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 2018特別展の旅 06 2018.09.10-1

  石川県埋蔵文化財センター  石川県金沢市 中戸町118 076-229-4477年末年始休館


交通 JR金沢駅東口⑦番バス乗り場から東部車庫行き、や、金沢学院大行き、末町バス停下車、徒歩25分
※このバスは石川県立歴史博物館の近くを通るので、そこからでもいけます。
※埋文からの帰り道、は曲がりくねっていてもアスファルトの道を通ること。
 広い道は農道で、近そうに見えて遠回りします。
見所 撮影禁止の県立歴史博物館に比べ、ここでは全て撮影可です。
縄文前期の垂飾
 
 目次 展示はテーマ別展示で、時代順ではありません。


01外観

10入口展示
11南加賀窯跡群
22窯跡出土品
23{米」墨書の意味
24古墳終末期の土器
25刻書平瓶


100一階展示場

102石川県遺跡ジオラマ
105タイムポール

110私たちと遺跡
111開発と発掘調査
112弥生遺跡の出土物
 玉・紡錘・布
116鉄器鋳造

120海辺の遺跡
122三引遺跡出土物
123縄文前期の渡来人

考察
縄文前期初頭の海外交流
 三引遺跡の出土物は
 装飾3点セットは何処から
 なぜ、列島に運ばれたか
 漁民が結ぶ半島と北九州

考察2
縄文前期初頭の海外交流2

124三引遺跡の製塩土器
125海を介した交流
126貿易と広域流通の発展

130人々の暮らし
131平地の遺跡
132住居跡
133都市の成立 金沢市
135弥生時代の玉つくり
134弥生中期の管玉製作
136縄文晩期の生活道具
137弥生農耕の広がり
138平安時代の文房具
139城下町の成立

140山の遺跡
141山頂の古墳
142山への祈り
143城郭の形成

151古墳の築造
152仏への祈り
153平安時代の墓
154金沢城跡の発掘
155山に営まれた墓地
156金沢城の瓦

160土器の生産と流通
164古墳時代前期の土器
167土器に見る地域間交流

170技術と交流
171各地から来た土器
173陶磁器の流通

180木器の生産
181木製容器の製作
182縄文・弥生の工具と刳物
183弥生時代の農具
184刳りもの

210ミクロの考古学
211小さな出土物

230加賀郡牓示札
231加茂遺跡


300二階展示場

310入口展示
 時の回廊-暮らしの道具

320旧石器時代
321旧石器時代のくらし
322石材からわかること
323打製石器と石屑
324石器作りの道具
325旧石器時代の道具箱
 東北の影響を受けた石器
 加賀に特徴的な石器
326各種の石器

330縄文時代
331縄文の集落
332土器の移り変わり
 草創期
 前期
 中期
335縄文時代の石器
336後期の土器

340弥生時代
341弥生時代の集落
342生活の道具
343祈りの道具
344いろいろな文様

350古墳時代
351古墳時代の集落
3524世紀の土器
3556世紀の土器
357須恵器

360飛鳥・奈良・平安時代
361奈良・平安の集落
362奈良平安の出土物
 奈良時代の食器
363平安時代の食器

370鎌倉・室町時代
371鎌倉・室町の集落
372中世の食器
374土器の生産

380江戸時代
382肥前磁器以前と以後
383暮らしと陶磁器


400発掘調査速報
401平成29年度
 発掘調査速報パネル展
  


 01外観

施設概念図 ・大変広大な敷地に巨大な施設があり、大きな展示室も小さく見えます。

・施設右側に大きな屋外施設がありました。私は今知りました。

皆様行ってみて下さい。
石川県立埋蔵文化財センター
帰りのバス時刻を聞いておきましょう
玄関ロビーの中庭 立派なモニュメントも
大パネル
金沢市塚崎遺跡

弥生後期の竪穴住居跡
発掘速報
鋳型口で詰まった銅塊
加賀市八日市遺跡
銅の鋳造遺跡
銅の炉を保存運搬 現地説明会など

 これまで、鉄の鍛冶遺構は各地でみたが、こと金沢では、銅の鋳造遺構や、その痕跡が多くみられます。西日本ではほとんど銅の遺構は見なかった。







 10入口展示 那谷金比羅山窯跡群 小松市 古墳時代後期 7世紀中頃






左上、多角形、オレンジ色施設が展示室です。施設が広大過ぎて小さく見えます。
展示室と同じオレンジ色の「3研修室」は企画展用の部屋のようです。

一階見取り図 (クリックで拡大)


 11南加賀窯跡群
  小松市南東部の丘陵部は南加賀窯跡群と呼ばれ、6世紀から始まる石川県内最大規模の窯業地帯です。その一部、通称、那谷金比羅山からは、
  7世紀の須恵器窯12基が見つかり、県内各地で須恵器の生産が活発となる時期の様子を示しています。

  また、「与野評」の文字が刻まれた7世紀中頃の須恵器が出土し、話題となりました。


  那谷金毘羅山窯跡群(なたこんぴらやま) 小松市
   ~「国評制」-を示す刻書須恵器が出土~    昭和57('82)~昭和59('84)年発掘調査

那谷金毘羅山窯跡群
なたこんぴらやま
小松市
-「国評制」-を示す刻書須恵器が出土

昭和57('82)~59('84)年発掘調査
遺跡概要
上に記述
那谷金比羅山窯跡群 窯跡群の配置図


 須恵器を焼く窖窯 (あながま) の構造
  須恵器の窯は、谷に面した丘陵斜面に造られる事が多く、焚口の前には作業スペースとなる平坦な前底部を造ります。その先の傾斜面には
  灰を捨てたり、焼損じた須恵器を捨てた灰原が残っています。


 古代の謎
  701年に大宝律令が整えられ、地方行政区画も、国の下に「郡(ぐん)」が置かれるようになりました。
  それ以前は、郡にあたるものを「評(こおり)」と呼んでいましたが、「評」がいつ頃から置かれていたのか、まだはっきりとわかっていません。

   ※前出の墨書土器「与野評」は、この地域名のことでした。
 
須恵器を焼く窖窯 (あながま) のイメージ
上に記述
窯の変遷 須恵器窖窯作業風景
窖窯の種類
加賀国の須恵器窯跡群の盛衰
加賀国の郡の位置と
窯跡群
南加賀窯は、早くも、5世紀終末期から生産が始まっている。

かなり重要な地図だと思います 

 13窯跡遺跡群
   窖窯の構造がよくわかります
1号窯、4号窯 2号窯、7-2号窯焼成部須恵器出土状況
土馬出土状況
5号窯、10号窯
11号窯・2号窯・7-1号窯 10号窯


 22窯跡出土品

4号窯
須恵器、壺・高坏・平瓶
ハソウ・坏の蓋・鉢
7号窯・2号窯
7号窯、ハソウ・脚付鋺・長頚瓶
2号窯、坏と蓋・高坏・坏と蓋・鋺

 23「米」墨書の意味するもの

  墨書土器の中には、2文字以上の1郡名などを1字で記すものがあります。「倭名類聚抄」という、平安中期に書かれた辞書には、古代律令制の
  行政区画である国・郡・郷の名が網羅されていますが、その中で、"江沼"を「ヨ子」と訓じています。

    ※古代の朝鮮語では"江沼"を"ヨネ"と読んだという意味でしょう。 (えぬまではないのです。)

  他の文献でも、江沼郡を「米郡よねぐん」、江沼を「余奴」「与野」「四沼」などと表記する例があります。


平瓶様製品
須恵器 長頚瓶
「米」墨書土器
須恵器
  坏・坏の蓋・盤

加賀市 松山C遺跡 平安時代
「米」墨書の意味するもの
上に記述


 24小松市那谷金比羅山窯跡群 古墳時代終末期
1・6号窯
須恵器、高坏・高坏蓋
坏蓋・鋺(かなまり)の蓋
6・7号窯
須恵器、鉢(厚底)・坏身・坏蓋・鋺
7号窯
須恵器、鋺・小型壺・円面鏡・平瓶・提瓶

 25刻書平瓶 小松市那谷金比羅山窯跡群 古墳時代終末期
この平瓶は一つの窯跡から出土したのではなく、あちこちから出土した破片が接合したものです。
7世紀中ごろに作られたもので、焼きゆがみもなく、酒器など非日常的な道具と考えられ、破片にして撒き散らすと言った祭祀的な行為が想定されます。

