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 東北の縄文1   19  12016.10.18-2 19

   会津只見考古館  福島県南会津郡只見町大倉窪田33  0241-86-2175
                       開館期間4/20~11/23月曜日休館撮影可

  交通  レンタカー 会津若松市内にあり 沿道には観光地が沢山あります。

  時代  縄文時代後期から弥生時代にかけての集落遺跡です。

  見所  縄文時代から、こんなに険しい山中にまで、鮭が遡上していました。
       ダム建設により遡上は出来なくなりました。

       博物館は窪田遺跡の土器捨て場にある展示館です。
       周辺集落の下にはほぼ全て縄文遺跡があり、縄文時代の集落が連綿と
       現代まで続いていると言われています。

       掘れば必ず縄文遺跡が出るという、豪雪地帯にある、遺跡の宝庫です。

 
  おことわり 同一反復があります。何度も編集していたため、同じ内容を何度も書いて、削除できなくなっています。飛ばして下さい。すみません。

  展示について   展示ケースは、おそらく企画展があるたびに何度も移動されたようで、かなり、順序が前後しています。
     こちらの編集で元に戻そうとしましたが不可能でした。 従って、掲示順は時間的に不規則ですが、ご了承ください。


目次
 
01会津高原の形成 (会津)
 福島県の地形
 会津高原は、
  只見川にダムができるまでは

02八十里越えとは

10会津只見へ
11行程

会津只見考古館

12窪田遺跡
15入口展示

19窪田遺跡
20只見の原始古代
  窪田遺跡とは

21 旧石器時代~縄文時代

考察
 窪田遺跡の位置
 沼沢火山の噴火

 縄文後期の久保田遺跡 
 会津高原は
 
窪田遺跡
30縄文後期・晩期
31土器
42後期の土器
41晩期の土器
44縄文晩期の土器。土器片

50弥生時代
51縄文・弥生土器

考察
 会津への弥生文化の波及

55弥生土器

60古墳時代
61panel

70弥生土器
71弥生土器

80再葬墓
81再葬墓
82再葬墓模型・土器棺
83荒海式土器と庄ノ畑式土器

推測 
 
90原始のムラ 縄文
91

100七十苅遺跡
101panel
102斧

104七十苅遺跡

110窪田遺跡
111住
112食・衣

113各種の石器

120道具
121
124窪田遺跡の装身具・日用品

140
141窪田遺跡の土器

151宮前遺跡
152縄文中期~弥生時代の遺物
153

171城館跡 中世
172
173弥生時代の土器
174土器捨て場の土器

 
180観光

182只見町から南会津町へ
183大内宿
184街並み展示館

190塔のへつり

  01~12「会津只見考古館」 まで飛ばしてください。何度も書いています。



 01会津高原の形成 (会津)

 新生代 新第三紀 中新世 中期 (1630万年-1040万年前)
    東北地方は水深数千mの海底でした。奥羽山脈付近は火山活動が活発で深い海にはなりませんでした。

 新生代 新第三紀 中新世 後期~鮮新世 (1040万年-260万年前)

    ①図 中新世後期 (1040万年-530万年前)になると太平洋プレートの圧力は増大し、プレート側の海は隆起し、奥羽山脈は陸化し始める
    ②図 鮮新世 (530万年-260万年前) になると出羽山地・奥羽山脈周辺は隆起し続けました。

 新生代 第四期 更新世 前期~後期 (260万年-1万年前)
    ③図 第四期は、東北地方がより強く太平洋プレートに押され、奥羽・出羽山地が隆起して高くそびえ、低地は沈降し現在の地形が出来ました。


 
①700万年前の列島
1040-530万年前 中新世

太平洋プレートの圧力は増大し、プレート側の海は隆起し、奥羽山脈は陸化した
②3.5-2百万年前の列島
引用wiki日本列島

530-260万年前 鮮新世

出羽山地・奥羽山脈周辺は隆起し続けました。
③福島の地形
引用福島の地形と活断層

260-1万年前 第四紀

東北地方がより強く太平洋プレートに押され、奥羽山脈や出羽山地が隆起して高くそびえ、一方で低地は沈降し現在の福島が出来ました。
④山脈に囲まれた会津地方
引用福島県の地勢・気候

