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目次
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01外観
03入口展示
04イラストマップ
10我がまち北斗市
11北斗市の風土
12気候・気象
13森・海・歴史の魅力が溢れたまち
100考古展示
111茂辺地4遺跡
112茂辺地4遺跡ジオラマ
113北斗市の遺跡
120縄文土器の時代
121草創期~早期
123前期
130中期
133中期後半~後期初頭
140後期
※考察火山噴火と円筒土器
150北斗市の歴史年表
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300北斗市の歴史
310中石器時代
320縄文時代
321縄文早期
323縄文時代前期
330中期
334円筒上層式土器の変遷
350後期
352切断蓋付土器
353後期土器
355人面装飾付異形注口土器
※補充追記
360晩期
370石器
373調理具
380縄文人の精神文化 |
400続縄文時代
茂別遺跡
人面装飾付土器
401恵山式土器
421茂別遺跡の続縄文遺物
422クマ形意匠の土器片
※熊についての考察
423石器
440擦文時代
441擦文土器
460縄文時代
461土偶
464心の形・祈りの形
500松前藩領時代
501和人の交易と松前藩領時代
530昔の暮らし
540北斗市の文化財
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01外観
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| 03入口展示 |
04イラストマップ
北斗市イラストマップ
クラッシック
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10我がまち北斗市
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11北斗市の風土
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位置
北斗市は北海道南西部、渡島地方の南部中央に位置し、津軽海峡に面している。南西は木古内町、北西は厚沢部町、北西は森町、東北東は七飯町・函館市に隣接し、海岸部には函館湾を抱えている。
地形の特徴
北斗市は、西側には標高の低い山地が、また東側には函館平野が広がっている。
西側の山地が海岸にせまった地域には、海岸段丘がよく発達し、山間部では牧場や植林地として利用され、山地では石灰岩の採掘も行われている。
函館湾に面する海岸は広く砂浜となっている。 |
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12気候・気象
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北斗市は対馬暖流の影響受け、海洋性の気候となっており、道内にあっては降雪量が少なく、比較的温暖で暮らしやすい地域となっている。真夏でも30度を超える日は数日で、また真冬でも氷点下15度以下に下がる事は稀である。 |
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気候・気象 |
気温と降水量 |
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春

松前藩戸切地陣屋跡に向かう桜トンネル |
夏
ホッキ突き漁
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秋
大野平野の稲刈り
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冬
冬のふのり漁
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13森・海・歴史の魅力が溢れたまち
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ひじひき高原
匠の森 |
ルルドの洞窟
茂辺地自然体験の森 |
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八郎沼公園 法亀寺のしだれ桜

