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 北海道の縄文 №60  2022.06.29-1

   ななえまち
  七飯町歴史館 北海道亀田郡七飯町本町6丁目1-3
   0138-66-2181 年末年始休館 撮影可




館の特徴
交通 JR新北斗駅から5km
近隣観光地 大沼公園,五稜郭,函館市内観光地
近隣博物館 北斗市郷土資料館,函館博物館,函館市北方民族資料館
宿泊情報

 
 
 目次
01外観
02くらしとあゆみ
 復元住居
 暮らしのようす

50考古展示
51先住の人々
60旧石器時代
61寒冷期に大型動物群を追って
62石器製作実験資料

100縄文時代
101森の暮らし
105石器
110土器
120円筒上層式土器
130円筒下層式土器
180石器
181縄文前・中期の石器
187堅果類
200聖山遺跡
211彩色土器とミニチュア土器
300聖山Ⅰ式土器
350聖山Ⅱ式土器

361聖山式土器
371聖山式土器の文様
373土偶
380まつりのあと
382まつりの道具と飾り物
400続縄文~擦文時代
411農耕社会との交流

413続縄文時代
420本州社会との交流を示すもの
440続縄文土器
450土壙墓

500アイヌ文化期
600開拓期
600新天地を求めて
610村の誕生
620松前藩と七飯
640幕領期の七飯
 前幕領期
650函館開港と七重
660七飯御薬園
665近代への序曲
 明治維新下の七重
670北海道農業の先駆け
 蝦夷から北海道へ
 札幌本道の開削
 開拓使の4官園
 七重官園のあらまし
680七重官園の事業

700七飯の産業2
702牛舎
710農家の作業カレンダー
 
 
 01外観
七飯町歴史館 歴史館周辺には
 小学校、文化センター、文化の森
 町役場、スポーツセンター
など、行政、教育、文化、スポーツ施設が集中する地域である。

 02くらしとあゆみ
展示室



  復元住居
  暮らしのようす

■生活の様子 A Typical Farmer's Home
本州各地から移住した人々は、寒冷地での生活体験がなかったため、自らの手で生活様式を築き上げていった。 その様式は和洋折衷型であったが、 建物は茅葺き屋根に 煙だしをつけた日本海側の東北地方によく見られるものが多かった。
 この民家は明治後期に建てられ昭和初期の生活の様子を復元しており、家の中には電灯が点り、ガラス窓やトタンの屋根が取付けられるなど、時代とともに変わっていく様子がわかる。

暮らしのようす
 
 


 50考古展示




 51先住の人々


 60旧石器時代 約2万年前~

 61
寒冷期に大型動物群を追って

 北海道で見つかっている最も古い人々の生活の跡は、約2万年前の後期旧石器時代のもの。町内ではこの時代の遺跡はまだ見つかっていない。
道南地方では、函館市桔梗2遺跡がこの時代のもので、調理に使われたらしい火熱を受けた礫と小さなナイフのような石器が発見されている。
最後の氷河期の最寒冷期にあたり、タイガの森と草原を群れをなして広域移動する野牛や大型のシカ類を追って往き来するハンターが、この地の最初の住民であっただろう。

 七飯の地も、もちろん、寒冷な気候にさらされ、横津岳の表層岩石の凍結崩壊や雨による土石流や土砂崩れの繰り返しにより、
今の雄大な鳴川扇状地が作られたのもこの頃であり、地表にむき出しの大小の礫は、彼らの行く手をはばみ、またその足跡を消し去ったのだろう。
 駒ヶ岳濁川カルデラの活発な火山活動も厳しい環境変化をもたらし、次の時代の到来までこの地にヒトの定住は許されなかった。

旧石器時代
寒冷期に大型動物群を追って
旧石器時代後期の景観
旧石器時代の主な遺跡と火山灰分布
桔梗2遺跡発掘調査 桔梗2遺跡
旧石器

桔梗2遺跡 北海道函館市桔梗町408-6

種別:集落
時代:旧石器
主な遺構:石器ブロック
主な遺物:ナイフ様石器 彫器
特記事項:礫群

種別:集落
時代:縄文
主な遺構:竪穴住居跡 フラスコ状ピット 楕円形ピット Tピット 焼土
主な遺物:サイベ沢6式土器 サイベ沢7式土器 見晴町式土器 石鏃 スクレイパー すり石 土製品
特記事項:炭化材を伴う住居。動物型土製品。


 62石器製作実験資料
石器製作実験資料 スポール、石刃 石刃、石刃核
石刃核
白滝村近藤台1遺跡
約14000年前
細石刃核 細石刃 掻器・削器・彫器
錐・台形石器・ナイフ
 
 

