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目次
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01奥尻ドライブ
02賽の河原
03研修センター外観
100第1展示室
110縄文時代
111縄文文化展示
112縄文時代の食
113旧石器 旧石器時代 |
114縄文時代の奥尻島
116漁撈
120墓所前地点
123異形石器
130山の幸を捕る道具
140つまみ付きナイフを作る
150砥石遺跡発見の巨大墓地
160祭祀跡
170生活道具 今と昔
173原材料と完成品 |
200縄文土器
220縄文時代早期
230縄文早期土器
310青苗遺跡
320縄文時代中期
330円筒土器
351縄文時代後期
353縄文後期土器
357縄文晩期土器
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第2展示室
400続縄文時代
410土器に見る続縄文
420石器
430オホーツク文化
440オホーツク式土器
460擦文時代
465擦文土器
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第3展示室
480青苗貝塚
貝塚ってなんだ
490青苗貝塚の自然誌
510製鉄遺物
530須恵器
533土師器
535装身具
540井戸
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ホール
700民具・農具 |
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はじめに
旧稲穂小学校跡を稲穂ふれあい研修センターとし、空き教室に設置された資料館は成立年代が古く、更に様々なものが詰め込まれてかなり荒れています。
それは、この館が、成立時から、さわれる展示館として、計画され、運営されてきたからでしょう。
しかし、展示物の盗難などはなく、ふつうに展示物の閲覧ができます。
信州伊那谷でもありましたが、古い展示館では再整備がなかなかできず、また、学芸員も諦めがちで荒れるに任せてあります。仕方ないことです。
さて、奥尻津波館の考古展示は館の専門外で、展示が少なく、しかも、詳しい解説もなく、曖昧模糊とした展示で、奥尻島の時系列が不明です。
また、誰もが注目する、粛慎(オホーツク人)が北海道西部の拠点として暮らしていた奥尻の考古遺物がほとんどなく、遺跡の位置すら曖昧です。
全ては、「青苗遺跡」として表現され、詳しい遺跡名や、遺物の出土遺跡名も、例えば、青苗砂丘遺跡の外れの和人墓も、青苗遺跡とされていたり、
詳しいパネルもない実情では、この稲穂ふれあい研修センターの「奥尻町歴史民俗資料館」の展示はとても大切なものと思います。 |
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01奥尻ドライブ
奥尻ドライブ 巨大な海岸段丘が |
 島の成り立ちである。 |
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奥尻島の地質
AI による概要
奥尻島の地質は、白亜紀から第四紀の堆積岩や火山岩が分布しています。
海岸部では、花崗閃緑岩や火山岩、火山砕屑岩などが露出し、風化や浸食によって様々な奇岩を形成しています。
これらの奇岩の原岩は、年代層序学的資料や放射年代測定値に基づいて、
➀白亜紀(1.45億-6600万)の花崗閃緑岩、
②新第三紀中新世(2300万-500万)の火山岩・火山砕屑岩・貫入岩、
③鮮新世(533万-258万)の火山岩・火山砕屑岩・貫入岩の3層準に区分されます.
基盤岩:
奥尻島の基盤は、先第三紀の花崗岩類で構成されています.
新第三紀の地層:
新第三紀の地層は、火山砕屑岩や安山岩質溶岩などを多く含み、島全体に広く分布しています.
奇岩:
海岸線には、風化や浸食によって形成された奇岩が点在しています。
これらの奇岩は、花崗閃緑岩、玄武岩、安山岩、ドレライト、石英ひん岩などが原岩となっています.
米岡層:
奥尻島の西海岸に分布する米岡層は、後期中新世から鮮新世にかけての地層で、
珪藻土質シルト岩や輝石安山岩質ハイアロクラスタイト(火砕岩)などで構成されています.
地質構造:
奥尻島は、渡島半島全域と同様に、グリーンタフ地域に属しており、新第三紀の海底火山活動によって形成された火山岩や火成岩類が
分布しています.
段丘:
奥尻島には、海岸段丘が発達しており、特に南部では湖水堆積物を含む粘土層が厚く堆積しています.
地質構造との関係:
南部の寺屋敷面は、褶曲運動や断層の影響を受けており、段丘面の高度変化に現れています.
※AI解説の意味が解らない。
要約すると、
白亜紀などの古い堆積岩の上に、海底火山の活動により形成された、先第三紀の花崗岩類や、
新しい第四紀火山灰などが堆積して形成された島であり、
隆起の地殻変動によって、海岸段丘を形成しながら、海底からせりあがってきたようだ。
島には熊とキツネがいないことから、狩り尽くされたか、これらが分布を広げる以前に隆起していたかである。
一説によると5億年前に隆起し、数回の火山活動を経て離島になった、地質・海底地形・植物分布から想定される。とも云われている。
要するに、上記地殻変動で盛り上がった島にマグマが貫入してきて、火山活動が起こり、堆積岩の上に火山が覆う島となった。
また、利尻島には、北海道本島からヒグマが泳いで渡って来たが、奥尻島では、(海流などで)渡れなかったのだろうか。
奥尻島火山の勝澗山は第四紀の火山です。流紋岩を噴出します。特徴は粘度が高く流れにくいことです。
植生はブナを中心とした冷温帯林です。 現在の動物相は、タヌキや野生化したハクビシン・ミンクが棲息しており、かなり危険です。 |
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02賽の河原 奥尻島稲穂崎、賽の河原公園 奥尻町稲穂崎
賽の河原
奥尻島最北端にある
鎮魂の場所。 |
 美しく整備されて
売店もある |
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かつて与論島の風葬の海岸で憑依されたことがある。
知らずにここに入った時も、ゾッとするものを感じてすぐに出た。 |
賽の河原案内図 |
案内図を何かに印刷して、木製の板に貼り付けた仕様ですが、印刷台紙が経年劣化のために縮んで真ん中から引き裂け、
は茶色の地肌が現われています。この広場は怖かったので奥まで行きませんでした。
奥には土産物屋。沢山の石積、卒塔婆のような標柱が立っています。
奥尻津波の時も、水死者の捜索はまずこの海岸で行なわれたことから、遭難者が流れ着く場所かも知れません。
ただ、武田信広一行は1454年に嵐で青苗地区に漂着したそうです。その後賽の河原で法要を行なったそうです。
すると、1454年以前から「賽の河原」があったので、成立理由や成因はわからないのでしょう。 |
 経験があるので、こんなところに近づくのは |