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湯の沢水辺公園 七重浜海浜公園

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トラピスト修道院
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松前藩戸切地陣屋跡 |
トラピスト修道院(男性)
北海道北斗市三ツ石392
トラピスチヌ修道院(女性)
北海道函館市上湯川町346 |
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100考古展示
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111茂辺地4遺跡
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●私たち人間は、遥かなる昔から現在に至るまで、様々な形の活動や暮らしの跡を、地球上のあちこちに残してきました。
これを「遺跡」といいます。
●ここ北斗市にも、古くは旧石器時代と縄文時代の変わり目の時期(約12,000年前)から、縄文時代・続縄文時代などの戦士時代。
更には中近世から近代に至るまで、108か所の遺跡があることが現在わかっています。 |
茂辺地4遺跡周辺地形モデル
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茂辺地4遺跡
ジオラマ→
原図 |
茂辺地4遺跡 |
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茂辺地4遺跡から
北斗市・函館山遠望 |
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112茂辺地4遺跡ジオラマ
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●このジオラマは平成22年から26年にかけて発掘された茂平地遺跡で見つかった縄文時代後期初頭(約4000年前)の集落と周辺地形を 1/400縮尺で復元したものです。
●この場所は、真東に函館山、南西に丸山を望む見晴らしの良い段丘上で、茂辺地・当別の浜へと通じる沢(=海と山とをつなぐ道)の合流地点にあたり、人々が住みやすい場所を選んで集落を構えていたことがわかります。 |
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茂辺地4遺跡
後期初頭集落
(平成24・25検出) |
茂辺地1遺跡 |
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113北斗市の遺跡
北斗市埋蔵文化財・遺跡包含地
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1下添山遺跡(縄文時代)
2清川遺跡(縄文中期)
3当別遺跡(縄文時代)
4野崎遺跡(縄文前期)
5寺屋敷遺跡(縄文時代)
6桜岱遺跡(縄文前,中,後期)
7ヤギナイ遺跡(縄文中後晩)
8東浜遺跡(縄文後期,擦文)
9久根別A遺跡(縄文晩期)
10久根別B遺跡(縄文時代)
11添山遺跡(縄文後晩期)
12添山2遺跡(縄文時代)
13丸山神社遺跡(縄文中期)
14水無遺跡(縄文後期)
15館野遺跡(縄文中後期)
16細小股遺跡(縄文時代)
17茂別遺跡(縄文早-晩期,続縄文) |
18矢不来遺跡(縄文中期)
19大工川1遺跡(縄文中期)
20釜洞穴遺跡(旧石器時代?)
41当別2遺跡(縄文早期)
42当別川左岸遺跡(縄文後期)
43当別3遺跡(縄文前,中,後期)
44当別4遺跡(縄文早期)
45茂辺地3遺跡(縄文時代)
46富川土塁跡(近世,明治)
47矢不来2遺跡(縄文前.中,後期)
48矢来天満宮跡
49館野4遺跡(縄文後期)
50フコマ野2遺跡(縄文前期) 51フコマ野3遺跡(晩期)
52石倉野1遺跡(縄文晩期) 53石倉野2遺跡 (縄文後期) |
54石倉野3遺跡(縄文後期)
55矢不来3遺跡(擦文時代)
56柳沢1遺跡(縄文後晩期)
57柳沢2遺跡(縄文後期)
58矢不来4遺跡(縄文中期)
59矢不来5遺跡(縄文後期)
60矢不来6遺跡(縄文後期)
61矢不来台場跡2(近世,幕末)
62矢来7遺跡(縄文中,後,晩,文)
63三ツ石2遺跡(続縄文時代)
64野崎2遺跡(続縄文時代)
65野崎3遺跡(縄文時代)
66野崎4遺跡(縄文,続縄文)
67野崎5遺跡(縄文,続縄文)
68当別5遺跡(縄文早期,続文)
69柳沢3遺跡(縄文中後期)
70館野5遺跡(縄文後期) |
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36矢来館跡(中世,室町-戦国)
37桜岱6遺跡(縄文中,後期)
38館野3遺跡(縄文後期)
39桜岱7遺跡(縄文中,後期)
40桜岱8遺跡(縄文後期)
71トドメキ川左岸遺跡(縄文)
72茂辺地4遺跡(縄文後期)
73押上1遺跡(縄文中,後期)
74矢不来8遺跡(縄文中,後期)
75矢不来9遺跡(縄文中,後期)
76矢不来10遺跡(縄文中,後期) |
77矢不来11遺跡(縄文後期)
78矢不来12遺跡(縄文後期)
79館野6遺跡(縄文前,中,後期)
80館野7遺跡(縄文前期)
81矢不来13遺跡(縄文後期)
82矢不来14遺跡(縄文中期)
83大野口台場(近世,明治)
84村山遺跡(縄文時代)
85向野A遺跡(縄文時代)
86向野B遺跡(縄文時代
87向野C遺跡(縄文時代 |
88向野D遺跡(縄文時代)
89文月A遺跡(縄文時代)
90文月B遺跡(縄文時代)
91文月C遺跡(縄文時代)
92向野E遺跡(縄文,擦文)
93向野F遺跡(縄文時代)
94向野G遺跡(縄文時代)
95向野H遺跡(縄文時代)
96向野遺跡(縄文前期)
97向野J遺跡(縄文前期)
98向野K遺跡(縄文時代) |
99文月D遺跡(縄文時代)
100一本木1遺跡(擦文時代)
101一本木2遺跡(縄文晩期)
102台場山遺跡(近世, 明治)
103佐藤安之助の墓(近世,明治)
104向野L遺跡(縄文時代)
105村前ノ沢遺跡(文中,後期)
106村山2遺跡(縄文中期)
107向野M遺跡(縄文中期?)
108鉛山遺跡(江戸幕末) |
※除夜の鐘、煩悩みたいに、108ヶ所だって。
こんなに小さな町で、こんなに遺跡があるのは、初めてです。どれほど豊かだったかが想像されます。
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120縄文土器の時代
下の図は道南地方の土器形式の流れをまとめた素晴らしい図です。
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草創期~早期
121土器の始まりと創意工夫の時代
~縄文時代草創期~早期~ 121
草創期の土器
土器の始まりと創意工夫の時代
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土器の始まりと創意工夫の時代
~縄文時代草創期~早期~
〇縄文時代の始まりは、土器の使用と共にあります。
現在、約16,500年前まで遡ることができますが、はじめの頃の土器は、縄ではなく、貝殻などを文様をつける道具に使ったり、
底も尖ったり平らだったりと、より使いやすく、作りやすいものを目指す、創意工夫や試行錯誤の中、様々に移り変わる様子が伺えます。
〇土器だけに限らず、縄文時代草創期~早期と言う時期は、この後約1万年間つながり続けるための基礎が、様々に試行錯誤をされ、かたちづくられる過渡期であったとも言えるでしょう。
大平山元遺跡
・日本最古の縄文土器(約16,500年前)が出土 |
草創期の土器
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北海道最古の縄文土器
(約12,000年前)爪形文土器
現在北海道内で見つかっている最も古い土器は、帯広市大正3遺跡から出土した縄文時代草創期(約12,000年前)のものです。
土器表面に細かく刻まれた工具あるいは人の爪そのものによる爪形文が特徴です。 |
早期の土器
早期の土器 |
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早期前半 |
〇貝殻文系土器(約8000年前)
貝殻腹縁文(貝殻の端のギザギザを押し付けた紋様)が特徴
(※腹の字にはいろいろあり、ここでは複、また復、が使われているが、貝殻の腹の縁が正しいかと思います。)
〇貝殻条痕文系土器(約7500年前)
貝殻条痕文(貝殻の端で撫でて引いた平行線紋様)が特徴
北斗市を含む北海道南西部の縄文時代早期前半の出来では、貝殻で文様を描くテクニックが広く見られます。
貝殻文の特徴は、青森県から岩手県北部の北東北と共通性が見られます。 |
早期後半 |
縄文時代早期後半(約8000年前)に入ると、徐々に土器の文様として縄目(縄文)の割合が増えると共に、縄束や組紐にしたり、細く押し付けたりと、創意工夫・試行錯誤する様子が伺えます。
これは北海道一円で共通しており、当時の人々の広いつながりを感じさせます。
赤御堂式土器(約7300年前) 縄束による縄文
東釧路Ⅲ式土器(約7100年前)組紐+縄側面の押し付け
中茶路式土器(約7000年前) 微隆起文+縄側面の押し付け
東釧路Ⅳ式土器(約7000年前)羽状縄文の施文
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前期
123縄文海進と駒ケ岳噴火
円筒土器文化の始まりと広がり ―縄文時代前期―
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〇縄文時代の始まりのきっかけ、ともなった、地球の温暖化に伴う海水面の上昇は、縄文時代前期、約6000年前にピークを迎えます。これを「縄文海進」と呼びます。当時の函館湾は大野平野・函館平野の深くまで入り込み、現在の北斗市西山側の麓に連なる段丘は、ちょうど渡島半島を縦に貫く道であったと推定されます。
〇前期後半になると、北海道南西部から北東北にかけて、広く共通した土器を作り、暮らしを営む文化が広がります。この地域の縄文文化の最盛期とも言える円筒土器文化の始まりです。
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縄文時代の駒ヶ岳噴火
北海道駒ヶ岳は、その噴火活動で、人々の暮らしにたびたび影響を及ぼしてきました。
縄文時代では、およそ6000年前に起きた噴火により、大量の火山灰が噴出し太平洋岸に広く積もりました。
函館市垣ノ島遺跡は縄文時代早期から後期まで長期間集落が営まれた場所ですが、この噴火の影響か縄文時代前期前半だけ人の活動痕跡がありません。 |
※約6800年前、北海道駒ケ岳が噴火し、降下物と火砕流発生。6300年前までに4回の活動。6500~6300年前の活動で2回の火砕流発生。
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前期前半 |
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円筒土器文化 前期後半~中期まで
昭和初期、八戸市一王子遺跡、五所川原市オセドウ貝塚の発掘から、北海道北・東北の広い範囲に長期間似た形の土器が分布することが明らかになり、その特徴的な形から「円筒土器」と名付けられました。
古手の土器群は下の方の層から出るため円筒下層式、新しい群は同様に円筒上層式と区別されました。
北海道では、函館市サイベ沢遺跡でそのまとまりが(円筒下層式~円筒上層式、終末期まで)確認されています。 |
円筒土器文化 |
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前期前半の土器
※約5900年前、十和田火山の噴火。 東北北部の縄文前期人口の変動と火山噴火
前期後半の円筒土器
※円筒土器文化は、沿海州から中国東北部に拡がる円筒土器文化が伝わったものだとされている。
※駒ケ岳噴火から800年後、十和田噴火から400年後に円筒土器文化開始 従って、火山噴火とは無関係と言える。
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中期
130円筒上層式 ―縄文時代中期前半―
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道南・北東北の縄文の最盛期
円筒上層式土器の時代
―縄文時代中期前半― |
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131
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三内丸山遺跡出土
板状土偶
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〇縄文時代中期前半は前期後半から始まった円筒土器文化が最盛期を迎えた時期でもありました。
温暖な気候と豊富な自然の恵み、そして青森県三内丸山遺跡を代表とする大規模集落や、それに伴う深く大型の住居は、多数の人々が集うようになったありさまを物語ります。
それを反映してか1mに迫るほどの大型の円筒土器も多く作られています。 |
円筒上層式土器の変遷
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大型土器が作られる時代
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円筒上層a式土器 約4700年前
文様帯の規格化。馬蹄状(C形)縄圧痕の施文
円筒上層b式土器 約4800,年前
文様帯の崩れ。各種文様要素の、置き換え・省略
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円筒上層c式土器 約5000年前
細い粘土紐が主体に。モチーフが多様化
円筒上層d式土器 約4800,年前
〇北海道・北東北で広く栄えた円筒土器文化も、後半は各地の独自色が強くなり、集落の規模も小さくなっていくなど、新しい時期に向け徐々に変遷していきます。 |
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中期後半~後期初頭
133土器型式の変化
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環境の変化と時代のはざま
そこに現れる人々の変遷とつながり
―縄文時代中期後半~後期初頭―
〇縄文時代、中期後半から後期の初頭にかけては、地球の寒冷化もあってか、縄文の人々の暮らし方も、大きく移り変わる時期にあったようです。それを反映するように道南の縄文土器も目まぐるしくその姿を変えます。
〇この図は、その移り変わりの様子の概要をまとめたものです。
時には北側、時には南側と、隣り合う地域と結びつきながら、結びつき、つながりながら、厳しさを増、自然環境の変化を乗り越え、徐々に次の時代へと文化のバトンを渡す準備が整えられていきます。 |
土器型式の変遷
道南円筒土器の変遷
中期後半
(約4,500年前) |
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後期初頭
(約4,000年前) |
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北東北の土器群→ |
(沈線による渦巻文・厚く尖る口縁突起)
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(口縁部の無文帯)
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(沈線による施文)
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(文様の簡略化・平縁化) |
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(文様の簡略化) |
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(文様の簡略化) |
道央以北の土器群→
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(方形に区画する粘土紐の装飾) |
(樽のタガ状に巡る粘土紐隆帯) |
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後期
140多様化する縄文土器
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多様化する土器の形と精神文化の熟成
―縄文時代後期―
〇縄文時代後期は、時代が進むのに合わせて徐々に沈線や磨消縄文などを用いた複雑な文様が土器に施されるようになり、器の形も壺や注口土器などバリエーションが豊かになり、生活の中での土器の役割が細分化していく様子がうかがえます。
土器の特徴は、東北の十腰内式土器の変遷と密接な関わりが見られ、当時の人々の広いつながりを感じることができます。 |
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北斗市茂辺地地域出土
人形装飾付異形注口土器
〇函館市出土の国宝・中空土偶(カックウ)と北斗市出土の人形装飾付異形注口土器の人物表現は、非常によく似ています。
同じ人面・人体表現は、太平洋側では東京、日本海側では山形出土の遺物にも見られ、人々の精神文化の広いつながりと交流を物語る例の一つと言えるでしょう。
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※考察 火山噴火と円筒土器
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火山噴火と円筒土器
これまで、東北地方北部の円筒土器文化を学んで来たのだが、そこでは、十和田火山の噴火と円筒土器の発生が語られてきた。
渡島半島についてはほとんど触れられていなかったが、道南にも火山灰が流れたのか、土器の流行が及んだのかぐらいに考えていた。しかし
渡島半島では駒ケ岳が何度も噴火し、やはり火山と円筒土器が関係していると考えられている。
ところが、十和田火山の降下物は東に流れ、北海道には達しておらず、駒ケ岳の降下物も東に流れて海上に降下している。
さらに、両地点とも、噴火から何百年もたってから円筒土器文化が発生している。これでも火山噴火と円筒土器文化が関係しているといえるのだろうか。
以前も取り上げたが、大陸には広範囲にわたって円筒土器文化が広がっており、この文化人が沿海州から直接津軽海峡の両側に影響を及ぼしたのではないだろうか。
渡来の歴史と形質の陸封
前回の青森旅行でつくづく感じた青森県人の体格の良さ。男女とも高身長、そして足が長~い。
私の住む関西ではどこを歩いても一様に揃って老人から若者まで男女ともこのような美しい体形の人々にはあまりお目にかからない。
さらに、縄文オーパーツとして知られる数々の大陸製の遺物。例えば、縄文前期に渡来したらしい玦状耳飾。
今の青森県人や新潟県十日町市などでみかけるモデル体型の人々は、弥生時代の渡来民の可能性もあるが、縄文時代から、かなり大量の渡来があり、十日町などの豪雪地帯では形質が陸封され、今日まで続いてきたのではないだろうか。
沖縄や東北、日本の島嶼部、伊豆諸島などでは、いくら強い酒を飲んでも全く酔わない。顔も赤くならないという縄文体質そのままの人が多い。
亡くなったアントニオ猪木氏は日本では、大きな上背と立派な体格でいわゆる巨漢である。
しかし、彼が北朝鮮へ行って、金正恩氏やその叔父のチャンソンテク張成沢氏と会見する映像では、その側近たちも含めて、みんなほぼアントニオ猪木氏と同じ身長で同じ体格なのだ。
また、Utubeに時々現れる中国発信の動画にも、高身長で足の長い(西洋人かと思うような)男女が映っている。
て、まあ、「これ余談なんですけど」になってしまったが、円筒土器文化人が渡来したのではないだろうか。特に、青森県では、山東人の渡来が語られている。
今と昔の海洋航海
下の引用は、どこかで使いたかった一文。山陰地方の博物館・資料館ではなかったかと思うが、引用先不明