260-1万年前の鮮新世の造山運動によって、
東北全体が隆起し、南に高く北に低い構造ができました。

奥羽山脈の隆起と共に西側の越後山脈を含む一帯も隆起しました。
⑤火山地帯尾瀬
引用尾瀬と東京電力

尾瀬は山岳地帯に突如ふき出した火山です。

激しい造山運動で東北地方に多数の火山が形成され、隆起台地の中にも噴出しました。尾瀬です。

   図② 尾瀬を中心とする陸地は、東北の隆起と共に台地状に持ちあげられ、
山の上の方は老(幼)年期へ、
下部の新たな隆起台地は浸食を受けて削られ、壮年期地形が形成されました。
図④ 会津若松市から会津只見町へは、急峻な渓谷を進み、会津只見から南郷への行程には、穏やかな老(幼)年期地形が現れます。
つまり、東北が海底にあった時に陸地だった地域が、新しい隆起台地の上に押し上げられたのです。そこはまさに別天地、桃源郷のようでした。
図⑤ ただ、この広範な造山運動の巨大エネルギーによって、台地中央地下が溶け、火山が噴出し、火山地帯尾瀬を形成しました。
尾瀬を形成した燧ケ岳の最古の噴火の痕跡は35万年前です。 引用燧ケ岳火山の噴火史
図③ 太平洋側の阿武隈高地は、かつてアルプスのような高山でしたが、浸食によって低山、隆起準平原になりました。
 ※阿武隈高地



 福島県の地形
   東北地方南部は、南高北低で、これは新生代の地形の名残です。
   従って、河川は北行し、次いで隆起した奥羽山脈によって東行西行して,海に注ぎます。

  東北地方南端の南会津地方では、
   東北地方が海底だったころに陸地であったため、浸食を受けていました。やがて東北全体が隆起をはじめると、
   南会津以南も共に隆起し、高原になりました。このため、高原のふもとは切り立った渓谷、高原の上は緩やかな老年期地形となりました。

  火山活動の開始
   また、そこにプレート運動による火山活動が生じ、隆起台地上に高い火山がそびえるようになりました。
   こうして、福島県南部、栃木県、群馬県、新潟県に及ぶ広大な台地と山岳地形が形成されました

 


 会津高原は
  広大な隆起台地の上にある老年期地形の別世界です。高原は、福島県、栃木県、群馬県、新潟県にまで広がる広大な台地です。

 高原へは
  会津若松市から、阿賀野川や只見川に沿って、壮年期地形の深い淵の続く険しい渓谷を遡っていきます。
  只見川沿いでは、只見町から沼田街道に沿って東進すると、それまでの深い渓谷が急になくなり、広々とした平地と穏やかな河川の風景が広がる。

 山上の別天地
  桃源郷に来たことを驚きを持って体感します。なだらかな地形、穏やかに流れる河川、低い山々。のどかなくらし。
  同じことを、尾瀬登山に桧枝岐村に辿りついた明治の人々は、色々な意味を込めて、そこを桃源郷と呼びました。

 只見川にダムができるまでは
  日本海から150㎞も離れた高原まで鮭が毎年遡上し、人々の暮らしを潤しました。1957年着工の時点で鮭は獲れなくなった。
  気候は寒冷で、農業生産もままならない土地ですが、 厳しい冬と豪雪も、かつてはこの山岳に住む人々を侵略者から守ってきました。

 


 02八十里越えとは
   古くから、日本海側の主要拠点集落だった長岡と、太平洋側を結ぶ主要交通路です。
   山稜ルートですから、旧石器時代から使われていたのでしょう。

   ルートは、新潟県魚沼市から、福島県会津只見町へ越す途中にある、32km余りの長い難所、峠道です。
   先史時代は踏み分け道ですから、危険かつ時間がかかり、途中で一泊する必要があったでしょうし、クマなどの危険動物も多かったでしょう。

   火焔土器は、縄文中期に、ここから馬高ムラに行った大木式土器が、大きく影響を与えて成立し、会津地域へも、逆輸入して持ち込まれました。

長岡から福島まで赤線がルートで青線が
八十里越え
現代の八十里越え 紫が江戸時代鞍掛峠・木の根峠 縄文時代の山稜ルート
北から見た図
木ノ根峠・鞍掛峠
点線が旧八十里越え 火焔土器に影響した土器 
引用縄文と古代文明探求
王冠型土器 火焔型土器

 火焔土器に影響した土器は
  東北大木式、 関東・東海五領ヶ台式阿玉台式勝坂式加曾利式曽利式、 北陸新保新崎式、上山田天神山式
  これらの広範な地域から、当時の長岡まで、河川・山稜の踏み分け道を通って人々が訪れていた。
  いったいどのような魅力が長岡にあったのでしょうか。


