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襟裳岬 望洋台 風の館 |
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目
次 |
はじめに北海道・襟裳町
01経路と外観
02入口展示
地学展示
10北海道の生い立ち
15プレートテクトニクス理論
40日高山脈の形成
50日高山脈の岩石
80マンモスの頃 |
100考古展示
101先史時代
103縄文土器
110ジオラマ
120石製品
※考察 両面調整石器
125「油駒型」尖頭器
141獣骨の出土
142土壙墓副葬品
144ろうと状土器
145装身具
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200縄文晩期~続縄文時代
201緑ケ岡式土器
300自然
400アイヌ文化以降
410先住の人々
411アイヌ風俗画
413アイヌの衣食住
420幌泉場所
431幌泉会所
440えりもと武四郎
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はじめに 北海道、襟裳町
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01経路と外観
新日高町→襟裳町
道路に海霧が押し寄せる |
日高耶馬渓 |
絵笛海岸 |
新ひだか町から続く海岸線には次第に岩礁が多くなってきた。 |
岩礁には大量の昆布が根付き、日高昆布となる漁港には多数の小形の昆布採りボートが陸揚げ |
小型船でないと採れない昆布とウニ。シーズン中ウニ丼4千~7千円。赤ウニだと天井値 |
昆布採りの番屋 |
巨大なシェルター
雪崩か岩石崩落対策 |
防風柵 |
えりも町郷土資料館 |
遠望:えりも中学校 |
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02入口展示
古いウニ・昆布採り舟。 |
港では、全て同じ規格のFRP船が並んでいました。 |
冬季やoff seasonには陸に挙げるため軽い方が |
それに全て船外機付きの動力船でした。 |
船大工さんも減ったのでしょうね。 |
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03館内図
館内案内図
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大きな施設だが、
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資料館は長楕円の中
水産の館には漁業資料(他地域でいう民俗資料)が展示
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おことわり
実は、この館はとても暗く、撮影にも、後の写真の修復にも大変苦労しました。
見えにくい点が多々あることを、最初におことわり申し上げます。 |
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地学展示
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10北海道の生い立ち
小学生の地域学習資料であるから、このような地学展示もされている。先にも言ったが、
従って、水産の館とは漁撈道具が置かれており、、民俗資料館として農耕具が置かれているのと同じである。
ここでは、歴史学習をおもに見ていきたい。 |
11
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13北海道の生い立ち
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面積8万3,516㎢、日本の国土のおよそ5分の1を占める北海道。
この広大な大地は激しい造山運動と火山活動によって作られてきました。
大地に足をつけてという言葉があるように、多少地震で揺れることはあっても、大地そのものは不動のものであると思われてきました。
しかし、大地は僅かずつですが休むことなく移動を続け、日高山脈も上昇し続けています。
それでは時間をどんどん遡ってみると、北海道はどのような姿をしていたのでしょうか。
大地が形成される過程については様々な学説がありますが、ここではプレートテクトニクス理論による北海道の生い立ちを紹介します。 |
約7,000万年前 |
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オホーツク地塊がアジア大陸と衝突し、衝突帯にできた山脈から運ばれた土砂が海底扇状地をつくりました。
アジア大陸側の海溝近くでは付加作用により日高帯が形成されていました。
一方オホーツク地塊の南側でも北海道東部と千島列島が付加体として形成されました。
(赤線は現在の地形を示す)※付加体・付加作用は海底に堆積した土砂の事。またその運動のこと。 |
約2,500万年前 |
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海底扇状地が閉じていき、それに伴って海底が隆起し始めました。
そこはやがて森林が茂り、それが埋没して石狩や釧路の炭田をつくりました。
日本海の拡大に伴って東日本と北海道西部が南下し、その後、西部と中部が重なりました。
北海道東部の北ではオホーツク海が開き始めています。 |
現在 |
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今から1,000万年前、プレートの運動に引きづられ、東部は中部と衝突し、北海道が完成しました。
太平洋プレートは千島・カムチャツカ海溝に斜めに沈み込んでいます。
このため千島列島の海溝が西へ移動しています。
その先端は北海道中部にヤリのように衝突し、日高山脈は今も隆起し続けています。 |
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15プレートテクトニクス理論
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地球は半熟のゆで卵に例えられますが、白身に当たる部分がマントルと呼ばれる流動性のある岩石で、黄身に当たる高温の核に温められ対流しています。
