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 北海道の縄文 №64  2022.06.29-5

 松前町郷土資料館 北海道松前郡松前町神明30
  0139-42-3060 4/10~12/10毎日開館 12/11~4/9冬季休館 撮影可

館の特徴
交通 ・レンタカー 
近隣観光地
近隣博物館
宿泊情報 私は民宿ユーターンに宿泊しました
 はじめに
 北海道への和人の侵〇の拠点であった松前地域の資料館は、長い歴史と激動の歴史の展開の舞台でありました。
従って北海道での和人の活動の膨大な資料があるものと考えられます。
 
 目次
01外観

101北海道の成立
15アンモナイト化石
16化石

20 2大むかしの松前
30縄文から続縄文へ
33十腰内式土器
35円筒土器
40縄文時代の土器
50擦文とアイヌ文化
60アイヌ民族の社会
※毒矢仕掛け弓考
3003和人地の成立

3104天下統一と蝦夷地
311和人墓地遺跡
※六文銭考
313松前氏の独立
※研究 松前氏とは
315制書せいしょ
317体制下のアイヌ
330無高の大名
※松前藩 参勤交代 考
350近江商人
4105城下町の賑わい
420北前船とは
422北前船の航路
425絵馬
430船だんす
440北前船が運んだ文化
※北前船と文化の波及

5206しいたげられたアイヌ
5307北方に目を向ける幕府
540本州に移封された松前氏
551福山(城松前城)の築城
553薙刀
※幕府の沿岸防備考
554函館戦争

555日本遺産
 
 01外観
外観
展示配置は2Fから始まって1Fへ続く
2階、資料館入口 松前町郷土資料館
2F
 1.北海道の成立
 2.大むかしの松前
 3.和人地の成立
 4.天下統一と蝦夷地
剥製動物
ヒグマ・キタキツネ

 101北海道の成立
約45億年に及ぶ地球の歴史の中で、日本列島は次第に陸地ができあがってきました。
何度かの氷河期を経て、日本列島は大陸から分かれて、津軽海峡・宗谷岬などができ、北海道島になりました。


➀津軽海峡、松前が大陸と陸続きだった頃
(3600~2500万年前)
②海峡の一部が形成された頃
(600~300万年前)
③津軽海峡が形成された頃
(15~1万年前)

 15アンモナイト化石 1億年前白亜紀に堆積した蝦夷層群から出土
アンモナイト
 中世代ジュラ紀(約2-1.5億年前)白亜紀(約1.5億-6600万)に大繁栄した動物で、現在のイカ・タコ・オーム貝などが一番アンモナイトに近い仲間といわれている。
 浅い海から深い海にまで広く生息し、そのほとんどが浮遊生活をしていた。 大きなものは2メートルもあり、小さなものは米粒くらいしかありません。
 アンモナイトは世界的に分布が広く、時代ごとに変化が著しいため、地層を解明する(示準化石)として重要な役目をはたしている。
   三笠市 武田一雄氏寄贈


※北海道のアンモナイト地層
AI による概要
北海道でアンモナイトの化石が最も多く見つかるのは、白亜紀の地層である蝦夷層群です。特に、北海道の中央部、宗谷岬から浦河にかけて分布しており、三笠市や夕張市、むかわ町穂別などが有名な産地として知られています。

蝦夷層群について:
 分布:
  北海道の中央部を南北に縦断するように分布しており、ロシアのサハリンにもつながる。
 堆積年代:
  約1億2000万年前から6800万年前の白亜紀。
 地層の種類:
  泥岩、砂岩、礫岩などで構成され、深海から浅海まで様々な環境で堆積した。
 化石:
  アンモナイトの他にも、イノセラムス(二枚貝)、首長竜モサササウルスなどの海生爬虫類の化石も豊富。
 主な産地:
   三笠市:アンモナイト化石の宝庫として知られ、博物館やジオパークで化石の観察や学習ができる。三笠市立博物館
   夕張市:蝦夷層群の地層が広く分布し、化石の産出も多い。 夕張市
   むかわ町穂別:最近では新種のアンモナイトが発見された。 むかわ町立穂別博物館

アンモナイト化石
           
アンモナイト
上に記述
 16化石
巻貝 カニの一種、ウニ ホタテ貝化石
吉岡層出土
メタセコイヤ化石
吉岡層出土
化石(イシカゲガイ)
及部川上流産出
 
 ※ここまで難なく画像を提示してきましたが、実は館内はほぼ薄暗がりで、展示物の写真が見えているのは、全て画像修正ソフトのおかげです。
  試しに下の6枚の写真の実際の画像を表示します。
 館内の多くがこんな状態なので不都合な点がありますがご容赦願います。
 
 

 20大昔の松前
2大むかしの松前

松前地方に人々が住みはじめたのは、今から約7000年位前と考えられています。
このころは、海や川で漁をし、山や野で狩をする生活でした。
こうした生活は、本州文化の影響をしだいに強く受けながら、鎌倉時代ころまでつづきました。

2大むかしの松前

大津のむら (想像図)
大津遺跡(松前町・江良)は、縄文時代後期 (約4000年前)の遺跡です。
豊かな海と山の幸に恵まれた自然の中で 数軒がまとまって村をつくり、人々は、共同で生活していました。
発見された土器などから、 青森県や秋田県と深いつながりのあったことがわかります。

大津遺跡 北海道松前郡松前町字大津86ほか
 種別:集落
 時代:縄文
 主な遺物:土器 石器

大津のむら(想像図)

竪穴住居 (想像模型)
縄文時代の人々は、竪穴住居と 呼ばれる家に住んでいました。
地面を50~60cm以上掘り、床をたいらにし、木で柱を立て 簡単な屋根をかけたものです。
想像によれば、夏は涼しく、冬は、 暖かいのが長所で、湿気の多いのが欠点ではなかったかと、思わ れます。

竪穴住居 想像模型 火棚 干し鮭 石囲い炉
ヒグマの毛皮 石槍


 30縄文から続縄文へ

 31
数千年間つづいた縄文時代は、さらにいくつかの時期に分けられ、地域によって、多様な文化を生み出していきました。
やがて本州では、 米作を土台にした弥生文化 へとうつっていきましたが、 北海道では、米がつくれなかったため、 依然として、狩猟生活をつづけていました。
このころの文化を続縄文文化と呼びます。