 河井継之助
   戊辰戦争の折に、この峠を利用して巧みな用兵で新政府軍と戦った、武士の話は、司馬遼太郎の小説「峠」に感動的に描かれている。


 10
  11行程
急峻な渓谷地帯急傾斜の渓谷の街道を行く 向うに広がる穏やかな山稜美しい風景でもあります。
だいぶ上に上がってきました
随分登って来て、もう
山頂かと思うが
足元には、急峻な崖を利用した、ダム湖が次々と現れる。 台地上の老年期地形その奥に広がる、なだらかな老年期の高原。
まさに別天地です。
 










  会津只見考古館






 12窪田遺跡

  遺跡は、縄文後期から弥生中期にかけての集落遺跡です。調査が行われて多くの貴重な遺物を検出しました。
  中でも、再葬墓の発見伊南川流域に於いて最初であり、住居に近接している点では全国的にも珍しく、貴重な遺構で、県史跡に指定されました。

  この一帯は近くの伊南川の段丘西に位置し日照時間が長く、又、川を遡上するサケ・マスや、アユ、山にはクマ、カモシカなど多くの動物も生息し
  先史時代の人々にとって恵まれた環境だったと思われます。

会津只見考古館7棟の住居跡が検出されました。→ 窪田遺跡復元住居直径4~5m、
深さ50cm位の→
史跡「窪田遺跡」大きさに掘り下げ、
屋根を葺いて→
住んでいました。 炉の上には棚でなく
ベッドが作りつけて
ありました。これは、東北南部では一般的なようです。

  15入口展示
会津只見考古館の開館にあたって 奥会津の民俗
屋内の神々
古い信仰で、沖縄から東北まで見られます。
屋内の神々 館内正面
土偶かなり、ほとんど、
見にくい。

 屋内の神々 ~鴨居の上のフダハリバ~
  家を守る神への信仰
   鴨居の上にあるフダハリバ (札貼り場) には様々な神符・神札を納めている

   屋内には、様々な神々が祭られています。座敷はもっとも聖なる空間とされていて、トコ(床)と仏壇が並べて設けてあります。

   トコの上に神棚を設け、伊勢皇大神宮もしくは天照大神の掛軸を掛けて祭ります。また、鴨居の上には神棚又はフダハリバ (札貼り場) を設け、
   氏神をはじめ諸神の神符・神札を納めて祭っています。居間にはエベス様、ミンジャ水屋には水上様を祭ります。

   エベス様は農家では作神さま、商家では商売繁盛の神として信仰されています。






 19窪田遺跡


 20只見の原始古代
 
 只見の遺跡は
  旧石器時代末期の物が最も古く、縄文早期・前期の物は未検出です。その後、中期・後期・晩期・弥生・古墳時代へと継続していきます。
  これらの遺跡のほとんどは只見川・伊南川の河岸段丘上に点在しています。

  その理由は、河川が重要な交通手段であったこと。  更に、河川を遡上するサケ・マス等の水産資源に恵まれていたことがあげられます。

  他地方との交流があったことは土器の形からも裏付けられ、只見は関東と東北と北陸(新潟)の文化の接点であったと言えます。

 原始時代のムラの交流
  原始時代からムラ同市の交流は盛んに行われ、自分の住む地域にないものを、物々交換等によって他集団から手に入れました。
  遺跡から出土した黒曜石の石族は、天然ガラスで加工しやすく、刃の鋭さから貴重品でした。

  黒曜石の産地は限られており、窪田遺跡の物は栃木の高原山産・伊豆の神津島産でした。また、アスファルトの付着した石族も出土しました。
  これは鏃と柄を接着するために用いられましたが、これも日本海側の新潟方面よりもたらされたと思われます。

  このように出土遺物から、原始時代の交易の広さを知ることができます。


 窪田遺跡とは
  縄文後期から弥生中期 (4000~2000年前) にかけての集落跡です。縄文住居4棟 (4-7号) 弥生住居2棟 (1-2号) が検出されました。

只見の原始・古代 原始時代のムラの交流 窪田遺跡とは
窪田遺跡とは 住居跡全景 第1次調査
再葬墓全景 遺跡全体図 只見町遺跡分布図 只見町の年表※2 只見町立体模型 只見の原始・古代
遺跡分布
遺跡名代表的な24の遺跡が表示されている

