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 2025.11.19-1

  和歌山市立博物館 和歌山市湊本町3丁目3-2
   073-423-0003 月休 撮影可

 
交通 和歌山駅から和歌山バス0系統で和歌山市駅前下車
和歌山市駅から南西に500m徒歩7分

近隣観光地 和歌山城観光マップ
近隣博物館 和歌山市の博物館
 
 目次


20館内案内
25和歌山の遺跡
30馬冑
31船原古墳
33大谷古墳馬冑

100旧石器時代
111ナイフ形石器
121石鏃

200縄文時代
201縄文の遺跡
※考察 禰宜貝塚
210複顔
220鳴神貝塚
250禰宜貝塚
280縄文土器3種


300弥生時代
301弥生の遺跡
303太田黒田遺跡
310炭化米・石包丁
320竪穴住居
330石器
※資料縦斧と横斧
340土器・銅鐸
343弥生前期土器
※考察遠賀川系と紀伊形土器
※考察紀伊型甕と神武東征
345弥生中期の土器
347弥生後期の土器
350銅鐸
351黒谷銅鐸
353橘谷銅鐸
360高地性集落

400古墳時代
410馬具
420冑
440大谷古墳
445ガラス小玉
※ガラス原料の輸入先
446勾玉・管玉
447矢入具(胡鎬)
448よろいの小札
450天王塚古墳石室
471アクセサリー
472晒山1号墳
473金の勾玉
475明楽6号墳
476巨大な勾玉
481井戸筒
482囲形埴輪
484盾持人埴輪
490古墳時代の遺跡
491岩橋千塚古墳
※岩橋千塚古墳始末記
496製塩土器
497古墳群の金属製品


500古代
501古代の遺跡
510古代寺院の瓦
521
古代王権の外港と紀氏
※紀氏と神武東征
523古代国家と人々
524古代の土地制度
525
聖武天皇の行幸経路

600中世
620紀ノ川流域の荘園
631信仰のひろがり
661火縄銃
665鉄砲と雑賀衆

700近世
710御三家と城下町

800民俗

850近代
851市民の時代
900農具
 
 
 10外観
市立博物館
 20館内案内
古墳時代の力士
古墳時代の力士 ! ?
これは、和歌山市内の井辺(いんべ)八幡山古墳から出土した埴輪です。
腰にふんどしをしめているすがた 両手を 前に出したかっこうから、力士が相 撲を取っている様子を表していると
考えられています。 (和歌山市指定文化財)
石棺の中から見つかったもの
 

大谷古墳展示コーナー 展示替え

石棺の中から見つかったもの

令和7年9月3日 (火)~11月30日(日)
大谷古墳は、大変貴重な馬兜・馬甲が発見された重要な古墳で、出土した遺物は一括で国の重要文化財に指定 されています。
資料の保護のため、展示は年間を通して順次入れ替えています。
今回は石棺の中から発見された遺物にスポットを当てました。紀伊の大豪族の棺の中から見つかったものとは一体何でしょうか!? ぜ覧ください!
(展示資料】
 判読不能
日本博物館協会近畿支部
金製勾玉  ②金製勾玉 展示中!
日本で唯一の古墳時代の金製勾玉で す。 「古墳時代のアクセサリー」 のコー ナーで展示しています。 細かな装飾の 様子をごらんください。
和歌山県指定文化財
 秀吉と戦った雑賀衆
秀吉と戦った雑賀衆
総光寺由来(そうこうじゆらい)(ならびに)太田城水責図」 (2012年に和歌山市指定文化財)は、
田城(たじょう)に籠もる雑賀衆を豊臣秀吉の軍勢が水攻めにする様子を描いています。
戦国の和歌山を生きた雑賀衆の戦いぶりをじっくりご覧ください。


雑賀鉢兜(さいかばちかぶと) ぬり絵始めました!
多くの鉄砲を持ち、織田信長や豊臣秀吉に対抗した雑賀衆を思い起させてくれる勇猛なかぶとのぬり絵です。
実物も展示中だよ
重要美術品
 江戸時代の紀州と着物 ⑥コーナー展示
和歌山市立博物館 コーナー展示
江戸時代の紀州ときもの
令和7年10月7日(火)~11月30日(日)

⑦徳川家康の教え
 「金のなる木」 展示中です
徳川家康 (紀州藩初代藩主の徳川頼宣の父)の教えを記した刷り物。金持ちになるために 要なこと(正直、慈悲深いなど) が、文字を木のかたちにして描かれています。
 資料の近くに解説パンフレットも置いているよ
紀州と家は徳川吉宗 
紀州徳川家といえばこの人徳川吉宗でしょう!

テレビでおなじみの8代将軍・徳川吉宗は紀州藩の5代藩主でした。
教科書にも登場す る肖像画の実物資料の一つをじっくりとご覧 ください。
展示会場模式図
原始:旧石器,縄文,弥生,古墳時代
古代:奈良,平安時代
中世:鎌倉,室町時代
近世:江戸時代
民俗:祭り,復元農家
現代:明治,大正,昭和時代

 25和歌山の遺跡
黄金製勾玉

 和歌山の遺跡
原始,古代

原始
禰宜貝塚
鳴神貝塚
岡崎遺跡
太田・黒田遺跡
井辺遺跡
滝ケ峯遺跡
藻崎遺跡
山東大池遺跡
鳴滝遺跡
大谷川遺跡
橘谷遺跡
楠見遺跡
大谷古墳
岩橋千塚古墳群
晒山古墳群
古代
紀伊国府跡
日前国懸神宮
淡島神社
大同寺
上野廃寺
山口廃寺
満願寺
伊太祁曽神社
薬勝寺
紀三井寺
玉津島神社
中世,近世

中世
沖ノ島北方海底遺跡
報恩講寺
木本八幡宮
総持寺
浄永寺
鷺森御坊
惣光寺
歓喜寺
太田城跡
中野城跡
清水(冷水)道場跡
西庄遺跡
根来寺
近世
和歌山城
水軒御用地
(養翠園)
山口御殿跡
湊御殿跡
嘉家作丁
京橋
町奉行所跡
時鐘堂
旧中筋家住宅
学習館跡
和佐大八郎の墓
番所の鼻
四箇郷一里塚
東照宮
雲蓋院
近代
近代
深山砲台跡
友ケ島灯台・砲台跡
川合小梅の住居跡
カール・ケッペンの屋敷
陸奥宗光生誕地
南方熊楠生誕地
和歌山織工所跡
最初の市役所跡
海草郡役所跡
始成小学校跡
民俗,芸能,歴史の道
民俗・芸能
東照宮の和歌祭
木ノ本の獅子舞
岡崎の団七踊
(西・小手穂・寺内)
淡島神社の雛流し
伊太祈曽神社の茅の輪祭

歴史の道
南海道
熊野参詣道
大和街道
条里制地割,万葉地名

条里型地割
河北地区
日前宮地区
山東·伊太祈曾地区
三上地区

万葉地名
磯の浦
雑賀の浦
明光浦
(和歌浦)
名草山
黒牛潟

 30馬冑 ※この実物と復元品は大変珍しい

谷古墳出土馬冑(うまかぶと) (複製品)
       古墳時代中期、原品:重要文化財、文化庁
 1957年(昭和32年)から始まった市内大谷古墳(全長約70mの前方後円墳)の発掘調査で出土した冑は、馬の顔を覆う 馬具の一種である。中国大陸の敦煌の西魏285窟や朝鮮半島の高句麗の安岳3号墳の壁画などにもみられ、存在は知られていたが、実物が発見されたのはアジアで初めであり、大変注目された。

 古墳時代の日本と大陸との関係の深さを語る資料として、1982年(昭和57年)に他の出土遺物とともに国指定重要文化財に指定された。その後、馬冑は国内では埼玉県や福岡県でも類例が確認され、現在3例となっている。

大谷古墳出土馬冑 大谷古墳出土馬冑 馬冑
(韓国福和泉洞10号墳)

 31
国史跡船原(ふなばる)古墳
 福岡県古賀市 古墳時代後期(6世紀後半)

 国史跡船原古墳 (福岡県古賀市)は6世紀末~7世紀初頭にかけて造られた船原古墳 (前方後円墳)、船原1号墳、7基の土坑群からなります。
 船原古墳1号土坑からは馬具、 武具、 武器、 農工具など500点以上におよぶ副葬品が出土しました。

 特に馬冑は和歌山市大谷古墳埼玉県行田市将軍山古墳についで3例目となります。 馬冑は韓半島で20例ほどの出土例があることから、 韓半島との関係をうかがわせる代表的な副葬品とされます。 ほかに中心の飾りとしてガラスがはめ込まれた辻金具も、 馬冑同様に韓半島との深いつながりがうかがえます。

 なお、船原古墳の発掘調査では様々な最新技術が活用されました。 特に、歩揺(ほよう)付飾金具 (雲珠) は発見時は壊れて元の姿を保っていませんでしたが、CTスキャン撮影のデータをもとに、復元したところ、使用されていた当時の豪華な姿が蘇りました。

国史跡船原古墳 国史跡 船原古墳 船原古墳1号墳出土状況
【箱内中央】
心葉形杏葉,棘葉形杏葉
,步摇付飾金具(雲珠)
【箱内西側】
花形鏡板付轡,円形鏡板付轡,
花形杏葉,
環状鏡板付轡,
唐草文心葉形杏葉,棘葉形杏葉,
宝珠付状雲珠·辻金具,
鉢状雲珠·辻金具,中心部別材辻金具
【箱内南東隅】
環狀鏡板付辔 棘葉形杏葉
心葉形杏葉 車輪文鏡板付轡鈴
【箱内北東隅】
鳳凰文心葉形杏葉,棘葉形杏葉,
ガラス装飾付雲珠,
ガラス装飾付辻金具,
鉢状雲珠·辻金具 鈴

南側
鈴のまとまり·有機質 鈴·鉄鏃

鞍(前輪)·鉄製鐙·木製鞍·両頭金具··鉄鏃·蛇行状鉄器
弓(西側のまとまり)
弓(東側のまとまり)
鐙の吊金具·鞍金具
農工具
鉛の吊金具·鐙の吊金具
鞍(後輪) 障泥の吊金具
漆膜·馬冑

小札甲鉄板·二脚鋲状金具·金銅製鉸具
忍冬唐草文心葉形鏡板付辔
ガラス装飾付辻金具


 32うまかぶと
福岡県古賀市史跡船原古墳出土馬冑
(保存処理前)
福岡県古賀市史跡船原古墳出土
馬冑出土状況写真
福岡県古賀市史跡船原古墳出土
馬冑CTスキャン写真
歩揺付き雲珠出土状況写真
歩揺付き雲珠X線CTスキャン画像
パソコン上で破片を元の位置 に戻した図

パソコン上でX線CTスキャン画像を色付けした図
福岡県古賀市史跡船原古墳出土歩揺付き雲珠想定復元模型
 33
重要文化財大谷古墳出土馬冑
和歌山市大谷
古墳時代中期 (5世紀後半~6世紀初頭)
長さ 52.6cm
最大幅24.5cm
材質 鉄製

 馬冑は馬の武装のための冑で、 半筒型の面覆部(はんづつがた めんおおいぶ)(ひさし)頬当(ほほあて)からなり、鉄板をたたいて成形した各パーツを鋲留めして、製作しています。
 馬冑は中国大陸や朝鮮半島の古墳壁画や騎馬傭(きばよう)に多く見られ、 朝鮮半島南部の伽耶地域で出土例が多くあります。
出土は将軍山古墳 (埼玉県行田市)、船原(ふなばる)古墳(福岡県古賀市)と大谷古墳の3例のみであり、 そのうち完形で出土したのは大谷古墳から出
土した馬冑のみです。

大谷古墳 馬冑 (ひさし)、頬当、面覆部
攻城(こうじょう)
(中華人民共和国三室塚)
昭和32年(1957)に発掘調査で出土した馬冑
 40
大谷古墳出土馬冑 (複製品)
       古墳時代中期、 原品 : 重要文化財、 文化庁蔵

1957年(昭和32年)から始まった市内大谷古墳 (全長約70mの前方後円墳) の発掘調査で出土した馬冑は、馬の顔を覆う馬具の一種である。
中国大陸の敦煌(とんこう)西魏(せいぎ)285窟や朝鮮半島の高句麗の安岳(あんがく)3号墳 (冬寿墓(とうじゅぼ)) の壁画などにもみられ、
存在は 知られていたが、 実物が発見されたのはアジアで初めであり、大変注目された。 古墳時代の日本と大陸との関係の深さを語る資料として、 1982年(昭和57年) に他の出土遺物とともに国指定重要文化財に指定された。

その後、 馬冑は国内では埼玉県や福岡県でも類例が確認され、 現在3例となっている。

大谷古墳出土馬冑
 
 


 100旧石器時代

 101旧石器時代
 旧石器時代の和歌山市最古の遺跡は東部の山東大池遺跡で、 サヌカイト製のナイフ形石器など旧石器が出土しています。
 縄文前期ころは和歌山平野の大半が内湾となっていたので、 鳴神(なるかみ)貝塚禰宜(ねぎ)貝塚など岩橋(いわせ)山麓に貝塚が分布します。
 弥生時代までには紀ノ川の堆積によって平野が拡大し、 集落は平野部に多く立地しました。 弥生土器や石庖丁が多数出土し、 稲作農耕のあとを示しています。
 古墳時代には有力者を(ほうむ)る大きな墳墓が築造され、 岩橋千塚古墳群(いわせ せんづかこふんぐん)では約600基が残っています。
また大谷古墳の馬冑など、 朝鮮半島や大陸との関係が深い遺物も少なくありません。

※考察 大谷古墳の馬冑
※大谷古墳の馬冑は、中国大陸から朝鮮半島を経由して持ち込まれたとされる。
 大谷古墳は紀の川北岸の古墳であり、岩橋千塚古墳より遥かに古い時代の地方豪族、紀氏の古墳である。

 大谷古墳は晒山古墳群の南端にあり、東の山稜には雨が谷古墳群、さらに東の山稜には鳴滝古墳群がある。
 それら古墳群の中で最大の前方後円墳である。この墳形は、ヤマト政権に近い紀氏の証であり、例えば、渡来系武人ではあり得ない。
 つまり、紀氏一族の誰かが、半島経由で手に入れた珍品であった可能性が高い。ただし、この地域での戦闘は対立相手が考えられず、
 きっと、馬に装着して乗馬などを楽しんだ、アーミーオタクのコレクションではなかったのだろうか。(笑)

 大谷古墳については、443で詳細となる。
旧石器時代


 旧石器時代
市内最古の遺跡
和歌山市内では、 山東大池遺跡(さんどうおおいけいせき)総剛寺谷遺跡・園部(そのべ)遺跡西庄遺跡など6か所から旧石器が出土している。
旧石器時代は、寒冷な気候のため大陸が氷河で覆われ、海面が現在より低かった。

市域では、人々は−20m(マイナス20m)付近の平坦地で生活していたが、そこは厚い沖積層で覆われるので、 遺跡は平野周辺で発見される。
当時の人々は小規模な集団で狩猟・漁撈を行ない、一定の範囲内を移動していた。

市内最古の遺跡 山東大池と遺跡の範囲
最終氷期最盛期頃
(約1.8万年前)の地形
山東大池遺跡遠景

 110
 111ナイフ形石器

旧石器
  旧石器時代 山東大池遺跡出土 中原正光氏蔵
 和歌山市永山(ながやま)から那賀郡貴志川(ながぐんきしがわ)長山(ながやま)に わたって位置する山東大池遺跡は、旧石器が散布する遺跡である。 石器はサヌカイト製で、 ナイフ形石器を中心に、調整痕のあるものが多数発見されている。

旧石器
山東大池遺跡
旧石器 角錐状石器
ナイフ形石器 ナイフ形石器
装着例

 121石鏃

謎の石器
トロトロ石器

   早期/名草池北遺跡 貴瀬 誠氏蔵
    (約10000年前~約6000年)
透明感のある灰色のチャートという石を使っています。 矢じり (石鏃= せきぞく) を大きくした形ですが、 先は とがってなく、 表面がとてもなめらかです。 弓矢の先に つけたのではなく、 何かのお祈りに使ったのかもしれません。 縄文人が狩りの成功を祈ったのでしょうか。

トロトロ石器

有舌尖頭器
   草創期/比久尼(びくに)橋付近 (和歌山市 海南市) 辻 正吾氏藏 (約13000年前~約10000年)
縄文時代のはじまりの頃、 槍の先につけた狩りの道具。 黒っぽいのはチャート製で灰色のはサヌカイト製とみられます。 チャート製のものは、 ずいぶんと磨滅しています。

有舌尖頭器

 
 


 200縄文時代

 201
縄文の遺跡
縄文遺跡は、縄文海進によって和歌山平野に海が
奥深く湾入していたため、 鳴神(なるかみ)貝塚に、禰宜(ねぎ)貝塚岡崎遺跡など岩橋(いわせ)山塊の山麓に多く分布する。

禰宜貝塚は高積山西麓(たかつみやませいろく)に立地し、 縄文土器、 スクレイパー・石錐・石鏃・石斧などの石器や骨針(こっしん)・牙製ナイフが出土した。
貝殻はハイガイが 9割で、 ヤマトシジミ・ハマグリ マガキなどで構成され、その付近には汽水性の泥海底干潟があった

※考察 禰宜貝塚
 現在では、紀の川河口から12km上流であるが、当時は縄文海進で、遺跡付近は泥の海岸が広がり、現在の有明海状態であった。
 ハイガイという名称は、灰貝であり、かつては大量に採って焼いて石灰をつくったそうだ。現在は絶滅危惧種

縄文の遺跡
縄文海進絶頂期頃(約6000年前の地形

鳴神貝塚出土女性人骨
昭和27年(1952) に出土。 頭を西にむけた伸展葬で、18才前後の女性人骨。
上下の門歯を抜歯しているところから、シャーマン (呪術師) ではないかと考えられている。

鳴神貝塚出土女性人骨

写真・羯磨正信氏提供
AIによる概要
和歌山県和歌山市の「鳴神貝塚」から出土した女性人骨は、
縄文時代晩期の土坑墓から手足を伸ばした状態(伸展葬)で発見された。

上顎の犬歯2本を抜歯し、サルの橈骨(とうこつ)(腕の骨)で作られた耳飾りを身につけていたことから、当時のシャーマン(呪術者)であったと考えられています。


鳴神貝塚
 和歌山平野の南東部の鳴神貝塚は、 明治28年(1895)に近 畿地方で初めて発見された貝塚として注目され、昭和6年 (1931)に国の指定 (史跡)を受けました。 貝層の範囲は、 東西 110m、南北100mに及び、 県内で最も規模の大きい貝塚です。

