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01~12「会津只見考古館」 まで飛ばしてください。何度も書いています。 01会津高原の形成 (会津) 新生代 新第三紀 中新世 中期 (1630万年-1040万年前) 東北地方は水深数千mの海底でした。奥羽山脈付近は火山活動が活発で深い海にはなりませんでした。 新生代 新第三紀 中新世 後期~鮮新世 (1040万年-260万年前) ①図 中新世後期 (1040万年-530万年前)になると太平洋プレートの圧力は増大し、プレート側の海は隆起し、奥羽山脈は陸化し始める。 ②図 鮮新世 (530万年-260万年前) になると出羽山地・奥羽山脈周辺は隆起し続けました。 新生代 第四期 更新世 前期~後期 (260万年-1万年前) ③図 第四期は、東北地方がより強く太平洋プレートに押され、奥羽・出羽山地が隆起して高くそびえ、低地は沈降し現在の地形が出来ました。
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福島県の地形 東北地方南部は、南高北低で、これは新生代の地形の名残です。 従って、河川は北行し、次いで隆起した奥羽山脈によって東行西行して,海に注ぎます。 東北地方南端の南会津地方では、 東北地方が海底だったころに陸地であったため、浸食を受けていました。やがて東北全体が隆起をはじめると、 南会津以南も共に隆起し、高原になりました。このため、高原のふもとは切り立った渓谷、高原の上は緩やかな老年期地形となりました。 火山活動の開始 また、そこにプレート運動による火山活動が生じ、隆起台地上に高い火山がそびえるようになりました。 こうして、福島県南部、栃木県、群馬県、新潟県に及ぶ広大な台地と山岳地形が形成されました。 |
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会津高原は、 広大な隆起台地の上にある老年期地形の別世界です。高原は、福島県、栃木県、群馬県、新潟県にまで広がる広大な台地です。 高原へは、 会津若松市から、阿賀野川や只見川に沿って、壮年期地形の深い淵の続く険しい渓谷を遡っていきます。 只見川沿いでは、只見町から沼田街道に沿って東進すると、それまでの深い渓谷が急になくなり、広々とした平地と穏やかな河川の風景が広がる。 山上の別天地、 桃源郷に来たことを驚きを持って体感します。なだらかな地形、穏やかに流れる河川、低い山々。のどかなくらし。 同じことを、尾瀬登山に桧枝岐村に辿りついた明治の人々は、色々な意味を込めて、そこを桃源郷と呼びました。 只見川にダムができるまでは、 日本海から150㎞も離れた高原まで鮭が毎年遡上し、人々の暮らしを潤しました。1957年着工の時点で鮭は獲れなくなった。 気候は寒冷で、農業生産もままならない土地ですが、 厳しい冬と豪雪も、かつてはこの山岳に住む人々を侵略者から守ってきました。 |
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02八十里越えとは 古くから、日本海側の主要拠点集落だった長岡と、太平洋側を結ぶ主要交通路です。 山稜ルートですから、旧石器時代から使われていたのでしょう。 ルートは、新潟県魚沼市から、福島県会津只見町へ越す途中にある、32km余りの長い難所、峠道です。 先史時代は踏み分け道ですから、危険かつ時間がかかり、途中で一泊する必要があったでしょうし、クマなどの危険動物も多かったでしょう。 火焔土器は、縄文中期に、ここから馬高ムラに行った大木式土器が、大きく影響を与えて成立し、会津地域へも、逆輸入して持ち込まれました。
火焔土器に影響した土器は、 東北―大木式、 関東・東海―五領ヶ台式、阿玉台式、勝坂式、加曾利式、曽利式、 北陸―新保・新崎式、上山田・天神山式 これらの広範な地域から、当時の長岡まで、河川・山稜の踏み分け道を通って人々が訪れていた。 いったいどのような魅力が長岡にあったのでしょうか。 河井継之助 戊辰戦争の折に、この峠を利用して巧みな用兵で新政府軍と戦った、武士の話は、司馬遼太郎の小説「峠」に感動的に描かれている。 |
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10 |
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11行程 |
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会津只見考古館 12窪田遺跡 遺跡は、縄文後期から弥生中期にかけての集落遺跡です。調査が行われて多くの貴重な遺物を検出しました。 中でも、再葬墓の発見は伊南川流域に於いて最初であり、住居に近接している点では全国的にも珍しく、貴重な遺構で、県史跡に指定されました。 この一帯は近くの伊南川の段丘西に位置し日照時間が長く、又、川を遡上するサケ・マスや、アユ、山にはクマ、カモシカなど多くの動物も生息し 先史時代の人々にとって恵まれた環境だったと思われます。 |
