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 北海道の縄文 №65  2022.06.30
   あっさぶ
  厚沢部町郷土資料館 北海道檜山郡厚沢部町新町234-1
   0139-64-3436 月・祝休 撮影可


館の特徴 双口土器、江差町付近にある撮影可の博物館
交通 ・レンタカー
近隣観光地
近隣博物館
宿泊情報 料理民宿多く高額。私は知内町民宿ユーターンに3日ほど宿泊しました。
厚沢部町
 
 
目次
01外観

縄文時代
100厚沢部町の先史時代
101縄文人の生活
102先史時代のジオラマ
103石器と土器
110石斧
120稲倉石岩陰遺跡
※岩倉石岩陰遺跡
130縄文時代の道具
131縄文時代ってどんな時代?
133縄文の道具
135つまみ付きナイフ
136アシタカのつまみ付きナイフ
137スクレイパー
140双口土器
※双口土器考
150石刃石器
151富里B遺跡
153石刃石核
近代
200館城
220館城と函館戦争
221松前藩居城の移り変わり
230館城の遺物か
240城を築くまでの事情
241蝦夷地各藩の分治地図
243館城
※考察 館城の攻防
245函館戦争Ⅰ
250函館戦争Ⅱ
260函館戦争の道具
261アツシ判官 松本十郎の書
300開拓のあゆみ
 
 厚沢部町 厚沢部町


 01外観

ようこそ
厚沢部町郷土資料館へ


厚沢部に定住者が入ったのは、織田信長、豊臣秀吉が活躍した天正年間の頃で、恵まれた桧山の開発に斧を入れました。桧山地方
以来、数々の開拓物語が語り継がれ、さらには、松前藩館城(たてじょう)築城や箱館戦争があった長い歴史を誇る町です。
現在では豊かな自然環境に恵まれ発展を続けております。

この時に、長い年月をかけ輝ける厚沢部町を築いた、先人の苦労と偉業に感謝するとともに、その発展の歴史を町民の皆様にお知らせいたしたく、
ここに郷土資料館を設立いたしました。

この郷土資料館が町民の皆様の心のふる郷となり、明るく豊かな生活と香り高い文化が融合する郷土厚沢部を創造するための糧となることを祈念しております。
どうぞごゆっくりご覧ください。

 昭和61年1月
  厚沢部町長 久保田武雄

郷土資料館 複合施設 郷土資料室 館内図 ようこそ 館内図
入口展示 ←の写真壁貼り付けの厚沢部町の歩みは
天正~昭和の記述。
スルーしました。
 


  縄文時代


 100厚沢部町の先史時代

101縄文人の生活
縄文人は、海や川に近い丘の上に住居を作り、生活をするようになりました。
目名尻(めなしり)(遺跡)では直径4.5~6mで地面を掘る下げた三軒の小さな集落が発見されています。
また稲倉石のある岩陰遺跡(稲倉石岩陰遺跡)からは、魚の骨や貝殻、鳥や獣などの骨が、石器や土器に混じって見つかっています。

ここに復元したジオラマは、目名尻で発掘した約4000年前の生活の様子です。
縄文人は、土や石、獣の骨、木の枝などを使って道具を作りましたが、中でも「火」は最も大きな役割を持っていました。

目名尻遺跡 北海道檜山郡厚沢部町赤沼町美和
 種別:集落遺跡
 時代:縄文時代後期初頭 約4000年前
 主な遺構:竪穴建物3(直径4.5~6m)

稲倉石岩陰遺跡 北海道檜山郡厚沢部町字峠下
 種別: 洞穴
 時代: 縄文時代後期
 主な遺構
 主な遺物: 土器2679 石器513 骨角器12 動物遺存体2000
 特記事項: 毛皮獣狩猟のための キャンプサイトと 推測されている。

102先史時代のジオラマ
先史時代ジオラマ

厚沢部の先史時代 縄文人の生活 厚沢部町の遺跡分布図 文化編年表

この表の意味が不明

103石器と土器
石臼 擦石と石臼 石臼とは、石皿と磨石のセットをいう。

3~4000年前
縄文後期の土器片


出土遺跡:稲倉石岩陰遺跡
 狩猟のためのキャンプサイトと考えられている遺跡です。
 狭い範囲から、沢山の遺物が出土しました。

稲倉石岩陰遺跡

石囲炉 火起こしの真最中
プレート内容
火をおこす縄文人
円形炉の両端に股木を立て、間に枝木を渡したのは何だろう。
飯盒を架けるためだろうか魚を焙る方法は今も変わらない。

