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 発掘された日本列島2023 2025.01.31onojo

  発掘された日本列島2024展 大野城心のふるさと館
   大野城心のふるさと館 

   福岡県大野城市曙町3丁目8-8番
    092-558-5000 月休 撮影可

 
交通 ・JR博多駅からJR春日下車徒歩20分
・西鉄春日原駅から徒歩12分(JR博多から西鉄乗り換えが面倒。不慣れは上のルート)
特徴 小さな展示館

近隣観光地 大宰府天満宮
近隣博物館 福岡市博物館(金印展示。レプリカ\1000~) 鴻臚館 九州国立博物館(撮影禁止)
 
 目次


100我が町が誇る遺跡
110Aピリカ遺跡
111旧石器時代の大石器工房
113遺跡の位置と黒曜石原産地
114石刃接合資料
117巨大な石器と高度な石器製作技術
121炉跡の発見・寒冷気候への適応
122両面調整石器
123メノウの焼き入れ
124ピリカ遺跡の石製ビーズ
126石刃
128石刃石器

130B縄文からアイヌへ-大川遺跡
131北海道余市町
133注口土器
考察 注口土器の装飾
135亀ヶ岡式土器
136石製品
137晩期前半の埋葬状況
考察 イモガイ形土製品
141続縄文時代
143擦文時代-魚形石器
※考察 魚形石器
144装身具
※有孔石製品とは
145続縄文土器
146擦文土器
147続縄文恵山式土器群
150中世アイヌ期
152銙帯金具
153直刀
155近世アイヌ文化
156近世・近代の副葬品
158ニンカリとタマサイ

170C藤岡市
171群馬県藤岡市
172坂原遺跡
173谷地遺跡
174石製模造品
175装身具
177十二天塚古墳
181白石稲荷山古墳
182小林古墳群
183七輿山古墳
184小林古墳
190牛田古墳群
193牛田廃寺跡

200新発見考古速報

201縄文時代
210美々4遺跡
213フクロウ鉢形土器
215水鳥形土製品
※愛称ビビちゃん
217装身具
218盛土遺構出土
221土偶
※この土偶
223石製品

230唐堀遺跡
233遮光器土偶
234耳飾り
※耳飾り
235垂飾
236独鈷石・石棒
239彫刻のある木柱

260真福寺貝塚
263ミミズク土偶
265玉類
267石製垂飾
270環状土籬内出土品
273環状盛土貝種組成の変化
275骨角製品
280土製品

300弥生時代
310墓料遺跡
312筒形土器
315骨壺
弥生時代再葬墓分布図

330宿尻遺跡
332壺
334再葬墓で出土した土器
338装身具・サメ歯


400古墳時代
410赤堀茶臼山古墳
412埴輪
413女子男子人物埴輪
421馬形埴輪
423形象埴輪
424鶏形埴輪

500古代
510菅原遺跡
512廃寺瓦
531円形建物復元
531円形建物を復元する

560穴田東窯跡
563瓦窯

580六ノ域遺跡
582墨書土器
583陶磁器
586出土物
588瑞花双鳥文八稜鏡

600近世
610粟橋宿遺跡
613本陣跡出土物
614陶磁器
615小物
617西本陣跡
621栗橋宿本陣跡
627揚羽蝶文鬼瓦

700列島展の概要

800大野城会場 地域展
801日本遺産「西の都」
成立前夜の国際交流
811三累環頭大刀柄頭
813新羅土器 長頸壺
814新羅土器 蓋
916新羅土器 広口壺
818新羅土器 太頸壺
820須恵器窯

900特集1
 遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化
 洞窟・岩陰遺跡,その多様な世界
  洞窟・岩陰遺跡の分布
  立地の特徴と意味の変化
   白保竿根田原洞穴遺跡
   山形 日向洞窟
   長崎 福井洞窟
   広島 帝釈峡遺跡群
   神奈川 毘沙門洞穴群
   和歌山 磯間岩陰遺跡


910特集2
 文化的景観制度創設20周年
911文化的景観
911くらしの道
912すまいの知恵
913文化の舞台
914景観の守り人

933全国史跡整備市町村協議会の概要
 
 
 01外観
発掘展案内
講演会
発掘展のみどころ
順路 3F→2F→1F
3階 企画展示室
2階 特設会場
1階 地域展パネル展示
 02展示会場
 03あいさつ

ごあいさつ
           文化庁長官 都倉俊一

 我が国には四十七万カ所以上の遺跡が知られており、まさに遺跡の宝庫といえます。これらは単なる過去の遺産ではありません。それぞれの土地の気候や風土に適応して地域独自の生活を営み、世代を繋いできた私たちの先祖の文化的なDNAというべきものであり、私たちが未来を切り開いていく礎といえるでしょう。

 こうした遺跡をまもるため、毎年およそ八千件の発掘調査が行われ、数多くの成果が日々蓄積されています。文化庁では、そうした発掘調査のうち全国的に注目された成果を、多くの方々にご覧いただくことを目的に、平成七年度から「発掘された日本列島」展を開催しており、令和六年度は節目となる三〇回目を迎えます。これを記念して、図録では、過去に取り上げた遺跡や遺物を様々な角度から振り返り、特別付録 「発掘された日本列島の三〇年」として掲載しています。
さて、本年は中核展示として、『我がまちが誇る遺跡』と『新発見考古速報』を行うとともに、特集展示『遺跡から読み解く多様な歴史文化』 『文化的景観二〇年』を行います。

 『我がまちが誇る遺跡』は、継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の特性や魅力」に目を向け、発信するものです。今回は、北海道今金町、同余市町、群馬県藤岡市の3つの自治体を取り上げます。

 『新発見考古速報』では、縄文時代から近世まで、近年広く注目を集めた一〇遺跡を取り上げ、速報展示を行います。
また、特集展示として、『洞窟・岩陰遺跡、その多様な世界』と題して、日本列島に約六八〇か所存在する洞窟・岩陰遺跡のうち、代表的な六遺跡を紹介します。 さらに、本年は、平成十六年の文化財保護法の一部改正によって始まった文化的景観の制度が、令和六年で二〇年を迎えます。これを記念し、特集展示『文化的景観二〇年』として、重要文化的景観とその保護の取組を紹介します。

 今年度、本展覧会では三〇遺跡、約五六〇点の出土品等を、千葉県立中央博物館、弘前市立博物館、大阪府立弥生文化博物館・大阪府立近つ飛鳥博物館、大野城心のふるさと館の五館で巡回展示します。
多くの方々が本展覧会をご覧頂き、様々な発掘調査の成果を間近にすることで、我が国の歴史や文化の価値と多様性を感じ取り、発掘調査の意義と埋蔵文化財の保護への御理解を一層深めていただければ幸いです。
最後になりましたが、本展覧会の開催に当たり、御協力を賜りました関係各位に深く御礼を申し上げます。
          令和六年六月


Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago 2024
 Around 8,000 sites are excavated in the Japanese archipelago every year. Unearthed cultural properties tell an eloquent story of the history and culture peculiar to each area. However, the citizenry can interact with but a fraction of the many sites excavat- ed. Thus the Agency for Cultural Affairs has held an 'Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago' each year since 1995 to let as many people as possible peruse the products of particularly popular excavations around the country as soon as possi- ble and in an easy-to-understand manner. This year's exhibition will mark the 30th anniversary of the exhibitions.
 Three exhibits are planned for this fiscal year.
 The first is an exhibit entitled "Archaeological Sites, the Pride of Our Town". The Japanese archipelago, which is long and narrow from north to south, has long been home to a rich variety of local cultures since ancient times, and some of them have been handed down to the present day. This exhibit compiles the results revealed through ongoing research into each region and introduces the "appeal of the history of the region" as told through the unique archaeological sites in a readily under- standable way.
 The exhibit showcases three themed projects. One exhibition features Imakane Town in Hokkaido, which is home to the Pirika Sites, known as a large site where stone tools were made during the Paleolithic Period. A second focuses on Yoichi Town also in Hokkaido, which tells the story of the town's origins from the perspective of its cultural exchanges with other regions, based on the results of research of the Okawa Sites, a core concentration of sites from the Jomon Period to Early modern and Modern times located at the mouth of the Yoichi River. The third project features Fujioka City in Gunma Prefecture, which provides a narrative of the historical characteristics of the city's sites from the Jomon Period to historical ancient times, with a focus on "manufacturing."
 The second exhibit introduces 10 excavated sites around the country from the Jomon to the Early Modern Periods. We hope you will enjoy these recent excavations.
 The third exhibit is two special projects titled "Diverse History and Culture Uncovered from Sites" and "A Cultural Landscape over 20 Years." The former, "Cave and Rock Shelter Sites - Their Diverse Worlds," showcases the intriguing attractions of six selected sites from among the approximately 680 cave and rock shelter sites dotting the Japanese archipelago from the Paleolithic to the Kofun Periods. The latter introduces examples from around Japan to commemorate the 20th anniversary in 2024 of the Important Cultural Landscapes Selection System, which was launched with the partial revision of The Law for the Protection of Cultural Properties in 2004.


日本列島発掘調査展2024
 日本列島では毎年約8,000の遺跡が発掘されています。出土した文化財は、それぞれの地域特有の歴史や文化を雄弁に物語っています。しかし、国民が触れることができるのは、発掘された遺跡のほんの一部に過ぎません。
そこで文化庁では、全国各地で行われた特に人気の高い発掘調査の成果を、できるだけ多くの人に早く、わかりやすく見ていただくため、1995年より毎年「日本列島の発掘成果展」を開催しています。
 今年の展覧会は展覧会30周年の記念となります。

 今年度は3つの展示を予定しております。

 一つ目は「我がまちが誇る遺跡」と題した展示です。南北に細長い日本列島には、古来より多種多様な地域文化が根付いており、その一部は現代にも受け継がれています。本展では、各地域における継続的な調査研究の成果をまとめ、特徴ある遺跡を通じて伝わる「地域の歴史の魅力」をわかりやすく紹介します。

 この展示では、3つのテーマ別プロジェクトが紹介されます。
 展示の一つ目は、旧石器時代に大規模な石器が作られた遺跡として知られるピリカ遺跡がある北海道今金町を特集しています。
 二つ目は北海道余市町に焦点を当て、余市川河口に位置する縄文時代から近世・近代にかけての遺跡が集中する大川遺跡の調査研究成果をもとに、他地域との文化交流という観点から余市町の成り立ちを語ります。
 三つ目は群馬県藤岡市を取り上げ、縄文時代から歴史古代まで、同市の歴史遺産を「ものづくり」に焦点をあてて紹介します。

 第二のテーマ別展示では、縄文時代から近世にかけての全国各地の遺跡10か所を紹介しています。
最近の発掘調査を楽しんでいただければ幸いです。

 第三のテーマ別展示は、「遺跡から読み解く多様な歴史と文化」と「20年にわたる文化的景観」という2つの特別企画です。
 前者の「洞窟・岩陰遺跡 ―多彩な世界―」では、旧石器時代から古墳時代にかけて日本列島に点在する約680の洞窟・岩陰遺跡の中から厳選した6つの遺跡の魅力を紹介しています。
 後者は、2004年の文化財保護法の一部改正により始まった重要文化的景観選択制度が2024年に20周年を迎えることを記念し、日本各地の事例を紹介しています。







ごあいさつ 日本列島発掘調査展2024
 


 100我が町が誇る遺跡


我がまちが誇る遺跡

 発掘調査にとって大切なことは、新たな発掘された遺跡や遺物の「新発見」だけではありません。むしろ、たくさんの発見調査の成果を積み上げ、それを分析することで明らかになる「発見」のほうが、実は多くあるのです。
 「我がまちが誇る遺跡」では、そうした継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の個性的な歴史」 や 「魅力的な遺跡」を、全国の地方自治体の企画提案により紹介します。

 今回は、地域特有の石材を用いた大石器工房として知られるピリカ遺跡を通じて、旧石器時代の人々の高度な石器製作技術を紹介する北海道今金町、余市川河口に所在する縄文時代から近代にかけての拠点的な遺跡である大川遺跡の調査成果を基に、他地域との文化交流の視点から町の成り立ちを語る北海道余市町、縄文時代から古代における市内の遺跡を「モノづくり」をキーワードにその歴史的特性を語る群馬県藤岡市の三つの企画を取り上げ ました。

 南北に細長く起伏に富んだ日本列島には、古くから多様な地域文化が花開き、 その一部は現在にも継承されています。このような個性豊かな地域文化に目を向けることは、日本の歴史や文化の魅力・面白さ「再発見」することにもつながるでしょう。そして本企画が少しでも「地域を元気にする」ことにつながれば、と考えています。

 101entrance

我が町が誇る遺跡
 


 110A ピリカ遺跡

 ※ここに展示されているものは、2022年において、今金町のピリカ旧石器文化館に常設展示されているものとは全く異なるものです。
  おそらく、この発掘展のために出品された蔵出し品でしょう。
  きっと、この発掘展以降は、もう二度と見られることのない品々です。
  沖縄写真通信では北海道シリーズ№56でピリカ遺跡の常設展示を紹介します。が、この展示とは全く異なります。

 111旧石器時代の大石器工房   ◇展示コンセプト◇
 ピリカ遺跡が位置する今金町は、石器製作に適した良質な石材を得やすい環境にあります。ピリカ遺跡ではこれまでの発掘調査で総計20万点以上の旧石器時代の石器が発見されており、その折り重なるような出土状況からも、本遺跡は近隣に豊かな石材産地を持つ典型的な原産地遺跡であるといえます。
 石器の大半には堆積岩の一種である頁岩が用いられています。 長年にわたる調査研究により、 原石から石器をどのように作ったのか、製作工程を詳細に追跡できる接合資料が多く得られています。 次に多いメノウも近隣で入手しやすく、本遺跡を特徴づける石材です。
メノウは頁岩より硬く、加工が難しい石材ですが、加熱するなどして変質させて、石器づくりが行われていた可能性が指摘されています。
 本展示では、道南の主要石器石材である頁岩とメノウを使用した石器を通じて、旧石器時代の人々の高度な石器製作技術を紹介します。
A-1 旧石器時代の大石器工房 -ピリカ遺跡- 今金町教育委員会

北海道今金町 ◇まちの紹介◇
今金町は北海道南西部の渡島半島の付け根に位置します。 農地の広がる西側の平野部とは対照的に、 町北東部の山間地は貴重鉱物が豊富で、江戸時代にはゴールドラッシュが発生し、明治時代にはマンガン鉱山やメノウ採掘が当地域の一大産業となりました。石器に適した石材も産出し、 旧石器時代には大石器工房・ピリカ遺跡が営まれました。
A-2 町の紹介 -ピリカ遺跡- 今金町教育委員会

1. ピリカ遺跡周辺の石材環境
本遺跡は、本州の東北地方から北海道南西 部にかけて広がるグリーンタフ (緑色凝灰岩) の分布域に位置します。 遺跡北東を流れる東 方の太平洋に注ぐ河川では良質な頁岩が採 集できますが、西方の日本海に注ぐ河川からは良質な頁岩は得られません。一方、南側一帯はメノウが豊富に産出し、現在でも原石を 採集できます。
A-3 旧石器時代の大石器工房 -ピリカ遺跡- 今金町教育委員会


旧石器時代の大石器工房
展示コンセプト
北海道今金町
まちの紹介

美利河マンガン鉱山
後志利別川
ピリカベツ川
美利河1砂金採掘跡
チュウシベツ川

ピリカ遺跡
美利河マンガン鉱山
メノウ採石場
美利河マンガン鉱山
美利河ダム
美利河2砂金採掘跡
ピリカ湖
後志利別川
1.ピリカ遺跡周辺の
石材環境

後志利別川
ピリカベツ川
史跡ピリカ遺跡
遺跡周辺の石材環境

頁岩
メノウ
分水嶺

 ※マンガン鉱床はマンガン団塊による。シアノバクテリアによってマンガンが集積され、マンガン団塊となって海底に堆積する。
 これがやがて鉱床となって地表に出て来たもの。
 113
2.ピリカ遺跡の位置と道内の黒曜石原産地
北海道では黒曜石の四大産地 (白滝・置戸・十勝三股・赤井川)が知られており、特に道東の白滝は全国随一の埋蔵量規模を誇ります。
ピリカ遺跡から出土した黒曜石製石器はその大半が(近隣である)赤井川産ですが、他の3つの産地のものもみられ、北海道全域にわたる黒曜石流通ネットワークの存在が推定されます。

2.ピリカ遺跡の位置と道内の黒曜石原産地
遺跡位置と道内の黒曜石原産地 A-4
遺跡位置と道内の黒曜石原産地
原産地
白滝・置戸・十勝三股・赤井川
遺跡位置
狩場山地・ピリカ遺跡・遊楽部山地
渡島半島


3.ピリカ遺跡の立地と各調査区
遺跡はピリカベツ川左岸の段丘面上に立地します。 ここは、日本海と太平洋の分水嶺にあたります。
分布調査により、西から標高135mの低位面(D地点)、150mの中位面(E・A・B地点)、180mの高位面(C・K地点)の各面に石器が密集して分布することがわかりました。

3.ピリカ遺跡の立地と各調査区 A-5
遺跡の各地点
遺跡の各地点
史跡指定範團
史跡 ピリカ
石器製作跡
グイマツ
ピリカ旧石器文化館


4.北海道における旧石器時代編年研究への貢献
北海道は一般的に、 土壌の堆積が薄いため、層位的に石器群の変遷を確かめることが困難です。
しかし、ピリカ遺跡の調査では、内容の異なる複数の石器群が層位的に上下関係をもって発見され、
北海道の旧石器時代編年研究の基軸となりました。

4.北海道における旧石器時代編年研究への貢献
ピリカ遺跡における
石器群の移り変わり
晚氷期 1万5000年前以降

小型舟底形石器群
 (A·B地点)
有舌尖頭器石器群
(A地点)
忍路子型細石刀石器群
(E地点)
最寒冷期
 2万年前~1.5万年前

搶先形尖頭器石器群
 (A地点)
広郷型細石石器群
 (A·C·E地点)
峠下型2類細石刀石器群
 (D地点)
幅有舌尖頭器石器群
 (D地点)
最終氷期最寒冷期
 2.5~2万年前

峠下型1類細石石器群 (A地点)
美利河型細石石器群 (A地点)
最終氷期最寒冷期
 2.5万年前~2万年前

蘭越型細石刀石器群
 (A地点)
石製小玉(A地点)




ピリカ遺跡における
石器群の移り変わり

晚氷期 1万5000年前以降

小型舟底形石器群
 (A·B地点)
有舌尖頭器石器群
 (A地点)
忍路子型細石刀石器群
 (E地点)

最寒冷期
 2万年前~1.5万年前

搶先形尖頭器石器群
 (A地点)
広郷型細石石器群
 (A·C·E地点)
峠下型2類細石刀石器群
 (D地点)
幅有舌尖頭器石器群
 (D地点)

最終氷期最寒冷期
 2.5~2万年前(後期)

峠下型1類細石石器群
 (A地点)
美利河型細石石器群
 (A地点)

最終氷期最寒冷期
 2.5万年前~2万年前(前期)

蘭越型細石刀石器群
 (A地点)
石製小玉(A地点)

 114石刃接合資料 ピリカ遺跡 旧石器時代
石刃接合資料
 115剥片石器 ピリカ遺跡旧石器時代
剥片石器
 117
5. 巨大な石器と高度な石器製作技術
展示資料はピリカ遺跡最大の接合資料です。
高さ34cmの石刃核に石刃や剥片が接合し、高さ44cmに復元されました。
石核の打撃部を 山形に調整する等、 石刃の打ち割りのために 必要な力を一点に集中させる高度な技術が見 られます。
その製作方法は現代の研究者でも 再現が困難なものです。

A-補 長大な石刃へのこだわり
25点の石刃・剥片を剥ぎ取っています。 接合状態で長さ32cm、 最も長い石刃は約 27cmを測ります。 打点付近がいずれも山 形に調整され、 石刃剥離のたびに打点が 低くなっています。 石刃剥離が首尾よく 進むよう、 入念に調整するこだわりがみ られます。

5.巨大な石器と高度な石器製作技術 A-7
K地点の石器出土状況(平成10年)
A-補 長大な石刃へのこだわり
A-補
石刃・石刃接合状況
石刃接合資料
ピリカ遺跡

 121
6.炉跡の発見・寒冷気候への適応
ピリカ遺跡では炭化物が密集した場所も多数見つかり、これらは旧石器時代の炉跡と考えられます。 樹種同定によると全て針葉樹で、花粉分析の結果からも、当時は現在よりも寒冷で乾燥した気候であったと推定されます。
これらの炭化物は、近くの針葉樹を薪にして暖を取り氷河期を乗り越えた人々の 証といえるでしょう。

