[戻る][TOP]


 北部九州の縄文 №38  2020.11.21-1

 亀塚古墳公園・海部古墳資料館  大分市里646-1 海部古墳資料館
  097-524-2300 月休・撮影可
  ※海部は「かいふ」ではなく「あまべ」とよむそうです 海部古墳公園資料館
  済州島など半島南部の潜水漁を生業とする人々に由来する地名だろうか。

交通 JR大分駅→16分→坂ノ市駅…→徒歩→1.6km20分
歩行者ルート
上記徒歩路で、明日香会館前からは山道を登る。不安にならないように。
陸橋を渡ると小亀塚古墳が現れる。
       
   車 自動車ルート
       
  備考
名称:
型式:
出土品:
埋葬施設:
築造時期:
規模:
亀塚古墳
前方後円墳
勾玉・管玉
組合式箱型石棺
5世紀初頭
墳丘長116m大分県最大

 



10亀塚古墳公園
11小亀塚古墳
12亀塚古墳
13墳頂部
14埋葬施設

※考察 古墳造営
15亀塚古墳とは
17溝状遺構
 亀塚古墳公園案内図
21弥生時代の石棺墓

30海部古墳資料館外観
40入口展示
41舟形埴輪
43世界の遺跡
45世界の遺跡と日本の古墳
47全国大型墳丘マップ
49古墳時代の村の様子

※研究 馬産
50古墳づくりと村の生活
60海部のムラの古墳づくり
61古墳づくりと海部のムラの生活
 ジオラマ
81古墳築造とムラの暮らし
 埴輪生産システム
 豪族居館の分布
 古墳時代の漁撈具
 古墳時代の製塩土器の遺跡
91海辺の村
93埴輪窯
94城原天満神社裏古墳
95方形周溝墓

100築山古墳
101海部第2の大型古墳
 石棺の発見
102石棺から出土した遺物
 女性首長と畿内政権
 臼塚古墳wikipedia
110大和政権と東アジア
 渡来人の活躍
 下山古墳
113鉄鋌分布図
 鉄鋌の変遷
115海部の主要古墳

※考察 海部族と宗像族の謎を探求する
※日本古代政権の成り立ちと海人族
117瀬戸内海の主要大型古墳分布図

119五世紀の古墳 亀塚古墳
140亀塚古墳発掘調査
143東九州の古墳の移り変わり
144下山古墳家形石棺模型
145舟の発達の歩み
146外耳道骨腫のある頭蓋骨
147a船を描いた埴輪
147b舟形埴輪
147cスイジガイ文様の埴輪
147d三角板革綴短甲
149埴輪に象られた船
150辻1号墳
152形象埴輪
160千人塚古墳
170古墳の副葬品は語る
171免ヶ平古墳の埋葬施設
173亀塚古墳出土物
175古墳副葬品

200六~七世紀の横穴石室と墓
210横穴石室の世界
220横穴式石室と黄泉の国訪問説話
230九州地方の装飾古墳
235千代丸古墳石室模型
240横穴墓の変遷

※考察 横穴墓の初源
245大曽横穴墓群模型
250死者を送る祀り
251上ノ原横穴墓群35号横穴墓
 墓前破砕行為
253副葬品 飛山横穴墓群
260馬具が語るもの
268横穴墓の須恵器と土師器

270古代海部の郡役所
273政庁跡
275古宮古墳石室模型
280日本と世界の歴史年表
281西暦500年前後の世界
290大分県主要古墳分布図
295復元模型
 小牧山古墳群
 亀塚古墳分杞憂

※考察 葬儀の手順
 上ノ坊古墳墳丘
 下ヶ迫古墳墳丘
 古宮古墳墳丘
310王ノ瀬天満宮家形石棺

330古の海部の祭り
332古の海部の祭りの始まり
333祭祀土器と武器形祭器
335底がない土器
340古の海部の祭り
350海部のまつりの始まり

 


※大分駅から日豊本線約20分で坂ノ市駅。
西に向かって歩くと陸橋の下に出る。そこから山に向かって進むとやがて細い山道となり、やがて山の中に現れた細い歩行者用陸橋を渡ると、亀塚公園に入る。これは歩行者用ルートで、自動車用のルートは立派な道路であるが、歩くには遠い。
 歩行者ルートで最初に見えてくるのが小亀塚古墳である。自動車ルートでは海部古墳資料館に到着する。

※この地域は海部と言い、初期畿内政権と結んで政権に港湾(解説では半島渡航用)を提供したため、初期にはおおいに発展した。
やがて大和政権が巨大な権力を握ると、各地が平伏し、もっと便利な港湾都市へと、政権用の港湾が移っていき、まもなくさびれ、
政権内の地位も低下した。 
 


 10亀塚古墳公園


 11小亀塚古墳
 小亀塚古墳は徒歩ルートで最初に現れる。
 亀塚古墳に約半世紀遅れ、5世紀後半に築造された小規模の前方後円墳です。全長約35mのうち約25mが後円部を占めています。
2段築盛の墳丘は1段目を地山の削り出しで作り、2段目は違う種類の土を交互に突き固めた版築工法で造成したものです。
葺石は施していません。
 後円部中央の主体部には墓壙の状況から刳り抜き式の大型石棺が据えられていたと思われ、「王ノ瀬石棺」を参考例にした凝灰岩製の刳抜式家形石棺をレプリカとして設置しています。
 この古墳は海部勢力が次第に弱まって行った時期を証明する資料として貴重です。

※小さいといっても前方後円墳である。畿内政権からこのサイズの許可しか得られず、造ったものである。
先々代の畿内政権に及ぼした影響に比べると、半世紀後にはもう、地位が後退し、他の有力者に抜きん出られて、こんなに小さくなってしまったのかもしれない。おじいちゃんは偉大だった~~!と、思ったかも知れない。

※小さいといっても山の上に土を運び上げて版築工法で突き固め、35mの前方後円墳を作るのは、やはり大変な作業。

小亀塚古墳
上に記述
小亀塚古墳復元図 版築土層の写真
主体部断面図
  ※小亀塚を横目に進むと巨大な円墳部が見えてくる。圧倒される迫力である。
  この古墳の復元事業は、竹林再生事業(予算)で行われたらしい。予算も政策もいろいろな利用方法があるものだ。頭の使いようですね。錬金術。
 

 12亀塚古墳 の整備 竹林再生事業による
 大分県森林環境税を活用し、大分市里中自治会の皆様のご理解とご協力により荒廃した竹林を整理しました。四季の彩りと古墳時代の自然を感じさせる森林に回復していきます。
※亀塚古墳は竹林になっていたということのようです。そういえば、大分は竹製品やタケノコの産地として有名です。
あのしつこい竹のブチを残らず撤去して古墳を再生できたのは奇跡に近いですね。
大阪府の万博公園も元は広大な竹林で、やぶ蚊の発生源。造成したけれど、取り切れなかった根から竹が生えて困ったようだ。

はっきり言って、下からでは何も見えない 後円部上から前方部を見る
あの小さな張り出し部分で別離の儀式をおこなった。
普通張出部はこちらだが、急傾斜が迫り、移動したようだ。

 13墳頂部
円筒・朝顔型埴輪が
取り巻く
主体部
竪穴式石室
海部港は初期畿内政権が利用した港。その功労者の首長墓
巨大な箱式石棺。 硬い緑泥片岩製 通常は何枚かの四つ切り画用紙サイズの板石を周囲に並べ、上にも被せるのだが、 これは、全長3mの大きな石を切り出している。
これを命じて切り出させるほどの大きな権力をもっていたことを示している。
さぞ困難な作業だったでしょう。 板石は周囲四方と蓋石で通常、底板はなく、玉砂利が引いてある。

 14埋葬施設

埋葬施設である主体部は、墳頂部に2か所設けられています。が、平成5年(1993)の調査以前に既に破壊を受けていました。

①第1主体部 (竪穴式石室)
 9m×7mの墓壙の中に長大な石棺を据えた埋葬施設です。石棺は長さ3.2m・幅1.1mと長さ90cm・幅1.2m(厚さは共に10cm)の
石板を箱型に組み合わせた箱型石棺で、地元産出の緑泥片岩を使ったいわゆる「海部の石棺」と言われるものです。
石棺内部は遺体を安置した部分と数々の副葬品を納めた部分とに区画されています。海部の王の権威をうかがわせる県下最大の石棺です。

②第2主体部 (竪穴式石室 追葬)
 第1主体に後れて(原文まま)造られた施設で、第1主体に葬られた人物の近親者と思われます。(※妻ではないと思います。)
30cm~50cmの緑泥片岩を3~4段に積み上げて竪穴風の石室を設け、その中に凝灰岩を刳り抜き赤色顔料を施した石棺を安置していたようですが、ひどく損傷を受けていました。

③出土遺物
墳頂部の周辺には
   円筒形や朝顔形の埴輪と主体部の周りには家形や船をモデルにした形象埴輪が置かれていました。
第1主体部からは
   短甲(ヨロイ)、鉄刀、鉄剣、鉄鏃の各破片のほか滑石製勾玉428点、碧玉製管玉、滑石製臼玉、ガラス小玉などの玉類が多数出土した。
第2主体部でも
   滑石製勾玉、碧玉製管玉が見つかりましたが、副葬品の多くは過去の破損の際に散逸したものと思われます。

※考察 古墳造営

 被葬者1は海部地域の最大の権力者で畿内政権とつながった祖父、、、とすると、第二主体はその子、小亀塚はその孫かもしれない。
祖父の配偶者とも考えられるが、この時代、同じ墓には血縁者しか葬らなかったので(姻戚関係は非血縁者)、兄弟か子孫しか追葬しない。
 小亀塚が半世紀後であるから孫、第二主体は祖父の息子(孫の父)ではないか。
しかし、亀塚古墳が造れるほどの巨大な権力と広大な土地を支配し、多数の領民を支配・動員していたのならなぜ、二つ目の亀塚古墳を築造しなかったのだろうか。

➀ヤマトから許可されなかった。
②巨大な亀塚古墳の築造はヤマトから命じられて造らされたもので、やむなく領民を動員して造ったが国力の疲弊はなはだしく、しかも、後継者である子供の死去との間に時間的に近接し、国力や民衆の疲弊や不満からの復活が未達成なため、追葬で我慢した。なんて考えられそうです。

農民の苦難
 だとすると、大和や河内におびただしい数の大型古墳が累々と立ち並んでいるということは、広大な地域から大量の領民を動員し続けるられる権力と、支配地があったということだ。凄いね。農閑期と言っても田畑は二期作で、農薬も農業機械もなかった時代。しかも天候や病害虫に左右されながらの不安定な農業。
水田収穫量は現在の半分から1/3と言われているから、被支配民は大変な過重労働を強いられていたのでしょう。

専門集団の形成
 それとも、既に下層渡来民や下層貧民などを中心に、土地をもたない浮浪民を組織して古墳築造専門集団を作って衣食住を保証し、次々と古墳を築造し、さらに、地方へも派遣して指導にあたらせたのではないか。
 以前、兵庫県丹波市の茶臼山古墳を訪れた時、なんでもない山の一部を巧みに利用して古墳を造る、その見事な設計に舌を巻いたものである。
また、宮城県東北歴史博物館でも畿内と同じ埴輪が作られるなど、明らかに指導または、専門集団の関与を感じさせた。
埴輪は専門職集団が派遣されたと言われている。
 (ただし、顔だけは地元首長の顔だった。東北ではエミシの顔群馬県では半島人の顔柴山古墳では西洋人の顔

 それだけではない。穴太衆(あのうしゅう)は古墳の巨石による石室の建造の専門集団であると聞いたことがある。
また、大王グループの変遷によって、古墳の形状や埋葬法、例えば墳丘の微妙な形状や、割竹形木棺から粘土槨へなど、の変更がたちまち同時代の全国の古墳に反映され、その大きさが、中央の古墳より小さく縮小して許可される。その現地での設計や建設指導、監督の専門集団があったそうだ。

 古墳築造の専門家集団がいれば、古墳後期の横穴墓の墓堀職人がいた。
その後の、寺院建立ラッシュの時代には建設に関わる各専門集団が渡来し、瓦職人、宮大工、石工、左官、木挽き、物資運搬、織物職人などなど、様々な職種の膨大な人々が日本各地を、あちらの建設現場からこちらの現場へと移動しながら建設した。
 どこかでこれらの多数の現場を遠隔管理している元締めからの指令で新しい現場へと移動しながら建設に携わったのだろう。

 そういえば、子供の頃、当時は現在のように土建屋・建築会社がどこにでもなかったので(悪名高き列島改造論以後に急増した)、公共事業があると、飯場を造って子連れの家族などが作業員としてやってきて、夫婦で建築工事や土木作業に従事したり、飯場の煮炊きや洗濯をして、何か月か過ごし、工事が終わると、自分たちで飯場を解体して、また、次の現場へ行って同じ生活をするんだという人たちがいた。
 現代でいう、珍しくなったサーカスや旅芸人のような人達だった。って、完全に余談になってます。

結論
 古墳築造専門家集団は、中央の意向に沿った古墳を作らせるために、中央が作った専門家集団で、
最初は設計や埴輪、祭祀などを指導する程度であったが、
やがて大規模な工事を請け負う古墳築造専門家集団に発達し、農閑期に地元住民を徴発しながら、生産への影響を最小限にしなから、築造する集団となっていったのではないだろうか。
 なにしろ、大きな古墳は何年も掛かるので、そのあいだじゅう領民を動員し続けると産業が崩壊し、庶民の生活が成り立たなくなる。それを防ぎながら築造する集団ができたのでしょう。でなければ、次々と巨大古墳は作れない。確かに後期の群集墳は専門家集団による築造だと聞いている。琵琶湖西岸の大量の古墳群は専門集団による築造だと聞いている。