 昭和27年(1952) 頃、丘陵上部でサルの骨製耳飾りをもつ女性人骨が調査され、愛知県の類例から祭祀に関係するシャーマンであった可能性が指摘されています。
 平成16年(2004)、丘陵西斜面の調査で貝層と土坑3基に埋葬された人骨群が発 見されました。折り重なるように掘削された3基の土坑は、貝層(晩期の土器を多く含む)ができてから後の掘り込みとみられます。

そのため、これらの縄文人が埋葬されたのは今からお よそ2600年前~2900年前の晩期中頃のことと思われます。 縄文土器には、早期末から前期初頭、 中期、後期、 晩期のものがみられ、石器には矢じり (石鏃)、 ナイフ (削器)、 小型の石斧、木の実の加工用の磨石、 叩石、石の錘、 装飾品として石製小玉、 骨角器では根ばさみ、 ヘラ、ヤスがみられます。

和歌山市内の主な縄文時代の遺跡
鳴神貝塚

禰宜貝塚
 紀の川左岸の高積山(たかつみやま)(標高237m) 西方の斜面裾部に貝塚があり、標高は8.5~9.5mです。 昭和46年(1971)の調査で、 貝層は幅約10m、長さ約40mの西貝塚と幅約10m、長さ約80mの東貝塚の2列にわかれ、 東貝塚では貝層の厚さが1mにもなります。

 縄文土器は前期・中期・後期の各時期があり、 前期が全体の80%を占め、 後期中頃で途絶するようです。
前期には関東地方の特徴をもつ土器(諸磯式(もろいそしき))が持ち込まれています。

 石器は矢じり(石鏃)、石の錐、 ナイフとして使った削器や石匙があり、動物の角や骨を利用した骨角器には針やイノシシの牙を利用 したナイフがあります。
 貝類は、ハイガイ、ヤマトシジミ、ハマグ リ、マガキ、オキシジミなどがあり、下層ではマガキが多く、上層ではヤマトシジミが増加する傾向があり、獣骨はシカとイノシシが多量に出土しています。 貝類は内湾の砂や泥を好むも のが多く、現在の海岸線からおよそ10km内陸側に入った位置にある当遺跡の近くに、 縄文時代前期頃には河口部があったことも想定されます。

鳴神貝塚(市内鳴神) 斜面の貝層の様子
禰宜貝塚

 鳴神貝塚の埋葬
貝殻を捨てる
埋葬の様子

※しかし、なんでシャーマンを腐った貝殻の中へ、クッさい貝殻捨て場なんぞにわざわざ、埋めたのかね。
 とんでもない悪臭の中に埋められる気分はいかがなものか。

 通常なら、まともな場所に葬って祭祀するだろうに。
 なんかやらかしたのかな。それとも、はやりやまいで死んだとか。まだ、シャーマンの見習いだったからとか…‥
 なんかの懲罰だろうに。
 いや、貝捨て場は、再生を願う神聖な場所だったなんて、机の上で考えた屁理屈。実際の場所に行けば、鼻がもげる悪臭の中が、なんで神聖なんだ。

 210複顔
復顔された鳴神縄文人
鳴神貝塚で発掘された縄文時代晩期の人骨(平成16年度調査・4号人骨) から、もとの縄文人の顔を復元しました。 実物の頭蓋骨から ひずみを修正した頭蓋骨を復元製作し、それをベースに皮膚の厚さを個所ごとに加えて顔の形に戻しました。 頭部には髪をつけ、頭部の形がわかるように真ん中で分けています。 人骨からわかる年齢は30~40歳で女性です。
                           [指導: 大阪市立大学大学院医学研究科]

復顔された鳴神縄文人
復顔された鳴神縄文人

 220土器

 鳴神貝塚出土物
鳴神貝塚

 縄文土器
縄文時代早期
縄文前期
縄文前期
縄文時代後期

 玉類
 埋葬された墓から出土。遺体が身に付けていたか、あるいは副葬品かも知れない。
石の小玉
埋葬された墓から出土
身につけていたか、
あるいは副葬品かもしれない

 縄文土器
縄文時代晚期
縄文時代晚期


 230石器
石皿の破片
木の実など磨りつぶす際の台石
石の錘 (石錘)
小型磨製石斧
加工用の小さな石斧
石鏃
石のナイフ (削器)
木の実など磨りつぶす石器
(磨石(みがきいし))
※「みがきいし」とルビされています。
 

 250禰宜貝塚出土物
 251
縄文時代前期
縄文前期
縄文時代中期
縄文時代後期

 253貝の分析方法
放射性炭素年代測定
新しい研究成果

放射性炭素年代測定
貝に含まれる放射性炭素を調べることで、 今から何年前の貝か判明 します。
地層や一緒に出土した縄文土器の年代を考えるうえで大変 重要です。
禰宜貝塚 (第1トレンチ5層) ハイガイ
放射性炭素年代測定結果5970~5660cal BP
(1950年から5980年~5670年前)

岡崎縄文遺跡 (第1貝層) ハイガイ
放射性炭素年代測定結果 3540-3250cal BP
(1950年から3540年~3250年前)
    禰宜貝塚 (第1トレンチ4層) ハイガイ
放射性炭素年代測定結果
5980-5670cal BP
(1950年から5980年~5670年前)

岡崎縄文遺跡 (第1貝層) マガキ
放射性炭素年代測定結果 BP
3130-2800cal
(1950年から3130年~2800年前)

貝の成長線分析 新しい研究成果一貝の成長線分析
断面の成長線を調べることで、貝の年齢や縄文人が貝を採取した日が判明します。

禰宜貝塚
3月3日採集
年齡4歲
鳴神貝塚
7月24日採集
年齡4歳
禰宜貝塚
4月11日採集
年齡6歳
鳴神貝塚
2月29日採集
年齡3歲
鳴神貝塚
4月26日採集
年齡3歲
 
 270
シカ 右足の骨,角 イノシシ左顎の骨と牙
ハイガイ,フトヘナタリ マガキ,ハマグリ
 275
石の錐(石錐)
矢じり(石鏃)
(狩りの時に矢の先につける)
イノシシの牙製ナイフ イノシシの牙製ナイフ
(イノシシの牙を縦に裂いて、一部を
 とがらせてナイフに加工しています)
石のナイフ (削器)

骨製の針 (骨針)
 

 280縄文土器3種

いろいろな縄文土器
左:前期、 禰宜貝塚 (約 6500年前~約5500年前)
中:中期、 禰宜貝塚 (約 5000 年前~約4500年前)
右:晩期、 岡崎縄文遺跡 (約3200年前~約3000年前)

 縄文時代は、 土器が初めて作られた時代で1万年も長く続きました。
 縄文土器の形や特徴から、6つの時期 (➀草創期 ②早期 ③前期 ④中期 ⑤後期 ⑥晩期)に分けられています。

 縄のようなものを転がした文様である 「縄文」 がつけられるのは前期~後期中頃です。
展示品は、爪形文と縄文をつける前期土器、 形が物の厚みを測るキャリパーに似た中期土器、ロ縁が波形になる晩期土器です。

 縄文土器は、 形・色・文様などバラエティーに富んでいます。
 実物の実測図を作成し、足りない部分は代表的な他遺跡の出土品から推定復元しています。
   [これらの土器復元は平成22年度和歌山県緊急雇用創出事業により実施しました]

いろいろな縄文土器 いろいろな縄文土器
いろいろな縄文土器 前期:禰宜貝塚 (約 6500年前~約5500年前)
中期:禰宜貝塚 (約 5000年前~約4500年前) 晩期:岡崎縄文遺跡 (約3200年前~約3000年前)
 
 


 300弥生時代


 301稲作のはじまり
弥生のムラとくらし
大陸から伝播した稲作は、 弥生時代には和歌山へひろがってきた。 稲作は灌漑用水を必要とするので、 河川沿いの低地に水田をつくり、 微高
地に集落を営んだ。

太田黒田遺跡からは、 竪穴住居、 井戸 溝などが多数検出され、 弥生土器 銅鐸 石庖丁などの遺物が出土した。
生活は狩猟や採集から栽培による計画的な食糧生産が中心となった。井辺(いんべ)遺跡からは、弥生後期の土器列と古墳前期の井 戸が検出された。

弥生のムラとくらし


 和歌山市内の弥生遺跡
和歌山市内の弥生遺跡 和歌山市内の弥生遺跡
半島島嶼部 紀の川北岸部 紀の川南岸部
半島島嶼部
大川遺跡
藻江遺跡
水谷遺跡
しょうぶ谷遺跡
おそ越の鼻遺跡
藻崎北浜道路
一谷色遺跡
柏の浜遺跡
神島遺跡
大谷川遺跡
加大遺跡
加大Ⅱ遺跡
紀の川北岸部
西庄Ⅱ遺跡
雨が谷遺跡
六十谷遺跡
橘谷遺跡

砂山銅鐸出土地
府中遺跡
西田井遺跡
北田井遺跡
宇田森遺跡
山口遺跡
紀の川南岸部
鷺ノ森遺跡
有本銅鐸出土地

太田黑田遺跡
鳴神V遺跡
鳴神Ⅱ遺跡
秋月遺跡
津秦遺跡
井辺遺跡

天王塚山遺跡

神前遺跡
菖蒲谷遺跡
関戸遺跡
吉里銅鐸出土地
和田遺跡
千石山遺跡

薬勝寺遺跡
滝ヶ峰遺跡
岡村遺跡
奥山田遺跡


 弥生文化の伝播と主な弥生遺跡
弥生文化の伝播と
主な弥生遺跡
北部九州
弥生文化の成立

板付遺跡
菜畑遺跡
日本海ルート
綾羅木遺跡
タテチョウ遺跡
戸水C遺跡
下吉谷遺跡
地蔵田B遺跡
砂沢遺跡
瀬戸内ルート
津島遺跡
吉田遺跡
山賀遺跡
唐古遺跡
太田黒田遺跡
西志賀遺跡
瀬戸内ルートから伝播
田村遺跡 (高知県)

日本海ルートから伝播
是川中居遺跡 (青森県)
金田一川遺跡 (岩手県)
十三塚遺跡 (宮城県)
根古屋遺跡 (福島県)
墓料遺跡  (福島県)

 303農具
木製の鋤
 太田・黒田遺跡
 弥生時代中期 (約 2200~2100年前)
 2000年に行われた第 47 次調査で幅約1.7m、深さ約80cmの溝から出土。
カシの木を使い、身と柄を一本の木で作る一木造りです。 鍬、 鋤ともに遺跡西側で発見され、この周辺では弥生時代の水田も発見されているので、これらは農耕や溝の掘削に用いられたとみられます。

 ※物資が豊かな現代でも、溝堀り作業したあとに、道具を放り投げて帰ってくるヤツっていないよなー。
  なんでこの時代は、例え壊れたとしても、なんで現場に捨ててくるんだよ。後で邪魔だろう。

農具 農具 木製の鋤


木製の鍬
 太田黒田遺跡
 弥生時代前期 (約2300~2200年前)
 1995年に行われた第 26 次調査で大溝から出土した広鍬。 カシの木を使い、 柄を差し込むところを強くするために舟形に突起させています。
 カシの木は、堅くて水にも強いので、鍬や鋤のほか、舟をこぐ櫂などにも多く使用されます。

木製の鍬 木製の鍬 木製の鍬

 310炭化米・石包丁
太田黒田遺跡から発見された弥生時代の米の拡大写真
    (撮影: 佐賀大学教授 和佐野喜久夫氏)
円形に近い形が特徴的で、 あまり他の遺跡でも見つかっていません。
粒の厚 みは平均値よりも大きく、 イネの生育状況が良かったことがわかります。
(和佐野氏による分析については、当博物館研究紀要 17号に掲載しています)

※米の生育が良かったのは、肥料がよく効いていたから。何を肥料にしたのだろう。人糞かなぁ。
 でも、 これまでのどの博物館でも、肥桶の出土はないし、便所の痕跡は、アイヌ時代の建物配置だけで記述があった。
 便所はなかったのだろう。従って、肥桶はなく、肥料は何を使ったのだろう?

 こんな時代のことは、あまりよく分かっていないのだろう。

炭化米・石包丁

太田黒田遺跡
炭化米
太田黒田遺跡発見の
炭化米

石包丁 太田黒田遺跡
うすくて平べったいこんな形、どこかで見たことありませんか?これは石をみがいて作った包丁です。
川原でみつかる石に似ているね。穴がふたつあいていて、なんだか石のお化けみたい。
この穴にひもを通して、稲の穂を摘み取るのに使っていました。
田んぼを作って、稲を育てる暮らしが始まったんだね。

石包丁  石包丁
  石包丁
弥生時代
太田・ 黒田遺跡出土
 
   


炭化したお米
 穴からまとまって出土したお米です。 大きさを調べると、粒が厚く、 良く育っていたことがわかりました。
  太田・黒田遺跡
  弥生時代中期 
  約2200~2100年前

炭化したお米
太田黒田遺跡


(参考民俗資料)
 中国雲南省の木製穂摘具 (館蔵)

中国雲南省ハニ族によって使用された穂摘具。 三日月型の木部の中央に鉄製の刃が付けられている。
雲南省は日本に伝わる稲作のルーツの一つにあげられるほど古くから米作りが盛んな地域であり、紐としてワラが使用されることから、
米の稲の穂を摘み取る道具であった可能性がある。

弥生時代の穂摘具である石包丁の使い方を想像させてくれる民俗資料である。

中国雲南省の木製穂摘み具 ※雲南省では近年まで、収穫時期の揃わない米を作っていたのだろうか。 インドシナ半島でも同様の穂摘み具が使われていた。

※親指の腹は使っていないようでした。この部分はすぐに敗れて出血するから、TVでは挟んですぐに切っていました。その方法は早すぎでわからなかった。
 親指を使うのは、間違いのようですが、よく、学芸員さんが親指を使って見本をしています。

 320竪穴住居
太田・黒田遺跡の竪穴住居 想定復元 <1/5〉
太田・ 黒田遺跡は、 国鉄和歌山駅の東側に位置し、 昭和42年(1967)以来5次にわたる調査を経て、14棟の竪穴住居が検出された。
全て弥生時代中期のもので、地面を円形に掘りさげ、4つの柱穴と炉を備えている。 このうち、同時に営まれた住居は3棟程度。
周辺には井戸・土壙などがあった。
多くの 土器をはじめ、稲作農耕が行なわれたことを示す石包丁、祭祀に使われたと推定される銅鐸も出土している。

太田・黒田遺跡の竪穴住居
太田・黒田遺跡の竪穴住居
 330石器
 331

(32) サヌカイト原石 4点
石鏃や石錐の製作に使った原石。 サヌカイトは、 安山岩の一種で、讃岐石ともいい、 香川県に多いが、 分析によると、 これは大阪府・奈良県境の二上山産。 和歌山県ではサヌカイトを産出せず、 二上山から運び、 太田・黒田遺跡で石器を製作したと考えられる。

  サヌカイト原石         
サヌカイト原石
 ※サヌカイト原石は3点しか確認できない。石の間にモジャモジャとしたもの。何かと拡大してみると、蛾の幼虫でした。

 サヌカイト製品
石錘 石鏃 打製石剣,石小刀
 333
環状石斧
棒を差し込んで使った環状石斧は、武器とする意見のほか、 斧、 あるいは土掘り具とする意見などさまざまあります。

環状石斧 ※海外では武器である環状石斧ですが、これで木を切るとなると難しい。
鉄斧のようにスイングすると、木にタテに打ち込み切れない。
ゴルフのように振ると、木の下の方に打ち込み通常こんな所は切らない。

すると、壊れた環状石斧は作りにくく、弱い石器である。石目に沿って
壊れやすい。やわらかい物に対してなら威力を発揮できる。人体とか。
やはり武器かなぁ。


太型蛤刃石斧
両刃で厚みがあり、 刃部がまるくなる太型蛤刃石斧は、 木の伐採に使われました。

抉入片石斧
片刃で柱状の石斧は重いので木材の粗削り用とみられます。(※えぐりは、斧柄に取り付けるときのズレ防止用です。)

    太型蛤刃石斧
抉入片刃石斧
   


扁平片刃石斧は、 刃がうすく作られていて、 細工用とみられます。

小型柱状片石斧 扁平片刃石斧 小形扁平片刃石斧
叩石 凹石

 ※資料 縦斧と横斧
縦斧は、斧柄に対して、刃部を縦に、つまり、切れ刃が斧柄と平行(一直線)になるように取り付けた斧である。
    用途は、伐採用。
    道具として、太型蛤刃石斧
横斧は、斧柄に対して、直角に、つまり、丁字型になるように取り付けた斧である。
    用途は、手斧(ちょうな)で、木の表面を細かく打ち欠いて、板に仕上げる道具である。
    道具として、抉入片刃石斧、扁平片刃石斧

環状石斧は、この分類からすると、横斧となるため、あるいは、横斧として、木材削りに使用したのかもしれない。
      石材は石目に沿って割れるため、磨製環状石斧は、草刈り耕起(たがやし)には使わなかっただろう。木の表面加工かな

 

 340土器・銅鐸
 341
弥生式土器
 弥生時代になると、 農耕を中心とした生活へと移行する。
これに伴ない貯蔵用には壺、煮炊用には甕・甑、盛り付け用には鉢、 供献用には高杯というように、機能に応じた器種が作られるようになった。
 前期・中期・後期を通して みると、地域性や土器の様式に変化が認められる。

 弥生時代の遺跡の中でも太田・黒田遺跡は全国的に有名で、近畿地方では屈指の大集落であり、多くの土器が出土している。
太田・黒田の土器の特徴として縄文系の深鉢型土器=甕、が弥生中期の中葉まで遺存している点が挙げられる。
また他の土器類でも、初期 から中期にかけては畿内とは異なり、瀬戸内海東部のものと共通する点が多く見られる。
しかし、 後期になると太田・黒田からは土器はほとんど出土しないことも注目される。

 弥生後期に土器が出なくなるって、土器がなくなるってどういうこと?
  鉄器・鉄鍋に変わったのか? 一時的に人が住まなくなったのか?
 太田・黒田遺跡とは
  弥生時代前期から江戸時代までの超長期複合遺跡。縄文深鉢を使い続けたことから、縄文系弥生人の巨大集落と考えられる。