炉内で燃え火だと、又木にかけた横棒は燃え尽きるが、炭火を赤熱した調理ならば、使用可能。

 110石斧
石斧と木片? 磨製石斧 石皿の上に木片のようなもの。
干し肉・干し魚かも。
 
 


 120稲倉石岩陰遺跡 縄文時代後期(約4~3000年前)から晩期(約3~2500年前) 北海道檜山郡厚沢部町峠下(ダムに水没地)

天然の冷蔵庫『稲倉石岩陰遺跡(いなくらいしいわかげいせき)

(うずら)ダムの建設工事中に発見されました。狭い岩影には約1000年間にわたる生活の痕跡が残されていました。普通は腐ってしまう。骨や木の実なども良い状態で残っていました。

縄文時代後期(約4~3000年前)から晩期(約3~2500年前)の岩陰遺跡です。
約1000年間の長期間にわたって使用されたためか、狭い範囲(30㎡)から土器、石器2500点、動物の骨が2000点以上出土しました。
湿度が高く低温に保たれる岩陰の環境が天然の冷蔵庫の働きをして、腐りやすい骨や木の実も残されていたようです。

稲倉石岩陰遺跡

 稲倉石岩陰遺跡の発掘調査
稲倉石岩陰遺跡の発掘調査 発掘調査は、昭和53年に行われました。 奥の方では立って調査することができず、 中腰になって調査が進められました。

 稲倉石岩陰遺跡の出土物
  ※下顎骨が多い遺跡です。食用でしょうか、祭祀でしょうか。それとも獲物処理に下顎骨を抜いたのでしょうか。
イノシシ
肩甲骨・下顎骨
資料名: イノシシ肩胛骨
イノシシの肩の骨です。 いろ いろな部位の骨が出土していることから、一頭丸ごと運ばれてきたと考えられます。

資料名: イノシシ下顎骨
イノシシは、北海道にはいない動物ですが、 縄文時代の遺跡からは骨がみつかります。 本州から運ばれてきたと考えられます。
※その貴重な生贄(いけにえ)動物をなぜここで解体した。盗んで来て隠れて解体して食べたのか?
 クマ中足骨
シカ下顎骨
資料名 : クマ中足骨
北海道で最大の陸獣のヒグマも狩猟の対象となっていたことがわかります。 成獣1体と 幼獣2体が見つかっています。

※中足=足の裏:肉球が大きく、肉厚で、アーモンド型の短い5本の指の跡が特徴です。成人のヒトの足と同じくらいの大きさで、前足は丸く、後足は長く残る足跡が残ります。中華でいう熊の手ですね。

資料名 : シカ下顎骨
シカは、縄文時代の人びとの貴重な食料でした。 弓矢のほか、落とし穴や柵の中に追い込んで捕まえる方法がありました。
 タヌキ下顎骨
資料名 : タヌキ下顎骨
最低、13体の骨がみつかっています。 下あごの骨だけが多く見つかっており、 手足の骨はあまり見つかりません。

※奥尻島でもタヌキなどを儀式用に北海道島から運んで来て下顎骨だけが出土している。頭蓋骨は焼いて脳髄を食べたのか。
 シカ椎骨
資料名 : シカ椎骨
シカの背骨です。 シカは、ほぼ全身の骨がみつかっています。
みつかった部位の数が多く、たくさん捕獲されていたことがわかります。

※鹿の椎骨は、ここで鹿を解体して、軽量化し、捨てる部分を焼いて食べ、椎骨部分が残った。あとは持ち帰った。かな?


 刺突具
  資料名: 刺突具
鳥の骨を利用したと考えられる 突き刺すための道具です。川漁で使われるヤスのような道具と考えられます。 
※うずら川を遡上するサケマスを捉えていたのでしょうか。漁具の部品?
 銛先 離頭銛  資料名: 銛先
ヒモを通す穴がつけられていま す。 獲物にささると銛先だけが 体内にのこります。
ヒモをたぐりよせて獲物をとらえます。

