2025.12.09-2三重県総合博物館
発掘された日本列島2025展 (最初にCMあり)
三重県会場地域展
三重県総合博物館 三重県津市一身田上津部田3060 059-228-2283 月休 撮影可
地域展「王権東へ 伊賀の古墳時代」
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交通 |
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JR・近鉄・伊勢鉄道の津駅から頻繁にあるバス5分 |
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タクシー¥1000程 |
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はじめに
三重県総合博物館は二度目です。 前回も今回も『発掘された日本列島展』の取材で訪れました。
今回は『発掘列島2025』三重県会場の地域展のみを掲載します。
この機会を得て、三重県の博物館を少し巡らせていただきました。その中には松阪市文化財センター「はにわ館」も含まれています。
この館には有名な船形埴輪があり、撮影できましたが、撮影可・掲載禁止 でした。
ところが今回の三重県総合博物館の地域展の最後に、この船形埴輪のレプリカが展示されていて、これを掲載させていただきます。
松阪市「はにわ館」のものとしっかり見比べましたが、寸分違わないことがわかっています。
実際のところ、「はにわ館」では、広い庭に雨ざらしでこの船形埴輪のレプリカがあちこちに展示されていました。
これらはレプリカの習作かも知れませんが、すべて、本物そっくりでした。レプリカの予備はたくさんあるようです。
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目次
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1000
地域展示
王権東へ
伊賀の古墳時代
1001第1室
1110伊賀市の古墳
1112東山古墳
1114御墓山古墳
1116伊予之丸古墳
1120阿閉山古墳
1125キラ土古墳
1130御墓山窯跡
※宮殿形陶製品
1135四柱式陶棺
1137宮殿形陶製品
1201勘定塚古墳
1230近代古墳
1310鷺棚古墳
1320三田廃寺
1340山田郡
1701荒木車塚
1702鳴塚古墳
1705富岡前山古墳
1707高猿6号墳
1710鳳凰寺
1720寺音寺古墳 |
1800第2室
2001久米山6号墳
2003石山古墳
2005王塚古墳
2021名張市
2022殿塚古墳
2025わき塚古墳
2030女良塚古墳
2041玉塚古墳
2043馬塚古墳
2050貴人塚古墳
2060城之越遺跡
2310琴平山古墳
2420財良寺跡
2701鹿高神社
2703根冷4号墳
2705夏見廃寺
3000エピローグ
伊賀国誕生 |
4000宝塚古墳
船形埴輪
4001国宝指定まで
4003先行研究2
4005船形埴輪
4006船形埴輪の構造
4007船形埴輪レプリカ
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6000常設展 自然史
6200三重の大地のなりたち
6212寄木細工の三重の大地
6213中央構造線
6215カタチづくられる三重の姿
6217亜熱帯の海があった頃
6220三重にあった巨大火山
※三重南部のコールドロン
6221火山灰層
6222ゾウがいた頃
6223三重の多様な大地の姿
6225今も動く大地 |
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| 10外観
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1000 |
1000地域展示 王権東へ 伊賀の古墳時代
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1001第1室
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1010プロローグ
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ごあいさつ
地域展「王権東へ 伊賀の古墳時代」 開催によせて
わが国では、毎年8,000件にも及ぶ埋蔵文化財の発掘調査がおこなわれています。 その成果は発掘調査の後の現地説明会や発掘調査報告書で公開されておりますが、
平成7年度より、 文化庁ではそのような発掘調査の内、 全国的に注目された成果を全国巡回展 「発掘された日本列島展」として毎年各地で開催しております。
三重県では平成14年、 平成27年に全国巡回展を開催しておりますが、この度、文化庁をはじめ多くの関係機関のみなさまとの共催の下、 全国巡回展「発掘された日本列島2025」
を三重県総合博物館の第41回企画展として開催することといたしました。 この全国巡回展は、近年の発掘調査で特に注目された遺跡や出土した遺物を紹介することで、
埋蔵文化財に親しみを持っていただくとともに、 その保護の重要性をお伝えすることを目的としたものです。
さて、この全国巡回展にあわせて、毎回、各開催館がテーマを設けて地域展示を実施しております。 今回、 三重県では伊賀の古墳時代にスポットをあて、地域展示
「王権東へ 伊賀の古墳時代」 を開催いたします。 この地域展示では伊賀国を「郡」 をベースに4つの地域に分け、それぞれの地域で作られた古墳と、
そこから出土した様々な資料を紹介しながら、 ヤマト王権の東国支配に当たり、隣国の伊賀国がどのような役割を担ったかを考えます。 私たちの郷土三重が誇る古代史の一頁を、出土した考古資料と共にお楽しみいただければ幸いです。
末筆ではございますが、 貴重な資料の展示公開にご理解とご協力をいただきました所蔵者のみなさまに心から感謝申し上げます。
令和7年10月18日
三重県総合博物館
三重県埋蔵文化財センター
伊賀市教育委員会
名張市教育委員会 |
ごあいさつ |
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プロローグ
伊賀はこんなところ
―伊賀の紹介―
ヤマト王権が国家としての体裁を整えていく中で、のちの時代に「伊賀国」と名づけられる地域は、王権の中枢に隣接する地域として大きな役割を担います。
それは、王権にとって東国へ向けての基点となる地であり、防衛ラインでもありました。 ヤマト王権は早くから伊賀の地との結びつきを強めていきますが、
その関係性と実力は、
「原東海道」 とも言われる主要道に沿って点在する大型の前方後円墳の存在からもうかがえます。 これらの古墳の分布からみえる勢力圏は、律令制下における4つの「郡」 (阿拝郡、 山田郡、 伊賀郡、 名張郡)に当てはまることから、それぞれの地域を統治した豪族たちの存在を教えてくれます。
また、仏教文化が地方に広がると、寺院は古墳に代わる権力の象徴となります。 阿拝郡には三田廃寺、山田郡には鳳凰寺廃寺、 伊賀郡には財良寺、そして名張郡には夏見廃寺が建立され、一郡に一寺、 伊賀各地の豪族の存在は、古墳と同様に寺院の存在からもうかがえます。 |
プロローグ
伊賀はこんなところ
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1100阿拝郡
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1110伊賀市の古墳
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1112東山古墳
ここがすごい!!
東山古墳 三重県最古の古墳です。
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東山古墳
所在地: 伊賀市円徳院字東山
墳形 / 規模: 円墳 (長径21m×短径17m)
時代: 4世半ば
伊賀市北部を流れる柘植川にそってのびる丘陵の先 端に築かれた古墳で、 麓に広がる水田とはおよそ25mの標高差があります。
昭和61年(1986年)の発掘調査によって、遺体を埋葬した墓壙(長さ6.9m、幅2.3m) は墳丘の中央に割竹形木棺を収めた痕跡として見つかっています。
副葬品は遺体の頭の辺りから、銅鏡 (中国の後漢の時代に造られた鏡) 鉄剣、銅鏃などが、足元から土師器の高杯や器台が出土しています。
古墳が造られた時期は、 出土した土師器の形状などか ら4世紀半ばごろにさかのぼると考えられ、このことから東山古墳は伊賀における最古級の古墳であると言えます。 |
東山古墳 |
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東山古墳 伊賀市円徳院字東山 撮影 三重県埋蔵文化財センター
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四禽鏡
東山古墳
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銅鏃
東山古墳 |
鉄剣
東山古墳 |
高坏、器台
東山古墳
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1114御墓山古墳 ここがすごい!!
御墓山古墳 三重県最大の前方後円墳は、東海三県でもトップです。
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御墓山古墳
所在地: 伊賀市佐那具町字天王下ほか
墳形 / 規模: 前方後円墳 (全長190m)
時代: 5世紀初頭
柘植川の左岸に位置する御墓山古墳は、 南宮山から派生する丘陵の先端を切断して造られた前方後円墳です。
全長は190mで三重県内はもとより東海地域を含め最大の規模を誇ります。 墳丘は、 高低差を利用して後円部が2段築成、 前方部が3段築成となっており、祭祀を行った場所である
「造出」 は、 くびれ部の左右の 後円部側に設けられている他、 後円部の山側(前方部 の反対側)にも認められます。
特殊な空間としては、前方部に長さ約21m、幅約25mの方形段状部が存在しています。 首長の地位の継承など、 特別な行事が行われた可能性もあり注目されます。 表採された埴輪や墳 丘の形状から築造は5世紀前半に比定され、 被葬者は東山古墳や山神寄建神社古墳の被葬者に次ぐ、 阿拝郡における首長系譜の盟主だったと考えられています。 |
御墓山古墳 |
御墓山古墳遠景 伊賀市佐那具町字天王下 撮影 伊賀市教育委員会
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1116伊予之丸古墳 ここがすごい!!
伊予之丸古墳 円筒埴輪に刻まれた線刻は馬と考えられています。
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伊予之丸古墳
所在地: 伊賀市上野丸之内
墳形 / 規模: 不明
時代: 5世紀後半
上野城が立地する上野台地の北辺には、 多くの古墳が築造されていました。 伊予之丸古墳もその一つです。
江戸時代に藤堂高虎の家臣である池田伊予守が造成した郭の「伊予之丸」 から発見されたことがその名の由来です。
近年廃校となった桃青中学校の場所にかつて上野商業学校が建設されたとき、四禽鏡やL字状に並ぶ円筒埴輪列などが見つかっています。 残念ながら、 古墳の形状などはわかりませんが、 これらの出土品の 数々は古墳の存在を裏付けるものです。
実は、この池 田伊予守の屋敷を描いた絵図に前方後円墳の存在を思 わせるような庭の様子を見ることができます。 ちょうど校舎の西側で、 過去の調査記録に見る資料の出土地とよく似た場所です。
服部川を見下ろすこの台地にも前方後円墳が造られていたのかも知れません。 |
伊予之丸古墳 |
藤堂豊前屋敷絵図 伊賀市蔵 撮影 伊賀市教育委員会
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四禽鏡
伊予之丸古墳 |
鉄剣
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朝顔形埴輪 |
蓋形埴輪 |
蓋形埴輪 |
円筒埴輪
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1120阿閉山古墳
ここがすごい!!