弥生式土器
 
太田・黒田遺跡の

 343弥生前期の土器

弥生土器
弥生時代の土器は、使いみちによっていくつかの形があるよ。
玉ねぎのようにくびれた壺は、食料を蓄えるためのもの。 中にねずみが入らないようにしていたのかな。
大きな甕で煮炊きをし、 サラダボウルのような鉢にお料理を盛りつけていました。
高坏は大きなキノコのような形をしているね。


弥生土器 (前期)
   弥生時代前期、 太田・ 黒田遺跡
 弥生時代の始まりの頃 (前期) 使いみちにより、いろいろな形の土器が作られた。
 貯蔵用の壺、 煮沸用の甕、盛り付け用の鉢や高坏。 代表的な文様は、ヘラにより1本ずつ引かれたヘラ描沈線文である。
 縄文時代の深鉢と同じ技法 (胴部下半をケズリ、胴部上半をナデ、 ロ縁部と胴部に刻み目突帯)で作られた弥生土器の甕 (紀伊形甕)が
 存在しており、 新しい弥生ムラのなかに 縄文の伝統が残されていることは注目さ れる。

弥生土器
弥生土器(前期)

遠賀川系甕
 遠賀川系土器は、北部九州から伊勢湾まで 広く分布する弥生時代の最初の土器。 遠賀川式土器とも呼ばれる。
 遠賀川は福岡県の 一級河川で流域から発見された古い弥生土器が西日本の弥生土器研究の基礎となった。

  遠賀川系甕
遠賀川系甕
     

紀伊形甕
和歌山県北部では、弥生時代になっても、縄文時代晩期の縄文土器 (深鉢)の刻み目突帯や胴を削る技法などを引き継ぐ甕が作り続けられ、
「紀伊形」甕とよばれ、その影響は弥生時代中期まで残される。

紀伊形甕 紀伊形甕

 ※考察 遠賀川系と紀伊形土器
 太田黒田遺跡はJR和歌山駅の東隣。「紀伊風土記の丘」行きバス停横の植え込みの中にある
 この遺跡からは、遠賀川系土器と紀伊形土器が出土することから、北部九州系弥生人と、東海系縄文系弥生人とが暮らしていた。
しかし、これって仲良く二つの人種が暮らしていたはずはない。おそらく、遠賀川系が主となり、縄文系が従となっていたのに違いない。
縄文系は開墾や農作業などを行なっていたに違いない。だから、結束を強めるために、いつまでも縄文系土器(深鉢=甕)を使い続けたのだろう。

 支配者としての遠賀川系=半島系のホワイトカラーの下で、縄文ブルーカラーは働き、時にはホワイトカラーの領土的野心のために戦闘に
弾除け(弓矢除け)に駆り出される子友しばしばあったのだろう。



※考察 紀伊型甕と神武東征
 紀伊型壷に象徴される、弥生中期まで残る、縄文文化の残存は、この地域が弥生化した縄文人の地域であったことを伺わせる。
  (神武東征は弥生中~後期,紀元前後~2世紀頃ですから、縄文人の紀伊形土器から一般的弥生土器に変化したのはこの時期かと考えられます。)
  (縄文系弥生人は皆殺しにされたのだろうか。)

 神武東征の際に、紀の川河口の女族長と戦闘した挙句、先の大和川の戦闘で戦死した神武親族の復讐とばかりに惨殺し、五体バラバラに捨てたのは 、この縄文系の人々に対する、(人種の違うものに対しての) 嫌悪と迫害だったのだろう。
 更にまた、伊勢湾から上陸した際にも土蜘蛛と呼ばれる、多毛の縄文人を惨殺したのも、このような他民族に対する迫害だったのでしょう。

 ちなみに、湿地であった大和盆地に原始の都を建設した際には、土蜘蛛を使ったので、彼らは初期の半島系ヤマト弥生人に協力したのだ。
 (いや、協力したというよりは、牛馬のように使役されたのだろう。)
 だから、初期大和政権を打倒しようとする、神武東征軍(第二次ヤマト政権)に激しい弾圧を受けたのかもしれない。

 紀ノ川河口の女族長を惨殺してバラバラにして捨てた話は、現在の海南市で伝わっている。名草戸畔(なぐさとべ)というらしい。
 神社も5社(五体)あるらしい。興味があったら調べてね。しかし、地元では全く逆の話として伝わっており、驚くべき判官贔屓と思われる。
 リンク先の「今まで語られなかった「ナグサトベ」と先住民たちの 物語」はほんの一旦です。


 345弥生中期の土器

弥生土器 (中期)
   弥生時代中期、 太田 黒田遺跡
弥生時代中期頃、 土器のそれぞれの形はさらに発達し、整った形になるとともに、 脚台付鉢水差形土器など新しい器種が出現する。

代表的な文様は、クシにより引かれたクシ描直線文波状文であるが、他にも線を斜めに交差させる(しゃ)格子文(かわ)などで表面に緩やかな凹凸を作る凹線文、 粘土を貼り付ける円形()など、壺を中心に華やかに飾られる土器が多くみられる。

弥生土器(中期)


弥生人の描いた鹿の絵
 弥生時代中期、 太田・黒田遺跡 (約2100年前~約2000年前)

壺の口の部分に、何頭かの鹿の絵が描かれている。 先のとがったヘラのような道具で描いたようである。

胴部に矢羽の付いた矢が刺さった様子や、立派なオス鹿の角などが見事に表現されている。

弥生人が多く描いたのは鹿で、次に建物、 他には人物龍? などがある。
毎年、角が生え替わる鹿の生命力に強い思いがあったのかもしれない。

           

 ※舟のように三日月形に描かれた胴体と、斜めになった四つ足が描かれ、背中に矢が刺さっている絵。
  三日月形胴体の先にツノが見える。
三日月形の胴体に
矢が刺さった絵


 346弥生中期の土器


脚台付鉢
(高い台の上に鉢をのせた形を一体的に作った複合土器です。)
回転台を使用してつくられた土器。

脚台付鉢
高坏

水差形土器
(口のところに注ぎ口が付き、水などの液体を注いでいたとみられます。)

壷×2,水差形土器
水差形土器
 


 347弥生後期の土器

弥生土器 (後期)
     弥生時代後期、 井辺遺跡
弥生時代の終わり頃 (後期)、土器は飾られるものが少なくなる。
特に甕は、 胴部にタタキ目と呼ぶ、 成形時に叩きしめた粗い凸凹が残り、底部が小さくなり、全体的にゆがんで自立できないものもみられるようになる。
高坏は、 お椀のような形の器に脚が付くものと、ロが外に開く皿のような形に脚がつく2つのタイプがある。
また、お椀のような鉢と呼ばれる器種が増加し、個人用の器とみられている。

弥生土器 (後期)
高坏
 

 350銅鐸
 351
銅鐸―その移り変る姿
弥生時代の青銅器の一種。
豊作を祈るための祭具と考えられている。 小型のものから大型品まであり、“聞く銅鐸から、見る銅鐸へ"と言われるような変化がみられる。
身の表面には横帯文・袈裟襷文・流水文があり、 絵画もみられる。

銅鐸-その移り変る姿
小松原銅鐸
御坊市小松原
弥生中期の古段階 外縁付紐 2式 4区袈裟襷文
太田黒田出土銅鐸
和歌山市太田・黒田
弥生中期 吊り手は外縁付鈕1式 胴部は「4区袈裟襷文
有本銅鐸
和歌山市有本
弥生中期 扁平紐1式 流水文
摩滅がほぼなく大切に保管され意図的に埋められた
常楽(晩稲)銅鐸
南部川ムラ常楽 
弥生後期 近畿式 突線鈕式

 351黒谷銅鐸
太田・黒田銅鐸
    弥生時代中期 太田・黒田遺跡
    和歌山県指定文化財

JR和歌山駅の東部に広がる太田・黒田遺跡は、 和歌山県を代表する弥生時代の集落跡である。
この銅鐸は昭和45年(1970)に遺跡東端部で水路工事中に出土し、バックホウを運転していた松下博治氏の機転により破壊をまぬがれ、今に残された。
銅鐸内から見つかった細長い石の棒は、 内部につりさげて音を出した 「舌」 とみられる。

身の部分の文様が、 お坊さんの着る袈裟に似ているので袈裟襷文とされ、4つの区画から4区袈娑襷文と呼ばれる。
製作時期を示す吊り手 (鈕) は、 真ん中の太い部分の外側にだけ薄い文様帯がつく外縁付鈕式で、 中期の製作である。
平成8年 (1996)、この銅鐸と同じ石の型で作られた銅鐸4個が、 島根県加茂岩倉銅鐸群(現在、国宝)に含まれていることが判明し、注目された。


よく見ると、一番 外側に三角形がた くさんあって、 内側は四角が四つで 漢字の「田」 みたいになっているね。

黒谷銅鐸

 353橘谷銅鐸 橘谷遺跡 和歌山市府中黒岩
橘谷銅鐸(たちばなだにどうたく) (複製)
     原品 : 京都国立博物館
     弥生時代中期後半 橘谷遺跡
和泉山脈から平野部にむけて突出する山の上 (標高約87m) で、 昭和 34 年(1959)にミカン畑開墾中の池田弘氏により発見された。
銅鐸の身の文様は、6区画に区分けされ(6区袈裟襷文)、 吊り手 (鈕) 中央の太い部分の両側に扁平な部分が広くとりついている(扁平鈕式)。

文様の線はシャープで、 石製ではなく土製鋳型で 作られた可能性がある。 高さ 46.8cm で太田・黒 田銅鐸よりも高く、鈕の形もより新しい形で弥生時 代中期後半頃 (約 2000 年前) の製作と考えられ る。周辺には、 高地性集落の橘谷遺跡が広がって いて、銅鐸と弥生集落の関係を考えるうえで重要 である。

橘谷銅鐸(複製)

 355銅鐸片
銅鐸の(ひれ)の一部
   弥生時代後期 井辺遺跡 (第56次調査)(和歌山市井辺112・113番地)
 三角形の模様がある銅鐸の鰭 (もっとも外側の薄い板状の部分) の破片で、竪穴建物の埋土から出土した。
一緒に出土した土器は、弥生時代後期 後半頃のもので、銅鐸破片の埋没時期を示すものとして重要である。
弥生時代の祭祀道具の銅鐸が、役目を終え、 土器片とともに捨てられたのかもしれない。

銅鐸の鰭の一部

 360高地性集落
橘谷遺跡は和歌山市紀伊地区の標高約100m小丘上にある集落遺跡で、集落の周囲には幅2mの空濠がめぐらされ、防御の機能をそなえた高地性集落と考えられる。 類例として滝ヶ峯遺跡(弥生中期末)がある。

※この弥生中期末頃、半島の海賊漁民が北部九州から西日本各地を蹂躙していたようです。青谷上寺地遺跡の大虐殺は前期末頃(紀元前5世紀頃)

高地性集落 高地性集落
高地性集落遺物
弥生時代
滝ケ峯遺跡出土
短頸壺

投弹
弥生時代
橘谷遺跡
 
 


 400古墳時代


 410馬具
 411
重要文化財
大谷古墳出土馬具類 〈複〉
大谷古墳石棺付近からは、 馬冑をはじめとして多くの馬具類が出土した。
面繫付(おもがいつき)金具12個、金銅製鞍1個、辻金具4個、 鉸具(かこ)3個、 雲珠(うず)2個、 鏡板付(くつわ)1個、鈴付杏葉(ぎょうよう)3個、 馬鈴(ばれい)4個はいずれも金銅製であった。
豪華なこれらの馬具は、この古墳の被葬者の権威の高さを示している。

大谷古墳出土馬具類
鏡板付轡
引手金具
辻金具
壷鐙(つぼあぶみ)
鞍(前輪(まえわ))
鞍 (後輪(しずわ))
杏葉
雲珠(うず)
 413馬具
馬具複製品
壷鐙(つぼあぶみ)
馬鈴(金具)
 415
鞍金具
辻金具と雲珠 辻金具
雲珠 杏葉と辻金具 杏葉

 416馬具実装編
※粘土製馬像
 418
辻金具 馬鈴 鞍金具前輪(まえわ)
鞍金具後輪(しずわ) 壷鐙 杏葉 雲珠

 ※この馬像は実に写実的にできていて、全て本物でした。
  北海道の博物館では本物の馬の皮を苦労して作っていましたが、全くそれと遜色のないほんものでした。
  どうすれは゛これほどの本物がつくれるのだろうか。

 

 420
衝角付冑
     重要文化財 公開中
     古墳時代中期末 (5世紀末~6世紀初頭)
     大谷古墳出土 (市内楠見(くすみ)地区)

 大谷古墳の主が使用した甲冑(かっちゅう)は2種類あります。
石棺の中から出土したのが、 衝角付冑と、 挂甲という小札 (小さな四角い鉄板)を連ねた長いよろいです。
もう1種類の短甲は、 石棺の外で馬の甲冑と一緒にみつかりました。

 衝角付冑は、軍船が敵に体当たりで衝撃を与えるため先端に突き出した部分(衝角) に似ているため、 名付けられました。
短甲と同じで、帯状の鉄板を鋲でとめて継ぎ合わせて作られています。

衝角付冑
衝角付冑

 440大谷古墳 和歌山市大谷458
 441

大谷古墳
 和泉山脈から南西方向に伸びる丘陵端に築かれた全 長70mの前方後円墳。後円部中央の石棺内には兜、刀(6点以上)、剣(推定で3点以上)、ガラス玉、耳飾り、棺の外側からは短甲、 矛(5点)、 馬の兜や甲、馬具、鉄器ミニチュア品など豊富な副葬品が発見された。
 馬兜・馬甲を含む一括品は、 東アジアの騎馬文化や国際 交流を示す貴重な資料である。 盗掘を受けているが、 剣よりも刀・ 矛が武器の主体であったものとみられる。

大谷古墳


石棺内の様子
 (盗掘で確定できないが、刀は6点以上、剣は推定3点以上副葬されていた。)

家形石棺 石棺内の様子 大谷古墳の形
(前方後円墳)
墳長:約70m
家形石棺
円筒埴輪列

張り出し部無し

 442大谷古墳の発掘

墓に供えた品物が見つかった様子
棺を納めた穴の中からは、墓に供えた品物が見つかりました。 棺の中は、後の時代に掘り起こされて荒らされていましたが、棺のまわりの品物は、埋葬された当時のまま残っていました。

墓に供えた品物が見つかった様子
墓に供えた品物が見つかった様子
     
(石棺の東の木箱)
馬の轡と飾り金具
(石棺の東)馬の鐙・
鞍金具め農耕具
(石棺内)冑・剣・刀
(石棺内)冑・剣・刀

 443大谷古墳周辺の遺跡

大谷古墳周辺の遺跡 大谷古墳周辺の遺跡
 慶円寺浦山古墳
晒山古墳群
 晒山1号墳
 大谷古墳
 背見山古墳
雨が谷古墳群
鳴滝古墳群
 鳴滝遺跡
楠見遺跡
 
 445
ガラス小玉  重要文化財 公開中
   古墳時代中期末 (5世紀末~6世紀初頭)
   大谷古墳 (市内楠見地区)

 石棺の中から見つかった玉類のうち、最も多いのがガラス製の小玉で、合計1万192点もあります。
そのうち最も多いのが緑色 (32%) で、 紺色(25%)、 黄色 (24%)と続き、 珍しい赤色 (12%)、 水色 (7%) もあります。

 現在の手芸用ビーズのようですが、 古墳時代のガラスは先端技術で貴重品でした。
最も古い時期には紺色が主流でしたが、 時代が下ると色とりどりになっていきます。


※古墳時代のガラス原料の輸入先
 古墳時代のガラスは、海外(中国・朝鮮半島、および東南アジアや西アジア)から輸入されたガラス素材(インゴットや管など)を日本国内で溶かして、勾玉や管玉(くだたま)などに再加工されたものが大半です。

主な原材料と産地の詳細は以下の通りです。
1. シリカ原料(ガラスの骨格)
・砂や石英(水晶):ガラスの主成分となる珪砂(けいしゃ)や石英は、国内でも採取可能でしたが、古墳時代以前のガラスは素材自体が大陸から持ち込まれていました。
2. 融剤(溶かすためのアルカリ成分)
・アルミニウムを多く含む「アジアのガラス」: 含まれる成分(アルミニウムなど)の特徴から、南アジアや東南アジア(インドやベトナムなど)が一次生産地であったと推定されています。
・ナトリウム源「西のガラス」: 地中海沿岸や西アジア(メソポタミア・ペルシャ地方など)で作られたガラスも、シルクロードや海上の交易ルートを通じて日本に到達していました。
3. 国内での独自製造の始まり
 古墳時代を通してガラス素材は輸入に頼っていましたが、飛鳥時代(7世紀後半)以降になると、石英(水晶)と鉛(鉛丹)を主原料として日本国内で直接ガラスを製造する技術が確立されました。

 446
勾玉・管玉  重要文化財 公開中

    古墳時代中期末 (5世紀末~6世紀初頭)
    大谷古墳 (市内楠見地区)

大谷古墳の石棺は、墳丘の上から穴を掘って埋葬されたものですが、発掘調査の時には、石棺を覆う土は 10cmほどの厚さしか残っておらず、 また石棺の蓋がずれて欠けていたことから、後の時代に掘り起こされて荒らされたようです。 石棺 の中の遺物も、 元の位置ではなくバラバラの状態でしたが、小さな玉類は数多く残っており、 紺色のガラス製の勾玉21個と、濃い緑色の碧玉製の管玉18個が見つかりました。

勾玉・管玉
管玉          
勾玉

 447
矢入具(胡鎬) 重要文化財 公開中

古墳時代中期末 (5世紀末~6世紀初頭)
大谷古墳(市内楠見地区)

矢を入れて携帯するための武具で、革製の収納部に補強や吊り下げ用の金具をつけて使用します。 金具は金メッキの銅製です。 古墳時代の前期には、 「靫」という、鏃(矢尻)を上に向けて収納し背中に背負う矢入れ具が主流でしたが、 古墳時代の中期から後期にかけて、 中国大陸・朝鮮半島からの渡来系の文物や乗馬の風習とともに、「胡篇」という、 矢羽根を上に向けて収納し腰から提げる武具が広まっていきました。

矢入具(胡鎬)
矢入具(胡鎬)   矢入具(胡鎬)
       


带金具  重要文化財 公開中
    古墳時代中期末 (5世紀末~6世紀初頭)
    大谷古墳 (市内楠見地区)