※離頭銛を使うほどの大きな動物が川底にいたのでしょうか。
 そんな巨大魚は2mにもなるイトウでしょうか。

 下のカワウソが鮭を食べに食たのを捕獲したのかもしれません。

カワウソ下顎骨
資料名: カワウソ下顎骨
カワウソは、 現在、日本では絶滅してしまったと考えられます。 タヌキと並んで、稲倉石では多く出土します。
※防水・防寒性の毛皮用途と食用だったのでしょうか。
キツネ下顎骨
資料名: キツネ下顎骨
キツネも下あごが多く見つかっています。手足の骨が見つからず下あごばかり 見つかるのは、毛皮獣であることと関係
があるのかもしれません。
※捉えた小型獣の下顎骨をへし折って、そこから毛皮をズル剥ケしたのでしょうか。
 それとも下顎を神に捧げたのでしょうか。

 ※稲倉石 岩陰遺跡
資料「コラムリレー(第137回)4千年前の食べ物を探しにスーパーへ」では、遺跡出土の骨を検証するために巨大ヒラメを解体して確認し、

「ヒラメ以外にもサメ、マス、カレイ、ホッケ、ニシン等の骨も見つかっています。
また、当時の人が使った道具の中には海獣骨やサメの歯を素材に用いた物も発見されています。
このことから、約4000年前には海辺の人たちが厚沢部町までやってきていたということが伺えます。」と、語っている。

岩陰キャンプサイトで、居住地ではないにもかかわらず、かなりの内陸まで海の魚を運んでいたのに驚きだが、
携帯食として海辺の住人が、魚を持ち込んで調理して食べた。と、同時に、山の動物を狩猟し、毛皮として利用していたのかもしれない。

しかし、動物骨の中にイノシシ骨が混じっているのは、ここで、イノシシ祭祀をしたのか、骨付きイノシシ肉を携帯したのかは分からない。

※こんな山中のキャンプサイトの岩陰で、海の魚が沢山出るのはなんで?生魚で持ち込んだのか、干物で?




 130縄文時代の道具


 131縄文時代ってどんな時代?
 縄文時代は、長い氷河期が終わり、地球が暖かくなった1万年前から2500年前までの時代です。中国大陸や中東では農耕が始まり、文明が形成される時代です。

 日本列島では、豊かな環境を利用した狩猟採集生活が続きました。
これが縄文時代です。自然の資源が豊かになったため、人々は定住して村を作って暮らすようになりました。村を作り、助け合うことによって、人々は今までよりも安定した生活を続けることができました。

厚沢部町内では50カ所の縄文遺跡が見つかっています。


縄文時代ってどんな時代
厚沢部町内では50箇所の縄文遺跡がみつかっています  
 133石器
資料名:石斧
様々な大きさのものがあり、木を切り倒すだけではなく、木工全般に使われたと考えられます。

※石器の大小は、用途に応じた大きさ。


石鏃
  石鏃
資料名:石鏃
縄文時代に出現したもっとも 特徴的な石器です。
矢の先端 に付けられ、 槍にかわって狩猟の主役となりました。

 135つまみ付きナイフ
つまみ付きナイフ

つまみ付きナイフ 資料名: つまみ付きナイフ
スクレイパーと同じ働きをする石器ですが、つまみが付けられていることが特徴です。

縦型ナイフ 横型? 横型ナイフというよりは、現在のエスキモーも使う、女性用のウルナイフと同じです。
ウルは食事の時に使うナイフですが、刃の幅が広く万能ナイフです。

136
アシタカのつまみ付きナイフ
映画 『もののけ姫』 での中で 「つまみ付きナイフ」 と思われ る石器が出てきます。
主人公のアシタカが故郷をは なれるときに幼なじみ ? の 「さ よ」 から贈られた石器です。
のちにアシタカはこの石器を もののけ姫 =サンに渡します。

アシタカのつまみ付きナイフ

 137スクレイパー
スクレイパー
資料名: スクレイパー
皮なめしに使われたのではない かと推測されている石器です。
片方だけに刃がつけられている ことが特徴です。
 
 

 140双口土器 縄文後期
縄文時代後期に作られた土器です。後期になると変わった形の土器がつくられるようになります。

※この双口土器の出自がわかりません。2017年七飯町歴史館で行われた、道南各地の博物館から集めた土器の展示会に出品されています。
 下の写真からはレプリカに見えないので本物。つまり厚沢部町出土のようですが、遺跡名はありません。

双口土器
足寄町双口土器

 ※双口土器考
 弥生時代遺跡からの双口土器を見ていたので、これは大陸騎馬民族由来の文化だと考えていました。
 しかし、縄文後期の遺跡から上記心臓形の双口土器が出土したことに驚きました。そこで調べてみると、
 北海道を始め千葉県でも、長野県茅野市などに多いようですが、それぞれ定型ではない多様な形の双口土器が出土していました。