コリゴリと思った。自分では気づかないが |
 私は憑依されやすいらしい。 |
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北海道シリーズ最後の思い出
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奥尻町奥尻の民宿で車を借りて稲穂研修センターに行く途中、景勝地のような場所に立ち寄りました。入口付近では何でもなかったのですが、車を進めて.、奥に見える売店に近づこうとすると、背後(背中)に冷たいものを感じました。重く冷たくたまらなく嫌な感じ。
これは、20年以上前、与論島の墓場の海岸に踏み込んだ時と同じ感覚でした。記憶は一瞬で甦った。
これ余談なんですけど、随分以前、東京の有名私立大学の「探検部」が与論島の洞窟墳墓に入って風葬され、布袋に入れられた人骨を取り出して、
投げたり壊したりして遊んだ。ところが彼ら墓荒らしのメンバーは、他の部員と共に定期船で帰ろうとすると、突然騒ぎ出し、離岸した船から
飛び込んで島に戻ろうと、パニック状態に陥り、他の仲間に押さえつけられ、監禁されて事なきを得た。しかし、意味不明の言葉をつぶやき続け、
暴れるので、東京に帰るとすぐに精神病院に入れられたという。
私も知らずに同じ海岸に風景写真を撮りに行った。道路から海岸に入った途端背後に得体のしれない冷たいものを感じ、背後を一切見ないで、
撮影して帰ってきた。宿に帰ると老夫婦と孫がエントランスに座って女将と談笑していた。夜になると民謡酒場に行ってライブを楽しんで寝た。
深夜に目が覚めると、子供の泣き声がする。私の上の階からで、ベッドから飛び降りたりする物音も聞こえる。夜泣きだな。
翌朝、乗る予定の飛行機が天候悪化で欠航し、宿を通じて近所の旅行代理店に代替え便の空席を探してもらっていた。
それには、長時間掛かるので、テレビを見ながら、あいそ話で「昨夜は子供の夜泣きで老夫婦が困ってらっしゃったようですね。」と話すと、
何の話?と、聞かれるので、夕方見かけた孫連れ老夫婦の話をすると、あの夫婦は、すぐに旅立って昨夜の宿泊はあなた一人でした。
それにこの宿は夜には宿泊客以外はみんな帰ってしまいます。近所にも小さいお子さんはいません。ホテルに泊まっていたのはあなただけ。
「いや何のことでしょう。夢ではないし、私はその時トイレにも行きました。寝ぼけていません。」
女将「…‥‥」「あなた昨日○○海岸に行きましたか。あそこは風葬の海岸です。」「時々知らずに入って、連れて帰ってくる人がいるんです」
かつて、小さな島には火葬場がなく、昭和30年代まで、死体は海岸の砂に埋めて風葬し、骨は集めて袋に入れて、崖に掘らせた穴に収める。ある時、流行病で大量の死者が出て、この海岸は、腐敗を待つ死体でいっぱいになり、近くの集落は悪臭ふんぷんであったそうな。
やがて女将が「お払いします」と言って、外に連れ出し、背中に呪文を唱えながら塩を振りかけ、終わると、その塩を包んで、
これは○○な塩です。ここを出て行っても何かあったら、この塩で自分でお祓いしてください。と行って頂いた。
飛行機の空席を待っている間中、ほかにすることもないので、長時間玄関ホールでTVを見ていたが、後ろから女将がずっと監視していた。
やはりあの○○大の学生の件があったからだろう。警戒していた。
その後、飛行機便がとれ、那覇に帰った。霊的な異変は起こらなかった。私も女将に話さなければ、それが霊現象であることも知らず、何事もなく帰っていたのかもしれない。しかし、もしかすると、帰路の飛行機の中で探検部の学生と同じことをしていたかもしれないし、何事も起きなかったかもしれない。まぁ、飛行機が欠航にならなければ知らなかった事実である。また、女将の警戒から、この不思議島では多々ある霊現象かもしれない。
その後、沖縄の摩文仁ヶ丘でも、同じ感覚を感じたので、私はどうやら、憑依されやすいのか、霊を感じやすいのかもしれない。
研修センターの学芸員にゾッとする感覚がした。あそこは何ですかと尋ねると、観光地です。是非行ってくださいと云われ与論島の話をした。
実は、これ以前に、塩尻でも宿に私一人で泊まったことがある。二泊目は女将にこの話をして、宿泊をお願いした。怖いですからね。
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03研修センター外観
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100第1展示室
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110縄文時代
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111
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縄文文化展示 (約8000年~2500年前)
海の幸、山の幸に抱かれて
縄文時代、人々は、大自然の恵みを受けて暮らしていました。
海で魚や貝を捕り、山では木の実山菜を採り、様々な道具や家、衣服に至るまで自然の恩恵を受けてきました。
当時の人々がこうした自然に感謝し、その思いを豊かな造形で表現していることがわかります。
※奥尻島には縄文早期、約8,000年前から人が住み始め、多くの遺跡が残っている。 |
縄文住居に入るイメージを演出。 |
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縄文文化展示
上に記述 |
資料館紹介の新聞記事
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➀北海道新聞(夕刊) 2016年9月2日(金曜日)
列島トピックス
「触る展示」が好評
@名古屋
陳列台に並ぶ土器や装飾品の間に「PLEASE TOUCH」(どうぞ触って)と書かれた紙。 名古屋市昭和区の南山大人類学博物館が始めた「触る展示」=写真が好評だ。常設展示ほぼ全てを手に取ることができる。
視覚障害者にも楽しんでもらおうと2013年から始めた。評判が口コミで広がり、年間3千~4千人だった来館者数は昨年度に1万人を超えた。
来館者は展示品を傷つけないため腕時計や指輪を外して入場。展示品に同じようなものが複数あれば定期的に入れ替えて劣化を抑えたり、学生が見回ったりして、管理に注意を払っている。
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②北海道新聞(夕刊) 2018年(平成30年) 6月18日(月曜日)
稲穂ふれあい研修センター=奥尻町 |
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じかに触れる縄文土器
奥尻港フェリーターミナ ルから車で海岸に沿って北上し、最北端の「賽の河原公園」を過ぎて間もなく、閉校した旧稲穂小の校舎を活用した施設に着く。島の生活や歴史にまつわる資料を幅広く展示する。
管理する町教委の学芸員垣森太さん(35)は「奥尻の全てが分かる」と胸を張る。
フロアに入ると、展示品がびっしりと並ぶ。 中高年には懐かしい昭和の茶の間が再現され、ちゃぶ台には けん玉 ダイヤルを回す古いテレビが目を引く。たんすや食器、鍋などすべて島内で使われていたものだという。実物の磯舟が置かれ、イカ釣り道具、漁網などのほか江差と結んだ古いフェリーの手作り模型もある。
お気に入り
見どころ満載だが、稲垣さんのイチオシは直接触ることができる島内で出土した縄文土器だ。「土器の重みや厚み、重さは触らないと分からない。 でも壊さないように触って」と稲垣さん。縄文土器をじかに触る
ことができる施設は全国でもかなり珍しいらしい。
青苗遺跡から出土した貴重なヒスイの勾玉は奥尻島津館に展示されているが、センターでは稲さん指導の下、手軽に勾玉づくりを体験できる。材料費500円が必要だ。
入館無料。開館は10月末までの木曜日と土曜日のみ 開館時間は午前9時半~午後4時半。 問い合わせ は町教委01397・2・3890へ。(藤本陽介) |
資料館の新聞記事 |
写真➀
土器を手に取る男性
写真②
奥尻島の生活や歴史など島をまるごと理解できる稲穂ふれあい研修センター |
奥尻島の遺跡
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112縄文時代の食
縄文時代の食 |
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113旧石器 旧石器時代
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旧石器時代の遺物
これは白滝出土のもので北海道埋蔵文化財センターの厚意で寄贈を受けたものです。
奥尻島には旧石器時代の痕跡は発見されていません。 |
※参考展示、白滝産黒曜石だが、この島では、頁岩が採取される。頁岩製石器が一般的ではないか。
※毎年見学に来る小学校の社会科見学用に、旧石器時代があることや、使用された黒曜石製の石器を見せることが必要なのでしょう。
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114縄文時代の奥尻島
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豊かなブナの森と豊富な海の幸に育まれた
奥尻島は、8000年の歴史を誇る島です。特に、
今から6000年~5000年前は青苗に大きな集落がありました。
そこでは木の実をすり潰す道具である北海道式石冠を大量に使う文化が栄えていました。それはまさに森の恵がもたらした繁栄でした。
※6000-5000年前は縄文前期で、縄文海進によって温暖な気候が堅果類の森を広げました。
※堅果類を中心にした食生活。大きな動物は早々に狩り尽くして、木の実を重用した。ドングリ・クルミ・ブナ・ハシバミかなぁ、、、
※遺跡は当初北部に集中し、この稲穂付近が遺跡の中心でした。 |
山の幸を採る
北海道式石冠 堅果類が沢山実っていた時代(縄文温暖期)
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山の幸(木の実)を加工する諸道具 |
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北海道式石冠
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北海道式石冠
木の実をすり潰す道具 |
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叩き石 |
北海道式石冠 |
北海道式石冠 |
たたき石と窪み石
堅果類を割るセット
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石斧
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石斧
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この長大な石斧は未使用品かな。
使用すると研いだり刃こぼれしたりで、だんだん短くなる |
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116漁撈
海の幸を採る |
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浜での潮干狩り風景 |
奥尻島の潮干狩りは
アオヤギ(桜貝)が採れるそうです。
アオヤギは関東では一般的。関西では知らない。関西ではバカガイという。いつも口をあけているらしい。 |
勇壮な縄文の漁 |
離頭銛・釣りの仕掛け |
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石錘 |
食物残渣 |
魚骨 |
熱を受けた海獣骨
海獣の骨付き肉を
焼いて食べた |
海獣骨いっぱい |
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120墓所前地点 擦文時代 擦文土器多数出土 墓所前三叉路地点地図
墓所前地点には(古墳期~平安時代1400~700年前、古代の)小貝塚がありました。
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121
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発掘前の町道分岐点 |
墓所前地点第2号竪穴 |
発掘現場 |
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123装身具と異形石器
※いわゆる異形石器は、渡島半島最南端の遺跡でかなりメジャーです。博物館によっては、単に石器としてのみ表記されたりしています。
いずれも、かなり高度な技術で作られており、本当は何だったのでしょう。
また、これらは各遺跡で作られたのではなく、よく似た形状なので、既製品が出回ったのではないかと思われます。
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130山の幸を捕る道具
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掻器
獣皮をなめす道具 |
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石鏃
製作途中か |
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石槍