6.炉跡の発見・寒冷気候への適応 A-8
石器と共に出土した炭化物層

7.旧石器文化の発信拠点へ
ピリカ遺跡は遺跡規模の大きさだけでなく、不明な点の多い旧石器人の生活を考察する上で欠くことのできない遺跡です。
これまでの発掘調査面積は全体の1%にすぎず、膨大な量の石器が地中に良好に保存されています。
この貴重な遺跡を将来世代に継承し、調査研究がさらに進むことが期待されます。

7.旧石器文化の発信拠点へ
遺跡近景
 122両面調整石器
両面調整石器
尖頭器
両面調整石器
調整剥片 接合資料 調整剥片 接合資料
 123
A-補 メノウの焼き入れ
メノウ製石器には赤く変色したものが見られます。 現代のメノウ職人によると、薄く剥離しやすくする効果があるとされます。事前に焼き入れすることで石器を作りやすくした可能性が考えられます。

メノウの焼き入れ 石核

調整剥片 接合資料
 124
A-補 ピリカ遺跡の石製ビーズ
 ピリカ遺跡からは旧石器時代の石製ビーズが7点見つかっています。 形状は丸~台形で、直径は4~9mm。 ひもを通し首飾りとして使用されたと考えられます。
 旧石器時代の装身具は大変珍しく、発見当時、「日本初の旧石器時代装身具の発見」としても注目されました。現在でも列島内での発見は十指に満たない希少なものです。
 かんらん岩、ダナイトと呼ばれる大陸起源の可能性がある石材で製作されていること、ピリカ遺跡が営まれた時期は、北海道は大陸と地続きであることなどから、ビーズの系譜は大陸にあると考えられています。

A-補 ピリカ遺跡の石製ビーズ
炭化物 峠下型細石刃核

広郷型細石刃核 忍路子型細石刃核
 126
A-補 石刃
旧石器時代、狩猟に用いる石槍の素材を石刃と呼んでいます。
ピリカ遺跡では、原石に打撃を加えて縦長の石刃を剥ぎ取っています。

この展示資料は、遺跡から出土した石刃をジグソーパズルのように接合して、原石の姿を復元したものです。そのため、足りない部分もあります。
復元することで、時間を巻き戻すように石刃の製作工程を再現できました。実際にはあまりに高度な技術のため、石器研究者でも再現は不可能だということです。

A-補 石刃 A-補
接合資料作業工程図
石刃剥離(一度目)
打面の更新
石刃剥離 (二度目)
打面の上下入れ替え
石刃剥離 (三度目)
石刃を剥いだ後の残核

A-補 高度な石器製作技術
本資料は、長さ18cmの石核に52点の石刃や剥片が接合した例です。 どの順番で石刃が取られたのかが分かります。
また、 裏面に凹凸のある礫面がみられ、原石が露頭から採集されたことを示しています。

A-補 高度な石器製作技術 石刃接合資料


 128石刃石器 白滝遺跡
削器
石刃
槍先形尖頭器
細石刃核
縦長剥片

 ※年代の解説がない。石刃技法の石器群と、その後の細石刃技法の石核との展示と思われる。
  縄文時代初頭の石刃鏃技法の、薄くて長い石刃技法とは異なり、太くて長い旧石器時代の石刃技法のようです。
  その後登場した細石刃技法の石核が展示されていると思われる。

 ※石器テクノロジーの発達とデザインの変遷
 


 130B 縄文からアイヌへ
       ―文化交流から見る北海道の文化ヒストリー―

    大川遺跡

縄文からアイヌ文化へ -文化交流から見る北海道の文化ヒストリー- ◇展示コンセプト◇

 南北の文化から影響を受けながら独自の文化を形成してきた北海道において、余市町は縄文時代より多様な文化が混じり合う場所であり、
文化・交易の中継地として、また石狩平野に向 かう玄関口としての役割を果たしてきました。

 今回紹介する大川遺跡は、 天然の良港である 余市湾の中央部に位置し、発掘調査によって縄 文時代後晩期から近代にかけての多くの遺構・ 遺物が出土したことで、長期にわたって周辺地 域との文化的な交わりを知ることができる遺跡 であると分かりました。

 特に墓制の多様さや、交易品の豊富さは北海 道内でも異彩を放っています。その様子は北海 道独自の文化が形成される過程の縮図とも言え、余市町の歴史のみならず、北海道史においても重要なものとなっています。
 本展示では、これらの調査成果から副葬品を 中心に各時代の特徴や交易による文化交 流を紹介します。

B-1縄文からアイヌ文化へ

-文化交流から見る北海道の文化ヒストリー

 131
北海道余市町 ◇まちの紹介◇
余市町は、北海道の西部、 積丹半島の東の付け根に位置する人口約1万7千人の町です。町の北側は日本海に面し、他の三方はゆるやかな丘陵地に囲まれており、豊かな緑に囲まれた平坦地に市街地が形成されています。
海岸線沿いには、続縄文時代の洞穴遺跡である史跡フ ゴッペ洞窟があり、その近くの丘陵部には西崎山環状列石など縄文時代から続縄文時代の遺跡が分布します。 また、豊富な海産資源に恵まれ、近世以降はニシン漁が盛んに行われ、漁場の発展とともに現在の町の基礎が築かれました。B-2

縄文からアイヌへB-1 旧下余市運上家
旧余市福原漁場
大川遺跡
大谷地貝塚
フゴッペ洞窟
西崎山環状列石


1. 文化の結節点で生まれた多様な葬送
大川遺跡からは
縄文時代から近世にかけて多くの土坑墓が見つかり、葬送儀礼や副葬品の時代的変遷や多様性を知 ることができます。
続縄文時代以降、貴重な副葬品が多く見つかり、余市湾や石狩低地帯との地理的関係から交流・交易拠点として発展したことを想起させます。
擦文時代は律令国家、
中世以降は北方集団や和人社会との交流・交易の様子が明瞭で、それらの文化を享受し取り込んだことで葬送儀礼が多様化したと考えられます。

1.文化の結節点で生まれた多様な葬送

B-3
調査地点位置図
遺構分布図

遺構分布図
縄文
土製品・縄文火葬墓
石棒・玉類・垂飾・握り石・土器
人面注口土器

続縄文
石器
魚形石器
管玉・恵山式土器
擦文
住居跡
「大」字墨書土器
住居跡
青銅製垂飾(擦文再葬墓)
銙帯金具(遺構外)
直刀(擦文墓)
中世アイヌ
骨角器
方形配石墓

近世アイヌ
タマサイ・ニンカリ
アイヌ墓

近代
石組炉


2.縄文時代 ―北東北との繋がり―

 大川遺跡の主要な時期は縄文時代晩期の亀ヶ岡式並行期から続縄文時代前期になります。縄文時代の墓には火葬墓、 木槨墓、集石墓や立石を持つものなどがあります。また、東北地方を中心に盛行した亀ヶ岡文化が北海道南部に広がり、大川遺跡でもその影響を受けた土器が見られるほか、新潟県糸魚川産のヒスイ製玉製品も多く出土しており、地域間交流が盛んだったことがうかがえます。

火葬墓 (GP-445) 墓の面に配石があり、土坑の北東に高さ約50センチの立石が配置されていた。
配石の中央部からは土製品が見つかり、(○の位置)遺体部にはサ 歯や礫石器などが置かれていた。

2.縄文時代-北東北との繋がり-
B-4
火葬墓 (GP-445)

・立石
・〇位置にサメ歯・
 礫石器を副葬
※火葬墓とは遺体を土壙墓の中で、薪の上に置いて更に薪を重ね、火を付けて焼却し、
 そのまま土を掛けて埋葬したものと思われます。埋葬場所で火葬に付す。

本州の田舎でよく見かける、
“野”(noo:自宅から葬列を組んで運んだ葬儀場所。出入口に六地蔵が置かれている)から
 更に少し離れた場所に火葬穴があり、焼却して、翌朝骨揚げし、別場所の墓地に埋葬する。

アイヌでは通常死でない場合、集落から離れた場所で火葬にする。通常死の場合は、
墓標を設けた土葬と記憶していたが、いろいろな埋葬法があったようだ。記憶定かでない。

 133注口土器 大川遺跡 縄文晩期~続縄文時代恵山期(続縄文初期)

注口土器

ここに注目!
亀ヶ岡文化の影響を受けた香炉形の注口土器で、注口株に人面が表現されています。

ここに注目! 縄文後晩期の亀ヶ岡式の土器文様が施文されている。 
深鉢 縄文土器    石棒
※この石棒は、ステック状で、男根形石棒ではありません。
この先端の尖りや、手元にすべり止め状の刻みがあることから、
石剣ではないようですが、何かの儀礼に使ったのかもしれません。 

※考察 注口土器の装飾
 縄文後晩期の東北北部の注口土器には、注ぎ口を陰茎に見立て、注口の両側に陰嚢を表現することが多い。
 これは東日本に薄く広がる意匠のようです。
 渡島半島もこの影響を受けているのではないかと思ったのですが、ここに揚げられた注口土器には人面が描かれています。
 渡島半島でも陰嚢意匠を受け入れなかったのか、あるいは、この土器だけが人面で陰嚢土器もあったのかもしれません。

 二つ目に気になるのが注口(そそぎぐち)が貼り付けられていることです。現代の「やかん」の注口も別作りを貼り付けています。
 その際に、注口の左右と下端の三か所にリベットが見られます。
 この土器には左右にリベット状の高まりがあり、下部には三カ所目の密着のための押し付け圧痕があり、それがあたかも顔に見えて、
 その真下にくちびるのような表現をいたずら書きしたかのようです。

 この件でわかったことは、注口土器は現代のやかん同様に、そそぎぐちは貼り付けるということ。
 その際に、はみ出た粘土を陰嚢状にして本体に密着を図ったらしいこと。ここではそれが密着時に顔に見えたために+αしたこと。
 逆三角形の頂点を示す三点があると、人間には顔に見えると遺伝子に刷り込まれているそうで、この場合も、そこからのいたずらかも。

 135亀ヶ岡式土器
亀ヶ岡式土器

 香炉型土器

香炉形土器         鉢
精製土器
 

※考察 香炉形土器の使用
 この土器は明らかにランプではない。では香炉で何を燃やしたのか。よい香りのする香草。だろうか。
 大和政権以前に、北日本の蝦夷が中国大陸に朝貢した際に、香草を捧げたと聞いています。それだったのかもしれません。
 しかし、そんな貴重な草がそうそうあるわけもないとも言われます。

 先日YouTube動画で、大麻をくすべたのではないかとの説を聞きました。大麻は、旧石器時代から持ち込まれ、弥生時代に到来した
 カラムシとは違い、ロープの材料として使われていたそうです。そしてこれは当時どこにでもあり、その幻覚作用を発見していても
 おかしくはないと考えられます。





B-補 大川葬法
 大川葬法とは、 晩期前葉の墓坑にみられる特殊な埋め戻し状況から命名された葬法で、墓坑を埋め戻す際の土に余市川対岸から搬入された
砂質凝灰岩粒」を意図的に使うのが特徴です。現在 のところ大川遺跡でのみ確認されています。
 砂質凝灰岩粒の堆積には幾つかのパターンが認められ、通常の埋葬とは異なる手の込んだ葬法と見られます。

※砂質凝灰岩には、石英(透明な灰色)、斜長石(白色)、角閃石・輝石(黒色)を含む、とあり、キラキラ輝く美しい砂のようです。

着色部分に「砂質凝灰岩粒」が撒かれていた

 土器 (副葬品と見られる)


浅鉢

 136石製品

 ※死後の世界を信じ、生前同様の地位や権力、生業を維持できるように、権力者や富裕層には威信財。また、磨り石や石鏃も埋納された。 
石棒
垂飾、玉類 握り石
用途不明
石鏃
 137
B-補 縄文時代晩期前半のお墓の埋葬状況
四体が埋葬された合葬墓で、いずれも西方頭位で埋葬されています。
頭部にはサメ歯、首の周囲や肩には石製の玉類、胸の上には石棒が三つに折られた状態で出土しました。

縄文晩期前半の埋葬状況
写真は図面の上半分
※縦横4m程の土壙に、4体を埋葬する。再葬墓ではなく合葬墓。
遺体をそのまま埋葬した。
投げ捨てられたのではなく、A垂飾、B玉、C石棒、D?と、それ以外にサメ歯、玉が副葬されていることから、地位のある人の遺体。

冬季の土壌凍結期に死亡した人を、あらかじめ掘っておいた墓壙にまとめて埋葬したのでしょうか。凍結期には、穴が掘れず、土が掛けられないのでこのような埋葬だったのかもしれません。腐敗が進む遺体と半年も暮らすのは無理なことでしょう。
 138
サメの歯 耳栓
  玉類、サメ歯模造垂飾      勾玉   
土製品
イモガイ形土製品
有孔土製品
有孔土製品

※考察 イモガイ形土製品
 この土製品はイモガイを横に断ち切った切断面を表しているとの名付けです。しかし、 私には、サザエの蓋にも見えます。

 縄文時代晩期の東北地方から北海道南西部にかけて出土する亀ヶ岡文化の装飾品。
 イモガイ製の装飾品を粘土で模したものと考えられ、モデルとなったイモガイ製の装飾品の同地域での流行を物語る。
 イモガイは南島のみに生息することから、その素材となるイモガイの入手にあたっては九州を経由していた可能性が指摘されている。
  引用「イモガイ形土製品」文化財オンライン

 展示のイモガイ形土製品は、円盤の上に螺旋を描いているだけだが、本来は、漏斗状の円錐内部に螺旋を描くものでした。
 するとこの作者の技量が劣っていたか、サザエの蓋を作ったのか、当時大流行していた漏斗状螺旋のイモガイ製品のコピーとしたのだろうか。
  
 これらのことからわかるのは、
 この時期、紀元前10世紀頃から活動を開始した、(中国系)半島人の貝交易船が、頻繁に南島からの貝製品を日本海沿岸にもたらして、
 北方の品々を入手していたと思われる。
 
 
 140
 141
3.続縄文時代 ―独自文化の発展―
 北海道には稲作文化が伝わらず縄文時代からの生活様式を発展させた「続縄文文化」が形成されます。
東北以南との交易で入手した鉄器などの金属器がもたらされたことにより狩猟、漁労、採集の技術が発達しました。
続縄文時代前半では、道南部を中心に広がる恵山文化の土坑墓が多数確認され、道央部を中心に広がる後北文化の墓も少数検出されるなど、
両文化の境界としての特徴を表しています。
また、サハリン産のコハク玉や本州産の碧玉などが出土しており、南方や北方との交流・交易を活発に行っていたことがわかります。
 ※南方からは半島貝交易船が、北方からは靺鞨の交易船が北海道に来ていたことになる。

続縄文時代の墓
いずれも南東頭位。 恵山文化は、 平面形が円形で底面にベンガラが散
布され、屈葬が多い。 土器、石器、剥片が副葬され、 魚形石器が副葬され るのが特徴。 後北文化では、 平面形が楕円形が多く、 ベンガラは薄く散 布される。 副葬品には土器、 ガラス玉などが多い。

3.続縄文時代
-独自文化の発展-
続縄文時代の墓 恵山文化の墓(GP-107)
後北文化の墓(GP-88)


4.擦文文化 ―活発化する交易―
 7世紀になると本州の文化の影響を強く受け、本州の土師器と同様の擦痕を施した「擦文土器」やカマドを備えた方形の竪穴建物を作るようになり、生活様式が大きく変化します。
この時代を「擦文時代」と呼びます。鉄製品が多く流入し、東北で生産された須恵器や土師器、米などがもたらされました。
大川遺跡では約70棟の竪穴建物が見つかり、各々10~15棟単位で集落が営まれていたことが分かりました。
土坑墓からは、本州からもたらされたとみられる直刀が出土し、再葬墓からは、北方からの交易品と推測される青銅製垂飾も出土しました。

4.擦文文化
―活発化する交易―
竪穴建物(SH-37)遺構図
6.2×6.1で床面が上下二段の ベンチ状を呈している。
平成5年度調査地全景
擦文時代の隅丸方形竪穴建物70棟を確認
図面の竪穴建物写真

 143擦文時代 大川遺跡

B-補 魚形石器 続縄文時代(恵山文化)

海洋での漁労・狩猟を主な生業としていた道南の恵山文化に伴う漁労具と考えられる特徴的な石器で、擬似餌や釣り針、錘などの機能が想定されています。 頭部と尾部に溝が彫られており、 副葬品として墓 から出土することが多いです。

魚形石器 続縄文時代
(恵山文化)
魚形石器の推定使用法
魚形石器
ルアー

※考察 魚形石器
 まるごと石製のルアーは重く、かなりの速度で舟を漕がなければ、海底に着いてしまうか、上を向いて船べりにぶら下がり疑似餌とならない。
 屈強の男たちが必死で漕いでいたのだろうか。それとも、帆を張って舟を流していたのだろうか。
 漕いでは30分と持たない過酷な漁となるから、やはり帆掛け船だったのではないでしょうか。

 144装身具
コハク玉 有孔石製品

※有孔石製品とは何でしょう。材質も何にもないのですが、琥珀製平玉とは別でしょうか。
 白い平玉と垂飾のような有孔石製品があるので、やはりこれも首飾りだったのでしょうか。
 コハク玉は真ん中にヒモを通してしまうだけですが、白い石製品は、穴が大きいので、白い肌と穴を見せるように特殊な紐かけをして
 真ん中に青い垂飾を垂らしたのではないでしょうか。


石鏃
有柄石器
  管玉  ガラス玉       
 145下

 145続縄文土器
続縄文土器
深鉢
後北式土器
注口土器

 146擦文土器
擦文土器 擦文土器
擦文土器 須恵器 坏 土師器 坏

 147続縄文土器 恵山式土器群
恵山式土器



恵山式土器

深鉢

 148擦文土器
擦文土器 擦文土器
擦文土器
 

 150中世アイヌ期
 151

5.南北の交流
 北海道では5~9世紀頃、道北から道東部にオホーツク文化が広がりました。
オホーツク式土器は日本海沿岸及び北海道中央に広がる石狩低地帯の遺跡でも確認され、オホーツク文化の遺跡からは本州で製作された刀などが見つかります。
 大川遺跡でもオホーツク土器や北方に関係する遺物が出土し、石狩低地帯の玄関口として、日本海を通じた交易の中継地の役割を果たしていた可能性が考えられます。 B-7

青銅製垂飾出土状况
 楕円形の土坑墓 (GP-50) から骨角器と共に出土。
オホーツク文化の青銅製鐸 (大型の鈴)とはやや形が異なり、中国内蒙古の出土品との類似が指摘される。擦文時代前半。

5.南北の交流 青銅製垂飾出土状况
擦文時代前半


6.中世アイヌ文化 ―アイヌ文化の形成―
松前藩の『新羅之記録』によれば15世紀半ばのコシャマ インの戦いの前までには日本海沿岸では余市町まで和人が進出していました。
これを示すように、被葬者が和人である可能性が指摘されている火葬墓が見つかっています。
骨角器や意図的に曲げられた刀子、 漆器椀、 元祐通寳 (宋銭)、目貫(刀装具)、座金、鋲、石突、青磁椀などの副葬品が出土しているほか、
中世の和鏡や武具馬具など和人文化に関連する資料も多く出土していますが、アイヌと和人が接触しながら暮らしていたと推測されます。

火葬骨が含まれる方形配石墓
遺構の底面に角礫が直線的に配列される。 その形態や副葬品から和人墓の可能性や
北方とのつながりが指摘されている。 中世アイヌ文化期 (14~15世紀)。

6.中世アイヌ文化
アイヌ文化の形成
火葬骨が含まれる方形配石墓

B-8
 152
B-補 銙帯(かたい)金具 擦文時代
 律令制下に朝廷から役人に配られたとされ るベルトの飾り金具です。
大川遺跡では、正方形の巡方とカマボコ形の丸鞆がそれ ぞれ1点ずつ出土しました。
また、巡方に は上部2カ所に穴が開けられおり、本来の用途とは異なる利用が行われたと考えられます。
北海道には律令制が及んでいませんが、律令国家と何らかの接触があったことを示す物的証拠として貴重な遺物です。

銙帯金具 鉸具 (かこ)
巡方 (じゅんぽう) 丸鞆 (まるとも)
鉈尾 (だび)
青銅製垂飾 銙帯金具
銅製巡方
銅製丸鞆
これらは、アイヌの首飾りなどに転用されていた。
 153直刀
直刀
中茎側(なかご) 切先側
 155
7.近世アイヌ文化 ―アイヌ文化の確立―

