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 北海道の縄文 №33 2022.06.15-1

  紋別市立博物館 北海道紋別市幸町3丁目1-41番4号
   0158-23-4236  月・祝日の翌日休館撮影可

  オムサロ遺跡公園 紋別市渚滑町川向153番地、興部町字富丘396


交通 レンタカー
近隣観光地 観光協会 流氷砕氷船ガリンコ号の出発地
近隣博物館 紋別の人気観光spot 流氷・アザラシなどの博物館
宿泊情報
  
 
 目次
01外観・入口展示
02オムサロ台地竪穴住居群出土物
02➀パンフレット紹介
 オムサロ遺跡公園とその周辺
02オムサロ遺跡公園案内
 遺跡が語る古代の暮らし
03②遺物紹介
03オムサロ遺跡出土物

10映像展示室
30各種展示室
31太古のオホーツク
33漁法模型
35 人々の暮らし民具

37鉱工業
37鴻之舞鉱山

100考古展示室
110旧石器時代
112旧石器ジオラマ
120マンモスハンターとマンモス
121象牙
123石器
125マンモスゾウ
※考察マンモスの食事
140縄文から擦文時代
143縄文ジオラマ
150縄文の道具
151早期の石器
155早期の土器

160各時代の土器

200収蔵庫展示1
211砂原2遺跡
212チカプノツ遺跡
213ウブナイ遺跡
215栄遺跡

217
※考察 資料からたどる、
擦文人東進とオホーツク人の滅亡

➀擦文時代の遺跡分布の
 変遷について
 オホーツク遺跡の変遷 
 オホーツク文化の滅亡
 擦文遺跡の変遷
②11世紀の北海道を
 取り巻く事変
③まとめ
 擦文人東進理由の類推
④オムサロ遺跡の擦文人
218※メモ 擦文人とは
221収蔵展示室2
223鴻之舞鉱山の坑道模型

※資料 鴻之舞鉱山
225鉱物資源
 紋別流紋岩


400紋別オムサロ遺跡公園
401オムサロ台地竪穴群
410擦文住居(第3号住居)
423古代復元の植生
425復元住居 露出展示

450オムサロの村資料館
453北海道の歴史
 擦文時代
 オムサロ遺跡公園の野草畑
 オムサロ遺跡の歴史
 オムサロ遺跡公園

460遺物展示
461各時代の遺物
465擦文文化の土器
 オホーツク文化の土器
 縄文晩期の土器
 
 
 01外観・入口展示
紋別市立博物館 入口展示
正面は収蔵展示室
収蔵庫手前に展示室
右手に絵画展示ホール
オムサロ遺跡公園
パンフレット
オムサロ台地
竪穴住居群出土物
海牛骨格標本
トド剥製
館内図
トドって言えば和田某が金メダリストを揶揄ったあれか?
 


02 オムサロ台地竪穴住居群出土物
  上記写真④の「オムサロ台地竪穴住居群」の小さな展示には、➀パンフレットと②遺物が展示されています。
  下に、それぞれを紹介します。

 
 02➀パンフレット紹介

 オムサロ遺跡公園とその周辺
オムサロ原生花園 紋別市渚滑町 自然観察小屋を伴う砂丘上の原生花園。一般道からは見えない。下調べが必要。
オムサロ遺跡公 紋別市渚滑町 無人資料館あり。

オムサロとは アイヌ語で、オ・ム・サルルン、川尻、塞がる、湿地の意味を表す言葉です。引用「鳥の饗宴」
 この地域はオホーツク海から吹き付ける風と波、海流によって海砂が吹き寄せられ、海岸に砂浜や砂丘が発達し、
道内から流れてきた河川は川尻塞がれ、潟湖や湿原・湿地を作り出している。
おそらくオホーツク沿岸はほぼこの様子と考えられます。
北隣にあるオムシャリ沼も同様の意味かと推測され、
南のコムケ沼・コムケ原生花園はアイヌ語で曲がった沼を意味します。
オムサロ・オムシャリ

02オムサロ遺跡公園案内(館内設置配布のパンフレットを低解像度スキャナーで取り込んだ画像)
  縄文早期~続縄文~オホーツク文化期~擦文時代~中近世アイヌ文化期、にわたる息の長い遺跡。
  きっと海産物が豊かに得られたのでしょう。

パンフレット紹介

紋別
オムサロ遺跡公園
北海道指定史跡 オムサロ台地竪穴群
北海道紋別市渚滑町川向153番地/興部町字富丘396番地 昭和39年10月3日指定
OMUSAROSITE PARK
 時を超えて現代へ
 古代からのメッセージ。
紋別博物館からオムサロへ
オムサロ遺跡公園
オムサロ台地竪穴群

オムサロ遺跡公園
 オムサロ遺跡は紋別市の中心から北西に7km、 オムシャリ沼渚滑川(しょこつがわ)にはさまれた、海岸沿いの標高10~15mの段丘上にあります。
現在でも埋もれきらないで、先住民族の竪穴住居跡が、北側からA遺跡60軒、B遺跡57軒、C遺跡91軒、合計208軒あり、
縄文時代の早期から続縄文時代、オホーツク文化期、擦文時代と、一万年もの間、とぎれることなく、各時代の生活跡が残されています。
 遺跡公園はC遺跡のうち、台地の南端の35軒が集中している所にあり、約千年前の擦文時代の様子が再現されています。 園路沿いに竪穴住居や高倉が復元され、竪穴住居跡の様子も展示しています。また、アイヌの人々が食用としたオオウバユリエゾエンゴサクなども植えられています。

OMUSARO SITE PARK MOMBETSU HOKKAIDO
お問い合わせは
紋別市立博物館
〒094-0005 北海道紋別市幸町3丁目1-4 TEL : 0158-23-4236
オムサロ遺跡公園
位置図
遺構配置図(擦文住居)

 遺跡が語る古代の暮らし
旧石器・縄文・続縄文時代
 石器や木骨でできた道具を使って、マンモスやオオツノシカを獲っていた時代を旧石器時代といい、今よりも寒冷な氷河期のころです。その後1万年前ころに氷河期が終わり、気候が暖かくなると、表面に縄目の文様がついた縄文土器 が作られる縄文時代になります。竪穴住居に住み、弓矢で動物を獲ったり、石おもりを使った網で魚を捕まえ、野山の植物も調理して食べるようになりました。

 その後本州では、稲の栽培と金属器が作られる弥生時代が始まりますが、北海道では気候が冷涼で米ができないのと、サケマスなど自然の恵みが豊かなため、縄文時代と同じ狩猟や漁撈を中心とした文化が展開していました。それで続縄文時代と呼ばれており、鉄器が一部使われ始めました。