腰帯 (ベルト) を飾る金具で、 方形の板に龍の文様が刻まれ、小さな鋲で革帯に留める形です。 金メッキの銅製のもの1点少し小さい銀製のもの4点が、 石棺の中から見つかりました。
中国大陸・ 朝鮮半島の国々の影響を受けた遺物で、日本では稲荷山古墳(埼玉県)、江田船山古墳 (熊本県) など古墳時代を代表するような豪華な副葬品をもつ古墳で発見されています。 大谷古墳の主も重要な位置を占めていたようです。

帯金具

 448
よろいの小札   重要文化財 公開中
    (国所有・当館保管)
    大谷古墳・古墳時代中期末 (5世紀末~6世紀初頭)
石棺内でもっともたくさん見つかったのは、よろいの破片と鉄の矢じり(鉄鏃) の破片である。
よろいの部材は、細長い鉄 の板で頭がまるくなり、長さが短いものが多くみられる。
これらの小札を800枚~1000枚も使い、縦横に革ひもでつなげて、 挂甲と呼ばれる動きやすいよろいを作った。

よろいの小札 よろいの小札

 449
鉄の矢じり  重要文化財 公開中
    (国所有・当館保管)
    大谷古墳・古墳時代中期末 (5世紀末~6世紀初頭)

鉄の矢じり(鉄鏃) は、石棺内に多数散乱した状態で発見され、 完全な形のものはみつかっていない。
刃は刀身形と呼ば れる形で、 刃の長さは2~3cmである。 身の部分は、 細長い破片が多く全長は10cm以上とみられる。

鉄の矢じり
 
 
 


 450石室

天王塚古墳復元模型 〈実寸大〉

岩橋千塚古墳群の最高所に位置し、古墳群中最大規模を誇る前方後円墳で、6世紀前半の築造と考えられている。

石室は後円部に構築された横穴式石室で、 全長約10m。当館では玄室前道から奥の部分を復元した。
玄室奥壁には石棚、 天井には8本の石梁を備え、 その総高は5.9mに及ぶ。
また和歌山特有の緑泥片岩を積み重ねて造られており、畿内では特異な構造を持つ石室である。岩橋型横穴式石室

天王塚古墳復元模型
〈実寸大〉
天王塚古墳 天王塚古墳の横穴式石室(平面図)
博物館で復元している部分は玄室と羨道

※羨道部が細くなっているのが和歌山の石室の
 平面的な特徴です。


羨道部

狭くできた羨道
玄室

玄門より中は幅広い
       
玄室上部に垂直に渡された板石
土圧で押しつぶされるのを防止している

経験に基づく設計であり、過去に制作数が多かったようだ。

非常に高い天井
    実に頑丈な設計です       
 460
古墳時代頃
(約1500年前)の地形

天王塚の石室
岩橋千塚、特に天王塚は早くから日本考古学界の注目を集めた。
すでに明治40年(1907)、 東京大学人類学教室の大野雲外によって調査が行なわれている。

イギリス人のマンローは、大野の報告を英文の この著書で紹介し、岩橋千塚・天王塚は広く海外に知られるようになった。
彼は、「この墓室は日本に おいて最もけたはずれたものであると考えなければならないし、おそらく構築上からでは、世界中においても最も注目すべきものであろう」と述べている。 岩橋千塚の本格的な調査は、戦後、昭和 38年12月から昭和40年3月にかけて行なわれた。

 天王塚の石室       玄室の天井が非常に高い。 
天井空間を左右に8本もの梁石が渡されている。
天王塚墳丘実測図
 470
 471
古墳時代のアクセサリー
今からおよそ1400年~1600年前、 男性も女性も首輪や耳飾りなどのさまざまなアクセサリーを身につけていました。

かたい石を削るだけでなく、 金やガラスを加工することも、 すでにおこなわれていました。
それは飾るだけでなく、 権力のあかしでもあり、 特別な意味がこめられていたようです。

古墳時代のアクセサリー

 晒山1号墳の首飾り
ヒスイ勾玉
ヒスイ勾玉        

勾玉が発見された時の様子 勾玉が発見されたときの様子(再現)
 グループで古墳巡り をされていて、 1号墳の石室手前の斜面で、 たまたま足が痛くて地面を這うようにして
登っていたところ、落ちている勾玉に気付かれたそうです。
発見された方々で、 当時の様子を現地で 再現する機会があり、 状況や位置を記録することができました。
地域の貴重な歴史の 一つとして伝えていきたいと思います。

 ヒスイ勾玉
新資料です!
 ヒスイ製勾玉
  船戸山古墳群(市内小倉地区)にて採集
   弥生時代~古墳時代
 令和3年5月、 船戸山古墳群で採集されました。尾部 が短く、細くとがり気味で、 一般的な勾玉の形とは異 なっています。
 勾玉は横穴式石室の前方で発見されていますが、副葬品であったかどうかの検討が必要です。

 ヒスイは新潟県でしか採れず、県内では、縄文時代~古墳時代の遺跡で3例程度しか発見されていません。
 日高川町和佐(わさ)遺跡 (縄文時代)有田川町旧吉備中学校校庭遺跡 (弥生時代)、和歌山市晒山1号墳(古墳時代))

 ヒスイ 勾玉の存在は古くから有力な地域であったことを示し ている可能性があります。

ヒスイ製勾玉
船戸山古墳群
弥生時代~古墳時代
ヒスイ製勾玉
 472
晒山1号墳首飾り
     古墳時代中期 (5世紀前半)

紀ノ川北岸の大谷古墳と同じ丘陵上に築かれていた古墳で、大谷古墳より古い有力な古墳です。
木の棺の場所から、ヒスイの勾玉3点、碧玉製管玉52点 滑石製臼玉116点がまとまって発見されました。
もとの姿を想像してつなげていますが、 首飾りの様子がよくわかります。

晒山1号墳の首飾り ヒスイ
ヒスイ勾玉 滑石製ビーズ
緑色凝灰岩製管玉
滑石ビーズ 緑色凝灰岩製管玉
 473
金の勾玉 ←国内でコレ だけです !
      古墳時代中期 (5世紀中頃)
      車駕之古址古墳
      和歌山県指定文化財

 市内北西部の木ノ本(きのもと)に築かれた全長86mの前方後円墳・車駕之古址(しゃがのこし)古墳で平成2年に発掘された金製勾玉。
 頭のまわりは細い刻み目を入れた金線で装飾され、高い技術がうかがわれます。

 金が約64%、 銀が約36%の合金の薄い板を両側から蝋付け(ろうづけ)して製作されています。
朝鮮半島の古代の加耶や新羅地域に似たものがあり、古墳時代の国際交流を考える上で大変、貴重な資料です。

金製勾玉が発見され、地元の方々をはじめとする多くの人の協力により、 古墳は保存され、出土品ともに和歌山県指定を受けています。

金の勾玉

《参考写真》 韓国皇南大塚の金製の腰飾り
皇南大塚は、 新羅の王陵のひとつとみられる墳墓です。 ここでは、 金製勾玉は他の装飾品とともに腰帯に吊り下げられています。

           


 金の勾玉
    古墳時代中期 (5世紀中頃)
    車駕之古址(しゃかのこし)古墳

 475
明楽(あきら)6号墳のアクセサリー
      古墳時代後期 (6世紀後半)

 紀ノ川南岸、 岩橋千塚古墳群の東方約 2.5kmに築かれた後期古墳で、横穴式石室を埋葬施設とします。
 装身具としては、水晶製切子玉、金を張った耳飾り(金)、碧玉製管玉が発見されています。
 後期古墳のアクセサリーとして典型的な組み合わせです。
 AIによる概要

明楽(あきら)6号墳のアクセサリー
明楽(あきら)6号墳のアクセサリー

耳環
つなぎ目のところをよく観 察すると全部が金ではなく 金箔をまいていることがわ わかります。 金が貴重であ るための工夫でしょう。

水晶製切子玉 碧玉製管玉


 476
巨大な勾玉
   古墳時代後期 (6世紀)
   西庄遺跡

大きな勾玉に小さな勾玉がくっついています。
滑石で作られた特別な勾玉で、 子持勾玉と呼ばれます。 巨大で、アクセサリーというよりは、祭祀に使用されたようです。
発見された西庄(にしのしょう)遺跡は、塩作りの古墳時代のムラとしては全国でも最大規模で、 鹿角製漁労具や刀装具も出土する重要遺跡です。

巨大な勾玉
巨大な勾玉
 
 481
井辺(いんべ)遺跡井戸筒(いどづつ)
       井辺遺跡第1調査・古墳時代前期
昭和39年(1964)、 岡崎団地の造成工事をきっかけに、 井辺遺跡で初めての発掘調査が実施されました。
調査では弥生時代後期の土器群が2本の列状になって発見され、 井戸は土器列から2m離れて検出され ました。

直径約2mの穴の底に、 木製の井筒を埋めたもので、筒内部からは、古墳時代前期の土器や状の木製品が出土しました。
筒内部は漆塗で、 底には漆がありません。 樽を井戸に転用したようです。

井辺遺跡の井戸筒
 482
囲形埴輪
   古墳時代中期(5世紀中頃)
   車駕之古址(しゃかのこし)古墳
金製勾玉を出土した前方後円墳のくびれ部の周濠から出土。
建物を囲む「囲形埴輪」 で、 出 入り口部が屈曲して表現される。 古墳時代の 豪族の居館の姿を現しているとみられる。

囲形埴輪 囲形埴輪
 


 483
古墳
古墳は3世紀後半から7世紀に造られた有力者のお墓です。大きさや形、副葬品から古墳に葬られた人の力の大きさや身分の高さが想像できます。日本各地で古墳が造られた時代を古墳時代と呼びます。

前方後円墳
 円形の墳丘に方形の墳丘を組み合わせた鍵穴のような形の古墳で、円形部分が古墳の中心と考えられます。 古墳時代の前期から後期にかけて全国に造られました。
【例】大谷古墳、大日山35号墳、大谷山22号墳、井辺八幡山古墳、車駕之古址古墳

前方後方墳
 前方後円墳の後円部を方形の形にした古墳です。 古墳時代前期に東国(現在の東日本)で多く造られました。
【例】 西山古墳(奈良県天理市)、八幡山古墳 (群馬県前橋市)

方墳
 平面の形が方形の古墳で、古墳時代を通じて造られました。 7世紀には前方後円墳に代わって有力者の古墳の形になりました。
大王墓は7世紀半ば以降に大型方墳から八角墳へと変化しました。
【例】 井辺1号墳・2号墳

円墳
 平面の形が円形の古墳で、古墳時代を通して造られました。 日本全国で見られ、最も多く造られた古墳です。
【例】 園部円山古墳
古墳

家形埴輪
   古墳時代後期(6世紀前半)
   大谷山 22号墳 (岩橋千塚古墳群)

 大谷山22号墳は、岩橋千塚古墳群中の前方後円墳で、前方部の付け根には造り出し (台状に張り出した部分)があり、人物や動物、 武具、家などの形の埴輪が並べられ、 葬式の様子を表したようです。

 家形埴輪は、屋根から下の構造はわかりませんが、大きな入母屋造りの屋根で、 上半の切妻部分の両端には風雨の吹き込みを防ぐ破風があり、棟の上には堅魚木(かつおぎ)が並んでいます。 首長の居館を表しているのかもしれません。

家形埴輪
 484
盾持人埴輪
      古墳時代後期(6世紀前半)
      大谷山22号墳(岩橋千塚古墳群)

岩橋千塚古墳群は、 紀の川南岸の大日山周辺の山並みに 800基余りの古墳が集中する全国でも有数の群集墳です。
大谷山22号墳は、 群中最大級の前方後円墳の一つで、 歴代の首長の一人とその家族が埋葬されたようです。
古墳の周りには円筒埴輪、造り出しには巫女、武人、 力士、 馬、 鶏などの埴輪が並べられました。
盾持人は、 盾を持ち邪気の侵入を防いで古墳を守るガードマンで、 手足が省略された面白い形です。

盾持人埴輪
盾持人埴輪 盾持人埴輪
(顔面部)
 
 490

 491土師器と須恵器 (古墳時代の土器)
古墳時代の土器には、 弥生土器の流れをくむ素焼きの土師器と、 朝鮮半島から伝わった技術で作られた須恵器があります。

土師器は地面に掘った穴で、 約700~800度の温度で野焼きしたため赤っぽい色をしています。
煮炊き用の甕や盛り付け用の高杯などのほかに、 移動式の(かまど)など朝鮮半島から伝わったものもあります。

須恵器は、 約1600年前 (5世紀前半頃)に朝鮮半島から伝わった窖窯(あながま)(斜面に築かれたトンネル状の穴)で焼かれた土器で、ロクロを用いて成形されます。
窯は、 薪を投入する焚口から薪が燃える燃焼部、 土器を並べる焼成部など大きな筒状で、窯内部では1000℃以上の高温で還元焔焼成(えんしょうせい)(酸素がほとんど供給されない)されることにより青灰色で硬くなる特徴があります。

土師器と須恵器
(古墳時代の土器)


 和歌山平野の古墳時代の地形と遺跡
和歌山平野の古墳時代の地形と遺跡 遺跡名
紀の川南岸 砂堆部
1 鷺ノ森
2 和歌山城
3 吹上
4 関戸

紀の川南岸 岩橋千塚
5 友田町
6 木広町
7 太田・黒田
8 秋月
9 鳴神V
10 鳴神IV
11 音浦
12 鳴神貝塚
13 鳴神Ⅲ
14 鳴神Ⅱ
15 大日山Ⅰ
16 津秦
17 津秦Ⅱ
18 神前Ⅱ
19 井辺Ⅰ
20 井辺21 神前
22 岩橋高柳
23 岩橋
24 岩橋Ⅱ
25 天王塚山
26 吉礼遺跡群
27 相方
和田川以南部
28 和田
29 和田岩坪
30 和田Ⅱ
31 坂田
32 三葛
33 菖蒲谷
34 千石山
35 城ヶ森
36 滝ヶ峯
37 加太
紀の川北岸
38 西庄
39 木ノ本Ⅰ
  車駕之古址古墳
  大谷古墳
40 平井
41 平井Ⅱ
42 楠見遺跡
43 鳴滝
  奥出古墳
  園部丸山古墳
44 有功
45 六十谷
46 高井
47 府中Ⅳ
48 橘谷
49 弘西
50 田屋
51 西田井
52 北田井
53 宇田森



 岩橋千塚古墳

※岩橋千塚古墳始末記
 岩瀬山塊を始め、紀州徳川家が一帯の領地を治めていた時代には、全ての古墳はお殿様のものとして、盗掘は一切されなかった。むしろそんなことしようものなら、一族一家にきついお仕置きが待っていたのです。

 明治維新後、徳川家が領地を和歌山県に移管して東京に去ったのち、地方官吏が任命された。その官吏の中の郡長(郡の長官)が、岩橋千塚古墳群を最初に盗掘し、中にあった宝物(副葬品)を持ち去ったことが一挙に知られ、だったら俺たちもやっていいんだなと、大挙住民が盗掘に押し寄せ、
あっという間に八百以上の古墳が盗掘された。
 そして、夜になると、それを売る露店が出て、市をなしたという。

 この泥棒郡長の記憶は、岩橋千塚古墳の中に、郡長塚古墳として、その所業の最大の犯罪が記録されています。その他に知事塚もある。

※確かに、墓あばきは大罪なのだが、規制の鋤を突いた盗掘は、日本の各地で文献に現われています。それまでもあったのですが、維新後が最大の盗掘フィーバーの時期でした。その後は沈静化した…のではなく、盗掘する古墳がなくなったのでした。




 岩橋千塚周辺の古墳分布
岩橋千塚周辺の
古墳分布
花山2号墳
花山20号墳
花山44号墳

花山6号墳
花山8号墳
花山9号墳
花山7号墳

大谷山6号墳
大谷山28号墳
井辺八幡山古墳
并辺前山6号墳
井边前山3号墳
大谷山28号墳
大谷山2日号墳
井辺南山6号墳
大谷山27号墳
大谷山20号墳
大谷山22号墳
大日山35号墳
大日山1号墳
将軍塚
知事塚
郡長塚
前山A46号墳
前山A46号墳
天王塚
 
 496
土師器
小型丸底壺
(器台にのせる小さな壺で祭祀用)
高杯
(盛り付け用)
壺(貯蔵用)
甕(煮炊き用)


製塩土器
古墳時代の前期~中期頃、 和歌山市の北西部、加太(かだ)や友ヶ島の海沿いの遺跡からは、小さな台部に上部がラッパ状に開く形の土器が多量に発見されます。これは海水を煮詰めて、塩を取り出した製塩土器とよばれる特別な土器です。

製塩土器

 須恵器
須恵器
杯蓋(食器の蓋)
杯身(食器の身)
ハソウ(液体を注ぐ:祭祀用)
壷(貯蔵用)
 

 器台
器台
(壺などをのせる台:祭祀用)
 

 497
岩橋千塚古墳群の金属製品
    古墳時代前期~後期 (4世紀末~7世紀初頭)
和歌山平野の南東部に位置する岩橋千塚古墳群は、 前方後円墳、方墳、円墳など総数800基以上の古墳が集中する全国屈指の大規模古墳群で、
特別史跡に指定されている。

古墳には、権力者により武器・武具・馬具・工具・農具・装身具など、さまざまな金属製品が副葬された。
ここでは武器類を中心に展示する。

岩橋千塚古墳群の金属製品 岩橋千塚古墳群の金属製品

  刀子 (小刀) (花山44号墳・5世紀前半)
鉄剣(花山44号墳・5世紀前半)

鉄剣(寺内63号墳・5世紀中頃)
鉄槍(寺内63号墳・5世紀中頃)
鉄剣(寺内63号墳・5世紀中頃)
鉄槍(寺内63号墳・5世紀中頃)

鉄鏃(寺内63号墳・5世紀中頃)

蛇行状鉄剣(寺内63号壌・5世紀中頃)
直刀(花山46号墳・5世紀)
4世紀末~5世紀の金属製品

 
4世紀末~5世紀の金属製品
蛇行状鉄剣(寺内63号墳・5世紀中頃)
直刀(花山46号墳・5世紀)

※今話題の蛇行剣が副葬されていた


剣から刀・馬具の副葬へ
      古墳時代前期~後期 (4世紀~7世紀初頭)

岩橋千塚古墳群では、
剣は花山8号墳44号墳 寺内63号墳など4世紀末~5世紀代の6基の古墳から出土し、
刀は花山46号墳・ 井辺前山36号墳など5~7世紀初頭までの3基の古墳で出土し、 うち9基は6世紀以降の横穴式石室出土となる。

槍は寺内63号墳のみで古い5世紀の小数例であり、
鉾は花山42号など5世紀前半から6世紀後半まで4基で少数例ながら継続的に出土する。

6世紀以降の横穴式石室からは馬具が出土し、 馬の利用が普及したことを示している。

鉄鏃(寺内63号墳・5世紀中頃) 剣から刀・馬具の副葬へ ※剣と刀 (両刃の剣、片刃の刀)

剣:「剣(つるぎ・けん)」とは、刀身の両側に刃があり、まっすぐで反りのない「両刃の直刀」の総称です。片刃の「刀」が「斬る」ことに重きを置くのに対し、剣は「突き刺す」用途に優れています。武器としてだけでなく、権力の象徴や祭神具(神仏に捧げる宝物)としても扱われてきました。
刀:「刀」とは、一般的に日本刀の一種、特に「打刀(うちがたな)」を指す言葉です。刃が片側にしかなく、反りがある美しい曲線美と、高い実用性を兼ね備えた日本独自の武器です。

 井辺前山36号墳
6世紀の金属製品
直刀
(井辺前山36号墳・6世紀前半)
6世紀の金属製品
直刀
(井辺前山36号墳・6世紀前半)
鉄鎌
(井辺前山36号墳
-6世紀前半)

刀子
(井辺前山36号墳
-6世紀前半)
鉄斧
(井辺前山36号墳
-6世紀前半)
 
 
 
 


 500古代

 501
古代国家と紀ノ川河口
日本神話に和歌山の地名が多く見えます。 これは、 大和盆地に発生した古代国家が発展する過程で、 紀ノ川と結ばれたこの和歌山の地を拠点にしていたからです。 その古代国家が、 中国の律令制度に(なら)って、 支配を確立すると、 紀伊国にも国司が派遣され、 税制度も整えられるようになります。
古代王権の海外窓口として、 はやくから外来文化を受 け入れてきたこの地には、 仏教文化をはじめとして、 優れた文化が花を咲かせました。 『万葉集』 にもこの地が多く詠まれています。

Ancient Times
An Ancient Nation and the Estuary of Kinokawa River
Kiino-kuni (nation) was known as Kino-kuni (timber nation) as it was the timber supply source closest to the capital at that time. Many royalties visited the area because of famous scenic places including Wakanoura. This fact is also described in ancient literatures such as Manyoshu or Utsuho Monogatari.