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15入口展示
屋内の神々 ~鴨居の上のフダハリバ~ 家を守る神への信仰 鴨居の上にあるフダハリバ (札貼り場) には様々な神符・神札を納めている 屋内には、様々な神々が祭られています。座敷はもっとも聖なる空間とされていて、トコ(床)と仏壇が並べて設けてあります。 トコの上に神棚を設け、伊勢皇大神宮もしくは天照大神の掛軸を掛けて祭ります。また、鴨居の上には神棚又はフダハリバ (札貼り場) を設け、 氏神をはじめ諸神の神符・神札を納めて祭っています。居間にはエベス様、ミンジャ水屋には水上様を祭ります。 エベス様は農家では作神さま、商家では商売繁盛の神として信仰されています。 |
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19窪田遺跡 |
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20只見の原始古代 只見の遺跡は、 旧石器時代末期の物が最も古く、縄文早期・前期の物は未検出です。その後、中期・後期・晩期・弥生・古墳時代へと継続していきます。 これらの遺跡のほとんどは只見川・伊南川の河岸段丘上に点在しています。 その理由は、河川が重要な交通手段であったこと。 更に、河川を遡上するサケ・マス等の水産資源に恵まれていたことがあげられます。 他地方との交流があったことは土器の形からも裏付けられ、只見は関東と東北と北陸(新潟)の文化の接点であったと言えます。 原始時代のムラの交流 原始時代からムラ同市の交流は盛んに行われ、自分の住む地域にないものを、物々交換等によって他集団から手に入れました。 遺跡から出土した黒曜石の石族は、天然ガラスで加工しやすく、刃の鋭さから貴重品でした。 黒曜石の産地は限られており、窪田遺跡の物は栃木の高原山産・伊豆の神津島産でした。また、アスファルトの付着した石族も出土しました。 これは鏃と柄を接着するために用いられましたが、これも日本海側の新潟方面よりもたらされたと思われます。 このように出土遺物から、原始時代の交易の広さを知ることができます。 窪田遺跡とは 縄文後期から弥生中期 (4000~2000年前) にかけての集落跡です。縄文住居4棟 (4-7号) 弥生住居2棟 (1-2号) が検出されました。
※只見町遺跡分布図 このとんでもない山奥の谷に、こんなに沢山の遺跡が成立したのは、水産資源が大変豊富で、おそらく膨大な数の鮭が遡上したのでしょう。 旧石器2、縄文31、弥生7、古墳1、平安3、中世31、合計75か所の遺跡を検出 引用第2章 歴史的条件 - 只見町 ※2只見町の年表 旧石器時代の原遺跡・蒲生遺跡を除いては、全て、縄文後期~弥生中期に集中している。 この時期は、寒冷化により中期の大規模集落が維持できなくなり、小規模集落または、単独で暮らしました。 きっと人々は、新たな生活の糧を求めてこの豊かな土地、桃源郷に辿りついた幸せな人々だったのでしよう。 |
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21旧石器時代~縄文時代panel |
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22panel
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お詫び 福島県・会津地方における後期・晩期における土器形式を調べるのですが、ほぼわかりませんでした。 考察 窪田遺跡の位置 窪田遺跡は
沼沢火山の噴火
縄文後期の窪田遺跡
会津高原は、
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窪田遺跡 30縄文後期・晩期 31土器 |
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42後期の土器
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36晩期の土器 |
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44縄文晩期の土器・土器片 亀ヶ岡式 (大洞式) 土器 |
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50弥生時代 |
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51縄文・弥生 |
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55弥生土器※ 弥生時代中期 窪田遺跡 遠賀川系土器 遠賀川系土器は、日本海ルートでやってきた弥生人達で、東海・関東経由ではなかった。といえる。 |
