[戻る][TOP]

  
 2025.11.14-2

 京都府長岡京市埋蔵文化財センター 京都府長岡京市奥海印寺東条10-1
     ☎075-955-3622
     開館日【月~金: 8:30~17:00】
     開館日【第2,第4日曜日:10:00~16:00】
 
交通 JR京都線長岡京駅から2.5km33分 阪急京都線長岡天神駅から1.5km21分
バスあり。両駅から、阪急バス(美竹台住宅前、奥海印寺循環)で「明神前」下車、徒歩2分
※私は駅から歩きましたがバス時刻がうまくいけば乗った方がベストでした。

近隣観光地 嵐山はすぐ北に位置する。
近隣博物館 向日市文化資料館(京都府埋蔵文化財センター)
 
 目次


10外観走田古墳群出土石棺

100特別展「縄文時代のムラ」
101はじめに
 縄文の文化・できごと

110旧石器時代
1000縄文時代
1020乙訓の遺跡
1030早・前期の土器
1040中・後期の土器
1050後・晩期の土器
1060埋葬・土器棺・火葬墓
1063土器棺
1070祭祀・配石・集石遺構
1073石棒

1100縄文の暮らし
1101ムラをつくる
1111サヌカイト集石遺構
 石核,剥片,石錐
1113モノづくり
1115玉の未成品・原石
1119土偶
1123縄文人の住まい
1125伊賀寺遺跡
1137出土したドングリ
1210縄文時代の食べ物
1220石囲い炉,竪穴建物
1230各種石器類
1235狩猟
1239漁労

1250おわりに

2000常設展
2001はじめに
 長岡京市の歴史を訪ねる
2010旧石器・縄文時代
2011石の文化・土器の出現
2013旧石器時代
2020縄文時代
2021他地域との交流
2022縄文アクセ

2023旧石器時代
2025縄文土器の文様

2100弥生時代
2101稲作と金属器
2111石包丁
※考察 石包丁の形
2113石器製作過程
2115武器形祭器
2117金属器
2121石器
2125弥生土器
2130弥生土器群
※調査
2141管玉の製作
2143分銅形土製品
2144銅鐸形土製品
2145弥生土器
2151祭祀用土製品
2161威儀具
2163農具
2170須恵器大甕

2200古墳時代
2201地域首長の時代
2210古墳時代の土器と埴輪

2300律令国家の成立
2301飛鳥・奈良時代
2305乙訓の宮
2307土製品

2400桓武天皇の都
2403四仙騎獣八稜鏡
2600長岡京
2610長岡京に住まう
2620水場
2630井戸
2640文化
2641都の造営と瓦の移動
2642衣服・装束
2644長岡京の器
2650運ばれた瓦
2660陶磁器
2665カマド
2670食器
2676煮炊きの用具
2677貯蔵の容器
2690大甕醸造所跡

2700役人の生活
2703文字資料
2720祭祀
2730いろいろな祭祀具
※緡銭と祭祀
2733呪符木簡の出土
2735墨書人面土器
2790廃都
※長岡京廃都の理由

2800戦国時代
2810勝龍寺城と城館
2820瓦
2824陶磁器
2825火縄銃
2833須恵器・瓦

2840中世
2841中近世の日常と非日常
2844中世の遺物
2851生活食器
2852食器
2860山城の生活食器

3000はにわ展示室
3001入口外観
3110恵解山古墳石室内部
3113長岡京市遺跡地図
3115反射式実態鏡
3120恵解山古墳埋納施設
3121武器類埋納施設
3122大刀復元
3123鏃と矢の復元
3260写真で巡る市内の古墳
3270今里車塚古墳
3271土製品
3273埴輪各種
3310市内の古墳
3311恵解山古墳
3313今里車塚古墳
3315長法寺七ツ塚3号墳
3316宇津久志古墳群
3480写真で巡る市内の古墳
3520長法寺古墳群の土器
3523井ノ内稲荷塚古墳
3530埴輪の移り変わり

4000恵解山古墳の埴輪
4020蓋形埴輪
4030塚本古墳の形象埴輪
4040水鳥形埴輪
4050家形埴輪
4060人形・蓋形埴輪
4065円筒埴輪
4067馬形埴輪
4070鶏形埴輪
4080家形埴輪
4085甲冑・盾形埴輪
4090木製飾り板

6000回廊展示
6001陶棺
6003円筒埴輪


 
 10外観
走田(はしりだ)古墳群出土石棺
                7世紀前半
奥海印寺明神前の寂照院(じゃくしょういん)境内にあった組合せ式の家形石棺の蓋石と底石。
横穴式石室をもつ古墳から出土したものとみられる。
                兵庫県竜山石(たつやまいし)

長岡京市埋蔵文化財センター
走田古墳群出土石棺
走田古墳群出土石棺 横穴式石室の内部
石棺,玄室,羡道
 


 100特別展「縄文時代のムラ

 101
はじめに
 縄文時代は、氷河期が終わり温暖な気候へと変わったことで、人々をとりまく環境が大きく変わりました。
現在の長岡京市にあたるこの地域は、豊かな森と河川に恵まれ、狩猟採集に適した土地であることから、 縄文時代には多くの人々が定住していました。
 特に小泉川(こいずみがわ)流域は、居住に適した環境であったようで、 下海印寺(しもかいいんじ)遺跡伊賀寺(いがじ)遺跡友岡(ともおか)遺跡などの集落が広範囲にわたって展開することがわかってきました。

 今回の企画展では、 小泉川流域の遺物を中心に長岡京市における縄文文化を象徴する様々な遺構や遺物について 紹介します。

特別展
縄文時代のムラ
フロアー全景 はじめに
石斧による伐採


縄文の文化
 気候の変動に伴う植生の変化は、 「定住」 「土器の発明」 「弓矢を用いた狩猟」 「食物の栽培」 など人々の 生活を一変させました。
その中でも、旧石器時代に はなかった土器の発明は、食べることのできる動植物が増え、 安定した食糧の確保を可能にしました。

 この時代は、表面に縄目模様を施す土器が盛んにつくられたことから、 「縄文時代」 と呼ばれています。
1万年以上続く縄文時代を通じて、各地域によって 多種多様な文様や造形をもつ土器だけでなく、 独自の文化が花開いていきます。

1万年続く縄文時代
縄文時代は今から約1万6000年前から2500年前まで続いていたと考えられています。 草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分され、 長岡京市ではすべての時期の遺跡が見つかっています。

縄文の文化
1万年続く縄文時代
縄文時代のできごと
下に文字化表示

 縄文時代のできごと
  
  
  
  
(はざま)遺跡 旧・縄〜古・平・鎌の遺跡
 
南栗ヶ塚遺跡旧・縄〜江戸
 
 
十三遺跡旧・縄文
上里遺跡旧・縄〜古・奈〜鎌・江戸
 
井ノ内遺跡縄〜古・奈〜鎌・江
神足遺跡旧・縄〜江
谷田遺跡縄・古
 
 
馬場遺跡縄〜古・平〜室
雲宮遺跡縄〜飛・平〜室
開田城ノ内遺跡旧・縄〜古・奈〜江
 
以上参照「長岡京市の集落遺跡一覧表」

 

 110旧石器時代

気候と環境
2~3万年前の最終氷河期には、ユーラシア大陸と日本列島は陸続きで、縄文人の祖先にあたる人々は、中国南部から東南アジアにひろがる森の中で進化しながら日本列島へ辿(たど)り着きます。 1万2千年前頃、温暖化により陸地の氷が溶け出すとともに降水量も増加し、 海水面が上昇。 現在の日本列島のかたちが 形成されました。

気候と環境

気温と海水面の変動
上:平均気温の変化
下:海水面の変化 
気温の変化
・1万年前 最寒冷期
・温暖化が進む
・6千年前 縄文海進
  高温期
・2千5百年前
  縄文晩期寒冷期

海水面の変化
・1万年前最寒冷期に 水位は最低。
・5千5百年前に最高位 その後次第に低下
   約2万年前の東アジアと縄文人の移動ルート
・シベリアから北海道半島を経て南下
・台湾島から琉球弧を通って列島へ
・スンダランドから北上し、琉球弧から列島へ
 

 1000縄文時代

 1020乙訓の遺跡
乙訓地域にある縄文時代の遺跡
乙訓地域の縄文遺跡は河川の近くに展開し、豊かな森と川の恵みを 活用していたようです。

凡例
○住居や土坑などの遺構や 遺物が見つかった遺跡
●土器や石器などの遺物が見つかった地点


 1030早・前期の土器
縄文の世界
縄文土器に見られる模様には、 土器 製作の技術的なデザインだけでな く、縄文人の思想や祈りが込められ ています。
各時期、 各地域において独自の造形が見られ、 幾何学模様のアート作品ともいうべき独特の世界 観がつくれています。

 1031早期
縄文の世界 早期の土器
下海印寺遺跡 伊賀寺遺跡

 1033前期
前期の土器
南栗ヶ塚遺跡

 1040中・後期の土器
 1041
縄文のいのり
縄文人は自然とともに暮らし、 自然の恵みへの敬意を込めてマツリを行い崇拝していました。 マツリには子孫繁栄や豊かな実りを願った祈りの道具と考えられる土偶や石棒などがあり、 土偶は乳房の表現や妊娠した姿などの特徴から女性を(かたど)ったもの、石棒は男性器を模したものです。 縄文時代には自然と生命の誕生への畏敬(いけい)の念が現れており、 マツリを行う特別な空間もこの時代から始まっていきます。

縄文のいのり 縄文時代中期の土器
出土状況
縄文時代後期の土器
出土状況

 1050後・晩期の土器

 1051中・後・晩期の土器
 1053
中~後期の土器
伊賀寺遺跡
中期の土器
左:晩期の土器
井ノ内遺跡
右:後期の土器
下海印寺遺跡

 1060埋葬・土器棺

縄文のいのり
縄文人は自然とともに暮らし、 自然の恵みへの敬意を込めてマツリを行い崇拝していました。 マツリには子孫繁栄や豊かな実りを願った祈りの道具と考えられる土偶や石棒などがあり、 土偶は乳房の表現や妊娠した姿などの特徴から女性を(かたど)ったもの、石棒は男性器を模したものです。 縄文時代には自然と生命の誕生への畏敬(いけい)の念が現れており、マツリを行う特別な空間もこの時代から始まっていきます。

縄文のいのり

葬送
埋葬方法の多くは土壙墓であり、故人の手足を折り曲げ、 腰を丸めた胎児の姿勢に似せた状態で埋納する 「屈葬」 が主流でした。 この姿勢には縄文人の死生観が反映されて おり、 死は生命の終わりではなく、 自然に 還り、 再び生まれるという 「再生」 の思想 をもっていたと考えられています。
また、本市では火葬や大形の土器棺などを用いた葬送も行われていました。

土器棺墓  開田城ノ内遺跡(かいでんしろのうち)

地面に掘った穴に骨を入れた土器を埋葬した墓です。 頭蓋骨などの大きな骨から順に入れられていたようです。

葬送 土器棺墓
開田城ノ内遺跡


火葬墓
(公財) 京都府埋蔵文化財調査研究センター提供

伊賀寺遺跡
火葬した骨を埋葬したもので、伊賀寺遺跡の火葬墓の一つでは少なくとも10体分の人骨が確認されています。

伊賀寺遺跡
火葬墓
伊賀寺遺跡 ※伊賀寺遺跡の火葬墓跡は、まるで沢山の遺体を火葬したあと、骨を引っかき回して、頭骨などを引っ張り出したかのような痕跡です。
随分乱暴な遺跡です。
 なぜ縄文火葬が起こったのでしょうか。まとめてか、次々にか、通常の土壙墓葬でなく、流行病などで、通常死以外を遂げた死体を焼かざるを得なかったのでしょうか。(古アイヌは通常死以外は異なる埋葬法でした)

 火葬穴から引っ張り出した頭骨は、別の小屋にでも並べたのでしょうか。そのような小屋に頭骨を並べる風習は台湾少数民族や、南方諸民族で見られました。 

 1063土器棺
土器棺の多くは小形で、子どもの埋葬に利用されました。 これは大形の壺を用いた棺で、上部を割り取った鉢を蓋として用いました。

土器棺 深鉢
開田城ノ内遺跡
深鉢
馬場遺跡
壺と鉢 (蓋)
今里遺跡
鉢(蓋)

 1070祭祀
 1071
縄文のいのり
縄文人は自然とともに暮らし、 自然の恵みへの敬意を込めてマツリを行い崇拝していました。 マツリには子孫繁栄や豊かな実りを願った祈りの道具と考えられる土偶や石棒などがあり、 土偶は乳房の表現や妊娠した姿などの特徴から女性を象ったもの、 石棒は男性器を模したものです。 縄文時代には自然と生命の誕生への畏敬の念が現れており、マツリを行う特別な空間もこの時代から始まっていきます。

縄文のマツリ
長岡京市では、下海印寺遺跡などの小泉川流域で、 石材を用いたマツリの場を思わせる遺構が、 しばしば発見されます。 この地域は大小の石棒も比較的多く出土し、縄文時代のマツリの存在をうかがうことができます。 また乙訓地域で非常に貴重な雲宮遺跡の土偶は、壊されてから自然流路へ捨てられており、 生命の再生や豊穣を祈願したマツリが行われたのかもしれません。

縄文のマツリ


配石遺構・集石遺構  下海印寺遺跡
 石材を規則的に並べた配石遺構(下の写真)と、石材を集めた集石遺構 (上の写真) があります。
墓の痕跡はなく、祭祀場のような遺構であった可能性が指摘されています。

配石遺構・集石遺構 集石遺構
下海印寺遺跡
配石遺構
下海印寺遺跡
 1073
石棒
   伊賀寺遺跡
土偶が女性を象徴する道具であるのに対し、石棒は男性器を模したもので、 子孫繁栄を祈る儀礼や呪術の道具として用いられました。

石棒
伊賀寺遺跡
石棒 石棒 ※小形の石棒は石刀にも見えるが、
下の大形石棒とは役割が違うのだろうか。
それとも、製作時期が違うのだろうか。

儀式道具としては使用法が全く違うように思えます。
  石棒      ※折られたかor 折れたか?大形石棒には壊すor 壊される意味があったのだろうか。それとも、のちの時代に、わからずに壊されたのだろうか。

 1100縄文の暮らし

繩文ライフ
温暖化によって平地からほど近い山や森などで中小型動物が豊富に確保できるようになると、 定住がはじまりムラをつくるようになります。
ムラでは竪穴建物に住まい、 周囲には墓域や管理された森や畑、木の実を保存するための貯蔵穴がつくられ生活が豊 かになっていきます。
また土器や石器、 木器といっ た様々な道具も発明され、 自然の恵みへの敬意から土偶や石棒などを用いたマツリも行われました。
縄文時代の遺跡では、石器や玉の材料となる特別な石材も見つかっており、遠隔地との交流も窺えます。


