北海道の縄文 №66 2022.07.01
奥尻島津波館 北海道奥尻郡奥尻町青苗36
01397-3-1811 月休、7・8月無休 撮影可
| 館の特徴 |
奈良時代の巨大勾玉。
巨大津波を免れた縄文早期~擦文までの遺物 |
|

奥尻島の帰り、渡島半島側の江刺側では黒雲低く、夕方の暗闇が迫り、車も街灯も店舗も電灯を点けていました。
渡島半島中央部には脊梁山地が走っていて、277号線で横断し八雲町側に抜けます。中央の最高地点に差し掛かると |

もう暗くなっているはずの東側・八雲町側はカラッと晴れた青空で明るく、まだまだ初夏の午後の太陽が輝いていました。江差ではヘッドライト走行していたのに、嘘の様な変貌でした。
それほどこの地域の天候は極端です。 |
奥尻はimageでは、渡島半島南端の松前町の西南でしたが、もっと北でした。
※imageの位置にある 松前町大島は、 二重カルデラで伊豆 青ヶ島似の無人島。
|
|
| |
| |
目次
|
01江差港へ
02奥尻フェリー
03奥尻港
04鍋釣岩
10奥尻島津波館
10津波館外観
20入口展示
30北海道南西沖地震概要
100考古展示コーナー
101時代解説全容
103奥尻島
105海のみち
勾玉物語
時代解説
奥尻島の縄文
海とひとびと
青苗地区の遺跡
奥尻島の遺物・遺跡
※資料鉄の製錬
※アワビ漁を考える
※研究アワビの生育
海とひとびと
悠久へのたび |
110考古展示概要
111奥尻島の遺跡
120縄文時代
121海のみち
青苗遺跡―縄文時代
122石冠
123円筒下層式土器
124円筒上層式土器
126石棒
127石器-剥片石器
128入江式土器
129手稲式土器
130続縄文時代
132大狩部式土器
134兜野式土器
136恵山式土器 |
140オホーツク文化期
141オホーツク文化の足跡
青苗砂丘遺跡・宮津遺跡
オホーツク文化の渡来
青苗砂丘遺跡
奥尻島 宮津遺跡
142文明の十字路奥尻島
土師器の渡来
鉄器の渡来
交易品の生産
有栓弭形鹿角製品
青苗砂丘遺跡の調査
※阿倍比羅夫の失敗
143骨角器類の各種
144オホーツク式土器
145石器
146骨塚 |
150擦文時代
151青苗遺跡―擦文時代
※考察擦文人の海獣狩猟
152鉄製品の生産
153丁字頭勾玉
154貝塚出土遺物
青苗貝塚
155擦文式土器(深鉢)
156擦文式土器(甕)
157擦文式土器(杯)
300立体模型
310丁字頭勾玉
※考察丁字頭勾玉の持ち主 |
320奥尻島の記憶
330近代史
341津波
342津波の波及
344避難する人々
360津波
370避難と復興
371その後の新聞記事
400震災モニュメント
|
|
| |
松前から
01江差港へ
かつては、ニシン漁と北前船で賑わった港町でした。現在ではいろいろな観光地があります。
|
02奥尻フェリー
北海道では、フェリーターミナルには必ず無料の町営駐車場があり、ここでもそれを利用しました。土地がいっぱいあるからですかね。
本州ならきっちりと、高額駐車料金を取られるのにね。ありがたい話です。
江差港 奥尻フェリー時刻表 運行は奥尻→江差…江差→奥尻 で、一日往復一便の時は奥尻泊が必須。二便の時もレンタカーでないと帰れない。
9:40 港を出航すると、2時間20分で奥尻港に着きました。
奥尻港
奥尻港 |
鍋釣岩 |
 |
町営バス
奥尻バスは全て町営 |
青苗に向かって |
|
※津波館に行くには、始発のフェリーに乗り、上出のバスか、事前予約のレンタカーを利用します。
バスは終点まで行くと引き返してきます。そのバスに乗らないと最終フェリーに間に合わず、奥尻での宿泊が必要です。
そして、次のバスが来るのは、もう、昼寝しててもいいくらいに遅いです。館内を4~5回位写真撮って回れます。
で、このバスに乗ると、その日のうちに江差には帰れない。
北部の稲穂ふれあい研修センター( 考古資料館)は 木曜と土曜のみ開館なので、事前にレンタカーを予約して、両館を回れるよう計画するか、
奥尻にお金を落として支援する意味で、宿泊するのもよいでしょう。料理民宿もあるようです。
私はこの日、料理民宿は取れなくて、民宿Uターンの主人が必死に探していただいた奥尻港小林民宿に宿泊しました。
江差からの労働者が沢山泊まっていたそうですが、誰にも会わずに翌朝までぐっすり。夕食は近くのコンビニで買いました。
|
03奥尻港 |
04鍋釣岩(なべつるいわ)先の地震で少しいびつになりましたが、しっかり姿をとどめています。
|
| |
奥尻島津波館
|
※奥尻町にある津波に関する展示施設の正式名称は「津波と震災の記憶を未来へ 奥尻津波記念館」です。
この施設は、北海道南西沖地震で甚大な被害を受けた奥尻島の経験を後世に伝え、災害への備えを呼びかけることを目的としています。
館内では、地震発生の経緯や津波の状況、被害の記録、そして復興の道のりなどが展示されています。
※町立施設のようで、施設運営はきっとかなりの負担なのではないかと思います。年間1億円ほどの支出かと思います。
※しかし、防災の意味ではこの館の津波記念館の役割は大きいと思います。 |
|
10津波館外観

とても殺風景なところにあります。 |

付近は居住禁止区域だと思うのですが |

もし再度津波があれば、館員は助からないかも。 |

館員は津波警報が出ると自動車で北へ |

逃げるように指示されている。間に合わねー |
客がいたらその救援のために、館員は逃げられない。命がけの業務ですが、 |
|
20入口展示 津波コーナー
 |
津波爪痕 |
青苗地区の状況写真 |
震災前の青苗地区
 |
震災直後火災発生中
 |
復興後の青苗地区
 |
津波で漂流した標柱
|
北海道南西沖地震による津波で、さらわれた奥尻島の工事標柱が、同じ日本海に面した兵庫県浜坂町に漂着した。
白いペンキが一部剥がれ落ちるなどかなり痛んでいたが、
『工事名奥尻島線道路災害防除工事その2』『発注者、函館土木現業所』などの文字がくっきり残っていた。
標柱は一旦サハリン沖まで流された後、大陸沿岸、朝鮮半島に沿って南下、福岡沖で再び津島海流に乗って浜坂町の海岸にたどり着いたと見られる。
※この標柱が展示されているわけを考えてみると、津波の行方不明者も、このような経路で流されたことを意味しており、単なる棒杭ではなく、
不明者を象徴している漂流物という意味だと解釈します。 |
|
30北海道南西沖地震の被害の概要
|
発生日時 |
1993年,平成5年7月12日(月曜日)午後10時17分 |
|
主データ |
北緯42度47分、東経139度12分 |
|
|
震源深さ34km、マグニチュード7.8 |
|
被害状況 |
人的被害
死者202名(内奥尻島内は172名)
行方不明者28名(同26名)
建物被害
全壊601戸(うち奥尻島内は437号)
半壊408個(同88戸)
一部損壊5488戸(同827戸) |
地震震源地 |
地震震源域 |
地殻の構造 |
地震の原因 |
 |
北米プレートが突如せりあがり
海水を一挙に押しあげ、津波が発生した
|
津波の東進 |
奥尻島の海底構造
 |
深海で起こった波動は、水深の高さのままで、
島西急斜面をせり上がり、
島東に回った波は浅海を高い波を立てて押し寄せ、巨大津波となった。 |
大きな被害を受けた
 |
こうして、
津波は島全体を包み込み
全島を襲う大災害となった。 |
|
| |
|
1993年7月12日午後10時17分の北海道南西沖地震は、私にとって大変印象深いものでした。
朝日放送の久米宏のニュースショウを見ていると、第一報が入り、次に水中写真家中村征夫氏が青苗の民宿から地震直後に宿の主人からすぐに逃げろと言われて逃げた。の一報が入り、その後、民宿の人はどうなった。なぜ宿の人も一緒に逃げなかったのか
とのクレームも入った。
一方、NHKはたまたまテレビクルーが入っていて、青苗市街地を見下ろす北側の段丘上から、赤々と炎をあげて燃え広がる市街地を前に、沢山の避難民と共に女性アナウンサーが長時間にわたって中継放送をしていた。
火に包まれ、津波の侵入する青苗の集落を前に、多くの人々がなすすべもなく声をあげ、ただずんでいた。
また、後日、流された家の屋根に乗っていた女性が助けられたとか、
若い母子の姿を求めて、壊れた家の残がいで埋まった港の中を一列に並んだ百人ほどの潜水隊員が、潜水を繰り返して少しずつ進みながら遺体捜索をしていた。
悲惨な状況が次々と生中継され、緊張してテレビを見ていたことをよく覚えている。
その後ニセコスキー場へ毎冬通うようになったある年の朝、宿のテレビにあの時の女子アナが元気にレポートしているのを見ることができた。
それから30年後、2022年7月にやっと青苗地区を訪れることができた。 |
|
| |
| ここで一旦考古展示を掲載します。 |
| |
100考古展示コーナー
|
101時代解説全容 |
103奥尻島 アイヌ語名 いくしゅん・しり (いく=向こうの、しり=島)
似た地名に※幾春別(イ・クシ・ウンペト) =彼方の川。川はペツなので、彼方の=イクシウンとなりイ・クシ・ウン(ウンは冠詞かも)
 |
 |
 |
 |
|
|
IKU |
海のみち  |
勾玉物語 |
SHUN |
海とひとびと |
|
|
悠久へのたび |
SHIRI |
|
|
|
|
105
海のみち
|
おおむかし、
奥尻島に住む人々は、小さな船を巧みに操る梅の民でした。
彼らは北から、南から海の道を通ってやってきました。
今のように陸路はなく、
人やモノ、また文化の交流は海を舞台に行っていたのです。
島の遺跡から、北や南の文化につながる様々なものが発見されており、海の道の真ん中にある奥尻島が
人と文化の重要な中継基地であったことがわかります。 |
勾玉物語
|
海のロマンにみちたヒスイの勾玉は、
青苗遺跡の墳墓から出土したものです。
日本国内において最大級でかつ、玉の頂部に「刻み」が入っているのが特徴で、「丁字頭勾玉」と呼ばれています。
この勾玉は、ガラス玉や水晶玉と一緒に一つの墓から見つかっており、それらの玉とともに首飾りを形作っていたと考えられ、
副葬品として埋葬されたものといえます。
この葬られた人は島でも実力者の一人だったかもしれません。 |
時代解説
縄文時代
 |
早期
約800~6000年前
 奥尻島に人が住み始める
漁に石錘が使われ始める |
前期
約6000~5000年前

松江遺跡※1の住居跡群
東釧路Ⅳ式土器文化
AI記述は全て間違い |
中期
約5000~4000年前
 円筒土器文化が栄える
青苗の集落栄える |
後期
約4000~3000年前

東風泊※2で
手稲式土器文化栄える
AI記述は全て間違い |
※1 松江遺跡は奥尻町松江447の松江原野1号道路工事で発見された遺跡。初松前という集落。旧松江小学校裏手。
※2 東風泊遺跡は、奥尻島北部の奥尻町宮津。細い川の河口の両側にある。
※3 青苗で交易が盛んに
この頃の交易は、相手との言葉は通じず、沈黙交易であった。