骨角製銛頭の先端に |

挟み込んで海獣狩猟に |

使用する道具 |
石鏃

奥尻島の古代動物 |

アシカ・アザラシ・鹿 |
石鏃は一回使用で破損する。完形鏃は予備用 |
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140つまみ付きナイフを作る 6000年前の匠(縄文時代)~
➀原石:川原や海で拾う
奥尻特産の頁岩を使用 |
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②叩き割り:使える破片をより分ける
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③手頃な破片を素材に |
④形を整える |
⑤調整し刃部をつくる |
⑥つまみ部を作り完成 |
つまみ付きナイフ |
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150砥石遺跡発見の巨大集団墓地 (603基検出) 4500年前(縄文中期末から後期初頭)
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縄文中期後半には、地球的規模での寒冷化が始まり、奥尻島では、堅果類の収穫が困難となり、北海道石冠の出土も減少し、食糧難の時代となる。人々は食糧を求めて活発に移動し、奥尻にも各地の文化集団が複数渡来した。
奥尻空港改良工事で発見された砥石遺跡は、603基もの集団墓地で、様々な地域から来た様々な集団が共同で使用したと見られる。
東北地方では縄文後期に始まる環状列石などの墓前祭祀を伴う共同墓地が、より北の奥尻ではすでに縄文中期に始まっていた。
異なる集団が共同使用できたのは、言葉が通じたのだろうか。
集団墓地の開墾・造成・整地など共同で行わない限り、共同使用はできない。彼らは交易の民であるが多言語ではなかったはず。
だいたい当時の交易は互いに非接触の沈黙交易だったから、言葉はいらなかった。
(「沈黙交易」については、新典社新書61「瀬川拓郎 アイヌの沈黙交易 ―奇習をめぐる北東アジアと日本―」を参照されたい)
だが、何らかの方法で意思統一し、共同墓地を集落から離れた場所に作ったのだろう。本州の縄文の墓は、住居の傍が多い。これ臭いからね。
食糧難で餓死者続出の時代、どの集団でも死体累々だったはず。海をさまよってやっと青苗の狭い場所を手に入れたのに、
以後使用不可となる墓穴を掘ると、ますます住む場所を失う。だから、共同で使える墓地を、離れた山中に作ったのだろうか。
ボディーランゲージで言葉をつないだのかもしれない。
各集団の持つ葬送の風習や儀礼、墓前祭祀などは共同で行なったと云われているのだが、そうだろうか。
引用「遺物・遺跡」
※それにしても物凄い数である。603基の墓坑。狭い島に人があふれ、飢餓に陥って大量死したのだろうか。
(しかし、この島は、暖流が流れる島。周囲では漁を獲って食いつなげたはず。)
寒冷地では冬季の死者は土壌凍結のため埋葬不可で、5月になってから一挙に埋葬したのか(合葬墓)、冬前に墓穴を掘っていたのだろうか。
※墓地の詳細については全く情報がない。副葬品も不明。異集団が共同使用ならば、埋葬方法や骨角の違い、DNA検査など行なったからの結果か?
異集団と云うからには、少なくとも葬法に違いが認められたものと考えられる。
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奥尻島 砥石遺跡とは
AI による概要
奥尻島砥石遺跡は、北海道奥尻島にある縄文時代中期(約4,500年前)の遺跡です。
この遺跡からは、集団墓地が発見されており、当時の島民の生活や文化を知る上で重要な遺跡とされています。
詳細:
・時代:縄文時代中期
・場所:奥尻島、現在の奥尻空港付近
・特徴:
・集団墓地が発見された。
・様々な場所から来た人々が共同で使用していた。
・厳しい時代を乗り越えるための祭りが行われた場所と考えられる。
・意義:
・縄文時代中期の奥尻島の生活や文化を知る手がかりとなる。
・異なる地域から来た人々が、集団墓地を通じて結びつき、共同体を形成していた可能性を示す。
AIの下の記述は砥石遺跡のことではありません。
・発見の経緯:
・青苗遺跡の発掘調査中に発見された。
・青苗遺跡は、奥尻島最大の遺跡で、縄文時代早期から擦文時代後期までの遺構・遺物が出土している。 ・勾玉やガラス玉、水晶玉なども出土している。 |
・発見の経緯
・砥石遺跡は青苗空想拡幅工事で発見されました。
奥尻島砥石遺跡は、縄文時代の奥尻島の歴史を物語る貴重な遺跡です。
集団墓地の存在は、当時の人々の生活や社会構造を考察する上で重要な手がかりとなります。 |
※共同墓地の建設では、土地を平坦に整地し、沢の流れを変えて建設されたのか。ジオラマにはは603基もの土壙墓は表現できないだろうが、
まだまだ、余裕のある墓地用地です。縄文中期の、他に例を見ない、巨大墓地遺跡ではないでしょうか。日本最大ではないか。
※ただ、この墓地は、春から秋にかけて草刈りを頻繁に行わないと、埋もれてしまいます。きっと毎月(太陰暦)決まった日に手入れしたのでしょう。
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※説明がないが、以下の「160祭祀跡」の展示は、砥石遺跡の墓坑、祭祀具、副葬品を展示したものの様です。
160祭祀跡 砥石遺跡
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こころの文化の発達
縄文時代、自然の恵みに生きた人々は、海や山に対する感謝と恐れの気持ちを強く持っていました。
人々は海や山が豊かであることを願い、それを様々な造形に刻みました。またその願いはモノだけではなく、様々な社会制度の発達を促しました。
砥石遺跡で見つかった共同墓地遺跡は、祖先を祀ることで、先人に学び、よりよく生きようとする気持ちの表れといえます。 |
祭祀に用いられた石器たち
祭祀用石器 |

窪み石状の石器 |

火皿状の石器 |

円形の円形窪み石 |

大きな石器。司祭の道具だろうか。 |
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170生活道具 今と昔
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今から約8000年も前から奥尻島で栄えた縄文文化。
この時代、人々は自然にある石や粘土、木などの材料を使って様々な道具を作ってきました。
今使われている道具のルーツとも言える道具達が、現在の道具に負けない機能を持って使われていました。
今回は、今の道具と縄文時代の道具を比較して展示し、そこから古代人の生活の知恵に迫ります。 |
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171
生活道具の今昔 |
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石台