 亀塚古墳埋葬施設と出土品(陶板写真)
墳頂部の解説板
主体部
第1主体
 側面図・平面図
第2主体
 平面図・側面図
主体部発掘調査状況 出土した勾玉
出土した管玉・臼玉・ガラス小玉

 15亀塚古墳
 5世紀初頭に築造された県下最大の前方後円墳。 全長116mを超え、うち後円部は約62mの規模を誇る巨大墳です。
墳丘は3段に築盛され、各段のテラス部には白い玉砂利を敷き、特にくびれ部にスイジガイの文様を刻んだ円筒埴輪、朝顔形埴輪を巡らしていました。

 後円部墳長や作り出し部にも舟形・家形・盾形の形象埴輪を置き、また墳丘は白い石英質の拳大の礫を使った葺石に覆われていました。
高さ10mの後円部墳長からは豊後水道や後背山地など四方がよく見渡せ、白で統一された巨大な古墳は紺碧の海と山野の緑の中に、
まるで浮き出た感じを与えたに違いありません。
 5世紀前後に豊後の「海部」を支配した大首長の権力を窺うにふさわしい古墳です。

※古墳全体が、敷石と葺石で、真っ白な造形であり、そこにびっしりとテラコッタの赤い円筒埴輪がぐるりと取り巻くさまは、
 海部の港からスッキリと見渡せて、とても美しく、また、強大な権力者を想起させるものだったでしょう。
 このような海岸の巨大前方後円墳は、百舌鳥・古市古墳群などを始め、兵庫県の五色塚古墳、徳島県、香川県など、瀬戸内海沿岸に沢山あり、
 海外から(特に中国)の使節を圧倒させるために造られたと言われている。

周辺部の案内板 亀塚古墳 亀塚古墳全景
整備前
亀塚古墳の性格を示す遺物
大型船が描かれた埴輪片
舟形埴輪片
(船首部分)
スイジガイ文様の埴輪片
平面図 亀塚古墳の葺石

 17溝状遺構
 前方部の南端約8m~11mのところに東西方向に掘り込まれているものです。
古墳の葺石と同じ拳大の石英質の礫を使って幅50cm、深さ35cmの側溝を作り、暗渠(有蓋排水施設)に使ったもので、
古墳本体から染み出てきた水を処理するために工夫されたものと思われます。
 溝の端は左右の谷へと延びています。

溝状遺構 溝状遺構平面図 溝状遺構

 亀塚古墳公園案内図
 県下最大の亀塚古墳を始め、7基の前方後円墳が築かれた大分市東部、そこは4世紀~5世紀にかけて、大和政権と深くかかわった海部勢力の成立した舞台です。
 亀塚古墳は全長116mあり、海から見える高台に築かれた5世紀初頭の前方後円墳です。三段に築き上げられた墳丘や、
祀りを行った作り出し部白い石英質の石で葺かれた葺石、この地方に特有な緑泥片岩を箱型に組んだ全長3m 超える巨大な石棺などが特徴的です。

 また、短甲や鉄鏃、勾玉、ガラス玉、管玉、の副葬品のほか、
後円部や作り出し部には準構造船の埴輪船を描いた埴輪盾形埴輪家形埴輪、南海産のスイジガイ文様を描いた埴輪などが置かれ、
 特に船を表現した埴輪からは、この古墳の主が「海」に活躍した「海部」の王であったことが窺われます。

 この施設は、連綿と伝えられてきた貴重な文化財と地域性豊かな自然環境を保全し観光施設として活用できるよう、
国史跡亀塚古墳の保存施設と古墳時代の文化や生活の様子を解説した海部古墳資料館の設置を中心に、史跡整備を行ったものです。
特に古墳の整備は、部分的に築造当時の姿を再現し、他は墳丘が次第に「草山」となって行くその姿を表現するといった
全国でも初めての整備手法をとっています。

亀塚古墳公園案内図 亀塚古墳解説板 亀塚古墳公園案内図
 

 21弥生時代の石棺墓(他所からの移築で無関係か)
 この石棺墓は、坂ノ市小学校改築に伴って、平成22粘土に行われた埋蔵文化財発掘調査で出土したものです。
残存状況が良好であったため、亀塚古墳公園の一角に移し、復元しました。
 石棺は16枚の結晶片岩の石材で組み立てられており、発見時には6枚の石蓋が被せられ、石棺の周囲からは弥生土器の壺や器台が出土している。

※弥生時代にこの地に住み着いた海人族集団の有力者の墓である。庶民は土の穴に直接埋葬する。
 亀塚古墳の被葬者はこの貴人の末裔なのだろうか。
 首長はやがて地の利を生かした漁労採集から発展し、半島をはじめとする各地を結ぶ交易に乗り出したのでしょう。そして、あの巨大な亀塚古墳の築造に至ったのでしょう。

弥生時代の石棺 発見時の様子 石蓋を取り除いた様子 ちゃちな石棺だが、石棺石材の選択と搬入。
土器を用いた墓前祭祀があり、有力者をうかがわせる遺物である。
 


 30海部古墳資料館外観


※資料館は米軍兵舎の形状である、波板トタン葺きかまぼこ型建物でした。
展示には不向きな形状で、実際の建坪面積よりも狭くなり、展示は大変だろうなと思いました。案の定、、、

※かまぼこ型・四角錐・円形の建物は展示館には向いていませんが、建築家が奇をてらってよく用いる形状です。


 40入口展示

 41舟形埴輪
 長原高廻り2号墳出土船形埴輪(複製品) 国指定重要文化財 大阪市平野区長吉長原2-14
 原始的な丸木舟の上に波よけの板(船首、船尾の竪板、左右の舷側板)を付け加えている。
骨組みを作り、板を貼り付ける構造船と単純に刳り抜く丸木舟との中間船(準構造船)
左右の船縁に櫂を固定する突起(櫂ベソ)が4つずつ付いており、船室の前後に各2枚ずつの隔壁が設けられている。

長原高廻り2号墳
出土船形埴輪
VTR宙をかける舟
台湾緑島の船舳先の先端までの波に耐えられる外洋航海舟
引用Wikipedia

舳先を高く上げ、外洋航海を可能にした。
準構造船
準構造船、船首の構造がよくわかる。
実に忠実に造られた粘土細工である。
二枚の隔壁が見える
ただの粘土職人では造れない、設計図のような造形だ。

船の事を熟知した製作者

彼もまた海部一族の民なのでしょうか。

粘土職人ではなく、漁撈民の中で、

造形に優れた能力の人だったのでしょう。

 43世界の遺跡
➀スフィンクスとピラミッド エジプト

 ギザの3大ピラミッドのひとつで、中央にそびえるカフラー王のピラミッドと大スフィンクス。
紀元前2600年頃造られたとされ、ピラミッドが石を積み上げているのに対し、スフィンクスは岩盤を削って建造されている。
②ネムルト・ダアの巨大石墓 トルコ

 紀元前2~前1世紀頃に、シリアから独立、ローマと交渉して自由を獲得、鉱物資源と通商で財をなしたコマゲネ王国アンティオコス1世の祭祀場である。
③大山古墳(仁徳天皇陵) 日本

 5世紀中頃に作られた墳長486mの日本最大規模の前方後円墳。当時の大和政権の最高支配者の墓と考えられる。
④カホキア・マウンズ州立史跡 アメリカ

 イリノイ州南西部に9~13世紀にかけてミシシッピー川中流域で栄えた、先住民族の文明の繁栄を伝える遺跡。
 頂上が平らな墳丘が120余りある。
⑤古代都市パレンケと国立公園 メキシコ

 メキシコ東部、チアパス山脈中腹の国立公園内にある都市国家パレンケは、3世紀に街ができ、600年代のパカル王統治下に強大となる。この遺跡は、宮殿を中心に碑文の神殿、十字の神殿、太陽の神殿、球戯場からになる。
⑥アクスムの遺跡 エチオピア

 アクスム王国の首都アクスムはエチオピア最大の都市で、1~4世紀には130基にも及ぶ巨大なオベリスク(石柱)群が立てられた。
オベリスクは死者の霊魂が宿る場所であると考えられている。
⑦タージ・マハル廟 インド

 ムガール朝第5代皇帝シャー・ジャハンが、最愛の妃ムムターズ・マハルの死を悼んで建てた白亜の宮殿。
1654年の完成までに22年間の歳月と天文学的な費用を要し、ムガール帝国の国力はこれを機に傾いていった。
⑧秦の始皇帝陵 中国

 西安の東北臨潼県にある、紀元前221年、中国全土を統一した始皇帝の墓所。
地下には「埋もれた軍団」と言われる7000体以上の兵馬俑発見された。
完成までに70万人を動員し、36年を費やしたと言われる。
⑨チャビン遺跡 ペルー

 ペルー中央部で紀元前1500~前1300年に始まり、紀元前400~前200年頃に消滅したと見られるのがチャビン文化である。
中でも神殿内部の地下回廊に立つ半人半猫の石造「ランソン」は有名である。

⑩ティカル国立公園 グアテマラ

 グアテマラ北部のティカル国立公園にマヤ文明の中心であった神殿遺跡がある。
紀元前6世紀からヒトが住み、
紀元前200年には中央広場北側の「アクロポリス」が建設され、
紀元250年には、宗教、文化、商業の都として栄えた。
最盛期は700年代で、天を突くような神殿が造られた。

 45世界の遺跡と日本の古墳
エジプトのピラミッドや中国の秦の始皇帝陵など、世界には巨大な墓が残されています。
日本では3~7世紀に大きな古墳が造られました。

古墳の形
前方後円墳は日本独自の形です。
円墳
前方後円墳
前方後方墳
方墳
双方中円墳
上円下方墳
八角形墳

上に記述

 47全国大型墳丘マップ
 日本各地で古墳が造られた3世紀終わりから7世紀までの約400年間を古墳時代と言う。
その間に造られた古墳の数は約15万とも20万とも言われるが、全長100mを超える古墳は全国で300基以上を数えることが出来る。
そのうち75基が奈良県に、51基が大阪府にあり、
 大分県では亀塚古墳(大分市)、小熊山古墳(杵築市)、真玉大塚古墳(真玉町)の3基が全長100mを超える。


 49古墳時代の村の様子
亀塚古墳の東では、丹生川が海に注ぎ込み、海辺では塩作りや漁が盛んに行われていました。
村の中には住居や作業小屋、高床式の倉庫などが建てられていました。
海部地域のむら人たちは荒海を航海する高度な技術を身に付け畿内地方との結びつきを強めていきました。

古墳時代のムラの様子
漁をする 馬を飼う
※馬産について
官による牧の整備は7世紀以降です。
従ってこの放牧は5世紀後半以後に、
豪族が馬産を行っていた様子だろう。

※馬産について
 東北では明確に馬産目的の人流があったが、九州で馬飼いが行われていたという記述はこれが初めてかも知れない。
確かに阿蘇の裾野などは多頭飼育の適地だし、古代には広い未利用地があったので、水田や畑作に適さない土地は広大な牧場になれたはず。
火山の荒廃地は特に利用可能であっただろう。
 しかし、それほど広大でなくても馬産はできるので、九州で行われていたということは、規模の大小はともかく、全国で行われていたでしょう。
 ここで、特に、着目すべき点は、海女漁を中心とする部族の「海部一族」も馬産を行っていたということです。
陸上交通のかなめであり、悪路でも水路でも容易に突破でき、荷物や人を運ぶことができる馬は、現代の多目的自動車に匹敵する。

 って、これは、首長の持ち物なので、使役目的でなく、馬子に引いて歩かせて、キラキラ装飾を見せびらかす為の馬か、
 軍馬としての馬だったかもしれない。

武人や首長の風俗 庶民の風俗
 
※研究 馬産

『第7章 藤原宮跡から出土した馬の飼育形態と産地推定』引用

 考古資料から馬の導入と生産を検討すると、4 世紀代に遡る散発的な渡来が畿内や中部高地で認められるものの、
日本列島への馬の本格的な渡来は古墳時代中期以降である。
 その背景には高句麗の南下や百済との同盟といった朝鮮半島の情勢が大きく影響したと考えられる。
  (※馬の渡来が畿内や中部高地とは、畿内は若狭から、中部高地は糸魚川や上越から馬を荷揚げしたに違いない)

 正確な実年代は不明であるが、
5 世紀前後に百済王から良馬 2 頭が貢上され、軽(奈良県橿原市域)の厩で飼育したとの記述が『日本書紀』にあり、史料と馬具による所見は整合的である。そしてウマの歯や骨、馬具の様相から、
5 世紀後半には九州から東北までの広範囲にわたって、馬が急速に拡散したことが明らかとなっている。
6 世紀には百済へ馬を贈ったという記事があり、
7 世紀までに馬が急速に普及することから、馬を効率的に生産する施設である牧の導入が 5・6 世紀に遡る可能性が指摘されている。

 『日本書紀』によれば、清寧 2 年(481)に播磨国明石郡の縮見屯倉億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)が牛馬の飼育をしていたとあり、
皇極天皇 2 年(643)には蘇我入鹿に襲われて生駒山麓に隠れた山背大兄王深草屯倉から馬に乗って東国に行くことを進言されている。
ここから、当時は天皇や朝廷の直轄地である屯倉で牛馬が飼育されていたことがうかがえる。
 (※牛の飼育についての展示は、指宿市のCOCOはしむれ を記憶している。遺物が少ないからか。どこかで調理後の骨の展示があった。)
 (平安遷都以前の京都深草は未開地かと思いきや、紀氏、土師氏、秦氏の拠点の地だった。