「沈黙交易」については、新典社新書61「瀬川拓郎 アイヌの沈黙交易 ―奇習をめぐる北東アジアと日本―」を参照されたい
|
まとめ 奥尻島の縄文時代 (上記 時代解説 を表にまとめたもの)
| 【早期】 |
| 【前期】 |
| 【中期】 |
| 【後期】 |
| 【晩期】 |
| |
続縄文
時代 |
| |
擦文
時代 |
|
| 約8000年前~6000年前 |
| 約6000年前~5000年前 |
| 約5000年前~4000年前 |
| 約4000年前~3000年前 |
| 約3000年前~2300年前 |
| |
約2300年前~1200年前
|
| |
| 約1200年前~800年前 |
|
|
| |
| |
| (次々と異なる土器文化人が集団で到来し |
| 異なる文化層を築く。先住の集団とは住み分け |
| たり、消滅した文化の跡に入植したようだ) |
| |
| |
(2つの異文化集団が交わらずに狭い青苗で並立し
ていた?古い在地系大狩部に接触した新恵山式) |
| |
| |
|
|
海とひとびと
|
豊かな海に囲まれた奥尻島は古くからまさに宝の島でした。
今から約八千年前の石錘(漁網のおもり)がまとまって発見されており、島の人々は古来から海と共に暮らしていたことがわかっています。
青苗遺跡※からは、一千年前のアワビの貝殻や海獣の骨、また鋼鉄製の銛、ヤスなどの道具が見つかっています。
特にアワビの数は多く、交易品の1つとしていた可能性もあり、この時代から産業として漁業を行っていたということがいえます。
※青苗貝塚遺跡を指している。
青苗遺跡 北海道奥尻郡奥尻町字青苗435番 青苗遺跡は青苗遺跡群を指している。 |
|
※おわび
津波館は、津波災害の展示館であり、やはり、考古遺物の専門的な展示館ではありませんでした。
考古展示を見て回り、写真を編集していても、 少なくとも私には奥尻島の考古学的な全容は、 ぼんやりとしかわかりませんでした。
しかも、分からないまま、2次3次編集までしていました。
そして、長々と考察した内容が、どうやらおかしいまま、次の、奥尻島稲穂研修センターに進んだところ
私の時代錯誤による、誤解が判明し、只今からの4次編集・5次編集で完全な書き直しをすることにしました。
そのためには、どうしても奥尻島の考古学史を理解する必要があり、奥尻町教委の「遺物・遺跡」
を拝借し、全容を明確にさせて頂きます。 |
青苗地区の遺跡
※青苗遺跡という表現は、青苗地区にある全ての遺跡を総称したもののようです。
奥尻島 青苗地区
遺跡は青苗地区に集中している

by google map |
|
| 青苗遺跡A地区 |
(縄文前期) |
| 青苗B遺跡 |
(続縄文時代) |
| 青苗遺跡C地区 |
(不明) |
| 青苗遺跡F地区 |
(縄文早期) |
| 青苗砂丘遺跡 |
(オホーツク時代) |
| 青苗貝塚 |
(擦文時代) |
| 砥石遺跡 |
(縄文中期) |
|
|
引用奥尻島の遺物・遺跡 奥尻町教委
|
|
| 約8,000年前(縄文早期)後氷期の寒冷期。石組炉、多数の石器(漁網用石錘を含)、貝殻文土器出土 |
|
|
|
| 約6,000年前(縄文前期)~山の恵みに育まれた時代 温暖化期(ブナ、ミズナラ、トチノキ、クリetcなどの繁茂) |
| 温暖化により堅果類が収穫され、調理用石器(磨石・北海道式石冠)が何百点も出土する。廃棄物の埋葬儀礼も行なわれる。 |
| 円筒土器文化が広がり、堅果類の保存に使われた。 |
|
|
|
| 約4.500年前(縄文中期)~集団墓地現われる |
| 後氷期温暖期が終わり、徐々に寒冷化に向かう。堅果類が減少し、北海道式石冠が減少する。 |
| 生活資源に困窮した集団が道内を移動し、奥尻島にも来て異なる文化を持ち込んだ。 |
| 生活形態や集落形態が変わり、集団墓地が出現する。(同時期の本州でもやや遅れて同じことが起こる。環状列石の出現) |
| 集団墓地は、様様な集団を結びつける祭祀の場として機能していた。 |
|
|
|
| 約2,200年前(続縄文時代)~海を介した交易が始まる |
| 交易用品の作業場が見つかる。沢をはさんだ南側では魚類や海獣の加工品を生産し、北側では特産の頁岩を加工した。 |
|
|
|
| 約1,300年前(オホーツク文化期)~壮大な南北交流の時代 |
| この時代は様々な民族が往来する場所であった。 |
| 青苗砂丘遺跡からはオホーツク人の遺物(オホーツク式土器,多角形の住居跡など)が出土 |
| |
| 勾玉は青苗遺跡の東側(青苗砂丘遺跡※)、海岸段丘の縁で見つかった墓から出土しました。墓は石囲いがあり、この時代の北海道地方の墓としては独特のつくりになっています。勾玉は、被葬者の胸のあたりから発見され、勾玉の他、ガラス玉、水晶玉、水晶製切子玉、石製玉も見つかっています。頭部の上の方からは鉄製の直刀が発見されました。引用「丁字頭勾玉」 |
|
|
|
| 約1,000年前(擦文時代)~青苗貝塚の時代(北日本最大の貝塚) |
| アワビ漁とアシカ漁の時代。干しアワビとアシカの毛皮を本州との交換材にした。 |
| 交易で本州から得たクズ鉄=銑鉄を精錬※して鋼を作り、海獣狩猟の銛やヤスなどの漁具を製作していた。 |
奥尻島の擦文土器は形と文様が島独自の意匠で本州の土師器の影響濃厚。
青苗貝塚の骨角器は擦文時代最大の質と量だった。 |
|
その他の遺跡
|
※以上の整理によって、初めて奥尻島の考古遺跡についての全容が、私の中で、少し整理されました。
※資料 銑鉄の精錬
|
鉄の精錬遺構 ―青苗貝塚に於ける― 引用「奥尻島青苗遺跡」
少々長くなりますが、引用します。
|
➀青苗貝塚遺跡は○○寺北側の寺屋敷段丘の急斜面にある。台地の遷急点から東南の斜面にかけて貝層が存在する。(中略)
貝塚に擦文土器,骨角器,鉄器を包含し,貝層下の再堆積層に円筒上層・下層式土器,最下層の奥尻ローム層から縄文早期・前期の貝殻文,絡条体圧痕文土器等を出土する。
②貝塚の北側,標高24m~28mに貝塚台地地点がある。貝塚と一連のものであるが,道々奥尻島線の左右の道路際と三叉路付近にかけて擦文文化期の鉄の精錬遺構,小鍛冶址,木枠を囲った湧水溜,小貝塚などの生産址が発見されている。
③また東南の畑地に崖縁を取り巻くように,凡そ1mほどの高さと幅をもつ土畳状のものが見られ,30mX25mほどの窪地になっている。
昭和6年の深瀬の報文にある「住居址は貝塚の直上にあって,幅約20間,奥行15間の土畳によって取り囲まれている山であろう。
住居址かどうか確認されていないが,最上層の覆土に大量の擦文土器を包含している。
④貝塚台地の南端から南西60m~130mの崖際に筆者らが,山本台地・懸崖地点と呼ぶ地点がある。後背地は畑地で西へ40mの幅員で,北に向う標高28mの等高線が町道に接するまでの東の緩斜副手小貝塚,墳墓,投棄溝等が認められた。
なお本地点は昭和50年3月,北海道教育委員会・高橋稀一,上ノ国教育委員会・松崎水穂らの分布調査で発見された。
墓所前三叉路地点は旧千畳遺跡,千畳2遺跡,カべ山遺跡を包括した地点である。
青首2貝塚は西本願寺門前にある続縄文文化の貝塚である。 【引用終わり】 |
|
まず、
➀から青苗貝塚からは、縄文早前期の貝殻文土器、絡条体圧痕文土器が出土している。その頃からの廃棄場だったのだろうか。
※青苗遺跡(群)は縄文早期~前期と、擦文時代とされるが、前期中期の円筒下層上層土器が出土し、中期も現役だったと分かった。
②から、鉄精錬遺構、小鍛冶場、湧水の水槽、小貝塚などの生産跡 が出土している。
精錬遺構の詳細は不明だが、渡島半島の恵山では製鉄・精錬遺構が出土しているので、精錬技術の存在は不思議ではない。。
精錬炉は
精錬炉は目的と機能から円筒炉(竪型炉)だったと思われます。扱いや生産が楽で、小規模生産に向いた炉です。
原材料は
あちこちの文献に色々なことが書かれています。装身具を鋳直した、くず鉄、などですが、下の152で製鉄用鉄素材が出土しています。
鉄素材や、銑鉄、などをキューポラ炉のように、初期投入の大量の木炭の熱と、後から投入する鉄素材と木炭によって溶解脱炭したのです。
この鉄素材・銑鉄(鉄鍋の破片)・くず鉄をどこから仕入れたか。恵山岬だろうか。本州か。津軽半島から入手したようです。
恵山岬の製鉄
恵山岬では砂鉄が豊富に採れたため、これを素材に製錬して鉄を取り出し、更に精錬して純度の高い鉄を生産した。
小鍛冶場は
精錬された鉄を使って、鉄製品を作る場所。鍛冶屋さんですね。
次に、
③から砂丘上部に住居跡が発見され、④からは貝塚台地の南端に貝塚と墳墓と投棄溝があったとされ、この墳墓から丁字頭勾玉が出土した。
|
|
※アワビ漁を考える
|
※考察 青苗貝塚のアワビ漁
アワビの食藻は昆布やワカメ。漁は潜り漁か、舟の上から海底を三本爪の銛で突いたのだろうか。
しかし、ガラス板がなかったので箱眼鏡は使えず、顔を海水に漬けて片手で筒を作り片目に筒あてがって裸眼で海底を覗いたのかも知れないが、
波があるので一筋縄ではアワビは見つからなかっただろうし、それを三本爪銛で突くのはもっと困難。やはり冷水の潜り漁だったのだろうか。
アワビの貝殻ばかりの貝塚ということは、北の海女、あまちゃんのあたりでも夏場の一時しか漁はできないのに、いったいどのように
大量のアワビを採取していたのだろう。
アワビの採取は、潜り漁か 銛漁か? |
※資料 冷水に潜る先住民
アルゼンチンの最南端の原住民
AI による概要
アルゼンチンの最南端地域にかつて住んでいた原住民は、**ヤーガン族(ヤマナ族とも呼ばれる)**です。
ヤーガン族は南米・フエゴ島の南の島々からホーン岬にかけて暮らしていた先住民族で、世界で最も南に位置する民族とされています。
都市「ウシュアイア」の名前もヤーガン族の言葉に由来しており、「入り江の西」を意味すると言われています。
南極圏の島
フエゴ島やホーン岬は南極圏に属し、ホーン岬は航海の難所。常に荒天、激しい海流、暗礁。帆船の墓場。知床岬よりもっと冷水。
南極を取り巻いて流れている風の流れ。 と同じように、南極を取り巻いて流れる海流。がある。
ヤーガン族について
居住地:
フエゴ島の南の島々からホーン岬にかけて生息していました。
生活様式:
カヌーを使い、島々を移動しながら狩猟採集生活を送っていました。男性はアシカを狩り、女性は海に潜って甲殻類を集めていました。
ヤーガン語:
ヤーガン族はヤーガン語(ヤマナ語)という孤立した言語を話していました。
現在の状況:
最後の純血のヤーガン族であるクリスティナ・カルデロンさんは2022年に亡くなり、これによりヤーガン語の純粋話者も地球上から
消滅したとされています。
ウシュアイアとの関係
・現在のアルゼンチン最南端の都市「ウシュアイア」は、元々この地で暮らしていたヤーガン族が「湾の終わり」という意味で呼んでいた
言葉が地名の由来となっています。