台石のことか |
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石斧
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たたき石 |
石匙・つまみつきナイフ
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石錐
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石錐
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土器
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173原材料と完成品
原材料と完成品 |
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原材料と完成品 |
北海道式石冠 |
原材料と完成品
クジラ骨と銛頭
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銛頭
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200縄文土器
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210第1展示室のうしろの半分は縄文土器の展示です
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縄文時代早期
220奥尻の歴史
奥尻の歴史は約8000年前から
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奥尻島に認められる人の痕跡は今のところ、約8,000年前のものが最古です。
そこからは貝殻を押し付けた文様の土器がたくさんに見つかっています。 (8000年前 貝殻圧痕文土器)
石器は漁網に使うと考えられる石の錘が多く、この頃の人々も漁業に関わって暮らしていたようです。(漁網用石錘) |
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奥尻の歴史は8,000年前から
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縄文早期前葉の石組炉
青苗遺跡
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縄文の施された土器、使い始める~約7000年前 縄文早期 (7000年前 縄文土器 松江式土器 松江遺跡)
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この頃、地球規模で気候が温暖化し、それに伴い生活スタイルも大きくを変更しなければならず、それに伴い縄目の模様の施された、
いわゆる縄文土器が使われ始めるなど、新たな文化が興りました。
食生活も海に依存した生活から、山の幸に重きを置く生活に変わり始めます。 |
縄文土器の始まり
約7000年前
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縄文早期中葉の
土器出土状況
青苗遺跡 |
縄文早期中葉の土器
復元状態
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縄文早期の住居跡
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縄文前期の土器 約7,000~5,500年前
縄文前期
松江式土器
松江遺跡
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この土器を画像検索すると、同様の土器が東アジアにも、日本にもたくさんあることが 分かりました。
だいたい、縄文前期の土器の系統に属するようです。 |
円筒形の土器を使い始める 約5,900年前~約4,000年前 (縄文前期中葉~中期中葉)
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この時代になると、東北地方の文化、円筒土器文化の影響を受けた土器が盛んに使用されるようになります。
当時、海の勇者がいて、丸木船一つで、風を頼りに海峡を行き来していたのでしょうか。
しかし反面、極めて長い円筒形のものなど、奥尻島独自の文化的特徴も現れます。
外来文化を積極的に受け入れながらも、独自にそれをアレンジしていたようです。
石器は木の実をすり潰す道具が大量に出土し、森に大きく依存した生活があったようです。 |
青苗遺跡の円筒土器文化
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奥尻島の円筒土器文化の遺跡で代表的なものは青苗遺跡で、現在の墓所のあたりを中心とした地点です。
この遺跡は奥尻島を代表する遺跡で、この時期の住居址や
莫大な量の土器や石器を葬った祭りのあと(土器塚)も発見されています。
また沢を中心とした地区には、数多くの北海道式石冠と言う石器が出土している場所も見つかっており、奥尻のみならず、北日本の縄文時代を代表する遺跡として有名です。 |
円筒土器を使い始める |
青苗遺跡の
円筒土器文化
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230縄文早期土器 約7000年前 松江式土器
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奥尻島 松江遺跡
AI による概要
※AIの記述は間違いが多いので、ご注意ください。
松江遺跡は奥尻島にある縄文時代の遺跡で、ここで出土した土器は松江式土器と呼ばれています。
松江式土器は、縄文時代中期から後期にかけての土器で、特に円筒土器上層式土器と関連が深いとされています。
松江遺跡:
奥尻島にある縄文時代の遺跡で、多くの土器片が出土しています。出土した土器片の総数は12,281点にのぼり、すべて縄文時代のものです。
松江式土器:
松江遺跡から出土した土器の総称で、縄文時代中期から後期にかけての特徴を示します。
円筒土器上層式土器:
松江式土器の中でも、円筒土器上層式土器と関連が深い土器が含まれています。
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円筒土器 約6000年前~ 縄文前期 円筒下層式土器
縄文前期約6000年前
青苗遺跡 |
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縄文前期約6000年前
青苗遺跡
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300土器
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310写真
6千年間作られ、使われ続けた縄文式土器 (8,000年前~2,000年前まで6,000年間)
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縄文時代の文化の華とも言える縄文式土器。
これは、当時の人々が食べ物を煮たり、貯蔵たりした生活道具でもあります。
しかし、時代が下がるにつれて、神様に供える専用の土器なども発達してきて、バラエティー豊かになっていきます。 |
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青苗遺跡、祭り場の
土器出土状態
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6千年間作られ、使われ続けた縄文式土器
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青苗遺跡、祭り場の遺物出土状態
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青苗遺跡、祭り場の
遺物出土状態 |
青苗遺跡
住居跡群 |
青苗遺跡
土器出土状態 |
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縄文時代中期
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320円筒土器 約5000年前 縄文中期 円筒上層式
円筒土器上層式 |
円筒土器
約5000年前 |
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円筒土器
約5000年前  |
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330円筒土器の数々 縄文中期
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円筒土器は、平底で筒形の土器で、どっしりと安定感があり、食物の貯蔵に適しています。 |
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これは下の項目 |
縄文中期土器
約5000年前
青苗遺跡
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土器に刻まれた文様 縄文中期 約5000年前
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縄文土器を見て、誰もが感心して見入るこの文様。
これは、モノをきれいに飾りたいという気持ちのほかに、
文様そのものが、内容物を、悪霊など邪悪な力から守るという役割が信じられていたようです。 |
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340 土器に刻まれた文様 縄文中期 約5000年前
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縄文土器を見て、誰もが感心して見入るこの文様。
これは、モノをきれいに飾りたいという気持ちのほかに、
文様そのものが、内容物を、悪霊など邪悪な力から守るという役割が信じられていたようです。 |
土器に刻まれた文様
縄文中期
約5000年前
青苗遺跡 |
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縄文中期
約5000年前
青苗遺跡
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| 350 |
351縄文時代後期(40000-3000年前)
心の文化の発達、~3500年前
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この時代、共同墓地を作る伝統は全道にひろがり、ここ奥尻でもさらに発展しました。宮津地区の東風泊遺跡では、幾つかの墓が発見され、そこからは見事な文様を施した土器が丸ごと惜しげもなく埋葬されているのが確認されました。
共同墓地の文化は、自然と自分達の祖先について思いを馳せます。同時に子孫についても思いを巡らせます。
こうした“こころ”のあり方が島の縄文文化をより豊かにさせていったといえるのです。 |
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縄文時代のすまいと
家族団らん
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青苗遺跡 住居群
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青苗遺跡 住居群
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心の文化の発達、
~3500年前 |
縄文時代後期の土器
下に記述 |
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353縄文時代後期の土器
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今から3500年前になると、土器を焼く技術も向上し、より薄い土器を作るようになりました。
また、紋様も立体的なものよりも、細い棒で繊細な文様を描くのが流行しました。
また、器の形も様々なものが作られるようになり、実用品のほか、
祭りなどに使う特殊な土器も登場しました。
宗教、芸術などの精神文化の発達が垣間見えます。 |
縄文時代後期の土器 |
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左から土器➀②③④と
します |
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円筒下層式土器
土器③の詳細写真はありませんが、
円筒下層式期土器かと思います。 |
土器③円筒下層式 |
円筒上層式土器
円筒上層式
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土器➀②は後期土器とされていますが、画像検索の結果、同等の土器が
青森県中泊町博物館(引用文最下)にあり円筒上層式とされています。
このような土器デザインが東北北部から道南や島嶼部にも波及していたようです。 |
十腰内式土器 縄文後期土器
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355縄文後期土器
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356縄文後期土器 約3500年前 東風泊遺跡
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縄文後期土器
約3500年前
東風泊遺跡
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ミニチュア土器 |
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炉で燻した土器です。
煮炊き用ではなく、
口縁部の形から湯沸しにしか使えない甕です。 |
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これは磨り消し縄文の
典型例でしょうか。 |
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土器底面にこのような文様があるのは、儀式用の精製土器でしょうか。
丸底の浅鉢と言うべきでしょうか。 |
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357縄文晩期土器 約3000年前 青苗B遺跡 (3000-2000年前)
再び海と共に生きる時代に~約3000年前
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この時代、暖かかった気候が大きく寒冷化し、再び生活スタイルを変えなければならなくなっていました。
再び海に多く依存する生活が始まりました。
青苗B遺跡では、カサゴやアイナメなどの魚の骨、海獣の骨が出土した地点が7カ所も発見されています。
青苗B遺跡遺跡と上ノ国式土器
青苗B遺跡の土器は、“上ノ国式”と呼ばれるものが出土しています。その質・量ともに、本場、上ノ国のものよりも多く、ここ青苗がその本場であったようです。
つまり、上ノ国式土器の標準遺跡は、奥尻島青苗B遺跡ですが、対岸の上ノ国遺跡で先に発見され、命名権を取られちゃったようです。
※上ノ国式土器とは、横S字文から発展したラフな羊歯状文や爪形文、刻目文などがあり、晩期前葉末に位置づけられている。引用「札幌市図書館」 |
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再び海と共に生きる時代に~約3000年前