刻まれた文字のうち「与野評」はのちの"江沼郡"をさし、「阿皮田」は地名やウヂ名などの可能性があります。
「佐羅」は物品名、「廿」は数量と推定すると、祭祀などに使うもののリストが刻まれたのかもしれません。

刻書平瓶

上に記述
須恵器 刻書平瓶 刻書平瓶
刻書
刻書平瓶

 土馬 小松市那谷金比羅山窯跡群 古墳時代終末期
土馬 土馬 土馬
焼き台(埦を転用)
須恵器坏(石付着)
 








 100一階展示場






 101展示室全景

 102入口展示 石川県遺跡ジオラマ



 105タイムポール 年表、遺跡地図


  石川県では、少なくとも約3万年前には、人々が暮らしていたことがわかっています。
  これまでにどのような歴史があり、また、同じ頃日本列島や世界では何があったのか、タイムポールで比べてみてください。


 年表
日本、石川県

旧石器~縄文中期
イルカ漁の頃
縄文後期~古墳時代
巨大木柱列~古墳
古墳前期~平安遷都
大型前方後円墳~加賀国設置
摂関政治~応仁の乱
国分寺設置~加賀一向一揆
中国・朝鮮、世界

北京原人、稲作、黄河文明、殷王朝、甲骨文字
猿人、旧人、新人、
インダス文明
周~晋
ヒッタイト~ササン朝ペルシャ
楽浪郡滅亡から渤海成立
民族大移動~ボロブドゥール完成
唐の滅亡~鄭和南海遠征
 




 110私たちと遺跡


 遺跡は土地に刻まれた歴史や文化の痕跡です。
 その多くが長い年月の間地下に埋まっていることから、土器や石器などの出土品を含めて、埋蔵文化財と呼ばれています。

 私たちが住んでいる石川県には約7000カ所の遺跡が知られ、それぞれが郷土の成り立ちを知る上で欠くことのできない貴重な遺産です。
 遺跡の発掘は各時代の情報や知恵が詰まったタイムカプセルを開けるようなものです。

 埋蔵文化財センターでは、道路工事や宅地開発などで失われる遺跡を発掘調査し、記録保存すると共に、得られた成果を広く公開しています。


 111開発と発掘調査
私たちと遺跡 私たちと遺跡 私たちと遺跡
上に記述
開発と発掘調査 施設の整備
野々市市 御経塚遺跡

七尾市須曽蝦夷穴古墳

出土品の保存と活用
 
 112弥生遺跡の出土物
石製工具の威力 磨製石斧は縄文時代から弥生時代にかけて、樹木の伐採や木材の加工に用いられました。

石材は良質の物を選んでいます。
先人の確かな目利きを見ることができます。

・磨製石斧
  金沢市米泉遺跡 縄文時代後期
・太型蛤刃石斧
・扁平片刃石斧
・柱状片刃石斧
  羽咋市吉崎次場遺跡 弥生時代後期

    ・鉄斧 七尾市 赤裏やまと遺跡 平安時代前期

・鉄斧 ・ヤリガンナ ・刀子
   羽咋市 寺家遺跡 平安時代前期


 弥生中期の玉作り
  弥生時代中期には、姫川で採取されたヒスイを使って勾玉を造っていました。ヒスイの玉造は、縄文時代から北陸の伝統でした。

ヒスイ大珠
小松市軽海遺跡
縄文中期
・石釧(未製品) 金沢市畝田遺跡
・石釧(未製品) 金沢市藤江B遺跡
・石釧(未製品) 小松市漆田遺跡


※未成品というよりは、失敗品。
 破片というべきか。
石釧 実測図
中能登町雨の宮1号墳

 114糸を紡ぐ
   あまり強くも長くもない植物繊維から糸を紡ぐ時、繊維に撚りを掛けて太さを均一にして丈夫にしました。
   この時に必要な道具を「紡錘車」と言います。
糸を紡ぐ 紡錘車 木製紡錘車
・金沢市畝田遺跡
 弥生後期~古墳初頭
・七尾市上町カイダ遺跡
 平安~鎌倉
鉄製紡錘車
・金沢市金石本町遺跡
 奈良・平安

土製紡錘車
 羽咋市吉崎次場遺跡
 弥生時代

石製紡錘車
 白山市村井キヒダ遺跡
 平安時代
糸巻。糸枠
・加賀市田尻
  シンペイダン遺跡
  平安時代
・白山市小川新遺跡
  古代末~中世初頭

・白山市小川新遺跡
  古代末~中世初頭


 115布を作る
  縄文時代、「編む」技術を用いて「アンギン(編布)」という布が作られました。
  アンギンそのものが出土することは稀で、土器などに残った圧痕により確認されています。
  弥生時代になると、糸を紡ぐ技術と共に織機が中国から伝わり、織物が作られました。

布をつくる 編台木錘
河北市指江B遺跡
古墳中期~平安時代

アンギン台
経巻具
布巻具
金沢市畝田遺跡
弥生後期~古墳初頭

アンギン台(目盛板)
金沢市畝田・寺中遺跡
弥生後期~古墳前期


 116鉄器鋳造 鋳型
鋳型 鋳型
鍋の鋳型
獣脚の鋳型
鍋や器物の獣脚鋳型。
銑鉄を流し込んで鋳物を作った。
鉄ナベ
白山市福留地内出土
室町時代


 117鋳造遺構の出土品 小松市林遺跡 平安時代末期

鋳造遺構の出土品 鉄塊 出来上がった鉄は、炉から取り出して小割されました。
切断すると、内部にはメタルがよく残っていました。
鉄滓 鉄製の際に出る不純物。

分析すると、
製鉄技術がわかります。
鋳造遺構の出土品
小松市林遺跡
平安時代末期
 




 120海辺の遺跡


海は魚介類の食料が得られる場であり、舟で人や物を運ぶ交通路でもありました。石川県を取り囲む日本海も、豊かな海産物に恵まれ、歴史のある海です。
縄文時代、海辺のムラに暮らした人々は、海から豊富な食糧を獲得していました。貝殻や魚の骨などがムラの近くに捨てられて、貝塚が形成されました。
丸木舟に始まる造船技術の向上は、大陸との交流を発展させ、使節や留学生の派遣を盛んにしました。
波立つ海は神の仕業と考えられ、海神への祈りも生みました。平安時代頃から「津」や「湊」と呼ばれた港町は、商工業の拠点として栄えました。

 121
海辺の遺跡 海辺の遺跡
上に記述

七尾市通ジゾハナ遺跡
縄文集落

金沢市下安原海岸遺跡
弥生集落

金沢市戸水C遺跡
平安集落

七尾市三室福浦B遺跡
中世集落
三引遺跡の調査 遺跡から七尾湾を臨む 貝塚断面 貝塚の分布状況 シカ頭骨・角と
土器の出土状況
中世交通路の発展
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Microsoft Edgeでは
保存不可でした。
Google Chromeでは
保存できました。
IEも可能と思います。


 122海辺のムラの生活 七尾市 三引遺跡 6000年前縄文時代早期末から前期初頭

  気候の温暖化による縄文海進がピークを迎えた縄文時代早期末~前期初頭、人々は海への関心を高め、海浜部で集落を営みました。
  漁労活動では石錘を使った網漁が盛んに行われたほか、骨格製のヤスや釣り針も使われました。採集した豊富な魚介類は食生活に取り入れられ、

  また、貝殻は貝輪など装身具としても利用されています。

 ※貝輪の材料
縄文時代:ベンケイガイサルボオアカガイイタボガキオオツタノハガイアカニシなど約10種
弥生時代:九州地方を中心に,イモガイ,オオツタノハ,ゴホウラ,スイジガイのような大型の巻貝を利用して,それを縦割りにして作るようになった。
   

七尾市 三引遺跡
縄文前期初頭
海辺のムラの生活
上に記述

石錘・釣針・ヤス
海獣骨(イルカ) 貝輪

七尾市三引遺跡
縄文前期


 123交流を示すもの


交流をしめすもの七尾市三引遺跡
縄文前期
玦状耳飾り 玦状耳飾り
垂飾・管玉 垂飾
この形状の垂飾は、初めてみました。
とても複雑で高度な技術です
ここに紐通しの横穴があり、首から下げたのでしょう
管玉も立派な作りです、何をイメージしたのでしょう。
偶蹄目のヒヅメか、
台湾で、この形の、
羊蹄甲の葉を見たことがある。