古代
古代国家と紀ノ川河口
紀ノ国は、当時、都に最も近い木材の供給源であったことから、「紀ノ国(きのくに)」と呼ばれていました。和歌浦をはじめとする景勝地が数多くあり、多くの王族が訪れました。このことは、万葉集や宇津保物語などの古代文献にも記されています。

古代国家と紀ノ川河口 古代国家と紀ノ川河口 紀ノ川流域の古代史跡


 紀ノ川流域の古代史跡

 505古代寺院の遺瓦拓影
山田寺式軒丸瓦 AIによる概要
この瓦は、飛鳥時代に建立の山田寺の瓦に見られる特有のデザインです。・蓮華文: 瓦の丸い部分には、仏教のシンボルである蓮の花が彫られています。
・山田寺式軒瓦: 中央の円形部分(瓦当)に単弁八弁蓮華文が描かれたこの様式は、「山田寺式」と呼ばれています。




古代寺院の遺瓦拓影 直川廃寺
上野寺廃寺
紀伊国分寺跡

山田寺式軒丸瓦
軒平瓦左は
古代播磨の国都城系瓦
名古曽廃寺
古佐田廃寺
薬勝寺廃寺
北山廃寺
最上廃寺
佐野廃寺
神野々廃寺
 
 510
古代寺院の瓦
いろんな文様ながめてごらん。 これは、古代のお寺の瓦だよ。 和歌山は、古代の国の玄関口で、早くから大陸の文化を受け入れてきました。 仏教も、そんな新しい文化のひとつです。 この形はお花かな。 日本的というよりも、どこか異国の香りがしませんか。

古代寺院の瓦


隅木蓋瓦(すみきふたかわら)
   上野廃寺出土 〈複>
   奈良国立博物館蔵

軒先から突き出した隅桷(すみたるき)の先端を、風雨 からまもるために覆う瓦製品。
国指定史 跡上野廃寺から出土した白鳳期の資料。 正面と両側面に肉厚の紋様が施されている。
各中央にパルメット紋を配し、両側面の端には渦紋が見られる。

隅木蓋瓦 隅木蓋瓦

薬勝寺廃寺出土の瓦
白鳳時代
紀伊国分寺出土の瓦
奈良時代
山口廃寺出土の瓦
名古曽廃寺出土の瓦
白鳳時代
神野々廃寺出土の塼仏
白鳳時代
神野々廃寺出土の塼仏
白鳳時代
中国出土 唐代
如来三尊像塼仏

 520
 521
古代王権の外港と紀氏
神武天皇が、 九州から大和を目指したことを記した 『古事記』 の神武東征神話には、 「雄ノ湊(おのみなと)」や「竈山(かまやま)」という和歌山の地名が多く見られる。 このことは、この地がはやくから古代王権の外港としての役割を果たしていたことを示している。

一方、 その役割を果たした在地勢力が、 日前宮(にちぜんぐう)を祀り続けてきた紀伊国造(きいのくにのみやつこ)である。 その権威を今に伝える資料として、 銅製の「紀伊国造印」がある。

外港:都市近郊の物資の積み下ろしをする港。
    港を持たない内陸の大都市などの代わりに、海沿いに物資の積み下ろし機能を持つ港のことです。
    例: 札幌に対する小樽港や苫小牧港

※日前宮:神武二年の創建とされる。日前宮(ひのくまぐう)である。伊勢神宮と同等の鏡をご神体とする。
     代々紀伊国古代豪族で国造を務めた紀氏が宮司を務める。日前神社に國懸神社が同居している。両社ともに天照大神を祭神とする。
     日前宮とは 日前宮由来 日前神社とは 國懸神宮とは 日前神社の神主は?

紀氏と神武東征の関係
  紀氏(きうじ/紀伊国造家)は神武東征一行を熊野から大和へと安全に導き、ヤマト王権の成立に大きく貢献した重要な海人(あま)系豪族です。
・日前神宮・国懸神宮の奉斎
 紀氏の直系である「紀直(きのあたい)」は、アマテラスの別神とされる「日前神(ひくまのかみ)」と「国懸神(くにかかすのかみ)」を祀る家系です。
 これは、天皇家の祖先神(天照大御神)と並ぶ重要な神を祀る権能を意味し、大和朝廷において強力な祭祀権を握っていました。

※考察 日前宮
 大和政権が記紀編纂に際して、各豪族に出自を明らかにするよう求めたのに対し、誰もが朝鮮半島南部の海賊漁民の末裔などとかけないので、
 猫も杓子も、古代豪族竹内氏の末裔と名乗ったように、各神社に主祭神やご神体を明らかにするように求められたとき、祭神が宮司の先祖
 であるとは言えず、アマテラスだとかサヨヒメだとか、苦肉の策を講じたいきさつがある。

 日前宮は祭神をアマテラスとしているが、在地勢力が日前宮を祀り続けていることの真相は、おそらく紀氏の祖先を祀っているのでしょう。
 出雲大社が、神武政権による権力移譲を求められ、代わりに、司祭となって出雲族の祖先を祭ったようにである。

 だいたい基本的に、有力豪族の祖先をカミとして、先祖供養するための信仰なので、様々なカミの名前は、先祖に付けた名前です。
 架空の超能力者、全能のカミのことではない。ただの祖先の名前。法名・戒名の最後に居士とか付けるのと同じでしょう。

  (このことは、弥生末期から古墳時代に青銅器信仰を毀損し、古墳を造らせて、それを崇めるように強制したことに始まる。)
  (元々、ただのピカピカ光る金属を見たこともない素晴らしいもの、聞いたこともない涼やかな音色。だから崇めよう。)
  (そんな低い段階の宗教心なわけで、最初は強制され、旧ご神体である青銅製品を破壊されることを嫌がっていた庶民も)
  (何年かすると、有力者の先祖を祀り、崇めるようになった。この時代にすでに権力者の祖先信仰が始まり、カミの名を付けて呼んだのだ。)

 確かに、物凄い権力を握った一族の身内は、そこに導いてくれた先祖の力にひれ伏し、感謝し、カミと崇めるのは当然のことでしょう。
 しかし、ただに先祖を祭神と届けるにはネームバリューに困った時代、名の通った神話をまとったカミの名を借りて、その神と自己の祖先を
 同一視して 祭神を決めたのかも知れません。

 きっと、現代の聖徳太子神話のように、たけのうち氏神話が当時も知られていたように、立派なご神体を持っていれば、アマテラスとも言えるが、
 そうでない神社には、それなりに祭神を決めたのでしょう。

 ここで言いたかったのは、日前宮の本当の祭神は紀氏の先祖だろう、と思われること。

古代王権の外港と紀氏
日前宮 竈山神社

カマドの神様
伊太祁曽神社
木の神様
紀伊国造系図
 522
古事記神武東征段  <複>
         真福寺蔵
古事記によると、 東征して大和国を目指した神武天皇は、 紀伊国へ迂回した。
雄湊(おのみなと)で天皇の兄彦五瀬命(ひこ いつせのみこと)は死に、 竈山(かまやま)に葬られたと伝えられる。
和歌山には、記紀(きき)神話に出る地名や古社が多くみられる。

古事記神武東征段


紀伊国造印(きいのくに みやつこ いん) <複>
      奈良時代 紀俊行氏蔵

古代の紀ノ川流域を支配し続けた国造のシンボル。 印面は方1寸4分 (43mm)。
現存する紀南の牟婁郡(むろぐん)の郡印が1寸5分(45mm)であるから、 国造職が郡司(ぐんじ)の職にほぼ見合ったものであったといえよう。

  紀伊国造印         

平城宮跡出土木簡<複>
古代和歌山から平城宮におさめた税物に付けられていた荷札。いずれも紀伊国海部郡可太郷(市内加太)から調として、塩をおさめていたことを伝える。 左は729年、右は769年のもの。 中央は年紀不明。

平城宮出土木簡
木簡って知ってる?紙がまだなかったので、木に墨で字が書いてあるんだね。 これは、 奈良の都に納められた塩につけられていた荷札です。
可田(かた)郷」 と書いてあるのが読めるかな。 いまの和歌山市加太のことなんだ。 この時代には、土地の名物を納める税がありました。
和歌山は海に面しているからね。

平城宮跡出土木簡<複>
平城宮出土木簡
 

 523
古代国家と人々のくらし

中国の制度に(なら)った律令制支配の仕組みが整うと、 紀伊国にも国司が派遣された。 彼らは、人々に租庸調の諸税を課し、 その収支を「正税帳」に記して報告した。 この地からの貢納物(こうのうぶつ)につけられた荷札が今も出土している。 「和同開珎(わどうかいちん)」 も太田・黒田遺跡で出土しており、 国家の意図を(たい)してその流通が図られていた。 しかし、 平安末 期になると最大の権威を誇る日前宮は、国家の 意図に反して、私有地の拡大を図っていた。

古代の生活
租庸調などの税を貢納した当時の人々は、 国から支給される口分田を耕作していた。
都では立派な宮殿や大寺が建てられていたが、人々は、弥生時代とほとんどかわらない竪穴住居に住んでいた。
食器は質素な土師器で、 貨幣は和同開珎が流通していたが、 あまり 実用的ではなかったらしい。
けっして楽な くらしではなく、その年の収穫期までに前年 の収穫を食べつくすことも多かった。
それでも、役人の里長(さとおさ)は、税をきびしくとりたてたという。

古代国家と人々のくらし
古代の生活

 古代の税金
古代の税金

春米運京
稲2束2把


運脚
麻布

調
絹,糸,塩,銭貨,特産品,
雑徭 年間60日以下の労働

義倉
粟,大豆など(半強制)

兵役
正丁三人一人
衛土1年、防人3年

出举
稻、年率5割


川辺(かわなべ)遺跡出土の須恵器
      奈良時代 (8世紀)
和歌山市の東部、国道 24 号線沿いの川辺遺跡から出土した須恵器で、 つまみのついた蓋と底に低い台が付く身からなる。
奈良時代に使用された代表的な食器の組み合わせ。 この遺跡は、 奈良時代以前には、 大和政権直轄地の屯倉(みやけ)の候補地ともなっている。

川辺遺跡出土の須恵器 川辺遺跡出土の須恵器
川辺遺跡

 524
古代の土地制度
奈良時代になって律令制度が整うと、 全国の土地はすべて公地となり、人々に支給された。 人々は、土地1段当り2束2把の稲を 国府に租税として納め、
その稲が国府運営 の財源となった。 そのため、 国府では国内 公地からの全租税量とその使途を明確にする正税帳(しょうぜい ちょう)がつくられた。
正倉院には天平2年 (729) の紀伊国正税帳が、いまも残っている。
しかし、平安時代になると、 公地公民制がくずれ、貴族や大社寺による荘園の経営が さかんになる。

古代の土地制度


大治(たいじ)二年在庁官人解案(ざいちょうかんじんげあん) <複>
       林家文書
大治2年(1127)、 日前宮が従来政府から支給されていた神戸(かんべ)を放棄する代償に、現市内和田川(わだがわ)周辺の潮入地(しおいりち)を開墾したい と願い出ている。広大な自前の荘園の形成を意図していた。

大治二年在庁官人解案

大治二年在庁官人解案
AI による概要
「大治二年在庁官人解案(だいじにねん ざいちょうかんじん げあん)」とは、平安時代後期の1127年(大治2年)8月17日に出された「紀伊国在庁官人等解案」を指すのが一般的です。この古文書は、当時の地方支配や荘園・神社領の状況を知るための重要な一級史料となっています。

文書の基本情報
・発給日: 大治2年(1127年)8月17日所蔵
・収録: 個人蔵の林家文書(現・和歌山市立博物館などに所蔵)、『和歌山県史 古代史料1』や『平安遺文』に収録されています

歴史的背景と内容
 大治2年当時、紀伊国の有力社である「日前宮(ひれまさぐう)・国懸宮(くにかかすぐう)」の封戸(ふこ)が未進(年貢の滞納)となり、神事の執行に重大な支障をきたしていました。

 解案(げあん)とは、地方の役人(在庁官人)が上級機関や朝廷へ提出する上申書の控えのことです。この文書には以下の内容が記されています。

・代替え地の申請: 滞納している封戸の代わりに、公田から合計79町(現在の和歌山市内にある岡崎、和太、安原、岡田下などの地域)を両社の社領としてあててほしいと申請しています。


・土地の開発と堤防工事: 申請された土地は「塩入(塩害のある湿地)」であり、長年開墾ができずに荒れ地となっていました。そのため、塩害を防ぐために40余町に及ぶ堤防を築く開発工事を実施することを条件に承認を求めています。

・地方支配の構造: 郡司や院司(神宅院司、三上野院司など)、在庁官人などが連署・在判しており、平安末期の紀伊国における国衙(こくが)の統治機構や、神社勢力・在地領主の動向を示す貴重な実態が読み取れます。

 

 525
聖武天皇の行幸経路
  笠朝臣金村
大君の 行幸のまにま 物部の
八十伴の誰と 出て行きし 愛し
夫は 天飛ぶや 軽の路より 玉襷
畝火を見つつ 麻裳よし

 紀路に入り立ち
真土山 越ゆらむ君は 黄葉の
散り飛ぶ見つつ 親しみ
われは思はず 草枕 旅を宜しと

思ひつつ 君はあらむと あそそには
かつは知れども しかすがに 黙然得
あらねば 千重におもへど
手弱女の わが身にしあれば

道守の 問はむ答を
言ひ遣らむ 術を
知らにと 立ち爪づく
〈所石頓宮(推定地)
巻4-543
 笠の朝臣 金村
大君の行幸に随って、百官の廷臣たちとともに出発していった愛する夫は、空を飛ぶ雁――軽の道から玉襷をかける項(うな)――畝傍の山を見つつ、麻の裳もよい

紀の国に入り、真土山を今や越えているだろう君は、黄葉の散り飛ぶのを賞美しつつ、親しんだ私のことも考えず、草を枕の旅をむしろ楽しく思って、

あなたはいるだろうとは、うすうすは一方で知りながら、それでも黙っていることはできないので、
いとしい夫の出かけていったとおりに、追いかけていこうと何度も思いはするが、かよわい女の身なので、

道の番人が尋ねるのに答えをどうしたらいいか、すべのなく、立ち上ってはためらってしまうことだ。

聖武天皇の行幸経路


聖武天皇の和歌浦行幸
神亀元年(724)、 即位間もない聖武天皇は、多くの貴族を率いて和歌浦に行幸した。
真土山(まつちやま)を越えて紀伊国に入った一行は、紀ノ川北岸を西進して和歌浦に到着。
その美しい 景色を絶賛し、従った貴族たちも多くの万葉歌を(えい)じた。
晩秋を温暖の地和歌浦の玉津島(たまつしま)頓宮(かりのみや)ですごし、途中岡東離宮(おかひがしりきゅう)を造営している。
16日をすごした一行は、 雄山峠(おやまとうげ)を越えて都へ帰った。
41年後の晩秋、天皇の娘の称徳(しょうとく)天皇も、ほぼ同じ道をたどって和歌浦に行幸している。

聖武天皇の和歌浦行幸
有間皇子の墓と万葉歌碑
大同寺裏山の石橋

 526
桂万葉集(かつらまんようしゅう) <複>
万葉集巻四の平安中期の写本。紀貫之(きのつらゆき)自筆と伝える。
きらびやかな料紙(りょうし)に草書体の万葉仮名が()える。
この巻には聖武天皇の和歌浦行幸(わかうらぎょうこう)の経路を詠じた笠朝臣金村(かさのあそん かなむら)の和歌がおさめられている。

桂 万葉集
万葉集ということばを聞いたことがありますか? 日本で最も古い歌集だよ。 これは、平安時代の歌人がそれを書き写したものだと伝えられています。 上品な和紙に、流れるような文字で書かれているね。 和歌の浦を訪れた天皇が、 その美しい景色に心うたれた時のことが詠まれています。