縄文から続縄文

 
棚の上の土器

 33十腰内式土器
十腰内式土器

 円筒土器

 35円筒土器
 37
 39
 
 40縄文時代の土器


 50擦文とアイヌ文化

擦文文化とアイヌ民族
続縄文文化のあと北海道の文化は、文化 へと移っていきました。
この文化は、鉄器を用いるなど本州の新しい文化の影響を強く受けた文化です。
この人々は、アイヌ民族の祖先とも考えられていますが、まだ明確な答はでていません。

擦文文化とアイヌ文化
恵山式土器
トッチョ遺跡
トッチョ遺跡出土
土器300 石器3
恵山式土器
大尽内遺跡
後北C式土器
続縄文時代
白坂第4地点
擦文土器
平安時代
静浦D遺跡

 恵山式土器 縄文晩期続縄文時代前期の土器
 恵山式土器 土器型式1~4期



 60アイヌ民族の社会
アイヌ民族は、依然として狩猟・漁撈による 生活を続けていましたが、もう土器は使わず 生産用具も本州から手に入れたものを、多く用いるようになっていました。
しかし和人の勢力はまだ及ばず、 民族独自の世界をつくっていました。


仕掛弓 (アマックウ)
熊や鹿の通路を横切って細くて目につかない丈夫な細ひもを、動物の胸の高さに張り、 その一端を仕掛弓に装置させて、ひもに触れると、
自動的に毒矢がとび出す仕組になっています。

ラッコ猟の図 鹿狩の図 狩猟具

※毒矢仕掛け弓考
  毒矢を1本撃たれたエゾ鹿は、例えトリカブト毒であっても全身に毒が回って動けなくなるまでには相当な時間を必要とし、
  その間にかなりの距離を動き回ると思われます。どのようにしてその鹿を追ったのでしょうか。北海道犬(旧称アイヌ犬)を使ったのでしょうか。

  アマゾン先住民が毒液(しびれ液)を小河に流して魚を捕まえるのも同じですが、毒に撃たれたシカ肉から、
  全身に回っているはずの毒をいったいどうやって抜いたのでしょう。

  トリカブトの毒はaconitine(アコニチン)です。 アコニチンは充分加熱すると加水分解して毒性がなくなり、そうするとトリカブトは
  附子(ぶし)という生薬になります。 痛みや冷えを改善するのに欠かせない生薬です。

  正解は加熱分解でした。旧石器時代には毒槍猟をしていたのでしょうか。 
 


 3003和人地の成立 鎌倉時代
道南地方と本州の交流はしだいに強くなり、
鎌倉時代には、道南地方に定住する和人がでてきました。
室町時代には館主(たてぬし)と呼ばれる小さな豪族が成長し、百年にわたる民族戦争のすえ、
戦国の動乱期に蠣崎氏を中心とする和人の統一政権が誕生しました。

 301
須恵器 壺
平安時代
札前第1地点遺跡
 


 3104天下統一と蝦夷地
天下の統一、 それは、本州社会の外側にあった蝦夷地をも、 統一国家の中に組みいれていくことでした。
その中で誕生した松前藩は、日本最北の米のとれない藩として特異な歴史をくりひろげていきました。

※米本位制の

 311和人墓地遺跡
松前町字上川で発見された墓地遺跡 (和人墓地)
昭和52年から翌53年にかけて、 町内字上川から江戸時代以前と思われる墓地の遺跡が発見されました。
12ヶ所の墓が ありましたが、人骨はほとんど溶けてしまい、 残っていたのは少しだけでした。
松前町教育委員会で調査した結果、 次のことがわかりました。
 ひざを曲げた状態で棺 (箱形) の中に入れた。 (和人の屈葬・アイヌの伸展葬)
 棺の大きさは、 約60cm×90cm
 高さは不明
 棺の四隅に、 三本ずつ釘を打ってある。 必ずお金が入れてある。
 お金の数は、6の倍数であること。
六文銭~ 仏教式の葬法では、 三途の川の渡し賃として、死者を葬るとき 6枚のお金を持たせる。
 日本のお金は入っていず、 全部、 渡来銭 (中国製) だった。
 お金の流通した時期と、 死者の葬りかたから考えると、 江戸時代以前の倭人の墓らしいこと。


※六文銭考
・「三途の川」の思想はいつから: 平安末期(11c後半~12c末)に三途の川を渡し船で渡るという考えが生まれた
・墓地からの六文銭の出土はいつから:室町時代後半(15世紀後半)頃から

・葬列を伴う葬儀では、野(葬儀場所)の入口に六地蔵六本のろうそく(六道蝋燭)を立てた竹などが用意される。
 これは、仏教の六道輪廻(死者は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の何れかの世界に行くとされる)思想によって、
 六道の何れかの世界に行くために、どれか一つの地蔵に案内され、どれか一つのろうそくを持って、出立するという考えです。
 この考えに、彼岸(あの世)と此岸(この世)という思想が「三途の川」「渡し船」「渡し賃」という連想を産み、
 その値段はイクラ?の疑問から、「六」を仏教思想と考え、「六文」としたものと想像されます。
 ※本当は、六本蝋燭と同様に、渡し賃は1文で、六道あるからそれぞれへ一文合計六文なのだと思います。

・六文銭思想の大衆化は:農民が否応なしに戦場に駆り出され、死ぬ戦国時代に六文銭を持って出陣した。真田家の家紋はその象徴的な事象。
・江戸時代に庶民に定着した

織物 釘 歯と骨
・〇ラムシロ様の織物
 (第6号墓)
・角釘
 棺の板を留めるもの。
・歯と背骨の一部
 (第7号墓)
松前町字上川で発見された墓地遺跡

 313
松前氏の独立
日本最北の豪族蠣崎氏は、第5世慶広(よしひろ)の時 秀吉の天下統一事業が進むにつれ、にわかに中央接近策をとり、 朝鮮戦争さなかの
文禄2 (1592)年、 秀吉より蝦夷地交易の独占権を認められました。
ついで、慶長9 (1604)年、家康より同趣旨の制書(せいしょ)をもらい、ここに近世大名としての松前氏が誕生しました。
(慶長4年、氏を松前と改める)

