2019.04.18-2飛鳥資料館
飛鳥の考古学01 04 2019.04.08-2
奈良文化財研究所飛鳥資料館 奈良県高市郡明日香村奥山601 0744-54-3561月休撮影可
交通 |
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近鉄橿原神宮前駅より3.9km
・徒歩50分
・レンタサイクル20分
・明日香村循環バス「カメバス」12分 一日券650円(橿原神宮前駅東口で販売) |
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見所 |
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明日香村の歴史の集大成 |
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「猿石」ですが、諸星大二郎の「天邪鬼」にそっくりなのです。 |
おことわり
この館では、文書表現が大変多く、また、長く、全てを文字化したいのは山々ですが、現在のわたしの健康状態では無理があり、
必要な部分のみ文字化させていただきます。
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目次
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01飛鳥資料館 外観
02外苑
02配置図
03亀石
04猿石と人頭石
05猿石の背面の像
06須弥山石
07酒船石
08導水施設
09飛鳥資料館
10入口展示
12古代飛鳥の立体模型
15古代飛鳥地図
16古代飛鳥の模型
17地図
18古代天皇とその宮都の変遷
100第1展示室
101入口展示
103飛鳥時代
106豪族の時代から律令制の時代へ
112宮都の移り変わり
113小墾田宮
114伝板蓋宮跡地区の諸宮
115飛鳥浄御原宮
116そのほかの宮
117川原宮の唐居敷
118律令国家への歩み
120仏教伝来と蘇我氏
122飛鳥寺の塔の埋納物 |
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130飛鳥時代の武人
133甘樫丘東麓遺跡出土土
140飛鳥の蘇我氏
142蘇我氏の飛鳥
143蘇我氏の時代
150水落遺跡
152漏刻
153水落ち遺跡
154水落ち遺跡と石神遺跡
160律令国家への歩み
162日韓の技術交流
171百済のガラス工房
172ガラスからみた日韓の技術交流
173造仏所作物帳にみるガラスの材料
180飛鳥池工房跡
181ガラス製作技術
185漆の道具
187鉄製品
193発見された遺構
200富本銭
202金と銀
204木と炭
206鋳型
207銅
208鉄
209施釉陶器
220飛鳥池発掘調査
222奈良文化財研究所 |
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230高松塚古墳壁画
230bキトラ古墳壁画
231高松塚古墳
星宿
四神
壁画の人物
232高松塚古墳出土品
棺と飾り金具
233海獣葡萄鏡
大刀の飾り金具
235キトラ古墳と高松塚古墳との関係
236キトラ古墳
237キトラ古墳墓道埋土の断面
238キトラ古墳壁画
天文図
240終末期古墳
牽牛子塚古墳
マルコ山古墳
石のカラト古墳
250古墳から火葬墓へ
天武・持統天皇陵
253飛鳥の寺院 華やぐ飛鳥の仏教
玉虫厨子
254飛鳥寺の瓦
元興寺の瓦
2557世紀中頃以降の瓦
260川原寺 |
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飛鳥仏教の隆盛
266坂田寺 渡来人の氏寺
267大官大寺
270坂田寺
273石造浮彫如来及両脇侍像
280飛鳥以前
290二面石
300第2展示室 山田寺
301山田寺東回廊の礎石
302山田寺の歴史
303山田寺跡出土品
304復元された連子窓
305山田寺の建築
306発掘された山田寺の伽藍
312山田寺の瓦
320出土材の保存
地下展示室
400高松塚古墳
401石室拓本
405石室解体
420キトラ古墳石室内模型
440壁画の修理
450ローソン飛鳥店
山田道南側溝
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00飛鳥水落遺跡 |
01外観
工事中ですが将来は
ここで入園料・入館料を |
徴取するようです。
現在外苑は無料です。 |
何もかも有料。工事費に見合うには1000円程取らないと釣り合わない |
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02外苑 |
02配置図
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奥山久米寺講堂
石人像
須弥山石
酒舟石 |
猿石
須弥山石 |
〇輪寺塔心礎
釣マキト5号墳
人頭石・猿石・亀石
山田寺塔心礎 |
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03亀石
長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.8mの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られている。
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04猿石と人頭石 7世紀
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飛鳥には見慣れぬ形の石造物が数か所にある。
ここに展示したのは、そのうちいま猿石と呼ばれているもの5体と新たに発見された人頭石1体の模造である。
猿石のうち4体は吉備姫王墓の墓域内にあり、1体は高取城跡にある。これらはもと欽明天皇陵の堤に並べられていたというが、
その後うずもれていて江戸時代に欽明天皇陵南の田から掘り出された。その後現在地に移されたものである。
吉備姫王墓の3体は表裏に顔があり、高取の猿石も裏に顔があったらしい。
百済にも、これらに似た石造物があり、それとの関連から魔除けとして御陵に置かれたと考える人がいる。
人頭石は高取町内で見つかったもので、頂上に凹みを掘って手水鉢に転用されていた。
伝来は明らかではないが、どこか伎楽面を思わせる風貌に特色直がある。 |
猿石
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欽明天皇陵の周堤にあったものが江戸時代に再発見され、吉備姫王墓に3体と高取城に1体を移設した。
百済にも同様の石像があることから、渡来人をかたどった石像であり、従って、女・男・僧・「山王権現」などがあるとされる。引用人文研究見聞録 |
人頭石
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顔石とも言う。高取町光永寺境内にある人の顔が彫られた石像で、現在は手水石に転用されている。猿石と同時に掘り出されたとみられている。 |
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05猿石の背面の像
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06須弥山石
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最初の須弥山石は推古天皇の時代、百済からやって来た技術者の手で造られたと日本書紀に記録されています。
館内に置かれている須弥山石は、明日香村石神から明治時代に掘り出されたもので、斉明天皇の離宮で使われたものです。
仏教世界の中心にある高山を象ったと言われているこの石は、隠れた導管によって外部から水を取り入れ、これを四方に噴き出す噴水になっています。精巧に穿たれた導管の途中にはバルブのしくみまで付いていて噴水の勢いを調節することもできたようです。 |
宴(うたげ)の跡
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657(斉明3)、飛鳥寺の北、石神の饗宴会場には、かがり火照らし出された濠の深い須弥山の前で、異国の脚人たちが酩酊し、
杯を重ねる姿があった。翌々年にも飛鳥川のほとりに須弥山がたてられ、遠来の東北や、北陸の人々が飛鳥のシンボルを仰ぎ見ている。
須弥山の記録は、612年(推古20)、百済の人、路子工が飛鳥の小墾田宮で、石橋と須弥山のある庭園を造るのに始まる。
人造の山岳は大陸から伝わった饗宴のデコレーションであった。
西域風のエキゾチックな石用をまとった石人像も、須弥山石と共に噴水施設である。
飛鳥寺の南にあった飛鳥板蓋宮の東の丘と西の飛鳥川のほとりに、後に酒船石と呼ばれた導水施設があった。途中には、後に車石と名付けられた
一条の溝を彫った石も見つかっている。流れる見我を鑑賞しながら客人をもてなす曲水の宴の古い姿であろう。 |
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07酒船石
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真神原(まかみがはら)の東の丘の上にあって広く知られている「岡の酒船石」とは別に、京都の庭園に運ばれてほとんど人の目に触れることのないもう一組の酒船石があります。大正時代に発見された「出水の酒船石」です。二つの酒船石は庭園の水遊びの装置だったと思われます。
岡の酒船石の周りでは、丘陵を取り巻く立派な石垣が発掘され、この場所が、斉明天皇の両槻宮にあたるのではないかと考えられるようになりました。 |
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08導水施設
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09飛鳥資料館
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10入口展示 |
11
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山田寺東面回廊
部材出土状況 |
須恵器土器類
何れも手拭い |
玄関ロビー |
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石人像
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石人像は庭園で噴水として使われていた花崗岩の石造物。須弥山石が出土した石神遺跡から明治36(1903)に発掘された。
石神遺跡は斉明天皇(655-661)に外国の使節などをもてなした場所と考えられる。
岩に腰かけた男性像に女性像が手を添えている。内部に孔が貫通しており、男の口の杯と、女の口から水が噴き出す。外国人を思わせる姿をしている。 |
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12古代飛鳥の立体模型
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飛鳥の今昔 |
明日香村畑から古代飛鳥の中心部を眺める |
模型の範囲 |
古代飛鳥の立体模型 |
古代瓦
甘樫丘
富本銭 |
伝板蓋宮跡の大井戸 |
飛鳥池工房の井戸でもここでも、井戸の水が流れ込むようになっています。普通、汚水を嫌って高くしますが、半島では、これで平気なのですか。
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高松塚古墳壁画
二上山と石舞台 |
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15古代飛鳥地図 |
16古代飛鳥の模型
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古代飛鳥の中枢部(南北1650m東西900m)を1/500で再現。
中央南より天武天皇の飛鳥浄御原が位置し、その背景に飛鳥寺の瓦葺・丹塗りの堂塔がそびえる。
槻木の石敷き広場の北側には、水落遺跡の時計台と石神遺跡の迎賓館が建つ。
北側には藤原京の南京極となり、西端には川原寺・橘寺が並ぶ。 |
飛鳥とは
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飛鳥は、今から1300年前、ほぼ1世紀半に渡って都が置かれたところです。
その頃、部共や新しい学問、技術が大陸から伝えられ、仏教芸術や日本文学の萌芽が花開き、政治文化の中心地でした。 |
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17地図
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18古代天皇とその宮都の変遷
- 推古天皇→豊浦宮(とゆらのみや)、小墾田宮(おはりだのみや)(小治田宮ともかく)
- 舒明天皇→飛鳥岡本宮
- 皇極天皇→飛鳥板蓋宮、飛鳥河辺行宮
- 斉明天皇→後飛鳥岡本宮、両槻宮
- 天武天皇→飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)
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20
小墾田宮 (おはりだ)
推古天皇
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安倍山田道
石神遺跡
須弥山石
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後に山田寺が建つ |
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21
甘樫丘
飛鳥京苑池・槻木の広場
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飛鳥寺
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飛鳥池工房遺跡 |
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22
飛鳥京苑池 |
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23
川原寺 |
飛鳥浄御原宮
(飛鳥板葺宮) |
浄御原宮役所群 |
飛鳥寺 |
酒船石遺跡と酒船石 |
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24
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100第1展示室 |
101入口展示
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和田廃寺鴟尾出土状況 |
和田廃寺鴟尾 |
鴟尾 |
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鴟尾
7世紀後半 和田廃寺
玉虫厨子の鴟尾や山田廃寺の鴟尾によく似ている。
羽根を表した文様や全体の形から7世紀後半と考えられる。 |
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103飛鳥時代 |
104
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105
飛鳥とは |
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飛鳥の由来
平らな砂地を指す古代語に漢字をあてて表現した。湿地で野鳥が多く飛鳥をあてたともされる。 |
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飛鳥の範囲
大字「飛鳥」・「岡」・「川原」の東西1.6km南北0.8kmの範囲。
現在:明日香村を中心に
橿原市・桜井市・高取町などの一部を含めた地域 |
飛鳥時代
史学(592-710)
美術史(538-672)
当館(588-710) |
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106豪族の時代から律令制の時代へ
豪族の時代 -蘇我氏の飛鳥-
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4・5世紀以来、中央の政治は、大王(天皇)家とともに河内・大和の大豪族が動かしてきた。中でも、6世紀中頃から力を強めた蘇我氏は、587年に物部氏を滅ぼして実権を握り、自らの本拠地にある飛鳥を政治・文化の中心としていった。 飛鳥時代の始まりである。 |
隋・唐インパクト
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飛鳥に天皇の宮が置かれる6世紀末から7世紀、中国の強大な隋・唐帝国が朝鮮半島に力を及ぼしていった。
遣隋使ゃ遣唐使などが伝える海外の情勢、唐・新羅との交戦と白村江での惨敗は、大豪族支配の体制をやめ、中国の制度を取り入れた新しい強固な国家をつくろうとする動きを生み、加速した。
この中で、飛鳥は、645(大化元)からの大化の改新、672(天武元)の壬申の乱など、重大な出来事の舞台となった。 |
律令制の時代 -飛鳥から藤原京へ-
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新たに目指されたのは、基本法典である、律令(刑法と行政法)に基づき、中央政府が地方においた役所を通じて全国の民衆を支配する律令制。
かたちの上では天武・持統漁天皇の時にほぼ完成する。694(持統8)には、日本最初の中国式都城である藤原京へ遷都され、飛鳥時代も終わりを迎える。 |
激動の飛鳥時代 |
豪族の時代
-蘇我氏の飛鳥- |
豪族の時代の
支配の仕組み |
隋・唐インパクト |
律令制の時代
-飛鳥から藤原京へ- |
律令国家の組織 |
豪族の盛衰
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400~701年まで
和邇・葛城・平群・巨勢・大伴・物部・蘇我・中富・安倍・秦・西文・東漢・船・津・白猪・鞍作・百済王 |
大和・河内における豪族の分布
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大伴・物部・平群・和邇
物部
船津
白猪 葛城・ 大伴
西文 蘇我・安倍
巨勢 東漢 |
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107
でき事、人々、遺跡
飛鳥時代年表 |
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531~710 |
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112宮都の移り変わり
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飛鳥地方に次々と「宮」が造られるようになったのは、推古天皇の豊浦宮 (とゆらのみや)から。
雷丘東方遺跡(小墾田宮) (いかづちのおかとうほういせき、おはりだのみや) と、伝飛鳥板蓋宮跡地区を中心に宮の整備が進んだ。
宮は、初め天皇の住まいであり、政治の場を兼ねていた。国家の仕組みが整うにつれて、中国の制度にならい、多くの役所や苑池などが宮の内外に作られるようになる。 |
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113小墾田宮 AC603~628
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推古天皇が二十数年間を過ごした宮。遣隋使の小野妹子の帰国に同行してきた隋使、、裴世清(ハイセイセイ)は、ここで隋の国書を捧げた。
豊浦(とゆら)の集落の北、古宮付近と推定されていたが、雷丘の東で発掘された平安時代初頭の井戸から「小冶田宮」と墨書された土器が多数出土、
雷丘東方遺跡が宮跡と考えられるようになった。 |
小墾田宮
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小墾田宮 |
雷丘東方遺跡の調査
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皇極天皇・淳仁天皇の滞在記録も有り、平安時代初頭まで宮の機能を維持していたようだ。 |
小冶田宮 墨書土器
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114伝板蓋宮跡地区の諸宮 AC603~694
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明日香村岡にある伝板蓋宮跡と呼ばれる遺跡の発掘が進んだ結果ここに新旧いくつもの宮跡が重なっていることがわかった。
そのうち、最古のⅠ期の物が舒明天皇の飛鳥岡本宮、Ⅱ期が645(皇極天皇4)蘇我入鹿暗殺の舞台となった皇極天皇の飛鳥板蓋宮、
Ⅲ-A期が斉明、天智天皇の後飛鳥岡本宮、Ⅲ-B期が天武、持統天皇の飛鳥浄御原宮とする考えが提示されている。
火災からの復興寺や難波宮、大津宮への遷都期などを除けば、ここに宮が継続的に営まれたことがわかる。 |
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伝板蓋宮跡地区の諸宮 |
伝板蓋地区の宮の変遷
飛鳥宮Ⅰ期・Ⅱ期 (岡本宮・板蓋宮)
飛鳥宮Ⅲ-A期 (後飛鳥岡本宮)
飛鳥宮Ⅲ-B期 (飛鳥浄御原宮) |
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談山神社「多武峯縁起」にみる入鹿暗殺 |
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115飛鳥浄御原宮
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伝飛鳥浄御原宮跡地区の諸宮のうち、最上層にある。壬申の乱 (672)に勝利した天武天皇が即位し、持統天皇が飛鳥浄御原宮令を完成させた宮である。
律令国家の基礎が固まったこの時代にふさわしく、大極殿・大安殿・朝堂をそなえていた。内郭中の大型建物や東南郭などがそれにあたるらしい。
また、宮の西となり出発掘された大規模な苑池、飛鳥京苑池は白錦後苑と推定されている。 |
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飛鳥浄御原宮 |
飛鳥浄御原宮模型 |
東南郭中心建物半分の
全景 |
東南郭中心建物半分の
全景 |
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116そのほかの宮
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飛鳥地域では、
推古天皇の豊浦宮 (とゆらのみや、豊浦寺下層遺跡)
斉明天皇の飛鳥川原宮 (かわらのみや、川原寺下層遺跡)
の他、
飛鳥河辺行宮 (かわべのかりみや、稲淵宮殿跡 いなぶち)
嶋宮 (しまのみや、島庄遺跡、東橘遺跡)
と推定される宮跡が発掘調査で明らかにされている。
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そのほかの宮 |
そのほかの宮 |
豊浦寺下層遺跡
川原寺石組暗渠 |
飛鳥稲淵宮殿跡 |
下駄 |
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117川原宮の唐居敷
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唐居敷は扉の回転軸を受ける石である。丸いくぼみに扉の軸を差し込んで扉を開け閉めする。 |
川原宮の唐居敷
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川原宮の唐居敷
扉の回転軸を受ける石 |
川原宮の唐居敷
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川原宮の唐居敷 |
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118律令国家への歩み 天皇中心の国づくり
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645年の乙巳の変、それに続く大化の改新を経て、天皇を中心とした国づくりが進められる。
斉明天皇から天武天皇の時代、天皇の権力強化を背景に、暦・時刻制度の導入、官僚制の形成、戸籍の作成などが行われ、中央集権的な国家体制が造られた。 |
須弥山石
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須弥山石は石神遺跡から明治35(1902)に掘り出されました。全体の形や山形の浮き彫りがあることから須弥山石と呼ばれる。
須弥山とは仏教世界の中心にそびえる聖なる山 (スメール山)のこと。
この石造物は庭園におかれた噴水施設とみられる。斉明朝(655~661)に蝦夷や南方の吐火羅国の人をもてなした時、甘樫丘東方の川原や飛鳥寺西方に造ったという須弥山だろうか。出土地周辺からは石人像が出土し、溝や石敷きも見つかっている。
須弥山石の三つの石はいずれも内側を刳り抜いてある。底から水を引き上げて、下段の石と直接繋がらず、間にもう1石あったらしい。また、下段の石の底面の構造から、別の石の上に乗っていたことがわかる。 |
律令国家への歩み 天皇中心の国づくり
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律令国家への歩み 天皇中心の国づくり
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須弥山石 |
須弥山石 |
須弥山石 |
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120仏教伝来と蘇我氏
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6世紀中頃、仏教が百済から日本に公式に伝わった。仏教は当時の有力豪族、蘇我氏による積極的な支持を受け、次第に王族や豪族の間に広まる。
588年、蘇我馬子は、わが国最初の本格的寺院、飛鳥寺の造営を始めた。 |
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121仏教伝来
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仏教伝来と蘇我氏 |
飛鳥寺の唐の埋納物
下に記述 |
埋納時の出土状況復元 |
塔心楚の発掘調査状況 |
挂甲 |
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122飛鳥寺の唐の埋納物 6世紀
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伏すカ寺の塔の地下におかれた心楚には、舎利をはじめ多くの品々が納められた。これらは、古墳時代後期の古墳の副葬品との共通点が指摘されている。
また、2009年に発掘調査された百済王の勅願寺である王興寺の塔心楚の埋納品ともよく似ており、百済からの影響もうかがえる。 |
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飛鳥寺の塔は建久7年(1196)に焼失した。舎利は、翌年一旦掘り出され、この舎利容器と木箱に納めて、心楚の上方約2mの所に埋め直された。
木箱側面には墨書が残る。建久7年に塔が焼けたことと、6名の僧侶の名などが記されている。 |
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130飛鳥時代の武人 |
131
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132飛鳥時代の武人
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飛鳥寺の塔心楚埋納品の挂甲をもとに、よろいの胴体と肩を復元した。他の甲冑は古墳出土品をもとにした。
大刀は正倉院の黒作大刀、弓は当時一般的だった丸木弓で、藤原京出土の破片に基づいている。胡録のモデルは正倉院の漆葛胡録第3号(付属の矢に「下毛野奈須評しもつけのなすのこおり」とあり、大宝律令以前の貢進とみられる)。なお胡録の矢は背中越しではなく、右の引き手で先端を抜いて前方へ引き出す。 |
挂甲 6世紀
飛鳥寺 |
挂甲 |
挂甲 |
飛鳥時代の武人 |
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蛇行状鉄器 |
蛇行状鉄器の使用法 |
刀子・馬鈴 |
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133甘樫丘東麓遺跡出土土器 7世紀
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140飛鳥の蘇我氏 |
141
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142蘇我氏の飛鳥
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飛鳥地域とその周辺には、多くの蘇我氏に関わる遺跡を見ることができる。
代表的なものとして、飛鳥寺、豊浦寺、山田寺などの寺院、馬子の墓とされる石舞台古墳、200基ほどの古墳が展開し蘇我氏の墓域とする考えもある細川谷古墳群などがあげられよう。
また、近年では、古宮遺跡(ふるみや)、島庄遺跡(しまのしょう)、甘樫丘東麓遺跡などの発掘調査が進み、『日本書紀』にみえる稲目の
「小墾田の家」、「向原の家むくはら」、「軽の曲殿かるのまがりどの」、馬子の「石川の宅」、「槻曲の家つきくま」、「嶋」の邸宅、蝦夷・入鹿の「豊浦とゆら」の邸宅、
「畝傍の家」、「甘檮岡の家」など、蘇我氏の邸宅との関連が注目される。
このほか、檜隈寺周辺は、蘇我氏と関わりの深い渡来系氏族、東漢氏の本拠地の遺跡と推定されている。
これらをみると、飛鳥地域内のほか、飛鳥と外を結ぶ交通の要所に関連遺跡が位置し、飛鳥が蘇我氏の本拠地であったことを実感できる。 |
蘇我氏の飛鳥
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蘇我氏の飛鳥 |
甘樫丘東麓遺跡
焼土層出土遺物 |
甘樫丘東麓遺跡
出土遺物 |
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143蘇我氏の時代
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蘇我氏は、伝説上の人物「竹内宿禰」を祖先とする豪族で、6世紀に本格的に政治の舞台に登場する。
587年、馬子が対立する物部氏を滅ぼし、その後、蝦夷、入鹿の三代にわたって権力を独占した。
飛鳥地域は蘇我氏の本拠地(現:橿原市曽我町付近)とも近く、早くからその勢力下に置かれ、
588年にはには、日本最古の本格的寺院である氏寺の飛鳥寺の造営が始まる。
592年、蘇我氏と近い推古天皇(馬子の姪)が豊浦宮で即位した後には、飛鳥やその隣接地に天皇の宮殿が置かれるようになる。そこに蘇我氏の強い力を見ることができるだろう。
蘇我氏は、朝鮮三国や底から渡来した集団とも密接な関係を持ち、仏教を軸に、新たな技術や文化を導入するとともに、天皇家と婚姻関係を結び、
各地への屯倉の設置や朝礼の整備をすすめた。しかし、権力の絶頂期の645年、乙巳の変により、蘇我本家は滅亡する。 |
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150水落遺跡
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この漏刻は、水落ち遺跡の発掘成果、中国の文献、中国の故宮博物院に残されている清代(1636~1912)の漏刻などに基づいて復元した。 |
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151
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152漏刻
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四段式の漏刻は、唐の呂才が貞観年間(627~649)に考案したとされる。二段式や三段式の漏刻と比べても正確に運用することができ、当時としても最新の水時計であった。遣唐使が飛鳥の地へと伝えたのだろう。 |
漏刻のしくみ
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漏刻は階段形になっている。最上段の升に水を入れると、銅管を伝わって水が次々に下の升へと移動する。一番下の升に入れた目盛付の棒(箭)が、水位上昇で浮き上がり、その動きで時間をはかっていた。 |
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153水落ち遺跡
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飛鳥寺北方には、須弥山石の出土で知られる石神遺跡が広がっている。昭和47年、西側に接する字「ミゾオチ」の田圃に家屋新築計画があり、発掘調査したところ、石敷きで囲んだ一辺25mの方形の基壇が現れた。
この遺跡は飛鳥発掘史上全く例のない遺構で、その重要性を考えて「飛鳥水落遺跡」として史跡となった。
それから約20年後、史跡整備計画がおこり、未調査の基壇上の調査を昭和56年秋から始め、基壇上の24本の柱位置の下には、柱の径に合わせて窪みを穿った礎石があって、礎石どうしは、玉石を並べた地中梁によって固定してあった。また、礎石の下には銅管と木樋は埋め込まれていた。
これは楼閣建築の地下に配置された水仕掛けの構造物である。日本書紀に記された「漏刻」の可能性が、調査員の脳裏をかすめた。
発掘がすすむと 、建物の中央に長方形に窪めた台石と、木箱に塗った漆の皮膜が確認された。唐の呂才がつくった漏刻の図とも矛盾しない。
こうした状況や、出土した7世紀第3四半期の土器から推測して、この遺構が斉明期にある漏刻であると断定された。
調査の最終段階には、昼は発掘現場で、夜は研究室で、集まったデータの検討が繰り返された。こうして破壊された水時計の土台から、パズルを解くように、巨大な漏刻在りし日の姿が復元されていった。 |
水落ち遺跡模型 |
水落ち遺跡 |
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水時計建物 |
水落ち遺跡模型 |
水落ち遺跡模型 |
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154水落ち遺跡と石神遺跡
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水落ち遺跡は、斉明天皇6(660)に中大兄皇子(後:天智天皇)がつくらせた水時計(漏刻)を設置した楼閣と考えられている。
この漏刻画つくられた背景には、技術だけではなく、天子が時を支配するという思想が日本に伝わったことがうかがえる。
石神遺跡は、7世紀無前半から末まで、何度も改作されている。知う北地方や外国産の土器類も出土し、蝦夷など辺境の民や外国の使節をもてなした場所と考えられる。隣接する水落ち遺跡から銅管や木樋が続いており、須弥山石・石人像や池などに水を引いていたようだ。 |
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大銅管 7世紀
水落遺跡 |
水落ち遺跡と石神遺跡 |
水落ち遺跡と石神遺跡 |
水落ち遺跡・石神遺跡
推定図 |
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160律令国家への歩み 天皇中心の国づくり
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161律令国家への歩み
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645年の乙巳の変、それに続く大化の改新を経て、天皇を中心とした国づくりが進められる。
斉明天皇から天武天皇の時代、天皇の権力強化を背景に、暦・時刻制度の導入、官僚制の形成、戸籍の作成などが行われ、中央集権的な国家体制が造られた。 |
須弥山石
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須弥山石は石神遺跡から明治35(1902)に掘り出されました。全体の形や山形の浮き彫りがあることから須弥山石と呼ばれる。
須弥山とは仏教世界の中心にそびえる聖なる山 (スメール山)のこと。
この石造物は庭園におかれた噴水施設とみられる。斉明朝(655~661)に蝦夷や南方の吐火羅国の人をもてなした時、甘樫丘東方の川原や飛鳥寺西方に造ったという須弥山だろうか。出土地周辺からは石人像が出土し、溝や石敷きも見つかっている。
須弥山石の三つの石はいずれも内側を刳り抜いてある。底から水を引き上げて、下段の石と直接繋がらず、間にもう1石あったらしい。また、下段の石の底面の構造から、別の石の上に乗っていたことがわかる。 |
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162日韓の技術交流
大陸文化の伝来
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飛鳥時代は大陸から様々な文物、思想、技術をさかんに取り入れ、法制度などを整えながら国づくりを進めた時代である。 |
古代の工房遺跡の調査
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飛鳥池工房跡の調査によって金・銀・銅・鉄などの金属加工やガラス生産など、飛鳥時代の手工業生産技術が具体的に判明した。
一方、韓国でも発掘調査が進んで百済の工房跡などが発見され、日韓の技術を考古学的に比較することが可能な状況が整いつつある。 |
日本書紀によると
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日本書紀日本書紀によると、推古天皇20(612)、百済から来た路子工(みちこのたくみ)(芝耆摩呂しきまろ)に須弥山石と呉橋を造らせた。その後、斉明朝に、須弥山を立てて蝦夷らを饗応したという記事が3回みられる。
須弥山石は、これらの記事に書かれた「須弥山」と考えられる。硬い花崗岩の彫刻も朝鮮半島の技術によって初めて造ることができた。 |
飛鳥時代の始まり
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飛鳥時代の始まりを告げる飛鳥寺の造営(588~)にあたっては、百済から仏舎利・僧侶とともに寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工などの技術者が派遣されて来た。我が国最初の寺院の造営には、百済の技術者の指導が必要だった。 |
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大陸文化の伝来 |
古代工房遺跡の調査 |
日本書紀によると |
飛鳥時代の始まり |
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飛鳥池工房遺跡
韓国 益山 王宮里遺跡 |
石神遺跡出土
須弥山石 |
飛鳥寺跡出土軒丸瓦
韓国 扶余 扶蘇山城出土軒丸瓦 |
よみがえる飛鳥の工房
日韓の技術交流を探る
ごあいさつ
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飛鳥寺の東南にあった近世の溜池「飛鳥池」の池底から、飛鳥時代の工房の遺跡が見つかったのは、1991年のこと。
その後、美術館建設に先立ち、奈良国立文化財研究所(当時)が発掘調査を行ったところ、様々な生産関係遺物や多数の炉跡などが見つかり、これまでに前例のない古代の総合工房遺跡であることがわかりました。
出土した8000点近い木簡の中には、舎人皇子や大伯皇子(皇女)、穂積[皇子カ]、詔小刀と書かれたものがあり、飛鳥池工房遺跡が飛鳥の宮廷や古代国家を物質面で支えた一大工房群であったことを物語っています。 |
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170日韓の技術交流
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171百済のガラス工房
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近年、韓国でも発掘調査が進展し、王宮里遺跡や弥勒寺址など、古代の工房遺跡の調査事例が増えて来た。
これらの成果と、飛鳥池工房遺跡を比較することで、日本への技術の伝播と発展・変遷を知る手掛かりを得られる。 |
王宮里遺跡
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韓国益山の王宮里遺跡は、百済の武王の時代(600~641年)に造られた宮城の遺跡。各種ガラスや金属を溶かした坩堝、未完成品、鉄滓、鋳型、砥石などが多量に出土し、ガラス製品、金製品、銅・青銅製品を生産した百済の王宮付属工房の実態が明らかになった。 |
弥勒寺址
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益山の弥勒寺址は7世紀初頭に百済の武王によって建立された巨大寺院。多量の鉛ガラス片とるつぼ、鉄床などが見つかり、寺院内に寺院内にガラス製品や金属製品を供給する工房があったことがわかった。
また、西石塔の解体修理で発見された舎利荘厳具には緑色の板ガラスと多数のガラス玉が含まれる。 |
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百済のガラス工房 |
百済のガラス工房
王宮里遺跡 |
王宮里遺跡
ガラス関連遺物 |
弥勒寺址 |
弥勒寺址
ガラス坩堝 |
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172ガラスからみた日韓の技術交流
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日本では長らくガラスを製造できず、輸入品の利用とその再加工にとどまっていた。
石英や鉛を原料とした鉛ガラス生産は、飛鳥時代に、百済からの技術の導入によって初めて可能となった。
飛鳥池工房では百済とよく似た、蓋とセットの砲弾形の坩堝を使用している。
内面には溶けたガラスが付着し、原料の鉱物を溶かして鉛ガラスを製造していたことが明らかである。
たこ焼き器の鉄板のような土製品は紺色ガラス玉の鋳型。紺色ガラスは日本で製造できず、輸入したガラスを素材にこの鋳型でガラス玉に再加工した。
これらの坩堝やガラス玉の鋳型は、朝鮮半島に日本より古い時期から類例があり、飛鳥池工房のガラス製作技術の源流をはっきりと示している。 |
古代のガラス製作技術
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正倉院古文書の天平6(734)「造仏所作物帳」から、奈良時代のガラスの材料や生産技術について知ることができる。
「黒鉛」(金属鉛)を加熱溶融(熬)して鉛丹とし、それを「色石」(石英)とともに坩堝で溶かすと鉛ガラスができる。
ガラスの着色料には「赤土」(黄色や褐色ガラスに用いる)、「緑青」(緑や黒に近い濃緑ガラスに用いる)がある。
当時製造できなかった赤色や黒色のガラス玉を造るためには、「朱沙」「麒麟血」(熱帯地方産出の赤色樹脂顔料)や漆を表面に塗った。
無色透明のガラスも製造できず、水晶を用いた。 |
鳥池工房遺跡のガラス坩堝
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ガラスは金属鉛を石英とともに坩堝に入れ、1300℃.程に熱してつくる。ガラスの融点は銅(1000℃)より高温で、製造にはより高度な技術が必要だった。
ガラス坩堝は底が尖った砲弾型をしており、蓋が伴う。内面には緑や褐色の鉛ガラスが付着している。韓国の百済地域の坩堝と似た形である。 |
ガラスからみた日韓の技術交流
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古代のガラス製作技術 |
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飛鳥池工房遺跡の
ガラス坩堝 |
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173造仏所作物帳にみるガラスの材料
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造仏所作物帳にみる
ガラスの材料 |
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黒鉛(鉛) |
白石(石英) |
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176飛鳥池工房遺跡のガラス坩堝
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ガラス玉鋳造 |
様々なガラス
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ガラス玉鋳型 |
ガラス坩堝 |
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177
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179
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180飛鳥池工房跡 |
181ガラス製作技術
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飛鳥池工房におけるガラス製作技術には、百済とは異なる日本の独自性も指摘できる。
砲弾形のガラス坩堝は、日本と百済のものでよく似ているが、外形面の叩き目の有無や蓋の形態など、違いもある。
一方、飛鳥池工房にみられる銅を溶かした埦形の坩堝は、百済ではなく新羅にみられる形である。
また、たこ焼き器形のガラス玉の鋳型は、朝鮮半島では7世紀にはもう使われていない。
天武天皇の時代に始まる飛鳥池工房は、外来の様々な技術を積極的に取り込みながら、日本独自のものづくりの技術を育んでいたのである。
そして、飛鳥池工房の技術は奈良時代に引き継がれ、正倉院宝物の製作へとつながっていった。 |
飛鳥池工房遺跡
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飛鳥池工房は、寺院や宮殿で使用する様々な製品を造る工房が集まった、国家的な工房だった。金・銀・銅・鉄の金属加工、ガラス玉や水晶・琥珀・瑪瑙などの宝玉類、あるいは漆やべっ甲を使う工芸品の生産、屋根瓦の焼成まで行っていた。 |
飛鳥池工房
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飛鳥時代には様々な手工業が行われ、大小の工房が営まれた。中でも特筆すべきが、飛鳥池という溜め池の底から見つかった工房の遺跡、飛鳥池工房である。飛鳥池工房は、飛鳥寺や天武天皇の飛鳥浄御原宮など飛鳥の主要施設に隣接する谷間に営まれ、主に7世紀後半から8世紀初頭に操業された。 |
富本銭
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わが国最初の鋳造貨幣「富本銭」もここで生産していた。まさに古代の最先端技術を集めた、巨大な総合工房である。
飛鳥池工房は圧倒的な規模で操業され、生産物とともに膨大な量の廃棄物を生じた。出土した多種多様な道具類や廃棄物は、比類のない工房の実態をうかがわせる。 |
ガラス製作技術 |
飛鳥池工房遺跡 |
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飛鳥池工房遺跡 |
飛鳥池工房遺跡 |
飛鳥池工房遺跡 |
飛鳥池工房遺跡
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富本銭
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185漆の道具
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飛鳥池工房には漆工房もあり、漆を塗るための刷毛や木のヘラ、漆のパレットに用いた皿や坏など、漆工関係の道具も見つかった。漆で固まった布は、不純物を取り除くために漆を絞った布。
刷毛は先端を二枚に裂いた板に毛を挟みこんで製作された。漆が多量に付着した壺や甕などは、漆の運搬や保管に用いたものと考えられる。 |
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186羽口
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鉄、銅、ガラスを溶かすためには、材質によって異なるが1000~1500℃に.加熱する必要がある。炭を燃やす炉に強制的に空気(酸素)を送りこんで激しく燃焼させるために、フイゴが使われた。土製の羽口はフイゴから延びた送風管の先端に付けて炉内に差し込まれるため、火熱によって変色したり、溶けかかったりしている。 |
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フイゴの羽口 |
溶けた銅
仏像の鋳型・鋳型・銅の坩堝 |
鞴の羽口・仏像の鋳型 |
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187鉄製品
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飛鳥池工房遺跡では大規模な鍛冶工房が営まれ、多数の炉跡が見つかった。
鉄床石、赤く熱した鉄を叩いたときに飛び散る鍛造剥片、炉の底に溜まった鉄滓などが出土した。工房で製作した製品や未製品、工房で使った道具類もある。 |
鉄製品 |
鉄製の道具 |
鉄製道具 |
鉄滓 |
鉄床石 |
鍛造剥離片 |
鞴の羽口 |
砥石片 |
木炭 |
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190飛鳥池工房 |
191飛鳥池工房
飛鳥池工房 |
工房テラスに密集する炉跡群 |
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隅が詰まった炉跡 |
石組の炉跡 |
平面長方形の炉跡 |
平面方形の炉跡 |
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193発見された遺構
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二つの谷が合流する「Y」字形の谷を東西塀で区切り、その南側に工房群、北側には飛鳥寺の関係施設があった。工房は谷をひな壇状に造成し、西の谷筋の最奥部に金・銀・ガラスの工房、東の谷筋の両岸に銅・鉄の工房を。種類ごとに計画的に配置していた。
谷底は廃棄物を沈殿させる棚田状の水溜になっていた。 |
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194
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北の石敷井戸 |
堰と飛び石 |
南の石敷井戸 |
テラスに重なる炉跡群 |
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195
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道路跡 |
瓦窯 |
石組方形池 |
二棟の倉庫 |
三条の塀 |
区画塀 |
近世の梵鐘鋳造遺構 |
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200富本銭
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銅銭の一種で、表面の上下に「富」「本」の文字と、左右に七曜文をあしらう。
出土した富本銭は平均直径24.4mm、厚さ1.5mm、重さ4.6g程。銅とアンチモンの合金を鋳造して製造されている。
飛鳥池工房遺跡での富本銭の生産が判明したことで、『日本書紀』天武天皇12年(683)条にある「銅銭」が富本銭であることが解明された。
和銅元年(708)発行の和同開珎を遡る銅銭の存在は、日本の貨幣史を書きかえる大発見となった。 |
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201富本銭の鋳造
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富本銭の鋳造に関する遺物も2つの土坑からまとまって出土した。
富本銭の鋳型、鋳棹(鋳造直後の状態)、溶銅、銅滴、坩堝などが見つかった。これによって富本銭の具体的な製作技術がわかった。
出土した富本銭は失敗品や未製品ばかりで、仕上げられた製品は1点しかない。 |
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鋳棹いざお |
富本銭 表 |
富本銭 裏 |
富本銭 |
富本銭の鋳型 |
富本銭の鋳造 |
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202金と銀
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工房からの廃棄物の層を中心に、金・銀とその坩堝などが見つかり、貴重な金と銀を扱う工房もあったことがわかった。
金には、溶解時に飛び散った滴や、金箔、金の薄板、金細工の切れ端などがあり、純度は17kから24kまである。金粉が付着した土器も見つかっている。
銀は塊状の物、針がね、角棒、板状、無文銀銭を切断したものがあり、純度は90~99% 、銀の坩堝は深いボウル形をしており、容量は約430cc、これに対して金の坩堝は容量100cc以下の小型品である。 |
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金と銀 |
様々な金 |
金の付着した土器
金の坩堝 |
銀蝋・様々な銀 |
切断された無文線 |
銀の坩堝 |
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203
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204木と炭
炭
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工房では金属加工のために炭を燃やして高熱を得ることが必要だった。使い終わった炭は雑多な廃棄物とともに谷に捨てられた。
その堆積は1m程もある。炭の層には様々な遺物が含まれていた。
この展示室は、工房で使われた膨大な量の炭と、製品を生み出した炎をイメージしている。 |
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炭
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木と炭
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釘・金具類・ノミ・鉄鏃 |
鉄鏃・刀子・金具類・壺金具 |
鎌・鉄鏃・工具と釘・金具類 |
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205木
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ヘラや刷毛、刀子の柄、祭祀具や用途不明品、そして木簡といった多彩な木製品がある。注目されるのは様(ためし)である。
様とは金属製品の注文にあたって製作するひな形で、それを手本として銅製品や鉄製品を製作した。
様には、鏃、鎌、刀子、釘、方孔のあいた釘、座金などがある。出土品に様とよく似た製品もあり、実際に様をもとに製品を造ったことがわかる。 |
木
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鑷子(せっし)ピンセット
銅の切り屑
銅製工具
佐波理箸 |
海獣葡萄鏡
銅人形
銅人形
さはり碗 |
帯金具
釘隠 |
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206鋳型
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様々な鋳造品に使った鋳型が出土している。富本銭の鋳型のほかに、珍しいものとしては海獣葡萄鏡の鋳型がある。
また、仏像の鋳型からは三重県鳥居古墳出土押出仏の原型を鋳造した可能性が高い。
このほか製品の種類がわからない鋳型の断片が見つかっている。大半の鋳型は細かい粘土を用いているが、稀に石製の鋳型もある。 |
鋳型
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壺金具・座金など・銅鋲・銅鋲 |
銅製品 |
刀装具・銅製品 |
鎹かすがい
座金
鉄製品
鋤先 |
刀子・鉄鏃 |
海老錠 鍵 |
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207銅
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実用の道具、調度品の飾り、祭祀用具など、いろいろな銅製品が生産されていた。人形、釘、針、管、留め金具、飾り金具、富本銭などがある。
銅製の人形は高貴な人物が祓いに用いたと考えられており、工房と宮殿との結びつきを示すものの一つ。
飾り金具には鍍金の痕跡もあり、水銀を用いた金メッキが行われていたこともわかる。 |
銅
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鉄釘類・座金など・鉄環 |
手斧
鉄釘類
肘金具・鉄釘
壺金具 |
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208鉄
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最も多く見つかったのは釘類で、ほかにカスガイ、海老錠、刀子、ノミ、タガネ、鋤先、鉄鉗(かなはし)、鏃などがある。
また、金床石や鉄滓、鍛造の際に出る剥片など、鍛冶に関連する遺物も大量に出土した。
多量にある砥石もまた、鉄器を研ぐのにも用いられただろう。各種の造営事業はもちろん、日々の仕事や生活においても鉄製品の需要は高かった。 |
運営
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木簡は約8000点が出土し、飛鳥寺、皇室、工房に関わるものなどがある。生産の注文、銀や鉄の運搬など、いろいろな木簡、墨書のある様などから、律令国家成立期における工房運営の一端を知ることができる。
小刀と針の製作を命じる詔、注文または供給先と考えられる皇族の宮や宮廷関連の機関を記した木簡もあり、この工房の操業が国家の中枢と深い関係をもっていたことを示している。 |
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209施釉陶器
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この施釉陶器は類例がほとんどない珍しいもので、飛鳥池工房遺跡での施釉陶器生産を示すものです。
壺は頸部を失っているが、体部にある剥離痕から、長方板と楕円球を6個ずつ交互に貼り付けていたことがわかる。
表面の一部に白灰色の溶け切っていない釉薬が残ることから、焼成に失敗して廃棄されたとみられる。
釉薬に国内産の鉛が使われていることが、鉛同位体比分析で分かった。 |
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210
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212床下に置かれた陶器片
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213床下におかれた陶片
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220飛鳥池発掘調査 |
221富本銭の発見
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貨幣の発行・流通は国家の経済政策の根幹をなす大事業である。
我が国で最初の鋳造貨幣とされた和同開珎(708)よりも古い貨幣が天武朝に存在したこと、それが飛鳥池工房遺跡で製作されていたことが明らかとなった。
名実ともに歴史を書き換えた大発見である。 |
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222奈良文化財研究所
研究
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奈良文化財研究所(奈文研)は、飛鳥寺や藤原宮など数々の重要遺跡を発掘調査してきた。その中でも特筆すべき成果の一つとして、飛鳥池工房遺跡の調査があげられる。
溜め池の埋め立て工事に伴う奈良国立文化財研究所(現 奈良文化財研究所)と明日香村教育委員会の共同調査を発端とし、その後、奈良県立万葉文化館建設に先立ち、奈文研が発掘調査を継続して実施した。 |
飛鳥池工房遺跡発掘調査
炭層と遺物
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谷底には工房から投棄された炭の層が厚く堆積していた。古代の産業廃棄物であるこの炭層には、失敗品や屑、壊れた道具などの遺物も多く含まれていたので、、土ごと掘り上げて水洗選別することになった。
奈文研に持ち帰った炭層は、土のう袋で10万5千袋に達する。その全てについて一つずつ水を流しながらふるいにかけた。
乾かした後、一点ずつ石と炭や土器、金属片などの遺物を選別していった。
膨大な作業を人力でこなしたことが、細大漏らさぬ詳細な調査の成果につながった。
細かい品々や、壊れやすい土の鋳型までも見つけられたのは、莫大な量の土を根気よく洗って、丁寧に選別した結果である。
この部屋に展示しているのは、飛鳥池工房遺跡の調査で見つかったもの、わかったことのほんの一部にすぎない。
飛鳥池工房遺跡は様々な情報の宝庫であり、その価値は計り知れないものがある。 |
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230高松塚古墳壁画
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230a高松塚古墳壁画
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2007年に高松塚古墳の石室は保存修理のために解体され、仮説修理施設へと運び込まれ、現在も修理が続けられている。
このパネルは解体された石室壁画をデジタルアーカイブスキャナで読み取り、印刷したものだ。
壁画の状態や漆喰の亀裂などを、細部まで精密に、歪みがほとんどない状態で記録した。カラースケールなどを使い、色も正確に再現されている。 |
高松塚古墳 墳丘断面
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高松塚古墳は、上下二段に築かれた直径23mの円墳である。薄く敷いた土を棒で突き固め、それを層状に積み重ね、版築(はんちく)という工法で築かれている。
板築は当時の最先端の土木工法で、寺院や宮殿の基壇にも使用された。高松塚古墳の板築は一層の厚さが3~5cm程で。石室の下から130層以上を積み重ねて墳丘を築いている。
最初に下位の板築を施しながら石室を組み上げた後、石室内に壁画を描き、棺を納めて石室を閉じ、その後さらに2m以上も板築と盛り土を繰り返して、古墳が完成する。石室周囲の板築の断面を剥ぎ取ったものが、この展示パネルである。これほど精緻な板築層を、大規模にはぎ取って保存した例はほかになく、古墳の構造や当時の土木技術を知る貴重な実物資料である。(板築はぎ取り資料を撮影していません。どこあったのか) |
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230b キトラ古墳壁画 7世紀末~8世紀初頭
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キトラ古墳の石室の各壁画を陶板で実物大に再現した複製。
石室内は前面に漆喰を塗って壁画が描かれていた。各壁画には方位に合わせて四神と十二支、天井には天文図と日月を配置する。
四神は白虎(西壁)、玄武(北壁)、青龍(東壁)、朱雀(南壁)が全て残っている。
十二支は戌(西壁右下)、子・丑(北壁下方)、寅(東壁左下)、が見えるが、寅以外は図像がわかりにくい。朱雀の尾羽や寅等では、先端のとがった道具による下書きが観察できる。 |
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231高松塚古墳
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高松塚古墳は1972年、発掘調査によって美しい壁画が見いだされ、有名になった古墳である。直径20mにすぎないが、粘土・砂の薄い層を交互に一層ずつ突き固めて築くなど飛鳥の古墳に特有の、特殊な構造を備えた終末期古墳の一つ。
石室の天井には星宿(星座)、周囲の壁には日月、四神と男女の従者を廃止、死者が永遠の眠りに就く小宇宙を形成しており、中国の思想に基づいて記事なの墓にふさわしく飾ったものと言える。 |
星宿
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高松塚の天井には、丸く切り抜いた金箔を貼り、これを朱線で結んで星宿を表している。
これは、中国・朝鮮の壁画古墳に描かれたものにも例を見ないほど精密である。
古く中国では、地上における宮廷を中心とした政治的組織を天体に反映させて考えた。
高松塚の天井には中央に天の中心部を描き、四方には二十八の星宿(二十八宿)を七つずつ(七宿)配し、天帝による全店の支配を表現する中国思想に忠実に従って表現している。 |
四神
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東の青龍・西の白虎・南の朱雀・北の玄武の四神は、四方を守る霊神で、これもまた中国・朝鮮の壁画古墳にしばしば描かれている。
高松塚古墳壁画の四神は、星宿や日月と一体となって、ここに葬られた人物を中心とした小宇宙を表現したものである。
なお、南壁に描かれたはずの朱雀は、盗掘者の破壊の結果、今残っていない。 |
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高松塚古墳 |
墳丘外観(整備後)
発掘当初の石室 |
星宿 |
四神
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四神
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壁画の人物
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高松塚古墳壁画の男は、蓋、椅子、太刀や槍を入れた袋を手に持ったり、首から下げたりしており、女は円翳(さしば)、蠅払(はえはらい)、如意(にょい)などを持っている。いずれも正装した従者を表している。
顔の輪郭を細かくみると、同じ太さの線で、単純に一気に描いたものではない。要所要所で筆を止め、抑揚のある線で描いている。このような手法や群像の構成などは、唐代絵画の影響を雄弁に物語っている。 |
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232高松塚古墳出土品
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高松塚古墳は盗掘を受けていたが、昭和47年(1972)の発掘調査では、木棺の破片や飾り金具、中国製の海獣葡萄鏡などの副葬品が見つかった。
出土品からみても、被葬者はかなり身分の高い人物だったであろう。 |
棺と飾り金具
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棺の飾り金具などの出土品と、石室の床や壁に残る痕跡から、木棺と棺台の大きさや仕上げが明らかになった。木棺は杉板に布を貼り、外面を黒漆塗り、内面を朱塗りとしていた。表面に金銅製の透彫飾金具などを付けて豪華に装飾された木棺が復元できる。 |
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233海獣葡萄鏡
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鏡の背面に葡萄や獣の文様が見える。中国の西安の独弧思貞墓(698)出土鏡など、同じ原型から作られた鏡が12面確認されている。
高松塚古墳の鏡も、中国鏡に近い成分組成が明らかとなっており、中国で大量に造られた同型鏡の一部が日本に持ってこられたようだ。 |
大刀の飾り金具
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大刀の刀身は失われていたが、柄や鞘に取り付けられていた銀製の金具が出土した。透彫金具は大刀を腰から吊下げるための紐を付ける部品の一部で、獣が走る姿が表現されている。正倉院の金銀鈿荘唐大刀のように、華麗に装飾された唐風の大刀が納められていたのだろう。 |
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海獣葡萄鏡 |
海獣葡萄鏡 |
大刀の飾り金具 |
唐草走獣文透彫金具
金銀鈿荘唐大刀
きんぎんでんそうのからたち
8世紀 正倉院 |
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234高松塚古墳出土品
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玉類 |
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棺の飾り金具 |
座金 |
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透彫飾金具 |
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刀の飾り金具 |
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海獣葡萄鏡 |
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235キトラ古墳と高松塚古墳との関係
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両古墳は、いずれも終末期古墳に位置づけられ、規模や古墳の形状が似る。両者には共通して四神と天文図が描かれる。ただし、壁画の図像や細部表現には差異が認められる。
表現方法は高松塚古墳の方が成熟すると共に、一部に簡略化なども認められる。キトラ古墳には十二支像が描かれるのに対し、高松塚古墳では男女群像が描かれている点が特に異なる。石室の天井の形態や石材の組み方にも差異が認められる。
ともに飛鳥・藤原時代の末から奈良時代の初頭にかけて造られたものであろうが、キトラ古墳が高松塚古墳よりやや古い観がある。 |
詳細対比表
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キトラ古墳 |
高松塚古墳 |
古墳規模 |
二段築成の円墳。下段直径13.8m、上段9.4m高さ3.3m |
二段築成の円墳。下段直径13.8m、上段9.4m高さ3.3m |
石室規模 |
石室長240cm、幅104cm高さ114cm |
石室長265.5cm、幅103.5cm高さ113.4cm |
青龍 |
泥で大部分が覆われ、頭部・前脚のみ確認 |
キトラの青龍より一回り大きい。爪が赤く塗られる。細部に差異。 |
朱雀 |
国内初の極彩色壁画の朱雀。キジや山鳥がモデルか。 |
盗掘坑により未確認。 |
白虎 |
右向きの白虎 |
左向きの白虎。キトラより一回り大きい。爪が赤く塗られている。 |
玄武 |
欠損無し。亀と蛇が絡んで描かれる。 |
一部欠。キトラより一回り大きい。 |
天文図 |
精巧な天文図を参考に描かれている。 |
星座をデフォルメして配置した天文図。 |
群像 |
なし |
着飾った男女の群像 |
十二支 |
獣頭人身の中国風の服装をした6体を確認。 |
なし。 |
出土遺物 |
金象嵌帯金具、棺金具、大刀金具、玉類、人骨など |
海獣葡萄鏡、棺金具、銀装大刀金具、玉類、人骨など |
被葬者 |
50~60代前後の男性か。 |
40~60代前後の男性か。 |
年代 |
7世紀後半から8世紀初頭 |
8世紀初頭か。 |
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キトラ古墳と高松塚古墳の関係
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詳細対比表 |
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石室内の壁画 |
石室構成石材の
構造図 |
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236キトラ古墳
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キトラ古墳は飛鳥の南西部、檜隈にある直径13.8mの円墳で、7世紀末から8世紀初頭に造られた終末期古墳の一つ。
凝灰岩切り石を組み立てた石室の内面に漆喰を塗り、四神、十二支、天文図を描いていた。 |
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237キトラ古墳墓道埋土の断面
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墓道は石室前の通路のこと。キトラ古墳の墓道は、墳丘の一部を掘り下げて造られ、遺体を納めて石室を閉じた後に埋められた。
展示品はキトラ古墳の墓道を埋めた土の実物標本である。この土層からは、土を何層も突き固めて墓道を埋めたことがわかる。
墓道の埋土は大きく三層に分類できる。下層はきめ細かい土で固く叩き締めている。中層は一層の厚みが10cm前後で、更に上層は緩く積まれた。
右側には、中世の盗掘の跡が残る。そこに開く黒い丸は、石室の発掘調査に先立ち、内部を観察するためにデジタルカメラを通した管の断面である。 |
キトラ古墳墓道埋土の断面
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キトラ古墳墓道 |
キトラ古墳墓道断面標本 |
キトラ古墳墓道断面標本 |
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238キトラ古墳壁画 7世紀末~8世紀初頭
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キトラ古墳の石室の各壁画を陶板で実物大に再現した複製。
石室内は前面に漆喰を塗って壁画が描かれていた。各壁画には方位に合わせて四神と十二支、天井には天文図と日月を配置する。
四神は白虎(西壁)、玄武(北壁)、青龍(東壁)、朱雀(南壁)が全て残っている。
十二支は戌(西壁右下)、子・丑(北壁下方)、寅(東壁左下)、が見えるが、寅以外は図像がわかりにくい。朱雀の尾羽や寅等では、先端のとがった道具による下書きが観察できる。 |
天文図
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キトラ古墳の石室天井には、中国式の天文図が描かれていた。本格的な天文図(星図)としては現存する世界最古の例。
これは、キトラ古墳の展示用壁画を忠実に陶板で再現したものである。原寸大の精密な複製のため、天井の形状や日月像、天文図の細部が観察できる。
キトラ古墳で発見された壁画は、漆喰が崩落するなど危険な状態にあり、保存を優先とするため、緊急的に取り外された。
石室が埋め戻され、壁画が埋め戻された現状においては、この陶板は実物の代わりに壁画を体感させてくれる貴重な資料である。 |
下の写真は、展示室内の石室模型に、プロジェクションマッピングで投影された色々な写真である。
キトラ古墳壁画 |
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天井の縮星図 |
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西壁 |
北壁 |
東壁 |
キトラ古墳天文図 |
天文図 |
キトラ古墳天文図 |
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240終末期古墳 出土品
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飛鳥時代の古墳を、一般に「終末期古墳」という。
7世紀後半から8世紀の初めには、大きな古墳が造られなくなり、切り石を用いた精巧な構造の石室が登場する。
飛鳥地域には、高松塚古墳やキトラ古墳のほかにも、多くの終末期古墳がみられる。 |
牽牛子塚古墳 出土品
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牽牛子塚古墳は八角形の墳丘を持つ。石室は大きな凝灰岩を刳り抜き、内部を壁で2つに仕切る。七宝焼の飾り金具など華麗な出土品が見つかっており、斉明天皇と間人皇女の合葬墓とする説が有力である。 |
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牽牛子塚古墳 |
牽牛子塚古墳 |
石室内・外観 |
石室模式図 |
マルコ山古墳
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マルコ山古墳は、真弓丘陵の一画にある終末期古墳である。多角形の墳丘をもち、規模は高松塚古墳と近い。石室内には漆喰が塗られていたが、壁画はなかった。 |
マルコ山古墳 |
石室内・外観 |
石室模式図 |
●4・5世紀の古墳
●6・7世紀の古墳
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石のカラト古墳 7世紀末 奈良県奈良市神功・京都府木津川市兜台
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石のカラト古墳は、奈良県と 京都府に又がる奈良山丘陵に位置する。墳丘は、上段が円形、下段が方形の上円下方墳という特異な形をしている。
石室の構造は、高松塚古墳やキトラ古墳とよく似ているが、漆喰塗や壁画はない。 |
石のカラト古墳 |
石室内・外観 |
石室模式図 |
石のカラト古墳出土品 |
銀装大刀金具 |
金銀 |
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250古墳から火葬墓へ
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7世紀にはいっても、天皇や豪族たちは古墳に葬られていたが。大きな古墳は造られなくなっていた。
仏教とともに伝わった火葬は、天皇以下、貴族たちにも広まり、火葬の採用は古墳の終末を更にはやめることになった。 |
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251古墳から火葬墓へ
天武・持統天皇陵
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持統天皇(702没)は、天皇として初めて火葬され、夫、天武天皇(686没)の陵に葬られた。
鎌倉時代の記録「阿不幾乃山陵記」によれば、天武天皇の遺体は夾紵棺に納められ、持統天皇の遺骨は銀の骨臓器に入っていたという。 |
文祢麻呂墓出土品 は、壬申の乱
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文祢麻呂は、壬申の乱(672)で天武天皇側の将軍として活躍した人物である。慶雲4(707)に没した。
天保2(1831)、農民が耕作中に火葬墓を発見した。墓から見つかった骨臓器は緑色のガラス製で、金銅の器に入っていた。墓誌は金銅の箱に納められていた。 |
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天武・持統天皇陵 |
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文祢麻呂墓出土品 |
文祢麻呂墓出土品 |
小野毛人墓誌 |
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252
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小野毛人の墓誌 |
下道圀勝圀依母夫人骨臓器
しもつみちくにかつくによりのはは ぶにん
和銅1年(708)岡山矢掛町東三成 |
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威奈大村骨臓器
慶雲4(707)香芝市穴虫 |
須恵器骨臓器 8世紀
明日香村奥山 |
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253飛鳥の寺院 華やぐ飛鳥の仏教
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仏教伝来から1世紀を経て、飛鳥地域では天皇や豪族によって多くの寺院が造られた。今では遺跡となった寺院跡からの出土品は、華やかな仏教美術を伝えている。 |
磚と磚仏
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磚は古代のいわばレンガやタイル。建物の床、基壇、壁などや須弥壇の装飾に用いられた。
磚仏は磚に仏像を浮き彫りして焼成したもの。三尊仏や群像を表したものが多く、初唐の影響を受けた華やかな雰囲気を漂わせている。 |
磚の表現
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白鳳時代には、大型の多尊磚仏もつくられた。二光寺廃寺(奈良県御所市)~出土した磚仏は、阿弥陀五尊像をはじめ、眷属(従者)、天人、鳥などが表される。
下縁の区画は天人・供養者・香炉・獅子などで飾られている。 |
玉虫厨子 6~7世紀 法隆寺
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堂塔内を飾る磚仏は、玉虫厨子の内壁や扉を飾る押出仏から思い浮かべることができる。
一方少数の磚仏で壁を荘厳した例もあったようだ。小山廃寺(紀寺)の磚仏は、出土点数は多くはないが、壁面に壁土が残るものがあり、壁面の装飾に用いられたことがわかる。 |
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飛鳥の寺院 華やぐ飛鳥の仏教 |
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磚と磚仏
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磚の表現 |
二光寺廃寺
大型多尊磚仏 |
玉虫厨子
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玉虫厨子 |
鳳凰磚
7世紀 南法華寺 |
天人磚
7世紀 岡寺 |
川原寺の磚仏
紀寺の磚仏
7世紀 |
橘寺の磚仏 7世紀 |
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254飛鳥寺の瓦
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6世紀末に飛鳥寺の屋根を飾った日本最古の瓦は、百済からやってきた「瓦博士」の指導で造られた。当時の朝鮮半島の瓦とよく似ている。
文様入りの平瓦はまだ使われていなかった。 |
元興寺の瓦
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飛鳥寺の瓦は、平城京遷都に伴って、一部が元興寺に移された。今も奈良市の元興寺の極楽房と僧房に葺かれている。 |
飛鳥寺の瓦 |
飛鳥寺の瓦 |
飛鳥寺の瓦 |
元興寺の屋根 |
元興寺の屋根瓦
(元:飛鳥寺の瓦) |
軒丸瓦
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鬼瓦
7世紀前半 山田寺 |
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2557世紀中頃以降の瓦
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軒丸瓦は、複弁の物や獣面のもの(渡来系氏族の氏寺に多いとされる)が造られた。軒平瓦も一般化し、范型を使ったものになる。
7世紀末の藤原宮期になると、瓦は寺院ばかりでなく、宮殿や役所などにも葺かれるようになった。 |
軒丸瓦の文様
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軒瓦の文様は、時代の流行とともに変化した。瓦の文様は、建物の年代を知る手掛かりとなる。獣面の軒丸瓦は渡来系氏族の氏寺の多いとされている。 |
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7世紀中頃以降の瓦 |
瓦の種類と使用位置 |
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軒丸瓦 |
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紀寺 7世紀後半 |
地光寺(慈光寺)
7世紀後半 |
川原寺 7世紀後半 |
川原寺
奥山久米寺・地光寺 |
川原寺 7世紀後半 |
奥山久米寺 7世紀中頃 |
檜隈寺
大官大寺 |
大官大寺 |
檜隈寺 7世紀末 |
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260川原寺
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261川原寺縁起
斉明天皇の宮跡に作られた大寺 (斉明天皇594-661)
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川原寺は、天智朝の近江遷都以前(622~667)に、飛鳥川原宮の地を寺としたのが 始まりとされている。
天武天皇9年(680)、官司が治める寺が定められると、川原寺はその一つとして、四大寺に数えられた。
発掘調査の結果、一塔二金堂に三面僧房を巡らした壮麗な伽藍が明らかになった。
中金堂には大理石製の礎石が使われ、複弁八弁蓮華文軒丸瓦が屋根を飾っていた。現在は発掘調査に基づいて 堂塔の基壇が整備されている。 |
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川原寺 |
現在の川原寺 |
斉明天皇の宮跡に造られた大寺 |
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262川原寺の荘厳
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川原寺は9世紀中頃~後半に焼失し、壊れた仏像などが寺の西北の山裾に埋められた。川原寺裏山遺跡である。発掘調査で磚仏や塑像が出土した。
川原寺跡からの出土品と併せて、創建当初の華やかな堂塔がしのばれる。 |
川原寺の荘厳 |
阿弥陀三尊像 |
阿弥陀三尊像
(伝橘夫人念持仏)
7~8世紀 法隆寺
蓮池から生えた蓮華上に阿弥陀三尊像がおかれる。 |
金銅板の蓮池に表現された波紋の表現は
川原寺の緑釉波紋磚とよく似ている。 |
金堂製装飾品
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緑釉波紋磚 |
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263磚仏
磚仏は三尊を表し、当初は金箔が貼られていた。裏面に「阿弥陀」「一二」などの文字が刻まれたものもあり、磚仏の配置を示したようだ。
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264塑像
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塑像は、木の芯のまわりに土を付けて造る像で、表面は採食して仕上げた。
川原寺の塑像は、火災により彩色が失われたものが多いが、内部の銅線や土などの構造を留めている。 |
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265川原寺の復元模型
川原寺の復元模型 |
川原寺の復元模型 |
飛鳥仏教の隆盛
多彩な寺々
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『日本書紀』には推古天皇32年(624)には寺四十六所と記されている。これらの寺がどの程度のものかは定かではないが、仏教の急速な広まりが読み取れる。
その後、天皇や豪族によって本格的な寺院が数多く造られるようになった。天武天皇9年(680)には、『金光明経』の講説を京内の24の寺で行っている。
飛鳥の寺院では様々な伽藍配置が見られた。
金銅・塔の数や配置、左右非対称の伽藍、回廊で囲まれた空間と講堂の位置関係など、いくつかのバリエーションがある。
朝鮮半島の寺院と共通する要素も有り、影響が指摘できる。 |
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飛鳥仏教の隆盛
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日本の伽藍配置 |
朝鮮半島の伽藍配置 |
飛鳥の古寺 |
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266坂田寺 渡来人の氏寺
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渡来系氏族、鞍作氏(くらつくり)が造営した尼寺。用明天皇2年(587)に鞍部多須奈(くらべたすな)が造営を発願。
推古天皇14年(606)には鞍作鳥(くらつくりのとり)が水田を賜り、その収穫を寺の造営費にあてている。
朱鳥元年(686)には大官大寺、飛鳥寺、川原寺、豊浦寺と並ぶ五大寺の一つとして、無遮大会(むしゃたいえ)を開催した。
発掘調査では、奈良時代の伽藍配置を確認している。飛鳥時代の金堂はまだ見つかっていない。 |
仏堂の倒壊状況がわかる土層
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この土層の実物標本からは、仏堂の基壇上面が土砂で覆われた後、壁や柱が倒れて建物が倒壊したことがわかる。
倒壊した時期は、出土した土器の年代から、10世紀後半とみられる。 |
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坂田寺
渡来人の氏寺
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仏堂の倒壊状況がわかる土層 |
倒れた柱
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基壇 |
柱
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267大官大寺
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舒明天皇は639年、九重塔がそびえたつ巨大寺院、百済大寺を造営した。初めての勅願寺であった百済大寺は、宮・京の移り変わりに伴い、天武朝の高市大寺(677年に大官大寺と改称)、文武朝の大官大寺、平城京の大安寺へと移転を繰り返した。
1973年からの発掘調査では、文武朝の大官大寺の壮大な姿が明らかになった。九重塔は香久山をしのぐほどの高さでそびえ、金堂は藤原宮大極殿に匹敵する規模であった。伽藍は完成前に炎上しており、現場からは焼け落ちた飾り金具、焼土などが出土した。 |
地鎮具 8世紀 坂田寺
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仏堂の北東にあった、奈良時代(8世紀後半)の建物の地鎮具と考えられる。金箔、琥珀玉、ガラス玉などと伴に出土した。
銅銭は291点あり、唐の開元通宝1点のほかは和同開珎、万年通宝、神功開寶である。ここには保存処理した一部を展示した。 |
大官大寺 |
大官大寺 |
地鎮具 |
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地鎮具 |
地鎮のために埋納された銭貨 8世紀 坂田寺 |
隅木先飾金具 |
隅木先飾金具
7世紀末~8世紀初
大官大寺 |
隅木先飾金具 |
鉄釘
7世紀末~8世紀初 |
鉄釘 |
坂田寺の鎮壇具8世紀 |
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268大官大寺
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大官大寺現地説明会
並んだ穴は焼け落ちた金堂屋根の |
垂木が突き刺さった痕跡である |
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270坂田寺 |
271坂田寺の鎮壇具
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273石造浮彫如来及両脇侍像 7世紀後半~8世紀初
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凝灰岩の切り石に本尊と両脇侍、三重塔や獅子などを浮き彫りにする。屋根は一石の凝灰岩から彫り出され、入母屋造りの行基葺で、瓦は一枚ずつ表されている。火災などにより剥落欠損しているが川原寺の磚仏などにも共通する、整った三尊像の構成をよく示している。古法華三尊石仏とも呼ばれる。 |
石造浮彫如来及両脇侍像 |
石造浮彫如来及両脇侍像 |
石造浮彫如来及両脇侍像
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280飛鳥以前 |
281
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飛鳥近辺には、縄文・弥生の遺跡もある。橿原遺跡は、畝傍山の東南麓に広がり、西日本の縄文時代晩期を代表する遺跡の一つです。
四分遺跡は藤原宮の南西隅に所在する弥生時代の大規模集落である。 |
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飛鳥以前 |
四分遺跡 弥生時代 |
石鏃・石槍
橿原市四分 弥生時代 |
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石包丁
橿原市四分遺跡
大型石包丁
明日香村阪田遺跡 |
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弥生時代 |
石器 縄文時代
橿原遺跡 |
縄文時代 |
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290二面石 7世紀
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二面石は橘寺にある謎の石造物である。江戸時代、境内の近くから運ばれて来た。
石に掘られた二つの顔は人の心の「善」と「悪」を表したものとも言われている。石の裏側は平に加工してあり、もとは他の石と組み合わせて使ったらしい。 |
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300第2展示室 山田寺
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301山田寺東回廊の礎石
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東回廊の礎石は、全て花崗岩が使われていた。上面を方形に造り出し、更にその中央に径60cm程の円形の柱座をつくる。この柱座の周囲には、金堂と同様に単弁12弁の蓮華文が半肉彫りで刻まれており、壁を受ける東側のものには、南北方向に方形の地覆座が作り出されている。
礎石に蓮弁を刻む例は、中国・朝鮮半島では しばしばみられるが、わが国では極めて珍しい。 |
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302山田寺の歴史
建立
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641(舒明13)、蘇我氏一族の曽我の倉山田石川麻呂の氏寺として建立開始。飛鳥への東の入口を押さえる交通・戦略上の要地であった。 |
堂塔の建設
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大化5(649)願主石川麻呂が中大兄皇子に謀反の疑いをかけられ、完成間もない金堂前で自害。造営は中止。
天武朝に入って石川麻呂の孫によって伽藍全体が完成する。後の持統天皇の力が大きかったのだろう。天武氏4年(685)完成。44年経過。 |
山田寺の仏たち
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現在、興福寺宝物館に有る仏塔と東金堂の日光・月光の両菩薩は、元々山田寺に安置されていた薬師三尊像である。
鎌倉時代に、焼失した興福寺東金堂を再建し、山田寺から移したが、その後中尊の薬師如来像は破損して仏塔だけが残った。
このほか、山田寺旧蔵とされる、阿弥陀三尊像が、法隆寺献納宝物144号として東京国立博物館に収蔵されている。
台座の腰板背面に「山田殿像」の銘があり、像の様式から山田寺が完成した天武朝末年頃に寺に納めたものだろう。 |
その後の山田寺
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完成後、平安時代になるまで、山田寺に大きな変化はなかった。10世紀末から11世紀前半に東回廊が倒壊し、12世紀後半には塔と金堂が焼失した。
その後は講堂を中心に法灯を守り継ぐ。
現在は、講堂跡の西北部に元禄15(1702)建設の観音堂があり、法相宗に属し、木造十一面観音立像を本尊としてまつり、役行者像や弘法大師像を安置する。 |
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山田寺の歴史 |
山田寺の建立 |
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堂塔の建設 |
山田寺の仏たち |
その後の山田寺 |
山田寺の伽藍配置 |
阿弥陀三尊像 |
山田寺の観音堂 |
扉口模式図 |
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303山田寺跡出土品
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軒先復元模型 |
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山田寺跡出土品 |
腰壁束こしかべづか |
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東回廊の部材 |
東回廊の発掘 |
瓦 |
連子窓 |
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東回廊 |
木組みの復元 |
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304復元された連子窓
復元された連子窓 |
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基壇を覆いつくす
落下瓦 |
出土した瓦 |
落下瓦 |
発掘された連子窓 |
木組み
大斗出土状況 |
散乱する部材 |
発掘 |
発掘 |
東回廊の基壇 |
礎石に刻まれた蓮華座
扉口の礎石と地覆石 |
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305山田寺の建築
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東回廊は、7世紀の半ばに造られ、11世紀前半頃まで地上に建っていた。建物として使われていた350年間に部分的な改修を受けてはいるが、
倒壊後1000年の間、全く人手に触れない状態で、地中に眠っていたことになる。
これまでも断片的に建築部材が出土した例はあるが、山田寺の様に主要な構造がほぼ完全な形で見つかったことはない。
復元された回廊は、現存する何れの建物より古く、古代の建築技法や様式の歴史を知る上で貴重である。 |
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山田寺の建築
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回廊立面図 |
東回廊の部材
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東回廊の部材2 |
回廊 見取り図 |
出土した各所の部材
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306発掘された山田寺の伽藍
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発掘された山田寺の
伽藍
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参道と南門 |
中門と南回廊 |
塔 |
石灯籠と礼拝石 |
金堂 |
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307
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灯籠の台座は本物 |
北回廊 |
講堂 |
宝蔵 |
茅負 |
茅負 |
大斗 |
肘木 |
回廊の瓦 |
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311出土物
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造営前の土器(飛鳥Ⅰ)
南門南出土 |
香炉 旧境内周辺 |
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香炉、 |
施釉陶器 宝蔵周辺
墨書土器 旧境内 |
文字瓦 旧境内 |
山田寺の瓦 |
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312山田寺の瓦
山田寺の瓦 |
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蓮華文鬼瓦 |
隅木先飾金具
旧境内・塔周辺 |
隅木先飾金具 |
隅木先飾金具 |
隅木先飾金具 |
風招 塔出土 |
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313
金堂の瓦 |
塔の瓦
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金堂の瓦 |
塼仏 |
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大型独尊塼仏
小型独尊塼仏 |
塼仏 |
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銅板五尊像 |
銅製押出仏 |
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山田寺の仏頭 7世紀 山田寺旧講堂本尊
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山田寺旧講堂の本尊として685(天武14)に完成した如来像は、1186(文治2)に興福寺金堂に移されたが、後に火災に遭って頭部だけが残った。
明るい表情、童顔、大きな弧を描く眉、切れ長の目などは、初唐の影響を受けた初期白鳳仏の特色である。
今、興福寺東金堂本尊の左右にある菩薩像は、もと、この像の脇侍であった。
7世紀後半になると、氏寺においてもこのように脇侍が独立した大きな三尊物が、多く造られるようになった。 |
山田寺仏頭 |
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320出土材の保存 |
321出土材の保存
出土材の保存 |
PEG処理 |
部材の保存 |
部材の展示 |
階段耳石の羽目石 |
階段耳石の羽目石 |
階段耳石の羽目石 |
階段耳石の羽目石 |
羽目石の絵 獅子 |
階段耳石の羽目石 |
地覆石 |
地覆石 |
倒壊現場の展示部分 |
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双頭鴟尾 |
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双頭鴟尾 |
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柱 |
巻斗 |
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地下展示室
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400高松塚古墳 |
401石室
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石室
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石室 |
石室概念図CG |
石室の外観と石材名称
三次元モデル |
木棺と木棺台 |
木棺と木棺台 |
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403拓本 北壁石
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404拓本東壁石3
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拓本東壁石3(北面) |
石室での位置(上面視) |
東壁石3の加工痕跡の拓本 |
様々な石材加工痕跡 |
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405石室解体作業
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石室解体作業 |
石室解体のために制作された治具 |
専用トラックでの輸送 |
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406石室を解体する工程
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407石材の細部を観察する
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408室内の細部を観察する
石室内の観察細部を観察する
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石室内の細部を観察する |
西壁・床面の観察 |
北壁の観察 |
石室平面図 |
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409石室解体
石室模型 |
石室模型 |
解体作業前の石室 |
解体作業前の石室 |
南壁石のテコ穴 |
天井石3東面のテコ穴 |
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420キトラ古墳石室内模型 |
421
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430保存環境の悪化
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壁画保存環境の悪化 |
原因1
石材の隙間と植物の根 |
石材の隙間と植物の根 |
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原因2
カビなどの生物被害 |
カビなどの生物被害 |
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原因3
微生物と虫の食物連鎖 |
微生物と虫の食物連鎖 |
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※かつてTVでも取り上げられたが、高松塚古墳の壁画が黴の浸食を受け、ボロボロになり解体せざるを得なくなったのは、管理に問題があったのです。
それは機械や空調ではなく、人の管理である。発見後立ち入り禁止であったはずの石室内へ、色々な有名人や賓客を、平服のままで立ち入らせ
特権階級には見せていたのだ。このため、黴が蔓延し、とうとう、解体管理を余儀なくされた。当時の偉い人たちのやることはこんなことだった。
従って、ここで、もっともらしいことを書いているが、自然に発生した劣化ではなく人的なものであり、文書化する気になれないのです。
また、かつて、NHKでも自慢げに放送されていたが、虫食いの仏像の穴にある接着剤を流し込み、やがて租明日部像や美術品から一斉に黴が噴き出し
どうにもならなくなった例もある。あまり面白くない現実です。
第一、高松塚が見つかるまでは、星の数ほどの古墳が、機動隊に守られたブルドーザに破壊され、消えていきました。
それを阻止しようとした学生たちは、機動隊に棍棒で殴られ続けたのです。それが日本の考古学です。 |
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440壁画の修理
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壁画の修理 |
石室解体直後
西壁女子群像
2007撮影 |
現在の状態
2017撮影 |
石室解体具 |
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450ローソン飛鳥店
飛鳥の記憶
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ローソンの開店に先立って、発掘調査を実施したところ、店舗の下にあたる南区からは池上遺構、駐車場の下にあたる北区からは山田道南側溝とみられる東西溝など、古墳時代~飛鳥時代にかけての様々な遺構・遺物が見つかりました。
いつの間にか忘れ去られてしまった、いにしえの飛鳥の記憶が発掘調査を通じて蘇りました。 |
東西溝(山田道南側溝)
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山田道は日本最古の和歌集『万葉集』や平安時代に説話集『日本霊異記』などにその名がみえる古代の道路です。
現在地のすぐ北を通る剣道とほぼ同じ位置にあったと考えられており、西は下ツ道、東は上ツ道という古代の南北幹線道路と繋がっていました。
現在地を境にして、西方の平野部は直線区間、東方の山間部は地形に沿った曲線区間となっています。
直線区間については、飛鳥時代中頃(7世紀中頃)に大規模な土木工事を行って道路をつくったことがわかっています。
駐車場の北端で、この山田道の南側とみられる東西溝が見つかりました。
興味深いことに最も広い所で幅1.8m深さ0.7m有る溝が、東へ行くに連れて浅く、狭まっていき、6m程で完全に消えてしまいます。
現在地の雌雄片は南東方向が高く、北西方向が低い傾斜地にあたることから、後世に耕地化する際、地形を平坦にしたことにより、東方は完全に削られてしまったものと見られます。
雷丘のすぐ東でも山田道南側溝とみられる溝が見つかっており、山田道が少なくとも約400mに渡って、ほぼ直線に延びていることがわかりました。
剣道の北側で北側側溝が見つかっており,両社の感覚から古代の山田道は現在の剣道の倍以上の21~22mの東西道路であったと推測されます。 |
池状遺構
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店舗の下にあたる南区では古墳時代後期(6世紀)から飛鳥時代前半(7世紀前半)にかけて人工的に築造し、飛鳥時代後半(7世紀後半)に埋め立てられた池状遺構が見つかっています。
正確な規模は不明ですが、周辺の地形と発掘成果から見て、南東から北西に向かって伸びる谷状の自然地形を領して築造された、灌漑・治水用の小規模な溜池と考えられます。池状遺構を埋め立てた土の中からは、飛鳥時代後半(7世紀後半)の土器や木簡をはじめとする木製品が大量に出土しました。
規模は異なりますが、大阪府の狭山池や磐余池と推定される橿原市の東池・池之内遺跡と並ぶ初期の溜池がこの地に存在したことが発掘調査によってはじめて明らかとなりました。 |
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飛鳥の記憶 |
東西溝(山田道南側溝) |
調査区全図 |
調査区全景 |
山田道と南側溝と想定される東西溝 |
池状遺構 |
池状遺構全形 |
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