阿閉山古墳 阿拝郡と同じ名を持つ阿閉山は きっと重要な山だったでしょう。
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阿閉山古墳
所在地: 伊賀市上野丸之内
墳形 / 規模 : 不明
時代: 5世紀後半
伊賀上野城のある上野台地の北端に城を築いたのは、天正13年(1585年)8月に大和郡山城から移ってきた筒井定次が最初と言われています。 天守閣も同城から移築されたもので、 三層の望楼型だったと伝えられています。
しかし、この天守は、 現在の上野城が建っている藤堂高虎が整備した場所ではなく、その東側で丘陵の最も標高の高い場所 (阿閉山)にありました。 現在でも 「筒井古城」 などと呼ばれています。
この小高い場所の北側にあるのが阿閉山古墳です。 城として幾度も造成が行われる中で、 現在では墳形や規模ははっき りしません。しかし、阿拝郡にあって、 郡名と同じ「あ え(へ)」の名を持つ山の頂部近くに築造された古墳の 被葬者は、地域の有力者であったと考えられます。 |
朝顔型埴輪
円筒埴輪
阿閉山古墳 |
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1125
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キラ土古墳 きらどこふん
所在地: 伊賀市佐那具町字キラ土
墳形/ 規模: 前方後円墳 (推定全長50m)
時代: 6世紀前半
柘植川右岸、 阿山ハイツと呼ばれる団地を東側に見る丘陵の尾根の先端に位置しています。 土取りにより前方部と後円部の一部が失われていますが、
全長は50mを測る前方後円墳だったと考えられています。
昭和39年(1964年) の土取作業中に鏡や馬具、円筒埴輪を含む土器類が出土し、 その後、昭和46年(1971年)には、 上野工業高校地歴クラブ、
上野高校郷土史研究会、 上野市教育委員会 (当時)による発掘調査が行われ、 墳丘の裾部において円筒埴輪列も確認 されています。
出土した須恵器の型式から被葬者が埋 葬されたのは6世紀の前半頃と考えられますが、 副葬 された馬具は5世紀後半の特徴を持っています。 馬具
は被葬者の愛用品だったのでしょうか。 大切に使用した後、埋葬時に一緒に埋められた可能性が指摘されてい ます。 |
キラ土古墳 |
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キラ土古墳
乳脚文鏡(乳文鏡)
キラ土古墳
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鏡板付轡
キラ土古墳
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剣菱形杏葉 |
方形金具  |
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須恵器
坏蓋・身 |
須恵器
壷・ハソウ |
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円筒埴輪 |
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1130御墓山窯跡
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御墓山窯跡
所在地: 伊賀市佐那具町字中坂
墳形 / 規模 : 須恵器窯4基と灰原
時代: 7世紀後半から8世紀前半
柘植川左岸、 南宮山から派生する尾根(この先端部には御墓山古墳が築造)の東側谷筋に立地しています。
近くには、 備後坂窯跡や殿山瓦窯跡のほか、須恵器などの生産に大きく関わっていたと考えられる大多田遺跡があり、御墓山窯跡を中核とする古代の窯業生産地だったことがうかがえます。
生産されたものは、 杯・皿・鉢・高坏・甕・長頸壺・短頸壺・平瓶などの須恵器のほか、 子持台付壺・円面硯や陶棺や宮殿形陶製品などの仏教的な要素を持つ製品が多く、注目されます。
中でも宮殿形陶製品は、 焼き物としては他に類例がなく、法隆寺に伝わる玉虫厨子とよく似たサイズ感で作られていていることが指摘されています。 粘土で作るという制約がありながらも、
仏教的な建築様式を模倣しようとした意識が細部から見て取れる資料で、 三重県の 有形文化財に指定されています。
※宮殿型陶製品とは、玉虫厨子の模倣品のことです。
※当時はきっと見下されていただろう陶芸職人が、法隆寺の玉虫厨子を見に行き、近くからその大きさを知ることができたようだ。
これは思った以上に当時の仏教が下層民にも開かれていて、その大きさまでも測り取ることができ、苦労して粘土で再構成することができた。
なんとも言い難い感動です。
それとも、古墳を飾る土製品を作る職人は、とても尊敬されていて、貴族しか入れない法隆寺玉虫厨子を見に行けたのか、それとも、
玉虫厨子サイズの宮殿型の厨子は、上流階級のあいだに流通する、仏教厨子の一般的サイズで、よく知られるところなのだろうか。 |
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1131
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御墓山窯跡 |
御墓山窯跡 |
御墓山窯跡群 伊賀市佐那具町字中坂
撮影 伊賀市教育委員会
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1133御墓山窯跡
ここがすごい!!
御墓山窯跡 鉢や宝珠つまみの付いた製品は、仏器の模倣と言われています。
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1135四柱式陶棺
ここがすごい!!
四柱式陶棺 いわゆる棺桶です。
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四柱式陶棺
AI による概要
四柱式陶棺とは、古墳時代後期から奈良時代初頭にかけて作られた、粘土製の棺(陶棺)の一種です。
長方形の箱形をした身の底面に、数個の円筒形の脚(四柱など)がついているのが特徴で、その上に寄棟屋根形の蓋をかぶせて使用されました。
四柱式陶棺の特徴と構造
・構造と名称の由来
底面や棺身の下に「四本(またはそれ以上、複数列)の円筒形の脚」がついていることから、「四柱式(しちゅうしき)」と呼ばれます。
棺身は箱形になっており、その上に寄棟屋根や切妻屋根を模した蓋(かぶせ蓋)を組み合わせる家形(いえがた)の形状をしています。
・材質と製作技法
須恵器と同じように高温の窯で焼かれた硬い陶質土器(須恵質)でできています。表面にはハケ目(刷毛目)などの調整が施されていることが
多く、蓋の軒先部分などには装飾的な穴があけられていることもあります。
・分布と出土状況
岡山県を中心とする中国地方や畿内(大阪・兵庫・京都など)で多く出土しており、古墳の横穴式石室に埋葬施設として納められていました。
木棺の代わりに用いられたと考えられており、棺の中からは装飾品や副葬品が一緒に見つかることも少なくありません。 |
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1137宮殿形陶製品 ここがすごい!!
宮殿形陶製品 法隆寺の玉虫厨子をまねしたみたいです。
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宮殿形陶製品
AI による概要
古墳時代から飛鳥時代にかけて、仏教の伝来とともに当時の人々は「宮殿形陶製品」と呼ばれる精巧な焼き物を製作しました。
仏像や経典を安置する「厨子(ずし)」を模したと考えられている、考古学的にも非常に珍しい遺物です。
代表的な出土例:御墓山窯跡(みはかやまかまあと)
現在確認されているなかで最も有名なものが、三重県伊賀市の国史跡「御墓山古墳」の南側にある窯跡から出土した陶製品です。
・出土時期: 飛鳥時代(7世紀後半頃)
・大きさ: 高さ約 90 cm、軒先の幅・奥行きともに約 62 cm
・特徴: 須恵器(すえき)の技術を用いており、入母屋造(いりもやづくり)の屋根に鴟尾(しび)が備わっています。
軒下には組物の表現があり、正面には木製の扉を取り付けられるような軸孔が設けられていた高度なつくりです。
宮殿形陶製品が作られた背景
・仏教信仰の広がり:
当初は大和政権(中央)の特権階級にしか行き渡らなかった仏教が、地方の有力者や豪族にまで浸透し始めた証拠とされています。
・寺院建築の代用品:
本来は木や金属で作られる仏堂や厨子を、地方の工人たちが須恵器の技術を用いて忠実に再現した「ミニチュア建築」と考えられています。 |
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1201勘定塚古墳
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勘定塚古墳 かんじょうづかこふん
所在地: 伊賀市外山字綾之森
墳形/ 規模 墳形・ 規模不明
時代: 6世紀末頃から7世紀初頭
勘定塚古墳は、 外山集落の北東側の山裾に位置しています。 墳丘は盛土のほとんどが失われているため、 その形や規模は特定できません。
しかし残存長4.6m、 幅3.6mを測る玄室と一辺が4mもある天井石の存在が、その規模の大きさを教えてくれます。
残存する天井石は一枚ですが、 この規模からすると天井には同等の石がもう一枚用いられていたと考えられ、 玄室の長さは推定で7~8mとなります。
これは伊賀における最大級の横穴式石室です。 柘植川流域の最後の首長墓といっても過言ではないでしょう。 |
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1230近代古墳
ここがすごい!!
近代古墳 甲冑は、水田の中に残っていた 小さな高まりから出土しました。
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近代古墳 きんだいこふん
所在地: 伊賀市上神戸字近代
墳形 / 規模 : 帆立貝式前方後円墳 (全長30m)
時代: 5世紀後半
近代古墳は、近鉄伊賀神戸駅の北北西約1km、 木津川へ向かって派生する尾根筋で囲まれた狭い谷間に造られた帆立貝式の前方後円墳です。 昭和61年(1986年)に行われたほ場整備事業の際に、
竪穴式石室と考えられる埋葬施設が半壊状態で発見されたため緊急調査が実施されました。 その結果、 石室内から衝角付冑、頸甲、 肩甲、 短甲の武具のセットと鉄鉾、 鉄刀、 鉄剣などの武器のほか土器や埴輪が出土しています。
近代古墳は、その規模や出土した遺物のグレード から、 首長の系譜をひくものではなく、 首長に仕えた 者の墓であったようです。 すぐ近くには美旗古墳群が
存在していることから、 その被葬者の配下にあった有 力な武人の墓が近代古墳というわけです。 それは美旗古墳群でも見られた帆立貝式の前方後円墳が近代古墳 でも採用されていることと何らかの関係があるのかも 知れません。 |
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1231近代古墳出土物
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| 1233武具1
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| 1235武具2
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1300古墳・廃寺 |
1310鷺棚古墳・三田廃寺
ここがすごい!!
外山・鷺棚古墳群 緑豊かな銛では見えませんが、山の稜線は古墳だらけです。
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鷺棚古墳群 AI による概要
伊賀市鷺棚古墳群は、三重県伊賀市(主に旧阿山町・上野市域)の柘植川右岸丘陵上に築かれた大小約30基からなる古墳群です。隣接する外山(とやま)古墳群と合わせて「外山・鷺棚古墳群」とも呼ばれ、古墳時代における伊賀北部地域の中心的勢力の墓域と考えられています。
概要と特徴
・規模と構成: 前方後円墳4基を含む様々な形状の古墳(方墳や円墳など)が尾根上に密集・群集しています。
・地域的背景: 柘植川の対岸には、三重県内最大の前方後円墳であり国の史跡に指定されている「御墓山(みはかやま)古墳」(全長約190m)が存在します。鷺棚古墳群はこの大古墳群と密接に関わる有力な豪族層の墓と考えられています。
・関連遺跡群: 周辺には、5世紀後半〜7世紀の住居跡や大型建物跡が検出された「外山遺跡群」も所在し、当時の伊賀地域における政治・社会の中心地であったことを示しています。
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外山・鷺棚古墳群 AI による概要
三重県伊賀市にある外山・鷺棚古墳群は、柘植川の右岸丘陵上に広がる古代の群集墳です。4基の大型前方後円墳を含む大小さまざまな古墳が密集しており、古墳時代の伊賀地域北部における中核的な勢力を物語る重要な遺跡として知られています。
外山・鷺棚古墳群の主な特徴
・立地と規模:柘植川を挟んで、三重県内最大の前方後円墳である「御墓山古墳(ごぼやまこふん)」の対岸に位置しています。
・古墳の多様性:前方後円墳4基のほか、円墳や方墳など様々な形状の古墳で構成されています。
・周辺の関連遺跡:群集墳の南側には「外山遺跡群(大坪・追越遺跡)」があり、5世紀後半から7世紀代の大規模な集落跡・大型建物跡が検出されています。このことから、古墳と居住域が一体となった地域の中心地であったと考えられています。
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1311
宮殿形陶製品 |
1137で登場した、御墓山窯跡、で制作された、法隆寺玉虫厨子を模した(と思われる)陶製品です。
展示場所が、鷺棚古墳・三田廃寺に置かれているので、出土場所はこのあたり、鷺棚古墳・三田廃寺あたりかとも思われます。 |
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1313
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鷺棚1号墳 さぎだないちごうふん
外山1号墳 とやまいちごうふん
所在地: 伊賀市外山字鷺棚 外山字宮谷
墳形 / 規模: 前方後円墳 鷺棚1号墳 (全長59m) 外山1号墳 (全長62m)
時代: 5世紀後半 5世紀末
柘植川右岸、 JR佐那具駅北側の外山丘陵には、 外山・鷺棚古墳群、宮ノ谷古墳群、 綾の森古墳群といった 群集墳があり、4基の前方後円墳を含む30余基の古墳の存在が確認されています。 築造の年代は、 対岸に存在する巨大な御墓山古墳に続く5世紀半ば以降と考えられ、 4基の前方後円墳は、外山3号墳、 鷺棚1号墳、 外山1号墳、 鷺棚2号墳の順に築造されたと考えられ ています。
さらにこの丘陵の北側には、 キラ土古墳や割尾3号墳などの6世紀に続く、古墳時代後期の前方後円墳をはじめ多くの群集墳が見られます。 つまり、 御墓山古墳に始まるこの地域の首長墓は、御墓山古墳以降、
その場所を柘植川左岸から右岸へ、そして河合川をさかのぼるようにその場所を北へ求めていったようです。 外山丘陵は、 古墳時代の奥津城 (墓域)だったと言えそうです。 |
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鷺棚1号墳
外山1号墳 |
外山・鷺棚古墳群
伊賀市外山 円徳院
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ここがすごい!!