桂万葉集
桂 万葉集


県指定文化財
大同寺の蔵骨器 <複>
       大同寺蔵
奈良時代の蔵骨器、 銅製で身と蓋からなる。 身の底と蓋の上部に 「生」の1文字が刻まれ ている。
江戸時代の山崩れの際、 露出した石櫃(いしびつ)内から発見。 当時の火葬の風習を知ることのできる貴重な資料。

大同寺の蔵骨器
(はす)のおまんじゅうのようなこの形、 何を入れていたのかな。 これは、 奈良時代に使われていた骨を納める器です。 銅でできているんだね。
江戸時代に偶然、大同寺というお寺の裏山から見つかりました。 人が亡くなった後に火葬をする風習は、仏教とともに日本に入ってきたんだよ。

  大同寺の蔵骨器         

 530
いにしえ人の文化
『万葉集』には、 紀伊国を題材にした和歌が130首も収められている。 中でも数次の行幸地に選ばれた和歌浦は、多くの万葉歌の舞台になった。
また、はやくから外来文化を摂取してきたこの地には、多くの白鳳寺院跡が見られる。 国指定 史跡上野廃寺は、薬師寺形式の伽藍を持つ壮大な寺院であった。 さらに、 火葬の風習が入ってくると、 火葬骨を収める蔵骨器が出現し、平安期には美しい仏像が見られるようになる。

いにしえ人の文化
毘沙門天立像

毘沙門天立像 <複〉
    平安時代中期 紀三井寺護国院蔵

左手上の宝塔を厳しい眼光でにらみ、高く掲げた右手に錫杖を握り、凜々しく邪鬼を踏みつける毘沙門天立像。
邪鬼は後補(こうほ)であるが、 本体は檜の一木造りで、 背面に背刳りをして縦54cm、幅8cmの背板をはめている。
背面右側の裳裾にはみごとな渦文がみられる。 製作年代は10世紀頃と推定される。

毘沙門天立像
毘沙門天は、仏さまの世界を守るガードマンです。
多聞天ともいって、北方を護っているよ。 怖い顔をして、 左手に塔をのせているね。 右手には杖を握っています。
足の下を見てごらん。 邪鬼という鬼が踏みつけられて、苦しそうにしているよ。 この像は、一本のヒノキの木から彫られています。

毘沙門天立像 毘沙門天立像
毘沙門天立像

十一面観音立像 (撮影禁止)

平安時代中期
  慈光円福院本尊

頂上(ちょうじょう)仏面(ぶつめん)天冠台(てんかんだい)上に10の頭上面を配し、左手に水瓶(すいびょう)を握り、やや腰を左に(ひね)って台座上に立つ十一面観音立像。頬・胸に胡粉(ごふん)が残っており、造像時は彩色仕上げだった。後補(こうほ)の頂上仏などを除き、 本体は(かや)の一木造りで内刳(うちぐり)りもない。 膝前でみごとな翻波式(ほんぱしき)衣文(えもん)を表わすなど、平安初期の特色を備えた秀作である。

十一面観音立像
慈光院福院
平安時代中期
 
 


 600中世

期間: 12世紀末(鎌倉幕府の成立)〜16世紀末(安土桃山時代・江戸幕府の成立前) (1185~1603)
該当する時代:    鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代

特徴: 天皇や貴族に代わり、土地を支配する武士(武家政権)が実権を握りました。
   荘園制や主従関係に基づく封建社会が発達したのが大きな特徴です。

  
 601
中世一荘園世界と雑賀の人々

平安時代後期になると、 朝廷の力が衰え上皇による院政が 始まりました。
紀ノ川流域では大寺社や貴族の荘園が増加し、有力な武士が育ちませんでした。
また、 高僧の紀州来化(らいか)が相次ぎ、 浄土宗や浄土真宗などに帰依する人々が増えていったのです。
その一方で紀州と各地との交易が深まり、 商業活動などが活発に行なわれました。
やがて鉄砲が雑賀に普及すると、 彼らは強力な武装集団と化し、 「雑賀一揆」として織田信長や羽柴秀吉の全国統一に激しく抵抗しました。

The Middle Ages
The Era of Manor Houses and Saika (Mercenaries)
The great temples including Koya-san and Negoro temple established their power and influence in Kiino-kuni (Wakayama Prefecture) during the middle ages since the power of the Daimyo (feudal lord) which had grown widely in other areas had yet to grow there. Particularly in the Wakayama plains during the Sengoku (wartime) period, local samurai organized a group to resolve territorial border disputes instead of the Daimyo. These are the so-called Saika shu (renegade).

中世
荘園領主と雑賀(雑兵)の時代
中世、紀伊国(和歌山県)では、他の地域で勢力を拡大していた大名の勢力がまだ大きく発展していなかったため、高野山や根来寺をはじめとする大寺院が勢力を築きました。特に戦国時代の和歌山平野では、地元の武士たちが大名に代わって領土境界紛争を解決する集団を組織しました。これがいわゆる雑賀衆です。

中世-荘園世界と雑賀の人々

 620
紀ノ川流域の荘園
朝廷の力が衰え、地方支配が弱まると、 有力な寺社や貴族の私有地である荘園が増加した。
紀州では国衙領(公領(こくがりょう こうりょう)) に対する荘園の割合が高く、特に紀ノ川流域では全体の8割以上が荘園であっ たといわれる。

また、 国衙領も在地の有力武士により、事実上荘園化されていった。戦国時代に雑賀衆(さいかしゅう)の活躍の場となった雑賀荘、漁業や塩業で知られる賀太荘(かだのしょう)等著名な荘園が多いが、その所領関係や成立過程は明らかではない。

紀ノ川流域の荘園
※掛け軸は両方とも
撮影禁止
紀ノ川流域の荘園

 紀伊国高野山領荘園の拡大
紀北の荘園分布図
紀伊国高野山領荘園の拡大

紀伊国高野山領荘園の拡大 平安時代末期
官省符荘
六筆荘
花園荘
名手荘
安楽川荘
浜仲荘
南部荘
石手荘
弘田荘
岡田莊
山崎荘
山東荘
志富田荘
相賀荘
     






大伝法院領 根来寺
鎌倉時代
官省符荘
六簡荘
花園荘
名手荘 安楽川荘
浜仲荘
南部荘
蔬荘
简香港
神野·真国荘
猿川荘
麻生津荘
静川荘
阿氐河荘
南北朝時代以降
官省符荘
六筆莊
花園荘
名手荘
安楽川荘
浜仲荘
南部荘
儲荘
简香莊
神野・真国荘
狼川荘
麻生津荘
静川雅
阿氏河荘
隅田南荘
相賀南荘
志富田莊
鞆淵荘
調月莊
東貴志荘
小河·柴目莊
細野荘


紀伊国峠田荘(きいのくにかせだのしょう)絵図 (複製) 1幅 館蔵
   (原資料: 重要文化財 12 世紀 神護寺蔵)

裃田荘(かせだのしょう)は、 和歌山県伊都(いと)郡かつらぎ町にあった荘園で、 寿永2年 (1183) に後白河法皇から寿永2年(1183)に後白河法皇から神護寺に寄進された。 絵図は紀伊川と静川に 挟まれた荘域を画き、集落・耕地・山野・大道など、当時の荘園村落の景観を髣髴(ほうふつ)とさせる。膀示(ぼうじ)は5か所に黒点で示され、 四至膀示(しいしぼうじ)絵図の典型とされる。

紀伊国峠田(かせだ)荘絵図

文覚井(もんがくゆ) (和歌山県指定文化財)
文覚井は中世農耕用水路で、 取水口は現在の伊都郡かつらぎ町大字笠田(おおあざかせだ)東字北川の穴伏川(静川(しずかわ)四十八瀬川(しじゅうはっせがわ)) 左岸にある。
その標高は約130mで、水路はほぼ等高線に沿って段丘(がい)をはしらせ、115mの丘陵鞍部(あんぶ)を越えて紀ノ川右岸の河岸段丘面を灌漑する。

※文覚池

峠田(かせだ)荘を流れる文覚井(もんがくゆ) (和歌山県かつらぎ町) 文覚井(もんがくゆ) 宝来山神社
(和歌山県葛城町)


紀伊国桛田荘絵図 (複製) 1幅 館蔵
  <原資料: 重要文化財 15世紀寶來山神社蔵)

本図は、神護寺本とほぼ同じ構図であるが、
神護寺本の傍示が5か所あるのに対し、本図 は2か所のみで、ほかの位置には異筆で「桛田領」と書き直されている。
これは近世初期に堺相論が再発した際に改竄されたものと考えられる。

紀伊国桛田荘絵図 紀伊国桛田荘絵図 (複製)

紀伊国峠田荘絵図 (神護寺本のトレース図)

裃田荘絵図の景観は、 神護寺本と寶来山神社
本とほぼ同じであるが、 宝来山神社本には 2か所しかない

紀伊国峠田荘絵図 (神護寺本のトレース図)
裃田荘故地(かせだのしょう こち) (和歌山県かつらぎ町)

 630
 631
信仰のひろがり
 院政期に浄土思想が広がると、 熊野が現実の浄土の地として考えられた。 院や貴族は熊野にあこがれ幾度となく参詣した。
 鎌倉時代になると新仏教が台頭し、和歌山では浄土宗と浄土真宗が大勢力をもった。 紀州を訪れた明秀上人(みょうしゅうしょうにん)は総持寺を創建し、浄土宗西山(せいざん)派が鎮西(ちんぜい)派とともに広まった。 また、 蓮如上人も紀州に来化し、 浄土真宗本願寺派の勢力を拡大した。
多くの雑賀衆(さいかしゅう)がこれを支持し、 石山本願寺合戦等で活躍した。

信仰のひろがり


熊野参詣
 平安時代になると、 京都に住む貴族たちは、盛んに熊野参詣を行なった。 彼らは淀川を下り、 摂津国窪津王子を振り出しに和泉国 から雄山峠を越えて紀伊国に入った。王子 社をたどる熊野参詣道は、現市域の東部を 南北に走っており、 今も多くの王子社跡が 残っている。
王子社では、参詣途中の貴族たちが風雅な和歌会(わかえ)を催し、 熊野懐紙にそ の和歌をとどめた。時代が降り近世になると、人々は城下町にたちより、 それまでの参詣 道は様子をかえる。

熊野参詣

 ※熊野参詣とは:和歌山県南部にある「熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)」を参拝することです。
         古くから「よみがえりの聖地」とされ、平安時代には上皇から庶民まで身分を問わず多くの人が訪れました。
 熊野参詣道とは:
  中辺路(なかへち) 京都や大阪から紀伊半島の山中を抜ける、最も王道で人気の高いルート。
  ・伊勢路: 伊勢神宮と熊野三山を結ぶ、海や峠越えの景観が美しいルート。
  小辺路(こへち) 高野山と熊野本宮大社を結ぶ、標高1,000m級の峠を越える最短ルート。
  大辺路(おおへち) 田辺から紀伊半島の海岸線沿いを西牟婁郡・東牟婁郡へと進むルート。
  ・紀伊路(きいじ) 大阪から和歌山を経由し、中辺路へと合流する海沿いのルート。

 ※和歌山を通過するのは紀伊路でした。


明月記(めいげつき) <複>
         三井文庫蔵
建仁元年(1201)の後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家の日記。
10月8日に雄山峠(おのやま)から紀伊国に入り、 上皇の代参(たいさん)として日前宮に奉幣(ほうへい)するなど、 参詣道(さんけいどう)の王子社をくわしく記録している。

明月記 明月記


西山国師御絵伝(せいざんこくしおんえでん) <複〉
         総持寺蔵
法然の高弟証空(西山国師) は、 鎌倉時代に精力的な布教活動を行なった。
この絵伝は彼の生涯を物語ったもので、 浄土宗西山派の和歌山の最大拠点であった梶取総持寺(かんどりそうじじ)に伝えられたものである。


西山国師御絵伝(せいざんこくしおんえでん)
なんて大きくて、色鮮やかな掛け軸だろう。 これは、証空(しょうくう) (西山国師)というお坊さんの一生を、 絵物語に仕立てたものの一部です。 証空は、浄土宗の教えを広めることに力を尽くしました。 お坊さんたちが集まって勉強をしているような絵があるね。
雷神と対決しているような絵は、修行をしているのかな?

西山国師御絵伝 西山国師御絵伝
西山国師御絵伝
西山国師御絵伝


親鸞・蓮如二尊像 <複>
            本願寺鷺森別院蔵
浄土真宗は蓮如の布教により発展し、 戦国時代には大勢力となった。 この二尊像は、文明8年(1476)、 蓮如が清水道場(海南市冷水(しみず))に本尊として与えた連座像であり、彼の活発な布教活動を知ることができる。

親鸞・蓮如二尊像
ちょっと暗いけれど、 この絵にはえらいお坊さんが描かれているよ。 右上の立派な畳に座っているのは、親鸞という僧で、 浄土真宗という教えを開いた人です。
左下にいるのが、 蓮如という僧で、戦国時代にその教えを広めました。 この絵は、 いまの海南市冷水にある道場に、ありがたく拝むものとして与えられました。

親鸞・蓮如二尊像
親鸞・蓮如二尊像
浄土真宗開祖の親鸞とその八代目門主蓮如。
全く生きた時代は違っている。


鷺森旧事記(さぎのもりくじき)
       本願寺鷺森別院蔵
 鷺森御坊(ごぼう)の由緒や歴史を記した書。
 文明 8年(1476) 冷水(しみず)におかれた真宗布教の拠点としての御坊は、その後黒江、 弥勒寺(みろくじ)山と移り、永禄6年(1563) に鷺森へ移った。 御坊の北への移動は、本願寺と雑賀衆(さいかしゅう)との関係が深まったことの一つの表われと考えられる。

鷺森旧事記
蓮如上人の紀伊下向と信州の発展
↓文明18年(1486)
  3月8日河内出口より
  境(堺)を経て
↓3月9日朝
  海生寺(嘉祥寺)

↑吹井(深日)泊
  3月12日発
  境(堺)へ

↓河辺(川辺)
↓長尾(永穂)

↓岩瀬(岩橋)泊
 3月10日発
↓鳴神
↓田尻浜
紀三井寺

↓三葛
紀三井寺
 黒石浜
↓清水(冷水)泊
  3月11日発
藤白峠
 
 650
鷺ノ森遺跡の橋脚
          和歌山市文化振興課蔵
 鷺ノ森遺跡は、和歌山市内の伏虎義務教育学校を建設するにあたって調査された遺跡です。 この遺跡からは、かつて鷺森に存在した浄土真宗の本願寺 (現京都市) を防御するために掘られた、 最大幅 16.9mの堀跡が見つかっています。

 展示している2本の木杭は、その堀に架かっ ていた橋の橋脚です。 直径30cm程度の先端を 鈍く尖らせた丸太杭で、 長さ 1.8m程度が遺存 し一部にはほぞ穴も確認できます。 橋脚の樹種 はマツ属やヒノキです。 橋梁の構築方法は、 南北方向では内側に13~16度傾けて 2.50m幅 でほぼ一定間隔に配置し、 東西方向では堀底に 向かって基底幅が広くなる傾向がみられました。 橋脚の基底部は、15~25cm大の砂岩自然石を 用いて根固めを行っていました。

鷺ノ森遺跡の橋脚 鷺ノ森遺跡の橋脚
鷺ノ森遺跡の橋脚
 660
 661火縄銃

火縄銃
  和歌山で最も古い紀州製火縄銃
                個人蔵
 紀州鉄砲鍛冶の七右衛門2代直正(なおまさ)が正保4年(1647) に南蛮鉄を使い製作した。
製作年がわかる紀州製の火縄銃のなかで最も古い。 初代直正は徳川頼宣(よりのぶ)が紀州に入国した際、 紀州へ赴いた鉄砲鍛冶。

丸銃身、鉄製の地板(じいた)元目当(もとめあて)など、 3(もんめ)程度の紀州製火縄銃とは異なる形状を示す。

火縄銃   大筒
  中筒
 ○小筒

火縄銃
紀州製の軍用火縄銃個人蔵 紀州鉄砲鍛冶の川上甚蔵正次が製作した江戸後期の10匁 (口径約18mm) 軍用筒。
雑賀や根来の火縄銃は今のところ残存しないが、その大部分は小筒と考えられる。
しかし、 鷺森別院文書によると、 雑賀衆は大筒を保有しており、 本資料のような中筒クラスの火縄銃も保有していた可能性は否定できない。

火縄銃  大筒
○中筒
 小筒

 662
津田流 砲術伝書
自由斎流 砲術伝書

   戦国末期に生まれた紀州の砲術  本館蔵

津田流は津田監物算長(つだけんもつかずなが)を祖とし、全国的にも古い砲術の一つ。
彼は種子島に渡り、鉄砲を1挺譲り受け、 根来(ねごろ)に帰ると当地の芝辻清右衛門(しばつじせいえもん)に鉄砲を模作(もさく)させたという。

算長(かずなが)の後、算正(かずまさ)自由斎(じゆうさい)重長(しげなが)ら同族の砲術師が登場するが、 自由斎は諸国を遊行(ゆぎょう)し 津田流から自由斎流砲術を確立させた。

津田流 砲術伝書
自由斎流 砲術伝書

 663
紀伊国名所図会
紀州随一の観光書で、 津田監物に関する記述も 本館蔵

江戸時代後期に刊行された紀州の寺社や名所などを解説した案内書で、 津田監物(つだけんもつ)に関する記述がある。 それによると、
監物(つだけんもつ)は種子島に渡り、 鉄砲を領主種子島時堯(たねがしま ときたか)から1挺を譲り受け、 根来(ねごろ)に持ち帰ったとする。
以来、鉄砲は根来で製作され、周辺にも普及していったと考えられる。

紀伊の国名所図会


南蛮鉄砲 津田監物 先祖書
  鉄砲を根来に持ち帰った津田監物らの経歴書  本館藏
紀州小倉(きしゅうおぐら)の土豪津田家の先祖書で、 宝永7年(1710) に記された。天文(てんぶん)13年(1544) 鉄砲を根来に持ち帰ったとされる津田監物算長(つだけんもつかずなが)やその子の算正(かずまさ)、 砲術を広めた自由斎(じゆうさい)、その孫となる重長(しげなが)らの経歴を伝えている。
なお、 津田家と根来寺杉之坊(すぎのぼう)姻戚(いんせき)関係にあり、 算長(かずなが)舎弟明算(しゃていみょうさん)は同坊の院主。