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60古墳時代 四世紀になると西日本は大陸文化の影響を強く受け、やがて大和地方を中心とした古代国家が形成され、また、各地方に豪族が誕生しました。 豪族たちは4世紀から8世紀にかけてその権力の象徴として墳墓-古墳を築きました。 4世紀後半、 既に会津地方には大和政権と交流を持った豪族が居住し、死後、会津若松 一箕山の山頂に全長約114mに及ぶ大塚山古墳に葬られました。 只見地方もこの豪族の影響を受けたと思われますが、只見町での古墳時代の遺跡・遺物は少なく、どのような関係があったかは明らかではありま せん。 ひとくち話 -会津地方の古墳時代- 会津地方最古の古墳は会津大塚古墳とされ、四世紀後半の築造と考えられていましたが、最近の調査で、これよりも古い、 四世紀前半の古墳周溝墓の杵ガ森古墳 (全長約46.5mの前方後円墳) が会津坂下町より発見され、東北の古代のイメージを塗り替えつつあります。 窪田遺跡の調査 ひとくち話 田中屋敷 会津只見考古館付近は、昔から「田中屋敷」と呼ばれる所で「田の中に屋敷があることからこの名が付いた。いつの頃か、「ここは素焼きの壺を 焼いて暮らしていたらしい」という話が残っています。おそらく、この辺りから多くの土器のかけらが出土するために生まれた伝説かと思われます。 |
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70弥生土器 |
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71pottery弥生 |
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80再葬墓 縄文時代の終末期から弥生時代にかけて関東から東北で行われた特異な墓制です。いったん死者を埋葬して、骨だけになった状態で取り出し、 再び土器に納めて埋葬するものです。 再葬墓の発見は伊南川流域に於いては、窪田遺跡が最初であり、住居に近接している点でも全国的に珍しく、貴重な遺構と言えます。 ※縄文時代晩期から弥生人がやってきて、生活・文化を築いていたことの証です。 ひとくち話 再葬墓 「ある年の田植え時、馬で代掻きをしていたら、馬の足首に真っ赤な血が付いた。その足を洗ってみたら、そこは傷一つなくて、 赤いのは朱であった。」という話が残っています。 朱は原始古代の人々にとって「再生」を意味する特別な意味があり、土器にも塗られることがあることから、そこは再葬墓域だったと考えられます。 ※再葬墓に高価な輸入品である、水銀朱が用いられていたということは、有力な人々が来て、大陸と交易していたことを意味します。 被葬者は縄文人ではなく、大陸・半島の弥生人だったのでしょう。 |
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81再葬墓 |
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82再葬墓模型・土器棺
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推測 荒海式土器は、縄文系土器 で 庄ノ畑式土器は大陸系土器です。すると、この地には、畑作遊牧系弥生人と、狩猟漁労採集縄文人が 暮らしていたということになります。しかも、弥生前期から中期初頭にかけて。実に早い弥生化速度です。 |
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90原始のムラ 縄文 |
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100七十苅遺跡 縄文時代中期 (5000~4000年前) から弥生時代中期 (2200~2000年前) 福島県南会津郡只見町小林七十苅 引用広報ただみ 遺構 竪穴状遺構3基 掘立柱建物跡1基 土坑44 柱穴154 溝跡1条 など 土器 加曾利B式(縄文後期 千葉県加曾利貝塚) 大洞式(縄文晩期 岩手県大洞貝塚) 南御山Ⅱ式(弥生中期 会津若松市) 石器 多数の打製石斧、独鈷石 |
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104土器 七十苅遺跡 |
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110 窪田遺跡 |
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111住 窪田遺跡では、縄文後期から弥生時代にかけての竪穴住居跡が6棟検出されました。 地面を40~50cm・直径4~6mの円形に堀り、支柱を立て、桁を渡し、垂木で家の骨組を作り屋根を茅葺きで覆ったものです。 住居中央には炉が開かれ、既に屋内で炊事が行われていたことが分かります。 |