 100縄文時代 9000年前~

 101
森の暮らし
 今から1万2千年ほど前、気候の温暖化が進み、針葉樹の森は北方へ後退し、植物性食料の豊かな落葉広葉樹の森が誕生しつつあった。道南では、9000年ほど前から縄文文化が始まり、森と海の両方の資源を利用しやすい場所に、人々が竪穴住居の村を構えて定住的な生活を営むようになった。
彼らは煮炊きに適した尖り底の土器を使用し、敏捷な動物を狩る弓矢に装着される石鏃、木の伐採や丸木舟の製作に使われる磨製石斧、食料加工に用いられる石皿と磨り石、漁労に用いられる網の石おもりといった縄文文化を支えた生活用具である、狩猟、漁労、採集のための道具のセットを既に完成させた形で携えていた。

 七飯町には縄文時代各期に渡る遺跡があり、集落遺跡のほか、シカ猟や、植物食料の採集のための野営地など、豊かな森をより所とした暮らしを反映した遺跡が多い。

縄文時代
森の暮らし
縄文時代の景観 ヤマの集落跡
大中山27遺跡
竪穴住居跡
上藤城7遺跡
クリの実が沢山入っていた土坑
大中山27遺跡
落とし穴遺構の調査

大中山27遺跡


上藤城7遺跡 北海道亀田郡七飯町字上藤城428-1
種別:散布地
時代:縄文前期
主な遺構:土坑4
主な遺物:縄文土器
特記事項 種別:包含地

種別:集落
時代:縄文中期
主な遺構:住居6 土坑6 焼土3
主な遺物:縄文土器 石器

種別:集落
時代:縄文後期
主な遺構:住居1
主な遺物:縄文土器

種別:散布地 包含地
時代:縄文
主な遺構:土坑4 焼土5 集石2
主な遺物:石器


 105石器
石鏃
つまみ付きナイフ
削器
     
 石錘
擦切磨製石斧        
敲石
磨石
磨石

 110土器
尖底土器
平底土器
円筒上層式土器
     
大安在式土器
上藤城7遺跡
手稲式土器
後期中葉3500年前
聖山遺跡
聖山Ⅰ式土器
晩期
大中山3遺跡

聖山遺跡(せいざんいせき) 北海道亀田郡七飯町字峠下100-7ほか

種別:散布地 包含地
時代:縄文(中期・後期・晩期)
主な遺構:石組炉 竪穴建物 土坑 集石 焼土群 遺物集中
主な遺物:縄文土器 石器 土製品


 120円筒上層式土器
円筒上層式土器
中期5400-4900年前
鳴川右岸遺跡
         

鳴川右岸遺跡 北海道亀田郡七飯町字桜町695

種別:散布地
時代:縄文早期 晩期
主な遺構:主な遺物

時代:続縄文
主な遺構:土壙43 石囲い炉7 焼土123
主な遺物:縄文土器 石器 続縄文土器

中の平Ⅱ式土器
上藤城7遺跡
縄文後期
七飯町1遺跡
大津式土器
武佐川遺跡の
武佐川式土器

 130円筒下層式土器
円筒下層式土器
縄文前期7000-5500年前
鳴川右岸遺跡
           
見晴町式土器
縄文中期
上藤城7遺跡
余市式土器
縄文中期
国立療養所裏遺跡
札苅Ⅰ群土器
大中山4遺跡

国立療養所裏遺跡 北海道亀田郡七飯町字本町657

種別:集落 散布地
時代:縄文早期
主な遺構:住居 土坑 焼土
主な遺物:縄文土器 石器
特記事項:縄文時代早期の良好な文化層と続縄文時代の墓穴が発見された

種別:墳墓 包含地 散布地
時代:続縄文
主な遺構:土坑 焼土
主な遺物:続縄文土器 石器
 140
縄文土器の移り変わり
早期・前期・中期前半・中期後半・後期・晩期
(約9000~2100年前)
尖底貝殻文土器
早期
国立療養所裏遺跡
円筒上層式土器
縄文中期
大中山1遺跡
天神山式土器
中期中葉4500年前
峠下遺跡
煉瓦台式土器
縄文中期
峠下遺跡
上ノ国式土器
晩期末葉
鳴川右岸遺跡

 180石器


 181縄文前・中期の石器 鳴川右岸遺跡
縄文前中期石器
石鏃 石槍・石(きり)
 183
削器 つまみ付きナイフ 石斧
 185
扁平打製石器
鳴川右岸遺跡
石皿
鳴川右岸遺跡
北海道式石冠
鳴川右岸遺跡

 187堅果類 
クッキー状炭化物
大中山5遺跡
大中山5遺跡
オオカメノキ
オニグルミ
クリ
トチ
よほどの食糧難でなければ手を出さない
トチの実の殻が出土。
やはりうんざりするほど何回ものアクヌキをしたのでしょう。
 