・ヤーガン族が住んでいたフエゴ島、特に最南端の街ウシュアイアには、現在でも彼らの存在を示す博物館などがあります。
ヤーガン族の減少
ヤーガン族は漁撈・狩猟民族で、いわゆる新石器人でした。イギリス人開拓者が南米を南下し、この地にまできて牛の放牧を始めたため、
ヤーガン人はこれを知らずに牛を狩猟し、イギリス人によって次々と撃ち殺され、人数が激減しました。
※フエゴ島の気候環境 (南極圏)
AI による概要
フエゴ島(ティエラ・デル・フエゴ)の気候は、一年を通じて冷涼な西岸海洋性気候(Cfc)です。夏でも最高気温は摂氏15度程度で涼しく、冬の7月は最も寒い時期で最低気温が氷点下2度程度まで下がるものの、緯度の割には極端な寒さではありません。ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfc)に分類され、気候の年較差が小さいのが特徴です。
気温
・年間を通して冷涼:夏でも最高気温が摂氏15度程度であり、冬は氷点下になることもあります。
・夏の平均最高気温:1月は平均最高気温が13℃、11月から3月までの夏期は11℃を超えます。
・冬の平均最低気温:7月は平均最低気温が-1℃から-3℃程度です。
・極端な最低気温:過去には最低気温が-21℃を記録した例もあります。
気候区分
・ケッペンの気候区分:西岸海洋性気候(Cfc)に属します。
・海洋性気候の特徴:気温の年較差が小さいため、海洋性気候の性質を持っています。
季節の特徴
夏 (12月~3月):
暖かい季節となり、1日を最大限に活用できる活動的な旅行に適しています。
冬 (6月~8月):
氷点下まで冷え込み、雪が降るためスキーなどのウインタースポーツが楽しめます。
※西岸海洋性気候(Cfc)とは
夏季短期かつ気温も上がらないCfcは
月平均気温10℃以上に達する月が1年のうち3か月もしくはそれ以下で、1年のうちで9か月以上(最大なら11か月)も冬季(寒候期)で占めて
おり、温帯でも極めて冷涼なのが特徴であることから、極温帯気候と呼ばれることがある。
また、1年のうちの大部分が冬季で占めている上、夏季短期かつ冷涼の条件が亜寒帯気候(Dfc・Dfd、亜寒帯北部の気候)の条件とよく似て
いること、植生面でも亜寒帯気候との共通点も多いことから、海洋性亜寒帯気候、もしくは、海洋性亜北極気候と呼ばれることもある。
※この地域は亜寒帯気候である。
※日本の亜寒帯気候の地域
AI による概要
日本の亜寒帯気候(冷帯)の地域は、北海道のほぼ全域と、東北地方の内陸部。夏は冷涼で冬の寒さが厳しい特徴があります。
|
結論
北海道はヤーガン族のいたフエゴ島と似た気候帯に属し、それでも、奥尻島は北上する対馬暖流の中に位置します。
アワビの採取には骨格製や鉄製の“アワビ起こし”で岩に張り付いたアワビを力まかせに剥がして採取します。
奥尻島のアワビの貝塚は、この潜り漁で採取したのかもしれません。
ホッキ貝のような二枚貝ではないので、船上から海底を覗いて、三本爪銛ではさんで剥がすのは名人芸です。
南米ホーン岬のヤーガン族と同様に、氷海に潜って採って来たのではないでしょうか。
フィルムに記録されたヤーガン族の女性は大柄で、胸郭が大きく(肺活量が大きい)、一様にみんな肥満していて、冷水への潜水を、
皮下脂肪をウエットスーツ代わりに 潜り漁をしていたものと思われます。
そして、同じことが、奥尻島のアワビ漁でも行なわれていたのではないかと想像しました。 |
結論2
上のように結論付けると、下の「海とひとびと」の中の「一千年前のアワビの貝殻」は潜り漁かもなと思われるのだが、
・「142土師器」の「鉄の渡来」では、続縄文時代に本州から持ち込まれた鉄製品を鋳直して(精錬脱炭して)銛やヤスを作っていた。とある。
「アワビをヤスで獲る」と検索すると、ADEAC【〈アワビ〉】では、
「漁具は最初は三本ヤスで、昭和四十年代からカギで採る人も増えた。最近ではハサミで採っている。」
「 アワビの漁期は九月中旬過ぎから翌年二月までで…」とある。
・すると、擦文時代には鉄製の三本爪銛で、力まかせに海底から引っかけて剥がしていたということになる。
昭和40年代には箱眼鏡を口に加え、右手の一本爪カギで引っかけて剥がし、それを左手の長いたも網ですくって獲る。
さらに最近では二本爪のハサミではさんで引き剥がし、そのまま引き揚げる方法に進化しているという。そして漁期は冬。
・「青苗遺跡」では、遺跡の存在期は縄文時代早期~後期および擦文時代とし、
擦文時代には、墳墓や(青苗)貝塚が作られ、付近にはオホーツク文化の遺跡(青苗砂丘遺跡)も見られるとしている。
・「青苗貝塚」からは、貝殻(アワビ,ホタテ,タマキガイ)魚骨(カサゴ,カジカ)海獣類(アシカ)の骨などが重なって見つかりました。
特にアワビは全体の大部分を占め、昔から奥尻島はアワビの名産地でした。古代における貝塚としては道内最大規模とされています。
|
アワビの生育期間は、一般的に食用サイズ(殻長7cm程度)になるには約5年かかり、寿命は10~20年程度とされます。
クロアワビやメガイアワビは10年程度、マダカアワビは20年程度が目安で、天然では成長が遅いです。
成長段階と期間
孵化から3~4年後::食用となる殻長7cm前後の大きさになることが多いです。
5年後::多くの漁獲対象となるサイズに成長します。
7年後::13~13.5cm程度まで成長する個体もいます。
10年後::15cm程度にまで成長することがあります。 と、ある。
大量のアワビの貝殻でできた貝塚の形成には、奥尻島周辺が浅海の岩礁底。海藻類の大量繁茂。広大な漁場が必要です。
以前、ナガレコといわれる小さなアワビが売られていましたが、15cmに10年掛かるとなると、どのようにして資源を確保したのだろう。
島の周辺の、東側海底がなだらかなので、漁場となっていたのだろう。
青苗貝塚の住人が独占的に島周囲のアワビ猟と海獣猟を行なっていた。彼らはきっと島の支配権を牛耳っていたのでしょう。 |
|
・そうすると、
「青苗貝塚」は、擦文時代に形成された、奥尻島のアワビを主体とする主な貝塚、です。
この遺跡は国内最大規模の古代の貝塚とされ、アワビなどの貝殻のほか、魚骨や海獣骨、土器、が出土した。そして、近くの、
・「青苗遺跡東側の海岸段丘の縁で見つかった墳墓」から、
「丁字頭勾玉」と呼ばれる価値の高い遺物が出土しています。青苗遺跡の近くの墳墓が発見地でした。
・さて、
擦文時代の青苗では、鉄製の、三本爪鉄銛か、鉤銛か、で引っかけて獲っていたかもしれない。いやそうに決まっている。きっとそうだろう。
・では、
どのようにして、海底をクリヤーに覗いたんだろう。きっと箱眼鏡や水中メガネに代わるものがあったのだろう。
・裸眼で水中を見る方法
この方法を見つけなければ、人類は、潜り漁も、突き漁もできない。
水中で手の平を丸めて筒を作り、目にあてがって息を吹き込むと、目の前にできた僅かな空気溜りで水中をはっきり見ることができる。
実用的には、掌でもよいが、空気を溜める筒は、竹筒などを使いやすく加工したかもしれないし、土製品で作ったかもしれない。
私は奥目なので水の中で息を吐くと、目の前に空気が溜まる。手を使わなくても見える。もちろん手で筒を作れば安定する。
先日の東京国立科学館のDNA展で、礼文島の複顔女性像があった。水深20~30mの海底から貝を採取していた琉球人。どちらも私同様奥目だ。
そこに何らかの共通点があるのかもしれない。
ただし、弥生時代以降、済州島から列島に来た女性海女が日本中に素潜り術を広めてまわったという。半島モンゴロイドはのっぺり顔で、
目の前に空気は溜められない。そこには筒とか、水中で吐いた空気を眼前に溜める工夫があったのでないだろうか。
まとめ
中世、擦文時代の奥尻島では、アワビ漁を主体とした漁撈と、海獣アシカ猟が行なわれ、これらは本州との交易品に加工された。
これらの狩猟には島内で精錬された鉄が銛やヤスに加工されて使用された。
※アシカオスは体長230~250cm、450~560kg、メス体長160cm、120kg絶滅種。 これらの採取や狩猟には鉄器が使用された。
私はアシカを知らず、オットセイと区別もつかず、可愛い動物かと思っていましたが、こりゃあ這いまわる凶暴牡牛だ。 |
※研究 アワビの生育
奥尻島ではなぜこんなにアワビが獲れるのか。アワビはどこにでも無尽蔵に生育しているのか。そんなことはあり得ない。
➀アワビはどこでも育つのか
AI による概要
いいえ、アワビはどこでも育つわけではありません。アワビは、潮通しがよく、海藻が豊富にあり、岩礁などの隠れる場所がある、水深50m程度までの暖かくない沿岸海域に生息します。アワビの生息に適さない、波が荒すぎたり隠れ場所のない場所では自然に増えることはありません。
アワビが育つ場所の条件
岩礁と隠れ場所:
アワビは波で転がらない岩の下や岩の隙間、コンブやカジメなどの海藻が根元に生えている場所に隠れて生息します。
海藻(餌)の豊富さ:
アワビは主に海藻を食べて成長するため、餌となる海藻が豊富な場所が必要です。
潮通しの良さ:
潮通しが良い場所はアワビの餌となる海藻も豊富に育ち、アワビも活発に活動します。
水温:
アワビは比較的冷たい水域を好むため、北海道から九州の岩礁域に広く分布しています。
アワビが育ちにくい場所
岩礁や隠れ場所のない場所:
小さな石ころばかりの場所や、波で転がりやすい砂地では、アワビが隠れる場所がなく、海藻も生えにくいため、生息できません。
波が穏やかすぎる場所:
アワビは隠れる場所を好み、夜間に餌を求めて岩場を移動するため、隠れる場所が極端に少ないと育ちにくいです。
②アワビの繁殖
AI による概要
アワビの繁殖は、秋に親貝を刺激して産卵させ、受精卵から幼生を育てます。幼生は一定期間浮遊した後、珪藻を付けた板に付着し、
その後は配合飼料や海藻を食べて成長します。天然の放流個体と養殖個体を区別する方法として、殻の色が参考にされることがあります。
アワビの繁殖方法
1. 採卵・人工授精
産卵時期(9月~11月頃)に、親貝(オスとメス)を水槽に移します。
紫外線照射海水などの刺激を与えて、オスは精子を、メスは卵を放精・産卵させます。
これらを混ぜ合わせて人工的に受精させます。
2. 幼生期の飼育
受精卵は直径200~300μmの緑色の球形で、孵化後数日間は海中を泳ぎます。
浮遊期間の後に、アワビが好む珪藻を付けたポリカーボネート板(付着板)に付着させて生活を始めます。
付着生活が始まると、珪藻を食べて成長し、殻の色が珪藻の種類で決まります。
3. 稚貝期の育成
成長した稚貝は、波板から剥がされ、網いけすに移されます。
ここでコンブや人工飼料などを与えられ、一定の大きさ(約30mm前後)に育つまで飼育されます。
4. 放流と成長
一定の大きさに育った稚貝が、海へ放流されます。
放流後、天然の環境でさらに2~4年かけて成長し、漁獲対象の大きさ(殻長9cm以上)になります。
③奥尻島周辺は岩礁帯?