松前氏の独立 第5世慶広像
 
※研究 松前氏とは (記述は、新しい情報から、古い方に遡って行きます。)

松前氏とは、江戸時代に北海道渡島半島南端を領有した大名家です。元々は蠣崎氏を名乗っていましたが、豊臣秀吉や徳川家康に臣従し、
      松前氏に改姓しました。
 ルーツ:
  松前氏のルーツは、鎌倉時代から室町時代にかけて北海道南部を支配していた安東氏の一族、蠣崎氏に遡ります。
 改姓:
  16世紀末、蠣崎氏は豊臣秀吉に蝦夷地支配を認められ、その後、徳川家康によって大名として認められ、1599(慶長4)年に松前氏に改姓した。
 松前藩:
  松前氏は、蝦夷地(現在の北海道)の松前を本拠地とし、松前藩を形成しました。
  石高は定められませんでしたが、アイヌとの交易によって経済活動を行っていました。
 交易:
  松前藩は、アイヌ民族との交易を独占し、その利益によって藩を運営していました。交易は、松前藩の経済活動の基盤でした。
 特徴:
  松前藩は、他の藩とは異なり、石高制ではなく、交易によって成り立つ特異な藩体制でした。
 維新後:
  幕末には、ロシアの南下政策に対抗するため、一時的に幕府の天領となり、藩主は他領に移封されました。
  明治維新後、松前氏は華族の子爵家に列しました。


蠣崎氏(かきざきし)とは、中世の北海道渡島半島にいた和人の豪族で、江戸時代に松前藩主となる松前氏の祖となった一族です。
    もともと、下北半島の田名部(現むつ市)の蠣崎にいた人々で、15世紀中頃に渡道したとされています。
    蠣崎氏は、アイヌとの交易を独占的に管理し、蝦夷地(北海道)における支配的な地位を確立しました。
    特に、武田信広という人物が蝦夷地に渡り、コシャマインの乱でアイヌの制圧を主導したことで、蠣崎氏の地位を不動のものにしたと
    Wikipediaに記載があります。その後、豊臣秀吉や徳川家康によって大名として認められ、松前氏と改姓しました。
 蠣崎氏の特徴:
  渡島半島の和人豪族: 蠣崎氏は、中世の北海道渡島半島を拠点とした和人の有力な一族でした。
  松前藩の祖: 江戸時代に松前藩を立て、藩主となった松前氏のルーツです。
  アイヌとの交易独占: アイヌとの交易を管理し、蝦夷地支配の基盤を築きました。
  独立大名への道: 豊臣秀吉や徳川家康によって大名として認められ、松前氏に改姓しました。
 松前藩の歴史:
  蠣崎氏は、当初は東北地方の安東氏の支配下にあったが、次第に独立性を強めました。
  豊臣秀吉の時代に、蠣崎慶広(後の松前慶広)が秀吉に謁見し、蝦夷地の支配を認められました。
  関ヶ原の戦いの後、徳川家康に蝦夷地の地図や家譜を献上し、松前氏として正式に大名となりました。


蠣崎氏と安東氏は、戦国時代の北海道(蝦夷地)において重要な役割を果たした勢力です。
          蠣崎氏は、安東氏の支配下で蝦夷地の代官を務めましたが、後に独立し、松前藩として発展しました。
 安東氏:
  鎌倉時代から津軽地方を支配し、室町時代には蝦夷地にも進出した。安東氏は、津軽安東氏、檜山安東氏などいくつかの系統に分かれました。
 蠣崎氏:
  若狭武田氏の一族や南部氏の庶流が北海道に渡ったという説があります。
  蠣崎氏は、コシャマインの乱を鎮圧した武田信広を養子に迎えたことで、蝦夷地の支配を強めました。
 関係:
  蠣崎氏は、当初は安東氏の代官として蝦夷地を支配していましたが、次第に安東氏からの独立を試みるようになります。
  豊臣秀吉の時代に、蠣崎氏は蝦夷地を直轄支配することを認められ、安東氏から完全に独立しました。
 松前藩:
  蠣崎氏は、江戸時代に松前氏と改名し、松前藩として蝦夷地の統治を行いました。松前藩は、他の藩とは異なり、米ではなく、
  アイヌとの交易によって経済を維持しました。
 まとめ:
  安東氏は、鎌倉時代から蝦夷地に関わっていた勢力で、蠣崎氏は、安東氏の支配下で蝦夷地の代官を務めました。
  その後、蠣崎氏は安東氏から独立し、松前藩として北海道を統治しました。


蠣崎氏と武田氏は、中世から近世にかけての北海道(蝦夷地)における和人勢力として、密接な関係がありました。
     特に、武田信広という人物が蠣崎氏の客分となり、後に家督を継いで松前藩の祖となることが、両氏の関係を特徴づけています。
 蠣崎氏と武田氏の関係の詳細:
  蠣崎氏の出自:
    蠣崎氏は、下北半島田名部(現青森県むつ市)を拠点としていた豪族で、南部氏の一族とも、若狭武田氏の一族とも言われています。
  武田信広の登場:
    15世紀中頃、若狭国出身の武田信広という人物が蝦夷地に渡り、蠣崎氏の客分となります。
  コシャマインの戦い:
    1457年に勃発したコシャマインの戦いで、武田信広はアイヌ民族の制圧に活躍し、蠣崎氏内での地位を固めます。
  蠣崎氏の家督継承:
    コシャマインの戦い後、武田信広は蠣崎氏の家督を継ぎ、蠣崎氏を名乗るようになります。
  松前藩の成立:
    その後、蠣崎氏は豊臣・徳川氏に臣従し、1604年に松前と改姓し、松前藩を形成します。
  松前藩の家老蠣崎氏:
    松前藩内には、藩主の松前氏の分家として、家老職を務める蠣崎氏も存在しました。
  まとめ:
    蠣崎氏と武田氏は、蝦夷地における和人勢力として、密接な関係を持っていました。武田信広という人物が蠣崎氏の客分となり、
    後に家督を継いで松前藩の祖となることで、両氏の関係は歴史的に重要なものとなりました。


武田信広と蠣崎氏とは
    武田信広は、若狭武田氏の流れを汲む武将で、蠣崎氏の養子となり、後に蠣崎氏を継いで松前藩の祖となった人物です。
    蠣崎氏は、武田信広を祖とする武家で、後に松前氏と改称し、松前藩を形成しました。
 武田信広と蠣崎氏の関係:
  武田信広: 若狭武田氏の出身で、蝦夷地(現在の北海道)に渡り、蠣崎氏の客将となりました。
 コシャマインの戦い:
     1457年、コシャマインの乱で和人軍の総大将として活躍し、アイヌを制圧しました。
 蠣崎氏の継承:
     コシャマインの乱での功績により、蠣崎季繁の養女と結婚し、蠣崎氏の家督を継ぎました。
 松前藩の祖:5代目の蠣崎慶広の代に豊臣氏、徳川氏に臣従し、松前と改姓して松前藩を形成しました。
 松前氏: 江戸時代には松前藩として蝦夷地を支配し、維新後には華族の子爵家に列しました。
 蠣崎氏:
  武家: 華族: 元々は蝦夷地に渡った武田信広を祖とする武家で、後に松前氏と改称し、松前藩を形成しました。
  交易: 蝦夷地を支配し、アイヌとの交易で生計を立てていました。
 松前藩: 江戸時代には松前藩として蝦夷地を支配し、明治維新後に華族に列しました。
 まとめ:
     武田信広は、蠣崎氏の客将として蝦夷地に渡り、コシャマインの乱で活躍、蠣崎氏を継ぎ、松前藩の祖となりました。
     蠣崎氏は、武田信広を祖とする武家で、後に松前氏と改称し、松前藩を形成し、蝦夷地を支配しました。


※その他
 安東氏は秋田地方を支配していた和人(安藤と称すその後、安東)。南部氏との抗争に敗北し、津軽半島十三湊にまで追いつめられ、
 交易を生業としていた(十三湊安藤氏)。同時に、各地に分散し、蝦夷地に渡ったのは檜山安東氏。

 道南には鎌倉時代から多くの和人武力集団が跋扈(ばっこ)していて、安東氏はその中で頭角を表した一族である。臣下に津軽半島出身の蠣崎氏がいた。
 蠣崎氏はやがて安東氏に並ぶ勢力となって行った。
 和人鍛冶屋がアイヌの青年を撲殺した事件をきっかけに起こったコシャマインの戦いでは連戦連敗を遂げ、道南十二館(砦)の十まで敗北する。
 
 すると、蠣崎氏の客分に居た武田信弘が、敗走する和人を集めて戦い、一年に及ぶコシャマイン戦争に勝利した。これにより、
 蠣崎氏は若狭武田氏に家督を譲渡した。やがて養子となった蠣崎信広は戦国下剋上期の道南で勢力を拡大し、主家の安東氏も配下とした。

 若狭武田氏 武田信広は、古代清和源氏を祖とする河内源氏をルーツに持つ一族である。
 時の武家政権の配下となり、関東や中部、安芸など各地に任ぜられて分散していった。
 このうち、安芸武田氏の分家が 若狭の地頭となり、若狭武田家が成立した。
 若狭武田氏の一人が、蝦夷地に渡って蠣崎氏の配下となったのが武田信弘であった。


 松前の名称:松前は、アイヌ語の「マツ・オマイ」や「マト・マイ」(婦人のいるところ)に由来するとも言われています。


まとめ
 簡単に言うと、鎌倉時代から道南にやって来た、無頼の徒や、はぐれ武士、本州にいられなくなった悪人などが、やがて勢力を増大し、
 先住民との間でトラブルを起こしながら、寡頭化し、大きくなった武装集団がやがて蝦夷地全土を支配する許可を、
 何の関係も関心も持っていなかった、蝦夷地なんて知りもしない豊臣政権や、徳川政権に(まいない)でもって、許可を得て大義名分を作り、
 その後、財物を得る役目を近江商人に一任し、武士の身分となったにもかかわらず、何もしない武士で、
 商人に僅かな捨扶持(すてぶち)をもらってのんべんだらりと胡坐をかいていた貴族的支配者層。

 何百年かのちに、突然戦争が始まり、旧幕府軍に攻められて、当然、全滅するという、なんとも言えない、藩だった。と私は感想を持つ。

 
 


 315制書(せいしょ)
制書のよみ方

 
一、諸国より松前へ出入りの者ども、志摩守(しまのかみ)へ相断らずして、夷仁(いじん)
  (じき)に商買つかまつり候儀、曲事(くせごと)たるべきこと

一、志摩守に断なくして渡海(とかい)させ、売買つかまつり候は、きっと言上(ごんじょう)いたすべきこと
  (つけたり)(えびす)の儀は、何方(いずかた)往行候(おうこうそうらえ)とも、夷次第いたすべきこと


一、夷仁に対し、非分申しかけは、かたく停止(ちょうじ)のこと

  右条々、もし違背(いはい)(ともがら)に於ては、厳科(げんか)に処すべき者也
  よってくだんのごとし

   慶長九年正月二十七日 黒印
                    松前志摩守どのヘ

この制書(せいしょ)によって、松前氏は、名実ともに蝦夷島の支配者になりました。

制書 制書の読み方

 317体制下のアイヌ
体制に組みこまれたアイヌ
(藩主謁見(えつけん)の図) 原本・市立函館図書館所蔵

 松前藩の誕生は、アイヌ民族への新しい差別と収奪(しゅうだつ)のはじまりを意味し、
 アイヌの酋長は藩主へ貢物を差し出し、謁見を強要されました.


体制に組み込まれたアイヌ
藩主謁見の図
 

 330無高の大名
松前氏は、領内で米がとれなかったため、石高(こくだか)のない “無高(むだか)の大名,, として存在し、
当初は幕府より “蝦夷島主(えぞとう しゅ)。 というあつかいをうけ、 江戸時代中期以降は、1万石格になりました。

※松前藩 参勤交代 考
石高(こくだか)1万石(1まんごく)以上は大名であり、参勤交代の義務がありました。
松前藩が一万石認定されたのは、江戸幕府開闢以来百年後の1719(享保4)年でした。すると、1年毎に江戸と自国の参勤交代義務が発生します。
・しかし、松前藩に限っては、3~5年に一度の参勤交代でよしとされていました。

無高の大名 武鑑(ぶかん) 微塵塗大小拵(みじんぬりだいしょうこしらえ)
 
武鑑(ぶかん)
 江戸時代に、諸大名などの氏名・系譜・居城・定紋(じょうもん)知行高(ちぎょうだか)や臣下の氏名等を記した書物。毎年改訂して刊行された。

陣笠 町奉行所鬼瓦
 

 350近江商人
藩制を支えた近江商人
米のとれない松前藩にとって、交易が藩を支える重要な柱になりました。
江戸初期、 本州との交易で大きな役割を果したのが近江商人たちでした。
そのため、藩では藩主への謁見を許し、また関税を安くするなどの特権を与えました。

藩制を支えた近江商人 ※えっ!
あの悪名高き、場所請負制でアイヌを大衆収奪した「商人越後屋」は、近江商人だったのか。
そうか、松前氏=蠣崎氏=武田氏は、若狭国出身(福井県嶺南地方)だから、近江国(滋賀県)から
呼び寄せたのかもしれないね。

近江商人の交易ルート図
松前交易で活躍した近江商人は、 主に、福井県敦賀・小浜の海産問屋と取引をしていたため、 松前産物の多くは、 両地へ 集められ、
琵琶湖経由で京都 大坂などの市場へ送られました。

近江商人の交易ルート図
近江商人の交易ルート図
江差・函館→松前→酒田→新潟→敦賀・小浜→大津・京都→大坂
 このルートでは、敦賀・小浜から大坂までの運搬に一年を要することから、
 後に、下関→大坂の航路に切り替え、位置にヶ月に短縮しました。

近江商人の出身地
江戸時代に活躍した近江商人は、 全国的には、
八幡(はちまん)五個荘(ごかしょう)・日野の出身者が非常に多かったのですが、
松前で活躍した近江商人の大部分は、近江八幡及び薩摩と柳川の出身者でした。※薩摩・柳川は滋賀県湖南地方の地名。九州ではありません。

近江商人の出身地
近江商人の出身地図
●印の大小は出身者数とほぼ比例する。
帳場 船箪笥
 
松前藩と近江商人
AI による概要
 松前藩と近江商人は、江戸時代に北海道(蝦夷地)と本州を結ぶ重要な関係を築きました。
 近江商人は、松前藩の御用商人として、また場所請負人として、北海道の交易や開拓に大きく貢献しました。

松前藩と近江商人の出会い:
・松前藩は、江戸時代に蝦夷地(現在の北海道)を支配し、交易を独占していました。
・近江商人(特に八幡商人、高島商人など)は、鎌倉時代から全国的に活動し、江戸時代には北海道にも進出しました。
・近江商人は、松前藩の御用商人として、また場所請負人として、松前藩の経済活動を支えました。
近江商人の役割:
交易:近江商人は、北海道で得た海産物(昆布、ニシン、鮭など)を、松前船と呼ばれる自前の船で本州に運び、京都や大阪で販売しました。
開拓:近江商人は、北海道の漁業や農業を振興し、鉱山開発や商業施設の建設など、開拓事業にも貢献しました。
金融:近江商人は、松前藩やアイヌの人々に融資を行い、金融面でも重要な役割を果たしました。

場所請負制:
・松前藩は、アイヌとの交易を独占するために、場所請負制を導入しました。
・近江商人は、場所請負人として、特定の地域での交易や漁業を請け負い、利益を上げました。
「三方よし」の精神:
・近江商人の行動理念である「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)は、松前藩やアイヌの人々との取引にも影響を与えました。

近江商人の影響:
・近江商人の活動は、北海道の経済発展に大きく貢献し、松前藩の財政基盤を支えました。
・近江商人が持ち込んだ文化や技術は、北海道の文化形成にも影響を与えました。

まとめ:
 近江商人は、松前藩の御用商人や場所請負人として、北海道の経済や開拓に大きく貢献しました。
 彼らの活動は、松前藩の経済を潤し、北海道の発展を促す一方で、アイヌの人々の生活に影響を与え、交易の変化をもたらしました。

 上の引用は「近江商人の活躍」からAIが引用したと考えられます。従って好意的に描かれています。
 一方、「直捌制度」「近江商人の排除」では、そのあくどいやり方を指摘しています。

北海道産物の積み出し港
 松前に本州からやってくる膨大な数の北前船の停泊する港があったのかといえば、なかったと言えます。
 松前の前海にはいくつもの岩礁や暗礁が沈んでおり、大変危険な積み出し港でした。それでも沢山の船が集まってきました。
 
松前屏風
引用「港別みなと文化アーカイブス松前港」
「松前屏風」福山波止場部分

引用「コラムリレー(第11回)」
現代:松前沖の海岸と海底
岩礁と暗礁多数

GoogleMap
このような海岸に停泊すると、強風で座礁する
怖れがある。ゾッとする海底地形。
安全な停泊には水先案内人の案内が必要。

 北前船の寄港地・停泊港
AI による概要

北前船寄港地
北前船の主な寄港地は、北海道から大阪に至る日本海沿岸の港町です。具体的には、北海道の函館、小樽、石狩、青森県の鯵ヶ沢、秋田県の秋田市、山形県の酒田、新潟県の新潟市、富山県の富山市、石川県の金沢市、福井県の敦賀市、京都府の宮津市、兵庫県の神戸市、大阪府の大阪市などが挙げられます。
以下に主な寄港地をまとめます。
北海道: 函館、松前、江差、小樽、石狩、余市、寿都厚岸、釧路、根室、網走など
東北地方:青森、深浦、十三湊土崎湊、酒田、秋田、能代由利本荘にかほなど
北陸地方:新潟、佐渡、村上、高岡、富山、金沢、輪島、加賀、敦賀、美浜、小浜など
近畿地方:宮津、高砂、洲本、姫路、たつの、赤穂、神戸、大阪、泉佐野など
中国地方:倉敷、尾道、竹原浜田など
九州地方:長崎、津屋崎田野浦など
北前船は、これらの港を拠点に、海運業や商業で栄えました。また、これらの港町は、北前船文化を今に伝える重要な場所となっています。

