2025.11.06-2
京都府埋蔵文化財調査研究センター 京都府向日市寺戸町南垣内40-3 075-933-3877
向日市文化資料館 京都府向日市寺戸町南垣内40-1 075-931-1182
月休 10時~18時
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交通 |
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阪急東向日駅から800m徒歩12分
JR向日町駅 から1.1km徒歩20分 |
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バス |
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各駅前から向日市役場前バス停下車から500m徒歩8分 |
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目次
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10外観
20入口展示
21乾垣内遺跡の盾形埴輪
22玄関ホール
23乙訓の文化財分布
24朝服
1000常設展示室
1010築地と溶解炉
1020翔鸞楼
※考察 桓武天皇
1030都づくり
1040建築労働者のくらし
1041都づくりの徴発農民
庶民の食事
1060租税
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1063下級役人のくらし
1063役所のしくみ
1070軽間嶋粉
役人の食事
堅魚煎汁(かつおいろり)
1100長岡京の土器木簡
1110宮都ジオラマ
1121朝堂院と内裏の変遷
1122長岡宮の役所
1123右京の発掘写真
1124左京の発掘写真
※編集疲れのひとやすみ
1130森本遺跡 向日市
1140装身具
※考察拝領品の行方
※資料畿内系と在地系の古墳 |
1150長岡京の遺物
1180年表
1200長岡京の井戸
1210宮都と政治
長岡京遷都の理由
1221宮都の変遷
1225藤原種継
1226長岡京の文書
1230貴族のくらし
1240貴族の食事
1251百済王明信
1253庶民の暮らし遊び
1270庶民の暮らしと市
1280おそれといのり
1290平安京への道
2000写真展示
向日市の古墳
2100物集車塚古墳
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特別展「古代のくらし」
2150➀住む
2161家形埴輪
2170②食べる
2171様々な形の深鉢
3010➀住む
3011住まいの内と外
3113石囲い炉
3017家形埴輪
3020②食べる
3020カマド
2023食器
3027水さらし場
3030③狩る
3033狩猟具
3040④栽培
3041植物を栽培する
3045鉄製品
3047暮らしの道具
3049穂摘み具
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3050⑤つくる
3051モノをつくる
3060⑥道具
3063玉造り
3065石斧
3070⑦運ぶ
3071運び交流する
3072旧石器以降の交易
3075半島由来
3080⑧装う
3081装いにこめられた願い
3083耳飾。垂飾
3085勾玉・管玉
3090⑨音楽
3091音楽は神聖なもの
3093鉄鐸・陶塤
3095琴
3100⑩祈る
3101祈りを捧げる
3103祈りの道具
3106石刀,石剣,銅剣
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10外観
向日市立図書館
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向日市文化資料館
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京都府埋蔵文化財調査研究センターは、京都府向日市にあり、同じ敷地に向日市立図書館・向日市文化資料館があり、すぐ裏に窓のない保管施設・倉庫棟がある。展示施設はなく、向日市文化資料館の1階と中二階を借りて常設展示を行なっている。向日市の埋蔵文化財センターは別の場所にある。
向日市の施設に京都府の施設が入り込んでいる不思議な建物構成であり、今回の特別展は二階を展示会場にしている。
この施設は長岡宮の展示施設である。実は前回の長岡京市に長岡宮跡はなく、向日市東向日駅周辺にありました。従ってこれから掲載するのは、長岡宮に関する展示です。
先に紹介した長岡京市埋蔵文化財センターは考古的側面から展示されています。
一方、今回の京都府埋文では文化的側面からの展示が主なように見受けられます。
それぞれ住み分けがされているように思います。きっと、双方の展示構成は難しかったでしょうし、そのために展示できない遺物も多々あるのではないかと思います。そして、それらをこのような特別展で見せて頂けるのかも知れません。 |
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総括ルーム(玄関ホール-1F-)
20入口展示 |
21
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乾垣内遺跡の盾形埴輪
<発見のいきさつ>
1973年(昭和48) のこと、 寺戸町乾垣内の竹やぶでたけの この土入れ作業中に、 横たわった埴輪が崖面から突然姿をあら わした。当時、高校生であった岩崎誠さん (現 (財) 長岡京市埋蔵文化財センター技師) は、この発見の知らせを受け早急に現地へ赴き、 応急的に出土状況の記録を取られ、 また、 埴輪の保存に尽力された。
この時の岩崎さんの迅速な対応のおかげで、 乾垣内遺跡は闇に葬られることなく世に知られることとなった。
<遺跡の内容>
この遺跡は埴輪円筒棺を使ったお墓である。 埴輪円筒棺とは、 古墳の墳丘に立てならべられた埴輪をぬき取り、 人体を埋葬す るために棺として転用されたものをいう。
使われた埴輪は盾形埴輪2個体とヒレ付円筒埴輪の一部であ る。 盾形埴輪は1個体分については盾面を上に向けて設置して いたことが確かめられているが、 他については、発見時の破壊 でよくわからない。
〈復元作業の成果〉
この埴輪は、永らく破片となって倉庫に保管されていたが、 今回、発見以来はじめて復元を試みることとなった。 この結果、 伏見区桃山にある
黄金塚2号墳 (全長120mの前方後円墳) と同じタイプのものであることがわかった。 両者は製作技法や盾面の文様が非常によく似ており、 同じ系統の埴輪工人が各々を作ったものと見ることができる。
これらが作られた時期は4世紀末葉と考えられる。
<埴輪の由来〉
乾垣内遺跡の埴輪は、転用されたものであることから、もともと立てならべられていたはずの古墳が近隣に存在するはずである。 都出比呂志さん (大阪大学教授)
は、 宮内庁が管理し、桓武天皇の皇后を葬ったとされる高畠陵が、 もとは古墳時代の大形円墳であると考え、それを伝高畠陵古墳と呼ばせた。 そして、 これを乾垣内遺跡の埴輪が帰属する古墳に想定された。 両者間の距離は120mであり、
他に4世紀末葉に位置づけられそうな古墳は見あたらず、その可能性は極めて高いものと思われる。
<埴輪が語るもの〉
伝高畠陵古墳は、直径約70mの大形円墳で、4世紀末葉に 築造されたと考えられる。 当時、 桂川右岸一帯を統轄するほどの大豪族をあげるとすれば、西京区御陵にある天皇ノ杜古墳 (全長 80mの前方後円墳) の被葬者であろう。 両者は墳形が違う ため、大和政権の評価に差があったようである。 しかし、 古墳 の規模は大して変わらないことから、地域内部の実力は大差なかったに違いない。つまり、この時期には勢力を二分するような緊張した状況があったことを想い起こさせる。
このように、 乾垣内遺跡の埴輪は西暦400年頃の当該地域の社会情勢について、 興味深い状況を教えてくれるのである。 |
乾垣内遺跡の盾形埴輪 |
乾垣内遺跡の盾形埴輪 |
乾垣内遺跡の盾形埴輪
※この円筒埴輪は近くの高畠陵古墳から引き抜いてきて庶民が埴輪棺に使ったものです。 |
埴輪棺が現れた様子
△は円形の透かし孔
△は左右に付くヒレ
〔写真、 岩崎誠氏提供] |
乾垣内遺跡と伝高畠陵古墳の位置
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22玄関ホール(入口展示続き)
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23乙訓の文化財分布
※この地域は、どこに行っても遺跡の上に立っているようなものですね。
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24朝服
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古代衣装研究家 山口千代子氏指導 ・制作
向日市文化資料館 衣装ボランティア制作
朝服とは
官人が朝廷の仕事に携わる時に着用する。 文官・女官の最も日常的な衣裳。 |
朝服 |
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資料館案内
向日市文化資料館は“長岡京の歴史と文化” を主題に、 乙訓地方の歴史を明らかにするため収集された資料を展示しています。
展示スペースは次の3つに分れています。
1) 総括ルーム (玄関ホール-1F-)
乙訓全体の歴史や地理を理解していただこうと、 乙訓地方の文化財分布模型を中心に展示しています。 他に参考書籍コーナーがあります。
2) 長岡京ルーム (常設展示室-1F-)
長岡京に関するすべての資料を一堂に集め展示しています。 各階級の人物像を中心に、それぞれの果たした役割、 仕事内容を考古資料や絵図に
よって説明しています。 小コ ーナーごとに、小題を設けた詳しい説明文がありますのでご利用下さい。
3) 最新発掘情報・視聴覚ルーム (ラウンジ-中2F-)
乙訓地方で連日行われている発掘調査の最も新しい資料を展示しています。 最新情報 や過去の記録をビデオテープにより再現しています。 |
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長岡京条坊図 |
資料館案内 |
資料館案内 |
フロアマップ |
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一階 長岡京ルーム
1000常設展示室
長岡京の歴史と文化
-都を動かした人々-
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1010築地と溶解炉
常設展示室
長岡京の歴史と文化
-都を動かした人々-
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築地塀 |
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「庚子。 西宮より移って、はじめて東宮に御す。」 (『続日本紀』 延暦8年(789) 2月27日)
AIによる概要
「庚子。西宮より移って、はじめて東宮に御す」とは、『続日本紀』の延暦8年(789年)2月27日の記録で、
「庚子(かのえね)の年に、西宮(長岡京の宮殿)から移転して、初めて東宮(皇太子が住む宮殿)にお入りになった」という意味です。
長岡京遷都後、宮殿の建設が進み、皇太子(後の桓武天皇)の住まいである東宮が完成し、そこへ移住したことを示す歴史的記述です。
解説
・庚子(かのえね): 六十干支(ろくじっかんし)の一つで、この場合は延暦8年(789年)を指します。
・西宮: 当時の長岡京の宮殿(内裏や朝堂院など)を指します。
・移って: 西宮(長岡京の宮殿全体)から、東宮(皇太子のお住まい)へ場所を移ったことを意味します。
・はじめて東宮に御す(おす): 皇太子が東宮(皇太子の宮殿)に入居した、という敬意のこもった表現です。
この記述は、長岡京の宮殿が完成し、政治の中心が整い始めた様子を示す重要な記録です。
「庚子。西宮より移って、はじめて東宮に御す。」(『続日本紀』の延暦8年(789年)2月27日条)
遷都して3年ほどたつと、 長岡宮の中心部で早くも大きな改造がはじまる。
内裏が東の方へ移されたのと同じ頃、朝堂院東第四堂のすぐ東側に築地塀が築かれる。
突貫工事のため、女性も子供も、土を突き固めたり、板を運んだりと大忙しの現場。
完成まぢかの築地
(2008年 早川和子作画、 向日市文化財調査事務所・(財) 向日市埋蔵文化財センター監修) |
完成間近の築地 |
完成まぢかの築地 |
築地
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溶解炉
推定春宮坊出土
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春宮坊出土 溶解炉 |
青銅などを溶かして
製品を作る施設 |
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1020
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翔鸞楼
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中国の思想にもとづいた理想の都を求めて、 桓武天皇は長岡京へと都を遷しました。 その象徴の一つが、 朝堂院南門 にとりつく楼閣、 翔鸞楼です。 |
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※応天門の外の南西にあった建物です。東の栖鳳楼と対になる西側の楼の呼び名。
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絵に対面して
左:翔鸞楼
中:応天門
右:栖鳳楼 |
南面南北回廊
朝堂院南面回廊北西角(西5)
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朝堂院南面回廊北西角(西から)
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楼閣 |
南北回廊
楼閣
足場跡
南面東西回廊
翔鸞楼・朝堂院南面回廊の柱位置(北から) |
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翔鸞楼基壇東側の瓦溜まり(西から)
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翔鸞楼基壇東側の瓦溜まり (南から) |
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翔鸞楼礎石の基礎構造(南西から)
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翔鸞楼全景(北から) |
翔鸞楼
