2025.11.23
宮崎市埋蔵文化財センター
宮崎市生目の杜遊古館 宮崎市跡江4200-3
0985-47-8012 月~金開館(月・祝祭日の翌日・年末年始休館) 午前9:00~午後4:30
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目次
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01九州新幹線
02宮交バス
10生目の杜遊古館
101旧石器時代
113遊動生活
115石器を作る技術
120細石刃形槍先
121旧石器遺跡
123槍先の変遷
140船野型
※研究細石刃核の分布と年代
150発掘調査
200縄文時代
201隆帯文土器
211清武上猪ノ原遺跡
213隆帯文土器
231定住生活
233壺形土器
※塞ノ神式土器
235土器・石器
251鬼界カルデラ大噴火
253台地の環状集落
255土器
257虫の圧痕
270松添貝塚 |
400弥生時代
401線刻画土器
411弥生のはじまり
413宮崎の弥生文化
431海で繋がる
宮崎と瀬戸内
435宮崎平野の土器
451広域交流
470首長の登場
500古代
501丸瓦
511日向国の始まり
513古代遺跡
531古代寺院
535仏教関連遺物
551郡衙はどこに?
570荘園開発と武士
600中世
601龍泉窯系青磁碗
611山城の時代
631宮崎城の歴史
633中世遺跡遺物
651上井覚兼日記
653宮崎城跡遺物
670関ヶ原の合戦
700近世
710藩領と武家集落
770佐土原藩家老 |
1000地下式横穴墓
1011下北方5号
1012分布と起源
1014葬られた人々
1016下北方古墳群
1201副葬品の出土
1205富裕な被葬者
1301ヤマト政権と
5号墓被葬者
※考察5号被葬者
3000古墳時代
3010宮崎平野の古墳
※考察死後の世界観
3030生目古墳群
3060生目古墳群史跡公園
3070生目の巨大古墳
3110生目型朝顔形埴輪
3121生目のムラ
3123廃絶と再集落化
3127集落から墓地へ
3210生目古墳群
3211 14号
3213 22号
3250 5号
3311 7号 |
3600一般収蔵庫
3601地下式横穴墓
3603横穴墓の葬送儀礼
3650 7号墳
3670 18号横穴墓
3673 各横穴墓遺物
3700生目21号墳
3750檍1号墳
3753大淀3号墳
3757江田原3号
3800下北方古墳群
3833生天目古墳終焉
3835土器田横穴群
3837浮田照明院横穴
4000発掘調査
4101甦った5号墳
5000廊下展示
5001日本遺産
5100発掘調査速報展
5110町ノ前遺跡
※考察 俘囚
5150下北方第4地点
5180伊勢ノ原第3地点
5190島之内 萩崎遺跡 |
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01九州新幹線
800系新幹線は九州だけで走っている列車。大阪発の新幹線を使う私には初めての出会いでした。
博多から各駅停車として、西鹿児島(現鹿児島中央駅)まで走っています。
東海道・山陽新幹線とは違った、優しいデザインの列車でした。
思わず、沢山撮影して、掲載してしまいました。(笑)
見るからに水戸岡さんの和風デザインの車内で、②写真のように、日除けも東洋風、窓も広く快適な旅でした。
九州新幹線の車窓に流れる景色は、東海道や西日本、また、東北の車窓とは違って、沿線には広大な農業地帯が広がり、食糧生産の中心地、
暖かい気候を活かした農業用ビニールハウスが たくさん並んでいました。九州の平野は広大で、いまだ自然が豊富に残っています。
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02宮交バス(宮崎交通バス)
これまで何度も通り過ぎた新八代駅から、宮崎行きの高速バスが出ています。この運行は知りませんでした。
この路線には、JR九州バス、宮崎交通、産交バスが運行しています。JRバスはどこでも高速バスを走らせているイメージがあります。
今回は宮崎交通のバス。乗車すると、驚きました。九州島の代表地形の宝庫を堪能するような路線でした。
走り始めると、ワクワクするような、地形の風景が広がり、火山地形やカルデラ噴火の凄さを実感しました。
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宮崎駅から安いガッツレンタカーで出発しました。借りた車は鳥取県から運ばれた古い車らしく、鳥取地方が沢山登録されていました。
古い車はカーナビのDATAが古く、とても使い勝手が悪かったです。
次回からは、やはり、整備レベルの差はあるが、ニコレンを使おうと思いました。 |
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10生目の杜遊古館 外観・入口展示
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日本遺産「古代人のモニュメント」
台地に絵を描く南国宮崎の古墳景観
日本独自の形である前方後円墳という古墳が造られた時代。 宮崎平野でも西都原古墳群を始め多くの古墳が造られました。 列島各地であ また造られた古墳のある景観 (風景)は、時の移ろいの中で様変わりしますが、 宮崎平野には繁栄した当時に近い景観が今も保たれていま す。 古墳の姿形が損なわれることなく、古墳の周りには建築物がほとんどない景観は全国で唯一です。古墳を横から、上から、斜めから。 いろんな形と古墳のある景観を楽しんでみませんか? |
生目の杜遊古館 |
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日本遺産「古代人のモニュメント」
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日本遺産「古代人のモニュメント」
台地に絵を描く南国宮崎の古墳景観 |
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生目古墳群出土遺物
ストーリーを構成する生目古墳群の出土品。 代表例である5号墳出土の埴輪は、 胴体が筒のような形をした壺形埴輪で、全国的に見ても珍しい独特の形状である。 宮崎市 |
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生目古墳群出土遺物
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※生目の杜ってなに?
チョット意味が解らない。で、調べてみた。
生目とは:AI による概要
生目(いきめ)は、主に生きている状態やその見込み(生目がない=生きる見込みがない)を指すほか、古代船の船首に描かれた護符的装飾である眼を指す言葉です。サモトラケのニケなど。例
また、宮崎県宮崎市や香川県三豊市にある、眼病平癒のご利益で知られる「生目神社」の名称としても有名です。
生目(いきめ)の主な意味と使い方
1.生きている状態・生きる見込み
・例文:もうこれ以上、この負傷では生目(いきめ)がない(=助かる見込みがない)。
2.古代の船の装飾
・古代のギリシャ、ローマ、中国などの船首・両舷に描かれた、災いを避けるための動物の眼の模様。
「生目(いきめ)」に由来する神社
眼の神様として有名な神社です。
・宮崎県宮崎市の生目神社 (生目八幡宮) |
生目神社とは:AI による概要
宮崎県宮崎市にある生目神社(いきめじんじゃ)は、1000年以上の歴史を持つ「日向の眼の神様」として、眼病平癒・視力回復の信仰を集める神社です。平家の武将・藤原景清(かげきよ)が自分の両目をえぐり取って投げたという伝説が由来とされ、境内には神水や目に関わる伝承スポットがあります。
生目神社の主な特徴・詳細
・祭神と由来:品陀和気命(応神天皇)と藤原景清公を祀る。景清の伝説から、目の神様として崇敬される。
・ご利益:眼病平癒、視力向上、健康祈願。
・名所・神水:
・御神水:境内にある階段を約100段下った場所にあり、古くからこの水で目を洗うと眼病に効くとされる。
・目かけの松:本殿裏山にあり、景清の目が引っかかったとされる。
・ブルーベリーの木:目に良いとされるブルーベリーが植えられている。
・行事・文化:毎年3月中旬に「生目神楽」が奉納される。
・場所・アクセス:宮崎県宮崎市大字生目325。宮崎交通バス「生目」下車徒歩約15 |
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ということで、生目神社、藤原景清に関わることはわかったが、杜とは、生目神社の境内地などだった山林のことではないだろうかと
想像する程度で、真相は、当事者に聞いてみないとわからないようでした。(解明失敗)
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12年表
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館内図 |
旧石器~古代 |
古墳~中世 |
中世~近世 |
近現代 |
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13
古墳時代
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旧石器~弥生 |
古代
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中世~近世 |
近世 |
近現代
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15
フロアマップ |
展示室マップ |
宮崎歴史ミュージアム
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宮崎市街地の発展
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※「宮崎市街地の発展」の展示を撮り忘れています。 |
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100展示室 1
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100考古展示 |
101旧石器時代 宮崎のハンターたち
氷河期の宮崎市
―いつからいるの宮崎人―
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約40,000年前の旧石器時代の日本列島には、人類がいたと考えられています。
宮崎市では高岡町の高野原遺跡で約35,000年前の姶良大塚軽石層の下(約3.2万年)から石器が出土しています。
この頃は氷河期で今よりも約7~8℃も低い寒冷な気候のため、海水面が下がって大陸と陸続きだったと考えられています。
また、 ナウマンゾウやオオツノジカといった大型動物が生息していました。 |
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112
接合資料 |
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小型ナイフ形石器の素材の縦長剥片と 石核が接合したものです。
この資料から、ナイフ形石器の具体的な作り方がわかります。 |
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113
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旧石器人の遊動生活
―ハンターたちのくらしとは―
旧石器人たちは、 食料とした木の実や動物、 石器の材料となる石材を求めて遊動生活を送っていました。
彼らは、木の枝などを組み、 草や皮などで覆った簡単なテント式の建物でくらしていたと考えられています。
また、 石槍などで狩猟を行い、 手に入れた肉は生以外にも焼いたり、蒸したりして食べていました。 |
旧石器人の遊動生活
―ハンターたちのくらしとは― |
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旧石器時代の狩りのようす
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旧石器時代の住まいのようす
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114
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115
石器を作る技術
-石器作りの匠の技- |
旧石器人たちは、石や骨、角や木などを材料とする道具を使っていたと考えられます。
石器の材料には黒曜石のように割ると鋭い刃 が得られるものが好まれました。
ここでは石器 製作に用いられた3つの技術を紹介します。 |
直接打法 |
直接打法
石材に角や骨などのソフトハンマーや敲石で直接打撃を加え、剥片をとる方法。 |
間接打法 |
間接打法
石材に角や木などのパンチ(たがね) をあて、それを打 撃して剥片をとる方法。 |
押圧剥離法 |
押圧剥離法
木や角、骨などの押圧具を石材の端にあて、 押しつぶ すように加圧して剥片をと る方法。 |
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116
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接合資料 (角錐状石器の製作) と敲石
旧石器時代
槍先に使用したとされる角錐状石器を作る時にできた小さな剝片が多数接合しています。
一緒に3種類の敲石も見つかっており、 作業工程によって大きさの違う敲石を使用していたことがわかります。
清武町下猪ノ原遺跡 |
接合資料 (角錐状石器の製作) と敲石 |
接合資料 |
接合資料
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敲石
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120細石刃形槍先
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121宮崎市内の旧石器遺跡
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宮崎市内の旧石器遺跡
―ハンターたちの足跡をたどる |
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宮崎市は、県内でも旧石器時代の遺跡が多い地域
です。その分布を見ると、 市内を流れる河川沿いの原と呼ばれる台地上に遺跡が多いことがわかります。
また出土した石器を見ると、 遺跡周辺の河川で採集される石材などの他に、 五ヶ瀬川の流紋岩や鹿児島県大口盆地付近で採れる黒曜石を使った石器が含ま れています。
このことから、宮崎のハンターたちの広範囲な遊動生活を知ることができます。 |
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123
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槍先の変遷
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ナイフ形石器
高岡町(小田元第2遺跡)
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霧島小林軽石直前
1.5万年前 |
小型の縦長剥片の一部を加工して作っています。 |
角錐状石器(左)と国府型ナイフ形石器(右)
高岡町(橋山第2遺跡・小田元第2遺跡・押田遺跡)
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※脚注➀ |
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左は断面を三角形にした槍先で、
右は瀬戸内地方から伝わりました。
※脚注➀と②は入れ替わっていませんか?
←の石器には抉りがあり、下の石器にはない。
4点の石器に対して右,左という指定はおかしい。 |
剥片尖頭器
高岡町(高浜中原遺跡)
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※脚注② |
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姶良丹沢火山灰以後 |
縦長剥片の一部に抉りを入れて作っています。
※左2点の向かって右側は明確に瀬戸内技法の石器です。
それに2点共に抉りもない。
貼り間違いかと思います。 |
ナイフ形石器
高岡町(野中第1遺跡)
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姶良丹沢火山灰頃 |
やや大ぶりの縦長剥片を加工して作っています。 |
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125※二つの脚注を入れ替えてみました。
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140船野型
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旧石器時代の終焉と船野遺跡
―命名 船野型細石刃―
旧石器時代の終わり頃になると細石刃が使われます。 この小さな石器は、 骨や角などで作った槍の先に埋め込んで使ったと考えられています。
細石刃を生産する際には細石刃核が作られます。
宮崎市佐土原町の船野遺跡では、 特徴的な細石刃核が出土しており、 「船野型」 と名付けられています。
この船野型細石刃核は各地で発見され、全国的に研究されています。 |
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※船野遺跡とは:AI による概要
船野遺跡(ふなのいせき)は、宮崎県宮崎市佐土原町に位置する旧石器時代後期(約2万年前~1万数千年前)の遺跡です。
特に、流紋岩を素材とした特徴的な「船野型細石核」が出土した標識遺跡として有名で、南九州における細石刃文化の解明に重要な役割を果たしています。
概要と特徴
・場所: 宮崎県宮崎市佐土原町下那珂、標高84-87メートルの台地上。
・時代: 後期旧石器時代。
・出土遺物: 小型ナイフ形石器、台形様石器、そして「船野型細石核」。
・船野型細石核: 礫(れき)の側面調整を行い、片側の主要剥離面から連続して細石刃を剥離する技法で作られる石器。南九州を中心に分布する。
主な調査と意義
1970年代の調査で、九州ではそれまで知られていなかった特有の細石核製作技法が確認され、この遺跡の名称を取って「船野型」と名付けられました。周辺の下屋敷遺跡や南学原遺跡などと合わせて、この地域に旧石器時代人が定着していたことを示す貴重な遺跡です。
※船野型細石刃核とは:AI による概要
船野型細石刃核(ふなのガタさいせきじんかく)は、宮崎県の船野遺跡で発見された、主に流紋岩などの石材を使い、厚みのある剥片(母型)の短辺側から細石刃を剥離する船底形の旧石器時代石器です。東九州(宮崎・大分)を中心に分布し、野岳・休場型から発展した2万数千年前の代表的な技術形態の一つです。
特徴と概要
・形状と製作:船底形(舟形)を呈し、扁平な剥片の側面に調整を施し、短辺から押圧技術により細石刃を剥ぎ取ります。
・分布と時期: 東九州(大分県・宮崎県)の流紋岩製が典型で、2万数千年前の時期(旧石器時代終末期)に主に使用されました。
・地域差と関連性: 西北九州の「野岳・休場型」や、南九州の「加治屋園技法」、韓半島の「月坪遺跡※」のものなどと類似性がありつつも、地域固有の形態を持ちます。
使用例・関連
・出土遺跡: 宮崎県船野遺跡、大分県亀石山遺跡、鹿児島県種子島の遺跡など。
・関連技術: 船野型は宮崎平野で発生し、福井型(長崎県福井洞窟)へつながる新旧関係のなかで理解されています。
類例・同義語(類縁型)
・野岳・休場型: 稜柱形が特徴。九州の主要技術。
・福井型: 船底形。船野型に似るが打面調整が高度。
・畦原型: 砂岩の小円礫を使用する関連技法。
※月坪遺跡:AI による概要
月坪遺跡(韓国・忠清北道)で出土した細石刃核(さいせきじんかく)は、約1万5,000年前前後の旧石器時代末期から縄文時代草創期にかけての石器技術を示す重要な遺物です。
主な特徴と関連情報は以下の通りです。
・細石刃核の型式: 月坪遺跡では、唐津型や船野型に類似した、楔形(くさびがた)や船底形(ふなぞこがた)の細石刃核が確認されています。
・石材の特徴: 月坪遺跡の細石刃は主に頁岩(けつがん)系石材から作られており、細石刃核も頁岩系および水晶製のものが確認されています。
・関連する文化圏: この遺跡の石器群は、韓半島南端部の旧石器時代から移行期にかけてのもので、九州の同時代遺跡(例:仁田尾遺跡)で見られる細石刃技術とも関連性が指摘されています。
この時期、細石刃は小刀のように木や骨の軸に埋め込んで使われ、槍や銛の刃として機能していました。 |
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旧石器時代の終焉と
船野遺跡
―命名 船野型細石刃― |
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船野遺跡 |
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【船野型細石刃核の作り方】
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【船野型細石刃核の作り方】
➀石材を分割する
②分割した石材をさらに割る
③側縁を加工して細石刃核を作る
④鹿の角などを使って細石刃を 作り出す
⑤軸に細石刃を埋め込んで使用する |
※船野型細石刃核の展示ケースの中を撮影し忘れていました。
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畦原型細石刃核
船野型細石刃核
(舟底形)
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※船野型細石刃核の写真は見つかりませんでした。 |
※研究 細石刃核の分布と年代 AIによる概要
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野岳休場型細石刃核:
野岳・休場型細石刃核は、約1.8万年前から1.5万年前の旧石器時代末期に主に西南日本を中心に分布した、稜柱系の細石刃生産技法です。
細石刃核は、稜柱形に近く、主に半円錐形に近い特徴的な形態をしています。
九州から中部高地にかけて広く見られ、代表的な遺跡として、長崎県の野岳遺跡、静岡県の休場遺跡、長野県の矢出川遺跡が挙げられます。