只見町遺跡分布図
   このとんでもない山奥の谷に、こんなに沢山の遺跡が成立したのは、水産資源が大変豊富で、おそらく膨大な数の鮭が遡上したのでしょう。
   旧石器2、縄文31、弥生7、古墳1、平安3、中世31、合計75か所の遺跡を検出  引用第2章 歴史的条件 - 只見町

※2只見町の年表
   旧石器時代の原遺跡・蒲生遺跡を除いては、全て、縄文後期~弥生中期に集中している。
   この時期は、寒冷化により中期の大規模集落が維持できなくなり、小規模集落または、単独で暮らしました。

   きっと人々は、新たな生活の糧を求めてこの豊かな土地、桃源郷に辿りついた幸せな人々だったのでしよう。





  21旧石器時代~縄文時代panel 




  22panel
   旧石器時代 只見町の旧石器遺跡には 蒲生遺跡 があります。
 
  縄文時代 土器によって、食べられる食物が増え、柔らかく暖かい食べ物を得られるようになりました。
  人々はイヌを伴い、弓矢を用いて鹿・猪などを狩り、ドングリや栃の実などを採集して暮らしていました。
特に、只見川・伊南川を遡上するサケ・マスは彼らの生活を豊かにしたことでしょう。


旧石器時代想像図 旧石器時代只見町には蒲生遺跡があります 縄文時代想像図 縄文時代 ひとくち話


 お詫び  福島県・会津地方における後期・晩期における土器形式を調べるのですが、ほぼわかりませんでした。

 考察
  窪田遺跡の位

 窪田遺跡
会津盆地から只見川沿いに、柳津町、金山町を通って只見町に至り、そこから西へは八十里越えとなる長岡への山稜道。
東へ向かうと山上へ至り、穏やかな老年期地形の別天地が出現します。そこに窪田遺跡があります。

 沼沢火山の噴火
約5000年前、縄文前期末~中期初頭、沼沢火山が火砕流を伴う噴火をし、火砕流及び2.5㎦(立法キロメートル)もの火山灰は東に流れ、
会津盆地に大災害を起こしました。

火山自体はこれによりデイサイトを噴出してカルデラ陥没を引き起こし、沼沢カルデラ湖となりました。
このような大災害とその後の土砂災害が終息し、会津盆地一帯に樹木が進入し動植物が繁殖するまでには長い時間が必要だったのかもしれません。
  しかし、沼沢火山の西を通って只見町から長岡へ抜ける八十里越えは重要な街道として、縄文中期もますます使い続けられました。
そして、麓の柳津町の遺跡出土の中期土器には、新潟県長岡の火焔土器が含まれています。

 縄文後期の窪田遺跡
一帯には縄文後期から遺跡が増加し、この頃、多くの人々が入植をはじめたことがわかります。時代は、寒冷化による飢餓の時代。
それまでの大規模集落を維持できなくなり、個別の小集落を作り、分散して生活しました。

 会津高原は
それまでも広大な食料調達地であったと思います。
春には長期間採り続けられる奥の深い山菜採り場。夏に鮎。秋は遠く日本海から沢山の鮭が遡上し、堅果類が山ほど拾え、
冬には山奥深く動物を追った。

つまり、中期までの狩猟場に、まぁ云わば、ご飯の上に家を建てて住むようなものだったのでしょう。



 窪田遺跡

 30縄文後期・晩期

  31土器
縄文土器
晩期←|→後期
晩期←|→後期 縄文後期土器 縄文後期土器
  42後期の土器 
後期土器片
  36晩期の土器
縄文晩期土器


  44縄文晩期の土器・土器片  亀ヶ岡式 (大洞式) 土器

  







 50弥生時代



  51縄文・弥生
キャプションなし超縄文的弥生土器
晩期磨消縄文系弥生土器
弥生土器 打製石斧キャプション無し 弥生時代の石斧
埋設土器縄文終末期~弥生初頭
深鉢 埋設土器
弥生初頭 窪田遺跡

深鉢 埋設土器
縄文終末期-弥生初頭
窪田遺跡

深鉢 埋設土器
縄文終末期-弥生初頭
窪田遺跡

 考察
  
  会津への弥生文化の波及

     信州南部は、信州北部より弥生文化の浸透は早かったが、それでも弥生中期である。
     会津では、縄文晩期から弥生初頭にかけて、超早い段階で弥生人が日本海側から入ってきたということです。 驚異的ですね。