海び⇒海と |
晩期土器
約3000年前
青苗B遺跡 |
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口の広い鍋が現われ、
煮炊きがしやすくなった。
いや、生活様式と食物の変化、に寄るのだろう。
食習慣や食物に便利な形の土器が使われる。 |
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上ノ国式土器文化
AI による概要 ※AIの記述には間違いもあります。
「上ノ国式土器」は北海道函館市を中心とした地域(主に道南)で見られる、縄文時代後期から晩期にかけての土器様式です。
この地域の土器は、厚手で比較的簡素な作りが特徴で、他の地域の縄文土器とは異なる独自の文様や器形が発達しています。
特徴
地域性:
北海道南部を中心に分布し、その地域性と文化を色濃く反映しています。
器形:
厚手の土器が中心で、独特な器形や注口、把手などの付属物が観察されます。
文様:
波状文や条線文、隆起線文などの文様が施され、複雑な文様が発達したものもあります。
製作技術:
他の地域では見られない独自の製作技法や道具が使われたと考えられています。
歴史的背景
縄文時代後期から晩期にかけての文化として、北海道の気候や生活様式に適応した土器が発展しました。
同時代の他の地域の土器と交流しながらも、独自の文化を形成し、縄文時代の多様性を示す重要な要素となっています。
まとめ
上ノ国式土器文化は、北海道南部の縄文文化を象徴する土器文化です。その厚手の土器、独特の文様、そして地域性に根ざした製作技術は、
縄文時代の多様性と地域の個性を理解する上で貴重な情報源となります。
補足
「上ノ国式土器文化」は、北海道の縄文時代の土器文化の一つで、北海道の先史時代文化を理解する上で重要な位置を占めています。
この土器は、厚手で簡素な作りが特徴であり、特に波状文や条線文、隆起線文などの文様がよく見られます。 |
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第2展示室
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400続縄文時代
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410土器に見る続縄文文化 青苗B遺跡
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この時代になると、様々な地域のタイプの土器が出土するようになります。
各地域との海を介した交流が、縄文時代より活発になっていることがわかります。 |
青苗B遺跡の出土物
道央:日高地方に多いタイプの土器 青苗B遺跡
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道央:日高地方に多いタイプの土器
青苗B遺跡
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土器に見る続縄文文化 
上に記述 |
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道北地方に多いタイプの土器 青苗B遺跡
※考察 奥尻に来た人々
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※人の動きが流動化し、活発になったのか、不安定になったのか、
奥尻島に日高から舟で来た:
石狩低地を横断ルート:勇払川を遡り、ウトナイ湖を経て千歳・恵庭から千歳川に入って石狩川に出て、積丹半島を南下して来たのか、
津軽海峡逆走ルート:噴火湾を横断し、恵山岬から激しく流れる津軽海峡を逆走し、松前に出て奥尻に来たのか、随分と無茶な旅だったと思います。
道北から舟で来た:
当時も今も、稚内から西海岸は、砂丘地帯の不毛の地。誰も住むことができなかった。したがって、
オホーツク沿岸から宗谷海峡まで北上し、稚内を過ぎると水場も少ないので充分な準備をして、風を待って対馬暖流に逆らって一気に南下する。
天塩川の淡水が北流するのにぶつかるとやっと飲み水が得られる。北流する沿岸流を乗り切って積丹半島神威岩をまわると、奥尻まではまだ遠い。
こんな苦労してまで奥尻に来るには、飢餓から逃げてきた。交易の中継点を確保したかった。とか考えられる。
日高や道北の移住者たちも手ぶらで移動してないはず。コンパクトで高価値の交易品を持って来て、それを交易しながら旅をしただろう。
と、想像しました。
土器の土は青苗B遺跡のものか、日高や道北の土なのかは説明されていませんが、~~タイプとされているので、土は奥尻のものかも知れません。 |
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420石器 青苗B遺跡 続縄文時代
石器のいろいろ
青苗B遺跡 |
石槍 |
先端が折れた石槍。穴のあいた石槍。
これは使用済み石槍で、石器は、きっと一回使用の使い捨てだったのでしょう。
先端の穴に革紐を通し、骨角製銛先に挟んで獲物に突き刺し、石銛だけが体内に残る。
紐の後ろには、動物の膀胱や皮袋、などの浮袋をつなぎ、衰弱して浮かんでくるのを待った。
これは、エスキモーの海獣狩猟と同じ方法であり、人々に血縁的繋がりがあるかは別として、
よく似た狩猟法は環境が似ているからでしょう。 |
石ナイフ
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こんな形状の現代のナイフを見たことがある。
上部を握り、垂直に立て、先端の刃部を厚手の乾燥した皮革に当てて引きながら切る。
皮革製衣服の製造に使っていたのかもしれない。へら形ナイフでしょうか。 |
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石器の色々
青苗B遺跡

何んの石器でしょう |
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スクレイパー
皮なめし |
矢尻
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※考察 奥尻を取り巻く環境の変化。
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上記410「各地域との海を介した交流が、縄文時代より活発になっている」の表現は、奥尻島は海を介さないと交流ができないので、ここでは道内各地域との交流が取り上げられています。この喫緊の情勢の前に、少し広げた見方をします。
東アジアの人の流れ
縄文後期から始まった地球規模の寒冷化は、徐々に東アジアの情勢に変化を与え、中国大陸で遊牧民の南下(侵略略奪)を契機に、畑作農耕民が南に押し出され、これがひいては、中国大陸各地で食糧獲得を巡って戦乱が始まり、多くの農耕民や、武装難民が南・西・東へと進出して、民族の流動化が始まった。
かつて、日本列島への半島経由の渡来民の状況を調べたことがありましたが、半島や大陸で何か事変が起こるたびに列島に難民が押し寄せたことが分かりました。
半島を小舟で出発し、壱岐対馬に到達するも、追い払われ、北部九州に到達し、また、そこから対馬海流に乗って日本海沿岸を北上し、
未利用地の湿地を見つけて、運が良ければ、水田を開いて集落を営み、土着できた集団もいた。
半島渡来人の多くは、半島南部の海賊行為を行なう漁民で、舟を操りながら、日本海航路をうろついて、先に来たものは上陸して土地を占拠し、後から来たものは、各地を荒らしまわっていたのかもしれない。
やがて略奪品などを交換して食糧を得るなどする中から、共通言語のいらない沈黙交易などに発展し、列島周辺もこのような強盗・殺人を生業とする海賊漁民によって、強奪・殺人と交易などで活発化・不安定化したのだろう。(青谷上寺地の虐殺、妻木晩田遺跡の海浜からの避難)
現代人の考える交易とは全く異なる手法での物品の獲得は、やがて、北海道にまで達し、本州地方にない珍品を見つけると、たちまち、
北海道の特産品を手に入れようとする交易者や、移住者の侵入。これによって以前から交易のあった東北北部地域との人流も活発化しただろう。
奥尻への人の流れ
さて、日高と道北の移住者の場合は、非常に移動困難な旅を続けてやってきました。目的地を決めて来たのか、偶然たどり着いたのか。
どちらも激しい潮流に逆らいながらやって来たので、意思を持って、ここに到達したのでしょう。交易をしながら飢餓から逃れるためだったと
考えても差支えないのでしょう。
まとめ
気候寒冷化による広範な民族の移動によって人類活動が活発化し、奥尻をはじめとする北海道や列島の、人の移動も活発化し、交易か、略奪か、詐欺かによる物品の流通が激しくなった。飢餓から逃れるために移動し、奥尻にやって来た集団もいたのだろう。
と思う。
活発化とは、明るいイメージだが、強盗・殺人・略奪・土地の独占支配・占拠が激しくなることも活発化というのだろう。 |
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※資料 続縄文時代の鉄器
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続縄文時代の鉄器の獲得のための行動 引用「土器と墓制から見た北東北の続縄文文化」 文書によると、鉄器の獲得は続縄文文化に おいて重要な行動の一つでした。特に 後北C2・D式期には、鉄器が象徴的財から 実用財へと移行し、
交易の目的として鉄製品の獲得が挙げられています。鉄器の獲得は、広域交易を通じて行われ、続縄文文化人は鉄器を含む金属製品を求めて南下し、古墳文化圏との接触を深めました。
また、鉄器の獲得は単なる物資の交換に留まらず、続縄文文化の経済基盤や社会構造にも影響を与えました。
鉄器の実用化により、石器の使用が減少し、生活用具の変化が進んだことが指摘されています。
さらに、鉄器の獲得は、続縄文文化人が古墳文化圏との関係を強化し、交易ネットワークを拡大する要因となりました。
※この場合の古墳文化圏とは東北地方北部や越後地方のことです。 |
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430オホーツク文化 約1,500~800年前 (5~13世紀) 古墳時代~平安時代
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オホーツク文化がやってきた!
サハリン起源の北の海洋民が奥尻にやってきました。
彼らは、アシカやトドなどの海の獣を捕るのが得意な民で、南方の国々と交易をしたがっていました。 |
オホーツク文化の骨角製品
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オホーツク文化がやってきた!
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オホーツク文化の
骨製銛 |

