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はじめに
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渡島半島南端の小さな資料館ですが、
➀2万年前のカムチャツカ半島の旧石器時代の墓と副葬品が出土した。また、
②縄文後期のストーンサークルが出土したものは秋田県に由来する。
旧石器時代には遥か遠方からの人の往来と居住が頻繁に行われていた地域であり、関連遺物が展示されています。
こんなに小さな資料館に、大きな博物館にもない、驚くような資料があったことは、決して小館だからとあなどっていけないことわかります。 |
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目次
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01外観
10旧石器時代
11旧石器時代の墓
湯の里4遺跡
※考察 ルートン人の遊動
13旧石器時代墓の副葬品
15旧石器時代の墓
20旧石器墓出土の副葬品と台形石器
※考察 台形石器
※北半球の海流模式図
※スンダランドからカムチャツカ半島へ
30湯ノ里4遺跡の発掘
40旧石器時代の石器 湯ノ里4遺跡
41細石刃核
42黒曜石石器
43有舌尖頭器
舟底型石器
尖頭器
44有舌尖頭器
※美しい尖頭器
45両面加工石器
50石核
60原石(頁岩) |
100縄文時代
101先史時代の知内
110円筒下層式土器
120円筒上層式土器
130森越式土器
140縄文中期土器
150縄文後・晩期土器
160ストーンサークル
162縄文後期土器
170縄文の装身具
174湯の里3遺跡 祭祀遺跡
180森越遺跡
190森越遺跡出土品
191石器
197森越式土器
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201湯の里1遺跡
210湯の里1遺跡出土品
212石器
220土器
230涌元遺跡
240石器
250土器
310涌元遺跡
320古銭 |
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01外観
知内町郷土資料館
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館内 |
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10旧石器時代
特徴:➀旧石器時代の墓と副葬品が、カムチャッカ半島のものであった。 湯の里4遺跡
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旧石器文化
約2万年から1万年前、氷河期の終わり頃の人々は、石を割って様々な道具を作っていました。このような打製石器を使用した頃が旧石器時代です。
北海道からは、東北アジアの旧石器文化の中でも、優れた加工技術を示す石器が見つかっています。
道南地方では頁岩、道東地方では黒曜石が石材として主に使われました。
この時代につけられた石器の原石の産地は、長い間利用され、その加工技術は、縄文時代を通じて文化の地域色を形成することになります。
青函トンネルの出入り口に近い知内町湯の里で津軽海峡線建設に伴い発掘調査を行いました。
湯の里4遺跡では、旧石器時代の石器の中から台形石器が見つかりました。これは西北九州に多く分布する石器で、北海道では初の発見です。
ここでは、カムチャッカ半島のものによく似た旧石器時代の墓も発見されました。また
湯の里5遺跡発見の縄文時代のストーンサークルも秋田県に日本最大のものがあります。
これらの事は、旧石器時代から縄文時代を通じ、津軽海峡などの海を越えて、文化の交流があったことを示しているのでしょう。 |
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11旧石器時代の墓から発見された副葬品 湯の里4遺跡
旧石器時代の墓
湯の里4遺跡 旧石器時代 2万年前
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ここに展示されている装身具や石器は、旧石器時代最末期(約2万年前)の墓から出土したものです。
墓は
縄文時代の層の下から細石刃石器群や尖頭器石器群などの旧石器時代の石器が出土し、その下、深さ40~50cmから、
石刃核が4点集中し、その下から、
長径1.1m、短径0.9mの楕円形で、底面には赤色土壌が散布された墓坑が出現し、 |
副葬品
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その脇にカンラン岩製の垂飾1点と玉が3点、琥珀製の垂飾1点、それに頁岩製の石刃核4点、石刃1点、細石刃2点、剥片2点が置かれていました。
石製・琥珀製の装身具は日本で最も古い装飾品であり、墓に埋葬された人の副葬品です。
このような副葬品が伴う例として、カムチャッカ半島のウシュキ遺跡のお墓があります。
また、装身具の原材については、日本原産のものでないことがわかっています。
このようなことから、知内で発見された墓と副葬品は、縄文時代の墓制の起源を旧石器時代まで遡らせただけでなく、旧石器時代の人や物資の交流を考える上でも貴重なものです。
そして、旧石器時代の墓の副葬品の実態を知る上で、また、北海道と大陸の交渉史を考えるために、学術的価値の高いものであることが認められ、平成3年6月、国の重要文化財に指定されました。⤵