近世になる頃には、今に続く伝統的なアイヌ文化の様相が明確になります。お墓には、 漆器や太刀 (エムシ)、キセル、鉄鍋などの鉄製品、タマサイやニンカリと呼ばれるガラス玉の首飾りや耳飾りが副葬されます。これらは和人との交易の中でアイヌが毛皮や海産物と引き換えに入手したり、労働の対価として入手したりしたものと考えられます。

7.近世アイヌ文化
アイヌ文化の確立
遺物出土状況

漆器・歯・ニンカリ・古銭
頭部・ニンカリ・ガラス玉・古銭・漆器


8.近世・近代  ―ニシン漁と和人の流入―

近世になると松前藩が蝦夷地を約80か所の「場所」
に区分し、交易拠点である運上家を置きます。余市町は

ヨイチ場所とされ、上下(かみしも)ヨイチ運上家が置かれました。
大川遺跡は、上ヨイチ運上家があった場所と推測され、調査では礎石や矢来 (石垣) などが見つかっています。
そのほか、現在余市町の礎を築いたニシン漁に関連するものと して、和人集落のニシンの加工に関係する遺構・遺物も出土しています。
このように大川遺跡は、縄文時代から近代にかけて長期間にわたる文化の交わりや移り変わりが確認できる重要な遺跡です。

8. 近世・近代
ニシン漁と和人の流入

・『西蝦夷地ヨイチ生ノ風景』
 安政年間(1850年頃)のヨイチを描いた鳥観図
・史跡・重要文化財旧下ヨイチ運上家
 嘉永6(1853)年にヨイチ場所の請負商人であ
竹屋林長左衛門によって再建された。現存する 唯一の運上家。
・上ヨイチ運上家
 大川遺跡の位置に描かれている。

 156近世・近代の副葬品
太刀
 157青銅製品
和鏡

 骨角製品
骨角器 骨製針入れ
銛頭(キテ)
弓弭
骨製針入れ
骨鏃、弓弭
 158ニンカリとタマサイ
ニンカリ タマサイ
 
 


 170C 藤岡市


モノづくりが祈りを繋ぐ ◇展示コンセプト◇

 藤岡市では今和5年から、文化財保存活用地域計画の作成に取り組んでいます。
文化財保存活用地域計画とは、文化財の保存・活用に関し市町村が目指す目標や取組の具体的な内容を記載した、アクション・プランです。

計画作成の中で直面した主要な課題は、 藤岡市の歴史文化の特徴を明確に定義することでした。
藤岡市は先史時代から近代にかけて多種多様な遺跡を有していますが、市内の歴史文化の特性について一貫した視点で捉え、検討したことはありませんでした。

 この点について検討を重ね、問い直す中で、浮かび上がってきたのが「モノづくり」というキーワードです。
ここでいう「モノづくり」は、製品を生産することだけでなく、特定の地域あるいは広範囲にわたる流通ネットワークを持つ「モノ」の生産を意味しています。 作られた「モノ」は各時代の祭祀や信仰の場で使われ、人々の精神的な拠り所を創出する道具となりました。

 このような視点に基づき、 藤岡市の歴史的な特性「モノづくり」という新たな視点で捉え直し、地域の価値を再構成して紹介します。

モノづくりが祈りを繋ぐ
藤岡市の歴史文化の特性
藤岡市の歴史文化の特性
交流
零戦
養蚕 清温育
藤岡瓦
聖徳太子
供養塔
板碑
モノづくり 信仰
石製模造品
弧状列石
配石墓
埴輪
古墳
瓦・須恵器

 171
群馬県藤岡市 ◇まちの紹介◇

藤岡市は、群馬県の南西部に位置しており、東は神流(かんな)川を隔てて埼玉県に接する交通の要衝です。
古くより中山道の脇往還(わきおうかん)である下仁田(しもにた)街道十石(じっこく)街道が交差する「群馬の玄関口」と して重要な役割を担ってきました。
人口は6万2千人で県内8番 目の規模です。市域は東西に長く、利根川支流の烏川・鏑川(かぶらがわ)・鮎川・ 神流川といった複数の河川に囲まれ、市の北端で合流しています。
北部の平野部は、鮎川と神流川が運んだ土砂によって形成された扇状地で、藤岡低地・台地という平坦な地形があり、現在の市街地が広がっています。
南部には関東山地に連なる丘陵地と山間部があり、変化に富んだ地形を形成しています。

群馬県藤岡市
◇まちの紹介◇
藤岡市の位置
藤岡市全景(北から)
坂原遺跡
下日野・金井窯跡群
浄土院浄法寺(緑野寺)
吉井・藤岡古窯跡群
竹沼遺跡
十二天塚古墳
牛田廃寺跡
牛田古墳群
史跡七奥山古墳
     


1.藤岡市の地質と豊富な天然資源
市域は地勢の多様性に加え、異なる地質が出会う変換点にあり、藤岡低地と藤岡台地には藤岡粘土層が広がります。
地層からは凝灰岩牛伏砂岩が採取でき、山間部には三波川(さんばがわ)変成帯に由来する三波川結晶片岩の露頭が広範囲に見られます。
藤岡市は日本でも数少ない三波川変成帯が地表に露出する地域で、地質名称の標式地ともなっています。
三波川結晶片岩は河川に押し流され、転石としても豊富に採取することができます。

1.藤岡市の地質と豊富な天然資源
  天然資源
 藤岡粘土
 新第三紀の地層(凝灰岩・牛伏砂岩)
 三波川変成帯(三波川結晶片岩、滑石、蛇紋岩)


2.山の遺跡と平野の遺跡  縄文時代後期~晩期

藤岡市のモノづくりの歴史は、縄文時代晩期に始まります。
坂原遺跡では、周囲で産出する三波川結晶片岩を使い、石棒石剣独鈷石が製作されました。※独鈷石=東日本の縄文後晩期の磨製石器

坂原遺跡で作られたこれらの石製品は、平野部の大集落である谷地遺跡群に運ばれ、祭祀に使われました。
石製品は栃木県や千葉県といった関東の各遺跡へも流通しており、広範囲にわたる流通ネットワークを築いていたと考えられます。

中栗須滝川Ⅱ遺跡全景 (上が北)
藤岡台地上に営まれた大集落。
北側に弧状列石、 南側に居住群が展開する。

弧状列石
河川で採取された結晶片岩などを用いて構築。 石の面や向きがそろっており、明確な意図を持って並べられている。
縄文人の祭祀の場であったと考えられる。

配石墓
細長い結晶片岩で蓋がされていた。

谷地C遺跡(上が北)
中栗須滝川Ⅱ遺跡の北側の低地に位置する。結晶片岩を使った片岩墓群

2.山の遺跡と平野の遺跡
中栗須滝川Ⅱ遺跡全景 (上が北) 弧状列石
配石墓 谷地C遺跡(上が北)

 172坂原遺跡
坂原遺跡
石剣未成品 左2~4:石剣未成品
左端:石棒未成品

独鈷石未成品

 173谷地遺跡
谷地遺跡
石剣×2
独鈷石

 174
C-補 石製模造品
柔らかい石材を使って器物などを小型に 模造したもの。 最初は古墳の副葬品とし て使われ、 その後、 祭祀遺跡からも出土 するようになります。

石製模造品

石製模造品
 
    鏡、勾玉。
刀子、斧、鎌。
壺、杵、ヤリガンナ、ノミ。
剣。
下駄、容器。

祭祀想像図
初期磐座(いわくら)祭祀 

 模造品の製作
➀原石から粗加工 ②石製模造品の紡錘車未成品
③石製模造品(紡錘車)

 175石製装身具 牛田古墳群
牛田古墳群 石製丸玉
石製勾玉 牛田古墳群
・埴輪を伴わない小型円墳が7基検出されている
・石室は全て模様積み石室。天井石は消失しているが、壁面は良好に依存している
・石室内は盗掘を受けていたが、ガラス小玉や石製勾玉・丸玉などの副葬品が検出された
・前庭及び周溝内からは須恵器大甕が複数検出された
・周溝底面からは、馬を埋設した土坑が複数検出された

 177十二天塚古墳
  ・白石稲荷山古墳の陪塚
  ・直径22m高さ2.6mの円墳
  ・埋葬施設は竪穴系礫槨 引用古墳マップ
石製品・石製模造品 石製品・石製模造品
刀子形
模造品
  剣形・有孔円盤  杵形
 
(きね)形? (きぬた)形ではないのだろうか。


C-補 滑石製合子 十二天塚古墳採集
滑石製合子は蓋と身からなる容器です。合子形の石製品は全国でも約70例と出土事例の少ない遺物で、本例は東国で唯一の事例です。発見時には合子のなかに刀子形石製模造品が数点納められていたと伝わり、石製模造品の使用例が明らかな事例としても重要なものです。

滑石製合子
十二天塚古墳採集
滑石製合子
十二天塚古墳採集
石製合子 合子蓋 合子は香合(抹香入れ)や化粧品入れ。
 
 180藤岡市

 181 白石稲荷山古墳 (白石古墳群のひとつ)
  ・前方後円墳 三段築盛
  ・全長155m 後円部径92m、高さ13.5m、前方部幅86m、高さ8.5m
  
3.祈りの道具 石製模造品 古墳時代中期 (5世紀半)
三波川変成帯からは滑石や蛇紋岩といった軟質な石材も採取できます。
古墳時代には、これらの石材を利用し、石製模造品が作られました。
玉類や農工具類、武器・武具類など、多様な種類が出土しています。
当初は古墳に副葬され、5世紀前半の史跡白石稲荷山古墳陪塚(ばいちょう)の十二天塚古墳から、優品が出土しています。

時期が下ると、古墳以外の祭祀の場へと使用の場を変えていきます。
これにより高まった需要に応えるように、竹沼遺跡など、石製品の製作工房が数多く確認できるようになります。

3.祈りの道具
白石稲荷山古墳
白石稲荷山古墳と十二天塚古墳地中レーダー探査図
水分量が少ない箇所が赤く表現されており、古墳では葺石などが赤く反応する。


4.藤岡粘土を使用した埴輪生産  古墳時代後期

古墳時代には、低地や台地で採れる藤岡粘土を利用し、組織的かつ大規模な埴輪生産が 行われました。藤岡市では
古墳時代中期の古墳は少なく、埴輪窯は未確認です。

古墳時代後期になると古墳が爆発的に増加し、それに伴い埴輪の需要が高まり大規模生産が開始されたと考えられます。
史跡本郷埴輪窯猿田Ⅱ遺跡が代表的な遺跡です。
猿田Ⅱ遺跡では、6世紀代では東日本最大級の前方後円墳である七輿山(ななこしやま)古墳(白石古墳群の1つ)の埴輪が生産されました。

4.藤岡粘土を使用した埴輪生産
本郷埴輪窯跡
猿田埴輪製作遺跡
本郷埴輪窯跡(群馬大学共同教育学部所有)
本郷埴輪窯跡は1943・1944に、A・B窯の調査が 行われていますが、 写真がどちらの窯かは不明です。

猿田Ⅱ遺跡(猿田埴輪製作遺跡)
国立歴史民俗博物館 杉山晋作氏により、1997年2 月3日~3月5日、1997年7月25日~9月11日に2 回の発掘調査が実施されています。 写真は2次調査時のものです。

※本郷埴輪窯跡 5世紀後半から6世紀末まで操業。保渡田古墳群や綿貫観音山古墳に埴輪を供給した。引用「本郷埴輪窯跡」

※猿田埴輪製作遺跡 5世紀後半から6世紀末まで操業。本郷窯と共に、井手二子山古墳や八幡塚古墳の膨大な埴輪を供給した。



5.藤岡産埴輪を立て並べた小型円墳  古墳時代後期
藤岡市の6世紀の古墳では、大型の古墳だけでなく、中・小型の古墳からも大量の埴輪が出土します。

小林古墳群 1号古墳は直径16m程度の小さな円墳ですが、その大きさにそぐわないほどの多種多様な埴輪が大量に見つかりました。
特に円筒埴輪に人面がついた非常に珍しい埴輪が見つかっており、高い鼻と頭部に表現された冠が特徴的です。(184に記載)
このような埴輪は全国で10例程度しか知られていません。
埴輪は古墳群の南に位置する本郷埴輪窯跡で製作されたもので、七輿山(ななこしやま)古墳と比べオレンジ色の色調 を呈します。

※高い鼻と頭部の冠は、何を表しているのでしょう。半島人の顔でも縄文人の顔でもなく、インド系アーリア人の顔でしょうか。

5.藤岡産埴輪を立て並べた小型円墳 1号古墳の埴輪出土状況 1号古墳の葺石と附け基壇
葺石、附け基壇


6.在地の石材を用いた特徴的な石室造り 古墳時代終末期

古墳時代終末期(7世紀)には、周辺で産出する大小の結晶片岩を組み合わせ模様積石室」呼ばれる特徴的な横穴式石室が構築されます。
このような横穴式石室は藤岡市とその周辺でしか見られません。

牛田古墳群は、牛田廃寺跡に隣接する低地に造営された古墳時代終末期の小規模な群集墳です。
7世紀中葉の牛田2号古墳は、直径約11mの円墳で、河川で採取した三波川結晶片岩などの自然石を巧みに組み合わせ、模様積石室を構築しています。

6.在地の石材を用いた特徴的な石室造り
2号古墳の模様積石室 
2号古墳の模様積石室
飛び石模様に石が並ぶ石室の側壁
近隣の河川から採取できる珪岩と結晶片岩を巧みに組み合わせて石室を構築。
細長い形状の石材ため、小形の石材でも奥行きが取れるという
結晶片岩類の特質を生かし、たくさんの小形石材を使用している。


7. 古代の瓦生産と古代寺院

古代になると、生産拠点を山間部へ移してモノづくりが続きました。下日野・金井窯跡群では、須恵器や瓦を大規模に焼成していました。
瓦は奈良時代 (8世紀前半)に牛田廃寺跡上野国分寺(前橋市)へ供給されていたことが確認されています。
牛田廃寺跡は8世紀前半に創建された小規模な寺院跡です。掘込地業版築瓦積基壇といった高度な技術が用いられており、この地域の有力者が建立した氏寺と考えられます。

7.古代の瓦生産と古代寺院
牛田廃寺跡の瓦出土状況
牛田廃寺跡の瓦出土状況
1号建物 (金堂)から大量の瓦が出土。

掘込地業
地盤を強固にするため地面を掘り下げ、粘土・砂・礫 などを突き固めながら埋め戻す古代の土木工法。


8.モノづくりと藤岡
先史時代から続く藤岡市のモノづくりとその利用の伝統は、新しい技術の開発にもつながっています。
高山長五郎が考案した近代的な養蚕法「清温育」は、養蚕農家の収穫量と経営の向上に寄与しただけでなく、高山社や分教場を通じて全国にその飼育方法を広め、他地域との交流を促進しました。

このように、モノづくりはそれだけで完結することはなく、広範囲に広まることで他者や他地域との交流を生み、さまざまな信仰とも結び付きました。 各時代に応じたモノづくりを起点として、多様な要素が絡み合い、醸されることで、 藤岡市独自の特色を形づくってきたのです。

8.モノづくりと藤岡
史跡高山社跡 
史跡高山社跡
養蚕飼育法の全国的スタンダードを形成した功績が評価され、 高山 社発祥の地である史跡高山社跡は「富岡製糸場と絹産業遺産群」の 構成資産の一つとなっている。

 182小林古墳群
  ・4世紀後半(古墳時代前期後半)と 5世紀後半~7世紀(古墳時代中期後半~終末期)
  ・120基超の古墳群 
  ・「笹川沿岸地区遺跡群」は、平成26,28年度~令和元年度まで5年にわたる発掘調査を実施した全18遺跡の総称です。
   神流川左岸に広がる小林古墳群内の古墳17基をはじめ、住居数1,000軒を超える古墳時代から古代にかけての大集落が調査され、
   藤岡市域の歴史を考えるうえでも重要な遺跡群であることが分かりました。引用「四季・めぐりめぐりて」
円筒埴輪
小林古墳群
a
a
b
b
c

 183七輿山(ななこしやま)古墳
  ・白石古墳群のひとつ
  ・6世紀
  ・墳長146mの前方後円墳
    後円部直径87m、 前方部幅106m 高さ前方部後方部共に16m
  ・二重の周溝と三重目周溝も発見された。
  ・堤帯に葺石・埴輪列
  ・埋葬施設は未調査
  ・6世紀前半の今城塚古墳の技術が使われている。

C-補 七輿山古墳と大型円筒埴輪
墳長150mの前方後円墳で、6世紀代では東日本最大級。墳丘規格は継体天皇の墓とされる今城塚あり、ヤマト王権と関わりを持つ東国の重要勢力の古墳と考えられます。

七輿山古墳の埴輪は突帯が7条あり、貼付口縁や低位置突帯、断続ナデ技法など在地では技法の系統が追えず、 製作技術の特徴が継体天皇の今城塚古墳など近畿の埴輪と類似します。

七輿山古墳と大型円筒埴輪
史跡七奧山古墳
円筒埴輪

 184小林古墳
盾持人埴輪
人面付円筒埴輪 水鳥形埴輪
 


 190牛田古墳群


 191牛田古墳群
  ・群馬県藤岡市 神流川左岸低地に位置する、古墳時代終末期の群集墳
  ・埴輪を伴わない7世紀前葉〜後葉の小型円墳7基が検出された。
  ・石室はすべて模様積み石室であり、天井石は消失していたが、壁面は良好に依存していた。

C補 古墳時代終末期の須恵器大甕祭祀
古墳時代終末期になると古墳に埴輪は樹立されなくなり、須恵器大甕を使った祭祀が行われるようになります。 人間がすっぽり入ってしまうほどの特大品が使われ、破片で出土することから意図的に割られ、祭祀に使用されていたようです。

古墳時代終末期の須恵器大甕祭祀
  須恵器大甕
 
古墳時代終末期の須恵器大甕祭祀
  須恵器大甕の
大きさ比較
 
牛田古墳群出土
須恵器大甕 
須恵器平瓶

 193牛田廃寺跡
  ・奈良時代初頭、8世紀第2四半期に創建され、9世紀後半(又は前半)に廃絶された古代寺院。。
  ・3棟の建物跡を検出し、金堂跡から基壇が発見され、その周囲から大量の瓦が発見された。

 ※どうやら寺院は放置され、立ち腐れて、倒壊したようです。すると、廃絶されてから倒壊したのは9世紀後半頃かも知れない。
軒平瓦 丸瓦
平瓦
軒丸瓦
軒丸瓦 軒丸瓦 軒丸瓦の文様は蓮華文が普通だと思うが、
ここでは、左側の文様は、転法輪である。(ゲゲゲの鬼太郎でお馴染み)
検索してもそのような事例は出て来ない。
 
 


 200新発見考古速報



 201縄文時代 約15,000年前~約2,800年前


概要:この時代には、日本列島各地で土器の使用が始まり、個性豊かで装飾性の高い土器(縄文土器)が作られました。
人々は竪穴住居で定住または半定住生活を送り、狩猟、採集、漁業によって食料を得ていました。
これらの社会は基本的に平等であり、人々の階級はありませんでした
彼らは、土偶や男根石、祈りに使われる他の多くの石器、耳飾り、ペンダント、その他の個人的な装飾品など、豊かな精神文化を持っていました。

展示遺跡:
北海道の美々4号遺跡では、縄文時代後期の大規模かつ多様な墓群が発見されており、縄文時代の埋葬文化を理解する上で重要な遺跡となっています。
群馬県の空堀遺跡は、縄文時代後期から晩期にかけての遺跡です。クルミの殻を取り除いた水路跡や、土偶や祭祀遺物、土製の耳飾りなど800点以上が発見されました。縄文人の食生活や精神文化を知る上で重要な遺跡です。

また、縄文時代後期から晩期にかけての埼玉県の国史跡「真福寺貝塚」も紹介されています。
遺跡の特徴は、環状の丘陵上に貝殻の投棄跡(貝塚)や住居跡が長期間存在し、渓谷部からは漆塗りや木工製品が多く出土していることです。

Overview: The use of pottery begins, and highly unique and ornamental pottery (Jomon pottery) is crafted during this period in various regions around the Japanese archipelago.
People lived sedentary or semi-sedentary lives in pit-dwellings, and obtained food through hunting, gathering, and fishing. These societies were fundamentally egalitarian with no ranking of people.
They had a rich spiritual culture, with Dogu clay figurines; phallic stones, and many other stone tools used for prayer; ear decorations, pendants and other personal accessories.

Sites in exhibit: At the Bibi-4 Site in Hokkaido, a large and diverse group of graves dating from the late Jomon Period was discovered, making it an important site for understanding the Jomon burial culture.

The Karahori Site in Gunma Prefecture is a site from the Late to the Final Jomon Period. The remains of a water where walnut scum removed, and clay figurines and ritual remains with over 800 clay earrings were discovered there.