銛と銛頭(銛を刺す台) |

右の銛先を刺すソケット。刺されば銛が抜ける |

銛の根元に穴があり、紐を結んで獲物に繋がっている |
肋骨か |
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魚大魚の椎骨か |
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クックルケシ(帯留め)
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➀シカ角をつかった中央に小孔をあけた円盤形角器である。外側縁に連続鋸歯文、その内側に3重の同心円をほどこす。側面には2条の溝をつける。
裏面は自然のままである。文化財オンライン
②礼文島浜中遺跡出土の青銅製円盤について クリールアイヌの帯留(クックルケシ)の祖形との関連。全国文化財総覧
③イルカ類の骨をつかった骨器である。左右は鋸歯状になっており、上端には小孔をあける。表面には中央に華文状のモチーフを連続して施しており、その左右を鋸歯文でうめている。裏面は自然のままである。装飾付板状製品
※どこかで聞いたクックルケシを調べていたらそうだ、帯留めだ。そして、ところ遺跡の館で出て来たんだ。自分のHPが出てきた。記憶力最悪! |
クックルケシ
青苗砂丘遺跡 |
クックルケシ |
Uフレイク
使用痕ある石片 |
左端:使用痕(欠けた)
石器
Uフレイクとは抉りのこと。U字形切り欠き |
オホーツク文化の石器 |
石鏃 |
アシカの骨
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カワウソの頭骨
祭祀用持ち込み品
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※オホーツク文化の石鏃は、銛先鏃が多いのではないか。オホーツク文化では別に骨鏃があり、陸上動物に骨鏃、海棲動物に銛先用石鏃(銛先鏃)
ではないか。
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440オホーツク式土器
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AI による概要
オホーツク式土器は、オホーツク文化を特徴づける土器で、主に北海道のオホーツク海沿岸や千島列島などで出土します。
特徴的なのは、口の広い壺形や甕形で、細長い粘土紐を貼り付けた装飾文様(ソーメン状貼付文)や動物モチーフが見られることです。
オホーツク式土器の特徴:
・器形:口の広い壺形や甕形が一般的です。
・文様:粘土紐を貼り付けた装飾文様(ソーメン文、ソーメン状貼付文)が特徴的です。動物モチーフが用いられることもあります。
・色: 一般的に暗黒色を呈します。
・分布:北海道のオホーツク海沿岸、千島列島、樺太(サハリン)南部などで見られます。
・年代:5世紀から9世紀頃のオホーツク文化の時代に作られました。
・製法:比較的低温で焼かれています。
オホーツク文化と土器:
・オホーツク文化は、擦文文化とは異なる生活文化を持っていました。
・オホーツク文化の人々は、独自のオホーツク式土器を製作しました。
・擦文文化の人々は、縄文土器の流れを汲む擦文土器を製作しました。
・オホーツク文化と擦文文化は、北海道で8~9世紀頃に出会い、その後、両文化の特徴を併せ持つトビニタイ土器が作られるようになりました。
・トビニタイ土器は、擦文土器の器形にオホーツク土器の装飾文様を施したものが特徴です。
・オホーツク文化の終末期には、擦文文化の影響を受け、住居や生活様式も変化していきました。
その他:
・オホーツク式土器は、モヨロ貝塚などの遺跡から多数出土しています。
・オホーツク式土器は、展示や体験講座などで見たり、作ったりすることができます。
・オホーツク文化の土器は、研究対象としても重要です。
関連情報:
・【オホーツク文化と土器】 - ADEAC: https://adeac.jp/sapporo-lib/text-list/d100010/ht200310
・国指定史跡常呂遺跡(トコロチャシ跡遺跡群) - 北見市: https://www.city.kitami.lg.jp/detail.php?content=13275
・ところ遺跡の館展示案内:オホーツク文化 - 北見市: https://www.city.kitami.lg.jp/administration/education/detail.php?content=8245
・オホーツク文化(5~9世紀)と擦文文化(7~12世紀): https://www.akarenga-h.jp/hokkaido/jomon/j-05/
・オホーツク土器:オホーツク文化の全て!: https://shijimibaka.com/blog/?p=964 |
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441オホーツク式土器 約1300~1100年前 青苗砂丘遺跡
刻文系土器(7世紀頃)
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オホーツク式土器 |
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オホーツク式土器
約1300~1100年前
青苗砂丘遺跡
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443オホーツク式土器 約1300~1100年前 青苗砂丘遺跡
十和田式土器 (5~6世紀)
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445
※ご存じのように、北海道西海岸のオホーツク式土器には、貼付文期・ソーメン文期はありませんでした。
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460成人女性の人骨 南からの文化 約1200~800年前 青苗砂丘遺跡(オホーツク文化の遺跡)
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※人骨に関する記述はほぼない。
土壙のない仰臥,足首交差,腹部上で手を交差,被り甕なし。埋葬遺体らしい。他にも歯が出土しているらしい。
北海道東海岸でもオホーツク式埋葬は土壙がなかったように思う。 |
青苗砂丘遺跡 |
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青苗砂丘遺跡の人骨
オホーツク文化期 |
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青苗遺跡
成人女性人骨 |
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銛頭
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青苗砂丘遺跡2 道立埋文センター 重要遺跡確認調査報告書 表紙絵2003
銛頭のスケッチ。この上に鉄か石銛をはめ込んで海獣を狩猟する。 |
オホーツク式土器
刻文期
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青苗砂丘遺跡2
道立埋文センター
重要遺跡確認調査報告書
表紙絵2002 |
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擦文時代 約1,400~700年前 (7~13世紀) (奈良・平安・鎌倉時代)
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465擦文土器 約1200~800年前の土器 青苗遺跡出土
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471
擦文時代
約1200~800年前の
土器
青苗遺跡 |
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473
擦文時代
約1200~800年前の
土器
青苗遺跡 |
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第3展示室
擦文時代
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480青苗貝塚
貝塚ってなんだ 資料青苗貝塚の骨角器 擦文時代 約1200~800年前
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貝塚は、昔の人が食べた、貝を始めとする 様々な食べかすを捨てたゴミ捨て場だと思 われています。
ところで、青苗貝塚のある場所を見てみましょう。青苗市街地ならばどこからでも 望むことができる、台地の上に位置しています。
あれ、おかしいぞ。我々ならば、ゴミ捨て場をそんな、どこからでも望める、目立つ場所に設置するでしょうか。
本当に貝塚はゴミ捨て場なのでしょうか。 実は、貝塚とは、昔の人たちが、食べ終えたもの,道具なら使い終えたものを葬る、 墓地のような場所だったのです。昔の人た
ちは、貝を始めとする、生き物や道具でさえ、人間と同じような「こころ」をもつと考えていました。そうした生き物や道具を葬 り、とむらうのが貝塚だったのです。貝塚を、
貝捨て場と言わず、貝塚といっているのはこうした意味があったのです。
貝塚の存在から、古代人が自然を敬い、ものを大切にして生活していたさまが、分かりますね。 |
貝塚の出土状況
貝塚の出土状態写真 |
貝塚の出土状態写真
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貝塚サンプル |
ニホンアシカ骨角
ニホンアシカの脊椎骨 |
ニホンアシカ骨盤
腕輪にするカサガイが混じる |
青苗貝塚の復元
ホタテ貝は無傷 |
ニホンアシカの肋骨
穴開きあわび殻が混じる |
アワビの貝殻
多くのアワビ殻に穴があいている |
ホタテガイ
ホタテ・アワビは穴の無い貝殻 |
青苗貝塚
魚骨の出土状況
かなりの大型魚の骨 |
青苗貝塚
魚骨出土状況
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青苗貝塚