  55弥生土器 弥生時代中期 窪田遺跡  遠賀川系土器 
    遠賀川系土器は、日本海ルートでやってきた弥生人達で、東海・関東経由ではなかった。といえる。

土器底面
  





 60古墳時代




  四世紀になると西日本は大陸文化の影響を強く受け、やがて大和地方を中心とした古代国家が形成され、また、各地方に豪族が誕生しました。
  豪族たちは4世紀から8世紀にかけてその権力の象徴として墳墓-古墳を築きました。

 4世紀後半
  既に会津地方には大和政権と交流を持った豪族が居住し、死後、会津若松 一箕山の山頂に全長約114mに及ぶ大塚山古墳に葬られました。
  只見地方もこの豪族の影響を受けたと思われますが、只見町での古墳時代の遺跡・遺物は少なく、どのような関係があったかは明らかではありま
  せん。

 ひとくち話 -会津地方の古墳時代-
  会津地方最古の古墳は会津大塚古墳とされ、四世紀後半の築造と考えられていましたが、最近の調査で、これよりも古い、
  四世紀前半の古墳周溝墓の杵ガ森古墳 (全長約46.5mの前方後円墳) が会津坂下町より発見され、東北の古代のイメージを塗り替えつつあります。


 窪田遺跡の調査 ひとくち話 田中屋敷
  会津只見考古館付近は、昔から「田中屋敷」と呼ばれる所で「田の中に屋敷があることからこの名が付いた。いつの頃か、「ここは素焼きの壺を
  焼いて暮らしていたらしい」という話が残っています。おそらく、この辺りから多くの土器のかけらが出土するために生まれた伝説かと思われます。

  61panel
古墳時代 古墳時代 ひとくち話-杵ガ森古墳- 窪田遺跡の調査風景 窪田遺跡の調査 ひとくち話-田中屋敷-
   



 70弥生土器

  71pottery弥生
土器底の文様この頃の編物技術が推測できる


 80再葬墓
  縄文時代の終末期から弥生時代にかけて関東から東北で行われた特異な墓制です。いったん死者を埋葬して、骨だけになった状態で取り出し、
  再び土器に納めて埋葬するものです。

  再葬墓の発見は伊南川流域に於いては、窪田遺跡が最初であり、住居に近接している点でも全国的に珍しく、貴重な遺構と言えます。

  ※縄文時代晩期から弥生人がやってきて、生活・文化を築いていたことの証です。


 ひとくち話 再葬墓
  「ある年の田植え時、馬で代掻きをしていたら、馬の足首に真っ赤な血が付いた。その足を洗ってみたら、そこは傷一つなくて、
  赤いのは朱であった。」という話が残っています。

  朱は原始古代の人々にとって「再生」を意味する特別な意味があり、土器にも塗られることがあることから、そこは再葬墓域だったと考えられます。

   ※再葬墓に高価な輸入品である、水銀朱が用いられていたということは、有力な人々が来て、大陸と交易していたことを意味します。
   被葬者は縄文人ではなく、大陸・半島の弥生人だったのでしょう。


  81再葬墓

再葬墓 ひとくち話 再葬の方法 再葬墓域全体図 細礫群墓域を示す礫を撒いた
再葬墓 再葬墓 土坑部

  82再葬墓模型・土器棺
再葬墓模型 土器棺 弥生前期~中期初頭
窪田遺跡
弥生土器 深鉢弥生前期~中期初頭
荒海式/窪田遺跡
弥生土器 壺
庄ノ畑式/中部地方の様式
窪田遺跡

  83荒海式土器庄ノ畑式土器
荒海式土器 広報なりた 庄ノ畑式土器 松澤芳宏の古代中世史と郷土史 


 荒海式土器  荒海貝塚 (成田市荒海) の土器
    岩手県大船渡市の大洞貝塚の土器を基準とする「大洞A'式土器」の影響を受けた、この地域独特のもので、「荒海式土器」と命名された 

 庄ノ畑式土器 庄ノ畑遺跡
    土器形状がアルタイ民族の皮袋型土器、革袋水筒に似ていること。国内の多地域で同型、また、皮袋型土器が多数出土していることから、
    遊牧民族系の土器であろうと考えられている。

 
 推測
  荒海式土器は、縄文系土器 で 庄ノ畑式土器は大陸系土器です。すると、この地には、畑作遊牧系弥生人と、狩猟漁労採集縄文人が
  暮らしていたということになります。しかも、弥生前期から中期初頭にかけて。実に早い弥生化速度です。