※考察 ルートン人の遊動
ということは、湯の里4遺跡の人々は、カムチャッカ半島から来た人々で、宝石を副葬する程の財力・権力者であることから、
かなりの人数を指揮してやって来た。ということでしょうか。しかも、何度もカムチャッカ半島と渡島半島南端を行き来していたので、
カムチャッカ半島の財物を運ぶことができたのでしょう。
旧石器時代の北海道・サハリンはシベリア大陸から突き出た半島だったし、千島列島の島々も、もっと連結した大きな島であったのだから、
カムチャッカ半島から島づたいに知床へ、更に南周りで道南の先端にたどり着いたと想像できます。
きっとこの寒冷期に多くの北方系の人々も、北海道や東北地方、更には、北陸富山にまでたどり着いていたのでしょう。
※旧石器人の墓は、ここでは2万年前とされているが、1万4千年前とする記述もある。ここでは2万年前としておきます。
で、このカムチャッカ半島から来た人々はどんな人だったのか。と、疑問が涌きます。
4万年前のバイカル湖周辺の細石刃文化人や、3万年前のシベリアでグラマーな女性像を彫っていた人々が、東進してカムチャッカ半島で
海洋民族として、カヌーを操ってクリル諸島を南下し、暖かい水の流れる津軽海峡に住み着いたというのだろうか。
カムチャツカ半島で高い文化(埋葬・副葬・財物の製造・所有)を築いた人々がその文化を持って知内にやって来た。
彼らの生業は海洋狩猟である。知内でも狩猟に励んだに違いないが、獲物は北氷洋程獲れたのだろうか。
彼らのルーツに関して、初めて聞く民族名が上がっている。ルートン人である。
これは、カムチャッカ半島のルートン地域に住む人々という意味で、特に意味はない。しかし、引用ページでは、
ルートン人のウシュキ遺跡(13,000年前)は石器で、東のアラスカと繋がり、北海道南西端の知内町遺跡(2万年前)とは墓の副葬品で繋がる。
つまり、この提案者は、彼らは北海道の祖人であり、ベーリング海峡を挟んだ両地域に広く遊動分布していた人々と云っている。
彼らはベーリンジアの対岸、アラスカにも渡っていた。しかし、シベリアとの繋がりは語られていない。
バイカル湖からやって来た人々のグループとは、違うようだ。
※この引用記事では、
ルートン人は、アイヌでも、オホーツク人でもない、古南方・祖人系の北の遊動民・海洋民。つまりスンダランド系の人々の
カテゴリーとして扱っている。
海洋民族であるスンダランド人が、極地方に行き、寒冷地適応して生き残った人々が、遊動民であったかもしれないことは理解できる。
彼らは、絶海の孤島北硫黄島に遺跡を築き文化を発展させたり、縄文時代には房総半島から伊豆諸島の先の太平洋の孤島に出かけ、
特別な日にしか採取できない貝を採って、また、黒潮を横切って帰ってくるなど、超人的な海洋民族でした。
現在の寒冷地に居住するのはエスキモーと呼ばれる人々である。しかし、
そもそも、エスキモーはどんな人々だったのか。ベーリング海峡を越えて北米に進出したモンゴロイドというだけでは理解できない。
内陸のモンゴロイドが乱氷帯を徒歩で渡ってアラスカに進出する。とされているが、それは困難な話である。
ベーリング海峡の西で寒冷地適応・海洋狩に猟馴化してからベーリンジアに進出した。のか、それとも、内陸モンゴロイドとは別の、
寒冷地適応した海洋民族が氷海を越えてアラスカに到達し、カナダ北部からグリーンランドの北極海で広く拡散したのか。
現在も、エスキモーの遺伝的つながりは、解明されていないそうである。拒否されているようである。
いずれにしても、2万年前にカムチャツカ半島に寒冷地での文化を形成し、宝石や埋葬の文化を持って南下して来た人々が、
少なくとも 噴火湾北部の今金町・ピリカ遺跡で高い旧石器時代の石器文化を顕現し、生産し、
100km南の知内町湯の里4遺跡でも同じ玉石を持った人々が暮らしていたということは、何らかの関連性があるのに違いない。
例えば、ルートン人の埋葬遺跡では大量のベンガラが散布されているらしい。知内の対岸の津軽半島赤根沢がベンガラ産地であり、まさか、
ここからカムチャッカ半島まで運んでいたとか。だとしたら、高価な宝石を多数副葬されたのも納得がいく。
旧石器時代にすでに商業活動が開始されていた。信州の黒曜石鉱山でも、旧石器時代に交易を目的とした商業・宿泊・交換の業務があったから
きっと白滝などの黒曜石産地でも同じような原始的商業活動が行なわれていたのかも知れない。
つまり、湯の里4遺跡は、赤根沢のベンガラを、例えば、ピリカ遺跡で生産した石器や、カムチャッカ半島の貴重な産物と交換したりする、
出先機関として機能していたのではないか。それを季節風を利用してカムチャッカ半島まで運んでいたのではないか。
海洋民族なら可能かもしれない。
などと、私の勝手な思い込みかも知れません。
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旧石器時代の
墓と副葬品
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ウシュキと湯の里
位置図
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カムチャッカ半島 ウシュキ遺跡
AI による概要
カムチャッカ半島のウシュキ遺跡は、旧石器時代後期から完新世にかけての遺跡で、約14,000年前から10,000年前の生活を物語る重要な場所です。特に、この遺跡から出土した土器は、北東アジアにおける土器文化の起源を考える上で重要な手がかりとなります.
