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目次
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01概要
02考古館前庭
05外観
100考古展示室
101常設展示
110旧石器~縄文時代
111年表
113旧石器時代
120縄文時代
121縄文土器
131石器
135後期土器片
137後期石器
200弥生時代
201年表
211石器
215弥生土器
225内行花文鏡
227高坏と器台
229台付壺
250古墳時代
251年表
260埴輪
262舟形埴輪
馬形埴輪
263円筒埴輪
※考察 鳥形埴輪
265はそう
装飾品
270須恵器 |
300奈良・白鳳時代
301年表
311土器
313飛鳥時代
315奈良時代
321平安時代初期
鎌倉時代
331室町時代
中世
350追加展示
360陶棺
365竹万山田古墳
370木製短甲
西野山3号墳の粘土槨
※粘土槨とは
※木製短甲
373なぜ木甲?
※考察 木製短甲
400展示替コーナー
411平形銅剣
※平形銅剣の分布斧
430中山12号墳
432素環頭大刀
433鉄刀
434副葬品
435鋸歯文帯乳文鏡
436器台と広口壺
437装飾須恵器 |
460西野山3号墳副葬品
461棺内配置図
462鉄製品
464首飾り
水銀朱
465三角縁神獣鏡
480須恵質製品・瓦質製品
482平安時代
483高田城遺物
500展示替え2025.06.05
510弥生時代
511展示概要
516飛鳥~奈良の土器
521弥生土器
525周世黒谷古墳
528八重山古墳群
533高取山7号墳
537高野N2号墳
551※考察 蓋付高坏
585古池古墳
586栖雲寺跡
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600有年原・田中遺跡
601リーフレットより
610有年原案内
620公園案内
630管理棟
640一号墳丘墓
※考察 円形周溝墓
643墳頂部
645器台・壺
※考察 特殊器台・特殊壺
645周溝
650二号墳丘墓
670祭祀土坑
680木棺墓群
700東有年・沖田遺跡
701リーフレット
710弥生時代住居
721案内板
722弥生住居
730古墳時代住居
740方形住居
741高床式建物
750古墳後期の集落
古墳後期の墓
760赤穂市坂越湾
秦河勝
赤穂コールドロン
770有年歴史散策
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01概要
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赤穂市立有年考古館 (併設有年民俗資料館)
赤穂市立有年考古館は、昭和25年(1950)に松岡秀夫氏が設立した私立考古館を、赤穂市が寄贈を受け、平成23年(2011)より管理運営を
行っているものです。
収蔵資料には、旧赤穂郡内から収集された有年考古館収蔵考古資料(赤穂市指定文化財) 1250点や、民俗資料などがあります。
開館時間 午前10時~午後4時 (入館は午後3時30分まで)
休館日 火曜日(ただし祝日の場合はその翌日)
年末年始(12月28日~1月4日)
入館料 無料 |
有年考古館周辺の歴史文化
有年考古館周辺の歴史文化
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有年宿跡
歡池魚塚
道標(有年横尾)
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1 東西南北の交通 ―近世山陽道と千種川―
千種川は、古くから南北の交通を担った川の道。近 世に川を上下した高瀬舟は、米や塩など生活物資を運ぶ重要な手段でした。 一方、陸路は東西を結ぶ街道や古道があり、近世には西国街道が通じていました。
近代になるまで千種川に橋は架けられず、交通のうえで壁になっていましたが、 その一方で、 川待ちの人々を泊めるための宿場町 「有年宿」 が栄えました。 |
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塚山6号墳
有年原・田中遺跡公園
東有年・沖田遺跡公園
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2 古代の遺跡めぐり ―文化財の宝庫―
遺跡が数多く残され 「文化財の宝庫」と呼ばれる有年地区。
弥生~古墳時代の大規模集落の東有年・沖田遺跡、墳墓遺跡の有年原・田中遺跡や、
有年牟礼・山田遺跡、市内唯一の前方後円墳の放亀山1号墳、
特徴的な墳丘をもつ蟻無山古墳、北の山塊に分布する古墳時代後期の横穴式石室群など、かつての有年地区の隆盛と特徴を物語る、貴重な文化財を体感することができます。 |
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鴾ヶ堂城跡展望台
光明寺奥の院
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3 夢のあと ―山城と山岳寺院の風景―
中世、戦乱に大きく巻き込まれた有年地区には、中世山城跡が多数築かれました。 現在は石垣や削平地、土橋などが残され、当時の様子を偲ぶことができるとともに、広く望める眺望を楽しむことができます。
加えて、有年地区には同時期の山岳寺院が多数築かれており、現在も石造物や建物礎石が残っていて、当時の様子 を偲ばせます。 |
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矢野川の風景
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4 しぶらの里 ―豊かな農村風景―
かつて江戸文化研究者の西山松之助は有年地区を 「しぶ ら(ヒガンバナ) の里」 と呼びました。 有年地区は、現在でも豊かな農村・里山風景が広がり、時間が止まったかのような感覚を覚えます。
道中そこかしこにある歴史を重ねてきた多くの遺産、そしてヒガンバナがそこに彩りを与えてくれることでしょう。
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有年考古館周辺の歴史文化
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○古墳・古墳群
―西国街道(近世山陽道)
―(茶色)赤穂鉄道軌道跡
■偉人顕彰碑
▲山城 |
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・石造題目笠塔婆
(康永4(1345))
・光明寺町石
・石造宝篋印塔
(建武2(1335)) |
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02考古館前庭
石材加工品
石棺の土台石 |
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かつて柴田旅館(赤穂市加里屋)にあった家形石棺の一部ではないかとされるが、近世の石材加工品とも考えられる。 |
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| 05外観
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100考古展示室
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101常設展示
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110旧石器~縄文時代
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111年表
旧石器時代
紀元前30,000年前
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紀元前30000年
旧石器時代 後期
ヒトが住み始めたころ(旧石器時代〜)
まず「日本」という国ができる前、日本「列島」がまだ中国大陸と地続きだった時代、言葉はあっても「文字」さえまだない時代の話をするよ。考古学では「旧石器時代」と呼んでるんだ。
ぼくたちが住んでいる日本列島には、およそ3万年前にはもう人 が住んでいたことがわかっている んだ。でも、2万年前ころまではとても寒い氷期で、寒冷な気候だったんだ。だから海水面は今より100mも低かったと言われてて、中国大陸と「日本列島」は地続きだったんだ。ナウマンゾ
ウやオオツノジカなどを追って、人々が 「日本列島」に来たんだよ!
野尻湖遺跡 ナウマンゾウ オオツノジカ
岩宿遺跡 打製石器 ナイフ形石器 尖頭器 |
縄文時代 草創期~
紀元前12,000年前
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紀元前12000年
縄文時代 草創期
氷期が終わって日本列島ができると、列島内の大型動物を全部狩り尽く してしまったんだ。だか ら人々は、代わりにシカ やイノシシといった小動 物を狩るための小さな道 具を使い出したんだよ!
1万6千年ほど前、 土器が発明されたん だ。水を貯えたり食べ物を煮たり、ドング
リのアク抜きをしたりと、とっても便利に なったんだ。
考古学ではこの時代を、土器に縄目の文 様がつけられたことから「縄文時代」と呼 んでるんだ。
石器には、石を打ち割って作る打製石器 と、磨いて作る磨製石器があったんだ。このあたりでは、香川県の金山周辺で採れるサヌカイトっていう、割るとそのまま刃物になる
特別な石材を用いた打製石器がよく使われて いたよ。石斧は磨製石器が多いかな。
草創期 氷期がおわり、日本列島ができる
縄文時代の狩りの様子
縄文土器、竪穴住居、狩猟採集、貝塚、磨製石器、骨角器、
早期 弓矢、土偶
前期 環状列石
三内丸山遺跡
青森県三内丸山遺跡では、粒のそろった。クリが、たくさん見つかったことから、 栽培されていたかもしれないんだって!
火焰土器、抜歯の風習
中期 環状集落 |
縄文後期-晩期
紀元前2,000-1,000年前
紀元前1,000-500年前
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紀元前2,000年前
後期 環状集落
石器には、石を打ち割って作る打製石器と、磨いて作る磨製石器があったんだ。 このあたりでは、香川県の金山周辺で採れるサヌカイトっていう、割るとそのまま刃物になる特別な石材を用いた打製石器がよく使われていたよ。石斧は磨製石器が多いかな。
縄文時代の人々は、地面を掘り下げて竪穴住居を建てて生活してたんだ。 動植物など自然の資源に恵まれ
たムラの場合、たくさんの人が長い 期間住むことができたから、貝殻な どの食べカスをずっと同じ場所で捨て続けたんだ。それが貝塚だ。 貝塚を発掘調査すれば、生活の移り変わ りがよくわかるんだよ!
でもほとんどのムラでは、シカや イノシシといった獲物を求めて移動しながら生活をしていたんだ。
紀元前1000年
晩期 亀ヶ岡式土器 |
弥生時代
紀元前500年前
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紀元前500年
弥生時代 早期
紀元前500年頃(今から2500年前)になると、中国の長江流域や鮮半島南部から稲作が伝えられたんだ。
「弥生時代」の始まりだね。
弥生時代の景観
コメ作りには、土地や水のほかに、みんなの力を集めることが必要なんだね!
稲作 板付遺跡
最近の研究では、縄文時代晩期の土器と、弥生時代前期の土器は、もしかすると同時に使われていたと考えられてるんだ。 もし そうだったのなら、縄文時代的な「古い」 生活をしていた人々 と、弥生時代的な 「新しい」 生活をしていた人々が、 同じ時代 でも別々に住んでいた可能性も考えられているんだよ! |
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113旧石器時代
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旧石器時代
(~16,000年前)
縄文時代
(16,000~2, 500)
弥生時代
(2,500~1,800)
古墳時代
(1,800~1,400年前)
古代(飛鳥~平安時代)
(1,400~800年前)
中世(鎌倉~安土桃山時代)
(800~400年前) |
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旧石器時代
ナウマン象の牙
瀬戸内海赤穂沖
旧石器時代
~約20,000年前
底引き網に掛かった |

この頃瀬戸内海は陸地で、ナウマン象が沢山いた |
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120縄文時代
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121縄文土器 堂山遺跡 縄文前期~後期 約8,000~4,000年前
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縄文前~後期
約8,000~4,000年前
縄文土器
堂山遺跡
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前期土器 約6,000年前 |
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| 130 |
131 石器
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石鏃
早期 約1万年前
西有年・馬路遺跡
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矢の先に付ける「やじり」だよ。
これでイノシシ・シカ・ウサギなどの狩りを
したんだよ。 |
刃器・石匙
縄文時代後期
約4,000年前
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猪壺谷遺跡 刃器,石匙
木ノ目池遺跡 石匙
馬路池遺跡 石匙 |
刃器:
折れているけど、ナイフの一部みたい。よく見ると、刃をつけているよ!
※脚注に隠れて見えません。
石匙:
ナイフのような石器!出っ張りに紐を結びつけて持ち運んだといわれる。
肉や魚を切り分けたり、皮を加工したりするのに使ったのかな。 |
後期土器
土器
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縄文土器 深鉢
縄文時代後期
約4,000年前
塩屋築田遺跡
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135後期土器片
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137後期石器
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サヌカイトチップ
石器製作時の石屑
猪壺谷遺跡
後期 約4,000年前
どこ産のサヌカイト?
四国へ舟で取りに? |
縄文土器
猪壺谷遺跡
後期 約4,000年前