 90原始のムラ 縄文
  91
 



 100七十苅遺跡 縄文時代中期 (5000~4000年前) から弥生時代中期 (2200~2000年前)  福島県南会津郡只見町小林七十苅  引用広報ただみ

  遺構 竪穴状遺構3基 掘立柱建物跡1基 土坑44 柱穴154 溝跡1条 など

  土器 加曾利B式(縄文後期 千葉県加曾利貝塚) 大洞式(縄文晩期 岩手県大洞貝塚) 南御山Ⅱ式(弥生中期 会津若松市)

  石器 多数の打製石斧、独鈷石

  101panel
七十狩り遺跡コーナー 地図は日焼けで見えない 遺跡全景 七十刈遺跡の文化財
掘立柱建物 河川跡 只見町最古の土器
  102stone-ax
打製石斧随分大量に出土したものである。 打製石斧粘板岩などで作る粗製石器 ですから、簡単に作れて簡単に壊れて 簡単に修復できたのかもしれません。
縄文晩期~弥生初頭土器 縄文土器/深鉢 1号竪穴状遺構出土
縄文晩期~弥生初頭
縄文土器/深鉢4号土坑出土 縄文後期


  104土器 七十苅遺跡
遺跡全景右の道を挟んだ地を含め半円形の土地である 縄文後期/2号河川跡
縄文晩期/2号河川跡
縄文晩期/1号土坑
弥生時代/3号河川跡

土師器?/遺構外
弥生終末~古墳
鉢/縄文中期/43号土坑
鉢or壺/縄文後期/2号河川跡
壺/弥生前期/5号河川跡
鉢/弥生前期/5号河川跡
独鈷石/2号河川跡
土師器/坏/古墳時代
遺構外
土師器/甕/古墳時代/
遺構外
会津地方からは、
弥生時代独鈷石
出土しています。

金山町では特異な形でした。

ここでは、普通の独鈷石です。
縄文後晩期のものでしょう。





 110 窪田遺跡

 111
  窪田遺跡では、縄文後期から弥生時代にかけての竪穴住居跡が6棟検出されました。

  地面を40~50cm・直径4~6mの円形に堀り、支柱を立て、桁を渡し、垂木で家の骨組を作り屋根を茅葺きで覆ったものです。
  住居中央には炉が開かれ、既に屋内で炊事が行われていたことが分かります。

5号・7号住居(縄文晩期)
4号住居炉跡/2号住居跡         (弥生時代)
竪穴住居の造り方
5号住居跡

 112

  縄文時代は狩猟・漁労・採集によって食料を獲得していた時代でした。 男達は犬を伴い。獲物を求めて山野を駆け、弓矢などで狩りをしました。
  漁労は秋に遡上するサケマスが中心でしたたが、漁網も使用したと思われ石の錘が出土しています。

  また、木の実の採集は女性や子供の仕事だったと思われます。ドングリやトチの実はアク抜きをしたうえで、粉状にしクッキーや団子に加工して
  保存食にしていました。栄養度が高く、あるデータではクッキーを一日十個食べれば、成人男性の必要なカロリーを得られるそうです。


 
  縄文人の衣服は毛皮を腰にまとった姿を想像しますが、縄文の遺跡~編布(あんぎん)という、植物繊維を編んで作った布の出土例があり、
  縄文人はこの布を縫い合わせた衣服を来ていたと思われます。

  窪田遺跡の土器の底には布目が残っているものがあります。また、遺跡からは首飾や耳飾等が出土しました。

原始時代の狩猟採集 ドングリの食べ方 縄文の衣服 縄文の装い


 113石器  窪田遺跡の石製品

 打製石器と磨製石器
   磨製石器の方が技術的に進んでいるように思えますが、打製石器の鋭い刃の方が役立つことが多く、用途によって使い分けていたようです。
   これらは斧として、あるいは土掘り用の石鍬として使用されたと思われます。

 石棒
   儀式に使われたと思われています。窪田遺跡の近くには、高さ1mほどの石棒があり、その周辺からは、縄文式土器や石器が多く出土しています。

 独鈷石
   縄文後期以降に用いられた磨製石器で、両端に刃があるものは両頭石斧と呼ばれています。儀式で使われたものと思われます。

打製石斧と磨製石斧 打製石器と磨製石器 石棒と独鈷石 石棒
石棒・石剣
独鈷石
独鈷石・石剣・?
  