 縄文早期末~前期初頭に大陸系の玦状耳飾りや、全国で見たこともない高度な加工の垂飾が、奥能登の寒村から出土するのは、極めて珍しい。
  やはり、大陸からやってきた人々が身に付けていたものでしょうか。

 
 考察

 縄文前期初頭の大陸との交流 三引遺跡地図

 三引遺跡の出土物は
まるで普通のものの様に並べられていた垂飾、管玉、玦状耳飾りであるが、実はこれ、この時期に大陸から人々がやってきたことの証である。

玦状耳飾りは、長江下流域の河姆渡文化や、その発展形馬家浜文化で盛行した。何れも、紀元前5000~4000年頃に消長した文化です。

また、以前、由利本荘市修身館「縄文時代の渡来文化」でも取り上げた、遼寧省査海遺跡(縄文早期相当期)の出土品、と
   (転載「縄文時代の渡来文化 -刻文付有孔石斧とその周辺-」)

よく似た、玦状耳飾ヘラ状垂飾管玉である。

長江
転載長江下流域の旱魃
河姆渡遺跡の耳飾
転載中国江南の玦飾に関する一考察
転載wiki河姆渡遺跡 転載wiki馬家浜遺跡 査海遺跡の装身具
転載中国江南の玦飾に関する一考察
査海遺跡の装身具
転載「縄文時代の渡来文化


 装身具3点セットは何処から
だとすると、河姆渡文化は1000年の間に北方へと拡散していったのかと考えたのだが、以下の論文、
   日本海学推進機構 環日本海の玉文化の始源と展開 2.「東アジアにおける玦状耳飾りをはじめとする装身具セットの起源と展開」論文参照
によると、

玦状耳飾り、箆状垂飾、管玉の3点セットは大陸北方の、ロシア沿海州から黒竜江省遼寧省など、華北以北の遺跡からのみ出土するようである。
ここにはないが、前々回の金沢縄文ワールドに展示の「の」字状石製品(垂飾)もまた、同様の伝播であろうと推測される。

そして、論文図中の3点セットと展示品がほぼそっくりであることが分かった。 (偶蹄状垂飾の出自は不明。)
中国では客家の様に中国北部から何千年もかけて台湾まで移動した民族もあり、千年の間に黒竜江省から長江付近まで文化が伝播しても妥当である。
どこかにこれらの生産拠点があり、それを入手できる財力ある者が、北から南へと運び、威信財として交易した。

沿海州
転載沿海州のウニ加工
黒竜江省
家内、中国黒竜江省を
遼寧省
遼寧省の基本情報
wiki華北地域
「の」字形石製品(垂飾)


 なぜ、威信財は列島にまで運ばれたのか
しかし、これらの石製品の伝播は何によって引き起こされたのだろうか。河姆渡・馬家浜文化消滅は、やはり、他民族の侵入でありましょう。
5800~5700年前に地球が寒冷化し中国大陸では、畑作牧畜民が南下した

畑作牧畜民は5700年前には遼東半島・渤海湾に達した。行き場を失った人々の中の富裕層が、船を仕立てて列島にまで逃れてきたのかもしれない。
遼東半島から朝鮮半島西岸づたいに南下し、北九州、更に日本海沿いに北上するのは、季節風による一般的な航路である。

この航路上の福井県桑野遺跡からも、大陸からもたらされた遺物が発見されている。(桑野遺跡:あわら市旧金津町:地図

畑作牧畜民の南下
渤海湾にまで南下した
畑作牧畜民は、
漁師や交易船を扱う商人になったのか。それとも
共同体社会と人類婚姻史
渤海湾
そただ塩辛い海を眺めていただけだろうか。
韓国が恐れる死の海
渤海湾から列島への
安全航路
日本海や八丈島へも行ける航路です。
日本の歴史と日本人のルーツ
福井県桑野遺跡の
三点セット
転載「縄文時代の渡来文化


 半島南部と九州北部は漁民で繋がっていた
九州北部からは半島系漁具をはじめとする半島文化の遺物が多数出土する。もともと繋がりを持っていたのだ。
7300年前の鬼界カルデラの大爆発直後に現れたのは、半島系土器であり、その後も次々と半島系土器が押し寄せてきた。

そう考えると、5000年前の、「の」字状垂飾全国各地、伊豆諸島八丈島からも出土する理由がうなずける。

また、同時期の6000年前に岡山県灘崎町彦崎貝塚から穀物のプラントオパールが大量に出土したのも、関連することだと思われる。
  リンク 稲作の起源 稲作は何処まで遡れる 四国新聞  彦崎貝塚発見の温帯ジャポニカ

 結論
装身具3点セットは、寒冷化による民族の南下によって圧迫された人々が、遼東から半島伝いに列島に渡り、日本海沿いに移動してもたらされた。


 
 考察2
  縄文前期初頭の大陸交易2

上記大陸交易①では、半島や大陸から、西回りで、九州から日本海沿いに人々がやって来ること(移住して戻らない)を念頭に推論してきた。
 しかし、これら縄文オーパーツの分布が北に偏っていることも事実である。

 大陸の混乱を避け、列島へ逃れたのなら、なぜ、更に危険な船旅を続けて日本海を北上する必要があるのだろうか。北部九州で十分だ。


北海道渡島半島から、縄文早期前半(9000年前)の漆装飾の衣装が出土していた。これは、北方民の交易によるものである。
  (参照:垣ノ島遺跡 世界最古の漆の糸  縄文文化交流センター16漆糸飾りの死に装束
 北方では交易なしでは生きられない。生活必需品の石器材料すら手に入れることが出来なくなるのである。

 また、北方民族は舟の達人でもある。小さななカヤックで、樺太から佐渡島や、富山湾までやってきていたことも知られている。
  (それは後世のことだが、舟と航海技術は長く変わっていないから、6000年前でも同じことである。)

 すると、これら装身具3点セットは、交易によって北方から持ち込まれたものかもしれないといえる。(ここでは交易を強調している。)


装身具3点セットの出自は、北方民族発祥のものであることが今回明らかとなった。
 遠く、寒冷な沿海州・黒竜江省から、まだ、大国が成立する前の中国で、江南まで分布し、河姆渡遺跡で大流行していたということは、
 大変活発な交易がおこなわれ、米栽培に成功して裕福となった河姆渡遺跡に、そのような威信財が集まったのでありましょう。

 大陸内でそれだけ大規模な威信財としての流通が起こっていれば、北海道の北方交易や、朝鮮半島との交流で流入してくるだろうし、
 価値あるものとして、列島内でも模倣されて流行したのでしょう。台湾でも先住民族が高度な技術で管玉の大量生産をしていました。


後世の渤海国は、列島に何度も使者を送ったが、最初は朝鮮半島東岸を南下していたが、最後には、樺太経由でやってきていた。
 大陸からの避難民が半島経由ばかりでなく、樺太経由でやってきたとしてもおかしくはない。

 事実、ゲルマン民族の大移動の際には、この経路を通って多くの人々がやってきて、アキナケス剣や、追分節をもたらした。
 (民族大移動はヨーロッパのみでなく、逆に東アジアへ逃れ、凍った間宮海峡を徒歩で樺太に渡り、東北地方に達した人々もいた。)

5000年前の「の」字状石製品の分布では、北から南下し、富山湾付近に上陸して信州を横断するルート上に分布していたりする。


縄文時代初期から、列島と大陸は、細々とではあるが、北方ルートの交易や、西ルートの漂着、両ルートの亡命も頻繁にあったと考えられます。

 装身具3点セットが第1陣なら、「の」字状石製品は、装身具第2陣ということになる。ただしこれは、あまり流行しなかったが。



最後に、石川県奥能登の三引遺跡出土の、大陸由来の装身具3点セットは、明らかに海上交通によってこの地にもたらされたものである。
 松江半島・若狭湾・能登半島の西岸は風裏の寄港地として最適であり、西の朝鮮半島から、また、北からの長い航海の到達地として、
 交易や亡命、移住など様々な目的の旅人が立ち寄り、新しい文化を後世に残して行ったようである。

 
 



 124古墳時代の製塩土器
  5世紀頃から七尾湾沿岸で台脚土器を使った製塩が始まります。
  大阪湾沿岸や伊勢湾沿岸で同形の土器が出土しており、製塩技術の伝播を考える上で重要な資料です。