石刃は既出 |
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叩石 縄文後期 約4,000年前 猪壺谷遺跡
木の実の殻を割ったり、石器作りのハンマー
のような石器。
石冠 縄文晩期 約3,000年前 有年原・田中遺跡
とても珍しい石器!でもどのように使われた
か、わかっていない。 |
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石錘
猪壺谷遺跡
後期 約4,000年前
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小型石棒
東有年・沖田遺跡
晩期約300年前
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石鏃
猪壺谷遺跡 後期 約4,000年前 |
石錘:漁で使う網につけた錘といわれているよ!
魚も採っていたみたい!
石棒:石を磨いて、棒のようにしているよ!
おまつりの道具といわれているよ! |
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200弥生時代
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201年表
紀元前400年前,前期
紀元前300年前,中期 |
紀元前400年 弥生時代前期
米づくりと争い(弥生時代)弥生時代中期前葉
・「稲作(米づくり)」は、長い労働時間がいるけど、同じ場所で生産できて、蓄えることができたから、多くの人たちが同じ場所に住む(定住) ことができるようになったんだ。
このときは稲作だけではなくて、環濠集落、磨製石器といった新しい文物も一緒に伝えられているから、稲作は、技術をもった人々が東に移動して伝わったんじゃないかな。
・このほか、青銅器や鉄器も伝えられて、日本列島では銅鏡、銅鐸、銅剣、銅矛といった青銅器は祭りの道具として鉄鏃や鉄剣といった鉄器は狩りや武器に使われたんだ。
・稲作は一人ではできないものなんだ。しかも、とれた米は、ムラの1年分の食糧になったんだ。
だから収穫された米は動 物や洪水の被害にあわな いよう、ムラの倉庫「高床倉庫」に収納され、大事に保管されたんだよ。
・稲作のおかげで人々の生活は安定し、遠くの人々 との交流も大いに広がったんだ。
でも、米をたくさん蓄えられたムラと、できな かったムラとに分かれ始めたんだ。するとどうなる かわかるかい? ムラの間に貧富の差ができて、食料や土地、水利などを取り合って争いが起きたんだ。 |
紀元後100年,後期前葉
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・各地で争いが起こってる・・・。偉い人が出てくると、こうなってしまうのかな。
・ムラの人たちは、ムラの周りに溝をめぐらす環濠集落や、わざわざ山の頂上などに住む高地性集落をつくり、防備を固めるとともに、中国大陸の国に応援をお願いする使いを送っていたこともあるんだ。有名な国としては、卑弥呼が魏から銅鏡100枚などを与えられた邪馬台国があるね! |
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紀元前400年
弥生前期
弥生土器
木製農具
磨製石包丁
柱状片刃石斧
扁平片刃石斧
青銅器
鉄器
水田
環濠集落と柵
竪穴住居
高床倉庫 |
紀元前300年
弥生中期前葉
■南方遺跡 ヒノキ材
(B.C.270年)
■南方遺跡 ヒノキ材
(B.C.248年)
■南方遺跡 ヒノキ材
(B.C.243年)
■武庫庄遺跡 掘立柱建物
(B.C.245年) |
紀元前100年
弥生中期後葉
高地性集落
石鏃の大型化
大型掘立柱建物
■二の畦・横枕遺跡 井戸
(B.C.60年)
■二の畦・横枕遺跡 井戸
(B.C.97年)
■池上曽根遺跡 掘立柱建物
(B.C.52年) |
紀元後100年
弥生後期初頭
倭人百余国に別れ、一部の国は前漢の
楽浪郡に朝貢(漢書地理志)
登呂遺跡
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弥生時代後期前半
赤穂市
有年原‧田中遺跡
有年原‧クルミ遺跡
東有年‧沖田遺跡
有年牟礼・井田遺跡
有年牟礼・山田遺跡
西有年・垣内田遺跡
周世‧入相遺跡
高雄‧根木遺跡
堂山遺跡
上郡町
釜島遺跡 |
弥生時代後期後半
赤穂市
有年原‧田中遺跡
東有年‧沖田遺跡
有年牟礼・井田遺跡
西有年‧垣內田遺跡
周世‧入相遺跡
高雄‧根木遺跡
堂山遺跡
上菅生遺跡
木津‧原遺跡
奥山遺跡? |
弥生時代後期後半
赤穂市
上郡町
神子田遺跡
西田遺跡
羽山遺跡
駒山山麓遺跡
西野山遺跡
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古墳時代初頭
赤穂市
有年原・田中遺跡
東有年‧沖田遺跡
有年牟礼・井田遺跡
堂山遺跡
相生市
松崎遺跡 |
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| 210 |
211前
弥生石器
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石鏃
有年原・田中遺跡
中期 約2,000年前
弥生時代は金石併用期 |
磨石
野田遺跡
中期 約2,000年前

粉砕器 |
甕
堂山遺跡
前期 約2,500年前
赤穂では前期土器は珍しい |
弥生中期:約2000年前
扁平片刃石斧:野田遺跡
柱状片刃石斧(有年牟礼
・井田)

牟礼=古代朝鮮語で山・小高い丘の意味 |
環状石斧(西有年畑田)
太型蛤刃石斧(野田)
伐採具
中期 約2,000年前
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215弥生土器
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甕
中期 約2,400年前
有年原・田中遺跡 料理用鍋,口縁部に連続圧痕文の装飾 |
甕
中期 約2,000年前
有年牟礼・井田遺跡
 無文,器厚薄く実用的に |
甕
後期 約1,800年前
東有年・沖田遺跡
 底に注目 |

底面は紡錘形で尖っている |
壺・器台
後期 約1,900年前
有年原・田中遺跡
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221前列
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環状石斧
中期 約2,000年前
西有年・畑田遺

棒を通して武器に? |
打製石包丁 中期 約2,000年前
有年原・田中遺跡
西有年・畑田遺跡

穂摘み具 |
打製石包丁 中期 約2,000年前
東有年・沖田遺跡

磨かない石器 |
大型石包丁 中期 約2,000年前
野田遺跡

大きなナイフ |
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223後列
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壺・器台
後期 約1,900年前
有年原・田中遺跡
特別な土器セット |
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広口壺
中期 約2,000年前
西有年・畑田遺跡 |
壺・器台
後期 約1,900年前
有年原・田中遺跡 |

壺の形が違うことには言及していない |
こんな壷は珍しい。
福岡県に近い形状が報告されている。 |
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225内行花文鏡
内行花文鏡
後期 約1,800年前
奥山遺跡 |

花のような文様がある
弥生人が磨き続けて
摩耗した |
使用による摩耗が激しい |
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227高坏と器台
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装飾高坏
後期 約1,800年前
有年原・田中遺跡 |
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器台
後期 約1,800年前
有年原・田中遺跡
東有年・沖田遺跡
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229台付壺
装飾壺・装飾器台
後期 約1,800年前
有年原・田中遺跡
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この台付壺は、有年原・田中遺跡の弥生墳丘墓の墳頂で埋葬墓坑の周囲に立て並べられていました。
器台と壺ではなく、両方併せて一括でデザインされた装飾土器です。 |
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250古墳時代
赤穂市の古墳群 塚山古墳群
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251年表
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紀元300年
古墳時代前期
ヤマト王権時代(古墳時代)
・争いの結果、小さなムラがまとめられて、大きなクニが 各地にできたんだ。そしてク二の権力者一人のために、
全長数百メートルの巨大な墓を造る時代がやってくる。 これが古墳時代の始まりだ。
・初期の大型古墳は、奈良盆地東南部に築かれてるから、政治の中心がここだと考えて、考古学では「ヤマト王権」
と呼んでるんだ。
・一番偉い人は、古墳から見つかった鉄剣に刻まれた文字から「大王」と呼ばれていたと思うよ。 |
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紀元400年
古墳時代中期
・渡来人は、建築、土木工事、焼き物、養蚕、機織り、鍛冶、酒、漢字、鉄器、絹、準構造船など、多くの文化を伝えたんだよ!
・古墳時代で、特にヤマト王権とかかわりの深い古墳は、前方後円墳という形のもので、埋葬されるんだ。 銅鏡や玉類、鉄刀や鉄剣などが埋葬施設には竪穴式石室が造られ、銅鏡や玉類、鉄刀や鉄剣などが副葬されるんだ。
蟻無山1号墳築造の様子 帆立貝形古墳
副葬須恵器、葺石、円筒埴輪、馬形埴輪、家型埴輪 |
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500年
古墳時代後期
古墳時代後半になると、全国的に古墳の数が激増するんだ。でも反対に古墳自体はとても小さくなって、横穴式石室が築かれるんだよ。 石室内からは、朝鮮半島伝来の須恵器などが見つかるね。
こうした古墳は、一か所に密集しているから「群集墳」と呼んでいるんだよ。
600年
古墳時代終末期
実は古墳は、7世紀になっても築かれたんだ。聖徳太子が摂政になったのが593年、つまり6世紀末のことだから、聖徳太子も古墳に埋葬されていたことになるね。この時期の古墳は「終末期古墳」と呼ばれてるんだ。 |
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後期
527筑紫国造磐井の反乱(日本書紀)
横穴式石室
群集墳
587蘇我氏が物部氏を滅ぼす
593聖徳太子が摂政となる
603冠位十二階の制定
604十七条憲法の制定
607遣隋使(小野妹子ら) |
終末期
645大化の改新
646薄葬令
倭王武を征東大将軍に進号(梁書 武帝紀) |
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260埴輪 |
261
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円筒埴輪
蟻無山1号墳
古墳中期 約1,600年前
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船の絵 |
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この絵は船だとされている。下に伸びる線はオール(櫂)を表している。 |
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262舟形埴輪 蟻無山1号墳出土
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描かれているのは、 「スイジガイ」という貝だと いわれているよ!
これは船の両側につけられていた木の板を表現 したもの。 描かれた文様は「スイジガイ (水字貝)」 という九州や沖縄などでよく採れる貝を表現して
いるといわれているよ!
古墳時代には魔除けとして使われたとか! (※スイジガイの産地沖縄では、現在も魔除けとされている。) |
馬形埴輪
馬形埴輪 |
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馬形埴輪
古墳時代中期 約1,600年前
蟻無山1号墳出土
馬のかたちをした埴輪!
とっても古いもので、兵庫県内では最古かも? |
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263円筒埴輪
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須恵器 器台
古墳中期 約1,600年前
蟻無山1号墳 |
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土師器 はそう
古墳中期 約1,600年前
蟻無山1号墳
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264円筒埴輪
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古墳の周りに立て並べて飾りにしたり、中に人が入らないようにした。 |
円筒埴輪
古墳中期 約1,600年前
蟻無山1号墳 |
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※考察 埴輪、特に鳥形埴輪
今朝方(2025.10.29)、ネットニュースで滑空する鳥形埴輪が取り上げられていた。それは、
「松江市八幡町の八幡鹿島山古墳(5世紀前半)から、翼を広げて滑空する鳥をかたどった装飾が出土した」
「現存する国内唯一の「翼を広げた鳥形埴輪」は和歌山県の大日山35号墳(6世紀前半)で出土し、重要文化財に指定されています。」
この埴輪の目的は、
「主に大型の円筒埴輪の装飾として用いられ、邪悪なものから死者を守る意味合いがあったと考えられています。」
という結論だった。しかし、なぜ鳥が破邪の意味を持つのだろう。これは、こじつけ・妄想ではないかと思った。
今から何十年も前のTVドキュメント番組で、チベットの村での老婆の葬送の様子を放送した。
別れが済むと遺体は山の峰に運び出され、孫が手に持った斧で遺体を切断し始めた。すると、鷲が多数やってきて、付近を飛び始める。
適当な大きさに切った死体をそれに向かって投げると、次々に空中で掴んで持っていく。鳥は翼を広げると2メートルを超えるような大きさ。
こうして、全ての部位を鳥に与え、葬儀が完了する。
鳥は死者を天空の彼方のあの世に届けてくれる運び手である。鷲は破邪ではなく死者の運搬者である。破邪は学者の妄想ではないか。
このことから考えると、弥生時代以前から、この部族の葬送儀礼は鳥葬とまでも、風葬ではなかったのだろうか。
だから鳥が死体をついばむ姿から、鳥が死者の魂を死後の世界に届けてくれると考えたのではないだろうか。
弥生時代の建物から、風葬の痕跡をたびたび見てきた。
※この場合、空の彼方の国ではなく、空の高殿というべきでしょうか。
すると、島根県の出雲大社の16丈48㍍もの高層建築は、その高殿を意味しているのだろうか。だとすると、出雲族は鳥葬の部族か。
※無関係だが、縄文時代以降の北海道で、墓の数が極端に減少する時期がある。それでも学者は数少ない墓を見つけ出して発掘報告する。
すると、墓坑の減少がなかったかのように思われてしまうが実際にはそうではない。これが北方民族が北海道に影響を与える時期に起こる。
これは、北方民族が風葬だったからである。かつてのアメリカ西部劇映画では一回だけ見たが、アメリカインディアンは風葬であった。
また、別の部族は、
死体を川や海に流したのではないだろうか。そのまま、あるいは、筏や、権力者は死者の舟に乗せて。
これは、舟が死者の魂をあの世に運んでくれるという風習。だから舟は魂を死後の世界に運ぶ乗り物と考えたのではないだろうか。
弥生土器に線刻された、鳥の羽をつけた多数の漕ぎ手や鳥装束のシャマンの姿は死者の舟を意味する寓話だろう。
※水の彼方、海の彼方の死者の国は蓬莱さんではなく、蓬莱山と言われている。これは明らかに半島人か大陸人が信じた黄泉の国神話だろう。
日本列島の古墳時代をつくった時代には、もうそのようなかつての伝説など忘れ去られ、造営した古墳まで腐乱した遺体を運ぶ手段として、舟を利用したのではないだろうか。かつて、京都国立博物館で行なわれた特別展で、大きな船の埴輪を見たことがある(山陰地方の古墳だと記憶)。
とても大きなもので、子供の遺体ならスッポリと納まる大きさだった。
猛烈な腐敗臭と、死体から流れ出る腐敗汁で手も付けられない遺体は、はじめから舟に入れておけば軽減される。大人ならば、木棺に入れておくのだろうか。芳香を放つコウヤマキなどが使われるのは一方でそのように意味があったのではないだろうか。
そして、もう一つ伝わっていた伝説の、魂を運ぶ鳥は、鳥形埴輪として残ったのではないだろうか。
私は以前、翼を広げた鳥形埴輪をこのホームページで編集した記憶がある。最近のことである。かなりの損傷があったが、復元されていた。
これまでは、翼を休める水鳥ばかりだったので特に印象が深かった。
松江市は滑空する鳥、和歌山市は翼を広げた鳥(但し円筒埴輪に乗っている)、それ以外にも翼を広げた鳥形埴輪は存在することがわかった。
もしかすると、その他は、円筒埴輪をソケットにして、上からはめ込む方式ではなかったのだろうか。
鳥が魂を空の彼方に運ぶのは鳥葬あるいは風葬のなごり。舟が死者の魂を黄泉の国に運ぶというのは水葬のなごり。
鳥が邪悪なものから死者を守るというのは学者の妄想。
ではないかと想像しています。
しつこいようですが、庶民の死体はどうされたのでしょう。投げ捨てられたのでしょうか。北海道以外では土壙が沢山発見されたとも聞かないし、
鎌倉・室町期には帷子ノ辻と言うほど、死に装束の死体が街の辻々に捨てられていた。
江戸時代の落語にも、川に流され、淀みや葦原に骸や頭蓋骨が放置される様子が語られている。
近現代の法律によってはしばめて、死者が全て埋葬されるようになったのかもしれない。 |
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265はそう
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須恵器 はそう
古墳中期 約1,600年前
蟻無山1号墳 |
穴に竹を刺して注ぎ口にする。急須みたいな土器。
※急須みたいな酒器かな |
装飾品
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270須恵器
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須恵器 はそう
古墳中期 約1,600年前
奥山古墳群 |
須恵器 はそう
古墳中期 約1,600年前
奥山古墳群
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須恵器 はそう
古墳中期 約1,600年前
奥山古墳群
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須恵器 坏身坏蓋
古墳中期 約1,600年前
奥山古墳群 
この時代に多く使われた食器。古墳だけでなく集落からも出土する |
須恵器 広口壺
古墳中期 約1,600年前
奥山古墳群
惣計谷古墳群 |
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須恵器 坏身坏蓋
終末期 約1,400年前
惣計谷古墳群