AI による概要
はい、奥尻島周辺は多くの岩礁と奇岩が存在する海域です。これらの岩礁地帯は潮通しが良く、アワビやウニなどの海の幸が豊富に生息しており、独特の景観を生み出しています。
岩礁帯の主な特徴
奇岩の点在:
なべつる岩やカブト岩など、ユニークな形の奇岩が海岸線に点在しており、奥尻島独自の景観を形成しています。
豊かな海の幸の生息地:
潮通しの良い岩礁地帯には、アワビやウニなどの貝類や魚類が生息し、奥尻島が海の幸の宝庫となる理由の一つです。
④奥尻島周辺は海藻が豊富?
AI による概要
はい、奥尻島周辺はワカメや昆布などの海藻類が豊富です。かつて朝廷への献上昆布とされていた「ホソメコンブ」は幻の昆布としてブランド化の取り組みが行われており、有機認証を受けた「奥尻島の養殖ワカメ」も特産品となっています。複雑な海岸線を持つ奥尻島は、海の幸の宝庫であり、豊かな自然が育む海藻類が島を支える産業の一つです。
海藻の種類と特徴
ホソメコンブ:
奈良時代には朝廷への献上昆布とされ、濃厚な味が特徴の「幻の献上昆布」としてブランド化が進められています。
ワカメ:
奥尻島で栽培されるワカメはJAS有機認証を受けており、国内外で高く評価されています。
天然岩海苔:
寒冷な冬の時期に手作業で採取される天然岩海苔は、香ばしい風味が特徴で、お吸い物などに最適です。
海藻が豊富である理由
豊かな自然環境:
対馬暖流の影響を受ける温暖な気候と、ブナ原生林からの湧水に恵まれ、海藻の育成に適した環境が整っています。
複雑な海岸線:
島の周囲の複雑な海岸線が、様々な海藻が育つ豊かな藻場を形成しています。
海藻を活用した取り組み
ブランド化:
「奥尻ブルー」と称される美しい青色にちなんで名付けられた「碧/ao」シリーズの製品開発など、ホソメコンブのブランド化が進められています。 |
まとめ
奥尻島青苗貝塚で発掘された1000年前のアワビ殻の山は、奥尻島の置かれた好条件によって生育した貝類の豊富さに起因する。
北流する対馬暖流にさらされた沿岸岩礁地帯には、海藻類が繁茂し、されを食藻にする貝類か゛繁殖し、更に多種多様の魚類が集まり、
それら魚介類を餌とするアシカが集まる。
アシカを獲ることは、漁獲を確保することであるし、貝類の中でも多肉で知られるアワビの漁獲を守ることでもあった。
アシカもアワビも、加工によって毛皮や干しアワビとして、高価値であり、交易材として高く評価されるものであった。
擦文時代(7~13世紀、飛鳥~鎌倉時代後半)に入って、くず鉄が流入するようになり、また、島内で鉄の精錬が可能となり、
鉄器が豊富となることによって、アシカ・アワビの漁獲量が高まり、海洋交易が盛んとなって繁栄することになった。
大きな動物であるアシカの捕獲技術も高まって、毛皮として流通できる場所を狙って銛を打つようになり、毛皮の価値も高まったであろう。
また、アワビの捕獲も、技術を高めて、一本銛、三本爪銛、アワビ起こしなど、工夫して収穫されたであろう。 |
|
海とひとびと
|
豊かな海に囲まれた奥尻島は古くからまさに宝の島でした。
今から約八千年前の石錘(漁網のおもり)がまとまって発見されており、島の人々は古来から海と共に暮らしていたことがわかっています。
青苗遺跡からは、一千年前のアワビの貝殻や海獣の骨、また銛、ヤスなどの道具が見つかっています。
特にアワビの数は多く、交易品の1つとしていた可能性もあり、この時代から産業として漁業を行っていたということがいえます。 |
悠久へのたび
|
発掘された遺跡や遺物は、長い悠久の時を越えてそのロマンあふれる歴史を今、私たちに語りかけてきます。
約八千年前の縄文時代、早期から約八百年前に終わった擦文時代まで本州の南の文化、北からの文化そして
様々な民族が駆け抜け、その足跡を残していきました。
この奥尻の島は、民族のCROSS ROADであったと言えるかもしれません。 |
|
| |
110考古展示概要
|
111奥尻島の遺跡
|
海と共に生きる
奥尻島の遺跡
奥尻島は比較的平らな地形ですが、海岸線を中心にいくつかの段丘が発達しています。この島では、青苗遺跡をはじめとする29ヶ所の遺跡が発見されています。
縄文時代早期~中期末は海岸に沿った段丘上が生活の場でした。
縄文時代後期~晩期は、段丘下の、より海岸線に近い場所が中心になり、
続縄文時代になると、遺跡や時期により、その立地条件が海岸段丘上や段丘下などと異なってきます。
このことは、その暮らしの中で、ある種の専門化・分業化が始まったことを示しており、それが本格的な海の暮らしに適応した擦文人の生活に発展していくのです。 |
|
| |
112津波館文化財展示(勾玉ものがたり)説明
奥尻の遺跡
|
島には約8000年前から人間の痕跡があります。そして32カ所の遺跡が確認されています。
北部には宮津遺跡や東風泊1遺跡。南部には青苗遺跡を始め、米岡2遺跡、青苗砂丘遺跡など各地に認められています。
最も古い時代の遺物が出土した遺跡は青苗遺跡で、今から
約8000年前の土器が展示してあります。
この土器を貝殻文土器といいます。理由は2枚貝の背の部分を、押し付けたり、引っかいたりして文様を描く土器だからです。
約7000年前から、縄目の文様(縄文)を施す土器が使われるようになり、その時代が今から約2300年前まで続きます。
この時代の代表的な遺跡は、青苗遺跡のほか、東風泊遺跡があり、
ここからは3500年前の大津式土器(縄文後期)や手稲式土器が多く出土しています。
この頃の代表的な石器として、北海道式石冠があります。これは木の実をすり潰す道具として使われていたものです。
今から約2300年前、本州では稲作農業を特色とする弥生時代が始まりますが、奥尻島を始めとする北海道では、海の幸、山の幸が豊富である
ため、縄文時代と同じ生活スタイルが続きました。
この時代を続縄文時代と言い、この時代の遺物が青苗B遺跡や東風泊遺跡、米岡2遺跡から発見されています。
この時代の土器は、
より古い時代の土器を青苗B式土器といい、青苗B遺跡から沢山出土しています。
比較的新しい時期のものは恵山式土器といい、米岡2遺跡・東風泊2遺跡などから多く見つかっています。 |
津波館文化財展示(勾玉ものがたり)説明
奥尻島の遺跡
 |
|
|
| |
120縄文時代
|
121
海のみち
|
おおむかし、
奥尻島に住む人々は、小さな舟を巧みに操る海の民でした。
彼らは北から、あるいは南から、海の道を通ってやってきました。
今のように陸路はなく、人やモノ、また文化の交流は海を舞台に行っていたのです。
島の遺跡から、北や南の文化につながる様々なものが発見されており、海の道の真ん中にある奥尻島が
人と文化の重要な中継基地であったことがわかります。 |
大いなる慧に育まれて
青苗遺跡―縄文時代
|
青苗遺跡は北海道を代表する重要な遺跡です。
特に縄文時代の前期から中期にかけて円筒土器文化が栄え、青森県三内丸山遺跡や南茅部町の遺跡群などとともに、この時代の代表的な遺跡です。
数多くの住居址や土器・石器などの遺物がまとまって大量に出土しており、祭りなど特殊なことを行う場もあったことが推測できます。
こうした大規模な遺跡群があった背景には、それを支えるだけの海の幸、山の幸など、自然の恵みが島にあったからだと言えるでしょう。
縄文時代の奥尻島は、想像以上に豊かな島であったようです。 |
津波館文化財展示(勾玉ものがたり)説明
|
縄文時代・青苗遺跡の説明
豊かな海の幸、山の幸に恵まれた島、奥尻島では、人々が様々な海の幸や山の幸の恵みを受けて生活してきました。特に縄文時代の中頃の遺跡は数多く、当時の奥尻が、北海道全体を見ても大変栄えていたことがわかります。
この時代に使われていた土器は円筒土器と言い、その中で、古い時代のものは、円筒下層式、新しい時代のもの、円筒上層式と言います。
共にものを蓄えるのに、便利な安定感のある筒形の土器です。この時代、植物質の食料加工技術が大変発達し、それらを貯蔵するための器として、大形の土器が発達しました。一方、狩りや漁の道具である様々な石器も発達し、島で産出される頁岩と言う石を加工して石鏃や石槍、皮なめしの道具であるスクレイパー(掻器)などが作られました。
豊かな恵みは、生活にゆとりをもたらし、様々な玉類が作られるようになりました。ここに展示している装飾品はヒスイなどを加工したもので、呪いや祈りの時に使われたものでした。古代、ヒスイの緑は植物の色、命の色であり、後の時代の玉類である勾玉の祖先とでも言うべき、玉類がたくさん作られたのです。
また、この時代の命に対する信仰を物語るものとして、石棒(せきぼう)があります。これは男性精器を模したもので、豊穣や多産、子孫繁栄の願いを込めた祈りの対象でした。 |
津波館文化財展示
(勾玉ものがたり)説明
 |
|
|
122石冠 縄文時代 青苗遺跡
石冠
縄文時代
青苗遺跡 |
 |
|
123円筒下層式土器 縄文前期 青苗遺跡

左端が前期
他は中期 |
円筒下層式土器
縄文前期
青苗遺跡
 |
 |
 |
|
124円筒上層式土器 縄文中期 青苗遺跡
|
| 125円筒上層式土器 縄文中期 青苗遺跡
|
126石棒 縄文中期 青苗遺跡
|
127石器
剥片石器各種 縄文時代 青苗遺跡他
|
128入江式土器(十腰内系土器、入江高砂貝塚・縄文後期前葉) 縄文後期前葉 約4,000年前 青苗遺跡
※縄文後期の道南の土器型式
|
縄文時代後期の土器群について概観してみよう。
まず、後期前葉の道南部では、東北地方北部から波及した十腰内系文化の強い影響を受けた土器がみられる。
円筒形や頸部のややくびれた鉢形の器形で、波状の口縁をもち、沈線文、S字状入組文、それに磨消縄文で文様を描く涌元式土器である。