引用元不明 |
…「対馬海峡をこえて、 朝鮮半島西岸沿いに中国の遼東半島までたどり着き、また帰ってきた。」 となつかしそうに話す紀州の漁民の思い出を、民俗学者の宮本常一さんが聞いたという。
海を知りつくした人々にとっては、 大昔から東シナ海は自由な往来路だったのかも知れない。
二千数百年前、わが国にもたらされ弥生文化を花開かせた米も、遠路はるばるこの海を渡ってき たものだった。
米(稲作)が渡って来た道については、昔からいろいろな説がある。
最近では、 中国や朝鮮の遺跡から発見される米の種類、 石器の種類などとの比較から、 揚子江下流地方から直接、 あるいは朝鮮半島西岸経由で、もたらされたとする説が有力になってきた。 |
上記と同じようなことが、沖縄県の人々が、インドネシア付近の珊瑚採りに雇われていったとき、小さなサバニ(一人乗り漁船)で
インドネシアまで出稼ぎに出て、潜水夫として働き、いくばくかの金銭を得てまた帰ってくる。ということが一般的に行なわれていたそうだ。
台湾まで物売りに出かけて首狩りに遭った女性は沖縄の女性。黒麹で焼酎をつくり、台湾やその向こうまで売りに行っていた時代でもある。
現代の我々は、国境と文明の道具が思考に先立つが、そのような制約がなければ、熟達の海洋民には、海は夢あふれる交通路だったようである。
パスポートを持たなくても、大型船舶に乗らなくても、海を知っていれば、小さなボートでも自由に海を乗り越えられたのだ。
まとめと考察
ではさて、最近主流になってきた円筒土器文化渡来説だが、以前調べた時には、山東半島から沿海州までの日本海北岸沿いの広大な地域で
遺跡に残された文化でした。では、
➀なぜ渡来したのだろう。②なぜ渡来文化が爆発的に流行したのだろう。
➀円筒土器文化人の渡来。
もともと、玦状耳飾りが縄文前期に大陸から渡来した文化だと知られている。(前期に大陸からの渡来が、すでに実証されている。)
日本海の海水の流出口である津軽海峡を挟んだ津軽・下北・八戸-渡島半島は海流に乗った舟が最初に見る陸地。この先は太平洋に流される。
なぜか、この時期に大陸からの大量のボートピープルがやってきた。
5,500年前の中国では新石器時代の様々な文化が勃興し優れた文化を紡いてゆく頃です。
この時期の大陸円筒土器文化は、美しいフォルムと文様がある、立派な精製土器で、列島の円筒土器文様より完成度が高い。。
渡来した人々は、この円筒土器を生活必需品とする人々で、そのような文化を根底にした人々でした。
しかし、いくら高い文化を持った人々がやってきて、西洋料理を持ち込み、禽獣を締めて血のソースだとか骨髄のスープだとか云われても、
やはり、漬物と味噌汁に、メザシがうまいと思うように、
円筒土器を利用する生活環境がなければ、受け入れられるわけがなく、在地系縄文人には受け入れ難かっただろう。
すると、この文化が広く流行するためには、大量の大陸渡来人が押し寄せたものと考えられます。
ということは、勃興し始めた大陸の新石器時代の各文化の間で戦争があり、押し出された人々が逃げて来たものだと考えられる。
➀爆発的ヒットの背景を考える。
どう考えても使いにくそうな巨大土器。日常用でもあり、儀式用でもあったのか。1mに及ぶ細長い土器は竪穴式住居では危険で、
中期の信州の巨大土器と似て、儀式用ではなかったのか。そのような儀式を伴って持ち込まれたのではないかとも考えられる。
また、実用上では、長時間煮込みの必要性が指摘されたが、硬い木の葉や木の枝を煮込んだとされるが、これらは何度も水換えが必要で、
そのためにはあまりにも扱いにくい土器である。水換えには炉の火を消して土器を冷やして…邪魔くさい。小さい土器が適している。
それよりも、細長い土器は、動物を煮込んで油を取ったり、骨を煮込んでニカワを取ったりするには便利である。
バケツのようなといわれるが、実際にはバケツの2倍3倍の高さのある、火にかけて倒れると超危険な土器はどのように使ったのだろうか。
例えば、干し鮭を煮込んで煮戻すとか、干した鹿の骨付き肉を煮込んで柔らかくするなど、これと一緒に野草なども煮込んだかもしれない。
ただし、取り出すには道具が必要で、これには、アイヌの民具が参考になる。と、考えれば、使えなくもない。
すると、それまでの縄文人は、干し肉、干し魚は叩いて肉をボロボロにして、食べていたのだろうか。それとも硬いまま口に入れていた。
そういえば、昔、干したスルメイカが安かった頃、焼かずに足を一本ちぎって口に入れてしがんでいたのも普通の話だ。
ただし、いまでも干し鮭は村上市では叩いて柔らかくするし、タタキガレイという食べ物もある。
このような調理革命を伴って津軽海峡南北で広まった文化なのかもしれない。すると、それほど大量に鮭や鹿が獲れていたことになる。
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150北斗市の歴史年表
※最初、わけのわからない図表に見えましたが、よくみると、大変重要な図でした。
特に、遺跡の持続した期間が明示されていることが重要。そして、他の遺跡との時代の前後も大切。かと思います。
※遺跡名と場所。発生から終焉までの時期。を図示している。
※弥生時代初頭に一斉に道内文化が消滅・一新されていることにきづく。
素晴らしい図表だ。 |
151
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旧石器~早期 |
草創期~前期 |
前期~晩期 |
晩期~明治 |
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153
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晩期~アイヌ
弥生~江戸
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300北斗市の歴史
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310中石器時代 旧石器時代と 新石器時代の間の時期 だそうです。14,000~7,000年前(コトバンク) 草創期~早期終末マデに相当。
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―北斗市内最古の人類の痕跡―
〇人類の誕生した約300万年前から1万5000年前まで、地球最後の氷河期のさなか、人類は最初の時代「旧石器時代」を過ごし、その後、氷河期の終焉とともに訪れた、気候の温暖化により変容した多種多様な自然環境に合わせ、世界各地で新たな文化が芽生えます。
この時代を「新石器時代」と呼び、日本では「縄文文化」がそれにあたります。
〇北斗市で見つかった、現在最古の人類の痕跡は、館野2遺跡で出土した旧石器時代から縄文時代へ移り変わる時期に使われた石器です。
〇薄く剥がれるように石材を選び、決まった形の剥片を連続して作り出す技術、「剥片剥離技術」を用いて作られた鋭い割れ口をもつ短冊形の石製刃物「細石刃」で、のちの縄文時代に作られる、多種多様な剥片石器の原点といえるものです。
館野2遺跡 北斗市館野3-3
時代:旧石器
主な遺構:ブロック1
主な遺物:彫器 掻器 削器 等、旧跡の遺物13点 |
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320縄文時代
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〇縄文文化の特徴は、自然環境の多様化によって生まれた暮らしの中の様々なニーズに合わせ、多種多様な道具や技術を編み出し
、さらにその伝統を時間的・空間的な人のつながり(交流)によって受け継ぎながら、狩猟・漁撈・採集と言う生活の基盤を大きく変化させずに、
約1万年以上の長きにわたり文化を継承、存続させたことにあります。
〇その中でも最大の発明が縄文土器です。煮炊きや貯蔵など暮らしの可能性を大きく拡げるとともに、時代や地域によって共通性を持つ文様や器形などは、彼らのつながりを示すサインでもありました。
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縄文文化の特徴 |
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〇北斗市の縄文文化の特徴は、現在見つかっている古い時期(縄文時代早期前半、約8000年前)から最も新しい時期(縄文時代晩期、約2300年前)を通じ、北海道の縄文文化と東北の縄文文化の両方の特徴が見られると言うことです。
〇津軽海峡を挟む、北海道南部と東北北部の縄文文化は、強い関わりを持っていましたが、ほぼ中央に位置する北斗市地域は、
特にその文化の交差点としての役割を担っていたのでしょう。
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北斗市の縄文文化 |
南北海道・北東北の
縄文文化圏 |
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祭祀用土石製品
〇縄文時代の遺跡から見つかるものは、土器や石器など暮らしで使われる実用品だけではありません。
土偶や装飾品、ときには、現在では使いみちの想像が難しい土製品や石製品など、「精神・心の働き」に関わる資料も残されています。
〇祭祀用道具は遺跡で見つかる遺物の全体の量からすると0.1%にも満たないですが、縄文時代の人々が、日々の暮らしの中で何をおもい、何をみつめ、何を心の支えとしていたのか、そうした縄文の精神文化の有り様を垣間見せてくれる。これらの資料たちは、私たちの心を強くひきつけてやみません。 |
祭祀用具 |
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321縄文早期 11,500~7,000年前
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深鉢形土器
中茶路式
早期後半 約7000年前
茂別遺跡
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深鉢形土器
根崎式
早期前半 約8000年前
茂別遺跡
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縄文文化の特徴 |
縄文時代早期 |
※縄文時代早期の土器群は、ほとんどの物が平底を呈するもので、
前半期に属する貝殻文(条痕文、腹縁文)・沈線文・刺突文を特徴とする土器群、
後半期を構成する絡条体圧痕文・撚糸文・組紐圧痕文・微隆起線文等を複合施文する縄文土器群の二グループに細分することが可能である。
※後半期の土器は、一般には 東釧路Ⅱ式土器→東釧路Ⅲ式土器→コッタロ式土器→中茶路式土器→東釧路Ⅳ式土器の序列が示されている。
引用「札幌支中央図書館/早期の土器」
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323縄文時代(前期/中期)
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前期は温暖化が進み、自然が豊かになり、縄文文化が発展する。
中期にはその最盛期を迎え、青森県の三内丸山遺跡の大規模な集落が営まれる。
前期後半から中期半ばにかけて、東北から道南の広い地域で共通した土器を使う文化(円筒土器文化)が営まれる。
海岸段丘を中心に④館野遺跡や⑤村前ノ沢遺跡といった当時の遺跡が数多く見つかっている。
館野遺跡 北斗市館野3-3 ※館野2遺跡
時代:縄文
主な遺構:配石遺構,外側配石,盛土遺構,中央配石抜け石痕,配石下ピット,中央広場小ピット,竪穴住居跡,土坑,落とし穴,石囲炉,焼土,
小柱穴状ピット,埋設土器,小礫集中,竪穴状遺構,溝状遺構
主な遺物:川汲式土器,日計式土器,アルトリ式土器,サイベ沢7式土器,見晴町式土器,榎林式土器,大安在B式土器,涌元1式土器,涌元2式土器,
トリサキ式土器,大津式土器,大洞A式土器,
石刃鏃,石錐,つまみ付きナイフ,スクレイパー,Uフレイク,Rフレイク,フレイク,石斧,たたき石,石鋸,砥石,石皿,台石,加工痕のある礫,
石棒,北海道式石冠,三角形状土製品,円盤状土製品,舟形土器,鐸状土製品,土偶,双角状土製品,脚付き石製品
特記事項:室町時代の畝状遺構
村前ノ沢遺跡 ※村前ノ沢遺跡
北斗市村前ノ沢遺跡 北斗市当別533-2ほか
種別:集落
時代:縄文
主な遺構:竪穴住居跡10軒,土坑45基,落し穴2基,屋外炉4基,焼土90か所,
主な遺物:縄文土器147,049点,剥片石器3,167点,礫石器2,521点,土製品70点(土偶9点含む),石製品24点
