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 2025.11.06-1

 奈良文化財研究所
  平城宮跡資料館 奈良県奈良市佐紀町247-1
    0742-30-6753 月休 撮影可

 
交通 近鉄大和西大寺駅北口から東へ徒歩約15分
バス…近鉄大和西大寺駅前から3つ目

近隣観光地 平城宮跡歴史公園、奈良公園、興福寺など多数
近隣博物館 周辺の博物館ランキング
 
 はじめに
 とかく古墳時代から平安時代に焦点化される大和盆地ですが、『旧石器時代~縄文~弥生時代』の展示と聞いてやってきました。
今回の掲示は、『平城宮跡資料館』の展示構成・常設展と特別展。加えて、『復元事業情報館』『平城宮跡公園』『大極殿内展示資料』です。
 
 目次


100平城宮跡資料館
102常設展
103施設紹介
110研究と保存
120ジオラマ
121平城宮の解体

200官衙復元コーナー
203大極殿解説
207平城宮ジオラマ
211平城宮の役所
220平城宮で働く人々
240宮殿復原
243寝室・書斎・居間
250食卓

300研究室コーナー
310木簡の研究室
340木器・金属器の研究室
341百万塔
370出土品が語る都の世界
410都のくらし
450国際交流
470土器の研究室
471土器のうつり変わり
477奈良三彩
480瓦の研究室
490奈文研トピックス
493年輪年代法

1000特別展『ナラから平城へ』
1100第1章 ナラのはじまり
  《後期旧石器時代前半期》

1110氷河期の平城京・宮
1120法華寺南遺跡
1130氷河期の奈良盆地
1160狩猟採集民の生活
1170コラム旧石器時代研究のはじまり

1200第2章 寒い! 暑いナラ!
 ≪後期旧石器時代後半期~縄文時代》

1210最寒冷期
1220瀬戸内技法
1231有舌尖頭器

1232縄文時代
1233定住生活が進む
1235皮なめしと掻器

1300第3章
 ナラの地に新しい技術と集落が
 ≪弥生時代≫

1310兵部省地区の発掘調査
1320弥生時代の竪穴建物

1400第4章そして平城へ…
 ≪古墳・飛鳥≫

1410大規模古墳
1430土師器の暗文
1440朝堂院下層
1450木製農具
1460遷都直前の平城
1480終わりに

1500平城宮案内図
1600平城宮跡歴史公園

2100復元事業情報館
2102入口展示 鴟尾
2119a復原工事の全容
2121組物
2118宮大工の仕事
2117木取り
2115木組み
2114瓦葺
2111左官
2109飾り金物
2107本瓦葺
2105錺金具
2103扁額

2300第1次大極殿院南門と東楼

3400大極殿
3401大極殿の概要
3420鴟尾
3421復原 
3430高御座外観模型
3461古代技術


 


 100平城宮跡資料館

 101外観・入口展示

江戸時代から幾多の先人が研究や保存に
努力してきた宮跡に、遺跡と景観配慮の平屋建ての資料館です。
すぐ前には平城宮跡が広がっています。
平常宮跡資料館
要塞のようなコンクリートの塀

ピンボケでなかったのはこの写真だけ

ボランティアの足元には巨大な
平城宮跡空撮写真
 


 常設展

 103施設紹介
奈良文化财研究新 NABUNKEN
奈良文化財研究所 (奈文研) は、1952年に古都奈良に設立された文化財を総合的に研究する研究所です。 文化財研究のナショナルセンター として、考古学、建築史学、 文献史学、 保存科学を中心に、様々な分野の約80名の研究者が調査研究や研修などにあたっています。
奈文研の調査研究でもっとも特徴的なのは、 奈良市を中心とする平城宮・京跡、 明日香村、 橿原市を中心とする飛鳥地区、 藤原宮・京跡での 発掘調査とそれらにもとづく古代都城制研究です。 とくに、 平城宮跡の発掘調査については、1959年から今日まで継続して進めています。

平城宮跡資料館
この平城宮跡資料館は、平城宮跡の馬寮跡に、1970年に設置されました。ここでは、奈文研の研究成果や仕事をわかりやすく 紹介しています。
皆さんがご覧になる展示は、いずれも、奈文研の調査研究にうらづけされたものなのです。

奈良文化財研究所
平城宮資料館

 平城宮跡の解説
平城宮跡解説
奈良時代
奈良時代
710 (和銅3)年、 元明(げんめい)天皇の時に都が藤原京から平城京に移されました。 これにより桓武天皇によって長岡京へ移される784 (延暦3)年までの75年間を奈良時代といい ます。
藤原京の時代に制定された大宝律令という法律に もとづいて、律令制による国作りが進みました。 また聖武天皇の治世には総国分寺である東大寺をはじめ、全国に国分寺が建設されました。
遣唐使の派遣など、 中国の唐との交流が活発になるとともに、 渤海(ぼっかい)や朝鮮半島の新羅との間にも盛んに交流が行われた国際的な時代でした。
平城京
平城京
平城京は東西約4.3km・南北約4.8kmの範囲を中心に、
東側に東西約1.6km・南北約2.1kmの張り出し部分 (外京(げきょう))があり、
北辺西側に北辺坊(ほく へんぼう)とよぶ区画がありました。
北寄りの中央には平城宮があり、 市街地は東西南北に走る道路によって碁盤目状に区画されていました。
平城京南辺中央には、正門として羅城門が建ち、 門をくぐると朱雀大路が北へ と延びていました。その突き当りには平城宮の正門である朱雀門(すざくもん)がそびえていました。
京内には平城宮に勤める役人や一般庶民の住宅のほか、 多くの寺院が建ちならんでいました。 東西2ヶ所には国営市場である東市と西市がありました。
平城宮
平城宮
平城宮は平城京の北の端の中央にあります。 東西南北約1kmの正方形で、東に庭園を含んだ張り出し部分がありました。 周囲は高い土塀 (築地塀) で囲われ、中には政治や儀式の場である大極殿と朝堂院、天皇が日常生活をおくる内裏(だいり)、 役所の建物、 宴会をひらく庭園などもありました。
大極殿・朝堂院は瓦を葺いた中国風の建物で、高い基壇の 上に建てられていました。 これに対し内裏の建物は屋根に檜の樹皮を葺いた檜皮葺きで、日本の伝統的技術を用いて作られた建物でした。
 105平城宮
平城宮
平城宮 奈良時代前半 平城宮 奈良時代後半
平城京の地割(条坊) 平城京復原図
平城京復原図 ※平城宮北西角に『伊福部門』がありました。
ゴジラ映画の最初期にあの有名なテーマ曲(1954年)を作曲した伊福部昭氏は北海道出身だったのですが、その御苗字が古代の部制に由来するとは思っても見ませんでした。
地名:伊福部  苗字:伊福部

 107年表
古墳~奈良時代 古墳・飛鳥時代 佐紀盾列古墳群
藤原宮跡
奈良時代 東院庭園
大仏の鋳造
長屋王の変
朱雀門前の歌垣
絵:早川和子
平安~江戸時代
測量する北浦定政
絵:穂積和夫
東大寺縁起絵図
(部分)
鎌倉時代東大寺藏
近代
平城宮保存紀念碑
現代
平城宮跡第4次発掘調查(1960年) 朱雀門 東院庭園
第一次大極殿

 ※第一次大極殿の屋根の上にあるのは何
第一次大極殿の屋根には、宝珠と**鴎尾(おうび)**が据えられています。
復原された屋根の棟の中央には宝珠がのせられ、棟の端には当時の格式高い建物に用いられた鴎尾が設置されています。

宝珠(ほうじゅ): 屋根の棟の中央に据えられている、玉のような形状の飾りです。
鴎尾(おうび): 棟の端に据えられている、鳥の尾に似た形状の飾りです。復原された屋根には、青銅製で金箔が5層重ね押しされた鴎尾が使用されています。



 110研究と保存

 111
平城宮・平城京研究の先駆者たち 北浦定政
平城宮跡の地図作成
陵墓研究家
奉行所手代
関野 貞
喜田貞吉
関野 貞:建築史学者
建築家,美術史,考古学者,東京帝国大学名誉教授,
功績:平城宮跡の保存に貢献
喜田貞吉:歴史学者
文部官僚,東京帝大卒
功績  業績
 112
平城宮跡の保存運動 棚田嘉十郎
溝辺文四郎
昭和の保存運動
開発から宮跡を守る
 113北浦定政『平城宮内裏跡坪割之図』
北浦定政測量作成の
平城宮内裏跡坪割之図
平城宮跡に残る地名
羅城門のなごり
北浦定政測量作成の
平城宮内裏跡坪割之図

 ※私が聞いている話では、このような偉い学者さんばかりではなく、もっと庶民で自営業をしながら自家の財産を使って当時の田圃を買って
  開発や宅地化から守った偉人がいたと聞いています。そんな人は出てきませんね。

 120ジオラマ
 121平城宮の解体 長岡京へ(784,延暦3年)
平城宮は710(和銅3年)に藤原京から移転されました。740(天平12年)恭仁京(京都府木津川市)に移転され、744(天平16年)には難波宮(大阪市中央区)
745()には紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町)へ、で、すぐにまた、745平城京に戻された。

※古代の大都市では、ゴミ収集も糞尿の回収もなく、全ては都の中を流れる水路に捨てていたため、やがて水路が詰まり、悪臭で居住が困難になるため、定期的に都を移す必要があったそうです。まぁ、この悪習のために、水路跡から土馬やまじないの木簡や人形が出土するわけです。

平中物語を現代作家が表した小説に、主人公平中が惚れてしまった女性をあきらめるために、その糞尿の臭いを嗅いで愛想をつかそうと、下女が桶を持って捨てに行く途中で捕まえて臭いを嗅ぐ場面がありました。女性は更に上手で、糞尿に似せた香木などを持たせ、更に追い込んだ話があった。
 しかし、この平城宮を巡る5年から数か月の移転は、政治的な駆け引きや、気分の問題のような、極めて異常な移転です。

屋根から外された瓦
 遷都 長岡京への移転が決まると、 平城宮の建物は次々と解体されて長岡宮へ運ばれていきました。  瓦の解体  瓦は屋根からすべて下ろし、再利用できる ものは運び出し。 発掘で出土する瓦は、再利用 できずに捨てられたものです。  掘立柱の抜き取り
 
建物も解体して運びました。 柱は抜き 取ったり、根元から切ったりしました。 

 ※この時解体されたのは、第二次大極殿で、第一次大極殿は恭仁京に取り残され、国分寺となったのちに、火事で焼失しました。
 123発掘

発掘 平城宮の跡は1千年以上のあいだ水田となっていたため、地下には奈良時代の建物跡などが比較的良い状態で残っています。 奈良文化財研究所では、ほぼ一年を通じて平城宮跡の発掘調査を行っています。 
手作業での発掘
少しずつ土を掘り下げ、土の色や質の違いで 柱の穴などを見つけます。 出土した土器や瓦は、 位置を記録して整理室へ。 
 記録作業  発掘調査では様々な記録をとります。
なかでも写真は重要です。 写真専門 職員がいろいろなアングルの写真を 撮影します。
 130ジオラマ

 実測
発掘調査が終わると、 平面や断面などの正確な実測図を作成 します。
できあがった図面をもとに、 調査のまとめや建物の復原 を行います。
測量
GPSで出正確な位置を測り、東西南北3mごとに基準となる丈夫な糸:水糸を張ります。 
 図面作成
調査区に張りめぐらした水糸を使い、 柱穴や溝などを書き込んだ1/20 の平面図や 断面図を描きます。


整備
発掘調査が終わると埋め戻してしまいますが、 調査の成果に 基づいて、 奈良時代のありさまを様々な方法で復原し、 遺跡公園 として整備しています。
 全形復原 写真中央の築地塀や石組みの溝のように、 発掘成果と現存の古代の建物などから、 当時のかたち全体を復原するものです。
部分表示
円柱形に刈り込んだツゲの木で、 発掘された柱穴の位置を表示してます。倉庫は礎石が並ぶ基壇だけを復原しています。
 

 200官衙復元コーナー
 201ビデオ解説
官衙復原
平城宮の正門を入り広場を過ぎると

4つの朝堂、つまり条堂という建物が並ぶ中央区の超都人がいました。

「4つの朝堂」という表現は、日本の古代宮殿の朝堂院における建物の配置を指していると考えられます。特に、長岡宮や後期難波宮では、朝堂院の左右(東西)にそれぞれ4棟ずつの朝堂(合計8棟)が配置されていました。

朝堂院と朝堂
 朝堂院は、天皇の即位式や元日朝賀、外国使節との謁見など、国家の重要な儀式や政務が行われた場所(現在の国会議事堂のような機能)です。
・朝堂: 朝堂院を構成する個々の建物のことです。官人(役人)が位階に応じて着座し、儀式や政務に参列しました。

4つの朝堂の具体的な意味
「4つの朝堂」は、以下のいずれかの状況を指している可能性が高いです。
・左右4棟ずつの配置: 長岡宮や後期難波宮では、朝堂院の東側に4棟、西側に4棟の朝堂が南北に並んでいました。発掘調査では、それぞれの堂の位置や規模が確認されています。
・変遷の中での数: 古代の宮殿の変遷の過程で、飛鳥時代の宮殿では正殿が3つから4つへと増加した時期があったことも指摘されています。
平安宮の朝堂院では、東西にそれぞれ6棟、合計12棟の朝堂があったとされており、時代や宮殿によって朝堂の数や配置は異なります。
したがって、「4つの朝堂」とは、特定の時代の宮殿(特に長岡宮や後期難波宮)における東西各4棟という配置を指すか、あるいは古代宮殿の変遷を示す文脈で使われる表現であると考えられます。

 203大極殿解説
大極殿
大極殿は平城宮中央に位置する内最大の建物。御座に天皇が座り、即位や元日朝賀の儀式、外国使節のもてなしなど、重要な国家的儀式を行いました。
大極殿院
回廊で囲まれた大極殿のある東西177m、南北319mの長方形の敷地が大極殿院。北よりの一段高いところに建つ大極殿前に、 入るのを許された役人が並び、 儀式を行いました。

大極殿院
南北319.5m
東西 177.5m
大極殿跡の調査
(遺構図)
大極殿 大極殿院
 205
手前が大極殿院南門
左右に西楼・東楼
 207平城宮ジオラマ
中央基幹排水路 後殿
大極殿
磚積擁壁
幢・幡
(どう)(ばん) 大極殿
磚積擁壁(せん(かわら)づみようへき)

 211平城宮の役所
律令制では二官八省と呼ばれる役所が置かれました。二官とは政治全般を統括する太政官と、宮中の祭りごとや全国の神社を統括した神祇官です。 太政官の下には、式部省・大蔵省など八省があり、省の下には、職・寮・司という名の部局が置かれました。
平城宮にはこれらの役所の建物が配置され、 およそ7,000人の役人が勤務していました。 これまでに神祇官・式部省・兵部省・寮・造酒司 などの役所が見つかっています。

平城宮の役所 兵部省
造酒司

 212役所の調度品
役所の調度品
役所の調度品 ここに配した調度品は、正倉院に 残るものを参考にして作りました。
役所では、 土間に机と椅子、床(あぐらや 正座する台)を置いて執務したようです。 役所の棚厨子には、書類や文房具を
入れた箱が置かれていました。
 
役所の調度品

役所の道具
役所の道具
発掘された役人の仕事机と文房具。 下級の役人が使ったすわり机。
字を書くための墨・筆・硯のほか、木簡を削る小刀、計算用の算木もみられます。
役所の道具
1.机
2.硯
3.墨
4.筆
5.水さし
6.木簡(模造品)
7.小刀
8.銅印
9.木印
10.算木
11.文書箱