 200聖山遺跡(せいざん) 縄文晩期 七飯町字峠下

聖山遺跡の調査

 縄文時代晩期の遺跡で七飯町字峠下にある。今の函館湾の海岸線より北へ12kmほど内陸に入った大野平野の最深部に面した小扇状地上に立地する。
1973・74年の2次にわたって、東北大学考古学研究室(芹川長介教授)により、また76・77年にかけて第3次調査として、北海道大学人類学研究室(吉崎昌一助教授)が中心となって発掘調査が行われた。いずれも電力関係施設の建設工事に先立つ事前調査で、合わせて10550㎡が発掘され、ほぼ遺跡の全容が明らかにされた。
 地内に住居跡など、日常生活の跡などがなく、15カ所の遺物廃棄場が確認され、大量の土器・石器とともに土偶、石刀、土製装身具なども多数出土した。

聖山遺跡 北海道亀田郡七飯町字峠下100-7ほか

種別:散布地 包含地
時代:縄文(中期・後期・晩期)
主な遺構:石組炉 竪穴建物 土坑 集石 焼土群 遺物集中
主な遺物:縄文土器 石器 土製品

聖山遺跡 聖山遺跡 聖山遺跡の調査
聖山遺跡の位置 遺物集中出土地点

 210ミニチュア土器

 211彩色土器とミニチュア土器
彩色土器 彩色土器
 212ミニチュア土器
   ※規格性のある大量のミニチュア土器は、儀式用だったのでしょうか。
ミニチュア土器
 

 300聖山式土器
聖山Ⅰ式土器(大洞C₂式相当)」(七飯町聖山遺跡出土)
 縄文時代晩期 20.5×12.5(㎝)
厚さ1㎝にも満たない非常に薄い造りの土器だが、器面には細かな縄目文様が施される。また、三角形を変形させたような「三叉文」を描き、それらを繋ぐことで複雑な文様を構成させている。実用とは思えない把手にもこの三叉文が見られる。

 310
聖山式土器
 320
 330
 340

 350聖山Ⅱ式土器 晩期後葉
 360
 361聖山式土器
聖山式土器
 
 362聖山式土器
聖山式土器
 363聖山式土器
 364
 
 370聖山式土器
 聖山遺跡から出土した膨大な土器の分析・研究により型式設定され、縄文時代晩期の編年的研究の重要な資料となっている。
東日本に広がる広義の亀ヶ岡式土器分布圏内の地方形式で、渡島半島と津軽半島北部を中核として分布する。

 聖山式土器には、深鉢、鉢、浅鉢、壺の器種があり、大きな特徴は体部文様の施文手法と文様構成にある。
縄文地に、先の丸い棒かヘラで沈線を繰り返し並列して重ね、その結果、幅のある凹分ができて文様が浮き立つ効果を得る、沈線多重手法が用いられている。
 文様構成では、主な文様として連繋入組文が施される聖山Ⅰ式と横位連続工字文が主体の聖山Ⅱ式があり、前者から校舎への移り変わりが明らかにされた。

 371聖山式土器の文様
聖山式土器 聖山式土器の文様
 372聖山式土器の文様
体部文様のバリエーション
文様A;連繋入組文
文様B横位連続工字文
文様C
文様D
文様E
文様F
 

 373土偶 聖山遺跡
聖山遺跡 参考品
大中山1026遺跡
大中山10遺跡 大中山26遺跡
 377土偶
聖山遺跡
 
 380まつりのあと
 聖山遺跡は、集落から離れた遺物廃棄場の性格を持つとともに、
廃棄に伴って、石囲い炉を設けて火を焚き、合わせ口の土器やら石器の原石、剥片を穴に収めるなど、特殊な行為が行われた祭りの場でもあった。

 縄文時代晩期は、生活のための道具の種類が増え、実用的でない飾りものや、まつりや儀式に使われる道具が発達した時代であり、赤く彩色された土器、女性をかたどった土偶、男性性器に似た土製品、石刀などが出土している。

 聖山遺跡から出土する石刀のには火熱を受けたものが多く、道具やものを廃棄するときに、火私を用いた儀礼が行われた事は確かである。
 381まつりのあと
まつりのあと まつりのあと

 382まつりの道具と飾り物
 383
 

 391石刀
 


 400続縄文~擦文時代

 410

 411農耕社会との交流
 今から2300年ほど前に、北九州地方に始まる鉄の道具と稲作技術を基盤とする弥生文化は、想像以上に早いテンポで北へ進み、200年足らずの間に東北北部まで到達した。

 北海道では、鉄の道具や他の文物は取り入れたものの、冷涼な気候から米作りは行われず、縄文時代以来の狩猟、漁労、採集活動をさらに活発化させた暮らしが続いた。この文化を続縄文文化と呼んでいる。

 7世紀以降、本州の古代国家や農耕社会と密接な交流が持たれ、かまどのついた方形の住居、機織りの技術、鉄製の農具や工具が普及して、石器はほとんど使われなくなり、雑穀栽培も行われた。
 土器は擦文土器と呼ばれる表面に擦った刷毛目状の跡や、線書きの幾何学文様がつくシンプルな形のもので、この土器の使われた時代の文化を擦文文化と呼んでいる。