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中国の思想にもとづいた理想の都を求めて、 桓武天皇は長岡京へと都を遷しました。 その象徴の一つが、 朝堂院南門 にとりつく楼閣、 翔鸞楼です。 |
翔鸞楼 |
翔鸞楼と栖鳳楼
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長岡宮翔鸞楼
長岡宮翔鸞楼は、 朝堂院南門の西につくられた楼閣 (重層建物) です。 東の栖鳳楼 と対をなして、 朝堂院の荘厳な姿を際立た せていたものと思われます。
楼閣の存在は、2005年(平成17)の 発掘調査で、朝堂院南門から左右に続く回廊が南に折れ曲がり、その先端に取り付く様子が確認されました。
また、 朝堂院南 門・回廊・楼閣建物の基壇は、すべて一連の造作によって築かれており、後の改造の結果ではなく長岡京遷都当初より計画的に造営されたことが判明しました。
重要な門の左右に楼閣建物を配置するという建築様式は中国の都城を源流としており、日本では長岡宮で初めて採用されたと考えられています。 渡来系氏族出身の母(高野新笠)を持つ桓武天皇の、新しい都づくりの象徴といえる建物です。 |
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長岡宮 翔鸞楼
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翔鸞楼の軒瓦  |
鬼瓦
推定大蔵跡出土 |
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※考察 桓武天皇
おもな宮都の遷都遍歴は
・天智天皇 (667年): 飛鳥板蓋宮から近江大津宮(滋賀県大津市)へ遷都。
・天武天皇 (672年): 近江大津宮から飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村)へ遷都。
・持統天皇 (694年): 飛鳥浄御原宮から本格的な都城である藤原京(奈良県橿原市)へ遷都。
・元明天皇 (710年): 藤原京から平城京(奈良県奈良市)へ遷都。
・聖武天皇 (740-745年):平城京を離れ、恭仁京(京都府木津川市)→難波宮(大阪市)→紫香楽宮(滋賀県甲賀市)と短期間に遷都を繰り返す。
・桓武天皇 (784-794年):平城京から長岡京(京都府向日市・長岡京市・京都市西京区)へ遷都し、さらに794年に平安京(京都府京都市)へ遷都。
恒久的な都と思われる平城京が建設されてからでも
平城京→山背恭仁京→紫香楽宮→難波京→平城京→長岡京→平安京と次々と遷都を繰り返した。
桓武天皇は、長岡京と平安京への2回の遷都を行なった。
聖武天皇の3回の遷都を繰り返し、4回目に元に戻ってきた、に比べれば、少ないが、1回は対立勢力からの脱却、2回目は音量からの逃避である。
また、坂上田村麻呂を征討将軍に任じて東北蝦夷に戦争を始仕掛けた天皇でもある。
原因は蝦夷の反乱であるが、反乱を起こすように理不尽な政策が行なわれた。仕掛けられた戦争であった。
母親は身分の低い渡来系氏族の出身であったため、皇位継承権から外れていた。しかし、藤原氏が様々な政略・政争を仕掛け、次々と皇太子を廃位に追い込み、皇統から外れていた山部王(のちの桓武天皇)を擁立することで藤原氏側に有利な政権を樹立させた。
藤原種継による長岡京建設も、種継が暗殺されその罪を弟の早良親王に被せ、将来自己の立場を脅かすかもしれない親族を抹殺した。
しかし、早良親王は無実を訴え、餓死した。その後に次々と起こる災難や家族の連続死などを親王の祟りと怖れ、遷都した都を更に遷都した。
なにが啼くよウグイスホーホケキョだよ。
桓武天皇が早良親王の祟り鎮めに建てた寺社は7つもある。それほど恐ろしかったようだが、無反省な…人物
長岡京の次に建設に着手したのが、平安京です。この時、平安京建設費用と土地と最新の土木技術を提供したのが秦氏だった。このため、新宮都の建設はつつがなく進み完成した。しかし、政権乗っ取りをもくろむ藤原氏は、平安京建設の最大の功労者である秦氏や聖徳太子が政治に重用されることを怖れて画策し、関係者の抹殺を開始し、秦氏は殺害を怖れて瀬戸内海を西へと逃亡し、赤穂に漂着した。
要するに、桓武天皇は藤原氏のヤマト政権掌握過程で、大きく影響した天皇だった。
さらに、早良親王への謀略で「祟り怖れ」をしたのに、平安京ができるとまたまた、要人暗殺に走る。東北では「いわれなき戦争」で沢山の
蝦夷が殺害される。同時に戦争挑発された関東の農民も戦死する。どこまでも無反省で政争に取りつかれた人物。というのが私の見方です。
※中学校の歴史で、平城京から平安京に遷都したのは、南都六宗の仏教勢力が無理難題を政権に要求したため、それを排除するためだったと学ぶ。
しかし、今考えてみると、長岡京だけではない恭仁京や紫香楽の宮など、各天皇が、膨大な予算を使って遷都を繰り返したのは、きっと他の政治勢力の 経済力を弱め、政権中枢から追い払うための時々の権力者や藤原氏などの利権勢力の工作だったのではないかとも思います。 |
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1030
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都づくり
784(延暦3)年6月、 長岡京遷都が発表されると 乙訓郡長岡村は大騒動となり、都の予定地内に住む 農民はわずかな費用で立ち退きを命じられました。
その一方では造営の突貫工事のため31万4千人という大量の農民が諸国からなかば強制的に集められました。
平城京の副都として置かれていた難波宮を取り壊し、その資材が淀川をさかのぼって山崎津や淀津から次々と陸揚げされ、 長岡京に運ばれて再利用されたため、
朝堂院 (今の国会議事堂)や内裏(皇居)はわず か6ヵ月というスピードで完成しました。
宮殿づくりと並行して道路網 (条坊) の整備も行われ、 朱雀大路を横切る小畑川には大規模な橋も架けられました。
中心となる役所や宮殿の基礎づくりは厳重で、礎石の下には川原石が幾重にも積み固められ、 屋根には重い瓦がのり、 直径70cmもある大きな柱が使われました。
建築は、専門の技師や工匠たちが行い、 諸国から徴発された農民は穴掘り、 瓦運び、土運びなどの基礎工事に動員されました。 |
都づくり |
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都づくり
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都づくり
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都づくり |

手斧の柄が撮禁
他所でも撮禁 |
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都の造営
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太政官を囲む塀
内裏を囲む廊下
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・東二坊坊間小路の橋
・朝堂院へ資材を運んだ牛車のわだち |
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工具の色々
手斧,釘,槍鉋,刀子,木槌,雨壷鋳型 |
道具瓦の色々 |
面土瓦 |
朱付着瓦,熨斗瓦
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1040建築労働者のくらし |
1041都づくりの徴発農民 (※仮想人物の名前と経歴)
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民得名
年令 751年(天平勝宝3) 生まれ。 33才。
出身地 福井県坂井郡三国町(越前国坂井郡川口郷) 九頭竜川河口の村。
現住所 長岡京右京八条三坊十三町(現乙訓郡大山崎町円明寺)の2間×3間の飯場に仲間と居住。
家族 郷里に老父母、 妻、子4人を残す(単身赴任)。
職業 都づくりの土木工事。 往き帰りの旅費自弁で一年契約で上京。
給料 雀の涙。 食糧支給。
エピソ 魚釣りが得意で故郷の川で夕食用の魚を釣っていた所、 突然郡役 所の人が来て 「お前! 穴掘りが得意だそうだな、
ード 都で人手が足りんから明日すぐに発て!」 と言われて着のみ着のままやって来た。 この労働着は役所の支給品である。
郷里の家族は重税にあえぐ。 |
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民得名 |
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鉱滓 (鉄の溶けカス)
鉄づくり |
はつりかす
檜皮(ひわだ)
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徴発農民の労働 |
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※ちなみに
民得名は姓+名でない
民=民衆である意味,
得名=名前を持ってる,
つまりこの人は名前はあるよ。の意味。 |
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1043庶民の食事
かまど,羽釜,甑 |
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庶民の食事
~カロリー源は玄米の大盛?~
肉もなければ魚もない。 いかにも質素な食事、 これが古代人の大半を占める庶民の食事でした。 時には桂川で魚を、 西山で鹿を獲ることもあったでしょう。
そんなとき 仲間とドブロク (粉酒) を回し飲みするのが唯一の楽しみでした。
都へ上った名のような人物には玄米と塩が支給されます。 でもそれ以外の食物 は自分で調達しなければなりません。 都は物価が高くて市に行っても手の届きそうな
ものはなかなか見つかりません。 塩と米だけで過すこともよくあります。 今日の献立は、仕事帰りに採ったわらびを漬けたものです。
調理は仲間と共同で、 造りつけのかまどで行います。 調理といっても米を蒸し、 青 菜を煮、 わらびを湯がいただけの簡単なものです。 得名の宿舎は小泉川のすぐ近くな
ので、70~80cmも井戸を掘ればきれいな水が湧いてきて炊事には便利です。 |
庶民の食事 |
庶民の食事
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漬物,青菜の汁
玄米,塩  |
漬物,青菜の汁 玄米,塩
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1045
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・坏(ロクロ土師器)
・椀(黒色土器)  |
・土錘(漁網のおもり)
・紡錘車  |

鉢?炮烙? |
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1050
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古代の鍵
~お蔵破りに挑戦してみよう~
古代の役所の蔵には、扉に落とし込み式の錠が取り付けられていました。 扉を開けるには、 と呼ばれる鍵が
用いられました。 で解く錠は、 扉の内側にホゾ穴を開け、これに棒を押し込んで固定するもので、 論はこれを
引き上げる道具です。 税を入れた役所の倉庫から見つか ったものです。
一度扉を開けてみて下さい。 扉の奥には金銀財宝
成功したら、 もとどおりに! |
古代の鍵
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4歳頃に、1km離れた母屋に一人で行ったら、おばあちゃんがこんなカギで蔵を開けて、熟した大きな柿を両手の上に乗せてくれました。
そのままワクワクしながら家に帰ったのを覚えています。初めての一人での遠出でした。大きなたらいで洗濯をしていた母親が両方に驚いていました。 |
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1060租税 |
1061
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木簡にみる税の貢進国
~税の都への集中〜
古代の交通は、諸国の税を都へ運ぶために整備さ れたものです。 税が送られてくる時、 どこの誰が何を出したかを記した荷礼が付けられてきますが、
長岡京ではこれまでに約20ヵ国からさまざまな物質が送られていたことが知られています。
こうした税は大蔵等に保管され、国家的事業や天皇の生活費、役人達の給料として使用されます。 その管理や帳簿付が役人達の重要な仕事の一つでもあったのです。 |
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1062租税の荷駄
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トチ
オニグル
ヒメグルミ
モモ |
ウメ
ウリ
盤 |
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製塩土器 |
塩の荷札
延曆九年三月九日 (裏)
紀伊国進地子塩三斗 安万呂(表)
製塩土器(焼塩壷)と塩 |
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下級役人のくらし |
1063
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下級役人の仕事
役人の勤務時間は鼓によって知らされます。
日の出直前に第1回目の鼓が鳴ると、朱雀門をはじめ宮城 十二門や羅城門が開かれます。
1時間ほどして2回目 の鼓が鳴ると朝堂院や内裏の門が開き、 役人たちは 定められた場所に着き仕事を始めます。
軽間嶋粉のような書記官たちの仕事はまず墨すりから始まります。 請求書やメモ用の木札が足りないときは刀子で板を何枚も作らねばなりません。 諸国から 税として届いたさまざまな物を倉に入れる前に検査したり、配下の者たちの食事や食器を手配するのも彼らの仕事です。
来る日も来る日も膨大な書類の山の処理にうんざりしたのか、削ったばかりの木札に落書きしてサボる役人もいます。
こうして嶋枌らの下級役人たちは、1年140日以上、6年間の勤務評定を総合して初めて位が一つ上るのでした。 |
下級役人の仕事
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下級役人の仕事
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役所のしくみ
古代の役所は、律令や格式と呼ばれる法律によって定められ、運営されていました。奈良時代を通じて行われ た造都や造寺の大事業は、 役所の仕組みを肥大化させ、 役人の数を増加させました。