分布範囲と特徴
・分布範囲: 主に西日本から東海地方・中部地方にかけての広範囲に展開。
九州・中国・四国・近畿・東海・中部高地: 本州の西南エリアに主要な分布圏を持つ。
・中心遺跡: 野岳遺跡(長崎県大村市)、休場遺跡(静岡県天竜市)、矢出川遺跡(長野県南牧村)。
・年代: 約18,000年前〜15,000年前(後期旧石器時代末期)に古本州島に広がったと考えられている。
・特徴: 柱状(稜柱形)に細石刃を剥離したあと、最終的に円錐形や半円錐形に近い形状になるものが多い。
・特徴: 九州の野岳遺跡や静岡の休場遺跡で典型例が見つかり、円礫の表面を削り、長い細石刃を連続して剥離する「稜柱形」の核。
・技術的特徴: この技法は、クサビ形細石刃核とは異なり、独自に発展したか、または異なる系譜を持つ可能性がある。
・技法・石材: 「矢出川技法」と呼ばれる技術で作成される。石材は、長野県や中部高地では黒耀石が多用された。
・関連型式: 九州では位牌塔型や茶園型と、四国では船野型などと、時期を前後または共有して分布する。
・時代背景: 大型動物からイノシシ、シカなどの狩猟が主流となり、投げ槍の先端部(替え刃)として細石刃が用いられた。
・背景: これ以降、福井型などのより効率的な細石刃技法へ移行する前段階として位置づけられる。
この型式は、日本列島の細石器文化の普及を理解する上で非常に重要であり、南九州の仁田尾遺跡などでも多数出土している。
特徴的な技術は「素材依拠型(野岳・休場1型)」や「素材対応型(野岳・休場2型)」として研究されており、主に礫を素材として利用し、打面再生を行う特徴を持っています。
野岳・休場型細石刃核の分布と範囲
・中心的な分布範囲: 長崎県(大村市野岳遺跡・休場遺跡など)や、福岡県、佐賀県などの九州中・北部。
・広域的な分布: 鹿児島県の上野原遺跡(伏野遺跡)などの南九州や、大分県などの東九州の遺跡からも検出されており、九州全域にわたる「古相」の細石器文化と位置付けられています。
・特徴: 九州地方の旧石器遺跡において、新段階の細石刃核の福井型や唐津型などと混在、あるいは先行する形で出現します。
・関連する遺跡:鹿児島県 伏野遺跡: 検出事例。
この型式は、その後、船野型やホロカ型といった削片系の新相へと展開していく初期段階の細石器群として重要視されています。
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船野型細石刃核の分布 範囲
船野型細石刃核は、日本列島の旧石器時代後期後半(約1万5,000年前〜1万3,000年前頃)に分布した、主に西南日本を主体とする細石刃技術の一つです。
分布範囲と特徴
1. 分布範囲
九州から関東地方にかけての広範囲に分布しており、特に以下の地域で顕著です。
・中心分布地域: 九州の宮崎平野、大野川流域から、中国地方(一部を除く)、四国、近畿地方、東海地方、そして南関東まで。
・特徴的な地域: 東海地方(岐阜・愛知・静岡)では、頁岩やチャートを素材とした船野型細石刃核が特によく見られます。
・日本海側: 鳥取県倉吉市の上神遺跡の例など、山陰地域でも確認されています。
2. 特徴と関連
・ホロカ型との関連:北海道のホロカ型細石刃核と近縁であるとされ、本州を北上・南下する文化の交流が見られます。
・石器群の特色: 主に細石刃石器群として、尖頭器や石斧などとセットで出土することが多いです。
・年代: 細石刃が出現し始めた最初期の段階から、土器が出現する直前の時期にかけて使用されました。
尚、これより北の地域(中部高地など)では、黒曜石を主素材とする「野岳・休場型」が主流となり、船野型とは異なる文化圏を形成していました。
※船野型細石刃文化人は、野岳休場型細石刃文化を駆逐して、西日本から南関東まで拡散していった。中部高地には進出出来なかった。
主な分布範囲と特徴
・中心的な分布地域:
・九州地方: 宮崎平野、大野川流域など。
・中国・四国地方: 広島県芸北町樽床遺跡、鳥取県倉吉市上神、愛媛県下など。
・近畿・東海・中部地方: 近畿南部から東海地方(岐阜・愛知・静岡県)にかけて広く分布。
・関東地方: 南関東まで及ぶ。
・地理的特徴: 宇部台地など中国地方西端部を除いた、九州から関東までの西南日本・沿岸地域が主な分布圏です。
・関連する遺跡・地域: 朝鮮半島南端部の月坪遺跡や好坪洞遺跡でも、船野型に類似した楔形・船底形細石刃核が出土しており、大陸との関係が指摘されています。
・特徴: 東海地方などでは頁岩やチャートを素材として利用する事例が多いです。
船野型細石刃核は、細石刃文化が出現した初期〜中期段階に特徴的な石器群(細石刃出現段階から土器出現直前まで)として位置づけられています。
※船野型は細石刃発祥の最初から出現していたが、列島に入ってくるのが遅かっただけのようです。
船野型細石刃核の特徴
船野型細石刃核は、東九州、特に宮崎平野を中心に見られる、船底のような形状をした石核です。野岳型から派生した技術で、細石刃を剥離するための特殊な技法(船野技法)が特徴。頁岩が多く使用され、槍先などの複合石器の一部として機能しました。
特徴と概要
・形状: 船底形を呈し、側面から見てアーチ状の刃を持つ。
・出土地: 主に東九州の船野遺跡(宮崎県)で典型例が確認され、宮崎南部〜九州南部の遺跡から出土。
・位置づけ: 野岳・休場型から派生・発展した技術とされ、東九州の細石刃文化編年における指標となる。
・石材: 主に頁岩を利用。
・関連: 韓半島南端部の月坪(ウォルピョン)遺跡などでも類似する楔形細石刃核が出土しており、関連性が指摘されている。
宮崎平野の遺跡では、船野型と野岳型の中間的な要素を持つ石核も発見されており、地域的な展開が見られます。
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※以上は、朝鮮半島から九州・西日本・東海・中央高地・南関東までの細石刃文化の波及の様子でした。
まとめますと、1万8000年前から野岳休場型の円錐形細石刃核が九州から関東・中央高地に広がり、
次に、1万5000年前から船野型の舟底形・くさび型が中央高地を除く地域に置き換わりました。中央高地は野岳休場型のままでした。
すると、 東北地方の細石刃文化はどうなっていたのだろうかと調べました。
その中で、最も古く書かれていたのは 山形県大石町の角二山遺跡の1万8000年前で、
その他は、 大平山元遺跡で1.6~1.5万年前で不定ですが、山形県 湯の花遺跡(ホロカ型)は 1.5万年前です。
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東北地方の細石刃文化
角二山遺跡(大石田町)
山形県大石田町の角二山(かくにやま)遺跡の主要な旧石器時代の遺物は、約18,000年前(最終氷期末)のものです。2017~2020年の再調査で、北海道からの移民がもたらした技術(湧別技法)による黒曜石の細石刃石器群などが発見され、当時の本州への移民・交流を示す重要遺跡とされています。
・遺跡の時代: 主に約18,000年前の旧石器時代(細石刃文化)。
・特徴: 6,000点を超える細石刃、石器核、尖頭器などが出土。
・関連技術: 北海道白滝産(北海道由来)と秋田県男鹿産(本州由来)の黒曜石が混在し、東西技術の交流が示されている。
・場所: 山形県大石田町大字大石田乙509-1(最上川右岸の段丘上)。
なお、同遺跡の最上層(クロボク土)からは、縄文時代前期(約5000~6000年前頃)の竪穴住居跡も検出されています。
大平山元遺跡の細石刃
大平山元遺跡(青森県)の細石刃石器群は、約15,000年前〜16,000年前の「縄文時代草創期」に属すると考えられています。この遺跡は、日本で最古の土器とともに石鏃や細石刃などが共伴して出土した場所として知られ、当時の狩猟技術の変遷を示す貴重な遺跡です。
特徴的なポイント
・年代: 約15,000年前の土器と同時期に、細石刃や石鏃が使用されていた。
・石器群: 細石刃(湧別技法)、石刃、尖頭器、掻器、神子柴型石斧など。
・意義: 従来の旧石器時代から縄文時代へと切り替わる移行期を示し、国の重要文化財に指定されている。
なお、細石刃の技術そのものはより早い時期から北日本に普及し、約2万年前のものも存在しますが、大平山元遺跡の主となる石器群の層は、土器を伴う約15,000年前前後の段階が中心です。
湯の花遺跡 細石刃 2万~1.5万年前
山形県高畠町に所在する湯ノ花遺跡は、旧石器時代後期から縄文時代にかけての遺跡であり、特に擦痕を有するホロカ型細石刃核の出土で知られる重要な遺跡です。
湯ノ花遺跡と細石刃の主な特徴
・遺跡の場所: 山形県東置賜郡高畠町。白竜湖周辺の遺跡群の一つ。
・特徴: 黒曜石製の「白滝型細石刃核」や細石刃が多く出土している。 白滝型とホロカ型の違い。
・出土資料: ホロカ型細石刃核。
※湯の花遺跡からは、ホロカ型と白滝型の二種類の細石刃核が豊富に出土しているようです。
二つの文化人が住んでしたのか、二つの技法を使い分けしていたのか、それとも、集団が入れ替わったのか、どうなんでしょうね。
・技術的特徴: 細石刃を剥離した後の石核に残る擦痕(細石刃の剥離痕)が特徴的な形状を示している。
・背景: この遺跡の細石刃石器群は、北海道から本州へ伝わった細石刃製作技術の分析に貢献している。
湯ノ花遺跡の出土品は、細石刃文化の研究や東北地方の旧石器時代末期の様相を知る上で重要な役割を果たしています。
※湧別技法集団の南下
約1.5万年前頃、北海道から湧別技法文化の集団が日本海側から南下してきました。
彼らは日本海側の黒曜石鉱山を支配するとともに、沿岸各地に拠点を築いて殖民し、そこから東進し、支配域を広げていきました。
中央高地の矢出川遺跡では、各種の細石刃技法が乱立し、文化の衝突があったことを感じます。
湧別技法集団はさらに南下し、中国地方の隠岐島の黒曜石鉱山を支配し、そこから、中国山地を越え、最終的に四国まで達したと記憶しています。
※このことから、山形県角二遺跡の1.8万年前に北海道から南下してきた集団が持ち込んだ湧別技法(大陸を通して一般的な技法)と、
1.5万年前の山形県置賜郡にやって来た、ホロカ技法・白滝技法の集団以外は、南下する湧別技法集団と考えられます。
すると、1.5万年以前の東北地方には、東北地方以南で発展していた細石刃文化が、なかったのかもしれません。
※荒屋遺跡の細石刃技法
新潟県荒屋遺跡の、硬質頁岩を用いた細石刃技法は、くさび形細石刃核(湧別技法に近い)となっており、文化庁のHPでは1.6万年前、
日本旧石器学会では1.4万年前となっている。どちらを採るかによって大きく意味が変わってくる。
1.6万年前の場合、湧別技法的な技術が少しずつ伝わり始めてきた。となる、1.4万年前だと、日本海側を下って来た湧別技法の模倣が始まった。
いずれにしてもナイフ形石器以降、北海道との密接な関係があったのにもかかわらず、細石刃技法は伝播しなかったのかもしれない。
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150発掘調査
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旧石器時代の発掘調査
-調査の手がかりは鍵層-
宮崎市内の旧石器時代の遺跡を調査すると、 鍵層とよばれる噴出年代がわかっている火山灰層が見つかることがあります。
中でも姶良丹沢火山灰(AT: 約28,000年前) や霧島小林軽石(約16,700年前) が有名で、これらの鍵層を手がかりにして石器などが使われた時期を推定することができます。
また、住居や墓などが見つかることは稀で、石器ブロックや礫群がほとんどです。このことから、旧石器人が遊動生活をしていたことがわかります。
※姶良丹沢火山灰(AT)は姶良Tn火山灰と同義語
※遊動生活:何世代にもわたって遊動し、半島から九州へ、また、関東までと、食糧を求めて常に移動していた。それほど食糧確保は難しい。 |
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坂元遺跡の石器ブロック
宮崎市清武町の坂元遺跡の調査では、石器が集中する石器ブロックや焼けた礫が密集する調理施設の礫群が見つかりました。
石器ブロックからは頁岩製のナイフ形石器と共に同じ石材の破片 も多数出土したため、 この石器が ここで作られていたことがわかりました。
一方、 1点だけ出土したホルンフェルス製の角錐状石器は、他の場所で作られたものが持ち込まれたと考えられます。 |
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200縄文時代
ムラの始まりから一万年
縄文時代
ムラの始まりから1万年 |
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201
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隆帯文土器 縄文時代草創期 1.2~1.4万年前
この土器は、縄文時代草創に南九州で作られました。
口縁部に粘土の紐を貼り付け、 爪形の模様をつけています。 竪穴住居跡からまとまって出土しました。
清武町 (清武上猪ノ原遺跡) |
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| 210 |
211日本最古級のムラ
―すごいぞ!清武上猪ノ原遺跡―
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約15,000年前に作られはじめた土器により、 ドングリなどの木の実を食べられるようになり、 同じ場所で長期間くらすこと(定住生活) が可能となりました。
宮崎市清武町にある清武上猪ノ原遺跡では、 約14,000年前の竪穴住居跡が14軒見つかりました。また、矢柄研磨器や土製円盤、丸ノミ形石斧なども出土しています。
そのため、この遺跡は、縄文時代草創期 (約15,000年前 ~約10,000年前) を知ることができる遺跡として全国で も注目されています。 |
日本最古級のムラ
―すごいぞ!清武上猪ノ原遺跡― |
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遺跡の位置
清武上猪ノ原第5遺跡
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竪穴住居跡 |
ムラの様子 |
水場
銛作り |
石蒸し料理 |
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213
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隆帯文土器 縄文時代草創期
粘土の紐を貼り付けた土器です。貝殻などの模様がついています。
清武町 (清武上猪ノ原遺跡) |
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隆帯文土器
縄文時代草創期
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隆帯文土器
縄文時代草創期
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215
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丸ノミ形石斧
縄文時代草創期
丸木舟を作るための道具と言われています。
清武町 (清武上猪ノ原遺跡) |
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石鏃
縄文時代草創期
矢の先に取り付けて使っていました。
清武町(清武上猪ノ原遺跡)
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矢柄研磨器
縄文時代草創期
木の棒を両側から挟んで整形し、弓の柄を作る石器です。
清武町(清武上猪ノ原遺跡)
※弓の柄×、矢の柄○ |
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| 230 |
231定住生活の先進地・南九州
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南九州の台地では、縄文時代早期 (約10,000年前~約6,000年前) の遺跡が数多く確認されています。
これらの遺跡では、いろいろな遺物 (土器や石器) や遺構 (集石遺構や炉穴など)が多く見つかっていて、これは南九州に他よりも早く定住生活が根付いたためだと考えられています。 |
【縄文時代早期の代表的な遺構】
【縄文時代早期の代表的な遺構】 |
1. 集石遺構(蒸し焼き) |
【縄文時代早期の代表的な遺構】
1. 集石遺構 (蒸し焼き)
➀穴を掘って石をおく。
②石の上で木を燃やす。
③火を消した後、 焼けた 石の上に葉でくるんだ 食材をおく。
④木の葉や土をかぶせて しばらく待つ。
⑤食材を取り出して食べる。
集石遺構
〈清武上猪ノ原遺跡> |
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2.炉穴(燻製) |
2. 炉穴 (燻製)
➀穴を掘ってトンネルを作り、 片方で火をつける。
②もう一方の穴に木を組み、 食材
をおいたり吊るしたりする。
③煙で食材をいぶす。
④食材を食べたり保存したりする。
炉穴 〈清武上猪ノ原遺跡> |
炉穴
清武上猪ノ原遺跡
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233
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塞ノ神式土器 縄文時代早期(7000~8000年前)
口縁部が外側に大きく開き、 胴部に様々な模様をつけるのが特徴です。
清武町(清武下猪ノ原遺跡) |
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塞ノ神式土器とは AI による概要
塞ノ神式(せのかみしき)土器は、約8000年前の縄文時代早期後葉に、主に南九州地方(鹿児島県周辺)で作られた、帯状の平行沈線でダイナミックな模様を描いた土器です。平底と尖底の2種類が存在し、煮炊き用として使用され、平栫式・塞ノ神式土器が標高
6 ㍍前後で出土している状況であった。一方で、門前タイプ土器が、標. 高 6 ㍍より下層から出土している事は、縄文時代前期より古い土器のや5層におけるA式土器は塞ノ神式土器と共存する事が明らかになった。又塞ノ神式土器片2及び貝殻擦過による条.
痕文土器(第二図8) 数片が出土した。この土は5層出土のなどの特徴が発掘調査で報告されています。
概要と特徴
・時期・場所: 縄文時代早期後葉、南九州の平栫貝塚 (国分市上井平栫) 位置と環境などから出土しています。
・特徴: 帯状の平行沈線(へいこうちんせん)によるダイナミックなモチーフが特徴。
・分類: 箟描き(へらがき)の区画内に撚糸文(よりいともん)が施されたものが多く、A式やB式などに分類されます。
・使用例: 尖底(せんてい)は火の通りを良くするための工夫と考えられています。
・関連: 前平式土器や後続の押型文土器の間に位置づけられる。
この土器は、南九州の縄文文化の展開を知る上で、吉田式などと並ぶ重要な指標となる土器です。
塞ノ神式土器とは AI による概要
塞ノ神式土器(せのかんしきどき)は、鹿児島県の塞ノ神遺跡を標式とする縄文時代早期後半(約7,000〜8,000年前)の南九州を代表する土器型式です。ラッパ状に大きく開く口縁部や、撚糸文(よりいともん)と凹線、隆帯を組み合わせた特有の文様が特徴で、南九州から九州一円に広く普及しました。
塞ノ神式土器の特徴と詳細
・時期と地域: 縄文時代早期後半、主に鹿児島県を中心とした南九州で展開。
・形態的特徴: ラッパ状の口縁: 口の部分が外側へ大きく広がる深鉢形。
・文様: 幾何学文(ぎかかくもん)に撚糸文(よりいともん)系の文様を重ねたものが特徴で、A・Bの両型式に細分される。
・構造: 底部は平らなもの(平底)が多く、石坂式や吉田式などと同時期に位置づけられる。
・系譜: 貝殻文系と撚糸文系の2つの系統が考えられており、南九州におけるこの時期の土器編年において非常に重要な役割を果たしている。
この時期、南九州の文化が瀬戸内地方の施文技術の影響を受けていたことを示す指標ともされている。 |
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235土器・石器
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石製瑛状耳飾
縄文時代早期
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耳たぶにはさんで装着していました。
清武町(下猪ノ原遺跡) 高岡町(永迫第2遺跡)
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異形石器
縄文時代早期
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不思議な形をしていて、祭祀に使っていたと考えられています。
清武町(清武上猪ノ原遺跡) |
石斧
縄文時代早期 |
主に、木の伐採や加工に使っていました。
清武町(清武上猪ノ原遺跡)
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土製耳飾
繩文時代早期
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耳たぶに穴をあけて装着していました。
清武町(清武上猪ノ原・下猪ノ原遺跡)
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磨石
縄文時代早期 |
木の実などを磨りつぶすために使っていました。
清武町
(清武上猪ノ原遺跡)
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251
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鬼界カルデラの大噴火
―アカホヤが与えた甚大な被害―
鬼界カルデラは、 薩摩半島から約50km南にある火山です。
最も大きな噴火は約7,300年前 におきました。 この時の火山灰はアカホヤ火山 灰とよばれ、 東北地方や朝鮮半島でも確認され ています。
宮崎市では、 アカホヤ火山灰が30cm以上も積もり、 自然環境に甚大な影響を及ぼしました。 そのため、この地域の集落のほとんど は姿を消してしまいました。 |
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鬼界カルデラの大噴火
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鬼界カルデラの大噴火
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アカホヤ火山灰の降灰の範囲