特記事項:集落の主体は縄文時代中期後半であったが、調査区内沢部に隣接地から縄文時代中期前葉を主体とする遺物群の著しい流れ込みが確認された。出土土器の大半はそれら中期前葉のもの、および後期初頭のものである。調査区外高地に盛土遺構などの遺物集積地が遺存している、あるいは遺存していた可能性が高い。
出土土偶のうち1点は器高2.5cmと極めて小さい。
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前期土器 7,000~5,500年前
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330中期 5,500~4,400年前
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331
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332移り変わり上
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深鉢形土器
円筒上層b式
中期前半 約4800年前
村前ノ沢遺跡
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深鉢形土器
円筒上層c式
中期前半 約4700年前
館野4遺跡 |
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深鉢形土器
円筒上層d式
中期前半 約4600年前
村前ノ沢遺跡
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深鉢形土器
円筒上層e式
中期前半 約4500年前
当別川左岸遺跡
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深鉢形土器
ノダップⅡ式
中期末 約4100年前
押上1遺跡 |
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333下
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深鉢形土器
円筒上層a式
中期前半 約4900年前
松前藩戸切地陣屋跡
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深鉢形土器
円筒上層b式
中期前半 約4800年前
村前ノ沢遺跡 |
深鉢形土器
円筒上層b式
中期前半 約4800年前
村前ノ沢遺跡 |
深鉢形土器
円筒上層b式
中期前半 約4800年前
館野4遺跡 |
深鉢形土器
円筒上層b式
中期前半 約4800年前
館野4遺跡 |
深鉢形土器
円筒上層c式
中期前半 約4700年前
茂別遺跡 |
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334円筒上層式土器の移り変わり
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厚み:厚→薄
文様範囲:狭→広
文様線種:
粘土紐太→細→沈線
線の間のC文様
縄押→棒押 |
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350後期 4,400~3,200年前
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351
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352最上段
切断蓋付土器
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小牧野3期相当期 後期初頭 約3千年前 押上1遺跡出土 東北からの搬入品(十腰内式)
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切断蓋付土器
小牧野3期相当 ※十腰内式土器 ※小牧野3期とは縄文後期前半を意味する
縄文時代後期初頭 / 約 3,900年前
押上1遺跡出土 東北からの搬入品(十腰内式土器)
焼成前に頂部を切断し蓋にした土器です。 胴部の横と蓋部には、孔のあいた突起があり、 ヒモを通したものと推定されます。
※切断土器は、焼成する前に切断するもので、北東北から切断した完成品が持ち込まれたのでしょう。その目的は二次葬用甕棺として。
北東北の葬送儀礼をそのまま持ち込んだ土器のようです。
これらの持ち込み土器を使ったのは北東北からの移住者だろうか。海を越えて持ち込むには大変な費用が掛かったと思われます。 |
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353二段目
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354三段目
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深鉢形土器
大木系
後期初頭 約4000年前
村前ノ沢遺跡
東北からの搬入品
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深鉢形土器
門前式相当
後期初頭 約4000年前
押上1遺跡
文様構成は東北系
胎土成形・施文は北海道
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東北海道で東北の土器を真似てつくったか。 |
深鉢形土器
門前式相当
後期初頭 約4000年前
茂辺地4遺跡
文様構成は東北系
胎土成形・施文は北海道
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深鉢形土器
大津式
後期前半 約3800年前
村前ノ沢遺跡
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355人面装飾付異形注口土器(複製)
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縄文時代後期後半 約3400年前 茂辺地出土 国指定重要文化財 |
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首の部分が二股に分かれ、ドーナツ状の胴部と連結する独特の器形と、
貼付文等で描かれた人体の装飾が非常に特徴的な注口土器です。
磨消縄文や瘤状の突起など、北海道の縄文後期後半の土器製作の特徴がうかがえるほか、
人面の描き方などは函館市の国宝中空土偶や東北・関東地方とも共通性を見せ、広い文化の繋がりを物語ります。 |
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※補充追記
写真では見えにくいので、補充説明をします。
➀口縁部は開いた猪口形で下に開いている。
②導流部は人が足を開いた形で二股に分かれた中空で、下の胴部に繋がります。
この導流部=頸部に人面が描かれている。
③胴部は中空円形のドーナツを横に倒した形で、中空になっており、上部を刳り抜いて上の2②を貼り付け、孔と孔の中間を刳り抜いて注口を貼り付けている。
同様の土器は、本州の東日本から東北の博物館で見たことがある。側面の文様帯もそっくりであった。
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人面装飾付異形注口土器とは
AI による概要
人面装飾付異形注口土器とは、縄文時代後期(約4000~3000年前)に作られた土器で、独特な形状に加え、人面の装飾が施されたものを指します。特に、くびの部分が二股に分かれ、ドーナツ形の胴部に繋がっており、その胴部のどこかに注ぎ口が付けられていたのが特徴です。さらに、前後左右に人面や人形の装飾が施されており、縄文時代の祭祀や呪術的な意図を窺わせるものと考えられています。
形状:
縄文土器の中でも特に異質な形状を持っています。くびの部分が二股に分かれ、ドーナツ形の胴部につながっており、胴部のどこかに注ぎ口が付けられていたものがほとんどです。
装飾:
前後左右に人面や人形の装飾が施されているのが特徴です。特に、ペアになった顔や全身像として表現されている場合、男性と女性を表しているという説もあります。
用途:
縄文時代の儀礼や呪術的な目的で使われたと考えられています。その独特な形状や装飾から、当時の縄文人の信仰や価値観を窺い知ることができる貴重な資料です。
分布:
縄文時代後期に、北海道や東北地方を中心に分布しています。
例:
北海道北斗市茂辺地出土の人面装飾付異形注口土器や、東京国立博物館所蔵の人面装飾付異形注口土器などが有名です。
その他:
縄文土器の装飾は、抽象的な模様が一般的でしたが、この時期には人形や土偶が盛んに作られ、その影響でこのような人面装飾付土器が出現したと考えられています。
重要な点:
縄文時代の土器は、様々な形で多様化していく中で、人面装飾が施された土器は、特に貴重な資料として注目されています。 |
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360晩期 3,200~2,400年前(東北・関東)
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361
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362上二段
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壺形土器
大洞C2式相当
晩期中葉 約2600年前
ヤギナイ遺跡 |
壺形土器
大洞C2式相当
晩期中葉 約2600年前
ヤギナイ遺跡 |
鉢形土器
大洞C2式相当
晩期中葉 約2600年前
ヤギナイ遺跡 |
壺形土器
大洞A式相当
晩期中葉 約2500年前
添山遺跡 |
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| 363三段目
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370石器
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〇土器とともに縄文文化を代表する遺物が、多種多様な石器です。
旧石器時代後半に編み出された、薄片剥離技術を進歩させ、「きる」「さす」「そぐ」「なめす」など、生活の様々な側面に合わせて作られた刃物(剥片石器)や、
素材の形と質量を最大限に活かした石器(礫石器)は、その技術を連綿と受け継ぎ、長く人々の暮らしを支えました。
〇ときには、交易により離れた地域の石材を入手するなど、素材を厳選し、用途によって道具を使い分ける考え方は、縄文時代に大きく進歩を遂げました。
これは現代までつながるものと言えるでしょう。 |
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371集落復元模型 縄文後期初頭 茂辺地4遺跡
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372
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箆状石器
添山遺跡
晩期 約2500,年前
 北日本特有の皮なめし用石器 |
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スクレイパー
添山遺跡
晩期 約2500,年前
 削ぐ・切る・なめすなど、様々な用途に使われた石器 |
石匙
添山遺跡
晩期 約2500,年前
石製の携帯用ナイフ |
石錐
添山遺跡
晩期 約2500,年前 |
石鏃
添山遺跡
晩期 約2500,年前
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石槍
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石槍
左3本は添山遺跡
晩期約2500年前
石槍
右1本は茂辺地4遺跡
中期4500年前 |
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373調理具 添山遺跡 晩期約2500年前
敲石・石皿・擦石
添山遺跡
晩期約2500年前

堅果類を敲き割る・磨り潰すのに使われた。 |
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380中期~晩期
縄文人の精神文化
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〇縄文時代の遺跡から見つかるものは、土器や石器など暮らしで使われる実用品だけではありません。
土偶や装飾品、ときには、現在では使いみちの想像が難しい土製品や石製品など、「精神・心の働き」に関わる資料も残されています。
〇遺跡で見つかる遺物全体の量からすると0.1%にも満たないですが、縄文時代の人々が、日々の暮らしの中で何を思い、何を見つめ、何を心の支えとしていたのか、そうした縄文の精神文化の有り様を垣間見せてくれる。これらの資料たちは、私たちの心を強くひきつけてやみません。 |
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石斧
添山遺跡
晩期約2500年前 |
右端:石斧を素材である粘板岩から切り離した際の残片
(擦切残片) |
鐸形土製品
北斗市内出土
縄文後期前半
約3800年前 |
土製装飾品
北斗市/縄文時代
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ミニチュア土器
北斗市内
縄文後~晩期 |
左の資料には注口の剥落痕が残る
※左は注口土器のミニチュアだが、注ぎ口が取れた跡が残っている |
軽石製石製品(帯留め)
茂別遺跡縄文中期
約4800年前
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十字型小形土偶
村前ノ沢遺跡
中期前葉約4800年前 |
腕部を孔が貫通する。垂飾品の機能も推定される。 |
土偶
添山遺跡
晩期前半約2500年前
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縄文人の精神文化