続縄文~擦文時代
農耕社会との交流
土壙墓
大中山5遺跡
土坑墓
国立療養所裏遺跡
擦文時代の集落
小平町高砂遺跡
擦文式土器
札幌市サクシュコトニ川遺跡

 413続縄文時代
続縄文石器
大中山5遺跡

右下のみ長万川遺跡
石鏃
太柄のナイフ 石錐、削器 片刃石斧 魚形石器
上2:大中山5遺跡
下1:長万川遺跡

 420本州社会との交流を示すもの
ガラス玉
桜町遺跡
管玉
聖山遺跡
弥生式系土器
3世紀
桜町遺跡

 440続縄文土器
恵山式土器
続縄文前期
左:大中山13遺跡
右:大中山5遺跡
後北式C1式土器
続縄文後期
聖山遺跡
後北式C1式土器
聖山遺跡
後北式C1式土器
聖山遺跡
後北式C2式土器
続縄文後半期
聖山遺跡
後北式C2式土器
聖山遺跡
後北式C2式土器
聖山遺跡
後北式C2式土器
聖山遺跡

 450土壙墓 続縄文時代

続縄文時代の土壙墓
 1995年の国立療養所裏遺跡調査で発見された西暦4世紀頃の土壙墓の内外で火を焚く儀式があったらしく、蒸し焼きになって残ったササの茎や樹皮は、遺体を包んだスダレか、編みかごのようなものの一部と考えられる。

焼土
笹の茎
樹皮
 


 500アイヌ文化期

 13世紀以降、日本海沿岸並びに北方交易の活発化による豊かな物質文化と、自然や神々と共生する独自の精神文化を創造したアイヌの人々が、この地に暮らした様子は、記録に乏しく、あまりよくわかってはいない。
 今に残るアイヌ語起源の地名や近世の和人側からの目で記録された風俗画、明治初年に撮影されたじゅん菜沼の風景写真に、彼らの暮らしの断片を垣間見ることができる。

七重町内のアイヌ語に由来する地名
七 重―町=ヌ・アン・ナイ(豊漁・ある・川)、または(ナム・ナイ(冷たい・川)
横 津―ユク・ヘツ(シカ・たくさんいる)
久根別―クンネ・ヘツ(黒い・川)
宿野辺―シュペン・オツ・ペ(ウグイ・沢山いる・川)

アイヌ文化期 アイヌ文化 蝦夷島奇観イヨマンテ図 じゅん菜沼の丸木舟
アットシ 所有印の刻まれた御膳
(イトパ) (オチケ)
片口エチウシ 小刀(マキリ)鞘 前掛け(マンダリ)


 600開拓期


 600新天地を求めて 13世紀頃~ 15世紀には小領主

 610村の誕生
 道南の地に、新天地を求めて本州から和人が移り住み始めたのは、13世紀の頃からで、15世紀にはいくつかの小領主が生まれ、各地に館(たて)が築かれた。やがて交易品の価格などの対立から、館主とアイヌ、及び館主同士の争いが約百年間続いた。

 その頃大舘(今の松前)を本拠とし、後にその地を追われた武将相原政胤(まさたね)季胤(すえたね)父子と城岱、大沼や駒ヶ岳にまつわる伝説が古くから当地に伝えられている。

 領主の一人、蠣崎氏が館主たちを統一し、松前藩の基礎ができた頃、七重に住みつく人たちも増え、17世紀 元和年間(1615~)には村役人も置かれ、地蔵菩薩のお堂や、南部(東北地方北部の地域名南部地方)から来た修験者により三嶋神社が創建されている。

村の誕生
村の誕生
大永4年城山戦場
熊野神社跡地見取図 峠下稲荷社 見島神社の鬼板

 620松前藩と七飯
 松前藩が誕生してまもなく、藩の領域である。和人地が拡大され、七重村は東在(ひがしざい)の村々の一つとして、亀田奉行の支配下に置かれた。本州の村々と同様の村役人の制度や宗門改が行われている。

 その頃の村人の暮らしは、豊富な森林の資源を利用して、木こりや炭焼きを生業都市、農業は雑穀、大豆、大根などの栽培が副業的に行われていたに過ぎなかった。
 蝦夷地の沿岸各地にアイヌの人たちとの交易の「場所」が設けられ、藩士や商人が行き来し、近蝦夷地の場所で漁業を行う和人が多くなると、七重方面がこれらを結ぶリ陸路の要所となり、七重村や大川村は荷を運ぶ馬・人足を必要な時だけ徴用する助郷として重視され、馬の飼育も盛んになった。