天智天皇7年(668)には、公的な牧の設置を示す最も古い記事がみられるが、全国的な規模ではなく近江や都周辺であったと考えられる。
文武天皇4年(700)、大宝律令に伴う公的な牧が設置され、慶雲4年(707)には、仔馬や子牛に焼印するための鉄印を摂津や伊勢など 23 ヵ国の牧に配布されている。
この律令制定に伴う牧は、新たに設定されたものではなく、令制以前から存在した朝廷や豪族の牧が、国家の牧として把握されたものと推察されている。
 (奥入瀬阿光坊古墳館の馬産は7世紀前半から9世紀末までの、約300年間にわたって行われた。蝦夷と関東からの入植者によって行われた。)
 (東北地方にはこれ以降広大な牧野が作られ、長く運営された。が、それ以前から信州・関東・東北では馬産が盛んだった。)

日本在来馬の歴史的変遷と現状

』引用

日本在来馬の渡来と普及(古墳時代~鎌倉時代)
 現在のところ、日本に確実にウマが出現するのは4世紀末、すなわち古墳時代中期である。ただし、
4世紀から5世紀前半にかけての馬具は北部九州で少数見出されているだけであり、日本列島全域にウマが広まるのはそれから約100年後である。なお、岡安によれば、
5世紀の馬具は装飾的なものが多い点から判断して、ウマが実戦に投入された可能性は低く、騎乗者は有力豪族に限られたという。

 一方の中央ユーラシアでは、
紀元前800年ころには騎射技術を有する遊牧騎馬軍団が出現したと考えられている。その意味では、家畜化され、さらに軍需物資として非常に重要な役割を果たしていたウマが日本列島に再登場するには、非常に長い時間がかかったといえるだろう。
 ところが
5世紀後半になると、佐原の表現を借りれば「にわかに日本にたくさんの馬が渡ってきた」という。その証拠が考古学的遺物であり、この頃から轡(くつわ)、鐙(あぶみ)、鞍、ウマの装飾、皮ひもを渡す金具などが、九州から東北地方に至る、広範囲の古墳から出土するようになる。また、ウマの埴輪に加え、古墳からウマの遺体も出土している。

 これ以降、日本で乗馬の風習が非常に盛んになるが、こうした諸技術が朝鮮半島南部から渡来したことは、馬具、ウマ用の甲冑、馬面などの形態的特徴から確認できる。むろん、ウマも同様のルートを通って日本へ渡来したと考えられている。

 こうした時代背景として、当時の日本列島における内乱状態があり、その傍証として、
5世紀末から6世紀初頭の時期になると考古学的出土品に実用的な馬具が出現するようになる。岡安は、これは騎乗可能な層が中小の豪族層にまで広がり始めたことを示唆しており、当時の騎乗者は歩騎混成集団の指揮官クラスであっただろうと推定している。つまり、いわゆる騎馬軍団を編成するわけではないが、日本へのウマの大量移入は軍事的要請からなされたものと理解できる。

 その後も、ウマは軍事的なツールとして普及していく。
6世紀末の推古朝の時期には、信濃・駿河を中心とする地域には、少なくとも1,000騎を超える騎兵を中心とする軍事集団が形成され、天皇直属の軍事力として活動していた。

 また7世紀以降の律令体制下で、朝廷による馬匹生産の制度である牧(まき)が整備されていく
牧は軍馬など、国家が必要とするウマを生産することのみを目的としたが、その生産方法はかなり粗放で、一年中放牧して自然に増殖させる野馬生産であった。ただし日本には去勢技術は渡来しなかったため、自然増殖のままではオスウマが増加しすぎ、発情期のオス同士の闘争が激化して群れが不安定となる。こうした牧の管理上の便宜より、野馬追いで若いオスを捕獲し、これを軍馬に充てるというシステムが採用されていた。
 
 
 50古墳づくりと村の生活(パノラマ図)
 51
丸木舟や修羅で石棺を運ぶ
海を臨む丘陵上に古墳を造る
海部を支配した王の館
大規模な高床式の王の倉庫群
古墳づくりとムラの生活
半農半漁の海部のムラ
遠くにも同様の村が
古墳に立て並べる埴輪を焼く
馬の放牧
海辺で漁撈 砂浜での塩作り 海上交通の交易盛んな海部の港
 

 60海部のムラの古墳づくり(ジオラマ)

 61古墳づくりと海部のムラの生活
 今から約1600年前、大字里(住所:大分県大分市大字里)の丘陵上に県下最大規模の亀塚古墳が築かれました。一体どういった人々が、どういった理由で巨大古墳を作り、どの様な生活を営んでいたのでしょうか。
 その理由は、丘陵下一面に広がる「海」にあります。海は多くの恵みをもたらすとともに、「海の道」として大切な役割を持っていました。
海に漕ぎ出した海人(あま)は、やがて速吸瀬戸(はやすいのせと)の荒海を自由に航行できる高度な操舵技術を身に付けたことでしょう。

 4世紀の後半以降、朝鮮半島への進出にあたり、優秀な航海技術者を必要としていた大和政権は、彼らの技術に目を付け、取り立てたことから海部の繁栄が始まります。

 約400年後の平安時代には、干しアワビやカツオ計140キロを毎年朝廷に納めていたことが記されています。
海から見た古墳は壮大であり、海を支配した「海部の王」の強大さを今に伝えています。ここではその古墳づくりや周囲のムラの様子を大胆に復元してみました。
この模型を見て多くの疑問が生まれることでしょう。私たちはその疑問について来館者の皆さんと語り合いたいと考えています。

 古墳造り
古墳づくりと海部の村の生活 ①場所を選び設計をし、労働人員、資材、道具などを準備する
②荒れた土地を切り開き、整地をして平らにする
③設計図を基に測量する

設計図の形を拡大して地面に杭を打って古墳の実物大の平面図をつくる。

④周囲に必要な施設を作り、土盛り作業が始まる ■盛り方には、墳丘範囲の周辺に土塁状の盛り土をつくり、内部を埋めていく方法と、
墳丘になる中心を盛って核となる小墳丘をつくり、これを包み込むように盛り上げる方法とがある。

■土は周りを掘って盛り上げ、堀り跡を周濠とする場合と、土を周辺から運んで盛り、周濠を造らないものがある。

⑤後円部の中央に「王」を葬る施設をつくる ■「棺」を入れる「室」(竪穴式石室)を造るのが
一般的であるが、ここ海部地域では室を造らず、穴(墓壙)を掘り、棺を直接納める(直葬)方法をとっている。

 竪穴式石室古墳時代前・中期
⑥埋葬施設を造るのに並行して、墳丘の斜面の土崩れを防ぐため葺石を置き、埴輪を立て並べる。
⑦「王」が死亡すると遺体と副葬品を棺に納め、墳丘上で盛大な葬儀を執り行い、最終的な整備を行って完成する。
■亀塚古墳ができるまでにかかった日数と人の数、費用は?■
亀塚古墳では、約2年半の月日がかかり、延べ16万人が必要でした。
また、費用は今のお金にして約18億8500万円かかるそうです。

盛り土27,000㎥ 葺石380,000個(185㎡) 埴輪数740個(約687m)
(50mプール約16個分) (2tトラック約250台分) (身長140cmの子供が手を広げると約500人)

 62砂浜での塩作り
 63半農半漁の村
水田も畑もみえる
旅行していて驚くのは

海岸のすぐそばに田圃があることだ。私の近所に

見当たらない光景で、水田不適地と思っていた

砂地と塩害の被害にあうと思う。しかし、

ここでも、海岸べりに水田が展開していた。

集落は縄文時代ほど密集していない。人間関係が違うようだ。
 64米作り
水田の展開
 65交易の盛んな海辺の港
自然の港湾 準構造船 自然な河川を停泊地とする。
 66王の館と倉庫群
王の館と使用人の住居か
豪族居館
高床式倉庫群
居館入り口の小屋
 67王の村と馬の放牧
 68石棺を運ぶ

緑泥片岩を運ぶ

佐賀関変成帯から入手か
巨大な石材は小さな筏では転覆するので、
筏の下に吊るして運んだかもしれない。
しかし模型では見えないので上に置いたかも。
 69辻古墳 住所大分県大分市大字里字辻
辻古墳は石室内の石棺が抜き取られて神社に運ばれ、
代わりに石室内に小さな社を安置していた。
 80亀塚古墳
 
 81古墳築造とムラの暮らし
ジオラマ全景

 埴輪生産システム
史跡新池埴輪製作遺跡 大阪府高槻市上土室1丁目10
 史跡新池埴輪製作遺跡は、5世紀中頃から6世紀中頃までの約100年間操業していた、日本最古最大級の埴輪生産遺跡です。 3棟の大形埴輪工房と18基の埴輪窯があった。

新池窯跡 高槻市上土室三丁目
 土室 (はむろ) 集落北方の丘陵裾に位置する、新池の東岸斜面に築造された埴輪窯跡群。埴輪片および灰層の分布は100m以上にわたってみとめられ、数基の窯が並んでいるものとみられる。
これまでの採集資料には、円筒埴輪以外に人物埴輪や盾形埴輪がある。この窯場で生産された埴輪は、南方に位置する茨木市の茶臼山古墳を中心とする古墳群をはじめ、三島地方一帯に分布する多くの古墳に供給されている。
昭和63年(1988)から平成2年(1990)にかけて行われた発掘調査で、日本最大の規模をもつ、南北に並ぶ三棟の埴輪製作工房、18基の埴輪窯、工人のものと考えられる集落がみつかった。

新池A群窯の埴輪生産システム
 
素地を作る→

粘土+砂+水→素地

燃料 薪
埴輪を形作る→
 3号工房
 2号工房
 1号工房
日影で干す→



窯で焼く→
 3号窯
 2号窯
 1号窯
出来上がり

古墳へ
運び出して
立て並べる

 豪族居館の分布
発掘された豪族居館の比較
九州地方 山陽・近畿地方 東海地方
関東地方 大型倉庫群
和歌山市鳴滝遺跡
5世紀前半 
和歌山市善明寺
 紀の川北岸の豪族の遺跡
紀氏が侵略する以前の豪族が支配していた時代。
紀ノ国は紀氏の国
だが以前は
木ノ国と呼ばれた豊富な森林資源の国
   

 古墳時代の漁撈具
 古墳時代の漁撈具 つり針 
古墳時代のルアー
1天神山8号墳(山口)
2貝島4号墳(福岡)
3長瀬高浜遺跡(鳥取)
4鳥ヶ崎横穴(神奈川)
銛とヤス 
10恵解山古墳:京都
11金蔵山古墳:岡山
12貝島4号墳(福岡)
13筏石遺跡:山口
14金蔵山古墳:岡山
15金蔵山古墳:岡山
土錘 と石錘
土錘
5市延遺跡:山口
6日出遺跡:徳島
石錘
7野方中原遺跡:福岡
8下山門遺跡:福岡
9宮ノ前遺跡:岡山
アワビオコシ 
16沖の島古墳群
   :兵庫

17間口洞窟:神奈川
蛸壺 
18脇濱遺跡:大阪
19大阪府南部窯跡群
20天観寺山窯跡群
  :福岡
21脇浜遺跡:大阪

 古墳時代の製塩土器の遺跡

  ※製塩土器資料 ①製塩土器  ②勉強ノート製塩土器  ③タバコと塩の博物館 製塩土器
古墳時代の製塩土器の遺跡
天草 (熊本)
 

天草式製塩土器


筑前 (福岡)
 玄界灘式製塩土器
西部瀬戸 (山口)
備讃瀬戸
紀淡
若狭
知多・渥美
能登
佐渡
新潟市文化財センター


 
 91海辺の村

 92大〇古墳
 93埴輪窯

 94城原天満神社裏古墳(じょうはる てんまじんじゃ)



 95方形周溝墓
 96台地の村
 

 100築山古墳 大分県大分市佐賀関 写真
引用築山古墳Wikipedia
 築山古墳は、佐賀関半島の北西海岸部、丘陵端部に位置する。著名な猫塚古墳(碧玉製鍬形石、後漢鏡片、鉄剣、鉄戈などを出土した)の東南約1kmにある。後円部の一部が北側の村社八幡神社の境内になっている。

規模は、全長90m(前方部50m, 後円部径40m)、高さは前方部8m、 後円部10m、前方部幅45mで、葺き石が葺かれている。
亀塚古墳に県下最大の座を譲っているが、総量34キログラムという大量の朱が使われているなど、当時としては最高級の豪華葬であったことが判明し、水軍をもつ海人部(海部郡)の歴史を解き明かす上で重要な遺跡と位置づけられ、調査が続けられている。愛称は「石棺さま」。 副葬品などから5世紀中頃と推測されている。

 101海部第2の大型古墳
築山古墳は、本神埼地区の別府湾を臨む丘陵端部に築かれた、全長約90m前方後円墳で、海部では亀塚古墳(116m)に次ぐ規模を誇る大型古墳です。
亀塚古墳が築かれるのとほぼ同じころ、5世紀初め頃(約1600年前)に造られたと考えられています。

海部第2の大型古墳 築山古墳測量図 前方部南側から見た古墳。後円部頂上にある石棺の覆屋

 石棺の発見
昭和7年(1932)に2基の石棺か発見され、調査が行われました。
石棺はいずれも緑泥片岩の組合式の箱型石棺で、内部には大量のベンガラが撒かれていました。
南石棺には女性1体不明2体の計3体が埋葬されており、最初に埋葬されたのは、中央に埋葬された女性であることがわかっています。また、
北石棺には女性1体の埋葬人骨が出土しています。

石棺の発見 南石棺の模式図 南石棺の内部

 ※考察 海部の墓制
 先に、亀塚古墳の追葬人骨について、「血族以外はない。」としたが、亀塚の追葬墓の出土品は玉類だった。後に小亀塚が造営されたので、追葬直後の墓荒らしはありえなく、武器武具の盗掘はなく、もしかすると、女性だったのかもしれないとも思います。(だったらその息子の墓はどこ?となるが)
 海部族では、女性の権力が大変強く、女性首長が多く登場する。築山古墳南石棺の被葬者は女性首長。そこに2体の殉死。追葬には見えない。
北石棺では女性の単独埋葬。しかも、海部第二の規模を誇る巨大前方後円墳である。
 次にも男女の遺体を埋葬した古墳が登場するので、潜水漁を生業とする地域では、女性の権力がとてつもなく強かったことがわかる。
 この地域では、男尊女卑や血統主義はないようだ。