ウニ殻などの出土状況 |
青苗貝塚
ウニ殻
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| 以下は、青苗貝塚から出土した遺物のようです。 |
490青苗貝塚の自然誌
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擦文時代、青苗の人々は、豊かな海の幸を活用して生活してきました。
その様子は、青苗貝塚からは、当時の人々が様々な海の生き物を食用や道具作りの材料に利用したことがわかります。
ここでは、青苗貝塚から出土した海の生き物の遺体から、当時の青苗の棲んでいた生き物を紹介します。 |
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青苗貝塚の自然誌
骨角材料
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右端2本が鹿角
他は海獣骨 |
青苗貝塚の動物遺体
魚類
カサゴ類の骨各種
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ホタテ貝
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二枚貝の仲間では、貝塚から比較的多く発見される。
海底の砂浜に棲息。海中を漂う養分を、濾し取って栄養にしている。
※松浦武四郎の『西蝦夷日誌』では、アイヌの言い伝えとして、奥尻島のホタテガイが、貝殻を帆のように立てて風に乗って集団で海面を移動したと言う話が載っている。 |
ヒメエゾボラ(ほつぶ)
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巻貝の仲間では、アワビ類の次に多く発見されている。
浅海の岩礁地帯や砂浜など、様々な場所で生息する。二枚貝など他の生き物を襲って食べる。同じ仲間では、珊瑚礁でオニヒトデなどを食べるホラガイが有名。 |
エゾアワビ
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青苗貝塚で最も多く発見された生物。
食用のほか、加工品にして島外に出荷していたらしい。 貝殻にはヤスで突いた跡が見えるものもある。
浅海の岩礁地帯に棲息し、岩の上に張り付く藻などを食べている。
原始的な特徴を持つ貝で、 同じ仲間に、数億年前からあまり形を変えない、生きた化石、 オキナエビスガイがある。 |
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500擦文時代の鉄の生産と流通
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501
※困惑 今頃、北海道で鉄の生産を行なっていたなどと云われても
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沖縄写真通信は北海道シリーズで64~5館の博物館を掲示してきました。しかし、最後の最後の土壇場で、それまで北海道での鉄生産の言及は一切なかったのに、道南の最南端で、
「いや、恵山地域で砂鉄を製鉄し、鋼を精錬していた。大鍛冶場もあり小鍛冶場で鉄製品も作り、やがて修理する野鍛冶もいた。」
なんて、今頃言われたら、全て、ちゃぶ台返しじゃないですか。
これまで北海道は鉄の輸入を前提に考えてきたのだから、いまさら、もう取り返しがつかない。
北海道と鉄の先入観
これまで、北海道では、ヤマトから交易で鉄器を入手していた。と云われていて、東北北部から鉄の流入が意図されていた。
ですから、北海道は鉄製品の生産や鉄に関わる技術とは無縁で、本州からの製品流入に頼っていたと印象付けられていました。
だから、まれに、北海道のどこかで、フイゴの羽口や鉄滓が発見されても、それは、野鍛冶の痕跡だろうとの印象だった。
しかも、野鍛冶は、和人(東北エミシなど)か、それに技術を教わった北海道蝦夷の活動だろうか程度にしか思っていませんでした。
恵山における鉄生産
それが、北海道続縄文時代の代表、恵山文化は、恵山式土器だけではなく、東北北部から来た東北エミシ(和人というべきか)によって始められた
鉄生産やその精錬で鉄器材料を生み出し、北海道の続縄文・擦文文化に深く関与していたことも明らかになりました。
下北半島の先端から、渡島半島南部へ渡って来た製鉄職人の舟が、行き着いたのが恵山岬で、そこで目にした黒い砂鉄の海岸。
早速、竪型炉で鉄の生産を開始したとしてもおかしくはない。黒い砂を水を張った桶に入れてかき回せば底に溜まるのは砂鉄。
炭焼きは当時からあっただろうから、赤土と石で竪型炉を作り、乾いたら下に木炭を押し込み、下から火を付けて上から砂鉄と木炭を振り込む。
箱形炉のような複雑な手順は不要。やがて、炉底いっぱいになった不純物を穴をあけて流し、その後、ずく(銑鉄)を流し出し、
最後に炉上部を壊して、けら(鋼)を取り出せれば、実験成功。
恵山で鉄の生産が開始されれば、新たな市場が開拓され、高価だった三陸産の鉄よりも安価で大量に供給できたことだろう。
奥尻島の鉄精錬
奥尻津波館の記述に、「青苗遺跡ではくず鉄を集めて精錬し」とあったのは本当で、道南を始め、北海道にはかなり古い段階で鉄器が導入され、従って野鍛冶や精錬炉(大鍛冶場)の知識もしっかり持っていたそうです。ですから、古鉄・錆び鉄・それに原料鉄などの、再生用のくず鉄はあったんだ。
今のところ、恵山地方に鉄生産工房。奥尻島に鉄精錬工房があった。それ以外の鉄生産情報は聞いていない。
ではこれを行なっていたのは誰だったんだ。やはり東北北部や三陸から来た東北蝦夷だったのでしょうか。
三陸の製鉄情報 https://www.iwate-maibun.jp/wp/wp-content/uploads/2014/10/warabite129.pdf
東北地方の 弥生時代の鉄生産遺跡
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502
北奥における古代の鉄器について(抜粋)引用
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5~6世紀に東北地方で製鉄が始まる。太平洋側の文化が発展する。
7~8世紀に全国に鉄生産技術が移植され地方における鉄生産が飛躍的に増大する。
阿倍比羅夫の北方遠征の際に、北方世界が鍛冶などの加工技術を有していたことが日本書紀にある。
7世紀後葉に福島県浜通り地方で大規模な鉄生産が開始される。導入期は箱形炉。
8世紀前葉の多賀城設置では、製鉄炉・炭窯・鍛冶炉など鉄関連コンビナートが形成される。
製品は城柵や北奥地方(東北蝦夷)の有力者層に供給された。(この時小鍛冶の技術が移転された。)
7世紀前後からの終末期古墳群に副葬された蕨手刀・直刀・鉄鏃、武具・馬具、があり、
蕨手刀は信州が発祥の地であるが、各地域で独自に作られ、北海道・東北地域でも作られた。
9世紀(平安時代前期)
三陸沿岸部で8世紀後葉頃鉄生産が開始された。この地域は律令支配が及んでいない地域なので、東北蝦夷側の鉄供給源であった。
9世紀後葉(平安時代中期)9世紀末~10世紀中葉
日本海側の米代川下流域に製鉄・炭窯・須恵器窯が一体となった複合コンビナートが形成される。
五所川原須恵器窯群の操業。
9世紀中葉から、陸奥出羽から多数の住民が逃散するようになる。
9世紀後葉~10世紀後葉には、秋田・能代・米代川流域の村々が反乱。※これらの住民は東北北部に逃げ込んで人口が増加した。
津軽・八甲田山北西麓・梵珠山麓・岩木山北麓で鉄生産が始まる。
この地域の鍛冶遺構には土鈴(工人集団の儀礼)、錫杖状鉄製品(神仏習合の儀礼)を伴う。
五所川原産須恵器は、北奥から北海道全域を流通範囲に念頭を置いた操業形態であることが知られている。
この頃陸奥湾太平洋ルートでの交易体制に転機が訪れ、北海道への鉄素材・鉄器流入が本格化したと考えられる。
9世紀後葉を画期とした急速な集落増や各種生産活動の進展によって、鉄需要が大幅に伸び、
それに対処するための鉄生産・鍛冶技術の拡散拡大と、職能集団の顕在化、海峡交易の拡大等、各分野の変革が相乗的に進展した時期と
位置付けられる。
10世紀後葉(平安時代後期 10世紀後葉~11世紀中葉)
この時期津軽海峡を交易の軸とした交易圏が顕在化する。
陸奥湾・太平洋ルートに対し、岩木川・日本海ルートも隆盛となり、 鉄素材や鉄器も北海道にもたらされたものと考えられる。
北海道への鉄器流入に関しては、津軽地方が大きくかかわっていた。
米代川中上流~岩木山麓において、棒状鉄器や鉄鍋の破片などを利用して鉄器の生産を行っていた。
奥尻島でも同様に行われていた。
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※鉄の交易模式図は、鉄の含有する微量成分で交易先を分けたものです。
道南西部と奥尻は岩木川流域圏・岩木山麓で作られた鉄が流入していたようです。これらの交易圏には強い掟があったのかもしれません。
※ということで、奥尻に運ばれた鉄(製品・棒状鉄器・素材・くず鉄・銑鉄)は、恵山の鉄ではなく、岩木山麓の鉄で、併せて五所川原窯の須恵器も持ち込まれていました。。
鉄の交易模式図
古代の交易模式図10c後葉~11c
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503焼山遺跡の製鉄炉 引用「岩手県立埋蔵文化財センター所報(№129)平成26年2月28日」
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焼山遺跡 (山田町) の製鉄炉
焼山遺跡は、JR船越駅と山田道路との間に挟まれた、 南東に開けた谷の北側斜面地に位置しています。
写真は、古代の製鉄炉です。 炉の直径は約60cm, 円形に掘り込まれています。 底には鉄滓が付着しています。 左側にはフイゴから空気を送り込むための羽口が見えます。羽口の太さは約8cmあり、
先端が炉内に出るように 設置されています。 当時の製鉄炉 (下図: 想像図) は中から鉄を取り出すために、ほとんどが壊されますから、このように羽口が操業当時の位置をとどめた状態で出土することは珍しいと言えます。羽口の設置位置や角度など、この製鉄炉は多くの情報を私たちにもたらしてくれます。古代から続く岩手の鉄文化の謎に迫る貴重な資料です。 |
古代製鉄炉の仕組み