ウシュキ遺跡について:
場所:ロシア連邦、カムチャツカ半島の中央部、ウシュコフカ川沿いに位置します。
年代:旧石器時代後期から完新世にかけての遺跡で、約14,000年前から10,000年前の層位が確認されています.
特徴:
・土器:この遺跡から出土した最古の土器は、北東アジアにおける土器文化の起源を考察する上で重要な資料です。
特に、ウシュキI遺跡第7層から発見された土器は、約14,000年前のものと推定されています.
・石器:多様な石器文化が発達しており、狩猟や漁労、加工などの活動で使用されたと考えられます。
・住居跡:住居跡や埋葬跡も発見されており、当時の人々の生活様式を知る手がかりとなります。
・自然環境:遺跡周辺は、火山活動の影響を強く受けており、遺跡の地層にもその痕跡が残っています。
重要性:
・土器文化の起源:ウシュキ遺跡の土器は、北東アジアにおける土器文化の起源を考察する上で重要な資料です。
・旧石器時代から新石器時代への移行:遺跡の年代は、旧石器時代から新石器時代への移行期にあたり、
その過程を研究する上で貴重な情報を提供します。
・カムチャツカ半島の歴史:カムチャツカ半島の歴史や文化を理解する上で、重要な遺跡です.
参考資料:
・ウシュキ遺跡 – Wikipedia: この遺跡に関する基本的な情報が記載されています。
参考文献 ウシュキ遺跡 土に埋もれた知内の物語を発掘する 世界人類史注目の痕跡、祖人系の北の遊動
※ネット検索でウシュキ遺跡の名前は出てきますが、詳細は不明。ウシュコフカ川も情報有りません。
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湯の里4遺跡 北海道上磯郡知内町湯の里46-1,47,48-13
遺跡は、出石川の旧河川右岸の標高23~30mの段丘上にある、旧石器から縄文晩期までの遺跡です。
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湯の里4遺跡
種別 墓
時代 旧石器
主な遺構 土壙墓
主な遺物 台形石器 峠下型細石核 ホロカ型細石核 細石刃
有舌尖頭器 石錐 尖頭器 舟底形石器 エンドスクレイパー
荒屋型彫器 広郷型彫器 両面体石器※⤵
石斧 石核 垂飾 玉
特記事項 旧石器時代の墓。琥珀の垂飾。カンラン岩製の垂飾・玉。台形石器。
※両面体石器とは⤴ AI による概要
両面体石器とは、石の両面を加工して作られた石器のことです。特に、旧石器時代のアシュール文化に見られる、扁平で左右対称に近い形をしたものを指すことが多いです。
両面体石器と両面調整石器の違い
両面体石器と両面調整石器は、言葉は似ていますが、意味が異なります。
両面調整石器は、石の両面を調整して作られた石器全般を指す言葉で、両面体石器もその一種です。
両面体石器は、アシュール文化に見られるような、特定の形をした石器を指すことが多いです。
※おそらく両面調整石器=両面体石器と誤解して使用されたと思われます。
※アシュール文化は15万年以上前の文化で原初的な石器を使っていました。細石刃が出土するような遺跡で15万年前に先祖がえりはあり得ない。
湯の里4遺跡
主な時代 : 旧石器時代
遺構概要 : 旧石器2010、標高33m。旧石器-石器集中+墓壙。
遺物概要 : 旧石器2010、旧石器-台形石器+槍先形尖頭器+両面調整石器+細石器+有茎尖頭器+スクレイパー+彫器+敲石+台石+石刃+石核+錐形石器。
主な遺構 : 土壙墓 ピット13 Tピット1 土壙墓1
主な遺物 :
台形石器、峠下型細石核、ホロカ型細石核、細石刃、有舌尖頭器、石錐、尖頭器、舟底形石器、エンドスクレイパー、荒屋型グレイバー
広郷型グレイバー、両面体石器、石斧、石核、垂飾、玉、
縄文時代
見晴町式土器、ノダップ2式土器、湯の里3式土器、大洞C1式土器、大洞C2式、二枚橋式土器
つまみ付きナイフ、靴型石匙、石刀、ヒスイ勾玉 |
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13旧石器時代墓の副葬品
旧石器時代の墓の副葬品
湯の里4遺跡
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カンラン岩製の
小玉と垂飾 |
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橄欖岩製垂飾
琥珀製垂飾
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旧石器時代の墓副葬品
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・カンラン岩製の小玉と垂飾
・琥珀製の垂飾
※カンラン岩製小玉(ビーズ)は、100km北のピリカ遺跡でも同様のものが出土しており、どちらも大陸産であると判明した。
北海道の旧石器時代文化は、このような遊動する人々(ルートン地域人)が主体で出来上がっていたのではないか。
※旧石器時代に、大陸のどこかでは、縄文時代にも存在する、美しく精緻な装飾品が、宝石で作られていた、ということに
深く感動しました。 |
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15旧石器時代の墓
旧石器時代の墓 |
湯ノ里4遺跡で発見された日本最古の墓 |
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旧石器時代(氷河期の極東) |
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20旧石器墓出土の副葬品と台形石器
旧石器墓出土の副葬品と台形遺跡
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国重文指定書 |
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石刃核
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石刃核 |
石刃核
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石刃核  |
石刃核 |
石刃核 |
剥片石器と台形石器
剥片と台形石器 |
剥片 |
台形石器
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※この台形石器が西北九州からしか見つかっていない石器。 |
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※考察 台形石器