 102石棺から出土した遺物
 南石棺には、15点の鉄剣・鉄刀矢約90点の鉄鏃、鉄斧や、鉄鍬先などの鉄製農耕具類が多数副葬されていました。
女性人骨の左腕にはイモガイ製の貝輪が装着されており、頭上に鏡が置かれていました。
また、北側石棺の埋葬人骨には11個の貝輪が装着されていました。

 女性首長と畿内政権
 4人の被葬者のうち、南石棺に最初に埋葬された女性が主たる被葬者だと考えられ臼杵市臼塚古墳同じく女性首長だったようです。
出土した多数の鉄製品は畿内(近畿地方)から配布されたと推定され、5世紀始めの海部の首長と畿内政権との密接な関係が窺われます。

5世紀初めから前半頃、海部では亀塚古墳、築山古墳、さらに臼杵市臼塚古墳、下山古墳と、大型の前方後円墳が次々と造られます。
これは畿内政権が瀬戸内海から朝鮮半島に至る海上交通を掌握する上で、海部との関係を重視していたことが背景にあると考えられます。

築山古墳出土遺物 石棺から出土した遺物 鉄刀・鉄剣・貝輪
玉類・鉄釧・
鉄刀・玉類・貝輪 鉄鏃・鉄製農耕具
北石棺出土貝輪
南石棺出土捩文鏡 捩文鏡引用コトバンク

霊獣の羽毛表現のみを取り出して配列したかのような捩文鏡
女性首長と畿内政権

 ※臼塚古墳wikipedia
 全長約87m、後円部径約45m、高さ約6m、前方部幅約45mの臼杵地方最大の前方後円墳である。5世紀中頃の築造と推定されている。
 墳丘上には明治時代に臼杵神社の現在の社殿が建築されている。
 前方部と後円部の境には、元来2基の石甲(高135cm)が立てられていた。これらの石甲は1976年6月5日に国の重要文化財に指定されており、現在は臼杵神社境内の参道脇に覆屋を設けて移設されている。(※石甲の読み不明いしかぶとか)

 臼杵神社の現在の社殿建築時に、後円部から大小2基の舟形石棺(全長285cm及び225cm)が発見されており、各石棺は、一枚岩をくりぬいて造られ、内面全体に朱が施されており、それぞれ2体の人骨が埋葬されていたとしている。
これらの人骨の外耳には潜水によって生じることが多い外耳道骨腫が認められることから、被葬者は海人であったと推定されている。
また、副葬品として、位至三公双龍鏡(直径9.9cm)及び変形獣帯鏡(直径9.7cm)の2面の鏡、鉄剣、鉄刀、鉄鉾、短甲等の武具や、貝輪、勾玉等の装身具が出土している。なお、鏡はいずれも伯載鏡である。
 被葬者(女性)は、古墳の規模、副葬品、外耳の特徴から、この地域の海人の支配者層であると考えられている。)
 

 110大和政権と東アジア

 渡来人の活躍
 朝鮮半島では、4世紀後半から高句麗の南下に伴って戦乱の時代を迎える。
この動乱から逃れて倭国(日本)に移動してきた渡来人は、大陸の優れた技術・文化をもたらし、倭国の国際化に大きく影響を与えた。

  渡来人が伝えたもの
   武器・馬具・農具などの鉄器や鉄材料(鉄鋌)、ロクロを使い窯で焼いた土器(須恵器)、漢字、仏教、医術など※この他に建築技術など

  中国の「宋書」に見える倭の五王、讃・珍・済・興・武のうち、済は允恭、興は安康、武は雄略天皇にあてる。
  讃と珍に関しては応神仁徳履中反正の4天皇のそれぞれに充てる説がある。

大和政権と東アジア 渡来人の活躍 年表
358~538
4c後半~6c前半
倭の五王
讃・珍…応仁・仁徳・
履中・反正
済…允恭天皇   
興…安康天皇   
武…雄略天皇   
4世紀後半の東アジア
鉄鋌
下山古墳 臼杵市

 ※下山古墳wikipedia 大分県臼杵市大字諏訪
 芝尾地区南側の丘陵にある、全長68m、後円部径46m、前方部幅37mのヒサゴ形の前方後円墳である。後円部には造り出し、陪塚が付属している。5世紀中頃の築造と推定されている。
 前方部と後円部の境目付近には石甲1基が立っている。大分県で石甲を有する古墳は、下山古墳と、同じく臼杵市にある臼塚古墳の2つのみである。
 後円部には、長さ2.5m、幅1.3m、高さ1mの組合せ式家形石棺があり、石棺の蓋には帯状文が浮き彫りされている。
石棺からは、1951年(昭和26年)3月に大分県による発掘調査が行われた際に、男女2体の人骨をはじめ、副葬品として、銅鏡、管玉、鉄刀、鉄鏃、鉄てい(加工前の材料)などが出土している。
 現在は、石棺上には覆屋が設けられるとともに、周囲には芝生が植えられて、整備されている。


 113鉄鋌分布図
 鉄製品を作る材料・鉄鋌
 日本の古墳からは朝鮮半島南部の古墳から出土するものと同形態の鉄鋌(鉄の延べ板)が大量に出土する。
鉄は武器や農具などを作る重要な物質であり、大和政権は朝鮮半島南部によって、その材料となる鉄鋌の流通を支配した。
大分県では、荻鶴遺跡(おぎづる日田市)、下山古墳(臼杵市)から出土している。
特に下山古墳の26枚は全国3位の数量であり、九州では他に例を見ない。

鉄製品を作る材料・鉄鋌

上に記述
鉄鋌出土遺跡

 鉄鋌の変遷
5世紀前半に出現する両端が幅広になった典型的な鉄鋌は、重さなどが均一で貨幣の役目も果たした。
それ以前では、斧としても使用された板状の鉄製品が鉄素材として使われたが、鉄鋌の登場によって消滅する。
6世紀中頃には、古墳への副葬は終り、形も両端の整った長方形へと変わり、国産化が進んだ

古代アジアの鉄と倭 鉄丁の変遷
上に記述
 

 115海部(あまべ)の主要古墳
 『此の郡の百姓は、竝(みな)、海邊の白水郎(あま)なり、因りて海部郡と日う。』
「豊後国風土記」にこう記される海部の地域は、大分市東部の大在・坂ノ市から宮崎県境にかけての沿岸部にあたる
この地域では県下最大の亀塚古墳築山古墳(佐賀関町)、小熊山古墳(杵築市)など10基の前方後円墳が築かれ、5つの地域にまとまって分布している。
 亀塚古墳の玉類を始め、猫塚古墳(佐賀関町)の鍬形石、野間3号墳(大分市)の石釧、下山古墳(臼杵市)の鉄鋌など海の道(瀬戸内海)を通じて、海部と大和政権を結びつける副葬品が数多く出土している。

※このムラの住人はみな海人(あま)だったということは、宗像族ということでしょうか?
宗像族は、朝鮮半島西岸に起源する漁撈と潜水漁をもっぱらにし、航海術に長けた一族であり、列島各地にやって来て、瀬戸内海から伊勢湾まで。中国地方の日本海側を根拠地とした集団である。
 しかし、海部族の宗像族との結びつきが全く見えてこないので、海人集団にも多数あり、その内の一部族と考えた方がよいのではないかと思うのです。
ただし、やっていることは、宗像族も同じだと思います。 

鉄剣 海部の主要古墳

上に記述


※考察 海部族と宗像族の謎を探求する
 ということで、海人族について調べてみました。意外とあっさり、見つかりました。

 引用「綿津見神は阿曇氏、三女神は宗像氏」より、
 (阿曇氏=)安曇氏が大和政権に登用されたのは宗像氏を押さえるためで、、応神3年(392)に海人族(海部あまべ)を統括することになった。

宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)

第一は宗像三神を信仰、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。

第二は大山祇信仰し、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。※安曇族

第三は住吉の神祀り、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。
 (※淡路島は「みけつくに」御食国といい、朝廷に献上する食糧の供給地だったと自慢している。淡路島北半は安曇族、南半が宗像だとか

※はじめ知りました
 今回の調査で、今まで知らなかったことがわかりました。これまでは、海人族と言えば、宗像族と思い込んでいましたが、海人族にもいろいろな部族があり、いろいろな部族の消長の末に、最後に宗像族が仕切っただけであって、少なくとも半島出身の海人族だけでも三部族以上あったらしいことがわかりました。
 ここに登場する文献には福岡県の海人族についての記述であり、大分県の海部郡の海部族は、また、別の集団だったようです。
しかし、その後、ヤマトの政策によって全ての海人族を統括する一族が現れ、それが安曇族から宗像族に代わったようで、政治によって変動があったようです。

 安曇族以外に有名なのは、加茂族がいます。千葉県までの各所に地名を残しており、私の子供の頃は
安曇族は日本海側を鮭を追って北上し、信州で深く内陸に入って拠点とした。
加茂族は太平洋側をアユを追って東進し、やはり、信州に入り込んで、南の加茂族と北の安曇族の場所が逆転しているところがあると聞いたものです。
その頃はそのように信じていましたが、現在は全く違うようです。鴨族(※Wikiの記述は貴族化してからのもので、出自については書いてない。)

 とりあえず、博多湾からは大いに外れた、大分市の海部族は独立した集団で、大和政権が西進する時にいち早くヤマトと結び着くことで一時的に繁栄をしたが、その後、福岡県博多湾周辺の集団(安曇族や宗像族)がヤマトと組みしたため、やがて黄昏てしまった。つまり、安曇族や宗像族とは別集団であったようだ。
 

※この囲みのなかは、あとから付け加えたものですが、文献を付け加えると次第に齟齬する内容が出てわけわからなくなって来たので
 ここは、飛ばして次の囲みに行ってください。ただ、あとから読めば、おもしろい読み物です。

※安曇族についてここまでのまとめ 「淡路島 北 安曇族 南」の検索から
淡路島と海人族―点と線より
 安曇族の発祥は筑前国糟屋郡安曇郷。北九州志賀島一帯を本拠とし、弥生時代から対馬・壱岐を経由して朝鮮半島・中国との交流に携わったが、
後に本拠地を離れて全国に移住する。九州から瀬戸内海を経由して近畿各地から三河(渥美郡)、伊豆半島(熱海)、山形県(飽海郡)に達し、安
曇・渥美・熱海・泉・志賀などの地名を残す(異論も多い)。川を遡った一族は長野県安曇郡に達する。穂高神社は信濃の安曇氏が祖神(大山祇神)を祀った古
社で、志賀島から全国に散った後の一族の本拠地とされる(奥穂高岳山頂には穂高神社の嶺宮がある)。

海人と海神 ここでは、海人族について詳しい。大山祗神社は南方系縄文人の神である。など、 安曇族、宗像族、住吉神についても詳しい
海人・安曇族の里 ―安曇野水土記 ④安曇族の興亡 これらもおもしろい読み物である。

※読まれて混乱したでしょうか。これ以上の追記はやめておきます。

 

※考察 海人族について調べてみる
 興味が乗ってきたところで、海人族について少し調べてみることにする。

古代筑紫三海人族の謎」(引用)では、安曇族の故郷は志賀島、住吉族は安曇族の分家、宗像族は別族で安曇・住吉族が東進したため、
   棚ぼた式に筑紫の支配者となった。らしい。ただし戦国時代に豊臣氏に追われて四散し消えてしまった

②「海人族(引用Wikipedia)には三系統あり、
 朝鮮南部海岸系(朝鮮南部の漁民から海賊集団が結成され、列島に渡って来た可能性がある。)
   ※島根県青谷上寺地遺跡の、港湾集落を襲撃して惨殺したのもこのような集団なのだろう。そしてなり変わって住み着いた。

 インドネシア系(縄文時代に来た南島系の種族。沖縄・鹿児島・宮崎・和歌山南部・三重・愛知・静岡南西部などに多く住む。)
   ※と、されているが、千葉県など関東地方にも多く漂着して遺跡・遺物を多く遺している。
    また、宮崎県や和歌山南部の友人には僧侶や商家の出自であり、日に当たってもいないのに超地黒で日サロ帰りのような人がいた。
    メラミン色素が多い体質を形質としてもっていたのだなと思います。
   ※宗像族の出自ともされる

 インド・チャイニーズ系(中国南部の閩越地方漂海民に起源を持ち、東シナ海を北上、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西海岸を経由し、
   玄界灘に達したと推定される)
   ※インドシナ地方にはかつて舟で生まれ舟で死ぬ、漂海民がおり、かつてNHKが特集番組で紹介したことがある。
    彼らが北上して列島に来たとしてもうなずける話だ。瀬戸内地方には戦後も長く漂海民が残っていました。
   ※安曇族の出自ともされる。
   ※最近、金官伽耶国の王女のミトコンドリアDNAを調べたところインド人の遺伝子を発見したという。

 (※越とはベトナムのことで、その地方からの渡来民)
 越族近縁説(よくわからない原文参照願う 宝賀寿男と安本美典は、
   安曇氏、和邇氏、尾張氏、三輪君系(賀茂氏、諏訪氏、守矢氏、宗像氏、上毛野氏、下毛野氏など)に代表される地祇系の氏族であり、
   中国の江南沿海部の原住地から紀元前に日本列島に到来した種族であるとする説を提唱した。【中国渡来民説】

   また、百越と日本語はオーストロアジア語族の言語との類似性が指摘されており、百越がY染色体ハプログループ旧O2系統に属していた
   とする見解がある。

   主として筑前・肥前の沿岸地域に居住し、水稲耕作農業を行い青銅器を使用し、倭国の弥生文化前期の主力を担ったものであり、
   航海・漁労に優れた能力をもつ人々と推測される。※肥前・筑前は草創期の水田の発見地。
   ※日本への渡来人は、最初は中国大陸から、その後、朝鮮半島からとされているが、この説はそれを言っているのだろうか。
   ※父の友人で和邇さんという人がいた。父は中国人だろうと言っていたが、何と超古代から続く名家の出身だった。