 更に、縄文時代前期にまで遡るらしい双口土器の歴史を考えると、
例えば北海道はサハリン経由のルートで、本州には、日本海を横断して大陸の文化が渡ってきていたのかもしれないなどと思うのですが、
さすがに太平洋側の千葉県にはどのように来たのかは説明が難しく、

特に茨城県当時は複雑な地形の湿地帯で、迷い込んだら出られないような水郷地帯でした。こんなところにどうやってたどり着いたのか。
やはり、異形土器の一種として各地で自然発生したのではないか。だから、土器型式として定着していないのではとも思えます。 

 黒潮の民が頻繁に列島南岸に文化を残しています。千葉・茨城には南からの伝播とすると、(笑)列島は双口土器文化に囲まれていたことになります。そんなはずはありませんよね。



 150石刃石器
石刃ってなんだろう?旧石器時代後期
石刃は、細長い石の破片です。今から1~2万年前に多く用いられた石器です。
石刃は、わずかに加工を加えて、ナイフやスクレーパーとして利用されました。

石刃技法は、同じ形の石の破片をいくつも作り出すために考え出された技術です。
きれいな細長い破片をたくさん作るためには、高い技術が必要でした。
遊動生活を送る当時の人々は、石材の生産地でたくさんの石刃を入手し、再び旅立っていったと考えられます。

今金町ピリカ遺跡では、良質の石材を利用した石器製作の跡が見つかっています。



AI による概要
石刃石器とは、石刃という細長い剥片状の石器と、それを加工して作られた石器全般を指す言葉です。特に、後期旧石器時代に見られる石刃技法によって作られた石刃は、大量生産が可能で、ナイフ形石器や槍の穂先など、様々な用途に用いられました。

石刃とは:
・石刃とは、石を打ち欠いて作られた細長い剥片のことです。?
・両側にほぼ平行な刃を持つのが特徴で、石刃技法によって大量に作られました。?
・石刃は、そのまま刃として使われたり、さらに加工されて様々な石器の材料として用いられました。?

石刃石器とは:
・石刃を材料として作られた石器全般を指します。?
・ナイフ形石器、槍の穂先(石鏃)、スクレイパー(削器)など、多様な形態の石器があります。?
・後期旧石器時代に発達した石刃技法によって、石刃が大量に生産され、それらが石器の材料として用いられたことで、
 石刃石器という概念が生まれました。?

石刃技法とは:
・石刃を剥離する技術で、石刃を効率的に大量生産することを可能にしました。?
・石刃技法によって作られた石刃は、長さが幅の2倍以上あり、両側縁がほぼ平行なのが特徴です。?
・この技術は、旧石器時代後期にホモ・サピエンスによって用いられ、狩猟技術の向上に貢献しました。?

石刃石器の例:
 ナイフ形石器:
  石刃を加工して作られた刃物で、狩猟や解体作業に使われました。?
 石鏃:
  槍の穂先として使われた石器で、石刃を加工して作られました。?
 スクレイパー:
  石刃を加工して作られた削器で、皮をなめしたり、木を削ったりするのに使われました。?

 石刃石器は、後期旧石器時代の狩猟文化を象徴するものであり、石器の技術的な進歩を示す重要な遺物です


AI による概要

「石刃」は、旧石器時代後期に見られる石器の一種で、細長く、両側に刃を持つ剥片石器のことです。
 石刃技法という、同じ規格の石刃を大量に作る技術によって特徴付けられます。?
石刃(せきじん)とは
細長い剥片石器:石刃は、長さが幅の2倍以上ある細長い剥片のことです。?
両側に刃:石刃の両側には、刃となる鋭い部分があります。?
石刃技法:石刃を作るための技術を石刃技法と呼びます。これは、原石から連続的に縦長の剥片を剥ぎ取る技法です。?
大量生産:石刃技法により、同じ規格の石刃を大量に生産することが可能になりました。?
旧石器時代:石刃は、旧石器時代後期を代表する石器の一つです。?
用途:石刃は、切断用や、槍などの道具の素材として使用されました。?