上に記述 |
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400続縄文時代 2,500~1,200年前 前半期(紀元前4c~紀元1c) 後半期(紀元2c~7c) 一般に弥生時代が前期、古墳時代が後期とされる。
茂別遺跡
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〇長く続いた縄文時代が終わりを迎える頃、津軽海峡を挟んだ北と南の文化は、ゆっくりと別々の道を始めることとなります。
〇本州以南では、稲作の伝来と水田での米作りが広まるとともに、土地に強く結びつけられた弥生文化以降の日本的な文化、社会へと続きます。
一方、北海道島では、それまで彼らを支えた続けた自然に根ざした暮らしを基盤にさらに磨き上る、続縄文文化・擦文文化、そして後のアイヌ文化へと続いていきます。
北斗市では、この二つの文化の流れが接する姿を遺跡にうかがうことができます。
AI による概要
北斗市茂別遺跡は、津軽海峡沿岸で唯一の大規模な発掘調査が行われた恵山文化の集落遺跡であり、続縄文時代の遺跡として知られています。
しかし、発掘調査が行われたのは、国道228号線開通に伴い岬が削られる際に遺跡が失われるのを記録するためで、現在は姿を消しています。
茂別遺跡は、縄文時代前期から晩期、そして続縄文時代と長い期間にわたって利用されたことが確認されています。
特に、恵山文化(続縄文時代)の遺物や遺構が多く見つかり、その学術的・歴史的な価値は高いと評価されています。
遺跡からは、人面装飾付土器などの特徴的な土器も発見されており、それらは北海道渡島半島に特徴的なデザインであるとされています。
また、一つの遺跡から複数発見されたことも希少な例として注目されています。
茂別遺跡は、国道228号線トンネル工事で失われたため、現在遺跡の姿は残っていませんが、発掘調査で得られた情報は、当時の人々がどのように暮らしていたのかを知る上で貴重な資料となっています。
茂別遺跡 人面装飾付土器
AI による概要
茂別遺跡で出土した人面装飾付土器は、縄文時代後期後葉の土器で、特に北海道渡島半島に特徴的な意匠が表現されています。この土器は、注口土器や香炉形土器、鉢形土器などに人や動物の顔が描かれているのが特徴で、茂別遺跡では複数見つかるという希少な例です.
出土地:茂別遺跡 (北海道渡島半島).
時代:縄文時代後期後葉.
特徴:
・人や動物の顔が表現された土器.
・注口土器や香炉形土器、鉢形土器など、把手の先端部に顔が描かれている例が多い.
・複数の人が顔や動物の顔を表現した土器が同じ遺跡から出土するのは珍しい.
茂別遺跡について:
・縄文時代前期から晩期、続縄文時代と時期幅が広い.
・1930年代に継続的に採集された資料.
・北海道を代表する縄文時代の遺跡の一つ.
・人や動物が表現された土器が一つの遺跡から出土するのは数点というのが一般的だが、
本遺跡はこれらが複数見つかったという点で極めて稀な遺跡.
※現在:国立歴史民俗博物館に所蔵されている.ためにこの館では展示されていない。しかし、いずれもcopyrightがついてないので拝借します。
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401 続縄文土器 恵山式土器
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以下引用「函館市/函館史地域資料アーカイブ 1.恵山式土器文化」
1期:青森県の弥生文化前葉の二枚橋式土器に対応した、亀ケ岡式土器の伝統を強く残した変形工字文が特徴で、甕、短頸甕、鉢形、台付浅鉢型土器などからなる。下添山遺跡、瀬棚町海岸砂丘遺跡などから出土するほか、恵山貝塚からも出土。
※二枚橋式:弥生前期~中期の東北北部の土器
2期:青森県の弥生文化中葉田舎館式の古い時期や宇鉄Ⅱ遺跡出土の土器に対応した、波状工字文や変形工字文、変形工字文に由来した3~4条の沈線を重ねて鋸歯や波形が施文された土器が作られた。甕の頸部は長大化するとともに直立し、そこに無文帯を幅広く残すものとなる。
ボウル形やコップ形土器、把手付鉢や丸底の鉢が作られるのはこの時期で、浅鉢、鉢形や壷形など多様な器形の土器が作られた。
遺跡数が増加して石狩低地帯付近まで分布する。恵山貝塚、尾白内遺跡が代表的な遺跡である。
※田舎館式弥生前期の砂沢式に続く、中期後半の土器。
3期:瀬棚町南川遺跡の住居址や墓、アヨロ遺跡の墓からセットで出土した南川Ⅲ群、アヨロ2類b土器が相当し、
器形の変化が少なくなり、甕、鉢形、壷形土器が主体となって、平行沈線文と鋸歯状の沈線文で特徴づけられる。この時期の土器も石狩低地帯まで分布し、札幌市N295遺跡などの土壙墓や住居内から出土している。
4期:南川遺跡出土の南川Ⅳ群土器が相当する、横走ないしは波状を描く沈線で縁どられた中に、帯縄文という特殊な縄文が施された土器である。この時期の土器も石狩低地帯に分布するが、作られた土器が移入品として持ち込まれていたらしい。 |
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壺形土器
恵山式
続縄文前半
約2300年前
茂別遺跡
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ボウル形土器
恵山式
続縄文前半
約2300年前
茂別遺跡
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深鉢形土器
恵山式
続縄文前半
約2300年前
茂別遺跡
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深鉢形土器
恵山式
続縄文前半
約2300年前
茂別遺跡
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深鉢形土器
恵山式
続縄文前半
約2300年前
茂別遺跡 |
深鉢形土器
恵山式
続縄文前半
約2300年前
茂別遺跡 |
続縄文時代 |
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420 |
421
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茂別遺跡出土の続縄文時代遺物
続縄文時代前半・恵山文化期(約2400年前~2000年前)
土器や環状石斧などの遺物から、縄文文化の名残を止めながらも、弥生文化へと移りゆく東北北半の文化との関わりをうかがわせながらも、魚形石器やクマ形意匠など、続縄文文化独自の要素を持つ遺物とが同居しており、津軽海峡を挟んだ北と南の文化がゆっくりと分れて行く様相を感じさせます。 |
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蓋形土器
土器に蓋がつくものは、縄文時代では稀で、
本州以南では弥生時代以降徐々に見られるようになります。
本資料と類似する蓋形土器は、青森県垂柳遺跡(弥生時代初頭)などで多く出土しています。 |
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環状石斧
本州以南で縄文時代から弥生時代まで使用される。真ん中の穴に棒を通し使用する石斧。
北海道の縄文文化では使われず、続縄文時代になり、始めて道南でのみ出土します。
※製作には膨大な手間と時間がかかる。そのくせ割れやすい。
石斧として、何に使ったのだろうか。武器のように、柔らかいものに対してなら使用できるように思える。 |
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魚形石器
オヒョウなど大型魚の漁に使われた疑似餌(ルアー)と推定される。恵山文化特有の石器。 |
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有孔石
穴が開けられた小型礫。
溝が刻まれたものもあり、玉類として使われたと推定されます。 |
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422クマ形意匠の遺る土器片
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縄文時代の動物意匠・動物形土製品では、クマが描かれる事は珍しいですが、道南の続縄文文化初頭にあたる恵山文化では、土器や骨格製品などにクマを表した意匠を持つものが多く見られるようになります。
アイヌ文化では、ヒグマはキムンカムイ(山の神様)と呼び、非常に尊重しますが、あるいはその精神性・畏敬の念の原初、北海道独自の文化の最初期の姿と捉えることができるかもしれません。 |
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※熊についての考察
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今日(2025.08.06)も熊のニュースが流れる。超危険な動物である。北海道のヒグマも本州のツキノワグマも同様である。
台湾では危険な毒蛇が沢山いるが、特に危険なのは百歩蛇である。毒蛇でも熊でも、超古代の大昔から人々は困り果て、悩んだに違いない。
その行き付いた所が、台湾では土器表面に百歩蛇がレリーフされた土器や木器が伝統的に作られて、神扱いされる。
日本ではヒグマが土器・木器・石に描かれ彫られて神扱いされている。
これらはもう、人の力ではどうすることもできない恐怖であり、簡単には駆除することもできない危険獣である。出会ったら殺される。蛇も同じ。
このような恐怖心からまぬがれるために、クマ文様を土器や木器に装飾し、石でクマ頭部を作ったり、色々な形で恐怖心を止揚せんと務めたのが、おびただしいクマ装飾なのだろう。こうやって、クマに食われませんようにと願ったのかもしれない。 |
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423石器
石銛 |
石銛
石製の銛。柄と結びつけるための基部が作られていることで、石槍と区別されます。
(右端の石銛)
基部にアスファルトが付着した石銛。柄に巻きつける縄を固定する接着剤として使用したものと推定されます。 |
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440擦文時代1,400~700年前(7~13世紀) 飛鳥~鎌倉時代
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擦文時代は、続縄文時代に続く文化で、土器に縄文ではなく、ヘラなどで表面を整えた擦り痕(擦文)があることから、こう呼ばれる。
本州以南の飛鳥~平安時代に平行し、後のアイヌ文化につながる。
方形でカマドを持つ住居が特徴的で、 ⑪矢不来3遺跡で2軒見つかっている。
⑫東浜遺跡では、擦文土器とともに五所川原産の須恵器(本州以南で広く使われたロクロ整形の土器)が見つかっている。
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矢不来3遺跡 北海道上磯郡上磯町字矢不来277-1ほか
種別:集落
時代:擦文
主な遺構:住居
主な遺物:土師器 紡錘車 礫石器
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441擦文土器
擦文時代 |
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深鉢形土器 擦文土器
擦文時代約1300年前
矢不来3遺跡 |
深鉢形土器 擦文土器
擦文時代約1300年前
矢不来3遺跡 |
埦 土師器
古墳中期約1300年前
矢不来3遺跡
青森から搬入品 |
土製紡錘車
矢不来3遺跡
擦文時代約1300年前 |
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※やっと終わった。なんでここだけ、こんなに密集して展示するのかな。もう少し間隔をあけた方が分かりやすいのに。見るだけで疲れるよ。
しかし、とても価値の高い展示と解説パネルでした。素晴らしい。 |
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460縄文時代
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461土偶
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462
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土偶・土偶片
晩期後半約2500年前
添山遺跡
指の表現のある土偶脚部 |
中空土偶
晩期後半約2500年前
添山遺跡 |
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463土製品
土偶片
左:胴部
右:脚部
中期中頃約4500年前
村前ノ沢遺跡
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左:匙形土製品
後期 村前ノ沢
右:鐸形土製品
後期前半約3800年前
白坂3式期/北斗市内 |
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464心のかたち・祈りのかたち
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縄文時代の遺跡からは、土器や石器などの普段の生活に関わる実用品だけではなく
「いのる」「まつる」「きかざる」などの心の働き(精神文化)に関わると考えられる道具が出土します。
これらを実用の道具と区別して「第二の道具」と呼ぶこともあり、普段の生活の中でどのような考え…例えば生と死についてなど…を縄文の人々が抱いていたのか、その一端を私たちに示してくれます。
ここでは北斗市で出土した「第二の道具」のうち、ヒトをかたどった土製品でる
土偶、様々な姿を見せる土製品やヒスイ玉などの垂飾品、三角形・円形に整えられた、板状の製品類、そして儀礼用と見られる大型の青龍刀形石器や石刀などを展示しました。
これらの品々には、一体どのような思いと願いが込められていたのでしょうか…? |
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心の形・祈りの形 |
青龍刀形石器
縄文後期前葉/集落
押上1遺跡 |
柄と刃は5m離れて出土