プレートは殻にあたり、ちょうど殻くらいの厚さで地球の表面を覆っている岩の板を指しています。
このプレートは大きく7つに分かれて、対流するマントルと伴に移動するというのが「プレートテクトニクス」の基本の考え方です。
フレートとプレートがぶつかり合う場合は、境目を盛り上げて大山脈を造る現象と、片方のプレートが下へ潜り込んでしまう現象があります。
プレートが離れて行く部分は海の中にある山脈(海嶺)の頂上にできている深い割れ目で、そこから左右に離れていきます。
※プレートテクトニクス理論の日本での提唱者は東大教授の竹内均氏でした。私が小学生の頃に盛んに語られ、その後
小松左京氏の「日本列島沈没」の映画化の中でも、半熟卵のたとえを語っています。2004年没。 |
プレートテクトニクス |
プレートテクトニクス |
プレートの動き |
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プレートの動き
現在の日本とその近くのプレートの動き。
プレートは矢印の方向に進み、海溝から地球の中に沈む。
日本海側の点線の辺りにアジアプレートと北米プレートの境界があるとの説もある。 |
ピンボケ写真
地球全体のプレートの動き
地球全体のプレートの動き
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プレートは上図のように地球内部から立ち上がって来て、また奥へ帰っていくことで一生を追えます。
そのため、プレートのできるところの岩石年齢はゼロで、そこから離れるこほど年齢が古くなってきます。
プレートの移動する速さは1年に2~4cmぐらいで、年齢が古いものでは2億年となります。 |
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40日高山脈の形成
日高山脈の形成
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日高山脈に連なる標高1500~2000mの美しい稜線は、えりも町から北へおよそ120km、狩勝峠まで続きます。
地学の分野では、南北に細長いこの山岳地域を日高変成帯と呼びます。※変成帯
日高山脈を形成する代表的な岩石は、グラニュライト・角閃岩・黒雲母片麻岩などの変成岩と花崗岩・トーナライト・斑レイ岩などの火成岩です。
変成岩は、地表近くにあった堆積岩が地下深部に持ち込まれ、高温で強い圧力を受けながら変成してできた岩石です。
火成岩である花崗岩や斑レイ岩などは、地下のマグマだまりの中でマグマがゆっくり冷えて固まった岩石です。
また、日高山脈には30km以上も地下深部の上部マントルからはるばる持ち上げられたカンラン岩が露出しています。
その代表例がアポイ岳周辺の幌満カンラン岩体で、見事な層状構造を示すカンラン岩体として世界的に有名です。
※日高山脈のカンラン岩は大変有名で、TVで何度も紹介されています。
かつて、鹿児島県開聞岳の噴火により、地底深くで作られた橄欖岩が近くの漁港に落下し、一面が色とりどりの美しい観覧岩が多く混じる砂浜となった。
そのことを全国に紹介するために、鹿児島の民間TV局が数多くの数百から千を超えるような親子連れを動員し、砂浜からカンランセキを採取させ、全て持ち去ってしまうという暴挙を行なった。ほんの数分の番組を構成するために行った愚行です。持ち去られたカンランセキはその後捨てられたり、庭に撒かれたり、なんの意味もなく、消滅してしまいました。
また、漁港海岸でもほぼ枯渇し、(私も行って探しましたが砂を掘ってもまず見つかりませんでした。)地質学的な価値を失いました。愚か者の行為です。自然を大切にするというのは、森や川や海や動植物を大切にすることだけではなく、このような地質遺産も大切にすることであり、鹿児島のテレビ局の無思慮な行為は実に最悪だったと思います。
日高山脈のカンランセキが持ち去られないように願いたいものだと思います。でも、まあ、ここでの採取はクマに食われる恐怖のなかだから、あまり、不法採掘者・盗掘者はいないかもしれないけれどね。そんな盗掘者はきっとヒグマの餌食になるのでは? |
日高山脈のおいたち
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岩石の剥片を偏光顕微鏡で観察したり、化学分析をして、岩石や鉱物をよく調べると、次のような性質が分かり、形成環境や起源を推定することができます。 |
日高山脈の岩石のルーツ
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日高山脈の全ての岩石は、地下深部でできたと考えられています。
最も深部にあったカンラン岩から地表近くで造られたホルンフェルスまで、
これらは地球表層のリソスフェア(岩石圏)にあたる上部マントルから地殻深部~地殻上部までの地下で造られています。
地下25kmの深さで温度が約800℃に達するような地域(地下増温率が約32℃/km)は、丁度現在の日本列島のような火山活動の活発な地域です。 |
日高山脈の形成 |
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日高変成帯の地質概略図
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日高山脈のおいたち
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日高山脈の岩石のルーツ
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岩石の年齢 日高山脈(4300~1400万年前、新生代古第三紀の始新世~中新世)
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変成岩や火成岩ができた年齢は、岩石や鉱物の放射年代の測定によって知ることができます。
日高山脈の岩石については、黒雲母や角閃石のK―Ar年代が測定されており、古いもので4300万年前、新しいもので1400万年前にできたとされています。
これは新生代古第三紀始新世から新生代第三紀中新世までの地質時代に当たります。 |
日高山脈の上昇
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地質時代の頃(1400万年以前)、日高山脈は海の中にありました。当時、日高は山脈ではなく、海底だったのです。