桓武天皇は朝堂院の縮小や 役所の統廃合などの行政改革に努めますが、それでもこ のように多くの役所が存在していました。
太政官はさしずめ現在の内閣府にあたり、左・右弁官局、少納言局がその実務を担当していました。左・右弁官局が統轄する八省は租税、 人事、 軍事、 裁判、 儀式、内廷等を掌り、 八省の下には、職や寮、 司と呼ばれる実務機関があり、その下にはさらに具体的な作業を行う所 が設けられていました。
役人の総数は8000人とも推測され、 都の中心部である宮域は、今日の霞ヶ関のように役人でごったがえしてい ました。 |
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役所のしくみ |
長岡京の主な役所の機構
長岡京の主な役所の機構
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文官の道具
文官の道具 |
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朱を溶いた器(蓋) |
漆を入れた器
転用硯(坏蓋) |
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1070
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軽間嶋粉
年令 748年(天平20) 子歳生まれ36才。
出身地 京都市左京区 (山背国愛宕郡)の地方公務員の長男として生まれる。
父親の指示で、 20代は東大寺の写経生として過ごす。
現住所 長岡京左京六条三坊 (現長岡京市神足古市) にささやかな一戸建住宅を持つ。
家族 父は今は亡く、かつて愛宕郡の郡役所に書記として勤めていた。
妻は浄女。 写経生の頃平城京で知り合った女である。 妻の父は三嶋々道。 仕事場の大先輩である。
職業 勤勉さを見込まれて太政官(今の総理府)の財政係の書記に抜てき される。 典型的なA型人間で、 きまじめ一方の働きバチである。
給料 なんとか生活できる年収 180万円程(無税)である。
エピソ 妻浄女との恋愛は物語にもなって有名である。 子の無いのが寂しい限りで、 家に帰ると家庭菜園づくりに精を出す。
ード 名前の「粉」という字は父親がこって付けたもので、 普通は 「杉」 と書く。 |
下級役人の仕事 |
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墨
円面硯
木簡の削りくず
水差し (水滴)
木簡を削る刀子
役人の手なぐさみ
灯明皿 (土師器) |
軽間嶋枌 |
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1090
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木簡にみえる食物
諸国から送られてきた税の荷札や都の中で、物品を整理するために付けられた札の中に食物の記載されているものがあります。
黒米とは玄米のこと、春米とは精米した米のこと、糒とは干して乾した飯のことです。
鮭皆綿は珍味で、鮭の骨の髄を塩辛にしたものです。魚児は鮭の子、 腊は干し肉、 鮨鮑は鮑を飯と酒で合せて発酵させたものです。
粉酒は酒糟の残ったドブロクのようなものです。 |
木簡にみえる食物
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白米 飯 黒米 舂米 籾 糒 大豆
(はくまい いい くろごめ つきまい もみ ほしいい だいず)
鯛 鮭皆綿 鮨 鲍 魚児 鯛腊 小天鮒
(たい さけのみなわた すし あわび うおこ たいのきたい おやぶな)
鳥腊 鴈 雉 雉腊 鹿宍 猪宍 煮宍
(とりのきたい かり きじ きじのきたい しかのしし いのしし にしし)
酒 粉酒 醬糟 醤 塩 胡麻油
(さけ こさけ さけかす ひしお しお ごまあぶら) |
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役人の食事
~市での買物が楽しみの一つ~
役人達の食事には魚がつくことがあります。 都が内陸部にあったので、新鮮な魚貝類を手に入れることは難しく、たいていは干物でした。 他になますもありました。
米は精白した白米を食べます。
調味料には塩の他に、未醬や響や酢も用いられました。 酒は役人達に欠かせないものですが、やはり酒槽の残ったにごり酒が飲まれました。
嶋枌達は少いとは言え一応給料をもらっていましたので市で買い物する楽しみがあります。 諸国から集められた税の産物の一部が、 国をはじめ、 寺院や貴族によって市
に出されたりもします。
役人達の食事は、昼は役所から支給されていたことが記録 (東大寺写経生達の食事 の見積書)に残っています。 嶋枌が毎日のように部下のために飯を請求している木簡 も残っています。 食器も支給されました。 嶋枌の勤めていた太政官厨家からは、役人達が使い古した土師器や須恵器で作られた食器や箸が大量に発見されています。 |
役人の食事
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果物,にごり酒
いわし,なます,みそ
白米,漬物,すまし汁
(わかめ)
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栄養診断
庶民の食事とちがい、 栄養のバランスが良くとれている。これ はエネルギー量の多い夕食であるから良 いが、朝食もこれと同じくらい食べると 過剰摂取になる。 |
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壷

3番目の壷は伊豆で煮鰹の煮汁を入れて運んだ |
堅魚煎汁 |
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AI による概要
伊豆や駿河湾周辺(現在の静岡県)で古くから伝わる、煮た鰹の汁を入れた壺の正体は、奈良時代から平安時代にかけて朝廷に献上されていた調味料「堅魚煎汁(かつおいろり)」である可能性が高いです。
・堅魚煎汁(かつおいろり)とは?
・鰹を煮出した汁を煮詰めた、濃厚な塩辛い調味料です。
・現代の魚醤(ナンプラーなど)のルーツとも言われています。
・奈良時代の『養老律令』や『延喜式』に記載され、駿河国(今の静岡県)が主な産地でした。
・当時の長岡京跡などからは、この汁を入れるために伊豆・駿河で生産された須恵器(すえき)の壺が大量に出土しています。
・現代の関連食品:塩かつお(しおかつお)
・西伊豆の田子地区では、この伝統的な「煮堅魚(にがつお)」の製法を源流とする「塩かつお」が現在も作られています。
・鰹を1本丸ごと塩漬けにして乾燥させたもので、江戸時代以前からの保存食です。
なお、これらは現代の「かつお節」の原型(堅鰹)ともされています。 |
杯,椀,皿(土師器)
杯 (須恵器)
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木簡 |
請書手飯四升
十月廿六日軽間嶋枌
鑰 |
木簡 |
鮭皆綿 鯛
周防国
鍵(海老錠のかぎ)
(表)周防国
(裏)延暦23年 |
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役人の食事 |
いわし,なます,みそ
白米,漬物,すまし汁
(わかめ)
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果物,にごり酒
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東院跡の軒瓦 |
東院跡の軒瓦 |
長岡京左京東院跡
復元模型(150/1)
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1100長岡京
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長岡京東院跡
793(延暦12)年正月21日、 桓武天皇は東院に遷御しました。 東院は、元々儀式、宴会の場や行幸時の行在所などに利用された離宮の一つでしたが、平安京遷都に伴い長岡宮 内裏を解体するため、 仮の内裏として用いられました。
平成11(1999)年に左京北一条二・三坊で発見された、4町以上を利用する大規模宅地は、平成3(1991)年に発見された左京二条二坊十町とともに東院の推定地と考えられています。
内郭で内裏正殿に相当する四面廂の建物2棟と脇殿、 西外郭で礎石建物や掘立柱建物、 井戸が確認されました。
また古い河跡 (旧河道)では、 「東院」 と記された墨書土器や天皇に直属する内廷官司の名称を記した文字資料などが多量に出土しました。
内郭の建物群は、平安宮内裏の紫宸殿および東西の脇殿と よく似た構造で配置されたと考えられています。
長岡京東院 は日本古代都城における内裏の変遷を考える上で大変重要な遺跡です。 |
長岡京東院跡 |
長岡京東院跡
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内裏建設に伴い、河の流れを付け替えたようです↓ |
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東院跡出土の木簡・墨書土器
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木簡 |
東院跡で発見された建物群
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旧河道
西外郭
掘立柱建物 礎石建物
区画施設
西脇殿
正殿後殿
正殿前殿 |
東院跡の土器類
東院跡の土器類 |
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東院跡の土器類 |
杯(土師器) |
高杯(土師器)
杯(黒色土器)
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東院跡の木簡
東院跡出土の木簡・
墨書土器 |
木簡 |
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※複雑すぎて文字化出来ません |
東院跡の墨書土器
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室内中央ジオラマ |
1110
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「丁酉の朔。 天皇、 大極殿に御して朝を受く。」(『続日本紀』 延暦4年 (785) 正月1日条)
(天皇(桓武天皇)が元旦の朝賀の儀式で朝廷に出御し、百官(官吏)からの拝賀を受けた)
長岡京に遷都してはじめて迎える新年。 元旦の朝賀の儀式がおこなわれるようすを大極殿背後の上空から望む。
大極殿の前に7本の宝幢がそびえ、 闇門の向こうの朝堂院はまだ建設途上。 その前の朝廷に官人が整列している。
天皇、 大極殿で朝賀を受ける
(2008年 早川和子作画、 向日市文化財調査事務所 (財) 向日市埋蔵文化財センター監修) |
※絵解き長岡京「丘の上に作られた都」
このリンクを是非参照して下さい。
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「丙午。太政官の院成る。 百官はじめて朝座につく」 (『続日本紀』 延暦5年 (786) 7月19日条)
夜明けとともに宮城の門が開き、 翔鸞楼 栖鳳楼に続く南門から大勢の官人たちが朝堂院へと向かう。 挨拶を交わしたり、なかにはアクビをする者も。 まだ明けやらぬ空には鳥のひと群れ。
百官はじめて朝座に着く
(2008年 早川和子作画、 向日市文化財調査事務所 (財) 向日市埋蔵文化財センター監修) |
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長岡宮翔鸞楼跡を発見
長岡宮跡第443~445次調査現地説明会資料- 向日市教育委員会 財団法人向日市埋蔵文化財センター |
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| 1120 |
1121
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朝堂院と内裏の変遷
朝堂院とは、本来すべての役人が早朝から出勤 (朝参) して実際の政務をとり行う場でした。 したがって、
初期の難波京や藤原京では大きな朝堂院が造られました。 しかし平城京では、 周辺の宮庁街が整備され、 朝堂院は外国使節の謁見や即位の儀式などの場として利 用されることが多くなり、 規模もやや縮小されます。
この傾向を最もおしすすめたのが長岡京です。 朝堂は 12堂から8堂に減り、 内裏も朝堂院から完全に分離します。 朝堂院で行われる儀式は国家的大儀式に限られ、 朝参も形式化しました。 一方、 内裏は天皇の生活の場 であると共に種々の儀式の場となり、 政治の変化に伴
なってその機能を変化させました。 |
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朝堂院と内裏の変遷
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 藤原宮
前期難波宮(長柄豊碕宮)
後期難波宮
平城宮(奈良時代後半)
長岡宮 |

後期難波宮
平城宮(奈良時代後半)
長岡宮
平安宮
平安宮朝堂院の官人着座位置
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1122
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長岡宮の役所
長岡宮の役所の配置は、 朝堂院、 内裏、 諸官庁と、大きく3つに分けられます。 朝堂院は宮の中心にあって国家的儀式を行う場です。
内裏は天皇が居住し 周辺には天皇の執務や生活に関係する役所が集中し ています。
諸官庁は朝堂院をとり囲むように、整然と配置されています。
しかし、律令国家の体制が整 い、官僚機構が拡大するにつれて、宮内の官庁だけ では役人がおさまりきれなくなり、 京域にも宮庁街 が形成されました。 |
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京域の宮庁街
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宮内の周囲に拡がった宮庁街 |
右京
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長岡宮の役所 |
左京
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1123右京
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役所の正庁