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112食 縄文時代は狩猟・漁労・採集によって食料を獲得していた時代でした。 男達は犬を伴い。獲物を求めて山野を駆け、弓矢などで狩りをしました。 漁労は秋に遡上するサケマスが中心でしたたが、漁網も使用したと思われ石の錘が出土しています。 また、木の実の採集は女性や子供の仕事だったと思われます。ドングリやトチの実はアク抜きをしたうえで、粉状にしクッキーや団子に加工して 保存食にしていました。栄養度が高く、あるデータではクッキーを一日十個食べれば、成人男性の必要なカロリーを得られるそうです。 衣 縄文人の衣服は毛皮を腰にまとった姿を想像しますが、縄文の遺跡~編布(あんぎん)という、植物繊維を編んで作った布の出土例があり、 縄文人はこの布を縫い合わせた衣服を来ていたと思われます。 窪田遺跡の土器の底には布目が残っているものがあります。また、遺跡からは首飾や耳飾等が出土しました。 |
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113石器 窪田遺跡の石製品 打製石器と磨製石器 磨製石器の方が技術的に進んでいるように思えますが、打製石器の鋭い刃の方が役立つことが多く、用途によって使い分けていたようです。 これらは斧として、あるいは土掘り用の石鍬として使用されたと思われます。 石棒 儀式に使われたと思われています。窪田遺跡の近くには、高さ1mほどの石棒があり、その周辺からは、縄文式土器や石器が多く出土しています。 独鈷石 縄文後期以降に用いられた磨製石器で、両端に刃があるものは両頭石斧と呼ばれています。儀式で使われたものと思われます。 |
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120道具 |
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121tool 石製穂積み具 伊南川流域での稲作の開始を考える上で重要な遺物です。あるいは、稲作以前の原始的農耕、アワやヒエの穂刈具かも知れません 石錘・土錘 遺跡を特徴付けるものに、石錘の多量の出土があります。漁網の錘りと考えられますが、中には作りの簡単な、布を編む錘もあります。 |
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124窪田遺跡の装身具・日用品
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140 |
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141窪田遺跡土器 |
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150宮前遺跡 |
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151 |
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152縄文中期から弥生時代の遺物 |
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171城館跡 中世 |
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172土師器 |
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173弥生時代の土器 |
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174土器捨て場の土器 |
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180観光 只見町から西へ行くと、中級レベルの登山が有名です。 南会津では、桧枝岐村が有名で、平家の落ち武者の里で、周囲の会津の言葉とは違う都言葉を使うムラです。 この伝統的な精神と助け合って生きた人々の風土が、現代まで受け継がれています。 この村から、尾瀬に登山していました。豪雪地帯で、芦倉ワカンと桧枝岐ワカンが登山では有名です。 |
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182只見町から南会津町へ
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183大内宿 テレビで見てよく知っていました。しかし、行ってみたいけれど、こんな遠い山の中に行くついでがないと思っていました。 今回訪ねられて本当にうれしかったです。でも、できれば、人が少ない時間帯がよかったです。 最後まで、何処 と 何処 を結ぶ街道の宿場だったのか、わかりませんでした。 |
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184 大内宿街並み展示館 大内宿本陣 |
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190塔のへつり 海底火山からの堆積物グリーンタフの分厚い層が、河川の浸食によって奇岩や絶景を刻んだ地形です。 へつりは、崖の中腹に人が歩けるような切れ込みがあるところをいいます。 へつる(へずる)=少しずつ取ること |
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