火砕流到達範囲 |
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台地の環状集落
-西日本最大級の集落遺跡、本野原-
宮崎市田野町の本野原遺跡は、 縄文時代後期(約4,000年前~約3,000年前) の集落遺跡です。
平成13(2001)年の発掘調査では、 113軒の竪穴住居跡が見つかり、 また、 集落内には中央に直径約80mの浅い皿状の広場がありました。
他にも、貯蔵穴や道の跡などが広場を中心に造られていました。これらのことから、この遺跡が西日本最大級の環状集落であったことがわかります。 |
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台地の環状集落
―西日本最大級の集落遺跡、本野原― |
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遺跡の位置 |
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ムラのようす
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調査時の状況
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255土器
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宮之迫式土器
縄文時代中期
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とても太い工具で波や渦などの模様を力強く描いています。
田野町 (本野原遺跡)
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宮之迫式土器AI による概要
宮之迫式土器(みやのさこしき)は、鹿児島県曽於市の宮之迫遺跡(みやのさこいせき)で出土した、縄文時代中期後半〜後期前半の土器です。
太型凹線文(太い沈線)や貝殻条痕文が特徴で、口縁部が山形に波打つ深鉢形が多く、九州東南部の指標的土器として位置づけられています。
宮之迫式土器の主な特徴
・出土遺跡: 鹿児島県曽於市末吉町二之方の宮之迫遺跡。
・時代: 縄文時代中期後半から後期前半。
・形状・文様:
・深鉢形が主体。
・口縁部(くちべり)が3〜7つに山形に突起する。
・器面に指先や棒で太い沈線を描く「太形凹線文」。
・貝殻の縁を押し当てて描いた「貝殻条痕文」。
・評価: 九州東南部の縄文時代中期・後期の変遷を知る上で重要な指標となっている。
・文化財: 出土した完形に近い土器21点は、曽於市の市指定文化財(考古資料)に指定されている。
この遺跡では、多量の土器のほか、石錘、石斧、石皿などの石器も出土している。 |
鉢形土器
縄文時代中期
田野町(本野原遺跡) |
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磨消縄文系土器
縄文時代後期
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この土器は、瀬戸内で作られ、宮崎に持ちこまれたようです。
田野町(本野原遺跡)
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黒色磨研土器
縄文時代晚期
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磨いて薄く仕上げられ、西日本のほとんどで作られていました。
田野町(本野原遺跡)
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257
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土器圧痕から見つかった虫たち
土器を作るときに粘土に混ざった虫などの痕跡を 「土器圧痕」といいます。 |
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土器圧痕から見つかった虫たち
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コクゾウムシの圧痕です。 100匹以上見つかりました。 ドングリを食べていたようで す。 |
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ゴキブリの卵の圧痕です。今のところ、 国内最古のゴキブリの痕跡の発見例です。 |
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270
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松添遺跡は、現在の 「青島歴史文化の広場」 を含む一帯の砂地に広がる遺跡です。
これまで9回の発掘調査が行われ、 縄文時代後期の終わりから晩期 (約3,000年前~ 約 2,700年前) の遺跡であることがわかりました。
貝や骨などをまとめて捨てた跡も発見され、 イシダタミやレイシなどの貝殻、 マグロやクジラ、イノシシやシカなどの骨が確認されました。 この遺跡にくらした人々は、
海や山でいろいろな食料を得 ていたと考えられます。 |
貝塚があった松添遺跡
―食べ物を求めて海に山に― |
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松添遺跡
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松添遺跡
遺跡位置
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食べていたもの |
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食べていた物
山の生き物
シカ
ウサギ
イノシシ
アナグマ
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海の生き物 ウニ
イシダイ
レイシガイ
スズキ
イシダタミ
スガイ
マグロ
アカウミガメ
クロダイ
アカエイ
クジラ
フグ
ブリ |
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400 弥生時代
活発な地域間交流
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活発な地域間交流
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401線刻画土器
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子どもさん向けかいせつポイント
バンくん
これは何だろう?
弥生時代の『絵画土器」という土器だよ。
鄉遺跡 (宮崎市下北方町)から出てきた、ヘラで刻んでえがかれている土器だよ。
1つの穴からあと18個もの絵画土器といっしょに見つかったんだ。
◆いろんな 「説」 があるんだけど、君は何が見えるかい?
➀カエル ②魚 ③人間 ④龍 ⑤水草 ⑥??
ハニィ |
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絵画土器 弥生時代後期
ヘラ状の工具で絵画が描かれた壺で、貯蔵穴に並べられた状態で出土しました。 描かれているのは、人物の顔や龍、 または魚や水草といった水辺の風景など、様々な意見があります。
下北方町 (下郷遺跡) 宮崎市指定文化財 |
絵画土器 弥生後期
下北方町(下郷遺跡)
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絵画土器
弥生後期
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絵画土器に描かれてるもの
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411
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弥生のはじまり
―農耕が列島を変えた―
約3,000年前から2,700年前、 それまで狩猟や採集をしてくらしていた日本列島に、 稲作を伴う 農耕文化が朝鮮半島から伝わりました。
最初に北部九州へと伝わった農耕文化は、数100年をかて日本列島の各地へ広がっていきました。
弥生時代を通して、 金属器やガラス製品といった新たな道具や、農耕に関する祭祀といった 様々な情報や思想が大 陸から流入し、 社会が 大きく変わっていきます。 |
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弥生のはじまり
-農耕が列島を変えた-
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下郷遺跡の全景
下北方町 |
下郷ムラのようす |
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413宮崎平野の弥生文化
―遅れた金属器の普及―
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宮崎平野では、水田や環濠集落、 鉄の道具、 祭り
の道具といった遺物や遺構が見つかっています。
しかし、 弥生文化を代表する青銅器はこれまで小さ
な鏡の破片 (破鏡) の出土がほとんどで、 銅鐸や武
器形青銅器はまだ見つかっていません。 |
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415弥生の石器
弥生の石器 |
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柱状片石斧
弥生時代後期
桜町(桜町遺跡) |
木を削り加工する道具で、 柄に差し込むための凹みがみられます。 |
磨製石包丁
弥生時代後期
下北方町 (下郷遺跡)
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稲を刈り取る道具で、両端に抉りを持つ形は瀬戸内地方と共通です。 |
石鏃
弥生時代中期~後期
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右:磨製石鏃(下鄉遺跡)
左:打製石鏃(中/原第2遺跡)
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海でつながる宮崎と瀬戸内
―大海原へ漕ぎ出す宮崎人―
弥生時代の中期には、海でつながる交流が活発になり始めます。 宮崎平野を中心 として、南九州各地に四国や瀬戸内で作られた土器がもたらされます。
それらの中でも、伊予 (松山平野) あたりで作られたとみられる凹線文土器が多数みられるのが 特徴です。 また、 四国や瀬戸内の遺跡でも、 南九州で作られた土器が出土し、この時 期には南九州と四国や瀬戸内との間で人やモノの移動が行なわれていたことがわかります。 |
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海でつながる宮崎と瀬戸内
-大海原へ漕ぎ出す宮崎人-
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弥生中期における交流ルートと瀬戸内出土の南九州系土器】
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宮崎平野の日常土器 弥生時代中期
宮崎平野で一般的に使われていた煮炊き用の甕です。
大分や鹿児島からの影響を受けながら、 宮崎平野独自の土器を作っています。
細江 (椎屋形第1遺跡)
旭1丁目 (宮崎小学校遺跡)・
清武町 (須田木遺跡) |
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437
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451
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広域交流の時代
-瀬戸内海のさらに奥へ-
弥生時代の後期になると、 海でつながる地域間交流はさらに広がります。 宮崎平 野では、中期に多数見られた伊予の土器が少なくなり、代わりに吉備
(岡山平野) や近畿地方の土器を真似して作った土器が多数見られるようになります。
弥生時代後期から終末期にかけては、こうした広域交流を背景として、各地で同 じような土器を作りはじめるなど、 個性的だった各地の弥生文化が似かよっていく ことがわかります。 |
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453
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中部瀬戸内系の甕
弥生時代後期
下北方町(下郷遺跡) |
現在の岡山県あたりの土器をまねて作られた甕です。
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近畿系の甕
弥生時代後期
下北方町 (下郷遺跡)
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現在の近畿地方の土器をまねて作られた甕です。 |
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近畿系の壺
弥生時代後期
下北方町 (下郷遺跡) |
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現在の近畿地方の土器をまねて作られた壺です。 |
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瀬戸内系の器台
弥生時代後期
下北方町(下郷遺跡)
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現在の瀬戸内地方の土器をまねてつくられた器台。 |
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470
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首長の登場
―邪馬台国時代のリーダーたち―
弥生時代に広域化した地域間交流によって、各地の弥生社会は成熟していきました。
地域のリーダー(首長) の力が突出しはじめ、 西日本の各地で厚葬墓とよばれる墓が造られるようになり、 身分の差が明確になっていきます。
そして、3世紀中ごろに近畿地方でヤマト政権が形成されると、日本列島の各地で前方後円墳を中心とした大型古墳が造られるようになります。 |
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石ノ迫第2遺跡周溝墓
古墳時代の初めに造られた墓で、 鉄剣が副葬されています。
埋葬されているのは前方後円墳が造られるようになる直前の大淀川下流地域のリーダー (首長)と考えられます。 |
石ノ迫第2遺跡周溝墓 |
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遺体が埋葬された土坑
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鉄剣の出土状況
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500古代
郡衙と古代寺院
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501
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素弁八葉蓮華文軒丸瓦
古代 (奈良~平安時代)
軒先に用いられる丸瓦で、 蓮の花の模様が特徴です。
同じ、または似た「型」で作られた軒丸瓦が西都市や大分市で出土していて、瓦の製作技術が九州の東沿岸沿いを伝わってきたことがわかります。
下北方町 (下北方塚原第2遺跡) |
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子どもさん向けかいせつポイント
バンくん
これは何だろう?
平安時代のお寺の屋根の「かわら」だよ!
下北方塚原第2遺跡 (宮崎市下北方町) から見つかったもので、キレイなハスの花がえがかれているよ!
平安時代に『かわら』 を使うたてものはお寺と役所だけ。
あと、同じ「壁」(かわらを作るためのワク)や似た「型で作られた『かわら』 が西都市や大分市にもあるんだ。 |
平安時代のお寺の屋根のかわら
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511
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日向国の始まりと宮崎市
―「つくられた」地域のかたち―
飛鳥時代になると天皇を中心とする国づくりが進められ、その後、国、郡、郷、里という行政単位が用いられるようになりました。 宮崎県は日向国とよばれ、
その中心である国府は現在の西都市にあり、 その下に臼杵郡、 児湯郡、 那珂郡、 宮崎郡、諸縣郡が設置されました。
現在の宮崎市は那珂郡 宮崎郡、諸縣郡の一部に含まれていたようです。 特に宮崎郡は江田神社周辺から日南市飫肥にかけての海沿いの範囲であったとされ、
その中心は現在の宮崎市のどこかに存在したと考えられます。 |
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郡衙と古代寺院 |
日向国の始まりと
宮崎市
-「つくられた」地域のかたち-
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古代日向の行政単位 |
江田神社 |
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古代日向の郡域想定図 |
臼杵郡 |
児湯郡 |
諸縣郡 |
宮崎郡 |
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513
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市内の古代遺跡
古代 (奈良~平安時代)
市内には、多くの古代の遺跡があり、 集落のほか寺院や窯跡などが確認されています。
これらの調査成果から、当時の宮崎市の人々の暮らしの様子を知ることができます。
市内各所 |
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市内の古代遺跡
古代 (奈良~平安時代) |
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円面硯
古代(奈良-平安時代)
佐土原町上田島
(古城第2遺跡) |
脚台のついた硯です。 上面の平らな部分で墨を磨っていました。
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長沙窯瓷
古代(平安時代)
桜町 (桜町遺跡) |
瓶の破片で中国からの輸入品です。
男性らしき人物が描かれています。
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515
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517
坏
古代 (平安時代)
佐土原町下那珂
(下村窯跡)
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この坏は、8から9世紀にかけての窯跡で作られました。
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531
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見つかった古代寺院
-下北方塚原第2遺跡の調査からみえてきたもの-
平成21(2009)年に行った下北方塚原第2遺跡の発掘調査で、 平安時代 (9世紀後半ごろ)の大型の掘立柱建物跡が2棟見つかりました。
この2棟の建物が整然と並び、 そのうち1棟が瓦葺であること、 灯明皿や水注、墨が付いた土器が出土したことから、 古代寺院であったと考えられます。
伽藍配置など不明な点が多いも のの、 宮崎市で初めて確認された古代寺院として重要です。 となりの遺跡では 「寺」の墨書が ある土器も出土しています。 |
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見つかった古代寺院
-下北方塚原第2遺跡の調査からみえてきたもの-
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遺跡の位置 |
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掘立柱建物跡の配置 |
見つかった柱穴 |
掘立柱建物跡2の遺物出土状況
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533古代寺院に関する遺物
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535
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古城第2遺跡仏教関連遺物
古代 (奈良~平安時代)
ーツ瀬川河口近くにあるこの遺跡は、古代の瓦や須恵器を作る集団の集落と考えられます。 多くの仏教関連遺物が出土していて、 西都市にある国分僧寺との関連が注目されています。
佐土原町上田島 (古城第2遺跡) |
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古城第2遺跡仏教関連遺物
古代(奈良-平安時代)
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香炉
古代(奈良時代)
佐土原町上田島
(古城第2遺跡 |
須恵器香炉の蓋でつまみ部分の破片です。三段のかえりがみられます。 |
「金光」 刻書土器
古代(奈良~平安時代)
佐土原町上田島
(古城第2遺跡) |
「金光明四天王護国寺 (国分僧寺)」を示す 「金光」の文字がみられます。
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中空円面硯
古代 (奈良時代)
佐土原町上田島
(古城第2遺跡)
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把手付の硯で、 内部は空洞です。波のような模様が描かれています。
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鉄鉢形土器
古代 (奈良時代)
佐土原町上田島
(古城第2遺跡) |
僧尼が使っていた器です。 屈曲した口縁部、 尖った底部が特徴的です。
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軒平瓦
古代(奈良時代)
佐土原町上田島
(古城第2遺跡)
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軒先に使っていた瓦です。 先端部には唐草の文様が付けられています。
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550 |
551
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郡衙はどこに?
-古代宮崎郡の中心地 下北方-
下北方塚原第2遺跡のある下北方丘陵では、下北方下郷第 4遺跡でも一列に並んだ大型の柱穴が見つかっています。
ほかにも郡衙(郡の役所)の周りでよく見られる遺物も出土しています。
また、 『宇佐大鏡』 などの内容や、 全国的にも古代寺 院と郡衙は近くにあることが多いことから、 宮崎郡衙が下北方町にあった可能性はかなり高いと考えられます。
古代の下北方丘陵は宮崎郡の中心であり、 郡衙や寺院などが立ち並び、人々が行きかう場所だったと想像できます。
※『宇佐大鏡』AIによる 「宇佐大鏡」、正式には「八幡宇佐宮御神領大鏡」は、鎌倉時代前期に宇佐神宮(大分県)が作成した神領・荘園の目録です。建久8年(1197)頃の成立とされ、九州全域にわたる宇佐宮領の構成、構成員、年貢の額などを記録した、中世荘園制研究の最重要史料です。
詳細情報
・内容: 宇佐神宮の社領(三国七郡御封、十箇郷三箇庄、本御庄十八箇所、全国の散在常見名田)を分類・記録しています。
・歴史的価値: 中世の九州地方における社寺の荘園支配の実態を示す貴重な「大鏡」史料。
・所蔵: 到津文書(『大分県史料』)などに収録されています。
なお、歴史物語の『大鏡』とは別物です。 |
郡衙はどこに?
-古代宮崎郡の中心地
下北方-
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古代寺院の跡に建つ
景清廟
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下北方丘陵の主な古代遺跡
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553
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下北方町の官衙関連遺物 古代 (奈良~平安時代)
下北方町では、文字を書ける人の存在を物語る墨書土器やコップ形須恵器、 金属製品製作関連遺物、 貴重な緑釉陶器が出土しています。
これらは、当時の役所や関連施設で使われていたと考えられます。
下北方町各所 |
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下北方町の
官衙関連遺物
古代(奈良-平安時代)
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墨書土器
古代 (平安時代)
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墨で文字がかれた土器です。
「生」や「崎」らしい文字がみられます。
下北方町 (下北方塚原第1遺跡) |
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コップ形須恵器
古代 (奈良時代)
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古代に計量器として使っていました。
口縁部の一部が曲げられています。
下北方町(下北方下郷第4遺跡)
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緑釉陶器
古代 (平安時代)
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高級陶器として流通し、各地の拠
点的な施設の周辺から出土します。
下北方町 (下北方下郷第8遺跡) |
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フイゴ羽ロ、銅滓
古代 (奈良-平安時代) |
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金属製品製作に使っていたフイゴの羽口と、排出された不純物です。
下北方町
(下北方塚原第2遺跡)
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金床石、 敲石
古代(平安時代)
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鍛冶作業の際に使っていた加工具です。 表面が焼けて変色しています。 下北方町
(下北方塚原第1遺跡) |
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570
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荘園の開発と武士の活躍
-うつろいゆく社会と地域-
全国各地に大規模な荘園が成立した平安時代以降、宮崎市でも 宇佐八幡宮領や八条女院領、 島津荘など大規模な荘園が出現しました。 これらの荘園の管理を担っていた土持氏や島津氏などの武士たちが力をもつようになり、宮崎市も彼らが活躍する時代に移り変わっていきました。
この時代の遺跡としては、 発掘調査が行われた新別府町の池開・江口遺跡や田吉の下鶴遺跡などがあります。 |
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荘園の開発と武士の活躍
-うつろいゆく社会と地域-
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下鶴遺跡
八重川河口付近にある12世紀から14世紀を中心とする遺跡です。 輸入陶磁器や、 国内で広く流通する陶器、 瓦器など が出土しました。
八条女院領 の開発との関連が想定され、注目される遺跡です。 |
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600中世
上井覚兼と中世山城の世界
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601
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龍泉窯系青磁碗 中世(鎌倉・室町時代)
墓と考えられる穴から出土した青磁の碗で、外面は蓮の花をかたどっています。 中国の浙江省で作られた龍泉窯系青磁は、 12世紀後半から16世紀中ごろにかけて日本に多く輸入されました。
高岡町 (高岡麓遺跡第33地点) |
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子どもさん向けかいせつポイント
バンくん
これは何だろう?
鎌倉~室町時代に中国からやってきた『おわん』だね。
◆高岡麓遺跡第33地点(宮崎市高岡町)から見つかった、中国の龍泉窯で作られた 『おわん』 です。 横から見ると、ハスの花びらがぷっくりとうかんでいるのがわかるんだ。
◆この時代、中国からこうした「焼きもの」やお金(小銭)などが船で日南や串間などの港に運ばれてきたよ。
ハニィ |
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611
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山城の時代
-宮崎には多くの城があった-
武士たちが争い合う14世紀半ばから16世紀には、全国に多くの山城が築かれました。
日向国の中原とも表現される宮崎平野では、この時期伊東氏や島津氏などがその覇権をかけて争奪を繰り広げていました。 そのため、市内の丘陵にも多くの山城が築かれています。 |
伊東四十八城 |
戦国時代の後半、 都於郡城 (西都市)を本拠とする伊東氏は日向国の大半を支配しました。
その領国内の山城は伊東四十八城とよばれ、 全盛期におる伊東氏の勢力範囲を表しています。 |
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穆佐城跡
穆佐城は、やわらかいシラス土壌につくられた大規模な空堀と、 敵の侵入を防ぐ垂直に近く削られた斜面、 高さに大きな差のない横並びの曲輪で構成されています。
このような山城は、 南九州の群郭式城郭とよばれています。 |
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群郭式城郭 AI による概要
群郭式城郭(ぐんかくしきじょうかく)は、シラス台地などの高台に、空堀で区切られた独立性の高い複数の曲輪(くるわ)が並立・林立する城郭構造。特に鹿児島県や宮崎県の「南九州型城郭」に見られ、知覧城が代表例。中心的な主郭を特定しにくく、自然地形(ガリ地形)を活かした防御が特徴。
群郭式城郭の特徴
・構造: 独立した複数の曲輪が空堀で隔てられて林立する。
・地形: シラス台地の侵食谷(ガリ)を天然の空堀として利用。
・特徴: 1つの「主郭(本丸)」が明確でなく、同程度の規模の曲輪が点在する「多郭式」の一種。
・地域性: 主に南九州(鹿児島・宮崎)の中世城郭に見られる形式。
代表的な城郭
・知覧城(鹿児島県): 南九州型群郭式の典型的な構造を持つ国指定史跡。
・恒吉城(鹿児島県): 南九州特有の城郭。
他の城郭形式との違い
・輪郭式: 本丸を中心に二の丸、三の丸が同心円状に囲む形式。
・連郭式: 本丸、二の丸、三の丸が直線的に連続する形式。
・梯郭式: 本丸を防御の最も厳しい場所に配置し、その片側に曲輪を配置する形式。
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輸入陶磁
中世
主に中国でつくられた陶磁器です。 14世紀後半以降、沖縄から鹿児島を経て、 宮崎の沿岸部を通る輸入ルートが成立したため、 市内の遺跡でも中国製の陶磁器が多く出土するようになります。
市内各所
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青磁
中世(室町時代)
「大」の字は中国で出荷時に書かれたと考えられています。
新別府町 (池開・江口遺跡)、 高岡町 (高岡麓第28地点)
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青白磁合子
古代~中世 (平安時代~鎌倉時代)
蓋と身がセットの小さな容器の蓋の部分です。
高岡町 (高岡麓遺跡第33地点) |
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青花 中世(室町時代)
国外産の染付です。 「壽」 の字や巻貝が描かれています。
田吉 (下鶴遺跡)、 新別府町 (池開・江口遺跡) |
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宮崎城の歴史と構造
-日向国の中心となった大型山城- |
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宮崎城跡は、宮崎市池内町と上北方に広がる大型の山城です。
南北朝時代 (1334~ 1392年) の史料にも記された県内でも古い歴史を持つ城のひとつで、 室町時代から江戸時代のはじめごろにかけてつづく動乱のなか、
伊東氏、 島津氏、 高橋氏、 有馬氏と 城主が移り変わります。
特に安土桃山時代には、島津氏老中の上井覚兼の居城として、日向国における政治や軍事の重要な拠点となりました。 |
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宮崎城の歴史と構造
-日向国の中心となった大型山城- |
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【宮崎城跡縄張図]
政治を行う主郭(Ⅰ)の両脇に上級武士が居住する屋敷地 (Ⅱ,Ⅲ)があり、さらにその外側に土塁や櫓台で防御を固めた戦闘に特化した曲輪(Ⅴ,Ⅷ)があります。
それぞれの曲輪の役割が明確で、バランス良く左右対称に配置されています。 |
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【宮崎城跡縄張図]
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平成29・30年度、 主郭をはじめいくつかの曲輪で遺構の保存状態を確認する発掘調査を実施しました。 |
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市内中世遺跡出土遺物
中世
市内の中世の遺跡からは、 備前 (岡山県) や播磨(兵庫県) などで作られ国内に流通していた陶器や、 漁労などの生業に関するもの、
また、 当時の信仰に関するものなど多彩な遺物が出土しています。
市内各所 |
市内中世遺跡出土遺物 |
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瓦器碗
中世(鎌倉時代)
燻して作られた器です。
内面はミガキで整えられています。
田吉(下鶴遺跡) |
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東播系鉢
古代~中世 (平安時代~鎌倉時代)
調理に使う鉢で、兵庫県を中心とする地域で作られました。
田吉(下鶴遺跡)
備前系擂鉢
中世(室町時代)
岡山県を中心とする地域で作られ、広く全国に流通しました。
新別府町(池開・江口遺跡) |
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東播系鉢
古代~中世(平安時代~鎌倉時代)
調理に使う鉢で、兵庫県を中心とする地域で作られました。
田吉(下鶴遺跡) |
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一字一石経
中世(室町時代)
石のひとつひとつにお経の一字や梵字が書かれています。
源藤町 (源藤遺跡) |
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土錘
中世
魚を採る網に付けられた大型の錘です。
新別府町(池開・江口遺跡) |
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上井覚兼日記
-わかります。宮崎城主が過ごした日々-
宮崎城主の上井覚兼が書いた『上井覚兼日記』 は、当時の政治や軍事、教養や文化など様々な内容が記された安土桃 山時代研究の一級資料です。
日記からは覚兼が島津氏の重臣として多忙な日々を送っていたことがわかります。 また、風呂に入って酒宴をし、茶の湯や囲碁、将棋など余暇を楽しむ戦国武将の一面を知ることができます。 |
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宮崎城跡出土遺物
中世~近世初頭 (室町時代~江戸時代初頭)
平成29・30年度におこなった宮崎城跡の発掘調査で出土したものです。
出土遺物の半分ちかくが輸入陶磁で、 他にも火縄銃の玉や瓦など当時の最新技術で作られたものが出土しました。
池内町 上北方 (宮崎城跡) |
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天目
中世~近世初頭 (室町時代~江戸時代初頭)
当時の武家社会で流行していた茶の湯で使っていた茶碗です。
宮崎城跡 [曲輪I・II・III出土] |
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魚形水滴
中世~近世初頭 (室町時代~江戸時代初頭)
華南彩という中国からの輸入品で、硯に水を入れる道具です。
宮崎城跡 [曲輪I (主郭) 出土] |
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青磁・白磁・青花
中世~近世初頭 (室町時代~江戸時代初頭)
主に15・16世紀の輸入陶磁です。
宮崎城跡 [曲輪Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ出土] |
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土師器坏