 遺跡が語る古代の暮らし
旧石器・縄文・続縄文

オホーツク文化と擦文時代
 今から1500年ほど前から1000年前にかけて、サハリン南部から北海道、南千島のオホーツク海沿岸に海獣狩猟や漁撈を中心とした北方系の文化が展開しました。これがオホーツク文化で、大陸や本州と積極的な交流をしていましたが、やがて擦文文化に吸収されて消えてしまいます。
 本州の古墳時代の終りころ、北海道と本州の交流がさかんになると、続縄文文化の人達も本州の古墳文化を取り入れ、土器の文様も縄文をやめ、木片で表面を擦ったり刻んだ土器を作るようになります。 又住居も四角になり、カマドをもった竪穴住居に変化し、石器のかわりに鉄の道具が使われる擦文時代になります。

擦文時代の生活
 かつてオムサロ遺跡周辺の地形は、オホーツク海の砂州が伸びていて、その内側には沼地が水をたたえ、豊富な魚貝資源が満ちあふれていたと考えられます。背後は森林で、ヒグマやエゾシカも多くいたでしょう。こうした恵まれた自然の中で、擦文時代の人々は方形でカマドのある竪穴住居に住み、本州より手に入れた カマ、クワ、刀子などの鉄器を持ち、植物も栽培していましたが、主として、サケ漁と山へ行っての狩猟、海や川・湖沼での漁撈を中心とした暮らしが営まれていました。
 本州では奈良・平安時代から 鎌倉時代の頃、紋別ではアイヌの祖先にあたる人たちがこのような擦文文化の暮らしをしていました。オムサロ遺跡公園には、そのころの様子が再現され ています。

擦文の住居のつくり方
 擦文住居は、方形 (四角形) を基本に柱をほぼ四隅に四本、これを家の基本柱とします。家の大きさは一辺が4~5m、大きな家では7~10mもあります。 家が大きくなると、屋根を支えるため、基本柱の間に1~2本の支柱が使われています。屋根はヨシやササでふきます。壁にはカマドがあり、 カマドの横に出入り口 がついています。

擦文時代の食べ物
 擦文人は毎年秋に川に上るサケを中心とした魚貝類や、エゾシカ、ヒグマや海獣類などの動物とともに、アワ、キビ、ヒエ、オオムギ、コムギ等の栽培植物、また、アイヌの人々と同じように、カタクリ、エゾエンゴサク、ギョウジャニンニク、ニリンソウ、フキ、ウド、ゼンマイ、エゾネギ、 エゾニュウ、ツリガネニンジン、オオウバユリ、クロユリ、ヤブマメ、ハマナス、クルミ、ドングリ、ヒシ、マムシグサ、ツルニンジンなど野生の植物を料理して食べていたと考えられます。
オホーツク文化と擦文時代
擦文時代の生活
擦文時代の食べ物
 

食用や薬用に使った植物。
オムサロ遺跡公園ではアイヌの人たちが食用や薬にした植物を園路沿いに植えています。
利用植物と発掘復元 植物利用

おおうばゆり/ドレプ/鱗茎
かたくり/エシケリムリム/鱗茎・葉
えぞえんごさく/トマ/塊茎
ぎょうじゃにんにく/キト/若茎葉
にりんそう/プクサキナ/茎葉
よぶすまそう/ワッカクド /若茎
おおあまどころ/エトロラッキプ/根・実
はまなす/マウニ/ 果実・木屑
がんこうらん/クラシノ/果実


発掘・復元と遺物
(1)発掘後の住居跡(28号)
(2)壁復元後の住居跡(28号)
縄文土器(北筒式)
擦文土器
(3)復元後の住居(23号)
(4)住居内部の様子(3号)
 

03 ②遺物紹介

 03オムサロ遺跡出土物 オムサロC遺跡4号(住居)跡周辺遺物 平成19.20年札幌大学・市教委
  ~オホーツク式土器、縄文晩期土器、装身具、石器~ 

 オムサロC遺跡出土物 北海道紋別市渚滑町川向265/266 引用全国遺跡報告総覧オムサロ遺跡
 縄文時代  オホーツク文化期  擦文時代
 種別:集落
 時代:縄文
 主な遺構:縄文土器(東釧路Ⅲ式(早期末)北筒式(中期後半・道東道北)
               幣舞式(晩期後半))
        石鏃、ナイフ形石器、スクレイパ
 主な遺物:石錐、石核、石斧、敲石、石皿、剥片、石製品(垂飾平玉)
種別:集落
時代:オホーツク文化期
主な遺構:なし
主な遺物:土器
種別:集落
時代:擦文
主な遺構:煙道1
主な遺物:土器、土製品
 ※C遺跡では縄文の遺物が中心に出土しています。が、擦文住居が91軒も出土しており(全体で208軒)、擦文人の居住区で、それを復元した。

オムサロC遺跡
オホーツク式土器
縄文晩期土器
装身具、石器~
発掘完了状況
この丸い穴は?
調査状況
 04
オホーツク式土器
貼付文

無文・口縁部肥厚
 05土器
縄文晩期土器
 06石器
装身具 各種石器

尖頭器・錐・ナイフ
掻器など
石鏃
 
 

10映像展示室


 10オホーツクシアター
  Оkhotsk Theater 
  紋別はオホーツク観光の拠点である。流氷が押し寄せる海へ、砕氷船ガリンコ号が乗り出していく。
紋別港
海に山が迫る狭い土地に、都市が発達した
紋別市中心街
山の斜面に急造成した住宅地が大半。
急激に都市化した。
産業は漁業・農業
流氷
冬場の産業は観光業
流氷が中心。
流氷原 流氷原


 30各種展示室


 31太古のオホーツク
オホーツク海の恵にはぐくまれた北の大地。
太古の昔からこの地で暮らしていた生き物たちがいます。
当時の生き物たちは今、化石となって私たちの前に姿を現し、当時の様子を語りかけてくれます。
ここ紋別市でもクジラの化石を始めとし、貝類、植物などの化石が発見され、紋別太古の姿を語りかけています。
クジラの化石
上に記述

 33漁法模型
ここに展示された網の模型は、実物を1/150分に縮小した模型です。
それぞれの漁によって網の大きさも異なりますが、海の中で普段目にすることのできない網も、地上にある物と大きさを比較すると、
その大きさを感じることができます。

底引き網
網の大きさは博物館平面図と同縮尺
大変大きい
底引き網
大きなビル一棟を引いてるのと同じ
漁法模型 底建て網
海底に張った定置網
底魚が多いようだ
漁具・操船具など 底引き網模型
トロール船 底引き網・トロール船は小学校で覚えたが、まさかこんなに巨大とは知らなかった。 どちらも海底資源を一網打尽にしてしまう漁法。名前は違うが実際はどう違うのか。