石刃技法(せきじんぎほう)とは?
剥片剥離技術:石刃技法は、石の塊から縦長の剥片を連続的に剥ぎ取る技術です。
石核:石刃を剥ぎ取るための石の塊を石核と呼びます。?
調整:石核を調整し、剥離しやすい状態にします。?
剥離:調整された石核から、縦長の剥片を剥ぎ取ります。?
二次加工:剥ぎ取られた剥片(石刃)は、さらに加工され、様々な石器として利用されます。

石刃と関連する石器:
・石刃鏃(せきじんぞく):石刃を鏃(やじり)として使用した石器。?
細石刃(さいせきじん):小型の石刃を、骨や角で作られた道具に装着して使用した石器。
尖頭器(せんとうき):槍の先端などに使用された、石刃を加工した石器。?
掻器(そうき):皮革をなめすのに使用された石器。

石刃の歴史:
 後期旧石器時代:
  石刃と石刃技法は、後期旧石器時代に発達しました。?
 日本列島:
  日本列島では、約3万年前から石刃が使用され始めました。?
 世界:
  石刃技法は、ホモ・サピエンス(クロマニョン人など)に見られる高度な石器製造技術です。
 新石器時代:
  石刃技法は、石器の加工技術の進化につながり、やがて新石器時代の磨製石器や土器へと発展しました.



151 富里B遺跡 旧石器時代 北海道檜山郡厚沢部町富里
富里B遺跡は昭和47年に富里の松橋純吉さんによって発見された旧石器時代の遺跡です。当時はまだ、旧石器時代の遺跡の発見数が少なく、注目を集めました。
厚沢部川右岸に貼り出した台地に位置しています。現在は住宅となっています。

資料名:石 刃
 同じ形をした規格的な破片です。 「石刃技法」というつくり方です。 石刃技法は、今から約2万年前に発達しました。

富里B遺跡
石核

 
153石刃石核 参照石核の解説「コラムリレー193 不思議な旧石器時代の遺跡分布
御蔵岱遺跡 北海道檜山郡厚沢部町新栄 旧石器時代
南館町の木村容男さんが畑を耕作朝に巨大な石刃石核を見つけたことから、新しい遺跡の発見となりました。
約7km上流には同じ旧石器時代富里B遺跡があります。

厚沢部川右岸の一段高くなった低い丘陵に位置しています。厚沢部川と支流の館川に挟まれています。

資料名: 石刃石核
 石刃をつくるときにのこる中心部分です。 規格的な破片が叩き出されたため、きれいな円錐形をしています。

御蔵岱遺跡〇
御倉岱遺跡×
石刃石核
御蔵岱遺跡
 


 200館城ジオラマ(たて じょう、日本最後の和式築城) 北海道檜山郡厚沢部町城丘 明治元年(1868)

 ※これはどう見ても陣屋ですね。八戸市立博物館の根城(ねじょう)によく似ています。八戸市立博物館根城は600以降に屋外復元施設を掲示

館城(たてじょう)は、 引用「館城」wikipedia
 明治元年(1868年)、箱館戦争の直前に松前藩により渡島国檜山郡の館(現在の厚沢部町)に建造された日本の城。
 従来の本拠である松前城に対し、新城とも言う。完成直後に旧幕府軍の攻撃を受け、落城した。国の史跡に指定されている。 

築城
 蝦夷地を支配する松前藩は松前城を本拠としていたが、慶応4年7月に起こった正義隊のクーデターにより尊王派に転じた後、旧幕府軍の攻撃に
 備えて、内陸部に新城を建設することとし、9月1日、箱館府に築城を願い出るとともに、工事に着手した。

 松前城は艦砲射撃を受けるおそれがあること、従来の漁業・交易経済からの転換を図るため厚沢部川流域開墾の拠点とすることが
 館城築城の目的であった。

 工事を突貫で進めた結果、10月末には一応の完成を見た。

館城城門 史跡館城 ジオラマ


館城模型
この模型は、藤家文書と館城跡現況実測図を基本資料として、 想定復元したものです。
館城模樣
■表門完全ナル城門ニシテ門柱ニハ銅又ハ美ナル金具付タリ
■門番所長サニ間市九尺ノ建物
■庭園未ダ完成セズ夥多ノ庭石ヲ入レ樹木ヲ集メタリ
■倉庫長サ四間巾二間藩主の貴重品ヲ集メタリ
■本丸柾葺屋根壁ヲ用フ
■米倉内地米ニシテ米上袋ヨリ運搬セラル其数六万俵
■百間堀竪横百間四方 (深サ四尺) 柵ヲ廻シ之八十尺檜丸太ヲ 使用ス