中期のものと比べると小さくなっている。
形も変わっている。 |
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滑石製紡錘車
中期 約1,600年前
有年牟礼・井田遺跡

滑石製で集落の祭りで使われたといわれている。 |
須恵器 短頸壷
古墳中期 約1600年前
惣計谷古墳群
蟻無山2号墳
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300奈良・白鳳時代
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301年表
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600年
飛鳥時代
律令国家の時代以降(飛鳥時代〜)
・律令によって政治を行う方法は、遣隋使、遣唐使などの使節団を中国大陸に送り、その政治の形を参考にして作られたものだったんだ。大宝律令の制定によって、古代の統一国家が完成したんだよ。
・律令国家には、古墳時代以来、中国や朝鮮半島から日本列島にやってきた渡来人が、大きな役目を果たしていたんだ。
古墳時代では東漢氏、西文氏、秦氏が、
飛鳥時代では蘇我氏が有名だね。
815年に編纂された『新撰姓氏録』によると、都および畿内に住む1182氏族の うち326氏が渡来系氏族だったんだって!
・渡来文化を受けて、日本ではいろんな変化があったんだよ。
大きなものでは仏教の導入だね。権力の大きさを示すものが、これまでの古墳から寺院に変わってしまったんだ。
だから古墳は小さなものになったし、人の埋葬は土葬が普通だったんだけど、
西暦700年に初めて火葬が行われたんだ。 |
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飛鳥文化(6世紀末~7世紀半ば(592~710年マデ))(仏教伝来~大化の改新まで)
608隋使 裴世清
「男女多鯨臂點文身没水捕魚」(隋書東夷倭国条)
663白村江の戦い
672壬申の乱(天智天皇の死後、天智の弟・大海人皇子と天智の息子・大友の皇子、叔父・甥で後継争い)
・富本銭
しばらく前まで、日本最古の貨幣は 和同開珎と考えられていたんだけど、発掘調査で富本銭が最古とわかったんだよ!
(奈良万葉文化館建設のため、飛鳥池を発掘調査したところ飛鳥池工房が出現し、富本銭が出土した。)
701大宝律令の制定
和同開珠
710平城京に都を移す
班田収受
天平文化(724~749年の聖武天皇の治世。奈良時代の貴族文化)
墾田永年私財法(班田収授の行き詰まり。土地私有の公認)
・斎串や人形といった木製祭祀具は、各地で勝手に 作られたものではなくて、奈良や京都の都で国が行う祭祀で使われたものと同じなんだ。だから、こうした遺物が出てくると、国や郡の役所関係の遺跡である可能性が高いと言えるね! |
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奈良時代
・ところで人の住む建物も大きく変化したよ。古墳時代までの人々は、地面を掘り下げて竪穴住居に住み、床が高い高床倉庫 に米などを蓄えていたんだけ
ど、飛鳥時代以降は、地面を掘らずに平地式もしくは高床式の建物に住むようになったんだ。
・でも、発掘調査では地面から下しか見つからないんだ。だから、飛鳥時代以降の時代の発掘 調査では、柱の穴から建物を見つけていくことが多いんだよ。
さらに、もっと後になると「束柱構造」の建物が出てくるから、柱の配置から間取りを考えることもさらに難しくなるんだ。建物の形は、当時の絵巻を 参考にして考えていくしかないね。 |
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墨書土器
墨書土器が出てくるということは、字を書ける人が いたということ、そして字を読める人がいたということだから、国や郡の役所などに勤める役人がいた可能性も考えられるんだよ。
784長岡京に都を移す…長岡京の範囲
794平安京に都を移す
894遣唐使を廃止する(菅原道真)
935平将門の乱
939藤原純友の乱 |
武士のおこり
摂関政治
1016藤原道長が摂政となる
1051前九年の役
1083後三年の役
1086「院政がはじまる
1156保元の乱
1159平治の乱 |
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鎌倉時代
・平安時代でも後半になると武士が出現し、戦争による政権の 奪い合いが長い間続いたんだ。
鎌倉時代から室町時代にかけては、戦争のための施設として、城郭が築かれ始めるんだ。
また権力をもっていた人が住んでいた、大きな堀に囲まれた居館が 発掘調査で見つかることもある んだよ!
室町時代
・200年以上続いた室町幕府も、戦国時代に入って織田信長によって滅ぼされたんだ。
この時が、日本で一番たくさんの城郭が築かれた時代だね。石垣が 残されていることが多いから、みんなも知ってるものがあるね。 |
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311土器 飛鳥~平安時代 有年原・田中遺跡
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有年原・田中遺跡出土した、飛鳥時代~平安時代(1,400~900年前)の土器類。
右から左に、土器類が新しくなっていくよ。
ここは役所跡らしき建物がみつかったんだ。 |
土器の新旧
新←古
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奈良時代の土器 |
須恵器
飛鳥時代1400年前 |
坏身蓋 |
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312古代土製品 飛鳥~平安時代(1,400~900年前)
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有年原・田中遺跡出土した、飛鳥時代~平安時代(1,400~900年前)の土器類。
右から左に、土器類が新しくなっていくよ。
ここは役所跡らしき建物がみつかったんだ。 |
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| 313飛鳥時代 1,400年前
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315奈良時代 1,300年前
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墨書土器「彼云」
有年原・クルミ遺跡
墨書土器「口」
高雄・根木遺跡
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墨書土器「富」
有年原・田中遺跡

良縁をかついだ文字 |
墨書土器「奥津家」
有年原・クルミ遺跡

家は役所の意味もあり奥にある役所の意味 |
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円面硯
有年原・田中遺跡
文字を書けるのは役人と僧侶だけ。役所が近くにあったのか。 |
円面硯
有年原・田中遺跡
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須恵質 土馬
有年原・田中遺跡
奈良時代約13,00年前
祭祀に使用 |
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321平安時代初期 1,200年前
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刻書土器「秦」
有年牟礼・山田遺跡

秦氏漂着説を裏付ける |
刻書土器「大」
西有年・長根遺跡 |
鎌倉時代 800年前
須恵器 碗
木津・段ノ上遺跡
鎌倉期 約800年前
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須恵器 壺 木津・段ノ上遺跡
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小皿
木津・段ノ上遺跡

右から
土師器・須恵器・瓦器 |
青磁 碗
有年原・北山遺跡
中国製磁器
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瓦器 碗 木津・段ノ上遺跡
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白磁 壺
木津・段ノ上遺跡
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331室町時代 約600年前
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土師器皿
室町時代約600年前
東有年・沖田遺跡
底がへそ状に突出
へそ皿
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へそ皿
50~60年前は商品を並べるのに、木を薄くそいだ板を舟状にしたものやタケノコの皮などが使われたが、発泡のトレイが始まってから、中央が膨らんだ、詐欺トレイが普通になった。
京都からの影響らしいが、ぼったくり商店街として有名になった●●市場のようなところが始めた詐欺皿だろうか。 |
鎌倉時代 約800年前
白磁碗・青磁碗
木津・段ノ上遺跡 |
青磁 壺 木津・段ノ上遺跡
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中世 約800~500年前
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瓦質土器 羽釜
黒鉄山山頂

山頂で羽釜でなんの儀式?くがたち? |
備前焼 壺
六道山遍照院跡
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| 350追加展示 |
| 360陶棺 |
361
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丸尾古墳
上郡町上郡にある古墳で、6世紀後半頃に築かれた古墳です。 昭和3(1928)年に発見、 羨道部に残る陶棺周辺が発掘されています。
陶棺は南側の蓋が外れて横転した状態で発見され、 内部からは壮年男性の頭蓋骨が発見されています。
また奥壁付近には九州系の石室にみられる 「石障」 によく似た板石による囲いがあったとされ、 九州系石室の影響が考えられています。
千種川流域には、こうした九州系の石室の要素や、岡山県美作地域と類似した陶棺が点在しており、様々な地域の要素が流入する地域性を、丸尾古墳はよく示しています。
ちなみに陶棺の身は現地に保存され、 陶棺から外れていた南側の蓋
が有年考古館に収蔵されています。 |
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丸尾古墳
上郡町上郡 6世紀後半頃
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石室実測図 (『近畿の横穴式石室』より転載) |
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発掘された人骨 (兵庫県史跡名勝天然記念物調査報告 第9輯より転載)
播磨上郡陶棺新骨頭蓋骨写真
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顔面観 側面観
この人骨は縄文人だね。九州縄文系古墳人が海運で西播磨へやって来たのだろうか。 |
現在の丸尾古墳
写真奥が奥壁・手前に陶棺の身が残る
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有年考古館収蔵の蓋
(南側の蓋)
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北側の蓋は所在不明
本体は現保存