次の段階は曲線文、入組文の多くなる虻田町入江貝塚を標式とする入江式土器である。
後期中葉になると、全道的に斉一性のある土器がひろまる。深鉢や浅鉢の口縁部に横に数本の沈線が入れられ、それを縦の沈線で区切る手法や、沈線文で雲形に区画したなかを磨り消す磨消縄文が極度に発達し、後半には曲線文や入組文、短刻文、それに突瘤文なども加わってくる。 |
入江式土器
縄文後期
青苗遺跡
 |
 |
 |
入江式土器
縄文時代後期(約4,000年前)木の棒で渦巻や波型の文様をつける。昭和25年、発掘調査で見つかった土器の一部は、これまで発見されていない特徴を持っていたことから、遺跡の名をとって名づけられました。
引用「入江貝塚公園」
※入江高砂貝塚遺跡は、北海道虻田郡洞爺湖町入江190-3にあり、縄文前期から晩期にかけての住居域,墓域,貝塚で構成される遺跡です。 |
※入江貝塚 北海道虻田郡虻田郡洞爺湖町(旧虻田町)190-108 入江・高砂貝塚の一部
内浦湾を望む標高10メートルから20メートルの台地上に位置する、縄文時代前期末から晩期中葉にかけての貝塚を伴う遺跡。
2021年、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。
裸地に貝殻や動物骨が露出した、遠くから見ると雪が降ったかのように白い丘陵が貝塚。
※入江式土器 引用「後期の土器」
後 期前葉の道南部では、東北地方北部から波及した十腰内系文化の強い影響を受けた土器がみられる。
円筒形や頸部のややくびれた鉢形の器形で、波状の口縁をもち、沈線文、S字状入組文、それに磨消縄文で文様を描く涌元式土器である。
つぎの段階は曲線文、入組文の多くなる虻田町入江貝塚を標式とする入江式土器である。
後期中葉になると、全道的に斉一性のある土器がひろまる。
深鉢や浅鉢の口縁部に横に数本の沈線が入れられ、それを縦の沈線で区切る手法や、沈線文で雲形に区画したなかを磨り消す磨消縄文が極度に発達。
後期後半には曲線文や入組文、短刻文、それに突瘤文なども加わってくる。
|
129手稲式土器(関東系土器) 縄文後期 東風泊遺跡
|
| |
| |
130続縄文時代 紀元前3世紀~紀元後7世紀 (弥生時代=続縄文前期、古墳時代=続縄文後期)
|
132大狩部式土器 続縄文時代初頭 青苗B遺跡
|
| 134兜野式土器 続縄文時代初頭 青苗B遺跡
|
| 136恵山式土器 続縄文時代前葉 米岡2遺跡
|
| |
| |
140オホーツク文化期 5~9世紀(北海道) 6~7世紀(660年対粛慎戦争)(奥尻島) 青苗砂丘遺跡、宮津遺跡
オホーツク文化期で解決できなかった問題
➀奥尻島のオホーツク文化期には、それ以前に居た先住民は共棲していたのか、北海道に逃げ出していたのか。
②阿倍比羅夫はオホーツク人に対して沈黙交易で接触を図ろうとしたが、決裂したために戦争を仕掛けた。
ならば、この時期までの、また、それ以降も、おそらく多くの場合言葉は通じなかったと思われる交易者同士は、
沈黙交易で交易を行なっていたのだろうか。
③阿倍比羅夫に粛慎の放逐を要請した渡島半島の蝦夷とは誰だったのだろう。
粛慎によって奥尻を追い出された奥尻の先住民だったのか、それとも、
阿倍比羅夫によって、降伏させられた渡島半島蝦夷が、競争相手を放逐するための腹いせだったのだろうか。
④突如始まった擦文時代遺跡の青苗貝塚は、オホーツク人の遺跡なのだろうか。
(これはオホーツク人以後の擦文人の遺跡らしい。)
⑤西海岸オホーツク人は東海岸オホーツク人と全く交流がなかった。本来オホーツク人は各地に土着し、孤立的な独自色を強めた。
彼らは、一族の拠点を確保すると、交易はするのに、排他的で、同じオホーツク人でも受け入れなかったのだろうか。
⑥粛慎退治を要請した蝦夷とは、続縄文人(北海道蝦夷)だったのか、擦文人(東北蝦夷系)だったのか。
「北海道の縄文シリーズ」は、次回「稲穂ふれあい研修センター」で終了します。しかし、少なくとも上の問題は解決出来ませんでした。
|
各型式の主な文様の特徴は、
|
| 鈴谷式 |
縄線文 |
| 十和田式 |
円形刺突文 |
江ノ浦B式
江ノ浦A式 |
口唇部直下の隆起帯と刻文・爪形文 |
南貝塚式
東多来加式 |
沈線文と型押文 ※東多来加(ヒガシタライカ) |
|
なお、道東部では江ノ浦B・A式以降独自の変化をするが、
その後半には「ソーメン文」と呼ばれる細い波状の貼付文がつく土器が主流をしめ、
最終的には擦文式土器との折衷・融合型式(トビニタイ式)になる。
引用「オホーツク文化」 |
|
|
141オホーツク文化の足跡
津波館文化財展示(勾玉物語)説明
|
オホーツク文化の渡来
今から約1300年前、サハリン由来の北方民族の文化が奥尻島に渡来しました。その文化をオホーツク文化と言い、これらが発見された遺跡が青苗砂丘遺跡です。遺跡は現在知られているところ、オホーツク文化最南の遺跡であり、このことが注目されて、平成20年3月、道指定史跡になりました。
オホーツク文化を代表する遺跡の遺物はオホーツク式土器で、独特の刻み目文様が施されているのが特徴です。オホーツク文化の担い手であるオホーツク文化人は、海獣狩猟を得意とする海洋民族であり、遺跡からはアシカの骨やクジラの骨などが多く発見されています。
また、彼らは動物の骨を加工する技術に優れており、様々な骨角器を作っています。
また彼らは、恵みを与えてくれる動物に対する様々な信仰を持っていました。そのため、本来奥尻島に生息しない動物を持ち込み、様々な宗教的な儀式を行っていたと考えられます。ここに展示してある、タヌキやカワウソの頭骨は、島で捕獲した動物と言うよりは、儀式のため島外から持ち込まれたものと考えられます。 |
 |
オホーツク文化の渡来
 |
|
|
|
|
|
北海道指定史跡
青苗砂丘遺跡
この遺跡は平成13年 (2001) から2カ年の調査を行い6~7世紀頃のオホーツク文化の遺跡であることが判明しました。
この文化は、サハリンやオホーツク海沿岸で栄えた文化でしたが、舟で海上を移動したことにより遠い奥尻島まで到達したものと推測されます。
遺跡からは土器や石器の他に、人骨やクマの歯、本州産(島根産)の勾玉や鉄製刀子など特徴的なものが発見され、
列島の広範囲で交易が行われていたことを示しています。
青苗砂丘は青苗湾に沿って形成され、砂丘の地下約2mの場所に遺跡が広がっています。
近年では平成5年(1993)の北海道南西沖地震津波を受けて削られましたが、砂丘のおかげで後ろ側の住宅の被害が軽減するなど、
自然の防波堤の役割も果たしています。
オホーツク文化の南下を示す重要な遺跡であるとして、北海道指定史跡に指定されました。
平成20年3月18日指定
奥尻町教育委員会
青苗砂丘遺跡 北海道奥尻郡奥尻町字青苗364・368番地
種別:集落
時代:オホーツク文化期
主な遺構:住居跡4 墓2
主な遺物:オホーツク式土器 土師器 擦文土器 石鏃 石核 フレイク フレイクチップ 砥石 たたき石 すり石 台石 礫 礫片 軽石
玉 石製品 骨角製品 金属製品 鉄滓 石錐 動物遺体 植物遺体
種別:集落
時代: 中世(細分不明) 近世(細分不明)
主な遺構:貝塚1 |
|
奥尻島 宮津遺跡
AI による概要
奥尻島の宮津遺跡は、オホーツク文化期(9世紀)の遺跡(宮津遺跡)と、16~17世紀頃のアイヌのチャシ(宮津チャシ跡)が存在したと考えられている場所です。特に、宮津チャシは「茶津」(宮津の旧名)の語源になったとも言われています。また、宮津弁天宮が建立されている場所でもあり、古くから奥尻島において重要な場所であったと考えられています。
宮津遺跡:
オホーツク文化期の遺跡で、9世紀頃のものと考えられています。
関連情報:
・奥尻島は、北海道の南西部に位置する離島で、周囲約84kmの島です。
・奥尻島には、縄文時代早期の遺跡である青苗遺跡もあり、約8,000年前の石組炉が発見されています。
・奥尻島は、自然が豊かで、新鮮な海の幸も楽しめる観光地として人気があります。
|
|
| |
| |
142土師器
|
津波館文化財展示 (勾玉ものがたり) 説明
文明の十字路奥尻島 「十字路」表現は65年ほど前NHKで「文明の十字路」という番組がありました。ここから一般化した表現か。
土師器の渡来
今から約 1,500年前から1,000年前にかけて、島には本州の文化が入ってくるようになりました。 その代表的なものが、本州の土器である
土師器の渡来です。
土師器は本州の土器づくり職人が制作した土器で、器面に縄文などの文様は施さないのが特徴でした。 そして、その土器の強い影響を受けて
奥尻島を含む北海道で形成されたのが擦文式土器です。
鉄器の渡来
またこの時代は本州から鉄器も入ってくるようになりました。 ここで展示されている鉄器は、小刀や鉄環などの装飾品など本州から持ち込
まれたものです。 それに加えて鉄の加工技術ももたらされ、使用後廃棄された鉄を精錬し、 新たな鉄製品を加工していました。
そこでつくられていたのは主に 鉄製の銛やヤスなどの漁具です。
交易品の生産
彼らは自分たちで作った銛でアシカなどを捕り、 ヤスでアワビなどを捕っていました。 それらのアワビやアシカは 干しアワビやアシカの
毛皮に加工され本州に輸出していたのです。ここに 展示されているアワビの貝殻やアシカの骨はその時捕られたものです。
一方、アシカの骨などは漁具を作る素材として利用されました。 ここに展示されている骨角器各種は、アシカを始めとする動物の骨を加工
して作られたもので、 アワビの貝殻と共に青苗貝塚から出土しました。 銛頭(もりがしら)は鉄製の銛を頭に装着して利用します。
有栓弭形鹿角製品(ゆうせん やはずがた しかつの せいひん)は、刀の柄の部分ではないかと言われてい ます。