製鉄作業想像図 |
➀製鉄炉には炭と砂鉄を入れて、燃焼 させ、羽口から空気を送って温度を高 め、還元作用で鉄分を取り出します。 砂鉄を産出する宮古、山田周辺では、 製鉄遺跡が多く見つかっています。
②中にできた鉄を取り出す時に炉の地上の部分が壊されます。焼山遺跡で見つかった炉は地下構造だけが残っていました。 |
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※製鉄炉・精錬炉
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東日本の製鉄炉は、当初は全て箱形炉でした。これは近江地方の指導によるもので、西日本の鉄生産地から導入したものでしょう。
その後、関東地方から扱いやすい竪型炉が導入され、これにとって代わりました。 |
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510製鉄遺物 (擦文時代)
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三陸地方の昔の製鉄風景 ふいご、羽口、溶鈜炉
“ふいご”は皮でできた袋で、袋を押しつぶし、中の空気を炉の中に送り込みます。
※箱形炉。出雲地方と同じです。新潟県柏崎でも、三陸地方でも初期には箱形炉が使われ、やがて竪型円筒炉に変わります。
竪型炉は一回にできる鉄の生産量は少ないのですが、生産が簡単で、毎回作り直すのに手間のかかる箱形炉に比べ簡単でした。
※道南の製鉄炉:恵山地域で行われていた製鉄ですが、恵山でも、奥尻島でも、竪型炉だったのでしょう。
三陸地方や下北地方から伝わった技術であれば、竪型炉です。 擦文時代には箱形炉から竪型炉に変わる時期でした。
※奥尻の精錬炉:産地から得た棒状鉄素材やくず鉄・古鉄などを、海産物と交換して、簡便な竪型炉で鋼にしました。
※タヌキの皮を使ったフイゴは初期のものですが、この操作の様子を描いた図は初めてみました。高温度になった「たたら炉」の傍では大変消耗する作業だったでしょう。普通は炉とフイゴの間に戸板を立てて熱をふさぐのですが、それが描かれていません。 |
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毛氈の部分にも展示品があったのでしょう。 |
製鉄製品 |
昔の製鉄風景
三陸地方
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鉄滓 |
昔の製鉄風景 |
フイゴの羽口 |
青苗遺跡
鉄製錬跡の遺物出土
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鉄精錬とは、銑鉄やくず鉄から鋼を取り出す工程を意味し、野鍛冶の前の段階です。
野鍛冶はフイゴと炉を用いて鉄を高温にし、整形や貼付などをすることです。
しかし、上記の鉄滓は、三陸の製鉄図と出ており、出土地もないことから、三陸のものかも。
すると、左の鉄関連遺物は野鍛冶のものかもしれません。遺物はフイゴだけですから。 |
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紡錘車
鉄の入手や加工がたやすくなると、紡錘車も鉄製になりました。この変化には大きな利点があったのかもしれません。
紡錘車は、 繊維から糸をつむぎ出す道具で、繊維の端を棒の端に固定し、 本体をくるくる回転させることで繊維をねじり、糸を作りだします。
撚糸の工程でしょう。 |
紡錘車 |
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530須恵器 ~約1,000年前の陶器 米岡5遺跡出土
須恵器とは
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土師器文化の時代、素焼きの土器である土師器のほかに、登り窯で焼かれた“やきもの”も登場しました。これを須恵器といいます。
須恵器は後の陶器のルーツとなる焼き物です。
五所川原須恵器窯群は、当初より、北海道や北東北全域を視野に入れた窯業コンビナートでした。 |
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531須恵器
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須恵器とは |
須恵器
約1,000年前の陶器
米岡遺跡
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米岡5遺跡 |
奥尻空港遺跡出土の
須恵器 |
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533土師器
土師器 |
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535装身具
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丁字頭勾玉、水晶玉、ガラス玉の本物が展示されています。
青苗津波館でも丁字頭勾玉が展示されているので、これらの宝飾品は複数あったのでしょうか。
ガラス玉はさすがに相当に風化していますが、それ以外は奈良飛鳥時代の輝きをとどめています。
※丁字頭勾玉。これはきっとレプリカでしょう。ガラス製のように見えます。 |
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537土製品
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土製の宝飾品は死者への副葬品ですから、これら土製の勾玉、鏡、玉は、やはり対粛慎戦争で死亡した、ちょっとだけ階級のある兵士の副葬品かもと考えました。 |
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540井戸
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青苗遺跡で発見された“井戸”
井戸は一般的に農耕社会に多い貯水施設です。本州ではごく普通に発見されますが、北海道ではほぼ唯一の例です。
板材に本島(渡島半島)にしか分布しないヒノキアスナロ材を用いています。
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井戸に使われた木材(板材)
ヒノキアスナロの木で、島外からの持ち込みであると考えられます。
※上の記述から、北海道唯一の井戸は、本州人によって作られたものと推定できます。
川や沢の水は危険であることが多く、煮沸が必要となります。井戸水は、大和文化人の常識では、唯一安心できる水の確保だったのでしょう。
島外から持ち込まれた材木は、奥尻には良い材がなかったのか、定評のあるヒノキアスナロが北部東北人の最良の選択だったのでしょう。
以前はどこかの遺跡で、巨大な丸木舟の胴部を輪切りにし、二つ合わせて井戸の囲いにしました。これも、同じく耐久性重視のためでしょう。
きっと、当時から、井戸に落ちることがあったのではないでしょうか。安全装置ですね。
※では、この井戸をわざわざ作ったのは誰だったのか。阿倍比羅夫の軍勢ではなかったのでしょうか。
※そうすると、粛慎を放逐した後にもかなり長く居座っていて、戻ってこないように警戒していたのでしょう。 |
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ヒノキアスナロ材とは
AI による概要
ヒノキアスナロ材:とは、青森ヒバのことで、芳香と耐久性に優れた木材です。
ヒノキアスナロは、北海道の渡島半島を北限とし、栃木県の日光付近を南限に分布しています。
特に、青森県の下北半島と津軽半島に多く分布しており、全体の8割以上がこの地域に集中しています。
ヒノキアスナロの分布の詳細:
・北限:北海道渡島半島
・南限:栃木県日光湯ノ湖付近
・分布の中心:青森県の下北半島と津軽半島
・その他:本州では、日本海側では能登半島まで分布が確認されています。
ヒノキアスナロは、その独特の香りと耐久性から、建築材や伝統工芸品の材料として利用されてきました。
特に青森県では「青森ヒバ」として知られ、日本三大美林の一つに数えられています。 |
アスナロの分布

植物社会学ルルベデータベースに基づく植物分布図 |
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700民具
※アオイバケツやタライが置いてあるのは、雨漏りです。やはり、屋根の上に大きな時計台を乗せると、ひずみが出て漏水するのです。
足踏み脱穀機
風力選別機

雨漏りバケツ |
田圃の草取り器
噴霧器・田起こし器
野道具・山道具
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山道具・丸鋸 |
丸鋸 |
雪靴・鋸 |
杵と臼・樽
脱穀機・選別機
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磯船 |
昔の遊具・ストーブ
囲炉裏道具
裁縫道具(くけ台) |
布乾燥台・簪・アイロン・味噌壷・おひつ
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くけ台・鯨尺・衛門掛け・散髪道具 |
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展示室が3室ということは、稲穂小学校は一教室に2学年ずつの複式授業で、上記の民具・農具のある場所は、講堂だったのでしょう。
当時としてはなんともおしゃれな、可愛い小学校 だったのでしょう。 |
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