とある。しかし、私はそんなもの、見たことがないし、写真もこれ以外一枚もない。
・「信濃川火焔街道 縄文の旅」では カッパ形土偶 は 頭頂部が平らか皿状にへこむ としている。ネット上でも関東地方が多い。
・この土偶は呪具のようで、普通の豊穣を願う土偶ではないようです。藁人形や斎串のような使い方をしたのでしょうか。 |
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28妊婦土偶 縄文時代 中期
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豊穣や再生を願う。
だったら土器捨て場からは出ない。別の使用目的 |
土器捨て場から出土したのは、ちょっと・・ |
なかなか着ぶくれした子供の様な感じもする |
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・四番の写真に穿孔が内部に通じており、たぶん中空の土偶でしょう。
・何度も言っていますが、腰が広いのは、妊娠して骨盤が外れ、元に戻っていない状態。さらに妊娠すると腰がどんどん横に広がっていく。
この土偶は何度も妊娠経験ある女性をモデルにした。ということを言っています。 |
29石棒と土偶(部分) 縄文時代 中期
石棒
裏向けてあるが彫刻石棒ではないかな |
大地に突き立てて
大地の女神を孕ませて豊穣を祈る道具
広場に立てられた祭祀具 |
自然の豊穣を祈る
彫刻石棒
赤熱して壊しあの世に送った |
土偶(部分)壊さない土偶は
北方系祭祀
壊すのは 南方系
神話による祭祀 |
壊れやすいように初めからひねり出しではなく、 |
手足、胴、頭を別に作り押し付けて作る |
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45磨製石斧を作る
46磨製石斧を作る、弥生の勾玉を作る ミニチュア人形
磨製石斧を作る人形で表現 |
磨製石斧を作る蛇紋岩、透閃石、軟玉など割れ難く光沢の出る石材。砂岩の砥石で刃先を研ぐ |
楕円礫を翡翠で割る石鋸で分割する。石英砂を砥石に研ぐ |
翡翠敲石、砂岩砥石、砂岩石鋸
荒割、敲石、研磨 |
弥生の勾玉を作る人形で表現 |
舞錐(まいぎり)を
使って穿孔 |
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50玉製品の製作
51大珠を作る -縄文中期のヒスイ大珠の製作工程と加工具-
石材加工の跡11号住居跡の研ぎ工房 |
大珠を作る荒割、研ぎ出し、竹で孔を開ける |
翡翠を粘土に固定し、
竹ひごに砥石の粉を付けて揉むとやがて穿孔を穿つことができる。
砥石の粉は玉加工の際にいくらでも出るが、それを土器にでも取っておいたのでしょうか。 |
翡翠大珠の製作工程と加工具翡翠敲石、砂岩砥石
原石、荒割、敲打、研磨、 |
穿たれた穿孔 |
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53縄文早・前期の玉
早期から滑石・蛇紋岩製の玉を作った
中期には翡翠製玉も作る。リング状耳飾り、指輪、滴状や管状の首飾りなどを作り続けた。
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玦状耳飾と未成品耳飾の穿孔具(早前期)
石錐 |
穿孔具 石錐 |
牙状勾玉 |
玦状耳飾りと未成品 |
牙状勾玉は
大変珍しい
しかし、詳しいことが
わからない。
龍を表現しているみたいにみえます |
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55縄文中期の垂玉 (たれだま)と指輪状石製品
垂玉と未成品玉垂(ペンダント) |
垂玉と未成品 |
垂玉と指輪 |
指輪状石製品 |
小矢部ふるさと歴史館で
4000年前の指輪状石製品が壊れたものを展示していました。
その他、各種石製品と同じものが展示されていました。指輪なんて他の地域では出ていない。
中国の青銅製の印章などを見ないと浮かばない発想かと思います。誰か見たんでしょうか。 |
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58縄文中期の大珠・玉製品
大珠と未成品
長さ5㎝以上の玉製品
前期末から中期中・後葉にかけて
列島に大流行
引用 翡翠製大珠の加工と流通 |
大珠と未製品 滑石製 |
翡翠 未成品 |
翡翠大珠 未成品 |
翡翠製大珠
三内丸山遺跡出土 |
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持ち込まれた道具
61黒曜石と土器
黒曜石産地は未記入 |
土器土器石器の移動は人の移動。玉製品を求めて各地から人がやってきた。
甕に道中食の乾燥食料、交易の黒曜石か、狩猟具作った残りか |
中部(信濃) |
中部(信濃) |
東北南部、北陸東部、
関東 |
各地の手工芸品である、立派な土器が持ち込まれています。
これが交易品でしょうか。
黒曜石も交易品なのでしようか。 |
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盛んな交易。
ここは高価なヒスイ製品の交易のムラ。
言語はどうした? 沈黙交易をしたのか? 交易の民がいたのか? 移動中の食糧確保は?
そもそも、こんな高価なものを何と交換したのか。
製作工房の人数は?門前列をなす状況で宿泊施設はあったのか? |
・ムラやヒスイ工房を支配する権力者・特権階級がいたことでしょう。
超長期にわたって続いた遺跡ですから、権力者・支配者の権勢も蓄財もたいへんなものだったでしょう。
・縄文の権力者は翡翠大珠などの宝飾品を身につけて権力を誇る。
しかし、ここではそれを作っているのだから、それ以上の宝飾品って何でしょう。何を権力の証としたのでしょうか。
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70常設展示室2 掘り起こされた奴奈川
72玉作りの始まり 縄文早前期の玉作り
常設展示室2 |
玉作の始まり糸魚川地方は縄文時代から玉作りの里。
早~晩期は翡翠・蛇紋岩で勾玉・丸玉を作った。 |
長者ヶ原遺跡の玉
早~後期
滑石製耳飾り
早・前期 |
勾玉の始まり 晩期
翡翠の丸玉・勾玉
後・晩期 |
縄文時代早前期の玉 |
玦状耳飾りと未成品 |
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74縄文中期の玉作り 76寺地遺跡・晩期の玉作り
寺地遺跡の玉寺地遺跡は縄文中期と晩期の玉作り遺跡 |
縄文時代晩期の玉勾玉・丸玉と未成品 |
縄文中期の玉垂玉と未成品 |
大珠と未成品翡翠・滑石製 |
内磨砥石うちみがき勾玉の内側(腹部)を抉り取る砥石
下は材料のヒスイですね |
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78縄文土器の世界
土器文様は縄文人からのメッセージ
土器文様に着目して |
縄文土器の世界 |
縄文 微隆起線文
竹管文 押形文
隆起線文→細隆起線文→微隆起線文と細かく |
磨消文 隆帯文
蕨手文 刺突文 |
早期深鉢・原山遺跡 |
縄文早前期の土器片
左:縄文前期 庭平遺跡
右:縄文早期 岩野E遺跡
原山遺跡 |
人物文深鉢
縄文時代中期井の上遺跡 |
左に女、右に男の模様
右の男しか撮ってない
男女ともはだか |
性器や乳房まで描かれ、性別が明示された土器は珍しいそうだ |
人物文深鉢 |
中期 |
中期の土器
各地の特徴的な土器が出土している |
左は長者ヶ原遺跡
右は寺地遺跡 |
中央は長者ヶ原遺跡
信州南東部~山梨県に掛けての土器に似てる |
縄文土器 後期
火にかけた土器と
赤塗の土器か |
縄文土器 晩期浅鉢 |
左 細池遺跡
右 寺地遺跡 |
寺地遺跡の装飾土器 |
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82弥生・古墳の土器
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弥生古墳期も玉作りの里として翡翠、緑色凝灰岩、滑石製の勾玉管玉 |
玉とぬながわ |
が生産された。
しかし、古墳時代中期
五世紀になると玉製品が価値を失い |
忘れ去られた。
5世紀中期は世界規模の火山災害で寒冷化した |
弥生時代前期
大塚遺跡 |
弥生土器後期
後生山遺跡 |
弥生時代後期 |
古墳時代前期4世紀 |
釣瓶 砥石 |
古墳時代中期6世紀 |
土師器製土器が大量に
脚付き御膳の代わりに高坏を多用したのかな |
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83弥生・古墳の玉作り
弥生時代の玉作り管玉未成品
勾玉未成品
垂玉未成品 |
古墳時代の玉作り管玉・勾玉未成品
琴柱形石製品 |
有孔円板未成品
子持勾玉未成品
臼玉未成品 紡錘車 |
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93古代土器 奈良・平安時代の食器(須恵器・土師器)
越後国頚城郡ぬながわ郷
古代の長者ヶ原