 七尾市三引遺跡 古墳時代
製塩土器 古墳時代の製塩 台脚製塩土器
能登の製塩土器は独特な形状です。

製塩土器が塊になった状態

 
 飛鳥・奈良時代の製塩土器
  飛鳥時代の製塩
   7世紀頃には、能登半島の海岸一帯で棒状脚の土器が製塩に使われました。
   同形の土器は伊勢湾沿岸にあり、この時期の製塩技術が伝播した起源を推定できます。

飛鳥時代の製塩土器
7世紀
飛鳥時代の製塩 飛鳥~平安時代の
棒状脚製塩土器
珠洲市宇治役場遺跡
飛鳥~平安時代の製塩土器

 ※能登半島では
   内浦:富山湾側(半島の東岸)
   外浦:日本海側(半島の北岸および西岸の日本海側)


 奈良・平安時代の製塩 8世紀
  内浦では棒状脚の土器が使われ、外浦では若狭湾沿岸に起源を持つ平底土器が使われていました。
  平底土器を使用する製塩技術は、東北地方の全域に伝わっています。

奈良・平安時代の製塩 古墳時代の製塩

同一反復しています
 


 125海を介した交流
  三方を日本海に接する石川県(古代では加賀国と能登国)では、古くから海路を中心とした水上交通が発達していました。

  水上交通には、遠距離への大量輸送が比較的容易にできるという利点がありました。また、海路を通じた交流は、国内のみならず、
  朝鮮半島や中国大陸とも行われていました。その拠点となったのが、現代の港湾にあたる「津」や「津湊」です。

海を介した交流 墨書土器
金沢市畝田・寺中遺跡
奈良時代


 126貿易と広域流通の発展
  中世の活発な貿易・流通を示すものとして、輸入磁器や渡来銭があげられます。これらは広域流通し、県内でも港湾遺跡や居館跡などからまとまって
  出土しています。

  渡来銭は、中国をはじめ朝鮮、安南、琉球などの歴代王朝が鋳造した銭貨を輸入したものです。平安末期から活発化した日宋貿易を通じて
  大量の宋銭が流入し、国内の貨幣流通が本格的になります。


 交流を示すモノ
  縄文時代には、海辺の遺跡で、出土する丸木舟や櫂、そして玦状耳飾りなど大陸的要素をもった遺物から、舟で外海へと漕ぎ出し
  大陸あるいは国内他地域の海辺の集落と交流をもっていたことがわかっています。

貿易と広域流通の発展 輸入陶磁器
金沢市普正寺遺跡
室町時代
交流を示すモノ 中世交通路の発展
 




 130人々の暮らし





 131平地の遺跡

  平地は人間が最も開発に努力してきた空間です。それは、水田などの耕作地に適した土地が広がり、川や泉などの水場が点在するからです。
  縄文時代のムラは水場の近くに営まれ、クリやトチの栽培も見られます。
  弥生時代には稲作と鉄器が普及して、土木や建築技術が発達しました。一方では、社会に貧富の差と戦いが生み出されました。

  奈良時代には文字と仏教が広がり、文化も発展しました。しかし、国が制定した律令は多くの面で人々の生活を規制しました。
  室町時代応仁の乱が終わった頃から、各地の戦国大名は家臣や商工業者を集めて城下町を形成しました。(経済活動の重要化)

平地の遺跡


 縄文のムラ金沢市米泉遺跡
縄文のムラ
金沢市米泉遺跡
 縄文のムラ 竪穴住居跡 環状木柱列
西から住居跡を見る
遺跡全景河道跡を見る
 132住居跡
住居の種類 小松市六橋遺跡
縄文、竪穴住居

金沢市戸水B遺跡
弥生、平地式住居

加賀市千崎遺跡
奈良、竪穴住居

七尾市三引E遺跡
平安、掘立柱建物
 133都市の成立 金沢市
都市の成立
町屋跡
金沢市三社町遺跡

足軽屋敷跡
金沢市木ノ新保遺跡

武家屋敷
金沢市前田氏(長種系)屋敷


 金沢市江戸町跡推定地

金沢城跡
金沢市江戸町跡推定地

遺物の出土状況
金沢市江戸町跡推定地

漆器椀蓋
金沢市江戸町跡推定地

漆器重箱の側版
金沢市江戸町跡推定地

新井場遺構
金沢市期ノ新保遺跡


 135弥生時代の玉つくり
   加賀地方では、多くの集落で管玉を作っていました。管玉の材料には、森下川(金沢市)や動橋川(加賀市)などで採取できる緑色凝灰岩を使用した。

弥生後期の玉つくり 弥生時代の玉作り 鉄のキリ先
白山市 乾遺跡
弥生後期
勾玉と管玉 勾玉・管玉
 金沢市七ツ塚墳墓群
 弥生時代後期

勾玉3点
 金沢市塚崎遺跡
 弥生時代後期
 


 134管玉の製作工程 弥生中期 小松市八日市地方遺跡(こまつし ようかいち じかた いせき)

弥生後期の玉つくり 管玉の製作工程

弥生中期


緑色凝灰岩による
管玉の製作工程
小松市八日市地方遺跡
弥生中期
管玉の製作行程

荒割→方形に調整→多角形に調整→
穿孔→完成品

粗割 方形に調整

方形に成形→多角柱に成形→穿孔する→
完成品

穴を開ける→完成品
 

 136採集生活の道具 金沢市 米泉遺跡 縄文時代後・晩期

  縄文時代の人々にとって、植物を採集して食料とすることが、毎日の生活で大切な仕事でした。
  石皿は木の実を砕いて粉にする道具で、打製石斧は山芋などを掘り出す道具でした。

採集生活の道具 石皿と摺り石
金沢市米泉遺跡
縄文後・晩期
石皿と摺り石 トチの実
打製石斧
土錘 クルミ


 137農耕の広がり 弥生時代

  コメや小麦などの栽培が伝わると、水田を耕作する道具も発達しました。
  鍬や鎌などは、材質が木や石から鉄に代わりましたが、現代でも使われている農具です。

 鉄製工具の発達
  弥生時代以降、鉄製農具の発達と普及は、木工技術を大いに高めることになった。鉄製の遺物は、腐食しやすいため、弥生時代の出土例は少ない。

農耕の広がり
鉄鎌と鍬(鉄の鍬先が付いていた形跡が残る)
鉄製工具の発達 遊びの道具 羽子板・碁石・将棋駒
木隅
武士、子供

金沢市三社町遺跡
江戸時代


 138平安時代の暮らし 平安時代前期

 住居 (住まい) の発展
  奈良時代までのムラは、竪穴住居と掘立柱建物が混在していました。
  飛鳥時代には、瓦葺の礎石建物が寺院などで建てられています。
  鎌倉時代になると、掘立柱建物の住居が一般的になり、沢山の井戸も設けられます。


刀子・円面硯・平瓶
住居住まいの発展 平安時代の文房具
刀子・円面硯・水滴
(+筆・木簡)


 139城下町の成立
  大名は、領地を支配する拠点として城を構え、城を中心に都市が築かれました。城下の町場には、武士や僧侶のほか多くの商人や職人が住んでいた。
  金沢市内からも、多様な城下町の遺跡が発見されています。

城下町の成立
カマド・鍋・壺・?
城下町の生活用具
金沢市三社遺跡
江戸時代
 





 140山の遺跡





 山は里を望める高い所で、水田を潤す河川の水源でもあります。そのため、人々は山を聖霊 (精霊の誤謬) と神仏への祈りの場所と考えました。
 古墳時代の人々にとって、山は死者の世界でありました。里から見上げる山に築かれた大きな古墳は、豪族の権力を象徴するものでした。

 平安時代になると山間に寺や仏堂が建立され、山が仏への祈りと修行の場に変質します。この頃から、御経を埋めた経塚が山に築かれています。
 一方、戦いが多発した弥生時代の終わり頃と戦国時代には、軍事的な拠点として砦や城が築かれました。 

 141山頂の古墳
山の遺跡
上に記述

加賀市黒瀬御坊山A1号墳
(古墳中期・木棺直葬)

小松市中海ブッショウジ山2号墳
(古墳後期・木芯粘土室)
 142山への祈り
山への祈り 仏堂跡
小松市浄水寺跡
経筒の出土状態
能美市長滝墓山C遺跡
平安時代末期
経塚の断面図
能美市長滝墓山C遺跡
平安時代末期
 143城郭の形成
金沢城跡の発掘調査
菱櫓・五十間長屋
橋詰門続櫓石解体調査

三の丸内堀・橋詰門橋台の調査

三の丸「御鉄炮」跡礎石建物と鍛冶遺構

宮守堀(いもり堀)
 
 

 151古墳の築造
  豪族の勢力を示すために、大型の古墳が築かれました。その副葬品は、豪族の遺体を飾ると共に邪悪なものから遺体を守る宝物と考えられていた。
  私たちは古墳から、当時の社会の様子や、人々の信仰を知ることができます。

古墳の副葬品
志賀町フルワ古墳群
・ノノメ古墳群 古墳後期

志賀町フルワ古墳群
・ノノメ古墳群 古墳後期
古墳の築造 銅鏡宝達志水町宿東山1号墳古墳時代前期

勾玉・小玉

刀子・鉄鏃×2


 152仏への祈り

  お経は、仏の教えを書いた大切なものです。古代の寺では、お経を写すために多数の硯が使用されています。また、お経を未来へ伝えて極楽往生を
  祈るために、多くの経塚が山の上に造営されました。


  小松市浄水寺跡 平安時代
小松市浄水寺跡出土物 仏への祈り
小松市浄水寺跡
多口瓶
双耳瓶 浄瓶(=水瓶)
風字硯
多口壺 火舎 火舎
火舎は焼香を行うための香炉


 153平安時代の墓
  丘陵上に築かれた長方形の竪穴に、須恵器の鉢、壺の蓋、小瓶 (頸の細い小さな壺)、土師器の椀、耳皿の他、漆器なども納められていました。


  能美市宮武沙弥城山遺跡
墓地遺跡の共献土器
宮武沙弥城山遺跡
平安時代の墓

出土状況

碗、耳皿


小瓶(しょうへい)、壺の蓋


 154金沢城跡の発掘状況
  金沢城は、金沢御堂、佐久間氏の時代を経て、天正11年(1583)に前田利家が入城した近世城郭です。
  江戸時代を通して前田氏14代によって加賀、能登領国支配の拠点でした。平成9年度から城址公園整備事業に関わる埋蔵文化財発掘調査をしている。

金沢城跡の発掘状況
陶磁器片
金沢城五十間長屋
江戸時代

土師器皿
金沢城跡 江戸時代

鉄砲の玉 金沢城跡
江戸時代


 155山に営まれた墓地 能美市宮竹墓谷中世墓群 室町時代

  陶器の壺に加えていろいろな容器が骨臓器として使われました。 

山に営まれた墓地
石製骨臓器
加賀焼水注
 156金沢城の瓦

軒丸瓦 梅鉢紋

燻瓦いぶしがわら
軒平瓦
金沢城跡
 





 160土器の生産と流通




  土器の発明は煮炊きを簡単にし、食生活の面にも大きな変化をもたらしました。
  人々の交流が活発になると、土器が他地域に運ばれたり、土器の作り方や文様の付け方が伝わったりしました。

  古墳時代前期も、各地域間で交流が盛んな時代でした。人々の交流を反映して、県内でも各地の系統をひく土器が作られました。
  古墳時代中期には窯を築いて須恵器を焼く技術が朝鮮半島から伝わり、
  古墳後期には県内で本格的な窯業生産が開始されたようです。
  平安時代の末には須恵器の製作技術を発展させた、珠洲焼が能登半島で生み出され、日本海航路に乗って秋田から北海道南部まで運ばれています

 161
土器の生産と流通 土器の生産と流通 須恵器の生産
小松市那谷金比羅山窯跡群(飛鳥時代)
石川県を巡る陶磁器の流通(鎌倉・室町時代)
志海苔出土越前焼大甕
志海苔出土珠洲焼大甕
(しのり)

函館博物館蔵


 164古墳時代前期の土器

古墳時代 前期の土器
金沢市藤江C遺跡
北陸系の土器

 山陰地方の甕と同じく、口縁に段があります。
東海系土器

飾られた壺や、脚の大きく開く高坏が特徴です。

 167土器に見る地域間交流
  古墳時代が始まる頃は、各地の豪族が勢力の拡大を目指し、互いに交流や戦いをしていました。
  県内では、東海、関西、山陰地方の影響を受けた土器が多く作られ、地域間交流の様子がわかります。

土器にみる地域間交流 須恵器 甕
能美市上徳山西谷窯跡
須恵器 甕
奈良時代
宝達志水町正友ヤチヤマ1号窯
須恵器 甕
奈良時代
金沢市末町周辺
縄文土器
縄文中期
能美市長滝遺跡
弥生土器
弥生後期
金沢市畝田遺跡
須恵器 甕
奈良時代
金沢市 末町周辺
加賀焼 甕
室町時代
小松市 湯上窯跡
珠洲焼 甕室町時代
七尾市 上町カイダ遺跡
越前焼 甕室町時代
小松市 白川梯川遺跡

 170技術と交流
 171各地から来た土器
関西系の土器
口縁内側がふくらみ、
球形胴部の甕が特徴
山陰系の土器
鼓の形をした壺を載せる台がユニークです
越前焼
白山市宮保遺跡
室町時代
珠洲焼
珠洲市南黒丸遺跡
南北朝時代
 173陶磁器の流通
  鎌倉・室町時代には、能登で作られた珠洲焼が遠く北海道に運ばれました。また、福井県の越前焼、愛知県の瀬戸焼のほか、中国や朝鮮の陶磁器も
  県内に出回りました。この時代には、各種の陶磁器が日常生活に用いられました。
陶磁器の流通 中国の染付
金沢城石川橋遺跡
中国の五彩
金沢市普正寺遺跡
室町時代
中国の青磁
金沢市普正寺遺跡
室町時代
中国の白磁
志賀町東小室ボガヤチ遺跡 平安時代
 




 180木器の生産




 日本列島は縄文時代から森林資源に恵まれ、多くの生活資材に木を利用してきた。
 縄文時代には石斧で木を伐採し、刳り抜くなどの加工を行っていた。
 弥生時代後期に伝来した鉄器とロクロにより、回転を利用して挽くといった加工技術が生まれ、
 古代には挽物椀や皿が作られるようになった。

 古墳時代には、薄板を曲げて作る曲げ物が製作され始めました。
 中世になって大鋸(おが)が登場したことにより、板材をより効率的に得ることが可能となり、結桶や結樽が作られました。

 これらの新しい容器は大型で、しかも運搬に適したことから、味噌・醤油・酒などの醸造業の発達に大きく貢献しました。

 181木製容器の製作
木器の生産 木製容器の製作

刳物と挽物の製作法
曲物の製作法
結いの製作法

上:挽物製作の図
下:刳物製作の図

曲げ物製作の図

結い物製作の図
木器生産の歴史  縄文・弥生・古墳  古代・中世・近現代   
刳り物高坏の出土状況
宝達志水町萩市遺跡
農耕具の出土状況
小松市千代・能美遺跡


 182縄文・弥生時代の工具と刳物
  木器の加工には旧石器時代から石斧が使用され、弥生時代後期には鉄器が使われています。
  刳物は丸太を半分に割り、大まかに形を削って横斧で刳り抜いて仕上げます。

縄文・弥生時代の工具と刳物 鉢(刳り物)
かほく市指江B遺跡
古墳時代

小松市八日市地方遺跡
ようかいち じかた
弥生中期
横槌
小松市八日市地方遺跡
ようかいち じかた
弥生中期
刀形木製品
小松市八日市地方遺跡
弥生中期
刀形木製品
小松市八日市地方遺跡
弥生中期
儀仗の柄
小松市八日市地方遺跡
弥生中期
火きり板
小松市八日市地方遺跡
弥生中期
火きり板
小松市八日市地方遺跡
弥生中期
ヤス形木製品
小松市八日市地方遺跡
弥生中期


 183弥生時代の農具
  小松市八日市地方遺跡は、JR小松駅の東に広がる弥生時代の大規模な集落跡です。
  集落の中を通る中期の川跡からは、体利用の木製品が出土しました。鋤・鍬・杵などの農具も沢山あります。

  火きり板や、精巧な刳物容器も発見されており、注目されています。

 
弥生時代の農具

金沢市畝田遺跡
弥生終末期~
古墳前期


小松市八日町地方遺跡
弥生中期
なすび型鋤
中能登町徳善C遺跡
弥生後期


金沢市近岡遺跡
弥生時代
鍬 (泥除け)

金沢市近岡遺跡
弥生時代
 184刳りもの

金沢市畝田・寺中遺跡
弥生後期~古墳前期

金沢市畝田・寺中遺跡
弥生後期~古墳前期
器台
宝達志水町萩市遺跡
弥生後期~古墳前期
かほく市指江B遺跡
古墳時代

七尾市下笠師E遺跡
奈良時代後期
盤の荒型(未製品)
七尾市下笠師E遺跡
奈良時代後期
椀の荒型
七尾市下笠師E遺跡
奈良時代後期
 
 
 210ミクロの考古学
 211小さな出土物

旧石器時代の石刃
旧石器時代の剥片

線刻画のある銅板片
(かけぼとけ)
飾り金具、金箔破片

炭化米、炭化籾の塊
石包丁、籾圧痕の土器底
縄文土器
複節縄文・羽状縄文
爪形文・貝殻条痕文
勾玉未製品
勾玉未製品 勾玉未製品 石鏃、有舌尖頭器 メジロザメの歯 カタクチイワシの骨
須恵器 割れた管玉 未製品の管玉
管玉 (完成品) アンギン 漆濾しに使用 飾り金具 矢柄 鉄刀の柄
漆紙 和紙 経筒付着 指紋のある須恵器

敲き締めの痕跡
ガラス玉青色 石釧 腕輪形石製品 臼玉 紡錘車
和同開珎 永楽通宝 寛永通宝 寛永通宝
赤漆塗り縄文土器
酸化鉄付着土器
刻印のある焼塩壺の蓋
 


  国重文


 230加賀郡牓示札 (かがぐん ぼうじ ふだ) 津幡町加茂遺跡出土 平安時代




 縦23.7cm横61.3cmのヒノキの板で、表面には嘉祥2(849)年に加賀国が農民に発した禁令が記されています。
 文書の前段は農民の心得、後段には、その主旨を伝達するために路傍に掲示して、郡の役人が読み上げることなどが、細かく記されています。

 当時の加賀国、加賀郡の様子だけではなく、律令政府が行った勧農政策や国家政策の伝達方法を具体的に知ることができる重要な資料と言えます。

 231加茂遺跡
  これまでの加茂遺跡の発掘調査では、古代北陸道、河北潟に向かって流れる大溝やその大溝に沿って並ぶ掘立柱建物群などが見つかっています。
  出土品には和同開珎 (銀銭) や瓦、木簡、大量の墨書土器などがあります。平成12年の調査で出土した「加賀郡牓示札」は、大溝から見つかった。
加賀郡牓示札 加賀郡牓示札 重文指定書 加賀郡牓示札 加茂遺跡
加賀郡牓示札 加賀郡牓示札 八カ条の命令 加賀郡牓示札出土状況 古代北陸道と牓示札
出土位置
牓示札出土状況

 ※この高札は、長い間街道脇に掲げ続けられたもののようです。おそらく風雨風雪で墨書の廻りは削り取られ、浮き彫りとなり、さらに年月が経って
  その墨の色が消えても掲げられ続けていたのでしょう。

  他の高札・触書がないにもかかわらず、この札だけが、更に、板の周囲がそれほど腐食・摩耗していないにもかかわらず、大溝から発見されたのは、
  長年、農民たちの怨嗟の的だった、この憎々しい条文を書いた、支配者に対する腹いせに、誰かがたたき壊して溝に投げ込んだのかもしれない。

  そんな風に思えてくるような、命令の内容と、見つかり方だと思いました。
 







 300二階展示場










展示場内の階段
二階展示場 「時の回廊」 二階展示場「時の回廊」
 展示テーマは「暮らしの道具」です。
 



 310入口展示




 時の回廊 -暮らしの道具-
  
   地球上に人類が誕生したのは、今から400万年以上も前のことです。
   人は二本の足で地上を歩き、自由になった両手と高度な技術で、道具を作り始めました。

   それは他の動物たちには見られなかった自然への挑戦であり、また、文明社会へ向けての大きな一歩でもありました。

   そして、現代、長い歴史の中で人々の暮らしは大きく変わり、今も私たちの予測を越えた進化を続けています。
   それは言い換えれば人間の作り出した道具とその利用の歴史でもあるのです。

   このコーナーでは、そうした道具の移り変わりを、石川県の遺跡から出土した品々を使って順に紹介します。
   ここでは特に食事の道具類を沢山用意してみました。


時の回廊-暮らしの道具 深鉢
金沢市 笠舞遺跡
縄文中期

天神山式土器
土偶
金沢市 米泉遺跡
縄文後期 板状土偶

後期の土偶は立体が多いが平面構成。文様は幾何学で高度。顔は?

 笠舞遺跡 (金沢市) 縄文中期

 米泉遺跡 (金沢市) 縄文後期(4500)~晩期
縄文時代の河川と共に、石囲い炉がある竪穴住居、礫を集めた配石遺構、柱穴に柱根が残っている環状木柱列などが見つかりました。
河川跡では大量の木の実が出土しています。
出土品は土器などのほか、土偶、糸巻きのような形をした有孔球状土製品、漆塗櫛や漆が付着したアンギンという布の一部などがあります。






 320旧石器時代 (~1万2000年前)




旧石器時代は、人類が誕生してから土器の使用が始まる約1万2千年前までにあたります。
当時は気候の寒冷な氷期と、温暖な間氷期とが何万年かの周期で繰り返される氷河時代でした。

人々は、多くの種類の石器と共に、木や骨・角などを材料とした道具を使用していました。そして、ナウマンゾウやオオツノジカなどの動物を追い、平野や河川を臨む段丘や台地の上を移り住みました。また、魚を獲ったり、クルミなどの木の実も採集していました。

石川県内でも、約3万年前には人々の生活が始まりました。そこからは、東西日本各地の石器に類似した製品も出土しており、
幅広い移動・交流が行われていたことが伺えます。

 321旧石器時代のくらし
旧石器時代
上に記述
生活の様子(推定)
旧石器の発掘
能美市灯台笹下遺跡
とだしのしも いせき
Link先要旨

ここは、灯台笹(とだしの)と呼ばれ、今から約1万7千年前の旧石器時代の遺跡がある。

石川県ではもっとも古い遺跡で、歴史好きな一青年によって石槍や石鏃が偶然発見された貴重な遺跡である。


 322石材からわかること
  石器に使われた石材を調べることで産出地がわかり、採集された場所を推測することができます。石材は、人々の移動範囲や石の好みなどを知る
  重要な手掛かりです。

石材からわかること 頁岩

能美市宮竹うっしょやまA遺跡
宝達志水町宿東山遺跡
玉髄
宝達志水町
竹生野遺跡 宿向遺跡
メノウ
宝達志水町
竹生野遺跡
たこのいせき
安山岩
能美市
庄が屋敷C遺跡
鉄石英
宝達志水町
竹生野遺跡


 323打製石器と石屑
  石核を打ち欠いて、形の整った石刃や剥片を作ります。これを細かく打ち欠いて調整し、各種の石器を製作します。この時に出る多量の石屑は、
  石器をそこで製作したことを示す重要な情報です。

能美市 灯台笹下遺跡 石器製作と石くず 石核
石刃 剥片
砕片


 324石器作りの道具
  鹿角 (参考資料)
   シカの角で石を細かく打ち欠いて、石器は製作されました。この資料は、縄文時代前期初頭 (約6000年前) の層から出土したものです。
    七尾市 三引遺跡
鹿角 鹿角
上に記述
敲石


 325旧石器時代の道具箱
石器は、獣の皮を剥いだり肉を切ったり、また、木を加工したりと、様々な作業に使われました。目的に合わせて、いろいろな石器が作られています。

旧石器時代の道具箱

 東北地方の影響を受けた石器
東北地方の影響を受けた石器
この石器は
高畑町郷土資料館
能美市立博物館
の資料によく似ています。
尖頭器 (押出型ポイント)
能美市
灯台笹下遺跡とだしのしも
ナイフ形石器

能美市
宮武うっしょやまA遺跡
ナイフ形石器
志賀町 米浜遺跡

 石川・富山の特徴的な石器 (米ヶ森型台形石器)
台形石器
宝達志水市 宿東山遺跡

能美市 庄が屋敷D遺跡

宝達志水市 宿向山遺跡
 326各種の石器
ナイフ形石器
使い方:切る・突き刺す
宝達志水町
  宿東山遺跡
  宿向山遺跡
彫刻刀形石器
使い方:彫る・切る・削る

能美市
宮竹うっしょやまA遺跡
庄が屋敷C遺跡
尖頭器
使い方:突き刺す・切る

能美市
庄が屋敷C遺跡
掻器
使い方:皮をなめす・切る

能美市
 宮竹うっしょやまA遺跡
志賀町 米浜遺跡
能美市 庄が屋敷C遺跡
削器
使い方:切る・削る

宝達志水町
宿東山遺跡
その他の道具


局部磨製石斧
使い方:木の伐採・加工
宝達志水町宿向山遺跡

鋸歯縁石器
使い方:切る・削る
宝達志水町竹生野遺
錐形石器
使い方:孔を開ける

能美市
宮竹うっしょやまA遺跡
 





 330縄文時代 約1万2000~2300年前



氷河時代の終わり頃になると気候は温暖化し、日本列島には、現在と同じような温帯の動物が現れました。縄文時代の始まりです。
この新しい環境の中で、人は土器を使い始めます。

それまでの、焼く・蒸すあるいは生のままの食事に"煮る"という調理方法が加わりました。肉や魚は煮汁と共に、一層おいしく食べられるようになりました。そして何よりも、アクの強い山菜や、トチ・ドングリ・クリなどといった、栄養豊富な木の実の食用が可能になりました。

また、食料の少なくなる冬場に備えた、木の実類の貯蔵も始まりました。
さらに、弓矢や、釣り針・漁網などの使用は、人々の生活を豊かにし、約9,000年前には竪穴住居での定住生活が開始されました。

  

  
 331縄文の集落
縄文時代 縄文時代の集落
金沢市北塚遺跡
堅果類の貯蔵穴
宝達志水町紺屋町ダイラクボウ遺跡 (縄文・集落)


 332土器の移り変わり
  縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に分れます。各時期の土器に、その地方の特徴的な形や文様があります。


 草創期の土器  かほく市塚越遺跡 約10,000年前
 前期の土器   七尾市三引遺跡 約6000年前

土器の移り変わり 草創期の土器
かほく市塚越遺跡
約10,000年前
前期の土器
七尾市三引遺跡
約6000年前


 333中期の土器 中能登町徳前C遺跡 約5000年前


中能登町徳前C遺跡
約5000年前

朝日下層式?

串田新式?

串田新式?


 335縄文時代の石器
  縄文時代の暮らしは、自然の恵みに支えられていました。ここでは森の恵みである木材や木の実の利用に関する石器を紹介します。
    七尾市三引遺跡

縄文時代の石器
七尾市三引遺跡
縄文時代の石器 敲石
木の実を潰す道具
磨石
木の実を粉にする道具
磨製石斧
伐採・木材加工


 336後期の土器 金沢市米和泉遺跡 約3600年前

後期の土器
金沢市米和泉遺跡
約3600年前

八日市新保式?

気屋式?
 





 340弥生時代 紀元前3世紀後半~紀元後3世紀後半




 弥生時代には、中国大陸や朝鮮半島から新しい技術や最新の情報が入ってきました。その影響で、本州以南の日本列島では狩猟・漁労・採集や畑作を
 主とする生活から、稲作の生活が中心となりました。

 また、山の上や平野で堀に囲まれたムラが作られ、武技か多く出土することから、各地で戦いがあったことがうかがえます。
 この時代から、土器は水や米などを蓄える壺、煮炊き用の甕、盛り付け用の鉢・高坏、その他墓に納めるものなど、用途別にいろいろな種類が
 作られるようになりました。また、大陸系の石器や鉄器によって、木製農具や容器が作られました。

 大きなムラには西日本から運ばれた青銅製の武器や鏡があり、それらは祭の道具や宝物として珍重されました。
 北陸地方では管玉作りが盛んで、その製品は日本各地との交易に使われました。

 341弥生時代の集落
弥生時代
上に記述
弥生時代の集落
津幡町加茂遺跡
水田跡
金沢市梅田B遺跡
 


 342生活の道具
  石鏃などのように縄文時代から続く道具と、弥生時代によって新しく入ってきた大陸系の磨製石斧や鉄器などがあります。

生活の道具 太型蛤刃石斧
磨製石包丁
・太型蛤刃石斧
金沢市下安原海岸遺跡
 紀元前150-50年
  (中期前半)
・磨製石包丁
羽咋市吉崎・次場遺跡
 紀元前200-紀元後200
  (中期~後期)

・横刃形石器
金沢市戸水B遺跡
・穂摘具
金沢市畝田・寺中遺跡
横刃形石器
穂摘具(木製?)


 343祈りの道具
  宗教的な儀式には、銅鐸や銅剣、銅鏡など金属製の道具が使われるようになりました。これらを模した土製品も、儀式に使われました。
  また、装身具の管玉・勾玉やガラス玉などは、祈りの道具でもありました。

祈りの道具 銅鐸形土製品
小松市八日地方遺跡
弥生中期
鳥形土器
小松市八日地方遺跡
弥生中期
分銅形土製品

羽咋市吉崎次場遺跡
紀元前200~紀元後200
中期~後期


 344いろいろな文様


金沢市畝田・寺中遺跡
櫛描文系土器
白山市
八田中ヒエモンダ遺跡
 紀元前100年頃 中期中葉


凹線文系土器
金沢市戸水B遺跡
紀元前50年頃 弥生中期


高坏

台付鉢
 





 350古墳時代 3世紀後半~6世紀




  古墳時代とは、各地の号ぞ万たちが、権力の使用地用として古墳を盛んに築いた時代を言います。
  人々は竪穴住居や平地住居、高床倉庫などが建ち並ぶ村々に住み、農業を行っていました。

  各地に生まれた豪族は村々を支配し、灌漑用水路の造成など大規模な耕地開発を行い、自分達のために大きな墓 (古墳) を造営しました。
  5世紀になると、朝鮮半島から須恵器と呼ばれる専用の窯で焼かれた、灰色の硬い土器が伝わります。

  また、弥生時代以来続いてきた土器の種類に、新たに椀・坏といった個人用の織機が加わりました。
  更に住居内には熱効率の良い、煮炊き用のカマドが設けられます。甕の形は球胴から長胴に変化し、コメを蒸して食べるための甑が現れました。

  このような外来文化の波及は、人々の暮らしに大きな影響を与えました。
    
 351古墳時代の集落
古墳時代 古墳時代の集落
羽咋市四柳ミッコ遺跡
古墳宝達志水町宿東山遺跡


 3524世紀の土器
  土師器は、弥生時代に起源を持つ技法で作られた素焼きの土器です。
  石川県では4世紀になると、近畿地方や山陰地方の形や技法を持つ土器が多く作られました。

4世紀の土器 4世紀の土器
土師器 4世紀
甕:小松市漆町遺跡
壺:小松市白江掛川遺跡

甕、甕
小松市漆町遺跡

壺:小松市白江掛川遺跡
 353
小型鉢
小松市漆町遺跡
高坏
小松市漆町遺跡
小形丸底壺
小形器台
宝達志水町


 3556世紀の土器

  北陸全域に須恵器の窯が築かれると、用途別に土師器と須恵器が使い分けられています。
  煮炊きには土師器の甕が使われ、食器には土師器と須恵器が、貯蔵には須恵器が使われました。

6世紀の土器 土師器

甑:加賀市千崎遺跡

壺、甕、宝達志水町
免田一本松遺跡

椀、ハソウ、高坏
宝達志水町
免田一本松遺跡

壺、甕
宝達志水町
免田一本松遺跡


 357須恵器 6世紀


有台高坏、坏
加賀市敷地
天神山遺跡

ハソウ:金沢市北塚遺跡
提瓶:加賀市敷地天神山遺跡

ハソウ

提瓶
 


 360飛鳥・奈良・平安時代 7世紀~12世紀
  

飛鳥・奈良時代には、国家が人々や土地を直接支配する中央集権の仕組みが整備されます。それと共に地方でも、役所による計画的な水田開発や手工業生産が盛んに行われました。

人々は竪穴住居から掘立柱建物に住むようになり、土地を貸し与えられる一方、重い税や兵役を負担させられました。
また、食事のときには、都をモデルとした須恵器、木器の坏・盤(ばん)を使い、その種類や数が身分を表しました。

文字を書いた土器 (墨書土器) が増加するのもこの頃です。

また、平安時代も中頃になると土地の私有化が進み、中央の権力も変質します。人々は食器に地方色豊かな土師器、漆器椀・皿を用いるようになりました。煮炊き具も、土師器甕・鍋から鉄鍋に変わります。