松前藩と七飯
松前藩と七重 寛文9年(1669)当時の和人地
函館附在在六ケ場所道途絵図
蝦夷島奇譚 大川村の観音像
寛文6年円空作
 630
弘化二年膳椀拾人前

 640幕領期の七飯

前幕領期

 18世紀になると、蝦夷地の周りには、ロシアなどの外国の船が度々現れるようになった。危機感を深めた幕府は寛政11年(1799)に東蝦夷、文化4年(1807)に西蝦夷地を直轄して松前奉行を置いた。北辺防備を奥羽各藩に命じ、また八王子千人同心百余名を白糠、勇払に入植させた。

 同時に、内陸部の開発は、農業に頼らねばならず、その準備と試作のために、千人同心組頭石坂武兵衛ら奉行配下を七重、大野、有川の会所に在住させ、新田開発に取り組み、それまでの七重村、大川村に加え、峠下、藤山の地が開かれた。

 幕府の直接の政治は20年余りで中断したが、引き続き峠下村には水田が多く作られ、農業が盛んになるとともに、交通の要所として定住者が増加し、宿場ができた。

幕領期の七飯 前幕領期 文化前後()
箱館近郷村絵図部分
八王子千人同心の調練の様子
塾生の心得
寺子教訓往来

 650函館開港と七重
 安政元年(1854)、日米和親条約により函館が開港されると、幕府は再び蝦夷地を直接支配下に置いた。
東北各藩から兵を出させるとともに、積極的に開拓と警備にあたる人材を募った。大友亀太郎、中島信三郎の指導で鶴野、中島、それぞれに移民が入り、飯田、城山には八王子千人同心の子弟が移住して、官営の御手作場(おてさくば)が開かれた。

 兵学者平山行蔵の遺志を継ぐ鋭次郎が峠下村に塾を開いた。軍川には外国人が求める牛肉、牛乳を供給するための官営の牧場も開設され、菴原菡斎により藤山峠越えの道が開かれた。また、蝦夷地で通用するお金として、函館通宝が作られ、この鉄銭を作るのに使われる白炭を焼くための炭窯が峠下に築かれた。

 元治元年(1864)五稜郭が完成して奉行所がそこに移ると、守備兵として村々から募った郷兵を組織し訓練した。

※八王子千人同心…農民武士、武田武士団の末裔

函館開港と七重 ペリー遠征記より入港図
八王子同心の武器 脇差・槍先
八王子千人同心
馬の鞍
永禄十一年銘
手鏡
鹿用打鈴
東蝦夷の鈴

 660七飯御薬園
 函館奉行は、直接経営する試験農園を設け、マツ・スギ・クワ・コウゾなどの苗木や薬草を植えて薬園と呼んだ。
 安政5年(1858)に栗本鋤雲が管理し、吉野鉄太郎が園丁長として栽培実務を行い、経営が順調に進められた。
多くの植物が集められ、植物園の体裁が整うと、外国人遊歩地の休憩所にもあてられ、函館医学所の医師、研究生が詰めて研究も行われた。

 佐渡から毎年取り寄せてまかれたマツ・スギの種子から数十万本もの苗ができ、箱館や五稜郭、周辺の街道筋に植樹された。
 栗本は薬、薬園地の西を流れる久根別川の泥を取り除き、船による薪炭・野菜と肥料運搬の便を図り、七重方面の開発に力を尽くした。後に外国奉行となって渡仏し、そこで明治維新を迎えることになる。

七飯御薬園 七飯御薬園
御薬園地の地図 栗本鋤雲
箔端を焼いた炭竃
薬研、薬袋函館通宝

 665近代への序曲
 
明治維新下の七重

徳川幕府が倒れ、新政府は、蝦夷地支配のために函館奉行に代わって、
函館裁判所を設置し(総督清水谷公考)、慶応4年(1868) 5月1日から役所を開き、住民に不安のないよう村々に高札を掲げた。しかしながら、国内ではまだ新政府軍と旧幕府軍の戦いが続いていた。

七重には徳川家に使えていた八王千人同心がおり、峠下には平山塾を継いだ金十郎が同士と反乱を企て、政府に追われる身となっていた。

千人同心の主流は函館府在住隊に組織され、明治元年(1868)10月22日夜半、峠下村で榎本武揚率いる脱走軍と銃火を交えることになった。箱館戦争の勃発である。緒戦で同心の隊長格である秋山幸太郎が戦死し、村内が戦場となって大きな被害を受けた。
蝦夷島全島を平定した。榎本は、御稜郭を本拠に、蝦夷島政権を作り、政治を行ったが、翌年本州から派遣された政府軍との激しい戦いで敗れた。榎本政権はわずか半年で崩壊した。

近代への序曲
近代への序曲 明治維新下の七重
 
 