 120道具
 121tool
 石製穂積み具
  伊南川流域での稲作の開始を考える上で重要な遺物です。あるいは、稲作以前の原始的農耕、アワやヒエの穂刈具かも知れません

 石錘・土錘
  遺跡を特徴付けるものに、石錘の多量の出土があります。漁網の錘りと考えられますが、中には作りの簡単な、布を編む錘もあります。

石製穂積み具 石槍 石錘・土錘 石錘・土錘 石皿 石皿・磨石・栃の実


 124窪田遺跡の装身具・日用品 
 
土版 縄文時代後期以降の遺跡からよく出土します。粘土板に装飾を施し、孔を開け、紐を通して首から下げた護符(お守り札)と思われます
石製品 窪田遺跡からは、装飾品や、何に使われたかわからないような、様々な形をした石製品が出土しています。 
耳栓 耳飾りのことで、子供の頃に耳たぶに孔をあけ、土製のイヤリングをはめ込みます。 縄文後期から晩期にかけて盛んでした。
縄文人は、耳にはイヤリング、首にはネックレスをしていました。
縄文時代終わり頃から弥生時代始め頃にかけての玉類です。 管玉・小玉・勾玉状の玉などがあります。
管玉には、太・細等ありますが、どれも緑色をした硬い石で作られ、中心には穴が開けられています。
今から2000年以上も前の人がどのような技術を持ってこの穴を開けたのでしょう。興味のある事実です。


耳飾り 首飾り 土版 石製品 用途不明の石製品
耳栓 石匙※1縦長の多い東北で
西の影響を受け、
横長の石匙が主流です。
石錐※2 石鏃※3

※1石匙 つまみ状の突起があってスプーンの様な形をしているので石匙と呼んでいます。動物の皮を剥いだりするのに使われたようです。
※2石錐 とがった先端を錐として使いました。 動物の皮などに穴をあけたりするのに使われたようです。
※3石鏃 長さ2~3cmの三角形をした石器で、矢の先に付ける矢じりとして使われました。柄との接着にアスファルトが付着したものが出土しており、
新潟方面の石油産地よりもたらされたものと思われます。






 140
  141窪田遺跡土器

深鉢/小川上野遺跡
大木8a式/縄文中期

弥生土器

窪田遺跡構外出土
弥生時代



 150宮前遺跡
  151 
宮前遺跡 宮前遺跡全景 宮前遺跡航空写真 発掘作業 宮前遺跡展示物 炉跡 複式炉埋甕



  152縄文中期から弥生時代の遺物
宮前遺跡
尖頭器型石器/旧石器/白滝産黒曜石
北海道白滝産黒曜石 七十苅遺跡/栃木県高原山産黒曜石 七十苅遺跡/黒曜石 土器片/縄文中期前半//大倉礼堂遺跡半載竹管の押引文
関東起源の土器
石棒/縄文時代/小林外出遺跡/全長50cm磨製石斧/縄文時代
大倉 窪田遺跡
台付鉢形土器
縄文中期中葉渦巻文が特徴
二軒在家 岩下遺跡
カッパ型土偶/後期
頭部に4つの飾り孔
小型鉢形土器/晩期
蒲生遺跡工字文が装飾
縄文土器片/晩期蒲生遺跡 浅鉢 石鏃 石匙横型・縦型 石棒/晩期/蒲生遺跡石棒/石刀
  153
縄文土器/小林外出遺跡 縄文土器/舘ノ川遺跡大珠のような入念な加工
吊下げ用穴と周囲を巡る
深く切り込まれた溝。単なる石錘にしては力が入り過ぎている造形です。 深沢遺跡 深沢遺跡
石皿/深沢遺跡 縄文土器/石神遺跡 環状石斧/弥生土器
石神遺跡
 



  171城館跡 中世
城館跡 中世 只見の文化遺産 只見町の城館跡(砦跡)
只見の文化遺産 -城館跡-
 会津の地は鎌倉時代、源頼朝が平泉の藤原氏を討伐した際、軍功のあった
 蘆名氏(あしな)・山ノ内氏・長沼氏・河原田氏に分け与えられました。