 氏族 海人族に属すと考えられる氏族としては
   安曇氏、海犬養氏、宗像氏などが代表的である。
   ほかに海部氏籠神社宮司家)や津守氏和珥氏も元は海人族であったとする説がある。

宗像氏と安曇氏 宗像氏も安曇氏も共に海人族で、沖ノ島経由で半島交易を行っていた。
   安曇氏は福岡市東部から新宮町付近を拠点に、
   宗像氏はその東を拠点にしていた。
   志賀島を拠点にしていた安曇氏は中国に朝貢し、金印を授けられた。(ようだ。すると奴国は安曇氏の国、不弥国は宗像氏の国)
   磐井の乱(継体22、528年)で、安曇氏は磐井派、宗像氏はヤマト派に加担した。
   また、白村江の海戦でも安曇族の水軍が大敗し、力を失った安曇氏は東国に四散し、各地に地名を遺した。
   熱海・渥美・滋賀も安曇氏に関りある地名で、信濃国安曇が安曇族の本拠地となった。
    
   その後宗像氏は戦国時代まで権勢を誇ったが、豊臣秀吉によって断絶、娘は北条氏に嫁いだが、ここも断絶した。

※もう少し海人族を調べてみる

古代のダイナミズムを生んだ海の民(1) 引用
 論文中の見出し「海の民・海人・海部」から読んでください。長文なので要約掲載できません。
 ここでは前出の論文と少し齟齬するところがありますし、補われるところもありますが、よく調査し、推理された論文なので参照してください。

安曇族は、シナ大陸南部の越地方の海上漂泊民に起源を持ち、東シナ海を北上し、山東半島から遼東半島、朝鮮半島西岸を経て玄界灘に至り、志賀島を本拠地としたとされています。志賀島には彼らが祀る志賀海(しか うみ)神社があります。(ホントは、しか わたつみ じんじゃ かも 綿津見三神を奉じている)

宗像氏は、インドネシア系の海の民で、縄文時代に黒潮に乗ってフィリピン、奄美、南九州経由でやって来た隼人の一派が宗像に至ったという説があります。
系図では、オオクニヌシ6世の孫にあたる吾田之片隅命の子孫とされますが、吾田は阿多に通じるので、阿多隼人族とのつながりが指摘されているわけです。
 阿多一族から分派したグループが九州北部に移動し、ヤマト王権の成長期に乗じて勢力を拡大したと……
彼らは鐘ヶ崎に定着した後、潜水漁撈と航海技術を携えて列島各地に進出した。
 特に鐘ヶ崎は舟で日本海沿いに北上するには最適地。
 そこで日本海側に進出し、出雲や石見との往来で濃密な関係を結び、また5世紀後半には瀬戸内海航路にも関係し安芸(厳島神社のもともとの祭神はイチキシマヒメ)辺りにも進出した模様。

※宗像氏はインドネシア系グループで鹿児島に上陸して隼人となり、更に北上して玄界灘に定着した…云々
※宗像族の鹿児島の部族・阿多隼人は、いち早くヤマト政権に組したが、岐阜県に大挙移住したかさせられたようで、各所に地名がある。

 ※宗像族や安曇族は朝鮮半島系の集団かと思っていましたが、安曇族は中国南部の漂海民宗像族はインドネシア人だったのか。
 ※朝鮮半島西岸や済州島に宗像族の系統が残るのはそこから来たのではなく、そこにも行ったということのようです。
  現在では宗像族は朝鮮半島南部からの渡来民とされているが、それは違うようだ。

※日本古代政権の成り立ちと海人族
 ※今回、海人族に焦点を当てて調査しましたが、これだと、まるで、日本の古代史は海人族によってつくられたかのように見える。
  いや、誰一人として、大陸・半島の王族が多数の軍船を仕立てて列島に上陸して侵略支配したという形跡はない。
  全て、海人=漁師と、半島南部の海賊が列島にやって来て、都市国家を造り、権力を得て豪族となったのだ。

  換言すると、では、いったいヤマトの大王一族はどうやって列島に来たのか。
  半島から来たのには間違いないが、半島海人は武装殺戮海賊集団。
   (※例:青谷上寺地遺跡のように港湾の村などを襲撃して殺戮し、侵略して自分たちの拠点とする。)
   (実際、皆殺しにあった青谷上寺地遺跡は、海賊が成り変わってその後長く集落として存続している。)

  このように各地に弥生人を支配する武装集団が侵略支配を広げていき、やがて、吉備や出雲や、、、などと各地に定着し、
  その中の一派がヤマト王権を立ち上げた、、だから、継体朝のような全く無関係に見える大王でも、
  元を遡れば、半島南部出身の同族の武装集団の流れを汲む遠い末裔だった事がわかっており、それで大王としたのかもしれない。

  長い間、日本の博物館を巡って、どうも日本建国の原初にたどり着いたような気がする。
  元々、弥生時代の途中から、急にそれまでの安穏を破って軍事専門家が登場し、弥生人を支配する特権階級が生まれたことが不思議だった。
  だから、何度も、どこの定説にもない、吉備と讃岐は北部九州から出た二つの近縁な武装集団が侵略支配したと言ってきた。
  状況証拠は沢山あるが、誰もそんなことは言っていない。弥生村の武装化は自然発生的に成長したものだ程度にしか受け取っていない。
  もし、同じ村から自然発生したのなら、全国一斉にそれまでの弥生祭祀を破壊し、聖杯・聖刀・聖鉾を破壊・鋳潰してしまったりしない。
  この行為には、同じ思考、同じ価値観をもつ近縁の集団が同時に各地を支配したことを、意味している。半島南部の海賊だ。
   だが、これは、ほぼ決して口にしてはいけない、ヤマト王権の出自に到達してしまったのではないかと懸念する。
   いや、天皇一族は高天原という所からやって来た武装集団の荒くれ者でしたって、、、おい、、言うな。



 海部の主要古墳
鉄剣 海部の主要古墳

上に記述
海部の主要古墳  大分市地域  佐伯市地域   黄色い円で囲まれた地域は、それぞれの首長の支配地だったのでしょうか。
とても近接しているのはそれ程この地域が繁栄していた証拠のようだ。
   


 亀塚古墳 大分市大字里646-1  5世紀初頭
県下最大の前方後円墳。当時は赤く塗られた埴輪が立ち並び、白い石英質の葺石が並べられており、海から一望できる古墳の姿は、まさに「海部の王」の強大さを今に伝えている。

 築山古墳 大分市大字神崎字浄願寺 5世紀中頃(古墳時代中期)
 海部では、亀塚古墳に次ぐ大きさである。女性が埋葬されており、「海部の女王」の墓にふさわしく貝輪などの装身具が数多く出土した。

 下山古墳の家形石棺 大分県臼杵市大字諏訪 5世紀中頃
 海部地域には、下山古墳の家形石棺など高度な石の加工技術をもった人々によって独特な石の文化が生まれた。

亀塚古墳 築山古墳 下山古墳の家形石棺
下山古墳の家形石棺


 臼塚古墳の舟形石棺 大分県臼杵市稲田 5世紀中頃
 凝灰岩を船形に刳り抜いた大小の石棺2基がある。この石棺には二体と一体に分かれて人骨が納められ、
副葬品として鏡や剣・刀などの鉄製武具・貝輪・曲玉などの装身具が出土している。

 臼塚古墳の石製短甲
 前方部と後方部の境の近くに凝灰岩製で短甲形の2基の石人(石甲)が並んでいる。
石人・石馬の中心地である福岡硯八女地方との関係が注目される。

 上ノ坊古墳うえんぼう 大分市 市尾 上ノ坊の丘陵上 4世紀中頃
 古式の前方後円墳であり、亀塚古墳と同じ緑泥片岩を使った箱式石棺には銅鏡のほか、環頭太刀や多量の鉄剣、管玉、勾玉などが副葬されていた。

臼塚古墳の舟形石棺
臼塚古墳の石製短甲
上ノ坊古墳うえんぼう

 117瀬戸内海の主要大型古墳分布図
古墳時代は大土木工事の時代と言われ、米作りのための水田づくりや、有力者のための古墳づくりが盛んにすすめられた。
大和から瀬戸内海を経て玄界灘沿岸、更には朝鮮半島に至るルート上に広く分布する海辺の大型古墳は、海上交通の拠点(港)を持ち、交易を掌握した王の墓と考えられる。
彼らは早くから大和政権とのつながりを持ち、朝鮮半島との交易に深い関りを持っていた。

瀬戸内海の主要大型古墳分布図 瀬戸内海の主要大型古墳分布図 瀬戸内西部・九州東部 瀬戸内東部
石釧は撮影禁止のため画像を不鮮明にしています

 119五世紀の古墳 亀塚古墳
古墳時代中期の5世紀初め頃に造られた大分県で一番大きな前方後円墳で、国の史跡に指定されています。
一面に白い玉砂利が敷き詰められ、赤く塗られた埴輪が並べられていました。
海から見えるその姿は壮大で、海を支配した海部地域の首長にふさわしい古墳です。
亀塚古墳
上に記述
 
 140亀塚古墳発掘調査
豊後水道を見下ろす坂ノ市地区里の丘陵に築かれ、全長約116m、西側に四角い張り出し部を持つ県下最大の前方後円墳である。
墳丘は三段築盛で、各段のテラスには白い玉砂利が敷き詰められ、赤く塗られた埴輪が並べられており、白く輝く古墳の姿は、まるで灯台のように
遥か海から見え、その巨大さから海を支配していた「海部の王」の強大さを今に伝えている。
また、北方約30mには全長35mの小亀塚古墳が築かれており、亀塚古墳の被葬者と関係の深い人の墓と考えられる。

亀塚古墳発掘調査

整備前の亀塚古墳 各テラスの葺石
墳丘上の埴輪列
 古墳の各段のテラスや後円部の頂上の縁周りには、赤く塗られた円筒や朝顔形をした大きな埴輪が並べられている。
 また、後円部からスイジガイ文様の埴輪、家形埴輪片、二重構造の船形埴輪の船首部分、作り出し部から家形埴輪、楯形埴輪が見つかり、特別な場所であったことがわかる。
整備後の亀塚古墳 埋葬施設  埋葬施設は後円部に二つ見つかった。
中央に位置(第1号主体部)する施設は海部地方に産出する緑泥片岩を使った箱式石棺であり、
長さ3.2m幅1m深さ1.2mの大規模なもので、300点を超える勾玉や管玉、ガラス小玉の他に
短甲や大刀、鉄鏃片などの武器が出土した。

 その東側には、既に抜き取られていたが、痕跡から凝灰岩製の刳り抜き式石棺(第2号主体部)が安置されていたことが推測される。
小亀塚古墳 整備前
復元された家形石棺
小亀塚古墳
 小亀塚古墳は、
 亀塚古墳の約3分の1の大きさで、全長35m程の前方部が短いタイプの前方後円墳である。
墳丘は丘陵の地山を削り(第1段目)、その上に土を叩き締めながら盛る(第2段目)といった方法で築いている。

 この古墳も主体部は既に抜き取られていたが、その痕跡から刳り抜き式の家形石棺が想定され、
勾玉や管玉が残されていた。
また墳丘の保護や装飾に使われた埴輪や葺石は見られない。
復元された家形石棺
小亀塚古墳
小亀塚古墳 (大分市里)
 全長約35m、2段築成の前方後円墳。後円部中央には家形石棺のレプリカが設置されている。
 5世紀後半の築造。


 亀塚古墳箱式石棺復元模型 縮尺1:10
 後円部中央から、緑泥片岩を使った大規模な箱式石棺が検出された。
石棺は盗掘を受け、部分的に壊されていたが、長さ3.2m深さ1m幅1mの大きさで南側にポケット状の副室と、底板をもつ箱式石棺であることがわかった。
石棺は埋設するために大きな墓壙を2段に掘り、2段目の穴に板石を箱型に組み合わせてつくっている。
亀塚古墳箱式石棺復元模型
上に記述
石室復元模型

 143東九州の古墳の移り変わり
東九州の古墳の移り変わり
豊前地域の古墳
豊後地域の古墳 その他九州各地の古墳 九州各地の古墳
備考
番塚古墳(豊前)
福岡県苅田町
5世紀末~6世紀初頭
綾塚古墳(豊前)
福岡県京都郡みやこ町勝山黒田
6c後半から7c初頭
原古墳(豊後)
豊後大野市
6世紀
下原古墳(豊後)
 144
 下山古墳家形石棺模型 大分県臼杵市 諏訪 5世紀中頃
 厚さ約20cmの凝灰岩の板石を箱型に組み合わせ、屋根形の蓋石を被せた家形石棺である。棟の一端には破風板の表現と見られる小突起が彫り出されている。蓋部上面には、四周及び中央部を縁取りして押縁表現が施されている。
棺内には、2体の人骨が埋葬され、鏡(国産の神獣鏡)、貝輪、管玉、櫛、鉄剣、鉄斧、毛抜形鉄器などが副葬されていた。

下山古墳家形石棺模型
下山古墳家形石棺

 臼塚古墳舟形石棺模型 大分県臼杵市稲田 5世紀中頃
 後円部中央に2基の船形石棺が安置されており、その内の小さい石棺の模型。長さ2.25mあり、長側面に4個の縄掛け突起を持つものである。
棺内には2体の人骨が埋葬されており、鏡2面(位至三公鏡・獣帯鏡)の他に鉄剣、鉄刀、鉄鉾、短甲、貝輪などが副葬されていた。