 1101ムラをつくる
縄文時代のムラは、 森や河川など狩猟採集に便利な土地につくられます。 ムラの中には複数の家族が住んでいて、 男女が役割分担をして生 業を営んでいました。

縄文ライフ
ムラをつくる ムラの様子 村の周囲には
「管理林」「捨て場(貝塚 )」
「祈りの場」があり

村の中には
 住居・貯蔵穴
 墓域・広場
 木の加工・道具づくり
 土器づくり 
 1110
 1111
サヌカイト集積遺構 (伊賀寺遺跡)
直径約30cm、 深さ約40cmの小穴にサヌカイトの剥片が200点近くも埋納されていました。

 ※黒曜石同様、サヌカイトも採取してきた後、土の中にデポしたのだろうか。それとも、
  これは剥片なので、けがをするおそれがあるので、土の中に埋めて、隠したのだろうか。当時は裸足だっただろうから。

サヌカイト集積遺構 サヌカイト集積遺構 サヌカイト集積遺構
(伊賀寺遺跡)


Pick up!
サヌカイトの 石核と剥片
西日本で広く流通している石材で、 大阪府と奈良県の間に位置する二上山(にじょうさん)と、香川県の金山(かなやま)のものが代表的な産地です。

    サヌカイトの石核と剥片
 
サヌカイト原石
伊賀寺遺跡

チャート原石
みなみくりがづか
南栗ヶ塚遺跡
石錐
下海印寺遺跡
伊賀寺遺跡

 ※チャート原石の産地:京都府 亀岡市・薭田野町、 兵庫県 但馬・播磨・六甲山地

 1113モノづくり
縄文人にとって石は生活に欠かすことのできない身近なものです。 固い石やきれいな石、 鋭く割れる石など、様々な用途に合わせた石材で、
石器 がつくられます。 そのため、 道具に適した石材を求めて、他地域との交流も盛んに行われ、 奈良や大阪だけでなく、四国や日本海側の地域などの特別な産地の石材もあります。

モノづくり

キレイな石
(煙水晶水晶石英メノウ)
伊賀寺遺跡友岡遺跡南栗ヶ塚遺跡雲宮遺跡

 ※煙水晶:岡山県・香川県小豆島、 水晶:京都府甘南備山(かんなんびやま)・兵庫県相生市(宮山)など、石英:兵庫県市川町・関宮町
  メノウ:松江市花仙山
 ※これらの宝石が、当時から交換材として理由通していたようです。大きさがいかにも流通に適した形です。
キレイな石

 1115玉の未成品・原石
玉の未成品・原石
伊賀寺遺跡
 1117
独鈷石
開田(かいだ)遺跡
トロトロ石器
(異形石器)

伊賀寺遺跡
(はざま)遺跡
宮脇遺跡
 1119

Pick up!
土偶
縄文時代晩期の自然流路から出土した土偶の頭部。 扁平な顔に目・鼻・眉などが表現されています。
後頭部にはかんざしをさした穴があり、頭頂部のはがれた痕は束ねた 髪の表現と考えられます。 中部~東海地域に見られる特徴のものです。

土偶 土偶
雲宮遺跡
 1120
 1123
縄文人の住まい
縄文時代は地面を掘りくぼめた竪穴建物で生活していました。 茅葺き屋根のものが多く、 土葺きのものもあります。 建物の内部には炉を囲む居住空間があり、 生活に必要な道具なども保管されていました。

縄文人の住まい

Pick up!
伊賀寺遺跡
伊賀寺遺跡は、 小泉川の北側にひろがる京都盆地最大級の縄文集落です。
石囲い炉をもつ竪穴建物や火葬墓などの珍しい遺構のほか、集落内での玉造りをうかがわせる玉の原石や未成品も多数見つかっています。
これらは東日本や日本海沿岸付近の人々との交流によってもたらされたと考えられ、 当時は文化交流の拠点的な集落だったのかもしれません。


伊賀寺遺跡 伊賀寺遺跡
伊賀寺遺跡 伊賀寺遺跡
 1125伊賀寺遺跡
伊賀寺遺跡
 1130
 1133伊賀寺遺跡の石器
磨石・敲石と石皿
伊賀寺遺跡
磨石・石皿

 住居内から出土した遺物
採集
縄文人は木の実も採集するようになります。 特に、 ドングリやクリなどの固い殻で包まれた種実は貯蔵穴で保管できる貴重な食料でした。

住居内から出土した遺物 磨石と石皿 磨石 採取
敲石・磨石 敲石
 1135
磨石・石皿 浅鉢・深鉢
 1137
Pick up!
発掘調査で見つかった ドングリ
上里(かみざと)遺跡ではトチノキが最も多く、ドングリ類、クリなどが多く出土しました。 炭化したコメやマメなど穀物類もわずかに見つかっています。     (公財) 京都市埋蔵文化財研究所提供

AI による概要
 長岡京市の上里遺跡では、縄文時代晩期の地層からトチノキの実(堅果皮)が大量に出土しています。これらの実は、当時の人々がトチノキを食用として利用していたことを示す重要な考古資料です。
上里遺跡とトチノキの実
・出土場所と時代: トチノキの実は、上里遺跡の縄文時代晩期(約3000〜2400年前)を中心とする複数の調査区で発見されています。
・発見の意義: この発見は、当時この地域に豊かな照葉樹林が広がっており、人々がその自然環境を利用して食料を得ていたことを裏付けています。トチノキはそのままではアクが強いため、水にさらすなどの丁寧なアク抜き作業を経て食用とされていたと考えられます。
・他の出土品: 上里遺跡では、トチノキの実以外にも、縄文土器、石鏃、石刀、石皿、敲石などの多様な遺物が出土しており、当時の生活の様子をうかがい知ることができます。また、弥生時代や古墳時代、長岡京時代の遺構や遺物も見つかっています。

上里遺跡からのトチノキの実の出土は、古代の人々の植物利用や食生活を知る上で貴重な手がかりとなっています。

※丹念に水さらしした栃の実をどうやって食べていたのでしょう。弥生以降のトチ餅でなく、栃の実澱粉を草を煮た中でとろみ剤にしたのかな。
栃の実の鬼皮が膨大だったのは、それまで手を出さずにいた厄介な堅果類を利用し始めた。だから、沢山入手できたのかな。
それとも一つの実から得られる澱粉が少ないので、大量に必要だったのかな。

発掘調査で見つかった
ドングリ
 
 1200

 1210縄文時代の食べ物
食べもの事情
縄文人が食糧とした動物や魚の骨、貝殻などが出土する捨て場 (貝塚) から、 どのようなものを食べていたかを知ることができます。
そのような遺構は、本市では未発見ですが、河川や土坑などから獣骨や堅果類が見つかった遺跡もあります。

Pick up!
縄文生活カレンダー
縄文人は自然の変化を敏感に察知し、どの時期に何を採り、食糧とするかの計画を立 てていたと考えられます。木の実や山菜が 実る季節、動物や魚が豊富な季節に応じた食糧の確保が行われていました。 近畿地方では、上のカレンダーのようなスケジュールで活動していたと考えられます。

食べもの事情 縄文生活カレンダー

縄文カレンダー
冬:狩猟 鹿,猪,タヌキ,ウサギ,カモ,
春:採集 木の芽,ゼンマイ,ワラビ,フキ,
夏:漁撈 鯛,鯉フナ,アユ,ナマズ,マス
秋:採集 野葡萄,ドングリ,トチ,クリ,ヤマイモ

採集:春~カワニナ,シジミ,サワガニ
作業:冬~家造り,石器作り,秋 土器作り

 1220
石囲い炉をもつ竪穴建物 伊賀寺遺跡友岡遺跡
竪穴建物は屋根と壁が一体となった構造であるため、2本または4本の主柱を立て建築されます。
友岡遺跡の建物はしっかりと柱を固定するために、 主柱穴が深く掘られていました。

伊賀寺遺跡
伊賀寺 友岡遺跡

建物の内部 井ノ内遺跡南栗ヶ塚遺跡
竪穴建物の内部は、一般的には中央に炉があり、壁際に道具などを 置いています。
井ノ内遺跡で見つかった住居の中には縄文土器のほ かに、石鏃、石錐、砥石などの生活用品が埋もれていました。

井ノ内遺跡 南栗ヶ塚遺跡
 1230

 1231石斧  伊賀寺遺跡南栗ヶ塚(みなみくりがづか)遺跡下海印寺(しもかいいんじ)遺跡神足(こうたり)遺跡
岩斧
伊賀寺遺跡・
南栗ヶ塚(みなみくりがづか)遺跡・
下海印寺(しもかいいんじ)遺跡・
神足(こうたり)遺跡
 1233
石匙
友岡遺跡,南栗ヶ塚塚遺跡,十三遺跡,伊賀寺遺跡
削器・掻器
伊賀寺遺跡,友岡遺跡
尖頭器(部分)
伊賀寺遺跡,開田城ノ内遺跡ほか
 1235
狩猟
縄文時代の狩りは主に弓矢を使って捕獲するもので、犬や落とし穴なども活用されました。 動物は食糧とし てだけでなく、骨や皮も道具や衣服 に加工するなど生活に欠かせないも のです。

狩猟
尖頭器
伊賀寺遺跡,開田城ノ内遺跡ほか
 1237
落とし穴(谷田遺跡)

底の真ん中に杭を立てるくぼみがあります。
石鏃
下海印寺遺跡,伊賀寺遺跡,友岡遺跡,南栗ヶ塚遺跡ほか
 1239
漁労
川に近い集落ではコイやフナなどの魚、エビやカニなどの甲殻類、 シジミなどの貝類などを食糧として確保していました。 動物の狩猟道具とは別に専用のモリや投網などが使われています。

石錘
上里遺跡,井ノ内遺跡,伊賀寺遺跡,友岡遺跡ほか
漁撈
 1250
おわりに
今回の企画展では、長岡京市の縄文時代について 特徴的な遺物や遺構を中心に紹介しました。
縄文時代は、狩猟採集によるその日暮らしのような原始的なイメージをもっているかもしれませんが、現代に繋がる様々な技術や道具が発明されました。 1万年以上続いた縄文文化は、一所(ひとところに)に ムラをつくり、 他の地域と交流することで、 大きく発展しました。

そうした縄文文化も、大陸からの新しい稲作文化(=弥生文化)の流入によって大きく変貌していきます。 弥生文化の受け入れ方は、各ムラによって異なりますが、 縄文と弥生の文化が共生しなが ら、段階的に新たな時代に移り変わり、 縄文文化は終わりを迎えることになります。

おわりに
 
 
 2000


 2000常設展

 2001
はじめに
 ~長岡京市の歴史を訪ねる~

 水と緑の街、 長岡京市には桓武天皇の長岡京をはじめ、 乙訓(おとくに)最大の古墳恵解山(いげのやま)古墳細川ガラシャが住まいした勝龍寺(しょうりゅうじ)など、 先人たちの記録である遺跡が数多く残されています。

 当センターでは、地中に残された遠い昔の記憶を掘り起こす発掘調査事業を継続して行っています。こでは、市内出土の膨大な資料から選りすぐり、 長岡京市の歴史を大きく 「長岡京以前」 「長岡京」「その後の時代」に分けて展示しています。

はじめに

長岡京市歴史年表
 旧石器~弥生 旧石器時代
 上里遺跡(3万年前の人の痕跡)
 今里遺跡
縄文時代
 下海印寺遺跡
 伊賀寺遺跡(玉造遺跡)
弥生時代
 雲宮遺跡(集落遺跡)
 神足遺跡  〃
 谷山遺跡(後期集落遺跡)
 古墳~平安
古墳時代
 長法寺南原古墳
 今里車塚古墳
 恵解山古墳
 塚本古墳
 井ノ内稲荷塚古墳
飛鳥時代
 今里大塚古墳(終末古墳)
 乙訓寺 鞆岡廃寺
奈良時代 長岡京期
 西山田遺跡(祭祀場遺跡)
平安時代
 山城国府,久我畷,楊谷寺
 勝龍寺,乗願寺,海印寺,長法寺  西陣町遺跡
 鎌倉~令和 鎌倉時代 光明寺
南北朝
室町時代 開田城
戦国時代 勝龍寺城(細川) 西国街道
江戸時代 勝龍寺城(永井)
     長岡天満宮 乙訓寺再興
明治 馬場六連橋 神足三連橋
大正
昭和
平成
令和


長岡京以前の時代

 2010旧石器・縄文時代

 2011
石の文化・土器の出現
 ~旧石器・縄文時代~

長岡京市で最も古い生活の痕跡は、 約3万年から1万2千年前までの後期旧石器時代に遡ります。 この時代には、 自然石を打ち欠いた石器を手に狩りを行い、 木の実や果実を採集して暮らしていました。
約1万2千年前から始まる縄文時代になると、 本格的な定住や土器の使用が始まります。土器によって食物の煮炊きや保存が可能となり、食生活は豊かになりました。 狩猟採集に加え、漁労や植物の栽培管理も行われるようになります。

石の文化・土器の出現
井ノ内遺跡
今里遺跡(晩期壺棺)
弓場街道遺跡
開田遺跡
雲宮遺跡
十三遺跡(旧石器-縄文中-晩期)
神足遺跡(旧石器~江戸)
下海印寺遺跡
伊賀寺遺跡(住居跡,土壙墓,火葬跡)
友岡遺跡
野手遺跡
南栗ヶ塚遺跡
旧石器時代:みんなで獲物を追いつめて
縄文時代:伊賀寺遺跡 日が暮れて夜なべ仕事

 2013旧石器時代
カキの化石
奥海印寺
長岡京市奥海印寺(おくかいいんじ)には、かつて発掘調査によって発見されたカキの化石層が存在します。
これは、その地域がかつて水深2メートル程度の浅い海であったことを示す貴重な地質学的証拠です。
 引用

翼状剥片
(石器を作る原形の破片)
今里遺跡
縦長剥片
(石器を作る原形の破片)
野手遺跡
ナイフ形石器
(槍先、動物の皮や肉を切る道具)
開田遺跡十三遺跡

翼状剥片
(石器を作る原形の破片)
今里遺跡
AI による概要 
(よく)状剥片とは、後期旧石器時代に西日本で発達した「瀬戸内技法」という石器製作技術で生み出された、羽を広げたような(翼状の)形をした薄い石片のことです。
これは、サヌカイトという黒い石(黒曜石に似た火山岩)から作られ、これを素材としてさらに加工し、特徴的な「ナイフ形石器」へと仕上げられました。
特徴と重要性
・製作技術: 原石を板状に割り、さらに刺身のように薄くはぎ取ることで作られます(瀬戸内技法)。
・素材: 主に奈良県など近畿・瀬戸内地方で産出するサヌカイトが使われました。
・用途: この翼状剥片自体が道具として使われることもありますが、多くは仕上げ加工(刃つけなど)が施され、片側が鋭く尖ったナイフ状の石器(国府型ナイフ形石器など)として完成されました。
・地域性: 近畿・瀬戸内地方に特有の、後期旧石器時代の重要な石器製作技術の証拠とされています。
関連する用語
・瀬戸内技法: 翼状剥片やナイフ形石器を作るための、石を薄くはぎ取る(剥片化する)技術。
・サヌカイト: 翼状剥片の主な材料となる、近畿地方周辺で採れる黒い石。
・ナイフ形石器: 翼状剥片を素材として作られた、鋭い刃を持つ完成形の石器。
結論:瀬戸内技法によって剥離された横長剥片を翼状剥片と呼ぶ。

瀬戸内技法は後期旧石器時代に確立された石器製作技術で、特に旧石器時代末期にサヌカイトを使って、効率的に薄くて丈夫な「ナイフ形石器」を連続生産するために発展しました。この技法は、自然の石の塊から特定の形をした剥片を剥ぎ取る工程が体系化されたもので、約3万8千年前から1万6千年前頃の旧石器時代に広く使われ、弥生時代中頃まで利用されたとされています。
縦長剥片
(石器を作る原形の破片)
野手遺跡
 
AI による概要 縦長剥片技術は日本では約3万年前の後期旧石器時代から本格的に普及しました。
石刃技法 - Wikipedia
「縦長剥片」とは、旧石器時代の石器製作技術、特に石刃技法(せきじんぎほう)によって作られた、細長い(長さが幅の2倍以上)規格化された石の破片(剥片)のことで、石刃(せきじん、ブレード)とも呼ばれ、ナイフ形石器などの材料として用いられた革新的な技術の産物です。
詳細
・石刃(ブレード): 縦長剥片の中でも特に両側縁がほぼ平行に揃ったものを指し、特定の技術(石刃技法)で連続的に作られました。
・石刃技法: 原石から効率的に同じ形の細長い剥片を大量に作り出す技術で、約3万年前頃に日本に伝わり、後期旧石器時代を特徴づける技術となりました。
・特徴:
 ・細長い形状で、刃物として使いやすい。
 ・同じ規格のものが作れるため、量産が可能になった。
 ・ナイフ形石器などの多くの石器の材料として利用され、狩猟や解体などに使われました。
・重要性: ユーラシア大陸から伝わったこの革新的な技術は、当時の人類(現代型新人の拡散)を理解する上で重要な指標とされています。
まとめると、「縦長剥片」は、旧石器時代後期に発展した石刃技法で生み出された、細長い石刃(ブレード)と呼ばれる石の破片のことで、石器製作の効率化と多様化に貢献しました。
結論:縦長剥離技術の石刃技法によって剥離された石辺を縦長剥片と呼ぶ。
 ナイフ形石器
(槍先、動物の皮や肉を切る道具)
開田遺跡・ 十三遺跡
AI による概要
ナイフ形石器/羽曳野市
ナイフ形石器は、後期旧石器時代(約4万年前~1万5千年前)に日本列島で広く使われた代表的な石器で、石を薄く剥ぎ取った石片(剥片・石刃)の鋭い縁を活かし、他の部分を「刃潰し」という加工で鈍くつぶして、片刃のナイフや槍の穂先のようにした利器です。狩猟具や切断具として動物の肉・皮を処理したり、槍の先端に装着して使われたと考えられ、形や加工の仕方で「茂呂型」「国府型」などに分類され、その種類が当時の文化や年代を特定する手がかりとなります。
特徴
・素材: 黒曜石やチャートなど硬い岩石が使われ、薄く剥がした石片(剥片・石刃)が用いられます。
・加工: 石片の鋭利な側面(刃)を一部残し、他の側面には急角度で「刃潰し」と呼ばれる加工を施し、先端を尖らせたりします。
・形状: 片刃のナイフに似た形が基本ですが、先端が尖るもの、左右対称のもの、斜めに刃潰しされたものなど多様です。
用途
・狩猟具: 槍の穂先(槍先)として。
・切断具: 動物の皮を剥いだり、肉を切ったりするのに使用。
・多様な機能: 一つの機能に限定されず、様々な用途で使われたと考えられています。
文化と年代
・時代: 日本の後期旧石器時代を代表する石器で、約3万年前に登場。
・文化: この石器が使われた時代・地域を「ナイフ形石器文化」と呼びます。
・地域性: 加工方法の違いから、茂呂型(関東・東海・四国・九州)など、地域ごとの型式に分類されます。
結論:剥片石器を用いた万能の刃物
 

 2020縄文時代

 2021
縄文の世界
他地域との交流
縄文土器は模様や形に地域差や時代差があり、人々の交流の具合を知ることができます。
小泉川流域の集落は、 東海地方や北陸地方などの遠隔地とも交流があったようです。

縄文の世界
他地域との交流

北陸地方の土器
縄文時代中期初頭
北陸地方の土器
縄文時代中期初頭
東海地方の土器
縄文時代中期前葉
東海地方の土器
縄文時代中期前半
中部地方の土器
(中央高地)
縄文時代中期末
東海地方の土器
縄文時代中期後半

 この土器の変遷は何だろう。単に交易で来ただけなら残される土器は僅かで、現代まで残るのは稀有なことだ。
 各地から集団がやってきて定住しては、また去り、を繰り返したのかも。同一集団がずっと住み続けて、他地域の土器様式を模倣するのは
 難しいのではないか。

 ※一説には、土器には「えかきうた」のような、制作手順を伝える「ことばがき」があって、それをたどることによって同じ村の者は同じ土器を作る
  ことができるのだという。縄文時代の各地域にはそれぞれ方言があり、簡単に隣の「えかきうた」を覚えることは難しいとされる。
  従って、同一地域の土器文化はその地域だけで発達したと考えられる。というもの。
 
  婚姻などで別集団に加わり、最初は自分の部族の土器を作っているが、やがて言葉に慣れてくると、折衷的な土器を作り始め、新たに発展する
  のだろう。

 2022
縄文アクセ
縄文人たちは色々なアクセサリー(装身具) を身に着けていました。
土製の耳飾りや貝の腕輪、動物の(つの)に模様を刻んだ髪飾り きれいな石で作った首飾りなどがあります。

縄文アクセ
耳飾り(栓)
伊賀寺遺跡 友岡遺跡

 2023旧石器時代
旧石器が出土した堆積層
石片の接合資料
南栗ヶ塚遺跡
石片の接合資料
南栗ヶ塚遺跡
旧石器時代
石片の接合資料
南栗ヶ塚遺跡

 縄文時代
深鉢形土器
左:下海印寺遺跡
右:雲宮遺跡  
縄文時代
 2025縄文土器の文様
縄文土器の文様
早期土器は企画展に
下海印寺遺跡の土器
中期
友岡遺跡
後期
下海印寺遺跡
晩期
雲宮遺跡
 


 2100弥生時代


 2101稲作と金属器

稲作と金属器使用の始まり
 ~弥生時代〜


 大陸からもたらされた稲作文化は、 北部九州から瀬戸内海沿岸を経て近畿地方へと広がりました。
水田稲作や灌漑などの技術、稲作に伴う儀礼や習俗、青銅や鉄で作られた道具は、それまでの暮らしを農耕社会へと変貌させました。
 京都盆地の入口にあたる雲宮遺跡は、府内では稲作文化がいち早く定着しました。
その後、中期の神足遺跡では大規模な集落が形成され、 後期には谷山遺跡など高地性集落が営まれるようになります。

稲作と金属器使用の始まり
弥生時代の遺跡 上里遺跡
今里北ノ町遺跡
長法寺遺跡
明星野遺跡
谷山遺跡
雲宮遺跡
神足遺跡
開田遺跡
南栗ヶ塚遺跡

弥生時代 雲宮遺跡
集落総出で稲の収穫

 2111石包丁
弓なり形
(九州地域に多い)
神足遺跡
三日月形
(近畿地域に多い)
今里北ノ町遺跡
一般的な形
(乙訓地域)
神足遺跡
四角い形
瀬戸内地域
雲宮遺跡

※四角い形の石包丁はどこの地域か
AIによる回答
「四角い形」の石包丁(矩形石包丁)は、主に中国大陸から朝鮮半島、そして日本においては北部九州や瀬戸内などの西日本地域に特徴的に見られます。
石包丁の形状は地域や時期によって大きく2つの系統に分けられます:
矩形(くけい)石包丁
 ・特徴: 文字通り四角い板状の形をしています。
 ・主な地域: 中国の東北地方や長江流域、朝鮮半島で広く見られ、日本では稲作の伝来とともに北部九州(佐賀県の菜畑遺跡など)へ
  最初にもたらされました。その後、瀬戸内地域などでも製作・使用されています。
半月形石包丁
 ・特徴: 刃の部分が弓なりに湾曲し、背が直線的な形をしています。
 ・主な地域: 日本国内で独自に発展した形態を含め、近畿地方(京都盆地や大和盆地など)や東日本(山形県や福島県などの東北地方)を
  含む広い範囲で出土します。

石包丁は弥生時代を代表する磨製石器で、稲の穂先を摘み取る「穂首刈り」に使用されました。四角いタイプは、より大陸的なルーツを強く残している形状と言えます。


 ※考察 石包丁の形
 ※・石包丁の形が地域ごとに特徴を持ってきているのなら、乙訓地域の各々の遺跡は、それぞれの地域から移住してきた集団が開墾し、居住し、
   農作業をしながら共生していたようです。
  ・随分以前に調べた東海地方の開墾地でも、実に様々な地域から移住して、本当に近接して開墾をしていました。
  ・「古墳時代の稲川流域」(池田市立歴史民俗資料館)。では、やがてこれらの各コロニーが力を蓄え、有力な首長が育ってくると、
   突然近所のコロニーを武力併合して大きな集団となる。ということが繰り返されるようです。
   開墾地が豊かに育ってくると、半島南部の海賊漁民が襲撃して虐殺し、富を奪い、土地を横取りし、なり変わって居住する。
   開墾地同士でもやがてもっと水がほしい、不作だったから隣の富が欲しい、隣の土地を奪ってやろうと、戦を仕掛けて占領する。
   一度こんな風潮が起こると、やがて各地に波及し、それがやがて、倭国大乱の戦国時代に繋がったのではないのだろうか。

 ※しかし、なぜ石包丁の形が集団ごとに変わってくるのだろう。
  一番は使いやすさ。手になじんで、便利な大きさと形。つまり、手の大きさや嗜好。これは体格などによる手の大きさや、
   孤立集団内の遺伝形質による 微妙な変異が原因かも。
  二番には石材。使い勝手の良い石があること。なければ、その石材の形に合わせるしかない。
  三番目には慣れ。弥生時代の「泥除け板付き広鍬」には木製の鍬の上に木製の泥除けがついている。
   東北地方では、近代まで同じものが使われていたが、進化していて、鍬は鉄先で、泥除けは、細割の竹で編んだものとなっており、
   軽く使いやすくなっていた。だが、弥生以降の人々は、いつ頃までかはわからないが、重い、木製の鍬に同じ重さの泥除けを付けて
   振り回していた。これは、このような構造から進化しなかった、ちょっとしたアイデアを出せなかった弥生人の能力と、
   重い鍬を一日中振り回せる体力があり、それに慣れていたからだろう。

  石包丁の形はどれが使いやすいのかはわからないが、(実験考古学者に聞いてみたいものですが)、その地域で作られる形に慣れ、その形、重さが
  農作業で慣れていたから、各地の形がそのまま使われたのでしょう。手に合わない石包丁は作業効率の低下とひどい疲れ。それに手にケガを
  負うでしょう。急に半月型⇔四角形の変更はできないということです。


 2113石器製作過程 神足遺跡

弥生時代の石器 石包丁の製作
石包丁の石材⇒
石錐で穴を開ける⇒
石包丁の製作
神足遺跡
※なんだか中途半端に見えますが、
これは、石器製作過程の原石・穿孔途中の石器が発掘されたという意味でしょう。途中で断念したのは、中央の孔をあける途中で石包丁が折れてしまったからでしょう。
※九州では石包丁を専門に製作する集落からの流通が確認されていますが、ここでは自分たちの集落で、粘板岩を原材料に作っていたのでしょう。

磨製石鏃
神足遺跡
砥石
神足遺跡

 2115武器形祭器
武器形祭器
石製武器は神足遺跡
中:石剣の未成品
神足遺跡
右:鉄剣形磨製石剣
2115-3-左
左:磨製石鏃
神足遺跡2113-5-右

左:神足遺跡石鏃2113⑤の右端の大きな石器が映り込んでいる
磨製石剣
鉄剣形・銅剣形
 2117金属器
弥生時代の金属器
銅剣は神足遺跡
長い銅剣は復元模型
鉄製鋤先
谷山遺跡
銅鏃
雲宮遺跡
鋳型外枠
長法寺遺跡

 長法寺遺跡 鋳型外枠
AI による概要
 京都府長岡京市の長法寺遺跡では、弥生時代のものと推定される銅鐸の土製鋳型の外枠が出土しています。
この外枠は、乙訓地域(京都府南部)における弥生時代の銅鐸祭祀の様子を裏付ける貴重な発見と考えられています。
鋳型外枠の詳細
・用途: 青銅器、具体的には銅鐸を鋳造するための道具です。
・構造: 鋳型は通常、内側に「真土(まね)」と呼ばれる細かい粘土を貼り付けて文様を刻み、その周りをさらに土などで覆って作られます。長法寺遺跡で発見されたのは、その外側の土製の枠にあたります。鋳造後には内側の真土は剥がれ落ちてしまうため、外枠だけが残ったと考えられます。
・意義: 銅鐸の鋳型が見つかったということは、その地域で実際に銅鐸が製作されていたことを示唆しており、当時の乙訓地域が青銅器生産や祭祀において重要な役割を担っていたことを物語っています。

長法寺遺跡や近隣の遺跡からは、他にも弥生時代の集落跡や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などが見つかっており、この地域が弥生時代を通じて活発な人々の営みや文化の中心地であったことが分かっています。

 2120土器・石器
 2121石器
弥生土器 鉢
雲宮遺跡
炭化米
神足遺跡
石小刀
(削る・ひっかく)
神足遺跡
石鍬
(地面を掘る)
神足遺跡
 2123石斧 雲宮遺跡・神足遺跡
石斧 木をはつる斧
(表面を削ぎ、平面にならす)
木を切り倒す斧
木を彫る鑿(のみ)
弥生土器 壺
雲宮遺跡
 2125弥生土器
前期
雲宮遺跡
  中期
神足遺跡
       
後期
谷山遺跡
 
2130弥生土器群
 2130前期土器
前期土器 前期土器
 2133中期土器
中期土器
高坏※二本の紐で蓋を取付け何かを保存した容器
大阪弥生文化博物館
アメブロ
鍔の無い壷 鍔のある壺

高坏
AI による概要

この画像は弥生時代の**高坏(たかつき)**と呼ばれる土器です。弥生土器は一般的に以下の特徴を持ちます。
・縄文土器よりも薄手で硬く、明るい赤褐色をしています。
・水稲農耕の開始に伴い、米の貯蔵(壺)、煮炊き(甕)、盛り付け(鉢や高坏)といった用途に応じて形が決まっていました。
・回転台を使って作られたため、ゆがみのないきれいな円形をしていることがあります。
・文様は簡素なものが多く、櫛目文様などが特徴です。

鍔のある壺と鍔の無い壷
AI による概要

弥生土器の鍔(つば)のある壺(有孔鍔付土器)と鍔の無い壺の違いは、主に用途と地域・時期による違いと考えられます。
1. 用途の違い
鍔の無い壺(一般的な壺):
 主に貯蔵用として使われていました。米などの穀物や液体などを保存するために用いられ、甕(かめ:煮炊き用)、高坏(たかつき:盛り付け用) と並ぶ主要な器種でした。
鍔のある壺(有孔鍔付土器):
 口縁部の下に張り出した鍔(フランジ)があり、しばしば小さな孔(あな)が開いています。この特異な形状から、用途については諸説ありますが 主に以下のような特別な目的で使われたと考えられています。
  太鼓説: 鍔の部分に動物の皮を張って紐で固定し、太鼓(楽器)として使ったという説があります。
  酒造・貯蔵説: 神事などで使う特別な液体(酒など)を入れるための容器だったという説もあります。
 これらの説から、鍔のある壺は、日常的な貯蔵容器というよりは、祭祀や儀式に関わる特別な用途で使われた可能性が高いと考えられています。
2. 地域・時期の違い
一般的な鍔の無い貯蔵用の壺は、弥生時代を通じて日本各地で広く見られます。
一方、有孔鍔付土器(鍔のある壺)は、特定の地域や時期(特に弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて)に多く見られる特徴的な土器型式であり、地域的な文化の特色を反映していると考えられます。

簡単にまとめると、鍔の無い壺は日常の生活(貯蔵)に使われ、鍔のある壺は特別な祭祀や儀式に使われた可能性が高い、という点に大きな違いがあります。
※AIの回答には間違いがあります。

 2135後期土器
後期土器
 2140左上棚

 2141管玉の製作
管玉の製作

 管玉の製作
1
1 石材に石鋸で溝をつける

石鋸
碧玉
2
2 溝の位置に石のくさびを当てて割り、 形を四角にする

くさび
碧玉

  3
3 カドを細かくくだいて円柱状にする

 碧玉
石の土台
4 4 砥石で磨いて表面を整える

碧玉
砥石

 管玉づくりの材料と道具
碧玉
(管玉などの石材)
神足遺跡
近畿地方の碧玉産地
・石鋸(石材を切る)
神足遺跡
・くさび(石材を割る)
神足遺跡
砥石(管玉などを磨く)
神足遺跡

 管玉完成品
管玉完成品
雲宮遺跡 神足遺跡
※玉造の遺跡
近接した神足遺跡や雲宮遺跡から玉造の痕跡が見つかりました。このほか同じ乙訓遺跡群の
伊賀寺遺跡からも玉造の道具材料が出土しており、この一帯には玉造遺跡が存在したようです。

 2143分銅形(ふんどうがた)土製品
分銅形土製品は、弥生時代中期後半から後期前半を中心とし て、 瀬戸内海沿岸地域に広く分布します。
具体的に何に用いられたかは不明ですが、 しばしば人の顔が表現されています。
津寺遺跡 (岡山県)
明地遺跡 (山口県田布施町)

分銅形土製品 分銅形土製品
神足遺跡
※岡山県では大量に出土する分銅形土製品。
神足遺跡の集団は吉備地域から入植下のかもしれない。

 2144銅鐸形土製品

銅鐸形土製品と銅鐸
銅鐸形土製品は、近畿から伊勢湾沿岸を中心に分布しており、 長岡京市は銅鐸を用いた祭祀の文化圏に属していたと考えられます。


銅鐸形土製品と銅鐸
桜ヶ丘遺跡
(兵庫県神戸市)
神足遺跡
銅鐸形土製品復元図

銅鐸形土製品
神足遺跡
鐸形土製品
神足遺跡
銅鐸型土製品と復元模型
銅鐸型土製品(神足)と復元模型 銅鐸形土製品の復元模型
 2145弥生土器

雲宮遺跡

神足遺跡

神足遺跡

神足遺跡
高坏
神足遺跡
 
 2151
 祭祀用土器とミニチュア土器
祭祀用の壷と中に納められたミニチュア土器
神足遺跡
祭祀用土器と中に納められたミニチュア土器
左:ミニチュア土器
右:祭祀用土器
※二重埋納の意味?
石や土が入っているのは壊れていたからか、意図して入れたか。
ミニチュア土器が小児の骨壺で、それを土器棺に入れたか?

 絵画土器 神足遺跡
  絵画土器  不明な絵が描かれた土器 
土器全体を見れば意味がわかるのかも
鹿が描かれた土器
   

 土笛
山陰地域の土笛模造品

音階のある笛
土笛
谷山遺跡
とても音を出すのが難しい笛のようです。

 紡錘車
紡錘車の使い方
・円盤状の石、 または 焼き物の「おもり」 に 軸を差し込みます。
・糸を作る素材を少しずつよじりながら 紡錘車を回転させ、 遠心力を使って巻 き上げます。

紡錘車

雲宮,神足,長法寺遺跡
紡錘車の使い方 土製紡錘車 石製紡錘車


 2161威儀具 右上棚
 ※次第に富を蓄え、威儀具の宝飾品や装身具が増えてくる時代なのか。
勾玉,管玉
雲宮遺跡
有孔円板
雲宮遺跡
石杵
雲宮遺跡
石釧
雲宮遺跡
車輪石
今里遺跡
 小型仿製鏡
珠文鏡
馬場遺跡 
重圏文鏡
雲宮遺跡
獣文鏡
伊賀寺遺跡 
紡錘車
雲宮遺跡
 
 
製塩土器
下海印寺遺跡
鑿・錐
神足遺跡

西山田跡
鎌,刀子
伊賀寺遺跡

石杵
AI による概要

石杵とは、弥生時代から古墳時代にかけて、赤色顔料である辰砂を採掘・精製するために使われた石製の道具で、石臼とセットで用いられ、
辰砂鉱石を叩き潰して粉末状にする作業(敲き・潰し・磨り)に使われました。
特に、L字型に加工された「L字状石杵」は、握りやすくするためと考えられ、水銀朱の精製に使われたことが知られています。
主な特徴と用途
・用途: 辰砂鉱石から不純物を取り除き、顔料「朱」にするための道具。
・形状: 竪杵(たてぎね)のような棒状のものや、握りやすいように曲がったL字型など、様々な形がある。
・素材: 主に地元で採れる砂岩や、遠方(香川県など)から運ばれた玢岩(ひんがん)などが使われた。
・使用痕: 多くの石杵には、岩石を叩いたり擦り潰したりした痕跡(敲打痕・擦痕)が残っており、実際の使用状況を物語っている。
・出土場所: 徳島県の若杉山遺跡(わかすぎやまいせき)など、辰砂の産地から大量に出土しており、古墳の装飾や儀式に使われた朱の供給源として重要視されている。
「石杵」と「石匙(いしさじ)」の違い
・石杵: 石臼と合わせて辰砂を粉砕する道具。

 2163農具 右下
ナスビ形鋤
(はざま)遺跡
今里北ノ町遺跡
  農耕具の変遷 弥生前期 弥生中期 古墳前・中期   
鋤の泥除け具
雲宮遺跡

上里遺跡

 2170須恵器大甕

須恵器大甕クイズ
大甕のどこかに動物?がかくれているよ。みんなでさがしてみてね。

オタマジャクシ?
一番見つけやすいよ。
「ふぐ」に見えるという人も。

これ以外にも何かかくれているかも?
見つけたら教えてね。
シロアリ?
これも見つけやすいかも。 「くも」にも見える?
タツノオトシゴ?
ちょっと見つけにくいかな。 背の高い人や大人の人が有利?

須恵器 大甕
長岡京跡右京八条二坊七町出土
・高さ-112cm
・容量一約 670リットル(三石七斗二升)
・口径-58cm
・胴の直径114cm
・重さ約90kg
    
 


 2200古墳時代

 2201古墳時代
地域首長の時代
 ~古墳時代〜
 3世紀後半から7世紀前半までの約400年間、 前方後円墳に代表される古墳が日本各地に築かれました。
古墳に葬られた各地の首長達は、近畿地方を中心とする緩やかな政治体制の中に組み込まれ、大きなまとまりを形成していきます。

 乙訓(おとくに)地域は、古墳時代の始めから終末まで、 同一地域で連綿と古墳が築造された極めて稀な地域です。
これらの古墳は乙訓古墳群として、 国の史跡に指定されています。

古墳時代 今里遺跡 秋のある日の集落と居館
地域首長の時代 古墳時代の遺跡 井ノ内古墳群
大原古墳群
上里遺跡
今里遺跡
今里北ノ町遺跡
塚本古墳
下海印寺遺跡
西山田遺跡(祭祀場跡)
伊賀寺遺跡(墓火葬場)
馬場遺跡
雲宮遺跡(住居跡)
神足遺跡
硲遺跡
 

 2210古墳時代の土器と埴輪
古墳時代の土器と埴輪 古墳時代の土器と埴輪
 2220土師器
土師器
壷,高坏,高坏
壷,器台,高坏,器台
壷,甕 壷,壷 壷壷甕
高坏,高坏,鍋

右下の壊れた鍋が
韓式系土器らしい
甕,壷 甕,壷
 2230埴輪
埴輪
 2240須恵器
坏身,蓋 甕,甕
 


 2300律令国家の成立

 2300
 2301
律令国家の成立と古代寺院
 ~飛鳥・奈良時代 〜

 7世紀以降、日本は天皇を中心とした中央集権国家を目指します。
西暦701年には大宝律令が完成し、律令制度による政治の仕組みが概ね整いました。
大陸から取り入れた文化とともに仏教も広がり、寺院は古墳に代わる新たな権威の象徴となっていきます。

 長岡京市には、 乙訓寺(おとくにでら)鞆岡廃寺(ともおかはいじ)などの古代寺院が存在します。
郡名を冠する乙訓寺は、 乙訓郡内の中心的な寺院であったと考えられます。

 2303
神田古道 乙訓講堂の柱穴 今里遺跡の倉庫群

 2305
日本書紀第17巻
下に記述
須恵器 杯
「弟国」墨書土器
上里遺跡


 乙訓の宮(弟国宮)
 弟国宮(おとくにのみや)は、第26代の大王である継体大王が、 518(継体12)年に筒城宮(つつきのみや) (京田辺市) から(うつ)した都です。 その所在は未だ確認されていませんが、『古事記伝』 には 「井乃内村、 今里村の辺なり」と記されています。
 長岡京市井ノ内の長岡第十小 学校で行われた発掘調査では、 「弟国」 の名を記す、 唯一の奈良 時代墨書土器が出土しています。

アマリ ヤヨヒ      ヲ オト ニ
十二年春三月丙辰朔甲子°遷都弟國  
(ととせあまり ふたとせ やよい ひのえたつ つきたち として きのえね みやこを おとくにに うつし たまふ。)
「(神武天皇の)十二年目(の春)、(磐余に)都を移した、それは(継体天皇が)神武天皇の『弟』として(意識し)行ったことだ」

〔癸卯〕サツキ      ミウセヌ
十七年夏五月百濟國王武寧薨。 (十七年の夏五月に百済国王武寧が薨じた)

         コロシム
〔甲辰〕ムツキニ  ノ セシム メイ  ニ
十八年春正月百濟 太子明 卽位。(十八年の春正月に百済の太子明が即位した)
         コヨシム〔前〕
         コムセシム〔尺〕

〔丙午〕ナガツキ ノ  ノ   ヲ  ノ  ニ
廿年秋 九月 丁酉朔己酉。遷都磐余玉穗。(継体天皇が即位20年目の秋9月己酉(きゆう)の日に、弟国宮(おとくにのみや)から磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)へ遷都した)

「男大迹天皇 継体天皇」『日本書紀』第十七卷 (「日本書紀 後篇」『国史大系』bㄅ抜粹)

 土製品
 土師器
坏:井ノ内遺跡
皿 墨書土器「次官」
今里遺跡
須恵器
坏身・蓋
鞆岡廃寺
 
       
・須恵質土馬
   (天神二丁目)
・壺 (伊賀寺遺跡)
土馬と壷 土馬
 2307土製品
壷,鬼瓦,格子叩の平瓦
須恵器鉢(鞆岡廃寺)
「田辺史牟也毛」線刻平瓦
須恵器 鉢 鞆岡廃寺
「田辺史牟也毛」線刻平瓦
壷、鬼瓦
鞆岡廃寺の瓦
軒平瓦
格子叩きの平瓦
鞆岡廃寺の瓦
軒丸瓦
乙訓寺の瓦
格子叩きの平瓦
軒平瓦・軒丸瓦
 
 
長岡京時代

 2400桓武天皇の都

桓武天皇の都
 ~長岡京時代~

西暦784年、 桓武天皇は奈良平城京から乙訓の地に都を遷しました。長岡宮が置かれた向日市域から長岡京市・京都市域、そして大山崎町域まで、広大な範囲に道路・宅地区画が整備され、役所や 市場も配置されました。
 長岡京は10年間という短命な都でしたが、 奈良時代とは異なった仏教政策や東国経営など、 新しい時代の幕開けとなりました。 平安京を経て現代へ繋がる国作りの(いしずえ)となった都が長岡京なのです。

 2401
桓武天皇の都 桓武天皇の都 長岡京都域

長岡宮
乙訓寺
長岡京跡
谷田瓦窯群
西市・東市
西山田遺跡
鞆岡廃寺

奈良から京都へ 宮都の迷走
飛鳥浄御原宮
藤原京
平城京
恭仁京
紫香楽宮
難波京
平城京
長岡京
平安京

・宮都が頻繁に移動するのは、ゴミ収集も糞尿収集もなく、下水施設もない時代に、全ての廃物は水路に投げ込まれていた。しかし、やがてこの自然排出方法はよどみ詰まって、都市機能が維持できなくなったため遷都した。
・都市機能や文化が高まってくると様々権力の成長により、政治的障害が埋まれて来る。貴族政権が権力を維持し続けるためには対抗勢力を弱体化する必要があり、その方法として、遷都が行なわれた。
・しかし、なんと、怨念から逃れるために遷都した(長岡京から平安京)というのもある。

桓武天皇の年譜

  桓武天皇の年譜
西暦 元号
 出来事 桓武天皇の年齢
737 天平9 誕生。 山部王と命名される。 1
773 宝亀4 (1月) 山部親王が皇太子となる。 37
781 天応1 (4月) 山部親王が即位 【桓武天皇】 し、 弟の早良親王が皇太子となる。 45
784 延暦3 (5月) 摂津職から蝦蟇2万匹が四天王寺に移動したことの報告。 【長岡京遷都のまえぶれ 】
(6月) 造長岡宮使に藤原種継らを任命し、 都城 宮殿の造営を開始する。
(11月11日) 天皇が長岡京に遷る。 【長岡京】
48
785 4 (9月) 藤原種継が暗殺される。 (犯人とされた)早良皇太子を廃し乙訓寺へ幽閉する。(淡路配流後餓死) 49
786 5 (5月) 左右京および東西の市人に物を賜う。 (7月) 太政官院 (朝堂院) が完成する。 50
 787  6 (10月) 「水陸の便なるをもって都をこの邑に遷す」の詔。 51
788 7 (9月) 「水陸の便あって都を長岡に建つ」の詔。 52
 789  8 (2月) 天皇、西宮から東宮に移る。 (12月) 皇太后高野新笠が死去する。 [蝦夷攻め] 53
790 9 (3月) 皇后藤原乙牟漏が死去する。 (7月) 京下七寺で皇太子病気平癒の誦経を行わせる。 54
791 10 (4月) 山背国内の諸寺の塔を修理する。 (9月) 平城宮の諸門を解体し長岡宮に移建する。 55
792 11 (6月) 早良親王の霊を慰める。 (8月) 大雨で桂川等あふれる。 桓武天皇が赤目崎にて視察。 56
793 12 (1月) 宮を解体するため桓武天皇が東院に移る。 57
794 13 (7月) 東西の市を新京に移す。
(10月22日) 天皇が新京へ遷る。 (11月) 山背国を山城国と称す。 【平安京】
58
795 14 (1月) 旧長岡京の地8町を勅旨所の藍園、 近衛府の蓮池にあてる。 [蝦夷攻め ] 59
797 16 (8月) 山城国府を旧長岡京の南に移す。 (11月) 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。 61
806 25 (3月) 桓武天皇崩御。 (4月) 紀伊郡柏原山陵に葬られる。 70


 2403
四仙騎獣八稜鏡
この鏡は建物の柱を据えるための穴から出土したもので、地鎮に使用されたと考えられています。 鏡の縁が8葉の花弁状に作られており、 鏡の裏側には、 周縁に花と蜂、 内側に獣に跨がった仙人と鳥の模様が施されています。 中国唐代の鏡 を粘土で型取りして作られたため、裏側の模様が不鮮明になっています。 奈良の正倉院には同じ形のものが三面あり、そのうちの二面は、この鏡と同じ鋳型で作られた可能性があります。

銭貨
長岡京で使われていた貨幣は、奈良時代に発行された和同開珎・萬年通寳・神功開寳の三種類の銅製の銭貨でした。 銭貨は都を中心にかなり流通していたようです。 また、 物の売り買いのほかに、 祭祀に使われることもありました。

四仙騎獣八稜鏡
四仙騎獣八稜鏡
(正倉院の鏡と同じ模様)
複製品
銭貨
 古代銭貨
和同開珎
萬年通寶
神功開寶
  和同開珎(三つ跳)
和同開珎(四つ跳)
 
   


竿秤のおもり
てこの原理を利用したはかりの一種。
一端に物をつるし、 他端のおもりを動かして釣り合わせ、おもりの位置を目盛で読んで質量を測ります。

竿秤のおもり 鈴・鋲
竿秤のおもり


重さ134.68g
須恵器 土場
 


 2600長岡京


 2610長岡京に住まう
条坊と宅地
 長岡京は条坊制と呼ばれる区画割りによって碁盤の目状に整備されていました。
幅約24mの大路(おおじ)で囲まれた大区画を「坊」と呼び、さらに坊を幅約9mの小路(こうじ)で16分割した区 画を「町」と呼びます。
1町は約120m四方の区画で、 宅地の基本単位となるものです。
1町はさらに2分の1、4分 の116分の1、32分の1に細分され、 位に応じて宅地 が割り当てられました。
位の高い貴族には2町から4町の広 大な宅地を持つ者もいたようです。

建物
 当時の建物には、 石の上に柱を載せた礎石建物と地面に掘った穴に柱を据える掘立柱建物がありました。
礎石建物 は宮殿や寺院などの施設に限られており、一般的な建物は掘 立柱構造の建物でした。
天皇や貴族の住まいは大きく立派な 掘立柱建物で、 柱も非常に太くなるため、 柱を据えるための穴も大きくなります。
また、 宅地内の建物は用途別にわけられていて、 須恵器の大甕を据えた跡を持つ特殊な施設も見つかっています。

長岡京に住まう
条坊と宅地
長岡京の設計図 位による宅地の広さ
建物
新しい都への引っ越し作業
右京二条三坊の大型建物
右京六条三坊の遺構群
大型建物の柱掘形と柱
 

 2620水場

筏用の穴が残る柱
補修して使った柱
柱を載せるための礎板
補修して使った柱
柱を載せるための礎板
加工痕が残る凝灰岩
焼き物の磚
丸太を刳り抜いた井戸枠
丸太を刳り抜いた井戸の模式図
丸太を刳り抜いた井戸の模式図
底に石を敷いた井籠組の井戸枠 底に石を敷いた井籠組の井戸枠
 2630井戸
 井戸は地面から深く掘られた大きな掘形の中に、木材で枠を組んで作られました。
水の出る深さや地盤・地質の違いなどから井戸枠には様々な種類が見られます。 一般的な井戸枠は薄い板材を角材で内止めした構造で縦板組と呼ばれます。
 また、 役所などの公的機関や貴族が使った井戸には、 掘形の底から厚い板材を積み上げた井籠組と呼ばれる井戸枠があります。 井籠組の井戸枠は木材の使用量が多く、 組立にも非常 に手間を要するものです。

長岡京の井戸
縦板と石を組み合わせた井戸
井籠(せいろう)組の井戸 井戸 縦板組井戸の模式図
井籠組井戸の模式図 縦板組の井戸

 2640文化

 2641都の造営と瓦の移動

 都の造営には大量の資材が必要となるため、普通は前の都の建物などを解体して再利用しました。 (いかだ)穴が穿(うが)たれた柱材は難波宮や平城京などから運ばれてきたものと考えられます。

 瓦も前の都で使われていたものが再利用されました。軒瓦の文様から、藤原京や平城京、難波宮の瓦が長岡京で使われていたことがわかります。 一方、市内の奥海印寺にあった谷田瓦窯(がよう)高槻市 萩之庄瓦窯では長岡宮・京に使用する瓦が新たに焼かれました。

都の造営と瓦の移動

都の造営と瓦の移動  瓦の移動

長 ←難波京

京 ←平城京←藤原京
 
 2642衣服
衣服 衣服 衣服
 2643装束
武官の束帯 文官束帯 女官礼服 文官礼服

 2644長岡京の器
器のいろいろ
 都の暮らしぶりを知る大きな手がかりは、当時の人々が 使っていた容器を調べることです。
容器には食膳、煮炊き、 貯蔵など様々な用途があり、材質にも金属製、 木製、 土製が あります。
容器を調べることによって、 使っていた人の階層など多くのことがわかります。
特に土師器や須恵器といった 土器は常に人々の身の回りにあって時間とともに変化してゆくことから、 柱穴など出土した遺構の時代を決める重要な物差しとして利用されています。

釉薬をかけた土器
 長岡京の土器には、土師器・須恵器のほかに、緑釉陶器三彩陶器・灰釉陶器・磁器といった釉薬をかけたものがあります。
これらは土器の表面に緑色,褐色,白色(透明)の釉薬をかけたもので、 色の使い方で緑釉・二彩・三彩陶器にわけられます。
長岡京では緑色だけを使った緑釉陶器が多くなります。 いずれも高級品で、限られた人々が使用していました。
また須恵器に灰の釉薬をかけた灰釉陶器もあり、現在の愛知県猿投山(さなげやま)付近で作られていました。

土器以外の容器
長岡京では土師器・須恵器といった土器のほかに、 木製や金属製の容器も使用されていました。
木製の容器には木を削り出して作った皿などの刳物(くりもの)や、 板を曲げて作った曲物(まげもの)など があります。 漆器は木製の刳物や曲物の表面に漆を塗り重ね て作られたもので、その製作には非常に手間がかかる高価な ものでした。 このため、 長岡京でも出土例の少ない器です。 このほかに金属の器もありましたが、 こちらは寺院や一部の貴族しか使えない高級品でした。

長岡京の器 器のいろいろ 釉薬をかけた土器
土器以外の容器
長岡京のさまざまな土器
漆器の食事
高級貴族の食卓
 2650運ばれた瓦
    「百」字軒丸瓦
(勅旨「旨」の異体字)
軒平瓦
 
軒丸瓦
長岡京の瓦
谷田瓦窯の瓦
軒平瓦
 
「井」印刻瓦
 
 
軒丸瓦
平城京の瓦
(長岡京に運ばれた瓦)
軒平瓦・軒平瓦
長岡京から出土した旧都の瓦
藤原京の瓦
(長岡京に運ばれた瓦)
軒平瓦
藤原京の瓦
(長岡京に運ばれた瓦)
難波宮の瓦
(長岡京に運ばれた瓦)

奈良時代に車輪の付いた運搬具はあったのか
 2660陶磁器
 2661
漆器
鉢・合子
鉢(木地鉢) 合子
越州窯青磁 融着を防ぐ焼き台の痕跡
二彩・三彩陶器の壺・火舎
 2663
灰釉陶器
把手付壷 多口瓶
京内の寺院で使用
須恵器 甑(こしき) 緑釉陶器

羽釜
(茶をたてる道具か)
火舎
 2665カマド
かまど
 2670食器
 2671
食器
 長岡京で使用された食器のほとんどは土器で、 主に赤焼きの土師器と、窯で高温に焼きあげた灰色の須恵器でした。
土器の表面に炭素を吸着させた黒色土器もありますが、 数は多くありません。
土器の特徴として都に住む多くの人々の使用に応えるため、 同じ形で異なる大きさのものが作られました。
これは奈良時代から見られる特徴ですが、 長岡京では種類が 少なくなり全体に小振りになっています。
また、大量生産に 向くシンプルな形で、作りも洗練されています。

食器 でなくの字が当ててあるので
つきとします

でなく
杯,杯と蓋

杯,杯と蓋
杯と蓋,皿

杯と蓋


 2672
須恵器
杯,杯と蓋
黒色土器
杯と蓋

皿,珍しい形の須恵器,把手付杯,コップ形,環状鈕 蓋
 2673
黒色土器,椀,
ロクロ土師器

胡桃の種,桃の種,
梅の種
ロクロ土師器
杯,皿
珍しい形の須恵器
 2674
土師器
高坏,盤

胡桃の種,桃の種,
梅の種
須恵器
盤,製塩土器
 2676
煮炊きの用具
食物の煮炊きには、熱を伝えやすい土師器の甕や羽釜を使い、甑や土製の(かまど)と組み合わせて調理をしました。
出土品の中には外側に真っ黒な(すす)が付いたものが見られます。
また𥧄(カマド)のうち大型のものは、現在の東大阪市付近で作られたものが使われています。

竈,甕
貯蔵の容器
壷,
土師器
鉢,鉢
土師器 竈 煮炊きの用具 甕(かめ)
 2677
貯蔵の容器
貯蔵には主に須恵器が使われていました。 大型の甕は水や 穀物などを入れたり、酒や醤油などを作る容器として使われ ました。 壺には多くの種類がみられ、酒・水などを小分けに して使ったほか、漆など液体を運ぶ容器としても使われてい ました。また頭が長く細い壺は伊豆地方のもので、鰹の煮汁 を都へ運んできたと考えられています。

須恵器 壷
土師器 鉢,鉢,壷
貯蔵の容器 土師器
鉢,鉢,壷
 2678
須恵器 鉢 須恵器 鉢 伊豆地方からカツオ煮汁を入れ運搬

※これなんだろう?
伊豆から運んだ煮汁は醗酵して「塩辛」や「うるか」状態になっていたか?
旨味の深い煮汁は だし汁にするのかと思ったが
距離があり過ぎて腐るか醗酵するのだと考えた。
 2679
須恵器
把手付壷,蓋付壷
 
 

 2690 大甕醸造所跡
須恵器の大甕は都の中でもかなり南にあたる右京八条二坊七町で見つかりました。
大きな掘立柱建物の周囲にある溝から出土しており、 建物内に据え置かれていたと推定されます。
建物内部には柱穴と異なる丸い穴が23個あることから、 多数の大甕が整然と配置されていたのでしょう。
建物と大甕は文献などから、酒などの醸造に関わるものと考えられます。
過去の周辺調査でも51個の据え付け穴を持つ建物があり、この場所には醸造施設が集中して建てられていたようです。

大甕 大甕
大甕
醸造施設内 長岡京跡右京第1019次調査出土 須恵器大甕
甕据え付け穴を持つ建物
須恵器大甕の出土状況
 

 2700役人の生活
役人の生活
 2701役人の生活
 都に住んでいた人々の多くは、身分の低い下級役人たちでした。 彼らは夜明け前に出勤すると、昼まで書類(木簡)の作成や整理などに追われる毎日でした。 字を書く仕事が多いため筆・墨・硯はもちろんのこと、 木簡の表面を削り取る小刀とそれを磨ぐ砥石も重要な道具でした。 下級役人を「刀筆の吏」 と呼ぶのは、必ず小刀を携帯していたことに由来しています。 また字をよく知っていること、 綺麗に書けることは勤務評定にも影響したようです。

役人の生活 今日も事務仕事
 

 2703文字
長岡京の文字

文字
代表的な文字資料に木簡や漆紙文書(うるしがみもんじょ)、墨書土器があります。
木簡は使われた目的により文書、付札(つけふだ)、その他に分けられます。
珍しい木簡として、御守に使われた蘇民将来呪符木簡(そみんしょうらいじゅふもつかん)や迷子をさがすための告知札(こくちふだ)があります。

漆紙文書は漆容器の蓋に転用された紙に漆が染み込み腐らず残ったものです。 戸籍などの文書が代表例です。
墨書土器は文字などが書かれた器です。 一字や二字の場合が多いため、内容を正確に判断することは困難です。

長岡京の文字資料 漆紙文書 墨書土器
紀千世
告知札
檜扇
扇面に書かれた文字
荷札木簡
紀千世は奈良時代~平安時代初期にかけての貴族の名前。官位は従五位下・弾正弼。
弾正弼は都の風紀取り締まりや監察の下級役人か。
紀氏は現代に続く名門
 2710文字資料
 2711
漆紙文書
漆容器の蓋に転用された戸籍
戸籍の記述
  木簡
 
米の荷札木簡かな       
墨書土器 墨書須恵器 蓋に人名と紀千世 文字が書かれた土師器

椀に東市
皿に衛門
衛門=門衛(門番)か
二合
※奈良時代の政所:
主に皇族や三位以上の公家が自身の家政や荘園の実務を処理する機関
政所=役所名 高坏
高坏脚の文字書き
 2713筆記用具
文字を書くための道具

砥石,刀子,平瓶,墨,硯
砥石(刀子を研ぐ)
携帯用砥石
刀子(木簡を削る)
墨(模造品)
平瓶(須恵器の水差し)
転用硯(食器を硯に)
様々な形の須恵器 硯
円面硯(円形)
八花硯(花びら形)
風字硯(長方形)
 


 2720祭祀

 2721
長岡京の祭祀
祭祀
 人々は様々な願いを祈りに託していました。 病気や災いを避けるため、 自分の身代わりの人形(ひとがた)や顔を描いた壺を作り、 水に流し去ろうとしました。 また土の馬やミニチュア土器を使った祭祀も行われていました。
 小規模な祭祀は長岡京の各所で個々に行なわれていたようですが、 長岡京市の西山田遺跡や京都市の水垂(みずたれ)遺跡などでは大量のまじないに使った遺物が見つかっており、 国家が毎年六月と十二月の最後の日に行っていた 「大祓(おおはらえ)」 の行事の跡と考えられます。

様々な想いを祭祀具に込めて

写真:墨書人面土器
緡銭
蘇民将来呪符木簡
川の跡から出土した墨書人面土器

個別に撮影した緡銭のX線CT画像


蘇民将来呪符木簡(そみんしょうらいじゅふ もっかん)
 蘇民将来呪符木簡は、表と裏に 「蘇民将来之子孫者(そみんしょうらいの しそんもの)」と墨書きされた非常に小さな木の札で、上に穴が開けられ御守のように身に付けていたと考えられます。 「蘇民将来」 の呼称は、現代まで厄除けの民間信仰として伝えられています。
 代表的な例は、京都の夏の風物詩である祇園祭に見ることができます。 祇園祭の山鉾では(ちまき)が授与されますが、 粽に付された紙札には「蘇民将来之子孫也」と書かれています。 長岡京跡から出土した木簡は蘇民将来信仰の最も古い例なのです。

蘇民将来呪符木簡 蘇民将来呪符木簡
岡山県西大寺で上から降ってくるお札を取り合う裸祭りは知っていましたが、目的が不明でした。
そして同じ裸祭りが、福島県柳津町や、岩手県奥州市でも行なわれていることを知り驚きました。
 それらの祭は蘇民祭といわれ、疫病、特に天然痘から逃れるための祭祀でした。
海外から入って来た天然痘で、奈良時代の国民の3人に1人,100万~150万人が死んだ。この疫病ショックは当時の未開民であった北方の少数民族,アイヌにも広がり、大きな文化的な変動を与え、引き籠る部族(沈黙交易等)も現われました。
 それにしても蘇民将来などと言う御伽噺(おとぎばなし)をデッチ上げ、茅の輪くぐりなど奈良時代から現代にまで残る風習を形成し、真冬の一・二月に裸足でふんどし一丁姿で極寒の地でもお札の取り合いをさせて、庶民の恐怖感を別な方向に向けさせた、まさに「国民の感情をコントロール」した祭が、奈良時代にすでに始まっていたということのようです。

 2730いろいろな祭祀具
 2731
土馬(水の祭祀) ミニチュア土器 土師器 甕
須恵器 蓋
須惠器 壺
須恵器壺
須恵器壺
土師器 竈
須恵器壺
土師器 鍋
人形・斎串


 蘇民将来呪符木簡
「蘇民捋来」札 (開田四丁目出土)
縦 27mm、横幅13mm、厚2mm 長岡京・六条条間南小路北側溝出土。
表·裹に「蘇民将来之子孫者」墨書 されている。 [市指定文化財]

蘇民将来呪符木簡
「蘇民捋来」札(複製) 増田文物工作隊(代表:
増田恵美子)より寄贈。

表裏に「蘇民将来之子孫者」と墨書
緡銭(さしぜに)

 ※緡銭と祭祀
緡銭は貯蓄で祭祀とは無関係に思えますが、AIに尋ねてみました。

AI による概要
緡銭(びんせん)は、主に祭祀(特に埋納祭祀)や貯蓄といった非流通目的で使われることが多かった、紐で束ねられた銭貨(ぜに)のことです。
緡銭とは
緡銭とは、穴の開いた銭貨(銅銭など)に紐を通して束ねたものです。通常、100枚の銭貨を紐で通し、それを10束(合計1000枚)にしたものを1貫(かん)と数えました。
祭祀との関係
考古学的な発掘調査において、緡銭が土坑(穴)などから大量に出土する事例が多数報告されており、これらは単なる貯蓄ではなく、銭を用いた祭祀の跡であると考えられています。
・埋納目的: 多くの銭貨が壺などの容器に入れられ、地中に埋められた「備蓄銭」の形で見つかっています。これは、社会不安の募る中世において、末法思想(時代とともに仏教の正しい教えが衰えるという思想)の流行などを背景に、仏具の材料とするため、あるいは来世への備えとして行われた宗教的な行為(埋納祭祀)である可能性が高いとされています。
・祭祀遺構: 兵庫県などの遺跡では、緡銭がまとまって出土した土坑が祭祀遺構であると判断された事例もあります。銭を何度も継続的に供える祭祀が行われた痕跡とみる研究者もいます。
・紙銭との関連: 東アジアの文化では、故人があの世でお金に困らないようにという願いを込めて、紙のお金である「紙銭(しせん)」を供えたり燃やしたりする「瘞銭(いせん)」という習俗もあり、これらも銭貨を祭祀に用いる文化的な背景を示唆しています。

このように、緡銭は経済的な流通手段としてだけでなく、古代・中世の日本において宗教的・祭祀的な役割を果たす重要な存在でした。

AIモードで更に詳しく
緡銭(びんせん)とは、中心に穴の開いた銭貨を紐で通して束ねた状態のものを指します。古くから通貨の管理や流通の単位として用いられてきましたが、祭祀(さいし)の場においても重要な役割を果たしてきました。
1. 祭祀における緡銭の役割
考古学的な調査において、緡銭はしばしば「意図的に埋められた状態」で出土し、以下のような祭祀的意味を持つと考えられています。
・鎮魂・地鎮の儀式: 寺院や建物の建設時に、その土地を鎮めるための「地鎮」として緡銭が埋納される事例があります。銅製仏具などと共に発見されることも多く、宗教的な行事の一環として使用されました。
・神仏への供え物: 神社や遺跡において、特定の場所に繰り返し緡銭が供えられた痕跡が見つかることがあります。これは現代の「賽銭」の源流とも言える、神仏への崇敬や祈願のための奉納行為です。
・備蓄と祈り: 大量の銭貨を壺などに入れて埋める「備蓄銭」の中にも、緡銭の状態で収められているものがあります。これらは単なる貯蓄だけでなく、将来の安泰を願う祭祀的な意味合いが含まれていたと推測されています。
2. 葬送儀礼における「紐銭」と「冥銭」
祭祀(特に葬儀や通過儀礼)に関連する習俗として、以下の例が挙げられます。
・六文銭(冥銭): 葬儀において、故人が三途の川を渡る際の「渡し賃」として、一文銭を紐でまとめた六文銭(冥銭)を棺に納める風習があります。
・紐銭(ひもせん): お宮参りの際、親戚などから贈られた御祝儀袋を赤ちゃんの着物の紐に結びつける風習です。「一生お金に困らないように」という祈願が込められた祭祀的な儀礼です。
歴史的背景
古代から中世にかけて、皇朝十二銭や渡来銭などの貨幣は貴重な金属資源でもありました。そのため、経済的な流通手段としてだけでなく、その希少性から神聖な力を持つものとして、国家的な祭祀から庶民の信仰に至るまで幅広く活用されてきました

 2733呪符木簡の出土
蘇民将来呪符木簡が出土した六条条間南小路北側溝 (東から)
六条条間南小路北側溝の桝状遺構 (南西から)
※当時の民衆の恐怖の的だった天然痘。それから逃れると信じられていた蘇民将来呪符木簡をドブに捨てるということは何を意味しているのだろう。
 効果がないと確信したからだろうか。それともそのようなウワサ?
 単に誤って落とした。なくしたのだろうか。
 当時の溝はドブで、糞尿やらゴミやら祭祀具など、のゴミ捨て場だった。
 2735墨書人面土器
土師器
墨書人面土器

AI による概要
墨書人面土器は主に奈良時代に疫病退散や厄除けのため、土器に墨で鬼や疫病神の顔を描き、それを川に流して邪気を払うまじないに使われました。煮炊き用の土師器(はじき)の甕(かめ)が使われることが多く、平城京などの都や地方の役所跡からも多数出土しており、当時の人々の疫病への向き合い方を示す重要な資料です。
使われ方の具体例
・疫病退散・厄払い: 疫病(天然痘など)が流行した際、疫病神や鬼の顔を描いて水に流し、都や村から追い払う儀式に用いました。
・祭祀・儀礼: 古代の祭祀(さいし)で使われる特殊な土器で、宮都や官衙(かんが)関連遺跡から多く見つかっています。
・贖物(あがもの): 「贖物」として、身代わりや罪を贖う(あがなう)ための道具としても関連が指摘されています。
・「顔」を描く: 恐ろしげな顔や目をつり上げた顔が描かれ、これは厄災をもたらす神々を鎮めたり、追い払ったりする意味合いがあったと考えられます。
特徴
・器種: 煮炊きに使われた土師器の甕や鉢が主で、球形の器形が顔を描くのに適していました。
・出土場所: 平城京の側溝、長岡京、平安京などの都や、地方の国府・郡家跡から出土します。
・関連: 奈良時代には文字が普及し始めた時期でもあり、文字が書かれた墨書土器とは区別されつつも、当時の祭祀や生活の一端を示しています。

 2737墨書人面土器
土師器墨書人面土器

 2790廃都

長岡京廃都後の土地利用
 ~平安時代~

 長岡京廃都後は農村化が進み、 多くの宅地が農地へと姿を変えていきます。
 一方で、第三次山城国府に推定されている南栗ヶ塚(みなみくりがづか)遺跡のように、 大規模な施設を伴う遺跡が存在します。国の役所や施設のほか、 平安京に近いこの地域には王臣・ 貴族と関わりの深い寺院や離宮も置かれていたのです。
 また、 山陽道の一部である久我畷(くがなわて)も整備され、この地は現代に至るまで、 常に交通の要衝であり続けました。


 ※長岡京廃都の理由
AI による概要
長岡京が廃都された主な理由は、早良親王の怨霊による疫病や水害の頻発、造営の遅延と計画の破綻、そして藤原種継暗殺事件などによる政治的・経済的不安定さであり、これらの問題を解決し、新たな都を求めるため、桓武天皇が平安京への遷都を決定しました。
廃都の主な要因
1.怨霊信仰と災害:

・長岡京造営責任者の藤原種継暗殺事件(785年)で、容疑者とされた早良親王が無実を訴え絶食死。その後、親王の怨霊が疫病や水害を引き起こしたと信じられ、桓武天皇の母や妃の死も続いたため、都の放棄が検討されました。
・和気清麻呂の提言: 疫病や災害が早良親王の祟りだと考え、都を移すことを提案しました。
2.造営の不備と地形的制約:
・3つの川が合流する地点に位置し、水はけが悪く、洪水が多発する地形であり、都としての適性が低かった。
・発掘調査により、長岡京は計画通りに完成せず、都市計画が途中で大幅に変更され、本格的な都としての整備が破綻していたことが分かっています。
3.政治的・経済的混乱:
・藤原種継暗殺事件後、政治が不安定になり、復旧作業の負担増などで経済的にも苦しくなりました。
仏教勢力の干渉を避ける目的もありましたが、長岡京での問題を根本的に解決できず、10年で遷都に至りました。
これらの理由から、長岡京は10年ほどで放棄され、現在の京都盆地北部(山城国宇多郡)に新たな都「平安京」が造営されることになりました。

長岡京廃都後の土地利用
井ノ内遺跡
今里遺跡
西国街道
西陣町古墓
開田遺跡
神足遺跡
久我啜
南栗ヶ塚遺跡

 都の市場
 都には、左京と右京にそれぞれ1ヶ所ずつ公設市場が設けられており、人々はそこで食べ物や土器などの物品を手に入れていました。
残念ながら長岡京の東西(いち)の場所は明らかになっていませんが、 「市」 墨書土器や 「自(市) 司進」 木簡などの遺物が出土した、
六条大路(ろくじょうおおじ)と東西の一坊大路(いちぼうおおじ)との交差点付近が有力な候補地です。

 復原想像図は、簡素な掘立柱建物の中で品物を扱う店の様子などを描きました。 手前の建物内には干物や貝、 塩などの海産物を扱う店があり、 市人(いちびと)棹秤(さおばかり)を使って何かの重さを計量中です。 通路を挟んだ向かい側には布や土器を扱う店があり、 建物の隅には多くの人に様々な情報を伝達するため、 大きな告知札(こくちさつ)が立てられています。
 また、通路では弓や槍を携えた兵士が巡回して、 市の治安に目を光らせています。

都の市場 都の市場
 
 長岡京後の時代


 2800戦国時代

 2810
勝龍寺城と城館
 ~戦国時代〜
 鎌倉時代から戦国時代にかけて、 市内には地域土豪(どごう)の根拠地である開田城(かいでんじょう)今里城(いまざとじょう)など、中世城館(じょうかん)が多く築かれました。
調査によって勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)も中世城館である神足城(こうたりじょう)を元にしたことがわかっています。

 勝龍寺城は、織田信長の家臣であった細川藤孝によって大規模な改修が行われ、他の中世城館からは隔絶した姿へ変貌を遂げました。
土塁(どるい)下部の石垣や隅櫓(すみやぐら)枡形虎口(ますがてこぐち)など、 中世城館から近世城郭への過渡的な姿が垣間見られるのです。

勝龍寺城と城館 井ノ内遺跡
今里遺跡
乙訓寺
長法寺
今里城跡
祭ノ神遺跡
西国街道
開田城内遺跡
海印寺跡
開田城跡
神足遺跡
西陣町遺跡
奥海印寺遺跡
開田遺跡
勝龍寺城跡 (近世)
雲宮遺跡
伊賀寺遺跡
光林寺
勝龍寺城跡 (中期)
友岡遺跡
(惠解山古墳)
南栗ヶ塚遺跡
    室町時代 地域土豪が住まいした開田城
 
乙訓地域の城・城館分布
 
 乙訓地域の城館の比較
 

 勝龍寺城
戦国時代に細川藤孝が改修した勝龍寺城 本丸東辺土塁に築かれた井戸

 勝龍寺城関連年表
勝龍寺城関連年表
1576-1582
1569-1574 1525-1569 1457-1550

発掘調査中の勝龍寺城跡
北門と枡形虎口
  戦国期の堀と恵解山古墳
 
合戦に備えて進む堀の掘削作業
     
 2820
 2821
宝珠文鬼板瓦 坂本城と同范
軒丸瓦
花文,半裁菊花文
宝珠文,軒平瓦,水波文
 2822
瓦質土管
中世勝龍寺城跡
勝龍寺城跡の南辺土塁を貫く土管暗渠 中世勝龍寺城跡
一石五輪塔,石仏
 2824陶磁器
中世勝龍寺城跡
白磁染付碗 ベトナム陶器 皿
磁器 染付蟹絵皿
白磁皿,鉄釉小碗,
陶器天目茶碗
菊皿,灰釉陶器皿,
鉄釉陶器角皿
美濃焼
 2825火縄銃
火縄銃の各部名称 火縄銃の火挟 鉛製火縄銃の弾
上:中世勝龍寺城跡
下:恵解山古墳
※恵解山古墳が戦場になったようです。
鉄製湯釜
今里遺跡
掛矢
調子一丁目
 2830
 2831
久我畷(くがなわて)の道路側溝
今里遺跡の甕据え付(かめすえつ)け穴建物
(今里遺跡 醸造所跡)
 2833須恵器
須恵器椀
井ノ内遺跡
絵画線刻土器 猿投窯
古代銭貨
開田遺跡
隆平永寶 富壽神寶
承和昌寶
軒平瓦
軒瓦 軒平瓦/開田遺跡
軒平瓦/神足遺跡
軒丸瓦/雲宮遺跡
 2835
凝灰岩製 宝塔相輪
西陣町古墓
宝塔相輪模型
香炉、段皿、皿

灰釉陶器 皿 今里遺跡
緑釉陶器 椀 今里遺跡 南栗ヶ塚遺跡
黒色土器 杯 開田遺跡

 2840中世

 2841
中近世の日常と非日常
 鎌倉・室町時代以降、 乙訓地域でも輸入陶磁器が散見され、江戸時代になると美濃焼など地方窯の隆盛に伴って、 日常的に多様な土器が使用されるようになります。
 一方、勝龍寺城跡から出土した茶器や、 今里城跡に見られる羽子板、 毬杖(ぎっちょう)遊びの木球(もっきゅう)などは、 祭りのような非日常的
催事に使用されたと考えられるものです。 そして、 羽子板や独楽、 泥面子など非日常的な物の一部は、 江戸時代を経て、子ども達の遊び道具へと変わっていきました。

中近世の日常と非日常 中近世の日常と非日常
 2844
滑石製温石(おんじゃく)
奥海印寺遺跡

滑石製 石鍋 開田遺跡
瓦器 水注(すいちゅう)
瓦器 ミニチュア壺
 開田城ノ内遺跡

舟形代(ふながたしろ)
海印寺跡
刀形(かたながた)木製品
今里城跡
墨書土師器皿 今里城跡
十七日
十四日
十六日

土製 鳩笛 開田城ノ内遺跡
土鈴 今里遺跡・奥海印寺遺跡
土製 泥面子(どろ めんこ) 近世勝龍寺城跡
犬形(いぬがた)土製品 開田遺跡
土師器 紅壺 井ノ内遺跡
土師器 紅壺 今里遺跡
土製 転用円盤 今里遺跡
 2845
備前焼 陶器壷
今里遺跡
青磁 下蕪形瓶(しもかぶらがた へい)
花生のモデルとなった中国製の磁器
(大阪市立東洋陶磁美術館蔵)

 備前焼 陶器注口小壺と中に入っていた金属製品

 おはぐろ液
  釘・銅銭・金属ベルト 壷のレントゲン写真 備前焼おはぐろ壷    おはぐろ液原料

AI による概要
お歯黒の原料は、鉄漿水(かねみず)と五倍子粉(ふしこ)の2つで、鉄漿水は鉄片を酢や酒などに漬けて作った酢酸第一鉄溶液、五倍子粉はウルシ科のヌルデの葉にできる虫こぶを粉にしたタンニンを多く含む粉末で、これらを交互に歯に塗ることで黒い膜を作り、虫歯予防効果も得られました。
原料の詳細
・鉄漿水(かねみず)
 ・成分: 酢酸第一鉄(第一鉄イオン)。
 ・作り方: 古釘などの鉄片を、酢、酒、お茶、飴などを混ぜた液体に数ヶ月漬け込み、発酵させて作られた。独特の悪臭があった。
 ・効果: 第一鉄イオンが歯のエナメル質を強化し、耐酸性を高める。
・五倍子粉(ふしこ)
 ・成分: タンニン(タンニン酸)。
 ・由来: ヌルデの木に寄生するアブラムシが作った虫こぶ(五倍子)を蒸して粉にしたもの。
 ・効果: タンニンが歯や歯ぐきのタンパク質と結合して凝固させ、細菌の侵入を防ぐ。
仕組みと効果
1.五倍子粉のタンニンと鉄漿水の第一鉄イオンが反応。
2.空気中の酸素により酸化が進み、タンニン酸第二鉄という黒い物質が生成される。
3.このタンニン酸第二鉄が歯の表面を覆うことで、細菌から歯を守る。

このように、お歯黒は単なる装飾だけでなく、歯の質を強化し、細菌の付着を防ぐ、先人の知恵が詰まった予防歯科の役割も果たしていました。


 子供の玩具
独楽
開田遺跡
羽子板
神足遺跡・今里城跡
木 球 (毬)
今里城跡
毬杖(ぎっちょう)遊び
 
 2850
 2851生活食器
供膳具 土師器類,瓦器,山茶碗磁器,漆器   土師器碗,小皿,折敷
漆器椀,土師器碗,皿
土師器大皿,小皿
     
調理具 鉢類 備前,常滑,瓦質土器,漆器,杓子,杓文字  すりこ木,擂鉢,ざる,曲物,漆器鉢       
煮沸具 鍋 窯 瓦質土器,三脚付鍋

杓子,木蓋,五徳,鉄鍋,
いろり
鉄鍋,石鍋,三脚付釜
鉄釜,木蓋,五徳,鉄鍋,鉄釜
土師器かまど,鉄製五徳

かまど,五徳
 貯蔵具 壷 甕 備前焼,常滑焼,亀山焼,珠洲焼,瀬戸焼 壷,大甕    今里城跡
屈曲する堀
 
 2852
12世紀
瓦器椀 雲宮遺跡

土師器脚付皿 友岡遺跡
土師器皿 雲宮遺跡
土師器皿 神足遺跡
瓦器皿雲宮・井ノ内遺跡
瓦器椀 井ノ内遺跡
瓦器椀 開田遺跡

瓦器椀 長法寺
土師器皿 西陣町遺跡
瓦器椀 井ノ内遺跡
瓦器椀 開田遺跡

瓦器皿 雲宮,井ノ内遺跡
土師器皿 開田遺跡
土師器椀 開田遺跡
土師器皿 井ノ内遺跡
(底に穴を開けている)

土師器皿,椀 開田遺跡
 2853
明石地域制作
須恵器鉢 雲宮遺跡
瓦器土瓶 伊賀寺遺跡
渥美地域で制作
須恵器壷 海印寺跡
 2854
中世の貿易陶磁器 白磁椀 南栗ヶ塚遺跡
青磁椀 井ノ内遺跡

青白磁蓋 開田城ノ内遺跡
黄釉陶器盤 今里遺跡
青磁皿 今里遺跡
青磁椀 開田遺跡

青磁皿 今里遺跡
白磁皿 神足遺跡
青磁稜花皿 開田遺跡
黒釉陶器天目茶碗 乙訓寺
 2855


瓦器羽釜 神足遺跡
土師器竈 雲宮遺跡

土師器竈 雲宮遺跡
瓦器ミニチュア三足羽釜
開田遺跡
瓦器三足羽釜 神足遺跡
瓦器鍋 開田遺跡

瓦器三足羽釜 開田遺跡
瓦器鍋 開田遺跡
瓦器火鉢 乙訓寺

瓦器香炉 神足遺跡
瓦器火鉢 粟生
 
 
 2860山城の生活食器
 2861
近世勝龍寺城跡 本丸を囲む大規模な堀
 2862
ヘソ皿
底を押し上げている
土師器燈明皿 今里遺跡
土師器ヘソ皿 今里遺跡
土師器近世勝龍寺城跡
製塩土器
南栗ヶ塚遺跡

土師器近世勝龍寺城跡
土師器皿 神足遺跡
磁器染付花瓶
白磁染付輪花皿
奥海印寺遺跡
土師器皿 奥海印寺遺跡
磁器染付皿 奥海印寺遺跡
磁器染付碗 奥海印寺遺跡
磁器染付蓋 奥海印寺遺跡

伊万里焼
磁器染付仏飯器 奥海印寺遺跡
 2863
磁器鉢 近世勝龍寺城跡
陶器碗 今里遺跡

瀬戸焼
陶器皿・陶器折縁皿
近世勝龍寺城跡
陶器花瓶 開田城ノ内遺跡(漆繋ぎ)
陶器碗 近世勝龍寺城跡
瀬戸焼
陶器天目茶碗 開田遺跡

陶器香炉 近世勝龍寺城跡
陶器皿 友岡遺跡
陶器碗 近世勝龍寺城跡
京焼
陶器碗 光林寺
磁器土瓶 光林寺

唐津焼
陶器碗 海印寺跡
美濃焼
陶器壷 光林寺
青磁花瓶 光林寺

唐津焼
陶器壷と蓋 光林寺
刻印瓦 乙訓寺
 2864

瓦器火鉢
陶器擂鉢 神足遺跡

土師器炮烙 奥海印寺遺跡

土師器焜炉 開田一丁目
 


 3000はにわ展示
はにわ展示
 ~市内の古墳~
 長岡京市域を含む乙訓地域には多数 の古墳が分布しており、 古墳時代を研 究するうえで非常に重要な地域と考えられます。
当センターでは、これまでに恵解山(いげのやま)古墳など市内に所在する古墳の発掘調査を行い、多くの成果を収めてきました。

 この展示室では、 市内の主要な古墳~今里車塚古墳 恵解山古墳 塚本古墳など~から出土した多くの埴輪をはじめ、副葬品や発掘調査の写真を展
示しています。

 3001入口外観
はにわ展示 展示室内の閲覧順序
反射式実態鏡→恵解山古墳埋納施設→
写真で巡る市内の古墳→市内の古墳→
市内の古墳写真→長法寺・井ノ内稲荷塚古墳→
埴輪の移り変わり→恵解山古墳埴輪

 3110恵解山古墳石室内部
 3111
展示している古墳・古墳群
展示している古墳・古墳群
長法寺南原古墳 (前期)
南原東古墳群 (前期)
今里車塚古墳(前期末~中期初頭)
恵解山古墳(中期前半)
宇津久志古墳群(中期)
神足遺跡 (中期)
開田古墳群 (中期末~後期)
塚本古墳(後期)
舞塚古墳群(後期)
井ノ内古墳群 (後期)
井ノ内稲荷塚古墳(後期)
長法寺七ツ塚古墳群(後期)
今里大塚古墳 (後期末)
走田古墳群 (後期末)
大原1号墳 (後期末)
北平尾1号墳 (後期末)
 3113長岡京市遺跡地図
※分割拡大すると、市内のほとんどに遺跡や古墳群があることがわかりました。遺跡の上に現在の市街地があるようです。

長岡京市遺跡地図
     
 3115反射式実態鏡
    ※二次元のもの(写真や地図)を三次元で見せる道具。
※懐かしい道具です。60年前隣の実業高校の文化祭で覗きました。現在も現役なんですね。当時は地図を立体的に見せていました。写真撮影で、右目の位置と左目の位置で撮影し、二枚を並べて真ん中に仕切りを立て、左右で別々に見ると、立体的に見えると、父が実証して見せてくれました。
 


 3120恵解山古墳埋納施設
   膨大な量の鉄製武器と農耕具
 3121
武器類埋納施設

 武器類埋納施設の発見は、 恵解山古墳が国の史跡に指定される大きな契機となりました。
この埋納施設は前方部中央の上段平坦面から 1m程度の深さにあったと考えられています。

 鉄製武器類は、木箱状の入れ物に納められ ていました。 木箱は南北方向に長く、 その大 きさは、長さ 6.5m 以上、 幅約 0.8m に復元 できます。また、 木箱の構造は、長い側板と 短い板を組み合わせたものであったと考えら れます。

 箱の中には約700点もの鉄製武器類が埋納されていました。 最も底に配置された大刀は、 南のA群から北のF群まで6群にまとめられています。
大刀の上には剣と槍が、さらにその上に束ねられた大量の矢が整然と置かれていました。特異な形状のヤス状鉄製品は南側 の群に置かれています。
 当時、鉄製品は非常に価値の高いものであることから、この埋納施設は恵解山古墳に葬られた人物の権力の強さを如実に物語っているのです。

武器類埋納施設 武器類埋納施設
槍,弓矢,ヤス状鉄製品,大刀,剣,短剣,
短刀,蕨手刀子
埋納施設 鉄製品の概要 埋納施設 鉄製品の概要
大刀 146
11
57
471
短刀 1
蕨手刀子 10
ヤス状鉄製品 5
上記の鉄製品は、京都府指定有形文化財に登録されています。
 3122
大刀(たち)の復元
 恵解山古墳出土の大刀の中で「 」印のものをモデルに製作しました。 146 振りの大刀の長さを平均すると全長 68 センチ前後で、この大刀はほぼ平均値の長さです。
 柄や鞘は腐朽して無くなっていましたが、 恵解山古墳と同じ 5 世紀の遺跡から出土した木製の刀装具をモデルに復元しました。 模様は直弧文(ちょっこもん)と呼ばれる古墳時 代特有の文様です。
 刀身は市販の鉄材を研磨加工して製作しました。 安全 のため刃をつけず、焼き入れも施していません。 柄と 鞘口・鞘尻装具は出土事例に従いカエデ材を、鞘本体 はスギ材を使用しています。
  (増田文物工作隊)

大刀の復元


農工具
 前方部の東側で行われた調査では、 後世に崩れた墳丘の盛土からも鉄製品がまとまって出土しました。
鉄製品には、斧、鋤先、鎌、刀子などの農工具類と、剣 や鏃などの武器類がありますが、そのうち大半を占めるのが斧や鋤先などの農工具類です。

 これらの鉄製品は、 本来、 前方部に設けられた施設 にまとめて埋納されていたと考えられます。 その場所 を特定することはできませんが、 第3次調査で発見さ れた鉄製武器類埋納施設の北側ないし東側に、農工具類の埋納を主体とした別の施設が存在したと考えられます。

農耕具

 ※鉄製武器と鉄製農耕具
剣と鍬が同一次元で埋納されているということは、古墳の主は、農耕集団の長で、農耕と密接に繋がった、初期の覇王だったのだろうか。それとも、
貴重だった鉄製農耕具が、武器と同一視されるのは、武器と同じ働きをする時。それは、道もない未開地を進軍し戦うには、木器ではなく遥かに効率的な鉄製農具で道を開き、陣地を構築することは、短時間に兵力を移動し勝利するのには必要不可欠だっだだろう。この時、農具は戦争の道具となる。そのために武器と農具が共存していた。のかも知れない。


 3123
鏃と矢の復元
 恵解山古墳の鏃は大型の物が多く、重いので弓で放っても飛距離は期待できそうにありません。
しかし刃渡りが長く、腸抉(わたくり)と呼ばれる逆向きのとげの部分も大きいので危険極まりなく、飛来してくる様は想像するだに恐ろしいものがあります。
 矢柄の実物が出土した例は少なく、形態や材質はよくわかっていません。 復元では現代の弓道の矢を転用しました。 古墳時代の矢の運搬に使う道具は、後世の ものと異なり鏃を上にして納める形態ですので、出し入れの都合を考えると矢羽根は2枚羽だったかも知れません。

 古墳時代の弓は、 2メートルを超える一木造りの長弓で、小柄な日本人が扱いやすいよう握りから上が長く下が短い “上下非対称型” をした日本独特の形態です。 この特徴は後世に受け継がれ現在の和弓にも見られます。 恵解山古墳では腐朽したためか出土しませんでしたが、きっとあったと思われます。
(増田文物工作隊)

鉄鏃やじり
 埋納施設では弓矢の鏃が特に多く出土しました。
一度に埋納された鏃の総量としては京都府下で最も多く、しかも、その種類が非常に豊富です。

  鏃身の形態や大きさの違いなどから、
柳葉(やないば)腸抉(わたくり)柳葉式三角形式圭頭(けいとう)腸抉長三角形式方頭(ほうとう)短茎(たんけい)長三角形式の7形式14種類に分けることができます。

鏃と矢の復元
鉄鏃
 3126
刀子
鋤先

石製模造品
(鉄斧を模造)

 3127
短茎重抉三角形式
短茎重抉長三角形式
袋状の矢柄取り付け部
螺旋状に加工された茎部
長頸重三角形式
三角形式
方頭式
圭頭式
腸抉柳葉式
柳葉式
ヤス状鉄製品
 3128
蕨手刀子,短刀
大刀,大刀,
剣,槍
蕨手刀子
短刀

大刀×2
大刀・剣・槍 剣・槍
 3129
 

 3260写真で巡る市内の古墳

恵解山古墳 第8次 (右京第920次)
西くびれ部上段の葺石
(北西から)
長岡京市勝竜寺 久貝2丁目 平成19年度
今里車塚古墳 (右京第488次)
後円部の造り出しと陸橋
(南東から)
長岡京市今里4丁目 平成6年度
長法寺南原古墳
後方部の竪穴式石室
(北から)
長岡京市長法寺 昭和9年
恵解山古墳 第5次 (右京第827次)
前方部西側中段の埴輪列
(南から)
長岡京市勝竜寺・久貝2丁目 平成16年度
今里車塚古墳 (右京第488次)
外堤の埴輪棺
(西から)
長岡京市今里4丁目 平成6年度
 
今里車塚古墳 (右京第352次)
後円部と周濠
(南西から)
 
恵解山古墳第6次 (右京第 859 次)
西造り出し北辺の基底石
(北西から)
長岡京市勝竜寺・久貝2丁目 平成17年度
恵解山古墳第10次 (右京第987次)
東造り出しの石列と州浜
(北から)
長岡京市勝竜寺 久貝2丁目 平成21年度
 

 3270今里車塚古墳
 3271土製品
今里車塚古墳
ヒレ付き円筒埴輪
今里車塚古墳
赤色顔料が付着しています

今里車塚古墳
ヒレ付き円筒埴輪
今里車塚古墳
マエ塚古墳 (奈良県)
朝顔形埴輪
今里車塚古墳
ヒレ付き円筒埴輪
今里車塚古墳
赤色顔料が付着しています
家形埴輪(屋根・基部)
恵解山古墳
導水施設
復元模式図
家形埴輪 (屋根 基部)
恵解山古墳
導水施設
復元模式図
復元模式図
 3273埴輪
  普通円筒埴輪
恵解山古墳
普通円筒埴輪
(ヘラ記号) 
二ゴレ古墳(京都府)
船形埴輪
恵解山古墳 
船形埴輪
恵解山古墳 
二ゴレ古墳(京都府)   
短甲
草摺
甲冑形埴輪
短甲
草摺
甲冑形輪
壺形埴輪
惠解山古墳
壷形埴輪 壷形埴輪
長原一ヶ塚古墳
 3275
靭形埴輪
恵解山古墳
萱振1号墳(大阪府)
蓋形埴輪
立飾(たちかざり)
台部
恵解山古墳
 
 3300
 3310市内の古墳
 3311市内の古墳
  今里車塚古墳 
恵解山古墳
塚本古墳 
開田古墳群 塚本古墳(右京第972次)
後円部と周濠
(東から)
長岡京市開田3丁目
平成21年度
 

 恵解山古墳の位置
恵解山古墳の位置
乙訓古墳群の古墳 1 巡礼塚古墳
2 穀塚古墳
3 山田桜谷1号墳
4 清水塚古墳
5 天鼓森古墳
6 一本松塚古墳
7 百々池古墳
8 天皇の杜古墳
9 元稲荷古墳
10 五塚原古墳
11 寺戸大塚古墳
12 北山古墳
13 妙見山古墳
14 伝高畠陵古墳
15 牛廻し古墳
16 御塔道古墳
17 山開古墳
18 南条3号墳
19 南小路古墳
20 西小路古墳
21 物集女車塚古墳
22 長法寺南原古墳
23 境野1号墳
24 カラネガ岳2号墳
25 今里車塚古墳
26 鳥居前古墳
27 鏡山古墳
28 今里庄ノ渕古墳
29 恵解山古墳
30 芝1号墳
31 舞塚1号墳
32 塚本古墳
33 井ノ内稲荷塚古墳
34 井ノ内車塚古墳
35 今里大塚古墳

 地域別古墳の築造年表
地域別古墳の築造年表 西暦300年 古墳前期 西暦400年 古墳中期
西暦500年 古墳後期
 3313今里車塚古墳
今里車塚古墳
方格規矩(ほうかく き く)
ガラス製小玉
宇津久志1号墳
ガラス製
重層連玉(じゅうそうれんぎょく)
ガラス製
環状玉
ガラス製
重層連玉
 3314
鉄鏃
鉄製雲珠 碧玉製 管玉 金製刀装具

 3315長法寺七ツ塚3号墳
長法寺七ツ塚3号墳
  ガラス製 小玉         
碧玉製 平玉 水晶製 切子玉 水晶製 算盤玉
  ガラス製 小玉 メノウ製 丸玉
ガラス製 小玉
 
水晶製
算盤玉・丸玉 
水晶製
切子玉 
 

 長法寺七ツ塚4号塚
滑石製 紡錘車 滑石製 紡錘車
長法寺七ツ塚3号塚
滑石製 紡錘車
長法寺七ツ塚4号塚
 3316宇津久志古墳群
宇津久志古墳群 (右京第321次)
宇津久志1・2号墳
(北から)
長岡京市天神5丁目 昭和63年度
長法寺七ッ塚古墳群 第3次 (右京第276次)
長法寺七ッ塚1~4号墳
(東から)
長岡京市長法寺北畠 昭和62年度
走田古墳群 第1次
走田9号墳の横穴式石室
(南から)
長岡京市奥海印寺明神前 平成7年度
 
 3480写真で巡る市内の古墳
開田古墳群 右京第376 次)
開田8号墳の検出状況
(東から)
長岡京市開田1丁目 平成3年度
今里大塚古墳第4次 (右京第 657次)
横穴式石室の羨道
(南東から)
長岡京市天神5丁目 平成11年度
 
 3520長法寺古墳群出土物
長法寺古墳群出土物
 3521長法寺古墳
長法寺七ツ塚3号墳1号埋葬施設の
副葬品出土状況
坏蓋・身 長法寺七ツ塚3号墳の須恵器
広口壺

 3523井ノ内稲荷塚古墳
井ノ内稲荷塚古墳 横穴式石室
副葬品出土状況

井ノ内稲荷塚古墳の出土品は長岡京市の指定文化財です。

杯蓋・杯身
高杯蓋
有蓋高杯
井ノ内稲荷塚古墳の須恵器
ハソウ

コロコロ鳴ります!
ハソウは、胴体に孔をあけた祭り用の土器です。 この鈴付ハソウは胴体の下半分が仕切られ、その中に小石
が入っています。

横瓶
台付直口壺
 3525井ノ内古墳群
杯蓋・杯身、短頸壷
井ノ内古墳群の須恵器
怀蓋·杯身、杯身
大原1号墳の須恵器
台付壺、平瓶 北平尾1号墳の金環
 3530埴輪の移り変わり
3世紀
 特殊器台
 特殊器台形埴輪
4世紀
 普通円筒埴輪
 特殊器台形埴輪
器財形埴輪
 家・盾・蓋・靫など
動物・人形埴輪
 鶏・水鳥
5世紀




動物・人形埴輪
 馬
 人物
6世紀
 
 


 4000恵解山古墳の埴輪

 4010全景

 4020(きぬがさ)形埴輪
復元された蓋形埴輪
この蓋形埴輪は、 現在恵解山古墳の墳頂部に置かれているものと同じ復元品です。
蓋形埴輪は貴人に差し掛ける傘を表現したもので、傘の上方に伸びる立飾が差し込まれています。


 4030塚本古墳の形象埴輪

塚本古墳の大刀形埴輪
大刀形埴輪は、鞘に納めた大刀を柄を上にして立てた姿で表現されています。 大刀を手で握る部分の柄間には糸か紐を巻き付けた表現があり、
手の甲を守る帯には玉と考えられる半球形の飾りが付けられています。

塚本古墳の形象埴輪 大刀形埴輪 大刀形埴輪 塚本古墳の大刀形埴輪 藤ノ木古墳大刀剣の復元品 (奈良県)


塚本古墳の石見型盾形埴輪
 石見(いわみ)型盾形埴輪は、奈良県石見遺跡で初めて見つかったことからこの名前が付けられました。
盾形と呼ばれていますが、 実際は盾ではなく、 祭祀において使用された権威を示すための道具を模したものと推定されます。
 石見型盾形埴輪は、近畿地方を中心に分布していますが、 出土例は多くなく、全体を復元できる塚本古墳の例は重要な資料です。

塚本古墳の石見型盾形埴輪
石見型盾形埴輪 石見遺跡 (奈良県) 塚本古墳の石見型盾形埴輪 石見型盾形埴輪 石見型盾形埴輪

 4040水鳥形埴輪 恵解山古墳
雁などの水鳥を模した埴輪は、 東側造り出しの張り出し部近く、礫が敷かれた州浜から出土しました。

水鳥形埴輪 水鳥形埴輪出土状況
恵解山古墳出土

 4050家形埴輪 恵解山古墳

 4060人形・蓋形埴輪
人物形埴輪
舞塚1号墳
蓋形埴輪
塚本古墳
 4065円筒埴輪
普通円筒埴輪

舞塚1号墳,神足遺跡,南原東3号墳,長法寺南原古墳
 4067馬形埴輪 開田13号墳
馬形埴輪
 4070鶏形埴輪

鶏形埴輪
恵解山古墳
参考資料
鶏形埴輪(奈良県大和高田市)領家山古墳出土
鶏形埴輪
開田13号墳
 4080家形埴輪
家形埴輪
開田13号墳
開田古墳群
家形埴輪
宇津久志2号墳
 4085冑形・盾形埴輪
今里車塚古墳の冑形・盾形埴輪

 冑形埴輪は衝角付冑(しょうかくつき)と呼ばれる鉢部の前方が尖った形態のもので、(しころ)部分以外にまったく模様がありません。
これは革製の冑を表現したものと見られます。

 盾形埴輪は中央に独特の紋様を描いていて、原型は弥生時代の木製盾に見られます。おそらく伝統的なもので、呪術的な意味があるのでしょう。 大きさから持ち盾と見られます。 この二つの埴輪の組み合わせは、 武装した兵士が古墳の主を守る様子を表現したものなのでしょう。

衝角付冑形埴輪 盾形埴輪

 4090木製飾り板
今里車塚古墳の木製飾り板
 この木製飾り板は、後円部に接続する造り出しの西側周濠内から出土しました。
横幅約1.6mに復元できる巨大なもので、表面には直孤文帯状の文様が施されています。

 全国でも木製品の出土例はほとんどありませんが埴輪では椅子形埴輪の背もたれ、 船形埴輪の仕切り板、ついたて形埴輪があり、古墳祭祀で権威を示すための道具と考えられます。

今里車塚古墳の木製飾り板
今里車塚古墳
(京都府調査分)
笠形木製品
今里車塚古墳
※横幅1.6mもの飾り板はいったいどんな製品だったのでしょう。

木製の蓋(きぬがさ)だったのでしょうか。

 木製品の出土例
茶臼山古墳(群馬県)
津堂城山古墳(大阪府)
 
 
 
 6000回廊展示
 6001陶棺
須恵質四注式陶棺
北平尾1号墳(後期)
 6003円筒埴輪
南原東3号墳の埴輪棺
 南原東3号墳では、埴輪棺が2基並んだ状態で確認さ れています。
1基は、盾形埴輪、円筒埴輪、 朝顔形埴輪 を組み合わせたもので、いずれの埴輪も棺に転用された ものと考えられています。
もう1基は、 棺用として特別に製作されたもので、 釣鐘(つりがね)形の棺蓋と円筒形の棺身からなる大型品です。

埴輪棺身・蓋 南原東3号墳の埴輪棺
※埴輪職人の長の
埴輪棺だったのでしょうか。
盾形埴輪
南原東3号墳(前期)
南原東3号墳の埴輪棺出土状況
昭和 60 年度調査
古墳時代
南原東3号墳の埴輪棺出復元図