このことは、山脈周辺の地質が、海底に堆積してできる砂岩や泥岩などの堆積岩のみであることからわかります。
日高山脈の地域が上昇して陸になり、山脈をつくり始めたのは、およそ1400万年前のことです。
上昇とともに、日高山脈の岩石は削剥され、周囲の海に運び込まれて礫岩になりました。
このようにしてできた礫岩を現在日高海岸や十勝平野南部の各地で見ることができます。
えりも岬の断崖に露出する礫岩層もその一つで、上昇開始頃に削剥された花崗岩の巨礫が多数含まれています。 |
日高山脈の上昇 |
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北海道・東クリル地域のプレート運動
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襟裳岬の露頭 |
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なぜここに山脈ができたのか
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日高山脈の位置をもう少し広い視野でとらえてみましょう。
日高山脈はユーラシア大陸とオホーツク地塊のちょうど境界にあり、オホーツク地塊南縁の千島列島の南西端に位置しています。
ここで、2つの巨大な大陸プレート(ユーラシアプレートと北米プレート)が接合し、南側にある太平洋プレートが千島・カムチャツカ海溝で斜め西方に沈み込んでいます。
東西に切られた日高山脈の地質断面図では、東側の岩石が西側にのし上げた構造をしていることが分かります。
ちょうどここが、東側の地塊が西側の地塊に衝突し、山脈ができた場所なのです。
最近の「日高山脈の形成モデル」では、このように、太平洋プレートの斜め西方沈み込みによって千島列島が西進し、
西側の地塊に衝突・衝上したために山脈ができたと説明しています。 |
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なぜここに山脈ができたのか
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50日高山脈の岩石
カンラン岩
オリーブ色橄欖岩。少量の斜方輝石(茶)単斜輝石(緑)尖晶石(スピネル:黒)含。上部マントル代表的岩石 |
角閃岩
各戦跡(緑)斜長石(白-透明)からなる変成岩。玄武岩が地下深部(約600℃、4~7Kb)で変成。 |
グラニュライト
斜方輝石(こげ茶)黒雲母・無色斜長石からなり石英・カリ長石を含む。ピンクの柘榴石(ガーネット)と青緑の〇青石を特徴的に含。高温高圧地下深部(約800℃、7kb)の変成岩 |
黒雲母片麻岩
黒雲母(黒)石英・斜長石(白~無色透明)の変成岩
。砂岩・泥岩が地下深部で変成した。 |
緑色片岩 |
花崗岩
黒-黒雲母、白-斜長石とカリ長石。無色-石英。地下浅所のマグマだまりでできた。 |
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グラニュライト |
グラニュライト
ザクロ石・角閃石 |
E グラニュライト
輝石・片麻岩 |
黒色粘板岩 |
カンラン石斑レイ岩
橄欖石と斜長石。含少量の単車輝石・斜方輝石・角閃石。玄武岩質マグマが地下深部のマグマ溜りでゆっくり冷却め固結 |
閃緑岩 |
トーナライト
黒・白雲母、透明斜長石・石英。菫青石・斜方石・柘榴石を含。グラニュライトや片麻岩が地殻下部で溶融しゆっくり冷却固結 |
Jホルンフェルス |
グラニュライト
(ザクロ石・角閃岩)
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貝化石
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貝化石
襟裳岬浜の転石 |
貝化石
襟裳岬浜の転石 |
砂岩
粒度の違う砂粒子が層を成している |
襟裳岬の礫岩
堆積岩の砂岩・泥岩、火成岩の花崗岩が混入 |
旧猿留鉱山の鉱石 |
変成岩
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花崗岩 |
石灰岩 |
鍾乳石(朝鮮半島産)
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石炭
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貝化石
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岩石剥片の顕微鏡写真
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80マンモスの頃 4万5,000年前~2万年前頃
※マンモスゾウ
マンモスは哺乳綱長鼻目ゾウ科マンモス属 に属する種の総称である。現生のゾウの直接の祖先ではない。
約400万年前から1万年前頃までの期間に生息していた。巨大な牙が特徴で、種類によっては牙の長さが5.2メートルに達することもある。 |
81
マンモスの頃 |
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右下顎 第三大臼歯 |
同一反復 |
右上顎 第二大臼歯 |
同一反復 |
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83マンモスの頃
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100考古展示
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101先史時代
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旧石器時代にえりもに人々が暮らしていた最も古い記録は、1万年以上前のものと思われる、
旧石器(スクレイパー、スモールブレッド、マイクログレーバーなど)が、えりも岬から百人浜にかけての段丘上で発見されています。
※旧石器はスクレイパー(削器・掻器)。スモールブレッド?、マイクログレーバー?は彫器、尖頭器、石斧のどれのことでしょうか?