湯の里4遺跡の台形石器は、西北九州からしか見つかっていない。
遥か南方海上の海に沈んだスンダランドから脱出した丸木舟の海洋民が、縄文時代に南九州では進んだ土器文化を展開していたが、
それ以前の旧石器時代に西北九州で台形石器をもたらしたグループがあった。
また、海流に乗って北赤道海流→亜寒帯海流に入り、死の亜寒帯循環を避けてカムチャツカ半島にたどり着いた人々がいたのかも知れない。
これまで見て来た台形石器とは異なる刃物として明確な形を持った石器で、進化した形をしている。これもスンダランド人の遺物なのか。 |
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考察 スンダランド人がカムチャツカ半島に到達したルートを考える
※これは現代の海洋循環模式図ですが、2万年前の海洋循環・海流の流れの参考になります。海洋漂流民は現代人が複雑な地下鉄線を次々乗り換えて目的地に到達するように、海流を乗り換えてカムチャツカ半島に到達したのかも知れないと想像します。
※これ余談ですが、江戸時代に八丈島から目の前に見える青ヶ島に、間を流れる黒潮を乗り越えて到達しようとした船が紀伊半島に到着したり、
鹿児島を出た船が青ヶ島に到着したりした理由がよくわかりました。
※冬季には海流が特別な流れとなり、北西風もあいまって、航海しようとする船舶は難破前提の旅となる。 |
叩石 |
赤色土壌
ベンガラ
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※赤色土壌とはベンガラを含む土です。
弁柄は対岸の赤根沢に産出し、これを運んで来たと考えられ、
湯ノ里4遺跡の被葬者は、旧石器時代にありながら、この鉱物の交易に関わっていたのかも
知れないと想像しています。
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30湯ノ里4遺跡の発掘 旧石器時代の墓坑遺跡
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40旧石器時代の石器 湯ノ里4遺跡 |
41細石刃核
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細石核(細石刃核) |
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細石(刃)核と細石刃 |
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細石(刃)核
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42黒曜石石器 湯ノ里4遺跡
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※知内地域は頁岩製石器の地域である。これらの豊富な黒曜石は白滝から運んで来たものではないか。
赤井川の粗悪原石や、十勝・置戸(赤い黒曜石)の内陸部よりも、膨大な埋蔵量と海に近い利便性から、白滝から運び交換材としても利用できた。
のではないか。 |
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43有舌尖頭器 旧石器終末期~縄文草創期。約1.4万年~1万年前 湯ノ里4遺跡
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先端を鋭く尖らせた槍先形の打製石器を尖頭器といい、旧石器時代にあらわれます。
展示資料のように尖頭器の基部側に突起を持つものを有舌尖頭器と呼びます。展示している石器は、チャート及び頁岩で作られています。
ナウマン象が活動していた時代に使用されていた狩猟用の石器です。 |
有舌尖頭器 |
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有舌尖頭器
旧石器終末期~縄文草創期。
約1.4万年~1万年前 |
舟底型石器
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舟底型石器 |
※下の引用により、
舟底形石器は、彫器を剥ぎ取るための石核とされている。
これまで大量の小さな舟底形石器が展示されていた博物館があったが、
このことから考えると、それらは沢山の彫器を剥ぎ取った後の、なれの果てだったようだ。
つまり、あの大量の、ほぼ同じほどの大きさの舟底形石器は、剥離済みのゴミだったらしい。 |
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北海道の旧石器 引用「函館市地域尻用アーカイブ」170 ~ 171 / 706ページ
北海道で最も古い石器である
前期白滝文化の石器は、細長く縦長に剥ぎ取った大形の石刃で、舟底形をした石器、小形の握斧状石器などがある。
この石器の年代は1万7000年前から1万6000年前である。
後期白滝文化になると、大形の細長い縦剥ぎの石刃がなくなり、扁桃形の槍先の形をした石器から造る白滝形彫器や、幅広の縦長剥片の石器、
舟底形の一端から一定方向へ小さな縦剥ぎの石片を取った彫器と、石片の先端を加工した彫刻刀及び槍先などが現われる。
これは黒曜石水和層年代1万5000年から1万2000年で、多くの旧石器遺跡はこの時期に相当する。
旧石器時代晩期に細石刃、槍先や彫刻刀と、有舌尖頭器と呼んでいる小形の槍先ないしは矢の先に付ける大形の石鏃が出現する。
また、打製の片刃石斧で、局部的に磨痕を持つ特殊な石器が現われる。この局部磨製片刃石斧は、縄文時代の石斧の祖形である。
北海道の有舌尖頭器は、市立函館博物館が調査した立川遺跡の名称を冠して立川ポイントとも呼ばれ、1万2000年から8000年前のものと推定されている。
北海道の旧石器文化は、石刃文化の最盛期に始まって細石刃文化に移り、弓矢と局部磨製石斧の出現で新石器時代の土器文化に発展したといえる。
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尖頭器 湯ノ里4遺跡
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上記引用によると、
細石刃、尖頭器、有舌尖頭器は旧石器時代の晩期に登場した。
尖頭器は旧石器時代中頃から作られ始めます。表裏両面を加工し、先端の尖った木葉形や柳葉形などさまざまな形が作り分けられます。槍の柄の先端につけた狩猟具と考えられ、なかには長さ30cmを超える大形のものも見られます。引用「尖頭器」 |