外山・鷺棚古墳群
緑豊かな森で見えませんが、山の稜線は古墳だらけです。
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円筒埴輪
外山1号墳 |
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円筒埴輪
外山1号墳
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円筒埴輪
鷺棚古墳
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1320三田廃寺
ここがすごい!!
三田廃寺 壬申の乱の功労者 紀臣阿閇麻呂と関係が深い阿閇氏の氏寺です。紀臣(きのおみ)とは
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三田廃寺 みたはいじ
所在地: 伊賀市三田字三田地
墳形/ 規模 東西約90m、南北約100m
時代: 7世紀半ばから平安時代
三田廃寺は、 JR伊賀上野駅の北側にあった古代寺 院で、 寺域は東西約90m、南北約100m、 北側に 「原 東海道」ともいうべき古代の官道が通っていたと考え
られています。また地籍図などの情報から、 伽藍は南 門、 中門、 塔、 金堂、 講堂が直線に並ぶ四天王寺式だっ たと推定されています。注目したいのは、瓦の存在です。
まず、 白鳳時代の素弁八葉蓮華文の軒丸瓦は、 山田郡
にあった鳳凰寺廃寺と同じ型が使われており、 その型は鳳凰寺廃寺で使われた後、 三田廃寺でも使われ、さらに型を彫り直して、 再び鳳凰寺廃寺でも三田廃寺でも使われたことが指摘されています。
また、 軒平瓦には、法隆寺式や東大寺式、 平城宮式のものが見られます。
特に法隆寺式の軒平瓦は伊賀市西之澤の殿山瓦窯で生 産されたことが知られていますが、 都の大寺院や国の 中央機関と関係の深い瓦の文様がこれほど多く使用さ れている地方寺院は他になく、いかに三田廃寺が都と 深い関係にあったかがうかがえます。 |
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三田廃寺跡
伊賀市三田三田地
撮影 三重県総合博物館
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1330古墳測量図
御墓山古墳 墳丘測量図
三重県伊賀市佐那具町字天王下ほか (大阪市立大学(当時)作成)
5世紀頃 古墳中期
全長190m
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馬塚古墳 墳丘測量図
三重県名張市美旗町中1番
『三重県史資料編考古I』2005年
5世紀後半 古墳時代中期
全長142m
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石山古墳 墳丘測量図
三重県伊賀市才良字片岨
(『三重県史資料編 考古I』 2005年より)
4世紀末古墳時代前期
全長120m
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1340山田郡
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山田郡
山田郡は、 服部川に沿って東西に広がる山田盆地を中心とする地域です。 弥生時代中期には伊賀地域最大の方形周溝墓が築かれる一方、
後期からは東海系と内系の土器が併存するなど伊賀地域の中でも東国との間で独自の活動がうかがえる地域だったと言えそうです。
古墳時代になると、 他の3郡に先駆けて前方後円墳が造られます。 寺垣内古墳、 荒木車塚古墳という2基の前方後円墳は、
柘植川水系で前方後円墳が見られない4世 紀後半に連続して築かれており、この時期の伊賀北部に おける優位性がうかがえます。
また、服部川右岸での寺音寺古墳や鳴塚古墳といった前方後円墳の築造に後出して、
左岸域で展開される富岡前山古墳や高猿6号墳といった円墳・方墳の 有力古墳は、群集墳の中 核となる社会階層の拡大を示しているとみられます。
鳳凰寺廃寺は、 阿拝郡の三田廃寺と同笵 (同じ型)の瓦を持つ古代寺院で、 隣接する鳴塚古墳の被葬者につながる豪族の氏寺とも考えられます。 |
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| 1400第1室へ戻る |
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1500山田郡
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1700伊賀市 |
1701荒木車塚
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荒木車塚古墳 あらきくるまづかこふん
寺垣内古墳 てらがいとこふん
所在地: 伊賀市荒木車塚真泥字寺垣内
墳形 / 規模 : 前方後円墳 (全長93m)
時代: 4世紀末頃
大山田盆地を貫き流れる服部川の左岸、 南宮山に連なる峰々のひとつ荒木山の鞍部 (標高380m) に立地しています。
尾根上に築造するという土地の制約から後円部は楕円形、 前方部も裾部をあまり聞かない墳形となっています。
前方部の中央に盗掘坑がありますが、主体部や副葬品については何もわかっていません。
葺石が確認され、円筒埴輪や朝顔形埴輪の他、 家形埴輪や盾形埴輪の採集についての報告があります。
また、 荒木車塚古墳の東側、 大山田盆地内の真泥の集落との間に全長75mの寺垣内古墳 前方後円墳) があります。
不明な点が多く全容はよくわかりませんが、採集された円筒埴輪片から、 荒木車塚古墳より前に造られたと考えられています。 |
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荒木車塚古墳寺垣内古墳
伊賀市荒木字車塚・伊賀市寺垣内
撮影 三重県総合博物館
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1702
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鳴塚古墳 なりづかこふん
所在地: 伊賀市鳳凰寺字生賀
墳形 / 規模: 前方後円墳 (全長37m)
時代: 6世紀前半代
鳴塚古墳は、山田盆地の鳳凰寺集落東方の奥まった谷部の水田の中に築造された前方後円墳です。
周濠は 一見存在していないように思われますが、
江戸時代に書かれた「伊賀国阿山郡鳳凰寺村古墳取調書」には、
「廻りの湟の埋め残りと称して」池が残っていたという記述があり、かつては存在していた可能性もあります。
埋葬施設は後円部の南側に開口する横穴式石室 (片袖式)で、全長は約9.2m (玄室の長さ4.45m)を測ります。
伊賀市を中心とする地域における前方後円墳としては、最末期のひとつに位置付けられるもので、付近には派生する幾つもの尾根筋を利用し円墳を中心とする70基超える群集墳が造られています。 また、古墳の名前については、前方部の側面に開口する石室に風が吹き込む際に音が鳴ったことに由来するという説や、天皇の代替わりごとに古墳が音を出したなどの言い伝えがあります。 |
鳴塚古墳 伊賀市鳳凰寺生賀
撮影 伊賀市教育委員会
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鳴塚古墳 |
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1703
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乳脚文鏡(小型仿製鏡)
鳴塚古墳
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勾玉
鳴塚古墳 |
管玉
鳴塚古墳 |
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堤瓶
鳴塚古墳  |
子持台付ハソウ
鳴塚古墳  |
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1705富岡前山古墳
ここがすごい!!
富岡前山古墳 銀象嵌で(柄頭に)描かれた模様は亀甲に鳳凰です。
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富岡前山古墳 とみおかまえやまこふん
所在地: 伊賀市富岡字前山
墳形/ 規模 円墳 (径12m)
時代: 6世紀後半
富岡前山古墳は、 服部川左岸、 富岡集落南側の集落 に向かって派生する尾根の先端部に造られた円墳(高さ3m)です。
埋葬施設は東側(集落側)に開口する横穴式石室で、 全長は8.2m (玄室の長さ 2.4m) を測ります。
残念ながら天井石は全て崩落していましたが、 内部の保存状態は比較的良好で、 須恵器などの土器類の 他、 馬具や鉄器など多くの副葬品が出土しました。これらの副葬品は、出土状況から 「追葬」 によるものと考えられ、耳飾りが6点(今回の展示は4点のみ) 出土し ていることから、遺体は3体あったと推定されています。
また、副葬品としては、 鉄刀の柄頭と鞘尻が見つかっていますが、これには金属板などの表面に細い溝を掘り、金線や銀線を埋め込んで文字や文様を描き出す大
陸由来の技法が用いられており、その精緻な作りから、首長クラスの人物が被葬者として考えられるようです。 |
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富岡前山古墳
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富岡前山古墳 |
富岡前山古墳
伊賀市富岡
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鉄地銀象嵌亀甲繫鳳凰文円頭大刀柄頭
富岡前山古墳
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鉄地銀象嵌亀甲繋鳳凰文円頭大刀鞘尻金具
富岡前山古墳
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方形立聞素環鏡板付轡
円形文鐘形鏡板付轡
富岡前山古墳
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鐘形杏葉 富岡前山古墳
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辻金具
富岡前山古墳
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耳環
富岡前山古墳  |
鉄鏃
富岡前山古墳  |
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1707高猿6号墳
ここがすごい!!
高猿6号墳 武器・武具など鉄製品がいっぱい出土しました。
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高猿6号墳
・所在地: 伊賀市喰代字松本
・墳形 / 規模 : 方墳 (1辺約18m) 時代: 5世紀後半から6世紀前半
高猿古墳群は大山田盆地から喰代にのびる谷合の、中野川右岸丘陵端部に位置する群集墳 (15基)です。
このうち発掘調査が行われたのは、1号墳と6号墳で、 1号墳の資料の大半は東京国立博物館の所蔵となっています。
昭和55年(1980年)に三重県教育委員会により調査が行われた6号墳は、幅約2mの周溝を持ち、2段築盛の墳丘には葺石が施されていました。
埋葬施設は、 墳頂部に5基(木棺直葬が4基、 箱式石棺が1基) が確認されており、 副葬品の時期の差から5世紀後半 から6世紀前半にかけて埋葬が繰り返されたと考えられます。
一方、 副葬品には伝統的な鏡や鉄製品が多く含まれる一方、 初期須恵器といった新しい土器も含まれます。
伝統を継承しつつ、 新しい文化にも積極的だった首長者層の姿が偲ばれます。 |
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高猿6号墳
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高猿6号墳
伊賀市喰代字松本
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ガラス製小玉
高猿6号墳(第1主体)
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変形四獣鏡
高猿6号墳(第1主体)
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鉄製槍先、鉄鏃 |
鉄刀
高猿6号墳 (第1主体)
鉄剣
高猿6号墳 (第1主体)
鉄刀
高猿6号墳 (第1主体)
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1709
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須恵器 坏身・蓋
高猿6号墳(第3主体) |
土師器 坏
高猿6号墳(第3主体)
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須恵器
ハソウ,把手付椀,ハソウ
高猿6号墳(第5主体)
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1710鳳凰寺
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鳳凰寺廃寺 ぼうじはいじ
所在地: 伊賀市鳳凰寺字轟
墳形 / 規模 : 薬師寺一帯
時代: 7世紀半ば頃
鳳凰寺廃寺は大山田盆地の中ほどを流れる服部川右岸の山裾、 鳳凰寺集落付近に寺域を構えた白鳳寺院です。
伽藍の場所は明確ではありませんが、現在の轟山薬師寺には、境内と本堂の床下に20個近い礎石が残っています。
伊賀の4郡にはそれぞれに白鳳寺院が存在します。
阿拝郡の三田廃寺、 伊賀郡の財良寺、名張郡の夏見廃寺、 そして山田郡の鳳凰寺廃寺です。
それぞれに瓦の型を同じくする関係性があり興味深いところですが、
特に鳳凰寺廃寺の創建瓦である、素弁八葉蓮華文軒丸瓦は、三田廃寺と同じ型を使いながらも制作の技法が全く異なるという点が指摘されています。
また、地域には鳳凰寺廃寺について、 壬申の乱の後、大友皇子の生母である伊賀采女宅子が出身地であるこの地に戻り、 大友皇子の冥福を祈るために創建したとの伝承があります。
ことの真偽はわかりませんが、この伝承からも鳴塚古墳の被葬者から続くこの地域の豪族の存在が見え隠れします。 |
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鳳凰寺廃寺 |
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素弁八葉蓮華文軒丸瓦
鳳凰寺廃寺  |
鴟尾
鳳凰寺廃寺
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重弧文軒平瓦
鳳凰寺廃寺  |
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1720
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寺音寺古墳 じおんじこふん
所在地:伊賀市炊村
墳形/規模: 前方後円墳(全長53m)
時代: 5世紀中ごろ
寺音寺古墳は、山田盆地の水田地帯の中央、 服部川の右岸に位置する前方後円墳です。 墳丘の多くが失われ、後円部の頂部(東西13.3m×南北9.6m)が辛うじて残っているだけです。
ただし、かつての墳形は、周辺の水田や畑地の地割や畦畔により明瞭で、古墳の主軸を東西にとる全長53m・後円部径35m・前方部幅42mの前方後円墳だったことがわかります。
また、墳丘その周りには盾形をした周濠が巡っていたことも明確で、周濠を含めた古墳の規模は東西長104m・南北幅12mを測ります。出土資料としては、円筒埴輪、鉄鏃、小刀、挂甲小札の破片などが知られています。
寺音寺古墳のような平地に築造される大規模な古墳は、伊賀においてはとても珍しく、服部川流域の首長の系譜を受け継ぐ有力豪族の墳墓であると言えます。 |
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1800第2室
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2000伊賀郡
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伊賀郡は、 国名と同じ名をもつことから、 伊賀地域の中でも優位性をもつ地域だったようです。
それは、 美旗古墳群(殿塚・ 女良塚・ 毘沙門塚 馬塚・貴人塚とそれに 伴う小古墳)が4世紀の終わりから6世紀前半にかけて、安定して累代的に首長墓を営んでいることからもうかがえます。
古墳の地域的な特徴としては、 主要古墳の中に「帆立貝形古墳」 が存在することや、 わき塚1号墳や近代古墳から優れた武器や武具が出土していることがあげられ、ヤマト王権から軍事力として期待された豪族たちの姿が想像されます。
また、大量の石製品を中心とする副葬品の質と量が卓越している石山古墳、 古墳時代の大規模な祭祀遺跡と考えられる城之越遺跡などの存在は、この地域を治めた豪族の地位の高さを教えてくれます。
財良寺跡から見つかった創建期の瓦は、天武・ 持統天皇の皇子 草壁皇子を偲んで建立されたという奈良県
桜井市の粟原寺と同笵 (同じ型) であり、 両寺院の関係 が注目されます。 |
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2001久米山6号墳
ここが すごい!!