 模型縮尺 S=1/200


館城模型 館城跡現況実測図

 220館城と函館戦争
箱館戦争は、(慶応4年/明治元年(1868年)- 明治2年(1869年))は、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。

松前藩略年表 安東氏管領時代
前松前藩領時代
第一次幕府直轄時代
後松前藩領時代
第二次幕府直轄時代
第二次幕府直轄時代
箱館府・開拓使管轄時代


 221松前藩居城の移り変わり
松前氏の初代、武田信広は、享徳年間(1452~4)頃、上ノ国町の勝山にあった花沢館に入り、その後、館主蠣崎家を継ぎ、その後60年間を上ノ国で過ごしました。この間に花沢館以外に洲崎館・勝山館を築いています。
 ※ある記述で蠣崎氏を柿崎氏と書いていたびっくり。蠣=海のカキ貝。柿=山の果物。ちっとひどいよな。

永正10年(1513)松前の守護職で大館(おおだて)の相原・大原の両氏がアイヌの襲撃にあい戦死し、大館館も落ちたため、
蠣崎光広が大館に移り、徳山館と改名しました。

さらに、慶長4年(1599)第5代藩主慶広が豊臣・徳川氏に従い、蝦夷を治める許可を与えられた機会に松前氏と名乗り、一藩を形成しました。

その後、家督を継いだ、盛広が居城を徳山(現:松前町)に築き、これが福山館となって、慶長11年(1606)から嘉永年間までの230年間を藩の居城としました。

嘉永2年(1849)、幕府は、松前藩にロシアの南下に備えて北方警備を命じるとともに、守りに適した城を新たに建てる命を出しました。
しかし、藩財政が苦しかったため、幕府へは改築することで許しを得、福山館を倍の規模にして、これを福山城(松前城)としました。

松前藩居城の移り変わり
松前藩居城の移り変わり
武田信広 新羅の記録に記された十二の館
花沢館
比石館
原口館
禰保田館
大館
覃部館
穏内館
脇本館
中野館
茂別館
箱館(宇須岸館)
志濃里館(志苔館)

花沢館跡、大館現況図
松前屏風
松前崇広 家系図
松前氏の本国は若狭とある
松前藩使用の蝦夷地図 経験則に基づいて作られた地図だが、よくできている。
必要な部分が大きく詳しい。

 230館城の遺物か?
陣笠×3 盃と藩札
鍔・刀・矢

 240城を築くまでの事情
松前藩は、第14代藩主章広が若くして死去したため、その後4代に渡り藩政が乱れました。
さらに第18代藩主徳広が病身であったことから、藩政の実権は、家老松前勘解由が握り、家老派と藩主派との派閥ができ、2つに別れ激しく対立することになりました。

その対立は、慶応3年(1867)に藩主派の中に正義(しょうぎ)隊が組織され、翌年に家老派を断圧して藩政、鍵を握ることで終わります。正義隊は松前藩を勤王体制へ持っていきました。

戊辰の内乱は、奥羽まで進み、蝦夷地まで及んでくることが必至となりました。そのため、松前藩では城の要害地として不適であった松前を捨て、自然の要害地であった館へ移城を決定しました。

※松前藩の家老派(佐幕派)と藩主派(尊王派)との争いを、藩主派内で結成された正義(しょうぎ)隊(尊王派)の名称が、正議(せいぎ)派と書く
 文献がある。
正義派のクーデターの様子は、松前勘解由wikipediaに概要が書かれている。

城を築くまでの事情 蝦夷地各藩の分治地図

 241蝦夷地各藩の分治地図
蝦夷地各藩の分治地図

北蝦夷地(樺太)

万延元年より仙台、会津、秋田、庄内四藩の警衛となり
文久三年より 仙台、秋田、庄内三藩となる。

安政六年十一月奥羽六大藩に支配地を賜ひ
貝附近の幕 府直轄地を警衛せしむ此図
は万延元年の現況を示す。

元治元年、乙部より熊石に至る地を松前藩に賜はる。

 引用『弘前図書館「分領」と津軽弘前藩』
 幕府は北海道を何も知らなかったので、警護地や領地を割り当てるときに、のちのち力を持たないようにモザイク状に割り当てたようだ。
 派遣された下級武士や、補給にあたった元藩はさぞかし大変だったでしょう。愚の骨頂。しかし、これでもロスケに占拠されなかった。
 よく頑張ったと思います。幕府の愚策の見本です。