臼塚古墳舟形石棺模型
臼塚古墳 舟形石棺

 145舟の発達の歩み
縄文時代の人々は、一本の木を刳り抜いて作る丸木舟と櫂だけで遠く大陸まで航海を行っていた。
彌生・古墳時代には、船を大きくし、安定させるために丸木舟の上に波よけの板を取り付けるようになり、帆かけの舟も造られ始めた。
奈良時代になると、丸木舟を使わず、板を組み合わせて作るようになり、船は更に大型になった。

舟の発達の歩み
 旧石器~弥生時代 縄文時代
12000~2300 
丸木舟・櫂 
鳥浜貝塚
福井県三方町鳥浜貝塚 
福井県立若狭歴史民俗資料館
弥生時代
2300~1700
 
 準構造船
土器に描かれた舟
 松山市樽味高木遺跡
 弥生後期

土器に描かれた舟
 奈良県坪井遺跡
 弥生中期
 
古墳~奈良時代
古墳時代
1700~1300
二重構造船 復元された
 二重構造(二股)の大型船 中期

埴輪に描かれたゴンドラ型の大型船(前期)
 天理市東殿塚古墳

埴輪に描かれた 二重構造(二股)船
 大分市亀塚古墳
 奈良時代~現代 奈良時代
1300~1200 
構造船
 丸木舟を使わず、 板や竜骨を使って 船を組み立てる。

遣唐使船(奈良時代) 神戸市立博物館
現代
現代の客船 ふじ丸 縄文時代の人々は、一本の木をくりぬいて作る丸木舟と櫂だけで、遠く大陸まで航海を行っていた。
弥生・古墳時代には、舟を大きくし、安定させるために、丸木船の上に波よけの板を取り付けるようになり、帆かけの舟も作られ始めた。
奈良時代になると、丸木舟を使わず、板を組み合わせて作るようになり、船はさらに大型になった。

 146外耳道骨腫のある頭蓋骨
 臼塚古墳の大小2基の舟形石棺内からそれぞれ男女2体の人骨が発見されている。この4体の全てに外耳道部の片側が 盛り上がり(骨腫)、
丸かった穴が扁平に変化している特徴が認められる。このことから、もとは海での仕事(潜水作業)に携わっていた者であったことが考えられる。

※サラリと言ってますけど、古墳の石棺内部から出土する人骨って当時の偉大な権力者。その人の耳に外耳道骨種があったのは、
当時の漁夫や海人・海女であるということか?だったかもしれないし、実際に潜り漁をしていたようだ。
王も王女も素潜り漁をもっぱらにしていた。素晴らしい平等の国だ。(^^)

外耳道骨種のある頭蓋骨
 
 147亀塚古墳出土品
 147a船を描いた埴輪 亀塚古墳

胴体は側面視、
櫂or櫓は上面視

12丁櫓の大型、豪華な船を強調したかったのか
 147b舟形埴輪 亀塚古墳
舟形埴輪船首 復元想定図 舟形埴輪
船首部分
 147cスイジガイ文様の埴輪
スイジガイ文様の埴輪
南海産スイジガイ

 147d三角板革綴短甲
三角板革綴短甲
横矧板鋲留衝角付冑
横矧板鋲留衝角付冑
よこはぎいた
びょうどめ
しょうかくつき
かぶと
三角板果革綴短甲
さんかくいた
かわとじたんこう
 
 149埴輪に象(かたど)られた船
亀塚古墳の埴輪には船の絵を描いたものや、船形のものがあります。
船は瀬戸内海を舞台に活躍した海部の豪族を象徴するものであり、また、来世に向かう乗り物でもあったと考えます。

埴輪に象られた船
埴輪に描かれた準構造船
 

 150辻1号墳 大分市大字里小字辻 5世紀後半
 辻1号墳は5世紀後半に造られた前方後円墳に復元された古墳です。亀塚古墳より後の時代の海部の首長の墓と考えられています。
畿内地方の墓の作り方が取り入れられており、当時の海部の首長が畿内政権と深く関わりをもっていたことがわかります。

 151辻1号墳と亀塚古墳
辻1号墳からは亀塚古墳が見えます。今は道路で分断されていますが、辻1号墳と同じ丘陵上に亀塚古墳があります。

辻1号墳
辻1号墳 辻古墳群と亀塚古墳 古墳の形と範囲
埴輪片
周溝の中から円筒埴輪や家形埴輪など多数の埴輪が発見されました。
これらは墳丘上に並べられていたものです。
蓋(キヌガサ)埴輪 権威の象徴である
蓋形埴輪の一部で、
辻1号墳から見つかっています。
九州では他に例を見ないものです。

辻1号墳と王ノ瀬石棺 古記録から古墳の上にはかつて岩船神社があり、王ノ瀬天満宮の家形石棺はここから運ばれて来たことが判明しました
このことから辻古墳の石棺=王ノ瀬天満宮の石棺であったことがわかります。
王ノ瀬天満宮の家形石棺=辻古墳の石棺

現在は当館で保存
岩船神社
神殿をもつ岩船神社
江戸時代末期から明治時代はじめ頃にかけて辻1号墳の場所には石棺が収まるサイズの神社がありました。

 152形象埴輪


 153蓋形埴輪
 155鳥形埴輪 築山古墳 (安岐町)
 157家形埴輪 亀塚古墳
 

 160千人塚古墳 (永興千人塚古墳)  大分市上戸次 5世紀末~6世紀前半
 大分市永興(りょうご)の丸山墓地公園から南に延びた丘陵先端にあり、5世紀末~6世紀前半の前方後円墳である。
大分川下流域には、壬申の乱で活躍した大分君一族に連なる4~7世紀にかけての古墳が集中しており「豊後国風土記」に記された大分郡の中心地として栄えたところである。
千人塚古墳は、前方後円墳から横穴式石室墳(円墳)にかわる時期にあたる古墳であり、大分君の系譜に連なる大分市最後の前方後円墳である。

千人塚古墳 千人塚古墳 千人塚古墳墳丘復元図
復元墳長約45m、周溝を含めると約54mあり、前方部が極端に短い前方後円墳である。
周溝内(古墳の周囲を巡る溝)から葺石や須恵器の大甕、坏身片、甑が出土している。
朝顔形埴輪
亀塚古墳
 

 170副葬品は語る
古墳の中に被葬者と共に納められているものの内、
首飾りや腕飾りなど身に付けているものを着装品
棺の内部に備えられている品々を副葬品と呼ぶ。
前期古墳は、鏡・玉・剣など祭具・呪具が多く、
中期古墳は、甲冑や刀剣といった武器を中心としている。
これらは大和政権殿強い関係を示すとともに、神まつりを執り行う「王」、戦う「王」といった性格をあらわしている。

 171免ヶ平古墳の埋葬施設 大分県宇佐市 4世紀末頃
 後円部中央の竪穴式石室に木棺が納められて、棺外に鏡・大刀・剣・農工具類・棺内には腕輪(石釧)やネックレスなど玉類が出土している。

 また、石室の南に接して、女性を葬った箱式石棺には、肩の位置に鏡、右手と左手の位置に腕輪(石釧)、首の周辺に玉が散乱しており、
大阪府和泉黄金塚古墳例と同じ規則性がある。
 神まつりを行い「王」を補佐する女性の姿が見える。

副葬品は語る 免ヶ平古墳の埋葬施設
大分県宇佐市
免ヶ平古墳の埋葬施設
左:王墓棺、右:巫女墓
箱式石棺遺物出土状態(鏡と石釧・玉類などの位置がよくわかる)
箱式石棺出土遺物
(石釧・勾玉・管玉・鉄製刀子・銅鏡)
斜縁神獣鏡(石室出)
三角縁神獣鏡(石室出)
玉類(石室出)


 黒塚古墳竪穴石室 奈良県天理市 3世紀後半頃
 大和政権誕生の地とされる奈良県天理市の黒塚古墳から全国最多数(34面)の鏡が出土、
棺内の被葬者の頭部付近に大切に納められた1枚の鏡の他は、被葬者の霊を守る魔除けの呪具として棺を取り巻くように棺外に立て並べられている。

黒塚古墳竪穴石室
奈良県天理市
黒塚古墳竪穴石室
副葬品配列
三角縁神獣鏡
 

 173亀塚古墳出土物  大分市里
鉄剣片
第1主体部
鉄刀片
第1主体部
鉄鏃片
第1主体部
短甲片
第1主体部
滑石製勾玉
第1主体部
管玉・勾玉
第2主体部
管玉・臼玉・ガラス玉
第1主体部
管玉 臼玉・ガラス玉
 

 175古墳副葬品
貝輪 貝輪
世利門古墳
大分市世利村
貝釧路
臼塚古墳
臼杵氏稲田
貝輪
臼塚古墳
短甲形埴輪の草摺
臼塚古墳
 177
石釧
野間古墳群3号墳
毛抜形鉄器・管玉
下山古墳(臼塚古墳)
神人獣形文鏡
野間古墳10号墳
渦状文鏡
野間古墳群3号墳
位至三公鏡
臼塚古墳 臼杵市
獣帯鏡
臼塚古墳 臼杵市
 

 180須恵器大甕 千人塚古墳
 
 

 200六~七世紀の横穴の石室と墓
古墳時代終り頃の代表的な墓の形で、
横穴式石室は円墳や方墳の中央に巨石を組み、
横穴墓は山の斜面に横穴を掘って造られました。
巨石を境に、現世と黄泉の国が別れるという説話は、古墳時代の人々が、横穴の石の扉を境に、今の世と死後の世界を区別していたことを物語っています。

六~七世紀の横穴の石室と墓
石室内で
食物や酒などを供える
古墳入口前で
入口を石で塞ぐ

閉塞祭祀に装飾器台が登場する

 210横穴石室の世界
 6世紀に入ると大和の大王(おおきみ)は、地方の有力な豪族を国造に任命するとともに、各地に屯倉(みやけ、大和政権の直轄地)を設置するなど、次第に
中央集権化を進めていく。このように
古墳時代後期は、各地の豪族が地方行政組織に組み込まれ、政治の仕組みが大きく変化する。
この影響を受けて、古墳づくりもこの時期を境に権力を示す巨大な前方後円墳が減少し、
かわって、横の扉を開ければ遺体を何体でも入れられる全く新しい施設(横穴式石室)をもつ小規模の古墳(円墳・方墳)が普及していく。

 また、副葬品に金銅製の装身具や馬具、それに須恵器などが一般化する。これは朝鮮半島からの渡来人や彼らの文化の影響によるとされる。

 法恩寺山4号石室
 大分県日田市大字刄連町字法恩寺 6世紀前半
 大分県内の横穴式石室墳の分布を見ると、
中津から豊後高田にかけての県北部
杵築を中心とする国東半島
日田、玖珠の県西部、そして
大分・別府の県中部の大きく4つの地域に集中している。
一方、大和政権との強い繋がりをもち、繁栄してきた海部地域は、極端に少なく、海部の地域的な衰退が窺える。(6世紀前半)

横穴式石室の世界 大分県内の横穴式石室墳の分布
法恩寺山4号石室
(日田市)
ランドヤ2号墳
日田市
鬼ヶ城古墳
玖珠町

伊美鬼塚古墳
国見町

丑殿古墳石室
大分市
千代丸古墳石室
大分市


 巨石を使った横穴式石室墳 弘法穴古墳 大分市永興7 7世紀前半
弘法穴古墳石室模型 巨石を使った横穴式石室墳。

奥行3.3m幅2m高さ2.3mあり、
玄室平面形は長方形である。
玄室奥には2枚の板石を並べて死床としている。
7世紀前半


 220横穴式石室と黄泉の国訪問説話
「古事記」や「日本書紀」では、イザナギノミコトは妻のイザナミノミコトが火の神を産んだ時に大やけどをして死んだため、妻に会いにあの世(黄泉の国)に行くが、ウジがわいている妻の姿を見て逃げ出し、比良坂というところで巨石を使ってこの世とあの世を区切ると記されている。

 この説話は横穴式石室の様子を表したものと言われており、死後の世界を石室の扉(蓋)を閉じることによって石室の中(黄泉の国)へ閉じ込めようとする思想が人々の間に普及したことを物語っている。

 単室構造の場合
 単室構造の場合は、墓室を「玄室」と呼ぶ。また、内部を区画し、死床を設けるために立てた板石を「仕切り板」と読んでいる。
横穴式石室と黄泉の国訪問説話

横穴式石室各部名称 横穴式石室各部名称
羨道・蓋石・玄門・前室
袖石・框石・楣石
(かまちいし・まぐさいし)
後室・石棚・石棺
単室構造玄室の各部の名称
屍床・仕切石・玄室・石屋形

塔ノ本古墳の石室
日田市
鶴見古墳の石室
宇佐市
千代丸古墳の石室
大分市



 丑殿古墳石室・家形石棺模型 縮尺1/20  6世紀後半から7世紀初頭 大分市賀来1755
巨石を使った横穴式石墳。奥行2.5m幅2.5m高さ2.1mあり、玄室平面形は正方形である。
玄室内には、安山岩を刳り抜いた家形石棺(長さ2.3m幅1m)が置かれており、蓋には4個の縄掛け突起をもっている。
県下唯一の本格的な家形石棺を安置した石室墳である。

丑殿古墳石室・家形石室模型
 

 230九州地方の装飾古墳

 231九州地方の装飾古墳
 横穴式石室や横穴墓の壁面を彩る絵画に、直弧文・円文・同心円文・三角文・鋸歯文(連続三角文)といった幾何学的文様の他に、
大刀・楯・靫といった武人のもつ武器や武具を描き、亡くなった人物の姿をあらわしている。
 これらは、死者のやすらかな眠りを願い、邪霊を近づけないために描かれたものであったが、
次第に鳥や馬、小動物を射る人物、居館、大型船などが描かれるようになり、写実的で、生前のとある場面を華やかに描くようになった。