久米山6号墳 琴柱型石製品は未だに具体的な用途が不明な副葬品です。
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久米山6号墳 <めやまろくごうふん
所在地: 伊賀市久米町
墳形 / 規模: 円墳 (径17m)
時代: 5世紀前半
久米山古墳群は伊賀市街地の南方、 名阪国道の伊賀ICと伊賀東ICに挟まれた久米山丘陵に位置する 群集墳です。
丘陵の北から西にかけて派生する尾根筋に80基に及ぶ古墳が築造されました。 ほとんどの古墳が円墳ですが、埋葬施設は木棺直葬、竪穴式石室、 横穴式石室など様々です。 その中の6号墳は、 昭和38年(1963年)に名阪国道の建設にあたって発掘調査が行われました。
埋葬施設は粘土槨で、副葬品としては、方格規矩鏡、 変形獣帯鏡、 石製勾玉、 有孔円盤、琴柱形石製品、 そして鉄器などが報告されています。
築造の年代は古墳時代中期前半代(5世紀初め頃)と考えられていますが、 鏡と多くの石製品が出土したことから、伝統的な前期古墳の様相も色濃く残していると
言えます。 |
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2002久米山6号墳副葬品
久米山6号墳
副葬品 |
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石製勾玉 |
琴柱形石製品 |
有孔円盤 |
方格T字鏡
(方格規矩鏡) |
乳脚文鏡
(変形獣帯鏡)
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2003石山古墳
ここが すごい!!
石山古墳 京都大学の発掘調査は、この家形埴輪の発見がきっかけです。
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石山古墳 いしやまこふん
所在地:伊賀市才良字片岨
墳形 / 規模:前方後円墳 (全長120m)
時代: 4世紀後半
石山古墳は木津川上流の比自岐盆地北側、南西方向 に派生する尾根の先端付近に立地しています。
発掘調査は、戦後間もない昭和23年(1948年)から4か年にわたり京都大学考古学教室が中心となり実施されています。
埋葬施設の調査では、 後円部の頂部に円筒埴輪列で囲まれた方形の土壇があり、 そこに掘られた墓壙から3基の粘土槨が確認され、 おびただしい数の副葬品が出土しています。
特徴的なのは、 中央と東側の粘土槨からは武器・武具・農具・石製模造品が出土しているのに対し、西側の粘土槨からは武器・武具類の出土はほとんどなく、代わりに大量の腕輪形石製品が出土している点です。
このことから、 中央と東の粘土槨の被葬者は政治や軍事を、西の粘土槨の被葬者は祭祀的な役割を担った首長と考えられています。
古墳の規模、 副葬品の数と質からも、 被葬者はヤマト王権との深い関わりがあった人物に間違いはないでしょう。 |
石山古墳 |
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石山古墳
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石山古墳と片岨古墳群 伊賀市才良字片岨
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家形埴輪 |
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盾形埴輪  |
三角縁神獣鏡片
石山古墳
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円筒埴輪 |
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2005王塚古墳
ここが すごい!!
王塚古墳 特に緑色が珍しい、色彩の残る人物埴輪片です。
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王塚古墳 おうづかこふん
所在地: 伊賀市岡波字深田
墳形 / 規模 : 前方後円墳 ( 48m)
時代: 5世紀後半から6世紀前半頃
王塚古墳は比自岐盆地のちょうど中ほど、 比自岐川 左岸の水田地帯に立地します。
昭和52年(1977年) にほ場整備事業に際して実施された調査で、 前方部を 西に向ける前方後円墳であることがわかりました。
遺物としては周溝から埴輪片が出土したのみでしたが、人物埴輪の上衣の裾と思われる破片に彩色が確認できるものがありました。 使用された顔料は、 赤・白・緑の 3色で衣の部位で塗り分けられています。 成分についてはわかっていませんが、
特に緑色が施された例はほ とんどなく、貴重な例となっています。
古墳が造られ た時期は、出土した埴輪から5世紀後半から6世紀前 半頃と位置付けられ、600mほど西方に位置する石 山古墳を系譜とする首長墓と推定されています。 |
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王塚古墳
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王塚古墳
伊賀市岡波字深田
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埴輪片
朝顔形埴輪 |
円筒埴輪  |
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円筒埴輪
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人物埴輪
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2020殿塚 |
2021名張市
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美旗古墳群全景
名張市・伊賀市
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毘沙門塚古墳
名張市新田
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赤井塚古墳
名張市下小波田
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2022殿塚古墳
ここが すごい!!
殿塚古墳 美旗古墳群で最初に造られた前方後円墳です。
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殿塚古墳 とのづかこふん
わき塚1号墳 わきづかいちごうふん
所在地:名張市新田・伊賀市上神戸字深狭間
墳形 / 規模:殿塚古墳 前方後円墳 (全長92m) わき塚1号墳 方墳 (1辺約23m)
時代: 4世紀末頃
殿塚古墳は名張川支流の小波田川右岸に広がる美旗台地の縁辺に位置し、墳丘上を伊賀市と名張市の市境がとおっています。 5基の前方後円墳と円墳・方墳で構成される美旗古墳群の一角をなし、この古墳から美旗古墳群の形成が始まったと言われています。
また、わき塚1号墳は、2号墳とともに殿塚古墳の陪塚で、殿塚古墳の後円部の北側に2基が並んで所在していました。
昭和36年(1961年)10月に伊賀地域を 襲った集中豪雨で、わき塚古墳の盛土が流出する災害が発生したことから緊急発掘調査が行われ、 墳頂に
設けられた長方形の土坑から短甲・衝角付冑・頸甲・肩甲のほか、銅鏡と滑石製臼玉・滑石製双孔円板、鉄鏃などが整然と並べられた状態で出土しました。 土坑内には人を埋葬する余地はなかったことから、 副葬品のために造られた古墳だったと考えられています。 |
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殿塚古墳
わき塚1号墳
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殿塚古墳
伊賀市神戸深狭間
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| 2023
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2024
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変形虬竜鏡
わき塚1号墳
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滑石製有孔円盤
わき塚1号墳 |
円筒埴輪
わき塚1号墳
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鉄剣
わき塚1号墳
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鉄鏃・刀子
わき塚1号墳
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鉄鏃
わき塚1号墳
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鍬先形鉄器
鉄斧
わき塚1号墳
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| 2025わき塚古墳
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2030女良塚古墳
ここが すごい!!
女良塚古墳 “これぞ帆立貝式の前方後円墳!”という美しさです。
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女良塚古墳 じょろうづかこふん
所在地:名張市新田字女良塚
墳形 / 規模 : 帆立貝式前方後円墳 (全長100m)
時代: 5世紀前半
女良塚古墳は、 美旗古墳群のうち、 殿塚古墳の次に作られたと考えられている帆立貝式の前方後円墳で、 殿塚古墳の南西約200mに位置しています。 “帆立貝式” の名前のとおり、 後円部の直径に対して前方部が 極めて短く、しかも低いという特徴があります。
女良塚古墳も後円部の直径73m、高さ9mに対して、前方部は長さ約30m、幅約40m、高さは3mです。
周濠は 墳形を拡大したかのように、ほぼ同じ幅をとって墳丘を全周しています。 現在 は木々で覆われ全容はわかりませんが、
墳丘は全面葺石で覆われているようです。
なお、 高床式の立派な家形埴輪は、墳頂部から出土したものです。 |
家形埴輪 女良塚古墳
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2040玉塚・馬塚古墳
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2041玉塚古墳
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玉塚古墳 たまづかこふん
所在地: 名張市美旗町中1番
墳形 / 規模: 方墳 (一辺34m)
時代: 5世紀後半から末期
馬塚古墳の陪塚と考えられる玉塚古墳は、 馬塚古墳 の南西方向100mに位置していましたが、 宅地造成 によって消滅しています。昭和40年(1965年)に一部が調査され、
一辺34m、 周濠幅10mを測る方墳であったことが知られています。 |
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玉塚古墳 |
馬塚,玉塚,小塚古墳,名張市美旗町,名張市新田
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家形埴輪  |
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円筒埴輪
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円筒埴輪
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2043馬塚古墳
ここが すごい!!
馬塚古墳 三重県第2位の前方後円墳は全長142mです。
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馬塚古墳 うまづかこふん
所在地: 名張市美旗町中1番
墳形/ 規模 帆立貝式前方後円墳 (全長142m)
時代: 5世紀後半から末期
美旗古墳群において最大の規模を誇る馬塚古墳は、近鉄美旗駅から南東方向に100mほどの住宅地に位 置しています。
近鉄電車の車窓からも確認できる墳丘 の高さは後円部で14mを測りますが、 前方部は6mと低く造られています。
女良塚古墳と比べれば、 前方部はかなり発達し後円部の直径に匹敵するほどですが、幅の広さのわりに短く、いわゆる帆立貝式の前方後円墳であると言えます。
くびれ部の両側に方形の造出が付き、 周濠も女良塚古墳と同様に墳丘の輪郭を拡大したように、概ね一定の幅を以て墳丘を取り囲んでいます。 後円部の墳頂部に盗掘坑がありますが、
副葬品と 思われるものは伝世していません。 墳丘は葺石で覆われていたと考えられ、円筒埴輪、 家形埴輪、 蓋形埴輪の出土が報告されています。
伊賀市佐那具町の御墓山古 墳に次ぐ三重県第2位の全長を誇り、 他の追随を許さない規模から、その被葬者は広く 「伊賀」 全体をも掌握 していた可能性があります。 |
馬塚古墳
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馬塚古墳 名張市美旗町中1番
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円筒埴輪
家形埴輪
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蓋形埴輪
朝顔形埴輪
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2050貴人塚古墳
ここが すごい!!