 670北海道農業の先駆け
 671
北海道農業の先駆

 蝦夷から北海道へ
 明治2年(1869) 5月、箱館戦争が終結し、新政府は7月、前年設置した箱館府を廃止し、開拓使を置き、初代長官に鍋島直正を任命した。次いで8月、蝦夷地を北海道と改め、11国、86郡を置き、北蝦夷も樺太と改めた。これは幕末からたびたび蝦夷地を探検していた。松浦武四郎の案を入れたものである。これにより、アイヌの居住地であった。蝦夷地は、名実ともに日本の領土に組み込まれるに至った。

 開拓史の本庁は、はじめ東京に置かれたが、翌年函館に移され、明治4年5月には札幌に移された。こうして北海道の近代が始まった。

蝦夷から北海道へ     開拓使札幌庁舎
     

 札幌本道の開削
 開拓を進めるには、まず道路を作ることが必要で、明治5年(1872)、函館と札幌をつなぐ札幌本道工事が着工をされた。
亀田から森までの44kmは、アメリカ人のワーフィールドが測量設計し、道幅は馬車道を想定した広いものであった。工事にあたる職工や人夫は、関東や東北、さらに遠く九州からも集められた。
 難所の峠下無沢峠付近には、人夫小屋、炊事場、待機所が立ち並び、監督の官吏や外国人のための洋風ホテルも建てられた。

 札幌本道は札幌から千歳を経て室蘭に至り、室蘭―森間は船を利用するものであった。
なお、これより先明治3年に、東本願寺が政府の評価を得て、軍川―砂原間18kmの道を完成させ、札幌、定山渓、中山峠、有珠に至る道路と共に本願寺道路と呼ばれている。

札幌本道の開削 無沢峠の開削 梨沢峠の道路
峠下ホテル
東本願寺北海道開拓錦絵


 開拓使の4官園
 開拓使がとった開墾奨励、勧農政策は、ケプロン以下、外国人顧問団の提言により、従来の鍬・鎌による開墾方法に代え、大型西洋農具の使用、農業試験場の設置、欧米作物の試植、輸入家畜の飼養、海外果樹の移植、商品加工技術の開発と官営工場、農業学校の開設等々全く新しい欧米農法の導入であった。

 この洋式農業技術指導のセンターが東京、七重、札幌、根室に設置された4官園である。

 東京官園は、輸入動植物の中継試験場、札幌、根室は農作物の育種・試験栽培の事業とそれぞれの組織の役割が分かれているが、
七重官園は、農業、牧畜、林業、養蚕、その他各種製造・加工関係機関も包括する最も多角的な経営内容を持つものであった。

開拓使4官園   開拓使4官園
東京官園、七重官園
札幌官園 、根室官園
 七重官園事務所    


 七重官園のあらまし
 明治3年(1870)11月、ガルトネルから取り戻した土地と設備を使い、開墾と農作物の植え付けを試みる場所として開拓使函館出張所に属する七重開墾場が設置された。
 同年4月に農家18戸、翌5年には11戸を場内に移住させた。
 明治5年、開拓使東京出張所で、七重村農学校設立の計画が立てられ、後者の設計ができ、土工に着手したが、途中で設立が中止となり、その設計の一部を取り入れて、翌6年事務所として竣工した。

 明治6年(1873)には、東京官園に属し、洋式農業の指導を受けた農業技術生とアメリカ産の家畜が送り込まれ、生徒舎、畜舎、搾乳所、看守所が建てられた。また、この年、ケプロンの視察を受けた。

 明治8年(187号)4月、名称を七重農業試験場と改め、場長にこれまでの村橋久成に替わり湯地定基が赴任し、本道酪農の父と呼ばれるエドウィン・ダンも着任して農業各課を教えた。大野養蚕場、桔梗野牧羊場を試験場属地となり、翌年以降、名称はしばしば改称されながらも、活発な事業が展開され、北海道農業開発の指導的役割を果たした。

七重官園のあらまし
 
 680七重官園の事業
七重官園の事業
洋式農具
栽培
飼育
七飯リンゴ
 


 700常設展示室 産業の続き

 701
 702牛舎
 酪農・野菜・果樹など西洋農業の発祥地といわれる七重では、牛舎の形もドイツ風茅葺牛舎や、北欧のキング式牛舎といった西洋風のものが多くみられた。
 この牛舎はキング式牛舎で、大きな梁や柱などを使わず、薄い間柱の組み立てによるバルーンフレーム構造が特徴である。
戦後、水田酪農が進み、母屋と納屋、サイロのある牛舎を持つ農家もできて、この地方独特の風景を作っていった。