 それらを称して「会津四家」と呼びます。只見地方は山ノ内氏の所領となり、
 町内にはその支配下にあった城館跡が数多く残っています。

 これらの城館は戦国時代、東北制覇を目指す伊達正宗とそれに対抗する
 山ノ内氏との攻防の舞台となりました。
   
   172土師器
土師器

亀岡後山三ツ岩岩陰遺跡出土
古墳時代以来の赤焼土器をいう
これは内面黒色処理された「つき=坏」で
9世紀頃のものと考えられます。
須恵器 坏 /奈良時代

1200℃程で窯焼きの硬質土器です。
5世紀頃、大陸から製法が伝わりました。
須恵器 小壺
 


奥ː長頸壺/須恵系陶器
前ː須恵器 甕/出土地黒谷

黒谷館跡 甕・壺 末系陶器

黒谷館跡 古瀬戸瓶子・かわらけ
黒谷館跡出土 青磁盤(皿)14-15世紀







  173弥生時代の土器

小型壺形土器環状石斧 小型壺形土器/弥生時代塩の岐八乙女遺跡 環状石斧/弥生時代武器 小型壺形土器/弥生時代塩の岐八乙女遺跡 壺/唱崎遺跡弥生中期 唱崎遺跡//弥生中期



 174土器捨て場の土器
前庭から出土の土器片 色々なデザインの土器片が並んでいます。 会津只見考古館の前庭は土器捨て場だったことが分かります。
 











 180観光
       只見町から西へ行くと、中級レベルの登山が有名です。

       南会津では、桧枝岐村が有名で、平家の落ち武者の里で、周囲の会津の言葉とは違う都言葉を使うムラです。
       この伝統的な精神と助け合って生きた人々の風土が、現代まで受け継がれています。

       この村から、尾瀬に登山していました。豪雪地帯で、芦倉ワカンと桧枝岐ワカンが登山では有名です。

  182只見町から南会津町へ
会津只見考古館付近の幼年期地形 日本の各地に
100万年前以降の
造山運動による丘陵上の古地形(準平原)が残っているんですね 橋の上の防風雪トンネル
すごいですね。NHKの
タイムトンネル」みたい
美しい紅葉でした 南会津町も幼年期地形でした


  183大内宿
      テレビで見てよく知っていました。しかし、行ってみたいけれど、こんな遠い山の中に行くついでがないと思っていました。
      今回訪ねられて本当にうれしかったです。でも、できれば、人が少ない時間帯がよかったです。

      最後まで、何処 と 何処 を結ぶ街道の宿場だったのか、わかりませんでした。

煙出しのある茅葺民家 煙出しを取り去った民家もあります。 会津地方特有の建築様式です。一見二階家 一見平家って、、不思議 地元の主食だったのでしょう。 お焼のように、
今ではおやつ。

  コメのとれない寒冷地では、畑作の麦から団子やうどん、もっと寒冷なら蕎麦を作って主食としました。信州のお焼も主食でした。


  184 大内宿街並み展示館 大内宿本陣
元本陣を展示館にしたものです。 館内には宿の成立から町並み保存の説明パネルが沢山あります 本陣に無関係な野道具や養蚕道具、なども展示していました 台所と囲炉裏、そのそばに機織り気がありました
機織機は反物の汚れ回避に、煙や煤の傍には置かないものです。 中の間 次の間、上段の間
大名の宿所
廊下も壁で覆われている本陣だから。
  185
大内宿最高地点からの眺め これは中二階。江戸時代は平屋だと思っていた 地元の食べ物が売られています 土産物屋のおばあさん
にこやかに、やさしげです
その奥ではみんなが蕎麦食べている。のを、
実は、必死で、、、 おじいさんが大量に蕎麦を打っているのです。 大内宿名物は地元産の   蕎麦

大内宿に来る人は、蕎麦を食べに来るようです。

私は食べる時間がなかった。それに、蕎麦の味が
わからないのです。
 

  190塔のへつり

    海底火山からの堆積物グリーンタフの分厚い層が、河川の浸食によって奇岩や絶景を刻んだ地形です。
    へつりは、崖の中腹に人が歩けるような切れ込みがあるところをいいます。

    へつる(へずる)=少しずつ取ること  
  191
こんな字を書きます 奇岩に名前を付けています。仏塔に見立てたのでしょう。 一帯は危険なところで
今朝捕ってきたマムシです。このまま焼酎漬け。
観光客の事故防止ですが、隣に大きなマムシが漬かっています。恐! 水の色が違うのは、火山性の鉱物が溶け出したから、ではなく、 単純に、深くて、よどんでいるから、だという説明でした。
しかし、藻が繁茂しているわけでもなく、この色は、 アルミ化合物や硫黄が関係するように見えます。 へつりを歩く人々
一路、会津若松へ
平地まで紅葉が下りている。10月18日ですよ。
やはり東北の季節は早く進むらしい とうとう夕焼けになってしまった。これから関西まで帰ります。深夜ですね。 長くて楽しい時間でした。