大豪族がいたという |
越後国頚城郡
ぬながわ郷
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平安時代の大豪邸跡
莫大な価値を生産したのだから当然でしよう。
しかし、それが縄文人でなく、半島系侵略者に置き換わっていたかも知れない |
上段は焼き損じた土師器 |
須恵器 |
奈良・平安の食器
土師器・須恵器 |
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鋤先 須沢角地A遺跡 |
製塩土器 |
弥生時代に入ると盛んに製塩土器が見つかるようになる |
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大学の友人に頚城郡出身がいた。
明らかに縄文人の顔(古モンゴロイド顔)・体形(背が低くがっちり型)でした。
この付近は豊富な財力と特殊技術で弥生古墳人から守ったのかも。 |
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94中世 館と城
越後の西端にあり、
越中と信濃に接し、佐渡や能登を遠望できる |
館と城
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要害の地の糸魚川。
江戸期に入ると平地の街道に中心が移った。 |
清崎隠殿の陶磁器 |
糸魚川藩主松平直春(六代)の隠居屋敷跡です |
館と寺の生活用具
室町時代 |
土師器 銅銭 |
江戸時代の城下町の暮らし |
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下駄 箸 漆塗り埦など |
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96中世近世の土器
海運の発達12世紀になると流通が促進され、各地の産物が入ってくるようになった |
各地の土器運搬容器として使われた |
文字資料 |
硯すずり |
左上:瓦経
左下:経石
その他 墨書土器 |
海と山の回廊
海運と松本街道による大量物資の流通 |
海から上がった珠洲焼 |
左から若狭小浜の瓦
越中瀬戸焼
岩倉遺跡の陶磁器
青磁 |
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100修復室 館内の一角にある修復作業室。
101土器
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102石器 館内の隅っこに、展示から抜いてきた準備物があった。公開されるだけましですね。
企画展準備中 |
重量物石斧原材料と製作途中か |
縄文早前期の装身具玦状耳飾り
6500年前頃滑石製の装身具が作られ始まる→ |
翡翠製勾玉の製作過程
古墳時代前期 4世紀滑石加工から始まったのなら、蛇紋岩や翡翠の加工はたまたまそこにあった偶然となる。しかし、柔らかい滑石加工から技術を高めたと考えたい。 |
箱の中には大角地遺跡縄文時代と書いてある。とっちかわからんが、ヒスイの原石 |
小さな穿孔の石板台湾の玉作りとは違った製作過程です |
古墳時代前・中・後期の装身具管玉の製造は大陸文化の影響です。
台湾ではもっと以前から管玉を作っていた |
凹石堅果類を割る台や火きり杵を支える石とも
磨石敲石はすりこぎ
石錘は釣り・網漁・編み物のおもり |
ナイフ形石器-2万年前
後期旧石器時代
石槍-縄文時代
石鏃-黒曜石製5500年前 縄文時代 |
石匙-万能ナイフ
打製石斧-鋤・鍬 |
そのほかにも
未撮影のものが沢山あった。
警備員がジロッて見て通ったから |
石匙は 北海道では
つまみ付きナイフと |
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103帰路 |