近世初頭 (安土・桃山時代 ~ 江戸時代初頭)
飲酒での武家儀礼に使っていた素焼きの盃です。
宮崎城跡 [曲輪I (主郭) 出土] |
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火縄銃の玉
中世~近世初頭 (室町時代~江戸時代初頭)
鉛でできた弾丸で、 3匁玉と呼ばれています。
宮崎城跡 [曲輪Ⅱ・Ⅲ出土]
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碁石
中世~近世初頭 (室町時代~江戸時代初頭)
『上井覚兼日記』にも囲碁の場面が多く書かれています。
宮崎城跡 [曲輪I・III出土] |
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瓦
近世初頭 (安土・桃山時代 ~江戸時代初頭)
高橋氏の支城であった時期のものと考えられます。
宮崎城跡 [曲輪I (主郭) 出土・表採 ] |
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宮崎城落城
―飛び火した関ヶ原の合戦―
慶長5 (1600)年の関ヶ原の合戦に連動し、 日向国では宮崎城を巡る戦いが起こりました。 東軍方である伊東氏の重臣稲津重政は、西軍方の高橋氏の重臣権藤種盛が守る宮崎城を攻め、
宮崎城は落城、 種盛も戦死しました。
しかし、 大垣城 (岐阜県) に籠城していた高橋元種は、この時点で東軍方に寝返っていたため、 結果的に宮崎城の戦いは東軍の同士討ちになってしまいました。
伊東氏は宮崎城の占拠を続けましたが、 徳川家康の裁きによって高橋氏に返されました。 |
宮崎城落城
-飛び火した関ヶ原の合戦- |
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稲津重政の墓
〈清武城跡> |
権藤種盛の墓
<宮崎市直純寺>
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重政は宮崎城落城に始まっ た一連の騒動の責を負わされ、主家の伊東氏の軍勢に 囲まれるなか清武城で切腹しました。
のちに日向灘を通る伊東氏の船に事故が相次ぎ、 悲憤のうちに果てた重政の祟りだとして、 海の方を向いていた墓の向きを変えたという言い伝えがあります。 |
稲津重政 相関図 |
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700近世
発掘された武士たちの生活
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701
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佐土原人形
近世 (江戸時代)
佐土原人形は、京都の伏見人形の伝統を受け継いで作られ始めたといわれています。 城下町での発掘調査で見つかったこの資料は、 佐土原人形の製作が江戸時代まで遡る重要な証拠です。
佐土原町 (佐土原城跡第6次調査) |
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子どもさん向けかいせつポイント
バンくん
これは何だろう?
江戸時代の武士の屋敷から出てきた 「佐土原人形」さ!
◆佐土原人形は、 佐土原町でむかしから作られてきた伝統的な土人形。首や手といったパーツを本体にさしこむスタイルのものもあるよ。
◆武士のお屋敷から発見されたということは、武士がお家にかざってながめていたのかも!?
「まんじゅうくい人形」が有名やつちゃが
ハニィ |
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710
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藩領と武家集落
- 宮崎平野に設けられた支配の拠点-
江戸時代の宮崎市は、幕府領と5つの藩領に分かれ支配されていました。
幕府領が本格的におかれたのは、 延岡藩主の有馬氏が糸魚川 (新潟県)に転封となった元禄5(1692)年で、その後は延岡藩主の交代に伴い、 領域を増減させました。
佐土原藩は城下を中心に、 城下が遠い藩はこの地域に地方拠点をおき、領内の支配を行いました。 |
藩領と武家集落
-宮崎平野に設けられた支配の拠点- |
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【藩領・武家集落図】
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鹿児島藩
■藩主島津氏
■石高 729,000石余
ふもと
□拠点: 麓集落
とじょう
地方の行政区域 「外城」には、
域内を支配するため地頭と
しゅうじゅう
武士 (衆中)がおかれた。
宮崎市域では、 高岡・穆佐・
倉岡の麓に武家集落が形成 された。 |
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佐土原藩
■藩主島津氏
■石高 27,000石 (旗本領
3,000石分知以降)
□拠点: 城下町
佐土原城北側に形成された 城下町。
武家屋敷と町屋が 広がり、 明治2(1869)年の
広瀬転城までの間、藩の政治・経済の中心であった。 |
延岡藩
■藩主 高橋氏有馬氏- 三浦氏-牧野氏内藤氏
■石高 70,000 石 (内藤氏 時代)
□拠点: 宮崎代官所
宮崎郡村々の支配のため下北方村におかれた。
内藤氏 時代には、代官勘定人のほか、現地で採用された手代郷組が詰めた。 |
飫肥藩
■藩主 伊東氏
■石高 57,000 石余
□拠点: 中野の武家集落 拠点となる郷には地頭を配置し領内を支配した。
清武町中野地区には、今も鉄砲・ 弓足軽衆の武家集落の景観 が残る。 |
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武家諸法度 (写)
延享3 (1746)年代々の将軍が、 就任後に諸大名に示した江戸幕府の基本法です。 諸大名もこの法にならい家臣たちを統制したため、 事実上、
武家身分すべての法として位置づけられました。 史料は、 9代将軍徳川家重の代のものです。 |
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730
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佐土原藩の武家社会
-武士の家格と城下町の住まい-
佐土原藩領は、 城下と5つの外城に分かれ、それぞれに藩士が配置されていました。
城下には、主に家格が高い上級家臣が置かれ、 それぞれ追手口・鴨之口・野久尾口・十文字、いわゆる 「四口」 のいずれかに住み、藩の仕事をしていました。
藩士の家格には、 一門、 寄合、 騎馬 中小姓、 歩行、 小頭、 足軽があり、 家格に応じつける役職が決まっていました。 また、 城の正面の追手口に家格が高い一門、
寄合、騎馬を配置するなど、 城下の屋敷割も家格が影響していました。 |
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佐土原藩の武家社会
-武士の家格と城下町の住まい- |
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【佐土原藩(四)の屋敷割】
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砂土原藩分限帳
近世(江戸時代)
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分限帳は、藩士の家格や名前、石高を記した帳簿です。 |
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墨書のある陶器
近世 (江戸時代)
器の底に墨で文字が書かれた陶器が出土しています。
その中には、商人が注文主の名前を書いたものや、武家の食器の収納場所が記されたものがみられます。
佐土原町 (佐土原城跡第6次調査) |
墨書のある陶器
近世 (江戸時代) |
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佐土原藩士の分限帳
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佐土原藩士の分限帳
近世 (江戸時代)
分限帳は、藩士の家格や名前、石高を記した帳簿です。 |
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佐土原城跡第6次調査
-家老屋敷を掘る-
佐土原城跡第6次調査地点は、 「佐土原御城下細見之図」 によると、 寄合である渋谷氏と騎馬の郡司氏の屋敷があった場所でした。
発掘調査の結果、 両家の屋敷地を区画する溝や建物の跡、 井戸などが見つかり、 また佐土原人形など、当時の道具が多数出土しました。 中でも「渋谷」 「渋氏」 と書かれた木札や陶磁器はこの絵図の正確さを証明する重要な手がかりとなりました。 |
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佐土原城跡第6次調査
-家老屋敷を掘る- |
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木札(きふだ) |
池・厠・井戸 |
池・厠
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ジオラマ
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佐土原藩家老の渋谷氏
―佐土原藩士の格付けランキング―
佐土原藩の寄合は、 家老や若年寄の役職を勤め、 勝手奉行や外城の地頭職を兼ねていました。
初代佐土原渋谷氏当主の忠元は、 2代藩主島津忠興の妹の養子となっており、 藩主との戚関係も認められます。 また、藩士の俸禄を記録した分限帳には
「寄合」 「三百石」 「渋谷直記」と記載されており、幕末の当主である渋谷直記も家老職を務めていたことがわかります。 |
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佐土原藩家老の渋谷氏
-佐土原藩士の格付けランキング- |
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白薩摩の土瓶と境
近世 (江戸時代)
佐土原町 (佐土原城跡第6次調査) |
京焼色絵陶器皿
近世 (江戸時代)
佐土原町 (佐土原城跡第6次調査)
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有田焼大皿
近世 (江戸時代)
佐土原町 (佐土原城跡第6次調査) |
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硯と水差
近世 (江戸時代)
佐土原町 (佐土原城跡第6次調査)
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簪
近世 (江戸時代)
佐土原町 (佐土原城跡第6次調査)
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カンテラ
近世(江戸時代)
ランプです。
油を入れ、火をつける芯を先の方にさしました。
佐土原町(佐土原城跡第6次調査) |
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790
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宮崎市の武家集落
―今に残る武家社会の面影―
宮崎市では、 佐土原城下以外にも鹿児島藩の麓集落である高岡麓で発掘調査が行われています。 そこでは当時の建物跡や井戸などの遺構が見つかり、陶磁器も多数出土しています。
また、 武家屋敷の門の一部は市の指定文化財として保存されています。
その他にも清武町中野地区では飫肥藩清武郷の武家集落の区画や石垣が現在も残っており、当時の面影を見ることができます。 |
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宮崎市の武家集落
-今に残る武家社会の面影-
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高岡麓遺跡第22地点
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中野の武家集落
(清武町)
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高岡麓 (高岡町)
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穆佐麓 (高岡町)
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1000展示室 2
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1000横穴墓
下北方5号
地下式横穴墓の世界
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1010地下式横穴墓 |
1011下北方5号
地下式横穴墓の世界
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1012
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地下式横穴墓の分布と起源
-開かれた九州南部の古墳時代社会-
地下式横穴墓とは、 古墳時代中期から終末期 (5世紀~7世紀) の墓の形態で、 九州南部の宮崎平野、 肝属平野、 霧島山麓を中心とする範囲に分布します。
この地下式横穴墓は、古墳時代中期に朝鮮半島との交流の結果九州各地で広まった横方向に入り口を設ける横穴系埋葬施設の一種で、南九州で造られています。 |
【地下式横穴墓の分布】
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地下式横穴墓の分布 |
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横穴墓文化の移民たちは、随分と固まって入植したようです。誰かが居住地を限定したようです。
それとも、先に入植した者が、次々と仲間を呼び込んだのでしょうか。 |
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1014
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地下式横穴墓の構造と葬られた人々
-地域に浸透する地下式横穴墓-
地下式横穴墓の構造は、地表面から地下に向かって掘った竪坑、 竪坑から横方向に掘った羨道(通路)、
その先にある玄室 (遺体を納める空間)からなります。
地下式横穴墓は、形態や規模、副葬品の種類や量、造られる位置などが様々であることから、
九州南部社会でいろいろな地位や役割を担った人々に受けいれられたことが考えられます。 |
地下式横穴墓の構造と葬られた人々
-地域に浸透する地下式横穴墓-
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【地下式横穴墓の構造】
埋葬後の玄室は、地下に空間として保たれた状態になっています。 玄室に遺体や副葬品を納めた後は、羨道を塞ぎ竪坑を埋め戻す、 あるいは竪坑の上部を塞ぐ方法があり、それには板や石などが用いられます。 |
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1016
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下北方古墳群とは?
―古墳時代中期に出現する首長墓系譜―
下北方古墳群は宮崎市下北方町一帯に所在します。周辺は、大淀川による河川交通や陸上交通の重要地点でもあります。
古墳群は大淀川の対岸にある生目古墳群と入れ 替わるように古墳時代中期前半 (5世紀前半) から 造られはじめました。
この古墳群では、 宮崎市で初めて円筒埴輪が用いられ、 13号墳などからは県内でも珍しい形象埴輪が出土し、 また、 多くの地下式横穴墓も調査されています。 |
下北方古墳群とは?
-古墳時代中期に出現する首長墓系譜-
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下北古墳群分布図
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下北方13号墳墳頂部
下北方1号墳
下北方3号墳
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北方13号墳墳頂部
下北方1号墳
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下北方1号墳
下北方3号墳
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1017
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下北方5号地下式横穴墓の調査
―調査日誌で振り返る発掘調査― |
下北方5号地下式横穴墓の調査
-調査日誌で振り返る発掘調査- |
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下北方5号地下式横穴墓は、 昭和 50(1975)年7月、 植木植栽地の造成中に地面が突然陥没し見つかりました。
今も残る当時の調査日誌には、貴重な遺物が多く出土した驚きや調査の様子などがくわしく記されています。 |
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1018
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下北方5号地下式横穴墓の構造
―墳丘を有する最大級の地下式横穴墓―
下北方5号地下式横穴墓の玄室は奥行きが 5.5mあり、これまで確認されている地下式横穴墓の中でも最大級です。
川原石が敷き詰められた玄室の中には遺体を安置する区画が設置され、さらに壁面は赤く塗られていました。
玄室は下北方9号墳(円墳)の下にあります が、発掘調査により下北方9号墳はこの地下 式横穴墓のために造られたものである可能性 が極めて高いことが確認されました。 |
北方5号地下式横穴墓の構造
-墳丘を有する最大級の地下式横穴墓- |
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下北方9号墳と5号地下式横穴墓 |
下北沢5号地下式横穴墓実測図
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下北方5号地下式横穴墓玄室
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1100甲冑
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小札鋲留眉庇付冑
古墳時代中期
頭頂部のお椀のような飾りと眉庇という帽子のつばのような装飾が特徴です。
小さな鉄製の札を鋲で留めて作られているため、この名称で呼ばれています。 古墳時代中期の日本列島で作られました。 国指定重要文化財 |
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横矧板鋲留短甲
古墳時代中期
帯金、 竪上板、 押付板、 裾板という横長鉄板で作られた枠組みに、 地板と呼ばれる大型の横長鉄板が鋲で留められた鉄製のよろいです。
右前胴の4分の1を開閉して身に着けます。
国指定重要文化財 |
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三角板鋲留短甲
古墳時代中期
帯金、竪上板、 押付板、 裾板という横長鉄板で作られた枠組みに、地板と呼ばれる三角形の鉄板を鋲で留めて作られた鉄製のよろいです。
右前胴の4分の1を開閉して身に着けます。
国指定重要文化財 |
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1200 |
1201
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副葬品の出土状況
―整然と並べられた品々―
副葬品はすべて玄室内から出土し、品目ごとにいくつかの区画に分けて配置されていました。
一部を除いて、概ね副葬当時の状況を保っているものと思われます。
こうした配置は、 埋葬された人物とのかかわりや埋葬儀礼の様子が反映されているものと考えられます。 |
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副葬品の出土状況
-整然と並べられた品々- |
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【下北方5号地下式横穴墓の遺物出土状況】 |
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鉄鏃,鉄鉾
袋状鉄斧,鉄鎌
三角板鋲留短甲
鉄鏃,頸甲
眉庇付冑
垂飾付耳飾(垂飾部) |
垂飾付耳飾(垂飾部)
三角板鋲留短甲
瑪瑙管玉
垂飾付耳飾(主環部)
銀装大刀
勾玉(紫水晶)
鉄剣4,鉄剣2
盤龍鏡,四獣形鏡
鞍金具
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盤龍鏡,四獸形鏡
鐙,鞍金具
轡·環状雲珠·杏葉
鉄刀1,鉄剣1,鉄剣3
馬鐸,三環鈴
横矧板鋲留短甲 |
馬鐸
横矧板鋲留短甲,
石突
́鉄鑿
有肩鉄斧
三環鈴
柄付手斧
鉤状鉄器
垂飾付耳飾  |
有肩鉄斧
石突
柄付手斧
鉤状鉄器
鉄鑿
垂飾付耳飾
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玉類
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横矧板鋲留短甲 |
馬具
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金製垂飾付耳飾 |
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1205
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希少な品々を保有する被葬者
―浮かび上がる人物像とは?―
出土した副葬品は多種多量であり、 宮崎県内の古墳出土資料では傑出した内容です。 同時期の全国各地に存在する有力古墳とも肩をならべる内容で、
全国的にも希少な品が多いことに注目できます。
金工製品や装身具などの副葬品は、 当時の最先端の文化や技術が反映された品々で、これらを入手できた下北方5号地下式横穴墓に葬られた人物像を考える手がかりとなります。 |
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希少な品々を保有する被葬者
-浮かび上がる人物像とは?-
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【下北方5号地下式横穴墓の副葬品】 |
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ガラス製品
半円形ガラス製品 9点
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玉類
石製勾玉 9点
石製管玉 27点
ガラス管玉 1点
ガラス丸玉 51点
ガラス小玉556点
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装身具
垂飾付耳飾2点
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青銅鏡
四獣形鏡 1点
盤龍鏡 1点
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下北方5号地下式横穴墓の副葬品 |
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武具
小札鋲留眉庇付胄1点
三角板鋲留短甲 1点
横矧板鋲留短甲 1点
頸甲 1点
小札肩甲 1点
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武器
銀装大刀 1点
鉄刀 1点
鉄剣 6~9点
鉄鉾 4点
石突 1点
鉄鏃 310片
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馬具
鑣轡 1点
木心鉄板張輪鐙 2点
鞍 1点
環状雲珠 1点
鉸具 3点
杏葉 3点
三環鈴 1点
馬鐸 1点
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農工具
柄付手斧 1点
有肩鉄斧 1点
袋状鉄斧 9点
鉄鎌 3点
鉄鑿 1点
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その他鉄器
鉤状鉄器 2点
鎹 10片
攝子 2点
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| 1210 |
1211
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小札肩甲
古墳時代中期
肩を守る防御具です。 これらは鉄製の小札と革製の部材が組み合わされた特殊な構造のものです。
鉄製小札の特徴から上部が革製部材、下部が鉄製小札という作りであったと考えられています。
国指定重要文化財 |
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鉄鏃
古墳時代中期
矢の先に取り付けられる矢じりです。少なくとも126本以上が出土し、形は大きく3種類に分けられます。
いずれも日本列島に長頸鏃という頸部の長い鉄が出現した初期の資料です。
国指定重要文化財 |
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鉄鉾
古墳時代中期
長柄で刺突用の武器です。 鉾身4点、 石突1点が出土しました。 この出土数は同時期の古墳では全国で7番目の多さです。 袋部が多角形とみられる個体は朝鮮半島とのかかわりが考えられます。
国指定重要文化財 |
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1213
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刀剣類
古墳時代中期
鉄刀2点、 鉄剣6ないし9点が出土しています。 同時期の古墳では出土数が多く、さらに銀装大刀や剣身の長さが100cmを超えるような長大な鉄剣が含まれていることが特徴です。
国指定重要文化財 |
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1215
鑣轡 |
鑣轡 |
鑣轡
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鑣轡
古墳時代中期
手綱を取り付けるための金具です。 馬に噛ませる銜、
手綱をつける引手、 銜がずれないようにする鹿角製の鑪、
鑪を面繋と連結する立聞金具からなります。
また、銜には軸をねじった痕跡が確認できます。
国指定重要文化財 |
木心鉄板張輪鐙 |
木心鉄板張輪鐙 |
木心鉄板張輪鐙
古墳時代中期
乗馬の際に足をかける器具です。 木製の芯の表面に鉄板が貼り付けられています。
上部の方形の孔に紐を通して取り付け、輪の部分に足を通して使っていました。
輪部には滑り止めの鋲がみられます。
国指定重要文化財 |
鉸具 |
鉸具
古墳時代中期
革紐の留め金具で、 馬具を連結する革紐を留めるために使っていたと考えられています。 3点の鉸具がどの場所に使われたかは分かりませんが、 革紐などの有機質が残っているものがあります。
国指定重要文化財 |
鉄装鞍
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鉄装鞍
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鉄装鞍
古墳時代中期
馬にのるための道具です。 木製の鞍橋と、 鉄製部材からなります。
鉄製部材のうち、磯と州浜という部分が一体であることが特徴です。
覆輪金具には有機質があり、 革張りの鞍であった可能性があります。
国指定重要文化財 |
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心葉形杏葉
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心葉形杏葉
古墳時代中期
馬に吊り下げる飾り金具です。 鉄製で、ハート形をしています。
縁には縁金具が鋲で留められています。
また、上部には環状雲珠に吊り下げるための革紐や金具が残っているものがあります。
国指定重要文化財 |
三環鈴 |
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三環鈴
古墳時代中期
青銅製で円形の環に3つの鈴が取り付けられた馬の飾りで、 日本列島でも最古段階の資料です。 鈴にはまるい石が入れられています。 また、 こわれた環が鉄で修理されている日本で唯一の事例です。
国指定重要文化財 |
馬鐸 |
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馬鐸
古墳時代中期
青銅製で馬に吊り下げる鐘です。 小型の三角形で、上部には紐をかけるための孔があります。
また、 外面には台形の区画内部に珠文という円形の文様が確認できます。
国指定重要文化財 |
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| 1300 |
1301
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ヤマト政権と下北方5号地下式横穴墓
―ヤマト政権内の有力者だった被葬者―
下北方5号地下式横穴墓は、 大阪府百舌鳥・古市古墳群が造られた、 いわゆる「倭の五王」の時代であった古墳時代中頃 (5世紀中頃) に造られました。
この時代は鉄製の武具や武器が主要な副葬品目であり、それらの量や質で社会的な役割を表し ていたと考えられています。 出土品の内容から考えると、 下北方5号地下式横穴墓は、ヤマト政権の中でも重要な役割を担っていた人物の墓であったと言えます。 |
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1305
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5世紀の東アジアと下北方5号地下式横穴墓
―国際社会で活躍する地域勢力のすがた―
「倭の五王」の時代は、 東アジア社会のなかでも緊迫した朝鮮半島情勢にかかわって、 対外的な活動や国内的な政治体制の構築が活発になりました。
下北方5号地下式横穴墓の被葬者は、この時代にヤマト政権を中心とした対外活動にも深くかかわっ た人物であると考えられます。
下北方5号地下式横穴墓出土品は、 激動の東アジア社会を取り巻く複雑な国際環境や、 それにかかわった日本列島各地の勢力のすがたが凝縮された、きわめて貴重な資料です。 |
5世紀の東アジアと下北方5号地下式横穴墓
-国際社会で活躍する地域勢力のすがた- |
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被葬者の姿
(イメージ)
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5世紀中頃の東アジア |
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5世紀中頃の東アジア AI による概要
5世紀中頃の東アジアは、中国の南北朝時代(北魏の華北統一、南朝の宋)を背景に、高句麗が南進し百済・新羅・加耶を圧迫した激動期です。
日本(倭)は「倭の五王」が南朝に朝貢し、百済・加耶と連携しつつ軍事的に東アジアの勢力争いに参入、大和政権による列島統治が強固になった時期です。
詳細な時代背景
・中国: 439年に北魏が華北を統一し、五胡十六国時代が終了して南北朝時代へと移行。南朝(宋)は依然として漢族の文化を維持し、
倭国が外交・技術導入の対象とした。
・朝鮮半島: 高句麗が圧倒的な勢力を誇り、南進策をとったため、百済や新羅は危機に瀕し、倭国に助けを求める外交を展開した。
加耶諸国は日本と技術・資源の交流が活発であった。
・日本(古墳時代中期):
・倭の五王: 「宋書」倭国伝に記載される讃・珍・済・興・武の五王(4世紀末〜5世紀)が活躍し、中国南朝の「宋」に朝貢して国際的な地位
を確立した。
・政治的権力: 奈良盆地から大阪平野(百舌鳥・古市古墳群)へと巨大な前方後円墳の造営地が移動し、大和政権(倭王権)の統治が
西日本全体に安定的に及んでいた。
・軍事力: 5世紀中頃の古墳からは、4世紀の鏡を中心とする副葬品から一転、武器・武具(甲冑)が大量に出土しており、
軍事力強化の時代(軍事政権的な性格)を示している。
この時期、日本の王権は朝鮮半島への軍事介入と資源(鉄)の獲得を通じて、東アジアの政治勢力図の中で確固たる地位を築こうとしていました。 |
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1310 5号墳副葬品
5号墳副葬品 |
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柄付手斧
古墳時代中期
全体が鉄製の手斧です。 手で握る部分は中空になっていますが、この特徴は日本列島では唯一のものです。
経錦とみられる織物に包まれた状態で副葬されていま
した。
国指定重要文化財 |
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有肩鉄斧
古墳時代中期
大型で重厚な鉄斧です。 分厚い鉄の塊でできた刃部に袋部が鍛接されています。
袋部の内側には、柄の木質が一部残存しています。 経錦とみられる繊維に包まれた状態で副葬されていました。
国指定重要文化財
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鉄鑿
古墳時代中期
木材などを加工するための工具です。 小型の刃部と長い軸部と柄を取り付ける茎部からなります。
柄の痕跡がなく、 副葬時には柄がなかったようです。 表面にはわずかに繊維が付着している部分があります。
国指定重要文化財 |
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袋状鉄斧
古墳時代中期
薄い鉄板で作られた鉄の斧です。 刃部が作られていないことから、 実用品ではなく副葬のために作られた品物であったと考えられています。 全部で9点が出土しました。
国指定重要文化財 |
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鉄鎌
古墳時代中期
薄い鉄板で作られた鎌で、全体がゆるやかに曲がっているため曲刃鎌と呼ばれています。 袋状鉄斧と同じ位置に副葬されていたため、埋葬用の品物であったと考えられます。
国指定重要文化財 |
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鉤状鉄器
古墳時代中期
L字形の鉄製品で、 下半部は2枚の木材を貫通しており上半部には有機質が付着しています。
5世紀代の新羅圏に特徴的な鞍橋把手金具の可能性が高い資料です。
国指定重要文化財
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鎹
古墳時代中期
木材を連結する金具で、 古墳時代中期には主に木棺の結合に用いられました。
この資料から、 下北方5号地下式横穴墓に木棺があったことがわかります。 また、謎の一部には木材が付着しています。
国指定重要文化財
※かすがいは、木棺を作った道具 |
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1320
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管玉
古墳時代中期
28点出土しました。 緑色凝灰岩製は日本列島製、赤橙色で瑪瑙製の2点は輸入品とみられます。 青色ガラス製は製作地が不明ですが、 ガラス玉と同じ技法で製作されています。
国指定重要文化財 |
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勾玉
古墳時代中期
9点出土しました。 翡翠製と紫水晶製があります。
翡翠製のものには頭部に筋状の線刻がある丁子頭勾玉が含まれます。 紫水晶製勾玉は全国的にも希少で、 2点が出土したのは全国で2例のみです。
国指定重要文化財 |
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半円形ガラス製品
古墳時代中期
9点出土しました。 ガラス片を融かし合わせて作られています。 全国的にも類例のないガラス製品で、開
けられた孔に紐などを通して使用されたこと以外は、具体的な使用法が不明の資料です。
国定重文化財
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ガラス玉
古墳時代中期
607 点出土しました。 大型の丸玉と小型の小玉があります。 引き伸ばしたガラス管を切断する方法や、 複数のガラス玉を融かし合わせる方法、
芯にガラスを巻きつける方法などで製作されています。
国指定重要文化財 |
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1330
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垂飾付耳飾
古墳時代中期
金製で、 心葉形の垂飾りが取り付けられた耳飾です。
長い鎖が付く長鎖式と呼ばれるもので、 国内の垂飾付耳飾でも最古段階の資料です。 製作地は、朝鮮半島製、日本列島製の二つの意見があります。
国指定重要文化 |
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銀装大刀
古墳時代中期
把や鞘に銀製の装飾が取り付けられた大刀です。 この種では日本列島で最古の一群に含まれます。 製作地については、 朝鮮半島や日本列島などの意見がある謎多き資料です。
国指定重要文化財 |
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| 2000展示室3 撮影禁止 |
| 2000 |
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3000展示室 4
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3000古墳時代
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3001全景