 243館城(たてじょう)
館城は、慶応4年(1868)9月1日に着工し、明治元年(1868)10月25日に完成した城です。わずか55日間と言う築城としては、短期間のうちに工事が行われました。この城の設計者は明確ではありませんが、規模は四方百間(一辺約180m)の空壕、土塁などからなる、小さなもので、城と言うより陣屋の形をしていました。

10月29日、第18代藩主徳広は、松前から館城へ向かい、11月3日に入城しています。しかし徳川脱走軍の攻撃が始まり、次第に戦局が悪くなってきたため、12日には江差へ脱出しています。このあと館城は11月15日に、3日前に稲倉石(砦)を落とした徳川脱走軍の攻撃を受け、激しい戦いになり、夕方全滅しました。
現在、館城跡は北海道史跡に指定されています。


※考察 館城の攻防
館城が攻撃された理由は、松前藩内で家老派(佐幕派)と藩主派(尊王派)が対立し、藩主派=尊王派の正義(議)隊がクーデターによって勝利し、
 新政府側(尊王派)であったためです。
 そんな情報が戦乱混乱中の幕末にも関わらず、あっという間に世間一般に拡散していたことに驚きます。情報千里を走る

 また、幕府軍が使用した主な銃は、ゲベール銃ミニエー銃エンフィールド銃スナイドル銃、そしてスペンサー銃
 フランス製のシャスポー銃などです。このうちシャスポー銃はボルトアクション方式のライフル銃でした。弾丸装填簡単射撃精度高し

 しかし、幕府の築城命令で多額の借金を背負った松前藩の装備は、火縄銃程度だったのです。(戦跡地から西洋銃と火縄銃の弾丸が出土)
 しかも、それ以前に領地を取り上げられ、奥州の山中の小藩に国替えさせられ、更にまた、元の領地に戻されたという
 二度の国替えで藩財政が疲弊していた所に築城命令で藩財政は完全に底をつき、町人に寄付募るなどした。おまけに藩内の家老・藩主派の動乱。
 逃亡幕府軍にとっては簡単に殲滅できる対象だったでしょう。

 それにしても、幕府開闢以来営々と続けてきた松前藩の経営は、アイヌから搾り取った高額の産品の売り上げは、
 おそらく完全に御用商人に持っていかれ、何もしない権力だけ振り回すグータラ武士にはあまり富は配分されなかったのでしょう。
 だからこそ、200年もの間にも関わらず、蓄えが武士にも藩にもなく、一朝ことあると、たちまち疲弊して、無能をさらけ出したのでしょう。
 これでは、蝦夷地警備もできるはずはなかったのです。

館城
 
 館城 徳広像
 
館城址     
館城城郭見取り図

 ※館城は、完全に陣屋建築で、室町時代の館そっくりです。
  西本願寺・東本願寺・姫路市亀山御坊といった寺院に付属する居住施設もこれとよく似ており、日本の伝統的大規模木造建築そのもののようです。
 ※巨大陣屋を作って外国船相手に籠城するつもりだったのでしょう。

245箱館戦争Ⅰ
箱館戦争は内地で起きた戊辰の内乱が蝦夷地まで波及して起きた戦いです。
この戦争は慶応4年(1868)8月、旧幕府海軍副総裁、榎本武揚が品川から開陽丸と数隻の軍艦で脱走し、蝦夷地へ向かったことから始まりました。
脱走軍は、鷲ノ木沖(森沖)から上陸して函館五稜郭へ進軍し、官軍と交戦しました。

函館の官軍は各藩の足並みが揃わず、弱小の兵力で脱走軍と交戦しなければならず、苦戦の連続で次々に各陣営が落とされていきました。
脱走軍は11月5日、松前藩の居城であった松前城を落とし、さらに官軍を追い、江差と館城を目指して、進軍し、15日には双方の官軍陣営を落としました。

幕府軍の開陽丸はオランダの最新鋭軍艦でした。これを操船していたのはオランダ人で、船内では豪華な西洋製食器や設備があり、
 オランダ人船長や沢山のオランダ人水夫や厨房スタッフまでが働いていました。
 「発掘された日本列島2017三重会場」では、展示会場入口に目玉展示として、強調展示されていました

※幕末に津軽藩が南部藩に攻め入った時の兵士(武士というべきか)の装束は、室町時代の鎧兜(よろいかぶと)でした。写真が残っていた。
 何百年も平和な日本で、長州征伐にも参加しなかった東北辺境の武士集団の軍事の装備は200年前の伝統の武器武具だったのです。
 これでは新式銃を持った敵とは戦えなかったと思います。