貴人塚古墳 美旗古墳群の最後の前方後円墳・埋葬施設は横穴式石室らしい。
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貴人塚古墳 きじんづかこふん
所在地: 名張市下小波田
墳形/ 規模: 前方後円墳 (全長55m)
時代: 6世紀初頭
美旗古墳群を構成する前方後円墳で、馬塚古墳の南東約500mに位置しています。
他の前方後円墳が概ね墳丘の主軸を北東方向に揃えているのに対し、 貴人塚古墳は後円部を東に向けています。
墳丘の形が少し歪なのは、長い歴史の中で少しずつ削り取られてきたのが原因のようです。
昭和51年(1976年)、 ほ場整備事業の実施に伴う墳丘の調査によって本来の古墳の規模がわかりました。
貴人塚古墳は、 美旗古墳群の 5基の前方後円墳の中で、築造されたのが最も新しく、また最も小さい規模で造られていました。
埋葬施設については不明ですが、 前方部が直径3mにわたり窪んでいることから、横穴式石室である可能性が指摘されています。
遺物は、 周濠から出土した埴輪と須恵器の器台などが知られています。 |
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貴人塚古墳 |
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貴人塚古墳
名張市下小波田
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円筒埴輪  |
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須恵器 坏身
須恵器 器台
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須恵器 無蓋高坏 |
朝顔形埴輪 |
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円筒埴輪 |
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2060城之越遺跡
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城之越遺跡 じょのこしいせき
所在地: 伊賀市比土
墳形 / 規模:発掘調査範囲 約13000m2
時代: 4世紀後半から平安時代
城之越遺跡は、近鉄伊賀神戸駅から北東約1kmにある古墳時代の祭祀遺跡です。 平成3年(1991年)にほ場整備などに伴い実施された発掘調査で、貼石や立石で護岸された大溝などの遺構が発見されました。 これは、3ヶ所の井泉から流れ出た湧き水を一つにまとめて下流へと流す仕組みになっており、 庭園の原型とも考えられるような遺構です。
遺物としては、主に大溝から武器や織物関係の道具をかたどったと考えられる木製品や意図的に底部近くに穴を開けた土師器の壺 などが出土しています。
これらの遺物は、 祭祀に使用された後に破棄されたものと考えられています。 また、 日常的に使用される農耕具が出土していないことも、 遺構の神聖性を高めています。
水に関わる祭祀は、こ の大溝周辺で継続して行われていたと推定され、 この 地域を治めていた首長の地位の高さがうかがえます。 |
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2300名張郡
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名張郡は、他の3郡とは異なり、 前方後円墳の出現は、 古墳時代後期になってからになります。
しかし、それまで人々の営みがなかったわけではなく、 名張盆地の南側には古墳時代前期に遡る遺跡も、 また円墳で構成される群集墳もたくさん報告されています。
これは古墳時代後期になり、ヤマト王権の支配下で、新たな勢力が台頭してきたことを意味しているようです。
琴平山古墳は、 全長約70mの前方後円墳で、 埋葬施設である横穴式石 室を3ヶ所も持つ古墳です。 被葬者は、 出土した甲冑が、 当時の最新技法で作られていること、
また出土した副葬品が甲冑や直刀などの武器に限定されていることなどから、ヤマト王権の勢力拡 大に呼応し、軍事部門を 担った武人であった可能 性が指摘されています。
夏見廃寺は、大来皇女が建立した昌福寺(『薬師寺縁起』)に比定されています。
発掘調査で発見された塼仏の数々は、荘厳な堂内の様子を垣間見させてくれます。 |
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| 2301
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2310琴平山古墳
ここが すごい!!
琴平山古墳 128cmの直刀は、武器というより権威の象徴です。
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琴平山古墳 ことひらやまこふん
所在地: 名張市赤目町檀字横山
墳形 / 規模 : 前方後円墳 (全長70m)
時代: 6世紀初頭から前半
名張市の南部、赤目地区の丘陵に築かれた前方後円墳で、 その名前は前方部に祀られている 「金毘羅宮」 に由来しています。
六世紀初頭に造られたこの古墳は、 名張郡において最初に造られた前方後円墳であり、しかも最大級の規模を誇ります。
埋葬施設は横穴式石室 で、 後円部の他に前方部とくびれ部分にも石室の存在が知られています。
後円部にある横穴式石室からは、当時最先端の冑だった 「竪矧広板鋲留衝角付冑」や漆に赤色顔料を重ね塗りして仕上げた赤鞘の剣、 そして金銀象嵌が施された直刀が出土しています。
直刀は全長128cmという長さから、 実用品ではなくむしろ儀式などで使われた儀仗刀だったのではないかと考えられています。 また石室から出土した副葬品は、 これら武器・武具のみだったことから、 被葬者の武人として活躍が偲ばれます。 |
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竪矧広板鋲留衝角付胃
琴平山古墳
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2320
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須恵器
坏蓋・坏身
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把手付土器
陶質土器
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須恵器 高坏 |
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金銀象嵌直刀 |
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人物埴輪
盾形埴輪 |
須恵器 台付壷
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須恵器 器台 |
須恵器 器台 |
円筒埴輪 |
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| 2400伊賀市 |
2420財良寺跡
ここが すごい!!
財良寺跡 お寺の範囲は、分布する地名からだいたいわかっています。
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財良寺跡 ざいりょうじあと
所在地:伊賀市才良宮之本杉之本
墳形 / 規模:一町四方 (109m×109m)
時代: 7世紀後半
財良寺跡は、 伊賀鉄道の丸山駅北方、 旧丸山中学校 の西側にあった寺院で、 飛鳥時代の創建とされています。
発掘調査は行われていませんが、 『東大寺要録』 に「伊賀国 財良寺 右天武天皇御願」 と記されています。
明治時代に作られた 「才良村全図」 には、 財良寺があったとされる付近に 「慶言院」 「北ノ坊」 「奥坊」「大門」
などの小字名が残っており、寺院の存在をうかがい知ることができます。
特に「慶言院」 は、 華厳宗大本山東 大寺との関係を示唆してくれる地名です。
出土遺物は飛鳥・奈良時代の軒瓦や鎌倉時代の軒瓦がありますが、なかでも飛鳥時代の複弁八葉蓮華文軒丸瓦は、 天武天皇と持統天皇の皇子 草壁皇子を偲んで建立された奈良県桜井市の栗原寺跡出土の瓦と同范 (同じ型を使って作られた瓦)で、 その関係性が注目されます。 |
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財良寺跡
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複弁八葉蓮華文軒丸瓦
財良寺跡
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財良寺があったとされる付近に「慶言院」「北坊」「奥坊」「大門」などの小字名が残っており、寺院の存在をうかがい知ることができます。 |
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| 2500第2室 |
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2700名張郡
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2701鹿高神社
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鹿高神社1号墳 かたかじんじゃいちごうふん
所在地: 名張市安部田字大殿
墳形 / 規模: 前方後円墳 (全長45m)
時代: 6世紀前半
鹿高神社1号墳は、名張盆地の南端、 宇陀川左岸の丘陵上に造られた前方後円墳です。
葺石は確認されていませんが、円筒埴輪の表採については報告があります。
埋葬施設は横穴式石室で、前方部と後円部にそれぞれ1基ずつ築かれ、 南方向に開口しています。
石室内には、ともに組み合わせ式の石棺が置かれていたようで、現在でも石材が散乱しています。
この古墳の被葬者は、琴平山古墳の被葬者から首長の地位を引き継いだ人物と考えられています。
また、 古墳の名称となっている鹿高神社は、 壬申の乱の際に、川を渡れずに困っている大海人皇子(のちの天武天皇)を助けた白鹿を
祀ったことがその創始と伝えられています。
壬申の乱において大海人皇子を何らかの形で支援したこの地域 の首長を白鹿と表現しているならば、 鹿高神社に参拝すると鹿高神社1号墳に手を合わせるようになる位置関係もうなずけます。 |
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鹿高神社1号墳
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鹿高神社1号墳
名張市阿部田
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須恵器
台付長頸壷
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須恵器 広口壺 |
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2703根冷4号墳
ここが すごい!!
根冷4号墳 鈴付壺は振るとちゃんと音が出ます。
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根冷4号墳 ねべよんごうふん
所在地: 名張市青蓮寺字北谷
墳形/ 規模 円墳 (直径約10m)
時代: 6世紀半ばから後期
根冷4号墳は全8基で構成される根冷古墳群のうちの1基で、 南百合丘団地の南西方向、 細い谷筋を挟ん だ小規模な尾根に位置しています。
埋葬施設は、 全長5.8mの横穴式石室 (右片袖) で、 持送り(側壁の石を 少しずつ内側に積むことで石室内をドーム状にし、天井を高くする方法)の工法を用い、 床の幅に比べて天井の幅を1mも狭くしています。
出土した遺物には特徴的なものがありました。 須恵器の杯身におさめられていた貝殻の存在です。
貝殻には二枚貝や巻貝が見られますが、すべて海水に生息するものです。 古墳には生きたまま運ばれてきて、お供えされたのでしょうか、 それとも、貝殻の状態でお供えされたのでしょうか。 興味はつきません。
また、 須恵器の鈴付壺は、朝鮮半島の伽耶地域でよくみられるもので、 鈴鹿市石薬師町地 内の古墳から出土している以外はほとんどなく、とても珍しいものです。 |
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根冷4号墳はこれまで紹介してきた首長墓ではありません。 渡来系の先進的な技術を持った人物の墓だと考えられています。
古墳時代後期、 ヤマト王権 は“渡来人政策” を行っていたと言われています。 渡来人の持つ先進的な技術を政策的に管理し、 特定の地域に移住してもらい、
技術開発を推進したのです。 分野は軍事や政治、また文字の他、 儒教や仏教という思想にも及んでいたと考えられています。
移住先は、 近江(滋賀県)、 播磨(兵庫県) が有名ですが、 名張もその一つと言われています。
名張における前方後円墳の登場は、 琴平山古墳の6世紀初めがそのはじ まりです。
琴平山古墳の被葬者は、ヤマト王権の支 配のもとで名張郡内に移住してきた技術者をまとめ る役割を担っていたのかも知れません。 |
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根冷4号墳
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土師器高坏
把手付埦  |
須恵器 坏蓋
供献土器(貝殻入り)
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鈴付壷(伽耶系土器)  |
須恵器 坏身
貝殻入り
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須恵器 横瓶
土師器 壷
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細頸壺,ハソウ,堤瓶 |
ハソウ,堤瓶
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2705夏見廃寺
ここが すごい!!