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44有舌尖頭器 引用「函館市地域史料アーカイブ(4)有舌尖頭器」 湯ノ里4遺跡
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旧石器文化の最後の段階は有舌尖頭器とよばれる長さ6~cm程で、柄をつけるための茎(舌)部をもった石器を特徴とする文化である。
このほかに片刃石斧、彫刻器などをともなうが、いまのところ確実な土器の伴出例は知られていない。
蘭越町立川遺跡から最初に発見されたことから立川文化ともよばれている。弓矢の発生に大きなかかわりをもち、縄文文化への橋渡しの役割を担った文化でもある。
有舌尖頭器はその形態から、
東北日本に分布する立川(たちかわ)型の有舌尖頭器と、
その変種と考えられる細身の小瀬ヶ沢(こせがさわ)型の有舌尖頭器、
西南日本に分布するやや幅広の柳又型の有舌尖頭器に大別される。 引用「長野市デジタルミュージアムながの好奇心の森 三つの有舌尖頭器」 |
※考察 美しい尖頭器
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尖頭器、有舌尖頭器は、共に神子柴石器群を思い出す美しい石器です。 芸術品のように精緻に剥ぎ取られたフレークから生まれた尖頭器群です。
神子柴型石器群は東シベリア沿海州に起源を持つと云われており、17,000-16,000年前の石器であるということは、
大平山元遺跡から出土した、神子柴型石器群と共通性を持つとも考えられます。
神子柴型石器群はその発掘の状況から、石器が信仰対象ではなかったかともいわれ、後氷期の再度の寒冷化や、寒冷地型動物の絶滅や気候による
植物資源の枯渇などから、美しい尖頭器に動物の復活再生を願ったのではと考えられている。
これらの石器は一度使えば折れてしまうものだが、異なった石材の見事な尖頭器が埋納されるということは、何かの意図を想像したくもなる。 |
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45両面加工石器 湯ノ里4遺跡
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46両面加工石器
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50石核 湯ノ里4遺跡
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石器をつくるとき、剥片を剥ぎ取った残りの芯の部分。石材は頁岩。 |
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| 60原石(頁岩) 湯ノ里4遺跡
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| 以上は湯ノ里4遺跡出土物でした。引用「土に埋もれた知内の物語を発掘する」 |
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100縄文時代
特徴:②ストーンサークル (湯の里5遺跡)
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100
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101先史時代の知内
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陸続きであった海峡
今から2万年くらい前、地球全体が寒い空気に覆われたため、海の水は凍り、陸には氷河ができるようになり、本州と北海道が陸続きになったと言われています。
海水面が今よりも140mも下がり、まだ宗谷海峡や津軽海峡はなく、青森と渡島半島にあたる位置には湖と細い陸地があったと想像されています。
その頃生きていたマンモスなどの動物は、細い陸地を往来していたかもしれません。
今から1万4千年くらい前になると空気が少しずつ暖かくなり、氷河が溶け始めました。海水面は今より60m下がった位置になり、それまでの陸地は海面下に没し、津軽海峡が誕生しました。 |
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110円筒下層式土器 縄文前期
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120円筒上層式土器 縄文中期
縄文中期土器
円筒上層式 |
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縄文中期土器
円筒上層式
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130森越式土器 縄文中期末 知内町森越 森越遺跡出土土器
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140縄文中期土器
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以下の土器はAI画像検索では、大木式土器と言っている。
大木式土器は、縄文時代前期から中期にかけて、東北地方南部を中心に作られた土器の型式群です。
宮城県七ヶ浜町にある大木囲貝塚から出土した土器を基準に設定され、その名称がつけられました。
形と文様の違いから13種類に分類されており、特に大木8a式や8b式などは北関東でも見られます。
世界遺産に登録されている東北北部の縄文遺跡からも出土しており、関東甲信越地方の縄文土器の形や文様にも影響を与えています。 |
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円筒上層式
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修復がおざなり |
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150縄文後・晩期土器 湯の里5・6遺跡
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160ストーンサークル 湯の里5遺跡 縄文後期前半
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湯の里5遺跡の縄文時代後期のストーンサークルは、出石川の旧河川右岸の標高は30~34mの段丘上にある。