先がすぼんだ形の
円筒形の部屋は |

後になって出てきますが、 |

地下式横穴墓を模した
展示室となっており、 |

内部には横穴墓内のジオラマと |

各所の横穴墓出土の遺物が展示されています |
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3010宮崎平野の古墳
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宮崎平野の古墳
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都農古墳群
百合野古墳群
特田古墳群
野首古墳群
羽根田山王古墳群
正祐寺横穴群
牛牧古墳群
高鍋戸口古墳群
茶臼原古墳群
西都原古墳群
竹の納古墳群
新田原古墳群
毛作古墳群
水谷原古墳群
西原古墳群
三財古墳群
永谷古墳群
富田古墳群
常心原地下式横穴墓群
元地原地下式横穴墓群 |
 常心原地下式横穴墓群
元地原地下式横穴墓群
富田古墳群
上田島横穴群
(県指定佐土原町古墳)
井水地下式横穴墓群
狩野市の瀬地下式横穴墓群
下田島古墳群
(県指定広瀬村古墳)
六野原古墳群
高田原地下式横穴墓群
飯盛横穴群
飯盛本庄古墳群
那珂横穴群
(県指定那珂村古墳)
下那珂古墳群
(県指定広瀬村古墳
広場広原横穴群
糸原古墳群
(県指定倉岡村古墳)
木脇塚原古墳群 堤內
柿木原古墳群
(県指定瓜生野村古墳)内
島之内古墳群
(県指定住吉村古墳
蓮ク池横穴群
芳土横穴群
上北方横穴群
(県指定瓜生野村古墳)
池内横穴群
村角古墳群
花見古墳群
(県指定高岡町古墳)
富吉横穴群
生目古墳群跡
山崎古墳群
下北方古墳群 新
船塚古墳
浮田横穴群
(県指定生目村古墳)
憶古墳群
大塚古墳群
(県指定宮崎市大淀古墳)
新北中地下式横穴墓群
大町地下式横穴群
広島古墳群(消滅) |
 浮田横穴群
(県指定生目村古墳)
大塚古墳群
檀古墳群
(県指定宮崎市大淀古墳)
北中地下式横穴墓群
大町地下式横穴群
広島古墳群(消滅)
久古墳群
(県指定赤江町古墳)
清武古墳群(消滅)
灰分野地下式横穴墓群
五反畑墳墓群
木花古墳群
(県指定木花村古墳)
老片井野高野原地下式横穴墓群
青島古墳群
(県指定青島村古墳) |
※なんですか、この膨大な古墳群の数は。奈良・大阪に匹敵するような数ではありませんか。
なぜ、こんなに沢山作られたのでしょう。しかも、中央からの許可がなければ作られない、円墳、前方後円墳などが・・・
これには、何が関わっているのでしょう。神武東征でしょうか。男狭穂塚・女狭穂塚古墳は明確に中央と繋がっている。
この辺境の地と、ヤマト政権との間にどんな関係があったのでしょうか。
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3020古墳時代
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古墳時代とは
古墳は、 今から約1750年から1300年ぐらい前にかけて、北海道、東北北部と沖縄を除く全国に造られました。
古墳時代は前期(3~4世紀)、 中期(5世紀)、 後期 (6世紀)、 終末期(7世紀)に区分され、
古墳は3世紀の中頃、大和地方(現在の奈良県)から当時のヤマト政権と地方の豪族達との同盟関係により全国に広まっていったと考えられています。
古墳時代の一般の人々の暮らしは、定住して稲作を行う弥生時代と大きく変わりませんが、 鉄製農具の普及や古墳造りで養われた土木技術によって、 コメの生産性は向上しました。 これらの道具、技術は、大陸及び朝鮮半島より渡ってきた渡来人と呼ばれる人々によって伝えられました。
この他にも登り窯を用いて固く丈夫な須恵器をつくる技術、 乗馬の風習、 機織り、 漢字なども古墳時代に伝わりました。 |
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古墳時代とは |
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古墳の種類とかたち
古墳には、様々な形のものがあります。
上から見た平面形が鍵穴の形をした前方後円墳、 前方後円墳の円の部分が四角形になった前方 後方墳、丸い形の円墳、四角い形の方墳などが あります。 これらの古墳は、土を盛り上げて墳丘をつくることから高塚墳といわれます。
また、このほかに丘陵や、 台地の斜面に横穴を掘って玄室をつくる横穴墓や地面を垂直に掘り、 そこから更に横穴を掘り、 玄室をつくる地下式横穴墓などがあります。
宮崎市内には、 前方後円墳、 円墳、横穴墓、地下式横穴墓があります。 |
古墳の種類とかたち |
前方後円墳
円墳
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横穴墓
地下式横穴墓
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※この地方には、方墳・前方後方墳などはないようです。
あれらは、一等下に見られた大規模地方豪族に与えられたもの。
前方後円墳築造が許されなかった、大豪族の墓でした。
どこにでもあるそれがここにはない。不思議です。
中央政権と特別な関係があったのでしょうか。 |
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大きなお墓は権力の象徴
古墳は、権力の象徴として造られ、古墳時代の権力者は、 多くの人々を使って大きなお墓 (古墳) を造り、自らの力を周りに示すことにより人々を治めようとしました。
大きな古墳の周囲には濠や堤をめぐらせて、より広い墓域を確保し、 古墳の表面に石を葺いたり、古墳上に埴輪を並べたりして、より立派でおごそかなものとしました。
また、権力者が亡くなると、銅鏡や腕輪を模した石製品、玉類、耳飾りといった装身具や鉄製の剣 刀、 鏃、 冑 鎧といった武器・武具類や馬具、農工具など様々な副葬品が遺体と一緒に埋葬されました。
※考察 死後の世界観
武器・武具・高級装身具と共に、およそ大権力者には関りのなさそうな農耕具が同じレベルで副葬されているのはなぜなのか。
・道路の無かった時代ですから、相手を攻めるためには、まず、工兵隊が進軍できる道を切り開くので、農耕具も兵器だった。
・基本、彼らは農耕民出身であるので、 死後の世界でも、大豪族も農耕と関わる必要があると考えられ、最新の農具を副葬した。
・司祭者としての一面を持つことによって民衆を率いるため、農耕祭祀の道具として、大豪族にも農具が必要だった。
などなど、もっと色々考えられるが、いずれにしても、当時の人々は、死後の世界を信じ、死んでからも戦争に明け暮れるために、
大量の武器・武具を持って死なねばならないと考えていたようです。
要するに、死後の世界の安寧や、安らかな死、などではなく、死んでからも人殺しの世界を生き続けるんだと考えていたようです。
永遠に苦しみ続けなければならないという、なんとも、お物騒な信仰です。そんなに人殺しや強奪が楽しく日常茶飯事だったのだろうか。
そういえば、関東地方で、戦争から逃れてやってきた人々がいて、平和な日本で落ち着いた生活を取り戻そうとするのではなく、
平和な日本でも、戦争中と同じギャング行為をする迷惑な人々がいると聞く。
どうやら人々が生きて来た環境が人々の心情を決定づけ、他人の物を盗まない人と、隙あらば盗む人に別れるのだろう。
育った環境が植え付けた魂は百まで変わらないとは、昔の人の教えでもある。 |
大きなお墓は権力の象徴
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割り竹形木棺墓
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鏡 |
死体の傍に鏡など |
武器・武具 |

何かわからん |
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死後の世界でも、あの世の亡者どもを支配し、軍隊を組織して、周辺の亡者村を襲うと考えた古墳時代の人々の死生観。
魂の救いを求める宗教ではなく、今と同じ世界があると考える。原始的な信仰ですね。 |
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3030こんなにすごい生目古墳群
九州の大型古墳
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生目3号墳は、古墳時代前期には
九州最大の古墳だった
宮崎県には、大きな前方後円墳が数多く造られました。 九州で一番大きな古墳は、 西都原古墳群にある男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳で、墳丘の長さは、ともに176mあります。
生目3号墳は、墳丘の長さが 137mあり、 九州で3番目に大きな古墳になります。 生目3号墳は4世紀代に、 男狭穂塚、女狭穂 塚古墳は5世紀のはじめ頃に造られており、 生目3号墳が造られ た時には、九州最大の古墳であったということになります。
生目古墳群では、3号墳のほかに1号墳 (墳長130m)、 22号 墳 (墳長101m) と合計3基の長さ100mを越える前方後円墳 があります。
これほど大きな古墳が同一の古墳群に継続して造られる例は、九州では他になく、古墳時代前期に大淀川下流域に強大な勢力をもった権力者(首長)が存在したことがうかがえます。 |
こんなにすごい
生目古墳群
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九州の大型古墳
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大王墓と地域の首長墓
古墳時代をとおして、 全長が200mを越える大きな前方後円墳のほとんどは、今の大阪府、 奈良県に造られています。 それは、この地が当時の政治の中心で、
歴代の大王のお墓が数多く造られたためです。 前方後円墳は中期に最も規模が大きくなり、日本で1番大きい大阪府堺市にある大仙古墳は、墳丘の長さが486mもあります。
生目3号墳は、ヤマト政権の大王やその政権の中枢を担った豪族のお墓とされている大阪や奈良の巨大古墳と比べると規模が小さいですが、 地方の首長墓としては、かなり大きな前方後円墳です。
では、なぜ、政治の中心から遠く離れたこの地に大きな前方後円墳が造られたのでしょうか?
大陸や南西諸島との交易で重要な役割を担っていたためとか、ヤマト政権に従属していない南九州勢力に対抗するためだと考えられています。 |
大王墓と地域の首長墓
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古墳の大きさ比較
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大王墓と地域の首長墓 |
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3040ようこそ生目古墳群へ
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南九州を代表する古墳群
生目古墳群は、市内大字跡江の標高25~30mのシラス台地上に前方後円墳8基、 円墳39基が立地し、台地周辺の低地にある4基の円墳とあわせて51基が国の史跡に指定されています。 また、台地上の古墳の周囲からは、 約50基の地下式横穴墓が 見つかっており、 調査が進むにつれ、 その数は、 さらに増えると予想されます。
生目古墳群の特徴のひとつとして、古墳群内に古墳時代前期の墳長 100m級の前方後円墳が3基造られていることが挙げられます。 古墳の大きさだけで言えば、 九州有数の勢力を持った
権力者の存在、もしくは中央のヤマト政権から政策上重要視された土地を治めた権力者の存在がうかがえます。
もうひとつの特徴としては、 前方後円墳に地下式横穴墓が伴うことが挙げられます。
古墳群内で最後に造られた前方後円墳である7号墳の後円部からは、 埋葬主体の可能性もある大規模な地下式横穴墓が見つかっています。
このように生目古墳群は、 南九州の古墳文化解明の鍵を握る 重要な古墳群です。
※考察 前方後円墳と地下式横穴墓
横穴墓は、崖や斜面に横穴を掘って墓域とするものです。前方後円墳のどてっぱらに横穴を掘って墓地とするのは、これは、死者への冒涜。
きっと、完成から時間が経った古い、誰のかわからない、または、落ちぶれ豪族・廃豪族の墓を都合よく拝借して自家の墓穴を掘った
と考えてきました。つまり、寄生墓穴です。
ところが、上の言い回しでは、まるで、倍塚のような、または、前方後円墳の横穴石室の代わりに、横穴墓を作った。
といったように捉えられる表現でした。言明はありませんが、必ずしも、寄生墓穴ではないのかもしれません。
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生天目古墳群の古墳
ようこそ生目古墳群へ |
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南九州を代表する古墳群 |
生目古墳群 |
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 37号墳
38号墳
39号墳
40号墳
41号墳
42号墳
1号墳
24号墳
25号墳
12号墳
26号墳
28号墳
3号墳
4号墳
5号墳
6号墳
31号墳
7号墳
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 37号墳
38号墳
39号墳
40号墳
41号墳
42号墳
27号墳
28号墳
3号墳
4号墳
5号墳
6号墳
31号墳
7号墳
30号墳
32号墳
33号墳
8号墳
11号墳
29号墳
9号墳
12号墳
13号墳 |

19号墳
18号墳
14号墳
17号墳
16号墳
15号墳
21号墳
23号墳
34号墳
45号墳
22号墳
46号墳
48号墳
47号墳 |

21号墳
23号墳
45号墳
22号墳
46号墳
48号墳
47号墳
49号墳
50号墳
35号墳
石ノ迫第2遺跡
43号墳
44号墳 |
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3050調査結果
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生目古墳群の最新発掘調査成果
1.古墳の数が少なくなりました
平成25年度に発掘調査をおこなった生目35号墳は 発掘調査の結果、 古墳ではないことがわかりました。 35号墳の位置から考えると、 すぐ脇の切通しを掘る際
にでた土を盛り上げたものと考えられます。
この結果、 生目古墳群の古墳数は51基から50基になりました。50基
137m築造当時、九州最大
2. 3号墳の長さが短くなりました
生目3号墳は発掘調査をおこなう前は、古墳の測量 図から長さが 143mと考えられていました。 しかし発 掘調査をおこなったところ、 137mであることが明ら かになりました。 これは古墳の端が非常によい状態で 残されていたためで、 古墳を覆っていた土を取り除い た分だけ小さくなってしまったのです。 6m短くなっ てしまった3号墳ですが、 造られた当時には九州最大であったことには変わりなく、大きな権力をもった人
物が居たことがわかります。
3. 謎多き1号墳の解明が進む 全国初
平成25年度から発掘調査を開始した生目1号 墳は、昭和初期に作成された測量図から古墳の 長さは136mとされていました。 しかし、 発掘 調査の結果、
前方部の先端が失われていること が明らかになり、 現在残されている墳丘の長さ は120mです。
ただし一部を失った状態ですので、 本来の長さはもう少し大きかったと考えられます。
1号墳では非常に良好な状態で葺石が残され ていることが明らかになっています。 後円部の一部では全国初となる、古墳の頂上と斜面を区画する石列も確認されています。
1号墳の発掘調査は平成27年度まで継続する 予定です。 新たな発見にご期待ください!!
4. まとめ
発掘調査の結果、 古墳の数が減ったり、 古墳が短くなったり、 残念なニュース のように思いますが、その分だけ生目古墳群の真実の姿に近づいた、とも言えます。 今後も発掘調査によって新たな事実が明らかになっていくことでしょう。 |
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3060生目古墳群史跡公園へ
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古墳群の保存と活用を目的とした
発掘調査と史跡整備
生自古墳群は、平成10年度から古墳群の整備を目的とした発掘調査をおこなっています。 古墳は、造られてから現在までの長い間に土が堆積し、 樹木が生えて林になっていたり、また、自然崩落や、後世の耕作等により周囲を削られたりして、その
姿を大きく変えています。
古墳の発掘調査をおこなうことで、 造られた当時の姿が明ら かになります。そこで得られた情報・調査成果は、 その後の古 墳の復元整備を行う際の基礎資料となるだけでなく、一般の
方々への歴史学習の教材ともなります。 |
生目古墳群史跡公園へ |
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整備前
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整備後
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古墳群の保存と活用を目的とした
発掘調査と史跡整備
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古墳群の発掘調査
整備のあゆみ |
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3070未だ謎だらけの生目の巨大古墳
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生目古墳群で、 1位、2位の大きさの3号墳と1号墳は、その古墳の形から古墳時代前期に造られたということは解っていますが、 詳細な時期や、 古墳の細部の形はいまだ謎だらけです。
3号墳は長さが143m、 後円部の高さが12.7m、前方部の 高さが6.5mあり、古墳時代前期につくられた古墳としては、九州最大のものです。
後円部は3段、 前方部は2段に造られ、墳丘上には丁寧に並べられた葺石があります。 現在までのところ、 出土遺物がなく詳細な時期が解っていない古墳です。
1号墳はさらに謎の多い古墳です。 古墳群のいちばん北にある独立した山の上にあり、 大淀川対岸の、 瓜生野地区や国富町 からもその姿を確認することができます。
長さが136mで生目古墳群では2番目に大きい古墳です。一説には生目古墳群で 一番古い時期に造られたのではないかといわれています。 |
未だ謎だらけの生目の巨大古墳
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1号墳調査前平面図 |
遠望1号墳 |
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3号墳調査前平面図 |
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くびれ部の葺石 |
前方部の葺石 |
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3110 2つの朝顔型埴輪
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生目5号墳出土埴輪
個性の象徴
この埴輪には、透かし孔(胴体に開けら れた穴)や突帯(胴体に数本めぐらされ る粘土紐)などの円筒埴輪本来の特徴が見られません。
同じ様な埴輪は、他の古墳群では出土しておらず、 生目古墳群の個性を象徴するものです。 |
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子どもさん向けかいせつポイント
バンくん
これは何だろう?
生目5号墳にならべられていた
「つぼのカタチをしたはにわ」さ!
遊古館の東側には古墳(今から1500年以上前の人々の大きなお墓)がたくさんあつまる生目古墳群があるんだ。
◆その5号墳の上には、この『つぼ形はにわ』 がならべられていて、ぼく(ハニィ) のモデルにもなったんだ
◆5号墳には登ることができるので、行ってみてね!ハニィ |
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3120 |
3121姿をあらわした弥生のムラ
(石ノ迫第2遺跡)
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濠をめぐらした集落の出現
生自古墳群が立地する台地は、 弥生時代には集落でした。
台地南東部に ある石ノ迫第2遺跡の調査では、竪穴住居が35軒、土坑(貯蔵穴、ゴミ穴) 33基と集落を取り囲む環濠が見つかりました。
環濠は、集落の西側部分で一部を確認したのみですが、断面がV字形で幅 2m以上、 深さ2.5m以上の大規模なもので、集落の周りを囲んでいたもの
と考えられます。 また、環濠の底近くから土器が出土しており、弥生時代中 期午頃(約2100年前)の集落と推定されています。 環濠は、外敵の侵入に備えた防御的施設と考えられています。2000年以上前にこの地で水や種もみをめぐる争いがあったのかも知れません。
発掘調査では、確実にこの時期に該当する竪穴住居は、6軒見つかって います。 |
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姿をあらわした弥生のムラ(石ノ迫第2遺跡)
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濠をめぐらした集落の出現
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竪穴住居 |
環濠断面 |
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3123
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廃絶の後、再び集落へ
(石ノ迫第2遺跡の)集落は、 その後、一旦途絶え、弥生時代後期のおわり頃 (約1800年前)に再び集落となります。
この時期には既に 環濠は埋まってしまい機能していません。
遺跡内の間仕切り住居2軒を含めた多くの竪穴住居や、土坑はこの時期に該当すると思われます。 また、 絵画土器も見つかっています。
石ノ迫第2遺跡の調査では、集落全体を調査していないため、 全容は明らかになっていませんが、 大型建物や高床式倉庫などが見られないことから、
生目古墳群を生み出し た集団の母体となるような集落ではなく、 その集団を支えた1集落であると考えられます。
※花弁型間仕切り住居は、朝鮮半島中部の、松菊里型住居です。
弥生時代の間仕切り住居 朝鮮半島の間仕切り住居 松菊里型住居
稲作技術を持った松菊里の集団が、弥生中期から後期に南九州(宮崎・鹿児島)に入植してきたようです。 |
廃絶の後、再び集落へ |
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石ノ迫第2遺跡全景 |
間仕切り住居
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土坑
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3125土器 石ノ迫第2遺跡
※これらの土器も半島系の形をしているのでしょうか。弥生土器と言うこと以外は、チョットわからない。
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3127集落から墓地へ
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弥生時代のおわりに墓地へと姿をかえる
石ノ迫第2遺跡では、集落に関わる遺構のほかに、円形周溝墓1基、土坑墓 42基、 木棺墓1基、性格不明の周溝状遺構4基、円墳、地下式横穴墓が見つかってます。
石ノ迫第2遺跡では、集落が弥生時代のおわりに廃絶した後、 それほど時間を置かずに墓地へと変化し、古墳時代になっても引き続き墓地として機能したため、2度と集落に戻ることはありませんでした。
古墳の集中する 台地中央部でも弥生時代のおわり以降の円形周溝墓2基、土坑墓9基が見つかっています。
生自古墳群が展開する丘陵上では「集落から墓地へ」 と、 弥生時代のおわりから古墳時代のはじめにかけての頃に大きな変化が訪れました。
※環濠に隠れなくて済むようになったので、平地に降りて農業ができるようになったのでしょうか。 |
集落から墓地へ |
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弥生時代のおわりに墓地へと姿をかえる |
土壙墓
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木棺墓
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円形周溝墓
周溝状遺構
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少ない副葬品の意味するもの
石ノ迫第2 遺跡では、数多くの土坑墓が調査されましたが、 その半数以上は副葬品がありませんでした。 副葬品があるものについても鉄鏃などの鉄製品が1点だけのものがほとんどでした。
土坑墓群のはじまりは、 生目古墳群が造られる直前と考えられ、 生目古墳群に地下式横穴墓が登場するまで継続すると考えられます。 これらの土坑墓に埋葬された人々は、
円形周溝墓や高塚墳を造った首長を支えた集団の構成員と考えられます。
※貧しい移民の農民たちだったのでしょうか。土壙の鉄鏃一点は、鏃が刺さって殺された人の墓穴だったのかもしれません。
そして彼らは、その後、延々と、生目古墳群を作らされるようになったのではないでしょうか。 |
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円墳、 地下式横穴墓が造られる
古墳時代になると円墳6基、地下式横穴墓5基が造られます。
いずれも 小さな円墳で5基の地下式横穴墓のうち、4基は円墳の周溝内に造って おり、円墳の被葬者と密接な関係があるものと考えられます。 |
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円墳、地下式横穴墓が造られる
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生目46号墳(円墳) |
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| 3200 |
3210生目古墳群
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3211いい仕事を今に伝える14号墳
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いい仕事を今に伝える14号墳
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14号墳調査前平面図 |
14号墓の葺石、
出土した壷形埴輪 |
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造られた時代
4世紀の終わり頃
古墳の大きさ
古墳の長さ63m
後円部の直径38m
後円部の高さ4m
前方部の幅20m
前方部の高さ2m
古墳の規格
後円部と前方部それぞれ2段築成
墳丘の表面
墳丘の表面すべてが石に覆われていた
埴輪の樹立
ひたに
前方部と後円部の平坦面に壺形埴輪列
墳丘の周囲
前方部の前面以外を周溝がめぐる |
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トピック
後円部の高さに比べて、低い前方部を持つのが特徴的な古墳です。
発掘調査では、当時の姿そのままを残す葺石がみつかりました。
当時の工人達が、丹精をこめて古墳造りをおこなっていたことが、よくわかります。
また墳丘の平坦面には、壺形埴輪を並べていたこともわかりました。 |
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3213迫力満点の22号墳
迫力満点の22号墳 |
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22号墳調査前平面図
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前方部側面の張り出し部
張り出し部周辺の出土物
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造られた時代
4世紀の後半
古墳の大きさ
古墳の長さ101m
後円部の直径60m 後円部の高さ9.2m 前方部の幅25m
前方部の高さ4.6m
古墳の規格
後円部3段、 前方部2段築成
墳丘の表面
墳丘の斜面を葺石が覆う
埴輪の樹立
墳丘から転落した埴輪が周溝から出土
墳丘の周囲
墳丘の周囲に周溝がめぐる |
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トピック
古墳群で3番目に大きい前方後円墳です。 3号墳に似た形の前方後円墳であると考えられます。 前方部の東側側面では、 溝に区切られた「張り出し部」
が発見され、 溝の中からは、土師器の高坏、壺、甕などが 出土しました。
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3215
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14号墳の埴輪
個性的な埴輪の源流!?
5号墳で出土した埴輪と似た形をしていたと考えられます。 |
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22号墳の土器
張り出し部に残されたもの張り出し部で行われた儀式に使われたものです。 |
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14号墳の埴輪
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14号墳の土器 |
14号墳の土器 |
22号墳の土器 |
22号墳の土器 |
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3250個性的な埴輪が並んでいた5号墳
個性的な埴輪が並んでいた5号墳 |
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5号墳調査前平面図
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後円部 |
後円部で発見された
墓の跡
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周りの周溝 |
出土した埴輪
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造られた時代
5世紀の前半
古墳の大きさ
古墳の長さ57m
後円部の直径29m
後円部の高さ4.4m
前方部の幅 24m
前方部の高さ4.5m
古墳の規格
後円部と前方部それぞれ2段築成
墳丘の表面
斜面の部分を石が覆っていた
埴輪の樹立
墳丘の東側の後円部と前方部の墳頂平坦面
墳丘の周囲
墳丘の西側半分に周溝がめぐる |
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トピック
5号墳に並べられた埴輪は実に個性的な 形をしていました。 南九州地方に円筒埴輪 が登場する以前の埴輪だと考えられます。
円筒埴輪のように筒型の胴体はしていますが、円筒埴輪の特徴である帯 (帯状にめぐらせた粘土紐)や透かし孔(胴に空けた穴)がないのが特徴です。
5号墳は、 発掘調査の結果に基づき、 造られた当時の姿に復元し、 公開しています。 |
トピックス |
復原整備された5号墳
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3270
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5号墳の埴輪・土師器
個性的な埴輪たち
5号墳で出土した埴輪にも、突帯が施さ れているものがありました。 しかし、5号墳 出土埴輪の突帯は本数が1本のみで、 形も埴輪の大きさの割には小さく、バランスの悪いものでした。
この他、 埴輪の胴体に「スイジガイ」という貝の絵が描かれた埴輪も発見されています。 |
5号墳の埴輪・土師器
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5号墳の埴輪・土師器
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スイジガイ模様の埴輪は発見できず |