南蛮鉄砲津田監物
先祖書
南蛮鉄砲津田監物
先祖書

 665
鉄砲と雑賀衆
紀州は鉄砲にゆかりが深く、 鉄砲の伝来後、 早期に鉄砲を保有していた。 堺鉄砲鍛冶の芝辻家(しばつじけ)の由緒を記した 『鉄炮由緒書(てっぽうゆいしょがき)』によると、 紀州小倉の有力者で根来寺杉之坊(ねごろでらすぎのぼう)と縁戚関係にある

津田監物算長(つだけんもつかずなが)は、 種子島の領主種子島時堯(ときたか)から鉄砲を得て、天文13年(1543) に根来へ持ち帰ったと伝える。
以来近隣の粉河(こかわ)雑賀(さいか)に鉄砲が普及していったと考えられる。

その後雑賀衆は多数の鉄砲を保有し、 織田信長や羽柴秀吉らを苦しめた。 元亀元年(1570) に始まったいわゆる石山合戦では、雑賀衆らは多数の鉄砲をもって参戦した。

また合戦中、本願寺は数百挺以上、 時には千挺もの鉄砲を紀州門徒に何度も要求している。
鉄砲は地元の鍛冶により一部製作されたと思われるが、 多数の鉄砲は薩摩から購入、 あるいは堺の鉄砲職人が紀州に移住し製造したと思われる。

また、本願寺が雑賀衆の鉄砲取得に影響を及ぼした可能性もあろう。だが、天正13年(1585) 羽柴秀吉の紀州攻撃により、根来寺は焼亡(しょうぼう)、雑賀一揆も滅び、鉄砲や刀などを放棄させられた。ただ、江戸期においても紀州には多数の鉄砲が認められ、 同時に多数の鉄砲鍛冶も存在した。

鉄砲と雑賀衆 鉄砲と雑賀衆


メルカトル世界図
根来? が描かれた16世紀ヨーロッパの地図 本館蔵
ヨーロッパの地図学者メルカトル (1512-94) の世界図。 日本は右の端に 「Iapan」と 表示されている。 そのなかに 「Negra」 とあるのは根来のことか。 根来寺は戦国時代 に強大な勢力を持つが、 ヨーロッパ人の製 作する地図に表記されるほどその名を知 られていたのだろうか。

メルカトル世界図 メルカトル世界図


根来寺出土飾り金具・ るつぼ
  根来寺の経済力がうかがえる金関係資料
                   和歌山県
金具は刀剣に装着する飾り具で、金が施されている。 土器片のるつぼには金が付着している。
ポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、 根来寺は金で装飾し、 坊主が持つ剣には金の飾りを付す、としている。
規模は別として、 るつぼは金の精製をしていた可能性を示す。

根来寺出土飾り金具・ るつぼ
根来寺出土飾り金具・ るつぼ
  飾り金具 るつぼ  


根来寺出土大甕
  根来寺の経済を支えた菜種油用の甕
                 和歌山県
根来寺からは多量の備前焼大甕が出土している。
「1(こく) (180リットル) から3石 (540リットル) の壁が多い。 これらは「甕倉(かめぐら)」 と呼ばれる倉庫にまとめて保管されていた。
甕のなかには菜種油を入れていた可能性が高く、戦国期の根来寺の経済活動を支える一つの手段であった。

根来寺出土大甕 根来寺出土大甕
 670
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石山合戦配陣図(写)
  織田信長と本願寺との勢力の分布を示す絵図  本館蔵

織田信長と大坂本願寺が戦った石山合戦は、元亀元年(1570) から同寺が紀州鷺森に退去する天正8年(1580) まで続いた。
この絵図は、 大坂における織田方と本願寺方との軍勢配置を示した想像図。

その中には「鈴木孫市(すずきまごいち)」 や 「紀州雑賀其外一揆之陣(きしゅうさいかそのほかいっきのじん)」、「志摩与四郎(しまよしろう)」の紀州勢の名称もみえる。

石山合戦配陣図(写) 石山合戦配陣図(写) 石山合戦配陣図(写)

 673
鉄錆地雑賀鉢兜(かなさびじさいかばちかぶと)
  雑賀荘宇治で作られた特異な兜
    和歌山市指定文化財・旧重要美術品  本館蔵

紀州宇治住(きしゅううじのじゅう) 雑賀吉久作(さいかよしひささく)」 の在銘。
「雑賀鉢」は紀州雑賀荘で製作された兜である。

 黒光りする兜上部にはとがった鋲を、 正面には(いかめ)しい眉形(まゆがた)切鉄(きりがね)を付し、目尻皺(めじりじわ)み上皺(みあげじわ)を打ち出す。 鉢の四方には四天王、前面には日輪(にちりん)を金銀で象嵌(ぞうがん)している。 勇ましい雑賀衆を髣髴(ほうふつ)させる。

鉄錆地雑賀鉢兜
鉄錆地雑賀鉢兜


織田信長朱印状
  雑賀衆が分裂し、 織田信長に加勢する雑賀衆も
                         個人蔵
天正4年(1576) に織田信長が雑賀の宮郷(みやごう)中郷(なかごう)南郷(みなみごう)に宛てた朱印状。
信長は天正5年(1577)に本願寺の後背勢力(こうはいせいりょく)であった雑賀を攻撃するが、 雑賀5組は分裂し、 この3組は信長方についた。
この合戦では雑賀方の中野城が落城、 小雑賀方面(こざいかほうめん)の合戦でも善戦はしたが、最終的に降伏した。

   織田信長朱印状
織田信長朱印状
     


下間頼廉等書状(しもつまよりかど とう しょじょう)
  石山合戦中の雑賀衆らの動向がわかる一級資料
                    鷺森別院蔵
本願寺の坊官(ぼうかん)下間頼廉(しもつまよりかど)らが天正4年から7 年(1576~9) に 「雑賀御坊(さいかごぼう)」 (鷺森御坊(さぎのもりごぼう))や紀州門徒らに宛てた書状をまとめた巻子(かんす)。 各地の戦況を伝え、鉄砲要求や渡海要請に 関する文言もみえる。
雑賀衆は多数の鉄砲 や船による機動性を持ち、 本願寺がいかに雑賀を頼りにしていたかが窺われる。

下間頼廉等書状


信長記(しんちょうき)
  雑賀にも触れた織田信長の人生記録
                   本館蔵
江戸時代前期の儒学者小瀬甫庵(じゅがくしゃ おぜほあん)の著述。
儒教的立場から織田信長を描くため、曲筆(きょくひつ)されている部分も少なくない。
紀州関係では、元亀元年(1570) の条に石山合戦が始まった時の状況が、天正5年(1577)2月の条には
紀州退治之事(きしゅうたいじのこと)」 として、 信長が雑賀を攻撃したときの状況などが記されている。

信長記
 


 700近世


 710近世 ― 御三家紀州藩とその城下町
近世城下町としての和歌山は、 慶長5年(1600)、 桑山氏のあとに浅野幸長が入国しその基礎が形成されました。
元和5年(1619) 徳川頼宣が入国し55万5千石の御三家紀州藩が成立します。
頼宣は御三家にふさわしい城と城下町の整備・拡張をおこないます。
紀州藩は親藩という事情と、江戸一大坂間の廻船航路の寄港地でもあるという地理的要 因により経済的に発展します。
文化面では茶道がさかんで、 学芸では当代一流の学者が活躍し、 城下町には自由で闊達 な独自の文化が生まれ、やがて全国で第7番目の都市に発 展します。

近世―御三家紀州藩とその城下町

 720和歌山城主の系譜
和歌山城主の系譜
           
           
 730
和歌山城
 天正13年(1585) 4月 紀州を平定した豊臣秀吉は藤堂高虎などを普請奉行とし、 紀ノ川の河口近くの岡山に和歌山城を築く。 城主には秀吉の弟秀長 がなり、城代として桑山重晴を置いていた。

 慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで功のあった浅野幸長が紀伊国37万6千石の大名となり、 城や城下町の整備を進め、 慶長11年(1606) の記録にはすで に天守閣の存在が確認できる。 そして元和5年(1619) に徳川頼宣が入国し、 城や城下町の拡張・改修を行ない、 御三家の威容にふさわしい格式を整える。
 その頃の天守閣は現在見るような白亜ではなく、白壁の部分が腰板張りで、 ちょうど松本城や熊本城によく似た姿だった。
一説によると、 寛政10年(17 98) に白亜の天守閣になったと伝える。

 この和歌山城古図は、文政8年(1825)頃の姿を写したもので、写生的に描いたものでは現存最古とされている。天守閣の形式は大天守と小天守、そ れを結ぶ櫓が一つの大きな基壇石垣の上に立ち並ぶ連立式天守閣で、その優美な姿は姫路城や松山城とともに、名城の一つに数えられている。

 和歌山城は昭和6年に国の史跡指定を受け、同10年には天守閣が国宝に指定されている。 しかし同20年戦災のため消失し、現在の天守閣は同33年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。 なお、 同32年には搦手にあたる岡口門が国の重要文化財の指定を受けている。

和歌山城
和歌山城図
 740
和歌山城 ジオラマ
これは江戸時代後半の和歌山城を、500分の1にした模型です。 お城の南側から見て、 内堀の北側と東側のお屋敷は大きいね。 身分の高い家来の人たちが住んでいました。 いまの市役所や郵便局があるあたりだよ。 はんたいに、西側のお屋敷は少し小さいのがわかるかな?

和歌山城 ジオラマ
和歌山城 ジオラマ
 


 800民俗

 801

民俗―祭と生活
豊かな自然と温暖な気候に恵まれた和歌山は民俗の宝庫と言われています。 しかし近年、 和歌山市の中心部は都市型の過疎化が進み、 周辺農村部は宅地化による耕地の減少、また漁村部は漁業に従事する若者の不足などで、 前代から伝承されてきた民俗は急速に消滅しています。 このため、まず日常の生活を取り上げ、 時代を越えて継承されてきた常民(じょうみん)の暮らしぶりについて考えてみました。 また祭りは、一年の節目節目におかれたハレの日をいろどる最大のイベントで、 新しい生命力をうえつけ、 共同体の結合をはかる行為でした。

Folklore
Festivities and Life
Wakayama is said to have been full of folklore. However, the folklore which has been inherited from the olden times is fading rapidly. This section introduces traditional life from the viewpoints of both ordinary and celebratory days. Please enjoy the instruments, farm tools, and old folk houses representing the life of the olden days.

民俗
祭りと暮らし
和歌山はかつて民俗文化の宝庫だったと言われています。しかし、古き良き時代から受け継がれてきた民俗文化は、急速に失われつつあります。このコーナーでは、普段の生活とお祝いの日の両面から、伝統的な暮らしをご紹介します。昔の暮らしを今に伝える道具や農具、古民家などをご覧ください。

民俗―祭と生活 民俗―祭と生活


令和7年10月7日~1月30日
コーナー展示
江戸時代の紀州ときもの
江戸時代の人々は「きもの」を着て 日々の生活を送っていました。 今回の展示では、江戸時代の染織品および呉服商伝来の資料を展示します。紀州徳川家ゆかりの小袖(こそで)や、城下町の呉服店の資料など、 江戸時代の和歌山にまつわる 「きもの」 資料をご覧ください。


紫縮緬地葵紋付松竹梅菊水模様小袖(むらさきちりめんじあおいもんつしょうちくばいきくすいもようつきこそで)
      江戸時代後期 (18~19世紀)/館蔵
紀州徳川家ゆかりの小袖。 高級感のある紫縮緬地に三つ葉葵の紋が染め抜きされている。 (すそ)の部分には秋の草花である 菊や萩を、 腰の部分には雪をかぶった松 竹梅を描き、 秋から冬への季節の移り変 わりを表している。 模様が全面に広がっていないので、女中の着ていたものと考えらえる。

 江戸時代の紀州と
きもの
      紫縮緬地葵紋付松竹梅菊水模様小袖
 


禄記(ろくき)(友禅染裂見本帳(ゆうぜんぞめきれみ ほんちょう))
     19世紀/館蔵 (西本明子氏寄贈)
友禅染の裂地(きれじ)の見本帳。 表紙と裏表紙のそれぞれ裏側に、 土井家・直川屋(のうかわや)の紋がある。
土井家 (直川屋)の旧蔵品と伝わる。 1ページに1点ずつ友禅染の裂地が貼り付けられている。

衣裳雛(いしょうひながた)
        江戸時代後期(19世紀)/館蔵(西本明子氏寄贈)
土井呉服店旧蔵の小袖の雛形本。 デザインごとに番号がふられており、この見本帳 を客に見せて注文を受けていたのであろう。
上級武士層の女性たちに好まれた御所解模様(しょどきもよう)の雛形が多く、 土井呉服店の客層が町人に留まらなかったことがうかが
える。

禄記
友禅染裂見本帳
衣装雛形


奥方火事場装束(おくがたかじばしょうぞく) (羽織(はおり))
       江戸時代後期(19世紀)/館蔵

紀州藩家老をつとめた三浦家伝来の装束。
羽織にある家紋から、同家7代・為章(ためあき)に嫁いだ渡辺家の女性の持参品と考えられる。
色鮮やかな羅紗地(らしゃじ)で仕立てられており、 羽織とともに、 華やかな刺繍の施された頭巾や胸当などが火事場装束として用いられた。

奥方火事場装束(羽織)           
 805
紀州徳川家
紀州藩は徳川御三家のひとつで、尾張家・紀伊家は将軍に次ぐ官位・官職を与えられていた。

紀伊家は五代藩主徳川吉宗が八代将軍になって、以後は秀忠の家系に代わって、 吉宗の子孫が代々徳川宗家(とくがわそうけ)を継承する。
いわば紀伊家が将軍家になったのである。 いっぽう紀伊家には支藩である伊予西条松平家(いよ さいじょうまつだいらけ)から頼致(よりよし)が入り本藩を相続する。 六代藩主宗直(むねなお)が彼である。 この紀伊家と西条松平家の関係は、ちょうど将軍家と御三家のそれに相当する。

紀州徳川家

紀州藩の領域
この地図の中で、濃い色にぬられているところが紀州藩の領地です。 いまの和歌山県より大きいね。 紀伊半島をぐるっと縁取るように広がっています。 いまの三重県の南の方も紀州藩の領地だったんだね。 幕府にとっては、江戸と大坂を結ぶ船の通り道にあたる重要な土地でした。

紀州藩の領域 紀州藩の領域

葵紋瓦
     江戸時代・個人蔵
元和(げんな)5年(1619)、浅野氏に代わって徳川頼宣(よりのぶ)が紀州藩主となった。 頼宣は、 和歌山城と城下町の整備・拡張を進める。
この瓦は、 城内の建物の隅棟に使われていた瓦で、紀州徳川家の家紋である三つ葉葵の紋が入れられている。

葵紋瓦


徳川頼宣(よりのぶ)肖像
            江戸時代
頼宣は、江戸幕府初代将軍・徳川家康の10男である。 慶長7年(1602)に伏見城 (現・京都市) で生まれた。
元和5年(1619) 、 駿河 (現在の静岡県)から紀伊へ転封(てんぽう)となると、 紀州徳川家の初代として、寛文7年(1667) まで藩主の座につき、藩政のいしずえを築いた。
この肖像は、 頼宣が近代に神格化され祀られた際に描かれたものである。


徳川光貞筆(とくがわみつさだひつ)布袋図 (ほていず)
           17~18世紀・館蔵
紀州徳川家2代 光貞 (1626~1705) の描いた布袋の図。 布袋は七福神の一つで、大きな腹をして、 大きな袋を持っているのが特徴。
光貞は、 8代将軍吉宗の父親である。 絵は狩野探幽に学んだという。

徳川頼宜肖像 徳川頼宜肖像
徳川光貞筆 布袋図 徳川光貞筆 布袋図


笹川遊原(ささがわゆうげん)和歌祭図(わかまつりず)
         江戸時代後期~明治時代前期
和歌祭の渡御(とぎょ)行列の演目である雑賀踊を描いたもの。 下から順に鬼面をつけた棒振(ぼうふり)、鍬形付の烏帽子兜(えぼしかぶと)をつけ、手にスリザサラを持つ笹羅踊(ささらおどり)、 笛や法螺貝、(かね)担ぎ太鼓(かつぎたいこ)を奏でる囃子方が確認できる。
紀州藩のお(かか)え絵師を務めた笹川家の3代目・笹川遊原 (1829~81) が手がけた。

岩瀬広隆筆 和歌祭百面図
           江戸時代後期~明治時代前期
和歌祭の渡御(とぎょ)行列の演目である面掛(めんかけ)を描いたもの。
面掛は、 元和8年(1622) に開催された最初の和歌祭からある演目で、明治時代以降は百面とも呼ばれる。
紀州藩のお抱え絵師を務めた岩瀬広隆 (1808~77) が手がけた。

笹川遊原筆
和歌祭図
笹川遊原筆
和歌祭図
岩瀬広隆筆
和歌祭百面図
岩瀬広隆筆
和歌祭百面図


東照宮縁起絵巻 (複製)
            正保3年(1646)
徳川家康の事績(じせき)と、没後に神格化されて東照宮が建立される経緯を記した絵巻物。
紀州徳川家初代・頼宣が東照宮に奉納した。絵は住吉如慶(すみよしじょけい)詞書(ことばがき)尊純親王(そんじゅんしんのう)
展示している場面には、 東照宮の祭礼 (和歌祭) が描かれている。

東照宮縁起絵巻
にぎやかな笑い声や音楽が聞こえてきそうな気がしませんか。 これは、和歌の浦にある東照宮のなりたちを描いた絵巻物で、この部分には和歌祭のようすが描かれています。 山車を担いだり、踊ったりしながら華やかな衣装をまとった人たちが、 練り歩いているね。 船に乗っているのは、 お祭りを見物に来た人たちです。

  東照宮縁起絵巻  東照宮縁起絵巻
紀州東照宮     

葵紋蒔絵大名火鉢
         江戸時代
火鉢は灰の上に炭を置いて使う暖房の道 具。大名火鉢は比較的大きく、観賞用にも 優れている。

葵紋蒔絵大名火鉢

 807
葵紋付左義長羽子板(あおいもんつさぎちょうはごいた)
             江戸時代後期/館蔵
裏表両面に3顆ずつ葵紋がほどこされた羽子板。
宮中で行われた扇や短冊などを燃やす 「左義長」という儀式を描いている。正月の女児の飾り物・縁起物として使われた。