この時代、 本州からもたらされた文化として勾玉などの玉製品があります。
有栓弭形鹿角製品
AI による概要
有栓弭形鹿角製品(ゆうせん ゆはずがた しかつのせいひん)は、縄文時代後期から弥生時代にかけて見られる、弓の先端部に取り付ける「弭(はず)」に似た形状の鹿角製品です。特に、中心部に海綿質部分をくり抜いてソケットとし、外面に紐を通すための溝や段を設けて加工されたものが特徴です。これらの製品は、実際に弓の弭として使用されたのか、それとも祭祀や儀式で使用された飾り弓の先端に取り付けられたものなのか、用途についてはまだ謎が多いと市原歴史博物館は述べています
詳細:
形状:弓の先端部に取り付ける「弭」に似た形状で、中心部に海綿質部分をくり抜いたソケットを持ち、外面には紐を通すための溝や段が
設けられています。
材質:シカの角が用いられています。
時代:縄文時代後期から弥生時代にかけて見られます。
用途:弓の弭として実際に使用されたのか、それとも飾り弓の先端に取り付けられたものなのか、用途については不明な点が多いと
市原歴史博物館は述べています。
出土例:群馬県埋蔵文化財調査事業団は、群馬県の新保田中村前遺跡から出土した有栓弭形鹿角製品を紹介しています。この製品は、
ペンキャップ状の形が特徴で、長さ6.3cm、幅2.1cmほどで、表面には文様が刻まれ、5カ所の穴には細工が施された栓が取り付けられ
ています。しかし、この栓が弦をかけるのに十分な強度を持つとは考えにくく、また数も多いため、実際の用途は謎だと
群馬県埋蔵文化財調査事業団は述べています。
関連情報:
西広貝塚:
市原歴史博物館は、千葉県市原市の西広貝塚から出土した弭形角製品を紹介しています。
新保田中村前遺跡:
群馬県埋蔵文化財調査事業団は、群馬県高崎市の新保田中村前遺跡から出土した有栓弭形鹿角製品を紹介しています。
※本州から持ち込まれたもののように思えます。 |
 142~146の展示物 |
文明の十字路
 |
|
|
|
|
|
青苗砂丘遺跡の調査
青苗砂丘遺跡は奥尻島において、オホーツク文化の発見された遺跡として最大のものです。
2001・2002 (平成13・14)年の調査では、墓、住居跡、貝塚などが発見され、総合的な生活の場があったことが確認されました。
また、遺跡からは、当時、本州で使われていた土器、土師器も発見され、この遺跡が北と南の文化の交差点として機能していたことがわかります。
青苗砂丘遺跡出土の土師器
本州からもたらされたものと考えられ、当時この遺跡が南北文化交流と拠点であったことが分かります。 |
土師器 |
青苗砂丘遺跡の調査
 |
青苗砂丘遺跡の土師器 |
土師器
 |
※考察 阿倍比羅夫の失敗
オホーツク文化がもたらす北方靺鞨文化の交易品と、奥尻産干し鮑にアシカの毛皮と、東北北部の鉄・須恵器・土師器と、たまに大和の鉄剣などの
交易拠点奥尻を、
道南蝦夷を支配して利益をあげようとした阿倍比羅夫の欲望が、
沈黙交易に失敗してブチギレて、重要交易拠点である奥尻からオホーツク人を追い払ったら、
気が付いたら、重要な靺鞨の北世界との交易拠点を自らの手で壊滅させ、道南蝦夷に利用されて彼らの領地を広げたが、
阿倍比羅夫が最も欲しがった北方との交易は消えてしまった。
随分としたたかな渡島蝦夷に、してやられた阿倍比羅夫であった。
こんな阿倍比羅夫だから、後日の白村江の戦いでも、戦術も戦略もなく、単に大勢で押しかけただけでぼろ負けしたのでしょう。
後の列島日本史に大きな影響を与えた人物でした。
|
143骨角器類の各種
※オホーツク文化では鉄器が少なく、骨角器や石器が主に使われていた。
|
144オホーツク式土器
※北海道西海岸には、貼り付文土器はありませんでした。
オホーツク式土器
 |
 |
 |
 |
 |
古いタイプの土器
円形刺突文と刻文 |
|
145石器
 |
Uフレイク
ナイフ
 |
Uフレイク
U字形剥片
下方にU形抉りあり |
石鏃
 |
|
|
U字形剥片(Uフレイク)
AI による概要
U字形剥片とは、石器製作における剥片の一種で、石を打ち欠いた際にできる薄いかけらのうち、U字形の特徴的な形をしたものを指します。具体的には、石を打ち欠いた際に、剥片の基部がU字状にくぼんでいるものを指すと考えられます。
剥片とは:
剥片(はくへん、flake)とは、石器製作において、原石(石核)から打ち欠いて作られた薄いかけらのことです。
U字形の特徴:
U字形剥片は、剥片の基部がU字状にくぼんでいる形状を持つ剥片を指します。
この形状は、石器製作の過程で意図的に作られたものか、偶然にできたものかは、研究対象となります。
石器製作における役割:
剥片は、石器の素材として利用されることが多く、U字形剥片も、ナイフやスクレーパーなど、様々な石器の材料として用いられた可能性があります。
研究対象:
U字形剥片の形状は、石器製作技術や当時の文化を研究する上で重要な手がかりとなります。 |
U字状剥片 引用「全国遺跡総覧 (1)石核Ⅳ-3(B面)」
U字形剥片 |
 |
U字形剥片
この石器は、抉り入りといわれる石器なのかもしれません。
握りの部分に凹みがあり、持ちやすくなっているのでしょう。 |
|
146骨塚
|
住居跡で発見された骨塚
(青苗砂丘)遺跡では、5軒の住居跡が発見され、そのうち2軒から骨塚が発見されています。
骨塚は、オホーツク文化に特徴的な、住居内にある祭壇のような宗教施設で、動物の骨が奉納されています。
そこにはヒグマ、キツネなど島には生息しない動物の骨も見つかっています。
※ヒグマ・キツネ・カワウソなど奥尻島外から持ち込まれた動物の骨は、シャマンの祈祷用でしょうか。どこから入手したのでしょう。
北海道擦文人とはかなり対立関係でしたから、東北やそれでも渡島半島からでしょうか。
そんなに必死で入手した目的は、病気平癒か、葬儀などでしょうか。
※詳細は不明ですが、やはりオホーツク式住居には骨塚があったのでしょう。しかし、粛慎戦争で住居が破壊されたものと思われます。 |
 |
 |
 |
カワウソの頭骨
 |
タヌキの頭骨 |
クジラ類の肋骨 |
住居跡で発見された骨塚 |
|
|
|
|
|
|
| |
| |
150擦文時代 約1,200~800年前 青苗貝塚遺跡
奥尻島の擦文人は誰だったのか。粛慎戦争後、東北北部から来た蝦夷か。渡島半島の蝦夷か。粛慎と共棲していた奥尻先住民か。
擦文時代に入って鉄の精錬が始まった。この技術は渡島半島恵山の製鉄精錬技術が奥尻に持ち込まれたものか。東北からか。
きっとこの技術の人々が奥尻擦文人と強い関連があるのだろうと思われる。
|
151大いなる恵みに育まれて
青苗遺跡―擦文時代
(青苗貝塚)
|
擦文文化は、今から約1200年前に本州の様々な文化の影響を受けながら、続縄文文化が大きく変質して形成された北海道独自の文化で、約800年前まで続きました。
青苗(貝塚)遺跡はこの時代の代表的な遺跡であるばかりではなく、擦文時代で貝塚を伴う極めて珍しい遺跡です。
(青苗)貝塚からは大量のアワビの貝殻、アシカやクジラなど海獣の骨とそれを加工して作った骨角器などが大量に出土しています。
このことから青苗遺跡の擦文人が海と密接な関わりを持っていたことを物語っています。
|
|
※考察 擦文人の海獣狩猟
オホーツク文化以前にはなかった擦文人の、海獣狩猟やアワビ採取の貝塚など、海洋狩猟技術はいったい何処から涌いて出てきたのだろうか。
そして、これ以降、擦文人がオホーツク人化して海洋に乗り出し、サハリンやアムール河口にまで出かけて海賊行為をするようになった。
やはりここには続縄文人がオホーツク人と混血していたのだと確信せざるを得ない。そしてその転機が対粛慎戦争だったと思われます。 |
|
| |
152鉄製品の生産 青苗遺跡
 |
 |
鉄製品
青苗遺跡 |
刀子 |
鉄環 |
|
紡錘車 |

鉄製紡錘車ですね |
製鉄用鉄素材
 |
フイゴの羽口
擦文時代
青苗遺跡
 |
|
|
|
| |
153丁字頭勾玉(ちようじがしらまがたま) ちょうじ(丁字)の実
|
丁字頭勾玉
AI による概要
丁字頭勾玉とは、勾玉の頭部に3~4本の線を刻んだ装飾が施されたもののことです。この線は、チョウジの花柄に似ていることから「丁字頭」と呼ばれています。古墳時代には、権力者層の副葬品として用いられることが多く、特に糸魚川翡翠で作られた大型のものは、近畿地方で多く出土しています。
丁字頭勾玉の特徴:
頭部の刻線:
勾玉の頭部に3~4本の線を刻んだ装飾が施されています。
素材:
糸魚川翡翠で作られたものが多く、美しい緑色が特徴です.
副葬品:
古墳時代には、権力者層の副葬品として用いられました.
出土地域:
近畿地方を中心に、各地の古墳から出土しています.
意味:
権力や財力の象徴、また、子孫繁栄や生命力の象徴と解釈されることもあります.
丁字頭勾玉の歴史:
・弥生時代から古墳時代にかけて、勾玉は日本各地で作られ、地域や時代によって形が異なります.
・特に丁字頭勾玉は、古墳時代に権力者層の間で広まりました.
・糸魚川翡翠は、新潟県糸魚川市で採掘された翡翠で、日本有数の原産地として知られています.
・古墳時代後期には、勾玉の製作は衰退しますが、その理由の一つに、鉄器の輸入増加と、それによる勾玉の交易品としての需要減少が挙げられます.
丁字頭勾玉の現代:
・現代でも、勾玉は魔除けやお守りとして、また、パワーストーンとしても人気があります.
・特に、丁字頭勾玉は、その歴史的な背景から、権力や財力を象徴するものとして、また、子孫繁栄や生命力を象徴するものとして、珍重されています.
・現代では、水晶や翡翠など、様々な素材で作られた丁字頭勾玉が販売されています.