ひどく粗製な土器です |
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復元埴輪
実は赤い5号墳の埴輪
後ろのケースに展示してある埴輪を、作 られた当時の姿に復元したものです。 実 物は素焼き粘土の色ですが、5号墳に 並べられていた当時は、このように赤色 顔料が上から下まで塗られていました。 永友加奈子氏製作。 |
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| 3300 |
| 3310 |
3311一風変わった7号墳
一風変わった7号墳 |
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調査前平面図 |
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墳丘の2段目だけに葺石
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造出周囲に捨てられた
土器群
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深く掘られた周溝
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造られた時代
5世紀の後半
古墳の大きさ
古墳の長さ46m
後円部の直径25m
後円部の高さ4m
前方部の幅24m
前方部の高さ4.5m
古墳の規格
後円部と前方部それぞれ2段築成
墳丘の表面
墳丘の上の段の斜面の部分だけを葺石が覆っていた
埴輪の樹立
なし
墳丘の周囲
墳丘の周囲を楯形の周溝がめぐる |
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トピック
生自古墳群で最後に造られた前方後円墳です。
普通は墳丘の斜面全体に施される葺石が上の段にしかなく、 埴輪を並べた痕跡もありませんでした。
とても深い周溝も特徴です。
後円部の北側の周溝内には祭壇として使用した施設といわれる 「造り出し」が発見されており、その周りからは、儀式に使 用した大量の土器や石製品が捨てられていました。
さらに7号墳のなぞを深めているのが地下式横穴墓の発見です。
7号墳の周囲からは、10基の地下式横穴墓が発見されており、
特に後円部の中心に向かって玄室を造った18号地下式横穴墓は、 7号墳の埋葬主体になる可能性を秘めています。 |
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3313
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後円部に造られた
18号地下式横穴墓
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24号地下式横穴墓
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21号地下式横穴墓
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3315
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7号墳出土の遺物
儀式の痕跡
後円部の横に造られた 「造り出し」 の周囲からは、大量の土師器や須恵器、石製品が発見されました。 これらは一箇所 に集中してバラバラに壊れた状態で出土し、意図的に壊されたものと考えられ
ます。 儀式の最後に投げ捨てるような行為が行われていたのでしょう。 |
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3600一般収蔵庫
地下式横穴墓
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3601南九州には地下に人を埋葬する風習があった
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5世紀の始めから7世紀の中頃の南九州には前方後円墳や円墳などの「高塚墳」以外に、 「地下式横穴墓」と呼ぶお墓が造られました。文字通り、地下に造
られたお墓で、 平坦な台地上に造られるのが一般的です。
地下式横穴墓の分布は、 宮崎県南部、 熊本県の人吉盆地周辺、 鹿児島県北部と大隅半島に見られ ます。
宮崎県内では、 えびの市を中心とする西諸県郡と宮崎平野一帯で多く発見されています。 これまでに、 1,000基以上が見つかっており、なかには前方後円墳などの高塚墳の埋葬者の副葬品と見劣りしないほど多様な品々をもっているものもあります。 |
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南九州には地下に人を埋葬する風習があった
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地下式横穴墓分布圏 |
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➀竪坑を掘り
②横穴墓の玄室を構築する。
③遺体を埋葬する。
④玄室入口を閉塞する。
⑤竪坑を埋め戻す。
⑥横穴墓玄室掘削の土砂を、上に被せる。 |
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生目古墳群でも地下式横穴墓を発見
これまでその存在が知られていなかった生自古墳群でも、 平成5年より開始された発掘調査によって地下式横穴墓が発 見されはじめました。 平成20年の段階で約50基ほど見つ かっており、未発見のものもまだたくさんあると考えられます。
生目古墳群の地下式横穴墓は、 前方後円墳を意識して、 その周囲に造ることが特徴で、お互いの埋葬者に関係があっ たことがうかがえます。 |
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3603
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地下式横穴墓の葬送儀礼
遺体埋葬後の儀式
生目古墳群の地下式横穴墓では、 玄室内の遺体に添えられた副葬品だけで なく、地下式横穴墓を埋め戻した上からも、たくさんの遺物が発見されます。
これ らは遺体埋葬後に、 葬送の儀式を行った際のものと考えられます。 |
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| 3605
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3650
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7号墳出土の須恵器 (その1)
特殊な須恵器
7号墳の造り出しの周囲からは、 普段の 生活では使われない特殊な須恵器や、 朝鮮半島から輸入された 「陶質土器」 が出土しました。
これら大切であったはずの品々も、造り出しの上での儀式のあと、 惜しげもなく投げ捨てられています。 |
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3660模型
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生目7号墳模型
生目古墳群では前方後円墳の周囲で地下式横穴墓が発見されます。
このことはお互いの墓に埋葬された人物同士に関係があったことを物語っています。 特に7号墳の後円部の下に大規模な玄室を造る18号地下式横穴墓は、
造った場所、規模、 造りの丁寧さなどから、 前方後円墳の埋葬主体に地下式横穴墓を採用した可能性のある事例として注目されます。 |
生目7号墳模型 |
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7号墳模型 |
7号墳と18号地下式横穴墓
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3670横穴墓
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3671 18号地下式横穴墓
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この入口は、7号墳の後円部で発見された18号地下式横穴墓の羨門付近の原寸大模型です。
本来は、入口の奥に遺体を安置する玄室が造られます。
出入りの際はお気をつけ下さい |
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地下式横穴墓模型
地下の部屋に人間を埋葬する風習を当時の人々がなぜ考え出したのかは、未だに解明されていません。
しかし、密閉された玄室の残る地下式横穴墓は、被葬者の人骨、剣、刀、甲冑類などの鉄製品が良好な状態で保存されていることが多くあります。 時には数体の人骨が発見されることもあります。
遺体を埋葬したあとは、その場所で死者を悼むための儀式がおこなわれていたようで、生目古墳群ではそれを裏付ける土器が多数出土しています。 |
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3673副葬品
下北方横穴墓群
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下北方17号地下式横穴墓 6世紀初めごろ
須恵器や刀子、 ガラス製小玉などが出土しました。 |
下北方17号
地下式横穴墓
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ガラス小玉 |
須恵器  |
刀子 |
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下北方16号地下式横穴墓 5世紀中ごろ
副葬品の高坏。 お供え物をのせていたと考えられます。
下北方16号地下式横穴墓 5世紀中ごろ
副葬品の壺と鉢。壺は大変丁寧に作られています。 |
高坏
下北方16号
地下式横穴墓
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壷と鉢
下北方16号
地下式横穴墓
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下北方16号地下式横穴墓 5世紀中ごろ
副葬品の甕。 薄手で、丁寧な仕上げがされています。 |
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下北方23号地下式横穴墓 6世紀前葉
副葬品の鉄剣、 ガラス玉。 |
鉄剣、ガラス玉
下北方23号
地下式横穴墓 |
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鉄剣 |
ガラス玉 |
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下北方24号地下式横穴墓 5世紀中頃
副葬品の珠文鏡、勾玉、管玉、棗玉。 |
珠文鏡,勾玉,管玉,棗玉 下北方24号地下式横穴墓
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珠文鏡  |
勾玉、管玉、棗玉  |
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3675
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北中8号地下式横穴墓 6世紀後半
副葬品の土器類と鉄鏃(矢尻)、刀子(小刀)。 |
土器,鉄鏃,刀子
北中8号地下式横穴墓 |
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鉄鏃,刀子 |
土器類 |
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大町地下式横穴墓群 7世紀前葉
副葬品の土師器 須恵器。 |
鉄刀, 鉄斧,鉄鏃,刀子
高野原3号地下式横穴墓
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鉄刀, 鉄斧,鉄鏃,刀子
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柿木原地下式横穴墓群 6世紀後半
副葬品の土師器、須恵器,人骨のレプリカ。 |
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3677
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生目7号墳出土の須恵器 (その2)
大規模な儀式だったのか?
5世紀頃の宮崎平野では、 須恵器は大 変貴重で、 住居跡などからはほとんど出 土しません。 しかし、7号墳では多数の須恵器が一度の儀式で使用されました。
この造り出し上で行われた儀式がいかに 重要なものであったかがうかがえます。 |
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3700横穴墓だらけの古墳
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3701地下式横穴墓に囲まれた生目21号墳
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地下式横穴墓に囲まれた21号墳 |
21号調査前平面図
地下式横穴墓が13寄生 |
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21号空中写真 |
土がむき出しの後円部
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造られた時代
4世紀の中頃
古墳の大きさ
古墳の長さ 33m
後円部の直径20m
後円部の高さ5m
前方部の幅15m
前方部の高さ不明
古墳の規格
不明
墳丘の表面
葺石なし
埴輪の樹立
なし
墳丘の周囲
墳丘の形状に沿った周溝がめぐる |
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トピック
前方部が完全に削られてしまっているため、長い間小さな円墳と考えられてきましたが、発掘調査によって前方後円墳であったことが判明しました。 大きさを復元すると33mで、
生自古墳群で最も小さな前方後円墳ということになります。
周溝の中からは地下式横穴墓が13基も発見されました。
すべて玄室を古墳の外側に 向け、 21号墳を取り囲むように配置されています。
調査の結果、 そのうちの1基は5世紀初めにつくられた宮崎平野最古のものであることがわかりました。
地下式横穴墓の誕生やそのルーツ、 伝播の過程などを考える上で、非常に重要な発見です。 |
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3705
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生目21号墳 4世紀後半
生目古墳群の新しい発見
21号墳は円墳と考えられてきましたが、 近年の発掘調査で、4世紀後半に造ら れた前方後円墳であることが判明しまし た。墳丘の周りの周溝からは、 壺形埴 輪や多くの土師器が発見されました。 ま た古墳の周囲にたくさんの地下式横穴 墓が造られていることも注目されます。 |
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生目43号地下式横穴墓
生目古墳群最古の地下式横穴墓 2
生目43号地下式横穴墓は、 生目 21号墳南側周溝 内くびれ部付近に造られていました。 玄室は墳丘と 逆方向を向いています。 38号地下式横穴墓と同様に、 竪坑と玄室の平面形状がほぼ同じであり、羨門の袖 がほとんどありません。 遺物は玄室上に並べられて いた土師器(高坏、 小型丸底霊など)、 玄室内から玉 類、置土端部から追葬に伴う土師器が出土していま す。展示は玄室上に並べられていた土師器であり、 これらから 43号地下式横穴墓は5世紀初頭に造られたと考えられます。 |
最古の地下式横穴墓
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生目43号地下式横穴墓
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玄室上 遺物出土状況 |
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玄室内出土
管玉・臼玉 |
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土師器 高坏 |
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土師器 小型丸底壺 |
土師器 高坏 |
土師器 壺 |
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3750市内の古墳 |
3751海を意識した古墳
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海を意識した古墳 檍1号墳
檍古墳群は、市内吉村町江田原、 新別府町の砂丘上に前方後円墳2基、円墳5基(現存2基) が分布しています。
檍中学校南側にある1号墳は、墳長 52mの前方後円墳で、 2000~03年にかけて宮崎大学により発掘調査がおこなわれました。
調査の結果、 木槨を埋葬施設とした4世紀前半に造られ た宮崎市内最古級の古墳であることが判明しました。
また、 江田原第3遺跡の発掘調査では、墳丘が削平された円墳が見つかり、周溝から5世紀後半の土師器や、 須恵器が出土しています。
この他、 檍古墳群の北方3kmの砂丘上にある下ノ原第1遺跡では、円墳 2基と削平された円墳3基が調査されました。
また、 檍古墳群の南方1km の北中遺跡からは10基の地下式横穴墓が見つかっています。この地域からは、古墳の他にも弥生時代前期以降の遺跡が数多く見つかっており、安定した居住域、稲作に適した水田、
他地域との交流の拠点となる入江を利用した港といった、 居住、生産、 交易の機能を兼ね備えた優良な土地として、 古来 より重要視されていたと思われます。 |
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木槨墓の時代
AI による概要
木槨墓(もっかくぼ)は、主に弥生時代後期から古墳時代前期(2世紀後半〜4世紀頃)にかけて、各地の有力な首長(王)の墓として造営された。木棺の周囲に「槨(かく)」と呼ばれる木製の大きな部屋(外箱)を設け、そこに副葬品などを収める構造で、弥生時代の墳丘墓や、初期の古墳(前方後円墳など)の埋葬主体部として採用された。
木槨墓の特徴と時代背景
・時代: 弥生時代後期(2世紀後半~)に島根県の西谷墳墓群などが出現し、3世紀の古墳時代前期に最盛期を迎えた。
・被葬者: 地域の有力首長や、初期のヤマト王権の王たち(例:箸墓古墳クラス)。
・構造: 遺体を納める木棺(もっかん)を、さらに木材で囲った槨の中に配置する。防腐や盗掘防止の目的があった。
・副葬品: 銅鏡、鉄刀、鉄剣、碧玉製宝器などが多く、当時の高い政治的・経済的力を持つ支配層の墓であることを示している。
なお、この形式は朝鮮半島から伝わったとされており、原三国時代から続く技術が日本で発展した。
檍1号墳 AI による概要
檍1号墳(おおきいちごうふん)は、宮崎県宮崎市にある3世紀末から4世紀前半の前方後円墳です。2002年に調査され、幅4m、長さ7.2m、高さ1.5mの日本最大級の木槨(もっかく)が発見された場所として知られ、古墳時代前期における南九州の重要な首長墓とされています。
檍1号墳の詳細
・特徴と発見: 2002年9月、宮崎大学の柳沢一男教授らの調査により、
それまで最大だった奈良県ホケノ山古墳を上回る規模の「木槨(木製の埋葬施設)」が確認された。
・年代: 3世紀末から4世紀前半頃の築造と考えられており、纏向型前方後円墳(纏向石塚古墳に近い形式)。
・重要性: 当時の最先端技術を持つ墓が南九州にあったことを示し、邪馬台国時代から古墳時代への変遷を考える上で貴重な遺跡。
・所在地: 宮崎県宮崎市吉村町。
この古墳の存在は、南九州が古くからヤマト王権や畿内と密接な関係を持っていた、あるいは独自の有力な勢力が存在した可能性を示唆しています。 |
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海を意識した古墳
檍1号墳 |
海を意識した古墳
檍1号墳
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第1号墳
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第1号墳木槨 |
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江田原第3遺跡
円墳周溝 |
北中遺跡
6号地下式横穴墓 |
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3753大淀3号墳 7世紀前半
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謎の多い大型古墳 大淀3号墳
大淀3号墳は、現在、 前方後円墳2基、 円墳3基、 横穴墓1基が残っている県指定史跡大淀古墳(昭和12年7月指定)のうちの1基です。
指定名称は、 旧町名を採用して大淀古墳ですが、 古墳は大塚町に所在しています。
大淀 3号墳の墳丘は、 現状で径40m高さ5.5mの円墳状になっていますが、 前 方後円墳としての指定です。 昭和62年に県教育委員会、平成6年に市教 育員会が発掘調査をおこなっており、 墳丘の周囲に幅10m程度の広い周 溝がめぐり、中から壺形埴輪が見つかっています。
古墳の北~西側は周溝がめぐっていることが確認されていますが、 東側~南側にかけては未調査 ですので、前方部についての情報は、 まだ得られていません。 |
謎の多い大型古墳
大淀3号墳 |
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大淀3号墳 |
壷形埴輪出土状況
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3755大淀3号墳
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大淀3号墳の壺形埴輪
生活道具の形をした埴輪
生目古墳群にほど近い大塚地区の大 淀3号墳から出土した壺形埴輪です。 壺は日常生活でも欠かすことのできない 道具ですが、この壺形埴輪は、普通の 壺とは形が異なっており、古墳に並べる ためだけに作られたものと考えられます。 |
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3757江田原3号遺跡
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江田原第3遺跡
海の近くの古墳
墳丘が削られており、周溝だけが発見されました。 |
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3800下北方古墳群
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3801もう一つの有力古墳群~下北方古墳群
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首長権の移動か?墓域の移動か?
下北方古墳群は、昭和14年4月に県指定史跡となっており、下北方町の標高20m程度の台地と標高70mの丘陵上に前方後円墳4基、円墳12基(現存9基)
が分布しています。 このほか、 発掘調査などにより18基の地下式横穴墓が見つかっています。また、台地下の低地には墳萇86mで周溝、周堤を備えた前方後円墳である船塚古墳があります。
下北方古墳群では、5世紀中頃から6世紀代にかけて前方後円墳が継続して造られており、 大淀川を挟んで対岸にある生目古墳群の前方後円墳の規模が縮小するのと前後して、 古墳が造られはじめています。 このことから、 大淀川下流域の首長権が右岸の生目古墳群を造った集団から、 左岸の下北方古墳群を造った集団へと移動したのか、それとも二つの古墳群を造ったのは同一集団で、 墓域が移動しただけなのか、たいへん興味のあるところです。 |
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もう一つの有力古墳群~下北方古墳群
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首長権の移動か?墓域の移動か?
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下北方古墳群  |
下北方3号墳 |
船塚古墳 |
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解明が進む下北方古墳群
下北方古墳群は、これまでに比較的多くの発掘調査がおこなわれ、 ある程度、 古墳の実態が明らかになています。 昭和26年の調査では、墳長100mで古墳群中最大の13号墳ほか2基の円墳が調査され、
13号墳では、墳丘上に円筒埴輪、 形象埴輪が並べられていたことが確認されています。
昭和57年には9号墳 (円墳) の直下で見つかった地下式横穴5号が調査されています。
地下式横穴5号からは、鏡、耳飾り、玉類、刀剣、甲冑等が出土しており、最も豊富な副葬品を有する地下式横穴墓のひとつに挙げ下北方地下式横穴5号
られます。 近年の調査では、 1,3,5,12号墳の周囲からも地下式横穴墓が見つかり、 生目古墳群と同様な状況が明らかになってきています。 |
解明が進む下北方古墳群 |
下北方地下式横穴5号
(玄室)
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下北方古墳群発掘調査履歴
昭和26(1951)年 下北方13・14・15号墳調査 (日向遺跡調査団) 13号墳埴輪・ 誉石、 14号墳埴輪、 15号墳礫槨
昭和44(1969)年 地下式横穴4号調査 (宮崎県教育委員会) 地下式横穴4号
昭和50(1975)年 地下式横穴5号調査 (宮崎市教育委員会) 地下式横穴5号
昭和57(1982)年 7~9号墳周辺調査 (宮崎市教育委員会) 7~9号墳周溝、 地下式横穴6~9号
平成15(2003)年 12号墳周辺調査 (宮崎市教育委員会) 12号墳周溝、地下式横穴10号
平成18(2006)年 3.5号墳周辺調査 (宮崎市教育委員会) 3.5号墳周溝、 地下式横穴11~15号
平成19(2007)年 1号墳周辺調査 (宮崎市教育委員会) 1号墳周溝、 地下式横穴16~18号 |
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3805
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下北方の地下式横穴墓
前方後円墳と地下式横穴墓
下北方古墳群でも、生目古墳群と同じ く、前方後円墳の周囲に地下式横穴 墓が造られていることが明らかになりまし た。下北方古墳群では、 前方後円墳 が造り始められたのとほぼ同じ時期の5 世紀の中ごろに地下式横穴墓の築造 が開始されています。 |
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下北方の地下式横穴墓
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下北方1号墳
円筒埴輪
5世紀の中ごろに造られた長さ72mの前 方後円墳で、円筒埴輪の破片が発掘 されました。この古墳のように、この時期 の前方後円墳には、 埴輪が並べられる のが一般的でした。 同じくらいの時期に 造られたのに、埴輪の無い生目7号墳 は、やや特異な古墳であると言えます。 |
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3831
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群集する 横穴墓の南限
宮崎市北部の丘陵地帯には数多くの横穴墓が造られています。
市内全体でおよそ400基の横穴墓が確認されており、 大淀川下流域が国内分布の南限になります。
その中でも代表的なものは、市内大字芳士の蓮ヶ池横穴群で、 82基の横穴墓が国の史跡に指定されています。
宮崎市内の横穴墓は6世紀後半~7世紀代に造られたもので、その大半は前方後円墳が造られなくなった以降のものと考えられています。
※大淀川下流域までは半島系埋葬文化。それより南は、別の人々が支配していた。それって、隼人のことじゃないですか。
副葬品の多くが武器や武具。現地民と、移住民との間で長く数百年もの間、戦いが続いていたのでしょうね。
超大物の支配者層は古墳に葬られ、渡来系武装集団の権力者は横穴墓に葬られ、下級兵士や農民は集団墓地の土坑か野ざらしか(笑)
下層民の埋葬跡などとっくに消えてしまっている。どう葬ったのでしょう。 |
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群集する 横穴墓の南限
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蓮ヶ池横穴群
蓮ヶ池横穴群(内部)
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池内横穴
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3833
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生目古墳群の終焉
生目古墳群では、1号墳の前方部南側面より5基、3号墳北西の台地先端部の斜面から4基の横穴墓が見つかっています。 いずれもシラス層を掘り込んで墓室を造っています。
後者の4基については、昭和48年に造成中に発見され、その時の状況について、翌年聞き取り調査を行い、遺物も保管されています。 出土遺物は、茸環、買輪といった装身具、、
貝製雲珠といった馬具、 鉄鏃、 男子、ヤリガンナ、鉄斧といった武器、工具類が出土しています。 なかでも南海産のイモガイで作られた雲珠(うず・・・馬具の部品のひとつで尻繋の革紐につく飾金具。
通常は鉄製。)は、出土例の少ないたいへん珍しいものです。 |
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横穴墓の発掘調査
緊急調査及び史跡整備に伴い53基の横穴が発掘調査された蓮ヶ 池横穴群をはじめ、 宮崎市内では、数多くの横穴墓が開発に伴い発
掘調査されています。 佐土原町下那珂の土器田 (7基)、 城ヶ峰 (3基)、 佐土原町上田島の平田道1号、大字広原の広原横穴群 (6基)、 池内 町の池内横穴群(30基)、 大字上北方の瀬戸前1号、 瓜生野村古墳 30号、 大字富吉の道内遺跡 (2基)、 大字浮田照明院の横穴等です。
バイパス建設工事により調査された土器田東1号横穴は、玄室の壁に馬、魚、人物の線刻画や朱色に彩色された三角文が見つかっています。 |
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3835
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土器田横穴群出土遺物 6世紀後半
宮崎市佐土原町下那珂地区にあり、団地やバイパスのエ事によって発見調査されました。 7基の横穴墓で構成されていますが、 そのうち
東1号横穴墓は、線刻で三角文や動物などが描かれており、県内では珍しい装飾壁画として大きな注目を集めました。
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馬,魚(鳥?),人と思われる線刻画が発見されました。
土器田横穴東1号(奥壁)線刻画 |
土器田横穴群出土遺物 |
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土器田横穴東1号
(奥壁)線刻画
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土器田横穴群出土遺物 |
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土器田横穴東1号
(奥壁)線刻画
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浮田照明院横穴群出土遺物
6世紀後半
生目古墳群から南へ約2kmの地点にあ り、 19基の横穴墓で構成されます。農 作業中に玄室の天井が陥没して発見 されました。 造られた時期は、出土遺物 から6世紀後半と推定されます。 |
浮田照明院横穴群出土遺物 |
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蓮ヶ池横穴群出土遺物
6世紀~7世紀
宮崎市北部の丘陵上に造られた、 80基 余りからなる宮崎平野最大の横穴墓群 です。6世紀中頃から7世紀の終わり頃 にかけて造られ、中でも7世紀中頃に最 も盛んに造られました。
昭和46年、 国の史跡に指定されました。 |
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4000発掘調査
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4101甦った5号墳
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5号墳は、発掘調査をおこなった結果、 古墳の周囲が予想以上に削られていることがわかりました。このため、この5号墳を 造られた当時の姿に復元し、公開する計画になりました。
工事をおこなうにあたっては、本物の古墳を傷つけることなく整備をおこなうことを第一に、 細心の注意を払いながら作業を おこないました。
また、材料の運搬を除いては、機械を使わずに土を盛る作業、 石を葺いていく作業など、 1,500年前の古墳を造った当時と同 じように、すべて手作業で工事をおこないました。 |
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甦った5号墳 |
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復元整備される5号墳 |
発掘調査が始まった頃の5号墳
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発掘調査された5号墳 |
復元整備された5号墳 |
復元工事 模式図 |
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4105遺跡の発掘調査
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宮崎市には、平野や台地を中心に、いろいろなところに遺跡があります。
現在900箇所ほどを数え、 今なお増え続けています。 これらの遺跡 (埋 蔵文化財)も文化財のひとつであり、 本来は、地下で永久に守られること がその保護になります。 しかし、 すべての遺跡を保護するとなると、 都市 の整備がおこなえなくなります。 そのため、遺跡の上でさまざまな開発 (道 路整備や建物の建設など) がおこなわれる際に、 壊されてなくなっていく 遺跡を、 記録として残していくために 「発掘調査」をします。 全国では一年 間に約8000箇所以上の遺跡の発掘調査がおこなわれますが、 それらの ほとんどは、 開発がおこなわれる前にする発掘調査です。 地域の歴史は それらの積み重ねによっても、 明らかになっていきます。 |
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4111遺跡を記録する
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遺跡の発掘調査は宝探しではありません。 壊されてなくなる遺跡を記録として保存するのが、 発掘調査の役目です。
ですから、遺跡の中で発見された遺構や、遺物が、遺跡の中でどの場所から、どの高さから、 どんな土が堆積していたのかを細かく記録に残さなければなりません。
遺跡を記録する方法には、大きく分けて写真による記録と測 量による記録の2通りがあります。
写真による記録
遺跡、 遺構が発見されたとき、 発掘の途中、掘り上がったと きなど、さまざまな段階で、写真撮影をおこないます。 特に、 土の色などの記録を残すのに有効です。
ラジコンヘリコプター などを使い空からの撮影も用いられる方法で、 空中写真の結果によって初めて解る事実もあります。 |
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測量による記録
発掘調査ではこの方法を「実測」と呼んでいます。 写真の記緑と違い、 準備に時間がかかりますが、遺跡の中で、 遺構や遺物がどの位置、 どの高さから見つかったのかを正確に記録することができます。特に重要な遺構は、
画板に方眼紙を貼り、1点、 1点メジャーを片手に実測し、測量図を作っていきます。 |
遺跡を記録する |
写真による記録 |
測量による記録 |
写真撮影をする様子
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実測をする様子
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竪穴住居実測図 |
遺物出土状況実測図 |
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4113発掘せずに遺跡を探る(地中レーダー探査)
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近年、考古学の世界では、 遺跡を発掘調査せずに、地下の状
態を探る手段として「地中レーダー探査」を用いることがあります。
はんい
この方法は、広い範囲に分布する遺構を探るためや、さまざまな
事情により発掘調査のできない遺構を発掘せずに地下の状態を 探るものとして非常に有効です。 |
3発掘せずに遺跡を探る
(地中レーダー探査) |
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生目古墳群でも、 レーダー探査を数回おこない、 発掘調査をせずにさまざまな成果を得ることができました。 |
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3号墳探査位置
467-492cm
遺体を埋葬した穴? |
3号墳の後円部では、 後円部の中心よりやや 東で四角い穴が確認され、 この穴に棺を埋めた可能性が高いことが解りました。 |
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22号墳探査位置
棺の痕? |
22号墳
後円部のほぼ中心で、遺体を埋めた穴だけで なく、遺体を納めた棺の跡のような反応まで 確認されました。 |
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7号墳探査位置 |
7号墳
7号墳の後円部平坦面では、遺体を埋めた穴が発見された他、 後円部の斜面から下では、 地下式横穴墓が発見されました。 これが7号 墳の地下式横穴墓発見の第1歩となりました。 |
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9号墳探査位置
Name Kofu #9
12: 60-97cm
地下式横穴墓?
古墳の周溝?
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9号墳
円墳が多く所在する9号墳の周辺では、周囲の地 下の遺構を確認するためにおこないました。 そ の結果9号墳の周囲に数基の地下式横穴墓があ
ることや、9号墳の東側で消滅した円墳の周溝の可能性のあるドーナツ型の溝が発見されました。 |
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| 4117
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5000廊下展示
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5001日本遺産
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JAPAN HERITAGE
千年の風景に出逢う場所、みやざき
KOFUN LANDSCAPE
天孫降臨の神話が息づく南国宮崎には いまも太古の景色が広がる場所が残されている あまりにのどかなその風景は訪れる人たちを日常から解放し別世界へと誘う
日本遺産
南国宮崎の古墳景観
西都市・宮崎市・新富町・高鍋町
日本遺産南国宮崎の古墳景観活用協議会 |
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JAPAN HERITAGE
古代人のモニュメント
一台地に絵を描く 南国宮崎の古墳景観-
古墳時代、宮崎平野でも西都原古墳群を始め多くの古墳が造られま した。日本列島で数多く造られた古墳のある景観は、時の移ろいのな かで様変わりしますが、 宮崎平野には繁栄した当時に近い景観が今も 保たれています。
台地に描かれた模様のような古墳の群れや、夕暮れの台地にそのシ ルエットがより鮮明に浮かび上がる前方後円墳、また、畑が広がり生 活道路が通る風景に自然に溶け込む円墳たちなど、古墳の姿形がほぼ
損なわれることなく、古墳の周りに建築物がほとんどない景観は全国 で唯一のものと言えます。 |
日本人のモニュメント
-台地に柄を描く南国宮崎の古墳景観-
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今回紹介する古墳の位置
今回紹介する古墳の位置
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1号墳 発掘調查:平成25.26.27年度
2号墳 発掘調查:平成27年度
24号墳 発掘調查:平成5·28·29年度
25号墳 発掘調查:平成5·28·29年度
26号墳 発掘調查:平成5·28·29年度
3号墳 発掘調査:平成10·11·12·19·21年度 |
 33号墳 発掘調査:平成16.21-23·25·26年度
9号墳 発掘調查:平成6·17·20·21年度
11号墳 発掘調査:平成6-20·21年度
12号墳 発掘調查:平成6·20·21年度 |
 19号墳 発掘調查:平成24年度
17号墳 発掘調查:平成24年度
18号墳 発掘調査:平成24年度
16号墳 発掘調查:平成24年度 |