キング式牛舎
牛舎
 

 710農家の作業カレンダー
 711
手橇
立ち木秤
ガッチャ
 収穫期の後も農家の仕事に休みはない。 どこの納屋 (ゾウグラ)でも足踏脱穀機の音が夜おそくまで続く。
 籾を取った稲ワラは納屋の2階や牛舎の2階に積み上げられ、 冬期間の保温や家畜の餌などに使われる。 また納屋の近くにニヨ積みする場合もある。 サイロに入れられたデントコーンはサイレージとよばれる飼料になる。 正月休みが終わると、ノコ、マサカリ等の道具を入れたカマスを背負子に付けて山仕事に出掛ける。ツマゴやテッカエシ、カンジキ、雪かきは必需品。馬(そり)にはトナやゴクとよばれる飼料とキチとよばれる箱、ブレーキとなるハンドメ等が常備されている。
ふいご・竹スキー
ヤブダシ・チンチョ
橇の第
 雪の積もる冬の間は、伐採や炭焼きの仕事がある。冬の山中の炭焼き小屋で一週間かそれ以上の期間、炭が出来るまで生活する。
 道産馬(ドサンコ)のダンヅケ荷鞍の両側に2個ずつつけ、10頭前後で山を下る。 この炭は、函館や近郊の人々の1年間の燃料に使われる。

 また、茅葺き屋根の建て替えに使う骨組の木材は、山で原木を切り倒して運ぶ。長い原木は、 パチ橇、 ドッコイ、カクマワシ、トンビ、チンチョ 等の道具を用い、馬で里まで引いて下がる。
 冬山での、薪や手柴を運ぶ作業は、皮コーロ (熊の皮) を着、 ナタを腰に付けて、ヤブダシを橇代わりに使って行われた。
 冬のくらしの中心は納屋や母屋での縄ない、 俵づくり、よし簾(づ)づくり、道具の修理などであった。 春から秋までの農作業とくらしに欠かせない必需品は、自分の家の周りにある木材、よし、稲ワラ等ですべてまかなうように努力した。 生活用品は小間物屋、道具は鍛冶屋で買い入れたが、 いずれも正月迄の付け払いで生活した。

 大沼の氷切りは、けい引きして一斉にノコで押し切る。 角型に切られて 水面に浮かぶ氷をカギで挟んで引き上げ、 馬橇で駅近くの氷室まで運ばれる。かた雪がゆるみ、 ネコヤナギの芽吹くころ、道路には山出しの薪運び、 田畑への堆肥や客運びに往来する馬橇のたがねがギシギシと軋む音に春の近さを肌で感じる。


  
 早春の七飯は、 残雪のある山の麓の土手でフクジュソウやスイセンが顔をのぞかせる。この季節になると、 苗代の準備や種籾(もみ)の芽出し、 温床苗床のまわりによし垣作りが始まる。
 1年分の味噌の樽づめ、3月の節句のためのとうふ作りや、 春仕事の準備にかかる。

 田畑の雪解けを待って、 堀の泥上げ、 堆肥の運搬、 堆肥盛をモッコやフォークで平均に散らす。
 果樹の剪定や、放牧に備えて子牛の野外での運動が始まる。
 シイタケのホダ木作り、 油紙をはった温床障子づくりが始まる。
 ひよこの誕生もこのころで、 農家の庭先は急に活気づくときでもある。
アメリカプラウ  大沼の向こうに、駒ヶ岳がしま馬模様に見えるころになると、ツバメの巣作りが始まる。
 カッコウの鳴き声で、いっせいに鍬や鎌、 手籠を持って畑に向かう。畝立 (うねたて) された黒土に野菜や穀類、 ビート、 馬鈴薯が植え付けられ る。
 まっすぐに畝立するには、馬の口輪や口に付けたサセ棒をとって、馬と 一緒に歩く 「サセ取り」の役割が重要だ。
 酪農を営む農家では、放牧に備え、 牛の角を切ったり、 足の爪を切ったりする。
 種蒔きは、横津岳の麓をなでるように、南側から順次進んでいく。
プラウ模型・鬼ハロー
 暑さ寒さもまで、桜の花が咲くころになると、田や畑は人馬一体の田園風景となる。
プラウを使った田起こし、畑耕しの作業が始まり、ハローゴロで土を細かくして、畝立(うねたて)、馬鈴薯の作付けが始まる。

 田ではシロカキ、種つけ、そして田植えに入る。植え付けは女性の仕事で、色々なほおかむりで賑わう。
 子供達は○○けや、苗運びにまわり、老人や手伝いの○○は苗代(なわしろ)取りを分担する。
 田植えは、結予制で互いに労働力をカバーし、近所や親戚が動員される。
 
 
 蛙の声が騒がしく、 田の幼苗が水面に顔を出し、根元が固定するころ、
一番除草が始まる。 幼苗のときは稗 (ひえ) も稲も区別がつかないので慎重に作業する。 二番除草、 三番除草には、除草機が使われる。

 この時節の日課は、 朝一番に稲の先に付くドロオイ虫を虫籠で取ったり 消毒したりする。 また、畦の畔草 (くろくさ)をまぐさ用に刈り、 背負子 (しょいこ)で馬屋まで運ぶ。 運んだ畦草を草切機で刻むと朝飯の時間。 食後、また除草機を押したり、 株間除草機で稲株の間の稗を取ったりする。
雨降りの日でも、スゲ笹とミノ(ケラ)を着て仕事を続ける。 