丁字頭勾玉の生産地 は出雲型勾玉で、出雲市玉造だといわれています。
|
|
154貝塚出土遺物(クジラ骨・アシカ下顎骨・アワビ貝殻) 擦文時代他
|
青苗貝塚
青苗貝塚は擦文時代(平安時代 約1000年前)のもの。貝のほとんどがアワビ。動物骨の9割がアシカの骨。
これは、干しアワビやアシカの毛皮を製作して、交易に供していたのではないかと想像される。
これ以外には、ホタテ貝・タマキ貝・カサゴ・カジカ(魚骨)です。
青苗の擦文人は、渡島蝦夷、交易相手の和人(東北蝦夷)、北海道擦文人などが考えられます。 |
|
155擦文式土器(深鉢) 擦文時代 青苗遺跡
|
| 156擦文式土器(甕) 擦文時代 青苗遺跡
|
157擦文式土器(坏ではなく杯と表示されている) 擦文時代 青苗遺跡
※杯は上向きにして使用するもの。それにしては、いとじきが乱雑で、使用時不安定になりそう。
蓋に利用する方が理にかなっていそうな土製品です。
 |
 |
 |
坏(つき):さかずき。酒器・食器
杯(はい):さかずき。酒器 |
|
| |
| |
| |
| |
300立体模型
|
310丁字頭勾玉(ちようじがしらまがたま)
|
奥尻町出土の丁字頭勾玉は、昭和51年、青苗遺跡の発掘により、墳墓の中から副葬品として、ガラス玉、水晶玉、水晶の切子玉や鉄製の刀と共に発見されました。
丁字頭勾玉の特徴は、頭部に3本の刻み文様が施されていることです。現在知られているところでは、北海道・東北地方合わせて唯一の発見例と言う貴重なものであり大きさにおいても日本有数のものです。
3~6世紀頃の近畿地方において制作され、当時の社会で権力と権威を示すシンボルとして機能していたと考えられています。
平成20年に実施した科学分析の結果、新潟県糸魚川産のヒスイであることが確認され、奥尻にもたらされたのは、墓の副葬品の特徴から、
6世紀以降と考えられています。
6~7世紀における奥尻島は、北からはオホーツク文化が渡来し、丁字頭勾玉など南の文化をもたらした人々と交易を行っていました。※
※この状態は平和的だったということを表現したもののようです。
これは、「日本書紀」に記述された斉明6年(西暦660年)における阿倍比羅夫の遠征が、この史実を反映したものではないかと推測されています。
このことから、丁字頭勾玉は奥尻島が南北文化の交流基地として繁栄していた時代を物語る貴重な歴史の証人なのです。
※阿倍比羅夫の粛慎戦争以前は、オホーツク人と南から来た和人は、穏やかに交易を行なっていたそうです。
一方、秋田の阿倍比羅夫は、渡島半島の支配をもくろんで渡島蝦夷を意味なく討ち、逆に、渡島蝦夷にそそのかされて奥尻粛慎を討って
貴重な北方産品の入手経路を断った、強欲なおっちょこちょいということになる。
この頃の舟はせいぜい現代の小型漁船くらいの親舟と、貸しボート程度の伝馬船200艘でやって来た。これで気をよくしてすぐ後に
白村江の海戦に臨んで殲滅されたのなら、なんとも無能な指揮官と言える。無力の渡島蝦夷や、僅かな数の奥尻粛慎に勝ったとて、
唐の軍船に対して、同じ戦法で押し寄せたら勝てるなどと、あまりにも無策。やはり傲慢無能ブリを発揮したのでしょう。
怒鳴り散らす馬鹿上司が、実戦では何の役にも立たないのとよく似ている。 |
|
※考察 丁字頭勾玉の持ち主
|
オホーツク人
これまで見てきたように、オホーツク人(ヤマト人は粛慎と呼んだ)は、北海道北部稚内地方や南樺太の縄文人と樺太北部から南下してきた北方民族との混血である。これまでとは違った容貌と、新しい海洋技術を持った民族が誕生したのだが、彼らは居場所を見つけるためには、常に土着の先住民との軋轢の中にあった。
それでも、北海道東部のオホーツク海沿岸の一部、枝幸・常呂を居住地に漁業・海洋狩猟と交易を生業として生きてきた。
彼らの海洋進出はすさまじく、宗谷岬を頂点として、西海岸へも進出した。北海道西海岸側には100kmも続くサロベツ原野の不毛の砂丘地帯が続く、その先にある、奥尻島を占拠して拠点とした。その後、さらに南下して佐渡島でも居住していた。
擦文人との抗争
しかし、当初からの北海道土着民との抗争や、その後、勢力を拡大させてきた蝦夷との小競り合いが続いた。
658年 阿倍比羅夫は180隻の軍船を率いて朝廷の支配域の拡大と支配を目的として、蝦夷を討伐し朝貢を強要した。
660年 蝦夷は阿倍比羅夫に競合相手のオホーツク人の討伐を要請し、200隻の舟を率いて奥尻島に戦を仕掛け、放逐した。
オホーツク人は日本海側の拠点である奥尻島の拠点を失い、やがて樺太へ後退していった。
※オホーツク人は、自分たちが飢えると擦文人の村を襲って強奪する。いわば海賊でもあったわけで、丁度、弥生時代に朝鮮半島南部沿岸の
漁民が、列島の日本海側を荒らしまわり、同じ半島出身の青谷上寺地の住民を残虐に虐殺し、なり変わって居住したのに似ている。
このことは、佐渡島での事件が記録されている。
しかしやがて、オホーツク人と混血し、航海術を獲得した擦文人が同様の海賊行為を仕始め、サハリンや遠くアムール河口にまで遠征した。
このことがやがて、中国政権のアムールサハリンへの軍事遠征となり、蝦夷は中国王朝に朝貢することになり、山丹交易がはじまる。
勾玉の持ち主
660年に起こったこの対粛慎戦争で比羅夫の部下能登馬身龍(のとのまむたつ)が戦死した。
この丁字頭勾玉と、同時に出土した水晶玉などと共に、能登馬身龍の持ち物であり、彼の墓から出土したものと考えられている。
※丁字頭勾玉は、畿内政権での高い身分を表すものであり、単なる装飾品ではなかった。ために、高官の持ち物であった。
粛慎戦争の意味
この戦争には大きな意味があると私は考える。
一つは、 これ以降、オホーツク人は北海道各地から擦文人に追われ、多くが樺太に撤退した。
ただし、常呂や千島列島に取り残された集団も出て、 後にトビニタイ文化を形成した。
二つには、奥尻ではトビニタイ文化は形成しなかったが、擦文人との混血が起こり、当時内陸生活しかできなかった擦文人が航海技術を獲得し、
その後オホーツク人に代わって、海洋交易に乗り出し、山丹交易や、サハリンの粛慎のムラやアムール川下流域にまで出かけて
海賊行為を行うようになった。
三つには、阿倍比羅夫は小船200艘を率いて北陸から北上して奥尻やその近辺を航海し、古代のヤマト人に地理的発見をさせ、
以後、和人の交易船が稚内付近までやってくるようになった。
四つに、 オホーツク人の撤退以降、北海道は擦文人、つまり、アイヌ民族が支配する地域となった。
|
|
| |
| |
320奥尻島の記憶
|
この48個の箱には、奥尻島のいろいろな記憶が封じ込められています。
島の美しい記憶、雄大な自然、長い歴史、
そして平成5年7月12日に突如起こった北海道南西沖地震、
そして津波襲来を永遠の記憶として、その光を放ち続けます。 |
奥尻島の誕生 |
奥尻島の誕生(6000万~600万年前)
2億余年前、北海道のあるところは海でした。やがて北海道の骨格となる陸地ができました。
奥尻島は、本島から半島のように突き出ていたと想像されています。地球が激しく揺れ動いていた時代に離れて、今のような島になったと考えられます |
奥尻の地形 |
 |
奥尻島の地形
奥尻島は神威山を最高峰とする、火山活動の活発な赤い舞台でした。
何度も活動を繰り返すごとに島の形とその姿が変化し、今の美しい島が出来上がったのです。 |
八千年前の足跡 |
 |
八千年前の足跡(8000~5000年前)
奥尻島に人間が住み始めたのはいつ頃でしょうか。
青苗遺跡から縄文時代早期の貝殻文土器が出土し、奥尻最初の人間の活動ではないかと言われています。
|
古代人の海峡貿易 |
 |
古代人の海峡貿易(1,500年~1,XXX年頃)
奥尻の海でとれる魚・貝・海獣の毛皮と、本州産の鉄器やヒスイの勾玉・水晶の玉・ガラス玉などの交易を海峡舞台に盛んに行っていました。
|
歴史書に奥尻が記された日
 |
歴史書に奥尻が記された日(室町時代)
1454年、武田信広一行は上ノ国を目指しましたが、途中遭難し奥尻島に漂着しました。
奥尻、アイヌ語の「イクシリ(向こうの島)」の名が後の歴史書に最初に記されたのはこの日です。
※松前藩の歴史書『新羅之記録』には、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで功をあげた武田信広が蠣崎季繁の養女である安藤政季の娘を妻とし、…
武田信広以降は蠣崎氏とは血縁がなく家督を相続した。蠣崎季繁には血縁の子孫がなかったのか、家名を継がせるだけのために養女に婿入りさせ、それが最終的に直系子孫を押しのけて蠣崎を乗っ取ったのだろうか。 |
二百数十年前の津波災害
 |
二百数十年前の津波災害(江戸時代)
1741年、松前大島で大噴火があり、津波などで松前から熊石にかけての海岸で大きな被害が出ました。奥尻島を含めてこの一帯は、死者1500人、家屋790戸、船1500艘の被害を受けました。のどかだった奥尻島は荒れ果て、人影が消えてしまったそうです。
|
|
330近代史
ニシンと宮津弁天 |
ニシンと宮津弁天(江戸時代)、
毎年、ニシンの群来と豊漁に沸き返っていた奥尻の漁師たちは、大漁祈願と安全を願って、弁天岬に社を立てました。
以来、宮津の弁天は、奥尻島の守り神となりました。 |
岬の風景・なべつる岩
 |
 |
岬の風景・なべつる岩
島の海岸では謎を秘めた伝説と自然の造形による多くの奇岩が見られます。
中でも奥尻の顔とも言える「なべつる岩」は、形のユニークさで島の代表的な奇岩です。
|
奥尻小学校の開校
 |
奥尻小学校の開校(明治時代)
明治15年、奥尻に初めて小学校ができました。子供たちの成長を誰よりも願う親の心が学校を建てたのです。
その後も、次々とそれぞれの地域に学校が作られました。 |
奥尻鉱山株式会社
 |
奥尻鉱山株式会社(大正時代)
明治の中頃にはニシンがとれなくなり、村には活気がなくなりました。
大正元年に硫黄を掘り出す会社ができ、再び村は人と活気にあふれました。
しかし、わずか十年余りで硫黄も底を尽き、休業してしまいました。 |
奥尻鑛山長屋の全景
 |
奥尻鑛山○○○ |
奥尻鑛山(六)幌内港 |
奥尻鑛山精錬場
 |
奥尻鑛山(四)選鑛場
 |
奥尻鑛山(三)
露天採鑛場
 |
宝の島 |
 |
宝の島(大正・昭和)
大正から昭和にかけての奥尻村は漁業が盛んで「宝の島」と呼ばれるほど海産物がたくさんとれていました。
大漁の時は大人も子供も夜明け前から働きました。 |
戦争の日々 |
 |
戦争の日々(昭和16~20年)
昭和16年、日本はアメリカや中国などと戦争を始めました。奥尻の若い人たちも戦いに行きました。
白いご飯も食べられなくなり、イモやカボチャの毎日でした。 |
奥尻町の誕生 |