遺物は、土器片、石器、フレーク等を13,073点出土しています。そのうち11,510点が土器片です。
土器は当初縄文時代後期の十腰内1式土器や晩期の上ノ国式、聖山Ⅱ・Ⅲ式に相当するものが多く見られました。
石器は、石鏃、石錐、つまみ付きナイフ、箆状石器、スクレィパー、砥石、スリ石などが出土しています。
ちなみに森町の鷲ノ木5遺跡は、白坂式土器(晩期)が出土しているので、湯の里5遺跡に比べてやや新しい時期の環状列石だと考られます。
湯の里5の環状列石は、自然石を内環径が約2.5m、外環径が約6.5mの二重に巡らした形態です。
外側のサークルは、重さ10㎏以上の大形の石が主体で25個ありました。その大型の石のすき間に106個の礫が配置されていました。大部分の大型の石の基底は、ローム面に達していました。ローム面に達していない大型の石は、倒れたり移動したと思われるものが多く、一部は崖の崩落により失われていました。なお、外環の南側の石のわきから、無文で紐部のある鐸形土製品が出土しています。
内環は外環より一段低いところにあり、外環よりも小形で扁平な石が、ローム面を20~30㎝掘り込んで作られた竪穴の周壁にそってならべられていました。
10㎏以上の大型の石が17個、10㎏未満の小型の石が21個出土しています。石の大きさは外環よりそろっているように見えます。特に北側の半周以上の部分は、扁平で細長い石を密着して配置しています。
そして、内環の竪穴内の北東側に焼土が広がり、炭化物の細片が含まれていました。そのためか、焼けて赤変したり剥落している石が多く見られました。また、内環の竪穴内からは土器や石器などの遺物は確認できませんでした。
内環と外環との中間帯で柱穴様のピットが5か所確認されました。出土した土器片から環状列石と同時期に掘られたものだと考えられます。なお、放射性炭素による年代測定や出土資料などから、縄文時代後期前半の遺構であると考えられます。
規模こそ違いますが、造成方法は伊勢堂岱遺跡(北秋田市)の環状列石と似ています。
湯の里5遺跡の環状列石は、内環の内側には火を焚いた痕跡である焼土が広がり、内環と外環との間には柱穴状の小土坑が5つ配されていることから、墓とか墓地ではなく、住居の可能性も考えられます。(※上と同一反復している。)
参考に道内の環状列石のうち代表的なものをいくつか紹介します。
小樽市にある「忍路環状列石」は西方約10㎞、三笠山のふもとを流れる種吉沢川の河岸段丘上にあります。安山岩の大石が環状に置かれており、その大きさは南北33m、東西22mです。
余市町の西崎山という標高70mの丘陵があり、この尾根の項部とその周辺4ヶ所に配石遺構があります。これが「西崎山環状列石群」です。直径1~2mのサークルが7か所密集して、一つの大きなサークルを形成しており、長径17m、短径12mの楕円形をしており、大小数百個の自然石が並べられています。小さいサークルが墓だと考えられています。
「地鎮山環状列石」は、忍路環状列石の西側約1㎞のところにある地鎮山(標高50m)の山頂に位置しています。サークルは楕円形で、12個の大石が10×8mの規模に配置されています。1949(昭和24)年に行われた発掘調査では、中央よりやや南寄りに円形の集石(小さな円石を集めたもの)が見られ、その地下部分から2m四方深さ1mほどの穴が発見されています。底には円石が敷かれていました。墓の一種と考えられています。
このように、環状列石には、いくつかの型式がありますが、この違いは時期の新旧に関係するようです。また、ストーン・サークルが調査されてまもないころは、その性格が判らなかったのですが、最近の調査結果から墓地とする説が有力となっています。
引用「土に埋もれた知内の物語を発掘する ―考古分野としての知内―」 |
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161ストーンサークル 後期前半
ストーンサークル
湯の里5遺跡 |
湯の里5遺跡
環状列石
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ストーンサークルから出てきた土器
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162縄文後期土器
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| 170縄文の装身具 |
171
縄文の装身具 |
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172
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玉類 |
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左:垂飾(珪質砂岩製)
右:不明
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勾玉(ヒスイ製) 石鏃(ヒスイ製)
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玦状耳飾
左右で風化率が違う |
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174湯の里3遺跡 祭祀遺跡 縄文後期後半
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本遺跡の性格, とくにその主体となる縄文時代後期末葉頃の性格については, 明らかにし力寸たいが,遺跡の立地や漆塗製品・土製品・石製品などの出土遺物からみて,祭祀的な性格が考えられる。祭祀の内容については,
当該期における墳墓の造営方法(例えば静内町御殿山遺跡)から推測して,(祭祀は)河川における礫採取にかかわるものであろうか。 |
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土版
(湯の里3遺跡) |
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湯の里3遺跡は祭祀遺構とされている。 |
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ものすごい造形力です。
細い刃物で粘土を切り出したようです。 |
こんな精緻な細工は凄い精神力と集中力の職人技です。 |
石製品 |
滑車形耳飾り |
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小型の耳飾りを「耳栓型」大型を「滑車形」と呼ぶ。
すると、173も174も滑車形となる。 |
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湯の里3遺跡 北海道上磯郡知内町字湯の里44−4・6・18〜22番地
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時代:縄文
主な遺構:石組炉1 焼土4
主な遺物:涌元式土器 湯の里3式土器 石器 木製品 朱塗り櫛 土製品 土偶 土版 耳飾 玉 垂飾 装飾品 石製品 玉
特記事項:涌元2式の良好な資料。湯の里3式の標識資料、同期の木製品・土製品・石製品が多量に出土している。
要約 [湯の里3遺跡 要約]
知内町は、函館から西へ約50kmに位置する。遺跡は知内川河口から上流約9kmにある。
隣接して湯の里2〜6遺跡群はいずれも知内川の河岸段丘上に立地しているが、湯の里3遺跡は最も低い段丘に位置し、標高は23mである。
隣接した上位段丘には湯の里4遺跡が位置する。
湯の里3遺跡の土器は、涌元式・湯の里3式(御殿山式相当)・続縄文時代が出土している。本資料を標識湯の里3式の標識資料である。
石器は各期の石器各種あり、他に朱塗り櫛や土製品(土偶・土版・耳飾・玉・垂飾・装飾品)石製品は玉など出土している。 |
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180森越遺跡 (前期(約7000年前)~中期(約4500年前)の竪穴住居跡17ヶ所)北海道上磯郡知内町森越
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森越に住んだ縄文人
昭和49年、青函トンネル工事に伴う砂をとっている時に、土器や石器が発見されたため、工事を一時中断して発掘をした結果、縄文前期から縄文中期(5500から4500年前)にかけての17ヶ所の竪穴住居跡と多くの土器などが発見されました。
この森越遺跡は標高22mの台地にあり、知内平野を一望できるところですが、縄文人が住んでいた頃の海面は、今よりも高かったと言う推定から、
湾の岬であったと言われています。人々は山野から木の実や鳥獣を採り、海からは魚介類を採って暮らしていたと思われます。
住居跡はおおよそのところ、5500年から4500年位い前のものと思われ、その基本的な作りは、直径5~6mほどの楕円形で、柱を4~5本建て、中央に床を少し堀りくぼめた炉があり、床と壁の境には溝を巡らしています。
発見された土器は、従来の円筒下層式土器様式、円筒上層式土器様式のほかに、「沈線」によってデザインされており、これが特徴的なことから、
「森越式土器様式」と名付けられました。
※森越式土器は円筒上層式の一種。貼付文手法ではなく沈線文であったため「森越式」の型式を立てた。 |
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森越遺跡
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森越式土器
ストーンサークルから出た土器 |
住居跡 |
6・7・8号住居跡 |
発掘調査 |
森越遺跡遠望 |
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| 190森越遺跡出土品 |
191石器 森越遺跡
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192つまみ付きナイフ
つまみ付きナイフ |
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| 193スクレイパー
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| 194磨製石斧
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| 195
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197土器 no caption 画像検索の結果 森越式土器 と判定されました。
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| 200 |
201湯の里1遺跡 縄文中期(5000~4000年前) 縄文後期(4000~3000年前)
サケを食べていた縄文人
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昭和51年(1976)墓地造成工事の際に、土器や石器が発見され、
町が工事を中止して調査した結果、縄文時代の墓などがあると言うことになり、昭和53年(1978)本格的に発掘しました。
遺跡は縄文時代中期(5000~4000年前)の住居址が15カ所、後期(4000~3000年前)の住居址が1カ所発見され、その数は10万点を超えました。
中でも埋設土器中の焼土や住居址床面の倒立土器中の土から魚や獣の骨と思われる破片があり、大昔の人々の食生活が分かります。
また、住居は五角形をし、中央に石で囲った炉が作られており、周りから石斧や石皿などの道具や土器が見つかり、湯の里に住んでいた縄文人の暮らしを想像することができます。 |
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湯ノ里1遺跡 |
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竪穴住居跡 |
配石の調査 |
土器
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住居址実測図 |
発掘区全域
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この土器は140で登場する土器の写真です。 |
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| 210湯の里1遺跡出土品 |
| 212石器
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| 213スクレイパー
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| 214
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220土器 湯ノ里1遺跡