   函館戦争Ⅰ 明治元年脱走軍進攻図
明治元年脱走軍進攻図 
   

 250函館戦争Ⅱ
白兵戦之図
※互いに鉄砲を打ち合っている間は、戦況は膠着状態を意味する。
どこかで総力戦を仕掛ける必要がある。それが白兵戦だ。
一挙に勝敗を決する戦闘行為。

ここで館城の松前藩士は全滅したそうだ。凄い決意だったのでしょう。

   開陽丸
幕府軍艦開陽丸は船長以下乗組員は和蘭国人。榎本らは乗客だった。
江差艦砲射撃図 官軍は英軍艦数隻で
接近
三上超順
力石(ちからいし) 松前藩に尽力し、
函館戦争で戦死
戦死松前藩士の墓   


箱館戦争Ⅱ

松前藩の降伏によって江差、松前地方は脱走軍の占領下となり戦いは終ったように思われましたが、政府は明治元年(1868)11月19日に脱走軍追討令を発令しました。このため官軍各藩は青森に集結しますが、冬が間近いことから、春を待ち出陣することになりました。

翌年の4月に官軍は青森を出航して乙部へ上陸しました。
官軍側は、初めに幕府軍の占領下にあった江差を攻撃し、幕府脱走軍から街を取り返すことに成功しました。

続いて(うずら)山道の二股や松前口へ向かった官軍は、脱走軍陣営の堅い守りのために苦戦をしますが、軍艦の援護(艦砲射撃)によって勝ち進み、函館五稜郭まで進軍しました。
この戦いの決戦は5月11日に始まり、五稜郭を陣営にしていた脱走軍が降伏して終りました。

※この戦況説明は…。きっとむかしはこういう説明の仕方で、講談師が見てきたように語って、大盛況したんでしょうね。

松前戦争Ⅱ
英軍艦の後方支援
8隻の英軍艦
1隻の和蘭軍艦では間に合わない
函館攻囲戦初期の略図
江差(砲)台場 大筒の図 榎本武揚と土方歳三 明治2年5月11日
官軍函館総攻撃の図

 260函館戦争の道具


火縄銃
銃身とさく杖
さく杖:銃身に火薬を押し固め弾を押し込む杖
漢字見当たらない
さく
銃剣
銃剣は白兵戦で使用
弾丸,砲弾,弾薬盆
コルト拳銃,印籠
指輪入れ


261アツシ判官 松本十郎の書
荷簑荷笠 立於隴畝
彎弓執矢 能遂群雀
当路縉紳 不愧哉否

 供山田大人之一噱 腕力農松本十郎
 腕力農松本十郎

荷簔荷笠(かさかりゅう) 隴畝(りょうほ)に立ち
彎弓(わんきゅう)執矢(しつや)  よく群雀(ぐんじゃく)をおう
当路(とうろ)縉紳(しんしん)  ()じざるや(いな)
 山田大人(やまだうし)一噱(いっきゃく)に供す
 腕力農松本十郎

蓑と笠をつけて畑に立っている案山子は
あの弓矢で雀の群れをうまく追い払っている
重要な地位にある人たちはこの案山子に恥じることはないのだろうか
 山田氏の大笑いに供す
 腕力農 松本十郎


致人の開拓使出仕と七重官園(農事試験場)
山田致人は明治8年に開拓使に出仕しました。 開拓使任官は明治11年までの3年間でしたが、 この時に同じく開拓使の役人だった松本十郎や榎本武揚と親交 があったと考えられます。
開拓使時代の致人は七重官園での勤務 が多く、この経験が後の厚沢部入植につながったと考えられます。


「アツシ判官」松本十郎
松本十郎は明治2年から明治8年にか けて開拓使に任官しました。
千島樺太交換条約に伴い樺太アイヌの強制移住に反対し、樺太アイヌの生活を守ろうと奔走します。
しかし、強制移住 が強行されたことから憤慨した松本は開拓使を辞して故郷に帰りました。

アツシ判官 松本十郎の書 「アツシ判官」松本十郎 「アツシ判官」松本十郎
漢詩 致人の開拓使出仕と七重官園 「アツシ判官」松本十郎
 
 300開拓のあゆみ
開拓のあゆみ 林業のあゆみ 大野への道 畑作のあゆみ
稲先のあゆみ
暮らしのあゆみ
商業のあゆみ 学校教育のあゆみ 厚沢部高等学校