奥尻町の誕生(昭和41年)
昭和41年、島は「町制」がしかれ、奥尻町に生まれ変わりました。
奥尻町あげての祝いの行事が行われ、人々は町の繁栄を願いました。
また、観光の町としてスタートを切ったのです。 |
青苗の街並み |
青苗の街並み(昭和~平成)
奥尻島のいちばん南にある青苗は、奥尻地区と並んで町の中心です。
大きな港があり、工場が建ち並び、広い大地を利用してたくさんの家が建てられていました。
|
|
| 340地震 |
341津波
南西沖地震 |
南西沖地震
平成5年7月12日午後10時17分
奥尻島は北海道南西沖を震源とする震度6マグニチュード7.8の大地震に襲われました。
その直後、暗い海から大津波が島に迫ってきました。 |
突然揺れ始めた奥尻島
 |
突然揺れ始めた奥尻島
突如起こった地震と津波は、眠りについたばかりの人々を恐怖に陥れました。
奥尻島は一瞬にして大災害に陥ったのです。 |
津波のメカニズム
 |
津波のメカニズム
この地震は、規模が大きく、地震の深さが34kmとかなり浅かったため、海底の揺れが海水に直接作用して、大きな津波を発生させたと言われています。 |
|
342津波の波及
発生直後 |
30秒後 |
1分後
 |
2分後
 |
3分後
 |
5分後
 |
8分後
 |
11分後
 |
14分後
 |
|
|
|
|
344避難する人々
 |
 |
 |
避難する人々
小さな揺れが数秒続くと、揺れは次第に激しさを増し、本棚や家具が倒れ始めました。
「早く、起きれ、起きれ」と子供たちを起こし、人々は逃げ出しました。 |
観音山が崩れた |
観音山が崩れた
ホテル洋々荘の宿泊客は、大きく崩れた観音山の土砂に一瞬のうちに飲み込まれてしまいました。
ここは崖地崩壊の最大の被災地となりました。 |
なべつる岩が崩れた |
なべつる岩が崩れた
奥尻のシンボルである「なべつる岩」は、地震の揺れにその上部を破壊されました。
島の大切な観光資源は、次々と被害を受け、奥尻名物のウニ生息環境も壊滅的な状態になりました。 |
裂ける道路 |
裂ける道路
奥尻は海岸に沿って道道奥尻線が走っていました。島でただひとつの大きな道です。
地震により、各所で陥没や亀裂ができ、ひとびとのの逃げ道を塞ぎ孤立させました。 |
30mの大津波 |
 |
30mの大津波
真っ暗なウも~ゴーゴーッという物凄い音がしました。
心配していた津波が信じられない高さと勢いで島を襲ってきたのです。
〇の方から大津波○○の○○が〇〇れてきました。 |
賽の河原 |
賽の河原
波の第一波は、奥尻島西岸に到達し、賽の河原を直撃しました。
何の由来ともなっている大小の小石を積み重ねた、数万もの、石塔の一部が無残にも崩れたのです。
|
叫ぶ、子供たち |
叫ぶ、子供たち
家族を失い、親戚を失い、そして友達を失った子供たちは、ただ声の続く限り叫ぶしかありませんでした。
もう地震なんか二度と来ないほうがいいと思いました。 |
第二波襲来 |
第二波襲来
家ごと流されながら子をしっかり抱いていた親は、なんとか岸に戻ろうとしましたが、続いてやってきた第二波によって親子はあっという間に波間に消えてしまいました。 |
裂けた防波堤 |
裂けた防波堤
津波のエネルギーは、多くの漁船を陸に押し上げ、岸壁をあっけなく破壊しました。
奥尻の表玄関である奥尻港岸壁の被害は、この島にとって致命的でさえありました。
|
|
360津波
海に漂うガレキ |
海に漂うガレキ
つい先ほどまで住民が生活していた家、家具、道具等が海一面に漂っていました。
犠牲者の捜索に当たったダイバーたちを立ち往生させるほどの量でした。 |
海にさらわれた人々 |
海にさらわれた人々
繰り返しやってきた津波の中に、幾人もの姿が浮かんでは消えていきました。
人々はそのまま二度と戻っては来ませんでした。 |
燃え続ける町 |
燃え続ける町
地震直後から青苗で火事が発生し、一晩中燃え続けていました。
闇の中で青苗は赤く染まり、賑やかだった町は炎の中に消えていきました。 |
立ち尽くす人々 |
立ち尽くす人々
夜が明けると奥尻の町から何もかもなくなりました。家も服も食べ物も、親も子もそして友達の姿も消えてしまいました。
ただ呆然と立ち尽くすしかありませんでした。 |
震災被害の図 |
震災被害の図
地震・津波・火災は、奥尻全島を走り、その跡には建物の全半壊と流出、道路陥没、崖崩れ、そして多くの尊い命が失われるなど、悲惨な状況だけが残されました。
|
離島する人々 |
離島する人たち
奥尻島は観光の島でもありました。災害の翌日、島を訪れていた観光客など島外の人たちは着の身着のままで島を後にしました。顔は一様に硬いままでした。 |
懸命の救助 |
懸命の救助
どこから手をつけていいのかさえわからないほどの惨状でした。
自衛隊の隊員たちはただ黙々と土を崩し、土砂を手で掘って生存者を探し続けました。 |
賽の河原の捜索 |
賽の河原の捜索
昨夜の津波が夢だったように、西の河原は穏やかな朝を迎えました。
隊員たちは遭難した人々が一人でも生存している事を願いながら海岸を歩き続けました。
|
鎮魂と祈り |
 |
鎮魂と祈り
北海道南西沖地震により不幸にも犠牲になった人々は、202名(奥尻島172名)、行方不明者28名(同26名)重傷者83名(同50名)、軽症者240名(同33名)。 |
|
370避難と復興
避難生活のスタート
 |
避難生活のスタート
もう戻る家はありませんでした。暮らしの道具も何もかも津波が持っていってしまいました。
体ひとつになった人たちは、肩を寄せ合い、頑張るしかありませんでした。 |
ボランティア |
ボランティア
打ちひしがれた奥尻の人々を奮い立たせてくれたのは、全国から駆けつけてくれた多くのボランティアでした。
彼らは休むことなく活動し始めたのです。 |
救援物資 |
救援物資
生活に必要な日用品を始め、大小無数の救援物資がヘリコプターや船で次々と島に運ばれてきました。
この善意の輪は町民にとって大きな励ましとなりました。 |
仮設住宅の建設 |
仮設住宅の建設
震災の翌月から被災者の人たちの仮設住宅が作られました。
瓦礫の山と化した街の片付け作業とともに、住宅建設も急ピッチで進められたのです。 |
再建の槌音 |
再建の槌音
わずか一夜で全てを失った町は、全国の善意と励ましと協力で奥尻の再建を始めました。
子供たちの笑顔と無邪気な姿はみんなにとって大きな力となりました。 |
復興への道 |
復興への道
まず、暮らしを立て直すことから始まった復興計画は
生活再建・防災まちづくり・地域振興の3つを柱に進められました。夢の島奥尻の復興です。 |
美しい花々 |
美しい花々
奥尻は野の花の宝庫です。季節になると島全体に咲き乱れます。海岸に群生する緑と赤い実、海の青とのコントラストが美しいはまなすは奥尻町の花です。 |
海辺の子供達 |
海辺の子供たち
青い穏やかな奥尻の海です。
太古の昔からたたずむ「なべつる岩」が海辺でたわむれる子供たちを優しくを見つめています。 |
笑い声のある風景
 |
 |
笑い声のある風景
新しい奥尻の街が生まれました。復興した町からは、子供たちの笑い声が響いてきました。
奥尻の空は再びその輝きを取り戻したのです。
|
島の生き物たち |
島の生き物たち
冬の奥尻には天然記念物であるオジロワシがそのダイナミックな雄姿を見せます。
港や道端、山裾などで、彼らと気軽に出会えることができます。 |
奥尻の朝日
 |
奥尻の朝日
地平線を赤く染めながら、奥尻の顔である「なべつる岩」に朝日が昇ります。
やがて奥尻の朝が開け、希望に満ちた爽やかな一日の始まりです。 |
出発の朝 |
 |
出発の朝
美しい島、雄大な自然、太古からの歴史、そして平成5年7月12日の北海道南西沖地震と津波襲来を永遠の記憶として、私たちは語り継いで行きます。
|
|
371その後の新聞記事
|
いま世界が注目!奥尻島
津波対策 奥尻に学べ
高さ6㍍の空中広場/遠隔操作できる水門
一九九三年の北海道南西沖地震と津波のため百九十八人が犠牲になった奥尻島の防災体制が注目を集めている。スマトラ 島沖地震で津波の恐ろしさに世界中の人々が気付いたためで、四百四十人が一度に避難できる人工の"空中広"場など独自の施設を海外のメディアも取材に訪れている。
●要さいの島
島の周囲約八十四㌔。うち約十四㌔を防潮堤が囲む。高台へ続く避難路と誘導灯は、奥尻町が設置したものだけで四十二ヶ所。民間のものも入れると数え切れない。
島の最南端に位置する青苗漁港には、高さ約6.6mに浮かぶ「人工地盤」と呼ばれる広場がある。地上から五つの階段で上ることができ、このうち三つは広場上の防風雪シェルターにつながる。広場を支えるのは、柱から何本もの(はり)が広がる複合アーチ構造。広場からはさらに高架道路で高台まで避難できる。
青前川など島内の四つの川には、遠隔操作できる水門が設置された。震度4以上を観測すると、約一分間の非常放送後、自動的にゲートが降下する。
●防災意識
「地震がきたら津波がくる。一分一秒でも早く高台へ逃げろ」。島民のほとんどがこのことを経験的に知っている」と奥尻町企画観光課の大須田直哉さん。「どれだけハード面を整備して絶対ではない。大事なのは個人の危機管理」 九五年に新築した際、津波対策として一階をピロティ(空間部)構造にした青苗小学校。ここでは、災害時にすぐにかぶって逃げられるように
と、ヘルメットは常にロッカーの上に置いてある。年に三回の避難訓練のほか、各学級で家族との約束事を確認している。
家庭の対策も万全だ。防災無線、防災ハンドブックのほか、人数分のヘルメット、非常食や救急用具の入った避難袋を全世帯が常備している。
●事業費900億円
海外メディアの関心も高い。一月から二月にかけ、米紙ニューヨーク・ タイムズやフランス紙ルモンド、ドイツの経済紙が相次いで取材に訪れた。ほかにも、役場には内外の研究機関や自治体からの取材申し込みや問い合わせが相次いでいる。
町によると、ハード面の整備にかかった事業費の総額は国、道、町で計約九百二十六億七千万円に上る。東北大災害制御研究センターの今村文彦教授(津波工学)は「奥尻島の津波対策には莫大(ばくだい)な時間と費用がかかっている。 すべての地域で一律に取り入れるのは不可能だが、人工地盤などの技術は参考になるだろう」としている。 |
 |
|
|
| |
| |
400震災モニュメント
津波館の外にある土盛の上にある震災モニュメント。
ちなみに、この丘は避難場所ではなく、地震が発生した場合には館員は一直線に北の山に逃げるように指示されているとのことでした。
この上に逃げると確実に生命の危険があります。
|
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |