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兵庫の縄文5 2025.05.22
兵庫県立考古博物館 特別展「弥生の至宝」銅鐸
兵庫県加古郡播磨町大中1丁目1-1
079-437-5589月休・撮影可
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目次
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00出品目録
01案内
02展示遺跡の位置
03銅鐸紋様
10第一章 銅鐸鑑賞の手引き
11銅鐸の各部名称
12銅鐸の大きさ
13青銅の特徴
20望塚銅鐸
30青銅の色見本
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40第二章「銅鐸」六百年の変化
41銅鐸の年代
42神種銅鐸複製品
50松帆1・2号銅鐸
※考察松帆銅鐸の舌
60同笵銅鐸
61中山1,2号銅鐸
70気比銅鐸と
二つの流水文
80東奈良3号銅鐸鋳型
90銅鐸の広がりと兵庫県
※考察
銅鐸発見地と鋳型発見地
原材料の確保
120石の鋳型から土の鋳型へ
130加飾する銅鐸・省略する銅鐸
131桜ケ丘5号銅鐸
140絵画土器(鹿)
160「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ
161栄根銅鐸 |
170 間 章描かれた銅鐸
171中条銅鐸の復元
172模写文献
200ウサギ形水滴
210出土地不明銅鐸
220第三章 銅鐸をつくる
221銅鐸の鋳造
東奈良遺跡
223銅鐸鋳造模型
225鋳造道具と小銅鐸
※真土
280高坏と真土
282明和池遺跡 遺物
350播磨で作られた銅鐸
石井谷型の銅鐸
400銅鐸鋳型
420まねた鋳型
460銅鐸の復元
望塚銅鐸の復元
鋳掛実験
461ケミカルウッドの元型
490高坏形土製品(とりべ)
491平方小銅鐸復元鋳造実験品
493鋳掛実験 |
550第四章 銅鐸の最後
550破砕実験
560椛(なぐさ)2号銅鐸
570生まれ変わる銅鐸
※考察
銅鐸鋳造禁止と鋳造技術の消長
680埋められた銅鐸
野々間1号銅鐸出土状況
690Extra銅鐸の音色
710メインホール
711弥生土器に描かれた銅鐸文様
712高坏に絵かがれた銅鐸紋様 |
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00出品目録
| № |
資料名 |
銅鐸出土地・遺跡名(所在地) |
| 第1章 銅鐸鑑賞のてびき |
| 1 |
望塚銅鐸 |
加古川市 |
| 2 |
望塚銅鐸復元品 |
原品:加古川市 |
| 3 |
青銅の色見本 |
― |
| 第2章 銅鑼600年の变化 ~ひょうごの銅鐸を~ |
| 4 |
神種銅鐸復元品 |
原品:姫路市 |
| 5 |
松帆1.2号銅鐸·舌1.2 |
南あわじ市 |
| 6 |
中山1.2号銅鐸(複製) |
原品:宝塚市 |
| 7 |
気比1~4号銅鐸 |
豊岡市 |
| 8 |
東奈良3号銅鐸鋳型 |
東奈良遺跡(大阪府茨木市) |
| 9 |
伝淡路出土銅鐸(複製) |
原品:推定淡路市 |
| 10 |
四條畷2号銅鐸 |
大阪府四条畷市 |
| 11 |
青木銅鐸(複製) |
原品:宍粟市 |
| 12 |
野々間1,2号銅鐸(複製) |
原品:丹波市 |
| 13 |
桜ヶ丘5号銅鐸(複製) |
原品:神戸市灘区 |
| 14 |
絵画土器(鹿) |
玉津田中遺跡(神戸市西区) |
| 15 |
絵画土器(鹿) |
大垣内遺跡(西脇市) |
| 16 |
栄根銅鐸 |
川西市 |
| 間章 描かれた銅鐸 |
| 17 |
淡路草写本 |
― |
| 18 |
味地草 写本 |
― |
| 19 |
堅磐草 |
― |
| 20 |
ウサギ形水滴 |
場市遺跡(養父市) |
| 21 |
出土地不明銅鐸 |
― |
| 第3章 銅鐸をつくる |
| 22 |
銅鐸鋳造の模型 |
原品:東奈良遺跡(大阪府茨木市) |
| 23 |
東奈良1号銅鐸鋳型(複製) |
東奈良遺跡(大阪府茨木市) |
| 24 |
送風管 |
東奈良遺跡(大阪府茨木市) |
| 25 |
高坏形土製品 |
東奈良遺跡(大阪府茨木市) |
| 26 |
真土片 |
東奈良遺跡(大阪府茨木市) |
| 27 |
小銅鐸·舌 |
東奈良遺跡(大阪府茨木市) |
| 28 |
銅鐸片 |
明和池遺跡(大阪府摂津市) |
| 29 |
銅塊 |
明和池遺跡(大阪府摂津市) |
| 30 |
高坏形土製品 |
明和池遺跡(大阪府摂津市) |
| 31 |
真土片 |
明和池遺跡(大阪府摂津市) |
| 32 |
送風管 |
明和池遺跡(大阪府摂津市) |
| 33 |
土製鋳型外枠 |
明和池遺跡(大阪府摂津市) |
| 34 |
青銅塊 |
北山遺跡(たつの市) |
| 35 |
銅鐸鋳型 |
名古山遺跡(姫路市) |
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| № |
資料名 |
銅鐸出土地・遺跡名(所在地) |
| 36 |
銅鐸鋳型 |
今宿丁田遺跡(姫路市) |
| 37 |
今宿丁田鋳型全体復元 |
― |
| 38 |
石井谷2号銅鐸 |
和歌山県有田市 |
| 39 |
秋篠1号銅鐸 |
奈良県奈良市 |
| 40 |
上高野銅鐸鋳型 |
赤穂市 |
| 41 |
銅鐸鋳型未成品 |
西神ニュータウン内№65地点遺跡 |
| 42 |
小銅鐸鋳型・中子片 |
平方遺跡(三田市) |
| 43 |
送風管 |
平方遺跡(三田市) |
| 44 |
石舌 |
平方遺跡(三田市) |
| 45 |
平方小銅鐸復元鋳造品 |
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| 46 |
ケミカルウッドの元型 |
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| 47 |
砂型 |
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| 48 |
復元銅鐸失敗品 |
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| 49 |
高坏形土製品復元鋳造実験品 |
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| 50 |
平方小銅鐸 復元鋳造実験品 |
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| 51 |
銅滓 |
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| 52 |
こぼれ散った青鋼と湯玉 |
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| 53 |
鋳掛実験鋳型(鈕) |
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| 54 |
鋳褂実験鋳型(身) |
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| 第4章 銅鐸のさいご |
| 55 |
破碎実験1号銅鑼 |
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| 56 |
椛 2号銅鐸 |
愛知県田原市 |
| 57 |
銅鐸片 |
東川遺跡(大井川第6地点遺跡)(姫路市) |
| 58 |
土製鋳型外枠 |
東川遺跡(大井川第6地点遺跡)(姫路市) |
| 59 |
羽口 |
東川遺跡(大井川第6地点遺跡)(姫路市) |
| 60 |
砥石 |
東川遺跡(大井川第6地点遺跡)(姫路市) |
| 61 |
銅鏃 |
東川遺跡(大井川第6地点遺跡)(姫路市) |
| 62 |
高坏形土製品 |
玉津田中遺跡(神戸市西区) |
| 63 |
土製鋳型外枠 |
玉津田中遺跡(神戸市西区) |
| 64 |
送風管 |
玉津田中遺跡(神戸市西区) |
| 65 |
小形仿製鏡 |
玉津田中遺跡(神戸市西区) |
| 66 |
銅鏃 |
玉津田中遺跡(神戸市西区) |
| 67 |
棒状銅製品 |
玉津田中遺跡(神戸市西区) |
| 68 |
野々間1号銅鐸 出土狀況切取模型 |
原品:丹波市 |
| Extra 銅鐸の音色 |
| 69 |
望塚銅鐸復元品 |
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| 70 |
復元舌(青銅·石·木·角·骨×2) |
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| メインホール展示銅鐸と共通した文様をもつ土器 |
| 71 |
弥生土器 |
玉津田中遺跡(神戸市西区) |
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銅鐸に使われる名称
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鈕孔、舞、飾耳
型持孔、鰭、裾
鈕(吊り手部分)
身(鐸身)
筒の部分 |
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内面突帯
舌
型持孔 |
銅鐸を飾る文様
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斜線文,綾杉文,斜格子文
鋸歯紋,複合鋸歯紋
渦文,双頭渦文,四頭渦文,連続渦文 |
鈕の断面による銅鐸の型式分類 |
菱環鈕式
外縁付鈕式
扁平鈕式
突線鈕式 |
ひようご銅鐸めぐり
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日本を代表する青銅器の一つに、弥生時代の祭祀に使用された「銅鐸」があります。いにしえの技術と美の結晶である銅鐸は、兵庫県が日本一の出土数を誇ります。鋳型をはじめとした鋳造関連遺物や、後世に描かれ絵図なども展示し、神秘のベールにつつまれた銅鐸について、様々な視点から考えます。 |
ひょうご銅鐸めぐり |
弥生の至宝 銅鐸 |
兵庫県で銅鐸が見られる博物館・資料館 |

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01案内
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03銅鐸紋様
銅鐸紋様
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横帯文
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横带文
斜格子文や鋸歯文を横方向へ帯状にひろげ、鐸身部を区切る文様。
古い銅鐸や小型のものに用いられる。 |
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流水文
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流水文
鐸身部を折り返された 平行線で充填する文様。 連続して描かれた様子 は流れる水のような表 現となる。 |
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袈裟襷文
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袈裟襷文
斜格子文などが充填さ れた横帯および縦帯で
鐸身部を区画する文様。
主に四区または六区に
分割して表現される。 |
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10第一章 銅鐸鑑賞の手引き
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11銅鐸の各部名称
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銅鐸の部位を指す名称には、私たちの日常生活で馴染みのない表現が多く用いられます。
銅鐸を鑑賞するにあたって、説明で用いられる語句について触れておきましょう。 |
鈕孔
舞
飾耳
型持孔
鰭
裾 |
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鈕(吊り手の部分)
身・鐸身(筒の部分) |
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内面突带
舌
型持孔 |
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銅鐸を飾る文様
銅鐸の文様と聞くと、ヒトやシカなどの絵画が思い浮かぶかもしれませんが、絵画表現をもつ銅鐸は限られており、銅鐸に共通してみられる文様は、直線や曲線からなる幾何学文様です。
銅鐸を飾る幾何学文様には、斜線を平行に書き連ねた斜線文、向きのちがう斜線文を組みあわせた綾杉文、斜線文を重ねた斜格子文があります。
三角形が連続する文様を鋸歯文と呼び、内部を 埋める斜線の方向によって向き(R・L)が表現されます。
渦巻き線は渦文と呼ばれ、それぞれの特徴によって連続渦文・双頭渦文・四頭渦文・蕨手文と呼び分けられます。
これらの文様が帯状に連なった部分を文様帯、境界を区切る線を界線と呼びます。
銅鐸の大部分を占める鐸身部を飾る文様のパターンを主文様と呼び、横帯文・流水文・袈裟襷文の3種が一般的な表現となります。 |
銅鐸を飾文様 |
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渦文
四頭渦文
双頭渦文
蕨手文
連続渦文 |
鋸歯文
L,LR,LIR,R,
IR,Lr
複合鋸歯文
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斜線文
綾杉文
斜格子文
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銅鐸の変化 ~鈕の断面による分類~
銅鐸は吊り手である鈕の機能性と装飾性が変化する様子によ って、4段階に分類されます。最も古い段階にあたる菱環鈕式で は、鈕の断面形状がシンプルな菱形です。続く外縁付鈕式は、菱
形の断面の外側が発達して装飾部となる縁が付加され、鰭から 連続した文様帯が形成されます。鈕の加飾化は内側にも縁を発 達させてゆき、菱環部の内外に縁をもつ扁平鈕式へと変化して
ゆきます。鈕の断面形状だけでは外縁付鈕式か扁平鈕式かの見 極めが困難な資料も多く、現在では菱環部が文様帯として独立 しているかどうかが分類の基準とされています。鈕の装飾に他の線より太くて高い突線を用いるようになったものを突線鈕式と呼び、大型化とともに本来は縁であった部分が大部分を占め、鈕の断面は板状
になってゆきます。 |
銅鐸の変化
-鈕の断面による分類-
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突線鈕式 (最大)
扁平鈕式 (大)
外縁付鈕式 (中)
菱環鈕式 (小) |
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12銅鐸の大きさ
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菱環鈕式では大きさ(高さ)に規則性 がありませんが、外縁付鈕式や扁平鈕式 では3段階のまとまりが見られます。
突線鈕式になると、銅鐸の大型化が始まります。音を聞くための銅鐸から、 姿を仰ぎ見るための銅鐸へ役割が変化したと言われています。 |
銅鐸の大きさ
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※単なる鐘から、見たことのない金属光沢から発せられる、それまで聞いたことのない金属音が神秘的で、聞く者の心を捉えた。力を持った司祭が、更に自己の権威を高めるために、大きな銅鐸を調達し、民衆を驚かせた。そして、
※最大の突線鈕式は銅鐸進化の極致。音から見る銅鐸への進化。きっと、でかいキラキラがドギモを抜いた。
もう、音だけでは民衆の心を引き寄せられない時代となっていたのだろう。 |
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13青銅の特徴 ~銅と錫の合金~
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銅鐸をはじめとする青銅器は、銅(Cu)と錫(Sn)を 混ぜた合金である「青銅」で作られます。銅の融点は 約千度と高温ですが、融点が約二百度の錫をまぜることで低温で液体になります。 合金にすることで 「かたさ」が変化することも特徴です。比較的柔らかい銅に錫を加えることで硬さは増してゆきますが、
加えすぎると折れたり割れたりしやすくなる特徴があります。
また、青銅は銅と錫の比率によって色が変わります。銅が多いうちは十円玉のような赤銅色、錫が増すにつれて黄金色へ、さらには銀色へと変化します。
銅鐸には銅と錫に加え、鋳造を容易にするために加えられた鉛(Pb)が含まれています。 |
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錫を混ぜれば(22%限界)どんどん硬くなる。が、16%を境にこれ以上だともろくなる。
錫の濃度が高いほど湯点が下がる。低い温度で溶かせる。
が、いろいろ難しいようだ。 |
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20望塚銅鐸 加古郡八幡村上西条(現 加古川市八幡町上西条)
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望塚銅鐸

紀元1年頃
Ⅳ様式 扁平鈕式 |
望塚銅鐸復元品
扁平鈕式新段階
相生産業高校製作 |
望塚銅鐸
扁平鈕式新段階
加古川市
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加古郡八幡村
上西□厂□□発掘
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30青銅の色見本
青銅の色見本
錫濃度の変化による
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写真では色の違いを再現できませんでした。 |
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錫濃度高い |
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錫濃度低い |
錫の分量で色が変化する
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40第二章「銅鐸」六百年の変化 ~兵庫の銅鐸を中心に~
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41銅鐸の年代
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銅鐸は人里離れた山の中などで、単独で出土することが大半です。稀に銅剣・銅矛・銅戈といった青銅器と一緒に埋められることがありますが、
時期を特定するものさしとなる土器が一緒に埋められないため、年代の決定が難しい考古資料の一つです。
とはいえ、発掘調査による出土によって埋納された遺構の時期が明らかとなった例や 層位的に時期が押さえられる例、鋳型の出土などから作られた時期が絞り込まれてゆくなど、調査・研究の蓄積によって、銅鐸の時期は概ね上の図(※④図)のような年代観で考えられています。
近年では松帆銅鐸に付着していた植物が科学的な分析で紀元前二~四世紀という年代が与えられ、カタチの変化から時代を決める伝統的な手法とは異なる角度からも、銅鐸の年代が提示されました。 |