平城宮の役人の多くは、 食器を硯に転用していま した。右側は須恵器杯蓋をひっくり返して、内側 で墨をすった痕跡が残っています。 左側は須恵器 杯の内側で朱墨 (しゅぼく・しゅずみ)をすった ことがわかります。 この杯は底裏で墨をすった痕 跡も確認できます。 黒い墨と朱墨は同じ硯ではす ることができないのでしょう。 朱墨はいずれも食 器を転用した硯を用いています。

須恵器を転用した硯
 

 220平城宮で働く人々
 221
平城宮で働く人々
平城宮の中には、二官八省をはじめとする役所や宮殿など多くの施設が建ち並んでおり、 そこではさまざまな人々が働いていました。

平城宮で働く人々 平城宮で働く人々

兵士・その他の人々
平城宮の門や建物は、 兵士が警備していました。 地方の役人の子弟や、 地方の軍隊に徴兵された人々が都へ来て任務にあたりました。
その他、役所や作業場の下働きや雑用をする労役として地方から集められた 人々が大勢いました。 また天皇の住まいである内裏で働く女官もいました。

役人
役人の位は、30段階に分かれていました。 彼らの服装は、規則によって色や材質が 細かく決められており、服装を見れば身分がわかるようになっていました。
役所での業務は、現代と同じように大量の文書や帳簿を作成しなければなりません でした。そのため平城宮内からは、多くの文字資料や現などの文房具が出土しています。

兵士・その他の人々
役人

 223武具
隼人の盾
隼人は南九州の人々で、宮門の警備につきました。
儀式の際はこの盾と槍を持って門前に整列し、独特の発声法で邪気を払ったとされています。

隼人の盾 矢じり
隼人の盾
 230役人の丁度
平氏に関する墨書土器
中衛府、佐兵衛府
右兵衛、兵部

役人のベルト
規則では、五位以上の貴族は金銀で飾った帯金具(上)、 六位以下の下級役人は銅製黒漆塗りの金具(下)と 決まっていました。

  役人のベルト         

漆紗冠(しっしゃかん)
粗めの編物に漆をかけてつくった冠。 5位以上の高官がかぶったものとされています。

漆紗冠

 役所に関する墨書土器
上番,下番,考番,大膳
大炊,雅楽,,
役所名の入った土器  雅楽,主馬,
式部省,宮職,
 235役所の調度品
木簡 鍵(海老錠) 役所に関する木簡 円面硯 様々な硯と水差し
手習いに使った土器と木簡
手習いに使った土器と木簡
 240宮殿復原
宮殿復原

宮殿の復原
内裏は天皇のすまいでした。 ここでは板張りの床の上に絨毯を敷いて生活していました。
簡単に動かせる屏風や衝立、あるいは横木に布をかけた几帳などで部屋のなかを仕切っていました。部屋には御床と呼ばれるベッドや、机・棚厨子・箱厨子などの家具、双六盤や囲碁盤などが置いてありました。 これらの調度品は正倉院に宝物として伝えられているものを参考に復原しました。

宮殿の復原 内裏 東院庭園


宮殿でのくらし
 243寝室
御床(ごしょう)
古代のベッド。この上に畳を敷き、敷布団((じょく))、 掛布団((ふく))を用いました。

屏風
古代には、 屏風や几帳で広い部屋を細かく仕切って使いました。

御床
屏風 鳥毛立女屏風  
 245書斎・居間
 247
書斎.居間
巻物は開いて、書几(しょき)の固定します。肘掛け(挟軾(きょうしょく))に もたせかけながら読むこともあったのでしょう。

囲碁盤・双六盤
囲碁や双六を楽しんだ盤や碁石も正倉院に残されています。

紫檀金銀絵書几 囲碁盤・双六盤 木画紫檀双六局

 250食卓
 251
書斎・居間 居間
唐草文で飾った須恵器の蓋
硯,琴,
(にえ)の木簡
漆器の食器
(にえ)(天皇への捧げ物)

ウニ木簡
生蘇木簡
 253食卓
食卓
 271食卓
檜方几(ひのきの ほうき)
料理を盛った器をのせる台として、 正倉院に残る。
食器
身分の高い人々は金属や漆塗りの器などを使ったようです。

食卓
食卓 食卓 檜方几 食器 貴族の食事(復原)
 275
食事
皇族・貴族の食事
皇族・貴族の食事
1.鴨とセリの汁
2.塩
3.醤(醤油に似た調味料)
4.ハスの実入りご飯
5.生鮭・大根・紫葉のなます
6.鹿肉の塩辛
7.生牡蠣
8.干し蛸
9. いりこ
(ゆでて干したナマコを戻したもの)
10.車エビの塩焼き
11. タケノコ・フキ・菜の花の炊き合わせ
12. 焼きアワビ
13.蘇(牛乳を煮詰めた乳製品)
14.塩水につけて発酵させた漬物
15. ナスビとウリを醤に漬けた漬物
16. 菓子(干し柿 草モチ・ 煮あずき)
17.4(ハスの実入りご飯)をハスの葉で包んだもの
 280
 


 遺物展示コーナー
 300研究室コーナー

   出土品は、種類ごとにそれぞれの研究室で調査・保管されます。
   研究員がどんな視点でどのように研究しているのか、ご紹介しましょう。
 

 310木簡の研究室
 311
研究室コーナー


描かれた木簡
文字だけでなく、絵が描かれている木簡もあります。 人物の服装などから当時の風俗を偲ぶことができ ます。
落書き
人や動物の顔が描かれています。

木簡の大きさ
木簡は大小さまざまあります。大きいものは1メートル を超え、小さいものは数センチしかありません。 出土した木簡は長さ・幅・厚さを測ります。
大きな木簡
125cmもあります。 氷を保管した水を造営する際に使用された木です。※「木簡の研究室コーナー」内の木は、 特に表記のない限り複製です。

楼閣山水図
建物や池、山などが容器の底板に描かれています。中国伝来の絵画をもとに描いたものでしょう。

小さな木簡
4.7cmしかありません。焼肉の乾物につけた木簡 です。

木簡の色々
大きな木簡
楼閣山水
大きな木簡
描かれた木簡
小さな木簡


木簡の型式分類
木簡のかたち
荷札に使われた木簡だけでも、形はいろいろです。
そのほか、軸になっていたり、合わせてはさんだりと、本館の形はバラエティーに富んでいます。研究室では数種類に分類し、型式番号をつけています。

031型式(荷札木簡)
上下両端に切込みをいれたタイプ。この部分に紐をかけ荷物に結び付けていました。

032型式(付札木簡)
上端にだけ切込みをいれたタイプ。この部分に紐 をかけ荷物に結びつけていました。

051型式(荷札木簡)
下端をとがらせたタイプ。米の荷札に多い形態です。

043型式(封緘木簡)
羽子板の形をした一枚の板を木口の部分で二つに割り、左右に切り込みを入れたタイプ。間に紙の文書をはさみ、切込みに紐をかけ封をしました。

061型式(題せん軸)
幅広の部分に文書の名前が書いてあり、細長い部分に文書を巻くタイプ。

木簡の型式分類

木簡の材 杉の木簡
よく使用される檜にくらべ、少し色が薄く、木目がはっきりしています。

横材木簡
文字が木目に直交しています。多くは帳簿に使わ れたものです。

木簡の削りくず
木簡は、削って何度も使用します。そのためごみ捨てあとからは、削りくずもたくさん出土します。


年号の入った木簡
木簡には時々、年号を書いたものがあります。土器や 瓦など他の遺物に年号が書かれていることはほとんどないため、一緒に出てきた遺物の年代を考える上で 有力な手がかりになります。

その他の文字資料:木簡以外の文字が書いてある出土品もこの研究室で調査しています。

漆紙文書:不要になった紙の文書が、漆の入れ物の蓋に使用されたことにより、漆が紙にしみこんで腐らずに 残ったものです。
墨書土器:書かれている文字の分析は木簡の研究室。土器そのものの検討は土器の研究室が担当し、両方の研究室で協力して研究します。

年号木簡

文字の解読

赤外線カメラで視る
木簡の文字は墨で書かれています。 墨の中の炭素 が赤外線に反応するので、肉眼では見えにくい文 字も判読しやすくなります。

記帳ノートをとる
木簡のスケッチを描き、寸法、四辺の整形方法な ど観察して気づいたことを書き込みます。文字の
形や筆の運びかたにも注目します。

データベースの活用
研究室には平城宮・京などから出土した木簡の詳細なデータベースがあります。 過去の情報から文字の意味を解釈したり、欠けている部分を推察することもできます。

文字の解読


様々な用途
木簡にはいろいろな用途のものがあり ます。書かれている文字の内容や木簡 の形状などからどんな目的で使ったの かを判別します。

お金の付札
お金の金額が書かれています。千枚近くの銭を紐に通し、ひとまとめにしていました。銭一貫

詩や歌
漢詩(七言絶句)が記されています。他に和歌を書いたものもあります。

キーホルダー
東門のカギにつけられていたのでしょう。

呼出し状
大和国内にいる9人の人々を呼び出しています。

支給証
犬のえさ(米)の支給の控え。えさの受取人 手生保受麻呂

通行手形
甲斐国(現在の山梨県)へ向かうための通行手形です。


 右から
但馬国養父郡老左郷赤米五斗
村長語部廣麻呂 天平勝實七歲五月
但馬国(現在の兵庫県北部)から送られてきた赤米に付けられた木簡。
五斗は現在の二斗で、約三〇リットル。

(表)肥後国益城郡調綿壱伯屯 四両 養老七年
(裏)
肥後国(現在の熊本県)から送られてきた調の綿(現在の真綿)に付けられた木簡。
壱百屯は約十六・ハキログラム。 養老七年は七二三年。

(表)備前国児嶋郡賀茂郷
(裏)三家連乙公調塩一斗
備前国(現在の岡山県東部) 児島から送られてきた塩の荷札。
一斗は今の四升、約七・二リットル。

美作国塗漆櫃
美作国(現在の岡山県北東部)から送られてきた漆塗りの櫃に付けられた木簡

駿河国駿河郡柏原郷小林里戸主大伴部首調荒堅魚七連
三節 天平七年十月
駿河国(現在の静岡県東部)から送られてきた調のカツオ(なまり節と考えられる)に付けられた木簡。

勤務評定
役人の勤務日数が書かれており、これらの木を紐でつなぎ横に並べて、一度に評定を行いました。紐を通すために側面に孔があけられています。


大膳職推定地出土木簡:平城宮跡の発掘で初めて発見された、通称1号木簡です。ここから木簡の研究が始まりました。
内裏北外郭官衙出土木簡:平城宮北東部で木簡の沢山入ったゴミ捨て孔が見つかりました。日本で千点を超える木簡が見つかったのはこれが最初で、本格的な木簡研究となりました。
長屋王家木簡:平城宮に近い南投の地の調査で貴族の邸宅跡から3万5千点の木簡が出土し、個々が奈良時代の皇族「長屋王」の邸宅だったことがわかりました。長屋王の高い地位やその暮らしなどから非常に多くのことを教えてくれる木簡です。
二条大路木簡:長屋王邸のすぐ北、二条大路から総計7万点を超える木簡が出土した。

ピンボケのため判読不能

 313木簡からわかる地方の産物
北部九州 九州島 山陰地方
四国 北陸・日本海地方
太平洋側地域
 330木器の様々
糸巻,木靴,燈台 曲げ物,刳り物,挽き物,編み物 曲げ物,刳り物,挽き物,編み物

 工房関係の遺物
平城宮の周辺にはさまざまな工房がありました。
工房あとから出土した「産業廃棄物」は、どんな製品がどのように作られたかを研究するための絶好の 資料です。

鞴の羽口,るつぼ,釘の注文見本,飾り金具

 340木器・金属器の研究室

 341百万塔(木製)
 百万塔はどこでどのように造ったのか?
 343
百万塔って何?
天平宝字8年(764年)9月に起きた恵美押勝の反乱を鎮めた称徳天皇は、 この戦いで亡くなった人々を悼み、また国家の安泰を願って、百万基もの木製の 三重塔を作らせました。これが百万塔です。 百万塔は完成後、 奈良やその周辺 の10のお寺に10万基ずつ分置されました。
百万塔は、身部と相輪部の2つの部材からなります。 高さは21.5cm、 轆轤を 使って作られています。 最上層の屋根の頂部をくり抜いた空洞に、 陀羅尼経と呼 ばれるお経を収め、上から相輪部を差し込んで栓をしています。

百万塔に 残された「爪跡」
百万塔は横軸轆轤を使って作られたと考えられます。
底面には轆轤に固定するための鉄爪の跡がのこりますが、 爪の数は3~5本、 その型も菱形、十字形、 箱形、八の字形など実に約120種。 爪跡は轆轤ごとに 異なると考えられ、 工人違いや轆轤の破損、修理など作業の実態を伝えています。
 百万塔底面の轆轤爪の分類と比率
  正菱形19.0%,正十字形8.0%,箱形7.8%,内八の字形5.1%,外ハの字形4.4%,平行形3.6%
百万塔って何? 百万塔の各部名称と現存する百万塔 (奈文研所蔵)
百万塔に収められた陀羅尼経
各部名称
相輪部
 宝珠
 請花
 宝輪
 伏鉢
 露盤
塔身部
 第三~第一層笠
基壇
21.5cm
百万塔に残された爪跡 百万塔底面の轆轤爪の分類と比率

正菱形19.0%
正十字形8.0%
箱形7.8%
内八の字形5.1%
外ハの字形4.4%
平行形3.6%

「百万塔工房」は平城宮にあった!?
小塔とはいえ、百万基も作るのは途方もない大事業。 実は百万塔の生産工房は、平城宮の中 にあったと考えられています。 平城宮では、作りかけの百万塔や破片が見つかっているからです。 百万塔は、作りはじめてから5年半、 宝亀元年(770年)の4月に完成しました。 法隆寺の百 塔の底には、作った工人の名前や製作年月日が墨で書かれています。 そこで確認できた工人名 は250人あまり。 1日のノルマは単純計算でも500基にのぼります。
平城宮内でみつかった百万塔と出土位置
出土した百万塔の上面(左)と底面(右
※上面に孔が空けられておらず、 底面には轆轤の爪跡が残る。

「百万塔工房」は平城宮にあった!? 平城宮内でみつかった百万塔と出土位置
 345百万塔
百万塔と残材
地道な観察と検討で、なんでもない遺物がとんでもないものであることが分かる場合があります。

1.平城宮内から数点出土しているこの木製品は、はじめ栓の一種と考えられていました。
2.宮内からは、百万塔の未製品も出土しており、製作工房があったことが分かりました。
3.形や表面に残る痕跡から、栓と考えられていた木製品は、百万などの挽きものを作ったときの残材の可能性が高いことが分かりました。

百万塔
 
 370出土品が語る都の世界
[遺物展示コーナー]
出土品が語る 都の世界

発掘調査の出土品は、当時の さまざまなことを私たちに 教えてくれます。


発掘された建物
発掘調査では、柱を立てた穴や抜き取った穴がみつかり ます。 その規模や配置で発掘された建物の基本的な構造が わかります。 また、 切断されて地下に残された柱 (柱根)、 屋根にふかれていた瓦、使われていた釘や鎹などさまざま なものが出土します。 これらも発掘された建物を復元する うえで重要な手がかりとなります。

 発掘された建物
出土品が語る都の世界 発掘で実証された遺構図
発掘現場で実測された遺構図 (平城宮東朝集殿)
(柱を立てた穴を赤色にして示しています)

遺構図を元にした復元図 (平面図)
遺構図を元にした建物復元図(正面図)

舟運・筏 都の建設 御殿の建築 材の加工


引き綱穴のある柱
掘立柱の基部
木製土堀具
発掘された遺物 建設の道具 ちょうな,かけや,釘

木の切りくず
檜皮,瓦進上木簡,丸瓦と平瓦,
鬼瓦ⅣB
 
 400

 410都のくらし
 411都のくらし

平城宮では約7,000人の役人が働いており、彼らの食事を用意する役所もありました。 発掘調査で、 さまざまな食器や台所用品が見つかっています。 食器は、皇族や貴族は漆塗りで、それ以外の人々は土師器や須恵器などの土器を使いました。 木製の箸やしゃもじも見つかっています。

娛樂
今も昔も生活に遊びはつきものだったようです。 平城宮からはいくつかの遊具 が見つかっています。 奈良時代の役人たちも仕事の合間に遊びに興じたので しょうか。 土器に残された落書きからは、当時の人々の遊び心が伝わってきます。

都のくらし 厨房の様子 都のくらし

 412暮らしの道具
暮らしの道具 土師器の食器
調理具,火起こしの道具
移動式カマド 須恵器の食器
箸,曲げ物容器,しゃもじ,
奈良時代のお金,
鰹汁を運んだ土器
 413

神功開寶,萬年通宝,
和同開珎
須恵器
なぜカマドだけ土師器なのか。
須恵器だと、崩れてしまうのです。
 415
かりうち土器,描画土器
賽子,木蜻蛉,操り人形,コマ,
貯蔵容器 クソベラ 桃,瓜,ハシバミ,瓢箪,クルミ,山桃
塩を運んだ土器 ミニチュア土器 昭和時代まで、藁やクソベラは使われていたようです。 トレペがふんだんに使えるのは、現代の日本や西洋だけでしょう。
中には石で拭くところもあります。

 430まじない
奈良時代の人々は、災いや病気から逃れるために、人形や顔を描いた土器などを水に流して穢れを祓いました。
平城宮の壬生門に近い溝からは、 まじないの道具がたくさん見つかっています。
そのほか、地鎮めのために埋めた品や呪いの道具も見つかっており、当時 まじないが盛んであったことが分かります。

穢れを流す まじない
人形で呪いをかける
 顔を描いた土器  人面土器   まじないのろい
も、同じ漢字ですね。 
   
  土馬
様々な形代(かたしろ)  馬形,斎串,刀形,木の人形,鳥形,金属の人形    
えなつぼ えなつぼ
生まれた子供の長寿や出世を祈って後産とお金,筆,刀子や糸,針,を壷に納めて家の戸口などに埋めました。

えなつぼに収められていた筆と墨
地鎮際に使った土器と刺し銭 土器 刺し銭

 450国際交流
この時代、日本は一大国家であった中国の唐から国家の制度やさまざまな知識・学術を学ぶため、多くの遣唐使を派遣しました。
また渤海や朝鮮半島の新羅とも盛んに交流していました。平城宮に外国からの使節団が来訪した記録も残っています。
平城宮や京から見つかった舶来品は当時の海外との交流を物語っています。

緑・黄・青などの釉薬をかけた中国の陶器 「唐三彩」 をモデルに日本で「奈良三彩」 が作られたのも、このような交流の成果でした。

国際交流 遣唐使船の航路
長安への道
国際交流 遣唐使船の航海

新羅の土器
渤海の土器
渤海使に関する木簡
唐三彩 使いとして渤海に行き、帰って来た人の位階を二階級特進させたことを示す木簡。
 天平宝字二年は758年。
唐の黄釉器 唐の白磁
唐の青磁
奈良三彩 奈良三彩
奈良三彩 奈良三彩 奈良三彩

 470土器の研究室
 471
土器のうつり変わり
土器の形や大きさ・作り方は少しずつ変化します。この性質に着目し、研究室では平城京の時代の土器を古い方からI~Vの5段階に分類しています。ここでは土師器 を取り上げ、その移り変わりを簡単に説明します。

奈良時代前期(平城宮I・Ⅱ)
坏Aや高杯の内面に暗文、外面に磨きがほどこされています。底部の外面はヘラ削りされるものが多いです。
高杯は、脚の部分が短い形をしています。この時期は、土が白くてきめの細かいI群の土器が主流を占めます。

土器の研究室
土器の移り変わり
奈良時代前期(平城宮Ⅰ・Ⅱ)
平城宮土器Ⅰ~Ⅴ  ※土器の変化はほとんど分からない。みんな同じに見えるがなぁ。
 472
奈良時代中期(平城宮Ⅲ)
杯Aにある暗文や磨きが省略されています。
底部の外面はヘラ割りするものが少なくなります。
この時期の終わり頃、新しい種類の土器―椀Aが出現します。椀Aは、外画 全面をヘラ割りしたのも、磨きます。高坏は脚が高くなり○の部分が大きくなります。

奈良時代後期(平城宮Ⅳ・Ⅴ)
坏Aと高杯の暗文がほぼなくなります。Ⅰ群に比べて土が赤くて粗い、Ⅱ群の土器が増えます。杯AのⅡ群は、外面 全面をヘラ削りするようになります。食器のなかでの椀Aの 占める割合が大きくなります。

坏AⅠ群,杯AⅡ群
椀AⅠ群,椀AⅡ群

高杯
坏AⅠ群,杯AⅡ群
椀AⅠ群,椀AⅡ群

高杯
※坏とルビがふられているが杯と漢字が書かれている。
 475
土器の表面を観察する
土器の表面には、 土器を作る過程でついた作業の痕跡があります。 この痕跡から土器の成形方法や 仕上げの手法が分かります。 土器の種類や年代・産地によって土器の作り方は異なっており、 土器を 研究する上で非常に重要な観察ポイントになります。 さまざまな作業の痕跡が残る奈良時代の 土器を並べてみました。 それぞれの痕跡がどのような特徴を持っているのか、じっくりと観察 してください。

土器の表面を観察する
なで
ヘラ削り
なで
布や皮手を使い、土器の表面をなでて滑らかにします。
ヘラ削り
ヘラ状の工具などで、土器の表面を薄くとぎ落とし形を整えます。
暗文
磨き
暗文
棒状の工具で、 土器の表面をなでつけて模様を描き、 光沢を出します。
磨き
工具のなめらかな面で、 土器の表面をこすり、 光沢を出します。 


土器を測る
土器を観察・研究し記録するために、 研究室 では実物大の図面を描きます。 専用の 道具を使って、土器の大きさや形・厚みを 正確に測ります。 図面の描き方には決まり があり、土器を真横から見て、外面は左側 に、内面と断面を右側に描き分けます。 表面に残るさまざまな作業の痕跡も描き、 それについての観察を記述します。

土器を測る
 477
 天平の都を彩る華やかな器-奈良三彩

「奈良三彩」 とは?
奈良時代に作られた焼き物は、須恵器や土師器だけではあ
りません。 奈良時代には、 「奈良三彩」 と呼ばれる施釉陶器がたくさん作られました。

奈良三彩は、中国で流行した唐三彩を模倣した焼き物です。 唐三彩同様、鉛を使った釉薬で、白(透明) 緑,黄褐色の3色 を塗り分けることから「奈良三彩」 と呼ばれています。 実際には、 白と緑の2色のものや、 単色のものもありますが、 それらもま とめて奈良三彩と呼んでいます。

どこでみつかる?
 この器は、普通の食器ではなく、仏事や祭事に用いられた と考えられています。 平城宮の発掘調査では、とくに東院地区周辺で多く出土します。
また、平城京域では、寺院から多くの奈良三彩が出土しています。 2006年度におこなった平城宮東院地区の発掘調査では、 奈良三彩の立派な鉢が出土しました。 この鉢は、正倉院に伝わるものとほぼ同じ大きさです。

奈良三彩 奈良三彩とは どこで見つかる
唐三彩(河南省黄冶窯出土)
平城宮内出土奈良三彩 正倉院宝物の三彩鉢


奈良時代 に生まれ 消えてゆく・・・
平安時代には、このような多彩な器は作られなくなり、 中国の青磁を意識した緑釉
陶器が盛行し、 奈良三彩は歴史から姿を消してしまいます。
奈良時代にだけ存在した奈良三彩は、まさに国際色豊かで華やかな奈良時代を代表する器と言えるでしょう。

奈良時代に生まれて消えてゆく 正倉院御物と
ほぼ同じ大きさ
都城発掘調査部
考古第二研究室
  平城宮東院地区発掘の
奈良三彩の鉢
東院地区から出土した三彩鉢
     

 480瓦の研究室

 481
瓦の形や文様などから、 瓦の年代や作り方、 生産地と供給地の関係などを研究しています。

瓦の研究室
 483
 平城京・藤原京出土軒瓦を三次元で測る・集める。公開する
平城京と 藤原京から出土した 軒瓦
奈良文化財研究所は古代瓦研究の基準資料となる瓦を多数収蔵しています。その数は、軒丸瓦100型式312種、
軒平瓦84 型式 288種の合計600点。これまでは写真や拓本で記録してきましたが、これらの瓦を三次元計測し、 データを集め、公開しようとしています(図1)。

三次元計測の方法
三次元計測には、レーザースキャナーを用いるものなど多くの手法があります。 今回用いるのは、近年つかわれるようになった、カメラで撮影した写真をパソコンで解析して三次元データを作成する技術です(図2)。

平城宮,藤原京の軒瓦 軒瓦を3Dで公開する 平城京・藤原京の軒瓦
図1 軒丸瓦 6235Mb の文様の記録

写真,拓本,3D(白黒),3D(カラー)
三次元計測の方法
図2 三次元計測の作業

・写真の撮影
・パソコンによる解析
・三次元モデルとカメラの位置


三次元データ で何ができるか
三次元データでは、色情報を除いて耳の凹凸を観察で きます。同じ型で製作した瓦を比較し、型の状態変化を分かりやすく提示できます(図3)。
また、破片をコンピューター上で接合し、復元することもできます (図4)。 今後、 日本の古代瓦について、 新たな事実 を発見したいものです。

3Ddataで何ができるか 図3 同じ型を用いて製作した瓦の比較 6276Aaと6276Abのデータを重ねると

型の傷の可視化ができた
着色した部分は型に傷が生じた、
あるいは型を彫り直している。
(緑一貫一赤の順で高い)
図4 コンピューター上での破片資料の接合
都城発掘調査部 考古第二研究室 埋蔵文化財センター遺跡調査技術研究室
 485軒瓦
第一次大極殿
軒丸瓦・軒平瓦
朱雀門
軒丸瓦・軒平瓦
内裏
軒丸瓦・軒平瓦
磚積官衙
軒丸瓦・軒平瓦
第二次大極殿
軒丸瓦・軒平瓦
推定大御膳職
軒丸瓦・軒平瓦
西宮
軒丸瓦・軒平瓦
東院
軒丸瓦・軒平瓦
東大寺・薬師寺
軒丸瓦
東大寺
軒丸瓦
薬師寺
軒丸瓦
 487

瓦の種類と使用位置
瓦は、建物を雨風から守り長持ちさせ、 また建物を立派にみせる役割も果たし ました。 場所によって、 さまざまな形の瓦を 組み合わせ屋根を葺きました。 最も量が多い のは、丸瓦と平瓦です。棟の部分には、熨斗瓦 や面戸瓦が用いられています。 軒や垂木の 先端には、文様で飾った瓦を使いました。

 瓦の種類と使用位置
使用位置 
丸瓦
平瓦
軒丸瓦
軒平瓦
面戸(めんど)
熨斗(のし)
鴟尾
鬼板(鬼瓦)
垂木先(たるきさき)
尾垂木先(おだるきさき)瓦 


瓦の作り方
 瓦作りの技術は、飛鳥時代に朝鮮半島から伝わり ました。 最初はお寺にだけ使われていましたが、 平城宮の前の藤原宮から、 宮殿の建物にも使われるようになりました。
 平瓦は初め 「桶巻き作り」といって円筒状の桶に巻いた粘土を4つに分割していましたが、 奈良時代から凸型の台にのせて1枚ずつ作る 「一枚作り」に代わっていきます。 軒瓦の文様は、 文様を彫り込んだ木型でつけます。

瓦の作り方

瓦の文様と年代
 軒丸・軒平瓦の文様は、時代とともに変化します。 そのため、軒瓦の文様をもとに軒瓦の新旧を判断し、変遷図を作ることができます。
また文献史料から建物の創建年代が分かる場合は、出土瓦が作られた実年代を推定することができます。現在、平城宮・平城京で出土した奈良時代の瓦の文様はおよそ600種類にのぼります。
 研究室では、 軒瓦の文様ひとつひとつに型式番号をつけ、その番号の時期が分かるようになっています。

瓦の文様と年代

瓦を調べる
軒瓦の文様を記録する方法の一種です。耳の文様の上に紙をのせ水をつけて、上から油墨をつけて文様の凸凹を浮き上がらせます。
写真や図面を書くよりも、 文様の特徴や違いがはっきり分かります。

瓦を調べる
 

 490奈文研トピックス
   奈文研の最新の研究成果をご紹介します。
 491
奈文研トピックス
 493年輪年代法
木簡や木製品の分析に 年輪年代学的手法を応用する

年輪年代測定では, 100層以上の年輪を有する試料を対象とするのが一般的で、年輪数が少ない小型の木製 商品に適用される機会は必ずしも多くありません。 しかし、近年、一括性の高い試料群を対象として同一材の推 定を進める研究に 「年輪年代学」、 「木簡」、「木製遺物」 と分野の違う奈文研の研究員たちが共同で取り組み、 成果をあげています。 ここでは、 学際的な最先端の研究成果として、 木簡や木製品の研究に年輪年代学的手法 を応用した事例を紹介します。

年輪年代法

CASE1 
年輪のつながり×文字のつながり


法華寺旧境内のすぐ南でおこなった調査地では奈良時代前半の溝が見つかり、中から4000点
を超える木簡が出土しました。 そのうち98%近くを占める削屑の中から、年輪が多く認めら れる柾目材を選びだし、年輪年代学的検討を実施しました。 すると、各年輪の幅がピタリと一致 するグループが複数見つかり、同じグループ内の削屑は同一材に由来する可能性が高いことがわ かったのです。 特にC群は、木目の類似や墨書内容などから同一木簡より削り取られたとみられ、 「皇太子」という熟語のまとまりを見出されるとの指摘が、以前からなされていました。 今回の検討結果はこの推定を補強するもので、年輪年代学の手法を取り入れることで木簡の読解を 裏打ちすることができた事例といえます。 なお、養老7年(723) や神亀元年(724)の年紀を 木簡が一緒に見つかっていることから、この 「皇太子」は即位前の聖武天皇を指すと考えられます。

CASE1
年輪のつながり×文字のつながり
木簡 皇太子 
←若かりし日の 聖武天皇を指す!?
 「皇」「太子」の文字
 495
CASE2
同じ木から製作された荷札木簡

平城宮京跡から出土した参河三嶋 (三河湾に浮かぶ析嶋・篠嶋・比莫嶋) からの贄(主に天皇に献上する食材)に取り付けれられていた荷札木簡につい
年輪年代学的な検討をおこないました。 その結果、 同じ遺構の出土で、 記 載内容が類似する荷札に、 同一材に由来すると考えられるセットを見出す ことができました。 木簡の分析と年輪年代学的な検討を合わせることで、それぞれの木簡が製作された際の同時性の高さをうかがい知ることのできる成果が得られました。

CASE2 荷札木簡
「製作の同時性」
同じ時に同じ空間で同じ木材を使って作られた?!
年代学研究室・歴史史料研究室

 497
CASE3
同じ木から製作された人形

平城宮壬生門前の二条大路北側溝から出土した人形(ひとがた)のうち、形状や顔の表現が類似するものを抽出して年輪年代学的検討をおこないました。 その結果、類似する組み合わせの人形の年輪はほぼ重複する関係にあり、同 一材から作られた可能性が高いことがわかりました。 これらの人形の形状や顔 の表現はそれぞれの組ごとに多様で、 製作の手順も組ごとに異なるため、 大量 生産品ではないと考えられます。 すなわち、木を削り、組となる人形を作り出 し、顔を描き、 使用 (廃棄)するという行為が、個人を単位としてなされて いた様相が復元でき、 人形の生産に関わる貴重なヒントが得られました。

CASE3

人形 人形 製作
➀板を割る
②人形に成形する
③顔を描く
使用(廃棄)
④使用(廃棄)する
年代学研究室、
考古第一研究室
現生木材標本
 
 


 1000特別展『ナラから平城へ』 奈良の旧石器時代から飛鳥時代まで


 1000ナラから平城へ

旧石器至飛鳥
令和7年度 平城宮跡資料館 秋期特別展 奈文研

ナラから平城NARAへ
 ―旧石器からはじまる3万年の歴史―

奈文研研究員が送る
原始のスペクタクルショー!!

ギャラリートーク(申込み不要)
10月30日(木)解説者・小原 俊行
11月14日(金)解説者・芝 康次
11月02日(土)解説者・小原 俊行
11月28日(金)解説者・小田裕樹
会場:平城宮跡資料館企画展示室 時間:午後2時~(30分程度
※イベントの内容は
予告なく変更となる場合が ございます。


 1001
ごあいさつ
 平城宮跡の発掘調査では奈良時代の遺構や出土品に注目が集まりがちで すが、それよりもはるか昔から人々が生活していた痕跡が残されているのは ご存知でしょうか。 実は、 平城宮跡とその周辺では、旧石器時代をはじめ奈 良時代より前の遺跡がいくつか発見されているのです。
 旧石器時代は現代よりも寒冷な氷河期であったことや、 平城宮跡の周辺で は都を造る際に大きく地形が改変されていることもわかっています。 そのた め、 自然環境とそこに住む人びとの生活は今とは大きく異なるものでした。 本展では、現代の私たちからは想像もつかないような環境のなか、 平城宮 跡とその周辺地域で人びとがどのように暮らしていたのか、 発掘調査であき らかとなった遺構や出土品などから迫ります。

   令和7年(2025) 10月
    独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所長 本中 眞

Introduction
Archaeological surveys at the Nara Palace Site often focus on artifacts and architectural remains from the 8th century. However, many findings suggest that people had lived in the area long before that. In fact, several sites dating from the Paleolithic up to the Nara period have been discovered at the Palace Site and in the surrounding area.
We know that the Paleolithic was a period of low temperatures, also known as the Ice Age, and that the landscape of this area, as we see it today, is the result of dramatic changes that occurred during the con- struction of the Nara Capital. The environment and the lives of people were completely different from those of today.
In this exhibition, through architectural features and artifacts found during excavations, we will show how people lived at the Palace Site and the surrounding area, within the environment we, people of the modern age, can scarcely imagine.
October 2025
Motonaka Makoto Director General
Nara National Research Institute for Cultural Properties
National Institutes for Cultural Heritage

はじめに
平城宮跡の考古学的調査は、8世紀の遺物や建築遺構に焦点が当てられることが多いですが、それ以前から人々が居住していたことを示唆する発見も多くあります。実際、平城宮跡とその周辺地域では、旧石器時代から奈良時代にかけての遺跡が複数発見されています。 旧石器時代は氷河期とも呼ばれる低温期であり、今日のこの地域の景観は、奈良都建設に伴う劇的な変化の結果であることが分かっています。当時の環境や人々の生活は、現代とは全く異なっていました。 本展では、発掘調査で発見された建築遺構や遺物を通して、現代人が想像することのできない環境の中で、平城宮跡とその周辺地域で人々がどのように暮らしていたのかを紹介します。
  2025年10月
   本中 誠 所長
     奈良文化財研究所 国立文化財機構

ナラから平城へ ごあいさつ Introduction
年表

年表 古北海道半島、古本州島、古琉球列島
[1300年前]   平城京へ遷都
[1700年前頃] 古墳がつくられはじめる
[2800年前頃] 日本に稲作が伝わる
[約1万6000年前頃] 古本州島で土器が出現。 縄文時代のはじまり
[2万年前~1万6000年前頃] 古本州島で細石刃石器群が出現
[3万年前~2万年前頃] 急速な寒冷化石器に明瞭な地域性
[3万年前~2万年前頃] バイソンやヘラジカが古北海道半島から古本州島へ渡来
[3万年前頃]   九州南部で姶良火山が噴火<法華寺南遺跡>
[3万年前以前]  古北海道半島で人類の居住開始
[3万8000年前頃] 古本州島にホモ・サピエンスが到達



 1100第1章 ナラのはじまり
   《後期旧石器時代前半期》


 1110
氷河期の平城京・宮
 日本の後期旧石器時代は今から約3万8000~1万6000年前の期間 をさします。 この時代は氷河期といわれ、 現在の日本とは気候や植生、 動物種が大きく異なりました。

 氷河期には南極などに降り積もった雪が海に溶けずに氷として厚く 堆積していたことから、 現代よりも海面が低下していました。 現在の 本州島 四国島 九州島は地続きとなり、1つの島 (古本州島) をかた ちづくりました。 また、 陸化の影響で太平洋から日本海に流れ込む暖 流である対馬海流の流れが弱くなったことで、当時の古本州島は現在と比べて寒冷乾燥な気候になっていたのです。

 当時の平城山丘陵の地は北に木津川が流れ、南は広大な湿原が広が る盆地でした。 平城宮の北側にも丘陵が伸びていましたが、この丘陵 は都が造営されたときに大きく削られてしまいました。 そのため、旧 石器時代の人たちの目の前には現代とは全く異なる景色が広がってい たことでしょう。 当時の人たちが平城山丘陵周辺をどのようによんで いたかはわかりませんが、 このなだらかな「ナラ」の地で生きた人たち の歴史をみていきます。

第1章 ナラのはじまり 氷河期の平城京・宮 登場する遺跡
 
 1115石器 ピンボケ
ピンボケ 石器 接合資料 接合資料 ナイフ形石器
接合資料
ナイフ形石器と石錐
石錐

 1120法華寺南遺跡 3万年前
 1121
法華寺南遺跡の発掘調査
 法華寺南遺跡は平城宮跡の南東側、 現在の国道24号線沿いにある遺跡です。 約3万年前に降下した姶良Tn 火山灰 (AT) という火山灰の 堆積層の下から石器が発見されました。
 石器は主に3つのまとまりをもって出土し (石器集中部)、 周囲には焚火をした痕跡と思われる炭化物もみつかっています。 槍の先端に付けたと考えられるナイフ形石器のほか、 皮などに孔をあけるためのドリルと思われる石錐、 皮なめしの道具である掻器、 これらの道具をつくる過程で生じた剥片や砕片という石の欠片などが出土しました。

 法華寺南遺跡から出土した石器同士を繋ぎ合わせる (接合) ことで、 どのような手順で石器をつくっていたかがわかります。 これにより、二上山で採取したサヌカイトの原石を打ち割って持ち運びやすい大き さにしたうえで遺跡に持ちこんでいたこと、 それを更に打ち割って 様々な道具を生産していたことなどがわかりました。


ナイフ形石器は「ナイフ」か!?
 旧石器時代の狩りの道具の1つであるナイフ形石器の名前は、文字どおり「ナイフのような かたちをした石器」 という意味です。 「ナイフ」 というと 「切る」ための道具と思われるかもしれません。しかし、ナイフ形石器の先端に衝撃で壊れた痕跡などがみられることから、 その多くは主に槍先に装着して 「突き刺す」ための道具であったのではないかと考えられています。

法華寺南遺跡の発掘調査
ナイフ形石器はナイフか!? ナイフ形石器はナイフか!?
 1122石器
掻器,石刃,石錐 石錐 掻器,石刃
楔形石器
楔形石器 両面加工石器
 1123ナイフ形石器 法華寺南遺跡 旧石器時代
ナイフ形石器 ナイフ形石器
接合資料
ナイフ形石器
 

 1130氷河期の奈良盆地の景観
氷河期の奈良盆地の景観
後期旧石器時代の奈良盆地に広がる自然環境は、 天理市布留遺跡でおこなわれた古環境調査などに よってあきらかにされています。 法華寺南遺跡が残 された約3万年前、 奈良盆地の低地には湿原が広 がっていました。 この湿原のなかを、のちに大和川 や佐保川となる河川が大きく蛇行しながら流れてい ました。

氷河期の奈良盆地の景観
旧石器時代の湿原景観イメージ
(長野県八島ヶ原湿原)

3万年前の植生
奈良盆地に広がっていた湿原にはカサスゲなどの カヤツリグサ科ヨシといったイネ科の植物が生い茂っていたと考えられています。
また、 河川沿いの 少し高い土地にはハンノキ属トネリコ属といった 湿原に生える広葉樹の林が点在していました。
さらに、現在の平城山丘陵の斜面や周辺の山々といった 標高の高い場所には、カラマツ属ツガ属ゴヨウマツ類といった針葉樹に、 コナラ亜属カバノキ属ハンノキ属といった広葉樹が混ざる森 (針広混交林) が広がっていたと考えられています。

3万年前の植生 氷河期の奈良盆地の植物 ヒメコマツ(ゴヨウマツ)(マツ属)
ミズナラ(コナラ属)
ヨシ( イネ科)小花,小穂
チゴザサ(イネ科)


旧石器時代の動物
旧石器時代に日本列島に生息していた動物も現代とは大きく異なり ます。 古本州島には現代では絶滅してしまった、ナウマンゾウやヤベ オオツノジカといった大型動物が生息していました。 それ以外にツキ ノワグマやニホンジカ、イノシシ、カモシカ、 タヌキ、ノウサギといっ た中・小型動物も生息しており、 現代まで生き残っています。 ヒグマ も1万8000年前頃まで古本州島に生息していました。 これに対し、 北海道にはマンモスやバイソンといった寒冷な気候に適応した動物 がいました。
3万年前頃には大型動物は絶滅していないものの、徐々にその数が 減ってきていたため、 ニホンジカやカモシカ、ノウサギなどが主な狩 りの対象であったと想定できます。

旧石器時代の動物 最終氷期最盛期の植生・海岸線 大型哺乳類分布図 マンモス
( 北海道のみ)
ナウマンゾウの分布北限
ブラキストン線

原牛(オーロックス)
ウマ
野牛 (パイソン)
ヘラジカの分布南限
ヒグマ
ナウマンゾウ
ヒグマの分布南限
ニホンムカシジカ
ヤベオオツノジカ
朝鮮海峡線
対馬海峡線
渡瀨線

 1140法華寺南遺跡 3万年前
法華寺南遺跡の発掘調査 法華寺南遺跡の発掘調査の様子

剥片 剥片 ※単なる人為的な剥片を意味しているのか

剥片石器を意味しているのだろうか

全て同じ大きさで石器かもしれない
接合資料 接合資料
ナイフ形石器
接合資料
ナイフ形石器
接合資料
接合資料

 ※接合資料の複数展示は、どうやら本当に旧石器時代の痕跡があることを証明するための展示のようです。


 1150石器作りの道具
石器づくりの道具
旧石器時代の人たちは主に石器の素材となる石を 叩いて割ることで様々な道具をつくっていました。 石を叩いて割るときには、 堅い石や木、動物の角や 骨などがハンマーとして使われていたと考えられま す。原石などをハンマーで直接叩いて素材や道具を つくるほか、ノミを使うように固定したうえで叩い て割る方法、ハンマーを押し当てて剥がす押圧剥離 とよばれる方法など、 様々な方法で石器はつくられ ていました。 法華寺南遺跡では、ハンマーとして使 われた石器は出土していません。 当時の人たちが遺 跡を離れたときに一緒に持ち去ったのでしょう。

鹿角ハンマー 石製ハンマー サヌカイト原石
※二上山の石でしょうか

 1160狩猟採集民の生活
小原研究員からみなさんに大事なお話
狩猟採集民の生活
 旧石器時代の人たちは狩猟採集民といい、 動物を狩りで仕留めたり、 植物の実を採集したりする生活を送っていました。 当時は決まった場所に定住するのではなく、獲物となる動物の移動にあわせて季節ごとに移り住む生活であったと考えられています。
 当時の人たちの様子を直接みることはできません。 しかし、 現代の 狩猟採集民を参考にしたモデルがつくられ、なかでもビンフォードに よるコレクター・フォーレジャーモデルが有名です。

 フォーレジャーとは食糧となる動植物や、 石材などの道具をつくる ための様々な資源が、 いつでもどこでも得られる環境のもとで主に 営まれる生活のことです。 資源の近くにいくつもの集団が集まる大規 模なキャンプを設けてしばらくの間生活します。 そして資源が減少す ると、次の拠点を目指して移動します。 資源不足になることが少ない ため、 将来の備えをあまり蓄える必要がありません。

 対して、コレクターとは、資源を得られるタイミングや場所が非常 に限られる環境のもとで営まれる生活のことです。 この場合、 ある資 源の近くにキャンプを設けると、 別の資源が得られなくなります。 そ のため、 遠くにある資源を得るときには限られたメンバーが現地に派 遣されます。 また、 将来いつ資源が得られるか予想が たたないため、 備えとその管理が必要となります。

 法華寺南遺跡ではナイフ形石器などの道具がまとめて製作されて備蓄されていることなどから、 コレクターモデルに近い生活を送っていたと今回は想定し、4人程度のメンバーが二上山に派遣されて、キャンプに帰る途中で石器を残したと考えました。小原研究員(展示主担当)

※法華寺南遺跡は、石器材料を採取に行った4人が、帰りに立ち寄ったキャンプ地だったと行っている。

狩猟採集民の生活 コレクターモデルの例
(アラスカのヌナミウト族)
フォーレジャーモデルの例(東アフリカのサン族)


日本の主要な石材原産地
 日本列島の地盤は、 複数のプレートがぶつかり合って大小様々な地殻変動が起きるとともに、 火山活動が活発です。
そのため、日本列島には黒曜石をはじめ、 安山岩や凝灰岩、 頁岩、 珪質頁岩、 砂岩、チャート、メノウ、ヒスイなど多種多様な火成岩 堆積岩が生成されており、れらの岩石は石器づくりに用いられました。 特に、 西日本ではサヌカ イトとよばれる安山岩の一種が盛んに使われており、 法華寺南遺跡の 石器もサヌカイトでつくられています。

 奈良県内には二上山にサヌカイトの原産地があります。 サヌカイト は叩くと均等な厚さで板状に割れる性質があり、 石器をつくりやすいことから、 後期旧石器時代から弥生時代までの長い期間、人々に使わ れていました。

日本の主要な石材原産地
二上山 / 奈良県側から 主な石器石材原産地の分布図
石器材料原石
黒曜石
サヌカイト
黒色安山岩
黒色頁岩
石材原産地
姫島 (観音崎)

下呂
隠岐島 (久見)
岩屋
二上山
国分台
金山 城山
霧ヶ峰
赤谷川
和田峠
武尊山
八風山
高原山
柏峠
箱根・畑宿
麦草峠
神津島
石器に使われる石材 奈良県二上山産サヌカイト
群馬県武尊山產黑色安山岩 群馬県武尊山產黑色安山岩 チャート
長野県八風山産黒色安山岩 群馬県赤谷層産黒色頁岩 群馬県赤谷層產黑色頁岩 黒曜石 黒曜石 北海道白滝産(推定)黒曜石

 1170コラム旧石器時代研究のはじまり

コラム[旧石器研究のはじまり]
 かつての日本では、国内に旧石器時代は存在しないといわれていました。 第二次世界大戦前までは 『古事記』 や 『日本書紀』に記述のある、天皇を中心とした神話をもとにした歴史観 (皇国史観) が信じられていたからです。 戦後、 皇国史観は否定されましたが、 旧石器時代 の存在は疑われていました。
 転機が訪れたのは昭和21年(1946)。 独学で考古学を研究していた相沢忠洋が、 群馬県岩宿遺跡で偶然、 縄文時代より古い地層から石器を発見します。 相沢は明治大学考古学研究室の芹沢長介にこの話を持ちかけ、 芹沢も当時、 助教授で静岡県登呂遺跡の発掘調査をしていた杉原荘介に相談しました。 3人はこの石器を旧石器時代のものと 考え、昭和24年(1949) に岩宿遺跡で調査を開始しました。
 この結果、 日本にも旧石器時代が存在すること、これまでの考えよ りも、かなり古い時代から日本列島に人類が到来していたことがあ きらかになったのです。

コラム旧石器時代研究のはじまり


コラム[旧石器時代の復元画のむずかしさと面白さ]
 日本の旧石器時代の遺跡から出土するものは、ほとんどが石器や
炭化物で、 人々のまわりにあったであろう動植物由来のものは失わ れています。 また気候はおろか、 動植物や地形すら現在と違ってお り、まったく別の景観のなかに遺跡はありました。 そうしたなか、 遺 跡での石器や炭化物の分布状況や微地形などを手掛かりに、人々の 数や配置、活動などを想定するとともに、 周辺での花粉分析や地質調 査の成果などから周囲の風景を復元して描きます。
 人々の衣食住や持ち物、 身振り、 年齢性別、そして遺跡の背景など を具体的に描くには、 監修する研究者の見解、 イメージ、そしてセン スが重要になります。 例えば、 アクセサリー。 日本では一部を除いて みられません。 しかし、 大陸の遺跡からは貝殻やダチョウの卵殻、動 物の牙などでつくったアクセサリーが出土します。 このため、日本で も同様にあったが、多くが腐ってなくなってしまったとみるべきで しょう。 ついでに化粧。 旧石器時代の遺跡からオーカー(赤鉄鉱)やそ の粉が出土することがあるので、 赤色顔料で化粧をしたとされます。 法華寺南遺跡ではみつかっていませんが、 ここは「あをによし」の奈 良。人物に青丹 (青灰色粘土) の化粧をさせてみるのはどうでしょう。
 これが、旧石器時代の復元画の むずかしさと面白さ。 研究者は自 身の学識・センスが試されるいっ ぽう、様々な研究成果や知識を根 拠に想像を膨らましていける、あ るいは、 楽しみ、 遊べるものなの です。
◆コラム執筆者: 加藤真二副所長

コラム[旧石器時代の復元画のむずかしさと面白さ]
 


 1200第2章 寒い! 暑いナラ!
    ≪後期旧石器時代後半期~縄文時代》

寒い!暑い!ナラ!

 1210最寒冷期

旧石器時代の最もさむい時期
 約3~2万年前頃は氷河期のなかでも特に寒冷乾燥化が進んだため、 最終氷期最盛期とよばれる時期です。 2万8000~2万4000年前頃には、西日本と北陸地方を中心に国府型ナイフ形石器とよばれる特徴 的な石器が現れました。 国府型ナイフ形石器は、 主に瀬戸内技法という 技術でつくられています。
 平城(なら)山丘陵は旧石器時代の人たちにとって、 何度も訪れる狩場で あったのでしょう。 国府型ナイフ形石器や瀬戸内技法に関連する資料 は平城宮跡周辺、 特に平城山丘陵からのびる少し標高の高い場所から 散発的に出土しています。 これらの石器の多くは奈良時代の柱穴を埋 めた土や、 平城宮内を整地した土からみつかりました。 平城宮跡周辺 には未発見の旧石器時代の遺跡がまだ残されているかもしれません。

旧石器時代の寒い時期



 1220瀬戸内技法
コラム[瀬戸内技法とは]
 瀬戸内技法とは瀬戸内地方中央部から東部を中心に発達した、 国府(こう)型ナイフ形石器を製作するための技術です。
鎌木義昌(かまき よしまさ)大阪府国府(こう)遺跡の資料をもとに提唱し、 松藤和人(まつふじかずと)が二上山北麓で採取した資料をもとに再定義しました。

 瀬戸内技法の工程は3つに分かれます。
第1工程では、素材となる原石を板状に叩き割ります。 この過程で生まれた素材は盤状(ばんじょう)剥片、 最 終的に使用されずに廃棄された残りは盤状石核といいます。
第2工程 では盤状剥片を刺身のように同じ厚さでさらに小さく打ち割ってい きます。 打ち割られたことで生じた石片は鳥が翼を広げたようなかたちをしていることから、 翼状剥片とよばれます。 そして、
第3工程で 翼状剥片を細かく加工して国府型ナイフ形石器をつくります。

瀬戸内技法に関連する石器は主に西日本でみつかりますが、 東北地方南部や関東地方でも出土します。

瀬戸内技法 瀬戸内技法 瀬戸内技法概念図
瀬戸内技法復元資料 第2工程
翼状剥片石核
ナイフ形石器
翼状剥片
第1工程
サヌカイト原石から板状の素材を割り出します
 1221瀬戸内技法の石器
国府型ナイフ形石器
翼上剥片 角錐状石器 翼状剥片石核
 1230
 1231
狩りの道具と有舌尖頭器

 狩りの道具と一口に言っても槍や弓矢、 吹き矢など、 そのかたちや使い 方には様々な種類があります。 そのなかで、槍には手に持ったまま獲物に 突き刺す 「突き槍」のほか、投げて刺す 「投げ槍」があります。
 投げ槍は現在のスポーツ競技でもみられるような、 槍を直接手に持って 投げる方法のほか、投槍器(とうそうき)という棒状の道具に引っ掛けて投げる方法があ ります(図1)。

 投槍器を用いた場合、 槍を手に持って投げるよりも遠くに、 高い威力で飛ばすことが可能となります(図2)。 投槍器は、旧石器時代の 終わりごろまでは世界中で一般的に使われていましたが、 大型動物の絶滅 などにともなって徐々に使われなくなっていきました。

 有舌尖頭器は、槍として使われていたと推定されるナイフ形石器や他の 尖頭器と比べて薄く、 断面がレンズ状となるため、 より遠くに飛ぶようなかたちに加工されているといえます (図3)。 その反面、 弓矢に使われていた石鏃に比べると大形で重量があります。
 そのため、 有舌尖頭器は投槍器を使う槍先に用いられたと考えられています。


狩りの道具と有舌尖頭器
図1:投槍器(フランス、マス ダジール遺跡出土)
図2:投槍器を用いた槍の投げ方
図3:完形の有舌尖頭器 (群馬県徳丸仲田遺跡出土)
図1:投槍器
(フランス、マス ダジール遺跡出土)
 
図2:投槍器を用いた槍の投げ方
図3:完形の有舌尖頭器 (群馬県徳丸仲田遺跡出土)
 
   
有舌尖頭器
旧大乗院庭園出土
有舌尖頭器
旧大乗院庭園出土
※黒線は私が付け加えた
 
 

 縄文時代

 1233
定住生活が進む縄文時代 
 縄文時代は今から約1万6000~3000年近く前の時代をさします。 草創期から早期まで(1万6000~7000年前)の気候は、急激な温暖化 と寒冷化が繰り返されました。前期(7000~5500年前)以降に気候は 比較的安定し、 時には現代よりも温暖な時期が訪れます。 縄文時代の 人々も狩猟採集民でしたが、 旧石器時代とは異なり、 同じ場所に長く 留まる定住・定住生活に移行していきました。 しかし、 平城京の周 辺では明確な住居跡は発見されておらず、 どこに集落があったのかは わかっていません。

 草創期の石器である有舌尖頭器は平城京内でいくつか出土しています。 有舌尖頭器は狩りの道具として使われた石器で、 投げ槍の先端に 付けたと考えられています。 また、 草創期以降の狩りの道具では、矢の先端に付ける石鏃が登場します。 石鏃には「飛行機鏃」 とよばれるものをはじめ、 様々なかたちがあります。
縄文時代の土器片も出土しています。 これらは煮炊きや貯蔵をするための深鉢であり、 外側の面に様々な文様が施されています。

定住生活が進む縄文時代
縄文時代中期の深鉢
(大官大寺下層出土)
※大官大寺下層からは
縄文中期~後期初頭及び後期末葉の土器石器が出土している

 縄文石器
縄文石器
平城京内出土 石鏃 飛行機鏃
 1234縄文土器
左京山上七坊七坪 左京七条一坪六坪 縄文土器
西隆寺

平城京内出土
 1235
皮なめしと掻器
 皮を柔らかくして使いやすくする加工を 「皮なめし」 といいます。 動物の皮 は旧石器時代から衣服やテントの幕などの生活に欠かせない品々に使われて きました。 そのため、 皮なめしは人々とって重要な作業であるといえます。

 皮なめしに関連する石器には掻器があります。 掻器は血管や皮下脂肪などを 除去するために使われます。 旧石器時代から現代までかたちが変わらないた め、現在の民族事例も参考にして、 どのように使用されていたのか、 研究され ています。その結果、 皮なめしの手順は動物の種類や、 環境によって異なるこ とがあきらかになっています。 例としてカムチャッカ半島でのトナカイの皮な めしでは以下の手順をたどります。
 展示品の鹿皮はこの手順を参考にして、展示担当者が掻器の使用実験を兼ね て、 実際に鹿の解体と皮なめしをしたものです。 媒材には糞尿の代替品として ミョウバンを使用しました。


〈カムチャッカ半島でのトナカイの皮なめし〉
➀ 肉質・脂肪の除去 血液が皮に染み込むのを防ぐ
② 乾燥-屋外で3日間ほど乾燥
③ 放置・燻蒸-乾燥させた皮を数時間~数日間放置
④ 皮の内側の血管や皮下脂肪の除去 - 掻器を用いて休みなしで2時間ほど作業
媒材(ばいざい)の塗布-トナカイの腸から採取した糞尿を水に溶かして煮たあと、皮に塗布
⑥ 乾燥-数時間~数日ほど乾燥
⑦ なめし-掻器(図1)を用いて皮をなめすことで媒材を皮に擦り込む (図2)
⑧ 放置・燻蒸
※⑤~⑧の工程を1週間ほど行ったのち、 着色と柔軟化を続けておこなう

図1 20世紀前半以前に北東アジアで使われた掻器
図2 なめし作業時の様々な姿勢
参考文献:高瀬克範2004 「エヴェン・コリャークの獣皮加工-カムチャッカ半島における民族考古学的基礎調査-」 「物質文化」 77

皮なめしと掻器
カムチャッカ半島でのトナカイの皮なめし
鹿皮
京都府北部採取
 


 1300第3章ナラの地に新しい技術と集落が≪弥生時代≫

 1301第3章
ナラの地に新しい技術と集落が

 1310兵部省地区の発掘調査
兵部省(ひょうぶしょう)地区の発掘調査

 弥生時代は今から3000~2500年前頃、大陸から朝鮮半島を経由して 稲作農耕や青銅器、鉄器といった新しい技術が伝わってきた時代です。 人々も狩猟採集を中心とした生活から、 低地に水田をつくって農耕をし、近くの微高地に集落を定めて暮らすようになりました。

 平城宮跡周辺でも弥生時代の遺跡数が大幅に増加します。 宮内では兵部省地区で弥生時代前期の集落跡がみつかりました。 発見されたのは竪穴建物5棟で、周辺では弥生土器のほか、 稲穂を収穫する時に使う道具である石包丁、 石鏃や尖頭器などの石器が出土しています。
稲作が中心となりつつも、狩りもしていたのでしょう。 そのほか、木を加工するための太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりば せきふ)や、 金属製の短剣を模した磨製石剣(ませいせっけん)と いった、稲作とともに朝鮮半島から伝わってきた石器も出土しました。

 また、この集落から南の地区の調査では水田の畔がみつかりました。 (あぜ)のまわりの土壌を分析したところ、 イネ科の植物を栽培していた ことがわかっています。

兵部省地区の発掘調査 兵部省(ひょうぶしょう)地区の発掘調査 兵部省地区の調査区全景(線路手前に弥生時代の竪穴建物跡群から

 弥生石器
石器
平城京兵部省地区出土
スクレーパー 石包丁
石鏃 磨製石鑿(のみ)
磨製石剣
石錐 尖頭器
砥石
太形蛤刃

 1320弥生時代の竪穴建物
弥生時代の竪穴建物  ボクもお米食べるんだもん!

兵部省地区でみつかった竪穴建物のうち、 SB14860 とよばれる建物が最大規模で、 直径が6~7mほどあります。 建物からは弥生時代前期の土器や石器が出土しました。 出土した土器は甕や壺で、いずれも収穫した米などを貯蔵し、煮炊きをしていたと考えられます。

弥生時代の竪穴建物 弥生時代の竪穴建物
弥生時代の竪穴建物 (SB14860)/北から
兵部省地区

 石器
石器
平城京兵部省地区
砥石,石鏃,尖頭器
尖頭器

 土器
弥生土器
兵部省地区竪穴建物
弥生土器
兵部省地区竪穴建物
 


 1400第4章そして平城へ… ≪古墳・飛鳥≫

 1401
第4章そして平城へ

 1410大規模古墳
大規模古墳、現る
 約1800年前、 古墳時代がはじまります。 地域の複数の集落を束ねる
有力者がうまれ、 さらにその有力者たちをまとめる支配者 (大王(おおきみ)) が出 現しました。
 平城宮跡周辺では、 前方後円墳をはじめとする大小様々な古墳と、こ れらの古墳の造営を支えた人々が暮らす集落が営まれていました。
平城宮東区朝堂院(ちょうどういん)下層では、古墳時代の流路 (SD6030) から古墳時代前期と中期の土器が大量に出土しました。

 SD6030 下層から出土した前期の土器には、精製器種とよばれる丁寧につくられた土師器が多く、王権中枢でおこなわれた祭祀に用いられた食器と特徴が共通します。 いっぽう、
 SD6030 上層から出土した中期の土器では、 土師器高杯・甕など日常の調理・食膳に用いられたセッ トが目立ちます。 さらに、 朝鮮半島から伝わった新たな技術で作られ た須恵器が出現します。
この頃、 土師器とともに須恵器を使いはじめたり、 カマドで煮炊きする新しい生活様式が朝鮮半島からもたらされたり、生活に大きな変化があったのでしょう。

 また、この流路からは鋤や鍬などの木製品も出土しており、これらは集落の生業を支えた農耕具、 もしくは古墳の造営など土木工事用の道具の可能性があります。

大規模古墳、現る 大規模古墳、現る 土師器
古墳時代前期
平城宮東区朝堂院下層
土師器
古墳時代前期
平城宮東区朝堂院下層

 1420教科書土器
教科書に掲載された土師器 ヘラジカ

 SD6030 下層から出土した土師器のなかには、 球形の体部に長く伸びた口頸部(こうけいぶ)が付くかたちの壺があります。
とても薄く、口頸部外面には表面が光沢をもつようにヘラミガキという 技法を使って丁寧な装飾が施されています。 この壺は古墳時代を代表する土器として、 高校教科書 (山川出版社 『日本史探究 高校日 本史』)の挿図に登場しています。 皆さんもご覧 になったことがあるのではないでしょうか?

教科書に掲載された土師器


 1430土師器の暗文(あんもん)
コラム [土師器の暗文]  原牛(オーロックス)
 飛鳥時代から奈良時代前半の土師器にみられる暗文は、宮都の土器を特徴づける装飾と考えられています。
暗文を施すにはタイミングが重要です。土師器を作るには、まずやわらかい粘土をこねて形を 作ります。 形がくずれない程度まで乾燥させてから、お箸のような棒 状の工具で表面をなでつけるように線を引くと、 工具でなでられた部分だけが、 表面が磨かれたようになります。

 この表面を磨いて美しくする技術は、 弥生土器などにも広く使わ れた手法ですが、 磨く部分と磨かない部分の表面の仕上がりを装飾 に利用するのが「暗文」 です。 平城京がある奈良盆地周辺では、 古墳 時代前期の土師器 (古式土師器) のなかに装飾的な磨きをみることが できます。
飛鳥時代の後半以降、律令制度が浸透するようになると、 九州から 東北地方まで暗文で装飾された土師器が出土するようになります。 暗文土師器は“みやこの器” としてあこがれの対象だったのでしょう。 (神野 恵展示公開研究室長)
土師器の暗文  「暗文(あんもん)」とは、古代の土器に見られる、金属器の光沢を模した文様のことです。
土器の表面に、放射状の線や波打つような線などを施し、光の角度によって見え隠れする光沢のある模様を表現しています。
これは、金属製の高価な食器が使えなかった人々が、その輝きに幢れて土器で表現しようとしたと考えられています。

AI による概要
暗文とは
「暗文(あんもん)」は主に古代の土器に見られる、へらなどで表面を擦って光沢や模様をつけた文様を指し、金属器のような輝きを模したもので、奈良時代頃の官人用の食器(暗文坏)などで確認されますが、刃物などの**「暗紋(あんもん)」**という独自の技術で施される波紋のような模様を指す場合もあります。文脈によって「暗い文様」や「擦り付けた文様」といった意味合いで使われます。

主な意味
・考古学(土器): 焼成前の土器の表面をヘラなどで強く擦り(ミガキという技法)、光沢を出したり、放射状やらせん状の模様をつけたりしたもの。金属製の高級器を模倣したとされ、律令時代の役人が使った「暗文坏」などが有名です。
・伝統工芸(刃物など): 津軽打刃物などで見られる、磨き上げた鋼の上に「暗門滝(あんもんのたき)」の波紋から着想を得て作られた、独特の波紋模様のこと。
・一般・古語: 「暗い(くら・し)」という意味合いで使われることもありますが、現代では限定的です。

具体例
・暗文土器(あんもんどき): 奈良時代に出土する、表面に光沢のある文様を持つ土器で、高級品を模倣した官人用の食器などです。
・暗紋ペーパーナイフ: 津軽の刃物で、ステンレスと鋼の境目に現れる独特の波紋が特徴の製品です。

まとめ
「暗文」という言葉は、**「光沢のある擦り模様」や「暗い波紋」**という共通のイメージを持ちつつ、土器や刃物などの分野で特定の技法や様式を指す専門用語として使われています。


 1440朝堂院下層
平城宮朝堂院下層の
斜行溝
土師器
古墳時代中期
平城宮東区朝堂院下層
SD6030(上層)出土
須恵器 ハソウ
平城宮東区朝堂院下層
SD6030(上層)出土

 1450木製農具
コラム[ナスビ形鍬]
 鍬は柄の付け方によって直柄と曲柄の2種類にわけることができます。 直柄は現代の鍬と同様に、 鍬の刃を付ける部品 (鍬身)に孔をあけて、まっすぐの柄を装着します。 これに対して、曲柄は樹木の枝分かれした部分や割材(わりざい)を利用してつくられた曲がった柄です。 平坦
に整えた部分に鍬身を紐で縛って固定します。

 ナスビ形鍬は文字どおり鍬身がナスに似ている曲柄の鍬です。 ヘタ に見える部分は、 柄に固定するときに紐が引っ掛かりやすくする役 割があります。 ナスビ形鍬は農耕具や土木具として古墳時代以降、全 国的に普及していきました。

ナスビ形鍬
ナスビ形曲柄鍬
木製品
平城宮東区朝堂院下層
広鍬 なすび形鍬
 1460
遷都直前の平城
 592年 (崇峻(すしゅん)5) に推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し、 飛鳥時代がはじまります。 飛鳥時代には、 泉津(いずみのつ) (現・ 木津川市) から平城山(ならやま)丘陵を越え、 飛鳥や藤原京まで奈良盆地を南北に通る3本の幹線道路がつくられまし
た。 平城宮跡周辺では幹線道路の一つである下ツ道(しもつみち)が通り、 平城京が遷都する直前まで、 沿道で集落が営まれていました。

 朱雀門の北方でおこなわれた下ツ道の西側溝 (SD1900) の調査では、「大野里」 と記された木簡や 「五十戸家」 と墨書された土器が出土して おり、ここに 「大野里」 の中心となる集落があったと想定されます。 SD1900 からは、 飛鳥時代の終わりごろの土師器や須恵器の食器に加え、煮炊きに使った土師器甕が多数出土しています。

遷都直前の平城 墨書土器
平城宮下層下ツ道西側溝SD1900出土
墨書土器
平城宮下層下ツ道西側溝SD1900出土
 1470須恵器・土師器
平城宮下層下ツ道 須恵器・土師器
飛鳥時代
平城宮下層下ツ道

 1480終わりに
 和銅元年(708) 元明天皇により平城遷都の(みことのり)が出され、 平城宮の造営がはじまります。 同年11月には 「菅原(すがわら)の地の民」 90余家に布や穀物 が支給されており、 平城京の造営予定地の住民が移住したことに対す る報酬であったと考えられます。 「大野里」 の集落も同様に移転したの でしょう。

 奈良盆地の北端に位置し、平城山丘陵を越えるとすぐに大河川である木津川へ出ることのできるこの地は、 交通の要衝でもあり、 物資が 集積する都として抜群の立地でした。そして、 和銅3年 (710)、 平城京 遷都を迎えます。 3万年の時を越え、地形や景観は大きく様変わりし、 この地は10万人ともいわれる人々が住む「大都市 平城京」 へと変貌 をとげました。

おわりに
 
 


 1500平城宮案内図

平城宮跡資料館
第一次・第二次朝堂院 遺構展示館
 1510平城宮跡歴史公園Google map
平城宮跡歴史公園 奈良文化財研究所
平常宮跡資料館
復原事業情報館
第一次大極殿院,大極門
第二次大極殿
平城宮跡遺構展示館
中央区朝堂院跡
朱雀門
平城宮跡東院庭園

史跡平城宮跡碑
平城宮跡保存記念碑

 1600平城宮跡歴史公園
平城宮跡歴史公園 この木クルミの木? 栴檀(せんだん)の木
庭木。誰かが植えた。
古代の木だったのかな
第一次大極殿
第二次大極殿
遺構展示館
朱雀門
朱雀門ひろば
朱權门广场 永東門廣場
平城宮いざない館
東院庭園
屋外トイレ
国常平城宮跡歷史公園
    平城宮跡資料館
第二次大極殿
遺構展示館
朱雀門
朱雀門ひろば
平城宮いざない館
東院庭園
屋外トイレ
国营平城宮跡歷史公園
     
 
 


  第一次大極殿院
 2100復元事業情報館

はじめに
 『復元事業情報館』は、第一次大極殿の復原にあたって、使われた技術や工夫などを、分かりやすく、また、専門的に展示する資料館です。
しかし、私は、展示内容を理解することなく、写真を撮ることに必死で、展示内容をうまく表現できていません。そればかりか、順路指示がなかったために、逆回りをして撮影したらしいのです。
このため、順番を入れ替えていますので、通し番号が逆転しています。
 誠にお見苦しい写真掲示で申し訳ありません。

 2101外観
第一次大極殿院
復元事業情報館

 2102入口展示 鴟尾
鴟尾

鴟尾 (しびShibi (Ridge-end roof ornaments))
 格式の高い建物の大棟(おおむね)の両端を飾る棟飾り(むなかざり)

 鴟尾は、飛鳥時代に伝来し、 奈良・平安時代の仏教寺院や宮殿の主要建築の大棟の両端に位置する棟飾りです。 平城宮跡の復原建物に飾られている鴟尾は青銅製で、 表面に金箔を使った漆箔(うるしはく)が施されています。
 実は平城宮跡の発掘調査では鴟尾は出土していません。 しかし、残りにくい金銅製の鴟尾があったと考えて、朱雀門以来、鴟尾も復原してきました。 復原にあたっては、発掘調査等で出土した同時代の鴟尾を参考に大きさや意匠を検討しました。
大極門の鴟尾は高さ約1.5m、重さ約480kgとなっています。
 第一次大極殿の鴟尾は高さ約2m、 朱雀門は約1.35m、 これから復原される東楼(ひがしろう) 西楼(にしろう)は1.2mの予定です。

鴟尾
         

鴟尾の制作は、
➀ 粘土で原型を作り、 ② 石膏で型取り (外型)、 ③ ②の石膏型 (外型) からFRP(原型) による型を起こし、
④ 砂の鋳型(外型)を作り、 ⑤ 4分割にして青銅の鋳込みを行った。 施工図から完成まで約2年を要した。

鴟尾の制作
➀粘土型から④砂型 ⑤鋳込みから箔押し


 鴟尾のみどころ
みどころ
実用性を兼ねた装飾や第一次大極殿や朱雀門とのデザインの違い


拒鵲(きょじゃく)蓮華文(れんげもん)文様帯(もんようたい)

 拒鵲とは、鴟尾の頭部から突き出している針状の金具のことです。
       鳥除けという実用性とともに、建物をより立派に見せる効果があったと考えられます。
 鴟尾の腹部の円い蓮華文は、第一次大極殿の鴟尾には2つ、大極門の鴟尾には1つありますが、 朱雀門の鴟尾にはありません。
 側面の文様帯は第一次大極殿とは少し異なり、大極門所用の軒平瓦瓦当文(のきひらがわら がとうもん)にならった唐草文様としています。
みどころ 
 拒鵲
腹部の蓮華文
側面の文様帯
  拒鵲
蓮華文
文様帯
  
 


 2119a復原工事の全容

第一次大極殿院の復原は、平城宮跡を保存すると ともに、奈良時代の空間を 体感・体験できる公園を 目指して、整備を進める重 要な事業のうちの一つです。 第一次大極殿院復原の意義 や目的、当時の工法や道具、 事業の進捗状況などを、 展示品や映像を通して紹介 していきます。

国営平城宮跡歴史公園について

国営飛鳥・平城宮跡歴史公園 平城宮跡区域は、 特別史跡であり世界遺産「古都 奈良の文化財」の構成資産の一つでもあって、我が国を代表する歴史・文化資産で ある平城宮跡の一層の保存・活用を図ることを目的に、平成20年度に事業化され ました。
公園整備の基本方針
国営平城宮跡歴史公園は、 「古都奈良の歴史的・文化的景観の中で、平城宮跡の 保存と活用を通じて、 “奈良時代を今に感じる”空間を創出する。」ことを目指し、以下 の方針のもと、整備を進めています。
➀特別史跡・世界遺産である歴史・文化資産としての適切な保存・活用
②古代国家の歴史・文化の体感・体験
③古都奈良の歴史・文化を知る拠点づくり
④国営公園として利活用性の高い空間形成

公園の概要

 第一次大極殿院復原事業について
第一次大極殿院とは
第一次大極殿院は、 奈良時代前半、 国家で最も重要な儀式が行われた空間で、 その 規模は東西約176.6m (600尺) 南北約317.7m (1078尺)の広さです。
築地回廊で囲まれ、その内部は広大な広場となっており、中心である第一次大極殿 は礎石建ちの大型重層建造物で、 広場北側の壇上にそびえ立っていました。 また、南面回廊の中央には門(大極門が、 その両脇には楼閣 (東楼 西楼)が建ち、 壮麗 な姿を誇っていました。
黒色の瓦葺き、赤色の柱に白色塗りの壁、 緑色の連子格子に黄色の基壇、飾り金具 が映える建造物が立ち並ぶ姿は、訪れた人々を驚かせたことでしょう。
※1尺:29.49cm※このような断りは、現在日本では鯨尺を使用すると計量法違反となるので、メートル法記述が必要となります。

復原の意義
公園基本計画の基本方針に基づき、 第一次大極殿院を復原することにより、以下 の効果が期待されています。
・復原建造物の見学を通じ、往時の宮の規模や形状、さらには宮都の壮大 壮麗・ 荘厳さを体感する
・再現された往時の儀式・行事 (古代演示) の見学等を通じ、 その歴史文化を体験的 に学ぶ
・空間特性を活かしたその場にふさわしい催事を開催し、 来訪のきっかけづくりや 新たな魅力発見の機会を提供できる

復原原案と復原整備計画
第一次大極殿院の復原整備にあたっては、 奈良文化財研究所による発掘調査・研究 成果全般から往時の建造物をできるだけ忠実に再現し(復原原案)、 それを基に、 遺構 保存を最優先にしながら、 利活用、管理・運営の観点から復原整備検討委員会の審議 を経て、 復原整備計画をとりまとめています。

第一次大極殿院復原事業について

第一次大極殿
完成イメージ

 大極門・東西楼
大極門とは
大極門は、第一次大極殿院の正門であるとともに、天皇が出御し、叙位や饗宴が行われた場でもありました。
入母屋造の二重門で高さ約20.0m、幅約22.1m (桁行15尺×5間)、 奥行き約
8.8m (梁行15尺×2間)と、 朱雀門よりやや小さい礎石建ちの建造物です。

東西楼とは
東西楼は、王権の威信を示す高層建築であるとともに、 特別な儀式の場としても 使われました。
大極門をはさんで東西対称の位置にあり、寄棟造で、 高さ約16.8m、幅約22.9 m (桁行15.5尺×5間)、 奥行き約11.5m (梁行13尺×3間)の礎石と掘立柱を併用 した重層の建造物です。

遷都当初、 第一次大極殿院に楼閣はなく、 途中 (731年頃)で大極門の両脇の築地回廊 の一部を解体し、 東西楼が増設されました。
発掘調査により、大きな掘立柱の抜き取り穴が確認され、直径約72cmもある巨大 な柱根 (平城宮で最大)が出土しました。

大極門・東西楼


 築地回廊・礫敷広場
築地回廊とは
第一次大極殿院は、 築地回廊により取り囲まれた特別な空間でした。
築地回廊は、その両側が通路になっている複廊形式になっています。 中央部に築地塀が あり、 版築という工法で土を突き固めて作りました。

築地回廊の大きさ
復原される基壇の幅は約10.6m (36尺) 通路の幅は約2.7mです。
また、軒下までの高さは約3.6m (12尺)、屋根の最も高いところまでは約6.9m (23.5尺 )あります。

礫敷広場とは
第一次大極殿院のうち北側約1/3は一段高い壇になっており、第一次大極殿が建って いました。 この壇の南側は礫(こぶし大の石)を敷き詰めた広場になっていて、儀式の際に 五位以上の貴族が立ち並ぶ空間でした。
壇と広場の段差は、磚という煉瓦を積み上げた擁壁 (磚積み擁壁)になっており、発 掘調査から高さ約2m、幅約100mあることが分かりました。

築地回廊・礫敷広場
版築作業中
定宮内省の版築
築地回廊の大きさ
礫敷広場とは

 安全・安心な復原整備について
建造物の補強について
第一次大極殿院に復原される建造物は、 木造により奈良時代の組み方で主な構造 体を造ります。 しかし、当時の工法では、地震や風への対処が十分ではありません。 そこで、見学者の安全を考え、地震などに対するための補強を行っています。 このよう な補強は、先に復原された第一次大極殿や朱雀門でも行われています。 古代工法と 現代の技術のコラボレーションによって、 復原が実現できているのです。

バリアフリーへの配慮
奈良時代の建造物は、 基壇と呼ばれる壇上に建てられます。 門の階段は、1段の 高さが現在の階段よりずっと高いことが特徴です。 しかしそのままでは、一般の人でも 基壇上に上がりにくいだけではなく、 車椅子での見学も不自由です。 そのため回廊の 周りにスロープを設け、 車椅子などでの見学にも配慮していきます。 また広場に復原 される礫敷も、一部を平滑化するなどの工夫をしていきます。

安全・安心な復原整備について
耐震ブレース
免震装置
 2121組物
伝統木造建築の美の象徴
組物とは、 寺院や宮殿の建築に用いられる柱上の木組みで、構造的な役割だけでなく、建物の格式を示す意匠としての役割をもっています。

「巻斗」 まきと
「方斗」 ほうと
「肘木」 ひじき
「大斗」 だいと

木口斗(こぐちます)
南門復原工事では、 木口 (木の横断面) を正面に向けた(ます)を採用しています。 これは古代の建築に多く見られる 「木口斗技法」 です。
斗とその上の部材 (肘木) を一組とし、 構造的な配慮から部材の繊維方向を直交させる技法です。
(木口斗にするとワレが目立つことから、次第に使われなくなります。)

みどころ
斗の正面に木口が見えるのは平城宮跡では南門だけ

正面に木口を向けています。
薬師寺東塔などで確認できました。

繊維方向を交互に交差させて組まれています。

みどころ
古代木造建築の特色のひとつである 美しい曲線

笹繰(ささぐ)りと(いばら)
肘木(ひじき)上面の(かく)笹の葉(ささのは)のように削る「(ささ)繰り」、
斗との境界近くを曲線で繋ぐようにつくられる 「茨」など、曲線の加工が印象的です。
組みあがった姿を見ると、 全体が滑らかで美しく見えるように工夫されています。

笹繰りと茨
 2118宮大工の仕事
宮大工の仕事
宮大工とは、神社仏閣の建築や補修に携わる大工です。
世界遺産や国宝、文化財指定の歴史的建造物の復原や 補修にも携わるため、幅広い知識や高度な技術を 必要とする職業です。

伐採 木材検査
伐採された最高品質の木材を一本一本検査
長いサイクルにわたり山を守り育てられた8000丁に及ぶ木材を細かく検査する。
大極門復原に必要な大量の木材は、主に紀伊山地から供給されています。山守の愛情と技で守り育られてきた
樹齢200年程度の吉野檜をはじめとした最高品質の木材が伐採されています。8000丁に及ぶ木村は、一本一本の
寸法、節、割れ、腐れなどの品格が厳しく検査されます。 検査は、発注者である国交省をはじめ、監理者、施工者、宮大工 それぞれの見方から行われ、 適合判定を受けた木材だけが採用されています。

宮大工の仕事 伐採された木材を検査する
「伐採」吉野檜をはじめとした木材の切り出し
「木材検査」一本一本検査して適合判定を受けると合格印がつく

原寸図・型板
軒・棟の曲線や柱の納まりを決める原寸図
宮大工が、連綿と受け継いできた匠の技を生かし、 実寸法で図面を描く。

○原寸図とはその名の通り、 軒や棟の曲線や木材 の納まりを原寸大で描いた図面です。複雑な形 の建物でも事前に納まりを検討し、工事関係者 の意志の統一を図ることができます。また、木材加工や現場施工に際しても原寸図を基に加工 用の型板を作ることで、 全ての部材を美しく納め ることができます。

○「加工原寸場」で原寸図を描き、 これをもとに作った型板などで、木材を加工します。
滑らかに軒や棟が反ってゆくのが日本の木造建築独特の美しさです。 大極門
復原では、紐に鉛を付けて微妙な調整をすることで、 美しい大屋根の棟の 曲線を熟練の宮大工と瓦職人の共同作業で作り上げました。

○複雑な納まりを1本の曲尺 (さしがね)と図法を駆使して解く規矩術(きくじゅつ)は、宮大工の技の神髄です。 床一面にベニヤ板を敷き詰めて原寸図を描きます。 15mm角のヒノキ材の定規 「しない定規」を用いて軒の曲線を描きながら、詳細な納まりを決定していきます。

○棟の曲線:棟の曲線は、 「加工原寸場」の窓側の約22mの板材に掲示しています。鉛の重り

軒・棟の曲線や柱位置

粗取り・自然乾燥
木のクセを読み、適材適所に使う
木の一本一本の性質を最大限に引き出す宮大工の知恵と技。
木は、人と同じように様々な個性をもっています。ゆっくりと時間をかけて粗(あら)取りによる加工と自然乾燥を交互に行い、徐々にくるい ねじれ、収縮などの木のクセを読み込みながら、充分に木を安定させることで適材適所 に使うことができます。 美しい木の表情 に向き合いながら貴重な自然の恵みを活かす匠の技の数々を紹介します。
木材水分計で含水率をチェックしながら、粗取りと乾燥を繰り返しゆっくりと仕上げていきます。
柱は、手斧(ちょうな)による手加工(一部)で、八角形から次第に角を落として丸く仕上げます。

木のクセを読む
 2117木取り
和釘 飛鳥型1尺1寸5分(約360mm)、天平型8寸5分(約250mm) (模造品)
Japanese nails Asuka type: Approx. 360mm, Tempyou type: Approx. 250mm (replica)
扉や屋根の構造材を固定するために使用。 展示品は 現代の技能士が古代の製法で複製したもの。

木取り 木取り
山林から切り出された原木を、芯をとるかとらないか、木目の 薬取り方、使う場所などを決めることを 「木取り」といいます。 木は山林で成長した位置や日のあたる向きにより性質が違い、 よく見極めないと木材として用いられてから反ることがあります。 柱にするときは、立木の状態と同じように根を下にします。
ヤリガンナ
たたきノミ
ヤリガンナ (槍) (第一次大極殿復際に使用されたヤリガンナ)
木の繊維方向にそって表面を仕上げる道具で、槍のような 形をしているためヤリガンナと呼ばれる。

たたきノミ(模造品) Chisel (replica)
正確な仕上げが必要な構造材の仕上げなどに、たたきノミはげんのう (カナヅチ) などで叩いて、 穴をあけたり、 溝を掘る加工などに使用する。
チョウナ チョウナ(手斧) (模造品)
木の表面をはつってあら仕上げをする道具ではつられ木の表面には加工された跡が残る。

基壇の工事
基壇の復原
現地の発掘による遺構確認から基壇高、 基壇の平面規模、形式を決めています。
回廊は、羽自石、 葛石による切石積基壇、大極門は地覆石、羽目石と葛石による切石積基壇を復原します。

基壇外装の石材
奈良時代の第一次大極殿で使用された基壇外装の石材は、 現地の発掘出土品から奈良県二上山産あるいは兵庫県宝殿産
の黄色い凝灰岩であることが判明しています。 現在、二上山 では石材の採取は行われていないことから、 今回の復原整備 では兵庫県宝殿産の黄竜山石が使われています。

基壇の工事
基壇の工事
曲尺
曲尺
鉄製の定規で寸法や直角を測るもの。
古代から使用され第一次大極殿院復元事業でも製作現場では必需品メモリは奈良時代のの目盛「天平尺」が刻まれている。
墨壷
墨壺(模造品)
部材を加工するためのしるしを描く道具。展示資料は平城宮内の遺跡より出土した遺物をもとに再現されたもの。
複廊の築地塀
複廊の築地塀
第一次大極殿院を取り囲む区画施設は築地回廊とよばれ、中央が築地塀、 その両側が通路となった複廊で、 構造は三棟造となっており、 平城宮において最も格の高いものです。

中央の築地塀は「版築」とよばれる土を突き固める屋根工法で造られており、 復原でも同様の工法を用いて 再現します。

柱の墨出用(すみだしよう)型板 (木材検査用)
原木は八角形に製材され、 木材検査で墨出用型板を使って 外形寸法を検査する。

柱の製材方法
必要な太さ以上の八角形を丸太より製材し、その後十六角形、 三十二角形と丸柱 に近づけていく。

柱の墨出用型板 (ひのき)原木

 2115木組み
墨付け・刻み・継手 仕口 木組み

建造物は様々な部材から造られていますが、復原 事業においても、一つひとつの部材は奈良時代と同じ 工程で現代の技能者により加工・組立を行います。 部材を長手方向につなぐことを「継手」、他の部材と の接合を「仕口」といいます。
木材の加工は、設計図から原寸図を作成し、木のクセ を読み、とさしなどで継手や仕口を描くこと 「付け」、墨付けの通りにノコやノミなどの大工道 具で加工することを「刻み」、そして加工された部材を 組合せることを「木組み」といいます。

巻斗(まきと)
肘木と共に組み物を形づくる
組み物
継手

雛型

 2114瓦葺
 第一次大極殿院の復原事業で用いられる瓦はおよ そ40万枚。 その種類も多様です。 軒先に連なる軒平 瓦と軒丸瓦、 最もたくさん使われる平瓦、平瓦と平瓦 の間をふさぐ丸瓦、建造物の棟に着く熨斗瓦、屋根 の端に葺かれるけらば瓦、 そして装飾された鬼瓦な どがあります。
 発掘の出土品にならい黒色で表面に布目縄目の 再現をおこないます。
すでに復原された朱雀門や大極殿で使用された瓦 の中から、特徴的な瓦を紹介します。 今回の復原事業 では、大極門と東西楼では同様の瓦を用います。

瓦葺 瓦葺

「鬼瓦」(復原)
東院地区で用いられていた鬼瓦。 屋根の棟の端を覆う板状の瓦。 日本では8世紀以降、鬼面(獣面) 文で飾ることが多かったことから鬼瓦の呼称が定着した。

鬼瓦


丸瓦・平瓦 (復原品)
第一次大極殿復原時の瓦。 軒先から棟に向かって敷き 重ねる平瓦と平瓦の間を丸瓦の列で覆う。


「軒丸瓦・軒平瓦」 (復原品)
第一次大極殿復原時の瓦。華苑一列に使われる瓦の 一つ。丸瓦・平瓦の端に文様を入れた瓦当と呼ばれる 装飾をつけたもの。

 2111左官
壁は、 小舞と呼ばれる細い木材を格子状に組み、縄で編みこんだ骨組みに藁を切り混ぜて発酵させた土 [粘土] を塗り、 何度もひび割れ防止の繊維を塗りこんだ伝統的な壁の下地を作り、仕上げは漆喰塗で白壁にします。


土造り
下地造り
漆喰壁
 2109
飾り金物
金属による装飾物は、奈良時代の平城京内の地域 で発掘された出土品の材料とすかし文様を参考に各 飾り金物を復原します。
表面仕上げは当時に用いられた水銀アマルガム 鍍金による定着技法の箔押しと一部は現代的な電気 メッキを施すものもあります。

飾り金物


風鐸 (樹脂製の試作品)
第一次大極殿復原時に試作された飾り。金メッキした
青銅製の鐘。軒の四隅などに吊り下げる。 風を受けると音を
発する。

風鐸
木口金具

塗装の手板
顔料
塗装の手板(試作品)
第一次大極殿修復に試作された手板

顔料

高欄宝珠 第一次大極殿復原時に試作された高欄を装飾する飾り。
第一次大極殿院の南門や東西楼にはなく、第一次 大極殿の格の高さを表す部材。
 2107本瓦葺
本瓦葺
耐久性に優れた瓦は格式の高い建物の象徴


出土遺物を忠実に復原した瓦は、大極殿院特有のしっとりとした黒色が特徴です。
また、江戸時代初期に現れる桟瓦(さんがわら)とは異なり、 平瓦と平瓦の間を丸瓦でふさぐ伝統 的で格式の高い 「本瓦葺」です。
屋根には平瓦・丸瓦のほかにも多くの種類の瓦が使われています。

本瓦葺
復原の根拠とした出土瓦

第一次大極殿院で用いられた軒丸瓦
第一次大極殿院で用いられた軒平瓦

瓦をつくる
発掘された瓦の研究から古代の瓦造りの技術を復原。 その上で、 近代的な瓦造りの方法で、粘土を圧縮後、 金型で成形、 1,100°Cのガス窯で 焼成している。 南門の瓦は約 37,500枚。 1枚ずつ手づくりするため2年 近い時間を要した。

瓦をつくる

瓦を葺く
焼き物である瓦は一枚ごとに形状が微妙に異なるため、 まず、どの瓦をどこに置くか見極めて選別する。
入念な下準備を経て、 癖に合せて配置が決められた 瓦が屋根に並べられ、 瓦葺きの作業が始まる。

瓦を葺く

山本瓦工業株式会社 (瓦清)
1994(平成6)年、瓦葺き部門で初めて選定保存技術保持者(いわゆる職人における人間国 宝)に選定された故山本清一氏が、 1963(昭和38)年に創業。伝統瓦の保存・継承に尽力した
山本氏の情熱と精神を脈々と受け継いでいます。

山本瓦工業株式会社 (瓦清)

みどころ
最新の発掘調査・研究を受け バージョンアップした 鬼瓦

「鬼瓦」

平城宮跡ではたくさんの鬼瓦が発掘されています。 蹲踞の姿勢 で両手をひざに置いた鬼瓦は、 平城宮造営の最初期につくられ ました。 その後、顔面のみの鬼瓦が登場します。 室町時代から現代に至る鬼瓦とは異なり、角を持たず、 神獣や聖獣が表されたもの と考えられています。

発掘調査・研究により、復原鬼瓦もバージョンアップしています。

バージョンアップ! ここが変わった!//
➀瓦の色: 表面に燻しがかかった暗い灰色だったと考えられました。
②黒 目: 眼の中に円い瞳があることがわかりました。
③人 中: 人中と呼ばれる鼻の下のくぼみがあることがわかりました。
④ぐりぐり:両手首の外側に球状の突起(尺骨基状突起)が あることがわかりました。

最新の発掘調査研究により大極門で用いられた 平城宮IA

大極門で用いられた鬼瓦
大極門で用いられた
平瓦
鬼瓦
 2105
錺金具(かざりかなぐ)

地垂木(じだるき)飛檐垂木(ひえんだるき)尾垂木(おだるき)の先端で(きら)めく木口金具(こぐちかなぐ)

 錺金具には、 屋根の四隅に吊られる風鐸や扉につける饅頭(まんじゅう)金物など様々な種類がその中でもっとも多く見られるのが、工芸品のような繊細な細工、 丹土塗(につちぬり)の赤色と金色の対比の美しさが特徴の木口金具です。 装飾であると同時に、腐食しやすい木の切り 口を風雨から守る役割も持っています。

 大極門の木口金具の復原では、現存する古代建築と出土遺物から基本文様を抽出し、意匠構成を考案しました。 その上で、 製作実験も重ねて古代の技術を検証するととで、製作技術の側面からも意匠の実現性を検討しました。

錺金具 錺金具 錺金具
錺金具

鋳造は金井工芸鋳造所
大極門の錺金具も青銅製の鋳物である。 砂を利用した鋳型に約1100°Cの溶材を流し込み、冷めて固まったところで砂型を崩し、錺金具を取り出す。さらに一つひとつ「バリ取り」「磨き」の工程まで がここで行われた。

尾垂木木口金具
伝統技術を駆使した仕上げを担ったのは、 森本錺金具製作所
大極門の錺金具の 「仕上げ」 の一部は、きれいに磨いた青銅に金アマルガム (金を溶かした水銀) を塗り、火であぶり水銀を飛ばすアマルガム
鍍金を行っている。 展示品もアマルガム鍍金である。 有毒な水銀を吸い込まないように保護マスクをつけて特殊な施設内で行なわれる。
東大寺の大仏にもこのアマルガム鍍金が用いられていた。

尾垂木 木口金具
飛檐垂木木口金具
地垂木木口金具
尾垂木木口金具
森本錺金具製作所

みどころ
垂木の先端に 木口金具が施されるのは特に重要な建物だけ

「垂木と木口金具」
主要な建物では、地垂木に飛檐垂木を重ねる二軒(にけん)として、 軒の出を大きくします。
古代建築では地垂木の断面を円形、飛檐垂木(ひえんだるき)の断面を角形とすることが多く、これを「地円飛角(じえんびかく)」といい、 それぞれの形に合せた木口金具を備えます。
朱雀門も同じ構造ですが、垂木木口に金具は設けていません。

垂木と木口金物 木口金物
飛檐垂木 木口金物
地円飛角 木口金物
 2103扁額
扁額
門戸の高所中央にかかげられた、 門号を標した額
 扁額は、 寺院や宮殿などの門戸にかかげられた特別な額です。 額面には、建物の 名称や建物を含む施設全体の名称が(しる)されました。
大極門が当時なんと呼ばれていたか。その門号 (門の名称) に関する記事は文献資料にはみえません。 そこで、日本や中国の宮殿等の事例研究から 「大極門」と命名し、扁額に揮毫(きごう)しました。
「大極門」の文字は、第一次大極殿同様、 奈良時代前期のお経 (長屋王願経(ながやおうがんきょう)) から集字(しゅうじ)しました。額縁の形式は基本的には大極殿と同じで、 槍鉋仕上(やりがんなしあげ)げです。

扁額

彫り
大極門の扁額は、基本的には大極殿と同じで、額縁の上
辺が左右に突出し、額縁の左右に脚がついています。 額面
やげんぼ
の文字は、文字周囲を薬研彫りとしています。 この彫り方 も奈良時代の扁額に見られる特徴のひとつです。

彫り

彩色塗装
扁額の黒い肩や足の部分は漆塗で、 額縁は伝統的な技法の彩色で、 鉛白、 朱 (鉛丹(えんたん)辰砂(しんしゃ))、 緑 (天然岩白緑・ 天然岩緑青(ろくしょう))、群青(ぐくんじょう) (松煙墨(しょうえんぼく)・天然岩群青) などを膠液(にかわえき)で煉り 合せ、数回塗り重ねています。 文字は松煙墨です。

額縁裏側/漆塗り(上塗り/松煙漆)
朱 (下塗/鉛丹・上塗/辰砂)
緑 (下塗/天然岩白緑・上塗 / 天然岩緑青)

「扁額のモックアップ」
(原寸大模型)
ことに展示している額縁サンプル、 文字サンプル、 彩色サン プルは、各工程における製作の留意点等を検証するために 原寸大で作られたものです。 検証が終了した後、 大極門 に実際にかかげる扁額がつくりあげられました。

扁額のモックアップ

 扁額彩色の 塗装見本
扁額彩色の 塗装見本

➀額縁外(肩·脚)、額縁裏側.縞/漆塗......(下塗/生漆,上塗D/松煙漆·呂色漆)
②額面/鉛白塗 (下塗/鲐白·白土上塗/鉛白·白土)
③薄綠 (下塗/天然岩白綠·上塗/天然岩白綠)
④綠 (下塗/天然岩白綠·上塗/天然岩緑青)
⑤薄朱 (下塗/鉛丹·上塗/鉛丹)
⑥額縁表側/朱......(下塗/鲐丹·上塗/辰砂)
⑦薄青(下塗/天然岩白群青·上塗/天然岩白群青)
⑧群青 (下塗/松煙墨·上塗/天然岩群青)
 
 
 2123第一次大極殿復原・整備模型
第一次大極殿復原・整備模型 回廊 復原断面図 第一次大極殿院 大極門
第一次大極殿院東楼復原整備工事の概要 第一次大極殿院東楼素屋根
第一次大極殿院東楼素屋根スライド計画
奈良時代を今に感じる伝統技能継承
 
 


 平城宮跡歴史公園
 2300第1次大極殿院南門と東楼

西楼建設用素屋根 奥から大極殿
西楼木材刻み場
事務所棟
西楼完成図
東楼の素屋根を完成後
第一次大極殿院南門
その左右に東楼,西楼
レールで西楼の位置にそのまま移動した
はるか南に見える門は 朱雀門 東楼 東楼側面
まだ内部は工作中
大極殿院 鬼瓦 1階はカラス張りになっています。
これは柱だけの吹きさらしの建物だったようです。

10円玉の宇治平等院も全て柱だけの吹きさらしの建物でした。

これは行ってみてわかったことでした。
平安温暖期と無関係ではなさそうな、単に唐風文化の模倣だけではなく、当時の気候と関連していたのではないか。

古代ギリシャの石柱がエンタシスで、法隆寺回廊の柱も同様に中央が膨らんだエンタシスだ。遠くギリシャの建築様式が日本にまで伝わっていた。
と、義務教育で教えられたのだが、その後、ヤリガンナで柱を削ると、最初に力が入って次第に力が抜けていく。端は深く中央は浅く削られ、エンタシスのようになるのだと実証した学者がいたと聞いた。
 しかし、それにしてもギリシャの石造建築は、重い石の梁を支えるために、だるま落としのように積み上げた石材で柱を作り、短い梁を支えるために、その柱を沢山並べ建てていた。外回りだけ頑丈な石造りだったようだ。
 きっと屋根そのものは、木材などで垂木を作り、スレートか何かで葺いていたのでしょう。

 シルクロードを通じた東西貿易の活発化によって、ギリシャ文化が流入し、唐の巨大建築に影響を与え、吹き抜け構造の建築が、飛鳥・白鳳・奈良の『模倣唐文化』によって、ヤマトで吹きさらしの建築物が造られたのでしょうか。

 このような外観とよく似た建築様式が奈良時代から平安時代の寝殿造りに用いられたように思います。(しとみ)半蔀(はじとみ)は平安時代からの外界との遮断具のようで、奈良時代の『多柱吹抜け』構造の建築では、どのように外と中を遮断していたのでしょう。
大門のように、観音開きの扉があったのではないかと想像するのですが、第一次大極殿院に復原されていないことを思うと、扉はないのでしょう。


 3400大極殿
 3401
大極殿院 入口は側面から 展示場は二階。階下は入れない。
二階からの眺め
朝堂が東西に建っていた
かつてはこの前に
幢や幡が並んでいた
大極殿門と東楼西楼
を遠望しその向こうに
朱雀門がある。これは
つまり、宮都は、
南に朱雀
北に玄武
東に青龍
西に白虎
となっているのだ。
 3410
ごあいさつ
「あをによし 奈良の都は咲く花のにほふがごとく 今盛りなり」と万葉集に詠まれた平城京は、奈良時代 の70余年間、日本の首都として栄えました。 その北端部に位置する 「平城宮」 には、天皇の住まいである内裏、 儀式や政務を行う大極殿と朝堂院があり、 役人等が勤務する役所群が建ち並んでいました。

 大極殿は、天皇の即位の儀式や元日朝賀などの国家的行事を行う、 平城宮の中で最も重要な建物でした。 文化庁では、 特別史跡平城宮跡の整備事業の一環として、奈良時代前半の大極殿である第一次大極殿の 復原工事を平成13年度より着手し、 平城遷都1300年に当たる平成22年に完成いたしました。 この復原工事 の目的は、来訪者に奈良時代の平城宮を体験的に理解できる場を提供するとともに、伝統技術を継承するこ とにあります。
復原された大極殿の公開を通じて、広く皆様に歴史的空間である平城宮の往時の姿を体感し、 古代文化を 理解していただければ幸いです。

 最後に、 大極殿の復原工事に当たり、様々な御助言、御協力を賜りました関係者及び関係機関の皆様に対し、 心より厚く御礼申し上げます。
   平成22年4月

大極殿院二階 ごあいさつ

 大極殿の概要
大極殿の概要
 第一次大極殿は、 奈良時代前半に、 平城京の中軸線上に建てられた平城宮の中心的建物で、 天皇が様々な国家儀式を行う施設でした。
大極(たい きょく)」 (太極) とは宇宙の 根源のことで、 古代中国の天文思想では 北極星を意味します。
大極殿は和銅8年 (715) には完成していたと考えられます。

大極殿の概要 大極殿の概要 天文図
四神を表現
大極殿 藤原京からの遷都 都の移転、建物の移築を目的に三本の道路が建設されたようだ。


大極殿での営み
第一次大極殿の内部には、 高御座(たかみくら)とよばれ る天皇の玉座が置かれていました。 高御座は、 皇位を象徴する重要な調度で、天皇は即位 式や元日朝賀などの国家儀式の際に、大極殿に出御して高御座に着座しました。 貴族は、 大極殿の南に広がる内庭に立ち並び、 大極 殿の天皇を拝しました。

大極殿での営み
大極殿での営み
国家儀式 幢・幡 高御座


発掘調査
昭和45年(1970)汇始末 第一次大 殿の発掘調査の結果、 大極殿の遺構は奈 良時代後半の宮殿施設によって大きく壊 されていましたが、 大極殿の基壇及び階段 の基礎部分の痕跡が見つかりました。 それを基に、 大極殿の平面規模を確定することができました。

発掘調査 発掘調査 発掘調査
第一次大極殿奈良時代前半
遺構平面図
第一次大極殿
奈良時代前半
発掘調査 遺構検出状況
遺構平面図

 3420
鴟尾
屋根の一番上 (大棟)の両端につける鴟尾。 鴟尾は平域 宮大極殿でも仁宮大極殿でも出土していませんが、当 時、格の高い建物には通常、鴟尾をのせていましたので、 元々なかったとは考えにくく、鴟尾が金属でつくられ、溶 かされて再利用されたために残らなかったと考えられま す。 高さは、 平安宮大極殿のためにつくられたと想定され ている鴟尾をもとに約2メートルと考えました。

鴟尾


 復原
復原
第一次大極殿の姿を直接的に示す資料は残っていません。 復原に当たっては、大極殿が移築された恭仁宮(くにのみや)の大極殿跡の調査成果などを参考に、 柱の位置を推定しました。
上部の建物については、現存する法隆寺金堂薬師寺東塔などの古代建築を初め、平安時代の 「年中行事絵巻』 に描かれた平安宮の大極殿などを参考に 調査研究を行い、 当時の姿を復原しました。 大極殿は、 二重構造の入母屋造りで、前面は扉の無い吹放しの建物と考えられます。

復原 復原
古代建築
法隆寺金堂
薬師寺東塔
入母屋造り 上から大極殿基壇
一階、二階、屋根葺き
年中行事絵巻
大極殿の仕様
二重
初重
前面吹き放し
大極殿の仕様
■大極殿の大きさ
東西長さ/約44.0m (九間)
南北長さ/約19.5m (四間)
高さ (棟高)/約27.1m (基壇高さ約3.4mを含む)
 ●初重の柱
  直径約71cm 長さ/約5.0m 本数/44本
 ●二重の柱
  直径約59cm 長さ/約2.4m 本数/22本
■木材
ヒノキ、ケヤキ (吉野・熊野地方を中心とする国内産)
■屋根瓦
約10万枚
■工期
平成13年 / 着工 平成22年/完成

 3430高御座外観模型
高御座外観模型
高御座は、 国家儀式の際に天皇が着座した玉座です。 奈良時代の高御 座の構造や意匠に関する記録は無く、詳細は不明です。 ここに展示した 高御座の模型は、 大極殿の機能や広さを体感できるように、 大正天皇の 即位の際に作られた高御座 (京都御所に現存) を基本に、各種文献史 料を参照して製作した実物大のイメージ模型です。 細部の意匠や文様は、正倉院宝物などを参考に創作しました。

高御座外観模型
 3440
この
ギボウシ(擬宝珠)?は屋根の上の一対のシビの真ん中に、あった物ですよね。
正しい名前は? 
巨大な大極殿院南門が遥か向こうに小さく見える 内庭
 3450
内庭解説
大極殿の前面、 塼 (古代のレンガ) を積んだ高さ約2.4mの擁壁の下の広場が内庭です。 大極殿で行われる国家儀式の際には、ここに貴族が立ち並びました。 内庭は築地回廊 で囲まれていましたが、 その南辺中央に門が開き、饗宴などをおこなう中央区朝堂院へと つながっていました。

内庭解説

 3460宝珠(ほうじゅ)
宝珠

 

 3461大極殿に用いられた古代技術
大極殿に用いられた古代技術
第一次大極殿の復原に当たっては、構造やデザイン、 材料な どに関する調査研究を重ね、その成果に基づいて細部の設計 を行いました。
実際の工事では、文化財建造物の修復などで 用いられる古代からの伝統的な技術 (宮大工・屋根葺き・左官 などの技術) を最大限に活かしました。復原工事には、伝統技術を保存し継承するという一面もあるのです。

大極殿に用いられた古代技術

 復元工事の部材加工
第一次大極殿の復原工事に用いられた主要な木材は、樹齢約250年の国内産のヒノキやケヤキです。粗加工された状態で保管庫に運びこまれた木材は、一定期間乾燥させた後、加工場で墨付け、 手斧(ちょうな)加工や仕口(しくち)加工などを行い、 設計通りの部材に仕上げました。 特に部材の表面は槍がんなを用いて仕上げられ、 古代建築の風合を出しています。 これらの工程を経て建築 部材を組み立てました。

復元工事の部材加工 木材保管,手斧加工,
墨付け,仕口加工
槍鉋加工,組立て 軒瓦
軒丸瓦・軒平瓦


屋根瓦
第一次大極殿の屋根には、 約10万枚の瓦
が葺かれています。 瓦は、耐久性に優れ た屋根葺き材であると同時に、格式の高い 建物の象徴でした。 今回の瓦製作では、 発掘調査で出土した大極殿の黒味を帯 びた瓦の色合いを出すために、鉄分の多 い黒い粘土の水溶液を表面に塗り、 約 1,100度の温度で2日間かけて焼成しました。

屋根瓦 成形,瓦の焼成,
瓦合わせ,瓦葺き,

 3460塗装・彩色工事
塗装・彩色工事

第一次大極殿の復原工事では、これまでの調査研究の成果に基づいて、建物の主要な部材を丹土(につち) (赤い土) や緑青(ろくしょう)で塗装し、建物内部の天井板には蓮の花をモチーフとした絵柄文様を配しました。 また、小壁(こかべ)に は四神と十二支が描かれています。

天井板下塗り,絵柄文様,丹土塗装 緑青塗装

 金属工事
金属工事 すみ お だる き
飾金具 木口金物(隅尾垂木)

にじゅうこうらん ほこぎ
飾金具 木口金物(二重高欄架木)

ちゅうとう しょじゅう
柱頭用ダボ釘(初重柱)

なげしくぎかくし
飾金具 長押釘隱金物

とびらばい
飾金具 扉唄金物

第一次大極殿は様々な種類の飾金具で 飾られていたと考えられています。 古代の 飾金具は、 装飾という目的以外に、木材の 腐食の予防や建物の補強という実用的な 面もありました。 各所に取り付けられた飾 金具が光り輝く様子は、 大極殿の荘厳さを 一層引き立たせるものでした。

型取り→流し込み→
鋳上がり→磨き・仕上げ→鍍金
鍍金
水銀に溶かすために裁断した金
水銀に金を溶かし込んだアマルガム合金
飾金具に塗って温めると水銀が蒸発して鍍金される。
飾金具の取り付け

 ※遷都工事での鍍金によって、また、金銅仏の造営や、特にはのちの大仏鋳造による鍍金によって、奈良盆地には大量の水銀蒸気が漂い、降下して
  当時の庶民は原因不明の不治の病で死亡したり、その影響は、胎児にも大変な影響を及ぼしたものと推測される。
 3470バス停
バス停も飛鳥奈良仕様