This is an important site for understanding the dietary habits and spiritual culture of the Jomon people. Also featured is the Shinpukuji Shell Mound, a National Historic Site, in Saitama Prefecture, which dates from the Late to the Final Jomon Periods.

The site is characterized by the traces of disposed mollusk shells (shell mounds) and dwellings existing over a long period located on a ring-shaped rise. In addition, many lacquered and wooden products have been unearthed from the ravine areas of the site.

縄文時代


 210美々4遺跡 縄文後晩期 美沢川流域遺跡群  フレペッ遺跡群(美沢4・美々5)、フレペッ遺跡群

 211
びびちゃんと ふくろう共演 北の空
■美々4遺跡
■縄文時代後期末~晩期初頭
■約3000年前
  北海道千歳市美々988-13
・縄文時代後期の祭祀や呪術的な精神生活を垣間見ることができる遺跡です。
・動物形土製品や人骨、土器、石の玉、赤い漆塗りのクシなどが出土しています。引用
美々4遺跡


どんな遺跡かな?
美々4遺跡は、 美沢川の左岸に立地し、台地部から斜面部、低地部、河床一帯に広がる、縄文時代後期~晩期 (約3000年前) の周堤墓や盛土墓に代表される大規模な墓地です。

遺跡斜面部の遠景(令和5年度、北西から)
美々4遺跡は空港の制限区域内にあり、奥が滑走路。 右の林の部分に美沢川が流れる。

どんな遺跡かな 遺跡斜面部の遠景 調査区及び出土遺構位置図
周堤墓の密集
多数の土壙墓群
沢山の住居跡

長期間の集落遺跡と思われる


くわしくみてみよう
台地と低地の間の斜面部では、 装飾品類 を含む膨大な数の遺物や獣骨片が出土し、 令和5年度調査では、 人骨を伴う10基からなる土坑墓群を確認しました。 土坑墓の中には、被葬者の頭上に石鏃が撒かれたものや、土偶を副葬したものなど、多様な埋葬のあり方が確認されています。

くわしくみてみよう
  石鏃が副葬された土壙墓(令和4年度)
 石鏃副葬位置  副葬された石鏃
多量の石鏃
 


くわしくみてみよう
台地部では周堤墓や周溝墓、低地部では 火山灰による盛土墓、斜面部では土坑墓のように、立地する地形ごとに異なる形態の墓が形成されています。 本遺跡で明らかになったこれら墓群のあり方は、被葬者間の階層性など、縄文文化の墓制を考えるうえで重要です。

台地部の周堤墓群(昭和58年度、右上が南)
円形の竪穴を掘り、土を周囲に盛り上げて周堤を築き、主にその内側に墓坑を造るタイプの共同墓地。
縄文時代後期の北海道にのみ見られる

くわしくみてみよう
斜面部の土坑墓群
(令和5年度)
台地部の周堤墓群

次々と周堤墓を増設
周堤墓の調査状況
(昭和58年度)
 

 213 1-補 フクロウ意匠貼付鉢形土器
ロ縁部にフクロウと思われる突起状の装飾が付く鉢形土器です。出土地点が約50m離れた、 胴部 (昭和58年の台地上の 調査で周堤墓より出土) と口縁部片 (平成7年の斜面部の調 査で出土) が接合しました。
復元すると口縁部に6点フクロウ装飾が巡ると推定でき、令和4年度の斜面部の調査で新たに3点のフクロウ装飾が出土しました。 残り2点の出土が期待されています。

1-補
フクロウ意匠貼付鉢形土器
フクロウ意匠貼付鉢形土器
平成7年度出土
令和4年度出土
フクロウ装飾

 214フクロウ意匠貼付鉢形土器
           

 215水鳥形土製品

動物形土製品(複製)
墓域からバラバラの状態で出土。 不思議な 姿をしており、祭祀に関わる遺物と考えられ る。原物は重要文化財。

動物型土製品
※愛称ビビちゃん。マスコットキャラクターとなっています。
背中の穴から腹側の斜め後ろにある穴に貫通しています。
研究者によると、魚形石器(かつてはカツオ節形石器)と同じく、鳥形ルアーだということです。
南洋ではロウニンアジなどは海面に休んでいる鳥や海面近くを飛ぶ鳥を海中からとび上がって捕獲し、丸呑みにします。

背中から腹の穴に通したロープの先に大きな鈎針を付け、
水鳥形ルアーを引いて舟を漕ぐと、当時は居ただろう、巨大ヒラメのオヒョウなど、大物魚を捕獲できたのでしょう。

 217装身具
耳栓
ミニチュア土器
有孔三角形岩盤
 盛土遺構出土

 218盛土遺構出土
ヒスイ製玉 土製玉 有孔球状土製品 骨製ヤス
 

 221土偶 美々4遺跡
1-補 土偶が出土したお墓
 土偶は土坑墓床面からベンガラ (酸化鉄)に覆われてうつ伏せ の状態で出土しました。
 副葬品と考えられます。 墓の中から完 全な形で土偶が出土することは大変珍しく貴重な事例です。

土偶が出土したお墓
土壙墓 土壙墓内の土偶
 222土偶
           
           
 
※この土偶、根室市歴史と自然の資料館の初田牛の土偶に手の動きが似ています。両側にピんと指先を突き出した形は普通の姿勢ではありません。
 どちらかと言えば、ザ・ドリフターズの加藤茶と志村けんのヒゲダンスの姿勢です
 顔には仮面を被っている様子が表され、かなり大きな木製仮面、ケベス面に似た仮面、を耳の上と耳の下の穴に通したヒモでくくり付けたようです。

 223石製品
土壙墓出土石鏃群
   土壙墓出土のヒスイ製玉
       
ヒスイ製玉

遺跡出土のアンモナイト ammonite(excavated in site)
中心部に孔が開けられており、装飾品の可能性がある。
北海道浦河(うらかわ)地域の産地から縄文人が採集して持ち込んだものと考えられる。

   遺跡出土アンモナイト
       
 
 


 230唐堀遺跡 発掘調査報告書

 231
アク抜きの 水場でマツリ 大木柱
■唐堀遺跡
■縄文時代後期~晩期
■約4500~2500年前
 群馬県東吾妻町三島地内
・標高約400m、周囲を標高1000mほどの山々が取り囲む吾妻川中流域の山あいの地形のなかに立地しています
・彫刻のある木柱が発見されている
・トチノミの殻が堆積しており、水場遺構でトチノミのアク抜きが行われていたことがわかる
・水場遺構は約3400年前につくられ、約3150年前に廃絶されるまで200年以上にわたって利用されていた 引用
※栃の実は、寒冷化する縄文後晩期に、栗やドングリの代用として食べられた。アクが強く何度もあく抜きが必要な厄介な食べ物です。
 現代ではトチ餅としてモチ米に混ぜて食べますが、
米がなかった縄文後晩期の食べ方は、わかっていません。

どんな遺跡かな?
唐堀遺跡は、標高約400メートルの山間地に位置し、岩櫃(いわびつ)山の断崖を見上げる吾妻(あがつま)川 中流域の狭い下位段丘面に立地していま す。 上信自動車道の建設に伴い発掘調査 を行い縄文時代後期から晩期 (約4500年前~約2500年前) の水場遺構などを確認しました。

どんな遺跡かな  遺跡全景 遺跡全景(南西から)

岩櫃山
吾妻川
水場遺構
段丘崖


くわしくみてみよう
水場遺構は、主にトチの実のアク抜きをする為の施設で、縄文時代後期後葉から晩期前 葉の約200年間にわたって利用されました。
周囲からは、石棒、岩版といった祭祀具や遮光器土偶、約800点もの土製耳飾りが出土しました。
これらの様相から、木の実の加工場だけでなく、祭祀の場でもあったと考えられます。

くわしくみてみよう 水場遺構

作業場
水路
貯水場


くわしくみてみよう
水場遺構の水路を構成する石組下部からは、彫刻のある巨大な木柱が出土しました。
彫刻面を上に向けて平置し、石や土をかぶせて埋納したと考えられます。縄文時代の類例品としては全国3例目の発見です。
唐堀遺跡は、関東北西部の山あいの地 に暮らした縄文人の食生活や精神文化、地 域間の交流の様子を知る上で重要な遺跡です。

くわしくみてみよう
 水場遺構

 233遮光器土偶

遮光器土偶
丸く大きく膨らんだ目が特徴的で、表面は丁 寧に磨かれている。 文様の隙間に赤彩の痕 がわずかに残る。胴部や手足の破片は見つ からなかった。


遮光器土偶

 234耳飾り
耳飾り

彫刻のある木柱のU字形文様に似た文様を持つ。
耳飾り

※耳飾り
 これらは玦状耳飾りではなく、耳たぶに穴を開けて使用する滑車形(小さいものは耳栓形と呼ばれる)なので、いかに薄く繊細にデリケートに作っても重さで次第に耳穴が大きく広がる。
 ために、多様な大きさの耳飾りがある。右端の大型耳飾りを使用していた人は、日常では巨大な穴に広がった耳たぶが大きく垂れ下がっていたでしょう。

 
 235垂飾
ボタン状石製品 垂飾

 236独鈷石
独鈷石 両端が尖り、真ん中に柄を付けられるようになっている。

※これって、両頭石斧のことですね。
 237石棒
軽石製品 石棒

石製品
人の姿と顔を表現した妖精のようにも見える不思議な形をしている

石製品 岩板 石冠
 239
2-補 彫刻のある木柱
角柱状に整形し一面に連続するU字形文様を彫刻しています。 文様は周りを削り落として浮き出させています。 木柱の中心に 突起部(▲)があり、ここを基点に左右対称に同じ形 大き さ・深さ・間隔のU字形文様を彫刻しています。 樹種はクリ で、 全長153、 最大幅36。 縄文時代の彫刻木製品として は石川県真脇遺跡、 岩手県莉内遺跡に次ぐ全国3例目の発見です。 縄文人の精神文化の奥深さを考える上で貴重な遺物といえ
ます。

 引用
「彫刻のある木柱」は、縄文時代の木製品で、全国で唯一の発見例です。全長は1.5mを超え、不思議な彫刻文様を有しています。
【特徴】
 木柱の中心に突起部があり、左右対称にU字形文様を彫刻している
 周りの木を削り落として文様を浮き出させている
 埋納された木柱の上にはトチノミの殻が堆積しており、埋納後も水場遺構でトチノミのアク抜きが行われていたことがわかる

 ※水場遺構を構成する木組みの木柱として埋められた木彫柱。

彫刻のある木柱
 
 

 260真福寺貝塚  発掘調査報告書

 260
 261史跡真福寺貝塚
高まりの 輪っかの上の ムラづくり
■史跡 真福寺貝塚
■縄文時代後期前葉~晩期中葉
■約3800~2600年前
埼玉県さいたま市岩槻区城南3丁目

・貝塚と泥炭層が一体で保存された、国指定史跡。
・径約150mの環状貝塚を中心として、台地と低湿地まで広がっている
  台地部分には住居跡があり、低湿地の泥炭層からは植物の種子が出土している
・出土品には、土偶、土版、土製耳飾、勾玉、石剣などがあり、貴重な遺物が数多く含まれている
  特にほぼ完形な「みみずく土偶」は重要文化財に指定されており、東京国立博物館に収蔵されている 引用

史跡真福寺貝塚


どんな遺跡かな?
史跡真福寺貝塚は、大宮台地上にあり、西側の谷に面して東西約160m、 南北約180mの範囲に貝塚や居住域が馬蹄形状に分布する、
縄文時代後期前葉から晩期中葉の遺跡です。

どんな遺跡かな


くわしくみてみよう
 馬蹄形状の高まりの内側はすり鉢状のくぼみとなっており、このような地形は「環状盛土遺構」と 呼ばれています。
 貝塚に隣接する谷の中には遺存状態の良い遺物を伴う泥炭層が広がっており、住居と貝塚、谷部の泥炭層の3要素が良好に保存されている
 ことから、昭和50年に史跡に指定されました。

遺跡全体図
 平成28年度からの発掘調査では、遺跡の外縁部から泥炭層の広がる谷部まで幅1mの調査区を設定し、土層堆積状況や遺構・遺物の分布状況を
 確認した。

水辺の活動域
 発掘調査により活動痕跡を確認。 土器、石器 漆器をはじめとする木製遺物、クリ、クルミ、トチの実など 当時の主食の堅果類が出土。

くわしくみてみよう 遺跡全体図
調査区B
勾玉2点
土製耳飾り
鉢・砥石
ミミズク土偶
調査区D
屈折像土偶
土坑墓2基
調査区A
牙鏃
調査区C
勾玉2点
居住域


くわしくみてみよう
大正時代以来の発掘調査により、環状盛 土遺構や住居跡をはじめ、 ミミズク土偶、 土 製耳飾り、玉類などが出土しています。縄文 時代後晩期の土器編年研究上重要な遺跡 として学術的に著名であるとともに、 居住域 と採貝を中心とした水辺活動との関係性な ど、縄文時代の暮らしを知るうえで重要な 遺跡です。

調査区B斜面部の遺物出土状況
2×2mの範囲から後期末葉から晩期初頭のミミズク土偶の頭部や胴部が3点出土。

くわしくみてみよう
調査区B斜面部の遺物出土状況
ミミズク土偶1 ミミズク土偶2

 263ミミズク土偶
ミミズク土偶 ミミズク土偶
 土偶頭部
土偶胴部
         
 265玉類
玉類
石匙、石鏃 石錘、石鏃未成品
 267石製垂飾
石製垂飾品 環状土製品
 土製耳飾り          
岩板
 

 270環状土籬内出土品

 環状土籬(かんじょうどり)とは、北海道の縄文時代に築かれた土堤でできた共同墓地の一種です。
 土堤が円環状にめぐることからこの名前がつきましたが、現在は「周堤墓」とも呼ばれています。
 【環状土籬の例】
  ・斜里朱円周堤墓群:縄文時代後期の遺跡で、東西2箇所に周堤墓が構築されています。
  ・キウス周堤墓群:周堤の規模が大きく、多数の土壙墓が営まれています。
 271
磨石・敲石 石棒・打製石斧 石棒 打製石斧

 273
3-補 調査区A 環状盛土内の貝種組成の変化
発掘調査によって、縄文時代後期前葉から中葉(2700年前〜2600年前) に貝塚の中の貝の種類がマガキからヤマトシジミに変化していることがわかりました。
マガキは泥質干潟、ヤマトシジミは汽水域に生息すること、出土魚類にも違いが見られることから、貝塚周辺の水辺環境が変化した結果と考えられます。 縄文人の資源利用や自然環境との関わりを考えるうえで重要な発見です。

調査区A 環状盛土内の貝種組成の変化
ヤマトシジミを主体とする貝層
マガキを主体とする貝層
弓弭 貝輪
ツノガイ製品 貝刃(かいじん)
スプーン形土製品
ミニチュア土器
砥石
 275骨角製品
骨角製品
骨製ヤス 簪かんざし 骨製垂飾品 牙鏃 骨鏃
 

 280土製品
 281
角底土器
深鉢 深鉢
 283
深鉢

深鉢 深鉢 深鉢 深鉢
深鉢
 
 


 300弥生時代  約2,800年前~約1,750年前


概要:水稲栽培が中国大陸、朝鮮半島から日本列島に体系的に広がり、人々は青銅、鉄などの金属道具を使い始めました。
人々は素朴な素焼きの弥生土器を使用し、鐘、剣、槍などの青銅器を象徴とする儀式を行っていました。
この時点で、各地域の社会的統合が始まり、社会階層化が進みます。
米の栽培は北の北海道や南の沖縄には及んでいませんが、この両極端の地域には以前の文化につながる文化がありました。
北海道では続縄文時代、沖縄では貝塚時代と呼ばれていました。

展示遺跡:弥生時代中期の東日本では、死者を埋葬し骨化させた後、骨を墓から取り出して土器に納め、再び埋葬した再葬墓が多数発見されています。
福島県の墓料遺跡には再葬墓が群集しており、茨城県の宿尻遺跡でも単独の再葬墓が確認されている。
遺跡によって多少の違いがあり、ある墓では約20個の土器が環状に埋葬されているのに対し、他の墓では約4個の土器が一緒に埋葬されている。
これらの違いは各遺跡の地域性を反映していると考えられ、弥生時代の東日本の墓制を解明する上で重要な遺跡です。

Overview: Wet rice cultivation is diffused in a systematic way from the Chinese mainland and the Korean peninsula to the Japanese archipelago, while people begin using bronze, iron and other metal tools.
People used simple biscuit-fired Yayoi pottery and conducted rituals that take bronze instruments such as bells, swords and spears as their symbols.
At this point, social integration of each area begins, and social stratification advances.
Cultivation of rice reaches neither the northern island of Hokkaido nor Okinawa in the south, but these two extremes had cultures linking back to previous culture.
In Hokkaido, this was called the Epi-Jomon period, and in Okinawa it was called the Kaizuka (shell mound) period.

Sites in exhibit: In eastern Japan during the mid-Yayoi Period, many reburial tombs have been discovered in which after a deceased person was buried and the body ossified, the bones were taken out of the grave and put into an earthenware vessel, which was then buried again.
Reburial tombs exist in groups at the Boryo Sites in Fukushima Prefecture, and a single reburial grave has been confirmed at the Shukujiri Sites in Ibaraki Prefecture.
Some differences exist between the sites, as in one tomb some 20 earthen vessels are buried in a ring configuration and in others around four earthenware pots are buried together.
These differences are thought to reflect the regional characteristics of the various sites, which are important sites for elucidating the burial system in eastern Japan during the Yayoi Period.

 301弥生時代
弥生時代


 310④墓料遺跡

 311
骨骨と 埋めて納めて くりかえす
■墓料遺跡
■縄文時代晩期末~弥生時代中期前半
■約2400~2100年前
 福島県会津若松市一箕町大字八幡墓料

・弥生時代前半の「再葬墓」が発見されている遺跡です。
・福島県会津若松市一箕町にある遺跡で、会津大塚山古墳の近くにあります。
・【墓料遺跡の発見経緯】
 1971年4月、近くの農家の方が耕作中に土器を発見したことをきっかけに発掘調査が開始されました
・2018年の6回目の発掘調査では、新たに6基の再葬墓が発見されました
・墓域は遺跡の北東部の東西30m、南北20mの範囲に広がっていたことがわかりました
・縄文時代晩期中ごろ(約2800年前)の家の跡も発見されました
【墓料遺跡の遺構】
・居住地とは別の場所に作られた直径1.5mほどの穴の中に土器が納められていました 引用


墓料遺跡


どんな遺跡かな?
墓料遺跡は、福島県会津盆地南東部に広がる丘陵上に位置する縄文時代晩期から弥生時代中期に営まれた再葬墓群です。
昭和46年に畑の耕作中に発見されました。
再葬墓とは、死者をいったん土葬するなどして骨化させた後、再度取り出し、その骨を土器に入れて再び埋葬する墓制です。

どんな遺跡かな 遺跡位置
一箕古墳群 墓料遺跡
昭和46年に見つかった土器
※再葬墓は、人骨を壺に入れて集めてきて、その壷を一ヶ所に積み上げて形成する。


くわしくみてみよう
調査は昭和49年・54年に実施されたもので、令和元年度から会津若松市教育委員会により遺物の再整理と調査報告書の作成が進められています。
再整理の結果、ひとつの墓坑に1~10個の土器を埋設した再葬墓が45基あったことがわかっています。これは福島県内で最大級の規模です。
また意図的に砕かれた管玉の破片が出土しており、 土器の周囲に撒かれたと考えられます。

くわしくみてみよう
昭和49年の調査区全景
※管玉を砕いて、埋納土器の周囲にまき散らす。
これは福島県内に広く流布した儀礼。
骨を入れて積み上げた壷形土器棺の周りに、管玉を砕いてまき散らす。


くわしくみてみよう
墓料遺跡で出土した土器は、壺形が大半で、そのほかに深鉢形や鉢形なども見られます。また、会津地方で見られる在地の土器が中心ですが、
西日本や東海、北関東といった他地域の影響を受けた土器が含まれており、広い範囲の交流が想定されます。

福島県内では本遺跡と同様に、他地域の土器と共に管玉が砕かれ撒かれた再葬墓が確認されており、埋葬儀礼が各地に広がっていたと考えられます。
再葬墓の研究や当時の社会の様子を明らかにする上で貴重な資料です。

くわしくみてみよう
昭和49年の発掘調査の様子

 312
筒形土器 弥生土器
卵のような珍しい器形の土器。 外面には縄文時代晩期からの伝統を受け継ぐ変形工字文が施され、口縁部に両側から2個ずつ孔 (あな)が開けられている。
※口縁部に開けられた穴は、木製の蓋などを留めるための穴だったのだろうか。