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朝堂院南方の役所
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朝堂院西の礎石建物
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馬寮の建物
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鴟尾のみつかった溝 |
右京の官庁正殿
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1124左京
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朱雀大路の西側溝
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東二坊大路の東側溝 |
旧石田川にかかる橋 |
整備された太政官の塀
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春宮坊の建物 |
大蔵跡 |
大蔵跡の石組溝 |
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※編集疲れのひとやすみ
世に「普請道楽」という言葉がある。次々とお気に入りの設計で新しい家を建てる人のことで、女優の樹木希林さんや、作家で尼の瀬戸内寂聴さんは有名です。が、それ以外にも沢山の有名無名の普請道楽者が名をはせており、私の知っている人は、お気に入りの大きな置物を玄関に置くために、置物一つに家一軒といった具合に普請道楽する鉄工所の会長を知っています。
私のような貧者には無縁ですが、賃貸目的ではなく金に飽かしての道楽普請は、おもしろいのでしょう。
そして、その家に自分の気に入った人を住まわせる。樹木希林さんは浅田美代子さんを住まわせていました。
高校生の頃、汽車通学の線路の、山の頂上まで続く広大な竹林を全て切り払って乾燥させているの見て、何だろうと尋ねたことがあった。
すると、大阪の金持ちがあの膨大な乾燥させている竹からよいものだけを選んで、家造りに使うんだと。一山全部切り払ってその中から選別するというのだ。なんという贅沢な素材選びだことか。
ということは、柱材や、壁材、調度品など、全て自然から選び出した最高のもの、買った一級品ではなく、自然の中から選び抜いた最高品を作って使って普請する。一軒の家に天文学的なお金をかけるという、まさに、普請道楽のきわみでしょう。
桓武天皇の普請道楽とは少し違うが、結構似た人たちがいることにも気づいた。首長になって次々と箱モノを建設して、カッコよく、しかして、
たちまちそれらの維持費に貴重な自治体の財政を取られてしまう。莫大な国費を無駄に消費して次々と新都を建設し、途中で投げ出し、また、新都を別場所に建設し始めてしまう愚策。これは普請道楽ではなく、無駄遣い道楽ですな。(笑)おまけに先住民相手に長期戦争まで始めて、どれほど人民を苦しめたら気がすむのか。 |
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1130森本遺跡 向日市
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森本遺跡で発見された弥生時代の水路跡 (東から)
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◎人面付壺形土器
向日市森本遺跡
(弥生時代中期)
◎人面付土器
与謝野町溫江遺跡 (弥生時代前期)
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◎人面付壺形土器
向日市森本遺跡
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◎人面付土器
与謝野町温江
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1140装身具
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この展示は、後出する 特別展「古代のくらし -旧石器時代から古墳時代-」“9装う の展示の一部です。
古墳時代になると大きな古墳ほど立派な装身具が出土する傾向が強くなります。 装身具の素材や種類も増えていきます。 |
府指定文化財 離湖2号墳出土品 京丹後市教委
離湖2号墳出土品
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離湖2号墳(京都府京丹後市)は、長持形石棺が特徴的で、内部からは石釧,玉類,鉄器,青銅鏡など、古代丹後地方を知る上で非常に貴重な副葬品が多数出土した。盗掘wで石棺の底石のみが出土したが、木棺部からは豊富な資料が出土し、地域を代表する古墳である。
特徴と概要
・所在地: 京都府京丹後市(旧網野町・峰山町周辺の離湖古墳群の一部)。
・築造時期: 古墳時代中期(5世紀頃)。
・構造: 墳丘は半島状に突き出た丘陵の頂部に位置し、長持形石棺が用いられていたとされます。
・出土品: 盗掘跡から、腕輪(石釧・鋼釧)、勾玉などの玉類、鉄器、青銅鏡(画文帯同向式など)などが検出され、
当時の丹後と畿内・大陸との交流を示す重要な品々です。
・現状: 周辺の7号墳、8号墳、9号墳などは横穴式石室が公園として整備されています。
重要性
離湖古墳群は、丹後地方の首長層のあり方や、ヤマト王権との関係を探る上で不可欠な存在であり、特に2号墳から出土した遺物は、その文化レベルの高さと広範な交流を示しています。 |
碧玉勾玉 |
大和王権から配布された緑色凝灰岩製の腕輪
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大小の碧玉と緑色の管
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紺色のガラス小玉
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※考察 拝領品の行方
大和王権から拝領した貴重な腕輪だが、地方の王様個人が拝領したのであり、死亡後は子孫が受け継ぐことができず、
貴重品であっても、墓に入れるしかなかったのだろう。
ということは、中央から拝領した刀剣類も、個人に授与されたものは、子孫が受け継ぐことはできず、墓に埋納されたのだろう。
たまに、墓からの出土品に対して、中央豪族の誰から拝領した刀剣。などと解説があるが、それは稀有である。
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1450※資料 畿内系と在地系の古墳
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畿内系古墳
AI による概要
畿内系古墳とは、大和政権の中心地である近畿地方(畿内)で造られた特徴を持つ古墳群のことで、特に初期の巨大前方後円墳(箸墓古墳など)や、全国に広まった「畿内型石室」竪穴式石室・横穴式石室)を持つ古墳が代表的で、大和政権の力と技術が全国に波及した様子を示す重要な資料です。初期は奈良盆地、後に河内平野(大阪)に移り、大型化・多様化し、地域ごとの豪族が大和の権力構造を取り込みつつ独自の古墳を造営した結果として、全国各地の古墳の源流ともいえます。
畿内系古墳の主な特徴
・初期の巨大前方後円墳: 日本で最も古いとされる箸墓古墳に代表される、巨大で初期の形式の前方後円墳が畿内から登場し、大和政権の起源を物語ります。
・「畿内型石室」の伝播: 竪穴式石室から、石室の構造や技術が発達した「畿内型石室」が全国に広がり、その伝播が古墳時代後期の集団関係を分析する鍵となります。
・地域への影響: 畿内を中心に発展した前方後円墳や埋葬施設(石室)の形式が、各地の豪族(地方豪族)に採用され、その地域の有力者が大和と結びつき、勢力を誇示するために競って造営しました。
・時代による変化: 5世紀には巨大古墳が畿内から各地に出現し、横穴式石室の採用や、家型石棺の導入(5世紀末)など、埋葬技術や副葬品も多様化発展しました。
代表的な古墳群: 百舌鳥古墳群(大阪)、古市古墳群(大阪)、奈良盆地の古墳群(箸墓古墳など)、飛鳥(明日香村)の古墳群などが挙げられます。
まとめ
畿内系古墳は、単に近畿地方の古墳というだけでなく、古墳時代における政治・文化の中心(畿内)が形成され、その影響力が全国に及んだ過程を示す考古学的な証拠であり、日本国家形成の初期段階を理解する上で不可欠な存在です。
AI による概要
「畿内系古墳」とは、古墳時代(3世紀後半〜7世紀)に、大和王権の本拠地である畿内(現在の奈良・大阪・京都など)で成立し、その後日本各地へ広まった形式の古墳を指します。
主な特徴と歴史的意義は以下の通りです。
1. 特徴的な墳形と構造
・前方後円墳: 畿内系古墳の最大の象徴です。円形の後円部と方形の前方部を繋げたこの形は、畿内を頂点とする政治序列を視覚化したものと考えられています。
・竪穴式石室: 遺体を納める構造として、初期から中期にかけて多く見られます。
・埴輪(はにわ)と副葬品: 筒形埴輪や形象埴輪、三角縁神獣鏡などの銅鏡、鉄製武器といった、王権から配布されたとされる品々が共通して出土します。
2. 政治的な意味
畿内から遠く離れた地域(関東や九州など)で畿内系古墳が見つかることは、その地の有力者が大和王権の支配体制(前方後円墳体制)に組み込まれていたことを証明する重要な指標となります。
3. 代表的な古墳群
・百舌鳥・古市古墳群(大阪府): 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)など、世界遺産にも登録されている巨大な畿内系古墳の代表格です。
・箸墓古墳(奈良県): 出現期(最古級)の畿内系前方後円墳として知られています。 |
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宮津市 在地系古墳
AI による概要
宮津市周辺の在地系古墳としては、日本海三大古墳の一つに数えられる大型前方後円墳(網野銚子山古墳など)が有名ですが、宮津市域内では大型古墳は少なく、主に周辺地域(京丹後市など)の勢力と関連しつつ、地域に根差した小規模な古墳が分布しているのが特徴です。
これらは「丹後王国」の有力豪族の在地性を示すものとされ、宮津市はかつて「丹後国」の中心地の一部として、「府中の古墳時代」 の文脈で研究されていますが、どちらかというと周辺の大規模古墳(京丹後市)が注目され、宮津市は関連地域として位置づけられます。
宮津市周辺の古墳の特徴
・大規模古墳の存在: 京丹後市には網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳といった日本海側を代表する巨大古墳があり、これらが「丹後王国」の強力な勢力を示唆しています。
・在地系古墳の解釈: これらの大規模古墳は、大和政権とは異なる、この地域独自の首長権力の存在を示しています。宮津市を含む丹後地域は、その中心的な地域の一つとして考えられます。
・宮津市域内の古墳: 宮津市は古代の「府中」にあたり、古墳時代には丹後国の一部として栄えましたが、
市域内では大規模な前方後円墳よりも、地域首長層が築いた規模の小さい古墳や、その影響を受けた古墳が多く分布していると考えられます。
「丹後王国論」と宮津市
・京丹後市の巨大古墳群から、大和政権とは異なる「丹後王国」と呼ばれる独自の勢力があったとする説(丹後王国論)が提唱されています。
・宮津市は、この丹後王国の勢力圏内に位置し、その政治・経済的中心地の一つであった「府中」として、古墳時代研究において重要な地域とされています。
まとめ
宮津市自体に巨大古墳は少ないものの、周辺の有力古墳(網野銚子山古墳など)と一体で「丹後王国」を形成していた地域固有の古墳群が存在します。これらは、大和とは異なる在地勢力の存在を示す「在地系古墳」として、丹後地域の歴史を解き明かす上で重要視されています。
AI による概要 宮津市には、畿内系(大和王権の影響が強い)と考えられる古墳が多い一方で、但馬地域との強い関係を示す在地色の強い古墳も確認されています。在地系の要素を持つ代表的な古墳には、法王寺古墳や、竹野川流域の大内北3号墳などがあります。
在地系古墳の特徴
・埋葬施設: 但馬地域で多く見られる石材を使用した石槨や石棺などの埋葬施設が見られます。
・副葬品: 弥生時代後期中葉の習俗を踏襲する副葬品配置が見られるなど、地域独自の要素が含まれています。
・丹後型埴輪: 網野銚子山古墳や蛭子山古墳など、丹後地方の有力首長の古墳(畿内系とされる)では、丹後地域独自の「丹後型埴輪」が使用されており、畿内の祭祀を継承しつつも在地色を打ち出していたことが分かります。 |
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丹後形埴輪
AI による概要
丹後形埴輪は、京都府丹後地方の古墳から出土する、頂部に丸い穴が開いた特徴的な円筒埴輪のことで、「丹後型円筒埴輪」とも呼ばれ、丹後地域がかつて一大勢力(丹後王国)であったことを示す重要な考古資料です。この埴輪は、船や筏で運ばれたと考えられ、特に網野銚子山古墳や神明山古墳など日本海側最大級の前方後円墳で見つかっています。
丹後形埴輪は、古墳時代前期末から中期初頭(4世紀後半〜5世紀初頭)にかけて、現在の京都府北部(丹後地方)の巨大古墳を中心に用いられた地域独特の円筒埴輪です。
主な特徴
形状: 上端部(頂部)が内側に湾曲してドーム状に盛り上がり、中央に直径10cm程度の丸い穴が開いています。
構造的背景: 畿内などの「朝顔形埴輪」から朝顔部分(広がる口縁部)を取り外したような器形をしています。
特徴と歴史的背景
・形状: 墳丘の斜面やテラスに並べられ、頭部がドーム状に盛り上がった円筒形が特徴です。
・出土場所: 京丹後市の網野銚子山古墳、神明山古墳など、日本海側最大級の古墳群から多く出土しています。
・製作と運搬: 埴輪は大陸からの渡来人や、日本海を通じて交易で運ばれたと考えられており、丹後地方の豪族が強大な力を持っていた証拠とされています。
・製作時期: 古墳時代中期(5世紀頃)に多く造られ、当時の生活や権力構造を伝えています。
代表的な出土例
・網野銚子山古墳: 丹後型円筒埴輪が並び、墳頂からは石製模造品(蓋・家形など)が出土。
・神明山古墳: 丹後型円筒埴輪のほか、舟と人物が描かれた形象埴輪(へら描画)も出土しており、古代丹後の文化を示す貴重な遺物です。
重要性
丹後形埴輪は、朝鮮半島や大陸との交流が盛んだった古墳時代、丹後地方が独自の文化と勢力を持っていたことを示す、地域を代表する遺物として重要視されています。展示は京丹後市内の「古代の里資料館」などで見ることができます。 |
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丹後王国の古墳とは
AI による概要
なぜ丹後半島には巨大古墳が多いのか?失われた古代「丹後王国」の ...