22号墳 発掘調査:
平成16・23・30年度 |
1号墳
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1号墳の立地
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大淀川の方から見た1号墳
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1号墳の立地
跡江丘陵の最も北側に位置す る前方後円墳で、 大淀川やその 対岸からも古墳がよく見えるよ うにつくられています。 |
1号墳の発掘調査
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1号墳の地山盛土境界と 波状葺石の模式図
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1号墳の発掘調査
古墳の数カ所に調査区を設定し、 発掘調査を行ったところ、 後円部 と前方部は3段につくられ、 その大きさは生目古墳群で2番目となる墳長130mに復元されることがわかりました。
前方部の墳頂を除き、斜面は石 (葺石といいます) で、平坦面は礫(=細かい石、礫敷といいます) で覆われていました。 埴輪や、葬送儀礼などの祭祀に使った土器も出土しなかったため、
出土遺物を根拠に1号墳がつくられた時期を判断することはできません。 しかし、古墳の形や 石で覆われた状況から、 4世紀後葉につくられたと考えられています。 |
葺石が特徴的
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波状葺石
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葺石が特徴的
後円部では、蒼石がほぼ当時のままで 残っていることがあきらかになりました。 特に、下から数えて3段目の斜面では、 全国的に見ても他に例のない 「波状」に 石を積み上げる工法が使われています。 |
2号墳、24~26号墳の調査成果
2号墳、24~26号墳の調査成果 |
2号墳の調査 |
2号墳の調査
生目1号墳の東側に隣接する生目2号墳は、直径30mの円墳で、墳丘は2段につくられ周溝があります。発掘調査により、 墳頂で埋葬された場所と推測される落ち込みがみつかり、また、
周溝や墳頂からは、土師器の壺などが出土しています。
なお、2号墳のつくられた時期に ついては、 1号墳と互いを避けるようにつくられていることから、 1号墳と近い時期ではないかと考えられ ています。 |
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生目24~26号墳調査区配置図
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24~26号墳の調査
生目24~26号墳は、2号墳の北東側に順に並んでいて、 3 基すべてが円墳です。 墳丘の残っている状態はあまり良くありませんが、 発掘調査成果
から復元される大きさがそれぞれ直径 13m、 18m、 26m、 高さが1.3m~ 1.6m以上であることがあきらかになっています。
出土した遺物から、 24号墳は4世紀末から5世紀初頭に、25、26号墳は5世紀ごろにつくられたと考えられます。 |
3号墳の調査成果
3号墳の調査成果
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九州最大の前期古墳 |
3号墳遠景 |
九州最大の前期古墳
生目3号墳は、跡江丘陵の北側に位置する前方後円墳です。 発掘調査
の成果から、 墳長が 137m、 後円部の直径が77m、 後円部の高さが
11m、前方部の幅が37
m、前方部の高さが6m の 「九州最大の前期古墳」 であることがあきらかに なりました。
3号墳がつくられた時 期については、古墳の形 から4世紀中ごろと考え られています。
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3号墳の構造と後の活用 |
3号墳前方部前面葺石 |
3号墳の薬研堀
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3号墳の構造と後の活用法
3号墳は、後円部が3段、前方部2段につくられ、墳丘の全体を斜面は石 (葺石といいます)で平坦面は礫(=細かい石、礫敷といいます) で覆われています。
また、 埴輪や土器などは全 く出土していないため、 それら を使って祭祀などが行われていたかどうかは不明です。
古墳時代の後の中世 (おそらく室町時代)には、薬研堀という防御用の溝が後円部に掘られていて、 戦いの拠点である砦として使われていたようです。
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9号墳+33号墳=前方後円墳
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発掘調査とレーダー探査
大型の円墳9号墳で、 発掘調査とともにレーダー探査を行ったところ、 「円墳ではなく前方後円墳のくびれ部 ではないか」と考えられる結果が得 られました。
そこで隣接する33号 墳に注目し、発掘調査を実施したところ、周溝が9号墳に向かって直線 状に延びていることがわかりました。 さらに詳しく調査した結果、南九
州の前方後円墳に特徴的な周溝である「南九州型周堀」 であることがあきらかになり、2つの円墳は実は 1 つの前方後円墳であった可能性が高くなっています。 |
9号墳+33号墳=前方後円墳
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発掘調査とレーダー探査
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ま上から見た9号墳と33号墳
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レーダー探査 |
生目古墳群最古の古墳か

墳丘復元図 |
生目古墳群最古の古墳か
9 +33 号墳がつくられた時期については、埴輪や土器が出土し、 その調査成果からつくられた時期があきらかになっている21号墳と古墳の形が似ているため、ほぼ同じ時期 につくられたと推測されています。
その時期は、 生目古墳群でも最古 となる4世紀前半ではないかと考え られています。 |
東野台地で周辺の古墳からやや独立する円墳たち
東野台地で周辺の古墳からやや独立する円墳たち
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16~19号墳について |
16号墳墳頂須恵器出土状況
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16~19号墳について
16~19号墳は、跡江丘陵のなかでも東側の小さく舌状にとびだした 位置にあります。 4つの 円墳は、現況ではいずれ も最大直径が15m程度、 高さが2m前後の大きさ
ですが、周囲が大きく削平されているため、 発掘調査によりあきらかになった 17号墳の直径 (17m)以外は大きさなどについての正確な情報は得られていません。 |
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16~19号墳の調査について
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17号墳土器出土状況 |
16~19号墳の調査について
16号墳では、 墳頂からまとまって出土した須恵器の形から、6世紀後葉につくられたと考えられています。 また、 17号墳では、周溝の外 側斜面で地下式横穴墓とみられる遺構がみつかっており、その周辺から
出土した土師器の形から、 5世紀中葉以前につくられた可能性が高いと 推測されています。
18号墳と19号墳に ついては、それぞれがつ くられた時期を考察する 遺物や情報が十分に得ら れていないため、 それら についての詳細は不明で
す。
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生目古墳群(古墳時代前期から後期(約1700〜1400年前)の50基で構成)
で3番目に大きな 前方後円墳 「22号墳」
生目古墳群で3番目に大きな 前方後円墳
「22号墳」
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22号墳の調査について |
地中レーダー探査 |
22号墳の調査について
22号墳は、跡江丘陵の南側に位置する復元墳長 101mの前方後円墳で
す。 発掘調査により、 後円部が3段、前方部が2段につくられ、 墳丘の全面 が石で覆われていたことがわかりました。
壺形埴輪が多く出土していて、 形 や作り方から複数の集団が埴輪作りに かかわっていたのではないかと推測さ れています。
埋葬されている場所については、地中レーダー探査の結果から粘土槨 (木製の棺を粘土で覆い埋葬するもの)か木棺直葬 (木製の棺を直に埋葬するもの)の可能性が高く、また、古墳がつくられた時期については、張り出し部から出土した
土器の形から4世紀後葉と考えられています。 |
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張り出し部について |
張り出し部調査状況
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張り出し部について
古墳の前方部東側のほ ぼ中央に「張り出し部」 があります。 この張り出 し部は、土を盛るのでは なく元々の地面を削り出 してつくられていて、
周 囲には “コの字形” の溝
がめぐらされています。
その溝からは、高坏や壺などの土師器が出土していて、なんらか
の祭祀を行っていた場所だと考えられています。 |
進化する生目のハニワ
進化する生目のハニワ |
生目古墳群の壺形埴輪
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生目古墳群の壺形埴輪
生目古墳群では、4基の前方後円墳で壺形埴輪が出土しています。
それぞれの埴輪は4世紀前半か ら5世紀初頭までにつくられ、 注意深く観察すると、 丸かった胴部が縦方向に伸び、口縁部や頸部、底部の孔が大きくなっています。
この変化の過程を4基の前方後円墳にあてはめてみると、 21号 墳→22号墳→14号墳→5号墳の 順になります。 埴輪の変化をひと つの古墳群の中で知ることができる、
稀有な例となっています。 |
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南九州で流行した壺形埴輪
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南九州で流行した壺形埴輪
4世紀後葉から5世紀初頭におい て、北は延岡市から南は鹿児島県の 肝付町まで、 南九州の多くの古墳で は壺形埴輪が使われています。
それ以前から使い続けられていた生目古墳群の壺形埴輪が、 南九州全 体に影響を与えたのかもしれません。 |
日常に溶け込む古代モニュメント ~下北方古墳群~
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下北方古墳群は、平和台公園周辺に点在する古墳群で す。 前方後円墳4基、 円墳 12 基、 地下式横穴墓28 基、 土 坑墓1基が確認されている古 墳群で、 生目古墳群で大型古 墳築造が停止するのと入れ替 わるように築造が開始されま す。 下北方5号地下式横穴墓 もこの下北方古墳群に含まれ ます。
市街地化が進んだ現代の町 並みの中、 道路脇や住宅の合 間にひっそりと。 古墳時代の 景観は、私達が暮らす日常の 風景の中に溶け込むように今 も残されています。このこと を思うとき、遠い過去のこと と考えてきた古代の人々の暮 らしがいっそう身近で親しみ やすいものとして感じられる ことでしょう。 |
日常に溶け込む古代モニュメント
~下北方古墳群~
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下北方古墳群分布図
○付番号が地下式横穴墓
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風景に溶け込む古墳。
左は、景清廟から西に進んだ場所にある下北方5号墳。
下は、大宮 分団第六部消防小屋の 向かいにある下北方6号墳の様子。 |
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宮崎平野への仏教伝来と蓮ヶ池横穴群 ―53号横穴―
7世紀前半に造られた53号横穴は、横穴の全長が9.1mあり、遺体を納める玄室の床面積が 16m2と蓮ヶ池横穴群で最大の広さを誇ります。
玄室の壁を観察すると、 右側には亡き死者の魂が船に乗り他界へと おもむく姿を近親者が見送る様子が描かれ、 左側には邪の気を排除す る鬼面文が描かれています。その他にもいろいろな線刻が描かれてお
り、これらの壁画は、この地域に暮らす人々の死生観を考える上でと ても貴重なものです。 また、描かれている内容は、 日本列島への仏教 の伝来と地方への伝播といった日本史ともリンクさせて考えるべきも
ので、これからはより専門的かつ広域的な検討・検証が必要になるで しょう。 |
宮崎平野への仏教伝来と蓮ヶ池横穴群 |
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写真左:
蓮ヶ池53号横穴写真。 壁面に縦方向の工具痕が明瞭に見えます。
写真下左:
亡き死者の魂は舟に乗り他界へと旅立つという、
当時の人々が死をどのように考えていたかわかるモチーフ。
写真下右 :
鬼の顔を表現した非常に珍しい線刻壁画。 写真の 範囲外ですが、
両脇に2体の従者を従えています。 鬼のモチーフや、 2体の従者を
従えるという三位 一体という構図から仏教の影響が想定されます。 |
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写真左:
蓮ヶ池53号横穴写真。 壁面に縦方向の工具痕が明瞭に見えます。 |
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亡者の旅立ち
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写真下左
亡き死者の魂は舟に乗り他界へと旅立つという、当時の人々が死をどのように考えていたかわかるモチーフ。
写真下右 : |
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鬼の顔
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写真下右
鬼の顔を表現した非常に珍しい線刻壁画。 写真の 範囲外ですが、
両脇に2体の従者を従えています。 鬼のモチーフや、 2体の従者を
従えるという三位 一体という構図から仏教の影響が想定されます。 |
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5100発掘速報展
令和6年度発掘調査成果速報展
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・伊勢ノ原遺跡第3地点
縄文人の調理場跡
・町の前遺跡
古代最大の巨大竪穴建物跡の発見 |
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| 5103今回の遺跡の位置
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5110町ノ前遺跡➀
~加納の丘の歩んだ歴史~
町ノ前遺跡は、 ハンズマン加納店の西にある丘に立地します。 発掘調査により、 縄文時代から江戸時代の遺跡であることが分かりました。
町ノ前遺跡➀ |
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町ノ前遺跡➀
~加納の丘の歩んだ歴史~
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台地における調査区の位置図 |
<調査原因>
土地造成
<調査期間>
令和元年6月~令和2年3月
<調査面積>
2,968㎡
<主な時代>
縄文、古墳、古代 (奈良、平安) 中世(鎌倉、 室町) 近世 (江戸) |
縄文時代は狩猟の場
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陥し穴状遺構 (半裁)
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【縄文時代は狩猟の場】
縄文時代早期 (今から約8,500年前)の石器や土器が少量出土し、陥し穴状遺構が8基確認されました。
一方、調理施設である集石遺構と炉穴は見つかりませんでした。 このことから、 縄文時代、この丘は狩りなどを行う場だったようです。 |
【今はない古墳の存在】 |
加納古墳群
白砂坂第2古墳
上平野古墳
白砂坂古墳
白砂坂第3古墳
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【今はない古墳の存在】
調査では、堤瓶や管玉が出土しました。
これらは古墳の副葬品です。 ここに造られた 古墳を古代に削平したために、
副葬品が古代の遺物に混ざったものと考えられます。
加納地区には今は消滅していますがいくつかの古墳があり、
この遺跡でも詳しいことは分かりませんが、古墳が作られていたようです。 |
古墳時代の遺物
町ノ前遺跡
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土師器 |
須恵器(堤瓶) |
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5120 町ノ前遺跡②
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町ノ前遺跡②
~凹凸と倉庫群~
町ノ前遺跡では、 発掘調査によって古代の特徴的な遺物や遺構が 確認されました。 |
町ノ前遺跡②
~凹凸と倉庫群~ |
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町ノ前遺跡②
~凹凸と倉庫群~
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・古代遺構配置図
・地滑り跡
地滑りによる落ち込み
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【地滑り跡 】
町ノ前遺跡では、 地滑りや沈降による落ち込みが確認 されました。 落ち込みの埋没土からは、 古代の遺物が多く出土しました。
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・掘立柱建物空中写真
・古城第2遺跡の「長舎」 (1区掘立柱建物9) |
【古代の掘立柱建物群】
左の写真は、調査で検出した掘立柱建物です。
黄色と緑の建物は、 方向が同じであるため、 そ れぞれ同時期に存在したようです。
SB4はひと際大きな建物です。 柱の配置から、 7世紀から9世紀にかけて建てられた 「長舎」と考 えられます。
長舎は、税である米などを保管する倉庫に使わ れました。 市内では古城第2遺跡でも確認されて います。 |
掘立柱建物空中写真
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古城第2遺跡「長舎」
1区掘立柱建物9
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平安時代の遺物
町ノ前遺跡 |
土師器
平安時代の遺物
町ノ前遺跡