夏見廃寺 金箔の押された塼仏で埋め尽くされた壁、眩しかったでしょうね。
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夏見廃寺 なつみはいじ
所在地: 名張市夏見字赤坂
墳形 / 規模 : 東西約84m、 南北約75m
時代: 7世紀末
夏見廃寺は、 青蓮寺川と名張川が合流する付近、 通称男山の西南裾に位置する古代寺院です。
地元では古くから知られていましたが、 同寺を有名にしたのは、創始がわかる「甲午」の文字が記された塼仏の破片(紀年銘塼) が出土したことです。
「甲午」は694年を示し、また出土する瓦の年代からもこの時期が創建年と考えられています。
もう一つ、 『薬師寺縁起』には、大来皇女が昌福寺を名張郡の「夏身」に建立したことが記され、
現在、 夏見廃寺に比定されています。
しかし建立の時期とされる神亀2年 (725年)において、 大来皇女は すでに他界しています。 2つの年号は謎をさらに深め ますが、同寺の建立に地域の有力な豪族がかかわって
いたことに間違いはなさそうです。 |
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2706
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夏見廃寺
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夏見廃寺
(手前の基壇が金堂)
名張市夏見
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2707
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文字塼
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大型塼仏
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独尊仏
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複弁八葉蓮華文 軒丸瓦
重弧文軒平瓦
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三尊塼仏
夏見廃寺 |
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三尊塼仏
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三尊塼仏 復元レプリカ
夏見廃寺
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3000エピローグ
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伊賀国誕生
伊賀国は、 律令制が整え始められたころは伊勢国の
一部でしたが、 『扶桑略記』の天武天皇九年《680》七月 条によれば、 天武天皇の時代に分割されてできたと言われています。
天武天皇は、 なぜわざわざ伊賀の4郡を 分けて一国をつくったのでしょうか。 その理由は判然としません。しかし、 壬申の乱の際、 のちの天武天皇と持統天皇が東国に向けて駆け抜けた
「原 東海道」ともいわれる主要幹線道が伊賀地域を縦断し、 方向を東 (加太越 え)に変えるまさにそのポイントに伊賀国府が置かれて いることはとても興味深いことと思われます。
天武天皇 は朝廷側からの追撃を逃れるために 「伊賀」を通ったことで、改めて「伊賀」の重要性を認識したのではないでしょうか。 伊賀という新しい国を置き、そして国府という国の中枢と直結した官庁を設置することで支配体制の強化を図る、
伊賀国の誕生には律令国家体制の整備を推し進めた天武天皇の想いがあったのかもしれません。
伊賀国、 そこは畿内の護り、 東日本の玄関口
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エピローグ
伊賀国誕生
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伊賀国府 いがこくふ
所在地: 伊賀市坂之下字国町ほか
墳形/ 規模 国府域 東西約 400m×南北180m
時代: 8世紀後半から11世紀
国府とは、古代に国の政を行う機関を指し、 国司や官人たちが政務を行った中心的な場所を国庁や政庁と言いました。
伊賀国府の場所は、 伊賀市坂之下、 JR 関西本線佐那具駅の南西約300mに位置しており、周囲には御墓山古墳や勘定塚古墳など、 柘植川流域の首長 墓が分布しています。
発掘調査で見つかった国庁の存 続時期は、8世紀末から11世紀中頃で、 東西と南北ともに概ね40mの掘立柱塀で囲まれた範囲に、 正殿・前殿・脇殿等が配置されていました。
出土した墨書土器の中に 「國厨」 (国府の台所の意味)と書かれたものがあり、遺跡の所在地に 「国庁」 が訛ったと思われる「こくっちょ (国町)」 と呼ばれる地名が残っています。
ここがすごい!!
伊賀国府
「国厨」の墨書、 これが国府跡の決定的な証拠となりました。
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伊賀国府
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伊賀国府跡全景 伊賀市
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伊賀国府跡発掘調査風景 伊賀市坂之下字国町
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須恵器皿 「國厨」
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緑釉陶器 陰刻花文 碗
灰釉陶器 陰刻花文 碗
伊賀国府跡
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綠釉陶器
皿・唾壺
伊賀国府跡
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木簡「黑口丈」
木簡「重丈口」 伊賀国府跡
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円面硯 伊賀国府跡
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祝 国宝指定
三重県宝塚1号墳出土 埴輪
4000宝塚古墳 船形埴輪
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4001
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宝塚一号墳出土品
国宝指定までのあゆみ
5世紀初頭 宝塚1号墳が築造される
5世紀前半 宝塚2号墳が築造される
1929年(昭和4年) 鈴木敏雄が 『三重県飯南郡花岡村考古誌考』 で宝塚古墳について記 述する
1932年(昭和7年) 宝塚1号墳 2号墳 国指定史跡となる (史跡名称 「宝塚古墳」)
1970年(昭和45年) 三重大学歴史研究会が墳丘測量図を作成する
1977年(昭和52年) 1・2号墳周辺の原景観を確保する目的で、 史跡の枠を拡大するため古墳周辺の 15,214 m2の追加指定が答申される
1999年(平成11年) 宝塚1号墳 史跡整備に伴う発掘調査に着手
2000年(平成12年) 造り出し部分の発掘調査で、埴輪多数出土
国内最大級・他に類例のない船上に立ち飾りをもつ船形埴輪の発見 湧水 ・ 導水を表現する囲形埴輪の発見
2001年(平成13年) 宝塚2号墳の発掘調査着手
2003年(平成15年) 博物館施設 『はにわ館』 開館
2005年(平成17年) 発掘調査報告書 『史跡宝塚古墳』刊行
2006年(平成18年) 宝塚1号墳出土品が、 国指定重要文化財に指定される
2019年(令和元年頃) 国指定重要文化財 宝塚一号墳出土品の修理済埴輪の実測図作成 資料の法量の再確認、 資料の再検討、 写真撮影をおこなう
2024年(令和6年) 国指定重要文化財宝塚一号墳出土品の再整理事業が終了する
3月15日 宝塚一号墳出土品 国宝指定の答申
(松阪市初、 三重県内7件目、 自治体所有として三重県初の指定)
東京国立博物館で展示される (船、家、 囲)
5月 東京より帰還する
8月27日 官報告示により船形埴輪など278点が国宝に指定される。 |
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宝塚1号墳 |
宝塚一号墳出土品
国宝指定までのあゆみ |
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宝塚古墳の先行研究1
鈴木敏雄『三重県飯南 花岡村考古誌考』
宝塚古墳群の実態をはじめて明らかにしたのは、三重県を代表する 郷土史家 鈴木敏雄氏です。昭和三年(一九二八年)、鈴木氏は地元の 倉口七三郎氏らの協力を得て古墳群を精査し、調査成果を『三重県飯
南郡花岡村考古誌考』(以下考古誌考)としてまとめました。考古誌 考には、古墳の分布、個々の古墳の規模、現状、外表施設などについ て詳しく説明するとともに、古墳の被葬者についても考察しています。
その後、宝塚古墳群については大西源一氏、山田勘蔵氏らも言及して いますが、考古誌考の内容を超えるものではありませんでした。
鈴木氏の調査によって推定も含め八十八基の古墳の所在が明らかにされました。丘陵の尾根筋、頂部、斜面などにいくつかの古墳のグルー プが形成されていたのです。調査当時この一帯は、「官林」と呼ばれた
国有地でした。森林伐採後は植林されなかったため風雨による土砂流 出が著しく、埴輪や土器などの遺物片の散布は確認できるものの墳丘 が明確ではないものが八八基中六二基にのぼったとされています。そ
のような状況でも、古墳群の中心に位置する一号墳・二号墳は、鈴木 氏が考古誌考で「高貴ナル方々ノ墳陵ナルコト一見直ニ感シ得ベシ」 と記述されるように、当時もひときわ目立つ存在であったことがわか
ります。
昭和七年(一九三二年)四月二五日、一号墳・二号墳は『史跡宝塚 古墳』として国史跡に指定され、保護されることになりました。 |
宝塚古墳の先行研究1 |
宝塚古墳の先行研究1
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第一号墳
花岡村大字小黒田字ゴケ山一二〇、一二、一二二番地ニア リ。別ニ図スルガ如ク壮大淡麗ナル前方後円墳ナリ。
後円部径 約四〇米前方部長サ約四〇米。其軸線ハ略東西ニ在リ後円部高 サ約十一米、前方部幅前端ニアリテ約十六米。
全面ニ亘リテ一貫内外ノ重量ヲ有スル円礫ノ葺石ヲ以テ覆ヒ 其間ニハ後円部ニアリテハ四段、前方部ニアリテ三段ニ亘リテ 埴輪円筒ヲ廻ラス。又後円部頂上ニハ埴輪立物ノ破片ヲ散布ス。
蓋家型埴輪ノ類ナルベシ。
里人称シテ「寶塚」ト云フ。今検スルニ此ノ墳ノ西南ノ田地 ニ「クルマヅカ」ト称スル所アリ。 又コノ墳ノ西方直下ヲ通シ テ山室ヨリ田村ニ通スル里道アリ。
里人「車塚越」ト称ス。蓋 シ此墳ヨリテ名付ケル所ナルベシ。
里人云フ、本墳ノ南方西方 ノ田地ヲ耕作スルニ円筒片所トシテ発見セナルナルト。崩解セ シモノ侵入セシナルベシ。但シコノ付近ニモ円筒ヲ有スル墳数 個アレバ。之等ノモノモ侵入セシヤ言ヲ俟タズ。
コノ地北方一帯ニ轄ケ、近く駅部田、黒田、田村、阿形等を眼 下二望ミ、遠ク松坂四五百森ノ如キモ時実ニ手ニ取ルガ如シ。
鈴木敏雄『飯南郡花岡村考古誌考』より宝塚一号墳に関する記述を抜粋 |
第一号墳
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『三重県飯南郡花岡村考古誌考』には、 鈴木敏雄氏の手による各種図面が掲載されています。 |
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・古墳分布図
・墳丘略測図(鈴木敏雄
『飯南郡花岡村考古誌考』
より抜粋) |
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表面採集された
宝塚1号墳樹立埴輪の破片実測図
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『三重県飯南郡花岡村考古誌考』にみる宝塚古墳の古写真
『三重県飯南郡花岡村考古誌考』には、鈴木氏調査時に撮影された宝塚一・二号墳の当時の姿を記録した貴重な写真が掲載されています。 |
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・昭和初期の宝塚1号墳 2号墳のすがた (西から) 『三重県飯南郡花岡村考古誌考』より
・昭和初期の宝塚1号墳 (南から)『三重県飯南郡花岡村考古誌考』より
・昭和初期の宝塚1号墳 (1号墳から)『三重県飯南郡花岡村考古誌考』より
・宝塚1号墳円筒埴輪出土状況『三重県飯南郡花岡村考古誌考』より |
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参考資料
宝塚1号墳・2号関連写真
・周辺の開発が進む宝塚1号墳・2号墳のすがた (南から) 1970年代 『松阪市史 第2巻 史料篇 考古』 松阪市 1978 より
・遠足でにぎわう宝塚1号墳 昭和30年代(個人蔵)
・樹木が生い茂る宝塚1号墳 昭和40年代 |
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昭和初期における宝塚古墳周辺の古墳分布
上の図は、『三重県飯南郡花岡村考古誌考』 に掲載された古墳分布図と、それを基にした『松阪市史 第2巻 史料篇 考古』掲載図、 船形埴輪と古代の喪葬』(穂積裕昌 新泉社 2017) 掲載図を参考に、現在の地形図に重ねて作成したものです。
1号墳を盟主とする 古墳群の全貌を知る貴重な資料であるといえます。
鈴木敏雄氏の古墳分布図には、 1号墳の西方にもう1基の前方後円墳の存在が示されています。 |
復元された宝塚古墳 |
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4003
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宝塚古墳の先行研究2
三重大学歴史研究会原始古代史部会の測量調査
昭和四五年(一九七〇年)、三重大 学歴史研究会原始古代史部会によっ て宝塚一号墳・二号墳の正確な測量 図が作成され、「松阪地区における埋 蔵文化財の調査」
(『ふびと三十一号』 一九七〇年)に一号墳、その後二号 墳を含めた測量図を『ふびと三十二 号』(一九七五年)に公表しました。