 713
カルチベーター
畑では、カルチベーターで除草し、両羽プラオで切りかけして作物の生育を促進させる。
八十八夜近くになると、 藤城地蔵堂の祭礼がやって来る。
果樹園では、リンゴやナシ、ブドウが小粒の実を付け、 消毒が始まる。

農作業の必需品が納屋の壁一面に掛けてあり、 毎日使用される道具の位置は決まっている。 枝豆のもぎ取りもこの季節である。
カラカサとカラカサの軸
 麦の脱穀は、自然の川水に恵まれている所では水車を動力として活用し 平地の水の無い所では、カラカサと言う道具を使って畜力で脱穀をする。 七重圏で使われた輸入機械が原型である。

 手綱(たづな)の長さを一定にして、引パ(ひきぱ)にドッコイを付けた馬の尻を叩くと、カラカサと共にぐるぐる廻る。このときの馬一頭の動力が一馬力の語源になったとも言われる。
   発動機
糸巻機
 盆と祭りが終わるころ、農家では、秋の収穫に向けての準備が始まる。
牛飼い農家では草刈り、デントコーンのサイロ詰め。養蚕農家ではマユ取り。

 人々は、背負子をかつぎ、手籠に鐘を入れたいでたちで、草刈り、小枝とり。小技は朝夕のかまどの燃料になる。
 畑作物の収穫作業は発動機の普及で、近所が共同で順番に作業をこなす地域も現れている。

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押切・
搾乳バケツ・搾乳缶
 蝉の声がいつのまにか消えて、赤トンボの群とさわやかな風に黄金色の稲穂がなびくころになると、にわかに忙しい毎日が続く。
 農家の人たちは、収穫した果樹と野菜を函館にもって行き即売した。 これが函館朝市の始まりである。

 また、家畜の飼料にするワラや草を刻む草切機(カッター発動機)、綿羊の毛を紡ぐ自家用の紡毛機なども使用されるようになった。

 牛飼い農家では朝夕2回搾乳し、井戸や川水で冷やしておいて、朝早く集乳所へ運んだが、それは子ども達の仕事であった。
ふるい・いもすり器・水車の部品・桶  稲刈りが始まる前の仕事に(ジャガ)イモ掘りがある。 一列に並んで掘り進み、カゴにイモを入れる。イモは、畑の中央に積み上げ、土盛りして稲刈りが終わるまで保存する。

 屑イモや変形のイモは水車場のある澱粉工場にもって行く。各地域の川ごとに澱粉工場があって沈殿枠と乾燥場のオリが並んでいる。 棒ヘラで攪拌(かくはん)すると、良質のものは下に沈殿し、皮や繊維などは上部に浮かび澱粉カスとなる。澱粉カスは豚の飼料になり、良質の澱粉は、片栗粉として全国に出荷された。
唐箕・足踏脱穀機・
千歯・米俵
 早稲(わせ)米は山沿いの地帯に多く、9月の中旬頃には刈り取りに入る。 稲刈鎌で6株を1回で刈り、これを×印にして足元に置く。もう数本刈り取った稲でこれを結わえると 「1まるき」 の稲束ができあがる。これを両側の穂先を下にして6株を合わせると「1しま」ができあがり1週間ほど乾燥させる。これをさらにボンズ、ニヨ、ハセなどと呼ばれる木組みで乾燥させる。

 乾燥した稲は、紐やわらで結んで一束にして、馬の背の荷鞍につけ納屋まで運ぶ。足踏脱穀機での夜なべの仕事が始まる。 稲の穂先についている籾を落とすと、次は唐箕 (とうみ)万ごくで選別し、 米俵に四斗入れて出荷する。 また、 精米機※にかけて玄米で出荷することもある。

精米機は玄米の周りの皮を取り白米にする機械。この場合は、籾磨り器。もみ殻を取り去る。
  一斗升(いっとます)(角・丸)   畑では、大根や大豆刈り、 果樹園ではリンゴの収穫が始まる。
 豆打ちは、脱穀機が無かったころは、カラサオ豆タタキ棒などで殻から豆を落とした。 フルイや唐箕(とうみ)を利用して選別した。 味噌造りに使われる大豆は、七飯では鶴の子と呼ばれていた。

 彼岸や時節句、 法要等に使う粉は水車や、 バッタリという挺子(てこ) を応用した足踏の石臼、 手廻しのひき臼などによって製粉された。
 家畜の飼料にする粉は、トウモロコシ落とし機や粉ひき機などでつくられた。

※からうす という言葉は大正・昭和までもどこにでもある一般名詞なのに、なぜ、北海道ではバッタリなどと擬音を用いた言葉で名称が付けられたのだろう。