葵紋付左義長羽子板


金のなる木 (木版刷)
      19世紀、 館蔵
 江戸幕府を開いた徳川家康(紀州藩初 代藩主の徳川頼宣の父)の教えを記した 刷り物。 掛け軸が入っていた箱には、 紀 州藩11代藩主の徳川斉順が家老の三浦 為章に与えたものと記されている。
 富貴 (金持ち) になるために必要なこ とが、文字を木のかたちにして描かれて いる。中心となる幹は、下から 「正直」 (「しやうぢ木」と記されている) 「慈悲 深き」「よろず程のよき」の3つである。 枝は、左下から「家内むつまじき」 「養 生よき」 「貴えのなき」 「稼ぎ」 「朝起き」 「いさぎよき」 「辛抱強き」 「油断のなき」 の8つである。

この 「金のなる木」 の資料紹介シートは展示ケースの右端に設置しています。 ご利用ください。

金のなる木

 808
徳川吉宗(よしむね)と徳川家茂(いえもち)
紀州藩は、 徳川御三家 (尾張・紀伊・水戸)で唯一江戸幕府の将軍を輩出した。
5代藩主で8代将軍となった徳川吉宗と13代藩主で14代将軍となった徳川家茂(藩主時代は慶福(よしとみ))である。。

徳川吉宗(とくがわよしむね) (1684~1751)
貞享(じょうきょう)元年10月21日、 和歌山城下で生まれる。
父は2代藩主の徳川光貞、 母は由利。 兄の相次ぐ死により 22歳で藩主に就任した。
享保元年(1716) 将軍の徳川家継(いえつぐ)が病死すると8代将軍に就任した。 吉宗の幕政改革は、日本の近代化の起点となったと評価されている。

吉宗と家茂
徳川吉宗


徳川吉宗肖像
        近代
徳川吉宗の肖像画。 大柄 (身長約 180cm) で大きな耳という吉宗の特 徴をよく捉えた作品である。

徳川吉宗肖像 
      徳川吉宗肖像
 
 


徳川吉宗ってこんな人

紀州徳川家から 8代将軍になった吉宗は、 身長が180cmほどもあって、 武道を好む力もちの人物だったそうです。
肖像画みると、 大きな耳をして肩幅が広く、 考え深そうな目つきをしているね。
花押 (サイン)は四角張っていて、 カづよい印象だね。 将軍になった吉宗は、 幕府の政治を大きく変えました。

徳川吉宗ってこんな人


徳川吉宗書状 横田備中守宛
             18世紀 館蔵
吉宗の花押が入った書状。
【釈文】 為改暦之祝詞御入来/歓悦之至候、 依之如此候、恐々謹言、 /正月五日 吉宗 (花押)

徳川吉宗書状


主税頭(ちからのかみ)様 =徳川吉宗
殿様 = 徳川綱教(つなのり) (吉宗の兄)


宝永二歳日記(ほうえいにさいにっき)
            宝永2年(1705) ・ 館蔵
紀州藩の医師をつとめた横山家の日記。
紀州藩主になる前の吉宗や、 その父・兄についての記述が見られる。 日記には、 吉宗がたびたび相撲を見ていたことが記されている。
また、 同年5月に亡くなった吉宗の兄で3代藩主の綱教について、正月から3月まで体調不良だったことが記されている。

宝永二歳日記


紀州分産物絵図(きしゅうぶんさんぶつえず) 魚類(写)
        江戸時代・館蔵
8代将軍となった徳川吉宗は、各地の産物について調査するよう命じた。
この資料は、紀州藩での調査のなかで、 和歌山近 海でとれた魚についての記録を写したもの。
表には魚の名前と図、裏にはそれぞれの魚の特徴が記されている。

紀州分産物絵図 魚類(写)

画像検索による概要

この画像は、北日本などの沿岸に見られる、ネズッポ科バケヌメリ属のバケヌメリという魚のイラストのように見受けられます。

特徴: ネズッポ科の魚の中では珍しく、背鰭が1基しかないことが最大の特徴です。
外見: 全長は最大で10cm程度になり、雄は背鰭に朱色の縦帯が現れることがあります。
生息地: 外海に面した波当たりの激しい砂浜や砂底に生息し、水深10mほどの浅い場所に多く見られます。



 809
徳川家茂 (1846~1866)
弘化3年閏5月24日、江戸の藩邸で生まれる。
父は11代藩主の徳川斉順、母はみさ。 4歳で藩主となり、 紀伊へ訪れることなく、 13歳で14代将軍に就任した。 文久3年(1863) には海防視察のため友ヶ島・加太へ訪れ、 淡嶋神社に滞在した。
第二次長州征伐のさなかに大坂城で亡くなった。

徳川家茂を知っている?
江戸時代の終わりに生まれた徳川家茂は、 わずか4歳で紀州のお殿様になり、 13歳のときに将軍に選ばれました。 吉宗の他にも、 紀州藩から将軍になった人がいたんだね。 幕末という時代のなかで、家茂は20歳でこの世を去ります。和歌山の人たちはとても悲しんだそうだよ。

徳川家茂 徳川家茂を知っている?

菊千代 (徳川家茂) 手形
         嘉永3年(1850) ・ 館蔵
後の14代将軍・徳川家茂5才の時の手形と伝わる。 前年に藩主となった菊千代(家茂) は、この年に袴着(はかまぎ)の祝儀を行う。

菊千代(徳川家茂)手形
菊千代手形

徳川慶福(よしとみ)
一行書(いちぎょうしょ)(らんぷう)風」
江戸時代後期・館蔵

徳川慶福(のちの14代将軍家茂(いえもち)) の書。
13歳で将軍となったので、それ以前に書かれた作品。 幼さは残るが、 カ強い筆跡である。

徳川慶福(よしとみ)
「蘭風」
 


徳川慶福(よしとみ)筆 一行字「鶴」
嘉永4年(1851) 個人蔵
慶福が6歳の時の書と伝わる。

 徳川慶福(よしとみ)筆 一行字「鶴」
徳川慶福(よしとみ)筆 一行字「鶴」
 

徳川慶福筆 一大字(とくがわよしとみひつ いちだいじ)「鶴」
嘉永4年(1851) 個人蔵
慶福が6歳の時の書と伝わる。


小林清親(きよちか)
高貴徳川継紹(けいしょう)之写像
明治20年(1887) 館蔵

小林清親
高貴徳川継紹之写像
 

 820城下町の風俗(撮禁だらけでした)
 


 850近代

 851
近代一市民の時代
明治初年の藩政改革により和歌山の近代は出発します。 この改革は多くの人材を輩出し、 紀州ネルや皮革産業の基礎を創りました。
廃藩置県で和歌山県ができ、明治22年(1889)には和歌山市が誕生します。また、文明開化とともに新しい文物が流入し、 交通や産業も発達します。
他面、 近代化は環境を破壊し、 南方熊楠(みなかたくまぐす)たちはこの問題に取り組みました。 だが、 最大の環境破壊は戦争であり、人間の生存そ のものをおかすものです。 特に昭和20年(1945) 7月9日の 大空襲で、 市街地の大半が焼失しました。 しかし戦後、 市民のたくましい努力で和歌山市は復興したのです。

The Modern Times The Era of Citizens
The era of the Samurai ended, and Wakayama Prefecture and Wakayama City were formed in 1871 and 1889, respectively. Various Western cultures were introduced, changing citizens' lifestyles greatly and leading to the development of the transportation and industrial sectors. Although most urban areas were burned by the air raid on July 9, 1945, the city was restored through the great efforts of the citizens.

近代 市民の時代
武士の時代は終わり、1871年に和歌山県、1889年に和歌山市がそれぞれ設置されました。西洋の様々な文化がもたらされ、人々の生活様式は大きく変化し、交通や産業の発展につながりました。1945年7月9日の空襲で市街地の大部分が焼失しましたが、市民の多大な努力により復興を遂げました。

近代―市民の時代

 藩政改革を行なった人々
藩政改革を行なった人々
江戸時代
 天保12年(1841)天保の改革
 嘉永3年(1850) ペリー来航
明治時代
 明治元年(1868) 明治維新
 明治4年(1871)廃藩置県
 明治22年(1889) 大日本帝国憲法発布
 明治27年(1894) 日清戦争

徳川茂承(とくがわもちつぐ) 弘化元年(1844)~明治39年 (1906)
安政5年(1858) 紀州藩主(第14代) となる
 明治2年(1869)版籍奉還により藩知事となり、藩政改革を諮問
 明治4年(1871)廃藩置県で和歌山県士民に告別
 明治11年(1878) ●旧藩士のために 「徳義社」を創設
  津田 出(つだいずる) 天保3年(1832)~明治38年(1832)
 慶応2年(1866) 藩政の改革を企てるが、 挫折
 明治2年(1869)藩執政(はんしっせい)となり、 藩政改革を行なう
 明治4年(1871)政府に出仕し、陸軍創設に参与
  (同年弟の津田正臣(たまおみ)が初代和歌山県知事となる。)
 明治23年(1890)貴族院議員となる
カール・ケッペン 1833年(天保4)~1907年(明治40)
 1833年(天保4)ドイツのビュッケブルグで誕生
 1866年(慶応2)普墺戦争に下士官として従軍
 明治2年(1869)和歌山藩に招へいされ、 兵制改革を助ける
 (以後、ケッペンの紹介でドイツ人数名が来日し皮革技術等を和歌山に伝える。)
北畠道竜(きたばたけどう りょう) 文政3年(1820)~明治40年(1907)
 幕末、「法福寺隊(ほうふくじたい)」という民兵隊を組織
 
 文久3年(1863)天誅組の乱・慶応2年(1866) の長州征伐で活躍
 明治3年(1870) 歩兵大隊長として兵制改革に参与
 明治14年(1881) ●西本願寺執事となり教団改革を 企てるが挫折
浜口梧陵(はまぐち ごりょう) 文政3年(1820)~明治18年(1885)
 慶応2年(1866) 耐久社(たいきゅうしゃ)を設立
  (家は、 湯浅と千葉銚子で醤油を醸造)
 明治2年(1869) 学習館(がくしゅうかん)知事、 名草・有田民政(みんせい)知局(ちきょく)事となる
 明治4年(1871)新政府の駅逓頭(えきていのかみ) (郵政大臣)
 明治12年(1879) 最初の県会議長
長屋喜弥太(ながやきやた) 天保9年(1886)~明治30年 (1897)
 文久3年(1863)天誅組の乱・慶応2年(1866)の長州征伐に参加
 明治3年(1870)●歩兵大隊長として兵制改革に参与
 明治16年(1883)●和歌山区長に就任
 明治22年(1889) ●初代和歌山市長となる

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火縄銃
上:火打銃(ひうちじゅう) 幕末~明治初年
下:先込式管内銃(さきごめしきかんうちじゅう) 幕末~明治初年

紀州綿ネル生産 ネル:
表面を起毛させた
柔らかく暖かい織物
グラフより:
明治15(1882)に販売統計開始。大正10年(1921)販売高最大

大正14(1925)より販売額急落。原因は第一次世界大戦後の世界恐慌に寄る国内外の経済の悪化。

また、品質検査を巡る業界内の混乱や、他産地(今治など)との競争激化も影響した。


文明開化と和歌山
文明開化とともに城下町和歌山も変貌して行った。 武家屋敷は荒廃したが、 官庁・銀行・学校・工場に変っていく。
また、洋館も建ち、 本町の店々もラン プや洋時計などの 「西洋物」 を売るよう になった。
人力車は明治5年(1872)ごろ登場し、京橋のたもとには、自由軒などの人力車営業所が軒をならべた。

昔の町並み
これは、今から150年ほど前 (明治時代の初め頃)の和歌山市を写した写真です。 最近新しくなった和歌山市駅が、 初めてできた時の写真があるよ。 写真をたどって、 町の移り変わりを眺めてごらん。

文明開化と和歌山 
文明開化と和歌山
昔の町並み
       

 和歌山県庁
明治9年(1876)、西汀丁に建設された和歌山県庁である。
庁舎は洋風で正面玄関が北向きに設置されていた。
2階にベランダを設け、 中央上部に鐘楼を置く建物であったが、同21年(1888) 焼失した。 庁舎後方は和歌山城。

和歌山県庁

 中央郵便局
京橋の北詰から南方向に撮影した写真で、和歌山郵便局の大きな建物が写る。
郵便局は、県下では明治4年(1871) 本町2丁目に和歌山郵便取扱所が設置されたのがその始まりである。
このレンガ造りの建物は明治34年(1901)に建設された。市電の路線はまだ単線で、焼き芋の屋台や担桶(たんご)(かつ)いだ男性が歩いている。

和歌山郵便局

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紀伊中納言治貞卿(はるさだきょう)訓辞 (拓本)
    【原書】江戸時代(19世紀)/館蔵
徳川治貞の訓辞の拓本。 安永7年(1778) に治貞が著した「童子訓(どうじくん)」の一節で、儒教を重んじ、 倹約を旨とした治貞らしい内容である。

人馬を持、武具を用意し、役儀の勤を(かく)まじと思ハハ(わば)
美麗を不好、無用のついえ(費)をなさず、倹約
を守るべし、けんやくの仕方ハただ我身之不自由
を堪忍するに有、
事たれたるにまかせて
事たらず足ずことたる身こそやすけれ

紀伊中納言
治貞卿訓示


徳川治宝(はるとみ)
一行書「出門天地春」(いちぎょうしょ「もんをいずればてんちのはる」)
     江戸時代後期 館蔵
紀州徳川家10代・治宝の書いた一行書。

門の外へ出ると春の訪れを感じるという意味の書である。
3つのうち1つの印には、三位(さんみ)の官位を示す 「賜紫金魚袋(ししんきんぎょたい)」とある。
治宝が三位となった天明3年(1783) 以降の作品と考えられる。

出門天智春 徳川治宝筆
一行書
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9代藩主・徳川治貞(はるさだ)をしっていますか?

江戸時代に和歌山をおさめていた紀州徳川家。 9代目のお殿さまは、徳川治貞 (1728~89)という人でした。
紀州徳川家の6代目の殿さまの息子で、 西条藩 (現在の愛媛県) をおさめていましたが、8代目の殿さまが藩主をやめたことで、そのあとを継いで、紀州藩 (和歌山)をおさめることになりました。

西条藩をおさめていたころの治貞は、つつましく無駄づかいをしない政治をおこない、苦しかった藩の財政を良くしました。
紀州藩にきてからは、 米の不作がつづ き、人々の生活も藩の財政も苦しい年月がつづきましたが、 紀州徳川家の5代目で8代将軍となった徳川吉宗にならい、 ぜいたくをせず、良い政治をおこなったといわれています。 治貞は名君として知られるようになり、「紀州の麒麟(きりん)」などとよばれて称えられたそうです。

9代藩主・徳川治貞をしっていますか?


安明遺事(あんめいいじ)
     江戸時代(19世紀) 館蔵
徳川治貞の業績や、それに対する人々の語り草を記した書 天明7年(1787)、治貞は米の不熟(ふじゅく)によって飢えにあえぐ領内の人々のために、藩が貯蔵していた米を放出したことが、本書には記されている。

※天明の飢饉の原因:火山灰により太陽光が遮られ、夏の低温が起り米が実らなかった。

安明遺事


徳川治貞書状
   江戸時代 (18世紀)/館蔵
年始の挨拶をしたためた書状。 宛先は不明。
治貞は安永4年(1775) に紀州藩主となり、その翌年から没するまで中納言であったことから、 安永5年から寛政元年(1789) に出された書状と考えられる。

徳川治貞書状


仁君言行録(じんくんげんこうろく)
     江戸時代(19世紀) /館藏
治貞の業績や著作物などをまとめた書。
本書には、和歌山城の前に訴訟箱を設置したことや、武術を推奨したこと、城内で儒学者に講釈をさせたことなど、治貞時代の施策が記されている。また、熊本藩主・細川重賢(しげたか)とともに 「紀州の麒麟・肥後の鳳凰」と称されたことも記されている。

仁君言行錄


たねひめこんれいぎょうれつず
種姫婚礼行列図
       江戸時代 (18~19世紀) 館蔵
天明7年 (1787)、 のちの紀州徳川家10代治宝(はるとみ)は、 10代将軍・徳川家治の養女である種姫 (1765~94) を正室に迎えた。
将軍家の娘を迎えるにあたっては多額の費用がかかるため、 紀州家では将軍家から借金や援助を受けてやりくりしていた。

治貞が藩主だったころの紀州家には先代 先々代藩主の妻子が多く、藩財政が苦しいなか、 治貞は一族のための出費に苦慮していた。

種姫婚礼行列図 種姫婚礼行列図

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置上作白菊蛤香合(おきあげつくりしらぎくはまぐりこうごう)
       天保4年 (1833) / 館蔵
和歌浦で採取したハマグリの上に、胡粉(ごふん)で白菊を形成した香合。
かつて和歌山に広がっていた砂浜 「吹上の浜(ふきあげはま)」に咲く白菊を模している。
内側は金地に仕立て、 蓋には朱字で表千家10代・吸江斎(きゅうこうさい)の花押が書かれている。

置上作白菊蛤香合 置上作白菊蛤香合


本居大平(もとおりおおひら)茶杓(ちゃしゃく)
     江戸時代後期
国学者として紀州藩に仕えた本居大平(1756~1833) による茶杓。

神路山(かみじやま)すきのちゃさく」 と共筒にあり、伊勢神宮内宮の南方にある神路山の杉でつくられたものとわかる。
和歌も添えられており、 「春の野の草深道やまつはすき後や桜の かけにあそこむ」 とよめる。

 本居大平作 茶杓      
 ※写真不鮮明 何やら彫りこまれています


青織部沓形茶碗 銘「和歌浦」(あおおりべくつがたちゃわん めい 「わかうら」)
        江戸時代後期/館蔵

「和歌浦」と名付けられた沓形の茶碗。 胴部の模様が片男波の砂洲にある松林に見えることから、このような銘が付いた。
釉薬のかかっていない土見せ部(つちみせぶ)に、 表千家9代・了々斎(りょうりょうさい)の花押が朱書きされている。

青織部沓形茶碗
銘「和歌浦」


清寧軒焼 輪花菓子鉢(せいねいけんやき りんかかしばち)
        江戸時代後期
緑釉の織部(うつし)の菓子鉢。 箱書などから楽家11代・慶入(けいにゅう) (1817~1902)の作と考えられる。 清寧軒焼は、11代藩主の徳川斉順(なりゆき)(1801〜46) が和歌山城の西の丸や、 別邸の湊御殿で焼かせた御庭焼(おにわやき) で、本作はそのうち天保15年(1844) に 湊御殿で行われた際のものと推測される。

清寧軒焼 輪花菓子鉢
 
 

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