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230涌元遺跡 知内町涌元
涌元式土器 縄文後期初頭
発見された土器の多くには、曲線状の文様が彫り込まれており特徴的で、涌元式と型式設定された。
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涌元遺跡
―小学校の高台にあった遺跡―
昭和44年(1969)涌元小学校の校庭を広げる工事の時に、土器片が発見されたため、緊急発掘をした遺跡で、海岸から150mほど離れた標高30mの高台にありました。
発見された土器の多くには、曲線状の文様が彫り込まれており、縄文時代後期初頭のものと思われるその文様が特徴的なことから、涌元式と名付けられました。
また、石器にも独特なものがあり、道南部で発見されたことがない四つ脚のついた石皿も発見されました。
全体としては発掘調査期間が10日間と短く規模も小さい発掘でしたが、丘陵上では、住居の後も確認され、遺物の量はあまり多くはなかったものの、縄文時代の編年資料としては、極めて貴重なものといえます。
遺構は、竪穴住居跡1軒、フラスコ状ピット1基が見つかっている。 |
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石器の使い方 |
涌元遺跡
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涌元遺跡位置 |
出土状況 |
発掘状況 |
涌元式土器 |
トレンチ地層図 |
遺跡全景
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| 240涌元遺跡の石器 |
| 241
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| 242
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243
石錘 |
北海道式石冠
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250土器 涌元遺跡
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湯の里5 |
涌元式土器 |
涌元式土器 |
涌元式土器 |
石皿 4本足 |
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| 300 |
310涌元遺跡
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涌元地区空撮 |
赤線内で
古銭・和鏡・すり鉢
が出土 |
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涌元遺跡 位置図
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遺跡位置図 |
和鏡出土地点
すり鉢出土地点
古銭出土地点 |
涌元遺跡の古銭
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AI による概要
知内町涌元遺跡から大量の古銭が発見されました。特に、1951年(または1952年)に道路工事の際に発見された、漆塗りの箱に入ったベトナムの古銭「開泰元寶」が有名です。また、志海苔館では3万枚もの古銭が発見され話題になりました。これらの古銭は、函館工業高等専門学校埋蔵文化財研究会によって調査され、開元通宝などの中国銭や、国内初出土の永楽通宝なども含まれていることが判明しました。
涌元遺跡:
知内町涌元地区で発見された古銭群は、道路工事中に漆塗りの箱に入った状態で大量に出土しました。
開泰元寶:
特に注目されたのは、ベトナムの古銭である「開泰元寶」です。これは、1951年(または1952年)の道路工事で発見されました。
志海苔館:
同様の古銭が、志海苔館でも3万枚発見され、話題になりました。 |
涌元出土古銭 |
涌元出土渡来銭
唐,北宋,南宋,明 |
平縁双雀松紋鏡 |
和鏡の
赤枠内に雀が二羽 |
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毎日新聞 5月25日 日本初 函館高専サークル発見
知内町で60年前出土の古銭から
函館高専(北海道函 館市)の学生サークル 「埋蔵文化財研究会」 が、60年前に知内町で 発見された「涌元古銭」 の中に、14世紀のベトナム陳朝が鋳造した貨幣「開泰元宝」が1枚 あることを突き止めた。
日本でこの古銭が 出土したのは初めてで、メンバーは「当時、北海道と東南アジアを結ぶ海の道があったのでは」と思いをはせる。
知内町郷土資料館によると、涌元古銭は1 951年、民家の石の下から漆を塗ったかごに入って見つかった。室町時代に本州から移り住んだ武士の館で埋められたとみられ、大半は交易で使ったと思われる中国製の貨幣だという。
研究会は1986年、同資料館が保管する997枚を預かり、和紙に表面を写し取ったり、電子顕微鏡で成分分析したりして種類を調べてきた。このうち1枚は4文字のうち「泰」の1文字が当初判読できず、桜木晋一・下関市
立大教授(日本貨幣史) と三宅俊彦・専修大講 師(中国考古学)に鑑定を依頼。その結果、ベトナム陳朝の開泰年間(1324~26年) の貨幣と確認された。
古銭は直径22.7mm 重さは約4㌘。成分は銅が約66%を占める。三宅講師は「中国との貿易で日本に入ってきた中国銭の中に開泰元宝が含まれ、それ が日本海ルートの交易道内に送られたのでは」と推測する。研究 会メンバーの渡辺恵太 さん(20)は「今まで地道にやってきたことが報われた。今後は流通経路なども調べたい」と話している。 【近藤卓資、写真も】 |
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320参考資料 鈴谷式期のすり鉢
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町内の涌元地区にある涌元小学校下の○○で道路工事中に頭骨にかぶせるようにして発見されました。
この地区では、すり鉢のほかにも和鏡や甕に入った洪武通寶や永楽通寶などの銭、撰宋銭が発見されています。 |
開秦元寶
直角縁双雀松紋鏡
直角縁双雀松紋鏡
中世 |
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