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第二章「銅鐸」六百年の変化
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銅鐸の年代
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銅鐸の年代 |
銅鐸の年代
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前期 |
Ⅰ様式 釣鐘型 |
| 前400 |
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Ⅱ様式 菱環鈕式 |
| 前200 |
中期 |
Ⅲ様式 外縁付鈕式 |
| 1 |
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Ⅳ様式 扁平鈕式 |
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後期 |
Ⅴ様式 突線鈕式 |
| 200 |
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42神種銅鐸複製品 姫路市夢前町神種字西川関ノ谷, 菱環鈕2式, 横帯文, 昭和20年
神種銅鐸復元品
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神種銅鐸復元品
菱環鈕2式
姫路市
紀元前400年頃
銅鐸様式Ⅱ菱環鈕式 |
※こんな山奥に銅鐸祭祀を行なう集落があったとは考えにくく、
銅鐸破壊命令から逃れるために、山奥にまで運んで隠したのではないだろうか。
まるで、第二次世界大戦中の金属供出命令のようだ。
古い形式の銅鐸(Ⅱ様式)なので、長く大切にされて隠したのか、すでに信仰対象だったのか。たまたま偶然だったのか…
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50松帆1・2号銅鐸・舌1・2 南あわじ市松帆地区 海砂採取業者の集めた砂から発見され、正確な発見場所は不明
松帆1・2号銅鐸
舌1・2 |
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松帆1号銅鐸・舌1
菱環鈕2式
南あわじ市
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紀元前400年頃 Ⅱ様式 菱環鈕式 |
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松帆2号銅鐸・舌2
外縁付鈕1式
南あわじ市
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紀元前200年頃 Ⅲ様式 外縁付鈕式 |
※考察 松帆銅鐸の舌
山中や建物下に埋納された銅鐸のほとんどから舌がなく、松帆銅鐸には舌が共伴している。
山の中へ運んで銅鐸を隠すときに、舌があると音がして運んでいるのが周囲に丸わかりになるので、舌を取り去って、例えば、夕闇に紛れて
早朝夜明け前にひたすら山の中へ向かって運んで隠したのではないでしょうか。
一方、淡路島では、銅鐸の中に砂を詰めて舌が音を奏でないようにして、さらに、砂の中に埋めた。だから舌も健在に発見されたのでないか。
何しろ。海岸で砂の中に隠すのだから、簡単だったのでしょう。
しかし、それにしても、塩気でボロボロに腐食すると思ったのに、何ともなってないのが不思議。
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60同笵銅鐸 ~同じ鋳型から作られた兄弟~
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銅鐸には、大きさや文様が瓜二つの兄弟が存在する場合があります。銅鐸作りに使う 鋳型には石製と粘土製があり、石の鋳型は耐久性が高く、くり返し使うことができました。このため、同じ型から複数の銅鐸を作ることができたのです。このように、同じ鋳型で作られた銅鐸を「同笵銅鐸」と呼びます。石の鋳型といえども高温で作業をするうちに
傷が生じるので、傷の有無から製作順を見極めることができます。
同笵銅鐸は、同じ場所で作られたと言うことができる一方で、必ずしも近い地域から出土するわけではありません。遥か遠くにまでもたらされた銅鐸からは、当時の流通範囲の広さを窺い知ることができます。 |
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※加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸の内7個の兄弟が阪神地方でも出土した。
こんなに遠くまで運ばれた理由は何だろう。
珍しいものが見たかった。音を鳴らして神を呼びたかった…? |
61中山1・2号銅鐸複製 兵庫県宝塚市中山 前200年頃 中期 Ⅲ様式 外縁付鈕1式
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中山1号銅鐸 |
中山1号銅鐸
外縁付鈕1式
宝塚市 |
中山2号銅鐸
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中山21号銅鐸
外縁付鈕1式
宝塚市
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70気比銅鐸とふたつの流水文 兵庫県豊岡市気比 溝口
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気比銅鐸は1・2・4号と3号で、鐸身を飾る流水文が異なります。前者は横型流水文で、 後者は縦型流水文を飾っています。また、銅鐸の形状も、1・2・4号は身の中央がくびれて裾に向かって開いてゆくのに対し、3号では直線的で寸胴です。
気比3号銅鐸は東奈良遺跡(大阪府茨木市)から出土した鋳型と文様が一致しており、作られた場所が明らかです。横型流水文を飾る銅鐸の鋳型は出土していませんが、中河内が生産拠点の有力な候補地とされています。
気比銅鐸は異なる生産地からもたらされているものの、四点すべてが流水文で飾られ、大きさもほとんど同じです。文様の種類やサイズについては、入手側の意向が反映されているのでしょうか。作り手や受け手といった当時の人々の趣意が垣間見える興味深い銅鐸です。 |
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気比銅鐸とふたつの流水文
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横型流水文
縦型流水文
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どれが縦で横か
下の写真で見てね |
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気比1-4号銅鐸 兵庫県豊岡市気比 溝口 前200年頃 中期 Ⅲ様式 外縁付鈕式
気比1号銅鐸
外縁付鈕2式
豊岡市 |
気比1号銅鐸  |
気比1号銅鐸 |
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気比2号銅鐸
外縁付鈕2式
豊岡市 |
気比2号銅鐸  |
気比4号銅鐸
外縁付鈕2式
豊岡市 |
気比4号銅鐸 |
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気比3号銅鐸
外縁付鈕2式
豊岡市
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気比3号銅鐸 |
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80東奈良3号銅鐸鋳型 大阪府茨木市奈良町17 前200年頃 中期 Ⅲ様式 外縁付鈕式
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東奈良3号銅鐸鋳型 |
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東奈良3号銅鐸鋳型
外縁付鈕2式
東奈良遺跡(茨木市)
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90銅鐸の広がりと兵庫県
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銅鐸は近畿地方を中心として、東は静岡県や長野県、西は佐賀県まで分布がみられます。全国で出土地が明らかな銅鐸は五百点を超えるなか、現存しないものも含めて兵庫県出土の銅鐸は六七点が知られており、日本一の数を誇ります。
また、兵庫県では最古型式である菱環鈕式から、 突線鈕式の最終段階までの銅鐸が出土している点も特徴です。 菱環鈕式から扁平鈕式までの時期は、兵庫県は全国でも一二を争う銅鐸の出土数をみせますが、突線鈕式の銅鐸では中心地が滋賀県や愛知県・静岡県などに移り、兵庫県での出土数は少なくなってしまいます。
兵庫県は摂津・播磨・但馬・丹波・淡路の旧五国を擁しており、気候や風土も様々です。
ことに傾向をみてみると、淡路と摂津で兵庫県出土銅鐸の約七割を占めていることがわかります。
松帆銅鐸に代表される淡路の銅鐸は古い型式のものが多く、
桜ヶ丘銅鐸に代表される摂津の銅鐸は 外縁付鈕式から扁平鈕式にかけて表六甲に分布が集中しています。
播磨では銅鐸を作った鋳型も多く出土してお り、但馬や丹波にはスポット的に銅鐸がもたらされていたようです。
なお、銅鐸は数センチの破片がポツンと出土することがあり、破片での流通も考えられるため、数だけの単純な比較には注意が必要です。 |
銅鐸の広がりと兵庫県/00DSC00158_thumb.jpg) |
/00DSC00158a_thumb.jpg) |
銅鐸の広がりと兵庫県
/DSC00157_thumb.jpg) |
県内各地の銅鐸出土数
/DSC00157c_thumb.jpg) |
淡路21
摂津兵庫27
摂津京大阪11
播磨11
但馬6
丹波兵庫2
丹波京大阪1
兵庫県67 |
前期3
中期48
後期7
破片・型式不明9
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各地出土銅鐸
伝淡路出土銅鐸(複製)/DSC00159_thumb.jpg) |
扁平鈕式古段階
淡路市(推定)
/DSC00160_thumb.jpg) 紀元1年頃
Ⅳ様式 扁平鈕式 |
四條畷2号銅鐸
/DSC00161_thumb.jpg) |
四條畷2号銅鐸
扁平鈕式古段階
大阪府四条畷市
/DSC00162_thumb.jpg)
紀元1年頃
Ⅳ様式 扁平鈕式 |
青木銅鐸
/DSC00163_thumb.jpg) |
青木銅鐸 (複製)
扁平鈕式古段階
宍粟市山崎歴史郷土館
/DSC00164_thumb.jpg) 紀元1年頃
Ⅳ様式 扁平鈕式 |
※考察
※銅鐸発見地と鋳型発見地
宍粟市青木(旧宍粟郡山崎町青木)出土青木銅鐸は山の入口付近の場所で発見された。これはおそらく、旧山崎町の中心部から運ばれて
埋納された物だろう。しかし、その山崎町青木から小さな峠(本郷峠)を越した南側の集落、上本郷(旧佐用郡三日月町上本郷)で、
昭和時代に銅鐸の鋳型が発見されている。
また、同じく現 佐用町三日月 下本郷の小谷遺跡・下本郷遺跡では銅鐸が出土している。
上本郷鋳型の発見時、鋳型は砥石として使われていたことから、鋳型は砂岩製であった。(斜格子文様が決め手と聞いている。)
青木銅鐸が他地域との同范関係が言われないので、この地域で作られた銅鐸かもしれない。
銅鐸は旧山崎町中心部や、発見地青木付近で生産されていたのだろうか、それとも、峠を挟んだ
本郷峠側で製作されていたかのだろうか。鋳型が発見されたということはどちらかである。
・いや、青木銅鐸はたった一個だけ目をごまかして隠された場所であって、生産場所とは無関係の可能性も大きい。
・ただ、現在、鋳型は行方不明である。青木銅鐸との照合は不可能である。しかし、鋳型発見は生産地の近辺のはず。
旧三日月町大畑には銅山があり、近代まで生産されていた。銅山近くで精錬も行なわれていました。
また、宍粟市にも多くの小規模銅山があり(但し、場所不明)、そのうち、吉野山銅山は、旧宍粟郡山崎町内にあり、山崎町青木とも近くでした。
ここでは、鋳型が発見された場所で銅鐸の鋳造が行なわれていたのか、銅鐸発見場所付近で鋳造され、鋳型は後に廃棄されたものを拾って
峠越しに持ち込まれたものか、と考えています。
この小さな峠は近世・近代まで利用され、峠の頂上には祠があり、野仏が祀られていることから、通行する旅人を、村の者が追い剥し、
殺害したものと思われます。
原材料の確保
宍粟市の北、現 養父市大屋町明延には錫鉱山があり、昭和時代まで大規模操業が行なわれていました。
青銅は銅と錫の合金であり、明延の錫と、兵庫県西部の各地で産出する銅を使って銅鐸を鋳造する職人集団と工房跡が
本郷峠の南か北のいずれかにあったことは間違いなく、そのうち、大畑銅山は奈良時代に大仏造営時に銅を都に出したという記録を
読んだ記憶がある。だとすると、明延から運ばれた錫10~20%と地元産の銅75%以上を精錬された状態で持ち込んで銅鐸鋳造するには、
重い銅は、産地近くが工房開設には適していたと思われるので、銅鐸工房は本郷峠南北のどちらかでしょう。
※山師とは、ある種、詐欺師や博徒のような印象も付きまとうが、旧石器時代から、多くの専門家が驚くような山の高みや離島にまで
行って、様々な有用鉱物を探しています。旧石器・縄文では黒曜石やその代用品・宝石類。奈良時代には第一次大和政権が九州から来た
集団に追われ、東北地方に下って、山中の鉱物を探すことをなりわいにしたとも聞いています。(子孫のインタビュー)
※銅鐸についての研究は熱意を持って語られるが、原材料の銅や錫の産地についてはあまり聞き及ばない。
少なくとも、ここでは、兵庫県の中央山地の明延の錫、兵庫県西部各地の銅鉱山があったことを記述します。
明延からは、日本海側の豊岡市や、東側丹波市、南側姫路・明石・神戸市にも運搬可能である。
鉱山では技術者が居て、銅や錫を精錬して純度の高い製品に仕上げ、それを、
雑草をエネルギー源とする牛の背中に積み、隊商を組んで歩き、青銅工房まで運搬したのでしょうか。
兵庫県など、各地の鉱山がいつから採掘を始めたかは、本当はわからない。
明延が700年代から始まったというが、それは奈良大仏用の銅の採掘が始まったという記録であり、なぜ明延鉱山が記載されたか、それは、
それ以前からの採掘が知られていたからではないでしょうか。と、私は思っています。
奈良大仏の鋳造にあたっては、高僧行基が全国行脚して勧進を集め、また、全国に鉱山師を遣わして金や銅の鉱山の発見・開発に尽力した。
青木銅鐸出土地から
鋳型発見地まで |
鋳型発見地から
大畑銅山まで |
明延錫鉱山の位置
北,南,西に交通便利
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※小鳥の中には貯食行動、餌を溜める習性があります。子供の頃、畑を耕していると、周囲には親木がないのにドングリやクリが土の中から
出てきます。これをカラスの隠し餌と呼んでいました。
小学低学年の私に母親の説明は、カラスが餌を隠すときに空の雲を目じるしにするから忘れてしまうのだ。とのこと。
銅鐸は、少人数の司祭や有力者が秘密裏に隠したものだが、誰にもいうことができず、新しい支配者の銅鐸信仰弾圧の嵐は遂に止むことなく、
永遠に銅鐸信仰は復活を見ず、隠蔽者の死去によってやがて誰もが知らなくなり、大規模開発が始まるまで、見つかることなく眠っていた。
全国にはまだまだ沢山の埋納銅鐸や銅剣・銅鉾が埋まっているのかもしれない。
なんだか、カラスの忘れエサのように感じます。
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120石の鋳型から土の鋳型へ
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扁平鈕式の段階になると、銅鐸を作るための鋳型の素材が石から土に変化します。石の鋳型では鋳造時に抜けなかったガスによって、製品に孔があいたり一部が凹んだりすることがあります。また、厚みのある銅鐸も多く、青銅が冷え固まる際に収縮することで
凹みが生じる場合もあります。石に文様を彫りこむため線は比較的太く、全体的にぼんやりとした仕上がりになっているものも少なくありません。
一方、土の鋳型で作られた銅鐸では、石型に比べてガス抜けがよいため、前述の凹みなどがほとんど見られません。また、文様の彫り込みも石に比べて容易であるため、緻密な文様が描けるようになり、シャープな仕上がりを見せるようになります。こうした特徴を手がかりに、
扁平鈕式銅鐸は石の鋳型で作られたものが古段階、土の鋳型で作られたものが新段階として細分されています。 |
野々間1・2号銅鐸(複製) 丹波市春日町野上野字野々間
野々間1・2号銅鐸(複製)/DSC00166_thumb_1.jpg) |
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野々間1号銅鐸(複製)
外縁付鈕2式
丹波市
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前200年頃中期 Ⅲ様式 外縁付鈕式 |
野々間1号銅鐸(複製)
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野々間2号銅鐸(複製)
扁平鈕式新段階
丹波市
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紀元1年頃 中期 Ⅳ様式 扁平鈕式 |
野々間2号銅鐸(複製)
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130加飾する銅鐸・省略する銅鐸
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鋳型の素材が石から土へと変化したことで、銅鐸を飾る文様もより多彩で緻密な表現 が可能となりました。
絵画銅鐸を代表する国宝の桜ヶ丘4・5号銅鐸もこうした中で作られます。
また、前段階までは小・中型品に多く採用されてきた袈裟襷文ですが、大型の銅鐸にも用いられるようになり、横帯を増加させることで六区袈裟襷文が生み出されました。さらには袈裟襷文の横帯を上下に 分割して異なる文様を施したり、文様帯の境界線を複線にしたりして、さらに装飾性を高めるものも作られます。
一方で、小型の銅鐸の中には袈裟襷文の左右の縦帯を省略してしまう銅鐸もあらわれます。銅鐸の変化は大型化や加飾化の一方向のみという訳ではなかったようです。
※このような加飾化や大型化は、職人が自発的に行なったのでしょうか。それとも、鋳造依頼主の注文だったのでしょうか。
依頼主の要請だったのなら、それは、当時すでに莫大な財産や権力を持った人が製作を依頼し、それを村に迎えることによって儀式をとり行い、
自己の宗教的権力をも高め、民衆を平伏させる道具として、使ったように思える。
だとすると、沢山の銅鐸を持っていた加茂岩倉付近の権力者は、銅鐸を沢山の支柱にぶら下げて、これを前後に動かして打ち鳴らし、色々な音階の音を同時に奏でて人々を魅了していたのかもしれない。(西洋の教会の鐘のように)
やがて、銅鐸鋳造が近隣の村と競うようになると、より大きな物を発注し、遂には鳴らせなくなり、現在の神輿のように担がせて運び、
それを祭壇に安置することによって、金色と装飾と絵画と、そのようなものを見せつけることで、領民を睥睨したのでしょう。
まるで、現代の大金持ちが高級車や高級ブランドの衣服をまとい、高価な宝飾品で身を飾って庶民を見下すのとよく似ている。
銅剣・銅鉾についても似たり寄ったりではなかったのだろうか。ただ、銅鐸の発達があまりにも華美になったので、特に注目し想像した。
青銅器崇拝の時代
(聞く銅鐸の時代は弥生中期,紀元前1~2c、
見る銅鐸の時代は弥生後期,紀元後1c~2c、
銅鐸終末期は 弥生末~古墳前期,2~3c)
は、約4~500年続くが、それを終わらせたのは、強大な武力の時代、古墳時代でした。
どこからかやって来た残虐な武力集団が稲作集落を支配し、服従させるために被支配民の結びつきの原点である青銅器祭祀を禁止し、信仰対象の青銅器を奪取して目前で焼いて打ち壊し、更にそれを意味のないアクセサリや武器に変えてしまった。信仰を失った庶民に自分の墓を作らせて過酷な労働を強いて反抗の機会や気力を削いで、さらに作らせた墓に葬られる支配者を信仰するように強制した。生きた、傲慢で恐怖の対象である、しかもどこからか来たわけのわからん者を信仰しろ。生きた人間が「カミ」死んでもさらに「カミ」。その一族も永遠にカミ。宗教としては実に幼稚な段階。まだ、意味のない青銅器信仰の方がましだったかもしれない。
だから、青銅器は隠されて山の中から出てくるのだろう。青銅器埋納は、当時の人々の絶望や恐怖が伝わってくる史実である。 |
加飾する銅鐸・省略する銅鐸
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生駒銅鐸の拓本(部分):
国立歴史民俗博2009
弥生青銅器コレクション」
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131桜ヶ丘5号銅鐸(複製) 紀元1年頃 中期 Ⅳ様式 扁平鈕式
桜ヶ丘5号銅鐸 (複製) |
桜ヶ丘5号銅鐸 (複製)
神戸市立博物館
扁平鈕式新段階
神戸市灘区 |
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桜ヶ丘5号銅鐸の絵画
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➀蛙,蛇,棒を持つ人
②カマキリ,蛙,ミズスマシ(クモ) |

➀3人の人物
(△頭と〇頭の人)
②鹿狩り |
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裏面には
➀水路の堰を抜く人と流れ込んだ魚
②トンボとイモリ
③亀と魚を咥えるサギ
④脱穀をする二人 |
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| 140絵画土器(鹿)
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160「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ
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鋳型の素材が石から粘土に変化したことで、銅鐸は大型化してゆきます。最終段階の突線鈕式では加速度的に大型化が進み、ついには一メートルを超える銅鐸も作られました。大型化を極めた銅鐸は、吊り下げて音を鳴らす「聞く銅鐸」ではなく、その姿を仰ぐための「見る銅鐸」へ役割が変化したと評され、銅鐸のあり方が変わったことを物語っています。 |
「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ
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※大型銅鐸の鋳造には、鋳造技術の発達と、
原材料が豊富になったことが考えられます。
滋賀・愛知・静岡に製造の中心が移ったことは、
岐阜県などに、新たに豊富な原料産出鉱山が
出現したのではないでしょうか。
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161栄根銅鐸 川西市栄根字井坂15番地(現加茂1丁目15番地) 後期 Ⅴ様式 突線鈕式
栄根銅鐸 高さ1.14m |
栄根銅鐸
突線鈕 5 式
川西市
東京国立博物館蔵 |
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170間 章
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171間章 描かれた銅鐸
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銅鐸の出土は現代を生きる私達だけでなく、古代人にとっても関心事であったようで、 文献資料にその記録を見ることができます。
最も古い記録は今から千三百年以上も昔(奈良時代)のもので、寺院の建立に際した土地の掘削で出土したことが記されています。また、平安時代に は播磨での銅鐸出土が記されており、この頃には既に「銅鐸」と言う名称が使われています。
江戸時代になると、銅鐸出土といった出来事の記録だけでなく、銅鐸そのものが古物として着目され、記録に残される例がみられるようになります。こうした古物の紹介にはしばしば絵図を伴うものが見られ、それまでの法量や出土地しか残されなかっ た記録から格段に情報量が増加します。精緻な筆によって描かれた銅鐸の絵図は、現在の研究水準でも十分に参考となる情報をもたらしてくれます。
※出土した銅鐸が、古物骨董として扱われるようになって、初めてカタログとしての絵図や採寸が記されたようです。 |
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姫路家臣山田安貞藏
寶鐸圖
播磨国宍粟郡 須賀山中掘地 所得
高三尺餘
口径一尺餘
朽損ス
松平定信1800『集古十種』
(名著普及会1980復刻) |
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中条(中條) 銅鐸の復元 南あわじ市広田中筋, 扁平鈕式新段階 6区袈裟襷文 紀元1年頃 Ⅳ様式 扁平鈕式
江戸時代にまとめられた淡路の地誌『淡路草』・『堅磐草』・『味地草』には、三原郡廣田郷中筋(中條)村の堂丸という土地で出土した銅鐸が、それぞれ絵図と共に記載されていま す。一見、実物の銅鐸とはかけ離れた表現で描かれているように見えますが、それぞれの絵図や写本を見比べることで、描かれた銅鐸本来の特徴を垣間見ることができました。
復元される銅鐸像は高さ四五センチ前後の飾耳をもたない六区袈裟襷文銅鐸で、鈕は外 縁部を二重の鋸歯文帯で飾られていたと考えられます。鐸身上部の型持孔は方形と推察され、下辺横帯下の界線は三条であった可能性があります。
こうした特徴から、関西大学博物館 が所蔵する出土地不明銅鐸が類例として挙げられますが、絵図に見られる裾の破損表現については一致していません。 |
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此間透過
味地草
淡路草
(坪井書写)
味地草
堅磐草 |
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172模写文献
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淡路草
写本「平安郷」
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淡路草写本
「廣田郷・賀茂郷」
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味地草写本
「津名郡二」
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味地草写本
「三原郡二」
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竪磐草 |
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200ウサギ形水滴 場市遺跡 養父市建屋
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味地草に描かれた兎形水滴とそっくりなものが 場市遺跡の中世の苑池跡 から出土しています。
唐銅水滴 (※硯への水入れ)
高一寸三分
横一寸六分
背口に穴アリ 『味地草』(名著出版復刻) |
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210出土地不明銅鐸 扁平鈕式新段階 関西大学博物館所蔵
※これが中条銅鐸と同范かも知れない銅鐸
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220 第三章 銅鐸をつくる
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221第三章 銅鐸をつくる
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銅鐸の鋳造
銅鐸をはじめとした青銅器の生産には、金属を高温で溶かし、ドロドロに溶けた青銅を 鋳型へ流し込むという、高度な技術を必要とします。
金属を溶かすための坩堝や溶けた青銅を運ぶための取瓶の役割をする土器は、脚が付いていることから高杯形土製品と呼ばれます。高い火力を得るためには風を送る必要があり、燃えてしまわないように土で作られた管のことを送風管や羽口と呼びます。こうした鋳造に使われる道具は、まとめて鋳造関連遺物と呼ばれます。
大阪府の東奈良遺跡では、石で作られた銅鐸の鋳型をはじめとした鋳造関連遺物が大量に出土しており、日本を代表する銅鐸生産の遺跡です。
東奈良遺跡 大阪府茨木市東奈良一丁目・二丁目
東奈良遺跡は、大阪府茨木市の南部、南茨木駅から東側一帯にある、弥生時代の大規模環濠集落や古墳時代、中世の遺構を含む複合遺跡。
出土鎔笵関係遺物は国の重要文化財に指定されている。
1973年(昭和48年)、大阪万博とともに新設された南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された。南茨木駅の東300mに出土品を所蔵・展示した茨木市立文化財資料館がある。(2025.06.06現在臨時休館中)
概要
銅鐸鋳型出土記念碑
東奈良遺跡には、二重の環濠の内部に高床倉庫など大型建物や多数の住居があり、外部には広大な墓域もあった。発見された工房跡から、銅鐸の鋳型が35点も出土しており、ほかにも銅戈・勾玉などの鋳型が発掘されている。ここの鋳型で生産された銅鐸が、近畿一円から四国でも発見されている。
この集落が、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ当時日本最大級の銅鐸や銅製品の工房遺跡であり、弥生時代の日本の数多くの「クニ」の中でも、各地に銅鐸を配布することができるほど政治的に重要な位置を占めていたことがうかがえる。
また、高さが14.2センチメートルの小さな銅鐸が見つかっている。銅鐸の起源は解明されていないが、この銅鐸がその謎を解く鍵となる可能性もあるという。
この付近は「沢良宜(さわらぎ)」と呼ばれ、主な神社に「佐和良義神社」があり、迦具土神がまつられている。カグは銅の古語であり、サワラギもサワラ(銅器)ギ(邑)となることから、この一帯が銅製品の加工と関係が深かったことがうかがい知れる。
2013年(平成25年)10月1日~12月27日に行われた発掘調査では、弥生・古墳時代の溝などのほか、牛の足跡などが残る中世の水田跡も見つかった。
文化財
重要文化財(国指定)
摂津東奈良遺跡出土鎔笵関係遺物(考古資料)
明細は以下。所有者は国(文化庁)、茨木市立文化財資料館保管。1983年(昭和58年)6月6日指定。
銅鐸鎔笵残欠共 35箇
銅戈鎔笵残欠 3箇
勾玉鎔笵 残欠共 4箇
附 羽口 残欠共 一括 ※銅鐸と銅鉾も作っていた |
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223銅鐸鋳造模型
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224銅鐸鋳造模型
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東奈良1号銅鐸鋳型(複製 東奈良遺跡
茨木市
) |
取瓶
高坏形土製品 |
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銅鐸鋳造模型
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高坏形土製品 |
鋳型外枠
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225鋳造道具と小銅鐸
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送風管(羽口)
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真土片※下に |
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小銅鐸と舌 |
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小銅鐸
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舌
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※真土
AI による概要
「真土(まね)」は、古来より日本で使われてきた鋳物砂の一種で、川砂と粘土を混ぜて焼いたもので、美しくなめらかな鋳肌が得られることから、美術工芸品や仏像などの鋳造に用いられてきました。
真土(まね)の概要
・真土は、川砂や山砂に粘土を混ぜ、水を加えて混練し、焼成した後粉砕したものです。
・焼成によって橙赤色に仕上がります。
・酸性を帯びており、急激な温度変化にも強い特徴があります。
・真土は、きめ細やかな真土から粗い真土まで種類があり、鋳造する箇所によって使い分けられています。
・真土型鋳造は、惣型と焼型に分けられます。
・惣型は、鋳型の表面を焼成し、中子を納めて鋳造する方法で、銅鐸や梵鐘などに用いられました。
・焼型は、鋳型内に中子を形成し、約800℃で焼成する方法で、銅像や美術工芸品に用いられます。
真土(まね)の特徴
・美しくなめらかな鋳肌が得られます。
・写実性に優れています。
・日本の伝統的な美術工芸品の鋳造に欠かせない材料です。
真土(まね)の現代
現代では、真土型鋳造は減少していますが、美術工芸品や復元制作など、特定の分野で依然として重要な役割を果たしています。
まとめ
真土(まね)は、日本の鋳造技術を代表する材料の一つであり、美しい鋳肌と写実性、耐熱性などが特徴です。
AI の回答には間違いが含まれている場合があります。 |
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280高坏と真土
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高坏形土製品と真土
溶けた青銅を扱うための高坏形土製品は、椀形の坏部の内面に「真土」と呼ばれる特殊な土が貼り付けられた状態で出土しているものがあります。現代の鋳物で用いられる真土は、細かな砂や砕いた土器からなる耐火性の高い素材です。高坏形土製品に見られる「真土」でも、坏部などの土器本体に使われている土と比べて、細かく均質な砂が多く含まれているという特徴が共通しています。
大阪府摂津市の明和池遺跡では、大型の高坏形土製品が真土を伴って出土しています。真土には高温を受けて赤く変色している部分がみられ、変色の下まで青銅が入っていた場合には、約五キログラムの青銅が溶かされたと考えられます。 |
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281
高坏形土製品と真土
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高坏形土製品と真土
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真土
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真土(東奈良遺跡)
高坏形土製品 真土 (玉津田中遺跡)
高坏形土製品 真土 (明和池遺跡)
青銅塊背面に付着した土器 (北山遺跡)
高坏形土製品 坏部 (玉津田中遺跡)
高坏形土製品 坏部 (明和池遺跡) |
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282明和池遺跡 遺物 大阪府摂津市千里丘東5丁目13 山田川ちびっこ広場
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350播磨で作られた銅鐸
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兵庫県の南西部を占める播磨地域では、四例の銅鐸鋳型の出土がみられます。西播磨・ 中播磨・東播磨のそれぞれで鋳型が出土しており、複数箇所で銅鐸の生産が行われてい たようです。
これら四例はそれぞれが個性的な特徴を持っており、
日本で初めて発見された銅鐸鋳型である名古山例、
「石井谷型」と呼ばれるグループの銅鐸を製作したと考えられる今宿丁田例、
石製の鋳型としては破格の大きさを誇る上高野例、
未成品が一対で 出土した西神ニュータウン内第6地点遺跡例と、
どれも銅鐸の生産を考える上で欠かす ことのできない資料となっています。
石井谷型の銅鐸
「石井谷型」と呼ばれる銅鐸は、扁平鈕式古段階の銅鐸におけるグループの一つです。 四区袈裟襷文を飾り、鈕や鰭で鋸歯文の斜線が左右相称となることを指標としていま
す。
この他に、鋸歯文がほぼ正三角形であること、鈕の高さのうち舞から菱環の頂までが ほぼ半分であることが指摘されています。
また、鈕の外縁部を飾る第2文様帯には連続 渦文を飾ることや、第一横帯の下界線と飾耳の下端の位置が一致することも、石井谷型
の多くに見られる特徴とされてい ます。同時期に多く作られた銅鐸 ですが、小型品のため必要な青銅 の量は少なかったとみられます。
一方で、石井谷型銅鐸の諸属性 については多様性が見られ、鋸歯文の左右相称という共通性ではま とまりきらないとする指摘もあり ます。銅鐸のデザインの規範が緩 やかとなり、細かな変化が多く発 生するような生産体制が、この時 期の銅鐸生産をあらわしていると の見解も示されています。 |
播磨で作られた銅鐸 |
播磨で作られた銅鐸
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石井谷型の特徴 |
石井谷型の特徴
高さ約30cmまたは約20cm
菱環の頂きが紐の高さの約1/2
一対耳
第1横帯の下界線と 飾耳の下端の位置が 一致する例が多い
・鰭の鋸歯文は正三角形
・鈕と鰭の鋸歯文が左右相称
・鈕外縁部を飾る第2文様帯は連続渦文が多い
高さ約 20 cmの小型品では これらの特徴が崩れる例も |
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400銅鐸鋳型
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420まねた鋳型 三田市平方遺跡
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銅鐸を真似て作られた鋳型
三田市の平方遺跡では、弥生時代中期後半の竪穴建物跡から 小銅鐸の鋳型や中子の破片が出土しました。
鋳型には高さ約九センチの四区袈裟襷文銅鐸が彫り込まれています。実際の鋳造には使用されていませんが、鋳型としての役割を満たすものと評価されています。一方で、彫りこまれた銅鐸の文様を見ると、
舞の直下に無文帯が生じていたり、鰭や下辺横帯を飾る鋸歯文も通常の銅鐸とは内外上下を逆向きに施文していたり、銅鐸への施文の規則は守られていません。銅鐸を製作していた集団とは異なる人の手によって作られたものでしょう。
平方遺跡では、片岩製の舌が土坑から出土しています。舌には 磨滅がみられ、小銅鐸に対してサイズが大きいことから、銅鐸に使われていた可能性も考えられます。銅鐸を見て憧れた人が、小さな模造品を作ろうとしたのでしょうか。 |
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460銅鐸の復元
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銅鐸の復元 ~県立相生産業高校との連携~
兵庫県立相生産業高校では、竹下邦彦先生の指導のもと、生徒たちによる銅鐸の復元に取り組まれてきました。
令和二年度には当館が所蔵する望塚銅鐸 が復元され、復元品を恵贈いただきました。
銅鐸を鋳造するのは現代の技術でも難しく、溶けた青銅が型の隅々まで流れずに穴があいてしまっ たり、合金の比率によっては割れてしまったりと、 失敗することも珍しくありません。望塚銅鐸の復元では、完成するまでに四個の失敗品が生じました。
弥生時代にも多くの失敗品が生み出された筈ですが、それらは溶かして作り直されるため、見ることができません。復元で生まれた失敗品を通して、 弥生人が体感した悩みを知ることができるのです。 |
望塚銅鐸の復元
望塚銅鐸の復元 |
鋳型装飾の線書き
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外側の鋳型
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なかご作り
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青銅の溶解
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注湯・鋳込み

鋳型に溶銅を流し込む |
完成
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鋳掛実験
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とりべを用意 |
炉を用意する |
溶融の状態 |
とりべを取り出して
鋳型に流し込む |
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欠けた部分に応急の鋳型を当てる
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青銅を流し込む |
銅鐸内の溶融青銅 |
鋳掛られた部分 |
鋳掛方法のの図説 |
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461ケミカルウッドの元型
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ケミカルウッドの元型
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元型と砂型 |
砂型
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ケミカルウッドという樹脂を使って銅鐸の型を
作り、鋳型用の砂を使って、鋳型を作る。 |
復元銅鐸失敗作
復元銅鐸失敗作 |
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・青銅が途中で冷え固まって穴が生じている。
・錫の濃度が低すぎて、青銅が固まる時の収縮に耐えられず、裂けてしまっている。
※鋳型の温度と湯の混合比
湯には、銅7割以上、錫2割以上。+鉛少々。 |
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・錫の濃度が高すぎて割れてしまっている |
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溶銅が回りきらなかった鈕の欠損に、鋳掛で後から充填しました。
※鋳掛は銅製品の修復技術。昔は鋳掛屋さんが、まるで昔の野鍛冶のように、村の一軒一軒を回って穴のあいた鍋を集めて修理をしていました。 |
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490高坏形土製品
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高坏形土製品(とりべ)での青銅の溶解と 土製鋳型への鋳造実験
とりべの使用実験では、坏部の中に火を熾した炭と青銅を入れて、 上から風を送りました。六分ほどで青銅は溶けました が、型に注ぐには温度が不十分だったので更に加熱を 続けました。約二十分が経過した頃、溶銅が千度を超えたので炭を掻き出し、鋳型へ青銅を注ぎました。
実験後の坏部内面では、高温に晒された真土の一部 がガラス化し、赤く変色しています。土器のヒビ割れが 壊れないように革紐で縛っていた部分は黒く焦げ付いています。青銅を流し込んだ鋳型では、溶銅が接していた部分が黒く変色しているのがわかります。 |
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高坏形土製品での青銅の溶解と
土製鋳型への鋳造実験
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高坏形土製品復元鋳造実験品
とりべ
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とりべの使用方法は直上に解説されている。 |
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491平方小銅鐸復元鋳造実験品
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493鋳掛実験
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銅鐸の鋳造では、溶けた銅が途中で冷え固まってしまったり、発生したガスに邪魔されたりすることで、 穴や欠けが生じることがあります。こうした欠損には
「鋳掛」と呼ばれる技術で青銅が補填されました。
今回の実験では、鈕と身の異なる部位に生じた欠損を鋳掛しました。鈕への鋳掛は型で挟みこんだ欠損部に溶けた青銅をふんだんに流し、身へは外側だけに型を設置して内側から欠損部へ少量の青銅を垂らしました。しかし、どちらも溶銅が流れていない場所が残ってしまい、あらためて弥生時代の技術の高さが感じられました。 |
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鋳掛の方法
AI による概要
鋳掛けは、鋳物製品の巣(空洞)などの不良箇所を補修する一方法です。不良部分に溶湯を静かに適量に流し、不良部分の表面を溶かしつつ溶湯を補給して、正しい形に修理する方法です。
鋳掛けの目的:
鋳物製品の欠陥(巣、割れ、欠損など)を補修し、製品の強度や機能性を回復することです。
補修方法:
1.溶湯の準備:鋳物の材質と形状に合った溶湯を準備します。
2.不良箇所の確認:補修箇所を特定し、形状や深さを確認します。
3.溶湯の注入:溶湯を静かに適量に不良箇所に流し込みます。
4.表面の溶かし込み:溶湯が不良箇所の表面を溶かし、元の形状に近づくように、溶湯を補給していきます。
5.冷却:溶湯が固まるまで冷却します。
他の補修方法との違い:
鋳掛けは、溶接やロウ付けとは異なり、溶湯を「補給」する形で修理を行うため、より自然な形状に近づけられます。
過去の鋳掛け:
江戸時代や明治時代には、鋳掛け屋(いかけや)と呼ばれる職人が、破損した鍋釜などの修理に出回っていました。
現在の鋳掛け:
現在でも、鋳物製品の補修として、鋳掛けは重要な技術の一つです。特に、精密鋳造などで、欠陥が深刻な場合に有効な方法です。 |
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550第四章 銅鐸の最後
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550破砕実験
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銅鐸破砕実験
遺跡からは、銅鐸が破片の状態で出土することがあります。「どうしたら金属で作られた銅鐸を破片にできるか?」 当時の石野博信館長たっての希望により、当館で は平成二十一年に銅鐸を壊す実験を三回おこないました。
実験では、
➀何もしない状態の銅鐸を叩く、
②焚火で加熱した後、水をかけて急冷してから叩く、
③再び焚火で加熱した後、熱い状態で叩く
という順番で銅鐸の破砕を試みました。男性が体重をかけて木槌を振り下ろしても、➀・② では少しへこむ程度でしたが、③では湿った煎餅をちぎるように簡単に割ることができました。 |
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銅鐸破砕実験
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銅鐸のさいご |
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加熱後急冷した |
加熱状態で  |
破砕実験銅鐸
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破砕実験➀号銅鐸 |
破砕実験②号銅鐸 |
破砕実験③号銅鐸 |
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560椛2号銅鐸 愛知県田原市伊川津町倉ヶ脇
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破片で見つかった銅鐸
銅鐸の中には、破片の状態で出土するものがあります。 それらの多くは突線鈕式の銅鐸で、近畿式のものがほとんどです。
多数の破片がまとまって出土している例はごく僅かで、意図的に破片にされた 「破砕銅鐸」と考える説や、工事などで発見された時にバラバラになってしまっていたと考える説など、見解は様々です。
※銅鐸の変遷:菱環鈕式→外縁付鈕式→扁平鈕式→突線鈕式と変化する。突線鈕式は最終形態
※突線鈕式の二系統、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸。 破片銅鐸 近畿式は、銅鐸信仰廃止権力(大和政権)に近かったために廃銅鐸毀釈を行なった?