縄文時代の前期末から中期(約5~6千年前)にかけては、「縄文海進」という、海面が現在よりも3~4mも高く、内陸に海が入り込んでいた時代です。
この時期は、氷河期とは逆に気候が暖かかったと考えられます。
展示されている模型は、この当時の人々の暮らしを再現したものです。
えりもの海や河川に面した段丘の上には、何軒かの竪穴住居が集まって集落が作られ、豊かな海や山の幸を食料に、自然と一体になって暮らしていたと考えられています。(※当時は森林に覆われた豊かな土地でした。切り払われ砂漠化したのは明治以降の開拓期です。) |
先史時代 |
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先史時代 |
縄文土器
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先史時代遺跡 |
えりも町埋蔵文化財
包含地図
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包含地名
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包含地名
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長~い海岸線に沢山の遺跡が発見されています。
旧石器~アイヌ文化期まで、連綿として人々の暮らしが続いていたようです。 |
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102
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先史時代の時代区分
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旧・中石器(先土器)
2万~1万年前
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縄文時代(早~晩期)
1万~2000年前
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続縄文~アイヌ文化
2000~100年前 |
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内耳土器・館・チャシ(アイヌ文化)について
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アイヌ文化期は擦文時代以降とされる。従って内耳土器・館・チャシは、アイヌ文化期の出来事である。
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縄文時代 |
103縄文土器
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104この項目の写真は判読不能
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110ジオラマ 縄文前期から中期の遺跡復元
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方形住居・土器製作 |
丸木舟・干物作り |
海浜採集・川漁・ |
鹿猟 |
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方形住居・土器作り |
干物づくり |
鹿猟・川魚漁 |
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山菜採集 |
出漁 |
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サケ漁
海浜採集・沿岸漁 |
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120石製品 |
121
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石皿
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砥石
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石斧
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石のみ(大・小) |
矢柄研磨器 |
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敲石 |
石鏃(有茎) |
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ストーンリタッチャー
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石鏃(五角形・木葉形) |
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片麻岩製 石鋸
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ナイフ※
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※
石鏃・石槍でなくてナイフ
石匙のことか。
何かの用途にこの形状が有効だったらしい。
否いや、北海道に結構多い尖頭器型ナイフ?使用法は?→ |
→柄を付けて大型動物の解体に使ったのかもしれない。
丁度クジラを解体するなぎなたのような包丁のように。 |
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122
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石鏃(有茎) |
石鏃(無茎) |
石鏃(ノッチつき) |
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石鏃
(五角形、木葉形)
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ナイフ
つまみ付きナイフ |
石銛・石槍 |
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石鋸・ナイフ |
コーケンブ・スクレイパー |
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123
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124
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※考察 両面調整石器
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両面体調整石器は、
自らは管理石器でありながら、同時に不定形剥片石核として便宜石器生産用の素材剥片を供与し、さらに最終的には狩猟具になるという特有の性格を有している。
不定形剥片石核と共に可動性に優れた石器のため、縦長剥片剥離技術の衰退と二極構造の崩壊を導くことになった。
東京大学「
」
解釈: 両面調整石器は、自身が石器でありながら、剥片石器をとるための石核となり、最終的に石核石器として、狩猟具となる。この理利便性のために、
縦長剥片石器=石刃鏃技術が衰退する原因となった。
石刃鏃技術:石刃鏃文化は、非常に高度な石刃技法によって得られた石刃の腹面に、簡単な剝離加工を施した鏃=「石刃鏃」によって代表される特異な文化の総称である。
石刃鏃文化の石器群は、黒曜石の石核から縦長形状の細く薄い石刃を連続的に多数剝ぎ取り、これを素材としたものが主体を占める。
引用「石刃鏃文化とは」
石刃鏃文化は広く東シベリア一帯に広がっており、北海道へは縄文時代早期の約7千から8千年前頃に遺跡が広がった。が、同時期にこれとは別のごく普通の縄文早期の石器文化の遺跡も拡がっていた。つまり石刃鏃文化は衰退したのである。
解釈:良質で大きな黒曜石の原石から、長大な縦長剥片を何枚も、連続的に、同じ形状のものを、剥ぎ取る技術である。
細石刃技法とは異なり、長さ30cmもの剥片が剥ぎ取られたものもある。
この剥片を切断して石刃族やナイフその他の刃部を必要とする石器に使用する。 |
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125「油駒型」尖頭器 (あぶらこまがたせんとうき)
油駒遺跡は、ひとつの遺跡としては、北海道内で最も多く見つかっている遺跡です。
※油駒遺跡は 北海道幌泉郡えりも町字東洋1
縄文中期の集落、晩期末葉の墳墓・小型円形土壙群、晩期末葉の突瘤文土器、続縄文初頭の砂沢式類似土器および「油駒型」尖頭器の出土。
とあり、以下の尖頭器は続縄文初頭に比定される。前出の復元住居が油駒かは不明。前出石器の遺跡名不明。
以下の142以降の展示物も遺跡名・時代不明。ただし、125は油駒遺跡の続縄文初頭。
「油駒型」尖頭器 |
えりも町油駒遺跡出土
土壙群
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油駒型尖頭器
これらは石刃族ではありません。
普通の剥片石器です。 |
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140 |
141獣骨の出土
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142土壙墓GP-5出土
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143土壙墓GP-2副葬品
土壙墓GP-2副葬品 |
石鏃 |
石刃鏃でしょう
あまりにも同じ形だ |
土器・掻器 |
土器 |
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144ろうと状土器(用途不明土器) (ひとつの遺跡としては北海道内で、最も多く見つかった)
ろうと状土器
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145装身具
土壙墓出土ミニチュア土器
土器片加工の円板状土製品
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カンラン岩製の有孔石
緑色泥岩の勾玉状 |
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146装身具
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土製飾り玉
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蛇紋岩製平玉
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琥珀製
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凝灰岩製
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琥珀原石 |
土製飾り玉
勾玉状 |
緑色泥岩の勾玉状 |
カンラン岩製の有孔石 |
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縄文晩期~続縄文時代
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200 |
201緑ケ岡式土器 縄文晩期~続縄文初頭(3000~2000年前)えりも町油駒遺跡出土
緑ヶ丘式土器 |
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2004年静内町から返却された歌別出土石器
(台石・石皿)20年以上前に掘り出され、漬物石にされていた |
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続縄文時代
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東歌別遺跡 続縄文時代 紀元前5~3世紀頃から紀元後7~8世紀頃 約2千数百年前~7百年前
東歌別遺跡(襟裳町歌部)や大狩部遺跡(新冠町大狩部)は続縄文時代の遺跡で、稲作は栽培されなかったが鉄器が伝わった。 |
続縄文時代
恵山式土器
東歌別遺跡
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恵山式土器は、東北地方北部の弥生式土器である田舎館式,二枚橋式土器などに近い土器
続縄文文化は、前期(弥生時代並行期)と後期(古墳時代並行期)に分かれ、
前期は道南地方を中心に恵山式土器を伴う。
台付土器や甕形,壺形,鉢形など東北地方の弥生文化と共通する土器の組成をもちながら,豊富な石器,骨角器を伴い,狩猟に加えて沿岸漁労にも深くかかわっていたとみなされる文化である。
後期は道央・道東・道北で地域色あるも、前北式から後北式にかけての土器を伴う。引用コトバンク |
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203
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300自然
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400アイヌ文化以降 |
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410先住の人々 |
411アイヌ風俗画 蝦夷一覧
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弓矢・矢筒・口琴など |
メカジキ漁 |
クマ送り |
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アイヌ風俗画
蝦夷一覧 |
アイヌの老人 |
クマ送り |
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家長 |
女児を背負う |
アイヌの家屋内 |
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413アイヌの衣食住
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420幌泉場所(場所は松前藩時代の名称)
幌泉場所 |
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正徳丸の旗
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正徳丸は幌泉場所経営者の船 |
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北前船(千石船)
江戸期五百石以上禁止。行って五百石戻って五百石。都合千石船と呼称 |
瓦絵 |
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伝馬船 |
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430 |
431幌泉会所(会所の名は幕府直轄時代以降)
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433幌泉会所
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蝦夷地における交易の最初は船泊りの良い場所に仮小屋を建てるか、アイヌ民族の家屋を借りて始まりました。
商人が場所を請け負うようになると、支配人とその補佐の帳役、番人、通詞などを派遣、滞在させて場所の運営をさせました。
この出張所のような役割をしたのが運上屋と呼ばれました。
やがて幕府直轄の時代になると、運上屋の施設は買い上げられ、名称も会所と改められ、幕府の役人が管理するようになりました。幕府直轄には北方警備が含まれており、南部、津軽の二藩が受け持たされ、択捉、国後まで派兵しました。えりも町は、南部藩の警備範囲に入り、本町ナンブケは陣屋のあった所と伝えられています。
また、幕府は陸路の警備を進め、川には橋または渡舟が用意され、要所要所に通行屋(旅宿所)が設置されました。ここでは人馬の引き継ぎが行われ、当地に馬が配備された最初となります。
また、場所請負制度も廃止され直捌(じかさばき)と言う幕府が直接場所を運営する制度が取り入れられます。しかし、この制度は長くは続かず、場所は入札により再び商人などが受けようになりました。その後、松前藩の複領や再直轄がありましたが、会社は場所請負とともに明治時代まで続きました。 |
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会所の規模 -模型解説-
模型は寛政年間(1789年~1800年)の幌泉会所の絵図を基に復元したもので、右の保呂泉場所大概書、文化6年(1809年)に出ている施設状況と合わせて見て下さい。この他に、油駒の昆布取小屋や番屋、猿留通行屋などが会所の付属施設として挙げられています。
なお、この大概書には役員の人数が書かれていませんが、寛政12年(1800年)の詰合役人は支配勘定佐藤茂兵衛であることが測量で幌泉に来た伊能忠敬の記録にあります。 |
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435
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440えりもと武四郎
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蝦夷地の場所請負制度が成立して、西回り海路の発達により、大阪市場へ産物が流入し始めると、それまで関心の少なかった蝦夷地が幕府関係者の注目するところとなりました。
1700年代の後半には、赤蝦夷、いわゆるロシアの蝦夷地進出も伝わり、それまで蝦夷地内部のことを世間に知らせない政策をとっていた松前藩に対して、幕府は実情調査に乗り出すことになりました。
最上徳内や近藤重蔵などに代表される調査隊の報告により、やがて幕府が直接蝦夷地を支配するようになっていきます。また、伊能忠敬や間宮林蔵の測量による正確な北海道地図も作られます。
そしてそれまでの探検家のやり残した仕事を仕上げるかのごとく登場したのが松浦武四郎で、幕末時代における蝦夷地についての第一人者となり、数多くの貴重な資料を今日に残しています。 |
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松浦武四郎
文化元年(1818年)~明治21年(1888年)
伊勢国(三重県)の郷士の子として生まれる。15歳の時から日本全国の旅を続け、28歳
から41歳までの間には、6回にわたり蝦夷地を踏査。蝦夷地の河川や地名などを詳しく調べ「東西蝦夷山川地理取調図」26枚を完成。その他数多くの紀行文などの著書がある。明治元年には開拓師判官になり、北海道の地名の名付け親としても知られる。 |
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武四郎のみたえりも
蝦夷日誌解説。
右はおよそ150年の弘化2年(1845年)松浦武四郎が初めて蝦夷地にわたり、踏査した模様を書いた「蝦夷日誌」からえりも町の部分を抜け出したものです。ここでは現在ほとんど使われなくなったアイヌ語地名や、沿岸至るところに樹木が多く見られたことがわかります。また、
安政4年(1857年)から翌年かけて踏査した記録「東蝦夷日誌」にも幌泉場所のことが詳しく載っており、次のような興味を引く記述が残されています。
●襟裳岬の昆布は「エリモ様の御鬚」と言って、アイヌの人々は採らない。
●山の霊があって、誰も登らなかった豊似岳の頂上に立つ。
●蝦夷地で最初の養蚕が安政5年に幌泉で試みられ成功しているが、昆布や漁業を主とする請負人の利益にはならないため、産業として発展させられない。 |
襟裳と武四郎 |
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松浦武四郎 |
武四郎のみたえりも |
蝦夷日誌より一部抜粋
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船磁石、羅針盤 |
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