■本格的な装飾古墳を生み出した地域は九州であり、特に発達を見せるのは、中部から北部にかけての地域である。
 大分県では県西部や北部を中心に10基の古墳と17基の横穴墓に確認されている。
 装飾には、円文が多く使われ、船や馬などが描かれる特徴から、福岡県筑後川上流域から北部地域にかけての影響が考えられる。


九州地方の装飾古墳 九州の主な装飾古墳の分布

 232装飾古墳
 福岡県石人山古墳の横穴式石棺
(5世紀前半)
    屋根形の棺蓋に円文と直弧文を彫刻している。
円文は鏡を表したもので、直弧文と共に死者の鎮魂と魔除けを念じる意味をもつ。
福岡県王塚古墳
(6世紀中頃)
日本を代表する装飾古墳。
後室の下半部は連続三角文で埋め尽くされ、
上半部は赤く塗られた上に黄色い朱文で星をちりばめている。

後室入口の両側には蕨手文と騎馬像が描かれている。
死者の来世への乗り物として用いられた馬であろうか。
福岡県珍敷塚古墳
(めずらしづか6世紀)
中央に矢筒である靫を大きく描き、
その左側に船首に鳥がとまった船とそれを漕ぐ人、
靫の右側にはヒキガエルや楯をもつ人物が描かれている。
福岡県竹原古墳
(6世紀後半)
装飾古墳の壁画の中で最高の傑作。
後室奥壁の石棚下の巨石に、赤と黒の二色で力強く描かれている。

1対のさしば(貴人に差し掛けるうちわ)の間に、
赤い舌を出した怪獣(四神の青龍)とともに波と船、
馬を引く人が描かれる。

ともに来世への乗り物であろう。
日田市穴観音古墳
(6世紀)
緑と赤の二色で描かれた色彩壁画。
後室の奥壁と右側壁、前室の左右側壁に、円文や船、両手をあげた人物など各種の図形が見られる。

後室奥壁には、2段の同心円文、左下に連続三角文が描かれている。
玖珠町鬼塚古墳
(6世紀)
前室奥の右袖石、後室の左右側壁と、奥壁の4か所に
赤色で円文同心円文・船(?)などの図形が彩色されている。

特に奥壁の大きな3重の同心円文は特徴的である。
国見町伊美鬼塚古墳
(7世紀初め)
玄室奥壁と、左右側壁の3ヶ所に線刻で、
三角帆の舟、手を振る人物を乗せたゴンドラ船、オールを付けた舟、
鳥・樹木・木葉など多様な図形が描かれている。
特に右壁のくちばしを向かい合う2羽の鳥は躍動的に表現されている。
大分市千代丸古墳
(7世紀初め)
市内唯一の装飾古墳。
赤く塗られた玄室の奥壁に突き出た石棚の前面に、
線刻で2重の連続三角文・四角文といった幾何学文様の他に
手を広げた人物や動物が描かれている。
宇佐市貴船平下の裏山横穴墓
(7世紀中頃)
装飾横穴墓。
玄門正面に彩色されている。

黄色の粘土を全体に塗った後、
赤色で上面に4つの同心円文、
左右に上・下2個の六脚同心円文が描かれている。

 235千代丸古墳石室模型 (7世紀初め) 大分市大字宮苑字千代丸
巨石を使った横穴式石室墳。奥行3.3m幅1.9m高さ2.8mあり、玄室平面形は長方形である。
奥に2段の平石を重ねた死床がある。
奥壁には厚さ約50cmの石棚が水平に突き出ており、その前面に線刻文が施される。(7世紀初め)

千代丸古墳石室模型
 

 240横穴墓の変遷 ※横穴式石室ではなく、斜面に横穴を掘った墓室で中層民の墓と考えられる。

5世紀の後半頃、九州の北部を中心に山の斜面に穴を掘って死者を埋葬する施設「横穴墓」が出現する。
当初は身分の高い人を中心に造られたが、次第に一般の人々にも普及し、家族墓としての性格を強めて行った。

6世紀後半~7世紀前半にかけては1ヶ所に群集して営まれ、まさに墓のマンションのようである。
このような群集する横穴墓も
8世紀には仏教や火葬墓の普及に伴って、次第に姿を消していく。
 241
横穴墓の変遷

 九州横穴墓の広がり
九州の横穴墓の広がり
・初源期
(5c後半~6c初頭)
・国東半島を中心とする九州島北東部から始まる。
 福岡・大分の北部九州東側のみの分布


・横穴墓分布圏は
 長崎・南部熊本・鹿児島・南部宮崎を含まない

 横穴墓の変遷(大分市)
5世紀(出現期)
↓家形天井(死床が見られる)
6世紀(大型化)
↓天井の高いドーム型天井
↓アーチ形天井(カマボコ型)
7世紀(小型化)
↓天井の低いドーム型天井
↓平たい天井

 243横穴墓副葬品
鉄鏃・鉄鉾
飛山横穴墓群
大分市坂ノ市東上野
刀子 飛山
大刀 飛山5号 鞘金具
飛山23号
 
※考察 横穴墓の初源
 宮崎県西都原古墳群では、横穴墓が前方後円墳の墳丘のどてっぱらにまで掘られていて、地域豪族の墓を掘り返すなどという、厳罰に処せられそうな行為が平然と行われていた。
 この横穴墓は、西都原では、半島から渡来した傭兵の墓であると聞いていた。確かに、ひとつの穴に多数の遺体が追葬され、その多くが武人の副葬品を携え、中には夫婦で埋葬されるものもあった。列島人では、同一血族のみが同じ墓所に葬られ、血族を異にする夫婦は同一墓所に葬られない。
つまり、横穴墓は当然日本発祥ではなく、半島人が持ち込んだ墓制であると考えられる。

 朝鮮半島の横穴墓の文献では、半島に数多くの横穴墓があり、その文化が列島に、持ち込まれたと考えられる。
しかも、ある程度の権力・財力をもった人々、この場合武人がその墓制を実行し、斜面、なければ、古い古墳にまで横穴を開けて造営したようだ。
 その後、次第に列島に拡がり、さらに、古墳禁止令が出ると、列島各地に広がり、各地の斜面や凝灰岩や砂岩などの柔らかな岩盤の斜面を刳り抜いて、墓を造ったようである。しかも、専門の墓堀職人がいたそうである。

 日本の横穴墓は東北南部にまで拡がっており、同じ時期の東北北部から北海道にかけての終末期古墳とは思想的に一線を画すようだ。
 っていうか、崖のある狭いところでは崖面横穴墓だろうが、だだっ広い東北や北海道では、崖がない。なければ、古墳になるのだろう。
 って、東北北海道の終末期古墳は、ちょっと大きめの土饅頭だよ。


 245大曽横穴墓群模型
小野鶴から田原にかけて、幾重にも突き出た丘陵があり、
多くの谷間が形成されている。横穴墓群はその一つの谷間斜面を穿ってつくられている。
総数17基があり、寄棟形鴨居形アーチ形などいろいろな形の横穴墓がある。

大曽横穴墓群模型 大曽横穴墓群模型
 

 250死者を送る祀り
 横穴墓も横穴式石室と同様に、玄室を死者の世界(黄泉国)とする思想と深い関係がある。
人が亡くなっても、家族は死んだものとは認め切れずに、死者がさながら生きているときと同じように食事や歌や踊りを墓の前で行い、その後、
玄室内に死者を安置してからは、須恵器や土師器に食べ物や酒などが盛られ、死者の世界でも食べ物に困らないようにとお供え物をする。
 最後に、墓の入口を石や木で塞ぎ、その前で土器が割られ、現世とのわかれと死者の霊を死後の世界に封じ込めるまつり(コトドワタシ)が行われた。
また、代々親族が葬られ、節目ごとに人骨を集めたり、供養を行う墓まつりもこの頃から始まった。

 251上ノ原横穴墓群35号横穴墓
死者を送る祀り 上ノ原横穴墓群
35号横穴墓からのメッセージ
土器や食物・酒類の共献
死後においても食するために供える
大刀や鉄鏃などの武具類と共に横になった器台が見える。
内には各種の食物が盛られていたであろう。
入口の閉塞
死者を黄泉国(死後の世界)に封じ込める行為
瓜(炭化物)が
食物(※供物)
として供えられている。
土器の埋置・破砕行為

現世との別離
(コトドワタシ)
入口を厳重に塞ぎ、その前にはカラス貝、ハマグリなどの食物を入れた容器が供えられている。

※墓前破砕行為について
 破砕行為については、子供の頃、出棺の際に茶碗を壊す様子を見たことがある。
前出の熊本県立博物館で、高坏や坏が細かく砕かれて再現もできないような状態にあった。
さらに、島根県では、大甕が二個打ち砕かれて玄室内にばらまかれていた。さすがにこれは盗掘者除けかととも思ったが。
 現世と黄泉の世界を断ち切る行為として今もなお、日本のどこかで受け継がれているようだ。
ただ、ここには書かれていない。

 いや、これらとは別で、墓の外で行う行為であって、いま、書いたのは全部違っているようだ。
墓の外で壊した土器は、その後、埋められてしまったのかもしれない。


 253副葬品 飛山横穴墓群
ガラス小玉
飛山横穴墓群5号
管玉・切子玉・勾玉
飛山 1・23号
  金環
飛山 17号 
紡錘車
飛山 19号
 
     

 飛山横穴墓群第4号横穴墓模型 古墳時代後期 6世紀後半
 東上野にあった約32基の横穴墓の一つ。鏡板や杏葉など沢山の馬具が出土している。
奥行2.5m幅2.35m高さ1.2mあり、天井部は蒲鉾型に近く、側壁から天井部へと変わる所に段を作り、鴨居を表現する。
床には扁平な石が敷き詰められ、入口に向かって排水溝が付設されている。(6世紀後半)

飛山横穴墓群第4号横穴墓模型
飛山 4号
 

 260馬具が語るもの
 261
 今から約1600年前(4世紀末~5世紀初め)、馬具が乗馬の風習と共に朝鮮半島から伝わり、5世紀の終りに関東地方まで広がっていく。

馬具は最初実用品であったが、次第にきらびやかな装飾を施すようになり、首長のステータスシンボルとなっていく。
日本には約1800基の馬具副葬古墳があるが、その分布は九州北部と東海地方から北関東にかけての地域に集中する。
 それは、古代において。 馬を飼う「牧」や「騎馬集団」の発達した地域と重なる

馬具が語るもの 馬具副葬古墳の都府県別分布
都道府県別に見た馬具副葬古墳の割合 ➀群馬
②福岡
③長野④静岡⑤栃木
合算すればこうなるのだが、馬産は西から東へ拡大。西薄東厚は当然。それでも、福岡が多いのは大量の輸入がっあったからか。
飾り馬(塚廻り4号墳出土埴輪)群馬県
面繋 手綱
辻金具 前輪
引手 後輪
尻繋
鏡板 杏葉
胸繋
馬鐸 障泥
鞍金具 金銅製透彫鞍金具
前輪 藤ノ木古墳
金銅製透彫鞍金具
後輪 藤ノ木古墳
棘葉形杏葉
藤ノ木古墳
金銅製透彫鞍金具
誉田丸古墳

大阪府
心葉形鏡板付轡
藤ノ木古墳


 265馬具 飛山横穴墓群
鏡板
飛山4号第6穴
杏葉
飛山4号第6穴
雲珠
飛山19号
辻金具
飛山19号
帯金具
飛山1号

飛山4号

 268横穴墓の須恵器と土師器 穴蟹喰横穴墓群
 


 270古代海部の郡役所
  飛鳥時代(592-710 118年間) 奈良時代(710-784 74年間)
 271古代海部の郡役所
 飛鳥時代(592-710)には天皇を中心とする国づくりが始まり、法律を定めて全国各地に役所が置かれました。
海部の郡役所は亀塚古墳のすぐ近くで城原・里遺跡の発掘調査によって発見されました。
ここは台地から谷を下りれば丹生川そして別府湾につながる好立地で、政庁や税として納められたコメを貯えるなど海部郡の役所を立てるにふさわしい場所です。

古代海部の郡役所

 郡役所跡
郡役所は
飛鳥時代(赤色表示)には建物が2か所に(分かれて)建設されました。
の建物群が役所の中心施設(政庁)のようです。道路の遺構が見つかっていることから
の建物と当時は道路でつながっていたものと考えられます。

奈良時代(青色表示)には郡役所が建て替えられたようです。政庁はに移り、には工房や蔵が並んで立てられました。

坂ノ市駅付近を指す 古代海部郡役所推定地上空
前方別府湾、右丹生川
古代郡役所跡 1.奈良時代の郡役所跡 2.飛鳥時代の郡役所
 273政庁跡
奈良時代の郡役所の政庁復元図

ひときわ大き建物を中心に、その周りを「ロ」の字形に建物を並べて囲んでいたようです。
中の広場には門があり入ることが出来ました。
海部郡役所の政庁跡

人が立っている場所が建物の柱穴です。
一直線に並んでいることがわかります。
掘立柱建物跡

筒が立つ場所が建物の柱穴です。
等間隔に並び、建物が計画的に立てられたことが分かります。

 275古宮古墳石室模型 大分市大字三芳字宮畑 7世紀末~8世紀初期
 九州唯一の石棺式石室墳である。縦1.77m横1.65m長さ2.5mの直方体の凝灰岩を刳り抜いて、奥行き2.16m幅81cm高さ88cmの石室を造り出している。入り口部分には、閉塞石をはめ込むための仕口があり、天井部はやや蒲鉾型に丸みを付け、東壁との境は幅1cmほどの凹線が鴨居風に入る。
石室前には、同じ凝灰岩を整形して、各2枚の側壁を並べて天井石を置いた羨道が取り付く。

 古宮古墳と風水思想地形模型
 古宮古墳の立地を見ると、当時中国や朝鮮半島から伝わってきた「風水」の思想が取り入れられていることが分かる。
「風水」とは、古代中国に発する占い的思想で、墓の造営に際して、「先人を良好なる墓地に葬れば、おのずとその子孫の繁栄につながる」
と言われており、その風水上良い場所都は「北に高い山があり、その両側が東西に延び、南に川が流れ、冬は寒風をさえぎり、夏は涼しい気をたたえた所」とされ、まさに、風水思想に合致する位置にある。

古宮古墳石室模型 古宮古墳石室模型 古宮古墳と風水地形模型 古宮古墳と風水思想
地形模型
風水思想地形模型
 

 280日本と世界の歴史年表

 281西暦500年前後の世界 黄色線以外民族の移動  黄色は仏教伝来
 4~5世紀は、フン族(匈奴)の西進をきっかけとする、ゲルマン諸民族の大移動、東アジアでの遊牧民族による小国分立など、ユーラシア大陸は民族移動の嵐が吹き荒れた激動の時期であった。
やがてそのエネルギーは新たな世界秩序を生み出していき、日本列島にも統一国家形成の動きが伝わった。

西暦500年前後の世界
ユーラシア大陸における民族大移動 南・東アジアにおける仏教の伝播 大乗仏教の東進 小乗仏教の南進
フン族西進による
Europeの攻防
南・西アジア 東南・東アジア
 282
アジャンターの石窟壁画 インド
 デカン高原最大の仏教遺跡。広い崖面を彫ってできた岩穴を寺院にし、多くの壁画が描かれた。(6~7世紀)
 聖ソフィア寺院
トルコ
 世界最大のキリスト教の教会。東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスが作らせた。(6世紀中頃)
 ティオティワカンの太陽ピラミッド
メキシコ
 紀元前後に「神の座」を意味するメキシコのテオティワカンに都市が建設され始め、4~5世紀に全盛期を迎えた。「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」など、数々の神殿が建設された。
 雲崗の石仏
中国
 北魏の皇帝が造らせた大きな石窟寺院内にある石仏(5世紀中頃)
 広開土王の石碑
北朝鮮
 
朝鮮半島にあった高句麗の広開土王の功績を記している。(5世紀)

 285歴史年表  
ヨーロッパ
東・中・西
ヨーロッパ
中・西・南
西アジア・北アフリカ
南アジア
南アジア・東アジア 東アジア・日本
中部アメリカ
 日本の古墳と世界の墳墓を比べると、応神・仁徳天皇陵葉エジプトのピラミッドなどと共に世界的規模を誇る王墓として名高い。
 また、農業の開始から王墓出現までが、僅か600~700年と世界でも並はずれて短い。
   『世界史~封建主義形成まで~』ドイツ民主共和国アカデミー 付表を改変 佐原 真提供
 

 290大分県主要古墳分布図
 291
大分県主要古墳分布図
 292大分県主要古墳分布図
大分県主要古墳分布図
宇佐市・杵築市
赤塚、免ヶ平
大分市・
亀塚、御陵
三重町
御陵
日田市
七ツ森B
日田市
 293
赤塚古墳
宇佐市
大分県最古の前方後円墳。三角縁神獣鏡が4枚出土し、同じ形で作られた鏡が、西日本各地の古墳から見つかっている。(4世紀) 免ヶ平古墳
宇佐市
赤塚古墳に葬られた首長の後継者の古墳と考えられる。鏡や石釧・玉類など、多くの副葬品が出土している。(4世紀)

福勝寺古墳
宇佐市
全長約80mで宇佐地方では最大、県下でも4番目の大きさを誇る。(4世紀) 天満2号墳
日田市
 日田地域最大の古墳。埴輪的な用途が考えられる珍しい大型ツボが出土している。(6世紀)
御塔山古墳
杵築市
直径80m近くある九州最大の円墳。4段の段築が見られ、幅12m、長さ5mの作り出し分が設けられている。(4から5世紀) 小熊山古墳
杵築市
御塔山古墳のすぐ北側にあり、亀塚古墳に次ぐ県下最大級の古墳。(4世紀)
御陵古墳
大分市
大分市西部、木ノ上丘陵にあった、前方部がかなり短い前方後円墳。古墳は消滅(5世紀) 道ノ上古墳
三重町
全長73mの大野川流域最大の古墳で、後円部に比べて、前方がかなり小さい特徴を持つ。(4世紀)

 294大分市の古墳分布 ピンボケ

 295復元模型
 小牧山古墳群復元模型 大分市松岡  4世紀
松岡の大野川を望む、小牧山丘陵には、全長約45mの前方後円墳を中心に、3基の方墳、2基の円墳など6基の古墳が築かれているらしい。
いろいろな形の古墳が、並んで次々に築かれている様は、古墳の野外博物館と言える。(4世紀)

小牧山古墳群復元模型 小牧山古墳群


 亀塚古墳墳丘復元模型  大分市里646-1 5世紀初め
 全長116mあり、県下最大規模で西側に四角い張り出し部をもつ前方後円墳。
墳丘は3段に築盛され、後円部中央には、緑泥片岩製の巨大な石棺が納められ、斜面部には石英質の白い石が葺かれる。
墳頂部や張り出し部、各段テラスには埴輪が巡り、特に墳頂部、張り出し部からは家形、楯形埴輪など特殊な埴輪が設置され、
特別な場所であったことが分かる。 (5世紀初め)

亀塚古墳復元模型 葬儀用張り出し 後円部墳頂

※考察 葬儀の手順

 亀塚古墳は祭祀用張り出し部の位置が通常とは逆側だが、遺体を運んで最初に古墳にたどり着いたときに行う儀式の段取りのためか、逆になっている。
 張り出し部で別れや引継ぎの儀式を行い、後円部墳上の竪穴石室に納めて石蓋をし、玉砂利を被せ、居館埴輪・家形埴輪・舟形埴輪を並べ、
そのあとで円筒埴輪を補充して墳頂への進入路を塞ぎ、張り出し部まで戻って通路となった部分にも円筒埴輪を設置し、
張り出し部にはその後、兵舎の埴輪や楯形埴輪・円筒埴輪を並べて防禦と警備、結界をあらわして葬儀は終了したのだろう。

※しかし、これ、前方後円墳や埴輪などは全て生前に用意されていたとしても、死亡から葬儀準備完了までには相当な時間を必要とし、その間遺体は腐敗が進む一方で、一週間の殯の時には既に死に装束にしてあったとしても、猛烈な悪臭と、死体から流れ出る汚物でどうしようもない状態だったのだろう。

 藤ノ木古墳は穴穂部皇子(あなほべのみこ)の墓だが、同時に殺された宅部皇子(やかべのみこ)が脇に合葬されている。どちらも皇族なので、宅部皇子にもそれなりの墓の準備はあったのかもしれないが、誅殺されたためか、大変急いで埋葬されている。そのために残存した骨格や姿勢が明瞭に残っている。


 上ノ坊古墳墳丘復元模型 大分市尾上ノ坊
  全長59m、 後円部径41~44m・高さ5.5m、 前方部幅16m・高さ2.5m の二段構築の前方後円墳です。 造り出し部はありません。
 市尾の標高約50mの細い丘陵先端に築かれた前方後円墳である。墳丘は2段築盛され、亀塚古墳と同じ緑泥片岩製の箱式石棺に、石英質の白い石が葺かれている。前方部は後円部より低く短い特徴がある。
 
上ノ坊古墳復元模型
うえんぼう

 下ヶ迫古墳墳丘復元模型 大分市
 下芹丘陵(しもぜり)の先端に築かれた径約20m高さ30mの円墳。
墳丘中央部には、凝灰岩を板状に加工し、箱型に組んだ石棺(長1.7m幅70cm深さ1.1m)が置かれており、床には玉砂利が敷かれている。
中からは、小鏡(捩文鏡)、鉄剣、直刀、鉄鏃、刀子などが出土している。(5世紀後半)

下ヶ迫古墳復元模型           

 古宮古墳墳丘復元模型 大分市大字三芳字宮畑 7c末~8c初頭
 南面する丘陵中腹に、南北12.45m東西12.15m、南面から見た墳丘の高さ約4.9mの方墳が築かれている。
石室は半地下式に掘られており、これを中心として墳丘が企画されている。(7世紀後半)

古宮古墳復元模型
 

 310王ノ瀬天満宮家形石棺 大分市王ノ瀬1丁目12-17
 明治初年の頃、近くの道路改修の際に発見されたといわれる。
石棺は凝灰岩を刳り抜いてつくっており、屋根形の蓋には各2個の縄掛け突起をもち、棺身の底は丸みをもっている。
長さ2.5m幅1m高さ1mの大きさで、形態は畿内系家形石棺の古式タイプに属し、年代は5世紀前半頃と考えられる。

 王ノ瀬天満社に伝わる畿内系の家形石棺で、付近にあ った辻1号墳(5世紀後半)の主体部であった

王ノ瀬天満宮家形石棺

棺身の底に水抜き穴が開いている。

水が溜まっていた石棺は多いが水抜き穴がある石棺は初見である。
それにしても妙に丸みを帯びた石棺で、長い間、御神体になっていて、人が撫でてこうなったみたいに、丸い。 道路工事で出土したのは、古墳を破壊して道路を拡幅したか、墳丘を土取り場にしたために露出したかのどちらかでしょう。 で、副葬品は盗って、棺は怖いから神社に持って行ったのか、、
悪い行為だな。


 330古の海部の祭り


 332古の海部の祭りの始まり
大在・坂ノ市地区には海に沿って砂の丘が広がっていました。その高さは4mほどで、海部地域の人々は、その頂きで祀りを行うようになりました。
海岸線を前に彼らは何を思い感じたのか、皆さんを古の海部の世界へ誘います。

古の海部の祭りの始まり

 果てしなく続く砂の丘
右の図の灰色で示された範囲に、かつての砂の丘が広がっていました。
縄文時代から古墳時代にかけて出来たもので、海沿いに続いていたことがわかります。
大分市地図 大在・坂ノ市地区

 333並べられたまつりの土器と武器形の祭器
 大分の海部地域の人々が残したものです。海を超え、瀬戸内海沿岸の地域の人々との関りもありました。
砂の丘には様々な形のお墓が造られ、その周りに土器が供えられました。
多くは孔が開けられていたり、一部を割っており、日常では使えないことを意味しているようです。
 銅剣や銅戈など弥生時代の「権威の象徴」も墓地が造られた神聖な砂の丘に埋められており、海部地域の人々が祭りに使用したものと考えられています。

並べられたまつりの
土器と武器形の祭器

大在地区の砂の丘は縄文時代から続く聖なる場所で、祭りに使用された土器が沢山見つかっています。
(浜・長無田遺跡)

弥生時代中頃には砂の丘に銅剣や孔が開けられた土器などが供えられました。
(浜遺跡)

久原地区の砂の丘には大使用の石の棺が並んで造られました。
弥生時代中頃の大人と子供のお墓とみられます。  (久原遺跡)
 334
浜遺跡出土の銅剣
弥生時代の武器形祭器で、砂の丘に掘られた2m程の竪穴に鉾先を重ねた状態で発見されたものです。
坂ノ市地区では石の棺や土器の棺などのお墓が、
ほぼおなじ 場所に重なるように造られました。
弥生時代の終り頃の大きな墓地群です。
(丹生川坂ノ市条里跡)

 335わざと壊して底がない土器 浜・長無田遺跡
共献土器
 

 340古の海部の祭り 3000年前、それは砂浜で始まった。

此の郡の百姓は、竝(みな)、海邊の白水郎なり、因りて海部郡と曰ふ 豊後国風土記
(この郡(こおり)百姓(ひゃくせい)は、みな海辺の(白水郎=)海女なり、よってアマベ郡という)  

くれないに 染めてし衣 雨ふりて にほいはすとも 移つろはめやも 豊後国の白水郎の歌一首 万葉集
くれないに染めた衣は雨に濡れてより一層鮮やかになっても、だからと言って、色が褪せたりはしない。  豊後国海女の歌
 ※あかね染め

重弧文が描かれた弥生時代の壺
久原遺跡

わざと壊された弥生の長頸壷
丹生川坂ノ市条里遺跡
焼成後に孔が開けられた壺
丹生川坂ノ市条里遺跡
弥生時代のミニチュア土器
久原遺跡
口縁部が割られた
台付鉢
丹生川坂ノ市条里遺跡

 350海部のまつりの始まり
別府湾の沿岸に広がる砂の丘の頂には墓が造られ、そのそばに銅剣や土器などが供えられました。
土器にはわざと壊されたものがあり、日常では使えないことを意味しているようです。

海部のまつりの始まり
平石を合わせた墓 砂の丘で見つかった土器
九州では、列車の後ろに小型蒸気機関車を引っ張った、記念列車、これが、鬼滅の刃のコラボ列車だったそうです、を見ましたし、 ななつ星や、その他の九州有特有のイベント列車を何種類も、何度も見ました。半月強の旅行中、1日に2~4回JRに乗っただけでした。車掌に聞くと凄く運がよかったですよと言われました。(笑)

 大分市内に予約したホテルにネット予約の確認をすると、そんな予約は入ってないと、ひどくあしざまに言われました。
しかし、市内ホテルは既に満室。仕方なく、泊まらざるを得なかった、きったない旅館。
超汚く、下水の悪臭で充満した、そのくせ高い旅館の部屋代です。 前日まで泊っていたの老人の加齢臭もチョー臭かった。
17日間の旅行中で最も最悪な一夜でした。
 その後、そのホテルがキャンセル料を引き落としたことを知り、つまり、予約は通っていたのに従業員が嘘を言ったのでした。
これに対して謝罪と返金を要求して再三抗議するも、返金も、従業員の間違いの謝罪もなし。
挙句には、チェーン店が契約しているのに、アゴダ何ぞという外国の会社のことなど知るかと言いやがった。
業を煮やしてAGODAに言いましたら、即返金されました。
 Hotel ×× Oita は本当に信頼のできない無責任でDQNな宿でした。