上記はほんの一例。主な港であって、実際にはもっと沢山の港や津に停泊・寄港しました。
 

 370 砂金採集
ネコ、ゆり板  

松前の砂金
AI による概要
 松前の砂金は、江戸時代前期に松前藩が知内川流域で本格的に採掘を始めた砂金のことです。
 特に、大千軒岳周辺の知内川厚沢部川流域が中心で、福島町、知内町、松前町にまたがる地域で採掘が行われました。
 最盛期には、本州からも多くの人が砂金採りに訪れ、松前藩の財政を支える重要な資源となりました。

 採掘場所: 主に松前半島の知内川、厚沢部川流域で、大千軒岳周辺が中心でした。
 採掘開始: 元和3年(1617年)頃から本格的な採掘が始まり、幕府にも献上されました。
 採掘方法: 主に川底の砂金を集める原始的な方法で、川の流れを利用して砂金を選別しました。
 松前藩の財政: 砂金は松前藩の重要な財源となり、交易や年貢の増収に貢献しました。
 歴史的意義:  江戸時代には、佐渡や伊豆の金山に匹敵する規模の砂金が採掘され、北海道の歴史において重要な役割を果たしました。
 現代:   今でも、一部の川で砂金採りが体験できます。

 
 400
1Fへ下りる
2F 1.北海道の成立
  2.大むかしの松前
  3.和人地の成立
  4.天下統一と蝦夷地

1F 5.城下のにぎわい
  6.しいたげられたアイヌ民族
  7.北方に目をむける幕府
  8.おしよせる時代の波 


 4105城下町の賑わい
松前城下のにぎわい
江戸時代の松前は、北海道唯一の城下町 として、また本州交易の中心地として、 発展し、繁栄しました。
数多くの武士とともに、蝦夷地の富を求めて
やってきた商人や船のりたちのむれ...............
そこには、松前特有の文化が花ひらきました。

城下のにぎわい


沖の口役所
松前藩は、松前・江差・箱館のの3港に沖の口役所(おきのくちばんしょ)を置いて、出入りの商品や船・人馬を厳しく取り締まりました。
この絵は、松前沖の口役所で、上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを受けているところです。

沖の口役所 沖の口役所


北海道指定有形民俗文化財
求福山山車(ぐふくさん だし)の人形その他付属品」
求福山山車 胴幕
 松前城下を代表する山車の一つが 求福山高砂山であった。城下の七社祭礼には、このような豪華な山車が各町内から引き出されたいへんなにぎわいであったという。
側 面に張られた幕が胴幕で、孔雀の雌雄をデザインした幕である。オランダ製の赤の羅紗地に金糸・銀糸をふんだんに用いた刺しゅうで、往時の松前の繁栄を象徴するものであり、製作は京都と考えられている。近年、傷みが激しいため、 昭和63年度には道費の補助を得て修復をしている。

求福山 山車 胴幕

 420北前船(きたまえぶね)とは
北前船とは通称“弁財船(ぺんざい(べざい))”と呼ばれ、おもに、日本海を舞台に大坂から下関を経由して、松前交易にたずさわった
一枚帆の和船のことです。

また経営のしかたが、 荷主などに依頼されて商品を運ぶ賃積(ちんづみ)船とちがい、
船頭が即商人であり、船頭の意志で、各寄港地で商売をする買積(かいづみ)船であったところに大きな特徴がありました。

 ※船主が船頭に全権をゆだねて運行され、従って船頭には大きな権力と、商売の成功が託され、見返りに莫大な報酬が約束されていた。

北前船


《 沖口役所の標柱》
沖口役所とは、現在の税関 のような機能を備えた役所であり、松前、江差、箱館 の三港におかれた。
この標柱は松前藩の復領後 建てられ、地下から偶然発 見されたものである。
  銘 文政癸未歳次建立
   (文政六年(1823年)建

 422
北前船の航路
北前船の船主には、加賀の大乗寺(だいじょうじ)橋立(はしだて)越前の河野敦賀など、富山、石川、福井、沿岸諸港の人たちが多く、
彼等は、日本海を 舞台に、活躍しました。

北前船の航路
 425
絵馬
北前船主や船頭たちは、海の 安全を願って、各地の神社に絵馬を奉納しました。この絵馬もそのひとつです。

絵馬 船箪笥 仏教寺院からの
安全祈願
 430

船だんす
 北前船などの船が航海上必要な書類や重要書類などを入れて使用し、船が難破しても壊れず、また他の人に盗まれないように仕掛けをしたりして作られています。
 たんすには懸硯(かけすずり)、斑蓋(はんがい)、帳箱(ちょうばこ)の3種類があります。

船だんす

 道指定重要文化財
  求福山の人形とその附属品

求福山
東西両町から出された山車のうち、西の山車が求福山です。
京都の祇園祭に出される山車を模したと言われています。
側面、背面の飾幕は見事な刺しゅうで覆われ、山車には高砂の翁と姥の人形が飾られています。
人形のきものは、藩公が着ていたものが使われていると伝えられています。

求福山額と人形と
附属品
求福山

 商人の実力
交易によって多くの富を得た商人たちは、藩を左右する程の力を持ち、 松前の文化にも、色々の影響を与えました。
商人の財力が最もよく誇示されているのが城下最大のお祭り “七社祭礼, に、 東西二町からくりだされた山車でした。

商人の実力

求福山 山車 胴幕
 440北前船が運んだ文化
松前神楽
郷土芸能 手杵
手杵=島根銭太鼓
が伝わったのでしょうか。

※北前船と文化の波及

 北前船は風待ち・天候待ちのために各地の有名・無名の港に停泊しました。そこでは、有り余る財力に任せて、連日の宴会騒ぎで、余興に供された地元の演芸が披露されました。
 北前船は、航路上の各停泊地の文化を集め、逆に航路の端々に広めました。祇園祭は列島各地で地元化した祭へと輪郭を残しながら定着しました。
上写真の手杵は、島根安来節の道具である銭太鼓によく似ており、それが伝わったのでしょうか。