「丹後王国の古墳」とは、古墳時代に現在の京都府北部(京丹後市周辺)で栄えたとされる「丹後王国」に属する古墳群のことで、特に日本海側最大級の前方後円墳である網野銚子山古墳などが代表的です。これらの古墳は、大陸との交易で栄えた勢力の強大さを示し、丹後地方特有の「丹後型円筒埴輪」が特徴で、ヤマト王権とは異なる独自の文化を持っていた可能性を示唆しています。
丹後王国と古墳の特徴
・「丹後王国論」: 歴史学者の門脇禎二が提唱した説で、古墳時代に丹後地方にヤマト王権とは独立した勢力(丹後王国)があったとする考え方です。
・地域を代表する古墳:
・網野銚子山古墳: 日本海側最大の前方後円墳(全長201m)。海に面した砂丘上に築かれ、巨大な規模と三段築成、葺石、丹後型円筒埴輪が
特徴で、権力を誇示していました。
・日本海三大古墳: 網野銚子山古墳のほか、蛭子山1号墳、神明山古墳などが含まれます。
・丹後型円筒埴輪: 頂部が内湾し、中央に穴が開いた特徴的な埴輪で、約2,000本もの埴輪が並んでいたと推定されています。
・大陸との交易: 弥生時代後期から古墳時代前半にかけて、中国産のガラス製品など、大陸との交易品が出土しており、丹後王国が海洋交易で繁栄したことを物語っています。
・権力の象徴: 巨大な古墳の造営は、当時の丹後地方の有力者がヤマト王権と関係を持ちつつも、大陸との交易にも携わった強力なリーダーであったことを示しています。
AI による概要
「丹後王国の古墳」とは、かつて京都府北部(丹後半島周辺)に存在したとされる、ヤマト王権にも匹敵する独立した勢力「丹後王国」の繁栄を象徴する古墳群のことです。
特に4世紀から5世紀にかけて、日本海側最大級の巨大古墳がこの地域に集中して築かれました。
1. 「丹後王国」を象徴する日本海三大古墳
丹後半島には、日本海側で最大規模を誇る3つの巨大前方後円墳があり、これらは総称して日本海三大古墳と呼ばれています。
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| 名称 |
全長 |
特徴 |
| 網野銚子山古墳 |
約201m |
日本海側最大。4世紀後半の築造で、当時の王の権力を示す |
| 神明山古墳 |
約190m |
日本海側第2位の規模。4世紀末〜5世紀初頭に築かれた権力の象徴 |
| 蛭子山古墳 |
約145m |
4世紀頃の築造。1号墳からは花崗岩の石棺が発見されている |
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2. 特徴と背景
・高い独立性: 巨大な前方後円墳を築造する技術や規模から、当時のヤマト王権(近畿中央部)と並び立つほどの強い経済力・政治力を持った勢力が存在したと考えられています。
・海人族の活躍: 日本海を介した大陸や朝鮮半島との交易に従事した「海人族」の存在が、この地域の繁栄を支えていました。
※考察 日本海の海人族
瀬戸内海や九州と朝鮮半島を往来する海人族に付いては資料が多く、後には権力に歯向かうもの、通行税を取るものとして海賊と言われた。
だが、日本海を航行した海人族についての記述はあまり見ない。ていうか、知らない。
論文「古代の二つの海人勢力について」では、
一つは、安曇氏(海部氏や、その同族の尾張氏、和邇氏を含む)と呼ばれる勢力で、
二つは、紀氏(越智氏や平群氏も含む)と呼ばれる勢力だった。(※平群氏は最後に奈良に移住したのか)
と述べている。が半島と九州を掌握していた宗像氏が抜けているので、別の角度で加えるべきだろう。
この内、和邇氏は出雲、近江、などと関わるので、日本海航路を掌握していた一族である。
尾張氏は北陸で名前を聞いたことがあり、宮津湾から伊勢湾地方へやって来た一族ではないか。
安曇氏は氏族全体をさす大きな名前であり、最終的に信濃に入ったことは、随分以前の北部九州のページで記述しました。
海部氏は大分沿岸で聞いた名前です。(九州の地方豪族となったようです)
そうすると、和邇氏が初期ヤマト政権の半島航路をつかさどった一族と考えられ、そういえば、以前この地域を扱った時に巨大古墳築造や
王権への二人の娘の婚姻を記述しました。だが、王権との蜜月は長続きせず、それは、大王が替わると、係累も出身地も異なるため、
墓葬形式も変わる。例えば「割り竹形木棺」から「粘土槨」へなど。つまり、大王の代替わりは、別系統の王族となる。
従って、以前の王との婚姻も、王が変われば全く無視される。なので、宮津湾で巨大古墳を築いた一族(きっと和邇氏)も次の王では冷遇される。
後に、ヤマト王権を盤石にしようとする大王は、各地の国を小さく分けてその経済力や軍事力を小さくしてしまいました。
これによった但馬や丹波、丹後などに分国されて弱まった和邇氏は、さらに、ヤマト王権が瀬戸内海の海人族を完全掌握したため、
物流が瀬戸内海を航行するようになり、更に経済力を失った。この出来事はヤマト王権の早い時期に起こったと考えられる。
尾張氏などが日本海から東海地方に移住したのはこんな背景があったのではないか。そして、和邇氏は宮津から滋賀県地域に残ったのではないか。
さらに、継体大王を北陸から出した経済基盤は、この尾張氏などの力によるのではないか。これによって尾張氏は有利な政治的利益を受けた
のではないだろうか。
私の父の友人に和邇氏の末裔がおられました。今でもこの一族は続いている、天皇家並みの家系です。そういえば、眼鏡を作ったときに越智氏の
末裔の方と祖先談議で盛り上がりました。越智さんは祖先は海賊と思い込んでいましたが、その前は、神武東征で付き従った一族である
ことを教えてあげ、天皇家並みの血筋ですと伝えると大変喜んでいました。
で、これを読まれた方は、随分と馬鹿にされたと思います。
今までの、認知症で消えゆく知識を集めるとこんなことになりました。これは私の妄想でしょうか。
※古代の全ての豪族は、半島南岸の海賊漁師の出身であり、本来高貴な人々ではありませんでした。
このことが一番よくわかるのは、記紀などの作成の時に、それぞれの出自を表すように求められたとき、誰もかれもが大弱りし、
遂に竹内氏の末裔としたことに現われています。まさか、半島南部の海賊王の末裔!などと書けないですから。
でも、最初に竹内氏の末裔を思いついたのは誰でしょうね。 |
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1150長岡京の遺物
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鶏冠井遺跡の銅鐸鋳型
弥生時代前期末~中期始め 向日市鶏冠井町石橋出土 向日市指定文化財 向日市所蔵
向日市域東部に拡がる水田地帯のなかで、 現在の国道171号線近くを弥生時代 に流れていた川跡から、 前期末~中期初め (約2200年ほど前)
の土器とともに 出土した銅鐸を作る鋳型の上半部です。 青緑色砂岩製で、 内側に斜めの格子文が 刻まれ、 銅を流し込んだ時の変化か、 黒色に変色しています。
この鋳型で鋳造された銅鐸は見つかっていませんが、 高さ20数cmの小形の銅鐸になります。 鋳型として使った後、 砥石に転用され、 廃棄されています。
この鋳型による銅鐸の鋳造は、弥生時代前期にさかのぼることになり、 最古級 の銅鐸鋳型として注目されています。 |
鶏冠井遺跡の銅鐸鋳型  |
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銅鐸鋳型
(鶏冠井遺跡)
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銅鐸の復原
鋳型の復原 |
鶏冠井遺跡の銅鐸鋳型
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穂つみ具
(鶏冠井遺跡) |
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鶏冠井遺跡 銅鐸鋳型
・銅鐸鋳型」は、鶏冠井遺跡の川跡から出土した菱環鈕式銅鐸鋳型で、弥生時代前期末〜中期初頭の最古級のものです。
※菱環鈕式銅鐸とは
弥生時代中期に作られた日本最古段階の銅鐸です。吊り手(鈕)の断面が菱形をしており、表面に横帯文があるのが特徴です。
この型式は、音を鳴らす実用的な祭器から、後の大型化した「見る」銅鐸へと変遷する最初期の形態であり、兵庫県(淡路島)など近畿地方で
主に発見されています
・AI による概要 (6. 東奈良流水文銅鐸 | 和銅寛オフィシャルサイト)
鶏冠井遺跡は、日本最古の弥生時代前期末の石製銅鐸鋳型が出土したことで知られ、銅鐸鋳造技術の起源を示す重要な遺跡です。この石製鋳型は、大型化する銅鐸を石で鋳造していた時代の証拠であり、銅鐸の制作方法の変遷(石製から粘土製へ)を知る上で、兵庫県の名古山遺跡などとともに中心的な存在です。
鶏冠井遺跡の銅鐸鋳型について
・特徴: 日本で最初期に石製鋳型が使われた例として重要。
・年代: 弥生前期末ごろ(約2,200~2,000年前)。
・素材: 石製(破片が出土、外型のみ)。
・意義: 銅鐸が小型の鈴から祭器へと変化し、大型化していく過程で、石製鋳型が使われていたことを示す重要な遺物。
銅鐸鋳型の種類と変遷
・石製鋳型: 鶏冠井遺跡など、古い時期(弥生前期末〜中期)の銅鐸で使われ、大型化に伴い粘土製鋳型へ移行。
・粘土製鋳型: 弥生時代中期以降に主流となり、大型化に対応した。
鶏冠井遺跡の鋳型は、日本独自の青銅器である銅鐸の製造技術のルーツを解明する上で、非常に貴重な資料とされています。 |
布留式土器(鴨田遺跡)
高杯
子持勾玉(山開古填) |
布留式土器とは、
近畿地方の古墳時代前半期を代表する土器様式。
古墳時代前期に近畿地方(特に大和)で発達した。大和王権の拡大と共に全国に広まった土器様式。
庄内式と布留式の違い |
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1160長岡京の遺物
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| 1170
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1180年表
旧石器~縄文

旧石器
大枝遺跡
中海道,殿長,今里
森本,南山,下海印寺,硲
縄文
石田,鶏冠井,友岡,井ノ内 |
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弥生時代

雲宮,鶏冠井,森本,
中海道,鶏冠井,森本,
鴨田,神足,今里,
北山,谷山,, |
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弥生~古墳

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古墳時代~飛鳥
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飛鳥~奈良
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飛鳥~奈良
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奈良~長岡京時代~平安 |
平安時代 |
平安・鎌倉・室町 |
室町・安土桃山・江戸・明治 |
江戸~平成 |
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1200
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長岡京の井戸
長岡京で発見される井戸には曲物を用いるもの、 一木をくり抜いたもの、 「井」字形に木枠を組んで積み上げたもの、 四隅に柱をたててその間を板でとめたもの、 穴を掘っただけのもの等があります。
この井戸は兵士が駐屯した居住地内で 発見されたものです。 井戸の中には兵士の飯と酒とを請求する木簡が捨てられていました。 |
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曲物の井戸
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一木を刳り抜いた井戸
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井籠組井戸
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長岡京の井戸
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井戸端の様子
扇面画 |
柱や板で側面を押さえた井戸
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井戸の底には砂利が敷いてある
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長岡京遷都の理由
1210
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宮都と政治
781 (天応元)年、桓武天皇が即位しました。 中国の思想に強い影響を受けた桓武天皇は父光仁天皇以来、 皇統が天武系から天智系に代ったことを革命ととらえ、都を移すべきと考えました。
すでに平城京では皇位継承をめぐる激しい皇族の 対立があり、 京内の大寺院が厳然たる勢力を保持して、 道鏡のように皇位につこうとする者も出現しました。また、聖武天皇の造営した副都難波宮は財政上の障害にもなっていました。
784 (延暦3)年、旧来の豪族や寺院の勢力を排除 して崩れかけた律令体制の立て直しをはかるため、 長岡京への遷都が断行されました。 朝堂院を縮小し 儀式を簡素化して地方政治をひきしめ、
京内から寺院を排除するなどの政策が実行されました。 また、この時代、さかんに反乱をくり返す蝦夷を抑える必要があり、 東北遠征も行われました。 |
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内裏正殿復原模型
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桓武天皇像(延曆寺) |
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鴟尾 朝堂院南方の役所出土
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京都御所紫宸殿
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内裏正殿を出発する輿 |
内裏正殿を出発する輿
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1220 |
1221宮都の変遷
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1222宮都の変遷
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1223宮都の瓦
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藤原宮の軒瓦
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難波宮の軒瓦 |
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近江の軒瓦 |
長岡宮の軒瓦 |
平安宮の軒瓦 |
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1225藤原種継 (実在の人物)
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藤原 種継
年齢 736年(天平8) 生まれ。 48才。
出身地 京都市西京区大原野(山背国乙訓郡大原野郷)の母の里で育ったといわれる。
現住所 長岡京右京二条三坊 (現長岡京市第10小学校付近) の高台に新築した豪邸に住む。
家族 祖父は藤原宇合、 父は清成だが二人ともすでに亡くなった。
母は渡来系氏族の秦養源女。 妻の名は明らかでない。
子に仲成、 薬子の一男一女がいる。
職業 長岡京建設の最高責任者 (造長岡宮使) で、 中納言、 式部卿の要職を兼ねた。
給料 年収7000~8000万円(無税)。
エピソ 種継は政治家として、 指導者としてずばぬけた能力をもち、 桓武 天皇の信任をえて、 長岡京の造営を強力に推進した。 ード 785年(延暦
4) 工事現場を視察中、 島町 (今の島坂付近か) で造営反対派の賊 の矢に倒れた。
これが 「種継暗殺事件」 である。 桓武天皇は片腕 を取られた思いでさぞ嘆いたに違いない。 |
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1226
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長岡京の文書
長岡京の時代、 文字はまだ庶民に普及しておらず、文字の書き手は専ら貴族や役人など政治を動かす人々でした。
律令政府のすべての仕事は文書によって 行われ、 大は国家予算の算定、課税、都の造営事業、人事などから、小はこまごまとした未端事務に至る まで膨大な量の文書が使用されました。
長岡京の文書で今に伝わるものに、 土地売買書や 戸籍があります。 役所で日常の物品請求などには木簡が盛んに使われました。 また、 正式な歴史書として編纂された『続日本紀』 によると、 様々な命令文書が中央の省庁や地方の国々に下されていたことがわかります。 |
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「六条令解」 にみえる土地売買
788年 (延暦7) 長岡京右京六条三坊 (現長岡京市花山付近) の家地が売却された 際に、六条の坊令が担当官庁である右京職に申請した文書。 1戸主とは京内の宅地の面積単位で、 条坊の1町を32等分した区画。 売却された3戸主分の家地は図の部分に当ります。 |
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六条令解(大東急記念文庫藏)—複製
土地売買の証明書
六条令解 申売買家地立券文事
合家地处議十五,在三坊、長岡京
右、得左京六条一坊戸主從八位下石川朝臣今成戸口
正六位上石川朝臣吉備人解状、己家地以銭伍貫陸
佰文充価値、壳与右京四条三坊戸主御山造大成戸口
同姓少阿麻女已訖、望請、依式欲立券者、令依申状勘
覆知実、仍勒両人署名、以解、
売人兵部大丞正六位上石川朝臣「吉備人」
買人御山造少阿麻女
保証人
巡察弾正正六位下石川朝臣「弟勝」
隼人司佑正七位上石川朝臣「清嶋」
延曆七年十一月十四日
右京職判券弐通|通識達
|通給買人依本券行、
正六位上行少進勲十一等大伴宿祢「真直」
正六位上行少進勲十一等佐伯宿祢「瀧万呂」
正六位上行大属勲七等飯高宿祢「忍足」
正六位上行少属別臣「総万呂」 |
長岡京の文書 |
六条の令解 |
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※今いう“押し買い”でしょう。無理やり安く買って追い払う。
追い出された農民は行く当てがない。
すでに日本中当時の技術で開墾できるところは全て開墾済み。
浮浪者となるか、農奴となるか。 |
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売地券断片(東大寺蔵)―複製―
土地売買の証明書の下書き
謹解 申東大寺三綱務所□
(朱書) 「地一段卌一歩」
合家壱区長十五丈在板屋二間□□
広十丈 〔間カ〕
在長岡京六条三坊副職本券一枚
右件家屋等以銭拾弍貫文充□□□□於東大寺巳訖 |
売地券断片 |
売地券断片 |
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1230
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貴族のくらし
長岡京の時代、支配者である貴族のくらしは、中国や朝鮮の貴族の生活様式と似かよっていました。
整然と甍の並ぶ邸宅に住み、 華やかな衣装を身につけ、 鳥獣の肉を好んで食べていました。
長岡京の時代を通じて、 大規模な都づくりと蝦夷への出兵が国家の二大事業であったため、 貴族の気風にも粗々しさが残り、 屋外の活動的な行事が好まれました。
都の郊外の大原野や交野を馬で駆け巡る鷹狩のスポーツが最も愛好され、 猪隅院や馬埒殿などの宮殿で弓を射たり相撲を観る行事のほか、南院や嶋院の苑池に盃を浮かべて詩歌を詠む曲水宴も盛んに催されました。
重税や干ばつ、 都づくりの重労働に悩む庶民とは別世界のくらしぶりでした。 |
貴族のくらし |
貴族のくらし |
平城京で発掘された
園池
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魚形
四仙四獣鏡(複製)
青銅の鈴
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桧扇 |
丸鞆(複製)
跨裏金具 |
帯金具のいろいろ
銙帯(かたい)
丸鞆(まるとも)
巡方(じゅんぽう)
鉈尾(裏金具付き) |
金銅製鏁子
厨子などに取り付ける錠前の筒部 |
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金銅製鎌子(複製)毛彫で宝相華文を表わす |
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1240貴族の食事 |
1241
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貴族の食事
~諸国から集められた山海の珍味~
これが貴族の食事です。とは言っても、これは宴会の席に出された食事ですから、貴族達が毎日このような食事をしていたわけではありません。
鯛はマダイ、鮑のうにあえとは生鮑をうにと合わせたものです。 麦縄とはうどんの ようなもので、 米粉と小麦粉を合わせ塩水で練りのばしたものです。 蘇は古代のチーズです。 心太とは寒天のことです。
このような食料の素材は税として諸国から集められたものです。 こうした食事は、公の宴会では、 宮内省の大膳職や大炊寮、天皇の食事は内膳司が、 酒は、 造酒司が調理醸造していました。
食器は土師器、 須恵器が中心で下級役人達ともさほど変りはありませんが、 使用する数や種類は大変多かったようです。 食事には箸やスプーンが使われました。
栄養価満点! 小肥りの貴族が多いのもうなづけます。 |
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栄養診断
これは宴会の席に出 る膳。 山海の珍味だ が栄養の過剰摂取に 問題がある。
1回の食事量が多い(どか食いする)と、 同じ量を2回、3回 に分けて食べるより皮下脂肪がつきやす いといわれる。
長岡京の時代、 1日2食が基本だとする と、貴族には相撲取りのような肥満体が何人もいたのでは…。 |
貴族の食事 |
一の善
鯛,酢,茗荷,人参,麦縄
清酒,醤
白米,鮑のウニあえ,里芋
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二の膳
蘇,清酒,果物
心太,唐菓子,鴨肉のなます
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栄養診断 |
貴族の宴会
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陶枕,薬壷,唾壷 |
火舎,羽釜 |
高杯 |
火舎,羽釜(緑釉陶器) |
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1243貴族の食膳
貴族の食膳
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鯛,酢,茗荷,人参,麦縄
清酒,醤
白米,鮑のウニあえ,里芋
一の善
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蘇,清酒,果物
心太,唐菓子,鴨肉のなます
二の膳
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果物(水菓子) |
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| 1250 |
1251百済王明信 (実在の人物)
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百済王 明信
年齢 739年(天平11) 生まれ。 45才。
出身地 660 年日本に亡命した百済王の一族で、 本拠地を大阪府枚方市(河内国交野郡) におく大富豪である。
現住所 長岡京南郊の山崎津に近い邸宅に夫と住む。 右京、 交野、葛野等に広大な別邸を数多くもつ。
家族 夫は藤原氏の長老でのち右大臣(現在の総理大臣)となる藤原継縄 59才。 一人息子の乙叡24才がいる。
職業 古代のキャリア・ウーマンで後宮の一切をとりしきる女官長(尚侍)。 男性の高級官僚と同じ 7000~8000万円(無税)。
エピソ 若き日の桓武天皇の初恋の女性。 天皇は同じ渡来系の出身者であ る明信に生涯深い親愛の情をよせていた。
ード 時は流れ 都が平安京へ移った初めての春、 めでたい宮中の宴で59才の天皇は56才の明信に歌を詠んだ。
“いにしへの 野なか古路 あらためば
あらたまらむや 野なか古路„
(私が願ったら、 また昔のようになってくれますか)
さすがの才媛も返歌ができないでいると、 興に乗った天皇はまた代りに詠んだ。
“君こそは忘れたるらめ にぎ玉の
たわやめわれはつねの白玉„
(あなたの方こそお忘れでしょう。 か弱い女の私はいつもあなたをお慕いしています)と。
※桓武天皇が自分で問いかけて、相手(百済王明信)の代わりに桓武天皇が答えるという、自問自答、自画自賛の歌のようです。 |
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1253庶民の暮らし 遊び
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首引きの遊び
※むち打ち症になる |
毬杖遊び
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ポロ・ホッケー
遊び |
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投壷 |
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壷に矢を投げ入れる遊び |
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独楽 |
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はたきで紡錘形の木片を回す |
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囲碁をする人々 |

この囲碁盤はあまりにも上等です。 |
囲碁盤と碁石
貴族など上流階級の持ち物でしょう。 |
双六盤 |
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1270庶民の暮らしと 市 |
1271
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庶民のくらしと市
ごく少数の貴族を除くと、 長岡京に住む人々の大半は下級役人や地方から労役にかり出された農民などの庶民でした。
その住居はさまざまで、たとえば長岡京左京三条二坊十一町に住む下級役人の一家は、一町の約1/8 (約 2,200m2、670坪) の土地を与えられて掘立柱の建物を3棟、井戸を1つもっていました。
京内に住む庶民の生活はけっして豊かなものではありませんが、日常に必要なものは六条の左京と右京にある、「東市」と「西市」へ買いに行くことができました。
市は「市司」 という役所が商品の価格や品質を管理しており、安心して買い物ができ、 食料品、衣料品、日用品、 装身具、武具、 牛、 馬が売買されていました。
また、見せしめのため、 罪人の処刑場としても使われていました。 |
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庶民の暮らしと市 |
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東西市 |
市のにぎわい |
皇朝十二銭 |
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1273商品
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錦の店

絹織物 |
絁の店
絹織物 |
麻の店
糸の店
糸巻具 |
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土器の店
五文銭 |
木器の店
木皿
金物の店
釘,刀子,飾金具  |
矢の店
鋏子,鉄鏃
綿の店
絹の繭玉
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野菜の店
魚の店
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お菓子の店
塩の店
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靴の店
木沓
藁靴の店
わらじ
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1280
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おそれといのり
古代の人々は病、 自然災害、 祟に対して強い不安 を抱き、 これを除こうとさまざまな儀式を行い、祈りました。
板を人の形に削った人形は、 身体の病や罪、 けがれ をこれに託して流そうとするもので、時には人を呪う ためにも使われました。 馬の形に粘土で作った土馬は、 生き馬の代りに水神にささげられたものです。 人の顔を描いた壺は、 息を吹きこんでけがれを封じようとするものです。
カマドのミニチュアも祈りに使われました。
桓武天皇にとって最大の不安は、 早良親王の祟り でした。 母、 皇后、 夫人が次々と死に、 皇太子が長く病気にかかると、
おそれは増すばかりで、 寺院では読経や祓の儀式が行われました。
一方農民たちの不安が、干ばつと桂川の洪水として現実のものになった時にも、 祈るよりほかに術はありませんでした。
京のはずれを流れる川辺で見つかった何百個もの土馬やミニチュアカマドは、こうした都の住人たちの(祟り封じの)祈りの跡です。 |
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1290
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平安京への道
都づくりと東北の支配、2つの重要な課題を抱えたまま794(延暦13)年、 都は再び移されることになります。(長岡京遷都784→794人民平安京10年)
内裏も新しく造り替え、 長岡京のあちこちで役所の増改築が行われ、 東北へも再び兵が派遣されたばかりの時でした。
※実際にはもう一つ、早良親王の怨念。これから逃れるためでした。自分がハメて殺した弟への自責の念は、恐怖となり深刻な悩みとなっていた。
謎に包まれた長岡京の廃止理由は、 桓武天皇を悩ませた弟早良親王の祟りと考えられています。
宮廷の内外で連日催される宴や鷹狩の陰で、 天皇を襲った大きな不安が、 再遷都という矛盾の政策となって実現されたのです。
再び莫大な国費を費し、人々の生活を圧迫する都づくりが、 山背国葛野郡宇太村の地で始まります。
平安を願って付けられた名前とは裏腹に、 新京への道は多難で険しい道でした。 |
平安京への道
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はさみ (鉸子)
~どうしたら切れるかな?~ (推定太政官厨家出土)
はさみには、 世界中どこにでもにぎりばさみのタイプ と洋ばさみのタイプの二種類があります。 にぎりばさみ の方が古く、続いて洋ばさみが生まれましたが、
日本を 除く諸国では、 早くに洋ばさみのタイプに移りました。
日本で最も古いはさみは、 奈良県の珠城山古墳から発 見されたもので、 にぎりばさみのタイプです。 正倉院には洋ばさみのタイプが伝わっており、遅くとも奈良時代に日本人は2つのタイプのはさみを知っていたようです。
長岡京で発見されたものは、 珠城山古墳のはさみと構造が同じで、 都の役人が使っていたものです。 今日の にぎりばさみと少し違うのは、 先端部をつまんで切ることです。
「こんなもので切れるはずがない!!」 なんて思っていらっしゃる方、試しに切ってみて下さい。 |
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| 常設展はここで終了 |
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スロープの写真
2000向日市の古墳
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2010
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国宝 菩薩半跏像 (伝如意輪観音)
もと向日市寺戸町西野にあった天台宗寺院、 宝菩提院の本尊。 彩色をしない榧の一木造りで、平安時代初期の作。
彫刻の技法は緻密で洗練され、衣のひだは自由奔放に流れ、 背面まで写実的に表現されている。 国宝のなかでも、ことに美しい仏像として名高い。
1962(昭和37)年に寺戸の地から西山の勝持寺(花の寺) に移され、現在は勝持寺の隣に再興された宝菩提院願徳寺に帰座されている。 |
むこうしの古墳
向日丘陵の前期古墳 (写真パネル)
元稲荷古墳
妙見山古墳
寺戶大塚古墳
五塚原古墳
物集女車塚古墳 (模型と断面土層標本)
向日市の古墳 |
元稲荷古墳西側くびれ部
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元稲荷古墳石室
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元稲荷古墳石室
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元稲荷古墳出土
特殊器台形・壷形埴輪 |
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妙見山古墳後円部石室
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寺戸大塚古墳
後円部墳丘の葺石
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寺戸大塚古墳前方部竪穴式石室
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寺戸大塚古墳石室
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五塚原古墳
くびれ部の葺石 |
五塚原古墳 東くびれ部の葺石
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五塚原古墳 隆起斜道(写真右側) |
西側からみた五塚原・鎮守の森 |
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中二階-ラウンジ-
常設展の一部 (最新発掘情報)
2100物集車塚古墳
6世紀中葉 古墳時代後期
向日市物集町南条
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2110墳丘部 土層剥ぎ取り標本
横穴式石室の側面や上面を覆う土が、薄い層状に突き固められながら築かれている様子が観察できます。
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墳丘封土・中部層
天井石 |
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横穴式石室の側面や宇上面を覆う土が、薄い層状に突き固められながら
築かれて入る様子が観察できます。
※墳丘断面は、下の模型に表現している。 |
物集車塚古墳
墳丘土層の剥ぎ取り標本
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| 2120ジオラマと土層剥ぎ取り位置
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2130
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石室掘り方埋土
墳丘封土,下部層相当層
旧地表土
(弥生後期遺物包含層) |

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墳丘封土,上層部
羨道部側壁 |
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特別展「古代のくらし」
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2140縄文~古墳時代の土器・土製品 |
2150古墳時代…「古代のくらし」➀住む
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2160古墳時代…住む |
| 2161家形埴輪
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| 2162
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| 2163
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2170縄文時代…「古代のくらし」②食べる
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| 2171様々な形の深鉢
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2180弥生時代…食べる
弥生土器
壺,甕,鉢,高杯などから構成される土器
亀岡市時塚遺跡
(弥生時代中期)
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| 2181
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2190積層立体地図
向日市域と周辺の立体模型
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乙訓郡全域立体模型
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向日市全域航空写真
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3000特別展 「古代のくらし」
本展ポスター
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道具
芦原遺跡(京丹後市)
石斧 芦原区蔵
装う
波路古墳(宮津市)
ヒスイ勾玉 宮津市蔵
運ぶ
左坂墳墓群(京丹後市)
ガラス小玉 |
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古代の暮らしがテーマでわかる!
展覧会
古代のくらし
旧石器から古墳まで
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展覧会
古代のくらし
―旧石器時代から古墳時代―
この展覧会は、 発掘調査による出土品を通じて、 考古学や埋蔵文化財への興味や関心を 深めていただき、遺跡や遺物に親しんでいただくことを目的に開催します。
例年発掘調査の最新状況をお伝えする展示会を実施していますが、 今年度は、これまでの府内の発掘調査成果をもとに旧石器時代から古墳時代までのくらしを衣食住などのテーマごとに展示し、
お伝えしようとするものです。 少しでも府民のみなさまに古代のくらしがどのようなもの であったか、理解を深めていく機会にしていただければ幸いです。 |
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3001
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展覧会の開催にあたって
本展覧会は、発掘調査で出土した遺構や遺物を通じて埋蔵文化財への興味や関心を府民のみなさまにもっていただくことを目的京都府教育委員会と公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究
センターが共催で開催しています。
例年は、直近の府内の発掘調査成果をとりあげた速報展を実施していますが、5年に一度は、府内の発掘調査資料をもとにテーマ展示を行っています。 今回は、旧石器時代から古墳時代を対象に、「古代のくらし」を紹介する展示を企画しました。古墳時代までの人々のくらしが変化する様子を
10のテーマで紹介しています。
展示にあたっては、より分かりやすく、親しみやすくなるように心がけました。 いにしえの世界をお楽しみください。
結びにあたり、 今回の展覧会を協賛いただいた向日市教育委員 会をはじめ、さまざまなご協力を賜った関係機関に対し、深く感 謝いたします。
令和7年10月
京都府教育委員会
公益財団法人
京都府埋蔵文化財調査研究センター |
古代のくらし |
古代のくらしポスター |
展覧会開催にあたって |
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3010 1住む
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住む
人々の住まい
人々はどのような住居に暮らしていたのでしょう か。
旧石器時代の人びとは移動を繰り返したようで、住まいをつくった形跡がうかがえません。 府内最古の遺跡である福知山市稚児野遺跡では石器が集中して出土する地点が環状に分布しており、 石器の集中部には簡易なテントのような施設があったと想定できます。
縄文時代では舞鶴市志高遺跡や木津川市例幣遺跡の竪穴住居から多数の石鏃と剥片が出土しており、石器作りも住居の中で行われたようです。 住居の床には炉が営まれますが、 長岡京市伊賀寺遺跡では東日本の影響を受けた石囲い炉が見つかっています。
弥生時代になると、 環濠で囲まれたムラの中には、竪穴住居に加えて平地式建物や高床倉庫が営まれました。
円形の竪穴住居が営まれることが多く、 住居の真ん中に炉が造られました。
古墳時代になると、 方形の竪穴住居に居住するようになり、5世紀になると中央の炉に代わって壁際にかまどが造られるようになります。
古墳の上に設置された家形埴輪は、 豪族の屋敷を写したものと思われます。 |
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3011
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住まいの内側と外側
住まいの中には、木でできた道具 (木器・木 製品)をはじめ、石でできた道具 (石器・石製品)、 土でできた道具 (土器など) が備えられていたはずですが、
木器・木製品は、腐ったり燃えたりして残っていません。 ここでは、調査で多数出土する日常使われた土器などを紹介します。 なお、 土器はくらしの変化とともに形を変えるので年代のものさしにもなっています。
住まいの外側には、 食料を蓄えたりする貯蔵 穴や倉庫があり、 住空間を区切る (ムラを囲う) 溝などが設けられました。 その外側には、 耕作地のほか、
水汲み場やクルミやクリ、 トチなどのあく抜き施設、 狩りや食料を採取する森が広がり、魚をとる川や海が広がっていました。 |
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住まいの内側と外側 |
かまどをもつ方形竪穴住居がならぶ集落跡
亀岡市池尻遺跡 (古墳時代後期)
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3113石囲い炉
石囲い炉を持つ
方形竪穴住居 |
復元された屋根に土をかぶせた
竪穴住居
岩手県御所野遺跡 (縄文時代中期)
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石囲い炉をもつ方形竪穴住居
長岡京市伊賀寺遺跡
(縄文時代中期)
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伊賀寺遺跡の 石囲い炉
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伊賀寺遺跡で見つかった石囲炉は、砂岩やチャートで作られた一辺約1mの四角い炉で、内側が赤熱し底に焼けた土が堆積しており、煮炊きや暖房に使われたと考えられ、当時の生活を伝える重要な遺物です。 |
京都府長岡京市
伊賀寺遺跡出土
石囲い炉遺構
石囲い炉をもつ方形竪穴住居 (複製)
縄文時代中期)
公益財団法人京都府埋文
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京都府長岡京市
伊賀寺遺跡出土
石囲い炉遺構
(竪穴式住居跡 SX-08 縄文時代中期)
複製
(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター
2008年
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| 3016 |
| 3017家形埴輪
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| 3018家形埴輪
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3020 2食べる
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3021
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2 食べる
食べる
食べることは、 命を維持するだけでなく、空腹を満たす喜びや家族や集団の絆を深める行為です。 縄文人は、ドングリやトチの実のアクを抜き、 でんぷん質をとりました。
一方、 稲作が大陸から北部九州に伝わった弥生時代は、米を食べる機会が増えましたが稗や粟も食べていたことが知られています。
縄文時代前期の京丹後市松ヶ崎遺跡では、鹿やタヌキの骨、 オニグルミやトチノミ、 イモ類などの種子とともに、ヒラメやタイ、フグ、クエなどの魚骨が出土しています。
弥生時代前期の壺の底には、しばしば稲もみの圧痕が残されており、米を食べていたことがわかります。 後期になると焼失住居から複数の同じ大きさの 小さな鉢がでることがあり、 個人用の土器が出現したようです。
古墳時代になると古墳の上では、食物形土製品を使った祭祀が行われることもありました。 ごく稀な例になりますが、 副葬された土器の中に死者に捧げた食物が残されていることがあります。
古墳時代後半期の移動式のかまど (韓竈) では、甕とともに甑が用いられており、蒸す調理方法もあったようです。 |
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3022かまど
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3023
住居跡から出土した甕と大きさのそろう鉢
木津川市上人ヶ平遺跡(弥生時代後期) |
海魚残渣 |
いさき
すずき
かわはぎ
くろだい
まだい
さめ類
はた
こぶだい
ひらめ
はた
はも
ふぐ |
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3024
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3027水さらし場
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3029二階展示室内全景
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30303狩る
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3032
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3 狩る
狩りをする
旧石器時代や縄文時代は狩りのイメージが強くあると思いますが、 槍先はとても小さく大形の動物をしとめるのは困難だったようで、陥し穴などへの追い込み猟の役割が大きかったようです。
縄文時代から使われる弓は、 猟の効果が大きかったようで、 前期の遺跡からはとても多くの石鏃が出土しています。
米作りが伝わった弥生時代にも猟は盛んだったようで、石鏃が多数使われ、 シカやイノシシの骨が見つかっています。
弥生時代の終わり頃から、石鏃に代わって銅鏃や鉄鏃が使われるようになりました。
大きな古墳からは多数の鉄鏃が出土しますが、武力を示すだけでなく、シカ猟などにも使われたことが想像されます。
海岸部や川沿いの集落跡からは、 漁撈の網につけた石の錘が出土しています。 府内では骨で作った釣り針は出土してませんが、 浮きに使ったと思われる軽石が出土することから釣りもしていたのかもしれません。 |
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杭が底に立てられた複数の陥し穴
(杭は復元)
南丹市天若遺跡 (縄文時代)
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日吉ダムで沈んだ縄文時代から続く
山深い集落遺跡
南丹市天若遺跡
(縄文時代前期~古墳時代)
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3033狩猟具
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3035
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3037
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上下を打ち欠いた
礫石錘
舞鶴市志高遺跡
(縄文時代前期)