調査の結果得ることができた墳丘 各部分の計測値を掲載しています。 それによると、一号墳の全長は九〇 ~一〇〇メートルの範囲であるとさ れました。また、測量図では一号墳くびれ部北側の等高線が北側に突き
出た形で表現されています。これ以降、のちの発掘調査で今回国宝に指定されることになった一群の埴輪が出土した「方形造り出し」の存在が 注目されるようになりました。 |
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宝塚古墳先行研究2 |
宝塚古墳測量図

三重大学歴史研究会原始古代史部会による測量図
(原図1:1,200) 『ふびと32号』 1975 から転載 |
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一九九八年(平成一〇年)、松阪市教育委員会は宝塚古墳の史跡整備を本格化し、翌年に前方部における発掘調査を実施しました。
その結果、葺石などの施設が良好な状態で残っていることがわかりました。引き続き宝塚二号墳の発掘調査も実施され、 宝塚古墳に関する考古学的研究は大きく進展することとなりました。
明らかとなった宝塚一号墳のすがた
発掘調査の結果、一号墳の全長は百十一メートル、後円部直径は七十五メートル、前方部幅は六十六メートル、前方部側の北側のくびれ部には土橋でつながった造り出しが設けられていました。
また、古墳裾から後円部頂上までの高さが一〇メートル、前方部頂上までの高さが八十一メートルであることがわかりました。古墳の斜面には葺石 が貼り付けられており、斜面の間に設けられたテラスには円筒埴輪の列が巡らされます。また、円筒埴輪列の要所には盾形埴輪が配置されます。
造り出しの平面形は東西一八メートル、南北一六メートルの方形で、高さ一・六メー トルの台状の施設です。造り出しは上下二段で、斜面には古墳本体と同様に葺石が貼
られています。また、斜面の間のテラスには円筒埴輪と壺型埴輪が列状に配置され、 要所には盾形埴輪と鍔付壺形埴輪が配置されます。 造り出し上部の平坦面の埴輪の配
列は不明ですが、造り出しの外側には家形・囲形埴輪を中心とした埴輪群が、最奥部 に船形埴輪が配置されていました。
これまでの研究では、一号墳から出土した埴輪の多くは、伊勢という地方の古墳で ありながら大和王権の本拠地である現在の近畿地方、とりわけ大和・河内の有力者の 古墳から出土する埴輪との強い関係性があることが指摘されています。 その一方で、 墳丘の周囲に巡らされた円筒埴輪や壺形埴輪には地元の工人が制作に携わったと思わ せるような在地色の強いものも認められます。このように大和王権との関係の深さを うかがわせる一群の埴輪と、伊勢という地方の地域性をもった一群の埴輪が共存する ところが宝塚一号墳の埴輪の特徴であると考えられます。 |
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発掘調査で明らかとなった宝塚1・2号墳の姿 |
宝塚1号墳造り出しにおける埴輪配置模式図
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整備後の宝塚1号墳墳丘と造り出し
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宝塚1号墳発掘調査時のスナップ写真から… |
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復元された造出 |
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4005船形埴輪 レプリカ
宝塚1号墳(松坂市出土)
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船形埴輪・・・
墳丘と土橋、造り出しの三方に囲まれた谷間から見つかった船形埴輪は、全国最大の全長140cm、高さ 94cmの大形の船で、
しかも威厳を示す大刀、 威杖、 きぬがさなど威儀具が満載の船は類例がなく、 整理報告がされた翌年の平成18年に重要文化財に指定され、
その 18年後の令和6年3月の文化審議会において国宝の答申が出された 「宝塚一号墳出土埴輪」 278点の中でも、 代表的な存在となっています。 |
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船形埴輪 |
船形埴輪
(左側面斜め上から) |
装飾用部品
※これ重要 |
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4006船形埴輪の構造
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| 4007船形埴輪 レプリカ
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6000常設展示 自然史
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6200三重の大地のなりたち
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6210常設展示室案内
館内図 |
常設展示では、➀三重(見えの概念) ②三重の大地のなりたち ③見えの多様で豊かな自然 ④自然と共に生きる
⑤三重を巡る人,モノ,文化交流 ⑥博物館からのメッセージの展示があります。
ここでは、『三重の大地のなりたち』だけを取り上げ、しかも、恐竜やゾウ、岩石などを極力排除して、
大地の形成、中央構造線、巨大カルデラについてだけ掲載したいと思います。 |
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6211三重の大地のなりたち
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日本列島の骨組み
地史1Geology
The Formation of the Japanese Archipelago
(海溝に沈み込む)プレートの動きによって(大洋底を移動してくる間に、プレート上に堆積した土砂などが堆積して)付加体がつくられ、日本列島の骨組みができました。
この付加体の一部は変成を受け、西南日本では、大断層“中央構造線” が走っています。 |
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寄せ木細工の三重の大地
三重の大地の基盤は、プレートの沈み込み帯でできた幾つかの付加体や、マグマが冷えて固まった花崗岩、付加体が熱や圧力を受けた変成岩から出来ています。 |
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プレートの分布
わたしたちのすむ地球は、モザイク状の大小さまざまなプレートに覆われています。 これらのプレートは、大陸プレートと海洋プレートにわけられ、年間数センチメートルのスピードで動いています。
北アメリカプレート
ユーラシアプレート
フィリピン海プレート(海洋プレート)
太平洋 プレート(海洋プレート) |
日本列島の構成岩類 |
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6212
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寄せ木細工の三重の大地
三重の大地の基盤は、プレートの沈み込み帯でできた幾つかの付加体や、マグマが冷えて固まった花崗岩、付加体が熱や圧力を受け田変成岩から出来ています。 |
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※中央構造線の北側にも、付加体がある。もしかして、中央構造線ができる前に堆積した付加体でしょうか。 |
寄木細工の三重の大地 |
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ジュラ紀の付加体
(丹波-美濃帯構成岩類) |
白亜紀の高温型変成岩
(領家変成岩類) |
・白亜紀の深成岩類(領家花崗岩類)
・白亜紀の高圧型変成岩類(三波川変成岩類)
・三畳紀の高圧型変成岩類など (新期三郡黒瀬川帯構成岩類)
・ジュラ紀の付加体(秩父帯構成岩類)
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白亜紀から古第三紀の付加体 (四万十帯構成岩類)
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三重の骨組み |
三重の骨組みは付加体
三重の骨組みは、おもにジュラ紀の付加体と、 白亜紀から古第三紀の付加体でできています。
ジュラ紀の付加体(丹波 美濃帯構成岩類)
丹波 美濃帯は古生代から中生代に海洋でできた石灰岩・火山岩・チャートと大陸の礫岩・ 砂岩などの岩石からなり、
中生代ジュラ紀にできた付加体と考えられています。 中央構造線より北側に分布しています。
砂岩・緑色岩(海底火山が噴火し、火山灰や溶岩に海水などが作用してできた岩石)
ジュラ紀の付加体(秩父帯構成岩類)
秩父帯は美濃帯とほぼ同様の岩石からなり、 中生代ジュラ紀にできた付加体と考えられています。 中央構造線より南側
で、 三波川帯と接して分布しています。
白亜紀から古第三紀の付加体(四万十帯構成岩類)
四万十帯を構成する四万十層群は、志摩半島地域と熊野地域では、おもに砂岩・ 泥岩からなり、 チャート 緑色岩を
伴っています。
白亜紀から新生代古第三紀にかけての付加体と考えられています。 |
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地下でできた多様な岩石
三重には、白亜紀にできた領家花崗岩類、 ジュラ紀の付加体が高温の影響を受けた領家変成岩類、 そして白亜紀の付加体が高圧の影響を受けた三波川変成岩類があります。
白亜紀の高圧型変成岩類(三波川変成岩類)
ジュラ紀から白亜紀の付加体が地下深くで高圧になって変化したもの。 結晶片岩などがあります。
黒色片岩 泥質岩が高圧で完成した結晶片岩で、外観が色の岩石
緑色片岩 玄武岩などが高圧で変成した結晶片岩で、外観が緑色の岩石
白亜紀の高温型変成岩類(領家変成岩類)
ジュラ紀の付加体が領家花崗岩類をつくったマグマの熱によって、変化したもの。 片麻岩などがあります。
片麻岩 ジュラ紀の泥質岩が高温で変成した片癖状組織をもつ岩石
三畳紀の高圧型変成岩類(新期三郡・黒瀬川帯構成岩類)
古生代の付加体が三畳紀に高圧の変成作用を受けたもの。県内最古の岩石群で志摩半島の東から西へ帯状に分布している。
藍閃石岩片 玄武岩などが高圧で完成した結晶片岩で、 外側が青色の石
白亜紀の深成岩類(領家花崗岩類)
プレートの読み込みの影響でできたマグマが上昇し、地殻内でゆっくり冷え固まったもの。花崗岩などの種類があります。
花崗閃緑岩 地下深部でマグマが固まったもので、 花崗岩と閃緑岩との中間的な岩石
花崗岩 地下深部でマグマが固まったもので、 大陸を構成する岩石 |
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6213中央構造線
中央構造線露頭
松崎市月出

巨大パネル写真 |
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日本の大断層
中央構造線 |
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日本の大断層 中央構造線
大地に力が加わり、割れてずれ動いたものが断層です。 三重の中央部を東西に横切る中央構造線は、西南日本を分断する大断層です。プレートの動きにより、白亜紀の中ごろから大陸の東の縁で活動がはじまりました。 この活動は、 1億年にわたって続いています。 |
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東アジアの大斷層
シホテアリン断層
中央構造線
タンルー断層
中央構造線の位置
中央構造線は、西は九州から四国、 紀伊半島を通り、東は関東平野まで連続している国内最長の断層です。
中央構造線が、 日本アルプス周辺で北側に曲がっている理由は、丹沢や伊豆半島が (フィリピン海プレートに乗って) 南側から本州に衝突したことによると考えられています。 |
三重でみられる中央構造線
三重で見られる中央構造線 |
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三重でみられる中央構造線
西側は松阪市飯高町高見山から、 伊勢市付近を通り、東側は夫婦岩や神島の北方を通っています。 三重には数多くの中央構造線の露頭が知られていますが、特に松阪市飯高町月出に、 中央構造線を観察できる国内最大規模の露頭があり、国の天然記念物に指定されています。 |
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1 月出露頭
2 三峰なかす露頭
3 粟野露頭
4 木地小屋露頭
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にゅうとう
5 丹生露頭
6 おきん露頭
ごかつらしんでん
7 五桂新田露頭
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シュードタキライト(勢和多気ジャンクション露頭産)
シュードタキライトとは、断層のすべりに伴う摩擦熱で瞬間的に1000℃前後に達し、岩石の一部が融けて急冷してできた細粒・脈状の岩石です。
断層面にかかる力と速いすべり速度が摩擦熱の上昇に必要な ことから、「地震の化石」とも言われています。 この標本は中央構造線で 初めてみつかったもので、摩擦熱が発生した断層脈と、それから派生
する注入脈が存在します。この岩石に含まれるジルコンという鉱物の放射年代測定(フィッショントラック年代測定)から、6千万年前にできたことが明らかにされています。 通常、花崗岩中のシュードタキライトは
黒雲母や角閃石が優先的に融けることから、暗色を示すことが多いのですが、多気のシュードタキライトは、その生成後に断層浅部で何度も断層運動を受けて破砕され、それに伴う変質によって、緑色を帯びています。
高木研究室からの寄託標本 |
中央構造線でわけられている岩石
中央構造線付近の岩石は、北側には高温のもとでできた領家帯の片麻岩と花崗岩、南側には高圧のもとでできた三波川帯の結晶片岩が広く分布しています。
領家帯の岩石は中央構造線に近づくにつれて、断層深部の活動で水飴のように流動してできたマイロナイトとよばれる岩石に変化し、さらに断層浅部の活動が重複し、機械的に壊れてできたカタクレーサイトとよばれる岩石に変化しています。
さらに、境界面には、粘土に変化した断層ガウジが分布しています。 |
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6214中央構造線のでき方