 文化移植先では名前が不明なら適当に名付けるようです。例えば
関西のおしるこぜんざいは、関東ではしるこ→汁気の多いものぜんざい→汁の無いもの田舎ぜんざい=関西のぜんざい。というらしい。
見るからに正確な伝搬がなく、名称が混乱しています。
 特に最後の田舎ぜんざいは、粒があるのが下品だということで田舎と名付けたのでしょうか。しるこ=汁と捉えたのも想像できます。
文字や絵ではなく、関西にちょろっと行った人の曖昧な記憶が庶民の間に拡散したのかもしれません。
そう考えると、ヤジさんキタさんが、床几に座って片膝を組み、こっちとらぁ江戸っ子だぃ!などと粋がって上から目線で関西文化を見下している
様子が浮かびます。

 

 5206しいたげられたアイヌ
しいたげられたアイヌ民族
ひらけゆく蝦夷地、にぎわう松前城下、その裏には、アイヌ民族の怒りと悲しみが ありました。
おしよせる圧迫の中でも彼らは、いのちをかけて民族的誇りを守りつづけていきました。

しいたげられたアイヌ民族

アイヌ人口の減少
蝦夷地の開発がすすむにつれ、アイヌの 人口は著しく減少してゆきました。
中でも、道南地方はじめ(ニシン)や鮭漁が 発達した西海岸及び根室、国後地方が、最もはなはだしく、
鯡漁場で有名な小樽、 歌棄磯谷寿都などは、 明治初年頃には、全滅ないしは、わずか 数人という状態になっていました。

アイヌ人口の減少
アイヌ人口減少地域別順位
アイヌ人口の推移

高利をもたらしたアイヌ交易

➀アイヌ漁夫の賃金の4~8倍が和人漁夫の賃金
②アイヌからの買い付け値段のの3倍で和人からは購入する
③アイヌに売る値段の半額で和人には売る。

アイヌ民族のたたかい
封建制社会のなかにおかれたアイヌ民族はたえきれない抑圧に、いのちをかけてたたかいました。

そのうち最も大きなたたかいは、
康正(こうせい)2(1456)年~長禄元(1457)年の道南地方を舞台にしたコシャマインのたたかい
寛文(かんもん)9 (1669) 年日高から石狩までの広い範囲のアイヌ民族がたちあがった、シャクシャインのたたかい、さらに
寛政元(1789)年、クナシリ、 根室地方 を舞台にした、クナシリ・メナシの たたかいです。

  コシャマインのたたかい シャクシャインのたたかい クナシリメナシのたたかい

アイヌ民族のたたかい


  私の大事な恋人が
どこか遠いところにやられた
あなたは今どこにいるのか
風よ 憎い風よ
お前は自由な風だから
お前だけは私の恋人の
まわりをまわり
さわっても歩けるだろうが
私は人間だから
行くことができないのだ
ヤイサマネナ
仕方ない風にでも
鳥にでもなって とんで行ったら
恋人にさわれるだろうか
ちょっとでも姿を見れないだろうか
ヤイサマネナ


 5307北方に目を向ける幕府
7北方に目をむける幕府
江戸時代の終わりころになると、 幕府は、産物の豊かな蝦夷地に、 特別な関心をよせました。
ロシアが、蝦夷地周辺に南下したのを機会に、松前氏から領地をとりあげ、 蝦夷地を、直轄してしまいました。

7北方に芽を向ける幕府

正確になった北海道の地図
松前藩は、現在の北海道、千島及び樺太南部の広大な土地を領地とし、面積では日本最大の藩でしたが、その大部分がアイヌ民族の居住地であったために、藩領の地図も江戸中期頃までは、不正確なものでした。
ところが、18世紀末に入って、幕府が北方への関心を示し、 蝦夷地の調査を行なうようになってから、次第に正確な地図がつくられる ようになりました。

正確になった北海道の地図
元禄御国絵図(写)
元禄御国絵図(写)
元禄13(1700)年松前藩が幕府に提出した地図 

蝦夷輿地全図(写)
蝦夷輿地全図(写)
天明5(1785)年山口鉄五郎外幕府の調査隊が作成したもの。

蝦夷国測量図(写) 蝦夷国測量図(写)
寛政文化年間、 伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの。
(1789~1818)


 540本州に移封された松前氏
寛政11(1799)年、幕府は松前藩から東蝦夷地をとりあげて仮直轄し、さらに享和3(1803) 年には、 永久直轄しました。

その後、文化4(1807)年には松前氏を福島県の梁川(やながわ)に移封し、全蝦夷地を直轄しました。
これより、以後14年間(文化4(1807)文政4(1821)年)、 松前氏は、 梁川(やながわ)藩9,000石の領主になり"松前藩は消えてしまいます。
9000石とは大名から降格されたということです。

文政5(1822)年松前藩の蝦夷地復帰に伴い、梁川藩は消滅しました。松前藩は復活しましたが、1871(明治4)年廃藩置県で消滅し館県となりました。

※松前藩→館藩(たてはん)館県(たてけん) 
※館:たて、やかた。大きな建物を意味する。別名は陣屋

本州に移封された松前氏
 540調度品
 550

 551福山城(松前城のこと)の築城
幕末になって諸外国船の津軽海峡往来がはげしくなると、幕府は、 北方警備のため嘉永2(1849) 年、 松前崇広(たかひろ)に築城を命じました。
安政元(1854)年に落成したこの城は、 日本最後の旧式の城です。

福山城の築城 福山城の築城


福山(たて)と福山城
安政元(1854)年の新城完成までの福山城は、正式には館または陣屋と称されました。
嘉永2(1849)年、 松前氏は城主となったためこの時から正式に福山城となりました。

福山館と福山城 文化年間福山館平面図
安政元年福山城平面図
松前城下眺望の図
嘉永元年(1848)