筒形土器、壺
 313
遺跡全体図 管玉
土器片
 土器片
口縁部の形状や土器表面の文様(条痕文)の特徴から東海地方の土器と指摘されている。

福島県の遺跡から出土

 315骨壺
4補 東日本の弥生時代再葬墓分布図
再葬墓は縄文時代や弥生時代に見られる墓制で、弥生時代中期の東日本で盛んにつくられます。弥生時代の再葬墓は、骨を入れる容器に壺形土器を使うのが特徴です。

東日本の弥生時代再葬墓分布図
墓料遺跡
宿尻遺跡
骨壺
           
           
 


 330⑤宿尻遺跡

 331
骨壺を 丸く並べて 玉を撒く
■宿尻遺跡
■弥生時代中期
■約2300年前
 茨城県常陸大宮市長倉893-1

・弥生時代中期の再葬墓1基に、最少で15個体、最多で18個体の壷形土器が馬蹄形あるいは環状に埋設されていた。
・土器群の中央部覆土中からは、破砕された管玉等が検出された。(※福島県墓料遺跡と同じで埋葬文化圏あるようだ。)

宿尻遺跡

どんな遺跡かな?
宿尻遺跡は茨城県 北部を流れる那珂川 上流の中位段丘上に
ある弥生時代中期の再葬墓です。 一部かく
乱を受けているものの、骨を納めた18個の土器 が環状に配置された状態で発見されました。

環状に配置された壺形土器群(東から)
配置状況の復元 ※渥美半島の再葬墓では、頭骨や足や腕の骨を規則的に配置して円形に再葬墓を組んでいた。
 ここでは、個々人の骨は壺に入れ、それを円形に並べたようだ。
渥美半島の再葬墓文化人は黒潮に乗ってやって来た人々である。
常陸大宮はかなり海岸線に近く、再葬墓文化人が漂着したかも知れない。
福島県墓料遺跡は内陸会津若松市であり外洋文化とは無縁のようだ。


くわしくみてみよう
環状に配置された土器群の中央部のエリアからは、砕かれた管玉など150点近くが 出土しました。
骨を納めた土器を埋める過程で、砕いた管玉を撒いていたと考えられています。 また、 土器のひとつにはサメの歯も収められていました。

※余市町の大川遺跡でもサメ歯が埋納され、何か関連があるのだろうか。

くわしくみてみよう
再葬墓実測図 玉類の出土状況


くわしくみてみよう
宿尻遺跡のある那珂川やその支流の下流域には、 史跡泉坂下遺跡(弥生再葬墓)や小野天神前遺跡(弥生再葬墓)など、弥生時代中期の再葬墓が多く確認されて います。
それらの(遺跡では)再葬墓は群在する(沢山ある)のに対し、 宿尻遺跡では今のところ単一の再葬墓(再葬墓一つだけの意味か)として存在しており、東日本の弥生時代の墓制を解明する上でも重要です。

くわしくみてみよう
遺跡遠景
茨城県北部の主な弥生時代再葬墓
再葬墓遺跡は、久慈川や那珂川などの大河川の流域にあり、それぞれが舟で繋がっていたようです。
中台遺跡海後(かいご)遺跡(再葬墓は確認できず)、北方遺跡

海後遺跡は、再葬墓が確認できなかったが代わりに人面付土器が出土している。これは弥生時代の土器棺で、一時埋葬した骨を取り出していれる骨壺である。この土器がまとまっていれば再葬墓となる。現在のところ出土状況の資料はない。この土器は信州でも見たがその館は撮禁だったため記録がない。海後遺跡のみ人面付土器の骨壷で、他はただの細頸壺。
 風習の違う(半島人の)集落だったようだ。
 以下の壺は全て再葬墓の骨壺である。

 332 第一土壙出土 


 334
5-補 再葬墓に伴って出土した土器の線刻
茨城県内で出土した人面付土器には、 史跡泉坂下遺跡の人面付土器 のように、目の周りを三角形や楕円形で囲む表現が見られます。
この土器の三角形は、 泉坂下遺跡 の人面付土器とは向きが左右逆に なりますが、目の表現が似ており、人面を表現したのかもしれません。

再葬墓に伴って出土した土器の線刻

ここにも線があり、もう一つの目が 描かれていたと考えられる。
泉坂下遺跡の人面付土器
※和泉坂下遺跡でも、海後遺跡同様の人面付土器が出土している。
海後遺跡も和泉坂下遺跡も同じ系統の人々だったようだ。
 335 第一土壙出土 弥生時代
 336
 338装身具・サメ歯
ヒスイ・管玉・サメ歯
サメ歯
ヒスイ
管玉
※先ほど、黒潮の民と再葬墓の関連を取り上げたが、この山中でもサメ歯が埋納されているということは、なにか関係があるのではないだろうか。
 339
 
 



 400古墳時代 約1,750年前~約1,400年前


概要:社会の階層化がさらに進み、関西地方を中心とした広い地域にまたがる政治体制が形成される。
各地の首長のために、多くの古墳(大きな土でできた埋葬用の塚)が造られています。
古墳からは、青銅鏡や鉄製の武器など、副葬品や装飾品が多く出土します。また、古墳の上部や周囲には、さまざまなものを表現した埴輪(はにわ)が並べられています。
この段階は、初期の国家の形成に至ります。古墳文化は、文化が発展し続けた東北北部、北海道、南の島々には及んでいません。

展示遺跡:群馬県の赤堀茶臼山古墳と石山南古墳は古墳時代中期から後期にかけてのものです。
これらの古墳の特徴は、通常作られる単純な円筒形の埴輪の他に、人物や住居、鶏、馬などの形をした埴輪も多数出土していることです。
古墳に埋葬された埴輪は当時の人々の葬儀の儀式を示すものであり、こうした埴輪の存在は重要です。

Overview: Social stratification proceeds further, and a polity extending over a broad swathe centered around the Kinki region is established.
Many tumuli (kofun - large, earthen burial mounds) are built for chiefs in various areas.
These mounds contain many funerary goods and ornaments, including bronze mirrors and iron weapons. Lined up above and around a tumulus are biscuit-fired ceramics (Haniwa) representing various things.
This stage brings us up to the formation of the early state. The kofun culture extends neither to northern Tohoku, Hokkaido, nor the southern islands, where culture continued to develop.

Sites in exhibit: The Akabori-Chausuyama Kofun and the Ishiyama-Minami Kofun in Gunma Prefecture date from the middle to the late Kofun Period.
A special characteristic of these tombs is that in addition to the simple cylindrical Haniwa funerary figures usually made, many Haniwa figures shaped as people, dwellings, chickens, horses and so on have also been excavated.
The existence of these types of Haniwa is important as the haniwa placed in the kofun show the funeral rituals of people at the time.




 410赤堀(あかぼり)茶臼山古墳

 411
こりゃ奇跡 ハニワとハニワが ぴったんこ
■赤堀茶臼山古墳・石山南古墳群
■古墳時代中期~後期
■5世紀前半~6世紀後半
 群馬県伊勢崎市赤堀今井町2丁目

・帆立貝型前方後円墳。(初期の前方後円墳)
・墳丘長は2.4m、後円部径50.2m、高さ6m、前方部長さ18m、高さ4m
・前方部が短く、西を向いている
・墳丘は2段築成で、周濠が巡らされている
・墳丘外表には円筒埴輪列や家形埴輪、囲形埴輪、短甲形埴輪などが出土している
・埋葬施設は後円部墳頂の木炭槨2基で、銅鏡や玉類、鉄刀、鉄鏃、石製模造品などが出土している
 ・木炭槨(もくたんかく)とは、死体を納めた棺を置く区画(槨)に木炭を詰めて二重構造にした墓の形態です。
  木炭槨の形態】
 ・木棺の外周に、一回り大きな箱状区画(木槨)を設ける。その周りに吸湿用と推測される大量の木炭を詰める

石山南古墳群 群馬県伊勢崎市下触町55-1
・石山南古墳群は、群馬県伊勢崎市下触町(赤堀地区)にある古墳群です。多数の人物埴輪が出土した大型円墳や群集墳が含まれています。
【特徴】
・1952年に尾崎喜左雄博士によって発掘調査が行われました
・正装した女性埴輪や馬形埴輪が出土しました
・埋葬施設は無袖型の横穴式石室です


赤堀茶臼山古墳・
石山南古墳群


どんな遺跡かな?
群馬県の赤城山南麓の丘陵上には、多くの古墳が 築かれました。 赤堀茶臼山古墳は5世紀前半に築造された全長62.4mの帆立貝形古墳です。昭和4年に
後藤守一によって発掘調査され、家形埴輪8個体をはじめ、豊富な形象埴輪が出土したことで有名です。
平成7~9年の赤堀町(現伊勢崎市)による 発掘調査で出土した鶏形埴輪が、南に約3km 離れた釜ノロ遺跡から出土した羽根の破片と接合しました。
釜ノロ遺跡では、他にも家形埴輪や朝顔形埴輪が出土しており、 埴輪生産の実態を知るうえで重要な遺跡といえます。

どんな遺跡かな
赤堀茶臼山古墳遠景
赤堀茶臼山古墳位置図


くわしくみてみよう
石山南古墳群は、 38基からなる古墳時代後期 の古墳群です。赤堀村104号墳は、6世紀後 半に築造された直径43mの大型円墳です。
墳丘は削平されていましたが、横穴式石室の痕跡が見つかるとともに、人物埴輪13個 体以上、馬形埴輪2個体、家形埴輪2個体が出土しました。
ひとつの古墳から出土した人物埴輪としては伊勢崎市内で最多です。

くわしくみてみよう 赤堀村104号墳 石山南古墳群古墳分布


くわしくみてみよう
東京国立博物館と九州国立博物館には、昭和初期に赤堀村の人たちが開墾に際して発見した埴輪や須恵器が所蔵されています。
これらの埴輪と、赤堀村104号墳から今回出土した埴輪とを接合検討した結果、4個体が同一個体と判明しました。
これにより、「鍬を担ぐ男子」は、104号墳出土と判明するとともに、どの埴輪と一緒に立て並べられたのか、埴輪の組成もあきらかにすることができました。

くわしくみてみよう
「鍬を担ぐ男子』
(東京国立博物館蔵)

 412埴輪

 413女子人物埴輪
6-補 赤堀村 104号墳人物埴輪の接合状況
茶色に着色した部分が赤堀村 104号墳出土の破片。 それ以外は東京国立博物館所蔵部分。 赤色は赤彩範囲。
赤堀村104号墳人物埴輪の接合状況
女子人物埴輪
赤堀村104号墳

首に段差をつけ襟元を表現
 414女子人物埴輪 頭部
女子人物埴輪頭部
 
 417
盛装する女子人物埴輪 赤堀村120号墳
島田髷 (しまだまげ) と呼ばれる女性特有の髪型と、耳飾り、首飾りが表現されている。

盛装する女子人物埴輪

 男子人物埴輪
男子人物埴輪
赤みがかった部分が赤堀村104号墳出土の破片。それ以外は東京国立博物館所蔵品のレプリカ。大型品の半身像で、腰には大刀のはがれた痕跡がある。
6補 赤堀村104号墳人物埴輪の接合状況
茶色に着色した部分が赤堀村104号墳出土の破片。それ以外は東京国立博物館所蔵部分。

男子人物埴輪 6補赤堀村104号墳人物埴輪の接合状況
男子人物埴輪


 男子人物埴輪
6-補 赤堀村 104号墳人物埴輪の接合状況
茶色に着色した部分が赤堀村 104号墳出土の破片。 それ以外は東京国立博物館所蔵部分。 赤色は赤彩範囲。

男子人物埴輪
赤堀村 104号墳人物埴輪の接合状況
 
 421馬形埴輪
馬形埴輪

 423赤堀茶臼山古墳出土形象埴輪
亡き首長の霊が宿る形代として、埴輪群のなかで中心に置かれたのが家形埴輪です。赤堀茶臼山古墳は、1929年の発掘調査でまとまって家形埴輪が出土したことで注目されました。住居群と倉庫群からなり、全体として首長の屋敷を表現しました。引用「文化財オンライン 埴輪切妻造家」

古墳は市の北西端の多田山丘陵上に所在する前方後円墳である。前方部は西に向き、きわめて短い。全長59m、5世紀中頃の築造と考えられている。昭和4年(1929)の発掘調査で出土した家形埴輪8棟は、古墳時代の豪族の建物や埴輪祭祀を知る重要な資料である。引用「赤堀茶臼山古墳」

形象埴輪 6補赤堀茶臼山古墳と埴輪配列の復元研究

 赤堀茶臼山古墳の形象埴輪
形象埴輪 椅子 切妻造の家
切妻造の倉庫

墳丘の調査履歴
建物埴輪の配置 帝室博物館の形象埴輪配置図 (昭和8年)
復元案を模式化したもの。

 424鶏形埴輪
復元部分のうち、頭部は東京国立博物館所蔵品との比較から想定復元。 右羽の色の濃 いところは釜ノ口遺跡出土部分。

鶏形埴輪 釜ノ口遺跡出土部分 赤堀茶臼山古墳出土部 トーハク部分
 
 
 

 500古代 約 1,400 年前~約 900 年前


概要: この時期に日本の現状が明らかになる。

氏族は、中国の隋・唐や朝鮮半島の百済・新羅から、律令で成文化された刑罰法や行政法、文書化された行政法など、国家運営の方法を学び、飛鳥地方を中心とした中央集権国家を形成した。
都は飛鳥時代の藤原京から奈良時代に平城京へ、そして平安時代に平安京(京都)へ移されました。

仏教の伝来により各地に寺院が建立され、広大な行政区である「国」や、郡と呼ばれる中規模の行政区にも地方役所が置かれ、辺境地域を統制するようになりました。
北海道と沖縄は国家の統治下にありません。北海道には擦文文化があり、沖縄では貝塚時代が続いています。

展示遺跡:

奈良県の菅原遺跡では、発掘調査により奈良時代の円形寺院の遺跡が発見されました。
古文書の記述や遺跡の状況、当時の都を見下ろす立地などを総合的に検討した結果、この寺は当時仏教を広め、奈良・東大​​寺の大仏建立に尽力した僧侶・行基を供養するために建立された可能性が示唆されている。

宮城県の穴田東窯跡と薬師堂東遺跡では、貞観10年(869年)に東日本を襲った大震災で倒壊した官庁や国分寺の再建のため、瓦を生産した窯跡と梵鐘を鋳造した建物の跡が発見された。平安時代の震災からの復興を示す重要な遺跡です。

神奈川県の六ノ域遺跡では古墳時代から平安時代にかけての遺跡が発掘されています。
古墳時代の竪穴住居跡が残る居住地が発見されており、奈良・平安時代には相模国の都が置かれ、国都制が廃止された後も11世紀初頭まで建物が建てられていました。
2021年に行われたこの遺跡の発掘調査では、初期の和鏡が出土し注目を集めた。

Ancient Period
c. 1,400 BP to c. 900 BP

Overview: It is this period during which the state of Japan comes on to the scene.

Learning how to run a nation, including the ritsuryo codified penal and administrative laws, and documented administration from China's Sui and Tang dynasties as well as from the Baekje and Silla kingdoms on the Korean peninsula, clans formed a centralized
national state, centered on the Asuka region.
The capital is moved from Fujiwara in the Asuka Period to Heijo in the Nara Period, then to Heian (Kyoto) during the Heian Period.
The transmission of Buddhism leads to the construction of temples in many areas, and local offices are built in large administrative kuni regions as well as in medium-sized ones called gun in order to control outlying areas.

Hokkaido and Okinawa are not under national control.
Hokkaido has its Satsumon culture and in Okinawa the Kaizuka Period continues.

Sites in exhibit: At the Sugahara Site in Nara Prefecture, excavations have uncovered the ruins of a circular temple from the Nara Period.

As a result of a comprehensive examination of descriptions in old documents, the condition of the ruins, and the location overlooking the capital at the time, the possibility has been suggested that the temple was built to offer a memorial service to a monk name Gyoki, who spread Buddhism at the time and was responsible for the construction of the Great Buddha at Todaiji temple in Nara.

Discovered at the Anada-Higashikama Kiln Site and the Yakushido-Higashi Site in Miyagi Prefecture were the remains of a kiln that produced roof tiles and a structure where temple bells were cast for the reconstruction of government offices and Kokubunji temples destroyed by the great earthquake disaster that struck eastern Japan in 869.
They are important sites that show the reconstruction from this earthquake disaster in the Heian Period.

Ruins dating from the Kofun Period to the Heian Period have been excavated at the Rokunoiki Site in Kanagawa Prefecture.

Residential areas with the ruins of pit dwellings from the Kofun Period have been discovered there. The capital of Sagami Province was located in the area during the Nara and the Heian Periods, and even after the provincial capital system was abolished, buildings were still erected there until the early 11th century.
An excavation at the site conducted in 2021 garnered attention for unearthing an early Japanese-style mirror.

古代



 510⑦菅原遺跡

 511
平城の西 行基思うて お堂建つ
■菅原遺跡
■奈良時代
■8世紀中頃
 奈良県奈良市疋田町4丁目172−2 街区公園

・標高105mの高台にあり、平城宮大極殿や東大寺、喜光寺、唐招提寺、薬師寺などの景観を望むことができる
・発掘調査で、円形または十六角形の建物跡とそれを取り囲む回廊跡及び塀跡が見つかりました。
・円形の建物は古代では類例がなく、復元が難しい
・多宝塔を想定する案が有力で、東大寺の大仏の建立に尽力した行基に関わる可能性が指摘されている

 ※16本の柱跡が見つかったので、円形または16角形とされたようです。
  739年建設の法隆寺東院の八角形の夢殿を作るために柱と梁の「継ぎ」の角度が難しく、建設が困難だったのに、
  同じ8世紀中頃に、更に困難な16角形の柱のホゾ継ぎができたのかと驚きます。

  土台の上に置く横木は、八角形の場合それぞれ135°で交差します。十六角形では内角は157.5°。
  この角度で木と木をつなぐのは大変困難で、もちろん土台となる石もこの角度で削るのは、おそらく名人芸。
  しかも、角度が大きくなればなるほど継ぎ手部分の強度が減少し、はずれやすくなるのです。
  そこで、巨大水車を作るのと同様に、円形建物とし、円の一辺として円のカーブをつけて切った土台を繋ぐのが簡単かと思います。

菅原遺跡


どんな遺跡かな
菅原遺跡は平城京の北西の丘陵上に位置します。 眼下には、行基(668~749年) ゆかりの菅原寺(現、喜光寺)が望めます。
昭和56年に菅原遺跡調査会が発掘調査を行い、仏堂と考えられる基壇建物を確認したことから、行基が畿内に建立した 「四十九院」 の一つである 「長岡院」の可能性が 指摘されてきました。仏堂の北東約50mの地点でおこなった 令和2年の発掘調査では、奈良時代 (8世紀中頃)に建てられた円形建物と、それを取り囲む回廊と塀が見つかりました。

遺跡遠景 位置図 ※これって、奈良大学を建てるときに
相当量の遺物や、遺跡が出たのじゃないか。
出たはずだと思うけどな。


くわしくみてみよう
円形建物の遺構は、内側に巡るやや大型の土坑群 と、外側をめぐる柱穴列から構成されます。 内側土坑 群の平面形態は直線的な部分もあれば波打つ部分も
あり、土坑外側の外形が滑らかな円形を呈していたと
は考えがたく、 また、 基壇の外側を整える石材を据え付
けた基壇外装の痕跡とは異なるとみられます。
外側柱穴列は、 等間隔に円状に配された推定16基か ら成り、直径14mを呈します。 このような遺構はこれま で見つかっておらず、建物の復元とともに、その性格の 追求が大きな課題となりました。

くわしくみてみよう
円形建物遺構 ※これって、十二神将で有名な新薬師寺と同じで、堂塔本体に、ひさし部分を別材で継ぎ足した構造です。
 堂塔の礎石は不定形な石材を円形に置いてその上に構造を作り、土台の上まで来た本体のひさしに継ぎ足して、堂塔周囲のひさしを構成するために、礎石の外側にひさしを支えるための柱穴を設けています。

 奈良時代の建築資材は、初めから特定の長さに決められていて、それを超える部分は繋いで継ぎ足したそうです。


くわしくみてみよう
発掘遺構や遺物とともに、建築学、建築史学による検討を加えた結果、平面円形の壁体(へきたい)をもつ下層建物の上に、平面方形で小型瓦を葺く上層建物が載り、周囲には檜皮葺の裳階(もこし)が廻(まわ)る多宝塔状の建築物に復元されました。
内側土坑群は、円筒状の壁を支える石材を据え付けた痕跡 (建物完成時には石材は外観に現れない)、外側柱穴列は裳階の屋根を支える柱と考えられます。このような円形と見立てて建てられた建物に八角堂があります。
ハ角堂は一般的に故人の追善供養を目的として建てられるものであることから当遺跡が、「長岡院」であること、さらにこの施設が行基の供養を目的として建てられた寺院であったと考えられます。