捨てる時に放り投げたようですね。跳ね返って飛んでった。 |
三角形石製品
縄文後期
村前ノ沢遺跡
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石刀
晩期後半約2500年前
添山遺跡
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ヒスイ製平玉
晩期後半約2500年前
添山遺跡
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ヒスイ平玉 |
石製垂飾品
後期初頭 約4000年前
押上1遺跡
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ヒスイ・砂岩・泥岩 |
※普通、ヒスイの玉や垂飾をゴミ捨て場に捨てるかね。
間違ったのか、何かに混入して捨てたのか。
それとも再生を願ったのか。 |
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500松前藩領時代
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501和人の交易と松前藩領時代
函館戦争
1868-69年 |
養蚕所・煉瓦工場
三角測量基準点設置
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トラピスト修道院
鉄道開通・川田男爵 |
戦時中のまち |
昔の道具 |
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503
| 全国・北海道の出来事 |
年代 |
旧上磯町のできごと |
旧大野町の出来事 |
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津軽安東氏,十三氏を破り本拠地を十三湊に移る
応仁の乱
種子島鉄砲伝来
フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸
桶狭間の戦い
シャクシャインの乱
本能寺の変
関ヶ原の戦い
松前藩成立する
参勤交代始まる
島原の乱
駒ケ岳噴火する
クナシリ・メナシの戦い
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1216建保4
1443嘉吉3
1457長禄1
1467応仁1
1543天文12
1549天文18
1560永禄3
1582天正10
1600慶長5
1604慶長9
1635寛永12
1637寛永14
1640寛永17
1666寛文6
1692元禄5
1731享保16
1800寛政12
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下国安東太郎盛季,南部氏に敗れ矢不来に着す
頭部の酋長コシャマイン蜂起
僧円空蝦夷地渡来し刻仏像
「大乗妙典一千部供養塔」
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作衛右門、新田を試
みる2~3年で廃す
伊能忠敬蝦夷地測量。
大野に滞在する |
蝦夷地の交易
14世紀頃の記録である「庭訓往来」には
「宇賀ノ昆布」(現在の函館市、銭亀沢)の記録が見られ、この時期に北海道(エゾ)において、昆布を巡り、和人が活動していたことがわかる。
中世以降は鷲羽、鷹、干鮭、鰊などが主な交易品で、特に色皮(ヒグマ、オットセイ、ラッコ等の皮)が珍重された。
江戸時代には「俵物三品」と呼ばれた。煎海鼠、干鮑、干貝柱の輸出が増えた。
茂別舘跡
茂辺地川左岸の丘陵に、道南十二館の一つである「茂別館跡」がある。嘉吉3年(1443)、津軽の管領、安東太郎盛季が、南部義政に、十三湊を攻略され、さらに小泊の柴館も落とされ、蝦夷島に渡った時、館を造ったことに始まる。
後に安藤政季、茂別(下国)家政が守備している。長禄元年(1457)5月、コシャマインの戦いの時、道南の十館は相次いで攻め落とされるが、ここ茂別館と上ノ国花沢館だけが残ったと言われている。 |
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504
| 全国・北海道の出来事 |
年代 |
旧上磯町のできごと |
旧大野町の出来事 |
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| 幕府、松前藩より西蝦夷 |
| 地を接収全島を直轄化 |
| ロシア軍艦館長ゴローニン |
| 国後より福山に護送さる |
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| 大塩平八郎の乱 |
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| 日米和親条約調印ペリー |
| アメリカ軍艦3隻函館入港 |
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| 日米修好通商条約締結 |
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| ハリストス正教会ニコライ来島 |
| 王政復古の大号令 |
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| 1807文化4 |
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| 1811文化8 |
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| 1821文政4 |
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| 1823文政6 |
| 1837天保8 |
| 1850嘉永3 |
| 1850嘉永3 |
| 1853嘉永6 |
| 1854安政元 |
| 1855安政2 |
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| 1858安政5 |
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| 1861文久元 |
| 1863文久3 |
| 1867慶応3 |
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| 松前藩蝦夷地複領により |
| 矢風来台場を松前藩兵守備する |
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| 有川大神宮氏子総代、大阪で神輿 |
| 購入 |
| 幕府松前藩に七重浜~木古内まで |
| 守備させ陣屋構築を指示 |
| 開墾開始,馬鈴薯,焼酎, |
| 陶磁器製造開始 |
| 煉瓦製造始まる |
| 建網漁開始 |
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| 松前藩主章広が文月神社 |
| 再建を命ずる |
| 高田万次郎が水田を開く |
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| 大野村絵図作られる |
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松前藩戸切地陣屋跡
日米和親条約締結後、蝦夷地防衛を強化するため、幕府は安政2年(1855)に松前藩に本陣屋を築かせ、守備にあたらせる。構造は四稜郭で一角に6門の砲座を持っている。本陣屋へは函館湾から約5km内陸、標高70mの台地に所在、松前藩兵は、陣屋守備、沿岸巡視、矢風来台場警備等にあたる。
明治元年(1868)、函館戦争で旧幕府軍…
文月稲荷神社と藩主章広宏
松野藩第14世藩主章広は、文政6年(1823)春、姉弟山へ鷹狩りに来た時、荒れ果てた神社を見つけた。宮司に言われを聞いたところ、鎮守の稲荷神社で白狐を祀っているとの事だった。章広は補領を命じて、自ら社号額に書き、社殿に掲げるよういい残して戻った。松前に帰った章広は、家臣を京都に遣わし、正一位の位を受けさせ、神社に奉献した。俳句額や由来額も奉納され、松前藩と文月との関わりを今に伝える神社である。 |
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| あとはピンボケでどうしようもない。ゴメン! |
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530昔の暮らし
明治から昭和までが、ごちゃ混ぜになった展示です。
明治大正昭和の衣装
民具・道具 |
塩煙草が専売制だった
昭和45年まで米も専売制。米穀通帳があった |
氷を入れる冷蔵庫
1970年代まで使われ、氷屋が繁盛した |
北斗市の産業
広大な北海道の畑にこんな小さな耕運機でも農業革命だった |

北海道農業の過酷さを物語る品々 |

荷駄を馬に引かせる。 |

あの広大な農地に本州と変わらぬ手作業農具 |

何haもある農地にこれで種を蒔いていった。気の遠くなる話 |

早朝から薄暮までの
作業 |

この唐箕で何十tもの穀物を選別したのか。 |

夏の北海道は3amに日の出8pm頃に日没。機械化以前の北海道農業 |
きっと、朝は2~3時から夜は7~8時まで働き詰め、冬は本州へ出稼ぎの一生だったのでしょう。 |
漁具
現代の漁具とあまり
変わりないようです |

真ん中の貝はさみや、ウニ採り網は現役です |

大型漁船が魚群を一網打尽にするので、 |
沿岸漁業は、このような古の道具と変わらない仕掛けのようです。 |
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540北斗市の文化財
北斗市の文化財 |
文化財一覧 |
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北海道三角測量
函館検基線起点の模型
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【北海道三角測量函館検基線基点の模型】
1875(明治8)年、 開拓使は、 大野村一本木131-9と函館市田家町9-29大称寺若葉
幼稚園内間に基線を設けてそれをもとに三角測量法によって正確な北海道地図を作成しました。
日本の測量事業の歴史を物語る同基点は町の指定文化財になっています。
*米国海軍大尉モルレー・S・デイの作成した標塔*
図解
A 花崗石柱
B 銅棒
CC花崗石ノ臺石
D花崗石ノ力石
EE木欄ノ両側
F 花崗石ノ標石
G 銅棒 |
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三木露風は兵庫県竜野市出身の詩人、童謡作家、歌人。
三木露風 1889年~1964年
明治22年(1889) 兵庫県揖西郡龍野町(現たつの市)に生まれる。
大正9年(1920)4月に妻同伴でトラピスト修道院の文学講師として赴任。
大正13年(1924) まで4年間、文学概論・美学概論などを教える。
童謡 「赤とんぼ」 の歌詞はこのとき作られたものである。
弟、三木清は西田幾太郎門下の哲学者であったが、戦時中特高警察に拘禁され、
終戦後まもなく悲惨な姿で獄死した。これは、西田学派に対する官憲の脅迫だったのだろう。 |
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北斗市ゆかりの人物
高田万次郎 1827年~1909年
嘉永3年(1850) 実地は米がとれないとい 「稲作不適」の定説を覆して米の収穫に成功した人物。当時、村人は耕作などは生活の役に立 たないと考え、漁夫や炭焼き、貨物の駄送などで生計を立てていたが、万次郎は父松五郎と共に寝食を忘れて開墾に励み、3年かけて水田を耕し、玄米24石(60俵)を収穫した。 東開発稲荷神社には、その功績をたたえ「頌徳碑」が建てられている。
種田金十郎 1831年 1906年
天保3年(1831) 有川村(旧上磯町)に生まれ 安政元年(1854)には福田家の8代目として家を継ぎ、その後「渡島王島」と呼ばれるほどの財をなし名声を博した。 明治維新を迎えるころには、旧上磯セメント会社の創立や公立病院の設立にも関わるなど、旧上磯町の礎を築いた人物の一人である。
関谷八太郎 1856-1940
安政2年(1855)会津藩○○○(福島県)に生まれる。14歳で自虎隊として戊辰戦争に参加。その後、東京で医学をめ、開拓使函館病院に勤めたのち、明治14年(1881)に開院した第11公立病院(後の上磯病院)に赴任。明治27年(1894) 独立開業し、地域医療に尽力した。
川田龍吉 1896年~1931年
安政3年(1880) 土佐郡杓田村(現・高知市元町)に生まれる。明治34年(1901)にロコモビル蒸気自動車を購入し、日本人初のオーナードライバーとなる。明治39年(1906)函館ドック専務取締役として就任。アメリカから購入した「アイリッシュ・コブラ―」という名のジャガイモの栽培を始める。これが後の男爵イモとして普及。函館ドック退社後、当別に農場を開設し機械化による農業を試みる。
ジェラル・プゥイエ(ジェラル・プーリエ) 1859~1947
安政6年(1859) フランス・カル○○○に生まれる。明治16年「めぐみの○○」に入会。明治30年(1897)に日本にトラピスト修道院を建設するために来日した。師はパイオニアに相応しい強靭な精神力の持ち主で、のちに帰化し、岡田普理衛と名乗りました。
中村長八郎 1867年~1931年
慶応3年(1867) 大野の植林の功績者で初代大野郵便局長・中村長平衛の長男として生まれる。大野町出身の道議会議員第1号。 向野の八郎池で鯉を養殖し、料理店を始めるため、周辺を整備しようとしたが、志半ばで亡くなる。 八郎沼公園の名は長八郎にちなんで命名された。
木村文助 18824-19534
明治15年(1882) 秋田県落合村に生まれ、秋田師範学校を卒業後、県内の小学校の訓導・校長を歴任。 大正6年(1917) 大正7年から昭和3年(1928)まで大野尋常高等学校の訓導兼校長として子供たちに綴り方を指導。日本初の児童文芸誌「赤い鳥」に投稿し、次々と入選させ、大野小学校が日本一の綴り方学校と高く 評価されるなど、特に綴り方教育(現在の作文教育の分野において優れた功績を遺した人物である。
三木露風 1889年-1964年
明治22年(1889) 兵庫たつの市)に生まれる。 大正9年(1920)4月に妻同伴でトラピスト修道院の文学講師として赴任。大正13年(1924)まで4年間、文学概論・美学概論などを教える。童謡「赤とんぼ」の歌詞はこのとき作られたものである。
カール・レイモン 1894年-1987年
1894年、オーストリア・ハンガリー帝国ボヘミア地方、現在のチェコで食肉加工を営む家に生まれる。大正11年(1922)伴侶となる稲田コウと出会い。
その2年後にまるまるまるハム店を開業。昭和8年(1933)旧大野町に食肉店を併設した工場を造る。その5年後共生買収され、 元町に移住。昭和23年(1948年)ハム製造を再開し、昭和50年(1983年)
現在の 「(株)函館カール・レイモン」を設立する。
上田 仁 1904-1966
明治37年(1904) 大野町で医師の子として 生まれる。大正15年(1926)ファゴット奏者として入団し、以後17年間ファゴット奏者を務める。
その後指揮法をヨーゼフ・ローゼンシュトックに学び、 昭和21年(1946)当方交響楽団の指揮者に就任する。その後楽団が東京交響楽団に改組された後も1964年まで引き続き常任指揮者を務めた。楽団から永久名誉指揮者の称号を与えられた。<br>
斉藤三平 1797年-1861年
寛政9年(1797) 南部領に生まれ、南部藩の勘定奉行、国産吟味役などを歴任したが、失職。安政5年(1858) 箱館奉行・竹内保徳の配下のもと、箱館の鉄山を管理する一方で、茂辺地村や 三ツ谷村の開墾、馬鈴薯の栽培と焼酎造り等を行った。文久元年(1861)5月に茂辺地で上磯に渡ってわずか3年で亡くなる。 渡辺地川の上流に高藤沢と呼ばれる場所がある。
藤田市五郎 1865年-1943年
慶応元年(1865) 大野村に生まれる。20歳のとき農学の勉強のため上京。村に戻った後、明治28年(1891)に用水路を開設するなど、村の〇作発展に尽力する。大正11年(1922) には温室をつくり、全国に先駆けてトマトケチャップやピューレーの製造にも成功する。
島崎藤村 1872年-1943年
明治5年(1872) 現在の岐阜県中津川市に生まれる。仙台で詩集「若菜集」を発行し名声を得る。
明治32年に秦冬子と結婚後、 散文作家として歩みだす。○○の対策「破戒」を自費出版しようと 企て、費用を○の実家に求めるため、明治37年(1904)7月27日~8月3日まで○○や上磯町○○の妻の別荘「寿〇園」に赴いた書いている。
山田喜平 1893年-1966年
明治20年(1883) 大野村本郷生まれ。大正3年(1914)農林省勤務を経て、綿羊場技師として道内の種羊場員を歴任。道内の綿羊の○○を確立する。昭和6年(1931)発行の「綿羊と其の飼い方」という本で綿羊料理を紹介。日本で初めてジンギスカンを紹介するなど、日本の綿羊の普及飼育に貢献した人物
小山内 龍 1904年-1946年
明治37年(1914)函館に生まれる。上京後独学で絵を学び、昭和6年(1931)「アサヒグラフ」懸賞漫画に入選。児童文学賞を受賞し、漫画家デビュー。同20年、空襲に遭い家族と大野町に転居。翌年、心臓病で亡くなる。代表作「昆虫放談」
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