3万石の大名
安政2(1855)年、箱館を含む大部分の領地が、幕府の直轄となり、代わって、東北地方に、領地をもらったため、
この時から松前氏は、3万石の大名になりました。

文政5(1822)年~安政元(1854)年
文政5年松前氏は領地を回復され松前に戻ることができました。

安政2(1855)年~明治4(1871)年
安政2年領地を減封され、渡島半島の一部、知内,松前,上ノ国となり、
16年後廃藩置県となりました。

※領地回復された1822年の27年後、それまで、陣屋であった松前藩は、1849年に、幕府が松前城(福山城)の築城を命じ
 5年がかりで福山館を改修・拡張して安政元年(1854)完成しました。二度の移封によって資力の衰えた松前藩は、城下の商人に資金の献上を求めました。

献上金五ケ年上納通
築城にあたり、資金に困った松前藩は城下の人々からの献金によってそれをまかなった。
この資料は、每年2O両ずつ5年間納めたことを示す。
 千葉市 二宮照子氏寄贈

献上金五ケ年上納通

 553薙刀
北海道指定有形文化財
薙刀銘 堀井正次


※幕府の沿岸防備考
 外国勢力による相次ぐ領土侵犯や上陸、襲撃により、危機感を強めた幕府が、蝦夷地全般の権利をはく奪し、直轄での防衛を志したが、
その実現に挫折し、再度、松前藩を再興し、蝦夷地防衛の一端を担わせたのだが、本来、蝦夷地防衛など一考だにしていなかった松前藩は
その準備も経費もなく、それまで、江戸初期から幕末までの間に蓄えた資産を何に使っていたのか。そもそも、蝦夷地経営など考えてもいず、
その経営能力もなく、単に、御用商人からの上納金で無為徒食していたにすぎない、藩政だったのではないだろうか。

 上写真の薙刀と陣羽織は、まさに、室町時代の(いくさ)装束。本気でこの薙刀でスペンサー銃と一戦交えるつもりだったのか、
それとも、このような物しか調達できなかったか、そもそも、近世末の軍事情報など、持ち合わせてはいなかったのではなかろうか。
 後に、旧幕府軍との交戦では、旧幕府軍のスペンサー銃に対して、火縄銃で応戦して全滅している。
商人による収奪の上に胡坐をかいていただけ。どうしようもない藩政に見えるのだが。


 沿岸防備というのは、外国人打ち払い令のことだろう。小学生向け学習雑誌で、よく目にしたのは、幕府の砲台場から撃った弾は、船に届かず、逆に船から撃った砲弾は、台場周辺に打ち込まれた。だから、火力の差は歴然だったという記述だった。
 しかし、現代でも、警告射撃として、対象にではなく、その周辺や進路前方に警告射撃する。打ち払いとは、まさに警告の砲撃だっただろう。
当時の川柳などに幕府砲台の火力不足に見える様子を揶揄した表現があったとして、それをそのまま小学生に書き連ねるとは滑稽である。
70才を過ぎた今でも、その時のイラストを覚えている。それほど印象が強かった。

 で、実際、ライフルマークの切っていない筒の中から飛んでいった弾は、それほどの飛距離は稼げなかったのは事実だったかもしれない。



 554箱館戰爭
松前は、明治元年11月、榎本武揚の卒いる旧幕府軍の攻撃を受け、 館城(たてじょう)も落城し、藩主以下津軽へのがれました。
翌年、官軍によって松前は、 奪還されましたが2度にわたる兵火のために城下の大半が焼失してしまいました。
城下の人々にとって、 戦争は物心両面に大きな傷あとを残しました。

 箱代戦争 陣羽織   函館戦争      


町内出土の砲弾・弾丸
明治元年及び2年の箱館戦争は 松前でも激戦が繰り広げられ、 城下に大きな被害をもたらした。 現在でも町内の各所から、当時の砲弾や弾丸が発見されることは珍しくない。
旧式の火縄銃の弾丸や最新式の スペンサー騎銃の弾丸、 和式の大筒の砲弾や洋式の爆裂弾など種類も豊富である。 当時、世界的に武器の進歩は著しく、アメリカの南北戦争が終結した後でもあって、 ヨーロッパの武器商人たちは競って日本へ武器の売り込みを図ったのである。
各種の弾丸砲弾が見られるのは、こうした背景があることを示している。

※爆裂弾:砲弾の中に炸薬(火薬)が入っていて、着弾と共に破裂して、飛び散る砲弾片は鋭利に包丁になって、爆発する火薬は周囲を吹き飛ばす。
 現代の砲弾と同じである。

町内出土の砲弾・弾丸
洋式銃の弾丸
火縄銃の弾丸

 555日本遺産
  荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間
   ~北前船寄港地・船主集落~

 山を仰ぐ港と山に抱かれる港
  一攫千金・のこぎり商いが育んだ港町
   「板子一枚下は地獄」に生きた男たちが運んだもの・残したもの
     北前船が帆をあげて現代に残した文物交流

 日本海沿岸には、山を風景の一部に取り込む港町が点々とみられます。 そこには、港に通じる小路が随所に走り通りには広大な商家や 豪壮な船主屋敷が建っています。 また、 寺社には奉納された船の絵馬や模型が残り、 京など、 遠方に起源がある祭礼が行われ、節回しの 似た民謡が唄われています。 これらの港町は、 荒波を越え、動く総合商社として巨万の富を生み、 各地に繁栄をもたらした北前船の寄港 地・船主集落で、 時を重ねて彩られた異空間として、 今も人々を惹きつけてやみません。

認定自治体
北海道函館市 北海道松前町、 青森県鰺ヶ沢町、 青森県深浦町、 秋田県秋田市、 山形県酒田市、新潟県新潟市、 新潟県長岡市、
石川県加賀市、福井県敦賀市、 福井県南越前町 計11市町

松前町の日本遺産構成要素
➀福山波止場 ②沖口役所跡 ③松前屏風 ④松本家土蔵及び松本家資料 ⑤福山城下町遺跡 ⑥龍雲院 ⑦松前藩主松前家墓所
⑧松前沖揚げ音頭 ⑨難船図絵馬 ⑩松前祇園ばやし

日本遺産 海上から見た松前城下