椛銅鐸は農地整備の工事中に発見され、200点以上の破片が回収されています。 破片からは2個体の銅鐸が復元されており、展示している2号銅鐸は高さ124cmに復元され、
銅鐸の中で2番目に大きなサイズになります。 |
破片で見つかった
椛2号銅鐸
突線鈕5式
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久田谷銅鐸
突線鈕5式
豊岡市立歴史博物館
但馬国府・国分寺館
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椛2号銅鐸
突線鈕5式
愛知県田原市
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椛銅鐸
AI による概要
椛(なぐさ)銅鐸とは、弥生時代に製作された青銅製の祭器である銅鐸の一種を指します。もみじにちなんでそう名付けられたのかもしれませんが、詳細な意味は明らかではありません。
椛銅鐸の特徴
・銅鐸は、青銅製の鋳物で、つり手(鈕)と振り子(舌)を備え、紋様を持つベルです。
・銅鐸の発見は、668年の『扶桑略記』に滋賀県大津市で宝鐸が見つかったとする記録が最古です。
・銅鐸は、もともと鐘として音を鳴らし、合図を送るために使われていたと考えられています。
・銅鐸の表面には、様々な絵が描かれていることもあります。水田に生きる動物や農耕に関連した場面が多いことから、
豊作を祈る祭りの道具として使われていたのだと考えられています。
・銅鐸の分布は、近畿地方を中心に分布しています。
・近畿式銅鐸は、近畿一帯を中心に、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に分布しています。
鈕の頂きに飾り耳があるのが特徴。
・三遠式銅鐸は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸に分布しています。
鈕の頂きに飾り耳がないのが特徴。
椛銅鐸の「椛」の意味
・「椛」は、もみじの別名で、特に紅葉した姿が美しく、秋のシンボルとして知られています。
・銅鐸に「椛」という名前がつけられた理由については、明確な記録は見つかっていません。
・もみじの紋様が銅鐸に描かれていた可能性や、銅鐸が見つかった場所の周辺にもみじが多かった可能性などが考えられます。
まとめ
椛銅鐸は、弥生時代に製作された青銅製の祭器である銅鐸の一種で、もみじにちなんでそう名付けられたと考えられます。銅鐸の詳しい歴史や意味については、現在も研究が進められています。 |
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570生まれ変わる銅鐸
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破片になった銅鐸は、鋳造関連遺物とともに出土することがあります。こうした遺物が出土する遺跡では青銅器の生産をおこなっていた可能性が高く、 銅鐸片は青銅素材として別の青銅器にリサイクルされるためのものであったと考えられます。
姫路市の東川遺跡(大井川第6地点遺跡)では、銅鐸片が小形仿製鏡を製作したと考えられる鋳型外枠 や砥石などとともに出土しており、銅鐸を再利用し 小形青銅器を鋳造するという動きが播磨でも確認できます。 |
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小さな青銅器の鋳造
玉津田中遺跡では、弥生時代後期の竪穴建物跡・溝・流路から、土製鋳型外枠・高坏形土製品・送風管といった鋳造関連遺物が出土しています。 いずれ もサイズは小さく、小型の青銅器を鋳造していたと考えられます。鋳型片が出土した竪穴建物跡からは、北部九州で作られた小形仿製鏡も出土しています。
また、北に少し離れた地区の竪穴建物跡からは、銅鏃と棒状銅製品がまとまって出土しています。 いずれも研磨がされていないことなどから、近くで作られた可能性が想定されます。 |
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※考察 銅鐸鋳造禁止と鋳造技術の消長
弥生時代に4~500年続いた銅鐸の時代は、列島の鋳造技術の目覚ましい発展期だったと言えるでしょう。しかし、各地に豪族が出現し、
宗教を豪族に対する個人崇拝に強制した古墳時代には、のびのびとした鋳造文化は抑圧され、小さな鏃や巴形の魔除けなどに矮小化されました。
その中で、初期古墳の副葬品とされたのが舶載品の鏡や和製の仿製鏡でした。弥生人がピカピカ光る青銅器や、青銅でなければ出せない音を奏でる銅器に魅了されたように、表面を徹底的に磨き上げたキラキラ光る鏡、裏面に施されたレリーフが、太陽光を反射して浮かび上がる不思議をもって、破魔の銅器として魔除けとして、死後の豪族を守ってくれる宝器利器として珍重するようになった。勾玉と、剣と、鏡。これらは古代豪族が宝としていたものである。
巨大な青銅製 鋳造物を作れるようになった弥生の技術革新は、古墳時代に入って一旦の衰退の後に、中国鏡を写し取ることから始まり、銅鐸とは違った技術の発展を始めた。青銅鏡の作成である。この材料として、弥生の青銅器が使われたとされている。 |
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680
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埋められた銅鐸
現在私達が目にする銅鐸は、そのほとんどが弥生人によって埋納されることで悠久の眠りにつき、土地の開発や発掘調査によって再び陽光の下に現れたものです。
銅鐸を埋納した理由については様々な説が提唱されており立証することは困難ですが、発掘調査での出土が増加したことで、銅鐸を埋める時の作法は明らかになってきました。一般的な銅鐸の埋納は、横倒しにして鰭を垂直に立てた状態で埋めるという方法で、初期から末期までサイズの大小を問わず共有されています。 |
野々間1号銅鐸出土状況切り取り模型
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野々間銅鐸の出土 兵庫県丹波市春日町野上野字野々間
野々間1号銅鐸は、土地所有者の家族が小さな山道沿いの崖面で自然薯を掘っている最中に、偶然発見されました。発見者が周囲を掘り返さなかったことが幸いして、銅鐸の圧痕が現地に残されていました。一般的な銅鐸の埋納とは異なり、直立した状態での出土でした。その後、周囲の調査で2号銅鐸が出土しました。
野々間1号銅鐸 (外縁付鈕Ⅱ式四区画袈裟襷文銅鐸)
野々間2号銅鐸 (扁平鈕式四区画袈裟襷文銅鐸) |
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野々間銅鐸の出土 |
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野々間1号銅鐸
出土状況切取模型
丹波市 |
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690Extra銅鐸の音色
優しく叩いて銅鐸の音色を聞き比べよう
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710メインホール
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711
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春季特別展「弥生の至宝 銅鐸」 関連展示
弥生土器に描かれた銅鐸文様
玉津田中遺跡 (神戸市西区)
銅鐸は鋳型に青銅を流し込んで作られています。
銅鐸を飾る文様には、鋸歯文、綾杉文、斜格子文、連続渦文、 流水文などがあり、 銅鐸の部位ごとに文様は決められています。
鋸歯文は鰭や鈕に内向きに描かれており、 綾杉文は鈕の菱環に描かれ、 斜格子文は袈裟襷文の帯の中を充填しています。
姫路市の今宿丁田遺跡や名古山遺跡などの弥生時代中期の遺跡から石製の銅鐸鋳型が出土しており、播磨地域でも銅鐸が作られていたことがわかります。
弥生土器の高坏や脚台付無頸壺にも鋸歯文や綾杉文、斜格子文など、 銅鐸と同じ文様が描かれています。
鋸歯文は高坏や無頸壺の脚裾部に上向きに、尖った工具で緻密に描かれており、 銅鐸との共通性が見うけられます。
鋸歯文や綾杉文などの銅鐸文様と共通する土器は銅鐸鋳型が出土している西播磨地域を中心に分布することから、これらの土器を作った人は西播磨地域の銅鐸をよく知る人との関係がありそうです。
弥生土器の文様と特別展 「弥生の至宝 銅鐸」で展示されている銅鐸文様と見比べてみてください。 (学芸課 篠宮正) |
銅鐸紋様と弥生土器の文様
銅鐸紋様と弥生土器の文様 |
銅鐸
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無頸壺脚台部
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高坏
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712高坏に描かれた銅鐸紋様
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