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舟を漕ぐ櫂
城陽市下水主遺跡
(古墳時代前期)
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川や湖沼で使われたタモ網の枠
城陽市下水主遺跡
(古墳時代前期)
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網掛け部分を削り込んだ石錘
京丹後市上野遺跡 (弥生時代後期~古墳時代) |
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30404栽培
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3041
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植物を栽培する
作物の栽培はいつから始まったのでしょうか。 縄 文時代の人びとにとって、 森のドングリやトチの実は大切な食糧源でした。
石皿と磨石で粉にして、あくを抜き、丸めて焼いていました。
由良川下流の自然堤防上に位置する桑飼下遺跡(後期) から出土した クルミは、 前期の遺跡から出土するクルミに較べて大きく、栽培していたと思われます。さらに桑飼下遺跡では、 先端が磨滅した土掘り具(石鍬) と考えられる打製石斧が 1,000点ほど出土しており、 根菜類などの畑作が想定されています。
弥生時代の水田遺構は、 府内では京都大学構内遺跡と内里八丁遺跡でみつかっており、 小区画の水田が営まれたことがわかります。 丹後地域では、石製穂摘み具 (石包丁) がほとんど出土しませんが、 土器底部のもみ圧痕などから府内全域で水稲耕作が始まったことがわかります。
石包丁が出土しない地域は全国的に見られ、石包丁に代わる収穫具があったと考えられます。
穂摘み具のほか農具として、鎌、 鍬、 鋤などが出土しています。 土木技術の発展に伴い、 古墳時代には大規模な水利施設が築かれました。 |
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3043
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3045鉄製品
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砂鉄を原料に精錬を行った製鉄炉の下部
京丹後市遠所遺跡 (古墳時代後期)
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鉄素材として朝鮮半島からもたらされた鉄
亀岡市余部遺跡
(古墳時代中期)  |
製鉄炉からあふれた不純物を含んだ鉄滓
京丹後市遠所遺跡
(古墳時代後期) |
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3047暮らしの道具
野道具
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石鍬(土掘り具) の装着想定図 桑飼下遺跡報告書 1975 から |
自然堤防上で用いられた縄文時代の土掘り具
舞鶴市桑飼下遺跡
(縄文時代後期)
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自然堤防上で用いられた弥生時代の土掘り具
舞鶴市志高遺跡
(弥生時代中期)
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3049穂摘み具
水利施設
井堰と堤を伴う大規模な水利施設
亀岡市金生寺遺跡
(古墳時代前期) |
水利施設SW41全景 亀岡市金生寺遺跡
(古墳時代前期)
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3050 5つくる
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3051
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モノをつくる
人びとは生活に必要な土器や石器、 木器などの 多くを、自らの手で製作していました。
弥生時代中期になると拠点集落と呼ばれる大きな集落では、玉作りが行われていました。 この頃には高度な技術を持つ専業集団が誕生していたようです。
久御町市田斉当坊遺跡では、碧玉を素材に管玉の生産をしています。 京丹後市奈具岡遺跡では、 緑色凝灰岩を素材に管玉をつくる集団と石英 (水晶)を素材に水晶の勾玉や小玉をつくる集団があり、後者は鉄素材の加工も行っていたようです。
弥生時代中期の丹後地域では、 半島や大陸からもたらされた刀子や鉄鏃などを鉄素材として再加工する小鍛冶が行われていました。
古墳時代には鉄素材として鉄鋌と呼ばれる延べ板が輸入され、小鍛冶が盛んになったようです。 ようやく、
古墳時代後期になって、国内で産出する鉄鉱石や砂鉄を原料にした製鉄 (大鍛冶) が行われるようになります。 |
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3053
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3060 6道具
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3061
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木を切り加工する
人びとは、 土地を開くために木を切り倒し、倒した木を加工するために固く丈夫な石の道具を使いました。
弥生時代になるとより鋭利で使いやすい鉄の道具が輸入されます。 砥石は刃先を鋭利に保つための必需品でした。
弥生時代になると伐採用の太型蛤刃石斧、 加工用の柱状片刃石斧、 扁平片刃石斧、 小形石斧などに機能分化しました。
砥石も用途別のものが存在しました。 鉄がもたらされるとやりがんなや刀子などで、精巧な加工ができるようになりました。
石錐は、 毛皮に穴をあける以外に木に穴をあけるドリルとして使われました。
出土事例は少ないですが、 弥生時代、 古墳時代の精巧な木工品も出土しています。 |
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3063玉造り
水晶による玉造
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水晶による玉造り
原石,粗割
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研磨各段階
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水晶による玉造り完成 |
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碧玉による玉造り
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3065石斧
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擦り溝のある砥石、
ない砥石
舞鶴市志高遺跡
(縄文時代前期)
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大小ある縄文時代の
石斧
舞鶴市志高遺跡
(縄文時代前期)
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大木を切るには小ぶりな縄文時代の石斧
京丹後市平遺跡
斧の柄
京丹後市松ヶ崎遺跡 (縄文時代前期)
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さまざまな用途の石斧
舞鶴市志高遺跡
(弥生時代中期)
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さまざまな用途の石斧
舞鶴市志高遺跡
(弥生時代中期) |
さまざまな用途の石斧
久御山町市田斉当坊遺跡 (弥生時代中期)
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用途別の砥石
舞鶴市志高遺跡
(弥生時代中期)
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縄文時代のドリル
(石錐)
舞鶴市志高遺跡
(縄文時代前期)
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弥生時代のドリル
(石錐)
舞鶴市志高遺跡
(弥生時代中期) |
朝鮮半島からもたらされた鋳造鉄斧
京丹後市扇谷遺跡
(弥生時代前期~中期 |
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3070 7運ぶ
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3071
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運び、 交流する
出土品の中には、 京都府内では産出しないものがしばしばみられます。 これらは古代の人びとが他地域 に求めたものや、 よその地域の人びとが道具をもって移動してきたことによるものです。
旧石器時代の石器の材料となった結晶質安山岩 は、その多くが奈良県と大阪府の境にある二上山か ら産出したものです。
縄文時代にも使われた黒曜石は、遠く隠岐島から運ばれたものです。 美しい翡翠 は、新潟県からもたらされています。
舞鶴市浦入遺跡でみつかった縄文時代前期の丸木舟は当時としてはとても大きなもので物資を求めて外洋に漕ぎ出していたことを教えてくれます。
弥生時代になると、倭人が中国に朝貢していたことが中国の歴史書に記されており、中国で作られた鉄刀や海外で製作されたガラスの装身具が主に京都北部の墳墓から出土しています。
特に生産地がインドやベトナムに求められるガラスは北部九州に次ぐ輸入量で、どのように運ばれてきたか不明です。
古墳時代になると土器生産、 機織り、 金属工芸、 土木・建築などの諸技術が朝鮮半島からもたらされ ますが、 その担い手となった渡来人はふるさとの土器を持ち込んでいたようです。 |
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3072旧石器以降の交易
朝貢の返礼?素環頭鉄刀
京丹後市左坂墳墓群
(弥生時代後期)
2~3世紀
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3075半島由来
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3080 8装う
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3081
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装いにこめられた願い
縄文時代の人びとは、 美しい装身具には、病気や怪我などの禍を避ける呪術的効果があると信じていたようです。
玦状耳飾りなどのように耳飾りとしたもののほか、翡翠大珠をはじめとしたさまざまな垂れ飾りがみられます。 中には補修のあとがたくさん見られるものもあり、 とても大事にされてがわかります。
勾玉は動物の牙に似せて強い力や繁殖力を願ったという説が有力です。
弥生時代になると翡翠の勾玉、 碧玉・緑色凝灰岩の勾玉・管玉、 水晶玉に加えて大陸からもたらされ たガラス玉が出現します。
この頃には呪術的要素よりも身分の高さや権力をあらわす面が強くなります。
丹後地域で多数出土するガラス小玉はインド洋 やベトナム周辺などから運ばれてきたようです。
古墳時代になると、 大きな古墳ほど立派な装身具が出土する傾向が強くなります。
翡翠、碧玉、水晶に加えて、瑪瑙、琥珀などでも作られるようになります。 緑色凝灰岩などで大形の腕輪も作られました。
また、金や銀などをもちいた耳環や指輪も出現し、装身具の種類はさらに増えました。
1階の常設展示室にも展示があります |
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3082
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3083耳飾・垂飾
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3085勾玉・管玉
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3090 9音楽
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3091
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音楽は神聖なもの
古代では音楽は 「祈り」 や 「まつり」 など神聖な場で奏でられたと考えられています。
音楽を奏でることで司祭者は聴衆の心を魅惑したのでしょうか。
弥生時代に青銅で作られた銅鐸は、内側に舌を吊るして鳴らし、 豊作を祈ったものと考えられています。
次第に大型化し実用的な鐘としての役割が失われたようです。銅鐸を模した銅鐸形土製品にも舌があり、音を奏でたのでしょうか。
陶塤は北部九州 から丹後半島にかけての日本海側に大陸から伝来した土笛です。
古墳時代になると新しい技術と共に伝わった楽器に、三環鈴と鉄鐸などがあります。
鉄鐸は、 鍛冶道具と一緒に出土することがあり、 製鉄にかかわる楽器という意見があります。
琴は弥生時代に出現します。古墳時代の埴輪には、男性が盛装して弾く姿が表現されており、古事記や日本書紀では神事に使われたとされています。 実際に古墳時代の琴形木製品は導水施設周辺から出土することがあり、水のマツリでも使われていたようです。
刻み目が彫られた鹿角製品は、 形代などの祭祀遺物と一緒に出土しました。 棒ささらやギロと同じく棒などでこすって音を出したと考えられています。 |
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| 3093鉄鐸・陶塤
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3095琴
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琴形木製品
京都市岡崎遺跡
古墳時代前期
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京都市東土川遺跡
弥生中-後期
京丹後市正垣遺跡
弥生後期
城陽市下水主遺跡
古墳前期
城陽市小樋尻遺跡
古墳前期
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神社の裏山から見つかった流水文銅鐸
与謝野町須代遺跡
(弥生時代中期)複製 |
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3100 10祈る
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3101
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祈りを捧げる
古代の人々はどのような場面でどのような祈りを 捧げていたのでしょうか。ここでは、出土した遺物の中で、日常生活に関係のない不思議なものを 「祈り」という視点から紹介します。
縄文時代の石棒や石冠は、 その形などから子孫の繁栄を願ったものと考えられています。 また、土偶 は女性を表現したものが多く、 安産を祈ったものといわれています。
古墳時代の子持ち勾玉は、子だくさんを祈ったかのように多数の小形勾玉がついています。
縄文時代と弥生時代には、石刀や石剣など武器の形をした石製品があります。
弥生土器に描かれた絵に、武器をもって舞う人を表したものがあり、邪や病魔を祓う儀式に使われたのかもしれません。
弥生時代には虫や動物を模った土製品がみられます。 セミを模した土製品はセミの羽化する姿に再生を願ったのでしょうか。 また、縄文時代には多産で知られるイノシシの土製品がありますが、
弥生時代にもその風習が伝えられたようです。
人の顔を表現した土器には、 盛装の人物を表現したものと壺の体部に顔を表現した仮面のようなものがあります。
1階の常設展示室にも展示があります |
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3103祈りの道具
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| 3106
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