くわしくみてみよう 円形建物 復元図 ※円形の屋根に瓦を葺くことは困難で、檜皮葺となったのでしょうか。
上層階の建物は、階下円形建物とは別で、屋根の上に方形の構造物を置いただけ。
きっと、出土瓦が方形建物の屋根用であり、円形建物との矛盾から方形建物の存在を想像されたのでしょう。
 512廃寺瓦(令和2年度調査)
軒平瓦・軒丸瓦 須恵器片
土師器
     熨斗瓦(のしがわら)
  右端:丸瓦   

7-補 円礫の使い分け
遺構全体を見ると、方形囲繞(いにょう)施設の中央に円形建物が配置されています。 建物の周囲をめぐる 区画は西側が回廊で、東側は掘立柱塀である 点が特徴です。 円礫はこの施設の中で大きさや 色により使い分けがされていたと考えられます。
※囲繞施設:囲繞はかこむこと。囲む施設とは塀のこと。円形建物は方形の塀で囲まれた中央にあった。

鉄製円盤

回廊を構成する柱穴掘方より出土

柱穴掘方:柱の根元を埋め立てるために掘られた穴(柱掘方)

※掘立柱は次第に沈むので、穴の底に板を敷いて沈み込みを防いだ。この鉄板はその目的か、地鎮のためか、柱根元の防腐のためだろうか。
円礫
出土地点から大きさや色合いを使い分けつつ
方形囲繞施設内に敷かれていたと考えられる。

※今でいう、玉砂利を敷くということか。
  円礫の使い分け   敷地内平面図 ※凝灰岩の土台を置き、その上に建築された。ひさしの柱にも石製の塚石があったようです。
 しかし、それらの基礎部分が発掘では出土していないことから、この堂塔はどこかへ移築されたのでしょうか。
 その跡は放置され、やがて土砂を被って発掘された。畑に転用などされなかったらしい。

 

 530⑦菅原遺跡

 531
円形建物を復元する
行基(668~749年)は奈良時代の高僧で、東大寺大仏造立に携わった人物として知られています。
その行基の供養を目的として建てられた と考えられる円形建物とはどのようなものだったのでしょうか。
遺跡での調査成果を基に建築史学の専門家と共に、上部構造の復元を試みました。
  菅原遺跡-1 製作 公益財団法人元興寺文化財研究所

円形建物を復元する
           

円形建物を復元する
2種類の遺構
 検出された円形建物は内側にめぐる土坑群(内周土坑列)と、その外側をめぐる柱穴群 (外周柱穴列)で構成されます。
内周土坑列は非常に浅く、土坑の立ち上がりが垂直な部分もみられます。凝灰岩の破片が確認されたものもあり、石材を据え付けた痕跡と考えられます。
外周柱穴列は規模が小さい柱列が等間隔に並ぶもので、復元される柱径もやや細いものとなります。
 菅原遺跡 ― 2 製作 公益財団法人元興寺文化財研究所

2種類の遺構 円形建物 ※左下に入り口があり、その正面となる右上に本尊が安置されて、礼拝されていたのでしょうか。床はたたきで、土間だったのかもしれません。
ただ、十文字に通っている影が、床張りの痕跡にも見えます。

円形建物を復元する
屋根の形を考える
円形建物やその周辺からは小型瓦を含む瓦が出土しています。仏堂地点出土の小型瓦には6点の鬼瓦や45度の角度を持つ隅切瓦も含まれていました。このことから、この建物が屋根は正方形で、稚児棟を持つ瓦葺き建物である可能性を考えました。
菅原遺跡-3 製作 公益財団法人元興寺文化財研究所

屋根の形を考える 屋根を構成する瓦群   


円形建物を復元する
上部構造の復元
建物は、 内周土坑列に据えられた石材上に立ち上がる平面円形の壁体を下層とし、その上層には平面方形で小型瓦を葺く建物を復元しました。
外周柱穴列は建物下層にかかる裳階を支える柱の痕跡と考え、柱穴の規模から瓦葺きよりも軽い檜皮葺を想定しました。
菅原遺跡-4 製作 公益財団法人元興寺文化財研究所

上部構造の復元
円形建物復元立断面図
復元図面


円形建物を復元する
遺構の全体像
遺構全体を見ると、方形囲繞施設の中央に円形建物が配置されています。建物の周囲をめぐる区画は西側が回廊で、東側は掘立柱塀である点が特徴です。円形建物から平城京や東大寺の見える東の眺望を重視したため、あるいは平城京内から円形建物を見やすくするためなどの理由が想定されています。

遺構の全体像
南区全体図   
 533菅原遺跡 仏堂跡出土
小型丸瓦・小型平瓦
丸瓦
小型鬼瓦
隅切瓦・小型軒丸瓦
軒丸瓦・軒平瓦 no caption
軒丸・軒平瓦

軒丸・軒平瓦
軒丸・軒平瓦 小型軒丸瓦・軒丸瓦
 


 560⑧穴田東窯跡

 561
やれ作れ! 瓦梵鐘 復興だ
■穴田東窯跡・薬師堂東遺跡
■平安時代
■9世紀
 宮城県仙台市青葉区堤町2丁目

穴田東窯跡


どんな遺跡かな?
今から約1150年前の貞観11(869)年5月26日、大地震が陸奥の国を襲いました。
『日本三代実録』は、貞観地震と呼ばれるこの地震の様子を「城の門や倉庫などの建物の多くが倒壊し、また津波が城下にまで及び、
数多くの人が溺死した」 と記しています。
朝廷は「陸奥国修理府」 を設置し、多賀城や国分寺などの復興をおこない、新羅人で瓦製作技術に長けた職人を陸奥国に派遣し、瓦生産に当たらせました。 こういった震災復興に関わる遺跡が穴田東窯跡と薬師堂東遺跡です。

どんな遺跡かな 調査地点遠景
遺跡位置図


くわしくみてみよう
穴田東窯跡は、 台原(だいのはら)・小田原丘陵に所在します。周辺に は数多くの窯跡が所在し、 台原・小田原窯跡群と総称さ れています。窯跡は、令和3年に発掘調査がおこなわれ、窯2基と溝2条、 灰原(はいばら)2基が見つかりました。 主に平瓦を生産しており、窯の時期は、9世紀後半以降と考えられます。
窯跡南東約5kmに位置する陸奥国分寺と国分尼寺からは、穴田東窯跡で出土した宝相華文軒丸瓦(ほうそうげもんのき まるがわら)連珠文軒(れん じゅもん)平瓦が一定量出土しており、 穴田東窯跡で生産されたものが供給されたと考えられます。

くわしくみてみよう
穴田東窯跡群 遺構図


くわしくみてみよう
薬師堂東遺跡は陸奥国分寺と国分尼寺の間に位置する遺跡です。
9世紀後半頃に比定される梵鐘などを鋳造した遺構群が見つかっており、梵鐘の鋳型や大型の羽口、鉄滓の付着した須恵器などが出土し ています。 遺構の年代から貞観地震の際に被災した陸奥国分寺の復興のためのものであったと考えられ、復興の実態を知るうえで重要な遺跡の一つです。

くわしくみてみよう 薬師堂東遺跡 梵鐘鋳造遺構 梵鐘鋳造 龍頭の鋳型

礫層・粘土
被熱した部分
瓦 (国分寺創建期およびそれ以降)
遺跡位置
陸奥国分寺
薬師堂東遺跡
陸奥国分尼寺

※現代では、富山県高岡市で梵鐘を鋳造し、運んでくるのですが、運搬が困難な時代にあっては、材料(中国銭など)を施主が集め、
 職人が赴いて、現場で青銅製品を鋳造するのが普通でした。従って古寺院跡からは梵鐘などの青銅製品を鋳造した跡が発掘されます。

 563瓦窯
丸瓦 平瓦

 8補窯(登り窯)の構造
8補窯(登り窯)の構造
8-窯 (登り窯) の構造
灰原: 灰や失敗した瓦が捨てられたところ
焚き口:窯の入り口
燃焼部:薪などを燃やすところ
焼成部:瓦などを焼くところ
排煙口: 排気を行う煙突部分

灰原、焚き口、燃焼部、瓦 燒成部、天井、排煙口
※解説ではわかりやすく登り窯
となっていますが、窖窯(あながま)かも。
 あな窯の解説



薬師堂東遺跡
土師器坏(るつぼ転用) るつぼとして転用されたもの。
溶けた金属を 入れた際に熱を受けた痕跡と、金属に含まれていた不純物が残る。
 
宝相華文軒丸瓦

宝相華とは
龍頭の鋳型 龍頭とは、龍の頭の形をした梵鐘の吊り手
のこと

 ※「るつぼ」として利用された土師器を「取鍋(とりべ)」といいます。形状は「脚台付き坏」になっています。
  上記の転用るつぼが、ただの土師器製坏ならば、少量の溶銅を入れて小型の鋳型に流し込んだことになります。
  そうでなければ、熱くて持つことも出来なかったでしょう。
  しかし、脚台が付いた坏であった場合には、脚を持つ事によって作業することができます。
  この平皿形状の坏は本当に取鍋として使われたのでしょうか。

 565穴田東窯跡
宝相華文軒丸瓦

文様の系譜は朝鮮半島に求められ、復興の瓦 生産に新羅人が関わったことをうかがわせる

連珠文平瓦
文様の系譜はペルシャで、小さな玉を連ねた文様。帯状や円形に表される。
国分寺瓦
国分尼寺瓦
 


 580⑨六ノ域遺跡





 581
八稜の 鏡の上で 鳥が舞う
■六ノ域遺跡
■飛鳥時代~平安時代
■7世紀後半~12世紀前半
 神奈川県平塚市真土字六ノ域232-9

・相模国府の関連遺跡のひとつ。国庁の建物址や大型鍛冶工房などが発見されており、相模国府と深い関わりがあったと考えられています。
発見された遺構】
・国庁の建物址(東脇殿と西脇殿)
大型鍛冶工房(東西約13m、南北5m以上の竪穴状の遺構)
・竪穴住居や掘立柱建物の建物跡
・土師器や陶磁器、金属製品などの遺品
・平安時代の国産鏡
・墨書土器「瓦」「福」「王」、刻線土器、石帯
【調査結果】
・国庁の建物址は8世紀第2四半期頃と考えられている
・大型鍛冶工房は9世紀後半~10世紀前半を中心として10世紀末頃までの操業されていた
・11世紀前半ごろの八稜鏡(はちりょうきょう)が出土している
【遺跡の所在】
・旧さくら幼稚園跡地で、湘南新道関連遺跡のひとつ。遺跡密集地にあたる


六ノ域遺跡


どんな遺跡かな?
六ノ域遺跡はこれまでの発掘調査から相模国府中心域と推定されています。
本遺跡とその西側に隣接する坪ノ内遺跡からは、8世紀代の大型廂付掘立柱建物が検出されており、国庁の脇殿と考えられます。
令和3年に国庁脇殿の西方約200mの地 点で発掘調査を実施し、飛鳥時代~平安 時代の遺構・遺物を確認しました。

三浦半島
相模川
江の島
国庁推定域
大型廂付掘立柱建物
国府推定域
大型廂付掘立柱建物
第20地点
六ノ域遺跡
坪ノ内遺跡
国庁推定域
 582墨書土器
土師器碗(卍墨書)
土師器坏(中嶋墨書)
土師器坏(福墨書)
4枚共に福を墨書
墨書 福 墨書 福
土師器(人面墨書) 人面墨書 卍墨書・中嶋墨書 中嶋墨書
 583陶磁器
灰釉陶器 椀
底面仲墨書
灰釉陶器 椀
凡人部豊子丸墨書
灰釉陶器 広口壺 (たく)
茶托とか、物を乗せる
 584六ノ域遺跡
緑釉陶器 須恵器 土師器 坏
 
 585
くわしくみてみよう
検出された建物遺構の変遷をみると、まず7世紀後半から8世紀前半にかけて竪穴建物主体の居住域が形成されます。8世紀後半には竪穴建物が激減し、掘立柱建物が増加することから、周囲が居住域から官衙域に変化し たことがわかります。
その後、9世紀後半には竪穴建物が 再び増加します。
これらの様相の背景には、相模国府の造営による人口増加と、元慶2(878) 年の地震に伴う家屋の被災と再建が 想定されています。
本調査区の建物変遷や多量の遺物が 廃棄された様相は、 国府の造営や経営、 災害や復興と いった当時の社会情勢を反映しているものと考えられます。

くわしくみてみよう
六ノ域遺跡9-3
第20地点の遺構の変遷

7世紀後半~8世紀前半
8世紀後半
9世紀後半


くわしくみてみよう
今回の調査で注目されるのは、 完全な形で出土した瑞花双鳥文八稜鏡(ずいかそうちょうもんはちりょうきょう)です。
八稜鏡は全国では300面を超える出土例がありますが、神奈川県内では2例目の出土となります。
国府中心域であった本遺跡で出土した背景は分かりませんが、出土地点の直下には10世紀後半以降に比定される竪穴建物が確認されており、
建物が埋没する過程で埋納された可能性があります。 


六ノ域遺跡9-4
21号竪穴建物 カマド
瑞花双鳥文八稜鏡
出土地点
第20地点の遺構の変遷
第20地点の遺構の変遷
瑞花双鳥文八稜鏡出土
21号竪穴建物
10世紀後半~11世紀前半頃
 586出土物 六ノ域遺跡
太刀(つば)
金銅製小仏像
銙帯(役人用ベルト)
石製丸鞆
石製巡方
石製鉈尾
 587
緑釉陶器
奈良三彩
二彩陶器

 588瑞花双鳥文八稜鏡
鈕孔は円形で、中央の鈕の上下に草花、 左右に2羽の鳥が点対称に配置されます。
草花は外側へ広がり、鳥は向かい合う構図となっています。
鏡は10世紀末から11世紀初頭を境に唐風から、円形を基調とする和風の鏡 「和鏡」へと移り変わります。 当鏡は唐風から和風へと移り変わる頃に製作されたと考えられ、唐鏡では線対称で相対する双鳥文が点対称で表現される構図や、唐鏡には表現されない瑞花文が表現されるといった特徴
を持っています。 11世紀前半頃の製品と考えられています。

六ノ域遺跡第20地点
瑞花双鳥文八稜鏡
9補 瑞花双鳥文八稜鏡
 589
須恵器 甕
外面「木戌」刻書
灰釉陶器
手付瓶(てつけ)
長頸瓶(ちょうけいへい)
 
 


 600近世 約 400 年前~約 150 年前


概要:安土桃山時代から江戸時代へ。
新しい徳川幕府は地方の領地を再統合し、約250年続く平和の時代をスタートさせた。
幕府は海外との接触を制限し、日本独特の文化を育んだ。

展示内容:江戸幕府は、その支配を維持するために、江戸の日本橋から首都に放射状に伸びる東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道を厳しく統制していました。
五街道には一定間隔で宿場が設けられ、宿泊や荷物の運搬の拠点として栄えました。

埼玉県の栗橋宿場跡は、江戸と日光を結ぶ日光街道の宿場町で、藩主が宿泊した宿場跡や神社の跡などが発見されています。
また、遺跡からは陶磁器などの日用品、髪飾りや文様鏡などの生活用品、土人形などの玩具も出土しており、当時の宿場町の暮らしの様子がよくわかります。

Early Modern
c. 400 BP to c. 150 BP

Overview: The Azuchi-Momoyama period leads into the Edo period.
The new Tokugawa shogunate reunites regional fiefdoms, inaugurating a period of peace lasting some 250 years.
The government limits overseas contact, incubating a unique Japanese

Sites in exhibit: In order to maintain its rule, the Edo Shogunate strictly controlled the five main roads starting from Nihonbashi in Edo radiating out from the capital: the Tokaido, Nakasendo, Koshu-Kaido, Oshu-Kaido, and Nikko-Kaido.
Post stations were established at fixed intervals along all the five routes, and they flourished as bases for lodging and baggage transport.

The Kurihashi post-town Sites in Saitama Prefecture were a post station on the Nikko-Kaido route between Edo and Nikko, and the remains of lodgings where feudal lords stayed and also shrines were discovered there.
In addition, daily necessities such as ceramicware, household goods like hair ornaments and patterned mirrors, and toys such as clay dolls were unearthed at the site, providing a good picture of life at a post station at the
time.

近世 近世


 610⑩粟橋宿遺跡

 611
一分金 犬抱き童子 樽地業(たるじぎょう)
■栗橋宿関連遺跡群
■江戸時代前期~後期
■17c前葉~19c後葉
 埼玉県久喜市栗橋北2丁目
日光街道の宿場町
栗橋宿


どんな遺跡かな?
 栗橋宿関連遺跡群(栗橋宿跡・栗橋宿本陣跡栗橋宿西本陣跡栗橋関所番士屋敷跡北2丁目陣屋跡)は、
江戸と日光を往復する 「日光街道(日光道中)」の宿場栗橋宿に関わる遺跡群です。
 宿場町の裏手部分を中心に、街道や本陣跡(大名の宿泊所)、鎮守の牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)を発掘調査し、町の様子が明らかになりました。

どんな遺跡かな
遺跡群周辺の空中写真
(右が利根川)

栗橋関所
日光街道
日光道中絵図」
に描かれた栗橋宿
真ん中を利根川が流れ、その向こに見えるのが筑波山、手前が栗橋宿。


くわしくみてみよう
遺跡からは焼土や焼けた瓦などが詰まった火災の後片付けの痕跡を示す遺構が見られ、19世紀初めの文化、文政年間に立て続いた火災によるともの考えられます。こうした火災の復興にあわせて敷地境を示す区画施設が整備され、現在に続く町割りが完成したことがわかりました。

また、ベルギー産の皿や中国産の薬瓶などの陶磁器類に加え、ガラス製や金属製の髪飾り類・柄鏡、人形や玩具の出土量が多く、
質量共に豊富な出土品は、江戸時代後期の宿場を 行き来する人や物の実態を反映する資料といえます。

くわしくみてみよう
宿場の区画施設 栗橋宿跡第9地点の遺構図
写真は赤線で囲んだ部分


くわしくみてみよう
近世の宿場町としては全国的にも類を見ない 大規模な発掘調査の結果、 出土する遺物の組 み合わせの違いに本陣・町屋の性格差が反映されていること、 町屋の中でも旅籠の区画には古い土蔵が多いなど、職種が反映されてい る遺構が見られることもわかりました。
今後の宿場町の研究・復元に重要な役割を果たすことが期待されます。

くわしくみてみよう 土蔵と考えられる建物基礎
土蔵と考えられる建物基礎 (栗橋宿跡)
樽を埋め、その内外を砂利で固める「樽地業(たるじぎょう)」といわれる工法で建てられている。

地業(じぎょう)とは地盤固め。基礎や土間を設けるために、地盤を固める。
 この地域は利根川流域なので、軟弱な地盤だったのでしょうか。

 612展示物

 613栗橋宿本陣跡出土物
ベルギー産軟質磁器 皿
ヨーロッパで流行した「ウィローパター ン」 とよばれる東洋の風景画をイメージし た文様が描かれる。
裏側にはベルギーのボッホ・フレール社 の銘があり、 19世紀後半に製作されたべ ルギー産の器であることがわかる。幕末期 にヨーロッパ産陶磁器が地方宿場町にも 流通していること示す。

ベルギー産軟質磁器 皿
ベルギー産軟質磁器 皿
肥前系磁器 皿
10枚組の2枚
肥前系磁器 皿
9枚組の2枚
肥前系磁器 皿
9枚組の2枚
肥前系磁器 皿
9枚組の2枚

 614陶磁器
景徳鎮産磁器 小椀
 中国清朝で作られた煎茶を飲む茶碗。十錦手とも呼ばれ江戸地域以外では 滅多に出土しない。

十錦手(じっきんで)
 中国清朝時代に作られた粉彩の焼き物、または色や模様が異なる一揃いの器を指します。
【特徴】
  赤・緑・黄色などの多彩な釉薬が掛けられている
  五彩の絢爛なものが多く、不透明な磁邪質彩料で絵付けされている
【歴史】
  江戸時代には富裕層に文人趣味が流行したことにより、こうしたカラフルな清朝の磁器がもてはやされました
  日本では幕末から明治初年にかけて、伊予市郡中の小谷屋友九郎により、清朝磁器を模した「郡中十錦」という焼物が作られました
【郡中十錦について】
  砥部焼の素地に上絵付けを施した焼物で、磁器釉表に青・黄・緑・赤桃・褐・薄コバルト青・白盛・脂・臙黒・金彩の上絵具を厚く塗り、
  その上に錐花(きりばな)(唐草などの釘ぼり)をして焼いたものです

景徳鎮産磁器
小椀、薬瓶
・景徳鎮産磁器 小椀
 中国清朝で作られた煎茶を飲む茶碗。
 十錦手とも呼ばれ江戸地域以外では
 滅多に出土しない。

・景徳鎮窯系磁器 藥瓶

中国清朝時代

肥前系磁器
色絵鍋島
肥前系磁器
左:肥前系磁器
中:京都信楽系陶器
右:備前系陶器

肥前系磁器 大皿
 615小物

(ふくろうふくろう)根付(ねつけ)
梟(ふくろう)
根付 亀
根付 ハエ
箱庭道具
孤舟蓑笠翁
 616小物 栗橋宿跡
肥前系磁器 人形
瓢箪童子、猿 猫、牛、亀、犬 犬抱き童子
箱庭道具 灯籠

 617栗橋西本陣跡
栗橋関所番士屋敷跡
関所に勤め、 その管理を行う番士が住 む屋敷跡 洪水に備えて盛土の上に 家屋が構えられていた。
当時の図面に 合致する位置で建物跡が発掘された。

北2丁目陣屋跡
牛頭天王社があった範囲。 盛土の上 に建つ大規模な社殿跡が調査された。石灯籠、絵馬など牛頭天王社に関連する遺物が出土。

栗橋宿西本陣跡
旅籠 茶屋などを含む町屋と想定さ れる空間。 江戸時代中期から幕末期 の町人の住まいや焼けた壁土・瓦な が出土。

栗橋宿本陣跡
大名らの宿泊所であった本陣や町屋 から成る空間。 本陣の範囲を区画し た溝や多数の井戸などが出土。

栗橋宿跡
街道沿いに広がる町屋空間。 江戸 時代後期の絵図に見える旅籠や、 茶屋・餅菓子屋 青物屋・鍛冶屋・煙草屋 医師 舟問屋などの空間を調査した。 第1~9地点に分かれる。

栗橋西本陣跡  栗橋西本陣跡
五図天皇社社殿 本陣と町屋を区画する溝
肥前系磁器
瀬戸美濃系陶器
壺や焼き
 
 620

 621栗橋宿本陣跡
栗橋宿本陣跡
栗橋宿本陣跡 玉類
玉類
髪飾り
髪飾り類 一部判金

 622栗橋宿跡
栗橋宿跡 玉類
柄鏡
 625
栗橋宿西本陣跡 一分判金 髪飾り 柄鏡
箱庭道具 神輿

 北2丁目陣屋跡
髪飾り

 627鬼瓦
10補 揚羽蝶文鬼瓦(栗橋宿本陣跡)
揚羽蝶文
本陣敷地内の火災による廃棄物を捨てたと考えられる 土坑から出土。代々本陣の役割を務めた「池田家」の 家紋瓦で、羽蝶の文。本来は黒っぽい色だったと思 われるが、被熱により黄褐色に変色している。 文化・ 文政年間の火災で本陣の建物が被害に遭ったことを示 している。

鬼瓦
揚羽蝶文鬼瓦
揚羽蝶文鬼瓦
(栗橋宿本陣跡)
 
 


 700概要
  発掘された日本列島2024 展示の概要

 出品遺跡年表
出品遺跡年表

 出品遺跡位置図
出品遺跡位置図
➀旧石器時代の大石器工房
 北海道今金町
 史跡ピリカ遺跡

②縄文時代からアイヌ文化へ
 北海道余市町
 大川遺跡から見る北海道の文化ヒストリー

③モノづくりが祈りを繋ぐ
 群馬県藤岡市
1⃣美々4遺跡
 北海道千歳市

2⃣唐堀遺跡
 群馬県東吾妻町

3⃣史跡真福寺貝塚
 埼玉県さいたま市

4⃣墓料遺跡
 福島県会津若松市

5⃣宿尻遺跡
 茨城県常陸大宮市

6⃣赤堀茶臼山古墳·石山南古墳群
 群馬県伊勢崎市

7⃣菅原遺跡
 奈良県奈良市

8⃣穴田東窯跡・薬師堂東遺跡
 宮城県仙台市

9⃣六ノ城遺跡
 神奈川県平塚市

🔟栗橋宿関連遺跡群
 埼玉県久喜市 

 二階特設会場案内幕
二階特設会場
 
 

 800大野城市 地域展


 801日本遺産「西の都」成立前夜の国際交流


ごあいさつ

大野城市を含む九州北部地域は、海の道で朝鮮半島とつながっており、古来から東アジアの玄関口として国際色豊かな歴史文奈良時代 (8世紀)には、九州における政治・外交・軍事の中心である大宰府が成立し、東アジアから文化・宗教・人などが集まる 「西の都」 が誕生します。

本地域展では、「西の都」 成立前夜の7世紀にスポットを当て、東アジアとの交流の原点に迫ります。

ごあいさつ


7世紀の東アジアと新羅との交流

7世紀の東アジアは、中国大陸における隋唐の成立や朝鮮半島における高句麗・百済・新羅・加耶による戦争など、激動の時代を迎えていました。
当時の日本は「倭」 と呼ばれ、遣隋使や遣唐使を派遣するなど積極的な国際交流をしていました。
また、 朝鮮半島の百済とは、 友好関係を結ぶ一方で、新羅とは敵対関係にありました。

ところが、 大野城市の東部にある 「乙金地区遺跡群(おとがなちくいせきぐん)」では、7世紀の新羅土器がたくさん見つかっています。
その数は全国屈指で、 新羅との間に活発な交流があったことを物語ります。

7世紀の東アジアと
新羅の交流
隋・唐
高句麗 新羅
百济

大宰府
飛鳥
日本列島(倭)


新羅土器とは?

新羅は古代の朝鮮半島にあった国の一つで、現在の慶州の地に都が置かれていました。
6世紀頃から勢力を強め、562年に加耶、660年に百済、 668年に高句麗を滅ぼし、 676年には朝鮮半島を統一しました。

この新羅でつくられた土器のことを新羅土器と呼び、土器の表面をスタンプなどを使用して装飾することが大きな特徴です。
日本では、古代に都がおかれた奈良県や、 壱岐・対馬をはじめとする九州北部で多く見つかっています。

新羅土器とは
高句麗
●平壌
新羅
●熊津
●金城(慶州)
百済
●漢城
●泗沘
伽耶


大野城市になぜ新羅土器が多いのか?

大野城市東部、四王寺山の麓にある乙金地区には古墳時代の大きな集落があり、 朝鮮半島から渡ってきた新羅・加耶系の渡来人が住んでいたことが分かっています。
彼・彼女らは日本 (倭) 人と共存しながら地域の開発に貢献する一方で、 ふるさととの間で積極的に交流し、先進文物や情報をもたらしたと考えられます。
政治の世界では敵対関係にあった日本(倭)と新羅ですが、民衆レベルにおいては友好関係にあったことを示しています。

なお、近年の大野城跡の調査研究により、 大野城の築城に新羅の技術が用いられたことが、分かってきました。
乙金地区の新羅・加耶系渡来人が大野城の築城に関わった可能性が明らかになりつつあります。

善一田古墳群:四王寺山から乙金山にかけての山裾に進出した開拓者集団やその子孫たちが葬られた約30基の古墳群
王城山古墳群:6世紀の古墳37基。現存する4号墳は複式の横穴式石室があり、羨道部が前庭部が両腕を広げたような扇の形に開いている
乙金(おとがな)地区:上2つの古墳群が存在する。7世紀後半まで継続して埋葬され続けた。

四王寺山(しおうじやま) (大野城跡):宇美町・大野城市・太宰府市にまたがる四王寺山にある古代山城です。


コンテナとして使われた新羅土器
大野城市で見つかった新羅土器の大半が 「壺」 であり、中に入っていた物を運搬するための容器として使われたと考えられています。
さて、いったい何を運んだのでしょうか?頸が細いものは液体、口が広いものは固体や粉末状のものを入れていたと考えられます。
新羅の特産品のお酒や、 粉末状にした高麗人参などの薬を入れて新羅から持ってきたのかもしれません。

 
 805展示全景

 811三累環頭大刀柄頭

三累環頭大刀柄頭(さんるいかんとうたちつかがしら)
時代: 6世紀末~7世紀初頭
遺跡名: 善一田古墳群(ぜんいちだこふんぐん)
所蔵者: 大野城市

刀の柄の飾り金具です。「C」の字を3個重ねたような形の柄飾りは、元々は新羅の貴族の間で流行しました。

三累環頭大刀柄頭

 813
新羅土器 長頸壺
時代: 7世紀中頃
遺跡名: 王城山古墳群(おおぎやまこふんぐん) C群
所蔵者: 大野城市

(くび)が細く長く、 中に入れた酒などの液体がこぼれにくい容器です。 丸い模様をスタンプで装飾しています。


新羅土器 蓋
時代: 6世紀末~7世紀
遺跡名: 王城山古墳群 C群
所蔵者: 大野城市

蓋です。 その形から落し蓋と呼ばれます。

新羅土器 蓋 新羅土器 長頸壺

 814
新羅土器 蓋
時代:6世紀末~7世紀
遺跡名: 王城山古墳群 C 群
所蔵者: 大野城市

蓋です。 持ちやすいようにツマミがつけられています。

新羅土器 蓋


新羅土器 短頸壺
時代:6世紀末~7世紀初頭
遺跡名: 王城山古墳群C群
所蔵者:大野城市

底に台がついており、 どっしりとした安定感がある壺で、 船に積んで運ぶのに最適な形です。
丸と三角の模様で装飾しています。

新羅土器 短頸壺

 916
新羅土器 広口壺
時代: 6世紀末~7世紀初頭
遺跡名: 王城山古墳群 B群
所蔵者: 大野城市

口が広く、全体に丸みが強い壺です。丸と三角の模様で飾っています。

新羅土器 広口壺


新羅土器 長頸壺(ちょうけいこ)
時代: 7世紀中頃
遺跡名:王城山古墳群 B群
所蔵者: 大野城市

口の部分が蓋を受けやすい形になっています。
模様がなく、シンプルな壺です。

新羅土器 長頸壷

 818
新羅土器 太頸壺(ふとくびつぼ)
時代: 7世紀後半
遺跡名: 善一田古墳群
所蔵者: 大野城市

どっしりとした安定感がある壺で、口の部分が蓋を受けやすい形になっています。
二重丸と縦長の模様をスタンプで装飾しています。

新羅土器 太頸壺


新羅土器 短頸壺(たんけいこ)
時代: 7世紀後半
遺跡名: 唐山(からやま)古墳群
所蔵者: 大野城市

どっしりとした安定感がある壺で、船に積んで運ぶのに最適な形です。
二重丸と縦長の模様をスタンプで装飾しています。

新羅土器 短頸壺
 

 820須恵器窯
 
 


 900特集1 遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化

 先史古代の 洞窟・岩陰遺跡、その多様な世界



 901会場案内
  発掘された日本列島展大野城市会場案内

3階企画展示室
氷河期の石器製作資料(北海道ピリカ遺跡) 
 昔の人類の技術がすごすぎる!
アイヌ文化期の首飾り(北海道大川遺跡)
 アイヌが愛したきれいな首飾り

2階特設会場
行基ゆかりの小型鬼瓦(奈良県菅原遺跡)
 普通の鬼瓦よりかなり小さいぞ!?
ベルギー産の磁器皿(埼玉県栗橋宿関連遺跡)
 西洋で大人気! 中国の悲恋物語を 描いたお皿が日本にやってきた!
地域展
 新羅土器大集合(福岡県善一田古墳群他)
 大野城市の善一田古墳群 王城山古墳 群で出土した新羅土器です。
 大野城市 で見つかった朝鮮半島の土器を中心に 「西の都」=大宰府成立前夜の国際交 流の姿に迫ります。

1階パネル展示
 遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化
  先史古代の 洞窟・岩陰遺跡、その多様な世界

発掘展案内 展示案内  上に記述
 
 


 902特集1 遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化
       先史古代の 洞窟・岩陰遺跡、その多様な世界

 
 903
遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化
日本列島に生きた人々は、その豊かな自然環境を背 景として多様な歴史や文化を育んできました。 移動が 容易になった現在でも、ところ変われば違った風景や 人々の営みに目を奪われることがしばしばあります。過 去の人々の暮らしの痕跡である遺跡にも、そうした地 域性を見ることができます。 これは、遺跡に文化的な系 譜や、人々が生活していくための知恵や工夫が凝縮さ れているためです。
本特集では、さまざまな視点から遺跡や遺物を見る ことによって、個性豊かな日本の歴史文化を読み解 き、紹介するものです。 今回は、「洞窟・岩陰遺跡、そ の多様な世界」 と題して、 全国に約680ヶ所存在す る洞窟遺跡のうち、旧石器時代から古墳時代の代 表的な6遺跡を取り上げます。 全国に47万か所以 上存在する遺跡のうち、 洞窟 岩陰遺跡は決して多 いとは言えませんが、巨大な岩体が作り出す空間は 歴史上、 人間が住まう場として、あるいは送りの場と して利用されてきました。 そこには開地遺跡 (丘陵・ 台地上につくられた遺跡) には見られない人々の多 様な暮らしの姿がありました。 先人たちが育んだ文
化の写し鑑としての「遺跡」を、ぜひご覧ください。

904
洞窟・岩陰遺跡、 その多様な世界

日本列島には石灰岩洞窟のほか、砂岩や凝灰岩等が河 川の流れや波浪の影響で形作られた洞窟や岩陰をみるこ とができます。
これらの遺跡は、開地遺跡と比べて、地質的な特性から骨などの有機物をよく保存します。そのため旧石器時代の化石人骨が複数体見つ
かった、 史跡白保竿根田原(しらほ さおねたばる)洞穴(沖縄県) を筆頭に、縄文時代以降の埋葬された人骨、先史時代の多角的な資源利用が明ら
かにされた事例も数多くあります。
特1-2 洞窟・岩陰遺跡、その多様な世界

遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化

特1-1 洞窟 岩陰遺跡、その多様な世界
洞窟・岩陰遺跡、
その多様な世界
日本列島の洞窟岩陰遺跡の分布
 
 
史跡手宮洞窟
史跡フゴッペ洞窟
尻労安部洞窟
 
史跡日向洞窟
史跡室谷洞窟
史跡小瀬ヶ沢洞窟
尻労安部洞窟
五松山洞窟遺跡
 
史跡大境洞窟住居跡
史跡サルガ鼻洞窟住居跡
湯倉洞窟
居家以岩陰遺跡
荒熊洞窟遺跡
帝釈峡遺跡群
史跡栃原岩陰遺跡毘沙門洞穴群
 
史跡福井洞窟
史跡泉福寺洞窟
岩下洞穴遺跡
史跡磯間岩陰遺跡
粉洞穴遺跡
史跡不動ガ岩屋洞窟
史跡上黑岩岩陰遺跡
黒川洞穴遺跡
下原洞穴遺跡
サキタリ洞遺跡

立地の特徴と意味の変化
 洞窟や岩陰は、山中や海岸部に立地する特徴があります。狩猟採集社会においては、季節や生業に特化する形で拠点となり得ますが、平坦部を生活の中心とした農耕社会 の人々にとっては、洞窟や岩陰は特殊であったに違いありません。
 興味深いことに、ここで紹介した多くの洞窟や岩陰 は、現在神社等の一部に取り込まれており、祭祀、信仰の機 能が生き続けています。
このように見ると、洞窟・岩陰遺跡は、生活スタイルの変化とそれに伴う心性の変化の写し鑑 と言えるかもしれません。
   特1-3 洞窟・岩陰遺跡、その多様な世界

立地の特徴と意味の変化
福井洞窟とその周辺
毘沙門洞穴群がある海食崖

905
遺跡解説
世界最大級の旧石器時代の墓

史跡 白保竿根田原洞穴遺跡 (沖縄県石垣市)
 後期旧石器時代~近世(中森期)(約27,000年前~17世紀)

 石垣島東海岸に面する琉球石灰岩の洞窟遺跡です。新石垣空 港の建設に伴って発見され、 発掘調査の結果、旧石器時代の人骨 が5体も出土する人類史上大きな発見がありました。 洞穴は旧石 器時代には墓地として利用されました。 遺体は風葬されたと考えら れます。沖縄では、遺体を風葬する崖葬墓(がいそうぼ)文化が縄文時代から確 認されていますが、 この発見により、 その文化が旧石器時代に遡る 可能性もあります。 その後、洞穴は生活空間と墓地としての利用を交互に繰り返され ました。 現在は空港 内に大切に保存さ れ、静かに活用の時 を待っています。
  特1-4洞窟・岩陰遺跡、その多様な世界

白保竿根田原洞穴遺跡
発掘調査の様子 (奥には空港が見える)

化石人骨から復元された白保竿根田原人

遺跡解説
縄文時代のはじまりを知る


史跡 日向(ひなた)洞窟 (山形県高畠町)
 縄文時代草創期~中期末 (約15,000年前~4,000年前)

 最上川上流域、米沢盆地の東端に立地する洞窟遺跡です。4つの洞窟からなり、そのうち第I洞窟では、 昭和30年代に行われた 発掘調査によって、縄文時代早期以降の地層の下位から遺物が出土しました。 この発見が、縄文時代で最も古い「草創期」の設定へとつながりました。遺跡は洞窟外にも広がり、長期間にわたり人々が繰り返し洞窟を訪れて生活が営まれたことが分かっています。
日向洞窟周辺には一の沢洞窟、 火箱岩(ひばこいわ)洞窟、 大立(おおだち)洞窟などの縄文時代草創期の史跡が点在しており、縄文時代の始まりを考える上で重要な地域の 1つと言えます。 特1-5 洞窟岩陰遺跡、その多様な世界

史跡 日向洞窟 第I洞窟の開口部
出土した縄文時代草創期の石器

遺跡解説
旧石器時代~縄文時代の拠点狩猟キャンプ

史跡 福井洞窟 (長崎県佐世保市)

 後期旧石器時代末~縄文時代早期 (約19,000年前~10,000年前)

 洞窟数日本一のまち佐世保市にある、旧石器時代から縄文時 代への移り変わりの時期に営まれた拠点的な洞窟遺跡です。
洞窟内の地層は15層に分けることができ、2・3層では細石刃と土器が伴い、その下位では土器が伴わず細石刃のみが伴います。
特に12層では炉跡がみつかり、その周囲に細石刃などの石器が約1mの範囲で散らばっており、旧石器時代人の生活の様子を垣間見ることができます。 その後も縄文時代早期に至るまで連綿と生活の痕跡が認められます。環境変動に適応し、たくましく生きた人々の生活の様子を知ることができる恰好の遺跡です。
       特16 洞窟岩陰遺跡、その多様な世界

史跡 福井洞窟
現在の福井洞窟 (地表下には約6mもの地層が堆積する)
12層の炉跡


遺跡解説
名勝帝釈峡(たいしゃくきょう)周辺に広がる55カ所の遺跡群

帝釈峡遺跡群 (広島県庄原市)

 後期旧石器時代後半~近世 (約20,000年前~19世紀)

中国山地にある一大洞窟遺跡群です。 昭和30年代以降、調査・研究が進められてきました。
史跡寄倉岩陰(よせくらいわかげ)では、縄文時代早期~中世にいたる13層の地層が7m以上堆積し、中国・四国地方の縄文土器の移り変わりを遺跡でたどることができます。
その他の洞窟・岩陰を居住や祭祀、埋葬の場として利用されたことがわかっています。ニホンジカやイノシシの骨を加工した骨角器や、サヌカイトや黒曜石等とともに、希少な装身具などを他地域と交換していたことがわかっており、広域的な交流が行われていたことがわかります。
  1-7 洞窟岩陰遺跡、 その多様な世界

帝釈峡遺跡群
史跡寄倉岩陰遺跡の現況
出土したカワシンジュガイ

遺跡解説
大海原を望む古代の住居と墓

毘沙門洞穴群 (神奈川県三浦市)

 弥生時代後期~古墳時代 (約2,000年前~5世紀)

 三浦半島の突端に位置する海蝕洞窟です。洞穴群は5つの洞穴からなり、それらが近距離に密集します。
それぞれの洞穴で居住地や墓など、多様な機能を有していたと考 えられます。
出土遺物は、アワビやサザエなど食料となる海洋性の自然遺物が多く出土する一方で、三浦半島では珍しいタカラガイの貝製品も出土しています。貝輪の破片も多く出土することから、ここで生産し、供給していたと考えられ ます。
さらに占いに用いられたと考えられる卜骨も見つかっています。洞穴群は、弥生時代から古墳時代の多様な生業のあり方をよく示しています。