 35 人々の暮らし民具
番屋 番屋 番屋
民具 民具 アイヌ文化
トンコリ
 

 鉱工業

 37鴻之舞鉱山 1915―1973
鴻之舞鉱山の歴史
鴻之舞鉱山は大正5年(1916年)に沖野永蔵が鴻之舞の元山山頂に金鉱石の大露頭を発見したのが始まりで、住友が鉱山権を買収し、大正8年(1919年)に青化精錬(製錬)を開始しました。
昭和18年(1943年) 金山整備で休山するまで、産金量29tに達する東洋一の金山となり、最盛期には一日3,000tの鉱石を処理し、従業員は4,650名を数えました。
昭和24年(1949年) に操業を再開し、昭和30年(1955年)には、一日 1,300tにまで回復しましたが、次第に鉱量、品位ともに下降線をたどり、昭和48年(1973年)に閉山しました。
開山から閉山までの生産高は金 72,632kg、銀1,234,126kgになります。

※金塊1t=52リットル。72.6t=3775.5リットル。200リットルのお風呂19杯分


  ※明治30年に砂金の発見以後、多くの夢追い人が集まった紋別開拓の一つの原動力となったのでしょう。
  そして、富国強兵時代の日本を支え、戦時中の戦費をたすけ、高度経済成長までの日本経済の資源となったのでしょう。
※60年前に小学校社会科で鴻之舞の金鉱山を覚えました。そこから10年余りで国内の産業構造が変化し、炭坑や各地の鉱山が閉山しました。

※紋別-上士幌地溝帯は両側から引っ張られる形で沈み込み、成層火山群や巨大カルデラなどが形成され、北海道四大産地の内、白滝・置戸・十勝はこの地溝帯の中にあります。
 火山活動の激しい地域なので熱水鉱床も発達し、地下深くから湧きあがった金・銀が鉱床を形成した。この地域では、それ以外にも鉱化作用が行われている。例えば勢多鉱床は2Ma~50万年前金銀の鉱床化は1.6~1.4Maに行われた。など、地下資源の宝庫である。
  引用「北海道北東部における浅熱水性鉱化作用の時空変遷」

(砂金秤)斤量(きんりょう)
砂金
金銀鉱石
金銀インゴット
オホーツクゴールドラッシュ 鴻之舞鉱山の歴史
 38鴻之舞町
鴻之舞町街図
昭和30年代
鴻之舞鉱山の歴史 1精錬所 2鉱山住宅
3商店街 4中学校
5小学校
8郵便局 9配給所
6恩栄館 7消防署
10役場支所 11商店街
 


 100考古展示室


 110旧石器時代
旧石器時代は氷河期と言う寒冷な時代で、氷河の発達により海面が今より100mも低くなり、北海道は大陸と陸続きになっていました。
オホーツク海沿岸にはハイマツグイマツ森林ツンドラが広がり、
北海道には北方からマンモス、バイソン(野牛)ヘラジカなどが、
本州には南方からナウマンゾウ、オオツノジカなどが、大陸から移動してきました。

紋別に最初に人が住み始めたのは、1万8千年前頃です。それはコムケ湖岸の粘土の中から、黒曜石の石器が出てきたことからわかりました。
紋別のコムケ海岸に住んでいた人たちも、それらの動物を捕まえて、その肉をバーベキューにして食べたり、皮を衣服にして生活していました。
彼らは石器や木や骨でできた道具を使い、火を利用していましたが、土器はまだ知りません。
また住むところは決まっておらず、木を組んだ上に毛皮をかけたテントで生活しており、動物を追って移動していました。

 111
旧石器時代 氷河期に大陸から来た
動物
北から
マンモス動物群
マンモスゾウ・ムカシヤギュウ・ヘラジカ・タイリクヤチネズミ
南から
ナウマンゾウ・ヤベツオオツノジカ動物群
ナウマンゾウ・オオツノジカ
 112ジオラマ
マンモスゾウ・ヘラジカの狩猟
 120マンモスハンターとマンモス
   北海道でマンモスゾウが生息したのは、4万年前頃~2万年前頃と言われている
 121象牙
マンモスの牙
シベリア出土
 123石器
削器 石刃 掻器
彫器
剥片 剥片 石核
 125マンモスゾウ
マンモスの大臼歯 マンモスの毛
シベリア出土
マンモスの下顎と臼歯

 ※考察 マンモスの食事
   ナウマンゾウに比べて、マンモス象の臼歯は小さい。
   超寒冷な北海道で、大きな体に比べて歯が小さいのは、柔らかい高カロリーの食物を食べていたからだろうか。
   シベリアの永久凍土の中から発見されたマンモスの胃袋からは、イネ科植物を中心に、キンポウゲ科・ヨモギ科植物が発見されている。
   絶滅期の動物が口にしたものが、繁栄期の食草と同じかは知らない。
 


 140縄文から擦文時代

 1万年前頃氷河期が終わり気候が温暖になると、土器の表面に縄目の文様がついた縄文土器が作られる縄文時代になり、竪穴住居の定住生活を始めます。狩猟とともに漁労や植物の採集も積極的に行うようになりました。土器を作ることにより木の実や植物の根や茎などの煮炊きが可能になり、弓矢の発明は、今まで獲れなかった鳥や小動物を取ることができ、石錘を使用した網で魚を取り、食生活が豊かになりました。

 その後本州では稲の栽培と金属器が作られる弥生時代が始まりますが、北海道は気温が低
く米ができないのと、サケ・マスなどの自然の恵みが豊かなため、縄文時代と同じ狩猟や漁労、採集を中心とした文化が展開していました。それで続縄文時代と呼ばれており、1一部で鉄器が使われ始めました。

 1500年ほど前から1000年前年かけてサハリンから北海道オホーツク沿岸、南千島に海獣狩猟や漁撈を中心とした北方系のオホーツク文化が展開しました。大陸や本州と積極的な交流をしていましたが、やがてのちの擦文時代に吸収され、消えてしまいます。

 本州の古墳文化の終わり頃、続縄文文化の人たちも本州の文化を取り入れ、土師器をまねた、木片で表面を擦ったり刻んだりした擦文土器を作るようになります。また住居の四角でカマドをもった竪穴住居に変化し、石器の代わりに鉄器が使われる擦文時代となります。

 141
縄文装飾 縄文から擦文時代 縄文から擦文時代

30,000万年前 旧石器時代
10,000万年前 縄文時代 早期








2,000年前
 









続縄文時代

前期

中期

後期

晩期
6,000年前

5,000年前

4,000年前

3,000年前


1,500年前
1,300年前

700年前
  オホーツク
擦文時代

アイヌ時代
文化
1,000年前

 143縄文ジオラマ
縄文村の暮らし 魚網の天日干し 簗を仕掛けてマス捕り 捕れた魚の干物作り
イクラは選別
土器作り
なめし皮干し
シカの狩猟
竪穴住居
干物干場 干し鮭作り 住居と子供と
狩猟の帰り
メス鹿の捕獲
秋の鮭捕りなのかな?
ススキに穂が出ている
川にヤナの仕掛け
 

 150縄文の道具

 151縄文早期 石器
 柳沢遺跡 紋別市渚滑町1丁目(もんべつししょこつちょう1丁目)
  時代:縄文早期、種別:集落遺跡、遺構:住居15、土坑24、主な遺物:石器
縄文早期
柳沢遺跡
石ノミ
石錐
石鏃
石銛
石槍
石斧 ナイフ つまみ付きナイフ 削器 掻器 石錘
砥石
擦石

 155早期土器
中茶路式土器
柳沢式土器
柳沢式土器

 ※紋別市の縄文早期遺跡にはチカプノツ遺跡
 住所:紋別市渚滑町1丁目(もんべつししょこつちょう1丁目
 時代:縄文早期、遺構:集落遺跡・土坑1、遺物:石器
 時代:続縄文、 遺構:住居1、遺物:土器・石器
 
 160各時代の土器

 続縄文土器
続縄文時代
砂原2遺跡
後北式土器
続縄文時代
砂原2遺跡
後北式土器

脚注だが、これは
オホーツク文化
遺跡名不明
貼付文期土器
と思われる
擦文時代
栄遺跡
擦文式土器

 オホーツク・擦文土器
  オホーツク文化
栄遺跡
オホーツク式土器
 
縄文時代中期
オッチシ遺跡
北筒式土器
ではないかと
オホーツク文化
栄遺跡
オホーツク式土器
 
擦文時代
砂原2遺跡
擦文式土器 
   
 

 200収蔵庫展示 1

 210
 211砂原2遺跡
砂原2遺跡出土土器
擦文時代

 212チカプノツ遺跡
時代:縄文(早期)
遺構:土坑1
遺物:土器・石器
時代:続縄文
遺構:住居1
遺物:土器・石器

チカプノツ遺跡出土
縄文早期
擦文土器
 213ウブナイ遺跡
ウブナイ遺跡出土
 215栄遺跡出土土器  オホーツク土器
 

 217※考察 資料からたどる、擦文人東進の理由と、オホーツク人の滅亡

 ➀擦文時代の遺跡分布の変遷についてから引用
擦文時代は
 7世紀~12・3世紀(1400~700年前)
までである。
擦文時代の編年を4~11期に分け、
 前半期(4~7期) 9~11世紀、
 後半器(7・8期~11期) 11世紀~13世紀前葉とする。

 4・5期(9~10世紀前半)、
 6・7期(10世紀中葉~11世紀前半)、
 8・9期(11世紀後半~12世紀前半)、
 10・11期(12世紀後半~13世紀前葉) 


 擦文以前
 オホーツク遺跡の変遷 
  擦文以前のオホーツク文化期の変遷から見ていきます。 4世紀~9世紀まで。

図表引用「オホーツク文化の変遷・盛衰と気温変動(気候変動)との対応」

初期オホーツク文化(鈴谷文化)(3-4世紀)
4世紀 北海道は続縄文時代。範囲:樺太南部と稚内でオホーツク文化が始まる。

オホーツク文化前期(5-6世紀)範囲:サハリン南端~利尻・礼文・稚内
5世紀 陸奥の古墳文化に接触した東北エミシが石狩低地に移住して擦文文化が始まる。
オホーツク文化が南下拡大する。
6世紀 北海道道北・道東では、オホーツク文化が拡大する。
佐渡島にオホーツク人が居住していた。
北海道全域では、続縄文から擦文文化への移行期。

オホーツク文化中期(7-8世紀)範囲:サハリン南端~知床半島
7世紀 北海道エミシ(擦文人)とオホーツク人の争いが絶えず、大和朝廷側勢力阿倍比羅夫が介入した。
7世紀を持って擦文時代の開始とされる。~13世紀まで
7-8世紀 続縄文文化が擦文文化に移行期。石狩川流域で末期古墳の築造
8-9世紀 擦文文化の成立期

オホーツク文化後期(9世紀)範囲:サハリン全土~千島列島 ↓に記述

オホーツク文化の滅亡
(9世紀)   引用「オホーツク文化の終焉と擦文文化」

  オホーツク文化終末期についての最も具体的な像は次のようにまとめられる。
 ➀オホーツク文化と擦文文化の両集落はモザイク状に隣接して存在した。
 ②こうした両者の共存が可能だった背景には, オホーツク文化人の生活圏は海。擦文文化人の生活圏は山河川という差があったからである。
 ③(げん)の樺太侵攻(北の元寇)によって大陸北方における諸民族間の勢力関係に変化が生じ, オホーツク文化人の大陸基地が覆滅し、
  金属器の入手が困難となった。
 ④この期に擦文文化人の進攻があり, オホーツク文化人の多くは滅亡、一部は吸収された(10世紀トビニタイ文化), それは鎌倉時代にあたる。
※オホーツク文化は、擦文人によって滅ぼされた。




  オホーツク文化後期=擦文文化前半(4~5期)
  ここからは、オホーツク文化滅亡以後の北海道史である。

 オホーツク文化以後の
 擦文遺跡の変遷  引用「擦文時代の遺跡分布の変遷について」
4~5期 4・5期(9~10世紀前半)
 3期までは石狩低地帯が遺跡の集中地であり,これよりも東ではほとんど分布していない。
 4・5期に入っても石狩低地帯の集中は変わらないが,
 4期になると石狩川上流や日本海沿岸北部の小平町・苫前町の河口部に竪穴住居が見られるようになる。
 5期は日本海沿岸北部・道東の広い範囲にまで広がり,オホーック土器が擦文土器の影響を受け,
   元地式土器トビニタイ式土器といった接触様式が生まれる。
6~7期 6・7期(10世紀中葉~11世紀前半)
6・7期は
 全道的に遺跡が広く見られ,前段階までほとんど分布しなかった道南日本海沿岸でも増加する。
 ただ,道東太平洋沿岸,特に十勝川流域では依然として少ない。
 日本海沿岸北部・石狩川上流部で竪穴住居数が増加し,最盛期となる。石狩低地帯でも引き続き遺跡は多い。
8~9期
8・9期(11世紀後半~12世紀前半) 8期(11c中~末)は東北地方戦乱の時代。擦文人が道東へ大挙移住
8期になると
 石狩低地帯遺跡が激減し,以後竪穴住居はほとんど見られなくなる。一方,
 道東では増加し,太平洋岸でも遺跡が増え始める。現在でも竪穴住居の窪みが多数残っている河口部の遺跡では,
  一部のみ調査が行われているだけだが,多くがこの時期以降の住居であることからも,
  道東では8期に遺跡が激増していると考えることができる。
  ※擦文人が道東に移動して、本拠地、石狩低地はカラになった。

9期になると
 中部を除く日本海沿岸と石狩川上流では土器がまったく出土しなくなり,擦文文化が周辺に先駆けて終了する。
   ※11世紀後半になると、擦文人は拠点であった石狩低地を捨て、一斉に道東に移住している。なぜか?
10~11期
10・11期(12世紀後半~13世紀前葉)
 10・11期は道東の内陸部で遺跡が少なくなり,海岸部に集中する
  石狩低地帯では遺跡がごく少ない上に,出土する土器も少量である。
  ※最後の擦文人は、道東内陸からもいなくなり、最後にオホーツク海沿岸部にのみ残る。

分布図から,これまでいわれてきたように
 前半期(4~7期) 9~11世紀に石狩低地帯で遺跡が多く,
 後半期(7・8期~11期)11世紀~13世紀前葉なると道東に多くなるという集中地の逆転現象が確認できた。
この大きな画期(遺跡の逆転現象)が8期,つまり11世紀後半に起こったことが分かる

他に, 9期以降に道南日本海沿岸,日本海沿岸北部,石狩川上流で遺跡がまったく見られなくなることも大きな変化であるといえる。

 4期から徐々に東部へ拡散が始まること,
 5期にはほほ北海道全域に遺跡が見られるようになること,
 6期に道南日本海沿岸で遺跡が増加し始めること,
 9期にようやく道東太平洋岸で増加が見られること,
 10期に道東の内陸部で遺跡が減少すること,道央太平洋沿岸では擦文時代にわたり遺跡が少ないことなどが指摘できる。



 ②11世紀の北海道を取り巻く事変
   擦文人が石狩低地を捨てて、一斉に道東に逃げ出したのはなぜか。
   11世紀後半には何が起こっていたのだろうか。

前九年の役(1051年)、陸奥国(今の福島、宮城、岩手、青森県)で12年間続いた戦乱。
  長大な陸奥国を治めていた土着民(蝦夷)である阿部氏を出羽国を支配していた清原氏が滅ぼした。(源頼義が原因)あべ×あんべ〇
  ※これは、関東より東の全ての東北地方全域を巻き込んだ戦乱であった。清原氏は清和源氏(河内源氏)が出自。
後三年の役(1083年)、30年後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。(源義家が原因)
  前九年の役で阿部氏を滅亡させた清原氏の内紛に、源義家が介入し、清原氏を滅ぼした。清原氏は藤原と改名、奥州藤原氏の繁栄に繋がる
  
奥州藤原氏の繁栄
  藤原氏は東北地方のインフラ整備や資源開発。蝦夷地との交易などに積極的に乗り出し、繁栄を極めた。

11世紀後半の北海道
  このような藤原氏による交易の発達により、
  擦文人たちがオホーツク人になり替わり、北海道全島はもとより、それまでオホーツク人の勢力圏であったサハリンや千島列島にも進出して、  良質なワシ羽など、北方からの産物を手に入れるようになっていた。 




 ③まとめ
  擦文人の道東進出理由の類推

 私はこれまで、擦文人が道東に進出したのは、オホーツク人への憎しみや、奪われた失地回復、人口増加による食料確保。
擦文人のオホーツク人との通婚により航海や交易などのオホーツク人的生き方や技術を獲得したからだと考えていました。

 しかし、そればかりとは言えない事実が浮かんできました。
一つは、奥州藤原氏の交易活動の活発化。二つは、長く続いた戦乱による危険です。
 
 一つには、奥州藤原氏による交易の活発化が原因だと考えられます。
 擦文人は東北北部の古墳人が北海道石狩地方に逃れて文化を築いた事に始まります。彼らは、北海道土着民ではなかったのです。
彼らが藤原氏との交易を担うことにより、交易資源の入手のために北海道を東進し、かつてはオホーツク人が持って来ていた資源を自分たちで入手すべく進出した。後に彼らは、樺太アイヌや千島アイヌとなった。
 しかし、いくらなんでも、本来の居住地を完全に放り出していなくなってしまうのか。そこで。

 二つは、長い長い戦争による逃亡者や敗残兵、その後、陸奥を支配した和人による圧政によって逃散した人々など、凶悪な大量の和人や東北エミシが流入してきたと考えられます。彼らによる村への襲撃や略奪。強盗・強〇などが起こる。一般人は、戦闘地域の人々と戦うことはできないので、東に逃亡したと考えてもおかしくはない。
 そして、その後、流入した危険な人々は、やがて擦文人と融合して抑え込まれ、新たな文化、アイヌ人として大和文化を大量に取り込みながら、擦文文化の延長線上でアイヌ語文化を築いていったのではないか。(和人もいたが、少数派であり、大和言葉では統一されなかった)そのために、各地で融合が早かった地域から、擦文遺跡が消滅していき、最後に道東の海岸線まで追いつめられたのではないでしょうか。


 ④オムサロ遺跡の擦文人たちは
  道北最東端の擦文人

 11世紀後半から、石狩低地で和人との混血を果たした和人化擦文人、即ちpreアイヌ文化人が次第に東へ拡大する。
彼らが受け継いだものには、神道系宗教、修験道などや農耕、鍛冶など様々であるが、仏教はまだ大衆化させれおらず伝わらなかった。

 釧路・根室・知床・斜里地域のオホーツク人との混血を果たした擦文人は、その高い精神性と宗教観を内包したトビニタイ文化人となる。
やがて、土鍋の鉄鍋化によって土器の特徴を削り落とし、高い精神性と信仰を持った、preアイヌ文化として西へ北へと拡大していく。

 二つの高い文化の混血集団に道内の擦文集団は次々と飲み込まれていく。本来、山や川(狩猟採集と鮭漁)を生活の糧とする擦文人は追いつめられ、遂には、オホーツクの海岸に出た。そこは、細々とした河川や、湿地・潟湖などの不毛の地で、かつての海漁には適した地域での生活を余儀なくされ、やがて、preアイヌに飲み込まれていった。それがオムサロの最後の擦文人ではないだろうか。

 やがて、preアイヌの、和人化集団とオホーツク化集団が、道央で衝突して更に融合し、和人文化とオホーツク文化両方の特質を持った新しい集団として、アイヌ文化人が誕生し、更に道内各地へと拡大していく。これがアイヌ文化の誕生ではないだろうか。


 218※メモ 擦文人とは
続縄文時代=弥生時代~古墳時代。前半=(紀元前4世紀~紀元後1世紀頃)後半=(紀元2~6世紀頃)
オホーツク文化前期5-6世紀、中期7-8世紀、後期9世紀
擦文時代=飛鳥時代~平安時代~鎌倉時代。(紀元7~12・13世紀頃)

北海道、樺太の時代による文化変遷の図
引用wikipedia
オホーツク文化の変遷
4世紀(続縄文時代)は北海道全域が続縄文文化、樺太はオホーツク文化の前段階とされる「鈴谷文化」。
5世紀(続縄文・擦文・オホーツク)は北海道の大半が続縄文から擦文への転換期。
 樺太、オホーツク海沿岸、千島列島はオホーツク文化。
10世紀~12世紀(擦文・トビニタイ)は北海道の大半が擦文文化でオホーツク文化人は樺太に撤退、
 根室、釧路地方にはトビニタイ文化が成立

擦文人の始り
 5世紀に、東北北部(陸奥)の、古墳文化に接触した蝦夷(この場合土着民=縄文人と見るべきか)が、石狩低地に移住して始まった。
 移住者は土師器製法を知っており、ロクロ成形ではなく、土器の表面を木ベラで擦る製法で土師器似の擦文土器を使用した。
 移住者は、この地で、北海道縄文人と融合・混血を繰り返して、新しい文化の擦文人を形成し、拡大していった。
オホーツク人との軋轢
 5世紀にオホーツク文化が南に広がり始める。
 6世紀には、佐渡島に渡来し、居住した。彼らは、食糧不足になると、佐渡島土着民の集落を襲って略奪をした。
 7世紀までには、擦文人とオホーツク人の間で既に大きな軋轢が広がり、遂に大和朝廷を巻き込んだ奥尻島の戦争に発展する。
 7世紀の阿倍比羅夫の戦功を背景に、擦文人は全道的に拡がり、各地に進出した。
 9世紀には鉄器不足のオホーツク人を、鉄器豊富な擦文人が襲撃し、オホーツク文化は滅んだ。
 10世紀には、7~9世紀末まで続いた中世温暖期が終わり寒冷期が始まる。オホーツク文化滅亡の主因はこの気候変動かもしれない。
    寒冷化によって世情不安定となる。浄土信仰の流布
和人との混血
 寒冷化が進み、農作物や魚業の不振が続く世情不安の中で、
  (この時代を描いた小説は真継信彦の鮫・無明・華厳が有名。この不安の時代に、のちに隆盛となる新仏教が起こる。)
 11世紀の東北戦争と、和人と北海道エミシとの交易場所の廃止移転などから、東北太平洋側で交易に関わった和人が大挙石狩低地に移住し、
 和人の生活習慣や宗教・農耕などが一挙に擦文文化に流れ込み、擦文文化はエミシと和人の混血文化となった。
オホーツク人との融合
 トビニタイ文化は9~13世紀頃
 オホーツク文化は9世紀に終焉した。


 221収蔵展示 2

収蔵庫展示室の写真がこんなとこに来てました
アザラシ類 剥製
 

 223鴻之舞鉱山の坑道模型
 この坑道模型は、上の地表模型をはずすと、下に網の目の様に彫られた坑道が造られています。写真②で少し下の方に見えています。

 ※資料 鴻之舞鉱山 紋別市鴻之舞 住友金属鉱山鴻之舞事業所
 鴻之舞鉱山は私が小学生の頃は日本の金鉱山として社会科で暗記するほど有名でした。この頃はまだ操業を続けていた。
 1970年の産業改革によって、石炭は石油に。蒸気機関車はディーゼル車や電車に。補助金で運営しているような鉱山はすべて閉山。
この時、日本の金銀山や銅山。炭鉱が次々と閉鎖されました。鴻之舞や菱刈鉱山など有名な金山もなくなりました。
 鴻之舞金山
 この時の産業構造の転換により、日本は高度経済成長期へと突き進み、海も、水も、空気も、汚染され、様々な公害病が発生する
恐ろしい時代へと突き進み、『24時間戦えますか』と問われたものである。   …ムリデス


 225鉱物資源
 紋別流紋岩

 紋別市指定天然記念物
 紋別流紋岩
 紋別流紋岩は紋別市上藻別に所在し、モベツ川支流の上モベツ川中流 一帯の土中より産出する独特のものです。
 紋別流紋岩のでき方は、流紋岩 (石英粗面岩) の噴出後、二次的珪酸溶液が岩石のすき間の中に、あるいは地表にしみ出て沈殿したものと思われ、表面形状は乳房状、 ぶどう状、 半球状を呈しています。 本石は珪酸沈殿物からできていて、石英、ぎょくずいを主としますが、一部は蚕白石メノウをも含んでいます。一般に白色や灰色を帯びたものが多いですが、時には淡黄 淡紅あるいは赤褐色など種々の色彩を示していま す。内部の構造は、平行縞状の発育を示しつつ円味を帯びた半球状をなし、また外見からも層状・外皮殻状に重なりながら球状体をつくっています。
 流紋岩のような珪酸沈殿物は、この地域以外においても発見されます が紋別流紋岩のような乳房状・ 半球状の形状が特にはっきりしていて、 球状体が美しく、かつ大型で、しかも多数散在するのはここだけのものです。

 フェリエ沸石(苦土沸石)
 苦土とはマグネシウムのことです。マグネシウムが主成分の沸石を苦土沸石と呼んでいましたが、カリウムもしくはナトリウムが多く含 まれているものもあり、現在はこれら全てをフェリエ沸石と呼びます。
 全国でも限られた場所でしか見られない貴重な岩石です。
 鴻之舞採石場で出土したフェリエ沸石 (苦土沸石) の形態は細かな薄板の柱状結晶が多く見られます。一般的には細かな薄板の柱状結晶が多いですが、球状集合になることもあります。

 沸石は火山の溶岩の中にでき、溶岩が冷却されて常温に近づくとき、熱水から結晶化します
 日本には約30種類あり、重要な鉱物資源の一つで、各地で採掘されたり人工的にも合成されています。
 用途は金属イオンを交換し、水を吸着させて硬水を軟水に変えたり、石油の中の水を除去したり、化学工場で触媒に用いたり、原子力廃棄物の処理や肥料にも使われています。

紋別流紋岩
フェリエ沸騰石

柱状結晶のフェリエ沸石
球状集合のフエリエ沸石
紋別流紋岩
紋別流紋岩
苦土沸石含有安山岩
 

 博物館の悲しみ
 駐車場から博物館に行こうとすると、その手前にレンガ色の美しい建物が2棟あり、その奥に古い建物がありました。
駐車場は三か所の建物からも裏手にあたり、建物名称がわかりませんでした。
 当然、綺麗な新しい建物に行こうとしましたが、たまたま駐車場から来た女性に聞きました。この建物は博物館ですよね(^^♪
女性は怪訝そうな顔をして(-_-;)違います!とだけ言って綺麗な建物に向かって足早に去って行きました。

 博物館の手前にあった美しい建物は、まちなか芸術館文化会館でした。その奥にある古い建物の博物館は、これらの新築建物に完全に食われています。とてもじゃないが薄汚れて見えます。落差ありすぎでした。
みすぼらしく古びた博物館は絵画展をしてもまちなか芸術館に完全に負けています。「客が来ない」は値打ちが下がる要因。
 街中芸術館の建設時に、博物館の外壁塗装をしてもらえていたら、きっとこんなに期待値は下がらなかったと思います。残念。

まちなか芸術館
紋別市文化会館
オホーツクの海霧 博物館・文化会館
芸術館
    
 


  北海道指定史跡 オムサロ台地竪穴群 北海道紋別市渚滑町川向
 400紋別オムサロ遺跡公園


 401時を越えて現代へ オムサロ遺跡へようこそ

 オムサロ台地竪穴群 (縄文~続縄文~オホーツク文化~擦文)
オムサロ遺跡は紋別市の中心から北西に7km、オムシャリ沼と渚滑川に挟まれた標高10~15mの海岸段丘上にあります。
全208軒の竪穴住居跡を中心に、縄文時代から続縄文時代・オホーツク文化時代、擦文時代と、各時代の生活の跡が途切れることなく残されています。
オムサロ遺跡公園では4軒の復元住居や高床倉を復元し、約1000年前の擦文時代の様子を再現しています。
また、園路沿いにはアイヌ民族が食用や薬用に使った植物が植えられており、四季の花々を楽しむことができます。
オムサロ遺跡公園
案内板
道指定史跡
オムサロ台地他竪穴群
紋別オムサロ遺跡公園
・時を越えて現代へ
 オムサロ遺跡へようこそ
・オムサロの擦文時代の生活

時を越えて現代へ
オムサロ遺跡へようこそ
擦文土器

 オムサロの擦文時代の生活
かつてのオムサロ周辺は渚滑川が遺跡の前までのびていて、魚貝資源が満ち溢れていました。
遺跡の背後は森林で、動植物にも恵まれていたことでしょう。

こうした自然の中で、擦文時代の人々は四角形でカマドがある竪穴住居に住み、川や海での漁労や採集をしながら生活をしていました。
また、ソバやオオムギ、アワなども栽培していたと言われています。

オムサロの擦文時代の生活
オムサロの擦文時代の生活
本格的復元住居は奥の方にあったようです。
クマの出現を怖れて入口付近の再現住居が全てと思っていました。

※近代に入って、対露防衛で、塹壕を掘ったのでしょうか。
キスカ島防衛の時期なら日露戦争から太平洋戦争にかけてですね。

 410復元擦文住居(第3号住居)
カマド・ベッド ベッド
 420
 421
 第3号住居(擦文文化)
 大きさ 幅 4.8m、長さ4.8m
 平面形 方形
 特徴
  屋根を支える柱は4本。 東・西・北壁にベッド状の床が付きます。
  南壁にはカマドがあり、 食物の煮炊きに使用され、 中央の炉が暖房となります。
  また、カマドを覆うように作られた下屋(げや)も特徴といえます。
 423古代復元の植生
サイハイラン ギバナノアマナ
(ユリ科)
ウド(ウコギ科)

 425復元住居(露出展示=骨組み展示) ただし、高床倉庫は見当たりませんでした。
 第28号住居 (擦文文化)
 大きさ 幅 6m
 長さ6.7m
 平面形:方形
 特徴: 8本の柱で屋根を支え、壁に付随し て縁側がめぐります。 カマドは東南壁に付きます。
    この家はほかに比べて大きく作られており、2~3家族が居住していた と考えられます。
第28号住居
擦文文化
 427住居内
入口から最奥を見る
ベッドは右だけ

必要に応じてベッドは増設したのだろうか
カマド、→入口 ベッド 出入口
 430
 431住居跡の方形の窪み 多数
この巨大な窪み
 433

木道がしっかりしている

どことなくチセに似ている

やっぱチセに似てる
チセはアイヌ期の住居
オムサロ台地竪穴群C遺跡
海岸線は埋め立てられ海も川も遠のいたが、以前は間近だった。

サケマスや海獣の回遊は何十万年も変わらない。
旧石器~アイヌ期まで豊かな村だった。

 450オムサロの村資料館
 451資料館
オムサロ村資料館 オムサロの村資料館
全景 屋根材など
すだれ編み機 あしのたば
 453北海道の歴史
北海道の歴史
弥生・古墳・平安=続縄文
奈良・平安・鎌倉=擦文
安土桃山・江戸=アイヌ
北海道の歴史
北海道の歴史には、教科書では習わない文化と時代名があります。
日本全体がほぼ同じ文化圏であるのは縄文時代までで、それに続く弥生時代・古墳時代は北海道には存在しません。
日本区分の弥生時代にあたる続縄文文化から明治時代になるまでのおよそ2400年間、北海道は
独自の文化を築いてきたのです。

オムサロ遺跡公園の中で見られる竪穴住居跡は擦文時代のものです。
擦文時代は7世紀から12・13世紀頃まで続いた時代で、
本州では飛鳥~鎌倉時代とほぼ同時期になります。
続縄文文化に引き続き、狩猟・採集・漁労を生活の基盤としながらも、
アワ・ソバ・オオムキといった雑穀農耕がいっそう盛んになった時代です。
また機織技術や鉄器の使用が広まるなど、本州の影響を強く受け北海道の文化が大きく変化した時代でもあります。

 擦文時代
擦文土器 擦文土器
擦文時代に使用された土器を擦文土器といいます。
擦文土器は、本州の土師器と呼ばれる素焼きの土器を真似た技法で制作されています。
擦文土器は同期の表面に木のヘラで擦った線で模様が描かれているのが特徴です。
この模様を擦文といい、擦文時代の名前の由来にもなっています。
擦文土器の他には、須恵器と呼ばれる硬質の土器も使われていました。
須恵器は北海道で生産されておらず、本州からの流入品と考えられています。
またこの時代から本格的に鉄器が利用され始め、様々な種類の鉄器が多量に普及していきます。
それまで使われていた石器は皮なめし用の石や砥石を除いて姿を消していきます。
 擦文時代の住居
続縄文と擦文の住居
擦文時代の住居
縄文・続縄文文化の竪穴住居が円形や楕円形が主流であるのに対し、擦文文化の竪穴住居は四角形であることが特徴です。また炉とかまどを併せ持っていることも大きな特徴です。
竪穴は平均して深さがおよそ50~60cm、一片の長さはおよそ5~6mです。1つの住居に5~8名程度の人数が暮らしていたと考えられています。
 第3号復元住居見取図
横面図
第3号復元住居見取図
住居の中央に炉、東から南側の壁にかまどを持っています。
かまどの周辺からは土器などが多く出土しており、この場所で穀物などを煮炊きしていたことがわかります。
かまどのある側を除いた三方の壁際は板敷の床になっており、ベッドのように使用していたと考えられています。

第3号復元住居横面図
住居の上部は、縦穴の中に4本の柱を立てて、その上に側桁を回して屋根を支えていたと考えられています。
柱や側桁にはやや太い木、垂木や屋根の下地には細い木、竪穴側の壁崩れを防ぐために板や木杭が使われています。
屋根は笹や葦、板などで作られていました。断熱性を高めるために屋根の上から土を覆ったったものもありました。


 オムサロ遺跡公園の野草畑
オムサロ遺跡公園では、 先住民族の人たちが食用や薬用とした植物を 園路沿いに植え、鑑賞できるよう整備しています。 その数は50種以上 あり、季節・天候・時間によってさまざまな表情を見せてくれます。 ここではその一部をご紹介します。
写真➀
ツリガネニンジン ( キキョウ科)
若い葉や茎、根を食用した。 根は春から秋まで収穫 できる。

エゾエンゴサク ( ケシ科)
花や葉、茎、根を食用した。 また根 (イモ) は乾燥させ保存食とした。

マユミ(ニシキギ科)
幹や枝を杓子、 へら、小刀の鞘、弓などの 材料にした。

ヤマハギ(マメ科)
乾燥させた葉をお茶として飲用した。枝は串のよ うに使った。
写真②
ニリンソウ(キンポウゲ科)
利花茎を食用にしたほか、乾燥させ冬季の保存食 とした。根は有毒。
オニグルミ(クルミ科)
果実の核を食用に、樹皮・外果皮は染料や毒流し漁に使用した。
また、果核は魔除けに使用された。
ユキザサ(ユリ科)
若い葉や茎を食用にしたほか、乾燥させ冬季の保存食とした。
ヤマブドウ(科)
若い気や楽起を食用に、樹皮を編み物の材料にした。
コクワ(マタタビ科)
果実を食用に、蔓をカンジキの材料にした。
エゾトリカブト (キンポウゲ科)
名前の由来は花の形が鳥兜・烏帽子に似ていること から。全草が毒。
狩猟の際に毒として使用した。

写真③
オオヤマザクラ(バラ科)
果実を食用にした。 また、樹皮は曲物を綴じたり 、
刀の鞘・矢筒 弓の柄の装飾に使用した。
カタクリ (ユリ科)
葉や茎を食用とした。
キバナノアマナ (ユリ科)
花茎、 根 (イモ)を食用にした。
 ツルウメモドキ (ニシキギ科)
直径1~2cmの曲がりの少ない若蔓の樹皮から繊 維をとり、糸の材料にした。
オオウバユリ (ユリ科)
若い葉を食用にしたほか、根から澱粉をとって乾燥 させ保存食とした。
ガンコウラン(ガンコウラン科)
果実を食用としたほか、 染料としても利用された。

オムサロ遺跡公園の
野草畑 写真➀
写真② 写真③ 野草畑の花期一覧


 オムサロ遺跡の歴史
オムサロ遺跡の存在は、江戸時代末にはすでに記録が残されています。
松浦武四郎『西蝦夷日誌』によると、武四郎が安政3年(1856)紋別地方を訪れた際、当時のショコツアイヌの乙名イホレサンから聞き取りし「ウルウコツ砂地、名義はウルウは少し高きところ、コツは地面になり。昔ここに土人小屋多くありしと、依りて名付けるよし。」と記録し、住居跡が多数残されていたことを述べています。

しかし遺跡の存在が一般に知られるようになったのはそれから100年後の昭和30年(1955)になってからのことです。
そのきっかけは地元の農家・福原氏が後の文化財調査会長・池澤氏に「石器を使っていた頃の住居と思われる窪みがたくさんあるので一度見てほしい」との書簡を出したのが始まりでした。
早速池澤氏は翌昭和31年(1956)当時「紋別市史」の「先史時代編」の項を執筆することになっていた当時札幌学芸大学教授の高野弘道氏とともに現地の視察を行いました。その結果「渚滑オムサロ湖畔竪穴住居群直径4.5m乃至12m50の竪穴住居群で、角形、保存状態良好。年代の新しいものが多く、下限は江戸中期頃と認められる。上限は2000年以上前にさかのぼるものがあるかも知れない。」(紋別市文化財調査書抜粋)との報告がされ、オムサロ遺跡の存在が明らかになりました。
そして昭和33年(1958)には再び河野弘道教授を招き発掘調査を行うとともに、同年、オムサロ遺跡竪穴群の分布測量調査が行われました。
また、昭和36年(1961)には網走市郷土博物館館長米村喜男衛氏を招き発掘調査が行われました。

これらの教材により擦文時代を中心とした竪穴住居跡や縄文時代の竪穴住居跡が208件確認され、「ほとんど完全な状態で保存されている」ことから、昭和39年(1964) 10月3日北海道指定史跡「オムサロ台地竪穴群」として指定されました。
オムサロ遺跡の歴史


オムサロ遺跡公園
オムサロ遺跡公園へようこそ。
ここは北海道指定史跡オムサロ台地竪穴群の南端に位置する約1haほどの小さな公園です。
この場所では擦交時代の竪穴住居跡が35軒集中して見つかっており、土器や石器、オホーツク時代の墓壙なども発掘調査されています。園内の竪穴住居や高床倉庫は、その発掘調査の成果をもとに復元されており、紋別の古い歴史を感じられる施設として親しまれています。

オサムロ遺跡公園 オムサロ遺跡地図 復元住居 この復元住居はとても詩的で美しい。
本州の復元住居とは違い、玄関口に屋根掛け・戸口建てして
風雪・風雨から住居内を守っている。
現代の積雪地帯の住居と同じつくりである。

 460出土品展示
 461各時代の遺物
紡錘車
繊維に撚りをかけ、糸を作るときに使用
石斧 石斧 石槍 石鏃(石刃鏃) スクレーパー

 465擦文文化の土器
擦文土器
擦文土器
浅鉢  

 オホーツク文化の土器
オホーツク文化の土器
貼付文期

刻文期
 

 縄文晩期の土器
縄文晩期の土器