土師器坏 |
・甕口縁部と胴部境にる段が特徴
・ヘラ削りの土師器坏

須恵器
灯明皿,転用硯 |
同安窯系青磁
須恵器
灰釉陶器
黒色土器 |
越州窯系青磁 同安窯系青磁
白磁,灰釉陶器

墨書土器「百」
緑釉陶器 |

墨書土器
緑釉陶器 |
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5130 町ノ前遺跡③
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町ノ前遺跡③
~巨大な竪穴建物~
町ノ前遺跡からは4軒の竪穴建物が発見されました。
なかでも3号竪穴建物は、 9m×8.6mとひと際大きく、 その理由については今のところ明らかではありません。 |
町ノ前遺跡③ |
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3号竪穴建物空中写真 |
3号竪穴建物空中写真
【2号竪穴建物】1辺2m。小型の竪穴建物です |
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【長煙道付カマド】
カマドと煙道には白い粘土を 使っていました。
煙道が長く、 建 物から約1.2m突出していました。 |
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【建物中央部の硬化面】
建物の中心付近はドーナツ形に硬く踏み固められていました。使用頻度の高さが原因と考えられます。
右の写真は、その部分を作業員さんが座ったものです。 |
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【遺跡に住んだ人の謎】
長い煙道のカマドを持つ竪穴建物、 独特な甕や坏などは、 宮崎平野でも 大淀川より南の遺跡にみられる特徴 であり、独自性の強さが窺えます。
これらの特徴から、この一帯は俘囚 (ふしゅう=東北からの強制移住民※)や、それに関連した人物のムラであったのでは、と考えられています。 |
遺跡に住んだ人の謎 |
「段」を持つ土師器甕が 出土した集落遺跡 (東北俘 囚のムラ)
今塩屋毅行 「日向における頸部 に段を持つ土師器甕の軌跡」 『宮崎考古』 第33号を加筆 |
3号竪穴建物出土土器
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土師器 |
3号竪穴建物出土遺物
布痕土器
土師器
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軽石製石製品
甕
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※考察 俘囚
平安時代の東北戦争で、降伏したアテルイは斬首され、捉えられた人々は、西日本の各地(四国を含む)に分散して住まわされ、地元民は方形住居
であるのに、わざと円形の古い形式の住居に住むことを強要され、生きるために、地元民の下働き、農奴的な生活を強いられたと聞く。
同じようなことが、九州での戦争で、隼人と呼ばれる人々は近畿地方に送られ、生きるために、竹細工の日用品を作り、売り歩いた。
まさに見下された生活を余儀なくされました。
※さて、行商の話が出たついでに私の記憶の行商を書いておきます。
反物・毛布・煮干し・ワカメ・昆布製品など、これらを背中にかついで持ってくるのです。また、常便といって、頼まれたものをその日の
うちに届ける。薄利な仕事。これも背中にかついで、電気炬燵をそのままかついでいました。(女性)
営業用自転車の荷台に板を載せて広げ、米を山のように積んで運んだりしていました。(何百kmの移動)物凄い重量で専用タイヤですね。
但し、昭和40年代までは米は統制品で、塩などと共に国が管理しており、購入するには米穀通帳が必要でした。今でも米の販売には政府の免許が
必要ですが、こうして運ばれた米はヤミ米と言われまして、お巡りさんに捕まることがありました。
私が大学の寮に入った時に、食堂から米穀通帳を要求され、ほどなく、法律廃止となりました。
肉や魚の行商は現在もあります。肉はなくなった。夏のアイスクリームや金魚の行商。
もっと凄いのは、座敷に置くテーブルを二つ背中に背負って汽車で運び、現地で駅前自転車置き場で自転車を借り、売り歩く(走る)のです。
また、玄米を保存するブリキの缶ですが、 二石(にこく)入るドラム缶の縦横を1.5倍程(直系70cm高さ1m)程の巨大な米缶を2個、背負子で背負って
自転車を借りて売り歩くのです。これには掛け声は不要で、道路事情の悪い田舎道では、穴に落ちるたびにどかん×2と音がするのですぐ分かった。
弥生時代から続く、金属器の修復屋。鋳掛屋(いかけや)さん。ポン菓子屋さん、紙芝居屋さんなど、子供の頃の気温です。
今のような流通経済が発達していなかった頃には、職人が物を作っても売る方法がなく、自らそれを汽車に乗せ、売らねばならなかった。
ちなみに、東北旅行をした時に、菅帚(すげぼうき)の行商人が列車に乗ってきた。私は是非買いたかったが、それをもって旅行は出来なかった。
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5140 町ノ前遺跡④
~中世の “祈りの丘”~
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町ノ前遺跡からは、 中世の遺物も多く出土しました。 しかし古代とは違った土地利用を行っていたようです。 |
町ノ前遺跡④ |
町ノ前遺跡④
~中世の “祈りの丘”~ (祭祀遺跡)
町ノ前遺跡からは、 中世の遺物も多く出土しました。 しかし古代とは違った土地利用を行っていたようです。 |
中世遺構分布 |
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【祭祀遺構】
調査区の南部には、1m×0.5mの範囲に白色 粘土と炭化物の高まりが あり、その下から小皿を 中心に多くの土師器が出
土しました。
中世に祭礼を行った遺構と考えられます。 |
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経石出土状況
【江戸時代の町ノ前遺跡】
江戸時代、町ノ前遺跡ではお 経の文字を一字ずつ書い小石に 書き、一か所にまとめた「経石
(経石)」が確認されました。 |
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【墓壙 】
調査区の南西部で検出 しました。 2.3m×1.2m という大きさやまとまっ た量の土師器、 鉄製の刀
や矢尻が出土ました。
このことから、この穴 は 「墓」 と考えられます。
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【道跡】
調査区の南部では、 幅 の広い道跡を検出しました。
埋土からは、 土師器の 坏や青磁、 滑石製石鍋な ど、 中世の遺物が出土し ました。 |
江戸時代の遺物 |
経石:墨で梵字が書かれいてる
江戸時代の遺物 |
土師器 |
墓坑出土土器
土師器
高坏の脚部を意図的に打ち欠いて皿状にしたもの |
土師器杯
土師器小皿
祭祀遺構出土土器
道跡出土土器 |
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5150下北方第4 |
5151 下北方第4-1
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下北方遺跡第4地点➀
~大昔の住宅密集地!? ~
下北方遺跡第4地点は、 下北方町の台地上に位置します。
平成30年度に発掘調査が行われ、 古墳時代と飛鳥・奈良・平安時代の竪穴建物の跡が数多く見つかりました。 |
下北方遺跡第4地点➀
~大昔の住宅密集地!? ~ |
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調査区遠景写真
含む日向灘
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<調査原因>
集合住宅建築
<調査期間>
平成30年11月~
平成31年2月
<調査面積>
372㎡
<主な時代>
古墳時代
飛鳥・奈良・平安時代 |
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【発見された遺構】
掘立柱建物1棟、 土坑12基、溝状遺構7条、ピット、 そして竪穴建物33軒が見つか りました。
【古墳時代の竪穴建物】
竪穴建物のうち、3軒は古墳時代のものでした。
その中からは土師器や須恵器、砥石などが出土しましたが、特に土師器の量は多く、甕や壺、高坏、ミニチュアの壺など色々な種類がありました。
【飛鳥・奈良・平安時代の竪穴建物】
飛鳥・奈良・平安時代の竪穴建物は30軒 を数えました。 ただし30軒が同時に建って いたわけではなく、 何度も何度も建て替え が行われた結果、 このような高密度で建物 の跡が残ったのです。 その中からは土師器や須恵器 緑釉陶器などが出土しています。 |
【発見された遺構】 |
調査区全景(南西から)
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竪穴建物47完掘状況
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5153下北方第4-2
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下北方遺跡第4地点2
~古墳時代の土地利用~
下北方遺跡では、 住宅の建て替えや宅地造成にともない、多くの発掘調査が行われてきました。 その結果、 古墳時代におけるこの地域の土地利用の実態が徐々に見えつつあります。 |
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【下北方遺跡第4地点】
古墳時代の竪穴建物 (白線で表示) が3軒見つかりました。 |
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【下北方遺跡第2地点】 方形に巡ると思 われる溝状遺構が 見つかりました。
溝で囲まれた内側に、 首長居館が 存在した可能性が 考えられます。 |
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【下北方5号地下式 横穴墓出土品】
「展示室2で展示中」(この室内は撮影禁止) |
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5155下北方第4地点
古墳時代の竪穴建物出土物 古墳時代中期
下北方遺跡第4地点
古墳時代の竪穴建物
出土物 |
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敲石兼磨石
砥石 |
土師器畿内系
土師器吉備系
土師器 |
土師器畿内系
土師器吉備系
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土師器畿内系 |
ミニチュア土壷
成川式土器
土師器畿内系 |
製塩土器
ミニチュア壷
成川式土器 |
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1570 下北方第4-3
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下北方遺跡第4地点③
~飛鳥・奈良・平安時代のカマド~
飛鳥・奈良・平安時代の竪穴建物30軒のうち、16軒でカマドが見つかりました。 |
下北方遺跡第4地点③
~飛鳥・奈良・平安時代のカマド~ |
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竪穴建物41
カマド調査状況 |
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カマドのイメージ図
※宮崎県立西都原考古博物館令和
4年度国際交流展図録より転載 |
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【北壁につくられたカマド】
カマドが見つかった竪穴建物16軒のうち、 13軒では建物の北壁にカマドがつくられていまし た。カマドは、通常、入口の対面に位置していたと考えられていることから、 下北方遺跡第4地 点の竪穴建物の多くは、南側に入口が開いていた可能性が高いということになります。
また竪穴建物の入口は、集落の中を通る道に向かって開いていたという説もあり、これに沿う と、下北方遺跡第4地点の南側に道が通っていたということになります。 |
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【土器埋設炉】
古代の竪穴建物のうち2軒では、土器
埋設炉が見つかりました。
土器埋設炉は南九州独自の設備で、 多 くは床の中央に使用済みの甕を埋設し、 調理や暖房、 照明のために火を焚いて使 用しました。
竪穴建物 11
土器埋設炉調査状況 |
下北方遺跡第4地点
飛鳥・奈良・平安時代の遺物
飛鳥,奈良,平安時代の遺物 |
下北方第4地点
飛鳥,奈良,平安時代の
竪穴建物出土遺物
緑釉陶器
鞴羽口,須恵器
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下北方第4地点
飛鳥,奈良,平安時代の
遺物
高台付杯(須恵器)
高台付杯(土師器)
燈明具:煤や炭化物付着
土錘:網おもり |
土師器 湯釜
カマドに据えた甕 |
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5180伊勢ノ原 第3地点
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伊勢ノ原遺跡第3地点
~縄文人の調理場? ~
伊勢ノ原遺跡第3地点の発掘調査ではアカホヤ火山灰層(約7300年前)の下の地層から、 縄文時代早期の集石遺構や土坑と共に縄文土器や石器が見つかりました。 |
伊勢ノ原遺跡第3地点
~縄文人の調理場? ~
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<調査原因>
調査区全景写真
農道整備
<調査期間>
令和4年11月~
令和5年2月
<調査面積>
128m2
<主な時代>
縄文時代早期 |
集石遺構 |
【集石遺構】
SI-13写真
SI-6・7・20・25写真
穴の中でたくさんの石を焼いて、 葉っぱにくるんだ肉や魚、 芋など食材をその石の 中に入れて蒸し焼き料理を作った跡です。 石を燃やした時の木や枝が炭になって 残っていて、それを分析したところ、 今から約8500年前のものだということがわ かりました。 |
伊勢ノ原遺跡第3地点
遺物包含層出土遺物
伊勢ノ原遺跡第3地点
遺物包含層出土遺物 |
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押型文土器 |
押型文土器とは AIによる概要
押型文土器は、主に縄文時代早期〜前期(約8000〜6000年前)に作られた、文様を刻んだ棒状の工具を土器の表面に押し付けて回転させ、連続的な文様を施す手法(押型文技術)が特徴の土器です。山形や格子目、楕円などの模様が特徴で、縄文時代における施文技術の転換点となる土器形式です。
押型文土器の特徴と技術
・施文方法: 鉛筆程度の太さの丸棒に彫刻を施し、それを土器の面で転がすことで、複雑で同じ模様を連続して描く技術です。
・特徴的な文様: 主に楕円、山形、格子目、雲形などが代表的で、器面全体に装飾されることが多いです。
・器形: 早期のものは底が尖った「尖底(せんてい)」のものが多く、置く際には工夫が必要でした。
・構造: 器壁は比較的厚く、砂を混ぜて作られる傾向があります。
時代背景と広がり
・時期: 縄文時代早期に登場し、前期末から中期前半にかけて北海道の東部など、特に地域的な特色が顕著でした。
・意義: 縄を転がして模様をつける「縄文(撚糸文)」とは異なる、高度な技術であり、熟練の職人によって作られた精巧なものも存在します。 |
下剥峯式土器

➀
下剥峯式,吉田式,石坂式は、7,300年前の、
鬼界カルデラの破局的噴火以前の
土器型式であり、これら南九州の文化は全て滅んだと思われる。
②
下剥峯遺跡は種子島の遺跡で、この遺跡から下剥峯式土器が大量に出土したとのこと、この形式の中心であったと考えられる。この形式の土器が他の遺跡から出土するのは、おそらく舟での交易が盛んだったのでしょう。その際、下剥峯式土器が役に立ったのではないでしょうか。
③
鬼界カルデラの絶滅噴火以前に、種子島のような小さな島に高い土器文化が生まれたり、上野原縄文の森の高い文化は、やはり、南方海洋民族の漂着によるものなのでしょう。
食糧に限りのある種子島で高い文化が独自発達するわけもなく、
飢え死にしなかったのは、始めから高い文化の持ち主たちだったから。漁撈技術に優れ、島の大きさに縛られない食料調達ができたからでしょう。
④
そしてそこでつくられた土器が宮崎まで、
盛んな交流によって
運ばれたのでしょう。
直線で173km、陸伝い航法で200kmを越える往復の旅を海の達人たちはこなしていたのでしょう。 |
下剥峯式土器 AI による概要
下剥峯(しもはぎみね)式土器は、南九州(鹿児島県周辺)の縄文時代早期に位置づけられる特徴的な土器型式です。
石坂式土器と同時期もしくは近い時期(約7,000〜8,000年前頃)の火山灰層から出土し、この地域の早期の編年(時間的な順序)において重要な指標となります。
特徴と概要
・出土場所: 鹿児島県の上野原遺跡(第10地点)などで発掘されており、下剥峯遺跡が典型とされます。
・文様: 押型文(おしがたもん)土器や桑ノ丸式土器に見られるような、特定の文様を押し付けてつけられたものや、木葉痕(木目状の痕跡)が指摘されています。
・層位・時期: 鹿児島県に特有の火山灰層であるAh(アカホヤ火山灰 約7,300年前)の直下層から見つかる、石坂式土器や前平(まえびら)式土器と関連する時期のものです。
南九州の縄文早期における土器文化の変遷を解明する上で、異系統の土器が混在する中での基準資料の一つとされています。
※標識遺跡:下剥峯遺跡は鹿児島県西之表市(種子島)に所在する縄文早期~晩期にかけての複合遺跡です。
下剥峯遺跡 AIによる概要
下剥峯遺跡は、鹿児島県西之表市(種子島)に所在する縄文時代早期から晩期にかけての複合遺跡です。
約6,400年前のアカホヤ火山灰層の下から吉田式土器(早期前葉)が出土し、特に南九州の縄文早期を代表する土器型式である「下剥峯式土器」が大量に出土したことで知られています。
特徴と概要
・所在地: 鹿児島県西之表市古田
・時代: 縄文時代早期〜晩期 (縄文時代早期・前期、弥生時代) ※連続的に営まれた遺跡ではないようです。当然ですが
特に時代早期(約7,000〜8,000年前頃)
・主な出土品: 下剥峯式土器(縄文早期)、石器類
・特徴: 標高約42メートルの台地上に位置し、1970年代の圃場整備に伴う調査で発見されました。南九州における縄文時代の編年(時期区分)を確立する上で極めて重要な遺跡です。
南九州の縄文文化、特に草創期から早期への移行期を知るための貴重な学術資料です。
吉田式土器(早期前葉) AIによる概要
吉田式土器は、南九州(鹿児島県吉田町大原遺跡など)を中心に展開した縄文時代早期の土器型式です。河口貞徳氏が定義し、石坂式に次ぐ前平式の前段階(古段階:外反する口縁と楔形突起)として位置づけられます。貝殻文や刺突文が特徴的で、同地域の早期前葉の変遷を示す資料です。
詳細・特徴
・特徴的な形態: 早期前葉の吉田式は、口縁部が外反し、外面に楔形突起(くさびがたとっき)を狭い間隔で貼り付ける特徴を持つ。その下位に貝殻の腹縁を用いた刺突線文が配される。
・変遷: 従来の編年(石坂式→吉田式→前平式)は、前平式→吉田式→石坂式という逆転の可能性が指摘されており、吉田式は初期の段階にあるとされる。
・代表遺跡: 鹿児島県鹿児島市の吉田町大原遺跡(大原・榎木原遺跡)が基準となる。
・時期: 縄文時代早期(約9,500年前、Sz-Tk3/P13火山灰時期)の南九州における集落形成初期に位置づけられる。
Sz-Tk3 :
「Sz-Tk3」は、約9,500年前から約10,600年前(校正年代)に桜島火山から噴出した火山灰(テフラ)の名称です。正式には「桜島高峠3(Sakurajima-Takahage 3)火山灰」と呼び、P13火山灰とも対比されます。
主な概要は以下の通りです。
・年代: 約9,500年前(奥野, 1996) または約10,600年前(テフラ編年)。
・起源: 鹿児島県の桜島火山。
・特徴・重要性:
・南九州の縄文時代早期の遺跡(上野原遺跡など)の地層から発見され、この時期の遺構の年代を特定する
「鍵層」として非常に重要。
・鹿児島湾奥の海成堆積物や、はるか650km離れた福井県の水月湖(SG14コア)の堆積物からも発見されている。
・約10,000年前前後の海面上昇(メルトウォーターパルス1B)に関連する沿岸平野の堆積物中に見られる。
P13火山灰 :
P13火山灰(桜島高峠3/P13)は、約9,500〜10,600年前(cal BP)に桜島から噴出した火山灰(テフラ)です。鹿児島県の上野原遺跡(上野原縄文の森)などで縄文時代早期の遺構を覆う地層として発見されており、この地域の考古学的な年代特定において重要な「鍵層」として機能しています。
P13火山灰の主な特徴と情報
・起源・名称: 桜島北岳起源。P13(Sz-Tk3/P13)と呼ばれる。
・年代: 約9,500年前〜10,600年前(鹿児島県上野原縄文の森)。
・重要性: 縄文時代早期前葉の遺跡(例: 上野原遺跡)で、遺構の年代を特定するための指標となる。
・場所: 鹿児島湾奥や、上野原遺跡周辺に堆積が確認されている。
関連する桜島テフラとしては、約11,000年前の「サツマ火山灰(P14)」も知られています。 |
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石坂式土器とは AI による概要
石坂式土器(いしさかしきどき)は、鹿児島県南九州市の石坂上(いしさかうえ)遺跡を標式遺跡とする、縄文時代早期(約1万年〜7千年前)の南九州地方の土器型式です。貝殻の縁を使って施文(文様をつける)した円筒形土器が特徴で、この時期の南九州の土器編年の指標となっています。
石坂式土器の主な特徴と情報
・標式遺跡: 鹿児島県南九州市(旧知覧町)の石坂上遺跡第4層。
・特徴: 主に貝殻文(かいがらもん)が施された円筒形の土器が多く見られます。
・時代: 縄文時代早期、特に塞ノ神式(さいのかみしき)土器より新しく、前平(まえびら)式土器などに続く時期です。
・分布: 南九州地方(主に鹿児島県内)に広く分布しています。
この土器は、南九州における縄文時代の生活文化を知る上で非常に重要な資料です。 |
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5190島之内 萩崎遺跡 ➀
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島之内萩崎遺跡➀
~ 旗本島之内島津氏の屋敷地が判明? ~
島之内萩崎遺跡はこれまで16地点で調査が行われており、 弥生 時代から江戸時代までの様々な遺構や遺物が見つかっています。 今 回は3か所の調査地点について展示します。 |
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島之内 萩崎遺跡 ➀
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島之内萩崎遺跡調査地点分布図
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【島之内萩崎遺跡】
石崎川支流の新名爪川と住之江川に挟まれた島状の微高地にある遺跡です。
遺跡内には、 全長70mの前方後円墳の県指定史跡住吉1号 墳や佐土原藩から分かれた旗本島之内島津氏の屋敷推定地があります。 |
島之内島津氏屋敷推定地位置図
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【島之内島津氏について】
江戸時代、 島之内萩崎遺跡を含む一帯は佐土原島津氏の領地でした。
『佐土原藩譜』には「元禄三年(1690) に六代佐土原藩主島津惟久が (五代藩主と して) 番代を務めた島津久寿に三千石を分 地し、 島之内に移った」と書かれており、 ここから旗本島之内島津氏が始まりました。
島之内島津氏屋敷推定地位置図 宮崎県宮崎市大字島之内字萩崎7671番3
【島之内島津氏屋敷推定地】
島之内地区では、 第2地点の北側の土地に 旗本島之内島津氏の屋敷があったと伝えら れています。 |
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古墳時代の遺物 |
現代の遺物 |
土坑5出土物 |
砥石,土師器 |
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5210島之内 萩崎遺跡 2
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第2地点 全景写真
第2地点では弥生から古墳時代と江戸時代の 溝状遺構が1条ずつ見つかりました。
また、たくさん昭和の薬瓶が出土し、なかには 「中島医院」と書かれたものもありました。 |
1号溝状遺構写真
江戸時代のもので北側にある島之内島津氏の屋敷境だと考えられ ます。 |
【第2地点】
<調査原因>
共同住宅建築
<調査期間>
平成28年2月~3月
<調査面積>
101㎡
<主な時代>
弥生時代~古墳時代、
江戸時代 |
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第3地点全景写真
第3地点では弥生時代、古墳時代、江戸時代の土坑と溝状遺構が見つかりました。
ここは島之内島 津氏の家臣初山氏の屋敷地です。 |
土坑5写真
古墳時代の初め頃の土師器がまとまって出土しました。
食料などを貯蔵していたと考えられます。 |
【第3地点】
<調査原因> 宅地造成
<調査期間> 平成29年5月
<調査面積>
74㎡
<主な時代>
弥生時代~古墳時代
江戸時代 |
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第5地点全景写真
第5地点では弥生時代の掘立柱建物と大溝、室町時代から江戸時代の掘立柱建物と
土坑、溝状遺構が見つかりました。 |
溝状遺構6写真
幅 1.7m、深さ0.9mの弥生時代の大きな溝です。
このような溝は第1地点でも見つかって おり、島之内萩崎遺跡内に環濠集落があったと考えられます。
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【第5地点】
<調査原因>
宅地造成
<調査期間>
平成31年3月~令和元年5月
<調査面積>
221㎡
<主な時代>
弥生時代、
室町時代、
江戸時代 |
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