陶棺の実測図 |
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発掘された時の陶棺(兵庫県史跡名勝天然記念物調査報告 第9輯より転載)
右の写真で、陶棺左側で横転して出土しているのが、展示している蓋。
※盗掘者が棺内に溜まった水を流すために引き倒し、副葬品を持ち去ったと推察される。 |
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363
※陶棺であるが、石棺のように、綱かけの突起を装飾に用いている。
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365竹万山田古墳 7世紀後半~末
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上郡町竹万で、須恵質陶棺が発見されています。詳しい出土状況は 分かっていませんが、個人の墓地造成時に出土したものとされており、完形品であるため古墳から出土した可能性が高いものです。
陶棺の中でも、窯で高い温度で焼き上げる「須恵質」と呼ばれるタ イプで、もともとは家形(屋根形)の蓋が付いていたと考えられます。
陶棺は内部の長さが70cm程しかない小型のもので、こうした陶棺 は「小型陶棺」と呼ばれています。 あまりに小型であるため、遺体をそのまま納めたものではなく、火葬骨を納めたり、白骨化した遺体を
改葬するための棺ではないかと推測されています。
こうした小型陶棺は古墳の小型化が進行する7世紀後半以降に増加することから、展示している陶棺も7世紀後半~末のものと考えられ ます。 |
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陶棺
上郡町竹万山田出土
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須恵質陶棺
7c中頃
竹万山田古墳(上郡町)
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※水抜き穴の栓だろうか。僅かな隙間から溜まった水分を排出し、外からの侵入をこばむ装置ではないか。
盗掘者によって壊されている。 |
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370木製短甲 西野山3号墳 古墳時代前期後半 (4世紀後半) |
371西野山3号墳 (赤穂郡上郡町)
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西野山3号墳は、 有年考古館から北へ約2.5kmの場所にあり、 赤穂郡上郡町に所在します。 西野山周辺には前期から終末期までの古墳が点在していますが、
標高約80mの山頂付 近に3基の古墳があり、中でも西野山3号墳は全長40mと大規模な古墳になっています。
墳形は前方後円墳とも、 前方後方墳ともいわれていますが、墳丘の調査が行われていないため正確には明らかになっていません。 また葺石・ 埴輪は存在しないとされています。
採石工事や砂防工事で古墳の一部が壊されたため、有年考古館館長であった松岡秀夫が、親交のあった梅原末治氏を通じて京都大学に調査を依頼。 昭和26(1951)
年に京都大学考古学研究室によって発掘調査が実施されました。
粘土槨
調査の結果、古墳の内部には木棺を粘土で覆った「粘土槨」とよばれる埋葬施設があり、木棺の内部から多くの副葬品が出土しました。副葬品の年代から、古墳が築かれたのは古墳時代前期後半 (4世紀後半) と考えられています。
三角縁神獣鏡
副葬品の中でも三角縁神獣鏡 (四神四獣鏡) は千種川流域 唯一のものであり、古墳の主(被葬者) がヤマト政権と強いつながりを持っていたことがうかがえます。
木製短甲
被葬者の頭側と考えられる場所から、大きな漆製品が出土しました。 出土時の詳細な観察 近年の科学的な分析・出土位置などから、
これは木甲 (木製短甲・木でできた鎧)の可能性が高いと考えられます。
展示しているものは、出土した状態のまま、土ごと持ち帰られたものを、改めて保存処理したもので、土の上に黒いものがこびりついているのが分かります。これは木甲の表面に塗られていた黒漆です。木甲本体は木でできていたため、腐って完全に無くなっており、表面や裏面に塗られていた漆だけが、非常に薄い膜として残っているものです。
木製短甲の装飾
黒い膜をよく見てみると、直線三角形 (鋸歯文) 楕円形などの文様が断片的に見えます。これは木甲の表面に刻まれていた文様彫刻 (レリーフ)の跡と考えられ、本来は木甲全面に文様が彫られ、その上から黒い漆が塗られていたものと考えられます。そのため、装飾のある「加飾木甲」に分類されます。 ちなみに、赤い部分は埋葬時に撒かれた朱 (顔料) が染み込んだものと考えられます。
木製や皮革製の甲は弥生時代から日本列島に存在し、集落ではときおり出土しますが、古墳時代前期末になるとしだいに鉄製のものが主流になり、 古墳の副葬品としては鉄製短甲が多く副葬されるようになります。
古墳に副葬された木甲は極めて数が少なく、確実なものはこれを含めて全国で3例、兵庫県では唯一となる、非常に 貴重なものです。 |
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西野山3号墳 |
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西野山古墳群
赤穂郡上郡町 |
西野山古墳群位置図
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西野山3号墳の粘土槨の内部
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西野山3号墳の粘土槨の内部
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西野山3号墳の粘土槨の内部
加飾木甲(木製短甲)
三角縁神獣鏡
玉類(首飾り)
被葬者の推定位置
ヤリガンナ |
鉄刀・鉄槍
鉄鏃・銅鏃
矢柄漆膜
排水溝→墳丘外へ |
※粘土槨とは
古墳初期には 割竹形木棺、古墳時代前半期(4~5世紀)
次に、古墳時代前期~中期には木棺を粘土の上に置いて全体を粘土で包んだ 粘土槨の時期となりました。
加飾木甲 (木製短甲)
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木の板でできた甲 (よろい)に文様を彫刻した後、黒漆で仕上げています。
発掘調査時の観察から、 木甲本体とは 異なる製品があったことがわかります。
形状・大きさ・出土位置・類例などから革製草摺の可能性がありますが、 構造は不明です。
加飾木甲 (木製短甲) イメージ図 |
加飾木甲 (木製短甲) イメージ図
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出土時の詳細写真 |
出土時の実測図 |
写真ではこちらにも半円形の製品がみえる→草摺の可能性
半円形の製品→草摺の可能性
革紐とされる跡
レンズ状の文様→彫刻 ?
第四図 塗装纖維製品実測圖
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※木製短甲
木製のよろいがどれほどの効果があったのかは不明です。のちには雑兵の武具だったと記憶している。
しかし、古墳時代の第二王朝である粘土槨期の、三角縁神獣鏡を副葬する木槨墓の地方領主は、中央から認められた領主である。
そのような権力者が木製のよろいを着ていたとは、当時は装飾を凝らした製品を、実戦に関わらない王が着ていても不思議ではないのかもしれない。
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373
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どうして木甲 (木のよろい) ってわかるの? ? ??
保存処理にあたり、詳しい構造を分析するために顕微鏡で観察しました。もともと保存状態が良くなかったことや、 出土から長年経っていたことで劣化もありましたが、
わかったことは
➀木(道管を持つ樹木) でできた製品の両面に漆が塗られている。
→藤蔓(フジヅル) や繊維を編み込んだものや皮革製ではない。 木製品。
②漆膜は片面が厚く、 片面は薄い。 また漆層の間に朱が入り込んでいる。
→製品に裏表がある。 また複数部品や製品が重なり合っている。
③赤いものは朱 (顔料)。 ただし、漆の中に混ぜられたものではない。
→赤いものは、 埋葬時に撒かれた朱が染み込んだもので、 製品全体は黒漆で 仕上げられていた可能性が高い。 |
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(顕微鏡写真)500μm
← 漆層
←木胎(丸いものは道管に漆が染み込んだもの)
←漆層(素地は不明)
←黑色漆層
←漆層に挟まれた朱 (漆に混ざっていない)
←漆層
←黒色漆層(素地は不明)
← 漆層
200μm |
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また、現在の最新の考古学研究成果では、
➀弥生時代~古墳時代前期では、 彫刻 (レリーフ)や漆塗を持つ木甲の類例が増加しており、珍しい遺物ではあるが、 広い地域でみられる。
②同じような構造の遺物として盾があるが、 文様や大きさなどの特徴が全く異なる。
③甲冑が副葬される場合、 棺の端に置かれることが多い。 (盾だと、 棺の横や上)
④鉄製以外の甲冑も副葬されることがある。
(皮革製→奈良県・東大寺山古墳 木製 滋賀県・ 雪野山古墳、 奈良県 上殿古墳)
⇒以上の点から、木甲の可能性が最も高いと考えられます。 |
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←木甲
←三角縁神獣鏡 |
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←木甲
←三角縁神獣鏡
←ヤリガンナ
←鉄剣などの武器類 |
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375木製短甲
木製短甲 (出土した状態のまま保存処理をしたもの)
古墳時代前期後半(4世紀後半)
西野山3号墳(赤穗上郡町)出土
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※考察 木製短甲
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この木製短甲を知るまでは、木製のよろいは、雑兵の装備で、防御能力の低いものであると考えていました。
機能的には、板の盾と同じで、鏃を通してしまう。割れる。など、ほとんど意味を持たないと考えています。
ところが、漆装飾を施して、高位の者の鎧としたのは、鉄製品が乏しかった時代のせいでしょう。
ただ、木製短甲は軽くて動きやすいとされているので、剣による白兵戦では効果があったのかもしれない。
鉄の小札を革紐で綴った鎧は重く、長時間の戦闘には向かない。短い白兵戦の後にすぐに引き上げなければ、動けずに狩られてしまう。
ま、いずれにしても、戈や槍による攻撃には弱いのでしょう。 |
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400展示替コーナー
2022.05.19
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| 410 |
411
平形銅剣
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| 412
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430中山12号墳(上郡町) 古墳時代中期 兵庫県赤穂郡上郡町高田台4丁目22
(古墳時代初頭)全長59mの千種川流域最大最古の前方後円墳。2段築成。後円部平坦面が広く、段築テラス面は極端に狭い。
後世に砦として用いられ、前方部と後円部を堀切が分断している。
(古墳時代後期)箱式石棺 隅石を一石ずつ配置した方墳
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| 431
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432素環頭大刀
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| 433鉄刀
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434副葬品
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鉄斧、鉄鎌 |
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首飾り
滑石製勾玉 |
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土製紡錘車 |
不明石器 |
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首飾り
ガラス玉
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435
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鋸歯文帯乳文鏡
西野山古墳群
上郡町
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円筒埴輪
若狭野天神山古墳群
相生市
古墳時代
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円筒埴輪破片 若狭野天神山古墳群
相生市
古墳時代
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須恵器坏
山崎山古墳群/相生市
古墳時代
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須恵器はそう
山崎山古墳群
相生市
古墳時代
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| 436
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437装飾須恵器
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須恵器 甕
放亀山古墳群 赤穂市
古墳時代 |
須恵器 甕
八洞裏山古墳 相生市
古墳時代 |
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装飾須恵器
西後明遺跡(相生市)
古墳時代 |
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須恵器 甕
八洞裏山古墳 相生市
古墳時代 |
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460西野山3号墳 4世紀後半頃
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461棺内配置図 西野山3号墳出土物
唐草文帯四神四獣三角縁神獣鏡1点、管玉多数、勾玉2点、銅鏃4点、鉄剣3点、鉄鏃6点以上、鋤先1点、やりがんな1点、刀子2点、有機質製短甲
形状:攪乱のため、円墳か前方後円墳かとも判別不能。
西野山3号墳で発掘された木棺内の副葬品配置図
銅鏃
鉄鏃 |
鉄刀
鉄槍 |
ヤリガンナ
刀子
鉄斧 |
ヤリガンナ・刀子
(布巻き) |
ガラス玉
三角縁神獣鏡 |
繊維製品 |

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462鉄製品 4世紀後半頃
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写真はわざと横置きに
しています |
鉄鏃 |

10年前の展示 |
銅鏃 |

10年前の展示 |
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463
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鉄剣
鉄槍
鉄剣
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鉄斧
刀子
鉄剣・鉄槍・鉄剣
刀子
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刀子
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鉄斧 |
やりがんな
刀子
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矢柄漆膜 |
高価な漆装飾の矢が副葬されていた。
おそらく漆塗り弓もあったのではないか?
漆塗り弓矢は儀式用か |
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464首飾り
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首飾り
管玉+ガラス玉+勾玉

現在の展示 |
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10年前の展示 |

※何やら粉末が |
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※10年前の展示では、展示物の周囲に小さな粉末が溜まっている。また、玉石自体も粉をふいている。
他の展示物の破片か、玉石の破片なのだろうか。現在の展示では掃除されている。
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水銀朱
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※考察 高価な水銀朱、は中央構造線から出土するもので、
産地は紀伊半島や徳島県にある。
この古墳は粘土槨を伴うので、割竹形木棺期以後の大王の政権下です。
この王は水銀朱の産地を支配することによって権力を得たとされる。
奈良県大和水銀鉱山と徳島県水井鉱山があるが、どちら産だろうか。
粘土槨であるからヤマト政権から入手したのか、
徳島県産は近隣で、入手しやすかったかもしれない。
被葬者は大量の水銀朱と三角縁神獣鏡などを下賜された有力豪族
だったようだが、特産物でなく、臣下の誓いで付与されたのだろうか。 |
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| 465三角縁神獣鏡
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480須恵質製品・瓦質製品 |
| 481西後明遺跡
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| 482平安時代
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483高田城遺物 室町時代 上郡町
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石臼,備前焼 擂鉢
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備前焼 皿 |
備前焼 甕
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484駒山城跡 室町時代 上郡町
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490考古館前庭
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| 赤穂市有年考古館は 2022.5.19 と 2025.06.05 に撮影しました。 以下は、2025.06.05に展示替えがあった物を掲示しています。 |
500展示替え (2025.06.05時点)
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510弥生時代 |
511展示概要
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赤穂市立原小学校と有年原 田中遺跡
原小学校は、 縄文時代の終わり (約 3,000 年前) から鎌倉時代ごろ (約700 年前)まで人々が生活していた大きな遺跡、
「有年原・田中遺跡」の中にあり、学校の下には、今も遺跡が眠っています。
現在の体育館や小学校を建てる前に行われた発掘調査では、
弥生時代(約1,800年前)の大きな村の跡、
古墳(約1,500年前)の跡、
飛鳥時代から奈良時代 (約 1,400~1,200年前)の役所の跡などが発見されています。 |
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現在でも、原小学校の校庭や花壇の中から土器が見つかることがあります。
こうした土器も、歴史を知るためのとても大切な文化財です。
また、調査されたのは体育館や校舎が建っている部分だけで、 校庭部分は調査をせずに地下の遺跡を保存しています。 |
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ここにある土器のかけらも、 原小学校の子が、 遺跡見学中に蟻無山で発見しました! すごい!
土器のつくり方から、 およそ1500年前の須恵器という土器だとわかるよ! 水やお酒を入れるための大きな壺か甕のかけらだね!
古墳に供えられたものかな? |
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須恵器 甕
蟻無山1号墳
古墳時代 約1500年前 |
花壇から出た土器片
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ここにある土器のかけらは、 原小学校のこどもたちが、 花壇の中で発見しました! すごい!
発見されたのは、 「こしき」「かめ」 という土器のかけら!
かたちやもようから、 今から 1400~1300年ほど前(飛鳥時代~奈良時代ごろ)の土器だとわかります!
米を蒸して、ごはんをつくるための土器です。 |
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土師器 こしき
約1400年前
土師器 甕
約1400~1300年前
有年原・田中遺跡  |
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土師器 甕
約1400~1300年前 有年原・田中遺跡
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土師器 こしき
約1400年前 有年原・田中遺跡
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牛角把手がとても小さい。
こしき=蒸し器 |

米を甑布に入れて蒸すが、下の甕に澱粉が落ちて、粥状になり、毎回洗う必要がある。 |
甕の方に大型牛角把手があって、甕と甑を一度に取り外したのだろうか。
甑布は、米がねばりつかないので、麻布が当時から用いられたのでしょう。 |
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| 515 |
516飛鳥~奈良の土器
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須恵器 はそう
飛鳥時代 約1400年前
有年原・田中遺跡 |
須恵器 高坏
飛鳥時代 約1400年前 有年原・田中遺跡
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須恵器 坏(身・蓋)
飛鳥~奈良時代
約1400~1300年前
有年原・田中遺跡 |
須恵器 坏(身・蓋)
飛鳥~奈良時代
約1400~1300年前
有年原・田中遺跡
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土師器 坏
有年原・田中遺跡
飛鳥時代 約1400年前
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土師器 坏
有年原・田中遺跡
飛鳥時代 約1400年前
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518
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須恵器 坏(身・蓋)
有年原・田中遺跡
飛鳥~奈良時代
約1400~1300年前
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須恵器 皿
有年原・田中遺跡
奈良時代 約1300年前 |
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右端:土師器 皿
有年原・田中遺跡
飛鳥時代
約1400年前
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521弥生土器
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出土した弥生土器や石斧 |
奈良~平安頃の遺物 |
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高坏.器台.台付壺
有年原・田中遺跡
弥生時代 約1800年前
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器台 |
高坏の脚台
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台付壺  |
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鉢
有年原・田中遺跡
弥生時代 約1800年前 |
壺
有年原・田中遺跡
弥生時代 約1800年前 |
甕
有年原・田中遺跡
弥生時代 約1800年前
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甕
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体育館を建てかえる前の発掘調査
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校舎を建てかえる前の発掘調査
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弥生時代の竪穴建物跡
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525
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館蔵品紹介!
周世黒谷古墳 (赤穂市周世)
周世黒谷古墳は、 赤穂市周世にある古墳です。やや小型の横穴式石室を持つ 古墳で、尾根上に1基のみ存在する単独墳です。
古墳は石室の上半分が大きく崩壊していたため、 発見されたときには石材が 散乱しているだけで、 古墳かどうか分からない状態でした。 そのため、
昭和51(1976)年に、赤穂市教育委員会・財団法人有年考古館が石室内の土砂を一部取り除いて、古墳かどうかを調べる調査を行っています。
土砂を取り除いたところ、散乱した石材は横穴式石室の一部であることが判 明し、石室下半分が良く残っていることが明らかになりました。 また羨道部(石室の入口部分)から、
須恵器横瓶が出土し、古墳であることが明らかになりました。 年代は7世紀前半頃と考えられます。 |
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周世黒谷古墳 調査風景
中央で脚立に登っているのは、 松岡秀夫 |
石室の全景
横瓶の出土状況 |
土圧で割れているだけで完形品。 埋葬された当時の場所のままと考えられる。 |
須恵器・横瓶
周世黒谷古墳出土
古墳時代終末期~飛鳥時代 (約1,400年前) |
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528
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館蔵品紹介!
八重山古墳群 (赤穂市坂越)
八重山古墳群は、 赤穂市と相生市の市境である高取峠付近にある古墳群です。 5基以上の古墳が存在し、いずれも小型の横穴式石室を持つ7世紀 (古墳時代 終末期・飛鳥時代)の古墳であることが分かっています。
周辺の工事中に古墳が発見されたため、昭和51(1976)年11~12月にかけて、赤穂市教育委員会・財団法人有年考古館が発掘調査を実施しています。
1号墳(調査時は第2号古墳)と5号墳(調査時は第1号古墳)が調査されましたが、いずれも後世の盗乱掘が激しかったようで、遺物は1号墳から須恵器が1点出土したのみでした。 横穴式石室は1・5号墳とも、幅1.2m、高さ1.2m、長さ3.0m以上と小さなもので、7世紀中頃~後半に築かれたと考えられます。 |
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八重山古墳群 |
八重山古墳群からの眺望 (南に赤穂市街や瀬戸内海がみえる) |
高所築造の古墳
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古墳は標高130~180mという高所にあり、周辺の古墳よりもかなり高い位置に築かれています。
なぜこのような高い場所に古墳を築いたのか、どのような人物が葬られていたかは分かっておらず、謎の多い古墳群です。 |
高所築造の古墳 |
工事中に発見された5号墳

5号墳の横穴式石室 |
※石材に書かれた数字は、調査のために付けられたもの。 |
須恵器・坏蓋
伝・八重山古墳出土
古墳時代終末期~飛鳥時代 (約1,400年前)
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| 530八重山古墳群 赤穂市坂越 |
531
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1号墳の調査風景
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1号墳調査風景 |
周辺にあった
「第2古墳」実測図 |
第2古墳は徹底して破壊されたようです。
よほど高価な宝物が副葬されていたのでしょうか。 |
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533高取山7号墳 古墳時代終末期~飛鳥時代 約1400年前
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土師器 高坏 |
須恵器 壺 甕 |
須恵器 坏
須恵器 平瓶
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須恵器 平瓶
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須恵器 平瓶
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| 535高取山7号墳 古墳時代終末期~飛鳥時代 約1400年前
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537
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館蔵品紹介!
高野 N2号墳(赤穂市高野)
「高野 N2号墳」は赤穂市高野にある古墳で、現在は高取山7号墳と呼ばれています。
古墳は昭和 36(1961)年、赤穂高校社会歴史研究班によって横穴式石室の発掘調査が行われ、 土器 鉄剣 耳環などの遺物が出土しています。
また、古墳時代のものか、 後世のものかは分かりませんが、人骨も出土しています。 古墳は乱掘が激しく、遺物は多くなかったものとされています。
横穴式石室や遺物の特徴から、古墳は7世紀はじめに築かれた物と考えられ ます。高取山古墳群には50基を超える古墳がありますが、 発掘調査で遺物が
出土しているのはこの古墳だけです。赤穂市南部の古墳のようすを知るうえで 重要な資料です。 |
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高野 N2号墳
(赤穂市高野)
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現在の「高野 N2号墳」 (高取山7号墳) |
横穴式石室
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遺物配置図
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昭和三六年六月
高野N2号墳調査報告
赤穂高等学校歴史研究班
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遺物配置図 |
第二断面図
第一断面図は無し |
ガリ版刷。
当時の酸性紙のため
劣化が相当進行している。 |
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室町時代 (約500年前)
備前焼・大甕
大池遺跡(上郡町) 出土
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| 540 |
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以下は436~437と同じですが、「弥生土器 装飾壺」と「須恵器 脚付壺の脚」だけが追加されています。 |
551
弥生土器 装飾壺
西田遺跡 上郡町
弥生時代
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須恵器 脚付壺の脚
大酒古墳群
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須恵器 高坏
庵寺山古墳 上郡町 |
※考察 蓋付高坏
坏という鉢に、蓋を付けたのが蓋付坏、蓋付坏に脚台を付けたのが蓋付高坏。
普通の高坏はセザンヌの静物画にあるようなフルーツを派手に見せるために盛り付ける脚台付皿です。
ここでは蓋付坏に脚台を付けて高くしています。この目的を想像します。花見など行楽で屋外でレジャーシートを敷いて
コップを並べてコーヒーなどを煎れてサービスしようとします。その時、一陣の風がサァーッと吹き抜けると、コーヒーの
植えにはゴミが浮かび、中に砂が入って飲めなくなります。これを防ぐには、高い所でこの動作をする必要があります。
蓋付付は煮炊きした食べ物を衛生的に保つための工夫と言えるでしょう。
すると、当時は隙間風が吹く、ゴミの舞う場所で食事をしていたことになります。
庶民派や農奴は木彫りの食槽から手づかみで、少し上級は坏、蓋付付、もっと上になると蓋付高坏などとなるのでしょう。
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須恵器 壺 はそう
庵寺山古墳 上郡町
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土師器 壺 庵寺山古墳 上郡町
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須恵器 器台 広口壺
庵寺山古墳 上郡町 |
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581平形銅剣 別名遺跡
平形銅剣
別名遺跡
上郡町
弥生時代
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411と同じ |
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こしき 高坏
弥生後期
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須恵器 碗
緑ヶ丘窯跡 相生市
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須恵質 宝塔
西後明遺跡 相生市
飛鳥時代

480と同じ |
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585古池窯跡 相生市
古池窯跡 相生市 江戸時代
釜道具
古池窯跡 相生市
江戸時代
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土瓶・蓋
古池焼
古池窯跡 相生市
江戸時代
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586栖雲寺跡 上郡町
赤松円心の次男・赤松貞範によって建立された寺院
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軒平瓦
栖雲寺跡 上郡町
室町時代 |
軒丸瓦
栖雲寺跡 上郡町
室町時代
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瓦磚
栖雲寺跡 上郡町
室町時代
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軒平瓦
駒山城跡 上郡町
室町時代
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硯,軒丸瓦
駒山城跡 上郡町
室町時代
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591
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弥生土器・壺棺
羽山遺跡 上郡町
弥生時代
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高坏の蓋と本体甕 |
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412に似ているが違う |
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595駕籠
有年考古館の蒐集物は、眼科医で考古蒐集家である松岡秀夫氏が蒐集したものを赤穂市に寄贈したものです。
館内には多数の医療道具が保管されています。この人がいなければ、貴重な資料は散逸・廃棄されていたことでしょう。
松岡家は代々医師の家系でありました。この駕籠は、江戸時代~明治時代の医師が往診に使っていたものかもしれませんね。
ちなみに私の母の親戚は、馬で往診していたとのことでした。元軍医だったこともあるのでしょう。
それぞれ、いろいろな立場があるようです。
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600有年原・田中遺跡
弥生時代後期の、円形周溝墓の遺跡です。先に神戸市の方形周溝墓を取り上げました。文化が全く違う地域です。
円形周溝墓は讃岐の墓制であり、赤穂など瀬戸内海対岸で、吉備勢力に隣接して讃岐勢力が進出していた証拠です。
讃岐の兵庫県南西部の支配は、江戸時代まで続き、姫路市網干区にまで及んでいました。
しかし、讃岐と吉備は大変友好的で、縁戚関係を結び、平和的に共存していました。対立や戦争はありませんでした。
私は、赤穂地域の特産物や、千種川上流の資源、具体的には塩や鉄などの運搬を行なっていたのが讃岐ではないかと思っています。
塩は江戸時代からと思われがちですが、もっと以前から原始的な製塩が行なわれていたと考えています。
西日本の、吉備・讃岐・出雲の勢力が古墳時代初期の中央政権に組して強い影響を与え、円形周溝墓と特殊器台・特殊壺に貼石を統合した、
後に、前方後円墳に仕上がる、ヤマト勢力独自の墓制を作り出し、いわゆる記念物として、象徴として、強大な勢力を見せつける人工物として、
新しい政権に特徴を与えたのではないかと想像しています。
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601リーフレットより
表表紙
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有年原・田中遺跡って、何か「すごい」の?
有年原・田中遺跡では、弥生時代後期(約1,900年前)の大きな墓が2基、発見されました。このうち1号墳丘墓(直径約19m)には、「突出部」と「陸橋部」(右図)がありました。
古墳時代に巨大な権力が生まれたことを示す前方後円墳は、弥生時代の墳丘墓の「突出部」が発達した形であることから、有年原・田中遺跡でみつかった墳丘墓は前方後円墳の祖形の1つであると考えられています。
また周溝からは、墳丘墓に貼り付けられていた石材とともに、多くの文様で飾られた壺と器台が出土しています。これらの土器はそれまで墓の「マツリ」で用いられていたものとは大きく異なっており、最終的には埴輪の原型となる土器「特殊器台」の祖形になるものと考えられています。
このように、有年原田中墳丘墓群は、墓の形と「マツリ」の方法に古墳時代の前方後円墳と共通する点が多く、その起源を明らかにする遺跡の1つとして、全国的に有名です。その価値はきわめて高く、兵庫県指定文化財(史跡)となっています。
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有年原・田中遺跡の
発掘調査の様子
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有年原・田中1郷墳丘墓 |
1号墓の突出部  |
墳丘墓から出土した
土器(壺と器台・高坏)
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有年原・田中遺跡を散策してみよう!
有年原・田中遺跡公園には、発掘調査で見つかった遺構が復元されています。 すでに説明した1号墳丘墓
や2号墳丘墓のほか、一般の人々を葬ったと考えられる木棺墓群、そして木棺墓群と墳丘墓との間を分ける 溝があります。 この溝は長さ20m・幅3m・深さ1mで、 中からは100個をこえる完全な形の土器が出土し ていることから、墓への 「マツリ」 が行われたと考えられ、「祭祀土坑」と呼んでいます。 なお、墳丘墓で は棺は見つかっておらず、 すでに破壊されていたようです。
有年原・田中遺跡では、権力者の墓と考えられる墳丘墓と一般の人々が葬られた木棺墓群を区画する溝が あることから、古墳時代につながる身分差や権力が生み出されつつあったことがわかります。 |
見開き両ページ |
有年原・田中遺跡を散策してみよう!
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有年原・田中遺跡を散策してみよう!
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発掘された
祭祀土坑
弥生時代の木棺墓群
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園内案内図 |
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裏表紙
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610有年原案内
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ようこそ
有年原地区へ |
遺跡の里 |
周辺史跡のご案内 |
遺跡の時代区分 |
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有年原・田中遺跡
(墳丘墓群)
約1800年前 弥生後期

円形周溝墓多数
円形周溝墓は讃岐に多い。前方後円墳の祖型 |
蟻無山古墳群(1号墳)
約1600年前 古墳中期

帆立貝型古墳
古墳隆盛期 |
木虎谷古墳群(2号墳)
約1500年前 古墳後期
全て6世紀
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620公園案内
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有年原・田中遺跡 |
有年原・田中遺跡
歴史公園案内図 |
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有年原 由中遺跡 (兵庫県指定文化財) 弥生時代後期の墳丘墓群
有年原 田中遺跡は、 赤穂市内を南流する千種川と有年盆地を西流する矢野川との合流域の北に位置し、遺跡の北にそびえる奥山の谷から南に広がる緩やかな扇状地上に立地しています。
有年地区では、 有年考古館館長であった故松岡秀夫先生を中心とした精力的な調査活動によって、 多くの遺跡 が発見されていましたが、 近年の発掘調査によって新たに弥生時代・古墳時代の竪穴住居跡や、飛鳥・奈良時代
の掘立柱建物跡なと一緒にたくさんの土器や石器、木製品が見つかり、有年原田中遺跡が弥生時代からの大集落跡であったことがわかってきました。
その中でも特に、昭和63年度に実施した圃場整備事業に伴う発掘調査で発見された弥生時代後期(約1800年前)の墳丘墓群と、そこから出土した大型の器台・壺・高杯が極めて貴重なものであったため、有年原田中遺跡は
全国的に一躍有名な遺跡となりました。 そして、地元住民の理解と協力によって遺跡の一部は公有化され、 平成 2年3月には兵庫県指定文化財に指定されました。見つかった弥生時代後期の墳丘墓群・木棺墓群・祭祀土坑は
当時の姿に復元され、「有年の王」の墓は今新たに「有年原・田中遺跡歴史公園」として生まれかわりました。
整備されました歴史公園 はみなさんの公園です。 楽しく学び、大切に利用しましょう。また、文化財は私たち みんなの貴重な財産です。 みなさんの手で大切に守っていきましょう。 |
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有年原 由中遺跡
(兵庫県指定文化財) |
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周辺俯瞰図 |
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630管理棟
管理棟 |
有年原・田中遺跡周辺の文化財
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有年原・田中遺跡周辺の文化財
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➀蟻無山1号墳 <兵庫県指定文化財>
蟻無山の山頂 71.4mのところに蟻無山1号墳がある。直径40m、高さ3mを測り、南西部に台形の「造り出し」と呼ばれる突出部がある。 発掘調査はされていないが、馬形埴輪
盾形埴輪などの他に初期須恵器が出土しており、ここから出土した遺物は現在有年考古館に展示されている。
5世紀中頃の築造。
②木虎谷2号墳 <兵庫県指定文化財>
原小学校裏の木虎谷に15基からなる木虎谷古墳群がある。このうち2号墳は直径15.6m 高さ6.5mの円墳 であり、全長 9.5m 幅 2.2m 高さ2.4mと市内で最も大きな横穴式石室を内部主体としている。 両袖式の石室の奥には奥行1.3m、厚さ45cmの石棚があり、 非常に珍しい古墳として知られている。6世紀前半頃の築造。
③塚山6号墳 <兵庫県指定文化財>
有年牟礼の山田集落の西山裾に8基からなる塚山第1古墳群がある。
このうち6号墳は、墳丘の正面に外護列石を備える長辺16m、 短辺14.6m、高さ4mの方墳であり、 全長11.4m、 幅2.2m、高さ2.4mの横穴式石室を内部主体としている。
片袖式の石室は前後2つの玄室をもっており、県下でも非常に稀な古墳である。6世紀後半の築造。
④野田2号墳 (祇園塚) <兵庫県指定文化財〉
有年楢原の野田の裏山一帯に4基からなる野田古墳群がある。 このうち2号墳の横穴式石室内には、 玄門の扉石 (1枚石) や、石室の閉塞石が残されていることで、 非常に貴重な古墳として知られている。 石室の全長は7.9m、幅1.8m、 高さ2.5m を測るが、 墳丘については盛 土の流失が著しいため規模・墳形等は不明である。6世紀末から7世紀初頭頃の築造。
⑤地蔵立像板碑(はえぬき地蔵)<兵庫県指定文化財〉
高さ 1.75m 幅 1.65m の花崗岩の中央に身高62cmの地蔵立像が刻まれている。 地蔵の左横には「延文三年(1358)」 の銘があり、市内の中世石仏では唯一紀年銘をもつものである。
板碑が地中から生えたように立っていることから「生えぬき地蔵」 と呼ばれたり、煎り大豆を供えると歯痛が治ったことから 「歯抜き地蔵」 とも呼ばれている。
⑥東有年・沖田遺跡歴史公園 <兵庫県指定文化財> (縄文後期(約3,500年前)~室町時代(約600年前))
平成2年度の圃場整備事業に伴って発掘調査された遺跡であり、地元住民の協力によってその一部が公有化され、 兵庫県指定文化財に指定された。
指定区域は公園として整備され、弥生時代後期 (約1800年前)の竪穴住居2棟と、古墳時代後期 (約1500年前)の竪穴住居3棟、 高床倉庫1棟を復元している。 遺跡からは縄文時代後期 (約3500年前)の石器や、土器も出土している。
⑦有年考古館 〈赤穂市指定文化財>
医師であった故松岡秀夫先生は、 郷土の歴史を解明するために文書や、 民俗資料、 考古資料を収集し、地元住民の学習のため、また文化財に対す る理解を深めてもらうため自費によって有年考古館を設立した。
収集され た遺物は旧赤穂郡内に止どまらず、全国に及ぶものであるが、 旧赤穂郡内 の出土遺物 ( 1250点)は赤穂市指定文化財となっている。
入館は無料。 但し、 事前連絡が必要 (9-2008)。
⑧有年公民館分館
現在は埋蔵文化財発掘調査事務所として利用しており、発掘調査によって出土した考古資料の整理作業や、 出土品の保管、 展示公開を行っている。 展示資料は有年地区から出土したものを中心にしており、
見学入館は無料。 但し、 事前連絡が必要 (9-3691)。 |
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640一号墳丘墓 弥生後期 |
641外観
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有年原・田中1号墳丘墓
1号墳丘墓は、 直径19mを測る円形の弥生時代後期の墳丘墓で、東側には墓道である陸橋部を西側には祭祀の場となる突出部を備えた珍しい形をしています。
幅5m、深さ1mの周溝によって囲まれ、西側には排水のための溝があります。 また、墳丘斜面には千種川から持ち込まれた河原石が貼り付けられていました。
周溝内からは大型の器台・壺・高坏が出土し、 木棺の痕跡も確認されています。
※周溝の中の木棺は、王の従者の殉死を意味するのだろうか。 |
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左:1号墳丘墓
右:2号墳丘墓
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有年原・田中1号墳丘墓 |
有年原・田中1号墳丘墓
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陸橋部 |
周溝 幅5m深1m |
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突出部 |
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※考察 円形周溝墓
※
※ |
この墳丘墓は、香川県では一般的な、円形周溝墓と呼ばれています。通常は方形周溝墓が多いのですが、円形は讃岐特有のようです。
この形が前方後円墳に引き継がれ、墳丘上の特殊器台や、特殊壺が後の円筒埴輪や、特殊器台に発達したと言われています。
前方後円墳の素材
讃岐の円形周溝墓、吉備の特殊器台・特殊壺、出雲の貼石墓が集約された形でと言われていますが、その原形が有年原・田中遺跡です。
吉備・讃岐の支配
以前のどこかのページでも取り上げましたが、弥生時代初期の銅剣・銅鉾・銅鐸の時代を仮に(青銅器時代)前期とすると、
次に北部九州にとどまっていた海賊勢力が吉備と讃岐に分かれて上陸し、武力支配を進め、一大勢力となった時代を中期とします。
おそらくこの時期には、日本海側を荒らしていた海賊が青谷上寺地遺跡を襲撃して全住民を惨殺し、集落前のどぶに投げ込み、
この集落を乗っ取って、なり変わって港湾集落を運営していたという。強烈な腐敗臭と、腐って浮き上がってくる多数の死体にも拘わらず、
平然と暮らしていた半島漁民の海賊。
妻木晩田遺跡はこのような襲撃を避けるために海岸から離れた内陸の丘陵上に集落を移して、港湾を見張りながら農耕と、交易に携わっていた。
といった凄惨な状況が吉備でも讃岐でも起こっていたのだろう。そして、やがて讃岐を含む四国島が小さいことに気づいた讃岐侵略者は、
吉備より東側にも進出し、各地で吉備文化とは違う讃岐文化を定着させていた。吉備と讃岐の間には縁戚関係があり、讃岐は吉備の王子を迎えた。
ために、讃岐の本州進出にも戦争は起こらず、合意の上で吉備以東に支配地を設けていた。この領有は、江戸時代まで続き、赤穂市から
姫路市に到る海岸線沿いに多数の讃岐支配地が存在していた。
交易の時代
古代出雲歴史博物館は、2022年の「出雲と吉備」展に際して、
「出雲と吉備は、弥生時代後半から交流を持ちながら、それぞれに地域形成を進め」、とあり、弥生後半期から交易が活発化したとしている。
しかし、この時期にはすでに、奈良(難波?飛鳥?)に一大勢力が誕生しており、この地と結ぶ交易路として、出雲・吉備・讃岐は海路と考えたが、
陸路もあったようで、出雲から吉備へ、そこから奈良に行く途中に讃岐支配地(本州側飛び地)があり、やがて、それら三つの文化圏は盟友となり、
三地域の王の埋葬方法が一つに集約されていったのではないだろうか。(それが有年原・田中遺跡の墳丘墓)
三地域の墳墓形式の集約まとめ
・王の土壙墓を庶民より高く盛り上げ。権威づけるために、周りを円形に掘り、その土を積み上げる(円形)周溝墓。
(棺の形は方形なので、小さければ方形周溝墓となるが、大量の土砂を必要とするので自然に丸くなったと考えられる。)
・王権引継ぎ儀式を行なう突出部と墓道の設置(岡山県盾築遺跡)(は、やがて前方部に発達か)
・死んだ王に供物を捧げる器台や壺(特殊器台・特殊壺 岡山県)
・一般的な弥生墳丘墓は土を盛り上げただけなのでやがて崩落する。周囲に安山岩の川原石を貼石して崩落を防ぎ、白く光る様子を威厳とした。
このような墓型式がやがて、ホケノ山古墳の帆立貝型(pre前方後円墳)(古墳時代前期初頭 3c中頃)や、
纏向石塚古墳(pre前方後円墳)の柄鏡型 (古墳前期初頭 3c初頭)となり、更に均整のとれた前方後円墳として、
箸墓古墳 (古墳前期初頭3c中頃~後半)にデザインされたのではないだろうか。 |
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643墳頂部
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そなえられた土器
棺の周りに並べられた装飾豊かな器台と壺は、墳丘墓の周溝内から発見されたもので、墳丘墓の上で行われた葬送儀礼の祭祀に使われていたものです。
吉備地方では壺や、器台を弥生時代の墳丘墓の祭祀に用いることが多く、有年原田中墳丘墓群に葬られた人たち吉備と強いつながりをもちながら、 有年原の地を中心として強大な権力を誇っていたことが考えられます。 |
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645器台・壺
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二つ繋がった渦巻文は縄文土器にもありました。
永遠を表す文様でしょうか。 |
※考察 特殊器台・特殊壺
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ここで私の考察を書き連ねていたところ、同じ有年考古館が平成27年度特別展で発表された「円形周溝墓と方形周溝墓」が見つかったので
そちらを先にお読みください。そうすると、論のほぼ全てが持っていかれてしまいました。 もう一つ「弥生円形墓」
次に特殊器台と円筒埴輪についてですが、上記写真で円筒埴輪と特殊器台の関係は明確で、特殊器台は特殊壺を置く台です。
二つはぴったりとして関係にあり、非常に均整の取れた美しい形で釣り合っています。
しかし、これを大きな墳丘墓に置こうとすると、この上下を大きくする必要があります。器台をこのバランスのまま大きくすることは出来ず、
器台の円筒部を太くしないと、壺を乗せる台と筒が形状を保てません。すると、どうしてもこのような(引用Wikipedia) ゴツイ物になり、
二つは別々の進化を遂げることになります。 特殊器台は円筒埴輪と特殊器台に分化していきました。
古墳には三条件(外形・埴輪・貼石)が付くということですが、四国香川県善通寺市の野田院古墳(有岡古墳群 3c後半)は、
前方後円墳とされているが方形部は後に継ぎ足された物とか聞いたことがあります。
ここでは特殊器台+特殊壺ではなく、二段築盛の一団目に壺がぐるりと一周、等間隔に置かれているだけです。
土を盛り上げた墳丘全てが貼石ではなく、石がぴっちりと置かれて、まるで積石墓のようです。
あるいは、前方後円墳=円形台状墓+器台・壺+貼石 の絵描き歌を誤解して作ったのかもしれません。この地域に器台+壺はなかったようです。 |
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645周溝
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この突出部で祭祀をしたのでしょうか。 |
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周溝の中に木棺
別の場所に木棺墓群 |

があるのに、あえて |

王の傍に葬られたわけは、殉死させられたのでしょうか。 |
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645周溝2
墳丘上から見た周溝
陸橋部
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突出部 |
木棺墓 |
排水溝 |
1号墳丘墓から見た
2号墳丘墓 |
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650二号墳
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有年原 田中2号墳丘墓
2号墳丘墓は、 1号墳丘墓よりやや小さい直径15mの円形の墳丘墓です。
1号墳丘墓のような陸橋部や、 突出部は見つかっていませんが、 墳丘墓の周りには幅2m 深さ1mの溝が掘られています。
この周溝からも、 1号墳丘墓と同じように、大型の器台 壺 高杯や、 墳丘の斜面に貼り付けられていた千種川の河原石が発見されています。 |
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651外観
2号墳丘墓 |
陸橋部・墓道なし
観察のための階段
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有年原・田中2号墳丘墓 |
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| 653墳頂
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| 655周溝 幅2m 深1m
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※この地域は吉備と讃岐、播磨の勢力が接する地域です。
葺石を拾ってきた千種川の上流には天児屋鉄山があり、古くからたたらで鉄生産をしていました。
以前も触れたのですが、その鉄を千種川河口から運搬する役目を、讃岐勢力が担っていたのではないかと考えています。
それは、なぜ讃岐が吉備や出雲と並ぶほどの力を持ちえたかという疑問に対する仮説です。都に供給する鉄の運搬による権力ではなかったか。
当時は海賊が多発し、明石海峡も讃岐系海賊の支配下だったと記憶していたのでこのように想像しました。 |
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670祭祀土坑
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祭祀土坑は、墳丘墓群と木棺墓群の間に位置する全長20m 幅3m 深さ1mの溝状のもので、墳丘墓群と木棺墓群を区画しています。
祭祀土坑の中からは、甕・器台・高杯といった多くの土器が置き捨てられた状態で出土しました。
これらの土器は、墳丘墓あるいは木棺墓の祭祀に使われたものですが、 墳丘墓 から見つかった土器のような紋様は付けられていませんでした。 |
※墓前祭祀に使われた土器は周溝などに遺棄されることは多いが、大溝を掘って捨て場としたのは初めてみた。同様の例があるのかな。
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680木棺墓群
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1号墳丘墓の南東の方向から6基の木棺墓が見つかっています。木棺は板を埋め込んで固定させるもので、現在のもののように持ち運びできるものではありませんでした。
死者の性別あるいは出身地の別によって棺の向きが異なっていると考えられています。
これらの木棺墓群には、墳丘が無いため、墳丘墓に葬られた人々より身分の低い人たちの墓だったと思われます。 |
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681木棺墓群
側面視が多い木棺墓
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| 682縦長が多い木棺墓
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700東有年・沖田遺跡
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701リーフレット
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兵庫県指定文化財
東有年・沖田遺跡公園へようこそ!
東有年・沖田遺跡は、ほ場整備事業に伴って発掘調 査された、縄文時代 (約4000年前)から室町時代(約 600年前)にかけての集落遺跡です。
発掘調査は27,000㎡にわたって行われましたが、 遺跡の多くはまだ地面の下に眠っています。
この遺跡公園の下では、弥生時代後期の竪穴住居 7 棟、古墳時代後期の竪穴住居 22棟と高床建物1棟が まとまって見つかりました。 こうした建物の跡は、集 落の成り立ちや生活の様子を知るうえでたいへん貴重とされ、平成4(1992)年3月に遺跡は兵庫県指定文化財となりました。
遺跡公園では実際に発掘されたものをもとに竪穴住居と高床建物を復元して、この大切な文化財をいつまでも保存し、皆さんが遠い祖先の息吹に触れ、そこか
ら地域の歴史を学んでいただけるようにしています。
公園は道路をはさんで南側が 「弥生時代ムラ」 北側が 「古墳時代ムラ」となっています。 太古のムラをぜひ 体験してください。 |
裏表紙 表表紙 |
有年原・沖田遺跡
表表紙
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見開き左ページ
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見開き左右ページ |
東有年・沖田遺跡公園へようこそ |
園内案内図
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弥生ムラの散策
弥生ムラでは2棟の竪穴住居が復元されています。
このうち5号住居が直径5~6mと当時の一般的な大きさ。一方の2号住居は直径12mとひときわ大きく、兵庫県内でも屈指のものです。
発掘調査では、ここからガラス玉などが見つかっていることから、当時 の有力者の住居であったと考えられます。 |
弥生ムラの散策
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弥生ムラ
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5号住居 |
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発掘調査の様子 |
出土した弥生土器 |
土器が出土した様子 |
集落に掘られた
大きな2本の溝
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古代の竪穴住居を比べてみよう!!
古代の竪穴住居を比べてみよう!!

古代の竪穴住居を比べてみよう!! |
弥生時代
建物の形が丸い
中央に炉がある
縄文時代から変わらない形です。
建物の中央に炉があると、
その周りの空間しか使うことができず、
とても狭いように感じます。 |
古墳時代
建物の形が四角い
北側に竈がある
竃は朝鮮半島から伝えられましたが、
建物の隅に作ることができ、
また煙を建物の外に出すことができました。
このおかげで、建物の内部は快適に広く使えるようになりました。 |
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古墳ムラの散策
古墳ムラには、 同じ規模の竪穴住居3棟のほか、高床建物が1棟復元されています。
すでに有力者は一般集落とは離れた場所に大きな屋敷を構えていました。 有力者の住居は掘立柱をつ かった高床建物でしたが、 一般のムラでは、一番大
事な倉庫だけを高床建物にしていました。 |
古墳ムラの散策 
弥生村跡の古墳村の切り合い |
古墳時代ムラ |
26号住居・32号高床建物
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見開き右ページ
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裏表紙
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710弥生時代住居ゾーン
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兵庫県指定史跡
東有年・沖田遺跡
東有年・沖田遺跡が所在する有年地区は、千種川とその支流によって形成された東西に長い盆地であり、赤穂市において最も遺跡が密集する地区となっている。この公園の周辺でも、古くから遺跡が存在することが知られていたため、ほ場整備事業に伴い本格的な発掘調査が平成元年から平成4年までの4年間にわたっておこなわれた。調査の結果、縄文時代後期(3,500年前頃)から室町時代 (600年前頃)にかけての建物跡などがたくさん発見され、ここに太古から人々が断続的ながら長期間にわたってムラを営んできたことが明らかになった。
特にこの遺跡公園となっている部分では、弥生時代後期 (1,800年前頃) 竪穴住居7棟と、古墳時代後期 (1,450年前頃)の竪穴住居22棟および高床倉庫1棟が密集して検出された。
古墳時代の住居跡からは須恵器・土師器・ミニチュア土器・鉄鏃(矢じり) 紡錘車 (糸
を紡ぐ道具) など当時の生活をしのばせる道具が多数出土したほか、古墳時代のものとしては全国的にも珍しい土馬 (土でつくった馬の模型) も見つかっている。
このように東有年・沖田遺跡は弥生時代および古墳時代のムラの成り立ちや、生活の様子を考えるうえで貴重な遺跡であることから、平成4年3月に兵庫県指定文化財
(史跡)に指定された。 赤穂市では、この大切な文化財を末長く保存すると同時に、市民の皆さまが遠い祖先の息吹に触れ、そこから地域の歴史を学んでいただけるように、当時の竪穴住居を実際に発掘されたものをもとに復元している。
公園は道をはさんで南側が 「弥生時代ムラ」で北側が 「古墳時代ムラ」と名付けた二つのゾーンにわかれ、 それぞれ当時のムラの様子を体験できるようになっている。 |
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東有年・沖田遺跡 |
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東有年・沖田遺跡公園
案内図
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東有年・沖田遺跡 |
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| 720 |
721案内板
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県指定文化財 東有年・沖田遺跡
指定年月日 平成4年3月24日
所有者・管理者 赤穂市
東有年・沖田遺跡は縄文時代後期から室町時代にかけての複合遺跡である。
このうち注目されるのは、弥生時代後期(約1900年前) と古墳時代後期 (約1400年前)の大規模な集落跡である。
弥生時代後期の集落は広範囲にわたり、竪穴住居跡も多数見つかっているが、直径12m前後の大形住居は県下最大級のものである。
古墳時代後期の住居跡は22棟が発見され、すべて四本の柱と竈を備える方形の竪穴住居である。各々の住居跡からは土師器・須恵器が出土したほか、国内最古と言われる土馬が出土するなど遺構・遺物とも重要なものである。
平成4年11月 兵庫県教育委員会 |
東有年・沖田遺跡 |
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兵庫県指定史跡 東有年・沖田遺跡
弥生時代の集落
東有年・沖田遺跡では、弥生時代のムラはたいへん広い範囲にひろがっていました。この遺跡公園のある場所でも弥生時代後期(約1900年前)の竪穴住居跡7棟や、壺棺
(子ども用の棺) などが見つかっています。
弥生時代の竪穴住居は、上から見ると丸い形をしているのが特徴で、また中央には穴を掘っただけの簡単な炉がつくられています。
公園北側で復元されている古墳時代後期の住居と、 形や中のようすを比べてみればその違いがよくわかります。
ここに復元した2棟の住居のうち、5号住居は当時の平均的な大きさの住居ですが、2号住居は直径12m、床面積は5号住居の約2倍という、 兵庫県下でも最大級の大きな住居です。
ここ東有年・沖田遺跡では、普通サイズの住居数棟に1棟ほどの割合でこうした大型住居があり、ムラの有力者達の住居と考えられています。 |
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弥生時代の集落 |
発掘された弥生時代の東有年・沖田遺跡
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発掘された弥生時代の東有年・沖田遺跡
大溝
円形周溝墓(弥生中期)
現在地
大溝
■●竪穴建物跡
○木棺墓群・土壙墓 |
2号住居の発掘調査当時の様子 |
直径12mをこえる大きさは県下最大級。
人間と比べると、その大きさがよくわかる。 |
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722弥生住居
復元弥生集落 |
5号住居
弥生後期
27㎡ |

5号は平均的な大きさとされ |

直径6mとされるが
内径が6mで |

茅葺の外周はもっと大きかった |
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現代でもカマドを使う家には屋根に煙出し |

の穴があいている。
飛騨高山の豪商の家 |

でも、福島県大内宿でも同じ。寒冷地でも。 |

きっと凍えたでしょうね。 |
2号住居
弥生後期
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直径12m
113㎡ |

普通の住居の4倍 |
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730古墳時代住居ゾーン
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731
ストーリーで巡る東有年周辺の歴史文化
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舟灯台,千種川
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1 東西・南北の交通―近世山陽道と千種川ー
千種川は、古くから南北の交通を担った川の道。近世に川を行き来した高瀬舟は、米や塩など生活物資を運ぶ重要な手段でした。 一方、陸路は東西を結ぶ街道や古道があり、近世には西国街道が通じていました。
近代になるまで千種川に橋は架けられず、交通のうえで壁になっていましたが、 その一方で、 川待ちの人々を泊めるための宿場町「有年宿」が栄えました。 |
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有年考古館,野田2号墳
東有年・沖田遺跡公園
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2 古代の遺跡めぐり―文化財の宝庫―
遺跡が数多く残され「文化財の宝庫」と呼ばれる有年地区。 弥生~古墳時代の大規模集落である東有年・沖田遺跡、市内唯一の前方後円墳である放亀山1号墳、北の山塊に分布する古墳時代後期の横穴式石室群など、かつての有年地区の隆盛と特徴を物語る貴重な文化財を現在も 見ることができます。 |
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有年山城跡顶上
光明寺
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3 夢のあと―山城と山岳寺院の風景―
中世、戦乱に大きく巻き込まれた有年地区には、市内最大の有年山城跡をはじめとした中世山城が多数築かれました。現在は石垣や削平地、土橋などが残されるとともに、広く望める眺望を楽しむことができます。
加えて、有年地区には同時期の山岳寺院が多数築かれており、現在も石造物や建物礎石が残っていて、当時の様子を偲ばせます。 |
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西有年大避神社社叢林
東有年・沖田遺跡公園周辺
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4 しぶらの里―豊かな農村風景―
かつて江戸文化研究者の西山松之助は有年地区を「しぶら(ヒガンバナ)の里」と呼びました。
有年地区は、現在でも豊かな農村・ 里山風景が 広がり、 時間が止まったかのような感覚を覚え ます。道中そこかしこにある歴史を重ねてきた多くの遺産、そしてヒガンバナがそこに彩りを与えてくれることでしょう。
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740古墳時代 方形住居
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15号住居
古墳時代後期
2022年5月 |
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26号住居
古墳時代後期
2022年 |
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15号住居
改築後
2025年6月
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カマド |
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26号住居
古墳時代後期
改築後
2025年
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煙突穴 |
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23号住居
古墳時代後期 |
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741高床式建物 32号住居 古墳時代後期
※高床倉庫ならわかるのだが、高床住居って何だろう。
大分県安国寺集落遺跡公園では、河岸に建った住居が全て高床住居だった。それは、その場所では平地式住居は営めないからだ。
家屋文鏡では(1)竪穴式、(2)平屋、(3)高床式、(4)高床式が描かれています。そのうち高床式住居は身分の高い人の住居です。
従って、32号高床住居は 村長の住居だったと考えられます。
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750古墳後期の集落
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兵庫県指定史跡 東有年・沖田遺跡
古墳時代後期の集落
東有年・沖田遺跡は、 千種川とその支流の長谷川によってできた自然堤防帯に立地しています。 遺跡はたいへん広い範囲に及んでいますが、この遺跡公園となっている場所では、古墳時代後期(約1400~1500年前)の竪穴住居跡22棟、高床倉庫と考えられる掘立柱建物跡1棟が密集して見つかり、当時の集落の中心部分であったことがわかりました。
これらの建物群は同時に建てられていたのではなく、 何度か建て替えられた結果、このように現在の私たちの目に映ります。
左の写真を注意してみると、たくさんある住居のうちで、一定の間隔をあけて同じ方向を向いた住居が何組かあることに気付きます。 おそらくこうした住居のまとまりが、この集落内で同じ時期に建っていた住居なのでしょう。
竪穴住居は上からみると方形で、弥生時代の円形から大 きく変わっています。 1辺が3.9m程度の小さなものから、 8mをこえるたいへん大きなものまで見られますが、その
ほとんどが、4本の柱と北側の壁際に造り付けられたカマド、 さらに貯蔵用と思われる穴を持っているので、住居内部の つくりに一定の決まりがあったようです。
このほか、弥生 時代の竪穴住居とは異なる復元がされている部分を探して みてください。
この遺跡公園の古墳時代ムラでは、同じ時期に建っていたと考えられる3棟の竪穴住居と高床倉庫1棟を復元し、当時の集落の一部を再現しています。 |
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兵庫県指定史跡 東有年・沖田遺跡
古墳時代後期の墓
東有年・沖田遺跡では、 現在地から約300m北東で古墳3基が見つかりました。 いずれも周溝のある円墳で、 古墳時代後期の横穴式石室が築かれていましたが、後の時代にすべて壊されて田畑となっていました。
ふつう、こうした横穴式石室をもつ古墳は山に築かれ るのものですが、東有年・沖田遺跡ではムラ近くの平地に築かれている点が注目されます。
このムラを治めていた有力者やその家族の墓だったのでしょう。
3号墳の周溝からは、珍しい装飾須恵器などが出土しているので、豊富な副葬品が供えられていたと考えられています。 |
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760赤穂市坂越湾
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赤穂コールドロン
※資料赤穂コールドロン
コールドロンとはカルデラ地形の侵食された姿、カルデラ痕跡の状態を意味する言葉です。
例えば、琵琶湖コールドロンは、約7000万年前に琵琶湖の両対岸を範囲とする長径60kmの巨大カルデラがあり、
30万年前からの阿蘇山カルデラ(長径25km)の2倍以上の巨大カルデラが存在しました。
赤穂コールドロンは、東西21km、南北16km
赤穂市付近には、約8,300万年前~8,200万年前の火山活動でできたカルデラを作った火山がありました。
この火山が削られてなくなり火山の”底”が出てきたところ(コールドロン)に赤穂市はあるのです。
このカルデラ壁によって地下から上昇してきた熱水が噴出し、良質な金鉱脈も存在していました。
ただ、この地域は瀬戸内海国立公園のため、大規模な掘削が禁止されています。
従って、この地域での採掘は、掘削と充填という方法で、掘って選別した鉱石搬出し、残った残屑はもう一度坑道に戻して埋めるという方法です。
和気コールドロンと日生コールドロン
赤穂市の西に隣接する岡山県日生町と和気町にもコールドロンが存在します。特にこの二つは二重カルデラ構造となっており、大変珍しい。
和気カルデラが形成後、その中に日生カルデラが形成されました。しかし、二つの活動には関りがなく、別々の火山活動とされます。
和気カルデラは、東西15km南北23km、8000万~7300万年前。
日生カルデラは、東西13km南北12.5kmで、和気カルデラの300万年後に活動した火山であす。
日本列島の形成は5,600万年前に始まり、2,300万年前から日本海の形成が始まる。つまり、列島が大陸から切り離され始める時期となります。
従って、赤穂コールドロンや琵琶湖コールドロンなどの形成は、列島が大陸の辺縁にある時代の出来事です。
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770有年歴史散策
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東1 塚山6号墳 県指定
赤穂市最大の古墳群である塚山古墳群には、50基以上の後期古墳 が見つかっています。
およそ1,500~1,400年前にかけて築かれた古墳群のうち、 塚山6号墳が最大のもので、玄室中央に左右から間仕切り石があるという、大 変珍しい構造をもっています。
【お知らせ】塚山古墳群へは道路脇にある看板と扉を目印にして下さい。 |
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東3 木虎谷2号墳 県指定
原小学校の東にある西池の奥の谷を「木虎谷」と呼び、この谷の周囲に21基からなる木虎谷古墳群があります。
その中にある木虎谷2号墳は、その石室が全長 9.5m、幅2.2mを測り 市内最大のものです。
横から入ることのできる横穴式石室の奥には、 板石でつくられた棚状の石棺の一部が残されています。
■大変珍しい構造の古墳として知られていま す。
◎歴史ワンポイント!
木虎谷2号墳は、 その石室が全長9.5m、幅2.2mを測り、市内最大のものです。 |
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東4 蟻無山古墳 【県指定 頂上からの眺めがおすすめ!
全長約52mをほこる造出付き帆立貝形古墳です。 千種川流域で最大の中期古墳です。
約1,600年前に築かれたもので、馬、家、盾、鳥、船、蓋形の埴輪や、渡来人との深いかかわりを示す初期須恵器などが出土しています。 頂上からは、270度のパノラマを楽しむことができます。
◎歴史ワンポイント!
蟻無山のいわれは、古墳をつくるとき、苛酷な労働をさせられている人々の姿を見かねた蟻たちが、この山から一匹もいなくなったとされる昔話によるものです。 |
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東6 有年原・田中遺跡公園 県指定 有年原・田中遺跡
有年原・田中遺跡公園は、昭和63年度に実施された発掘調査で発見された
弥生時代後期(約1,800年前)の大型墳丘墓や木棺墓群など を復元整備した遺跡公園です。
陸橋部と突出部をもつ墓の形と、出土した大型の装飾土器は、古墳時代の前方後円墳や埴輪を生み出した祖形の一つとも考えられています。
出土した装飾豊かな壺とそれをのせる器台は全国にもその類を見ず、有年考古館にて展示されています。 (TEL)0791-49-3722
【入園料】 無料 【駐車場】 あり(無料)
【開園時間】 10時~16時(入園は15時30分まで)
【休園日】毎週火曜日(祝日と重なった場合はその翌日)※年末年始(12月28日~1月4日) |
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東8 有年牟礼・山田遺跡
発掘調査により、弥生時代中期から鎌倉・室町時代に至る複合遺跡 が発見されました。
特に、山田集会所の南方に広がる水田において、
弥生時代中・後期 の竪穴住居跡、古墳時代・飛鳥奈良・平安時代の堀立柱建物群など の遺構や、それに伴う数多くの遺物が出土したほか、
全長約19mの規模を誇る弥生時代終末期の方形周溝墓群が見つかりました。
◎歴史ワンポイント!
出土物である平安時代の「秦」のヘラ書き須恵器片は、千種川流域における秦氏伝承の存在を確実なものにしまし た。 |
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