中央構造線のでき方 |
中央構造線のでき方 |
中央構造線のでき方
プレートの動きの影響を受けて、 中央構造線は水平方向にずれたり、垂直方向にずれたりして、多様な動きをしてきました。
中央構造線は、地下30~20kmでできた三波川帯の結晶片岩と、地下 20~10km付近でできた領家帯の花崗岩片麻岩が、長い年月を かけて接するようになったものです。 |
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中央構造線の1億年の歴史
9000万年前
➀1億年前~8000万年前
白亜紀の中ごろ、 海洋プレートが北北西に沈み込んでいました。このときに、シート状の形状をもった領家帯古期花崗岩類が中央構造線の正断層活動に伴って上昇してきました。
この時の古期花崗岩類の熱によって、 高温・低圧型の領家変成岩類ができました。 |
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6000万年前
②7000万年前~6000万年前
白亜紀末期の7000万年前には、 中央構造線の運動に伴って、和泉層群が海底に堆積しました。
領家帯では7000万年前までは、たて続けに花崗岩類が上昇し、地表では火山活動が活発でした。
三波川変成岩類は この時期の中央構造線の正断層運動に伴って上昇し、 領家帯と直接接するようになりました。 |
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1500万年前
③2000万年前~1500万年前
大陸東縁部にあった当時の日本は大陸から分離 して、日本海が拡大し、日本列島となりました。 この 時期になると、三波川変成岩類が地表に露出ました。
それに少し先立ち、 領家帯の岩石も地表に露出しました。
フォッサマグナが形成され、この時期以降伊豆半島などが本州に衝突し、 中央構造線はこの地域で 大きく折れ曲がりました。
※フォッサマグナの西側の断層を糸魚川静岡構造線。 東側の断層を柏崎-千葉構造線
―MTL 中央構造線
Sh:白亜紀から古第三紀付加体(四万十帯)
Iz:和泉
S:高圧型変成岩類(三波川帯)
R:白亜紀花崗岩類・高温型変成岩類(領家帯)
PR: 古領家帯: 領家帯より少し古い花崗岩・変成岩類
M:白亜紀初頭に付加した海台(御荷鉾帯)
Jm:ジュラ紀付加体(丹波一美濃帯)
JC:ジュラ紀付加体 (秩父帯)
K:三畳紀付加体(黒瀬側帯)
原図:高木 秀雄 (早稲田大学) |
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6215
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カタチづくられる三重のすがた
地史2
付加体でできた三重の大地は、隆起や沈降を繰り返し、そのたびに侵食や堆積が起こっています。
各地に暖かい海があったころや、巨大火山、ゾウがいたころの証拠が残っています。 |
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6217亜熱帯の海があった頃
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現在よりも温暖な時代で、南極や北極の氷は少なく、沖縄のような亜熱帯の気候で あったと推測されます。
このような環境に 生息する動物や植物の化石が日本各地の 中新世の地層からみつかっています。 |
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一志の海
三重では、 北勢から南勢にかけての地域と東紀州地域に中新世の地層が点在します。 これらの地層はほぼ同時代に、 海に積もったものです。 特に、一志層群はほ乳類、魚類、貝類などの化石を豊富に含んでいます。 |
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6220
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三重にあった巨大火山
現在、三重には火山がありませんが、約1500万年前には、巨大な火山がありました。
その火山が噴火をおこして、大量の火山灰などを噴出しました。
紀伊半島南部には、 マグマが冷えて固まった火成岩がみられます。
また、 紀伊半島中央部には、火砕流堆積物が分布しています。 |
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1500万年前の巨大なカルデラ
大きな噴火で、溶岩、 火砕流、火山灰が噴出したあとに、マグマのたまっていたところが、陥没してできたものがカルデラです。 紀伊半島南部には、 直径20~40kmもの巨大なカルデラの痕跡が残されています。
※コールドロンは浸食を受けたカルデラ火山の痕跡のこと |
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熊野の岩石と室生の岩石
東紀州地域には、斑状花崗岩や流紋岩、 花崗岩などの熊野酸性岩類が分布しています。 (中央構造線以南)
また、名張から室生地域にかけて室生火砕流堆積物が厚く積もっています。 (中央構造線以北)
これらの岩石は、含まれる鉱物などから、 同じ時期にできたものと推測されます。 |
熊野の岩石と室生の
岩石
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大丹倉(熊野)(熊野酸性岩類)(大絶壁)
香落溪(名張)(室生火砕流堆積物)(柱状節理)
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※三重県南部のカルデラ痕跡(コールドロン)について。
現在、九州島の下にもぐり込むフィリピン海プレートの北端が、列島を北上していき、現在は静岡県に到達している。
この境界の北上に従って、列島の下にもぐり込んだフィリピン海プレートからマグマが上昇し、多数のカルデラを形成していきました。
九州のカルデラ 西日本の主なコールドロン 東海地方のコールドロン これら以外にも多数あり、例えば九州小林盆地もそれである。
現在のフィリピン海プレートは伊豆諸島を乗せて静岡県の下にもぐり込んでいます。
紀伊半島では、かつて、現在の九州島のように、いくつもの巨大なカルデラ火山が活動を行なっていました。
和歌山県の橋杭岩など、1500万年前にはフィリピン海プレートは紀伊半島の下にもぐり込んでいたようです。 |
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中新世の火砕岩 (2300万-500万年前)
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中新世の火砕岩類
(室生火砕流堆積物) (1500万年前)
溶結凝灰岩 :紀伊半島南部にあった火山からの 火砕流堆積物が固まった黒色の岩石
溶結凝灰岩 :紀伊半島南部にあった火山からの 火砕流堆積物が固まった白色の岩石 |
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中新世の火砕岩類(中奥火砕岩岩脈の岩石)
火砕岩 :火山の噴火口の礫をとりこんだ岩石
中新世の火成岩類 (熊野酸性岩類) (1500万年前)
花崗岩 :最後に貫入してきた細粒の花崗岩 |
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中新世の火成岩類 (熊野酸性岩類)
流紋岩 :溶岩が固まるときにできる流れ模様のある岩石
ガラス質流紋岩 :流紋岩のひとつで、ガラス質の多い 光沢のある岩石
凝灰岩 :流紋岩の噴出の後、堆積した火山灰が固まった岩石
斑状花崗岩(花崗斑岩) :貫入してきた大きな結晶(斑晶) を含む花崗岩 |
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6221火山灰層
東海層群と古琵琶湖層群
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東海層群とは
東海層群(とうかいそうぐん)とは、約300万年前から100万年前(新第三紀中新世後期から第四紀更新世前期)にかけて、伊勢湾や濃尾平野の周辺に存在した大きな古い湖「東海湖(とうかいこ)」の底にたまった、土や砂、小石などの地層のことです。
特徴と成り立ち
・できた場所:昔の東海湖の底に、川から流れてきた泥や砂、小石が厚く積もってできました。
・湖の移動:東海湖は知多半島のあたりで生まれ、時代とともにまわりに広がったり消えたりしながら位置を変えました。
・主な中身:固まっていない(柔らかい)砂や泥、粘土、小石、そして火山灰の層が重なっています。
分類される主な名前
場所によって、いくつかの名前に分けて呼ばれています。
・瀬戸層群(せとそうぐん):名古屋市の東部や愛知県の瀬戸・多治見方面、岐阜県などに広がる地層。
・奄芸層群(あんぎそうぐん):三重県や滋賀県境の鈴鹿山脈のふもとなどに広がる地層。 |
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古琵琶湖層群とは
古琵琶湖層群(こびわこそうぐん)は、三重県伊賀市から滋賀県を経て周辺の丘陵にかけて広がる、約400万年前から43万年前(新第三紀鮮新世〜第四紀更新世)の地層です。かつて南側にあった「古琵琶湖」が堆積させた泥や砂、粘土などで構成され、多くの化石を含んでいます。
古琵琶湖層群の主な特徴
・分布と移動:約400万年前に三重県・奈良県(月ヶ瀬など)の南側で誕生した古代の湖が、地殻変動や土砂の堆積により、数百万年かけて徐々に北方へ移動し、現在の琵琶湖の位置になった。
・化石の産出:アケボノゾウやトウヨウゾウなどのゾウの骨、シカ、貝類、植物、さらには動物の足跡化石などが豊富に見つかっている。
・地域文化への影響:最古の地層から採れる良質な粘土は、滋賀県の信楽焼などの陶芸文化を支える基盤となっている。
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ゾウがいたころの気候
ミエゾウがいた約350万年前は、 現在より暖かく、アケボノゾウが現れた約200万年前は、寒い時代と暖かい時代をくり返すようになったことが、
さまざまな化石からわかります。 |
ゾウがいたころの気候 |
ゾウがいたころの気候
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提供:百原新
(千葉大学)
寒い時代の風景
(北海道利尻島)
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提供:百原新(千葉大学)
暖かい時代の風景 (中華人民共和国 四川省)
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三重の多様な大地の姿
三重には、鈴鹿山脈や紀伊山地があり、そこから流れ出す川は、 伊勢湾、熊野灘、大阪湾に流れていきます。
伊勢平野には川がつくった肥沃な土地が広がっています。 また、山に囲まれた伊賀盆地があります。 |
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三重の多様な大地の姿 |
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紀伊山地 V字谷
(大台町大杉) |
御幣川 河岸段丘
(鈴鹿市小社町) |
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服部川 盆地 (伊賀市)
七里御浜 礫浜海岸(熊野市有馬町)
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リアス海岸と海跡湖(尾鷲市須賀利大地
伊勢湾 砂浜海岸 (津市御殿場海岸)
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今も動く大地
日本列島は、 プレートの境界に位置しています。
現在も突然、地震が発生し、大地が動くことがあります。 |
活断層剥ぎ取り標本 |
今も動く大地 |
鈴鹿山脈 御在所山
(菰野町)

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伊勢平野 祓川河口
(明和町) |
プレートの沈み込み帯と地震
熊野灘には南海トラフというプレートの沈み込み帯があります。 ここでおこる地震は海溝型地震とよばれ、 南海トラフ地震 (東海地震、東南海地震、
南海地震など) が想定されています。
活断層と地震
中央構造線より北側には、 多くの活断層があります。 その付近でおこる地震は、内陸直下型地震とよばれています。
伊勢平野 祓川河口(明和町) |
青山高原 準平原(津市)
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活断層剥ぎ取り標本
活断層の剥ぎ取り標本は、いなべ市麓村での鈴鹿東縁断層帯の活断層調査の一環として製作されたものです。
活断層が左上から右下に走っていることがわかります。 |
北山川穿入蛇行
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絶えず身を守る備えを
地震には、 海溝型地震、内陸直下型地震などがあります。
いつ発生してもおかしくない地震や津波などに対して、 普段から身を守る備えが必要です。 |
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※近年ますます激しくなっている豪雨災害や、激烈で活発な地震活動など、全国的に注目が高まっています。
そういう時には、博物館の地学コーナーを参照するといろいろ理解が深まることがあるのです。
当館もその一つで、活断層の位置やその由来など、大変参考になります。
上述の自然災害が近年最も激しいのが九州だと思うのです。毎年線状降水帯が発生し、地震が頻発しています。
ところが、私が調べたところ、九州には地学コーナーを設けている博物館は1館もないと聞いており、また、発見できませんでした。
例えば博多に着くまでにいろいろな山地が見えるのですが、名前は全くわかりません。博物館学芸員に聞いてもなんだろうね。です。
まぁ、大学附属博物館には行っていないので、真相は不明ですが、なぜ、九州では地学や自然史には興味がないのでしょうか。
もちろん、九州は歴史の始まりの地。だから、こぞって考古学や古代史に力を入れるのはわかるし、また、ありがたいことです。
自然史となると、高額をはたいて恐竜の骨を買ってこないと、っていうのは間違いです。九州で地学がありましたら是非お教えください。 |
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