洞穴から太平洋を望む 出土した卜骨


遺跡解説
海沿いの岩陰に営まれた海人の墓

史跡 磯間岩陰遺跡 (和歌山県田辺市)

 古墳時代中期~後期 (5世紀中頃~6世紀)

田辺湾に向かってせり出した丘陵の崖面にある岩陰です。 ここで古墳時代の小型の竪穴式石室や箱形石棺など8基が見つかり、12体の人骨のほか、多種多様な副葬品が出土しました。
副葬品の多くが海と関わる生活用具で、 鉄や鹿角で作られ た釣針や銛、ヤス等が見られます。 中でも軸と針を組み合わせた鹿角製の大型の釣針は疑似餌と考えられ、現在のカツオ釣り 漁の起源と考えられています。
これらの副葬品や岩陰に埋葬す る独自性の強い風習は、海人の社会や生活とともに、王権との 関係や黒潮を介した交流を考える上でも貴重です。
   特1-9 洞窟 岩陰遺跡、その多様な世界

史跡磯間岩陰遺跡 岩陰の現況(当時は海に面していた)
出土遺物
(海との関連が強い)
 


 910特集2 文化的景観制度創設20周年



 911文化的景観

文化的景観20年展
 開催にあたって
日本の多様な風土の中で、人々は自然と関わりながら暮らしを営み、長い年月をかけて、その土地ならではの特徴的な景観を築き上げてきました。 文化的景観は、 このような景観を受け継ぐ土地をいいます。
文化的景観は、身近であるがゆえに、 その良さに気づかれることなく失われつつあります。
文化的景観は、平成16年(2004) の文化財保護法の改正により文化財として位置付けられ、令和6年 (2024) で20年を迎えます。
この節目として開催する本展では、重要文化的景観とこれを支える取組みを紹介します。
特に、重要文化的景観の紹介においては、5つのテーマを設け、それぞれについて対照的な2箇所の地域に迫ります。
2地域の対比から、風土に根差した暮らしの景観の多様性や共通性を感じていただければ幸いです。
本展を通して、文化的景観に親しみ、 関わる人の輪が広がることを願っています。

文化的景観20年展
開催にあたって
35一炭屋町
58四十物町

※写真の丸数字は重要文化的景観一覧の番号です。
写真の重要文化的景観と提供者: 35岩国市、58阿蘇市、9佐渡市、
13福井市/タペストリー(上) 11輪島市教育委員会、
(右上) 33智頭町教育委員会、 (右下) 61産山村教育委員会、(左)25、 (下)39宮本春樹
13


重要文化的景観とは
文化的景観のうち、 地域の特色を示す 代表的なものや、他に例を見ない独特 なものとして、国が基準に基づき選定 したものが、重要文化的景観です。
選定は、地方公共団体からの申し出を 受けて行われます。 申し出には、これを 行う地方公共団体により保存のための 措置が図られていることが必要です。
選定後に行われる修理や修景、防災、 活用、普及啓発など、地方公共団体に よる保護の取組みに対し、文化庁とし て支援を行っています。

重要文化的景観とは 重要文化的景観の選定 写真提供: 3 遠野市、39 西予市、17 飯山市教育委員会、
     54 新上五島町教育委員会

 全国の重要文化的景観
全国の重要文化的景観
地図と選定地と選定景観はこのリンクで。


 くらしの道

五島列島における瀬戸を介した久賀島及び奈留島の集落景観  長崎県五島市
海に浮かぶ五島の島々で暮らす人々は、潮や風を読み、 舟 を漕いで、 瀬戸を路地のように行き 来していました。
瀬戸を挟んで向い合う久賀島東岸と 奈留島西岸では、 漁業・農業の手伝 いや、教会での礼拝などのために行 き交い、生活圏を築いてきました。

五島列島における瀬戸を介した久賀島及び奈留島の集落景観
奈留島上空から望む、奈留瀬戸、久賀島(右奥)。瀬戸を渡ると、島々に点在する教会が目を引きます
奈留島西岸の、小さな入り江に程近い山裾にある江上 天主堂

東草野の山村景観 滋賀県米原市
山に囲まれた東草野の集落は、滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山の山麓を流れる姉川が作った谷の僅かな平地に点在します。
渓谷には難所もあったため、古来、山地を横断する峠道を介して、人や物、文化の交流が盛んに行われました。

東草野の山村景観 豪雪地帯にある東草野。雪除けの深い軒をもつ主屋は、峠の先の岐阜県の集落と共通
積雪期にも、東草野と他地域を結び続ける
「七曲峠」
 

 912すまいの知恵

今帰仁村今泊(なきじんそんいまどまり)のフクギ屋敷と集落景観 沖縄県今帰仁村
温暖多雨で台風も多い沖縄にあって、今泊では通年で海からの北風も強く吹きます。
集落は、近世にグスクが廃城となり丘陵から利便性の高い海際へ移っ たとされ、この際に、中国に学んだ琉 球国の集落づくりが導入されました。 フクギの防風林はその代表例です。

今帰仁村今泊のフクギ屋敷と
集落景観
北から海、微高地上の集落、農地、丘陵上のグスク跡、山林が連なります
火や潮風にも強いフクギの屋敷林による並木

一関本寺(いちのせきほんでら)の農村景観 岩手県一関市
寒冷な東北地方太平洋側では、冬に吹く強い北西風から家屋を護るための、「イグネ」と呼ば れる屋敷林が見られます。
小盆地一面に水田を広げる本寺地 区では、敷地の北西側を杉などの 巨木で囲んだ屋敷が、 山裾や道路 付近の微高地上に点在しています。

一関本寺の農村景観
中尊寺の荘園であった本寺。中世の絵図より変わらない特徴を引き継ぎます
イグネの中には、大型の主屋と馬屋・土蔵などが並びます

 水とくらし

通潤用水(つうじゅんようすい)白糸(しらいと)台地の棚田景観 熊本県山都町(やまとちょう)
高い山間部にある白糸台地の棚田は、安政2年(1855)に完成した通潤用水によるものです。
湧水しか水源がなかった台地の尾根へ水路を引き込み、高所にあった畑を水田に変え、
古くからある谷間の水田と一体となった棚田が営ま れています。

通潤用水と白糸台地の棚田景観 通潤用水のシンボルである水路橋
「通潤橋』と棚田
高所に開かれた新田と谷間にある古田

高島市針江(はりえ)霜降(しもふり)の水辺景観 滋賀県高島市
低湿地が広がる琵琶湖岸には、川とその周辺の地下を流れる水が豊かな集落が見られます。
針江・霜降の各戸には、湧水を引いた洗い場、水汲み場である「カバ タ」が存在します。
「カバタ」の水は、水路で集落を巡り、水田を潤し、琵琶湖に注ぎます。

高島市針江・霜降の水辺景観
カバタの水はきれいにして水路に戻します。 例えば、 残飯はカバタに飼われた鯉が平らげます。
湖岸に群生するヨシは、屋根材やヨシ簀に用いられました


 地形となりわい

越前海岸の水仙畑上岬(かみみさき)の文化的景観 福井県越前町
傾斜地での水仙栽培は、平地が少なく、冬は波が荒いため漁に出られない越前海岸の冬の副業として、近代に始まりました。 戦後、棚田も水仙畑に転用され、一面の水仙畑は来訪者を呼び、観光も地域の産業となっています。

越前海岸の水仙畑上岬の文化的景観
海に面した崖の上に、一面に広がる水仙畑
棚田跡の水仙畑。 集落は海風を避けるよう山裾に立地

葛飾柴又の文化的景観 東京都葛飾区
平坦な東京低地の東端に位置する柴又は、古くから農業を営む集落が微高地に形成され、 また江戸川の渡河地点として発展しました。
近世に帝釈天題経寺(たいしゃくてんだいきょうじ)が開かれ、近代には東京近郊の行楽地として賑 わいを増し、今に至ります。

葛飾柴又の文化的景観
農家が店を出したことに始まるとされる参道沿いの対面販売
大正時代の築堤以前は、料亭は川に臨み、文化人などが舟でも訪れました
 

 913文化の舞台

北大東島の燐鉱山(りんこうやま)由来の文化的景観  沖縄県北大東村
沖縄本島から約360km東方の北大東島は、長らく無人島でした。
明治36年(1903)から八丈島の実業家らによって開拓され、肥料に用いられた燐の採掘により、日本の農業を支えました。
この時代の沖縄と八丈島の伝統文化は、今も大切に引き継がれています。

北大東島の燐鉱山由来の文化的景観
西港を中心に、燐鉱に関する施設が遺構として残ります
県内では珍しい神輿巡業は、八丈島経由で本州の文化が 入ってきたことを伝えます

アイヌの伝統と近代開拓による沙流川(さるがわ)流域の文化的景観  北海道平取町
アイヌの人々は、自然の恵みを活かし、自然に神の物語を見る、暮らしのあり方を基盤としています。
近代開拓の歴史を重ねつつ、集落や狩場の跡、伝承が伝わる豊かな山や川をよく残し、地名や伝統文化が息づいています。

アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観
川沿いに多くの伝承地や遺跡が残り、段丘上では酪農や畑作が行われています
アイヌの樹皮衣「アットゥシ」を作るための、オヒョウの木の皮はぎ

 914景観の守り人


独立行政法人 国立文化財機構
奈良文化財研究所
文化遺産部景観研究室

景観研究室では、シンポジウムや 研究会を開催しながら、 文化的景 観の概念や制度について調査研究 を行っています。 また、 日本各地で のフィールドワークを通じた研究も 進めています。 その成果を本やイラ ストとして分かりやすく伝えることも 大事にしています。

奈良文化財研究所    「智頭の林業景観」全覧図
(智頭宿編)

〇地図のみかた
〇営みの基礎
〇川と暮らしの距離感
 四万十・岐阜 
〇年の営みの地層
 宇治・金沢
〇文化的景観全覧図
〇岡崎公園
〇白川と疎水
〇南山城の宇治茶生産景観 


全国文化的景観地区連絡協議会
文化的景観の保護に取り組んでいる市区町村など、 61 団体 から構成される会です。
文化的景観の保存や整備に関する調査研究、 施策の推進 及び情報交換を行い、地域住民の生活と文化の向上に資す ることを目的としています。
現地での大会を年1回開催し、地域住民などを含め、交流 を図っています。

全国文化的景観地区連絡協議会

 地域活動
地域での活動いろいろ
ボランティア
都市住民との交流
野外保育
自然観察会
暮らし体験
インターンシップ
情報発信


 マークとエンブレム
  文化的景観の多様性を大切にした シンボルを掲げ、 発信と連携を図っています。

20年マーク
文化的景観制度創設20年を記念し、「20年マーク」が誕生しました。
文化的景観での活動やそこに関わる人の輪を広げていくために、どなたでも活用いただけます。
20年マークは、全国文化的景観地区連絡協議会とともに作成し、都道府県や重要文化的景観 のある市区町村などの投票により誕生しました。

マークとエンブレム
20年マーク 市区町村により、重要文化的景観それぞれの個性を表現したエン ブレムの作成が進み、 各地で活用されています。
 
 
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全国史跡整備市町村協議会の概要


1 設立
昭和41年1月7日 (設立時加盟市町村 : 39市町村で発足)
2 組織・目的
主として史跡名勝、 天然記念物及び重要文化的景観を所有する市町村をもって組織 され、加盟市町村が協調して、 史跡等の整備に関する調査研究及びその具体的方策 の推進を図り、もって文化財の保存と活用に資することを目的とする協議会です。 活動は、史跡保全議員連盟や文化庁との密接な連携のもと行われ、全国史跡整備市 町村協議会関係予算(「史跡等公有化助成」、「史跡等整備活用事業」、「埋蔵文化財 発掘調査等」の3本柱)の確保に向けた陳情活動等を積極的に行っています。
3 加盟市町村数
630市町村 (市: 436 町: 177 村:17) R6.5.1 現在
4 令和6年度の主要事業
(1)全国大会・総会の開催
○総会・記念講演等
○エクスカーション
(2) 臨時大会の開催
○臨時大会
○陳情活動 【都道府県別陳情活動】
○陳情報告会・記念講演等
(3) 役員会 (年2回)の開催
(4) 担当部課長会議の開催
(5)予算対策懇談会の開催
(6) 都道府県別陳情活動 (都道府県)
(7) 補助事業の実施

○地区協議会・都道府県史協への補助
○奈良文化財研究所研修参加者への補助
(8) 広報活動 (会報発行、リーフレット作成等)

全国史跡整備市町村協議会の概要

日本列島を発掘する
全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会
全国埋蔵文化財法人連絡協議会
日本列島を発掘する
私たちはそれぞれの地域で、 開発により
失われてしまう遺跡の発掘調査を行っています。
■全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会

 全国の道 ・ 府・県・市町といった地方自治体が設立した、 公立組織 の埋蔵文化財センター71機関が加盟しています。
 当協議会では、 埋蔵文化財の調査研究等の充実、 文化財の保護と活用 を目的とした活動を行っています。

■全国埋蔵文化財法人連絡協議会
全国の自治体等が設立した公益財団法人の組織です。
全国に45法人の組織があり、 発掘調査資料整理・保存科学・ 普及活動等のさまざまな分野で活動しています。
ご自宅の近くにも埋蔵文化財センターはあります。
一度、 訪れてみてはいかがでしょうか・・



「発掘された日本列島 2024」 展を
支えています

全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会
全国埋蔵文化財法人連絡協議会


全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会
全国埋蔵文化財法人連絡協議会加盟機関一覧


北海道・東北ブロック
(公財) 北海道埋蔵文化財センター
(公財)岩手県文化振興事業団 埋蔵文化財センター
(一財) 奥州市文化振興財団 奥州市埋蔵文化財調査センター
(公財) 山形県埋蔵文化財センター (公財)福島県文化振興財団 遺跡調査部
(公財) いわき市教育文化事業団
(公財) 郡山市文化・学び振興公社 文化財調査研究センター
(公財)福島市振興公社 文化財調査室
公立】
[北海道]

北海道立埋蔵文化財センター
札幌市埋蔵文化財センター
釧路市埋蔵文化財調査センター
ところ埋蔵文化財センター
[青森県]
青森県埋蔵文化財調査センター
八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館
[岩手県]
盛岡市遺跡の学び館
北上市立埋蔵文化財センター
滝沢市埋蔵文化財センター
二戸市埋蔵文化財センター
宮古市埋蔵文化財センター
[宮城県]
多賀城市埋蔵文化財調査センター
栗原市一迫埋蔵文化財センター 山王ろまん館
[秋田県]
秋田県埋蔵文化財センター
関東ブロック
(公財) 茨城県教育財団
(公財)ひたちなか市生活・文化・スポーツ公社
(公財)鹿嶋市文化スポーツ振興事業団 鹿嶋市どきどきセンター
(公財) とちぎ未来づくり財団 埋蔵文化財センター
(公財) 群馬県埋蔵文化財調査事業団
(公財) 埼玉県埋蔵文化財調査事業団
(公財) 千葉県教育振興財団 文化財センター
(公財) 印旛郡市文化財センター
(公財) 東京都教育支援機構 東京都埋蔵文化財センター (公財) かながわ考古学財団
(公財)横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター
【公立】
[埼玉県]

所沢市立埋蔵文化財調査センター
吉見町埋蔵文化財センター
[千葉県]
市原市埋蔵文化財調査センター
[神奈川県]
神奈川県埋蔵文化財センター

中部・北陸ブロック
(公財) 新潟県埋蔵文化財調査事業団
(公財) 石川県埋蔵文化財センター
(一財) 長野県文化振興事業団 長野県埋蔵文化財センター
(公財)岐阜市教育文化振興事業団 埋蔵文化財調査事務所
(公財) 愛知県教育・スポーツ振興財団 愛知県埋蔵文化財センター
【公立】
[ 山梨県 ]

山梨県埋蔵文化財センター
北杜市埋蔵文化財センター [長野県]
長野市埋蔵文化財センター [静岡県]
静岡県埋蔵文化財センター 浜松市地域遺産センター
磐田市埋蔵文化財センター 伊東市文化財管理センター [愛知県]
愛知県埋蔵文化財調査センター
安城市埋蔵文化財センター
東浦町埋蔵文化財センターうのはな館
[富山県]
富山県埋蔵文化財センター
[福井県]
福井県教育庁埋蔵文化財調査センター

近畿ブロック
(公財) 滋賀県文化財保護協会
(公財) 京都府埋蔵文化財調査研究センター
(公財) 京都市埋蔵文化財研究所
(公財) 長岡京市埋蔵文化財センター
(公財) 向日市埋蔵文化財センター
(公財) 大阪府文化財センター
(一財) 大阪市文化財協会
(公財) 兵庫県まちづくり技術センター 埋蔵文化財調査部
(公財) 元興寺文化財研究所
(公財) 和歌山県文化財センター
(公財) 和歌山市文化スポーツ振興財団 埋蔵文化財センター
【公立】
[三重県]

三重県埋蔵文化財センター
津市埋蔵文化財センター
松阪市文化財センター [滋賀県]
滋賀県埋蔵文化財センター
守山市立埋蔵文化財センター
東近江市埋蔵文化財センター
多賀町立文化財センター
[京都府]
京都市文化市民局文化財保護課 埋蔵文化財担当
[大阪府]
大阪府教育庁文化財調査事務所
高槻市立埋蔵文化財調査センター [兵庫県]
神戸市埋蔵文化財センター
姫路市埋蔵文化財センター
那珂ふれあい館
たつの市埋蔵文化財センター
[奈良県]
奈良県立橿原考古学研究所
奈良市埋蔵文化財調査センター
桜井市立埋蔵文化財センター
斑鳩町文化財活用センター
田原本町埋蔵文化財センター

中国・四国・九州ブロック 中国
(公財) 広島県教育事業団事務局 埋蔵文化財調査室
(公財) 広島市文化財団 文化科学部文化財課
(公財) 安芸高田市地域振興事業団
(公財) 山口県ひとづくり財団 山口県埋蔵文化財センター
【公立】
[ 鳥取県 ]
鳥取県埋蔵文化財センター
[島根県]
島根県教育庁埋蔵文化財調査センター
[岡山県]
岡山県古代吉備文化財センター
岡山市埋蔵文化財センター
倉敷埋蔵文化財センター
津山弥生の里文化財センター
井原市文化財センター 古代まほろば館
[広島県]
広島県立埋蔵文化財センター
東広島市出土文化財管理センター
中国・四国・九州ブロック 四国
(公財) 徳島県埋蔵文化財センター
(公財) 愛媛県埋蔵文化財センター
(公財) 松山市文化・スポーツ振興財団 埋蔵文化財センター
(公財) 高知県文化財団 埋蔵文化財センター
【公立】
[香川県]
香川県埋蔵文化財センター

中国・四国・九州ブロック 九州
(公財) 北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室
(公財) 鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター
【公立】
[福岡県]

北九州市立埋蔵文化財センター
福岡市埋蔵文化財センター
久留米市埋蔵文化財センター
小郡市埋蔵文化財調査センター [大分県]
大分県立埋蔵文化財センター
[長崎県]
長崎県埋蔵文化財センター
松浦市立埋蔵文化財センター
[宮崎県]
宮崎県埋蔵文化財センター
宮崎市生目の杜遊古館
[鹿児島県]
鹿児島県立埋蔵文化財センター
南種子町埋蔵文化財センター

中国・四国・九州ブロック 沖縄
【公立】
[沖縄県]

沖縄県立埋蔵文化財センター
 935
全国史跡整備市町村協議会
令和6年度史跡等関係予算
重点要事項
一、史跡等買上げの充実
一、史跡等整備活用事業の拡充
一、埋蔵文化財発掘調査等の充実

史跡 姫小川古墳 愛知県安城市
名勝天龍峡 長野県飯田市
天然記念物
本願清水イトヨ生息地 福井県大野市
史跡 鏡山城跡 広島県東広島市
史跡 二俣城跡及び鳥羽山城跡 静岡県浜松市

史跡 黒浜貝塚
 埼玉県蓮田市
タブレットを活用
 した説明
整備された縄文の海
史跡 市尾墓山古墳・
宮塚古墳
 奈良県高取町
史跡 熊本藩主細川家墓所 熊本県熊本市 都城市埋蔵文化財センター 宮崎県都城市

 937
史跡等の買上げと整備・ 活用
みんなの心のよりどころ 豊かな歴史遺産を今に活かそう

史跡 乙塚古墳附段尻巻古墳 岐阜県土岐市
名勝 柴田氏庭園 福井県敦賀市
重要文化的景観 生野鉱山及び鉱山町の文化的景観 兵庫県朝来市
特別史跡 熊本城跡 熊本県熊本市

史跡 山王塚古墳 埼玉県川越市