 361奈良・平安の集落
飛鳥・奈良・平安時代 奈良時代の集落 平安時代の集落
 362奈良平安の出土物
須恵器鳥形瓶
能美市上徳山谷山西谷窯跡 8c後半~9c初頭
鉄鍋の鋳型
金沢市梅田B遺跡
11世紀


 奈良時代の食器
  県内では、主に須恵器を使いました。右に身分の高い人の食器、左に庶民の食器を復元しました。

庶民の食器

須恵器台無坏、
赤彩土師器皿

能美市来丸サクラマチ1号窯跡
有力者の食器
須恵器有台坏


 363平安時代後期の食器
  日常の食器には、漆器や中国産の陶磁器を使うようになりました。このため、遺跡から出土する土器食器の量は減少します。

平安時代後期の食器
灰釉陶器

中能登町
式部ショウブダ遺跡
須恵器、内黒土師器

中能登町
式部ショウブダ遺跡


 銅銭
  8世紀から、国内では和同開珎などの銅銭を造り始めました。皇朝十二銭と言います。県内では、約30ヶ所の遺跡から出土しています。

銅銭
銅銭
和同開珎
神功開寶

羽咋市寺家遺跡
奈良・平安時代
 






 370鎌倉・室町時代 12世紀~16世紀





  新たに誕生した武家政権は、大小の内乱を経て次第に支配力を強めていきました。同時に、社会を支える民衆の動きも活発化していきます。
  農具や肥料の改良及び二毛作の普及は、農作物の生産性を高め、貨幣の流通は地域間の経済を発展させました。

  こうした人々の動きの中から、現代の暮らしの原型が生まれてきました。

  食事風景もその一つです。毎日の食卓には、漆器椀や皿のほか、遠く中国から入ってきた陶磁器が使われ始めます。
  また、台どころでは、水を貯めたり農作物を保存するための陶器の甕・壺や、穀物を磨り潰す調理用のすり鉢が新たに加わり、食生活にも変化が
  現れました。
  そして祭などの特別な行事には、京都の文化の影響を受けて、使い捨ての箸や土師器皿が使われました。

 371鎌倉・室町の集落
鎌倉・室町時代 鎌倉時代の集落
珠洲市南黒丸遺跡
室町時代の集落
七尾市小島西遺跡
 372中世の食器
中世の食器
中国産食器と国産食器

 土師器皿
ハレの場の使い捨て食器

平安~室町時代


能美市下開遺跡13c後半
小松市白江梯川遺跡12c後半
野々市市末松遺跡14c後半
小松市白江梯川遺跡15c後半
金沢市木越光琳寺遺跡16c後半
箸状木製品
七尾市上町カイダ遺跡12-13c

中国産の食器 (日常食器)北宋~明

・白磁椀、
  志賀町矢駄アカメ遺跡11c
・青磁碗、
  中能登町谷内ブンガヤチ遺跡16c前半
・白磁皿、
  門前町道下元町遺跡 15c前半

国産の食器 (日常食器) 瀬戸物

・天目茶碗、・灰釉陶器
  小松市白江梯川遺跡14c後半
・鉄釉皿、
  金沢市普正寺遺跡15c
・灰釉皿、
  金沢市普正寺遺跡14c後半


 374土器の生産

一石呪符小松市佐々木アサバタケ遺跡 15c前半 梵字 一石呪符 天目茶碗
小松市佐々木アサバタケ遺跡 15c中葉
壺(珠洲焼)
 埋葬具(珠洲産)
 七尾市中笠師中世墓
  14c後半-15c前半

壺(加賀焼)
 貯蔵具(小松産)
 小松市佐々木アバサ
 タケ遺跡
 14c前半
 375
甕(加賀焼)
 貯蔵具(小松産)
 能美市下開発遺跡
  12c後半
壺(越前焼)
 白山市宮保光明寺遺跡
 16c後半
 





 380江戸時代 17世紀~19世紀中頃




  江戸時代になると幕藩体制が整備され、都市を中心に経済が発展しました。そこに出現したのは、かつてないほどモノのあふれた社会でした。
  金沢城下町の出土品は、そうした豊かな消費生活を雄弁に物語っています。

  例えば、日常の暮らしに使われた焼き物では、以前に比べて種類や量が格段に増加しました。
  とりわけ九州の佐賀・長崎県特産の伊万里焼 (肥前磁器) は食器の中心となり、全国各地で大量に使用されました。
 
  江戸時代はまた、現代に受け継がれる生活スタイルの多くを育んだ時代でもありました。
  飯椀・湯飲み・急須、あるいは土瓶・七厘・植木鉢など、私たちにもなじみ深い暮らしの器は、この時代の後半には使われ始めています。

 381
江戸時代 江戸時代の塚
金沢市経王寺遺跡
市街地での発掘調査
金沢市高岡町一ッ水溜遺跡 (近世・水溜跡)


 382肥前磁器以前と以後
  江戸時代の初めは、肥前や美濃の陶器が食器として多く使われました。
  17世紀半ば以降になると、肥前の磁器が普及して食卓の風景も変わっていきました。


肥前磁器以前と以後 食器 17世紀初め
金沢市大手町遺跡
金沢市木ノ新保遺跡
食器
17世紀半ば~19世紀
金沢市木ノ新保遺跡
金沢市三社町遺跡

肥前磁器
染付小坏、染付皿

染付埦、染付大皿


 383暮らしと陶磁器
  江戸時代には食器の他、様々な暮らしの分野で陶磁器が用いられました。ここでは、その代表的な製品を紹介します。

化粧具
 紅皿・かんざし・油壺

喫煙具
 灰吹、煙管、火入

 金沢市木ノ新保遺跡
 18-19世紀 
信仰・遊戯具
 土人形、仏飯器、瓶

照明具
 秉燭(ひょうそくへいしょく)
 カンテラ、灯明皿

金沢市木ノ新保遺跡
 18-19世紀
 384
調理具
金沢市木ノ新保遺跡
18-19c

土鍋、土瓶

火鉢、金沢市前田氏(長
  種系)屋敷跡18-19c
植木鉢、金沢市木ノ下
  新保遺跡18-19c
 
 






 400発掘調査速報パネル










 401平成29年度 発掘調査速報パネル展



  一年間にこんなに沢山の発掘をして、それらに発掘調査報告書が作成されるのであるから、これは大変なことでしよう。

平成29年発掘調査図 寺境タブ遺跡
平安時代の土坑に廃棄された土器
酒井バンドウマエ遺跡
中世の木棺墓

中世の水田

水田から出土した銅銭
北宋銭が主
柳田猫ノ目遺跡
羽咋市寺家町
縄文時代~中世

古代の水田跡

水田跡で見つかった
牛の足跡

古代の墨書土器
「中家」
金沢城下町遺跡
本田氏屋敷地区
金沢市出羽町 近世

発掘作業風景
松梨遺跡
小松市松梨町
弥生・古墳・古代・中世

中世の集落

中世の井戸

中世の井戸出土の籠
園町遺跡
小松市園町
弥生・中世・近世

環濠集落と方形周溝墓
弥生時代中期前半
周溝から出土した土器
中世の井戸
一針C遺跡
小松市一針町
弥生・古墳・古代・中世

弥生時代の井戸

完掘状況

桶組の井戸(中世以降)
八日市地方遺跡小松市土居原町・日の出町
弥生時代
貝塚の調査風景

木製構造物の出土状況

玉砂利敷き施設

連なって主ッドした石製ビーズのブレスレット

柄付き鉄製ヤリガンナ

編みカゴ出土状況

出土木製品

鹿角、骨格製品
島遺跡
小松市島町
古墳・古代・中世
Ⅱ区全形
掘立柱建物の検出状況
大領遺跡
小松市大領町・今江町
縄文・古代~近世

中世の道路遺構

古代の道路遺構

古代の道路遺構
庄・西島遺跡、津波倉廃寺(加賀市西島町・七日町・桑原町)
古墳時代・古代

調査区
掘立柱建物
井戸から出土した双耳壷
八日市遺跡
加賀市八日市町
古墳時代

古墳時代前期の集落

鋳造工房
4号竪穴建物

4号竪穴建物の炉跡

布堀掘立柱建物

板組遺構(祭祀施設)

反復
大菅波コショウズワリ遺跡 加賀市大菅波町
古墳時代~近世

河道と掘立柱建物
古墳時代~平安時代

排水溝を持つ竪穴住居
古墳時代

土器がまとめて捨てられた土坑群(古墳時代)
塔尾遺跡
加賀市塔尾町
縄文、中世

室町時代の掘立柱建物